KURENAI : Kyoto University Research Information Repository Title Author(s) Citation Issue Date URL 中國天文學の發達とその限界 藪内, 淸 東洋史研究 (1969), 28(2-3): 127-138 1969-12-31 http://hdl.handle.net/2433/152800 Right Type Textversion Journal Article publisher Kyoto University 中園天文皐の護達とその限界 第二十八巻 第二・三合併競 昭和四十四年十二月護行 清 のではなか った。太陰太陽暦で 、も っとも難しい問題は 、置閏法であった。四分暦では、十九年に七か月の閏月をおくと 段代には、太陰太陽暦が成立した。しかし嘗時の太陰太陽暦は、董作賓がいうのとはちがって、四分暦のような高次なも ① に合わせるため、十二か月の一年を卒年とし、二、三年に一回の閏月をおき、閏年には十三か月がふくまれた。すなわち いて、天文皐は暦法の分野で誕生した。月のみちかけの周期に従って、一月を三十日と二十九日の大小に分け二年の周期 天文拳の誕生は、何れの古代文明においても、その文明とともにはじまった。中園では最初の歴史的王朝である肢にお かった。 で、ゆるやかな速度で設展したのである。そこには天動説から地動説へと準んだ、革命的なできごとは、 ついにみられな 中園天文皐のパターンは、 ほぼ漢代にできあがったといってよかろう。それから後の天文皐は、こうしたパターンの中 内 いうメトン周期、さらに七十六年を周期として、季節と月相とが完全に復掃するという、カリポス周期を基礎とするが、 - 1ー 薮 タトリ£局、。ル 1 2 7 128 @ こうした十九年法や七十六年は、股代にはまだ知られていなかったと思われる。こうした知識は、 はるかおくれて、戟園 時代に知られたと推定される 。 メトン及びカリポスは、 それぞれの名を冠する周期を提唱したギリシアの天文皐者である が、中園人がこうした知識をギリシアから皐んだわけではない。股周の時代、すなわち千年に近い長い期間に中園人自ら が、自然の注意深い観察によって聞学びとった知識であった。きわめてプラチカルな民族であった 中園人が、賞用的な暦法 @ 中園文明がもっとも生気を持った時代の一つであった。 暦法の確立ととも について、ギリシア人より劣 っているとレう理由は少しもなかった。 四分暦が成立したと思われる戦園時代は に、天践 の観測、ことに木星 (歳星﹀の 観測が行われ、この位置によって園々の運命を占う分野説が誕生した。すなわち 赤道に沿 った天 空を十二等 分し、これを十二次と呼び、 それぞれの次が地上の一園乃至二園を支配した。木星がどの衣に 来るかによ って、支配される園の運命が占われる。この十二次は、多分にハビロンに起 った寅遁十二宮と似ている。また 天空を二十八の不等間隔に分つ二十八宿も早くから中園に知られたが 、これ もイン ドに類似なもの が存在した。戟園時代 は、暦法及び占星術がはじめて組織された時代で、その詳しい内容は漢代の著述、 す なわち﹃史記﹄、 ﹃漢書﹄などにし L とあるように、天佳現象は皐なる自然現象ではなく、支配 るされた。現在の天文皐は精密科目学の一つであるが 、もともと天文という語は、占 星術的な立場から考えられた天鰻現象 の意である 。﹃易﹄繋僻上に﹁天は象を垂れ、吉凶をしめす 者に射し政治の善悪を告げ、天が支配者への警告を行うものと考えられた。中園の政治思想においては、支配者は天の子 であり、天の意志に従って政治を行うことが政治の理想と考えられてきた。中園における天は、創造紳ではなかったが、 政治道徳の規準となるもので、政治理念の中心におかれた。天を祭る祭天の儀は、天子の特様であり、また義務でもあっ た。このばあい、天の意志は、天盤現象を通じて支配者に啓示されたのである。ところで天鰻現象の中には、比較的容易 にその法則性乃至周期性が把握される面と、一見、怒意的でありほとんど人知を越えて理解できない面とがあった。前者 は暦法として睦系づけられ、後者は占星術の封象となった。しかもこの二つの分野は、ともに中園の政治にとって重要な 一 2~ 1 2 9 ものとなった。 ﹃史記﹄にはじまる正史の中に、﹁律暦士山﹂(﹃史記﹄では﹁暦書﹂)と﹁天文志﹂(﹁天官書﹂﹀があるが、 @ これはそれぞれの分野をとりあげたものであった。天鐙現象は、窮極的において、人知の理解を越えたものであるという 思想は、中圏人には牢固として消え去らなかった。 ヨーロッパの中世は宗教の支配した時代であるが、これに劉し、統一園家が成立した秦漢時代からは、中闘では政治が すべてに優先した。秦漢の時代に、天子を頂貼とする官僚制度が確立し、しかも天子の濁裁制は時代とともに強固なもの となった。天文皐もまた、政治の支配をまぬがれなかった。﹃史記﹂天官書では、星座を総稿しゼ天官といった。天と地 との卒行性を主張する思想に本づいて、地上の官僚制度になぞらえて、地上の星座にもこの官僚制度に本づく名稿がつけ られた。いわば星座も、官制上の名稿がつけられた。しかも﹁天官書﹂にはじまる占星術は、天子やそれが支配する園家 の運命を占うもので、公的占星術の部類に属した。この種の占星術は、バビロンに行われたが、ギリシアになると個人の 運命を占うホロスコープ占星術が流行しはじめた。占星術の面からだけみても、中園で行われた君主濁裁制が天文撃に強 く反映していることを知ることができる。ここでは、個人の運命はあまり問題にされなかった。政治をすべてに劃して優 先させるという思想は、天文筆のいま一つの部分│暦法にも影響を輿えた。現在のわれわれにとって、暦法といえば、月 日を配嘗し、週日や祝日を書き込む技術、もしくはその結果に本づくカレンダーの編纂を意味する。しかし中園でいう暦 法は、こうした面を包括しながら、いっそう康範な内容を持った。単に月日の配嘗だけでなく、日月食の諜報、五星(五 つの惑星﹀の位置計算など、天鐙現象の中からその法則性が把握できるもののすべてが、暦法の劃象となった。暦法は、 天文計算表を意味した。﹃史記﹄暦書では、単に月日を配嘗する四分暦の計算法が述べられているが、﹃漢書﹄律暦志に はじまり、それ以後の正史では、日月食や五星の位置計算をふくめたものが、その内容となっている。天睡眠現象のすべて が、支配者にとって大きな闘心事であったという事賓が 、ここにも強く反映している。 - 3一 ﹃史記﹄の撰者司馬遷は、こうした官臆の長官である太史令とな った。 司馬遷のばあいは、それ以 秦にはじまっ た君主濁裁の官僚制度は、漢代において完成された。それと同時に、天文皐 を研究する機関 も、官僚制度 の中に組みこまれた。 前の博統に従 って史官 を ねていたが、 やがて太史令は天文筆研究の専門職とな った。天文翠研究の官臆 とその長官の名 兼 { 稿は、時代によ っていくぶん 饗 化はあるが、 しかし何回とな く行わ れた易姓革命 を通じ、二千年以上を通じてこの制度 は 存績し、清末に至 った。この官聴では、暦法の研究と暦書の頒布、公的占星術のための天文観測が中心であり、附随する - 4ー 業務として漏刻の管理と報時、 日の士口凶を務測する一種の占星術とがあ った。 もちろん重要な分野 は、前 二者であった。 ヨーロ ッパの 中世 は、皇帝の権威 は ロl マ法王によ って保護された 。 しかし中閣のばあいは、ローマ法王の如きものは存 在しなかった。従って支配者は自らの方法によって 、新しい王朝の成立を権威づける必要があった。それは各種の制度を 範圏の限定はまた、暦計算の面にも及んだ。上述したように、中園の暦法は贋く天鐙現象を封象とする。ギリシアでは地 ・ りあげら れた が、唐代に なると 、こうした議論は無用な ものと考えられ、それ以 後はほとんど問題とならなかった。研究 としての天文皐者の主要な仕事であった。漢代から六朝にかけて、蓋天設とか海天読とかいった、宇宙構造論の問題 が と れたこと である。公 的占星術のための天文観測と、月日の配首をふくめ、 日月食や五星の位置計算を行 う暦法とが、官僚 漢代において、中園天文皐のパターンがきま ったというのは、次のような意味である。 まず天文民干 の 研究範圏が限定さ ある。 った。この太初暦は、前漢末の劉散によって増補され 、三統暦と名を 費 えた。これが﹃漢書﹄律暦志に牧 録 された もので は幾度かとりあげられたが 、武帝の太初元 年 ( O 四)に至って 、 はじめて成功した。すなわち太初暦による改暦であ 前一 第一史することぞあったが 、 そうした制度の一つとして ﹁改正朔﹂、 すなわち改暦が行われた。漢代の初期以来、この問題 130 1 3 1 球中心の宇宙モデルを考え、それぞれの天韓位置を園運動の組合せとして計算することに成功した。こうした幾何皐的モ デルの考想は、ギリシアの数皐において幾何皐がもっとも護達したという事賓と結びつくのであろう。 ユークリッド的な 幾何皐を依除じ、算術や代数計算にすぐれた能力を護揮した中園人は、現象を説明するための幾何皐的モデルを考えるこ となしに、現にみえる天睦現象の中に法則性を見出すことに成功した。初期の暦法では、日月が一太陽年と一朔望月を周 期として、その運行を規則正しく行うことが知られた。中園の暦法が天桂現象の法則性を護見したというのは、こうした ⑤ 周期の護見であった。中園人はすべての現象がある種の周期によってくりかえされることを確信した。三統暦では日月食 が一三五か月の周期でくりかえされるものとしてその法則性を護見したし、また惑星の運動が禽合周期のあいだ・に、規則 正しい襲化を行うことを知った。もちろんこうした周期だけでは、十分な諜報は不可能であって、漢代以後に計算方法に 改良が加えられたが、基本的には一大瞳現象の法則性は周期によって規制されるという考えは、後々までもつづいた。 宇宙の幾何皐的モデルを考えることは、賓際に天豊がどのような朕態にあるかを想定することである。例えば日食は太 陽が月に掩われるために起る現象であるという物理的意味づけは、ギリシアの天文同学者によって早くから行われた。しか し中園の暦法では、こうした意味づけは、あまり強調されることはなかった。﹁律暦志﹂が目的としたのは、天鐙現象の 務報を如何に行うかであって、その物理的意堤つけではなかった。しかし事寅において、中園の天文皐者がこうした現象 の奥にある委を全く知らなかったわけではなかった。しかし彼らは正面から物理的意味づけをとりあげようとしなかっ 恥一言にしていえば、彼等にとって必要なのは計算の結果が現象と一致することであり、計算の理論的基礎づけではな かった。こうした暦法の性格が漢代にできあがると、それは理想的なモデルとして後世にうけつがれた。 中園における天文皐のパターンが漢代にでき、しかもそれが固定化したことは、まず中園の政治組織の中で理解されな ければならないであろう。君主を頂貼とする中園の官僚制の中に、天文患の研究が組みこまれたことは、どのような結果 を天文拳にもたらしたであろうか。それは確かに天文皐の護達に有利な面はあった。王朝が交替しても、園立天文蔓の制 -5- 度は依然として存績し、 ① そこでは天文観測が絶えず行われ、 暦法の改良が検討された。 暦法は王朝のシンボルと考えら れ、暦法を園家の大典とみる表現は後までそのまま残ったが、しかし事寅上において暦法への重親の程度は菅代以後、よ うやく弱まってくる。しかしながら、閣家の保護を受けることによって、きわめてゆるやかながら、天文同学者の努力によ って暦法は改良され、多くの観測資料が増して行った。 しかし皐問が政治に支配され、官僚制の中で育成されたことは、 好ましい結果だけをもたらしたのではなかった。易姓革命によって新しい王朝を建てた最初の支配者は、いつのばあいに も、革新的なエネルギーの持主であった。 しかし二代三代と進むにつれ、彼らは政権を維持することに執着し、保守的と ならざるを得ない。官僚制の中にくみこまれた天文事者たちは、職務としてきめられた業務を守り、 それ以外の仕事を敢 えて行おうとしなくなった。こうした天文拳者の保守性の中からは、革新的な研究が生れにくいことも、 また嘗然であっ しかしこれらの護見なり研究なりは、暦計 - 6ー た。過去の中園では、君主濁裁制の官僚制が持績されてきたように、天文皐のパターンはその政治形態と同じく、根本的 な饗化はついにみられなかった。このように述べたからといって中園の天文皐に設展がなかったというのではない。後漢 J とによって合格が可能となることで、新しい時代を切り開く科皐技術を事んでも、築達への這に役立たないということで 唱えられた。彼らによってこの制度の絞陪として指摘された理由の一つは、科暴の試験が儒教の経典と詩文に通達するこ @ いよ強められた。科奉の制度、が中闘における自然科皐の研究を妨げたという設は、清末の政治家や撃者によってしばしば 中閣の官僚制において、科奉の制度は重要な役割を持った。陪以後に確立した科拳の制度の中で、君主の濁裁制はいよ 算の改良に必要な知識であって、暦法が中園天文皐の主流であるという事貧は、全く嬰らなかった。 ける日食計算法など、元の授時暦に至るまで、絶えず新しい研究が行われた 時代に行われた月の運動における不等の研究、六朝末における太陽運動の不等の瑳見、・惰の劉熔による補間法、唐代にお 1 3 2 1 3 3 あった。もちろん科拳の制度にも、すぐれた黙はあった。日本の封建制度にみられたような世襲制は、中園のばあいには なかった。科奉はほとんどすべての人に開放され、才能と努力によって準士に合格すれば、築達が約束される。もちろん 競争者は多く、進土となることは容易でなかったが、この制度が果してきた役割は大きかった。中園の封建制が長く持績 されてきた上に、この制度は飲くべからざるものであったと思われる。しかし清末の同筆者が指摘したように、才能に恵ま れた人々の多くが、経典と詩文を拳び、科皐技術を軽視するようになったのは、嘗然の成行であったといわなければなら ない。もちろん準土に合格し、築達への道を約束された人々の中にも科皐技術の分野、ことに暦法に深い関心を持ち、自 らも研究した人々が皆無であったのではない。暦法の問題は、もちろん園立天文蓋の主管であったが、中園のばあいに @ は、他の{目隠の役人もこの問題に介入することが、しばしば行われていた。しかし園立天文蓋の主要な構成メンバーであ ⑪ る下級官僚は、専門職であって、栄達への道ははじめから閉ざされていた。彼らはきまったル lティン・ワ lクを義務と して行い、しかもそれさえも遁嘗にごまかすことにもなった。彼らのほとんどは、科奉の制度の恩恵を受けることはでき なかった。科事の制度は、政治的人聞の養成には役立ったが、科皐技術の護達のためには、かえってマイナスの作用とし て働いた。こうした中園の封建性と封際的なのは、江戸時代の世襲制度であったといえよう。日本のばあいには、幕末に なって身分制度は次第にくずれてくるが、それ以前には士農工商の匡別ははっきりしており、支配階級である土の身分も 固定していた。彼らがいかに才能があり、 また努力しても、 立身出世への遁はほとんど閉ざされていた。優秀な人材は、 すぐれた貼であると同時 ヨーロッパに封し僅かに聞かれた窓││長崎を通じて、新しい科準を吸牧し、彼らの不満を護散した。こうして江戸時代 裏と表があるように 、 中 園枇舎がすべて政治優先の原則に従ったことは、 に蘭皐が起り、 やがて明治維新へと進んで行った。 すべてのものに、 に、中園の進歩を妨げる障害となった。過去の歴史をふりかえると、政治カの弱まった時代に、むしろ多彩な皐術研究が 活濯に行われてきた事買が認められる。戟園時代に諸子百家の活躍があったこと、六朝末から晴にかけて、暦法が劃期的 ー - 7 な進歩を行ったこと、金元の交替の時代に、李朱醤闘争が起り、天元術の護明、さらに授時暦編纂の準備が行われたことな ζとがあった。例えば北宋の浪落がそうした事賓のよい例となるであろう。北宋時代は科間四千技 ど、いくつかの事賓が指摘されるのである。もちろん政治的動範は、しばしば皐間研究の新しい芽をつみ、萌え出ずるエ ネルギーを中絶してしまう 術の面で、古代の集大成が行われると同時に、新しい問題への意欲がみられ、高次なアカデミザクな研究が進められよう とした。しかし金の南下によって北宋が滅んでしまったあとには、華北のみにアカデミザクな俸統が残ったのに封し、南 宋が支配した筆中及びその以南の土地では、庶民を中心とした摩術が盛んとなった。こうした分離は元の時代にもつづい たが、華中が中園の経済を支配するようになるにつれ、華北のアカデミックな拳聞は、次第にその停統を失ってき旬。そ - 8一 れに代って、庶民を基盤とする皐術のみが盛んとなった。明代における皐術の衰微とは、すでに北宋の滅亡とともに始ま ったといえるのである。もちろんこうした庶民の皐術も、強力な政治の支配から菟れなかったことは、 いうまでもない。 、 ニー ダム博 士は、﹃中園の科拳と文明﹄という大著の中で、十五世紀までの科拳技術は、東と西とに大きな隔たりはな く むしろ多くの護見と瑳明によって、中園がまさっていたことを、しばしば強調している。十六世紀の初頭、ポルトガルは インド鰹営の後に中園に進出してきた。この時になって、 ヨl ロザパの科準ははじめて中園に先んじていることが、知ら れるようになった。多数の耶蘇曾土の入園とともに、 ヨ1 ロザパの科皐書が漢罪された。ことにヨーロッパの科摩に深い 信頼を寄せた徐光啓は、西洋天文閉与を基礎として改暦を行うことを提案した。彼は謹部右待郎から薗部尚書に準んだが、 ことができたのは、もとより彼が官僚として高い地位にあったことが原因しているが、しかし暦法の問題は中園天文皐の 本づく時憲暦の頒布によって、徐光啓の這圃は賓現された。徐光啓が改暦の準備としての﹃崇顧暦霊園﹄の編纂をはじめる 死と、つづいて起った明の滅亡によって、ついに明代では成功しなかった。しかし清朝の下で、順治二年から西洋新法に れ、まず西洋天文書の一大集成ともいうべき﹃崇踊暦書﹄の編纂が行われた。しかし徐光啓が計重した改暦は、徐光啓の 捜部はもともと儀式とか制度とかを管轄する官酷であり、暦法の問題にも大きな護言権を持ってレた。彼の提案は容れら 1 3 4 1 3 5 主一流であったこと、さらにしばしば徐光啓がいっているように、西洋天文皐からは一単に計算法や天文常数などを借りるだけ であって、そうした知識を大統暦の鋳型に鋸かしこむだけのことであった。大統暦は、明一代に行われた暦法であり、元の 授時暦をほぼそのままに踏襲したものであった。西洋天文皐をとり入れたといっても、中園天文壌のパターンはそのまま 持績することであった。従って、保守涯の反劃を抑えることも、徐光啓のカによって可能だったのである。しかしこの結果、 皐への展開は起らなかった。 明清交替の期聞を遁じ、ヨーロッパの天文皐がかなり停わったのにもかかわらず、新しい天文一 一度きまった天文撃のパターン 以上、中園の皐聞が政治の支配を強く受け、そのために天文準が持績的に研究されることになり、ゆるやかながらも、 そこに準歩があったこと、しかしその反面、本質的に大きな饗化のなかった官僚制度は、 を恒久化し、新しい研究への護展を阻止する役割を果たしたことを述べてきた。 中園における天文皐の護展とその限界 @ は、こうした中園批禽の組織と、組織を動かした政治思想によって、決定的なものとなり、そこには近代天文撃の勃興は ついにみられなかった。しかしこの中園社禽の持績性は 、一に中闘が置かれた地理的環境に決定的な原因があるといわな ければならない。三方は山と砂漠に、一方は海を境界とする中園には、外園からのあらゆる侵入を妨げるのにもっとも好 しかし北方民族は、中園より低い文明しか持ちあわさなかった。高い文明を持ったイ γドやイスラム、さらに 都合であった。もちろん北方民族の侵略は絶えず中闘を悩ましつづけ、元や清のように、北方民族が中園を支配したこと っこ。 t 4 . ι u 4 μ 4 d - 中d ヨl ロザパの文明は、併教の俸来を除けば、ごく僅かな影響しかもたらさなかった。天文皐についていえば、唐代にイン ド天文皐、元明にイスラム天文事が停わったが、こうした天文拳は中園のそれに比べて、それほどすぐれた 精度を期待す ることはできなかった。明清時代のヨ l ログパ天文撃は、主として十五、六世紀の成果に本づくものであり、中園の天文 拳よりまさっているとはいえ、これを俸えた耶蘇曾土は、決して天文拳の専門家でもなければ、 ましてや中園の天文皐を - 9一 四 根本から蟹革しようと努力したわけではなかった、彼らはキリスト教布数の一手段として、中園のそれよりも優位にあっ たヨ l ログパ天文皐を紹介したにすぎなかった。天文準のパターンを根本的に饗え、同時に中園吐舎を嬰草させるような 外部の力は、阿片戦争以後にはじまったのである。 中園に比べて、 はるかにめぐまれた地理的環境におかれたのは、 ヨーロッパのばあいであった。中圏全土よりせまい地 域の中に、言語を異にし停統のちがった多くの民族が園をつくり、それぞれにヨlロザパ文明の形成に参加したのである。 しかもヨーロッパ文明の形成は、ヨーロッパ人以外の力が加わった。このばあい中園の貢献は無視できなかった。イスラ ムを通じてギリシアをはじめ、 はるか遠 くから 中閣の文明が俸えられた。中園から侍わった火薬によ って戟争 の様式は一 獲し、騎士階級の浸落に代って民衆の擾頭をうながした。また中閣にはじまった製紙術と印刷術とは、これまで貴族や借 -1 0ー 侶に濁占されていた翠聞を、庚く民衆に開放することになった。こうして民衆は大きなエネルギーを持つようになり、ヨー ロッパの祉舎は中世から近代へと大きく嬰化して行った。彼らはアメリカを護見し、また喜墓峰をまわ って アジアへ進出 することに成功した。ここにも中園で護見された磁針が大きな役割を果たした。近代科皐は、こうしたヨ l ロヅバの饗草 によって、 はじめて生れることができた。しかもガリレオやケプラーを生んだイタリアとドイツが、戦争の被害を受けて 長い沈滞に陥いった時に、イギリスではニュlト γが活躍し、やがてまたフランスを中心とする大陸に、近代科事の舞蓋 は移った。近代科皐がヨーロッパで起ったのは、ヨーロッパ人が特にア ジア 人よりすぐれていたからではなかった。中園 と比べる時に、その地理的環境の優位は動かしがたい。ゲルマンの移動によってはじまった中世の暗黒時代のあいだ、 ーロッパの諸民族は長い苦悩を耐えしのんで来た。この期聞を通じ、諸民族はそれぞれ自らの惇統を形成し、それを中核 として多 くの濁 立園家がつくられた。 せまい地域の中ではげしい競争をつづけてきたヨーロッパの園々は、イスラムとの 接鯛を直接の契機として、単一のヨーロッパ文明、近代科皐の形成に準展して行った。過去における中園の不幸は、それが ほぼ軍一の漢民族によってつくられ、しかも強力な外衆文明の歴力を受けなかったことであったといわなければならない。 ヨ 1 3 6 1 3 7 と推定される。﹃中園の天文暦法﹄一一一一ページ参照。 を吟味することによって、例えば月食は、月が地球の影に掩わ ③唐代には日月食の計算法がよほど改良されたが、その計算法 註 で論ぜられている。なお中国天文撃の詳細については、筆者の 、 れる現象と理解し、しかもその時々の月の翼運動を考慮Lて 惰唐暦法史の研究﹄ハ一九 詳細な計算を行っている。筆者著 ﹃ 四四)一 O四ペー ジ参照。 ①董作賓﹃肢暦盛岡﹄(一九四九﹀をはじめ、同氏の多くの論文 近著﹃中園の天文暦法﹄︿卒凡枇、一九六九)を参. 照された 4 た。その結果、一つの王朝の下で数回の改暦が行われたこと ⑦耳日以後、暦法を王朝のシ ンボルとみる思想は現寅に衰退し u んじて、十九年法及び七十六年法が中園で知られていたとい ②新城新競 ﹃ 東洋天文庫 研究﹄ ハ一九二八)三0 ページには、 ギリシアのメトン(前四一二二﹀及びカリポス(前一一一一一一四﹀に先 う。四分暦はまた七十六年法とも呼ばれる。 の制度が慶止されるのは、清が滅亡する僅か六年前であった。 ①こうした専門職には、容易に人材が得られないため、しばし ば他の部局への縛出が禁止された。 も、決して珍らしくなくなった。 ③例えば康有潟やその弟子の梁瞥超など。しかし事質上、科事 ⑩宋沈括の﹃夢渓筆談﹄容八には、嘗時の天文事者の如何に業 ③分野銃に従い、木星の位置によって星占いを行うことは、先 秦の古典である ! ﹃左侍﹄及び﹃圏一語﹄に詳しい。 なかったばあい、もともと起るべき日食が、天子の善政によっ ③ギリシアで知られた食周期は、いわゆるサロス周期公==一一 る。筆者編﹃中国中世科事技術史の研究﹄ (一九六三 ν 一九ペ ージ参照。 子に報告した。翌朝、宮門が開かれた後、その観測が正しかっ 纏現象が愛見されると、宮廷内の天文昼者は卸刻その結果を天 務を怠ったかを述 べている。天文蓋は宮廷の内外に一つずつ置 a ④ 唐 代 の 資 料 に よると、天文皐者の務報がはずれ、日食が起ら て賓現しなかったとして、高官たちが天子に祝辞を述べてい か月)であって、三統暦のそれとはちがう。漢代になって度数 せを行い、時には観測事賓を作りあげた。 たかどうかが、宮廷内での天文観測によってチェックされるこ とにな 、 っていた。ところが二つの天文蔓では、あらかじめ打合 された度数は赤道と北極を規準とした。しかも責道座標も現行 ージ参照。中国でも、宋元明を経て筆中を中心とする都市の繁 た。筆者編﹃宋一冗時代の科事技術史﹄ハ一九六七)、八一│六ペ ⑪こうした事問の分離の結果、金元の侵略によって、庶民を中 心とした皐問、例えば民間敏撃の如きが愛逮する4うになっ かれ、それぞれ濁立の観測を行うことになっていた。異常な天 て一年の回数と全天の度数と同じ数値であるとした。こうした による天僅位置の表示が行われたが、全天を三六O度に分つパ ピロンの方法とちがい、太陽が一日に一度を動くと考え、従っ のものとちがい、いわゆる極黄道座標であったことから、ギリ 相違はあるが、漢代にはじめて濠天儀が使用され、しかも測定 シア天文撃の 影響が前一世紀のころ中国に及んだのではないか -11ー 栄があったが、ヨーロッパ中世末期・とはちがい、都市に封しで dbh 句 RSRq¥符之宮町内・ 52(邦謬﹃科 も政治の支配は強く、庶民のエネルギーは十分に高まることが できなかった。 ⑬ 一 l Fム博士は、同 事の科撃﹄、法政大事一九六九年)の中に、﹃東と西におけ る科撃﹄なる論文を寄稿し、その中で印g 関5 停滞)と 口 3( いう言葉 は全 く中間に適用できないとし、これに代って、中閣 d o g s o己目己円であったとしている。 の文明は } ものとしてとらえられている。 だから農村勢働者を基盤と れは単に有効性だけの問題ではな く、政治路線につながる には、毎披のように漢方醤闘争の問題をとりあげている。そ 有効性とをさかんにとりあげている。最近の人民中園など きわめて重要な役割を果たしており、政府もその重要性と では、漢方留皐はそのままに残っているというより、現在 を受けることができなくなったからである。 ところが中園 けられた。西洋醤撃を修めたものでなければ醤師の兎許献 日本では明治初年に侍統醤皐││漢方署皐の問題は片づ きた。もちろん都市周迭の農村には、 いくらか西洋眠園祭が 植民ブルジョアに奉仕する醤皐とみられる経過をたどって くる方針がとられた。こうして中園における西洋監察は、 ア屠であった。曹師養成においては、少数のエリートをつ これらの病院は都市に集中し、治療を求めるのはブル ジ ョ だ宣数師醤師による病院や中園人留師の養成 が行われた。 西洋菌皐がはい ったのは天津倹約以降のことで、長いあい ある。それと同時に、過去の歴史にも原因がある。中園に したシェーマの形成には、 かなりナショナリズムの背景が する現政権が、漢方醤間四千を重視するのは首然である。こう ものとして考えられる。裏切者の代表となった劉少奇は、 はいった。 しかし保守的な農村は、新しい治療法になじも - 1 2ー ︹附論︺惇統醤撃の問題 西洋瞳皐を傘重し漢方醤撃を軽親したとして、 はげしく非 しかし圏内の混飽によって醤皐数育は十分に行われず、日 中華民国の時代は、西洋暫皐が傘重された時代である。 うとしなかった。 仕するもの、それに封し漢方瞥摩は農村務働者に奉仕する シェーマ的にいえば、西洋町四皐は都市のブルジョアに奉 難されている。 1 3 8
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