物 語 建 築 - 富士建設株式会社

(1) 五台山竹林寺 五重塔
「非日常」と「日常」の、日本の風情のかたちを楽しむ
のある
建築
建設に携わることの幸せを、おすそわけ。
暮らしをご提案する季刊誌です。
第1号
物語
【お正月の迎え方】
【花びら餅で抹茶 を一服】
わたしたちが提案したいのは、依頼主の美学を反映した空間。
品格・調和・色気・遊び・技をキーワードに、数寄屋の魅力をご紹介します。
遊びかた ・暮らしか た
(1)
「建 具」
「ハレとケ」のあ る
花 ある数寄屋
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中津万象園「花 の歳時記 」
(1 )梅
かさねの色(1 )
「椿」
「遊び」は、
人生の魅せどころ。
企業人のための茶 の湯を、中津 万象園にて 新春より始め ます。
表紙写真:庭に咲いた山茶花を撮影してみました。
平成20年12月発行
物語のある建築( 1)
昭和五 十五年 設 計施工/富士 建設㈱
五台山竹林寺 五重塔
台風がしばしば襲来する太平洋岸。寺にとって悲願であった五重塔再建だが、「無理だ。
ようやらん。
」と建設会社から断られたこともあるという。だが、その再建話に「日本に
現存する五重塔は三十数基。やれるなら、自分は建築屋として日本一の幸せ者だ」と手を
挙げ、
『台風で倒れるのに、讃岐の阿呆が山の上に五重塔を造りよる。』と笑われながらも、
塔を完成させた「幸せな物語」が、この建築には、ある。
塔づくりにかけた情熱
―真鍋さんの思い出
五台山竹林寺住職
ま、当山が有する室町時代、夢窓国
師作庭の名勝庭園を見学に来られ
た真鍋社長が帰り際、本坊玄関先
で、旧知の間柄であった森岡総代と
顔を合わせたのである。
るためか、市民の憩いの場であり、
山は今なお身近に豊かな自然が残
五台山。その山頂近くに位置する当
や浦戸湾を見下ろす景勝の地、ここ
洋を一望し、そして眼科に高知市街
の山並みを、また、南にはるか太平
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高知市近郊にあって、北に四国山脈
台風の常襲地である。それに加え、
い。まして、この地は夏ともなれば
法に精通した工匠も今では数少な
を見ない。それ故、造塔の知識や技
事ではない。まず、近年ではその例
し、五重塔建立は、決して容易な工
これを引き受けられたという。しか
計画を打ち明けられた氏は、即座に
氏
また、開創以来の長い歴史に培われ
当山は五台山の山の上にある。そこ
海老塚 和秀
た信仰・文化を求めて四季を通じ多
に仏塔を建立しようというのであ
この時、森岡総代より五重塔復興の
くの参詣者や観光客が訪れる。そし
当山五重塔復興のきっかけは二
ないかでしょう。私は子供の頃、善
造塔の機会は稀。百年に一度あるか
る。社寺建築に携わる者なら躊躇す
つの熱き心の出会いによる。すなわ
通寺や本山寺の五重塔を見上げて
て、春・秋のシーズンともなると、
ち、当山責任役員・総代である森岡
はどんな仕組みであの塔は建って
るのは当然である。
正重氏(大阪高知特急フェリー株式
いるんやろう。自分もいつかはこの
弘法大師の霊跡を巡拝するお遍路
会社会長)の当山外護の熱き心。そ
手で五重塔を建ててみたいとよく
『森岡総代の計画を聞いた時、全身
して、富士建設の真鍋社長の建築に
思ったものでした。その遭い難い機
さんの鈴の音で境内は賑いをみせ
かける溢れんばかりの情熱。その出
縁に遭わせてもらえたのは建築屋
が震えるような思いがしましたよ。
会いであった。
冥利に尽きる。
』
る。
それは全くの偶然であった。たまた
-2-
ことを欠か さなかっ た。夏の ことであ
る。風も入 らない塔 の中では 、たちま
ち汗まみれ となる。 しかし、 全身の汗
を厭うこと なく、氏 はいつも 丹念に点
検を続けられた。そうして点検終わり、
境内にじっ と立ちつ くしたま ま、いつ
までも塔の 姿を仰ぎ 見る氏の 顔にはい
つも祈りに 似た表情 があった ように思
うのである。
『もうすぐ 台風がや ってくる ぞ。頑張
の 人 間 が 持 つ、 尽 き るこ と の ない 情
とする。建 築という 天職に賭 けた一人
未知に挑み 、夢を現 実のもの にしよう
信じ、採算 や困難を 度外視し てたえず
自らの力量 と経験、 そして、 可能性を
て台風に晒 される試 練の時で あった。
近く、土佐 湾上を東 進する。 塔が初め
きたのであ る。しか も、コー スは本県
った。そこ へ恐れて いた台風 がやって
仕上げや周 辺の整備 を残すば かりであ
は終盤に差 しに掛か り、あと は細部の
襲来の折の 出来事で ある。当 時、工事
しかし、
「負けてなるものか。この塔を
き込まれたという。
もはやこれ までかと 不安のど ん底に叩
に自らが精 魂傾けて 造築した この塔も
た。が、夜 半、あま りの風雨 の激しさ
ぞれの木組 みの状態 などを入 念に調べ
にあって、 氏は心柱 の揺れ具 合やそれ
ある。吹き 荒れる強 風に揺る ぐ塔の中
あった。そ して、そ れは自身 の分身で
建てた塔は 氏にとっ て尊いみ 仏の姿で
仏の生命を 有する。 心血を注 いで打ち
個の建造物 という形 を離れて 、塔はみ
無数の用材 によって 組み立て られた一
建て終えら れ、人の 手を離れ た途端、
りの眼があったように思うのである。
我が子を愛 しみ、か つ、案じ る親の祈
ていたので はないだ ろうか。 そこには
言い聞かせながら、同時に、不安 怖・れ
に負けまい と自分自 身にも言 い聞かせ
れよ。しっかり耐えてくれよ。
』と塔に
熱・ロマンを感じるのである。
工学上の入 念な試験 、また、 棟梁のこ
倒してなる ものか。 しかし、 もし、そ
あった。ま た、我が 子のごと きもので
付ける塔の 中にこも ったまま 、とうと
塔は日本人 の心を象 徴するも のである
れまでの経 験、それ に基づい て工法に
の時は塔も ろとも倒 れて死ん でやれ」
あった。
こんなエピ ソードを 付け加え ることし
から、後世 に立派に 引き継が れるべき
も様々な工 夫を凝ら してある 。すべて
と五層目内 部、心柱 の側のわ ずかな板
「歴史はつ くるもの 」―これ は氏との
のちにその 時の心境 を語って くれた真
昭和の五重 塔を建立 しなけれ ばならな
に万全を期 しての建 立である 。心配な
敷に不動の 如く座禅 ・瞑目し て、全て
語 ら い の 中 でよ く 耳 にし た 言 葉で あ
う明け方ま で降りて はこなか ったので
い、との信 念のもと 、こうし て、竹林
いとはいえ 、山の上 にある、 しかも狭
を天に任せ てひたす ら夜明け を待った
る。建築と いう、い わばもの づくりに
月の台風
寺五重塔の 建立工事 は始まっ た。昭和
高な建物で ある。台 風接近を 聞いて居
というのである。
携わってき た人間の 気概・自 負がよく
年
私は参詣者 に乞われ て五重塔 の案内・
ても立って もおられ なかった のであろ
塔が完成し てからも 、氏は台 風のシー
表れた言葉だと思う。
ている。それは、昭和
説明をする 際、塔が 伽藍の中 で持つ意
う。
ズンともな ると必ず 来山され 、その都
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鍋氏の言葉である。
味合い、塔 の精神と いったこ とやら、
その日の夕 刻、氏は 寺に駆け つけるや
度、塔の中に入っては隈無く点検する
年春のことであった。
その高さや 規模、工 法等に触 れると共
すぐさま塔に登り、以後、暴風叩き
(次ページへ続く)
に、最後に必ず、当山の塔にまつわる
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お話しから…
― この五 重 塔 の建立 は、竹 林寺 の代 々の悲 願 だったということ
ですが…。
住職「先々代、先代と当山の復興・整備計画を進めてきて、
その総仕上 げがこの 塔の建立 だった んです。 特に先代 は、
自分の時に やり遂げ たい、と いう夢 があった ようで、 その
夢を森岡総代が語ってくれたことがあります。
」
― では、なぜこの、一番風 のよく当たる場所に?
住職「それは富士建設の先代社長が…。
(笑)ただ、塔は見上げ、祈るための
もので、見下ろすものではないですから、この場所で良いと思っています。
風のよく当たる場所でも、ここが良い。これもロマンでしょうか。それに、
ここは地盤が岩盤で、高層ビルを建てても大丈夫なくらい、しっかりして
いるそうです。」
―再建に当たって、印象に残 った人 は?
森岡総代、真鍋さん、岩上棟梁…。森岡さんは、
『あの頃(塔を再建するため
―元 々この場所に、五重塔 があったのですか?
住職「いえ 、もっと 低い位置 、見下 ろす位置 に三重の 塔が
に走り回っていた頃)が、自分の青春だった。
』と言っていました。」
住職「私は学生でしたから…。でも、やはり皆さま熱い人たちでしたね。
ありましたが、五重塔はこの場所ではなかったようです。
」
― 先代の夢 を引 き継いで塔 を建立されたわけですが、
その当時 はどんなお気持ちでしたか?
住職「誇らしいとか、そういった気持ちよりも、塔の
存在を、重荷に感じていました。当時、私はわずか
歳。住職と学生の二足の草鞋で、『自分がこの寺を
し。学生なんて、まだ人生経験もないし、皆さまにお
話しできるほどのことも無い。とにかく『笑われない
ようにしよう。』
『軽く見られないように、この寺の
住職に相応し いと思わ れるように しよう。』と、虚勢
を張っていました。そんな中で、さらに五重塔を建立
大切に思います。」
り継がれていくかもしれない、ということを、
に 係わ ったひ とたち の想 いは残 って いる、 語
し など が出た として 、そ のとき にも 、この 塔
た とえ ば二百 年後、 三百 年後、 解体 修理の 話
ない。
(笑)私自身も塔と一緒に歩んできたし、
い 。先 代住職 も、し がみ ついて いる かもし れ
ど 、う ちの塔 の心柱 は真 鍋さん 達か もしれ な
て いる 。塔の 心柱は お釈 迦様だ 、と いうけ れ
さ んや 岩上棟 梁や、 みん なの志 、思 いが係 っ
住 職「 この塔 には、 森岡 総代を はじ め、真 鍋
― 今、塔 については、どういうお気持ちですか?
いなものです。」
られる、と思えてくる。竹林寺の台風よけの【まじない】みた
つ丁寧に眺めていく。そうすると、台風が来ても大丈夫、耐え
なんです。真鍋さんの志を思い出して、塔の内部をひとつひと
いっと塔を眺めていた、真鍋さんの代わりにやっているつもり
ん。ですが、その検査は、うちへ来るたびに一時間もの間、じ
私に分かるのは扉の鍵くらいで、実際には構造など分かりませ
一人くらいで、塔の中へ検査に入るんです。検査、といっても、
『いよいよ明日台風が襲来するぞ。』という時には、私ともう
大丈夫かどうか検査に来てくれます。でもね、それとは別に、
住職「今でも、台風のシーズンになれば、富士建設の人が、
― 台風の時 の逸話を今 も参拝客にお話 しして下さるそうですが…。
「志」を引き継ぐ、「想い」を受け継ぐ。
海老塚住職との
wasyu
Ebizuka
しそれを預かる身になることは、実は重荷でしたね。」
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五台山竹林寺住職
海老塚 和秀 氏
継ぐことが本当に出来るんだろうか?』と不安でした
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五台山竹林寺へのアクセス
高知駅から
で 26 分
(土日祝日のみ運行)
高知自動車道高知I.C から約 20 分
はりまや橋から 約 20 分
桂浜(浦戸大橋)から 約 30 分
〒781-8125 高知市五台山 3577
TEL 088-882-3085
「建立後三十年近く経った今でも、大晦日に
は寺に参り、新年をここで迎えます。今年も
頑張ろうって、初心に戻れるんですよ。
」と
弊社の現社長は言います。
皆さまも初詣にぜひ訪れてみませんか。
【五台山竹林寺について】
その後、時代を経て江戸時代に至っては、土佐代々
当山は神亀元年(724)、聖武天皇(しょうむてん
のう)の勅願(ちょくがん)を奉じた行基(ぎょう
藩主の帰依を受け、藩主祈願寺として寺運は隆盛。堂
き)により唐の五台山(ごだいさん)になぞらえ開
塔は土佐随一の荘厳を誇り、学侶が雲集し、学山(が
創されました。
くざん)(学問寺)として当地における宗教・文化の
中心的役割を担うに至りました。今日、土佐の民謡「よ
開創の縁起には、時の帝・聖武天皇が文殊菩薩(も
んじゅぼさつ)の霊場として名高い大唐の五台山に
さこい節」で広く親しまれています純信(じゅんし
登り、かの地で親しく文殊菩薩から教えを授かると
ん)・お馬の恋物語。その僧・純信も江戸時代末、当
いう夢をご覧になりました。そこで帝は、行基に日
山の脇坊・南の坊に住む修行僧のひとりでした。
本国中よりかの大唐五台山に似た霊地を探し、伽藍
しかし、明治初頭の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)
(がらん)を建立するように命ぜられたのでした。
の難は当山といえどもこれを避け難く、寺運は一時衰
かくして、土佐のこの地が選ばれ、行基自ら謹刻
微しましたが、その後、かつての寺観を取り戻すべく
した文殊菩薩像を本尊とし当山は開創されたと伝
伽藍の復興整備を進め、ようやく往古の輪奐(りんか
えられています。
ん)に復するに至りました。
時代は下り、大同年間(806~809)には弘法大師
今日、み仏を拝す人々の参詣の香煙は絶えることな
が四国回国の砌、当山に錫(しゃく)を留めて修行
く、また、緑豊かな寺域は四季の自然の折々を楽しむ
され、この由縁をもって、当山はのちに四国霊場第
人々の憩いの場としても広く親しまれています。
三十一番札所に定められるところとなりました。
「竹林寺塔記」
-五重塔再建の記録と
塔の源流-
「物語のある建築」を
募集しています。
仏塔の歴史から塔の構造、
詳細な図面まで、
「五重塔」に関する実際的な
情報はもちろん、図面や
仕口の図は眺めるだけでも
美しいものです。
『建築』を通じて富士建設と係わった
思い出を、ぜひお聞かせ下さい。
(お問い合わせ:
富士建設株式会社まで)
-5-
(担当者:真鍋有紀子)
TEL
0120-832589
Mail
[email protected]
「ハレとケ」のある
遊びかた・暮らしかた
この季節を暮らす。(1)【お正月の迎え方】
【床の間のある空 間/織部床/ 鏡餅】
お正月と言えば「鏡餅」。でも 、床の間も神棚も ないから飾らな い、と
いう方に、ちょっと楽しい情報を。それは、
「織部床」という方法です。
センチくらいの高さに切り、「床」としたい位置の壁
まず、床の間に見立てるための空間の場所、幅を決めます。その幅に合
わせて、和紙を
に、天井から和紙を貼り付けます。これで、簡易床(織部床)の出来上
がり。
、々
、子孫繁栄。
、コ
、
ところがない。
」。橙は、「代
」。干し柿は、「いつもニ
、コ
、仲
、睦
、まじく。(
ニ
(両端が)2個2個、中6つまじく。
)」などといっ
た理由から添えられます。
つまり、幸せを招きそうな、
“だじゃれ”というわけです。
【お屠蘇】
お屠蘇とは、新年にいただく、いわゆる「薬酒」。
中に入って いるの は、一般 的に『山 椒・細 辛(ウス バサイ シン)・防
風・肉桂・乾薑・白朮(オケラ)・桔梗…』だそうです。
を屠り魂を 蘇らせ る」意味 から、「屠 蘇」とい う、なん だか物 騒な字
三国志ファ ンの方 ならお馴 染み・華 陀の案 による薬 酒とさ れ、「邪気
鏡餅を飾る位置は、いわゆる「本勝手」と言われる、床柱が左にある床
を書くのですネ。つまり、1700年前から、飲まれつづけているの
です。
の場合、鏡餅を真ん中に、屠蘇器を右に、花を左に飾ります。
「織部床」
の場合は、同じく鏡餅を真ん中に、部屋の外に近い方(窓側等)に屠蘇
また、もともと屠蘇散を包んでいた紙は「宝冠」といって三角に折っ
たもの。これも本来は「魔除け」の意味のある、大事な形です。
器、反対側に、お花となります。
さて、飾る際には三方に平木の盆を載せ、半紙を折った上にお餅、とい
「あれって甘すぎるナ。
」
「匂いがチョット・・・」とお思いのかたに、
角向 こ
う順序が基本ですが、そ のとき、お盆の 「綴じ目」は、「丸前
酒1合に対し、みりんが10%くらい。
美味しい配合を教えてもらいましたので、書いておきますね。
も手前へ。)
それに1パックを浸し、紅白歌合戦が終わる頃に作り始めると、朝に
う」が正面ですから、綴じ目のない方が、手前になります。
(半紙の「わ」
これは、神様へは「飾る」、仏様へは、
「供える」ことから来た慣習。神
はバッチリだそう。
二〇〇九年もお屠 蘇を飲んで邪 気を屠り、
健康に幸せにお過 ごしください 。
様の場合は、「自分から見える方を美しくする」と覚えるとよいそう。
その他、鏡餅に添える飾り物として、裏白、橙、干し柿等ありますが、
これについては、とくに決まりはなく、裏白は、「裏がない、後ろ暗い
-6-
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