チェロ演奏の音響信号を対象とした熟達度推定手法の検討 Proficiency estimation for audio of violoncello performance 山﨑 瑞己 1,三浦 雅展 2 Mizuki Yamasaki1 and Masanobu Miura2 1 龍谷大学大学院理工学研究科,2 龍谷大学理工学部 1 Graduate school of Science and Technology,Ryukoku University 2 概要 Faculty of Science and Technology,Ryukoku University 楽器演奏の熟達度を推定する研究が近年盛んに行なわれているが,それらの多くは MIDI データや, ピアノのような減衰音による演奏音に特化したものであり,ヴァイオリンやチェロのような持続音による 演奏の音響信号から熟達度を推定する手法は未だ確立されていない.この研究では,チェロ演奏の音響信 号を対象とした熟達度推定手法の確立を目指している.チェロ演奏の音響信号を基に,楽器の特性を考慮 した音響パラメタの検討を行ない,それらを用いて線形回帰により熟達度を推定している.チェロ専門家 による主観評価の結果との比較により,熟達度推定に有効なパラメタセットの検討を行なっている.その 結果,「音のなめらかさ」「相対的な音の明るさ」「スペクトル変動」を考慮したパラメタが熟達度推定に 有効であることが示唆されている. Keyword : チェロ,音響信号,熟達度評価,スペクトル重心,スペクトル変動 1 はじめに 評価するだけでなく,奏者の芸術的な要素を考慮 近年,楽器演奏における熟達度を推定する研究 した研究が行なわれている.ピアノを使用した熟 が盛んに行なわれている.特にピアノの熟達度推 達度推定手法には,課題曲として 1 オクターヴの 定においては,音階演奏や練習曲など様々な課題 上下行長音階[1],CZERNY から抜粋したフレーズ 曲を用いて推定が行なわれてきた[1,2].しかしこ [2]を対象とし,MIDI データや音響信号からの推 れらの研究は,MIDI 信号を対象としたものやピア 定が行なわれている.入力されたピアノ演奏から ノのような打鍵楽器にみられる音響信号から推定 打鍵時刻,打鍵強度,押鍵時間長,瞬時テンポの を行なうものであるため,扱うデータや楽器が限 演奏情報に対して評価モデルすなわち傾向曲線に 定されている.そのため,他の楽器による音響信 対するパラメタを算出している.先行研究で用い 号,特にヴァイオリンやチェロのような持続音に た各評価パラメタの算出式を式(2.1)~(2.5)に示す. よる演奏に対応した熟達度推定手法が未だ確立さ れていない.そこで本研究では,音響信号から楽 ∑(𝑥𝑛 − 𝑥̅ )2 𝑃𝜉0 = √ 𝑁−1 器の演奏に対する熟達度推定を行なう手法の確立 を目指す.先行研究[2]でのピアノ演奏を対象とし た推定法を拡張するため,今回は擦弦楽器の1つ としてチェロ(Violoncello)による演奏の推定手法 𝑁 2 先行研究での熟達度推定手法 2.1 ピアノによる熟達度推定 先行研究では,単に基準値からの誤差を用いて 傾向曲線の最大値と最小値の差 𝑃𝜉2 = max(𝑥̂′) − min(𝑥̂′) 価スコアを比較することで提案するパラメタの有 効性を確認する. (2.2) 𝑛=1 の特性を考慮した音響パラメタを算出し,その後, された評価スコアと評価実験から得られた主観評 (2.1) 傾向曲線と実演奏との誤差の二乗和平方根 𝑃𝜉1 = √ ∑(𝑥" )2 を検討する.録音した演奏データからチェロ演奏 線形回帰により熟達度推定を行なう.そして推定 標準偏差 (2.3) 傾向曲線の隣接 2 音間の階差の二乗和平方根 𝑁 𝑃𝜉3 = √ ∑(𝑥̂′𝑛 − 𝑥̂′𝑛−1 )2 𝑛=2 (2.4) 基準値と傾向曲線との誤差の和 度推定はこれら全てのことを考慮する必要がある 𝑁 𝑃𝜉4 = ∑ 𝑥̂′𝑛 が,いずれの特徴も音響信号に大きく影響すると (2.5) 𝑛=1 ここで, 𝑥𝑛 は第 n 番目の音の値,n は音 ID,𝑥′は 実演奏と基準演奏との誤差,𝑥̂′は評価モデルの値, 𝑥"は実演奏と評価モデルとの誤差,𝑥̅ は実演奏の平 均値,𝑁は入力された音の総数を表しており,𝑃𝜉𝑖 内 の添え字𝜉は打鍵時刻(𝜉 = 𝑜),打鍵強度(𝜉 = 𝑣),押 鍵時間長(𝜉 = 𝑑),瞬時テンポ(𝜉 = 𝑡)のいずれかを 表している.これにより得られた評価パラメタは いえるため,ここでは音響信号のみを対象として 熟達度を推定する.チェロでの熟達度推定手法が 確立できれば,ピアノ以外の楽器(弦楽器や管楽 器など)においても推定が可能になると期待され る.特に今回は,先行研究で使用されているパラ メタ以外にチェロの特性を考慮した音響パラメタ を提案し,提案したパラメタの熟達度推定におけ る有効性を確認する. 主成分分析を行ない圧縮され,k-NN 法を用いて記 録済みデータから近傍の演奏データを 5 個抽出す る.そして抽出した演奏データに付与されている ピアノ熟達者による主観評価スコアの平均値を算 出し,その値を入力された演奏に対する熟達度の 推定値とする.ピアノを対象とした先行研究[1,2] では,奏者の演奏傾向を表す評価モデルとしてス プライン曲線が用いられ,運指の交差や折り返し によりスプライン曲線の代表点を決定し,評価モ デルの算出を行なっている. 2.2 先行研究の問題点 ピアノによる熟達度推定は盛んに行なわれてい るが,弦楽器を対象とした熟達度推定はこれまで 図 1 記録実験における 3 つの演奏課題の譜例 検討されていない.そこで本研究では,熟達度推 定に使用する楽器をチェロとし,弦楽器に対する 推定を試みる.評価対象とする演奏課題の譜面を 図 1 に示す.約 65Hz から始まる 1 オクターヴの上 下行長音階を「1octC2」,その 1 オクターヴ上の約 130Hz から始まる場合を「1octC3」とラベリング する.また,ウェルナー・チェロ教則本から抜粋 したフレーズを「Werner」とする.図 1 内の各音 符の上部に示す数字は左手のフィンガリングを表 わす.これらの課題はチェロ演奏における基礎練 習としても頻繁に用いられるため,音響信号から の熟達度推定手法を検討する初歩段階として適し ていると考えることができる. 3 提案する熟達度推定手法 3.1 チェロの特性 図 2 ピアノとチェロの波形の違い (1octC3 の場合) 3.2 チェロの演奏に関する実験 本研究ではチェロ演奏の記録済み演奏データと それに対する専門家による熟達度評価スコアを用 いて熟達度推定を行なうため,まずは演奏記録実 本研究では,熟達度推定を行なう演奏に使用す 験を行なった.今回のチェロの録音実験における る楽器としてチェロ(Violoncello)を用いた.擦弦 録音環境を表 1 に示す.被験者の熟達度以外に関 楽器でヴァイオリン属であるチェロは,弓と弦を する演奏環境の差が最小限となるよう録音には同 摩擦させることによって音を発生させる.そのた じ場所(龍谷大学内防音室),同じ楽器(Georgeta め,弦に対する弓からの圧力や摩擦させる箇所に MOGA)を用いた.課題曲は各奏者につきそれぞ より得られる音響信号が異なる.さらに,奏者に れ 1octC2,1octC3 を 10 回ずつ,Werner を 5 回の よっても演奏の際の姿勢,腕の使い方,演奏方法 計 25 パタンを録音した.被験者は計 7 名で,年齢 に違いがあることから,一般にチェロ演奏の熟達 は 19~28 歳(平均 23 歳),男性 3 名女性 4 名で演 奏歴は 2~10 年(平均 5.7 年)であった.演奏の かつ熟達した演奏と評価される傾向にある.そこ 際,被験者が演奏し直しや実験中断を希望した場 で,発音時刻付近の波形からエンベロープを求め, 合には,再録音や実験の中断などの対応を行なっ エンベロープの谷とその前後 300ms(Werner の場 た.すべての被験者はヘルシンキ宣言に基づいた 合は 150ms)の 2 つのピークを算出する.求めた 参加同意書に同意した.録音の結果,弾き間違い 値から,2 つのピーク間の時間長(以後,P2P), や雑音のない演奏データ計 175 通り(7 人×25 パ ピーク同士の振幅の差分(以後,Diff_peak),2 つ タン)が得られた.次に,記録済み演奏データに の内値の高いピーク値と谷の値との振幅の差分 付与する評価スコアを得るため,記録実験で得ら (以後,Diff_bottom)をパラメタとして取り入れ れた演奏データに対して主観評価を行なった.こ た.音がなめらかであるためには,先行音と後続 こで用いたのは,表 1 内の接近用マイクとアンビ 音 に 見 ら れ る P2P が 短 く , か つ Diff_peak と エント用マイクの音を足し合わせた音とした(3.3 Diff_bottom が小さいことが望ましいと考えられる. で述べる音響分析では接近用マイクのみの音を使 相対的な音の明るさを表す指標 用した).演奏課題ごとにランダムに提示した演奏 音の明るさを表わす音響パラメタとして,スペ データを,1~10 の 10 段階(10 が最も良い)で評 クトル重心が挙げられる.スペクトル重心𝐶の算出 価し,プロのチェロ専門家計 4 名による主観評価 式を式(3.1)に示す. スコアを得た.これらの専門家はいずれもチェロ 𝑁 2 log (𝑓)∙𝑆[𝑓] ∑𝑓=1 2 を専攻した音楽大学卒であり,現在チェロの演奏 𝑁 2 𝑆[𝑓] ∑𝑓=1 または指導を主な活動としている者である.評価 𝐶=2 の基準に関しては, 「音色や響きについては評価し ここで,𝑆[𝑓]は周波数 f におけるパワー値,N は周 ない」,「発音のタイミングが完全に均一でなくて 波数解析に用いるサンプル点数である.スペクト も熟練した演奏だと感じられれば高い評価を,逆 ル重心を各音高の周波数(以後,𝑓sheet.ここでは譜 にタイミングが均一であっても熟練していない演 面と 12 音平均律による)で除算した「相対スペク 奏だと感じられれば低い評価を行なう」という基 トル重心(以後,Relative_SC)」を新たに提案し, 準のみを設けた.評価者はこの評価基準と自らの 熟達度推定に用いる音響パラメタに取り入れる. 基準に従い,評価を行なった.得られた評価者 4 名による正規化スコアの平均を各演奏データの主 𝑅𝑒𝑙𝑎𝑡𝑖𝑣𝑒_𝑆𝐶 = 観評価スコアとして用いる. 𝐶 𝑓sheet (3.1) (3.2) これにより,単一の音に対する相対的な音の明る 表 1 録音実験での録音環境 サンプリング レート ビット数 チャンネル 44100Hz 24bit さを算出することができ,演奏音の明るさの傾向 を示すことが出来る. 音のばらつきを表す指標 音の変動量を表す音響パラメタとして,スペク 2ch トル変動(Spectral flux)が挙げられる.スペクト 録音機 DR-680(TASCAM 社製) ル変動 U の算出式を式(3.3)に示す. マイク 接近用:C414B(AKG 社製) アンビエント用:SM58(Shure 社製) 3.3 提案する音響パラメタ 𝑈=∑ 𝑁 2 |𝑆𝑖 [𝑓] − 𝑆𝑖−1 [𝑓]| 𝑓=1 (3.3) i は音響信号に対して周波数解析を行なう際の分 図 2 と 3.1 で述べたチェロの特性から,本研究 析フレームの ID を表している.今回は各音に対し で有効だと考えられる音響パラメタの検討を行な てのスペクトル重心を算出するため,1 音内のス った.以下にそれらを述べる.なお,発音時刻(以 ペ ク ト ル 変 動 の 総 和 を シ グ マ flux ( 以 後 , 後,Onset)については非専門家 3 人によるハンド Sigma_flux)という新たなパラメタとして提案する. ラベリングの平均時刻とした. Sigma_flux を求める事ができれば,単一音におけ るスペクトルのばらつき,すなわち音の安定性が 音のなめらかさを示す指標 発音時刻付近の音響信号より,発音時刻が谷と 評価できると考えられる. なるような形が確認できる.一般にチェロに限ら 以上の提案した音響パラメタと先行研究で使用 ず弦楽器の演奏において,音が切れ目なく繋がっ された打鍵時刻,打鍵強度,押鍵時間長に対応す ているように演奏することが,なめらかに聞こえ る発音時刻,発音強度,発音時間長と瞬時テンポ を用いる.また,統計量としては先行研究で使用 された式(2.1)~(2.5)を用いる.先行研究[1]ではピ アノの運指を考慮するため評価モデルにスプライ ン曲線が用いられたが,今回は代表点決定のため の明確な基準を持たせずに,n 次多項式による傾 向曲線を用いる.ここでは暫定的に次数が 4 の傾 向曲線を用い,そこから式(2.2)~(2.5)に記された 方法によってパラメタの算出を行なった. 4 提案手法の熟達度推定結果と考察 表 2 使用したパラメタリスト Ave SD 𝑃𝜉1 𝑃𝜉2 Onset ✓ ✓ ✓ Duration ✓ ✓ ✓ ✓ dB ✓ ✓ ✓ ✓ Tempo ✓ ✓ ✓ ✓ P2P ✓ ✓ ✓ ✓ Diff_peak ✓ ✓ ✓ ✓ Diff_bottom ✓ ✓ ✓ ✓ Relative_SC ✓ ✓ ✓ ✓ Sigma_flux ✓ ✓ 𝑃𝜉3 ✓ ✓ ✓ ✓ ✓ ✓ ✓ ✓ 𝑃𝜉4 ✓ ✓ ✓ ✓ ✓ ✓ ✓ ✓ 算出したパラメタを主成分分析により圧縮し, 線形回帰を用いて推定値を求めた.提案手法の有 効性を確認するために,いくつかのパラメタセッ トを用いて熟達度推定を行なった.使用したパラ メタリストを表 2 に,パラメタセットの詳細を表 3 に示す.先行研究[2]で使用された単純手法のパ ラメタセット(Nonogaki2011),全ての音響特徴量 について統計量を平均と標準偏差のみ用いたもの (17para),全てのパラメタを用いたもの(49para) を,相関係数および自由度調整済み決定係数で比 較する.ここでは,提案するパラメタの有効性を 確認するため,学習セットをそのままテストセッ トとして用いる,いわゆるクローズドテストを行 表 3 パラメタセットの詳細 名称 内容 Nonogaki2011 先行研究でも用いられた発音時刻, 発音強度,発音時間長,発音時刻よ り算出する瞬時テンポに対して平 均,SD,𝑃𝜉1 ~𝑃𝜉4 を算出した計 23 個のパラメタを使用 17para 発音時刻,発音強度,発音時間長, 瞬時テンポに加え,提案した音響パ ラメタから平均,SD を算出した計 17 個のパラメタを使用 49para 上記すべての要素に対して平均, SD,𝑃𝜉1 ~𝑃𝜉4を算出した計 49 個の パラメタを使用 なった.結果を図 3 に示す.Nonogaki2011 の自由 度調整済み決定係数が 0.56 であるのに対し, 49para 条件は 0.78 とより高い数値を示している. よって,本研究で提案した音響パラメタの有効性 が確認できた.また,17para 条件より 49para 条件 の自由度調整済み決定係数が高いため,傾向曲線 (今回は 4 次の傾向曲線)の有効性も確認できた. 5 おわりに 本研究では,チェロ演奏における熟達度推定手 法を検討し,提案した新たなパラメタの有効性を 確認した.先行研究で述べられた推定手法を単純 手法として,発音時刻,発音強度,発音時間長お よび瞬時テンポを用いたパラメタセットに対し, 図 3 全 3 課題に対するパラメタセットごとの 推定結果 謝辞 本研究の一部は,科研費(25580050)の援助 提案したパラメタの有効性,傾向曲線(今回は 4 を受けた. 次の傾向曲線のみ)の有効性を確認するためのパ 参考文献 ラメタを算出し検討を行なった.その結果,提案 したパラメタの有効性が確認された.今後,今回 使用した傾向曲線は 4 次の傾向曲線と限定してい るため,次数の違いによる推定結果の考察が必要 である.また,主観評価スコアと評価に使用した パラメタの相関から有効なパラメタセットを検討 する必要もある.最後に,基礎練習曲でのチェロ の熟達度推定手法を確立し,かつ汎用性の高い楽 曲に対する熟達度推定の開発を目指す. [1]三浦ら,“ピアノによる 1 オクターブの上下行長音階 に対する熟達度の自動評価”,日本音響学会誌,66,5, pp203-212(2010). [2]Asami,N. ,et al .,“ Use of spline curve to evaluate performance proficiency of a Czerny piano piece”,Proc.of International Symposium on Performance Science , pp68-74(2011).
© Copyright 2024 ExpyDoc