NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE Title T.ハーディのThe Well-BeloVedについて Author(s) 宮本, 義久 Citation 長崎大学教養部紀要. 人文科学篇. 1992, 33(1), p.57-70 Issue Date 1992-07-31 URL http://hdl.handle.net/10069/15306 Right This document is downloaded at: 2014-11-10T14:28:25Z http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp 長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第33巻 第1号 57-70 (1992年7月) T.ハーディのThe Well-BeloVedについて 宮本義久 On Thomas Hardy's The Well-Beloved Yoshihisa MIYAMOTO I バーディは、彼のいわゆる「ウェセクス小説」を「性格と環境の小説」、 「ロマン スと幻想」及び「創意に富んだ小説」の三種に分類している1)。主要作品はすべて第 -グループに属し、 TheWell-Belovedは第二グループに入れられていて、マイナーな 小説という扱いを受けるのが通例である。 H.C.ダフインは、この作品をTessofthe d'Urbervilles (1891)とJudetheObscure (1895)との問の休息的作品とみなし、 D. ホーキンズは、これをバーディ小説中最も取るに足らぬ、多分一番軽んじられてい るものと評価している。3) しかしながら、この作品が極めて自伝的性格の強いものであって、 --ディの個 人的体験が何と多量にこの作品に取り込まれていることか、作者と主人公が何と類 似しているかは、大抵の研究者が指摘するところである。例えば、 R.H.テイラー4)や M.ミルゲート5)は、特に詳しく、この点を例証している。 The Well-Belovedは、まず、 The Pursuitofthe Well-Belovedという題名で週刊連載もの として、 1892年10月から12月にかけて発表された後、 1897年3月に、現在のThe Well-Belovedのタイトルで、単行本で出版された06)連載版に改訂を加えて単行本にし て出すというのは、 --ディの場合、決まったパタンであるが、当作品の場合、両 版の比較研究を行なったS.ガトレルをして、改訂なのか、別の物語に変えたのか分 らないほどである、と言わしめるほどに改訂は徹底的である。7)後に触れるが、特に 物語の結末は全く別のものとなっている。ハ∼ディは、この改訂版をもって小説の 筆を折り詩に転ずるのであるが、何故このような徹底した改訂が行なわれるに至っ たかは、大いに興味のわくところである。上述の如く、製作順は、 Tess,The Well-Belovedの連載版、 Jude、そして最後に単行本版となるが、まず最初の二つの関 係について言えば、 Tessが道徳上の理由により出版社に拒否されたことに対する反応 として、つまり、いわゆる`Victorianprudery'に逆らわぬように配慮して、書かれてい 58 宮本義久 るということである。 (因みに、タイトルの中のWell-Belovedという語は、 Tessの原 題名であったTooLateBelovedから取られている。)連載版とJudeの関係について言え ば、上記のR.H.テイラーは、前者はテーマ、傾向、幾つかの個別例で後者を予示し ていることを例証している8)が、特に結婚の問題の扱いでは、顕著な類似が見られ る。 Jude完成後はその大巾な改訂は当然のことであろう。 H.ミラーは、これら三つ の小説の間には、類似点が多いことを指摘し、 The Well-Belovedが詩を含めたハ-チ ィ全作品の理解に非常に重要であると述べている。9) 本小論は、この作品中に見られるプラトンのイデア的、又はシェリー的な理想美 の追求と、現実の時の経過、という二大テーマについて考察し、併せて、他の幾つ かの注目すべき特徴に言及しながら、 The Well-Belovedがハ-ディ最後の小説として、 バーディ的特質を遺憾なく発揮するものであることを示そうとする試みである。 Ⅱ バーディは1889年2月、次の様なメモを残している。 「三世代又はそれ以上を経 て続くある一つの顔を物語にしたら、 『時』の経過についてすばらしい小説か詩がで きるだろう。個性の差は無視する。」10)この考えが実行されて、小説TheWell-Beloved と詩Heredityが作られたと、伝記は続けている. 「私は家族特有の顔、肉は朽ち果て るとも、私は生きつづける.…人間の中の永遠なるもの、死ぬ必要など気にも留めな い。」というのが、この詩の大要である。 The Well-Belovedの物語の筋は彫刻家の主人 公の、この遺伝的な生き写しの顔を持つ、同一家族三世代の女性達への、 20年ずつ の間をおく恋を中心に展開してゆくoこれは不可能とは言わぬまでも、一寸ありそ うもない話である。それを意識してかバーディは、序文の中で、 「他の作品と違って、 この作品の目的とする興趣は観念的或いは主観的な性質のものであり、率直に言っ て想像的なものなので、出来事の継起の点での本当らしさよりは、上述の目的の方 が優先されている。」 ′と弁明している。 「20才の青年」と名付けられている第-部は、 `TheWell-Beloved'なるものの正体、 その発生と消滅のありようを示す、いわばこの物語の導入的部分と見てよい。題扉 にはP.B.シェリーの「多くの名をもつ一つの形」という一行が引用されているが、 作品中ではこれは、 `Ideality'(p. 66)、 `Phantom'(p. 66)、 `elusivehaunter'(p. 68)或 いは、 `Proteandream-creature'(p. 101)などと表現され、それが主観的現象であり、 非実在なものであることが強調される。それは結局は、 「プラトンの言うイデア」 (p. 118)と言ってもよいものである。個々の女性達はその`embodiments'(p.34)、 `incarnations'(p.54)であり、それぞれ`atemporaryresidence'(p. 54)にすぎない。 T.バーディのThe Well-Belovedについて 59 バーディが作品中でプラトンのイデアについて触れるのは、しかしながら、これ が初めてではない。 TheWoodlanders (1887年)の中で、多情なる医師フイツピアズ が登場する。彼は夢想的な観念論者で、 「人間の恋愛というものは主観的なものだ‥‥ それは我々の目の届く範囲で、何らかの適当な対象に投げかける観念を伴う喜びだ.… だから、すでに存在する恋人の代りに誰か他の若い女性が現われたとすれば、私は その女性に対しても、全く同じ興味を抱いたことだろう….」 (p.147)と自分の多情 を合理化する。夢現の中で女主人公のグレイスを見て、 `… Ithought,whatalovely creature ! The design is for once carried out. Nature has at last recovered her lost union with theIdea! …'(p. 161)と語り、 TheWell-Belovedの主人公の先駆的存在であることを 示している。 The Well-Belovedの副題は「ある気質の素描」とある。主人公は`the migratory, elusive idealization he called his Love who ever since his boyhood, had flitted from human shell to human shell an indefinite numberoftimes'(p. 31)を追いつづけるのであるが、彼は先駆 者であるフイツピアズとは異なり、恋の対象は一時に一人だけである。 To his Well-Beloved he had always been faithful ; but she had had many embodiments. Each individuality known as Lucy, Jane, Flora, Evangehne, or what not, had been merely a transient condition of her. He did not recognize this as an excuse or as a defence, but as a fact simply. Essentially she was perhaps of no tangible substance ; a spirit, a dream, a frenzy, a conception, an aroma, an epitomized sex, a light of the eye, a parting of the lips. God only knew what she really was ; Pierston did not. She was indescribable, (p. 34) 正しくそれは「言い表わすことの出来ないもの」である。そして、その出現と消 滅には、一つの法則がある。つまり、 `aphantomwhomIsawinwomanafterwoman whileshewasatadistance, butvanishing awayoncloseapproach'(p. 118)ということで ある。そしてこの反応のパタンは主観的現象であるからには、主人公の現実回避的 心理機制を反映するものと考えて差支えない。バーディ自身「愛は近接において生 き、接触によって死ぬ。」という格言的文句を1889年9月に書き残している。11) J.H. ミラーは、バーディ小説における距離と欲望の関係を、個々のバーディ作品につい て検証し、本作品についても具体的例証を行なっている。12)バーディ小説において両 性間の永続的関係はほとんど成立せず、結婚もまず不和に終るのも、これと関連し ているのは、言うまでもない。主人公の恋の幻の追究の過程において見られる個々 の女性と、 -ーディの実際体験とのいくつかの一致、バーディが終世、美しい若い 女性に心惹かれつづけたという有名な事実、両者の類似した心理機制などから、主 人公とバーディはいやでもオーバラップしてくる。 9才の時に、 8才の少女に恋心を抱いて以来、数知れぬ女性に`theWell-Beloved'の 宮本義久 60 化身を見出してきた主人公ジョスリン・ピアストンは、自分の熟がさめて、恋の幻 でつつんで見られなくなった時の、唯の人間になった相手の姿を見るのは、非常な 苦痛であり、全くみじめな気持ちになる、と言う。 '... To see the creature who has hitherto been perfect, divine, lose under your very gaze the divinity which has informed her, grow commonplace, turn from flame to ashes, from a radiant vitality to a relic, is anything but a pleasure for any man, and has been nothing less than a racking spectacle to my sight‥‥'(p. 58) それ故に、どの女性ともあえて親しい間柄になったことはない、と言うが、そこ には強力な自己防衛機制が、コミットメントの回避が、見て取れよう。彼は「恋の 世界のさまよえるユダヤ人」 (p.81)であり、 「自分には呪いがかかっている。」 (p. 53)と考えさえするのである。 ジョスリンはこのような精神状況の中で、南ウェセクスの、英仏海峡につき出し た辺邸な半島(但し島と呼ばれる)にロンドンから一時帰省をして、幼馴染みのエ イヴィス・ケアロウと出会い、全く衝動的に求婚するのであるが、すぐに非常な不 安に取りつかれる。自分の`Well-Belovedが究極的に一つの場所に落着くのか。エイ ヴィスが、その移動の終点であると信じられるのか、そもそも、 `theWell-Beloved'を 彼女の中に見ているのか、ということである。彼は彼女を長期間、しかも徹底的に よく知っていたのであり、彼のエイヴィス観は最高のものである。 She was, in truth, what is called a 'nice'girl ; attractive, certainly, but above all things nice-one of the class with whom the risks of matrimony approximate most nearly to zero. Her intelligent eyes, her broad forehead, her thoughtful carriage, ensured one thing, that of all the girls he had known he had never met one with more charming and solid qualities than AviceCaro's. (p. 35) 彼女をよく知りすぎているために、理想化されたヴィジョンで彼女を包むことは 出来ないのであり、彼女への気持ちは愛より友情としか思えない。相手が「未知の 女性」 (p. 105)であることが、 `theWeiLBeloved'の宿りの前提条件であったのであ る。理想化された美への呪縛故の、彼の呪われた運命というべきである。 ジョスリンが偶然道づれになったマーシャ・ベンカムに惹かれて行く過程は、恋 の幻の移動の実例を提供するが、その場合、マーシャが「彼の経験では全く新しい タイプの女」 (p.41)であったことを見逃してはならない。彼は今度も又、全く唐突 に、衝動的に求婚し、エイヴィスを裏切ることになる。 (因みに、ベンカム家は、今 でこそロンドンに移っているが.、かつては、この島の石材商同志として、ピアスト ン家、ケアロウ家と犬猿の中であったという事実がある。主人公のケアロウ家との 二度の結婚のチャンスは、一度はマーシャにより、もう一度は、彼女の義理の息子 61 T.バーディのThe Well-Belovedについて につぶされることになる。)当然のことながら、この際も主人公は、自分のような呪 われた気質の人間が結婚することの可否について悩むのであるが、結局、このロミ オとジュリエットは、両家の確執をそのまま引継いで、喧嘩別れとなる。 理想美の追求にまつわるこの性癖は、しかしながら、ジョスリンにとって、呪い というだけでなく、恵みという面もある。それは彫刻家としての彼の芸術的創造の エネルギーの源泉ともなるのである。彼は恋の幻を見る女性を見れば、その跡をつ けて、ロンドン中をところかまわず動きまわる。それは、彼の`professional beauty-chases'(p. 67)としてであった。舞台女優、社交界の女性、店員、女流作家、 ピアニスト、ダンサー、等々に幻を見出す。そして、それを塑像に永続化を試み、王 室美術院の会友になるという、職業上の成功を収める。 友人の画家ソマーズは彼に、もし、彼同様に`theWeiLBeloved'を追う女性に対して ジョスリンが、恋の幻を固定させたら、つらいことになるだろうと予言する。しか し、彼は、その化身にいっまでもくっついて居られぬ質だと、その可能性を否定す ることで、物語の第-部は終るが、これが以後の物語りの布石となっている。 Ⅲ 「40才の青年」と題する第二部では、人から人へと飛び移る恋の幻が、どのように 唯一の化身へと定着するのか、どのようにそれが主人公をじらせ、苦しめるのかが、 問題となる。この過程の第一歩となるのは、エイヴィスの死である。その時になっ てはじめて、彼の彼女への、幻想に基づかない、其の愛が突然に生じる。 He loved the woman dead and inaccessible as he had never loved her in life‥‥ Yet now the times of youthful friendship with her言n which he had learnt every note of her innocent nature, flamed up into a yearning and passionate attachment, embittered by regret beyond words.... [It] was love rarefied and refined to its highest attar. He had felt nothing like it before, (p. 88) 距離と愛の関係の極端化である。死によって最大の距離が生じる時、愛は最大と なる、というのである。そしてそこには、過去の非情な仕打ちに対する悔恨が加わ っており、煉罪の行為へと人を駆り立てる。このパタンは早くも、バーディの処女 作であるDesperateRemedies (1871)の中で述べられている。 「すべての人にとって、 この世の美しいものが、追跡をたくみに逃れるとなると、それはますます貴重なも のに思われてくるものだ。しかし、或る種の気性の人々にとっては、追跡を完全に かわされるということは、束の間の愛を永遠不滅の愛にする唯一の特別な出来事に なるのだ。」 (p.41) 又、 FarformtheMaddingCrowd (1874)'において、トロイ軍曹は、捨ててかえりみ 宮本義久 62 なかったファニーの死に際して愛と頒罪の行為を示す(43章∼46章)。そして何よ りもバーディ自身が、後年、生前は疎遠であった妻エマの死(1912年)に遭遇して 取った行動がこれである。バーディは大いなる悔恨に打たれ、二人の馴れ初めの地 のコーンウォールへの追憶の旅に出、 Poemsof1912-13という一連のエレジーに、 亡妻への整った愛を吐露するのである。 恋の幻の定着化の次の段階は、エイヴィスの娘アンとの出会いである。この貧し く無学な娘は、しかしながら、母親の`perfectcopy'(p. 103)で、'主人公は、たちま ちにして彼女に夢中になり、熱情をもやす。彼にとって、アンは単に外見が瓜二つ というだけで充分であったのであり、アンは`thephantomofAvice'(p.97)、 `the present embodiment of Aviceつp. 98) 、 `the resuscitated Aviceつp. 100) 、 `the revivified Avice (p. 104)、 `therevitalizedAvice (p. 108)、などとなる。死せるエイヴィスと生 けるアンは完全に重なり、同一人物と思えるのである。自分が20年若返り、昔のエ イヴィスのそばにいる気持にすらなり、主人公はアンを常にエイヴィスと呼ぶ。 「過 去は現在に輝く」 (p. 100)のであり、アンは「死者の代理人として生きている人」 (p. 110)となる。そして、エイヴィスは、今や、アンの`prototype'(p.104)、 `original woman'(p.120)となる。ジョスリンは友人のソマーズに言うo Behind the mere pretty island-girl (to the world) is, in my eye, the Idea, in Platonic phraseology-the essence and epitome of all that is desirable in this existence….'(pp. 1 17-18) 以上のことから、 `theWell-Beloved'っまりイデアは、エイビィスという具体的な理 想像へと収放したのが理解される。彼のアンへの、つまりエイヴィス二世への愛は、 アイヴス二世に化身したアイヴス一世への愛であり、アイヴス二世はアイヴィス一 世への愛の媒体の役をするにすぎない。13)主人公は、この二人の外面的類似を内面の 類似へとつなげて行く誤りを犯すのである。 (この誤りは、エイヴス三世の場合にも 繰り返される。)本作品の着想についての上述のメモの「個性の差は無視する」とい う但し書きの通りである。自らの理想化の情熱の虜になり、エイヴィス二世をある がままに見られず、 `an irradiated being, theepitomeofawholesex'(p. 117)と見て、彼 女を`asprite, asylph ; Psyche'(p. 123)と崇めつづけて、 `theWell-Beloved'の完全な定 着ぶりを見せるOそして、これと同時に、一世に対する婚約の裏切りを、二世と結 婚することで償いたいという願望は常に見られ、これが彼の二世への愛に永続性を 加えている、と作者は説明する。第一郡の終りで示唆されたもう一つの問題は、主 人公と同じく、不可能な理想の追究という性癖を持つ女性の出現である。エイヴィ ス二世にその性癖があり、もう既に15人もの男性に恋の幻を感じて来たと打明けら れた主人公のショックは大きい。立場は完全に逆転である。恋の幻の追究は両刃の 剣であり、追究者の側に立つか、幻を感じられなくなって、唯の人間としか見られ T.バーディのThe Well-Belovedについて 63 ない側に立たされるかである。一時は例の15人のうちに入っていた主人公は、相手 に対しては激しい情熱をもやしつづけながら、完全な無関心しか返って来ない。そ してその無関心な扱いが、彼の情熱の永続性と関わるという、悪循環に陥る。挙句 のはては、エイヴィス二世は、不和で別居中の夫がいると判明する。彼は現実の世 の淀を前に引き下がらざるを得ない。 「60才の青年」と越される第三部は、主人公とェイヴィス三世(二世の娘)との 関係であるが、これは二世との関係の、ほとんど繰返えしと言ってよい。三世は`the renewed Avice'(p. 154)N 'the extraordinary reproduction of the original girl'(p. 156) N `the re-incarnate Avice'(p. 163) 、 `a secondary renewed copy of his sweetheart'(p. 163) と呼ばれることで分る様に、これ又、エイヴィス一世の代理、彼女への愛の媒体に すぎない。主人公が一目見て魅惑され、彼女の祖母への償いの意味も含めて求婚す るのも同じである0 -且は承諾した三世だが、結婚前夜に、以前からの恋人関係に あった、マーシャの継子と葛区け落ちし、結婚してしまう。ハ-ディは主人公の、三 世代にわたるエイヴィスへの長期にわたる関心について、この閉鎖的な島の大昔か らの近親結婚の習慣の結果としての同じ顔の遺伝、主人公の性質、彼の昔日の不実 行為への悔悟の気持、の三つをその要因であると説明している。 (pp. 158-59)エイ ヴィス三世の結婚は、島の習慣である近親結婚ではなく、従って、同じ顔の遺伝の 終りも意味する。主人公にとって、 `theWell-Beloved'はエイヴィス一世に収放してき ていたこれまでの流れからすれば、今やそれは宿るべき対象を永遠に失ったことに なる。彼の`Well-Beloved'追求は論理上、終りであるとしなければならない。それは 主人公の`Ihavelivedadaytoolong.'(p. 196)という感懐へとつながって行くのである。 Ⅳ 第二部の実質上の結びで、主人公は、 「自分の肉体は自然の摂理通りに前進してゆ くのに、自分の心が年を取らないというこの呪いは、何時終るのか。多分、終るの は、生命が終る時であろう。」 (p.140)と嘆く。これは第二部でもかなりの程度感じ 取られる問題であるが、第三部ではその度は一層増してくる。達成不能の理想の追 究-このプラトン的アイデアリズムは、現実の「時」を無視する、むしろ時空の超 越を自負するが-を呪いと感じざるを得なかった主人公は、第二部においては40才 となり、 「時の経過」を新たなる相手としなければならない。彼の、自分の年令につ いての引け目意識は、洗濯女にすぎないエイヴィス二世が19才という若さなのに比 べて、自分は40才と意識した時、 「不快な気持」 (p.96)になったのを手始めにして、 明らかになってくる。二世の自分への無関心は、自分の外観上の年令的徴候の故か 宮本義久 64 と思う。老ける外観に対して、気持ちは若い時のままなのが不幸のもとになってい ると感じ、 「情熱の狂おしい潮流を乗り越え、中年期の人生哲学の穏やかな水域に入 っている」 (p.104)人々を羨ましく思うのである。二世から、自分の恋の幻が彼か ら去ったのは、彼が年寄りすぎているとすぐ分ったから、と告白され、彼女の愛が 望めないと悟る時、 「時」の瑚笑を感じざるを得ない。 エイヴィス三世との場合、今は60才となった彼の年令意識は更に悲劇的度を増し てくる。 20年振りに見る二世は、昔の`thesorryshadow'(p. 150)であるo Lかしそ の娘の三世を見たとたん、 「自分の昔の悩み、宿命、呪いが帰ってきた。」 (p. 154)と 感じる一方、孫のような年令の娘にのぼせ上る愚かな夢想家の自分を思う。 「メフィ ストフェレスが、彼の魂と交換に、若さの回復を申し出たら、それを受け入れてい たかも知れなかった。」 (p.158) forty years had passed-forty years of severance from Avice, till a secondly renewed copy of his sweetheart had arisen to fill herplace. But he, alas, was not renewed, (p. 163) エイヴィスは、 40年の時を克服して、整えりを果し、現在に輝やいているという のに、自分には若さは塑えらない。ジョスリンの嘆きは深い。三世と結婚して、過 去の償いもしたい彼にすれば、自分の老いを悟られることを極度に恐れ、明るい光 の中で三世と顔を合わせることを避けつづける。心配のあまり鏡に自分を映して見 て、 「時は自分と恋に敵対している。多分、時の方が勝利を収めるだろう。」 (p.165) という予感を抱くのである。整えることなく、取り換えもかなわずに老いて行く肉 体と若い時のままの心の嘆きは止めどなく繰返される。 While his soul was what it was, why should he have been encumbered with that withering carcase, without the ability to shift it off for another, as his ideal Beloved had so frequently done? (p. 170) エイヴィス三世の、彼との結婚のためらいの最大の理由は、彼の年令であるが、彼 女は遂に白日の光の中に、主人公の老いの姿を見て、驚博する。そして、彼女の駆 け落ちと結婚がつづく。 以上見て来たように、第三部は「時」の破壊力を最大のテーマとしていると言い 得る。各部のタイトルの年令は、肉体的老化を示すのに対し、共通する「青年」と いう語は心の若さを示すのは言を侯たない。そしてこの肉体と心の不条理なありよ うへの嘆きは/LookintoMyGlassという短詩に見られる如く、ハ-ディ自身の個人的 感懐そのものである。そしてこの詩は、伝記の中の1892年10月18日付の、同趣旨 の一文から察して、この小説の書かれた頃の作と思われるu) 「鏡を覗けば我が衰えゆく肌、 我が心もかく縮みなん。 T.バーディのThe Well-Belovedについて 65 さあらば、愛失せにしひとをうらまず、 一人安らかに永遠の眠りを待とうものを。」 というのが最初の二連の大意であり、最終連では、 But Time, to make me grieve, Part steals, lets part abide ; And shakes this fragile frame at eve With throbbings of noontide. と心に比して肉体が、 「時」の前に何ともろいかをペーソスをこめてうたう。 この小説のもっと後では、 `theimageandsuperscriptionofAge'(p. 201)となった マーシャの姿に、時と老令の無残な仕打ちを見るのである。 「時」は-∼ディにとっ て、常に多大の関心事の一つであった.最も初期の詩の一つである`Amabel'(1865) の中では、暴君たる「時」による女性の美の破壊がうたわれている。 God'sEducation も同じテ-マである。 The Revisitationは、 Time's transforming chiselやそのtrickを嘆 き、 `Loveislameatfiftyyears.'と結ぶ。かかるテーマの詩は枚挙にいとまがないほど である。小説では、時による女主人公の容色の衰えが決定的とも言える役割を果す TwoonaTower (1882)がまず最初に思い出される。前述したエレジーpoemsof 1912-13は、思い出の地を再訪することで、暴虐な「時」に抗し、それを克服し、失 なわれた過去の回復を図る試みであった。そしてこのThe Well-Beloved自体、死せる エイヴィスを、二世、三世という媒体を通して、現在に軽えらせる試みであった。死 による愛の整えりのテーマ、幻想家による失なわれた過去の回復の甲斐なき試み、 The Well-BelovedとPoems of1912-13の類似性を思わないでは居られない。 Ⅴ 三人のエイヴィスのいづれとも実りある結びつきを得られなかったジョスリンに とって、人生は今や`aghoststory'(p. 193)としか思えない。後は、彼の理想化され た美への束縛、性癖の呪いに、どう最終的決着をつけるかが残るだけである。そし てそれは、 T.R.ライトの指摘するように、死一文字通りの死と比職的意味での死、つ まり、美的感覚の死-であろう。15)前者は、連載版の結末に見られる主人公の自殺未 遂である。妻のマーシャの家出後、エイヴィス三世と結婚したジョスリンは、 60才 の彼に対する20才の妻の肉体的嫌悪から妻を解放(Judeにおけるフイロットソンと シューの関係の先駆である)すべく自殺を図る。 40年振りにマーシャが帰ることで、 三世との結婚は解消となるが、自分を看病するマーシャの老醜の姿に、彼は幻滅の あまりヒステリカルに笑い出すのである。 「これはこっけいすぎる。ロマンティック 宮本義久 66 になる筈だった私の身の上話のこの結末は。」16) もう一つの方の比職的死は、現行改訂版の結末である.重い熱病から治った彼は、 これまでとは同じ人間ではなかった。 The malignant fever, or his experiences, or both, had taken away something from him, and put something else in its place, (p. 198) この変化を熱病だけのせいにするのは、安易すぎる決着であったろう。 The artistic sense had left him, and he could no longer attach a definite sentiment to images of beauty recalled from the past. His appreciativeness was capable of exercising itself only on utilitarian matters, … At first hewas appalled ; andthen hesaid `Thank God !'(pp. 198-99) 自分のアトリエの彫像も、ナショナル・ギャラリーの巨匠たちの絵も、何の興味・ 感動も起させない。審美的能力は最大の悲しみをもたらしたのであった。 `… ThankHeaven I am old atlast. Thecurse is removed.'(p. 202) しかし又、呪い除去の代償も、甚大である。ジョスリンは彫刻家をやめ、故郷の 島へ帰り、老いの権化となったマーシャと、茶飲み友達同志としての生活上の便宜 を目的として、結婚する。自費で、故郷の`oldnaturalfountains'(p.205)を不衛生的 として閉鎖し、パイプ給水に代える計画をすすめ、又、くmoss-grown, mullioned Elizabethan cottages'(p. 206)を購入して湿気のない、換気装置つきの新しい家に建 て直したりするのが、 `theWeiLBeloved'と創造力の終息後の彼の仕事である。美的感 受性を失い、 `utilitarian'な価値感の持主となった主人公にとって主観的には幸福な結 末である。しかし作者は全く別の、批判的な目で、これを見ている。主人公が衛生、 便利という近代の実用主義的な価値観によって閉鎖する`old natural fountains'の象微 するものは、彼が失ってしまったものそのもの、 `thatever-bubblingspringofemotion' (pp.66-67)である。近代生活のもたらした表面的な生ではなく、人間のもつ、古い、 深いところにある、人間の本然のもの、審美感、創造性、情熱などの、生の諸々の 源泉であろうOこの作品では、キリスト教と異教の対立が各所に見られるが、ハ∼ ディの言わんとするところでは、前者のキリスト教的なものに対する、異教的なも のということである。例えば、島のホープ教会が地すべりですべり落ちて廃城とな っているところを述べるくだりで、 It seemed to say that in this last local stronghold of the Pagan divinities, where Pagan customs lingered yet, Christianity had established itself precariously at best. (p. 36) とあり、主人公の生れ育った島の異教性が明示される。そしてここで彼とエイヴィ ス一世がキスをするのは意味深長である。いわゆる`kimberlins'(p.37)は本土人た るキリスト教徒の謂であり、主人公が、長期に互る愛のためには相手の女性に不可 T.バーディのThe Well-Belovedについて 67 欠の要素とする`aracialinstinct'(p.89)を持たぬ人たちである。特に異教的であるの は、この島の結婚に関する古い習慣一婚前交渉-である。又、次の様な文も見られ る。 The church of the island had risen near the foundations of the Pagan temple, and a Christian emanation from the former might be wrathfully torturing him through the very false gods to whom he had devoted himself both in his craft, like Demetrius of Ephesus, and in his heart. Perhaps Divine punishment for his idolatries had come. (pp. 121-22) ここで`idolatries'とは、愛と美の女神アフロディテを崇拝する主人公の彫刻への精 進とェイヴィス二世への恋の虜の状態を示すものである。作者が「芸術家としての 彼の強みは、市民としての弱みにあった。」 (p.110)という時、当然そこには、キリ スト教文明と芸術家のもつ異教性の対立がある。 異教主義はバーヂィの特微の一つであり、それに関してすぐ思い出されるものは、 TheReturnoftheNativeである。へレニスティックな異教性そのものの女主人公、ケル ト的異教性の名残りをとどめるエグドンの地の風習。 The WoodlandersやTessも異教 色が濃厚に漂っている。広義にウェセクスそのものが本質的には異教的であり、こ の島はそのミニチュアとして設定されている、と言えるが、 --ディは都会的洗練 や実用主義に表層的な生の姿を感知し、異教的なものの中に、生命主義的世界を見、 活力と情熱をそこに托したと言えよう。 Judeにおいては、それがキリスト教文明社 会批判の形ではっきりと提示されている。 年経た天然の泉と並んで言及される`moss-grown, mullioned Elizabethan cottages'は作 者が序文の中で、それらの売買話はききたくないと述べている、 16世紀乃至それ以 前からの、古雅な上に、新築の家などよりまだまだ長持ちする石造りの家である。そ れは連綿たる生活様式のシンボルであることは、言を侯たない。バーディは作中で、 歌謡、方言を含めて、地方の伝統的生活様式も、人間も、画一化、没個性化し、 `special, distinctive, orpicturesque'なものを失なわせようとする時代傾向に触れている。 (p.36)今や、 `anativeofnatives'(序文)たる主人公が、キリスト教文明の価値観を 持ち込み、異教的な島の生活様式の破壊的要素の働きをするという皮肉なことにな るOそして、バーディ世界においては、郷人の帰郷に際して、これは常に見られる 現象である。 ここで主人公を生み育てた土地について一言しなければならない。この一枚岩で できた島は、かつて古代ローマ名を`Vindilia'(p.28)とする島で、武器として投石 器を用いた人々の住処であった。ヴィーナスの神殿があったとされ、多分それより も古い、石投入の愛の女神の神殿もあったという伝説もあり、家系は`Norman, Anglian, Roman,Balearic-Britishtimes'(p. 89)以来、連綿と続いている、という風に、 宮本義久 68 この島の古い歴史的記憶が語られる。島は主人公にとって、ウェセクスの--ディ にとっての如く、歴史的・個人的連想の貯蔵所である。彼の歴史意識は、彼の`fantast' (序文)の特性と相侯って、 「死者の入江」から吹き寄せる夜風に、水没者たちの、一 つに合成された亡霊の立てる音を聞き(p.35-36)、又、別の所では、右投げ人たち の石が風に乗って飛ぶ音を、彼等を滅ぼし、その妻や娘たちと結婚して、島の現在 の人々の祖先となった侵略者たちの声を聞くのである。 (p.113)しかし、そういう 幻聴にもまして、故郷の島は、彼の個人的思い出の生み出す幻によって、磁石のよ うに、彼を引きつけ、あやつる。それは丁度、 `theWeiLBeloved'の`thetraction of some mysticmagnet'(p.99)にも似ている。エイヴィスの死の知らせがきっかけとなって、 彼には幻が浮かぶが、それは、彼のエイヴィスにまつわる思い出の原風景とでも言 い得るものである。 By imperceptible and slow degrees the scene at the dinner-table receded into the background, behind the vivid presentment of Avice Caro, and the old, old scenes on Isle Vindilia which were inseparable from her personality. The dining-room was real no more, dissolving under the bold stony promontory and the incoming West Sea. The handsome marchioness in geranium-red and diamonds... became one of the glowing vermilion sunsets that he had watched so many times over Deadman's Bay, with the form of Avice m the foreground.... The crannied features of the evergreen society lady... shaped themselves to the dusty quarries of his and Avice's parents, down which he had clambered with Avice hundreds of times, (p. 86) そして、目前の事物は、崖に立つ城、燈台、潮風の香、海の独白、へと転化する。 そして矢も盾もたまらず、彼をロンドンから、島へと駆り立てる。エイヴィスは彼 の記憶の中では、単独に存在し得ず、島のロマンティックな風景と分かち難く結合 しているのである。エイヴィスの化身たる二世を思う時も、心は島に飛び、同様な 幻が浮かぶ。 He thought of nothing but the isle, and Avice the Second dwelling therein - inhaling its salt breath, stroked by its singing rains and by the haunted atmosphere of Roman Venus…. (p. 97) それはまるで、いかなる女性といえども、ロマンティックな風景の支えがなけれ ば、 `theWeiLBeloved'の飛び去った抜け殻のように、唯の現実の平凡な姿になるかの ようである。丁度、 poemsof1912-13において、若き日のエマの姿が、西海のロマン ティックな風景の支えを必要としたように、である。 E.G.ホーンバックは、「ジョ スリンの三人のエイヴィスとのロマンスは、幾分かは、この島とのロマンスでもあ る。」17)と言っているが、この島は正しくウェセクスのミニチュアにふさわしい。こ T.バーディのThe Well-Belovedについて 69 の作品では、この古い、不変の石の島だけが、主人公の追う観念的な、非実在の幻、 及び、プロットの繰り人形的観のある登場人物たちの現実の肉付けの欠如に対比し て、実在性を持っている。 TheWell-Belovedは、冒頭に述べた如く、バーディの小説の中では、一般に最も評 価の低いものの一つである。その理由は批評家によりまちまちであるが、着想のち っぽけさ、テーマの非現実性、登場人物の性格描写の貧弱さ、或は観念過多でむし ろ詩に向いていること(バーディ自身、プラトンのイデアの詩的特質を認めてい る18)N、などである。上述の批判にも拘らず、むしろ、リアリズムの束縛からはなれ た軽い幻想の小説として、我々は、これを、 `goodfun'とするJ.W.ビーチ19)や、 `considerableinterest'があるとするJ. I.M.スチュワ∼ト20)と共に楽しむことが出来る。 多くの批評家が認めるように、これは確かにマイナーな作品である。題材は個人的 で、社会性も少ない。 TessやJudeの背丈には及ぶべくもない。 TheWell-Belovedを読むことは、しかしながら、散発的にではあるが触れてきたよ うに、実に多くの要素から成って居り、それ以前の作品のさまざまなモチーフ、テー マに出合うことである。最終小説という展望のきく地点から、更めて、それらの、乃 至は、それ以後の作品の理解のし直しに役立ち得る。この作品は、一般に考えられ ている以上に、ハーディ小説の特徴を備えているのである。 この作品について指摘される数多くの自伝的要素、又は、モデルに関して言えば、 M.ミルゲートの言が最も当を得ていよう。 「明らかなことだが、 TheWell-Belovedは 小説化された自伝ではなく、バーディ自身の体験に直接関係があると共に、又、大 いにその体験から書かれた、注意深く作られた寓話である。」21) 註 (バーディの作品のテキストは、すべてMacmillanのTheNewWessexEditionを使用) 1 ) Harold Orel (ed.), Thomas Hardy's Personal Writings, pp. 44-45 (Macmillan, 1967) 2 ) H. C. Duffin, Thomas Hardy, p. 58 (Manchester University Press, 1962) 3 ) Desmond Hawkins, Hardy : NovelistandPoet, p. 117 (David & Charles, 1976) 4 ) Richard Taylor, The NeglectedHardy, pp. 160-64 (Macmillan, 1982) 5 ) Michael Millgate, Thomas Hardy : His Career as a Novelist, pp. 299-307 (The Bodley Head, 1971) 6 ) Richard L. Purdy, Thomas Hardy : A Bibliographical Study, pp. 92-95 (Oxford University Press, 1954) 7 ) Simon Gatrell, Hardy the Creator : A Textual Biography, p. 141 (Oxford University Press, 1988) 8 ) R. H. Taylor, The NeglectedHardy, pp. 157-60 9 ) The Well-Beloved (The New Wessex Edition), Introduction by J. Hillis Miller, pp. 13-16 (Macmillan, 1975) 10) Florence Emily Hardy, The Life of Thomas Hardy, p. 217 (Macmillan, 1965) 70 宮本義久 ll) Ibid.,p.220 12) J. H.Miller, Thomas Hasdy : Distance and Desire, pp. 169-175 (Harvard University Press, 1970) 13) Ibid.,p. 173 14) F. E. Hardy, TheLife of ThomasHardy, p. 251 15) T. R. Wright, Hardyandthe Erotic, p. 141 (Macmillan, 1989) 16) M. Millgate, Thomas Hardy : His Career as a Novelist, pp. 295-96 17) Bert G. Hornback, The Metaphor of Chance : Vision and Technique in the Works of Thomas Hardy, p. 76 (Ohio University Press, 1971) 18) F. E. Hardy, The Life ofThomasHardy, p. 286 19) Joseph Warren Beach, The Technique of Thomas Hardy, p. 131 (University of Chicago Press, 1922) 20) J. I. M. Stewart, ThomasHardy :A CriticalBiography, p. 158 (Longman, 1971) 21) M. Millgate, ThomasHardy : His Career as aNovelist, p. 307 (1992年4月30日受理)
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