透けた明るさ O第1回P ① ❷ 名作住宅の構造デザイン 小野暁彦 『新建築』誌の合本を引っ張り出してきてページ 図書館の書庫から古い をめくる。 実現が必要だった。 海外の情報、と言ったが、主にはアメリカからの情報 とりわけ 1950 年代に夢中になる。とても新しい。新鮮でわくわくした気持 だっただろう。 「五〇年代日本は戦勝国アメリカで最高期 ちで没頭してしまう。白黒のシャープな写真がかえって古さを感じさせない。 を迎えたヨーロッパ・モダニズム、それは合理主義、機 良く見知った名作住宅も今月発表されたかのように錯覚する。過去をライヴ 能主義と同義だった、を受容し、若い世代の建築家た で見ているような感覚なのだ。 ちの教典になっていた」★ 2と篠原一男が振り返り、1950 何がこのように私を惹きつけてやまないのだろう? そして、(個人や社会の) どのような精神が、それらの住宅をつくらせたのだろうか ? 年代を論じた文章の中で三宅理一が、 「この時代がアメ リカ的消費文化に代表されるというのは当然の帰結で 現代において戦後日本の小住宅の魅力に憧れる人々は少なくないであ あろう。第二次大戦前に、自動車産業、機械工業など ろうが、たぶんその魅力の大きな要因のひとつは 「構造」 なのだろうと思っ の部門で大量生産体制を確立し、大戦に勝利して世界 ている。いわゆる小住宅に構造設計が導入されたのはこの時期であり、そ の覇権を獲得した国。その雰囲気がそこに滲み出てくる こで得た自由度によって清新な空間を構想することが可能になったと考え ★3 と論じる輝けるアメリカ。 のはしごく当たり前だ」 『新建築』誌が清家研を取り上げた 1954 年は、第五 られるからだ。 1954 年の『新建築』11 月号は、東京工業大学清家清研究室を、メン 福竜丸の乗組員がビキニ環礁におけるアメリカの水爆 バーの作品と林昌二の解説により詳しく紹介しているが、林はその中で、 実験で被爆し、それをきっかけに日本全国で 3,200 万人 「経済性に裏付けされた構造的合理性を、戦後単純に平面計画の方法 もの署名を集める反核運動が急激に高まった年である。 論として出発していた住居計画の中に持ち込ん」 だことを、清家の 「成果」 と しかし同時にそのような状況は、アメリカによる 「原子力 して紹介している。 の平和利用」の売り込み攻勢に拍車をかけ、日本政府 ❶ 清家清「森博士の家」新建築 1951 年 9 月号 282 頁 ❷ 広瀬鎌二「 SH-1 鉄骨構造に依る小住宅」新建築 1953 年 11 月号 47 頁 ❸ Charles and Ray Eames「 CSH#8, Eames House 1949 」 ELIZABETH A.T.SMITH『 CASE STUDY HOUSES 』TASCHEN、2006 年、25 頁 ❸ 清家本人は別のところで、 「木造住宅を安く建てるのは柱を少なくするこ が原子力導入に資金を注ぎ始めた年ともなった。不思 とである」 と語る。 「柱を整理すると住宅のような小さな建物でも構造計画を 議なのは、原爆投下によって核の破滅的恐ろしさを目の (中略) どんな小さな しっかりしないと力学的に危険になるのは当然である。 当たりにしてからまだ 9 年しか経っていないのに、手のひ 住宅でも、小さければ小さい程、構造計画をしっ らを返したようなアメリカの戦略に、日本全体が例外なく 1950 年代の日本における住宅への構造計画の導入に ものをいかに凝集させ配置しいかに組み立てて人の居場所をつくるか。 「森博 かりやると面白い住宅になる」 。もちろん 原子力をありがたく受け入れる心象になっていたというこ 着目し、いくつかの事例を取り上げようとしている。しかし 所詮建築の営為はそのことに尽きる。それゆえ、 「いかに」 の見据える先と、 士の家」 や 「斎藤助教授の家」 への構造計画が 「安 とだ。 「原子力平和利用博覧会」 を始めメディアによる心 「豊穣な実験の時代」 の旗手の 1 人、広瀬鎌二は後年、 「いかに」 の手許は重要だ。事物に即したできるだけ具体的な記述や分析 さ」のためだけではないことはその鮮烈な空間を 理操作は完全に機能した。そこには、絶大な技術力を 「20 世紀は思いつきと実験の世紀であって、これから によってそれらを照射し、時代との格闘(や協働)の痕跡を見いだし、1950 年 見れば明らかだろう。 背景としたアメリカの圧倒的なプレゼンテーションがあっ の世紀は、その反省と検証のときであり、千年の歴史的 代の、背筋の伸びた、高揚した設計者の実験精神のあり方を探ること。そ たのだろう。日本はアメリカに魅了されていた。 経験を評価して学び、その優れた点を素直に認めるべき の興奮をトレースすること。そのことはいくばくかの意味を今持ちえるだろう。 で、いたずらに新奇を追う時代は終ったのである」 と 私が意匠面・歴史面などについてまとめ、また可能な限り構造模型など ★1 おの・あきひこ| 建 築 家。 1965 年岡山生まれ。 1989 年京都大学工学部 建築学科卒業。1989 年 篠原一男アトリエ。1994 年芦原太郎+丹羽英喜 設計共同体。1995 年 NY にて荒川修作+マドリン・ ギ ンズ と 協 働 (-99 年) 。 2000 年小野暁彦建築設 計事務所設立。2005 年 京都造形芸術大学 環境 デザイン学科 准教授。 著書= 『ヴィヴィッド・テクノ ロジー 建築を触発する構 造デザイン』 (編著、2007 年、学芸出版社) 022 では 「柱の整理」 、住宅設計への構造計画の導 入は、当時何に向けてなされたのだろうか。何が そうさせたのだろうか ? 少なくともこのようには言えるかもしれない。つま り、当時は 「新しい生活」 への人々の希望と高揚を ★5 1950 年代を見直し 3.11 以後の 建築を考える 背景とし、建築家たちは海外の情報に頼りながら、 当時のアメリカの建築は今でも 眩しい。ブロイヤーやミース。ノ 記している。 2011 年 3 月11日を経た現在、この言葉はさらに重み イトラやシンドラー。イームズ。 を増していると言えるだろう。とはいえ、原発問題に集約 ケース・スタディ・ハウス。 してさまざまな膿と闇と限界が露呈した今、日本は大き 因襲的様式や制度から逃れるべく 「機能的」 で 「合 ファンズワース邸(1950 年)が な変換をしなくてはいけない。いくつもの街が消滅した 理的」 な住宅を提示し、庶民・メーカー・工務店な 放つ輝きについて篠原は 「アメ 今、ゼロからやり直さなくてはいけない。そこに必要なの どを啓蒙するべく使命に燃えていた、と。その際、 リカの現代技術を背景にした彼の仕事は私たちにとっ は果敢な、改革への、実験への精神ではないだろうか。 明るく可変性がある(非限定的=自由な)オープンプラ てすでに追いつくことのできない理想であったともいえよ SH シリーズを否定し日本の「歴史構法」に大きく転換し ンへの志向がベースになっており、そこではまず何 う」 と言っていた。 た広瀬を貫くのは、やはり変わらず強靭な実験精神なの より柱が少なく、余計な壁もない 「抜けた」空間の 名作住宅の構造デザイン ★4 この連載では、三宅が 「豊穣な実験の時代」 と呼ぶ 2012年1月号 no.1193 だろうから。 2012年1月号 no.1193 を作成した上で、設計者的立場で論点を整理し、幾人かの構造設計家に 考察を依頼していきたいと考えている。 ★ 1 清家清『建築』1962 年 11 月号( 『住宅建築』2008 年 1 月号再録、p.71 ) ★ 2 篠原一男「形と言葉の舞台を横切って」 『アフォリズム・篠原一男の空間言説』 (鹿島出版会 2004 年)p.249 ★ 3 三宅理一「たおやかなる実験の時代」 『建築知識』1989 年 1 月号、p.88-89 ★ 4 篠原一男『住宅建築』 (紀伊国屋新書 1964 年、復刻版紀伊国屋書店 1994 年)p.127 ★ 5 広瀬鎌二「 SHシリーズから現在まで」2000 年 10 月21日アーキフォーラム大阪配布資料 ■参考文献 田中利幸 ピーター・カズニック 『原発とヒロシマ「原子力平和利用」の真相』 (岩波書店 2011 年) 名作住宅の構造デザイン 023
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