未来を拓く先端技術 - NTT

スピン
電子スピン共鳴
量子情報
未来を拓く先端技術
無磁場ESRによる電子スピン操作
さ な だ
は る き
くにはし
よ う じ
ご と う
ひ で き
お の み つ
こ う じ
そうがわ
てつおみ
眞田 治樹 /国橋 要司 /後藤 秀樹 /小野満 恒二 /寒川 哲臣
NTT物性科学基礎研究所
近年,半導体中の電子スピンの量子力学的な性質を活用し,超高速計算が可能となる
量子コンピュータに応用する研究が世界中で進められています.スピンを用いた量子情
報演算には,電子スピン共鳴(ESR: Electron Spin Resonance)が必要とされてい
ます.しかし,通常のESRは大型で複雑な磁場発生機構を必要とするため,微小素子内
で量子計算を実現する方法としては適していません.今回NTT物性科学基礎研究所では,
蛇行運動する電子に働くスピン軌道相互作用を利用することによって,外部磁場を一切
使わずに電子スピンを自由に操作できることを明らかにしました.
スピンの量子情報処理への
応用
Resonance)と呼ばれる物理現象の利
動磁場B 1 であり,その周波数f が共鳴周
用が不可欠とされています.通常ESRを
波数 f R =∆E/h(h:プランク定数)に
生じさせるためには2種類の外部磁場が
一致したときに,分裂した二準位間で
必要になります(図1(a)).1つは静磁
共鳴が生じます.この共鳴条件が満たさ
半導体中の電子は「電荷」と「スピ
場B 0 であり,対象の電子スピン系のエネ
れたとき,スピンは3次元空間内で球面
ン」の2つの性質を持っていますが,従
ルギー準位を上向きスピンと下向きスピ
をなぞるように運動します(図1(b)).
来の半導体デバイスでは電荷の性質しか
ンに分裂します(分裂エネルギー∆E ∝
このようなスピンの運動を利用すると,
利用されていませんでした.その理由は,
│B 0 │).もう1つはB 0 と垂直方向の振
磁場の強さ・タイミングを適切に制御す
半導体内に多数存在する電子スピンが
それぞれ独立にランダムな運動をしてい
るため,全体としてスピンの性質が打ち
スピン
∆ E
消されてしまうからです.しかし近年,
スピンの量子力学的な性質を引き出し,
それを超高速演算が可能となる量子コン
振動磁場(B1)
静磁場なし
(B0=0)
ピュータ*1に応用しようとする研究が世
界中で進められるようになりました.
上向きと下向き
のスピンが同じ
エネルギー
エネルギー: hf
静磁場あり
(B0=0)
上向きと下向きの
スピンがエネルギー
分離(ΔE)
電子スピン共鳴による
スピン量子情報の操作
h :プランク定数
f : 振動周波数
振動磁場(B1)のエネルギー
が∆Eに一致するとスピンは
上向きと下向きの間で共鳴
(a) ESRの原理
電子スピンに乗せた量子情報,すなわ
ち電子スピンの量子状態を操るためには,
共鳴条件: hf =∆ E
電子スピン共鳴(ESR: Electron Spin
が満たされると…
*1
60
量子コンピュータ:量子力学によって支配
される物理量を利用した量子ビットにさま
ざまな演算をさせることにより情報処理を
行うコンピュータ.演算過程で「重ね合わ
せ」という量子特有の状態を扱えるため,
現状のコンピュータとは桁違いの速さで素
因数分解やデータベース検索などの処理が
可能となります.
NTT技術ジャーナル 2013.9
スピンは3次元
空間内を運動
(ラビ回転)
(b) ESRの共鳴時におけるスピンの運動
図1 ESR
未
ることによって,任意のスピン方向,す
際の磁場がなくても有効磁場が働き,ス
り,蛇行運動する電子は移動するにつれ
なわち任意の量子状態をつくることが
ピンの運動に影響を与えます.
vベクトルの方向が変化するため,有効
スピン軌道相互作用による有効磁場
磁場ベクトルも周波数 f =νy /λ(v y はv
しかし,従来の外部磁場を用いる一
ベクトルの向きと大きさは,電子の速度
のy軸方向成分,λは蛇行チャネルの波
般的なESR技術は,微小領域内におけ
ベクトルで決まります.例えば,III-V族
長)で変動することになります.この変
る少数スピンの操作を必要とする応用に
半導体からなり,特定の結晶方向に層
動磁場は,電子とともに移動する座標
できます.
*3
は向きません.なぜなら,大型の電磁石
状に積み上げられた量子井戸
と呼ば
系からみれば,静磁場B 0 SO と振動磁場
やマイクロ波共振器によって発生させる
れる構造を仮定します.量子井戸の内
B 1SO のベクトル和になります.そのため
外部磁場の空間領域は,電子1個の占
部には2次元平面内に電子を効率的に
f が f R = ∆E/hに一致した際には,ESR
める範囲よりもはるかに広いため,個々
閉じ込めることができます.この量子井
と等価な共鳴現象が生じると予想され
のスピンを独立に操作することはできず,
戸に閉じ込められた2次元電子は,結
ます.
磁場発生に要したエネルギーの大部分も
晶の対称性によって決まるDresselhaus
無駄になってしまうからです.そこで今
効果と呼ばれるスピン軌道相互作用が働
回NTT物性科学基礎研究所では,スピ
きます.そのときの有効磁場ベクトルB SO
ン軌道相互作用*2と呼ばれる物理効果
は,次式で表されるように単純に速度ベ
のつくる有効磁場を利用することによっ
クトルvの各成分の一次結合で記述され
て,外部磁場が一切なくてもESRと等
ます.
価な現象,「移動スピン共鳴」が生じる
(1)
ことを明らかにしました .
移動スピン共鳴の原理
ダイナミックドットによる
輸送経路の制御
私たちは移動スピン共鳴を実証するた
めに,表面弾性波によるスピン輸送技
B SO ∝(νy ,νx ,0)
術(2) を利用した実験を行いました(図3
(a)).試料は分子線エピタキシ法で成長
ただし座標軸は,結晶軸に対し,x││
したGaAs(ガリウムヒ素)/AlGaAs
[110],y ││[-110],z││[001]となる
(アルミニウムガリウムヒ素)からなる厚
ように定義してあります.この有効磁場
さ20 nmの量子井戸であり,ウエハ表面
SO
を速 度 ベクトル空 間 でプ
には 櫛 形 電 極 ( IDT: Inter-Digital
わりにスピン軌道相互作用を利用しま
ロットしたのが図2(a)です.電子の移動
Transducer)を形成してあります.こ
す. スピン軌 道 相 互 作 用 は相 対 論 に
方向に応じて有効磁場の方向も変化す
のIDTに高周波を印加すると,表面弾
よって説明される効果ですが,分かりや
るのが分かります.
性 波 ( SAW: Surface Acoustic
移動スピン共鳴では,外部磁場の代
ベクトルB
すく表現すると,電場の中を移動する電
ここで図2(b)のように,正弦波状の
Wave)と呼ばれる疎密波が試料表面を
子に対し,あたかも実際の磁場があるよ
チャネルに沿って移動する電子を考えま
伝搬します.表面弾性波は物質の表面
うに影響する効果です.つまり,スピン
す.チャネルの各位置における接線方向
を振動させながら伝わっていく弾性波
軌道相互作用が存在するときには,実
は,電子のvベクトルを決めます.つま
であり,タッチパネルや携帯電話の高周
波フィルタなどにも利用されている身近
な現象です.
蛇行する経路
|
[110]
V
y |
有効磁場ベクトル
速度ベクトル v の
向きが変動
速度ベクトル
有効磁場ベクトル BSO の
向きも変動
BSO
y
|
[110]
V
X |
0
x
=
BSO
有効磁場は電子の移動方向に依存
(a) 電子の速度ベクトル vと
有効磁場ベクトル BSO の関係
表面弾性波が伝搬すると,表面近傍
には局所的な歪が生じます.GaAsなど
の化合物半導体は圧電材料でもあるた
め,歪が加わると圧電効果によって誘電
分極が起こり,ピエゾ電場 *4が生じま
*2
+
BSO
0
BSO
1
有効磁場だけで,静磁場と振動磁場の
両方を発生可能
*3
(b) 蛇行運動する電子に働く有効磁場
ベクトルBSO
図2 移動スピン共鳴の原理
*4
スピン軌道相互作用:電場の中を運動する
電子が実効的に磁場を感じるという相対論
的効果.半導体中では結晶構造や量子井戸
などの構造による局所電場が原因でその効
果が発現します.
量子井戸:電子に対するポテンシャルエネ
ルギーが小さな半導体薄膜(量子井戸層)
が,ポテンシャルエネルギーが大きな半導
体層(障壁層)によって挟まれた半導体構
造.量子井戸層の中には電子を効率的に閉
じ込めることができ,電子の運動方向が井
戸層に平行な2次元面内に制限されます.
ピエゾ電場:結晶構造の歪によって生じた
圧電分極により発生する電場.
NTT技術ジャーナル 2013.9
61
来
を
拓
く
先
端
技
術
す.その結果,表面近くにある量子井
定 法 を採 用 しました( 図 4 ). C W
向きに対応します.直線チャネル(図5
戸層にも周期的な歪が発生し,それに
(Continuous Wave)チタンサファイ
(a))では,円偏光の励起光照射によっ
伴って周期的なピエゾ電場が発生しま
アレーザからの光を励起光と検出光に分
て原点(0,0)に注入されたスピンは,
す.量子井戸内に電子を注入すると,
けて試料に照射します.励起光の偏光
スリットに沿って[ −110]方向に長距離
電子はこのピエゾ電場から力を受け表面
は円偏光にしてあり,チャネル上の固定
(∼100 μm)輸送されています.カー
弾性波の伝搬方向に移動します.ただ
位置(この位置を原点x = 0,y = 0とし
信号の正負の振動は,スピンが有効磁
し表面弾性波の伝搬と直交する面内方
ます)に照射します.円偏光の光は角運
場B 0 SO の周りを回転する「歳差運動」
向にはピエゾ電場の成分がないため,電
動量を持ち,その角運動量が電子・正
と呼ばれる現象を反映しています.
子は拡散し広がっていくだけです.
孔対のスピン角運動量に転写されるた
一方,蛇行チャネル(図5(b))にお
この横方向の運動を制御して電子を
め,上向き(z軸方向)の電子スピンを
けるスピン歳差運動に注目すると,y ∼
長距離移動させるために,スリットを開
選択的に注入することができます.一
30 μmを超えたところで歳差運動の位
けたTi薄膜を試料表面に形成しました.
方,検出光は直線偏光として試料に照
相が反転する様子が観測されました.こ
表面弾性波の伝搬領域に金属薄膜が存
射し,反射光の偏光軸の回転量である
のような位相の反転は直線チャネルの測
在すると,その直下のピエゾ電場を一部
カー回転角θ K (KR: Kerr Rotation)
定結果にはみられなかった現象です.こ
遮蔽します.この金属薄膜にスリットを
を測定します.カー回転角は光の照射位
の振る舞いは,蛇行運動している電子ス
開ければ,スリット直下のピエゾ電場が
置でのスピン密度に比例するため,検出
ピンに対して振動磁場B 1 SO が働き,ラビ
周囲よりも強くなり,その結果,動く閉
光を2次元平面内でスキャンすることに
回転*6と呼ばれるスピンの運動が生じた
じ込めポテンシャル(ダイナミックドッ
よって,スピンの2次元分布を計測す
ためと理解できます.
ト)となり,スリットに沿って電子を長
ることができます.試料温度は極低温
距離運ぶことができます.このような手
(8K)(室温に比べてスピン寿命が長く
法を用いて,私たちは「直線チャネル」
なることが知られている)とし,電磁石
と,ESR条件が満たされるように設計し
内 に配 置 することによって, x ( ││
た正弦波状の「蛇行チャネル」の2種
[110])方向に外部磁場(B ext )を印加
類を作製し(図3(b)),これらのチャネ
ルに沿って電子を移動させる実験を行い
ました.
移動するスピンの測定には,磁気光学
カー効果
*5
を利用したポンププローブ測
スリットを開けた
チタン薄膜
前述の結果は外部磁場がない状況に
おいて移動スピン共鳴が生じていること
できるようにしてあります.
外部磁場ゼロのときの,スピンの2次
を示唆していますが,さらに外部磁場に
元イメージの測定結果を図5に示しま
対する依存性を測定することよって,本
す.図中の赤色・青色は,カー回転角
現象が間違いなく共鳴現象であることが
の正・負,すなわちスピンの上向き・下
確かめられます.図6は2つのチャネル
[001]
z
y[−110]
表面弾性波
外部磁場依存性に現れる
スピン共鳴現象
3μm
円偏光の照射
→スピンを生成
3μm
励起光
検出光
θK
x[110]
光の反射率
(任意単位)
s形電極
0.75
1.00
23μm
ャン
3.98μm
スキ
(断面構造)
AlGaAs 485 nm
GaAs QW 20 nm
AlGaAs
高周波
電圧
スリット直下のピエゾ電場がつくる
閉じ込めポテンシャル(ダイナミック
ドット)→スリットに沿って移動
図4 磁気光学カー効果による
スピンの検出
直線
蛇行
チャネル チャネル
ESR条件を満たす
ように設計
*5
スリットの形状でチャネル
(移動経路)が決まる
(a) 表面弾性波を利用した電子輸送の原理
図3 試料構造
62
カー効果による
スピンの検出
NTT技術ジャーナル 2013.9
(b) 作製したチャネル
の形状
*6
磁気光学カー効果:対象物に直線偏光を照
射したときに,その場所における磁化(ス
ピン)の向きに応じて,反射光の偏光軸が
回転する現象.
ラビ回転:ESRなどのスピン共鳴現象にお
いて,スピンが3次元空間内で振る舞う運
動のこと.静磁場中のスピン歳差運動が2
次元平面内の運動であるのに対し,ラビ回
転は球面をなぞるように3次元空間内を運
動します.
未
れば,移動経路を適切に設計すること
KR
(a.u.)
1
0
−1
(μm)
100
KR
(a.u.)
1
0
−1
(μm)
100
100
80
80
60
60
40
40
によって,スピンの量子状態を自由に変
100
※外部磁場なし
80
80
60
60
40
40
化させることが可能になります.
今後の展望
y
y
途中で歳差運動の
位相が“反転”
ここで紹 介 した移 動 スピン共 鳴 は,
「ESRには外部磁場が必要」という一般
20
20
20
20
0
0
0
ESRによる
「ラビ回転」を
示唆する振る舞い
down
カー信号
が振動
0
up
−7
0 7
0.2 0 −0.2
x(μm)
−7
0 7
ます.今後は今回の成果をさらに発展さ
せ,電子スピンを使った量子コンピュー
0.2 0 −0.2
x(μm)
KR(a.u.)
に知られる基本原理を覆す新現象といえ
タの基本素子の実現を目指し,それに向
KR(a.u.)
けて必要な,単一電子のスピン操作,複
有効磁場(静磁場)による歳差運動
(a) 直線チャネル
数スピン間のエンタングルメント(量子
(b) 蛇行チャネル
力学的もつれ)の制御などの研究を進め
図5 チャネルに沿って移動する電子スピンの空間分布
たいと考えています.
※本研究の一部は,科学研究費補助金
の助成を受けて行われました.
B0SOと平行に外部
(静)磁場を印加
z
共鳴なし
B0SO
y
B ext
x
■参考文献
共鳴
共鳴
(B ext = 0 ) (B ext ≠ 0 )
(μm)60
実験
40
y
(μm)
40
y
20
20
0
0
(μm)
60
(μm)60
計算
40
y 20
実験
(1) H.Sanada,Y.Kunihashi,H. Gotoh,K.
Onomitsu,M. Kohda,J.Nitta,P.V.
Santos,and T. Sogawa:“Manipulation of
mobile spin coherence using magnetic-fieldfree electron spin resonance ,” Nature
Physics,Vol.9,No. 5,pp.280-283,2013.
(2) 眞田・後藤・小野満・寒川:“超音波を用い
た電子スピン輸送,” NTT技術ジャーナル,
Vol.24,No.6,pp.31-34,2012.
計算
40
y 20
0
0
−60
−40
−20
0
20
40
60(mT)
Bext
−60
−40
−20
0
20
40
60(mT)
B ext
(a) 直線チャネル
(b) 蛇行チャネル
図6 スピンの振る舞いの外部磁場依存性
に対して測定した,カー信号のyおよび
推測されます.一方,蛇行チャネル(図
Bext 依存性です.直線チャネルのグラフ
6(b))では,Bext = 0 Tと46 mTの付近
(図6(a))にみられる振動は,静磁場の
で歳差運動の位相が特徴的に変化する
周りのスピン歳差運動に起因し,その回
様子が明瞭に観測されました.この振る
SO
舞いは,スピン軌道相互作用がつくる振
を合わせたトータルの磁場の大きさに比
動磁場の影響によるものであり,電子ス
転周波数は実磁場B ext と有効磁場B 0
例します.図6(a)では,Bext が23 mTに
ピン共鳴によって生じるラビ回転の振る
近づくと赤と青の領域の間隔が広がって
舞いを示唆しています.これらの実験結
いき,Bext =23 mTでは赤の領域しかみ
果は理論計算でもよく再現できることか
られません.これは,歳差運動がBext =
ら,電子スピン共鳴と等価な現象が確
23 mTで停止することを示しており,こ
実に生じていることが確かめられました.
のときの外部磁場が有効磁場B 0 SO をキャ
特にBext =0 Tにおける共鳴の存在は,こ
ンセルしていることになります.つまり
の現象が外部磁場を一切必要としない
有効磁場B 0 SO の大きさが23 mTであると
ことを証明するものです.本現象を用い
(後列左から)寒川 哲臣/ 後藤 秀樹
(前列左から)国橋 要司/ 眞田 治樹
小野満 恒二
NTT物性科学基礎研究所のホームページ
(http://www.brl.ntt.co.jp)では,最新の
研究成果について図や動画などを用いて,
分かりやすく解説しています.
◆問い合わせ先
NTT物性科学基礎研究所 量子光物性研究グループ
TEL 046-240-3439
FAX 046-270-2342
E-mail sanada.haruki lab.ntt.co.jp
NTT技術ジャーナル 2013.9
63
来
を
拓
く
先
端
技
術