勇者は地を駆け、竜は空を舞う - タテ書き小説ネット

勇者は地を駆け、竜は空を舞う
嶋本圭太郎
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
勇者は地を駆け、竜は空を舞う
︻Nコード︼
N3268S
︻作者名︼
嶋本圭太郎
︻あらすじ︼
三千年もの間連綿と紡がれてきた人類の平和が、魔王の出現によ
って乱された。
サンクリーク王国の騎士フェイ・トスカは、さらわれた王女を救出
し、救国の勇者として魔王に戦いを挑むが・・・。
たとえ一つの戦いが望まない結果になったとしても、世界にはバッ
ドエンドもゲームオーバーもありえない。誰かが命を落としたとし
ても、別の誰かはまだ、生きている。新しい生命が、どこかで生ま
1
れているのだ。
人類が敗れ、魔族が勝利したこの世界でも、時の流れが止まること
はない。
2
勇者の誕生
王国暦三〇〇二年 七ノ月
一
薄暗い石造りの部屋で、互いに武器を構えて対峙する二つの影が
あった。
壁にくくられたたいまつの炎を受けた影の一つは小さく、もう一
つは巨大だった。
小さな影は人だったが、巨大な影は魔族である。人とは違う異世
界に暮らすもの。封印されていた扉をこじ開け、平和な人の世を荒
らしにやってきた怪物たち。
光の当たりかたで影が伸びているわけではなく、その魔族は実際
に巨大だった。
全長はおよそ八ログ︵約五・六メートル、一ログは約〇・七メー
トル︶。身体は全身が毛に覆われていることをのぞけば人の体格を
たてがみ
そのまま巨大にしたように見えるが、顔は馬のようであった。頭頂
部に二本の角が生え、長い鬣が肩を覆っていた。
強大な魔族の軍勢において第一将軍をつとめる男、その名もイェ
ンゲである。
粗末な腰布のみを身につけ、その手には巨木をそのまま引き抜い
たかのような、太い棍棒が握られていた。ただの一撃たたきつけれ
ば、人ごときはあっと言う間にミンチになってしまうに違いない。
だが今、イェンゲは肩で息をし、視線も定まっていないようだっ
た。よく見れば、その身体には新しい傷口が幾筋もはしり、鮮血が
なお流れ出ていた。
対峙する人の方はといえば、抜き身の剣を正眼に構え、目つきは
鋭く、油断なく相手を捉えていた。息の乱れ一つなく、身体には目
3
立った傷もない。明らかにこちらの方が優勢だった。
白銀に輝く壮麗な鎧かぶとを身につけ、左の小手には小振りの盾
が取り付けてあった。剣も含めていずれもがかつては世界に散らば
っていた伝説の装備である。
男の名前はフェイ・トスカといった。
大陸でもっとも大きな国家サンクリーク王国の騎士にして、いま
や世界を救う伝説の勇者と信じられている若者である。
彼の目的は今現在の相手であるイェンゲなどではなく、その先に
いるであろう魔王、グローングそのものであった。
イェンゲが、こんなはずではないと言わんばかりに首を振った。
焦点を失っていた目が一瞬、正しく相手をとらえ、それと同時にイ
ェンゲが雄叫びをあげながら棍棒を振りかぶった。
魂ごとふるわせるような雄叫びとともに、人の身体よりよほど巨
大な棍棒が振りおろされてくる。並の人間なら身をすくませるばか
りの光景だが、歴戦の勇者であるフェイが、破れかぶれの攻撃にむ
ざむざ当たる道理はなかった。
落ち着いて軌道を読み、最小限の動作でかわす。棍棒は目当ての
目標を肉塊にすることはかなわずに、代わりにその場の石床を盛大
に砕く。石の破片があたりに飛び散ったが、そのときにはフェイは
すでにイェンゲの懐に飛び込んでいた。
巨大なイェンゲは身体を伸ばして立っている限り、フェイの間合
いでは下半身にしか攻撃することができない。だが今ならば、イェ
ンゲは攻撃のために姿勢を低くしており、上半身を攻撃することが
可能である。
フェイは剣を下段に構えてイェンゲの身体の直下に入り、右わき
腹から左の胸にかけて、伸び上がるようにして斬り裂いた。
一瞬だけ、両者の目が合った。
フェイは万が一の追撃を避けて素早く飛び退ったが、イェンゲに
もはやそのような力は残されていなかった。新たな傷口から鮮血を
吹き出させながらひざを折り、最後は仰向けになって倒れ、息絶え
4
た。
勇者フェイ・トスカは、剣を振って刀身についた血を払うと、鞘
に収めた。それから動かなくなったイェンゲに近づいた。
死体から漂ってくる悪臭に耐えながら腰布のあたりをしばらく探
ると、やがて自分の拳ほどの大きさの宝珠を見つけ出した。
﹁これが、結界をとく鍵か﹂
フェイは、青く澄んだ光をたたえる宝珠をしばらく眺めた後、そ
れを腰に下げた道具袋の中に慎重にしまった。
﹁これで、残すは魔王のみ﹂
振り向くと、決意のこもった目で進む先を見据えた。
﹁王よ姫よ、今しばらくお待ちください。必ずや魔王の首級を持ち
帰り、この世に平和をもたらしてご覧に入れましょうぞ・・・!﹂
改めてそう誓うと、勇ましく足音を響かせて進み始めた。
サンクリーク王城内に設置された小さな礼拝堂で、少女がひとり
ひざまずき、静かに祈りを捧げていた。サンクリーク王女、シフォ
ニアである。
幼い頃から美しい顔立ちと愛らしい振る舞いで、王国の至宝と呼
ばれて国民から愛されてきた。十八歳となった今は上品な色香をま
とい、ひたすらに愛らしいばかりだった以前とはまた違う、大人の
女性としての美しさを見せ始めていた。
太く凛々しい眉をほんの少ししかめるようにして、必死に祈りを
捧げている。
﹁フェイ様・・・﹂
ふと、言葉がこぼれ落ちた。
無意識に発せられた言葉が、静かに張りつめていた空気をふるわ
せる。自ら発した言葉に肩をたたかれたかのように感じて、シフォ
ニアは目を開き、顔を上げた。
ゆっくりと首を巡らせて辺りを見るが、彼女のほかには誰もいな
5
い。やがて止められた視線の先にはステンドグラス越しのやわらか
な陽光を浴びる一輪の花があった。
清楚さを感じさせる白い陶磁器の花瓶に入れられた花は、黄色い
花弁をこころもちうつむかせ、少し元気がないように見えた。
シフォニアはこの花を贈ってくれた男の姿を思い浮かべた。今な
お死地で戦い続けているであろう男の、そのたくましくも暖かい二
の腕まで脳裏に浮かんでしまい、我知らず顔を赤らめた。
軽く頭を振って熱を追い払うと、再び両手を組み合わせ、目を閉
じて祈りの体勢に入った。しかしその前にもう一度だけ、その男の
名を呼んでみた。
﹁フェイ様・・・﹂
その言葉は彼女の唇と耳を、甘くなで上げた。
長きに渡って平和を謳歌していたこの世界に、魔族の侵攻が始ま
ったのは今から三年ほど前、王国暦二九九九年のことである。
それまで魔族や魔物といえば、街道をはずれたり山に入ったとこ
ろにはいくらか存在してはいた。とはいえ知能も力もさほど強くな
く、たびたび辺境の町や村を荒らすようなことはあったものの、人
々の治世を脅かすような存在ではなかった。むしろそうしたものの
対処に戦力を使う分、人同士の大規模な争いが起こりづらく、見よ
うによっては平和にひと役買っているとさえいえた。
しかし魔王の出現によって、その状況は一変した。
魔王はこの世界に現れるなり、世界各地へと宣戦布告を行った。
さらにその力を見せ付けるために、大陸の盟主と呼べる存在である
サンクリーク王国を急襲、シフォニア王女を誘拐したのだった。
王国暦成立三千年を控え、祝賀ムードにおぼれていた人々はこの
一件に色めき立ち、王女を救出せんと当事者のサンクリーク王国の
みならず、各国から王女救出のための援軍・援助の申し出があった。
とはいえ人質をとられている以上、あまり大々的に軍を動かすこ
ともできない。そこで時のサンクリーク王ノヴァ八世はふれを出し
6
た。すなわち、
卑劣なる魔王により連れ去られし王女シフォニアを
救い出さんとする勇者を募る。
見事王女を無事救い出せし者にはリーク金貨千枚と
﹁王国の勇者﹂の称号を与え、
王女との婚姻を認めるものとする。
というものであった。
さて、このふれを見て数多の戦士が我こそはと立ち上がった、と
いうわけではない。ノヴァ八世は王女を溺愛しており、いくら腕が
立とうがどこの馬の骨とも知れない男に大切な娘を渡す気は毛頭な
かった。だからこのふれも、街の四辻に立てられて民衆に広く伝え
られたということはなく、実際には友好国へ外交ルートを使って伝
えられたのだった。
各国からしてみれば、非常に大きな影響力を持っているサンクリ
ーク王国との婚姻はなんとも魅力的であったから、こちらも得体の
知れない武辺者に話を持っていくはずもない。
結局、集まったのはほとんどが騎士階級のものたちで、中には王
族本人の姿もいくらかあった。騎士が王女を救った場合は、金貨と
称号はともかく、婚姻の権利は自分が忠誠を誓っている王族へゆず
る算段である。
一方、そういった外交的損得が絡まない当のサンクリーク王国の
騎士たちにとっては、これはまさに千載一遇のチャンスであった。
ノヴァ八世は四人の男児をすでにもうけていたから、すぐに自分や
子供が王権を手にするというわけではないにしろ、一介の騎士から
王族になるチャンスなど、一生に一度あるかどうかも怪しいものな
7
のだ。
もちろん、そのような卑しい勘定を抜きにしても、王国の騎士と
して正しい心を持っているものならば、誰しもが王女の救出に立ち
たいと考えるのは自然なことと言える。
フェイ・トスカも、そのように考えたサンクリーク王国の騎士の
一人であった。
トスカ家は代々騎士の家系ではあったが、過去に目立った勲功を
あげたものはほとんどおらず、貴族としては末端の地位にいるとい
ってよかった。父親は身体が弱く、近隣の魔物討伐にすら一度も出
ることなく齢四〇にしてすでに隠遁しており、フェイは一九歳の若
さで家督を継いだばかりだった。
一八を過ぎれば成人とみなされるとはいえ、公の場に出るにはい
かにも若すぎるフェイは、父親がまったく武勲を残せなかったこと
もあって、当初は露骨な中傷を受けることも多かった。
フェイは父親同様身体が小さく、その身長は二ログ半︵約一・七
五メートル︶にも届かない。だが、幸いにして父親の虚弱さを受け
継ぐことはなく、むしろその生気を奪ってしまったと揶揄されるほ
どに身体が強かった。加えて剣才もあり、家督を継ぐ以前から、同
年代の男に負けたことは一度もなかったという。
王族に近い権力を持つような高位貴族たちが名乗りを上げる中で、
フェイのような力のない騎士は中傷され、あるいは圧力を受けて名
乗りを取り下げるものも多かった。だがフェイはそういったことは
ものともせずに選抜試験に参加、見事勝ち抜いたのである。
フェイの他に任命されたのは、すでに魔物討伐などで多くの武勲
を挙げ、整った顔立ちで一般市民の人気も絶大なリンドール公をは
じめ、いずれも王国のみならず、諸外国へもその名が届いているも
のたちばかり。
これに他国で選抜されたものたちもあわせて総勢二〇名が、王女
救出のために旅立ったのであった。
8
こうして旅立った二〇名は、大半が騎士であったから剣術に長け
ているものが多かったが、中には魔法を得意とするものもいた。い
ずれにしても戦いにおける能力は非常に高いものばかりであったこ
とは間違いない。
しかしながら、なにしろ王女を救出して褒美を得られるのはひと
りだけだったから、二〇名は協力するということはなく、むしろラ
イバルたちを出し抜こうとするものも多かった。彼らのうちの何名
かは、同士討ちによってリタイアする羽目になってしまった。
さらには魔王も当然彼らの動きを感知しており、幾度となく刺客
を送ってよこした。当然ながら刺客はその辺にいる雑魚とは違い、
人間を凌駕する身体能力を持っていたり、凶悪な魔法でもって幻惑
したりと彼らを翻弄した。そうしてつわものはひとり、またひとり
と倒れていき、王女の居場所が判明するころには、戦い続けていた
のはフェイ・トスカただひとりという有様だった。。
こうなったのはもちろんフェイ・トスカが屈強であったからだが、
そればかりということはない。多くの幸運も彼に味方した。
まず彼が無名であり、外見からもあまり強そうには見えなかった
こと。魔族側も無尽蔵に人材があるわけではないらしく、刺客はす
でに勇名を馳せているものから優先的に送り込まれた。後回しにさ
れたことで、フェイは段階的に実戦を重ね、能力を磨くことができ
た。
次に彼が単独行動をしていたこと。二〇名はほぼ全員が貴族ある
いは王族であった。彼らは基本的に、一人で遠出をするということ
はない。軍勢を率いることこそしなかったものの、小姓を多数引き
連れ、中には専属の料理人まで同行させていたものもいたという。
大人数になればなるほど、その動きを感知され、狙われやすくなる。
フェイがひとりで動いていたのは彼の家柄が大して良くないという
ことの表れでもあったが、行動を敵に察知されにくく、またいざと
なれば逃げることも容易であるというプラス要素も大きかった。
そして、フェイには魔法の素養があったこと。王国にいたころは
9
必要性がなく、また学ぶ機会もなかったが、旅の中で偶然学ぶ機会
を得ることができ、強力な魔法を覚え、また敵の魔法に抗うすべも
覚えることができた。
こうした幸運にも恵まれ、旅の中で大きく成長したフェイ・トス
カは、王女が幽閉されていた洞窟へ単身乗り込むと、そこを護って
いた強力な竜をも倒して、見事王女を救出したのだった。
王女を伴い、サンクリークの首都アルメニーへと帰還したフェイ・
トスカは、国民に熱狂的に迎え入れられた。それは王城にて待つノ
ヴァ八世にしても同じ気持ちであったが、貴族たちの中にはこの新
たなる勇者の誕生を、そこまで純粋には受け入れられないものたち
もいた。
もちろんそれは、事前に王が出していたふれのせいである。それ
まで騎士としても貴族としても、ほとんど発言力を持っていなかっ
たトスカ家が、今回の武勲によって宣言通り王女と婚姻をなせば、
一気に王族としての権力を持つことになる。平和な御代が続く間、
地道な努力の積み重ねで今の地位を築いたと考えている高位貴族た
ちは、ただ一つの武勲で自らが足蹴にされることが我慢ならなかっ
た。
彼らはある可能性に・・・すなわち王女が勇者との婚姻を拒む可
能性に少なからず期待していた。王女自身が拒めば、王女に甘い王
はふれを撤回するだろうと考えたのだ。
だがそんな考えも、フェイ・トスカとともに帰還した王女を見た
途端打ち砕かれた。
三年近くにわたって幽閉生活を強いられていた王女はいくらかや
つれているように見えたが、その美しさは少しも損なわれることは
なく、むしろ年齢を重ねて大人らしい身体つきになり、出迎えたも
のたちはみな感嘆のため息をついた。
しかし王女はそんな貴族たちには目もくれなかった。王女の視線
10
は常にフェイ・トスカを捉えており、その表情は誰が見ても、明ら
かに恋する乙女のそれであったのだ。
王女はどの貴族たちにとっても、年輩のものならば愛しい娘のよ
うに、未婚のものならばあこがれの君として、とにかく特別な存在
であった。そんな彼女が初めて見せた女の表情に、多くのものが嫉
妬したに違いなかった。ひょっとしたらトスカ家が婚姻によって政
治的利益を得ることよりも、単純にそのことが貴族たちの反対を呼
んだのかもしれない。
王は娘とフェイ・トスカの帰還を心から喜び、すぐにも勇者の称
号の授与式を執り行い、その場で二人の婚約を発表するつもりだっ
た。しかし、貴族たちはこぞって反対した。
もちろん、あんな下等貴族を取り立てるなんて、と正直に言った
ところで王が取り合うはずもない。そこで持ち出したのが魔王の存
在である。
王女は無事救出されたとはいえ、いまだ魔王は健在である。これ
を廃さずして真の平和は訪れない。勇者とは本来魔王を倒したもの
にこそ与えられる称号で、フェイ・トスカもまた、この試練をくぐ
り抜けるべきであろう││。
これは理不尽な要求のようで、実はしっかりとした根拠があった。
この世界に魔王が出現したのは今回が初めてのことではなく、過去
にも数回あったことで、そのたびにサンクリーク王国より勇者が現
れて、魔王を退治、あるいは封印しているのである。公式の王国史
にも記載があることだった。
つまり、先達にならえば貴族たちの主張こそ正当で、ルールを破
ろうとしていたのは王の方であった。ただし、過去に魔王が現れた
のは王国史では二千年以上前のことで詳細は伝わっておらず、内容
については民間の歌物語と同等の信憑性しかなかった。
王は文字のかすれた古文書の伝承にとらわれることの危険性を説
いて抵抗したが、この件に関しては国民も貴族たちを支持した。
ただし、貴族と国民の思惑は全く正反対である。フェイ・トスカ
11
と王女の婚姻に反対する貴族たちは、より強大な存在である魔王と
戦えば、フェイ・トスカ自身もただではすまないだろうと考えてい
た。勇者と魔王の伝承を持ち出したのはあくまでも口実で、実際に
は勇者が魔王を倒すことなど望んでいなかったのである。魔王はフ
ェイ・トスカが倒れた後で、全軍を持って対処すればよいと思って
いたのだった︵相打ちになればその手間も省けてなおよいとさえ考
えていただろう︶。
対して国民は、この伝承が再現されることを強く望んでいた。フ
ェイ・トスカはすでに救国の英雄として扱われており、そんな彼が
魔王に敗れるはずはないと信じていたのである。
結局王は最後には折れて、フェイ・トスカに魔王討伐を命ずるこ
とになった。
フェイはこの命令を喜んで受けた。彼自身が、自分の地位では王
女とはつり合わないと考えており、周りの貴族の声を抑えるために
もさらなる武勲を欲していた。
フェイは休息もそこそこに、再び一人で旅立った。城に戻ってか
らというもの一度も直接会うことを許されなかった王女はせめて見
送りにたつことを望んだが、それすら許されずに自室の窓から王城
の正門を眺めていることしかできなかった。
フェイ自身も王女にせめて一目まみえたい、と思わなくはなかっ
たが、実際に会ってしまうと決意が揺らぐような気がしたので願い
出なかった。しかし王女が自分を心配して悲しんでいるかもしれな
い、と考えたので、一輪の花を王女に贈った。
それは野山のどこにでも生えているような何の変哲もない黄色の
花で、貴族間の贈り物としてはおよそ不似合いなものであったが、
花を受け取った王女は涙を流しながらそっとその胸に抱いたという。
花には一言だけメッセージが添えられていた。
﹁この花が枯れるまでにはあなたの元へ戻ります﹂と。
12
勇者の戦い
二
フェイ・トスカは、自身の身長の五倍はあると思われる巨大な扉
の前に立っていた。この先には、魔王が待ち受けているはずだ。
だが、扉は魔法の結界で固く守護されており、このままではフェ
イには触れることもできない。
フェイは一度扉の脇へ行き、獅子と犬を掛け合わせたような石像
の、そのくぼんだ左目の部分に、先ほどイェンゲを倒して手に入れ
た青い宝珠をはめ込んだ。右目にも同じように敵を倒して手に入れ
た赤い宝珠がはめ込んであり、二つの宝珠の力で扉の結界が消え、
解錠される仕組みになっていた。
フェイは再び、扉に向き直った。
巨大な扉にふさわしい大きな取っ手はフェイの頭の遙か上に取り
付けられており、フェイはどうやって開けたものかとしばらく悩ん
だが、近づいてみるとフェイの手が届くところにも小さな取っ手が
取り付けられていた。魔族の大きさは様々であるため、彼らなりに
工夫した結果ではあるが、フェイには決戦前の緊張もあってそこま
で考える余裕はなかった。ひとつ大きく息をつくと、意を決して取
っ手に手をかけ、力一杯引いた。
きしむ音をあたりに響かせながら扉が開いていく。ある程度開く
と、あとはフェイが手を添えなくても勝手に開いていき、やがて扉
は全開になった。
扉の中は、これまでにもまして広い空間になっていた。扉と同様、
室内の高さと奥行きも一般的な広間の五倍はあるように思われた。
また、これまで進んできた魔王城内は窓が少なく、全体的に薄暗
く感じられたが、この広間は一転して大きな窓が壁に整然と取り付
けられており、屋外にいるかのような明るさを感じた。たいまつは
13
必要なかった。
フェイにしてみれば、自分の知っているもっとも大きな広間はサ
ンクリーク王城で公式行事が行われる謁見の間であったが、広さで
いえばここは比べものにならない。
ただし、人間の城のような凝った内装はなかった。床にはカーペ
ットの一枚もなく、石造りの白い床面がむき出しになっていた。高
い天井を支えている柱にも、彫刻の一つも施されていなかった。
慎重にあたりをうかがいながらフェイが室内を進むと、やがて先
ほど開いた扉がひとりでに閉まった。だがフェイはそれには反応し
なかった。正面に、彼が目指してきた目標があるのを見つけたから
だ。
広間の一番奥に設置された玉座に、魔王がどっかりと腰を下ろし
ていた。
広大だが殺風景な広間の中で、唯一の調度品と言っていい玉座に
腰掛けている魔王は、扉の巨大さからフェイが想像していたほどに
は大きくなかった。先ほど倒したイェンゲよりは小さい。それでも
フェイの身長よりはよほど大きく、およそ五ログ︵約三・五メート
ル︶ほどはありそうだった。
魔王は二本の腕と二本の足があり、体型だけを見ればどうしよう
もなく太った人間のように見えなくもなかった。しかしその肌の色
はは虫類のような灰色がかった緑色をしていた。
さらにフェイが近づいて魔王の細部が見えるようになると、それ
は人間とは似ても似つかない、おどろおどろしい生き物であること
がはっきりした。
なにしろ頭には鬼の角が、背中には悪魔の羽が生えている。その
うえ目玉は四つ。口は耳まで裂け、その隙間から蛇のように細長い
舌が不気味にうごめいているのが見えるのだ。
さらに身体は右半分が鱗に覆われ、左半分は獣毛に覆われていた。
フェイの胴体ほどの太さがある腕のうち、右腕の先は全体が硬化し
た鉤爪のようになっており、引っかかれれば鋼鉄の鎧でさえあっけ
14
なく引き裂かれるのではないかと感じた。
魔王は泰然として玉座に深く腰掛けたまま、近づいてくるフェイ
を見据えていたが、フェイが剣を抜いて飛びかかれば魔王に届くと
いう間合いの一歩手前で、ゆっくりと身を起こした。フェイは殺気
を感じたわけではなかったが、用心して歩みを止めた。
﹁よくぞここまで来たな、勇者よ・・・﹂
魔王の声は低く、重く響いた。並の胆力の持ち主ではその声を聞
いただけで戦意を喪失しかねない迫力があった。だがもちろん、フ
ェイはその程度では動揺しない。
﹁魔王グローング﹂
フェイは魔王の名を、精一杯の憎しみを込めて呼んだ。王女を誘
拐し、その可憐な身体に苦痛と恐怖を刻んだ。三千年の平和を謳歌
していた民をも恐怖させ、その平和を危うくした。
フェイの怒りはこれ以上ないほど真っ当で、純然なものであった。
彼は心の底から騎士であり、また勇者であった。
﹁貴様を護るものはもういない。主だった配下はすべて倒し、貴様
の領土は、もはやこの魔王城のこの広間のみ!さあ、武器を取れ魔
王よ。貴様も一国一城の主ならば、最後は潔く戦って散れ!﹂
フェイは高らかに口上を述べると、腰の長剣を抜きはなった。す
らりと伸びた両刃の刀身が、窓から射す光を受けて輝いた。
﹁まぁ、そう急くな﹂魔王はそれでも泰然とした態度を崩さず、口
の端をつり上げて││笑ったのかもしれない││そう言った。
﹁せっかく長旅の末にここまで辿り着いたのだから、少し話をしよ
うではないか。もっともお前が片端から部下を殺してしまったから、
茶を運ぶものすらおらんがな﹂
﹁貴様と話すことなどない﹂魔王の軽口にも、フェイは顔色一つ変
えない。
﹁ふん、まぁそう言うな、勇者よ・・・。わしは感心しておるのだ。
わしの部下はお前に大勢殺され、さらった王女は奪い返された。た
だ一人の人間にここまでできるとは正直思わなんだ。この城内でお
15
前に殺されてひっくり返っているわしの元部下なんぞより、余程優
秀というものだ﹂
フェイの眉がぴくりと動いたのは、魔王に評価されていることに
驚いたのではなく、魔王が自身の配下をこけにするような言い方を
したことに怒りを感じたからだった。魔王はそのことに気づいてい
るのかいないのか、わずかに身を乗り出すようにして続けた。
﹁どうだ、わしの配下にならんか?おまえがわしの元へとくれば、
この世界は瞬く間に我が手の内に収まるであろう。その暁には、お
前に世界の半分をくれてやってもよい・・・﹂
﹁貴様・・・ふざけるな!﹂
怒りが臨界に達し、フェイは吼えた。これ以上の暴言は許さぬと
ばかり、両手で剣を構えて魔王へと突進する。
魔王は表情を変えないまま、玉座から腰を上げた。
﹁ふん、ではすこし相手をしてやるとするか﹂
最後の戦いが始まった。
フェイは右手側に剣をたてたままの構えで、わき目もふらずに突
進した。怒りにまかせた突進で工夫があるようには見えず、魔王は
つまらなさそうに右手を振って、硬化した鉤爪でフェイをはじきと
ばそうとした。
だが鉤爪がフェイをとらえる寸前、フェイの姿は魔王の眼前から
消え、鉤爪は虚空を薙いだ。
魔王が再びフェイの姿を視界にとらえたとき、フェイは魔王の右
側面で体勢を低くし、下段に構えた剣を今まさに振り抜こうとして
いた。イェンゲにとどめを刺したときと同じように。
これは魔法であった。ただし、瞬間移動をしたわけではなく、瞬
間的に自らの筋力を増大し、驚異的なスピードを得る技である。フ
ェイは絶妙のタイミングでこの技を使ったため、相手からは姿を消
したように見えたのだ。当然肉体的な負荷は大きく、多用すれば筋
肉痛ではすまない。何度も使える技ではなく、フェイは魔王が油断
16
しているのをみて勝負をかけたのだった。
魔王の顔が驚きにゆがんだように見え││顔の作りが違うので、
はっきりとそうわかったわけではない││、フェイはかすかな興奮
と喜悦とともに剣を振り抜こうとした。が、魔王のわき腹を覆って
ほふ
いた鱗は予想以上に堅固で、フェイが手にする以前から数多くの魔
族を屠り﹁破邪の剣﹂と呼ばれる伝説の剣でさえ、刃が通らなかっ
た。
フェイは少なからず衝撃を受けたものの、動揺している暇はない。
相手がまだ体勢を崩しているうちに、素早く飛び退いて間合いを取
った。
﹁なかなか素早いな﹂魔王の表情は平静に戻ってしまった。﹁だが
非力だ﹂
奇襲は失敗に終わったが、フェイの戦意はかけらも挫けてはいな
かった。鱗が固くて刃が通らないなら、鱗のないところを斬ればい
い。魔王の身体の左側は鱗はなく、獣毛が覆っている。しかしその
毛も固そうで、ひょっとしたら同様の防御力があるかもしれない。
できれば鱗にも獣毛にも覆われていない、むき出しの部分を攻撃し
たい。
破邪の剣はただ鋭いが故に伝説の剣と呼ばれているわけではない。
その刃によって傷つけられたものは、その身のうちにある邪な心を
直接斬りつけられ、砕かれてしまう。邪な心が強ければ強いほどダ
メージも大きく、異世界侵略をたくらむ魔王ともなれば、かすり傷
でも効果は絶大になるはずであった。
剣で致命傷を与える必要はない。心を砕き、動きを止めれば、後
はどうとでもなる。フェイの勝算のひとつであった。
﹁さて、攻守交替だ・・・﹂
改めてフェイと正対した魔王はわずかに身を屈めると、右足で地
を蹴った。一本一本がフェイの身体ほどもある巨大な足は、魔法な
ど使わなくとも驚異的な速度を魔王に与えた。
どちらかと言えば丸型の巨体からは想像できないスピードでフェ
17
イに迫る。一気に距離を詰めながら、右手の鉤爪を突き出してきた。
強烈な圧力に思わず後ろに飛び退きそうになりながらも、フェイ
は踏みとどまった。頭に着けた﹁勇気のかぶと﹂は、困難や恐怖に
立ち向かう勇気を授けてくれると言われる伝説のかぶとで、かつて
は悪政を繰り返す暴君を討ち果たした、革命の指導者が身につけて
いたという。
そのかぶとから力をもらいながら、フェイは左腕につけた盾を構
えた。鉤爪を盾で受け、その圧力がフェイの身体に伝わる前に、円
を描くように動いて力を逃がす。
さすがに全ては逃がしきれず、その場からはじき飛ばされたもの
の、攻撃を受けた位置から五歩ほど飛んだところで倒れることなく
体勢を整えることに成功する。対して魔王はといえば、勢いを殺し
きれずに柱の一つに突っ込み、もうもうと白い煙を立ち上げていた。
砕けた柱から身を起こした魔王は、四つの目玉をぎょろりと見開
いてフェイを見据えると、大きく裂けた口を開けた。笑っているの
だと、はっきりわかった。
﹁なかなか良いな・・・。見せてみろ、どこまでやれるのか!﹂
再び魔王が猛進する。鉤爪を大げさに振りあげると、フェイを、
というよりもその立っていた床をねらってたたきつけた。無論、フ
ェイごと巻き込む算段だ。
フェイは大振りの一撃の軌道をかいくぐって近づこうとしたが、
そこへ魔王の左手が飛んできた。こちらは鉤爪状になっておらず、
人の手同様の五指が、フェイを捕まえようとする。
そうなったら勝ち目はない。フェイはとっさに口中で呪文を唱え、
強化された筋力で強引に逆方向へ飛んだ。指先が顔をかすめる距離
でかわし、間合いを取ってから魔法を解く。
大腿からきしむような痛みを感じる。まだ動きに影響はないが、
この技はもう一度使えるかどうか、といったところだ。
ほんの一瞬、状態を確認するために動きを止めたところへ、巨大
な火球が飛んできた。魔法の技か、魔王が直接吐き出したものか。
18
いずれにしても避けようがなく、フェイは盾をかざした。
火球の直径は盾よりも余程大きかったが、盾から生み出される光
の幕がフェイの身体を覆うように展開し、鉄をもたやすく溶かす高
熱からフェイを守った。炎だろうが吹雪だろうが、かつて火を吹く
暴れ竜を鎮めた勇者が身につけていたというこの伝説の盾の前には
無力だ。
魔王はフェイを休ませない。炎の余韻が消えぬうちに、再びフェ
イに向かって飛びかかった。また鉤爪による攻撃だ。
フェイは冷静に軌道を見切ると、くぐるのではなく飛び上がった。
左手を鉤爪の上に置き、勢いをつけて身を翻すと、魔王の頭を飛び
越えて背後へ着地する。
一瞬だけ目線を動かして魔王の弱点を探る。鱗にも獣毛にも覆わ
れていない部分││魔王の翼だ。
﹁いぃやぁっ!﹂
裂帛の気合いを込めて剣を振るう。しかし魔王はフェイの動きに
気づいたのか、身を屈めるようにして翼の位置を引き上げ、これを
かわした。節の部分にかすったような感触はあったものの、刃が通
ったかどうかは確認できない。
もくろみがはずれたフェイは今度は獣毛に覆われている魔王の左
大腿部分を狙って斬りつけたものの、こちらは刃が通らなかった。
そこへ魔王が強引に後ろ蹴りを見舞う。フェイはなんとか盾をかざ
して直撃は防いだものの、勢いを殺すことはできずに十数ログ飛ば
されて、石床の上を転がった。
﹁惜しかったなぁ﹂
身を起こしたフェイに向かって魔王が声をかける。まだまだ余裕
綽綽といった態度は崩れない。
しかし、フェイは希望を感じていた。翼を狙ったとき、魔王は明
らかに身をかわす動作をとった。つまり翼ならば傷を付けられると
いうことであり、魔王にとってダメージになりうる、ということだ
からだ。
19
背後に回るのはそう簡単なことではないが、なにも弱点は翼だけ
とは限らない。とにかく鱗と獣毛に覆われていない箇所を見つけだ
して斬りつければいいのだ。
魔王は無傷だが、フェイもさしたる怪我は負っておらず、疲労も
ほとんどない。動き回って隙をつけば、必ずチャンスがある。フェ
イは剣を握りなおし、再び魔王へ向かっていった。
それから何手か、同じような一進一退の攻防が続いた。魔王は右
手の鉤爪を振るい、時には口から炎をはいてフェイとの間合いを保
ち、隙があれば空いた手でフェイを捕獲しようともくろむ。対して
フェイは慎重に相手の出方をうかがいながら、たびたび攻撃をかい
くぐって魔王に接近した。しかし、効果的な一撃を与えるには至ら
ない。
互いに動き続けながらも、戦況は膠着状態といって良かった。持
久戦になれば身体の小さなフェイの方が不利と思われたが、ここま
でフェイの動きが落ちる兆しはなかった。
それは身につけた鎧の力も大きい。魔王討伐にあたり、サンクリ
ーク国王から直々に下賜された白銀の鎧は、内布に魔力を帯びた癒
しの方術陣が縫いつけてあり、装備者の疲労を取り去る効果があっ
た。古文書に記されている歴代の勇者も身につけていたといわれる
伝説の鎧だ。
王女の行方を探して旅を続けるさなかに見つけた盾・かぶと・剣
も含めて、伝説の装備の助けを借りながら、フェイは辛抱強く好機
を待つことができた。
対して魔王は、細かく動き回る相手を思うように捕まえることが
できず、次第に苛立ちを溜めていった。背中に弱点があると教えて
やったのに、そこを狙ってくるような動きもそれきりみられない。
自分を倒しにきたと豪語しておきながら、なかなか攻勢にでようと
しないフェイの戦術も、魔王の苛立ちを深めていた。
﹁ふん、このままでは埒があかんな・・・﹂
20
ついに、魔王はしびれを切らし、強大な力でもって一気に決着を
つける算段にでた。フェイとの間に十分な間合いを取ると、精神を
集中し始める。
すると、それまで広大な室内を照らしていた陽光が突如遮られ、
あたりが暗くなった。フェイが思わず見上げると、室内でありなが
ら頭上には雷雲が垂れ込めて、窓をすっかり隠してしまっていた。
﹁冥土のみやげに見せてやろう・・・闇のいかづちの威力をな!﹂
広間はすっかり雷雲で覆われており、紫の光が雲間で爆ぜている。
魔王が両腕を高くあげ、フェイにはわからない言葉で何事か叫ぶと、
雷が一条、魔王に向かって落ちた!
それを皮切りにして、立て続けに幾筋もの光が魔王に向かって落
ち、雷雲と魔王とをつないだ。高温の光を受け続ける魔王の身体は
半身を覆う獣毛が全てそばだち、全身は白い光に包まれて、あまり
の高温に足下の石が溶け沸騰し始めた。
魔王は自分の身が沈まないように翼をはためかせながら、両腕を
おろすとフェイに向かって構えた。
﹁さぁ・・・喰らうがいい!﹂
その声とともに光は徐々にフェイに向けられた右腕に集まりだし・
・・ついに放たれた!
何者をも溶かす熱をはらんだ光が、フェイを飲み込もうとする。
だがこれこそが、フェイが待ち望んだ好機の瞬間だった。
﹁くっ・・・今だ!﹂
フェイは素早く腰の道具袋を探ると、一つの宝珠を取り出した。
深緑色の輝きをたたえる宝珠を眼前に構えると、力を解放するた
めの短い呪文を唱える。
すると、宝珠の輝きが強く大きくなり、フェイを覆うように広が
った。
そこへ、ただひたすらに真っ白な、高熱の光が飛来する。
しかし、光の束はフェイに届くことなく、全て宝珠へと吸い込ま
れ始めた。
21
﹁貴様、それは・・・!﹂魔王が、初めて動揺した声を上げる。
それは、かつてフェイと戦った竜が、戦いの後にフェイに託した
宝珠で、どれほど強大な力であっても、一度に限っては吸収し、反
射するというものだった。
しかも、跳ね返すときには元の力を数倍にも増幅するのだ。長い
寿命を持つ竜が心血を注いでも、一生に一つしか生み出すことがで
きないと言われる宝珠だった。
これこそ、フェイの真の切り札である。様子を見るような動きを
繰り返したのも、魔王を苛立たせ、大技を使わせる為の作戦だった。
いまや宝珠は魔王のはなった光を残さず吸収し、その高熱をフェ
イの拳ほどしかない球体に漲らせていた。
﹁ま、待て・・・﹂魔王が後ずさる。その表情ははっきりと、恐怖
にゆがんでいる。
﹁くらえ、魔王め!﹂
フェイの気合いを受けて、宝珠が光を放つ。渦のような光が広間
を包み、魔王をたやすく飲み込んだ。
﹁ぐぎゃぁあああぁあぁああああ・・・・っっ!﹂
光の中から、魔王の悲鳴がかすかに聞こえる。あまりのまぶしさ
に、フェイもしばらくは目を閉じていなければいけなかった。
やがてまぶた越しの明るさが穏やかになって、フェイはゆっくり
と目を開けた。
まず最初に気がついたのは、天井が大きくぽっかりと空き、そこ
から太陽の光が降りそそいでいることだった。強烈な熱線は魔王を
とらえるばかりか、頑強な魔王城の石壁までまとめて消し飛ばした
らしい。
次に魔王の姿を探した。それこそ溶けて消えてしまったか、とも
思ったがそんなことはなく、フェイと最初にまみえた玉座のあたり
でくずおれていた。
少し前まで魔王が泰然と腰掛けていた玉座は熱の余波を受け、真
22
鍮の骨組みは大部分がぐずぐずに溶けてしまっている。もはや椅子
としての体裁を成さなくなっていた。
その脇に倒れている魔王は一見息絶えているようにも見えたが、
フェイが慎重に近づいていくと、一瞬だけ肩が動いたのがわかった。
まだ生きている。
しかし、フェイが間合いに入っても身を起こす様子はなかった。
見れば鱗はめくれあがり、獣毛も焼け焦げてあちこち皮膚が露出し
ている。今ならば労せずして刃を通すことができそうだった。
フェイが横に立ち、剣を逆手に構えると、魔王は四つの目をわず
かずつ見開いてフェイを見た。もはや抵抗する気力もないようで、
フェイには介錯を望んでいるかのようにさえ感じられた。
﹁魔王グローング﹂
フェイは魔王の名を呼んだ。もはや憎しみも怒りもない。
﹁咎人としての生は終わる。この上はとこしえの海へと落ちて、魂
を洗い清めたまえ﹂
罪人を処刑するときの決まり文句を叫んで、剣を振りあげ││、
﹁さらば!﹂
魔王の左胸に向かって一気に振りおろした。
﹁ぐわぁぁぁあああ・・・﹂
剣は深々と突き刺さり、魔王はつかの間目を見開いて断末魔の悲
鳴を上げ、やがて事切れた。
フェイはしばらく待った。ひょっとしたら魔王が再び動き出すか
もしれない。
だが、破邪の剣を左胸に突き立てられたままの魔王はもはやぴく
りとも動かない。たっぷり半クラム︵約十五分︶ほど、注意深く魔
王の様子を観察した後、ようやく確信した。
﹁やった・・・!﹂
ついに。
ついに魔王を倒した。
23
本懐を果たしたのだ。
王女の誘拐から三年あまり。各地の魔族は凶暴化し、世界の平和
は大いに乱された。だが、それも収束するだろう。
そして。
﹁姫、なんとかお約束通り、花の枯れぬうちに御許へ帰れそうです・
・・﹂
旅立ちに際してシフォニア王女へ送った一輪の花を思い出す。そ
れと同時に、いままで意識の外へ追いやっていた王女のことが、堰
を切ったようにフェイの記憶の中であふれた。
とらわれの洞窟から救い出したときの、幾分やつれながらも高貴
さを失わぬ横顔。王城への帰りの道中、野道ならばどこにでも生え
ているような花を見つけて、直に摘んではこぼした無邪気な笑顔。
そして一度だけ知った、瑞々しくも柔らかいその肌。
想えば想うほどに止まらなくなって、一人顔を赤らめる。
自分を見下していた貴族たちは、おそらく魔王を一人で倒すこと
など無理だろうと高をくくっていたのであろうが、これで自分と王
女の婚姻を止めるものなどいなくなるはずだ。
気を緩めれば涙があふれそうになる。フェイは今空いたばかりの
天井の空間から空を見上げ、それをこらえた。
そのとき。
声が響いた。
はじめ、フェイは気づかなかった。その声は低く響いていたから。
その声は低く、ゆっくりとした周波数で、フェイの体を揺らして
いた。
その声は、フェイの背後から響いていた。
﹁クックック・・・﹂
それは、笑い声だった。
信じたくなどなかったが、今や声ははっきりと広間に響いていた。
フェイの背後・・・魔王の死骸から。死骸と思われていたものか
ら。
24
﹁クックック・・・グワッハッハッハ!!﹂
振り返れば今まさに、魔王が笑い声をあげながら起きあがるとこ
ろだったのだ!
﹁バカな・・・﹂
魔王の姿は、先ほどと変わっていない。鱗はあちこちめくれてい
るし、獣毛は焦げ付いている。破邪の剣も左胸に深々とつきたった
ままだ。
しかし、四つの目はぎらついて生気にあふれ、戦いのダメージな
どないかのようであった。
﹁楽しかったか?﹃勇者ゴッコ﹄は・・・?﹂
﹁なに!?﹂
﹁おとぎばなしのように魔王を倒せて、楽しかったか・・・?﹂
﹁勇者ゴッコだと・・・?﹂
魔王の言葉に、フェイは気色ばんだ。
﹁そうさ﹂魔王は口の端をつり上げた。﹁この程度では・・・わし
には暇つぶしがせいぜいだ﹂
そう言いながら魔王は、右手の鉤爪で自分の胸に刺さったままの
剣の柄を摘むと、ためらわずに引き抜いた。どす黒い血液が吹き出
したものの、一瞬で収まる。
フェイは驚愕した。破邪の剣はこれまでの戦いでは、伝説の通り
に切り札たり得ていた。いかなる強大な魔族といえども、この剣で
傷を付けられて平気な顔をしていられるものはいなかった。だが、
あれほど深く突き立てたのに、魔王がダメージを負っている様子は
見られない。
魔王はしばらくの間、新しいおもちゃを見つけたかのように剣を
眺め回していたが、やがて飽きたといわんばかりに左手で刀身をつ
かむと、そのまま握り込んだ。すると、千年の時を越えて多くの魔
族を屠った伝説の剣が、いとも簡単に砕け散った。
﹁ほれ﹂
25
顔色をなくすフェイに、魔王は残った柄の部分を投げて寄越した。
刀身を失った剣の柄が、フェイの足下で乾いた音を立てて転がった。
﹁さて・・・まだ切り札は、あるのかね?﹂
魔王の瞳が、怪しく光った。
そこから先の戦いは、フェイにとっては次元の違うものだった。
﹁なぁんだ、もう終わりか﹂
魔王は左手をブラブラと振りながら近づいてきた。
フェイは石床の上に無惨にも横たわり、魔王を睨みつけることす
らできなかった。
﹁まぁ・・・こんなものだ﹂
フェイのすぐそばまで来て屈みこんだ魔王は、左手でフェイの頭
をつかむとおもむろに引っ張りあげた。フェイは無抵抗のまま、か
すかにうめいた。
﹁ちょっと本気を出せばな。恥じる必要はない。人と魔族では、基
本的な能力が違うのだからな。クックック・・・﹂
事実、﹁ちょっと本気﹂の魔王はすべてにおいて桁が違っていた。
スピードで翻弄して隙をつく、フェイの基本戦術は全く通用せず、
あっさりと捕まっていいように弄ばれた。殺そうと思えば簡単にで
きたはずだが、魔王はそうしなかった。盾をつぶし、かぶとを砕き、
少しずつフェイの戦意を砕いていった。
今のフェイには、魔法の技一つ使う気力も残されていなかった。
﹁そういえば、戦いの前に言っていたな?わしの配下のすべてを倒
したと・・・。残念だが、わしとともにこの世界にきたのは先遣隊
に過ぎん。異世界の本拠地ではその数十倍の兵力が、わしの号令を
今かと待ちわびておるのだ。王女をさらい、おまえと戦ったのは、
本格的な侵攻の前のちょっとした儀式・・・余興のようなものだ﹂
語りながら魔王は、右手の鉤爪でフェイの左肩をつかんだ。そこ
にはまだ白銀の輝きを放つ鎧の肩当てが残されていたが、魔王がわ
26
ずかばかり力を入れると、あっさりとひびが入り、砕けて落ちた。
﹁本当の戦争はこれから始まる。・・・まぁそれも、あっという間
に終わってしまうだろうがな﹂
フェイは薄くしか開かない目を開いて、魔王を見た。先ほどまで
勇者をつき動かしていた激しいほどの情熱はすでに消え、徒労感ば
かりがその身を支配していた。死の恐怖も感じなかった。それほど
までに、自分と魔王の能力の差は激しく、また絶対的であるように
感じた。
﹁おまえは、よく戦ったよ。余興としては十分すぎるほどにな。わ
しは今、非常に気分がいい・・・。だからもう一度だけ、おまえに
聞いてやろう・・・﹂
魔王の四つの目が、フェイの二つの目を見据えた。
﹁おまえ・・・わしの配下にならんか?﹂
王城の小さな礼拝堂で、シフォニアは今日も祈りを捧げていた。
その傍らで、かつては野の中でひっそりと、しかし力強く咲き誇
っていた黄色い花が、花瓶の中で力なくしぼみ、下を向いている。
王女はただ一心に祈っていた。
しかし祈りが届くことはなく、小さな花に交わされた誓いも、決
して果たされることはなかった。
27
最後の王
王国暦三〇〇七年 一〇月
一
カルバレイク王ヤムスト七世は、自室でひとり、本を読んでいた。
石造りの壁にはここスベリウム特産である高価なカーテンがたっ
ぷりと掛けられ、暖炉の火も燃料を惜しむことなく焚かれてはいた
が、本来南国の人間である彼にはそれでもまだ不十分といえた。
この地へ来るのは二度目。昨年も同じように冬に訪れ、深い雪に
身ごと埋もれたような気分で春のはじめまでここにいた。
今年もまだ冬の入りだというのに、外は今日も雪が降っている。
積雪はまだそれほどでもないが、年中温暖な南国で生まれ育った彼
にとっては、漂う空気まで雪を含んで重くなったように感じられて、
陰鬱な気分になった。
ヤムスト七世はひととき本をおいて、窓の外で音もなく降りつづ
くそれらを眺めた。外はすでに暗く、舞うように落ちる粉雪を確認
できるのは、室内から漏れる灯りに照らされた範囲のみだ。
熱帯気候である故郷カルバレイクでは、一度も雪を見たことがな
かった。雪というものがどういうものなのかは、書物の記述でしか
知ることができなかった。雨が冷やされて固まったものが降ってく
ると教えられ、それでは氷の粒が降ってくるのかと思っていた。そ
もそも氷自体、人工的に固められたものしか見たことがなかった彼
は、そんなものが降ってくる環境で人が生きていくことができるの
かと不思議に思っていたこともあったのだ。
実際に雪は、その手に取ってみれば確かに水が凍ったものではあ
ったが、彼が想像していたよりもずっと細かく、またはかないもの
28
と
であった。彼の手の上であえなく融けて、ただの水に戻った淡雪の
はかなさに、彼は自身を重ねて見ずにはいられなかった。
カルバレイク王ヤムスト七世の即位式が行われたのは、まだほん
の二年ほど前のこと。それも正式な即位式に使われる錫杖も王冠も
なく、教会の承認すら得ずに行われた、通常ならばどの国からも認
められないであろう即位式だった。
だが今、彼の即位に異論を唱えるものはない。
なぜなら、すでにこの世界に人の国はなく、彼こそがこの世界に
残った最後の王族だったからだ。
勇者フェイ・トスカが魔王グローングに敗れたのち、各国は連合
軍を結成して魔王軍と相対した。伝説の再現は失敗に終わり、戦争
が始まったのだ。当初こそ圧倒的な兵力差でもって優勢に進軍して
いたものの、次第に各国間の損害の差などから連携に支障が出始め
る。
そもそも、異世界よりの侵攻というかつてない事態に対抗するた
め協定が結ばれたとはいっても、すべての国々が友好関係にあった
わけではない。大きな武力戦争こそ久しく起こっていなかったもの
の、協定の盟主となったサンクリーク王国をのぞけば、どの国にも
少なからず敵対心を抱く相手はいた。
それでもはじめのうちは魔王軍の圧倒的な武力への危機感から結
束していたが、緒戦を勝利したことが逆にその結束をゆるめること
になってしまった。
一人一人は強力な魔族であっても、兵力を集中すれば勝てない相
手ではない。そのことを知った人々は、やがて少しでも自国の損害
を減らし、︵本来の︶敵対国の損害を増やすために政治的駆け引き
をはじめた。
補給が追いつかない、指揮官が負傷した、自国で反戦デモが起き
た、等々の理由で前線まで兵を送らない国々が目立ち始める。領土
の小さい島国、マホラ公国などは、﹁我が国の軍隊は自衛のための
29
防衛軍であり、自国の領土が脅かされない限り、軍隊を派遣する理
由がない﹂と宣言して軍隊を戻してしまった。
それでも、盟主のサンクリーク王国に加え、第二王女がサンクリ
ーク王国に嫁いだばかりのフェネリカ王国や、非常に好戦的なこと
で知られているトールバック王が自ら陣頭指揮をとるランジア王国
などが中心となって、魔王軍と互角以上の戦いを進めていた。
だが、一つの敗戦をきっかけに、戦況はいともあっさりとひっく
り返ってしまう。
魔王軍の重要な拠点を攻める戦いで罠にかけられ、トールバック
王が戦死してしまったのだ。勇猛だが思慮に欠ける面のあったトー
ルバック王は、敵を深追いしすぎて伏兵に遭い、あっけない最期を
迎えてしまった。
さらに悪いことに、トールバック王には三人の息子がいたが、王
は後継者を明確に指名していなかった。そのため後継者争いが勃発
し、ランジア王国はとても戦争を続けられる情勢ではなくなってし
まったのだった。
中心戦力の一角を欠いた連合軍は、次第に敗戦を重ねるようにな
っていった。徐々に戦力を減らしていく連合軍に対し、魔王軍の兵
力はむしろ増えていった。異世界から際限なく増援が送り込まれて
きていたのだ。
兵力差という最大の武器を失ってしまったら、もはや人間に勝ち
目はない。日和見を続けていた諸国もようやく重い腰を上げ始めた
が、それは遅すぎる判断だった。
一度傾き始めた天秤の針を元に戻す力は、もうどこにも残ってい
なかった。
カルバレイクは大陸の南方、赤道付近に位置し、領土の面積はそ
れなりに広いものの大部分は熱帯雨林に覆われ、生産性は決して高
くない。総国力も連合国の中では中の下というところで、対魔王軍
の前線も領土からはかなり離れたところにあった。
30
当時のカルバレイク王はリナス三世といい、暗愚ということはな
かったが名君と呼ばれることもない男だった。治世においてはそれ
で十分といえたが、乱世を乗り切るには器量不足というほかはなか
った。
ほかの連合諸国と同様に、前線から遠いことを理由に挙げ、自国
軍を前線に送ることはせず、補給線の維持にのみ部隊を割いていた。
トールバック王の戦死は大きなニュースとして伝わっては来たも
のの、それでもまだどこかに、対岸の火事という気持ちは残ってい
た。これは出兵に非協力的な諸国が多かれ少なかれ持っていた感情
といえた。
この段階で兵力を結集することができていれば、あるいは違う結
果があったかもしれないが、今となってはわからないことだ。
魔王軍はこのころから爆発的に兵力を増し始めていた。連合軍の
中心であるサンクリーク、フェネリカでは一進一退の攻防を続ける
一方、別動隊が動きの鈍い周辺諸国を攻略し、外堀を埋めていった。
リナス三世はこの動きに対応することができなかった。はるか先
にあったはずの前線が気がつけば目と鼻の先に迫り、あわてて臨時
徴兵を発令したが、これは泥縄もいいところだった。
隣国の友好都市国家、エルネリア市国からの援軍要請を受けて軍
を出動させたが、実際にはこのときすでにエルネリアは陥落してお
り、魔王軍はカルバレイク領に進入していた。
これまでの動きの鈍さを取り戻そうとでも思ったのか、強行軍で
エルネリアへ向かおうとしていたカルバレイク軍は、補給線が延び
きったところで魔王軍の奇襲を受けて、あっけなく壊滅した。
主力を失ったカルバレイク王国にもはや抵抗するすべはなく、首
都リンドーが陥落するのはそのわずか三日後だった。
リナス三世は自害し、残った王族も次々と自害、あるいは捕らえ
られて処断された。ほかの敗戦国同様に、王族は徹底的に捜索、排
除され、王位継承権をもつもので国外へ逃亡できたものは一人もな
かった。
31
ヨウネ・アン・ファウは、王族としては傍流もいいところで、王
位継承権は三一位。自分が継承権を持っていることすら普段は忘れ
て暮らしていた。
読書を好み、研究者の道を志して学問のさかんなフェネリカの国
立大学へ留学するため、単身カルバレイクを旅立っていたが、フェ
ネリカへついて幾日もしないうちにカルバレイク陥落の報を聞く。
逃げ仰せたのは、まだフェネリカ領内が本格的な侵攻を受けてい
なかったことにくわえ、戦争によって留学手続きを完了する前に大
学が閉鎖されてしまったため、すでにフェネリカに滞在していなが
ら公式にはまだカルバレイクにいることになっているという、曖昧
な立場だったからだ。
敗戦国の王族が皆殺しにされていると知った彼はすぐに姿を消し
た。各地を転々としながら、戦争が終わるまで、魔王軍の追跡を逃
れ続けたのである。
それが、今のヤムスト七世だった。
やがて最後まで抵抗を続けたサンクリーク王国が敗れ、その王族
の首が城下にさらされるころ、ひそかにヨウネに接触を図ったもの
がいた。カルバレイク出身の若者で、留学前に通っていた私塾でと
もに学んだテスという男だった。
﹁もはやヨウネ様を除き、正統な王族であることを証明できるもの
は、カルバレイクのみならず、誰一人この世におりません﹂
テスの目的は、各国の敗残兵を集めてレジスタンスを組織し、魔
王軍へ抵抗することだった。﹁今こそ、カルバレイク王として御起
ちになり、我らを導いてくださいませ﹂
﹁わたしは、戦に興味などない﹂ヨウネははじめ、この申し出を固
辞した。﹁レジスタンス活動がしたければ、勝手にすればいいでは
ないか﹂
﹁扇には要が必要です﹂テスは一歩も引かなかった。﹁各国の兵力
32
をまとめれば、まだまだ魔王軍に対抗できる戦力になりえます。し
かし、各地に散らばっている兵力をまとめ上げるための旗頭がなけ
ればいけません。この世に残された最後の王族であるあなた様こそ
適任、いえ、あなた様にしかなせないことなのです﹂
結局ヨウネは押し切られる形で要求を呑み、カルバレイク王ヤム
スト七世として即位した。もちろん、魔王軍の監視をかわしながら
である。
﹁いつかかならず、あなたさまをカルバレイクへお連れして、正式
に、盛大な即位式を執り行いましょう﹂テスは、涙ながらにそうい
ったものだった。
そうして組織されたレジスタンス軍は、二年たった今でも抵抗を
続けている。とはいえ、魔王軍を揺るがすほどの大きな動きとなる
はずもなく、少しずつ規模を小さくしていた。今では散発的に市街
を攻める程度で、レジスタンスというよりはテロリストに近くなっ
てしまった。
今拠点としているスベリウムは、大陸北部につらなるハルパー連
峰の山間部に位置する小国だった。もちろん今は魔族に攻め滅ぼさ
れ、国は残っていない。
ヤムスト七世たちは、かつて首都オーケンがあった場所からさほ
ど離れていない、ティアネという小さな山村を接収し、そこを拠点
としていた。
︵抵抗を続けながらも、気がつけばこんな辺境までやってきてしま
った︶
窓の外を見ながら、ヤムスト七世は顔を曇らせた。
かつて、自分を説得したときにテスが語っていたこと││敗残兵
をまとめ魔王軍に対抗する、という言葉や、いつか必ずカルバレイ
クへ帰り、正式な即位式を執り行う、という言葉。いろんな言葉が
あったが、それらのほとんどは、いまやまるで実現性のないものと
なってしまった。
33
もっとも、彼はテスの言葉を本当に信じていたわけでもなかった。
テスの語る展望は、あまりにも希望的観測に満ちていたし、実際集
められた兵たちの士気も、そこまで高いものでもなかった。
それでもテスの言うことを最後は呑んで、形ばかりとはいえ王座
についたのは、結局のところ、自分に付き従うものを見捨てること
ができないという自分の性分、おそらくはそれが王族の血筋という
ものなのだろうと思っていた。
降り続く雪を窓越しに眺めながら、そんなことを夢想していると、
控えめにドアがノックされた。
﹁お夕食の準備が整いましてございます﹂
﹁・・・すぐ行く﹂
年若い小姓の声に返事をすると、開きっ放しだった本を閉じ、棚
に戻してから広間へと向かった。
今レジスタンスが拠点にしているのは木造二階建ての屋敷で、王
侯貴族が常時滞在するものとしては少々手狭と言えた。
とはいえメインの大広間は十人ほどなら一度に食事ができるスペ
ースが確保されている。今この拠点で生活しているのは王とその護
衛、小姓や料理人といった世話係を含めても二十人もいないから、
少々無理をすれば全員一度に食事をするのもできないことではない。
しかし、やはり十人ほどが座れる大きな長方形のテーブルに用意
されている食事は、王が食する一人分のみだった。
ぶしつけ
これはカルバレイク流のしきたりで、身分の異なるものが食卓を
ともにすることは不躾であるとされているからである。
ヤムスト七世は即位する直前までそんなことを気にしたことはな
く、三日とあけずに下町の飲み屋にくり出しては、生まれも育ちも
バラバラな仲間と酒を酌み交わしていたから、このしきたりにはい
まだに慣れなかった。
そうした仲間の一人であったテスも、今では近衛隊長として常に
王のそばにたちながら、けっしてともに食卓につこうとはしなかっ
34
た。
今も彼は王の左斜め後ろにたち、無言で周囲に気を配っている。
食卓には焼きたてのパンのほか、大きめにカットした肉や野菜の
シチューに、冬野菜のサラダが並べられている。品数は少なかった
が、ヤムスト七世からすれば十分な内容だった。
シチューはこっくりとしたコクがあって、寒い冬に冷えた体を内
側から暖めてくれたし、サラダは新鮮でみずみずしく、パンもふん
わりと柔らかい。
生まれたときから宮殿で暮らしているようなものなら、何の感慨
も抱かなかっただろうが、庶民同然の暮らしを送っていたヤムスト
七世には、こうした食事の裏にある苦労や工夫がよくわかった。
レジスタンス組織はすでに末期状態で、組織的な活動能力はほと
んど残されていない。本拠地は魔族の軍勢に見つからないように、
定期的にそのありかを変えるのだ。そんな中にあっては、新鮮な食
材を手に入れてくるだけでも一苦労のはずだった。
そうして寂しくも暖かい食事を半ばほど終えたところで、ヤムス
ト七世は背後で動く気配を感じた。すこしだけ首を動かしてテスの
方を見やると、近衛兵の一人がテスになにやら耳打ちをしていた。
報告を聞いているテスの表情が険しくなる。ただごとではなさそ
うだ。
﹁どうした﹂
はっきりとテスを見据えてそう問うと、テスは神妙な面もちのま
ま答えた。
﹁この場所が知られたようです﹂
それから二クラム︵約一時間。一クラムは約三〇分︶もたたない
うちに、ヤムスト七世は屋敷を後にした。付き従うのは近衛隊長の
テスを始め護衛が八人、さらには小姓が一人のみで、残りは屋敷に
とどまった。
屋敷にとどまったのはほとんどが非戦闘員で、うちヤムスト七世
35
と背格好がにているものに王の衣装を着せ、急ごしらえの影武者と
した。偽装としてはなんとも心許ないが、しないよりはましという
ものだった。
せんめつ
そもそも大局に影響を及ぼす力を持たないレジスタンスは、魔族
からすればわざわざ殲滅する価値もないはずだったが、どういうわ
けか彼らは執拗に拠点を探し出し、どこまでも追いかけてくる。
どうやらそれはヤムスト七世の存在が大きいようで、魔族は人間
の王族の存在を全く許さなかった。戦前に各国の王位継承権を持っ
ていたものは、たとえ戦争を逃げ延びたとしても残さず見つけださ
れて処刑され、ヤムスト七世が最後の王族である、というテスの言
葉はまったく掛け値のない真実だった。
テスがそう言ったように、正統な王族が魔族への反抗勢力をまと
める存在になりうるというのも要因であろうが、この執拗さはそれ
ばかりとは思えない。ヤムスト七世はそう考えていた。だが、ほか
の要因というのが何であるのかは想像のしようもなかった。
雪は降り続いていた。しかしまだ本格的な降雪期ではなく、積雪
もそれほどではない。木々も白く染まってはいたが、よく見ればそ
の下には針葉樹の緑の葉を確認できた。
なんにしても、馬を使うことができるのはヤムスト七世にとって
かんじ
はありがたかった。より冬が深まれば、馬が通行できないようなと
ころもあると聞いている。寒敷きをはいて徒歩で逃げるような事態
は想像したくもなかった。
一方近衛隊長のテスからすれば、せめてもう一月、拠点の発覚が
遅れていればという思いがあった。この地方は十一月から二月頃ま
では天候が崩れやすく、数ログ単位での積雪があり、吹雪も多い。
そうなれば、襲撃は春まで遅れていただろう。隙をついて逃亡する
こともずっとたやすかったに違いなかった。
この時期の発覚は最悪だ。すでに積雪がはじまり、タイムリミッ
トが近づいている。仮にテスが襲撃側の立場だったとしても、一刻
も早く拠点を確保しようと動くだろう。
36
拠点の場所が知られた、という報だけで、王の食事を中断してま
で屋敷を放棄したのはそのためだった。屋敷に詰めている戦力だけ
では防衛のしようがないのだ。
今、一行は王の馬を中心として、四方をそれぞれ騎乗した兵が護
るようにして進んでいる。護衛の残る四人は二組に分かれ、一五〇
ログ︵約一〇五メートル︶ずつ徒歩で先行させていた。二組のうち
ひとりずつはこの山に詳しい現地徴用員で、それに山岳訓練の経験
がある近衛兵をひとりずつ付けていた。
じゅういっさい
王の世話のためにひとりだけ連れてきた小姓は、王と一緒の馬に
乗っていた。まだ一一歳の小姓は乗馬の経験がなく、手綱は王が握
っている。
当初、小姓はあまりのおそれ多さに騎乗を拒み、徒歩でついてく
ると言って聞かなかった。しかしそれでは逆に足手まといになると、
最後は王が半ば強引に抱えあげるようにして馬に乗せたのだった。
王の前に座らされた小姓は、今も王からできるだけ離れて、馬の
首にしがみつくようにしていた。緊張か寒さか、身体がふるえてい
るのが見て取れた。
﹁もそっと近くによれ。寒いであろう﹂
王がそう声をかけても、小姓は動こうとしなかった。王はやはり
強引に、小姓の腰のあたりをつかんで自分の方に引き寄せた。小姓
の身体を引き起こして抱きすくめるようにすると、身につけている
外套で包み込むようにする。
﹁わたしが寒いのだ。だからこうしていろ﹂
しかん
そう言ってやると、小姓はかすれた声で﹁はい﹂とうなずき、そ
の姿勢で固まった。やがてふるえは治まり、固い身体も少しは弛緩
したように感じられた。
しかしそれも束の間、馬が自然と歩みを止めた。王が見やると、
先行していた近衛兵のひとりが戻ってきてテスに何事か告げていた。
報告が終わると、テスは厳しい表情で逡巡した後、近衛兵に二、
三指示を出した。兵はうなずいて、また先行する。
37
﹁先に行かせた方のしるしが途切れているそうです﹂
テスは振り向き、全員に聞こえるようにそう言った。
先行させた二組には、一定距離ごとに安全確認のしるしとして、
木の幹に決まった傷を付けておくように指示していた。まず先を行
く組がしるしを付け、後を行く組がそこにしるしを重ね、最後にテ
スがそのしるしを確認しながら進む手はずであった。
﹁ルートを変えます﹂
それが途切れているということは、何らかのトラブルがあったと
いうことである。敵が待ち伏せているという最悪の事態から先行者
が王を見捨てて逃亡した事態まで、原因は様々考えられるが、それ
を確認する余裕はない。とにかく少しでも危険のあるルートは避け
ていくほかなかった。
それからさらに二クラム︵約一時間︶ほどの間、しんしんとした
静寂に包まれた雪山の中を、一行は進んでいった。誰ひとり口を開
かない。雪は少しずつ強くなり、風も出始めている。吹雪になるか
もしれなかった。拠点としていた屋敷を襲撃され、そこから追いか
けられる可能性を考えれば、足跡が消えることはありがたかったが、
寒さは耐えがたいものになってきていた。
出立の前のテスの話では、一アルン︵約二時間︶ほど行けば山を
抜けられるとの話だったが、途中でルートを変えているからこの数
字はもう当てにならない。どんどん山奥へ入っていくように感じら
れて、ヤムスト七世はすっかり辟易していた。
前に座っている幼い小姓も疲労が顕著だ。身体をつけるようにし
てからもしばらくはできるだけ王に体重を預けないように努力をし
ていたようだったが、今はもうそんな余力はなく、小さな背中を王
に押しつけるようにして身体を預けていた。もっともヤムスト七世
からすれば、その方が腹周りが暖かいので助かっていた。
屋敷を出てからどれほど経ったか、時を告げるものがないので正
確にはわからなかったが、ずっと休憩なしで進んでいる。できるだ
38
け迅速に距離を稼がなければいけないことも理解していたが、身体
は悲鳴を上げていた。
少し止まるように言うべきだろうか、とヤムスト七世が口を開き
かけた時、先頭を進むテスの馬が停止した。
こちらの状態を汲んでくれていたのかと安堵したのは一瞬のこと
で、テスの表情を見たとたん、またしても非常事態であることがわ
かった。
﹁・・・しるしが途絶えました﹂
テスの言葉はつまるところ、先行していたもう一組の消息も途絶
えたということだった。
状況は刻一刻と悪くなっていた。敵が屋敷を襲撃してくれれば、
その間に山を下りることができる。そう踏んでいたのだが、敵は屋
敷ではなく、拠点の山村へと通じる山道を包囲している可能性が高
くなっていた。こちらの計画は読まれていたのだ。
だが、やり直しはきかない。事態を打開する手段を見つけなけれ
ば、魔族に捕らえられて首を切られるか、山中で凍え死ぬだけだ。
テスは、近衛兵のひとりを呼ぶと指示を与えた。
﹁付近を偵察してこい。ただし、二〇〇ログ︵約一四〇メートル︶
より先へは行くな。異変を見つけたらすぐ戻れ。なにもなくとも、
半クラム︵約一五分︶経ったら戻れ﹂
近衛兵は了解の仕草をすると馬を下り、徒歩で先へと進んでいっ
た。
近衛兵の姿が見えなくなると、テスは王へと視線を移し、ほんの
少しだけ表情を柔らかくした。
﹁少しとどまります。馬から下りて、身体を伸ばしてください﹂
偵察が戻るまでの小休止だが、寒さと疲労を少しでも和らげるこ
とができるだろう。ヤムスト七世は安堵した。事態の悪化は深刻だ
が、休むと決めたら少しでも休まなければならない。
﹁下りるぞ﹂小姓に一声かけて、先に自分で馬を下りた。それから
小姓のわきのしたに手をやって、引っ張りあげて下ろしてやった。
39
小姓は本来なら自分が世話をしなければならない王に、またして
しせい
も手間をかけさせてしまったと気づいて青ざめたが、ヤムスト七世
は気にしなかった。市井での生活が長い彼にとっては、王らしく振
る舞う方が疲れるのだ。跡取り息子でさえなかったから、屋敷でも
たいして良い扱いではなかったし、町で集まる仲間は立場も年齢も
てんでばらばらで、足りないものは足りるものがフォローするのが
当たり前であった。
テスもかつてはそうした仲間同士であったが、王になってからは
王らしく泰然と立っていろ、大局をみるのが仕事だから目の前の他
人などほっておけ、と小言ばかり言うようになった。今も何か言わ
れるかと思ったが、あたりの様子を探るのに必死で、それどころで
はないようだった。
近衛兵のひとりが、酒の入った飲み口付きの皮袋と木の実をたっ
ぷり練り込んだ焼き菓子を持ってきた。酒は葡萄酒かと思ったが、
口を付けてみるとこの地方特産の、アルコール度数の高いスピリッ
ツだった。ヤムスト七世はあまりこの酒が好きではなかったが、火
を使えないなかで体を温める手段はこれしかない。文句を言うわけ
にもいかなかった。
焼き菓子の方は保存食の一種で、日持ちするように砂糖を多く使
っているからかなり甘いはずだが、食べてもあまり味を感じなかっ
た。
焼き菓子を食べ終えると、あとは偵察にでた兵士が戻ってくるま
では待つばかりになった。酒はまだだいぶ残っているが、寒さはだ
いぶやわらいだし、あまり飲み過ぎない方がいいだろう。
ヤムスト七世はちょうど背後にそびえ立っていた大木に寄りかか
り、偵察が戻ってくるのを待つことにした。
偵察の兵士が消えていった先は、これから進む予定だった方向だ。
緩やかに下っているように見え、雪のせいもあってあまり遠くの方
まではわからないが、道幅は少しずつ狭くなっているようにも見え
る。これまでずっと、王の馬を中心に前後左右に兵を配して進んで
40
きたが、この先は前後はともかく、左右に馬を並べるのは難しいか
もしれない。
ほかのものたちも皆食事を終えており、あたりは静けさに包まれ
ていた。木の枝につながれた馬たちが、時折ぶるると鼻を鳴らす以
外には、何の音も聞こえない。
こうした静けさは、故郷の南国では感じたことがなかった。雪が
音を吸うのだ、と教えられたことがある。そのときはよくわからな
かったが、こうして実際に雪のなかに包まれていると、その意味が
よくわかった。
この静けさは嫌いではない。ヤムスト七世はそう思った。故郷の、
あのなにもかもが明るくにぎやかな景色も忘れがたいが、この静け
さと、ただひたすらに、実直さまで感じるほどひたすらに白い景色
ふけ
も悪くない。ただ、寒さだけは如何ともしがたかったが。
目を閉じて、そんな物思いに耽っていたからだろうか。小さな音
に最初に気づいたのは、ヤムスト七世だった。
がさがさと、何かを掻き分けるような音。いや違う、足音だ。偵
察の兵が戻ってきたのだ。
しかし、ふつうの足音とはどこか違う。積もった雪をかき乱し、
蹴りとばしている。走っている。それも必死に。
そもそも、半クラムというにはまだ早い。これは、なにか異変が
あったと見るべきだ。
﹁テス!﹂
近衛隊長に注意をうながしたが、そのころには彼も足音に気づい
ていた。
雪の向こうに、うっすらと人影が見え始めた。まだ表情は伺えな
いが、もがくように走るその影は尋常ではなかった。
﹁馬を││﹂
テスの命令をかき消すように、影が叫んだ。
﹁お逃げください!待ち伏せがっ││﹂
叫び声が唐突に途絶え、影が││偵察の近衛兵が││一瞬ふるえ、
41
それから前のめりに倒れた。
王たちのところから四〇ログ︵約二八メートル︶ほどのところで
倒れた近衛兵は、それきり動かない。首のあたりから一筋、黒い線
が延びている。
矢が付き立っているのだ。
﹁木陰に!早く!﹂
テスが号令し、めいめいに木の陰に隠れる。小姓だけが先にテス
が言った言葉を実行しようとしたのか、馬のつなぎをほどこうとし
て悪戦苦闘していたが、ヤムスト七世がひったくるようにして小姓
を抱えると、彼も木の陰に飛び込んだ。
しばらくの間、全員がその場を動かなかった。
相手側も動きがない。森はふたたびしんとした静けさに包まれて
いた。ただしそれは、困難が去ったわけではない。
テスは背中に装備していた弓に矢をつがえながら、この場を切り
抜ける手段を探して頭脳を働かせていた。
近衛兵が叫んだことで、王一行がその場にいることは知られてし
まっただろう。その近衛兵の首を一射で正確に射抜いたことから、
自分たちも射程に入ってしまっている可能性は高い。
うかつに動けば、狙い撃ちにされかねないのだ。
とはいえ、このままじっとしているわけにはいかない。こちらは
追われる立場なのだから。
相手が大人数で包囲しているとしたらはっきり言って絶望的だが、
拠点の発覚からそこまで時間は経っていない。追っ手が少人数なら、
山中で姿をくらます方法はいくらでもある。
そのためにも、まずは自分たちを捕捉しているであろう狙撃手を
何とかしなければならない。だが、雪のなかで身を隠す狙撃手を見
つけだすのは至難の業だ。
時間はない。しかし有効な手段もない。焦りばかりがつのるなか、
テスはふいに、駆け出す足音を間近に聞いた。
42
見れば近衛兵がひとり、木陰を飛び出して進んでいくではないか。
少し先で事切れている兵の元へ向かっていくように見え、テスは思
わず呼び止めようとした。
しかし、その直前、ほんの一時目があって、テスはすべてを理解
した。おとりになるつもりなのだ。
盾すら持たない近衛兵は、剣を抜くと眼前に構えた。そうして顔
と首を護りながら、できうる限りでたらめに、ジグザグに軌道をと
りながら進んでいった。一本でも多く矢を打たせて、狙撃手の位置
を知らせる腹づもりである。
テスの隠れているところから一〇ログ︵約七メートル︶ほど進ん
だところで、最初の矢が飛んできた。近衛兵はタイミング良く右に
飛び、矢は雪の上に残った足跡を穿った。
間髪を容れずにもう一射。今度は前に転がって避けた。タイミン
グは近かったものの二射ともほぼ同じところから飛来しており、テ
スは狙撃手はひとりだけだと結論づけた。それならば、何とかなる
かもしれない。
だが、まだこちらから狙えるほど位置を特定できたわけではない。
せめて後一射、そうすればおおよその目安は付けられる。
そして三射目、ついに躱しきることができず、矢は近衛兵の右肩
を貫いた。声を上げる間もなく第四射が左のふとももに突き立ち、
近衛兵は剣を取り落とし、ひざをついてしまった。
もはやこれまで。そう言わんばかりに近衛兵は胸を張り、木々の
隙間から漏れる空を見上げて喉をさらした。かくして最期の一射は
狙いあやまたずに無防備なその喉笛を喰い破り、うなじから突きい
でて赤い花を散らした。
命を失った近衛兵が仰向けに倒れていく様を、しかしゆっくり眺
めている余裕はない。今こそ最大の好機だ。テスは弓に矢をつがえ
て木陰から半身乗り出すと、貴重な五射の間にあたりをつけたポイ
ントに向かって矢を放った。もう一人別の木陰にいた兵も同じよう
に身を乗り出し、こちらは立て続けに二発の矢を放つ。
43
しかし木陰に身を戻したテスは、やがて顔をゆがめた。
手応えはなかった。
貴重な命を代償にして手に入れたチャンスを、活かすことができ
なかったのだ。
そればかりではない。さらに風を切る音と矢の突き立つ音を聞い
たテスがそちらをみやると、反対側にいた近衛兵が力なくその場に
倒れ込むところだった。
テスは矢を放った後すぐに木陰に身を戻したが、その兵は続けて
第二射を放った上、すぐに隠れずに矢の行方を見届けてしまった。
そこを狙い撃たれたのだった。
矢は額の中央を正確に射抜いていた。おそろしい腕前だ。先ほど
おとりになった近衛兵に五射も使ったのは、ひょっとしてこちらの
隙を引き出すための罠だったのかもしれない。
テスは青ざめた。あまりにも能力が違う。これは完全に自分のミ
スだ。相手の力量を計り間違い、ただでさえ少ない人員を小分けに
してしまった。その結果各個撃破され、戦闘要員はもはや自分一人。
王を逃がすタイミングさえ失ってしまった。
王の命だけでも何とかできないか。荒い息をつきながら必死で考
える。しかしどれだけ考えを巡らせたところで、頭の中は深まる雪
のごとく白いままだった。
44
魔王の刺客
二
じくじ
自分を護るものたちがひとり、またひとりと倒れていくのを、ヤ
ムスト七世は目をそらすことなく見つめていた。心の内を、忸怩た
る思いに埋め尽くされながら。
状況はもはや絶望的だ。残されたのは王と近衛隊長、そして小姓
の三人のみ。そしてこの後に及んでも、近衛隊長のテスは顔面をく
しゃくしゃにしながら必死で打開策を考えている。
自分の半分も生きていない幼い小姓でさえ、こわばった面もちな
がらも王の前に立ち、万が一にも流れ矢が王に当たらぬようにと気
を配っていた。
自分は、護られているだけだ。
自ら望んで王族に生まれたわけではないし、望んで王になったわ
けでもない。望んでいたのは学者として本の山に埋もれる生活か、
あるいは町の小さな子供たちに教鞭を振るい、国の礎を育てること
か││。いずれにしてもほんの小さな、当たり前でつつましい幸せ
さえ手に入れることができればそれでよかった。
だが、それを言い訳にして今の状況を嘆いていればいいとは思え
なかった。たとえ戦争という膨大な力を持つ濁流に巻き込まれたの
だとしても、最後は自分でうなずいて王になったのだから。
すでに倒れた近衛兵たちも、テスも、目の前の小姓も、みな与え
られた役割を最期まで果たしている、果たそうとしている。
自分も、王としての役割を果たさなければならないと思った。
テスは常々言っていた。王は旗印である。戦いが終わるまで、悠
然と風を受けてはためき、戦うものたちを鼓舞し続けるが役目。だ
から、決して倒れてはならないのだ、と。
しかし、もはや戦いの趨勢は見えた。戦うものがいないのでは、
45
はためくことしかできない旗印に存在価値などない。
ならば、戦いのあとに生まれる王の役割とは何だ。
テスはそんなことを教えてくれなかったが、ちょっと考えればわ
かることだった。
それはつまり、民を護ることだ。
ヤムスト七世は名目上、カルバレイクの王である。だがカルバレ
イクはとっくの昔に占領され、ヤムスト七世自身、留学のために出
国して以来五年あまり、一度も足を踏み入れていない。
領土を持たない王には護る民すらいないのか。
ならばせめて、最期まで自分のために尽くしてくれる彼らを護ろ
う。
たったふたりの民。自分は人類最後の王としてははなはだ無能で
あったが、彼らのためにこの命を尽くせば、少しは面目も保つであ
ろうか。
﹁もうよいであろう。私はここだ!﹂
王が小姓を押し退けて、木陰から進み出てくるのをみて、テスは
目を見開いた。
﹁王!いけません!﹂
テスの制止にも、王は聞く耳を持たなかった。逆に強い目線でテ
スが飛び出そうとするのを抑えると、両腕を左右に大きく開いて、
一歩一歩しっかりとした足取りで進んでいく。
﹁私の命が欲しければくれてやる。だからこれ以上、無駄に血を流
すな!﹂
王は声を張り上げながら進んだが、その一歩先に風切り音ととも
に矢が突きたった。
王はすでに覚悟を決めたのか、矢を避けると表情一つ変えずに進
んでいく。
再び矢が飛来する。今度は王の右頬をかすめて過ぎた。赤い線が
一筋、頬に走るのをみてテスは青ざめた。
46
王は気にしない風で進み続ける。やがて近衛兵が仰向けに倒れて
いるところまで進んだところで、立て続けに二本の矢が飛来し、王
の足下に突き立った。王は立ち止まった。
テスは出ていくことができない。王の覚悟は本物だ。ここで自分
が飛び出したところで、その覚悟を踏みにじることにしかならない。
半ば無理矢理仲間に引き込み、王に仕立てた。テスにとっては、
王は存在するだけで十分だった。人を集め、その意気をまとめたか
めるための旗印。存在が重要なのであって、旗のデザインは問題で
はないと思っていた。
だが今このときになって、王は真に王としての役目に気づいたの
だ。それは彼の血流に確かに存在する王族の血が教えたのだろうか。
知れず涙が浮かんだ。酷な役目に引き込んだことを、初めてすま
ないと思った。
やがて王の前方に、雪に紛れていくつか影が見え始めた。
魔族の追っ手どもがその姿を見せたのだ、とおもったが、よくよ
くみれば先頭に立っているものは人間と変わらない背格好をしてい
た。
その背後にはやたらと巨大な馬のようなものや牛のようなもの、
はたまた何者にも形容しがたい小さくて丸いものなども跳ね飛びな
がらついてきていたが、黒い鎧を身につけたそいつは、背丈も体格
も歩き方も、全くもって人間であった。
そして相手の表情まで認識できる位置まで近づいてきたとき、ヤ
ムスト七世はそれが間違いなく人間であると知った。
大小の魔族を引き連れて歩いてくるその人間の顔を、ヤムスト七
世は見たことがあったのだ。
かつてまだ戦争が本格化する前、カルバレイク王城を訪れた一人
の男を歓待する宴が催され、ヤムスト七世││当時のヨウネ・アン・
ファウも王族として宴に出席した。
そのとき、形式ばかりの挨拶を交わした男。王女を救う旅の途中、
47
竜を屠るための伝説の武器の情報を求めてカルバレイクを訪れたそ
の男は、すでに各地で襲いくる魔族を撃退し、伝説の勇者の再来と
してカルバレイクでも噂の的だった。
今近づいてくる男は、その男にそっくりだったのだ。
やがて戦争がはじまり、深刻化していく中で流れていく噂には、
彼についてのこともいくつかあった。そのどれもがにわかには信じ
がたいものであった。代表的な噂はこうである。
勇者は魔王に敗れ、あまつさえその軍門に下った。
今では魔王軍の尖兵として、人類に仇なす存在に成り下がった│
│。
ヤムスト七世がその名をつぶやく。
﹁フェイ・トスカ・・・﹂
噂は真実であったと、今まさに証明されようとしていた。
﹁久しぶりだな。ヨウネ・アン・ファウ君﹂
目の前に立つなりそう言われて、ヤムスト七世は驚いた。
﹁・・・覚えているのか﹂
思わずそう返すと、フェイ・トスカは軽く笑みを浮かべた。
かつて見たものと変わらないようで、どこか違って見える表情だ
った。
﹁言葉を交わした人間の顔は忘れないさ﹂
思いがけずフランクに応えられたが、その周りには数十の魔族が、
二人を取り囲むようにして立っている。
何体か強そうなものもいるが、並び方からしてもあの中にこの集
団をまとめるものがいるようには見えない。やはり、フェイ・トス
カがこの魔族の一軍をまとめているのだ。
弓矢をもっているものはいない。狙撃手は今もどこかに隠れてこ
ちらを狙っているのだろうか。
﹁そんなに緊張しなくても、これ以上無駄な血を流すことはしない﹂
せわしなく視線を動かすヤムスト七世をなだめるように、フェイ・
48
トスカが言った。
﹁もちろん、君の命と引き替えなのが条件ではあるが﹂
笑みは消えないが、視線はまっすぐだった。
ヤムスト七世は、改めてフェイ・トスカを見た。
かつて出会ったときは公式な宴の席であったから儀礼用の服を着
ていたが、立ち居振る舞いからしてもいかにも清廉潔白の印象を受
ける人物であった。今はそのイメージからはほど遠い、ダーク・パ
ープルの鎧を身につけていた。剣は腰ではなく背中に担いでおり、
これも騎士の常識からは遠い。
短く交わした挨拶の中でも、卑劣な魔王への怒りと祖国への忠誠
心にみなぎっているのが伝わってきたのに、この変わりようはなん
だというのか?
﹁あなたは・・・本当にフェイ・トスカなのか?﹂気がつけば怒り
のような感情が行き場をなくして、思わずそう口走っていた。
﹁本当に、魔王軍のいち兵士に成り下がってしまったというのか!﹂
かみつくばかりの勢いでフェイ・トスカをにらみつけると、彼の
背後に立っている魔族の何匹かが動く気配があった。だが、当のフ
ェイ・トスカは表情を変えず、右手をあげて背後の魔族を制した。
﹁いち兵士なんかじゃない。俺は今じゃ魔王軍第一の将軍様だ﹂
﹁バカな・・・。では、噂は本当であったというのか﹂
﹁どの噂について言っているのかは知らんが、俺が魔王に挑んで敗
れ、軍門に下ったというのは本当だ。その後は一軍を率いて、多く
の人間どもと戦った﹂
フェイ・トスカは誇らしげでも悔しげでもなく、淡々と言葉をつ
むいでいく。
﹁多くの国を滅ぼした。ランジア・・・エストリカ・・・カルバレ
イク﹂
﹁!﹂
遠い母国の名を挙げられて、ヤムスト七世ははっと顔を上げた。
頭が命令をする前に身体が動き、フェイ・トスカにつかみかかろう
49
とする。
しかし、いつの間にか自分の背後に立っていた魔族にその動きを
察知され、一歩目を踏み出す前に肩口をつかまれ、雪の上に引き倒
された。
背後でテスの声がする。当然だが、すでに小姓ともども魔族によ
ってつながれていた。
﹁立たせろ﹂フェイ・トスカの命令によってヤムスト七世は引き起
こされたが、右腕をつかむ魔族の手は離れなかった。
﹁まだある。ハルネラ、マホラ、フェネリカ・・・そして、サンク
リークだ﹂
﹁国を護る盾となることを誓った騎士が、祖国を焼いたというのか
!?﹂
実際にそういった噂も耳にはしていたが、こうして本人から直接
聞かされても、なお信じがたいことであった。
﹁戦争の後には王族狩りを命じられた﹂
﹁王族狩り?﹂
﹁おまえのように、戦争のさなか行方をくらませたものも少なから
ずいたからな・・・。そういったものを残らず見つけだし、首をは
ねる。魔族の連中は人間の顔の区別がつかない奴が多いらしくてな。
俺は適任だったようだ﹂
ヤムスト七世はすでに自分の心の許容量を超えるほどの衝撃を受
けたように感じたが、ここまで聞かされたら逆にすべてを知りたい
とも思えた。
﹁では・・・では、あの最悪の噂も真実だというのか?かつてあな
たが自ら救い出した・・・サンクリーク王女、シフォニア姫の首を
はねたのがあなただという噂も!﹂
フェイ・トスカの笑みが深くなった。それはまさに悪に堕ちた勇
者にふさわしい、邪悪なものであった。
﹁ああ、本当だ﹂
心の真ん中に風穴をあけられた気分だった。
50
﹁あなたは、あなたは心を壊されてしまったのか?あれほどに正し
い心に満ちていたあなたが、そのような非道を行えるはずがない!﹂
﹁黙れ﹂
短い言葉とともに、フェイ・トスカは表情をなくした。﹁俺の心
がどうであるかなど、おまえ等にわかるはずもない﹂
そして、背中に担いだ剣を抜きはなった。やはり騎士の装備とし
て標準的な両刃の直剣ではなく、大きく反り返った片刃の曲刀であ
った。
﹁さぁ、おしゃべりは終わりだ。祈る神がいるなら、祈れ﹂
ヤムスト七世は目を閉じた。神に祈るためではない。それくらい
ならいっそ、世界をこれほどまでに理不尽に作り替えた神を糾弾し
てやりたいと思った。
世界を救わんとした勇者が今、世界を壊すために働いているのだ。
三千年の長きにわたって保たれた平和の世が、わずか数年の戦争
によって粉々に破壊されようとしているのだ。
神が正しくこの世を見ていれば、こんな理不尽を許すはずがない。
なにをしているのだ、神よ!
右腕をつかむ魔族の力が強くなった。そこからほんの少しの痛み
が伝わったとき、一陣の風が吹き抜けるのを感じた。
それが、人類最後の王が最期に感じた感触であった。
豪風のごとく剣がうなって、王の首をはね飛ばした。
残された身体は血を吹き上げながらひざから崩れ、仰向けに倒れ
ていく。
首は回転しながら高くあがったが、やがて落ちてきたところをフ
ェイ・トスカが片手でつかみ取った。すでに剣は鞘に戻している。
フェイ・トスカが無言で首を見つめながら空いている片手を背中
の方へ差し出すと、一匹の小鬼が進み出て、手のひらの上にうやう
やしく宝珠を置いた。宝珠は黒くまがまがしい光を放っている。
フェイ・トスカは宝珠を確認すると、血を流す首の下方にそれを
51
持っていった。
﹁そら、最後の食事の時間だ﹂
宝珠が血を受ける。すると宝珠はシュウシュウと音を立てはじめ、
白い煙を立て始めた。血液を吸っているようであった。
フェイ・トスカはしばらくそのまま宝珠が煙を上げる様を眺めて
いた。やがて煙が収まると、首を宝珠の上から外した。用は済んだ
とばかりに、背後で待っていた子鬼に投げて渡す。突然首を投げ渡
されて、小鬼はあたふたとしながらもそれを抱き止めて引っ込んだ。
フェイ・トスカは懐紙を出して宝珠に残った血液を拭き取ると、
改めて宝珠の様子を観察した。宝珠はその内で黒い光をたたえてお
り、その光は若干強くなったようではあるものの、大きな変化は見
られなかった。
﹁まだ足りないとでも言うのか・・・?﹂フェイ・トスカはいぶか
しげに呟いた。﹁しかし、系図にあったものはこれで全てのはずだ﹂
しばらくの間空いた手を顎に当てて考えていたが、やがてここで
考え続けていても意味がないと思ったようだった。﹁戻るぞ!﹂振
り向いて魔族に号令し、宝珠は再び近寄ってきた子鬼に手渡しをす
る。
人の身体に牛の頭を乗せたような魔族が近づいてきて、フェイ・
トスカに何事かささやいた。
﹁ん・・・ああ、あいつらか﹂
忘れていたと言わんばかりにテスたちを省みた。
﹁縄を切ってやれ﹂
テスからしたら意外な命令だった。しかし魔族は不平も言わず、
は
大声で命令を復唱した。先ほどテスたちを縄で縛りつけた魔族がや
ってきて、ナイフで縄を切った。
テスは体の自由を得るや転がって距離をとり、腰に佩いたままの
剣の柄に手をやった。魔族どもは自分たちをつなぎこそしたものの、
武器を取り上げはしなかったのだ。
近くにいる魔族は三匹。十ログ︵七メートル︶ほど先にフェイ・
52
トスカがおり、その向こうに数十匹の魔族が控えている。
せめて目の前の三匹だけでも、と柄を握る手に力を込めたところ
で、声がかかった。
﹁命を捨てる気か?﹂
フェイ・トスカが数ログのところまで近づいてきていた。
﹁王がなんと言って俺たちの前に姿を見せたのか、聞こえなかった
わけではないだろう。王の死を本当の無駄死ににする気か?﹂
言われてはっとする。王は無駄な血を流すなと││すなわち自ら
の命と引き替えに残ったものたちの命を助けろと言ったのだ。
そしてフェイ・トスカがそのことを指摘するということは、フェ
イ・トスカは王の言葉を守るつもりだということだった。
さつりく
﹁どういうことだ?﹂
﹁俺たちは殺戮者ではないし、全くの無法者でもない。おまえたち
を生かすことが王から提示された条件であったし、おまえたちを殺
す必要性もなにもない﹂
﹁平和を乱したうえに、王族を片端から皆殺しにしたものがそのよ
うなことをいうのか!﹂
﹁戦争とはそういうものだし、王族を殺すことには理由があった。
それだけのことだ﹂
﹁理由だと?﹂
﹁おまえに語ることではないがな。さてどうする?もしどうしても
おまえがここで命を捨てたいというのなら、相手になってやるが﹂
いっそ死にたいという思いはあった。レジスタンスに引き込んだ
多くの仲間を失い、自分が最後に残るばかりかこの後もなお生き続
けるというのは、耐えがたい苦痛であると思えた。
しかし一方で、その苦痛を甘んじて受けることこそ自分への罰な
のではないかという思いもあった。
やがてテスが剣の柄から手を離すと、フェイ・トスカは大した感
慨もなさそうに鼻でひとつ息をつき、無言でテスに背を向けた。魔
族も皆それにならい、ゆっくりとその場から離れていった。
53
フェイ・トスカと魔族が去ると、その場にはテスと、小姓と、馬
と、三体の死体が残された。そのうち一つには、首から上がなかっ
た。
テスは小姓とともに、苦労して雪山に穴を掘り、三つの死体を埋
葬した。
首から上がない王の遺体を穴に入れるとき、テスはその右手指に
嵌められている指輪をそっと抜き取った。美しい青緑色の宝石がは
め込まれたそれはカルバレイク王家ゆかりの指輪で、正しい手順の
ほとんどを省略された王の即位において、ただひとつ王の証となる
ものだった。
指輪を外されて、王はただの人に戻った。
﹁すまなかった、ヨウネ﹂
表情の存在しない死体に一言だけ声をかけて、土をかぶせた。
埋葬を終えてふと見上げると、いつの間にか雪は降りやみ、木々
の隙間から星空が見えた。月が明るかった。
月の紋様に、かつて肩を組み合わせて酒を飲んだ友の笑顔を見た
気がして、涙がこぼれた。
54
新しい時代へ
ヤムスト七世の首をはねたそのおよそ二十日後、フェイ・トスカ
はかつて自分が暮らした地、サンクリーク王国首都アルメニーへと
足を踏み入れた。
ここは人と魔族が最後の激戦を繰り広げた地でもある。その結果
国は滅び、三千年の平和の中心にあったこの町も炎に焼かれた。
今は復興のさなかにあり、王城へと続く大通りを中心にあちこち
で工事が行われている。
工事現場で働くものたちをみると、人間の姿が多いことに気づく。
戦争を生き残り、抵抗する気力を失ったものたちは、そのほとんど
が魔族の奴隷となったのだ。そうした奴隷たちの中にはサンクリー
ク人も多くいて、彼らはひょっとしたらかつてこの町に住んでいた
のかもしれない。しかし今建てている建物は、彼らのためではなく
魔族のためのものだった。
首都のシンボルであり、永く平和の世を見つめ続けてきた王城も、
今は八割方が壊されている。最終決戦で火をかけられ、住居として
の役割を果たせなくなったこともあり、完全に取り壊された後、魔
王の居城として立て直される予定になっていた。
フェイは大通りをかすめるようにして、郊外へと向かった。
農地を通り、森を抜けると、やがてぽっかりと空間が開け、そこ
に簡素な城があった。高さはそれなりだが、装飾のたぐいはほとん
どなく、丸みを帯びたフォルムは城というよりは塔といった方が近
いかもしれない。
入り口に門番はいなかった。しかし、フェイが騎乗のまま城に近
づくと上空から笛のような音が響き、その存在を城内のものに伝え
た。視界の広い鳥の魔物が、上空を旋回しながら城を見張っている
のだ。
でてきた厩番に馬を預けると、フェイは階段を上がり、自分で門
55
を開いて中に入った。
ホールは天井が高く、中央にシャンデリアでも吊せばさぞかし見
栄えがよかろうとは武官肌のフェイでさえ考えることだが、このホ
ールにそうした装飾は少しもなかった。床にしかれているカーペッ
トだけが金糸をあしらった高級品で、むしろその存在が浮いている
ようにも感じられる。これはなにもこのホールに限った話ではなく、
城全体に言えることだった。
かつて魔王城に潜入したときにも何とも殺風景だとフェイには感
じられたが、これは魔族に飾るという概念が欠落しているというわ
けではなく、単に主の趣味の問題であることは、多くの魔族と接す
るようになって初めて知ったことである。
やがて出迎えに訪れた執事││姿形は人間と変わらないが、その
実数千年の時を生き続けている、魔族たちのなかでも生き字引と言
える存在らしい││に案内されたのは、主が食事をするために使う
私的な部屋だった。
﹁お食事中ならば、終わるまで待ちますが﹂
﹁いえ、一刻も早く将軍の報告をお聞きしたいと、たってのお望み
にございます﹂
かくして案内された部屋に入ると、そこでは城の主、魔王グロー
ングが食事の真っ最中であった。
テーブルの上にはまるまる太った鳥の丸焼きや、魚を丸ごと素揚
げにして餡をかけたものなど、贅をこらした料理が並べられていた。
人間の数倍の体躯を持つ魔王の食事風景は、意外にも豪快でも乱
暴でもない。しっかりとした宮廷マナーに則っており、サンクリー
ク王城の食事会に呼ばれても遜色ないのでは、とフェイは思う。た
だしそれは魔王が人間の姿をしていればの話で、異形の怪物が人の
マナーを守って食事をしようとしている姿は滑稽にも見えた。
魔王は鳥の足の部分を左手でつかむと、右手の鉤爪をナイフ代わ
りに器用につかって腿肉の部分を切り離し、口に運んだ。その仕草
は優雅ですらあったが、鋼をも砕く強靱な歯を持つ魔王は、バリバ
56
リと音を立てて骨ごと腿肉を食べてしまった。
﹁ふむ、うまいな﹂
そう言ってもう一方の足に手を伸ばそうとしたとき、入り口のと
ころにたっていたフェイにようやく気付いた。
﹁なんだ、来たのなら声をかけろ﹂
﹁お食事が終わるまで待とうかと﹂
﹁バカを言え。戦争が終わってからこっち、おまえの報告だけが楽
しみなのだ。・・・それで﹂魔王は膝に乗せていたナプキンで口の
周りを優雅に拭いた。﹁首尾は﹂
﹁無事、終わりました。ヤムスト七世はその場で首を落としました。
旗印を失ったレジスタンスももはや組織としての力を失うでしょう﹂
﹁レジスタンスなんぞどうでもいいわ﹂魔王はしばらく視線をフェ
イと料理との間で行ったり来たりさせていたが、結局食べながら話
を聞くことにしたらしく、残っていた鳥の足に手を伸ばした。
﹁わしが知りたいのはおまえに託した宝珠のことだ。何か変化はあ
ったか﹂
フェイは一瞬目を閉じて、そのときのことを思い出すような仕草
を見せてから、﹁何も﹂と答えた。
﹁ふむ、そうか・・・﹂うなずきながら今度は魚に手を伸ばす。や
はり鉤爪を使ってたっぷりと脂ののった白身の肉を器用に骨からは
がすと、左手でつかんで口に入れる。手づかみもマナーの内である。
﹁言い伝えは間違いか?高貴な人間の血を受けることによって﹃太
陽の宝珠﹄のもつ真の力が解放されると、確かに記されているのだ
ろう?﹂
魔王は納得がいかない、と言いたげに鉤爪をかちかちと鳴らした。
﹁古文書の解読に間違いはないでしょう。宝珠は現時点でもかなり
強大な魔力を内に秘めており、これが偽物ということも考えにくい。
となれば、条件を満たせていないという可能性が高いのでは、と﹂
﹁見逃している王族がいるということか?しかし、系図に載ってい
るものは残らず・・・﹂魔王が鉤爪の先をフェイに向けると、フェ
57
イは表情を変えずにうなずいた。
﹁はい。私が首をはねました﹂
﹁では、満たせていない原因は?﹂
﹁系図に載っていない王族がいるのでは、と﹂
﹁確かに庶子であったり、血が薄すぎて継承権すらないようなもの
は系図に載っていないものもいるだろうが・・・。そうしたものは
高貴なものとしてカウントするに及ばない、とは古文書を解読した
学者や、おまえ自身も言っていたことではないか﹂
﹁しかし、その系図は五年前のものです﹂
﹁新たに王族が生まれているかもしれない、と?﹂
王はすでに食事の手を止めていたが、ここへ来て身体の向きを完
全にフェイの方へ向け、四つの目全てでフェイを見据えていた。
新たな王族が生まれている可能性は、もちろんゼロではない。だ
が異世界より持ち込まれた古文書が、フェイの持つ人間世界の知識
と併せて完全に解読されて以降、王族の逃亡阻止は最重要事項とな
った。たとえ赤ん坊といえど、逃げおおせ、隠しおおせるとも思え
なかったが・・・。
﹁心当たりがあるのか?﹂
﹁今は﹂フェイは明言しなかった。﹁しかし、捜索する許可と権限
をいただきたい﹂
﹁ふむ・・・﹂魔王は傍らのグラスになみなみ注がれてあったワイ
ンを一気に飲み干すと、しばらく考えていたが、やがて口を開いた。
﹁いいだろう﹂
﹁わしの直属の一軍と、必要に応じてどの魔族の領地であろうと巡
検できる権限を与える。必ず成果を見つけだし、わしに報告しろ﹂
﹁ありがとうございます﹂
フェイは深く頭を垂れて礼をすると、その場を辞す言葉を述べて
魔王に背を向けた。そこへ、魔王が声をかける。
﹁そうだ、今度は暦を変えるぞ﹂
フェイは振り返った。﹁町を造り変え、貨幣を鋳造し直し、今度
58
は暦ですか。まるで人間の政治家のようだ﹂
フェイの言葉を聞くと、魔王は肩を揺すって笑った。
﹁いかにも。王という仕事は政治家だ。わしは人間ではないがな﹂
魔王の元を辞し、再び騎乗となってひとり進みながら、フェイは
魔王の言葉を思い出した。
﹁力を欲する魔族風情が、いっぱしに政治家面とは、笑わせる﹂
視界はすでに朱色に染まり、周り中に広がる農地で働く農奴たち
も今日はすでに仕事を終えたようだった。あたりには誰もいない。
﹁﹃太陽の宝珠﹄の力、魔族などに渡すものか﹂
知らず手綱に力が入り、馬が不安そうにこちらを向いた。それに
気付いたフェイは、首筋を軽くたたいて落ち着かせてやる。
﹁聞いたのはおまえだけだ。・・・誰にも言うなよ﹂
馬は返事の代わりに、ぶるるとひとつ、鼻を鳴らした。
これよりおよそ一月の後、魔王グローングによって新たなる暦﹁
新魔暦﹂が発表され、年明けとともに施行された。
とはいっても、内実はそれまで使われていた王国暦とさほど変わ
るものではない。
それは人の世の終わり、魔族の世の始まりを世界に宣言する意味
合いの強いものであった。
59
シュテンの町
新魔暦一〇年 三ノ月
一
魔族の歴史書には﹁解放戦争﹂と記されている、一〇年ほど前の
魔族と人との戦争で、魔族は完全なる勝利を収めた。結果、人の築
いた国家はすべて解体され、王族は皆殺しの憂き目にあった。地方
領主もほとんどが同様で、領地を召し上げられたあげく殺された。
全く先の見えない世界で、それでも生きたいと望む人は、異形の魔
族にひざまずき、頭を垂れて忠誠を誓い、奴隷となるほかに道はな
かった。
魔王は解放戦争の戦功に応じて領地を分配して、自由に治めさせ
た。領地間の諍いには介入したが、領地内の経営に関してはほぼ介
入せず、領主である魔族の好きにさせていた。そのため、人の奴隷
の扱いも領地によって様々で、特に理由もなく殺される人が毎日の
ように出る領地もあれば、人が治めていた頃の奴隷とたいして変わ
らない扱われ方をされている領地もあった。
グレンデル領は大陸の西にある小さな領地である。領主グレンデ
ルは、解放戦争が本格化する以前から魔王につき従っていた重鎮で
あり、かつては人の王国の姫君を誘拐・幽閉する作戦の責任者でも
あった。
しかし姫君の誘拐には成功したものの、後に勇者によって奪回を
されるという失策を犯した上、老齢を理由に解放戦争では前線にた
つことをしなかったため、わずかな領地しか与えられなかったのだ
った。
とはいえ領の気候は安定しており、人が治めていた頃からの農地
60
をほぼそのまま活用したこともあって戦争からの復興も早かった。
人の奴隷の扱いも道義的であったため、周辺から逃亡奴隷が流入し
てくることもあったほどだった。
グレンデルは三千年の時を生きてきた、魔族の中でも最古参とい
える存在であり、小領の主に収まった今でも多くの魔族から慕われ
ていた。魔族と人間の双方から信頼を得た領主の善政の元、グレン
デル領は多くの地が未だ戦後の混乱から抜け出せない時期にあって、
穏やかな平和の時を過ごしていた。
グレンデル領、シュテンの町。領地の中心であるこの町は、三日
後に迫った春の祭りの準備がそこここで進められ、中央広場はいつ
にもましてにぎわっていた。
中心部にはすでに櫓が建てられ、その周りで祭りを仕切る役員た
ちが打ち合わせに余念がない。もちろんそのほとんどが魔族であっ
たが、中には人の姿も混じっていた。
その年の豊作を願って行われる春の祭りは、もともと魔族の侵攻
以前に人々の間で行われていたものだった。戦争で途絶えていたが、
グレンデル領となってから領地経営が安定しだした三年前から復活
した。その際、以前からこの土地で暮らしていた人の奴隷に祭りの
しきたりや作法を尋ねた。以来、祭りの時には必ず人の奴隷から数
名が、執行委員として駆り出されるようになっていたのだ。
奴隷の立場から解放されているわけではないが、身分的に上の存
在である魔族と人が同じ目線で会話を交わすことが許されているの
は、この時代としては非常に珍しいことであった。
そのようにして普段よりいくらか浮ついた空気の流れる町の中。
その中を、元気に駆けてくる人の少年の姿があった。
人である以上奴隷のはずだが、不潔にならないよう切りそろえら
れた黒髪や、質素だがしっかりと洗濯がされた白い服は、奴隷にし
ては整っている印象を受ける。
何よりその雰囲気、屈託のなさが違う。年の頃は風体からすると
61
一四、五といったところだが、はつらつとした空気がもう少し下の
歳にも見せていた。
人が奴隷に落とされて一〇年前後が過ぎ、多くの人がその立場を
受け入れるようになったとはいえ、それは受け入れざるを得ないと
いう敗者としての消極的姿勢にすぎない。その結果、ほとんどの人
から活気というものが失われた。自分とは姿形からして違う魔族の
主に対する、得体の知れない恐怖というものもあるはずだ。だが、
この少年からはそうした諦観や畏怖といったものが感じられなかっ
た。
広場にはいってきた少年は、見知った顔を見つけると大きな声で
挨拶していた。人も魔族もお構いなしだ。こうしたとき、困惑の表
情を浮かべられるのはたいていが人に挨拶をしたときだった。
櫓のそばで祭りの打ち合わせをしていた魔族のひとり、半魚人の
リーヤーは、近づいてくる挨拶の声で、少年が広場に来たことを知
った。打ち合わせをいったん止めて、少年に声をかける。
﹁やあセト、おつかいかい?﹂
﹁リーヤーさん、こんにちは!﹂
セトと呼ばれた少年は、リーヤーにも笑顔で挨拶をする。あまり
の気持ちよさに、リーヤーも自然と笑顔になった。
﹁いつも元気だね﹂
﹁あいさつはしっかりしなさいって、じいちゃんいつも言ってるか
ら﹂
半魚人のリーヤーは老齢ということもあるが、種族の特長として
身体は大きくない。身の丈は二〇〇オーログ︵約一四〇センチメー
トル、一オーログは約〇.七センチメートル︶ほどで、セトよりも
小さい。だがこの少年と顔を合わせる機会が多いリーヤーは、彼の
ことを孫のようにかわいがっていた。今も自然と目を細めてしまっ
ている。
﹁そうか、そうか。・・・長老の具合はどうだい?﹂
訪ねると、それまでのはつらつとした空気にほんの少し陰が差し
62
たようだった。
﹁あんまりよくないよ。今日もこれから薬をもらいに行くんだ。も
う歳だから仕方ないってじいちゃん言うけど、ヘンな咳するし・・・
﹂
セトが口をとがらせるようにして下を向いてしまったので、リー
ヤーはなんだかとても悪いことをしてしまったような気分になった。
﹁そうかい、心配だね・・・。長老にはお大事に、と伝えておくれ﹂
そう伝えると、セトはまたすぐに笑顔を取り戻して、﹁はい!そ
れじゃリーヤーさん、さようなら!﹂と挨拶すると、ぺこりとお辞
儀をしてから去っていった。
リーヤーが半魚人特有のヒレのような手を振っていると、背後か
ら先ほどまで打ち合わせをしていた人の奴隷が声をかけてきた。
﹁今のは・・・?﹂
﹁おや、知らないのかい?長老が育てている子供のひとりで、セト
というのさ﹂
﹁長老というと、グレンデル様・・・ですか?﹂
﹁そうだよ。グレンデル老は、戦争で身寄りを亡くした人の子供を
何人も引き取って育てていたのさ。もっとも、今はお年を召されて
ほとんど隠居状態だから、それもしていらっしゃらないがね。今一
緒にいるのは、セトのほかには女の子がひとりいるだけじゃなかっ
たかな﹂
リーヤーと別れた後も、セトは多くの魔族に挨拶をし、また魔族
からもたびたび呼び止められた。町の領主の元にいるとはいえ、立
場上奴隷であることには変わりがない。それでも彼は、町中の魔族
から愛されているようだった。
町に住む魔族は、領主を慕ってついてくるものが多い。特にこの
シュテンの町のような、辺境であるならばなおさらだ。領主がそう
であるが故に、町の住民も多くは人間に対して寛大であった。
セトが広場を抜け、裏路地に入ろうとするとまた声がかかった。
63
﹁よう、セト!今日は素通りか?﹂
﹁リタルド兄ちゃん!﹂
振り向いたセトの顔がぱっと輝く。声の主は、二年前までセトと
ともに長老の家で暮らしていた人間のリタルドだった。
色白なセトとは対照的に浅黒い肌を持つリタルドは、体格もセト
とは比べものにならないほど大きい。実際四つ年上なのだが、同年
代と比べてもがっしりとした筋肉質の体つきをしていた。髪も短く
刈り込まれていて、彫りの深い顔立ちがいっそう精悍に見えた。
そんな彼が血の付いた分厚い肉断ち包丁を肩に担いでいるとなれ
ば、戦いを終えて帰ってきた戦士とも思えるがそんなことはなく、
鎧の替わりに防水使用の前掛けを身につけている。グレンデルの元
を出て以来、肉屋に住み込みで働いているのだった。
﹁今日はいい豚が入ってさ。さっき捌き終わったところなんだ。夕
食にどうだい?お前、好物だろう?﹂
そう言われて、炙り焼きにした肉の油がしたたり落ちる様を想像
してしまい、セトは思わず生唾を飲み込んだが、あわてて首を振っ
た。
﹁だめだよ。そんなにお金、ないし。それにじいちゃん今調子悪い
から、肉なんて食べられないしさ﹂
断ったものの、一度想像してしまった肉の香ばしく焼ける匂いを
簡単には打ち消せず、店頭に並べられた切り肉から目が離せなくな
ってしまっている。そんな様子はまだまだ子供だなと、長年一緒に
暮らして弟のように感じている少年の姿にリタルドは苦笑した。
﹁わかったわかった。じゃあ俺が買って持っていってやるよ。じい
さん調子悪いなら、見舞いも兼ねてな﹂
﹁え、ホント!?﹂一瞬笑顔を浮かべて、それからまた表情を暗く
する。﹁でも、うち、本当にお金・・・﹂
セトを養っているグレンデルはこの地の領主であるが、現在は隠
居状態であることに加え、本人が清貧を好むことから、財産をほと
んど持っていない。今はセトらが面倒を見る鶏などわずかばかりの
64
家畜の肉や卵をたまに売る以外に収入はなく、グレンデルを慕って
訪れるものたちが置いていく食料や貨幣をやりくりして生活してい
るのが実状だった。無駄遣いをする余裕はないのだ。
もっとも、領主を慕っている、という点ではリタルドも同様であ
る。
﹁俺が買う、って言っただろ。春祭り用に貯めてあった分を一足先
に崩せばいいだけだから大丈夫。俺の分と、お前の分。それと・・・
女の子いたよな。名前は・・・﹂
﹁シイカ﹂
﹁そうそう、シイカ。三人分持っていけばいいだろ?﹂
﹁・・・うん!﹂
満面の笑みを浮かべるセトにつられて笑いながら、リタルドはシ
イカの姿を脳裏に描いた。ちょうど自分が家を出たのと入れ替わる
ようにして長老の家に入った女の子なので、面識はあるが一緒に暮
らしたことはない。セトとそう変わらない歳らしいが、詳しいこと
は知らなかった。
ただそのはかなげな面立ちと、自分などが乱暴にさわったらそれ
だけで壊れてしまうのではないか、と感じる身の細さが印象に残っ
ている。
その姿を思い浮かべて、リタルドはちょっと不安げにつぶやいた。
﹁あの子・・・肉なんか喰うのか?﹂
仕事が終わったら長老の家に行く、というリタルドと別れて、セ
トは裏路地に入った。長老の薬をもらいに行くのだ。
にぎやかな広場や表通りと違って、一歩入っただけで静かになり、
空気すらヒヤリと冷たくなったように感じられる。もともとこの町
は人間が暮らしていた町をほぼそのまま使っているので、大通りは
ともかく、狭い裏路地は体の大きなものも多い魔族には使いづらい。
そのためたまにすれ違うのもほとんどが人であった。
裏路地のちょうど中程に、セトの目的地があった。住居のたたず
65
まいは人が使っていたほぼそのままなのに、入り口の扉だけより大
きなものに造り替えられている。いかにも無理矢理といった風情で
バランスが悪い。その無理矢理な扉の上端に、お手製の看板が掲げ
られていた。実はその看板はセトがまだもっと小さな頃に作ってあ
げたものであった。
﹁がんふぁのくすりや こちら﹂
作ってからだいぶ経ち、セトはいい加減恥ずかしいのではずして
くれと頼んでいるのだが、いっこうに聞いてもらえない。まだ背丈
が足りなくて看板に手が届かず、自分でははずせないので、セトは
早く大きくなって自分であの看板をはずそう、と思っていた。
そんなことより今は薬をもらおうと、セトはドアノブに手をかけ
引いた。ノックはしない。ノックをしたところで返事が来たためし
はないのだ。ちなみにいちおう店舗型住宅なので扉の脇にはカウン
ターが設置され、そこで商売ができるようになっているのだが、こ
の薬屋の主がそこを使っているところを見たことは一度もなかった。
扉を開けて中にはいるとすぐに階段があり、二階に上がるように
なっている。光が入ってこないので薄暗く、少し湿っぽい。これは
薬草の品質を保つためにわざとそうしているのだと聞かされていた。
﹁ガンファ、来たよ!﹂一応大声でそう声をかけてから、階段を上
がっていく。石造りの階段はそれほど広くない上、ところどころ端
っこに薬が入っているらしい壷が無造作に置いてあって、気をつけ
ないと蹴りとばしそうになる。セトは幼い頃実際にこの壷を割って
しまったことがあって、ひどく怒られたのを覚えていた。
階段を上がってすぐの部屋をのぞき込むと、先ほどから漂ってい
た薬の独特のにおいが強くなって、セトの鼻をつんとついた。
床の上は衣類や何かの書類が散乱しており、テーブルの上には食
べかけの食事︵といってもさっきまで食事をしていたわけではなく
て、ずっと放置されているようだ︶。全く整頓されていない室内で
あったが、奥に設置されている薬草棚の中だけは、いつでもしっか
り整理整頓されていることをセトは知っていた。
66
その棚の隣にある大きな作業机の上で、薬屋の主、ガンファが今
も作業に没頭している。セトの方には背を向けたままで、来客に気
づいている様子は全くなかった。
﹁ガンファったら﹂
背中に向けて声をかけても一向に気づく様子はない。作業がはか
どっている時はいつもこうなのだ。つきあいの長いセトは慣れっこ
なので、ひとつ息をつくと散らかった部屋を片づけ始めた。
ガンファはセトの倍はあろうかという巨漢なので、服を畳むのも
一苦労だ。それでも何とかやっつけて、次いで散らばった書類をま
とめてテーブルの上に置いたあたりで、ようやくガンファはこちら
に気づいたようだった。
﹁あれ・・・セト﹂
身体を半分回してこちらをみたガンファは、目玉が一つしかなか
った。両目の片側を失ったという意味ではなくて、元から一つだけ
の目玉が顔のほぼ中央に付いているのだ。
単眼の巨人・ガンファは、その風貌にはおよそ不似合いなのんび
りした口調でセトに話しかけた。
﹁いつ来たの・・・?﹂
﹁さっきからいたよ。ガンファ、ちっとも気が付かないんだもの﹂
﹁そうか。長老の、薬、かい・・・?﹂
ガンファはいつもゆっくりとしゃべる。驚かせてもゆっくりと驚
くし、怒るときも一言一言、噛み砕くようにして怒る。セトはそん
なガンファが大好きだった。一緒にいるだけで自分の心までもが落
ち着いて、澄んでいくような気持ちになるのだ。
﹁うん﹂セトがうなずくと、ガンファはゆっくりと腰を上げた。薬
草棚の一番上の引き出しを開けて、調合済みの薬が入った小さな包
みをいくつか取り出す。
それらを一つの麻袋にまとめて入れると、セトに手渡した。
﹁はい。分量は、いつもと、同じだから﹂
﹁ねぇ、ガンファ。もっとよく効く薬はないの?﹂
67
セトは思わずそう尋ねてしまった。
ガンファを信用していないわけではない。むしろ、ガンファの薬
草師としての腕前は一級品であると、セトは信じていた。だが一方
で、グレンデルが体調を崩す頻度は日に日に増しているのだ。
セトの不安を読みとったガンファは、優しい笑みを浮かべた。
﹁セト。薬はね、強ければいいというわけじゃ・・・ないんだ﹂
﹁・・・﹂
﹁老いれば弱るのは、人も、魔族も同じだよ・・・。長老は、もう
ずいぶん長い時を過ごされてきたんだ・・・。効力の強い薬を与え
ても、それは、毒にしかならない・・・んだよ﹂
セトは聡明な子供だったから、ガンファの言葉を理解することが
できた。そして柔らかく笑うガンファの表情の奥の悲しみを感じて、
下を向いた。
﹁・・・ごめん﹂
ガンファは何もいわず、その大きな手でセトの頭を優しく撫でた。
ガンファと別れ、薬屋を出る頃には、狭い路地の間の空がうっす
らと暗くなり始めていた。
﹁あれ、もうこんな時間だ﹂
セトの暮らす長老の屋形は町のはずれにある。少し急がないと、
着く頃には日が落ちてしまっていそうだった。
急ぎ足で路地をでて、広場にはいる。人が集まる中央広場は出店
もよくでているが、この時間になるとどの店もそろそろ店じまいを
始める頃で、昼間とは違ったざわつきが感じられた。
そのまま広場を抜け、帰り道の通りに入ろうとすると、正面から
やってきた人の奴隷が片手をあげてセトに挨拶した。見覚えのない
人だったが、セトは日頃の習慣で挨拶を返した。
すると、その人が笑顔を浮かべてこちらに近づいてきたので、セ
トは少し戸惑った。この町は奴隷に寛大とはいえ、顔見知りでもな
い人の奴隷に親しげに接触されることはこれまでほとんどなかった
68
のだ。
﹁きみ、セト君?﹂
﹁はい、そうです﹂
﹁グレンデル様のお屋敷に住んでいるんだって?生まれはどこなの
?﹂
戸惑いながらも、純朴なセトはやり過ごすということを知らない
ので、正直に答えた。
﹁どこで生まれたかは・・・知りません。小さい頃からずっと、こ
こでじい・・・長老に育てていただいたので﹂
﹁ふうん。サンクリークのあたりの出身に見えるよね。・・・ご両
親は?﹂
﹁・・・わからないです﹂
なぜそんなことを聞かれるのかわからず、セトは少し不安になっ
た。
﹁あの・・・すみません、ぼく、急いでるので﹂
﹁ああ、引き止めて悪かったね﹂
申し訳なさそうに言うと、意外とあっさり解放してくれた。
セトはぺこりと頭を下げて、その場を離れた。
残った奴隷のほうはというと、先ほどまで浮かべていた人当たり
の良さそうな笑顔を少しゆがめて、企み事をしているかのような表
情を浮かべていた。
﹁ふうん・・・近くでみると、確かに面影があるかな。まぁ、決ま
りだろう﹂
身を翻し、街門のほうへと歩いていく。
翌日には、この奴隷は町から姿を消していた。
69
平穏な日々の終わり
二
シュテンの町は、広場を中心にして役所や教会、食料品などを売
る市場が囲むようにして建ち、さらにそれを囲むようにして石造り
の住宅が建ち並んでいる。街壁を挟んでさらにその外側は農地で、
農地を耕す奴隷たちは町の外に建てられている簡素な木造の家屋に
住んでいる。この世界では標準的な都市の形態をとっていた。
魔族が支配するようになってからも、教会から聖職者が追われた
くらいで基本的には変わっていない。上位の魔族ほど中央広場に近
い住居を使い、人間の奴隷はそれら魔族を世話するものを除いて皆
壁の外にある木造住居に押し込められていた。
ただし、一部の魔族は身体の規格が人とは大きく違うので、狭い
石造りの家で生活することを良しとせずに、郊外にある比較的広い
木造の屋敷を使ったり、新しく家を建てて住んでいるものもいた。
この町の領主・グレンデルも町中には住まず、農地の側にある平
屋の屋敷で暮らしている。当然、セトもそこに住んでいた。
広場から家までは、結構な距離がある。広場をでる頃には空の色
がすっかり茜色に染まってしまっていたので、セトは急いで帰って
きたのだが、家に着く頃にはあたりはすっかり暗くなっていた。
町中には所々に魔法の力を使った街灯︵宝珠に魔力を封じ込め、
暗くなったら勝手に光るように呪文をかけたもの。この世界では一
般的︶が設置されているから、日が落ちても出歩けないことはない
が、街壁の外はそうはいかない。セトは、街門の門番にたいまつを
分けてもらい、その光を頼りに家に向かったのだった。
﹁おっ、帰ってきやがった﹂
家に帰り着くと、玄関の前でリタルドが待っていた。
70
﹁ただいま﹂
﹁遅かったな。日が落ちても戻ってこないから心配したぜ﹂
﹁ごめん。ガンファとお話してたら遅くなっちゃって・・・﹂
申し訳なさそうに肩をすくめるセトの背中を、リタルドは軽くた
たいた。
﹁ガンファはゆーっくり、しゃべるからなぁ。あいつの話聞いてる
だけでも日が暮れるよな。・・・まあ、入ろうぜ!もうメシの支度
もできてるんだ﹂
リタルドに背中を押されるようにして中へはいると、香ばしく焼
けた肉の匂いがプンと漂ってきた。テーブルを見やると、新年の御
祝い膳でもお目にかかれないような分厚く切られた肉が三枚、それ
ぞれ皿の上でうまそうな湯気を立てている。
﹁長老のところに行くって言ったらさ、旦那様がそれならってんで
売れ残りの中で一番いい肉を持たせてくれたんだ。俺、肉屋に奉公
しててよかったって、はじめて思ったぜ!﹂
リタルドがそう言って笑った。セトはよほど驚いたのか、ぽかん
と口を開けて固まってしまっている。・・・と思ったら、唐突にセ
トのおなかがぐうと鳴った。
﹁戻ったのか。・・・おかえり、セト﹂
老人の落ち着いた声はその音に被さるようにして発せられて、セ
トは赤面した。
﹁た・・・ただいま、じいちゃん。シイカも﹂
屋敷の主、長老グレンデルが、セトと同じように孤児でありなが
らこの屋敷で育てられている少女シイカに支えられながら奥の部屋
から姿を見せた。
グレンデルは一見して、人の老人と変わらない外見をしている。
頭髪はほぼ禿げ上がり、伸ばしたあごひげは白く染まっている。病
人と言うこともあってか頬はこけ、杖や介添え人なしでは歩くこと
も困難だ。だが優しい眼差しでセトを見るその目にはまだ力があっ
た。
71
グレンデルが言うには、自分の本来の姿は余りに大きいので、魔
法の力によって人と変わらない姿をとっているのだという。セトは
その﹁本来の姿﹂を、一度も見たことがなかった。
グレンデルを支えているシイカは、二年前リタルドが家を出たの
とほとんど入れ替わるようにしてこの家にやってきた少女で、正確
な年齢はわからないそうだが見た目ではセトと同じか少し下のよう
に見える。セトはこの家ではずっと自分が最年少だったこともあっ
て、半ば強引にシイカを自分の妹として位置づけていた。
シイカは印象的な銀色の髪を持っていた。顔立ちもなかなかに整
っており、全体的に線は細いが、しっかりと化粧をして着飾れば、
どこかの国のお姫様だと言われてもうなずいてしまうのではないか、
とセトなどは思う。
これほどきれいな娘が孤児だと、年頃になればほとんどの場合娼
館に連れていかれることになる。グレンデルの家で暮らした子供は
セトも含めてほとんどが物心着く前からここで暮らしており、シイ
カが例外的にある程度成長してからここへくることになったのは、
そういったところに理由があるのかな、とも考えていた。
シイカはまずグレンデルを食卓の席に着かせると、その隣の席に
着いた。それからやっとセトを見て、﹁おかえり﹂と言った。
セトは改めてシイカに﹁ただいま﹂と言ってから、ずっと手に持
ったままだったたいまつをかまどの薪にくべて、それからグレンデ
ルのところへ行き、﹁薬もらってきたよ﹂とガンファから受け取っ
た麻袋の中を開いて見せた。グレンデルがうなずくのを確認して、
キッチンの脇にある棚へとしまう。
全員が席に着くと、﹁よし、喰おうぜ!﹂というリタルドの号令
で食事が始まった。
食卓には小麦粉を水で溶いてかまどで焼いただけのごく簡単な薄
いパンのほか、町の住民が置いていった野菜を漬けた漬け物が並ん
でいる。普段はこれに市場で買ったりあるいは川でセトが穫ってき
たりした魚が並ぶか、あるいはなにもないかといったところだが、
72
今日はリタルドが持ってきた分厚いステーキが三人分並んでいた。
各々ナイフでステーキを好きな厚さに切り、ちぎったパンで挟む
ようにして食べる。肉は岩塩をふっただけのシンプルな味付けだが、
噛むと肉汁がこぼれんばかりにあふれてきて、ほっぺたが痛くなる
ほどのうまさだ。
漬け物と一緒に食べるのも、食感が変わるうえに酸味が加わって
違った味わいがありなかなかの味だ。グレンデルをのぞく三人は、
肉屋で働くリタルドを含めて滅多に口にできない肉の味わいに至福
を感じながら、夢中で食事を平らげた。
﹁ごちそうさまでした。ありがとう、リタルド兄ちゃん!﹂セトが
笑顔で肉を持ってきたリタルドに礼を言うと、シイカもそれに倣っ
てぺこりと頭を下げた。
﹁いやー、俺もご相伴に預かっちゃったしなぁ。お礼を言うなら、
やっぱ長老かな?﹂
﹁そういえばじいちゃん、肉どころかパンもぜんぜん食べてなかっ
たけど・・・まだ体調悪いの?﹂
セトの言うとおり、グレンデルは三人の食事中も漬け物をいくら
かかじっただけで、ほとんどなにも食べていなかった。
﹁いいや、今は体調はいいよ。食欲がないと言うより、たいして体
も動かしておらんから、食べる必要がないのさ﹂
﹁でも・・・﹂
﹁そんなに言うなら、おまえの分の肉、半分残したらよかったんじ
ゃないか?﹂リタルドにからかわれて、セトは口をとがらせた。そ
んなやりとりを、グレンデルは微笑みを浮かべながら眺めていた。
その後しばらく、四人で食卓を囲んだまま他愛もない会話に興じ
た。と言っても、このメンバーだとしゃべるのはもっぱらセトとリ
タルドの二人で、シイカとグレンデルは聞き役に徹している。セト
は、シイカがこの家にきたばかりの頃、あまりにも彼女がしゃべら
ないので、家になじめていないのではと心配したのだが、今では単
にそういう性格なのだと理解していた。
73
﹁そういえばさ﹂少し会話が途切れたので、セトは新しい話題をふ
った。﹁今日、広場で人間の奴隷に声をかけられたんだ﹂
それは、先ほどまでと同様に、ちょっとした世間話というつもり
だった。だが、それを聞いたリタルドがにわかに視線を険しくする。
﹁人間の奴隷・・・?知ってる奴か?﹂
﹁ううん、知らない人だった﹂
予想外に厳しい口調に戸惑いながらもセトが答えると、リタルド
は眉間にしわを寄せたまま、無言でグレンデルをみた。つられてグ
レンデルをみると、それまで絶やさなかった微笑みが消え、リタル
ドと同じように険しい顔をしている。
﹁なにを聞かれた?﹂リタルドが視線をセトに戻し、顔つきは厳し
いままで尋ねる。
﹁名前とか、出身はどこかとか・・・。何でそんなこと聞かれるの
かわからないし、日も暮れかけてたから、ほとんど答えないで帰っ
てきたんだけど・・・何かまずかった?﹂
﹁いや・・・﹂リタルドはそう答えたものの、それきりセトから視
線をはずし、考え込んでしまった。
﹁やっぱりまずかった?奴隷同士が勝手にお話をするのって、禁止
されてるところもあるんでしょ?﹂
セトはいけないことをしたから叱られると思い、肩を小さくすく
めながらそう聞いた。しかしリタルドは不安げなセトの声を聞いて
我に返ったかのように表情を明るくした。
﹁いや、確かにそう言う場所もあるらしいが、この町じゃそんなこ
とはないよ。ただ珍しいなってだけさ!﹂
そう言うとやおら立ち上がり、食器を片づけ始める。セトとシイ
カが手伝おうとすると、﹁ああ、俺がやっておくからいいよ。それ
よりもうこんな時間だ。子供はさっさと寝ろ!ほら!﹂と半ば無理
矢理に、ふたりを寝室に押し込んでしまったのだった。
寝室から聞こえていた不満げなセトの声がやっと聞こえなくなっ
74
たので、リタルドは食器を片づけると再びグレンデルの向かいに座
った。
﹁・・・どう、思います?﹂
生来彼が持っている、周囲に明るさを振りまく笑顔が今は消え、
真剣な表情を浮かべている。
﹁見つかっただろうな﹂
グレンデルはリタルドほどには切羽詰まった風ではないが、表情
は渋いものであった。
﹁来るでしょうか﹂
﹁探しておったのだから、来るであろうよ﹂
リタルドの聞かずもがなの問いに薄く笑う。だがそれは、どこか
しら自嘲的な笑みにも見えた。
﹁戦争が終わって十年以上。ひょっとしてもう来ないのではないか、
などと思ったこともあったが・・・。さすがにそれは甘かったか﹂
﹁どうしますか﹂
﹁せめて今のおまえと同じくらいの年頃まで成長していれば、何か
違う選択肢もあったかもしれんが・・・。セトは利発だが、すべて
を受け入れるには純粋すぎる。・・・まだ子供なのだ﹂
﹁では﹂
グレンデルはしばらく目を閉じた。そして再び目を開けたとき、
その表情からは先ほどまで浮かべていた悲壮なものは消えていた。
﹁すまんが、明日はガンファのところへ行ってくれ。準備をしても
らわなければ﹂
病人らしく漂わせていたけだるさのような気配も消え、かつて魔
族の将軍であったころの威厳を取り戻したかのように、はっきりと
した口調でそうリタルドに告げた。リタルドは思わず頭を垂れて﹁
はい﹂と返事をする。
話が終わり、リタルドが寝室へ消えると、グレンデルはまた少し
だけ相好を崩し、子を想う老爺の表情になった。揺れながら燃え続
けるかまどの火を見つめてつぶやく。
75
﹁せめて祭りが終わるまで、待ってはくれんものかな・・・・﹂
翌日は、なにも起こらなかった。リタルドは朝早くにグレンデル
の家を辞し、セトとシイカは飼っている鶏の世話をしたり、農家の
手伝いをしたりしていつも通りの一日を過ごした。
事件といえば、春祭りの実行責任者であるリーヤーが、奴隷がひ
とりいなくなったと騒いでいたくらいだ。数ヶ月前にこの町に来た
逃亡奴隷のひとりだが、出身がちょうどこのあたりで戦前に行われ
ていた祭りの様子などにも詳しかったので、執行役員として抜擢し
たのだ、ということだった。
グレンデルはこの話を聞いても表情を変えなかった。セトに確認
するまでもなく、この奴隷が昨日セトに声をかけた奴隷だろう。わ
ずかに残っていた楽観的な予測││こちらのはやとちりではないか
││がこれで消えたというだけだった。
今年の収穫を願う春の祭りは二日後に迫っていたが、子供たちと
ともにその日を楽しむことは出来そうもなかった。
次の日。いい天気だったので、セトとシイカは飼っている鶏を小
屋からだして、庭に出した。遠くへ行くことはないし、勝手にその
辺で虫をつついたりするので飼料代の節約にもなる。
そのまま外に出ようとすると、グレンデルに呼び止められた。今
日は一日、家にいるようにと言うのだ。
シイカは素直にうなずいたが、セトは少しだだをこねた。昨日も
手伝った農家の手伝いを今日もすることになっていたからだ。そし
てそれが終わったら、明日のお祭りのために少しお小遣いをもらえ
ることになっていたのだが、それはグレンデルには内緒だったので
黙っていた。
どちらにしても、グレンデルの言いつけに逆らうことは出来ない
ので、セトは渋々家に残った。シイカは糸を紡ぎ、セトは家の中の
掃除をしたりして過ごした。
76
昼過ぎに食事をとる。先日はリタルドが夜に来たので夕食が豪華
だったが、普段は昼食の方がメインの食事になる。・・・といって
も、清貧を良しとするこの家だから、あの日の夕飯から肉を抜いた
だけに近い。つまり、パンと漬け物。他には森で採ってきた果実を
煮込んだジャムくらいしかなかった。育ち盛りのセトにはだいぶ物
足りないが、文句を言ってもしかがないので、せめてパンにはたっ
ぷりジャムを塗って食べた。
夕方になり、日も傾き始めた頃、ガンファが家にやってきた。
ガンファはいつも薬屋にこもっていて、滅多に外に出てこない。
少なくともセトはそう思っていたので、たいそう驚いたが、ガンフ
ァが﹁長老は?﹂と聞いたので、薬の効き具合を聞きに来たのかと
思い、奥へ通した。
しばらくすると、グレンデルが奥から出てきた。険しい顔をして
いるが、体調が悪いようには見えない。
﹁セト、シイカ。話があるから、奥に来なさい﹂
それだけ言うと、すぐに引っ込んでしまった。
グレンデルがわざわざ﹁話がある﹂と言って、部屋へ呼ぶという
ことはあまりないことだったので、セトは少し緊張した。シイカも
心当たりがないのか、少し不安そうな顔をしている。
ふたりが部屋へはいると、グレンデルはいすに座り、ガンファの
姿はなかった。裏口からどこかへ出ていったようだ。
﹁少し長い話になるかもしれない。ふたりとも座って聞きなさい﹂
言われて、ふたりとも腰を下ろす。部屋にはもう椅子はないので、
床に直接座った。
﹁セト、おまえは自分の両親のことを覚えているか?﹂
グレンデルにそう尋ねられて、セトはすぐに首を横に振った。
﹁ううん。だって僕は赤ん坊の時にここへ預けられて、それからず
っとじいちゃんが育ててくれたんでしょう?覚えているはずないよ﹂
グレンデルはそうかとうなずき、一拍おいてから、告げた。
77
﹁今から話すのは、おまえの両親についてだ﹂
﹁!﹂
セトは絶句した。彼は今の自分の生活に満足していたから、記憶
にない両親のことを積極的に知ろうとしたことはなかった。とはい
え、もちろん興味がないわけではなかった。
﹁僕の、お父さんとお母さん・・・﹂
﹁そうだ﹂グレンデルは念押しするようにもう一度うなずいた。﹁
だが、楽しい話ではない。少し待つから、聞く覚悟が出来たら言い
なさい﹂
そういってグレンデルはいったん黙ったが、セトはさして間をお
かずに答えた。
﹁大丈夫、聞けるよ﹂
グレンデルはセトの眼を見て、その瞳が動揺に揺れていないこと
を確かめた。
﹁ならば話そう。シイカにも聞かせるが、いいか?﹂
セトはうなずいた。シイカもセトの隣で、緊張した面もちでグレ
ンデルを見つめている。グレンデルはひとつ息をつき、話し始めた。
﹁おまえの母親は、今はない人間の王国の姫君だった。若い頃から
その美しさが国を越えて噂になるほどだった。まだ戦争が本格的に
始まる前のこと・・・わしは魔族の将軍のひとりとして魔王ととも
にこの世界にやってきた。そして最初に命じられたことが・・・そ
の姫を誘拐することだった﹂
セトは表情を変えずにグレンデルの話を聞いていた。まだあまり
現実味を感じていないのかもしれない。
﹁気の進む仕事ではなかったが、わしは組織の一員としてことを成
し遂げた。姫は当時、ちょうど今のおまえと同じくらい・・・。一
五くらいの少女でしかなかったが、噂通りにたいそう美しかった。
わしはそのまま、姫を人里離れた洞窟の中に監禁した。そうしてし
ばらく監視していると、姫はただ美しいだけではなかった。利発さ
があり、王族としての気品と矜恃にあふれていた。わしのことを含
78
めてそれまで見たことのなかっただろう、姿形の全く違う怪物ども
に囲まれて恐ろしくないはずはなかろうに、それをおくびにも出す
まいとしてがんばっておった﹂
﹁じいちゃんは、じいちゃんの格好をしていたんじゃないの?﹂
﹁姫をさらい、監禁するようなってしばらくはしていなかった。わ
しの魔族としての本来の姿をさらしておった。だが、そのうちにわ
しは姫に興味がわいてな。魔法を使ってこの姿をとり、姫に話をし
にいった。・・・不思議な魅力のある娘じゃったな、あれは。洞窟
に閉じこめられる前も、ずっと城に閉じこめられておったから、と
ころどころ無知ではあった。だが好奇心が強いのか、いろんなこと
を知りたがった。魔族の住む世界はどんなところなのか、とかな。
身の回りの世話をさせていた小人の魔族といつの間にか仲良くなっ
ていたりもした﹂
セトは初めて聞く見知らぬ母親と育ての親の昔話に、身を乗り出
して聞き入っていた。その姿勢がちょうど、もっとお話を聞かせて
とせがむ姫の姿と重なって、グレンデルは自然と微笑みを浮かべた。
﹁いつしかわし自身が、姫に情を移していた。姫もわしのことを気
に入ったのか、わしの姿を見ると駆け寄ってくるようになった。監
禁も少しずつゆるめ・・・これは魔王には報告しとらんのだが、一
年ほど経った頃には、姫が洞窟を出ることも自由にさせていた﹂
セトは驚いた。﹁逃げ出さなかったの?﹂
﹁もちろん監視はつけておったさ。・・・といっても、女の足で逃
げ出せるようなところでもなかったがな。むしろ迂闊に山奥に入っ
て足でも滑らせたらかなわんし、あの洞窟の周辺は魔王の軍に属さ
ない凶暴な魔物もおった。監視というより護衛に近かったかもしれ
んな﹂
セトはうれしそうに笑った。﹁じいちゃんは優しいもんね﹂
﹁そしてそれからもう一年あまり、姫をさらってから二年と少し経
って、洞窟まで姫を救いにきたものが現れた。姫の王国の騎士。・・
・後におまえの父親になる男だ﹂
79
﹁・・・お父さん﹂
﹁そうだ。わしは姫を洞窟の奥へ隠し、本来の姿に戻って戦いを挑
んだ。わしは火を吹き、雷を落とし、手足を振り回して戦った。だ
がその男はたいそう強かったし、わしがどれほど追いつめてもあき
らめることをしなかった。そしてついに、わしは敗れた。・・・わ
しは死を覚悟したが、そこへ姫が・・・おまえの母親が洞窟から出
てきて、わしを殺すなといった。男は渋っていたようだったが、自
分の国の姫君が身を投げだして嘆願するのを、むげにするわけにも
いかずに最後は受け入れた。ただし、わしに二度と魔王に協力しな
いという条件を飲ませた上で、な﹂
﹁それで・・・どうなったの?﹂グレンデルが少し言葉を切ったの
で、セトが催促するように聞く。グレンデルは少しだけ申し訳なさ
そうに声の調子を落とした。
﹁ここから先のことは、実はそれほど詳しくは知らんのだ。わしは
男の出した条件を守り、それきり魔王の元へは行かなかったからな。
人づてに聞いた話で、男がその後魔王に挑み敗れたらしいと知った。
それから、本格的に戦争が始まった。わしの元にも召集がきたが、
年をとりすぎてもう身体が動かんといいわけをして・・・まぁ嘘で
はないんだが、とにかくそう言って無視したまま、姫を監禁してい
た洞窟でそのまま生活していた﹂
﹁お父さんは魔王に負けて・・・死んじゃったの?﹂
﹁まだ続きがある。戦争になって一年ほど経った頃、わずかな護衛
だけを連れて、姫がわしの暮らす洞窟へとやってきた。それだけで
わしはたいそう驚いたが、姫がその胸に赤子を抱いていたのを見て
さらに驚いた﹂
﹁それって・・・﹂﹁そう、おまえだ﹂身を乗り出したセトにうな
ずいた。
﹁姫は、わしに息子をかくまってほしいと言ってきた。戦争は敗色
濃厚で、おまけにすでに敗れた国では降伏したものも含め王族は皆
殺しになっているという。自分には王族として生まれ育った宿命を
80
受け入れる覚悟があるが、生まれたばかりのこの子にまでそれを背
負わせるのは余りに忍びない、と言ってな。わしはその申し出を受
けた。戦争が終わるまでは洞窟に隠したが、戦後はここに領地を与
えられたので、洞窟に隠しておくことは出来なくなった。そこで、
戦争で親を失った人間の子供を集めて、おまえのこともその中で育
てることにした。木を隠すには森の中、ということだな﹂
﹁お母さんは、どうなったの?・・・お父さんは?﹂
﹁おまえの母は、その後国へ帰り・・・落城とともに捕らえられ、
ほかの王族とともに首をはねられた。残念なことに、な﹂
母の死を告げるその言葉は、セトにとって暗く、重く響いた。し
かし一方で現実的にすべてを捉えきれないのも事実で、自分自身よ
りもグレンデルの方が悲しんでいるようにも感じられた。
グレンデルはセトの母が誰に殺されたのか知っていたが、その事
実はセトに告げなかった。ただでさえ一度に知るには重すぎること
を伝えている。これ以上の重い事実はセトが耐えられないと考えた
のだった。
﹁お父さんも、殺されたの?﹂
﹁・・・いや。おまえの父は、生きている﹂
それは、セトにとって予想外の答えだった。だが、うれしいこと
であるはずのその言葉が、全くそう聞こえなかったのは、グレンデ
ルの口調が母の死を語ったときの重苦しさのままだったからだ。
﹁おまえの父は、おまえの母を・・・王国の姫君を救い出したこと
で英雄視され、勇者と呼ばれていた。しかし魔王に挑んで敗れたと
き、その男は魔王に服従することを選んだのだ。そしてそれまで仕
えていた王国と、自分を誉めたたえた民衆に牙をむいた。魔王軍の
先鋒として戦に参加し、多くの国を滅ぼしたのだ﹂
セトは声を出せないでいた。一度に多くのことを語られているせ
いか、すべての事態が飲み込みきれないでいる。
﹁わしと戦ったときのそいつは、王国と姫にひたむきに忠誠を誓い、
自分の愚直ささえ誇りに思っているような、正義感にあふれた男だ
81
った。だが、魔王との戦いに敗れたことで変わってしまったのだろ
う。人間と戦うことを厭うどころか、積極的に戦いに赴いたらしい﹂
セトは動けずにいた。隣でやはり黙ったまま話を聞いていたシイ
カが、セトの服の袖をそっと摘んでも、視線を動かすことさえしな
かった。
﹁やがて戦争が終わったが、魔王はわずかに生き延びた王族を許さ
なかった。抵抗しようがしまいが、残さず捕らえて首をはねた。そ
の仕事も、おまえの父親が命じられ、実行した﹂
分厚い堅パンを、むりやりのどの奥に押し込まれているように感
じられた。必死に咀嚼しようとしても、ちっとも身体の中へ入って
いかない。それでも何とか少しずつ飲み込んで、理解しようとして
いた。
﹁聞いた話では、魔王の命令はすでに達成されたらしい。すなわち、
系譜に連なる王位継承権を持った王族は残らず抹殺された、とな。
だが、その男は今でも各地を回り、隠された王族がいないか探して
いるのだ。・・・おまえは先日、見知らぬ人間の奴隷に声をかけら
れたと言ったな?﹂
﹁えっ?・・・うん﹂突然全く関係なさそうなことを聞かれて、セ
トはきょとんとした。
﹁その奴隷が昨日姿を消したと、リーヤーが騒いでおった。そいつ
は間違いなく、諜報員だ。おまえのことを見つけて、報告するため
に消えたのだ﹂
﹁・・・僕?﹂セトは話がつながらずに困惑している。
﹁おまえの母は、王国の姫君だったと言っただろう。おまえは王族
の息子・・・つまり、おまえ自身も王族なのだ﹂
﹁え・・・ええっ?﹂セトは思わず声を上げてしまった。今までず
っと奴隷だと言われて、そのつもりで生活していたのに、急に王様
の仲間だと言われても、頭が混乱するばかりだ。
だが、すべてを理解できるまで、待ってやれる余裕はもうない。
﹁セト、おまえはこの町を出なさい﹂
82
﹁町を・・・出る!?﹂
﹁そうだ。早ければ今日にも、臨検隊がくる。そのときにおまえが
見つかれば終わりだ。裁判にかけられることさえなく殺されてしま
う。ガンファに手はずを頼んでおいた。一緒に逃げるんだ。それか
ら、シイカも連れていっておくれ。どのみちわしは処罰を受ける。
もう面倒を見てやれんからな﹂
﹁じいちゃんは?じいちゃんは、一緒にこないの?﹂
﹁わしは隠居の身とはいえ、この町の領主だ。領民を捨てて逃げる
わけにはいかん。それに、わしの身体はもうボロボロだ。長い移動
はできんよ﹂
﹁でも・・・ガンファがいなくなって、お薬はどうするのさ!﹂
グレンデルはおもわず表情をゆるめた。理解が追いつかず、混乱
しているのももちろんあるのだろうが、こんな事態になっても自分
の身体の心配をしてくれるセトの優しさがうれしかった。
このまま何事もなく大人になることができるのなら、どんなすば
らしい青年になっていくのだろうか。
﹁セト・・・聞きなさい﹂
グレンデルは椅子から降り、身体を屈めてセトと目線を同じくし
た。セトのまだ細さを感じさせる両腕をしっかりとつかみ、正面か
ら大きな瞳をのぞき込んだ。
﹁おまえの母の願いは、おまえに人並みの幸せを与えてほしい、誰
かを愛するということを教えてやってほしいということだった。わ
しがかなえてやることは出来なくなったが、おまえも一人前まであ
と少しだ。これからは自分の力で、母親の願いをかなえなさい﹂
グレンデルは自分のふところを探り、何か取り出した。銀の首飾
りだった。小さいが精巧な竜の彫刻に、深緑の宝石がはめ込まれて
いる。チェーンも銀でできており、豪奢ではないが気品のある美し
さを持っていた。
﹁これは、おまえを母親から預かったとき、一緒に置いていったも
のだ﹂グレンデルはセトの首に手を回して、首飾りをつけてやった。
83
﹁渡すか迷ったが、やはり渡しておこう。・・・母の形見だからな﹂
﹁お母さんの・・・﹂セトはつぶやき、首飾りの先に下がる小さな
竜を手に取った。これを母もつけていたのだろうかと思うと、何と
も不思議な感じがした。
﹁だが、他の魔族や人に見せてはいけないよ。おまえの素性を証明
してしまうかもしれないからね。そうでなくても今の時分、人間が
持つには高価すぎる代物だ。心ないものに見つかったら襲われかね
ない﹂
言うべきことは全て言ったとばかりに、グレンデルは立ち上がっ
た。外を見るとすでに日は傾き、屋敷を囲む空は夕焼けに染まって
いた。。
﹁さあ、もう行きなさい。夜に紛れて逃げれば、すぐには追いつか
れない。だから││﹂
﹁じいちゃん!﹂グレンデルの言葉を遮るようにして、セトが叫ん
だ。
﹁僕、逃げたくないよ。お母さんの願いは、僕に幸せになってほし
いってことだったんでしょ?それなら、もうかなってる。僕はずっ
と幸せだったもの。じいちゃんも、ガンファも、シイカも、リタル
ド兄ちゃんやこの町のみんなも、みんな好きだもの!﹂
﹁セト・・・﹂
﹁だから、僕は残るよ。ここから離れたくなんかない。たとえそれ
で死んでしまったって、かまわない﹂
セトは立ち上がり、まっすぐにグレンデルを見ていた。動揺して、
一時の気の迷いで言っているのではないということはその瞳を見れ
ばわかった。この子はこの子なりに言われたことを精一杯理解して、
その上で必死の決意をしたのだ。
だが、それを認めてしまうわけにはいかない。
﹁セト、わしは三千年生きてきた。その中ではいいこともあったが、
嫌なこともたくさんあった。他の種族と比べてもあまりに長いその
寿命を、恨みさえしたこともあった。だが、長く生きたからこそ、
84
こうしておまえに会えたのだ﹂
セトは目を逸らさずに、グレンデルを見つめたまま、無言でいる。
﹁若者は生きること、年寄りは若者を生かすことが使命だ。それは
人も魔族も、すべての生命に共通した命題だ。・・・わしの願いで
もある。母の願いはかなったというのなら、わしの願いをかなえて
くれ﹂
最後はあえて、卑怯な物言いをした。セトは下を向いた。
﹁セト・・・行こう﹂セトの袖を引いて、そっとそう言ったのはシ
イカだった。﹁これ以上、おじいちゃんを困らせたら、ダメだよ﹂
セトはシイカを見、グレンデルを見て・・・ゆっくりと、うなず
いた。﹁わかった﹂
﹁・・・すまん﹂
﹁じいちゃん。お母さんとお父さんの名前、教えて﹂
セトに聞かれて、グレンデルはそういえば一度も名前を言わなか
ったと気づいた。
﹁母親の名前は、シフォニア。本当はもっと長い名前があったらし
いが、わしはその名前しか知らん。父親の名前は、フェイ。フルネ
ームは、フェイ・トスカという﹂
﹁お母さんが、シフォニア。お父さんは、フェイ・・・﹂
セトは一言一句をかみしめるようにしてつぶやくと、いつもより
も少しだけ弱々しい笑顔を浮かべた。﹁ありがとう、じいちゃん﹂
それからセトとシイカのふたりは寝室に行って身支度をした。と
はいえ、もともとふたりともほとんどものを持っていない。普段着
の上に外套を羽織るくらいで支度は済んでしまう。
セトは剣術の練習に使っていた木剣を持っていくか悩んでいたが、
そこへグレンデルがきて声をかけた。﹁セト、剣はこれだ﹂
グレンデルが持っていたのは、黒塗りの鞘に収められた長剣だっ
た。渡されるとずっしりと重い。おそらく真剣だろう。セトは若干
緊張しながら柄を持ち、鞘から少しだけ引き抜いてみると、両刃の
85
直刀だった。銀色の刀身が鈍い輝きを放っている。
﹁それは、おまえの父・・・フェイ・トスカがかつて使っていた剣
だ﹂グレンデルがそう言った。﹁かつてわしと戦ったときに、刃こ
ぼれして使いものにならんと置いていったものを鋳なおしてある。
まだおまえには少々大きいが、木剣よりは信頼できるだろう﹂
鞘ごと腰帯にさしてみると、柄の先が胸のあたりまできて、確か
に少々不格好だ。剣術を教えてくれた魔族はセトのことを筋がいい
と誉めてくれたが、木剣しか使ったことのないセトにとっては重す
ぎるし長すぎる。すぐにこの剣を使って立ち回りができるとは思え
なかった。
﹁以前にも言ったことがあるが﹂不安げな表情を浮かべるセトをグ
レンデルが諭す。﹁武器は戦いに使うものではなく、戦わぬ為に使
うものだ。いざとなれば戦う力がある、それを示せればそれでいい。
そのことを肝に銘じておきなさい﹂
グレンデルは靴も用意してくれていた。普段使っているのは裸足
と変わらないようなボロボロのつっかけサンダルで、誤ってとがっ
た石でも踏もうものなら思わず飛び上がってしまうような代物だっ
たが、これは長旅用にしっかりと編み込まれたもので、かかともあ
るから不意に脱げたりもしない。
﹁裏にガンファが獣車を回している。それに乗っていくんだ。食料
や当面の路銀、最初の目的地もガンファに伝えてある﹂
グレンデルはセトとシイカの二人をまとめてその胸にかき抱いた。
最後とばかりに強く抱きしめる。
﹁気をつけていきなさい、ふたりとも。・・・達者でな﹂
﹁ありがとう、おじいちゃん。・・・さようなら﹂
シイカが気丈に別れの言葉を述べた。セトはこれ以上はなにを言
っても泣いてしまいそうだった。﹁じいちゃん・・・﹂何とかそれ
だけ絞り出したが、あとはもうなにも言えなかった。
﹁セト、シイカのことを頼む。この先危険な目に遭うことがあった
ら、この子を守ることを最優先にするんだ。それが、おまえ自身を
86
守ることにもなる﹂
﹁うん、守るよ・・・僕、お兄ちゃんだもんね﹂
﹁そうだ。頼んだぞ﹂
グレンデルが二人の肩にまわしていた腕を解き、身体をはなした。
セトはグレンデルの顔をじっと見据えたまま二歩、三歩と下がり・
・・やがて決心したのか勢いをつけてくるりと後ろを向くと、﹁行
こう、シイカ﹂ほんの少し震えた声でそう言った。
シイカもうなずき、セトの後ろについた。ふたりはそれきり振り
向かず、部屋の奥にある裏口の簾をかきあげて、ゆっくりと出てい
った。
グレンデルはその様子を、目をそらすことなく見つめていた。簾
が元通りに裏口を覆い隠し、さらさらと揺れる音も聞こえなくなる
と、室内は静かになった。
﹁生き延びておくれ・・・私の子供たち﹂
グレンデルはつぶやいた。魔法の力が現存するこの世界では、言
葉にも明確な力があると考えられている。自らの言葉が、これから
つらい逃避行を敢行しなければならない彼らの力になるように。つ
かの間目を閉じ、言葉が彼らに届くよう祈った。
魔族は神に祈らない。その存在を信じていないのではなく、神が
個人の想いに応えることはないと考えているからだ。だから祈りは
天に向けて行うのではなく、祈りを届けたい存在がいる、その地を
思い浮かべ、そこへ向かって祈る。この世界で神に向けて祈るのは
人間だけだった。
87
誰が為に
三
セトたちを送り出してから半クラム︵約一五分︶ほど経った頃、
表口の方であわただしい足音が響いた。グレンデルが様子を見に出
向くと、息を切らせて立っていたのはリタルドだった。
﹁・・・セトたちは?﹂挨拶もせず、リタルドがたずねた。焦って
いるようだった。
﹁少し前に出ていった﹂グレンデルは淡々と答えた。﹁おまえも行
くなら急ぎなさい。馬か何かを使えば、追いつくだろう﹂
リタルドはグレンデルの元で育った子供たちの中で、一番最後に
グレンデルの元を離れた子供だった。セトのことを実の弟同然にか
わいがり、セトもやはり実の兄同然に慕っていたから、リタルドが
セトについていきたいと考えても不思議はなかった。
だが、グレンデルの言葉にリタルドは首を振った。
﹁俺はもう、この町の住民です。セトも心配だけど・・・この町の
中で生きていくって、決めましたから。・・・それより﹂
リタルドは一度息をつき、呼吸を落ち着かせた。それでも険しい
表情は変わらない。
﹁臨検が、きました。今、街門でリーヤーさんが時間を稼いでくれ
てますけど・・・﹂
﹁そうか・・・やはり、早いな﹂グレンデルの表情は変わらなかっ
た。﹁フェイ・トスカが来ているのか?﹂
その問いに、リタルドは無言でうなずいた。
﹁ならば、わしが行かねば抑えられまい﹂そう言うと、しっかりと
した足取りで歩き始めた。リタルドがあわててついていく。
﹁あの・・・お身体は?﹂病人とは思えぬ歩調に思わずそう訪ねる
と、グレンデルはこともなげに言った。
88
﹁最後の仕事だ。少しばかりは無理もするさ﹂
屋敷を出ると、外はすでに薄暗かった。雲はなく、月が皓々と輝
いている。グレンデルは灯りも持たずに進み、リタルドがたいまつ
を持って続いた。
グレンデルの歩調は早かった。リタルドはこの老人についていく
ために、時折早足にならなければならなかった。ついこの間まで支
えられなければ歩けなかったはずなのに、ガンファの薬がよほど効
いたのだろうか?
やがて街壁か見えてきたが、そこへたどり着く前に、いくつかの
灯りがグレンデルたちの方へ向かって進んでくるのが見えた。グレ
ンデルは立ち止まり、リタルドも従った。
﹁・・・来たか﹂
灯りがこちらに近づくにつれ、その姿も確認できるようになって
きた。人数はそれほど大勢ではないが、みな武装しているようだっ
た。一番前を半魚人のリーヤーが、魔法の灯りを持って先導してい
る。そのすぐ後ろに、グレンデルには見覚えのある人間の姿があっ
た。
フェイ・トスカは、鎧の上下をしっかりと着込み、剣も背中に担
いでいるようだった。かぶとはつけておらず、顔は露出しているが、
戦闘態勢といっていい。
フェイのほか十数人の魔族の兵士や、小間使いとして使っている
のであろう小鬼姿の魔物がつき従っている。
フェイは、グレンデルから七ログ︵約四・九メートル︶程度離れ
た位置で立ち止まった。﹁こちらが││﹂リーヤーがフェイの脇に
立って互いを紹介しようとしたが、フェイが強烈な目つきで睨みつ
けると、ヒッと息をのんで黙ってしまった。
﹁ずいぶん貧相になったな、じいさん﹂
フェイは何事もなかったかのように視線を戻し、老人の姿で自分
の前に立つグレンデルを睨めつけるようにすると、小馬鹿にしたよ
89
うな薄い笑いを浮かべてそう言った。
﹁おまえはずいぶん物騒になったじゃないか﹂
グレンデルも言い返す。フェイが身につけているのはかつて姫を
救いに現れたときの白を基調とした騎士鎧ではなく、暗い紫と黒を
ベースにした重鎧である。
﹁立場にふさわしい格好というのがあるのさ。人の身で魔族の将軍
などやってるものでね。下にみられないためには外見も重要なのさ・
・・あまり趣味じゃないんだがね﹂
フェイは冗談めかすように両肩をあげ、首を振った。
﹁さてと、旧交を温めるのはこれくらいで、本題に入ろう﹂口元の
笑みは消えなかったが、目つきの鋭さが増す。﹁返してもらいにき
たんだ・・・俺の息子をね﹂
﹁・・・﹂グレンデルは答えなかった。
﹁どこかにはいるんだろうと思って探してたんだが、まさかあんた
が面倒をみているとはね・・・。人間が育てていると思ってそちら
から洗っていたから、見つかるまでずいぶん時間がかかってしまっ
た。まったく、魔族に自分の子供を託すなんて、姫の度胸には敬服
するよ﹂
﹁おまえは﹂グレンデルは声を絞り出した。﹁自分の息子を・・・
殺しにきたのか?﹂
フェイの顔から笑みが消えた。一瞬たりとも視線をグレンデルか
ら逸らさずに、言った。﹁そうだ﹂
﹁なぜ、そんなことをする!﹂グレンデルが吼えた。﹁おまえとシ
フォニアの、わずかしかない逢瀬の中で産まれた子供だぞ!﹂
﹁それが必要なことだからさ﹂フェイの表情は変わらない。
﹁自分が生きるために、か?﹂グレンデルは今にも飛びかからんば
かりだ。この質問の答え次第で、本当にそうするつもりだった。
﹁自分が望むことを為すために、だ﹂それは肯定ととれなくもない
が、グレンデルの想定していた回答とは少しずれているものだった。
﹁望むこととは、なんだ﹂
90
﹁﹃太陽の宝珠﹄に力を満たすこと。それ以上は、あんたに言うつ
もりはない﹂
﹁﹃太陽の宝珠﹄だと!?﹂
長命種であるグレンデルは、その宝珠の名前を知っていた。世界
を創り替えるほどの力を持つが、多大な代償を必要とする伝説の宝
珠。強大な力を持つ宝珠はほかにも数あるが、﹃太陽の宝珠﹄はそ
の中でもひときわ強力で、かつ凶悪なアイテムであった。
﹁そんなもののために・・・愛した女の命を奪い、今また血を分け
た息子の命を奪おうというのか!﹂
﹁そんなもの、ね﹂フェイの顔にまた軽蔑したような薄い笑みが浮
かんだ。﹁力を持っているものには、持っていないものの気持ちは
わからんだろうさ﹂
﹁なんだと・・・﹂
﹁老人の格好をして貧しいものを食べ、それで虐げられるものの気
持ちが分かったつもりか?そんなのは所詮おままごとだ。気まぐれ
に子供を助けて、良君とあがめられていい気分かもしれんが、奴隷
として生きていくしかない人間からすれば、あんただってほかの魔
族とたいして変わらん。恨みや妬み、憎しみの対象さ﹂
﹁なにを言うんだ!﹂声を上げたのは、それまで一歩下がったとこ
ろにいたリタルドだった。﹁長老や、長老を慕っているここの魔族
たちは、ほかの領地の魔族とは違う!奴隷たちだって・・・﹂
﹁黙ってろ、ガキ﹂フェイは取り合わなかった。﹁狭い世界しか知
らない子供と話しても意味がない﹂
リタルドはさらに言い募ろうとしたが、グレンデルが腕を広げて
抑えた。
﹁確かにほとんどの人間からすれば、魔族は傲慢な存在にしか見え
んだろう。だが、そんなわしらでも、血を分けたものを愛する心は
持っている。長くともにいれば情がわく。それはおまえたち人間と、
なにも変わらん。おまえのしたこと、やろうとしていることは、す
べての世界で生きているものにとっての共通のタブーを破るという
91
ことだ﹂
﹁そりゃ、あんたの理屈だろ﹂
グレンデルは努めて冷静に説得を試みたが、フェイの心は少しも
動く様子がなかったようだった。﹁俺にとっての最大のタブーは・・
・﹂
フェイは言いながら下を向いた。声も小さかったので、グレンデ
ルには最後の言葉が聞き取れなかった。
﹁問答はいい。俺の息子の居場所を言え。これは魔王グローングか
ら正式に下された命令だ。拒否すれば反逆の罪であんたの首が飛ぶ。
あんたがいかに重鎮だろうと、おめこぼしはなしだ﹂
グレンデルはしばらく黙った。しかしその目線はそらされること
なくフェイを捉えており、むしろフェイがどこまで本気でそう言っ
ているのかをはかっているようにも見えた。
﹁・・・拒否する﹂
グレンデルの返答に、思わず息をのんだのはリタルドだった。フ
ェイは動じた様子はなく、グレンデルを睨みつけた。
﹁死ぬ気か。魔族が人間にそこまで肩入れするとはな。残り少ない
余生、ただおとなしくしていればよかったものを││﹂
﹁だまれ、こわっぱ!﹂グレンデルは、フェイの言葉をさえぎって
叫んだ。﹁同じ魔王の幕下といえど、おまえのような犬と一緒にす
るな!わしは誇り高き竜の一族、おのれの信じることを為し、おの
れの愛するもののため生きる!﹂
叫びながら、その姿は徐々に変容を始めていた。か細い老人の姿
に黒いオーラが集まり、そこから稲光のように鋭い閃光が幾筋も走
った。
身体が膨れるようにして大きくなり、身につけていたローブが伸
びきって破ける頃には人のそれとは明らかに異質の、黒い鱗を帯び
た肌が露出した。腹は白く蛇腹になっており、背中にはとさかが生
え、長いしっぽが大地を揺らした。
フェイをその数倍の高さから牙をむき出しにして睨みつけるそれ
92
は、人よりはるかに強い力を持つ魔族たちの中でも最上位とされる、
ブラック・ドラゴンであった。
﹁ちょ、長老││﹂かすれた声を上げたのはリタルドだった。彼は
自分を育ててくれた老人が魔族であることは知っていたが、その姿
を目の当たりにするのはこれが初めてだったのだ。
グレンデルが首を少し曲げてリタルドの方をみた。リタルドはそ
こからこれまでグレンデルに対して抱いていた柔和な老人のイメー
ジを全く感じることができず、それどころか牙の間からは虫類同様
の長い舌がのぞいているのを見て、思わず数歩、後ずさってしまっ
た。グレンデルはなにも言わず、視線を戻した。
﹁健気だな﹂フェイには全く動揺した様子はない。﹁人であれば無
条件で恐怖するその姿で、人を守るために戦うというのか﹂
﹁姿形なぞどうでもよい﹂その声はすこしだけ人の格好をしている
ときのグレンデルを感じさせたが、そのときの声よりもずっと低く、
重く響いた。﹁おまえを息子に会わせるわけにはいかん。おとなし
く逃げ帰って魔王に伝えろ。﹃太陽の宝珠﹄はあきらめろ、とな﹂
﹁俺を倒せる気でいるのか。・・・一度負けているくせに?﹂
﹁あのときのわしには迷いがあった。だが今は、人の・・・生きる
ものの道を踏み外してしまったおまえを殺すことに、ためらいはな
い!﹂
グレンデルが咆哮をあげ、フェイはそれに合わせるようにして背
中の剣を抜きはなった。
フェイは大きく反り返った蛮刀を、騎士の剣を使っていた頃と同
様に正眼に構えたが、そうして睨み合ったのはわずかな時間でしか
なかった。グレンデルがリーヤーやリタルドが影響のない範囲まで
退避したのを確認すると、いきなりその口から炎を吐き出したから
である。
フェイは右へ飛び、転がって炎から逃れたが、彼が連れてきた手
下の魔族のうち、突然の大技に反応の鈍かった何体かは巻き込まれ、
93
身体を高熱に焼かれてあえなく息絶えた。
グレンデルは火炎の放出をやめず、逃げるフェイを追って首を巡
らした。フェイはかつて魔王と戦ったときに持っていたような炎を
防ぐ強力な防具を持っておらず、ただひたすらに距離をとって火炎
の効果範囲外に逃れるしかすべはなかった。
十ログあまりの距離が開いたところで、グレンデルは火炎の放出
を止めた。フェイ・トスカは遠距離を攻撃する魔法も使えるが、そ
れだけで竜と渡り合えるほどの能力があるわけではない。接近戦こ
そが彼のスタイルで、体が大きい相手と戦うときほど積極的に懐へ
もぐり込もうとするのだ。それさえ封じてしまえば倒せない相手で
はない。
﹁なるほど、年寄りらしく考えてるんだな﹂フェイは顔についた煤
を払うと、再び構えた。グレンデルはフェイの踏み込みにあわせて
炎を吐くつもりでフェイを見据えた。
﹁だが、ちょっと勘違いしているんじゃないか﹂
﹁何?﹂
フェイの言葉に疑問を感じたその瞬間、風を切る音とともに唐突
にグレンデルの顔面に激痛が走った。
﹁があああっ!﹂
右目が開かない。何かを打ち込まれたのだ。痛みにのけぞりなが
らも左目で確認すると、フェイの手勢のうちの一人が弓を構えてい
るのが見えた。
﹁一対一だなんて、誰も言ってないぜ?﹂
フェイの声は近くから聞こえた。隙をつかれ、接近されたのだ。
距離を詰められたら、炎での牽制は意味を為さない。グレンデル
はとにかく闇雲に手を振り回し、しっぽをたたきつけた。まぐれで
も当たれば威力は十分だ。
だが、かつてあまたの魔族を討ち倒し、自分より大きい相手とは
戦いなれているフェイである。当てずっぽうの攻撃に当たるような
へまは犯さなかった。ねらい通りグレンデルの懐へと飛び込むと、
94
白い腹に向けてためらわずに剣を斬りつけた。
そこは鱗に覆われていないとはいえ、並の剣では傷を付けること
などできない。だがフェイの振るう蛮刀はいともたやすく斬り裂い
た。鮮血が飛び散り、フェイの身体も汚す。
﹁ぐ・・・ぅ・・・﹂
満身創痍となったグレンデルは動きを止めたが、それは抵抗をあ
きらめたわけではない。グレンデルの意識が集中されるにつれ、に
わかに雷雲がその頭上に立ちこめた。竜にもいろいろ種類はいるが、
炎と雷はすべての竜が共通で使いこなす攻撃手段である。
グレンデルは自分自身を目標に雷を落とした。足下にいるフェイ
を巻き添えにする算段である。腹部を突き刺す痛みが、まだフェイ
がそこにいることを教えていた。
いっさいの手加減なしで落とした雷は、グレンデル自身にもダメ
ージを与えた。万全の状態なら自らの技で痛みを感じることなどな
いが、体中の傷がひきつり、グレンデルは痛みに声を上げた。
雷が収まると、グレンデルは左目でフェイの姿を探した。右目は
おそらく矢がつきたっているのだろう、全く見ることができなかっ
た。
足元を見ても、フェイの姿はなかった。焦りを感じたその瞬間、
首筋に冷たい剣先が押し当てられた。
﹁はしゃぐのはそこまでだよ、じいさん﹂
フェイがいつの間にか背中を駆け上り、馬乗りになって蛮刀を突
きつけていた。
﹁ばかな・・・﹂雷は確かにフェイを捉えたはずだった。だがフェ
イは平然としている。
﹁残念だったが、この鎧は雷に関しては絶対防御を誇る。あんたの
攻撃手段の中では一番やっかいだからな。なんの対策もなしに接近
戦など仕掛けるものか﹂闇に溶けんばかりの暗い鎧は、いくらか帯
電して紫の光が肩口から爆ぜていた。
﹁・・・ここまでだな﹂フェイの剣先が捉えている喉元は、強靱な
95
生命力を持つ竜の唯一と言っていい弱点である。一カ所だけ逆向き
に鱗が生えている箇所があり、その周辺だけはいくら成長しても柔
らかいままで、簡単に刃を通すことが可能なのだ。
﹁おまえは、変わってしまったように見える﹂グレンデルは戸惑っ
ているようだった。﹁だが、そうでないようにも見える。言葉遣い
は変わったが、戦い方は変わっていない。冷静に相手を観察し、利
用できるものは利用し、的確に弱点を突く。少なくとも、狂気に囚
われたものの戦い方ではない﹂
﹁俺は変わっていない。変わったのは世界だ。俺は勇者として、世
界の変化をただす。そのために、必要なものは手に入れる。それだ
けだ﹂
﹁・・・ならばゆけ。わしの役目は終わった。あとはこの世に残る
ものたちで、いかようにでもするがいい。壊すも、創るも、そなた
ら次第だ﹂
グレンデルの声からは先ほどまでの怒りは感じられなかった。そ
のグレンデルの背中にまたがるようにしているフェイの表情は見え
ない。
﹁じゃあな、じいさん。せいぜいぐっすり休みな﹂
みじかい別れの言葉のあと、剣を押しあてたままの持ち手が引か
れた。
96
光一条
四
リタルドは、少し離れた場所で戦いの顛末を見ていた。先ほどま
でグレンデルであった黒竜とかつて勇者であったフェイ・トスカが
戦い、やがてフェイ・トスカが竜の首に上り、何事か言葉を交わし
た後、竜の喉笛をまがまがしく輝く蛮刀で掻き切ったのを見た。
次の瞬間、竜の全身が光に包まれ、はげしく瞬いた。まばゆさに
腕で顔を覆いながらも目をこらすと、光はやがて竜の形を失って収
縮し、舞い上がるようにして空へ消えた。
リタルドはしばらく口を開けたまま、光の消え去った空を眺めて
いたが、我に返って視線を落とすと、そこには巨大な竜の姿は影も
形もなかった。竜の吐いた炎や落とした雷のせいで、いくらか焦げ
た臭いが漂う中で、フェイ・トスカが一人、立ち尽くしているのが
見えた。
隣では、半魚人のリーヤーが、口をパクパクさせながら腰を抜か
していた。リタルドには、その姿はひどく無様なものに見えた。隠
居したグレンデルの代わりに町をまとめているリーヤーは、グレン
デルを慕うが故に彼が面倒を見る子供たちに対しても親切にしてく
れた。そんなリーヤーをリタルドも慕っていたはずだったが、下半
身は人のそれに近いが上半身は鱗に覆われ、頭部は魚そのものとい
う異形の存在が、急に受け入れ難いもののように思えてきた。
リタルドには、かつての﹁解放戦争﹂の記憶がおぼろげながらも
存在している。戦後の混乱の中で両親を失い、孤児となったところ
をグレンデルに拾われたのだ。
今では思い出すことさえほとんどなくなったそのときの記憶、と
りわけ両親の命を奪った魔族の顔が唐突に自分の脳裏に浮かび、リ
タルドは困惑した。リーヤーとは外見も性質も全く違うのに、この
97
善良な魔族に被さるようにして思い出されるのはなぜだろうか。
﹁混乱しているようだな﹂
突然声をかけられ、視線を向けると、フェイ・トスカがこちらへ
向かって歩いてくるのが見えた。
恨むのならばこの男のはずだ。突然現れ、自分を育ててくれた長
老を殺したこの男。だが、頭でいくらそう考えても、身体がついて
いかなかった。
﹁あの姿を目にしたのは初めてか?﹂
フェイ・トスカの問いに答えるべきか、リタルドには判断が付か
なかった。憎しみをぶつけることもできず、かといって素直に答え
ることもできない。
﹁無理もない。強大な魔族の姿というのは、それだけで人間に恐怖
を与える。あいつは人の姿をとり続けることで、それを隠していた・
・・おまえたちを騙していたんだ﹂
フェイの言い回しは悪意的だったが、リタルドは気づくことがで
きなかった。それだけ心が弱っていたのかもしれない。
そこへ、何者かがフェイのそばへ駆け寄ってきた。フェイの手勢
の一人・・・背中に弓を装備している。先ほどの戦いの中で、竜の
左目を射抜いた男だった。
リタルドが驚いたのは、その男がどう見ても人間だったことだっ
た。グレンデルがそうしていたように、人の姿をとることができる
魔族もいるにはいるが、フェイがつれているほかの魔族は皆本来の
﹁魔族らしい﹂姿をしている。この男だけがわざわざ人間の姿をと
っている意味はない。
﹁こいつは間違いなく、人間さ﹂フェイはリタルドが目を丸くして
いる理由に気づいて、そう言った。﹁かまわん、シェンド。報告し
ろ﹂
シェンドと呼ばれた男は、リタルドに一瞥を投げた後、特に表情
を変えることなくフェイに向き直った。
﹁屋敷に放ったものが戻りました。・・・もぬけの殻だそうです﹂
98
﹁だろうな﹂
フェイはその報告を予想していたのか、いっさい表情を変えなか
った。
﹁街道の封鎖を急がせろ。近隣の都市には手配書を回しておけ﹂
﹁・・・人相が分かりませんが﹂
﹁そうだな・・・﹂フェイはほんの少し思案顔をした後に、リタル
ドのことを見た。
﹁おまえ、一緒にくるか?﹂
軽い口調の言葉だったが、さすがにその言葉の真意は今のリタル
ドにも理解できた。
﹁俺が、あいつのことをしゃべると思うのか!?﹂
リタルドは目をむいて抗議した。にわかにわきだした怒りの感情
をストレートにぶつけられても、フェイは落ち着いていた。体の向
きをリタルドに正対させ、両目をまっすぐにのぞき込んだ。
﹁・・・おまえも、あの戦争で失ったものがあるだろう?﹂
予想外の返しをされて、リタルドはまた混乱した。
﹁ついてくれば、俺の目的を教えてやる。協力するしないは、その
後でいい﹂
それだけ言うと、リタルドの返事を待たずに踵を返した。手勢に
向けて撤収を合図すると、全員がリタルドとリーヤーには目もくれ
ずその場から離れていく。
リタルドはしばらく、動けずにいた。
戦争で失ったもの。両親のことを思い出す。だが、やっと物心が
ついた頃に死に別れた両親の顔は、もう全く思い出せなかった。思
い出すことができるのは、戦争の疎開先を野盗と化した魔族の集団
がおそったとき、自分を物置の隙間に隠した父親の大きな手と、そ
の上にありったけの毛布を掛けた母親の優しい声。そして隙間から
覗いた、血に濡れた斧を担いだ魔族の下卑た笑い顔。
リタルドは決心し、歩きだした。協力する気はない。だが、忘れ
かけていた自分の記憶を呼び起こしたフェイ・トスカの言葉の真意
99
を知りたいと思った。その後で協力を拒み、殺されるならそれはそ
れでかまわない。
背後からリーヤーの声がする。行ってはだめだと呼び止めている
のが分かったが、リタルドは足を止めることも、振り返ることもし
なかった。
セトとシイカは、ガンファの用意した獣車に乗って、町を後にし
ていた。
獣車は、通常街道の行き来に使われるような立派な客車がついた
ものではなく、荷車を流用しただけのものだ。かろうじて御者台は
ついていたが、身体の大きいガンファが座るには狭すぎるので、ガ
ンファも含め全員が荷台の上にいた。セトとシイカは身体を寄せあ
って今は眠っている。ガンファは手綱を握りながら、星空を眺めて
いた。
荷台を引いているのはラグスと呼ばれる魔物︵もともとこの世界
には存在しなかったとされる生物が魔をつけて呼ばれる。その中で
人と同等かそれ以上の知能を持ったものを魔族と呼び、そうでない
ものを魔物と呼ぶ︶で、全体がけむくじゃらの丸い物体から、とっ
てつけたかのように馬の後ろ肢が二本生えている、少々奇妙な生き
物だ。だが馬よりも足が速く、小回りも利く。知能もそこそこあり、
まっすぐ走らせるだけなら手綱を握っている必要もないほどだ。そ
んなラグスが二頭で荷車を引っ張っていた。
つい先ほど、流れ星とも違う光の束が、町の方角から走った。そ
のときはセトもシイカもまだ起きていて、三人でその光を目にした。
光は放たれた矢のように、放物線を描いて星空の中へ消えていっ
た。
シイカが﹁おじいちゃん・・・﹂とつぶやいた。その言葉で、ガ
ンファもセトも、光の意味を知った。
それ以上、誰も何も言わなかった。ラグスが土を蹴る音と、荷車
が揺れる音だけが、変わらぬリズムを刻み続けた。
100
今頃、すでに屋敷は調べられて、目標であるセトがすでに逃亡し
たことも知られているだろう。
ガンファは手綱を少し動かして、獣車を街道からはずして走らせ
ることにした。向こうがこちらの行動を読んでいるなら、検問がし
かれる可能性は高い。
荷車が道をはずれる瞬間に、石でも踏んだのか車体が揺れた。子
供たちは目を覚まさなかったが、セトは少しばかり身体をよじった。
その拍子に涙が一筋、閉じられたままの右目からこぼれた。
ガンファはその大きな手をそっとあてがって、涙を拭いてやった。
セトはまたくすぐったそうに身をよじったが、そのまま寝息をたて
始めた。
﹁守って・・・あげなくては﹂
運命に追い立てられる子供たちを背中に、ガンファは決意のこも
った言葉をつぶやいた。
101
一夜明けて
一
﹁それで、これからどうするの?﹂
セトは干し肉をかじりながら、口をもごもごと動かした。
あれから一夜明けて、今は森のはずれに獣車を止めて休憩中だ。
夜中中走ったおかげで、シュテンの町からはかなり距離を稼いだし、
だいぶ前に街道をはずれたこともあって追っ手の姿もない。
﹁このまま森沿いに南へ下って・・・三日くらい。そこの領主は、
長老とは、旧知なんだ﹂
﹁その領主様に、保護をしてもらうの?﹂
セトが確認すると、ガンファはうなずいた。
﹁でも・・・その領主様だって、魔族なんでしょう?﹂
不安そうにつぶやいたのは、シイカだった。食欲のわかない彼女
は、ガンファから半ば無理矢理渡された干し肉のかけらをもてあそ
ぶようにしている。
﹁セトを探しているのが魔王の命令だとしたら・・・かくまってく
れるかしら﹂
﹁領主のユーフーリン様は、長老ほどじゃないけど、長生きの魔族
だから・・・大丈夫だよ﹂
﹁なんで、長生きだと大丈夫なの?﹂
きょとんとして聞き返したセトは、すでに自分の分の食事は食べ
終わってしまっている。物足りないのか目線の端でシイカが手にし
たままの干し肉を追っていた。
﹁魔王が現れたのは・・・そんなに昔じゃないんだ﹂ガンファもす
でに、自分の食事は終えている。セトが物欲しげにしているのを見
て、腰につけている薬草袋を探ってハッカの葉を一枚取り出すと、
セトに渡した。
102
﹁それまで・・・魔族は、少ない人数の集まりしか、なかった。み
んな自由に、生きていたんだ。だけど、魔王が現れたことで・・・
魔族は統制されて、命令に従わなければ・・・いけなくなった。昔
から生きている魔族には・・・そのことに、不満があるものも、い
るんだよ﹂
ゆったりした口調でしゃべるガンファは、シイカにもハッカの葉
を一枚渡すと、ゆっくりと立ち上がった。一人だけ身体が大きいの
で、急に動くと荷台がひっくり返りかねない。
﹁さてと・・・。ラグスたちにも、水をあげないと・・・。森の中
に川があるはずだから、行ってくる﹂
ガンファは、二人がまだ寝てるうちに周囲を少し偵察し、そのと
きに川の音を聞いたから、近くに川があると説明した。
﹁僕たちは?﹂
﹁二人は、ここで待っていて。すぐ、戻るから・・・。ここから離
れたら、ダメだよ﹂
ガンファは飼い桶を二つ持って獣車の荷台から降りると、彼の腰
ほどまである草をかきわけて森へ入っていってしまった。ガンファ
の腰ほどあるということはすなわちセトなどからしたら頭のあたり
まであるということなので、後を追うわけにもいかない。
セトはガンファにもらったハッカを噛みながら、荷台の縁に寄り
かかり、空を見上げた。よく晴れた空は高い。
ため息が自然と漏れた。昨日、グレンデルに部屋へ呼ばれてから、
まだ丸一日も経っていない。いっぺんには処理しきれないほどのこ
とを教えられ、追い出されるように町を後にした。グレンデルのこ
とを暗示するかのような光も見た。いろいろなことが一度にありす
ぎて、それらを整理する余裕もなかったのだが、今になってようや
く少し頭が回り始めたようだった。
何とも理不尽な話だ。顔もなにも覚えていない母親が王族であっ
た、というそれだけで自分までもが命をねらわれ、町から逃げ出す
羽目になった。育ての親とも離ればなれになり││それだけではな
103
い。あの町にはリタルドを始め、ほかにも一緒に暮らした兄弟がい
たし、魔族にも剣術や学術を教えてくれたもののほか、親しくして
くれたものがたくさんいたのだ。
﹁大丈夫、セト?﹂
いつの間にか隣にシイカがきていた。先ほどまで持っていた干し
肉は、結局食料をしまう麻袋の中に戻してしまったようだ。ガンフ
ァにもらったハッカはまだ手に持ったまま、心配そうにセトを見つ
めている。
考えてみれば、一番かわいそうなのはこの子だ、とセトは思った。
何しろ魔王やフェイ・トスカに探されているのは自分で、シイカは
巻き添えを食ったようなものだ。この子にとっては逃げる理由なん
てないのだ。
﹁うん。・・・ごめんね、シイカ﹂そう考えたらシイカをひどい目
に遭わせているのはすべて自分のせいであるかのように思えてきて、
自然と謝罪の言葉が口をついた。
﹁セトが謝ることはないよ﹂シイカはハッカの葉を指先でくるくる
回した。﹁セトはなにもしてないもの。私はあの町にきてまだ二年
くらいだったから、そんなに思い入れもないし。それに、おじいち
ゃんは・・・もう・・・﹂
﹁あの光のこと?﹂
セトの問いに、シイカは無言でうなずいた。
だがセトにとっては、そのこともいまいち納得がいかないことの
一つだった。あのときは何となく納得してしまったが、そもそもあ
の光がグレンデルのものである確証なんてないのだ。
﹁どうして、あの光がじいちゃんだって分かるのさ?﹂
ガンファも、シイカがそう言うまではあの光が何であるのか分か
らないようだった。シイカはなぜ、それが分かったのか。そもそも、
本当に分かっているのか。
だけどシイカは答えず、うつむいてしまった。
シイカは、セトから見ても少々不思議なところがある少女だった。
104
セトと比べても特別頭の回転が速いとかいうこともないのだが、時
折、町の誰もが知らないような特殊な知識を持っていることを垣間
見せることがあるのだ。
だが、そのことについてセトが突っ込むと、途端に黙り込んでし
まう。ちょうど、今のように。
﹁ちぇっ﹂セトは立ち上がった。そういえば、まだガンファは戻っ
てこない。
時間を計るものがないのではっきりとは分からないが、もう半ク
ラム︵約一五分︶は経過したのではないだろうか。すぐ戻ってくる、
といっていた割には遅い。セトは少しだけ不安になった。﹁川が見
つからないのかな﹂その声は独り言とも、シイカに話しかけたとも
とれる中途半端な音量になった。
そこへ、ガサガサと草の揺れる音が響いた。セトは安堵したが、
音はすぐにやんでしまった。
訝しげに音のした方を見ていると、また草が揺れだした。だが、
草よりも背が高いはずのガンファの姿は見えない。草は揺れ続けて
いる。
やがて、草の下方からゆっくりと首を出したのは・・・一匹の狼
だった。
セトが驚いて一歩後ずさる。﹁セト、見て!﹂シイカの声で辺り
を見回すと、さらに三頭の狼がゆるゆると獣車を取り囲んでいた。
明らかにこちらをねらっている。
﹁どうしよう・・・﹂
ガンファは戻ってこない。セトは剣を持ってはいるが、実戦経験
のない自分に合計四頭の狼を相手にできるとは思えなかった。
狼は少しずつこちらとの差を詰めてくる。セトは背中にシイカを
かばいながら、四頭の狼を順に見回した。その際、獣車につながれ
ている二頭のラグスが目に入った。
ラグスは二頭とも上半身を覆う毛を逆立てておびえている。セト
はまずはこの二頭を落ち着かせてやらなければ、と考え、御者台の
105
上に置かれた手綱に手を伸ばした。ガンファが荷台の上からでも操
れるように長めに作ってあるので、セトも荷台の上からつかむこと
ができる。
だが、ラグスの扱いになれていないセトは、眼前の狼が一歩踏み
出したのを見た拍子に、手綱を思い切り引っ張ってしまった。
急に刺激された二頭のラグスはパニックとなり、けたたましい鳴
き声をあげると一目散に駆けだした!
﹁うわあっ﹂﹁きゃっ﹂
二人の悲鳴を置きみやげにして、獣車も猛スピードで走り出す。
意表を突かれた狼もあわてて追いかけるが、なりふり構わず全速力
のラグスにはかなわず、どんどん引き離されていく。
﹁シイカ!だ、だいじょっ、うぶっ!?﹂
﹁・・・・・・!﹂
獣車の二人は振り落とされないようにするのが精一杯で、セトの
声にもシイカは答えられない。ただでさえ街道をはずれて整地され
ていないところを走っているので揺れもひどい。迂闊にしゃべると
舌を噛みそうなので、それ以上は口を開くこともできなかった。
セトはそれでも何とかしてラグスたちを落ち着かせようとするが、
いくら手綱を引いてもラグスたちは何の反応も示さず、ひたすらに
全速力で駆けている。賢いラグスは落ち着いているときなら手綱を
引かなくとも、声による合図だけで制御できるのだが、今は何を言
っても聞いてくれそうになかった。
結局ラグスたちはそれから一クラム︵約三〇分︶ほどは走り続け、
いよいよ消耗しきったところでようやくセトの制止を聞き入れた。
﹁ひどい目にあった・・・ここ、どこだ?﹂
セトは辺りを見回す。ラグスたちは森から離れようとはしなかっ
たので、一見して景色はあまり変わらない。
狼たちの姿は見えない。どうやら逃げきったようだった。隣では
シイカが身を起こしていた。彼女が守っていたおかげで、食料など
106
の荷物も飛ばされずに無事だった。
だが、ガンファとは完全にはぐれてしまった。現在位置は分から
ないが、森沿いに戻れば先ほどの位置まで戻ることはできるだろう。
ただ、ラグスたちは疲れてヘたり込んでしまっているし、また狼に
出くわさないとも限らない。
﹁ガンファは大丈夫かな・・・﹂
一つ目の巨人である魔族のガンファは、その気になって戦えばか
なり強そうだ。狼ぐらいは撃退できるかもしれない。だが、セトに
はガンファが何かと戦っている姿が想像できなかった。彼はとても
心優しい。
﹁少し休んだら、戻ってみよう。ガンファもこっちを探しているだ
ろうし﹂
シイカに声をかけた、そのとき。
森から小さい何かが飛び出してきた。
﹁魔物!?﹂
セトが声を上げる。突如として二人の視界に現れたのは小鬼だっ
た。
小鬼は個体ごとの知能に差があり、人の言葉を解するものもいれ
ば解さないものもいる。そのため魔族とも魔物とも言われるが、た
いていは知能の高い個体に率いられて洞窟などで集団生活をしてい
るか、命令されたことには忠実なので魔族に小間使いとして仕えて
いることが多い。
いずれにしても、こんな森のはずれに単独でいることは珍しい。
小鬼はセトたちに気づくと、顔を醜悪にゆがめてこちらを睨んだ。
簡素なものではあるが革製の胸当てを身につけていて、手には手斧
を持っている。よく見ると、背中には矢が一本突きたっていた。
﹁戦いがあったのか・・・逃げてきたのか?﹂
セトは戦慄を覚えた。ただでさえ小鬼は好戦的なところがある種
族だ。まして負傷しており、明らかに興奮している。
案の定、小鬼はこちらを敵と見なしたようだった。手斧を握りな
107
おし、こちらには分からない言葉でキィキィと何事か喚いた。
﹁シイカ、後ろに下がって!﹂
二人はまだ荷台の上にいる。ラグスを走らせればまた逃げられる
のではないか、と思ったが、二頭のラグスは昨晩から水も飲まずに
走り通しで、加えて先ほどまでの全力疾走の疲労から回復していな
い。小鬼には気づいていても、ヘたり込んだまま立ち上がる様子も
なかった。
セトはシイカを背中にかばいながら後ずさり、荷物と一緒に置い
てあった剣を手に取った。グレンデルから託された長剣を鞘から抜
き、かつて教わったとおりに正眼に構える。
練習用の木剣とは違う、真剣の重みが両腕から肩にかけてずっし
りと響く。小鬼はこちらが武器を持ちだしたのをみて少したじろい
だ様子だった。
こんなに早くこの剣を抜くことになるとは思っていなかった。か
つて父が使っていたと教えられた剣は、一般的な成人用の長剣から
すると少しばかり短い。だが成長途中のセトからすればそれでも長
く、持ちなれていないこともあって構えているだけでも負担がある。
できることなら、このまま逃げ出してくれないだろうか││そん
なことを考えた瞬間。小鬼が手斧を投げつけてきた!
予備動作がほとんどなく、不意をつかれたセトはあわてて身をよ
じってなんとか直撃を逃れた。手斧はセトの服の右肩部分を斬り裂
き、そのまま森の中へ消えた。
その間に小鬼は一気に間合いを詰めると、荷台の上に飛び乗って
きた。﹁くっ、この!﹂セトは剣を振るったが、頭に血が上って構
えも何もない。大振りになった上、剣に重心をとられて体勢を崩し
てしまった。
次に小鬼をみたとき、そいつは少し離れた位置で身を沈め、こち
らに飛びかかろうとしていた。武器は持っていないが、長く伸びた
右手の爪は、人間の喉笛などやすやすと引き裂けそうだった。
こんな形で、あっさりと死んでしまうのか││。
108
セトがそう思ったとき、小鬼が予想しなかった方へ飛んだ。こち
らへ飛びかかってくるかと思いきや、真横へ飛んだのだ。さらに、
ふらふらと荷台の縁に向かうと、そのまま下へ落ちてしまった。
あわててセトが様子を見に行くと、小鬼は荷台の下で息絶えてい
た。
よく見ると、こめかみから矢が突きたっているのが分かった。お
そらく、こちらへ飛ぼうとした瞬間に矢を受けたのだ。
そのとき、セトの背後の森から物音とともにまた何者かが現れた。
今度は何だ、とセトはまた剣を構えたが││。
﹁あんたたち、大丈夫!?﹂
聞こえてきたのはこちらを気遣う声だった。
現れたのは女性で、見た限り人間のようだった。小柄で、セトた
ちとそれほど差のない年頃に見える。動きやすさを重視した金属製
の胸当てを身につけていて、腰の左右にはそれぞれ小剣を帯びてい
たが、今はどちらも鞘に収めたままで、手に持っているのは弓だっ
た。おそらく、小鬼を射抜いた張本人であろう。
﹁マーチ、しとめたのか?﹂
セトがどう答えたものかと戸惑っていると、続いてもう一人が森
からでてきた。こちらは男性で、やはり人間のように見える。女性
よりはだいぶ年上に見える。二〇台後半というところだろうか。人
間だとすればかなり大柄といえる体格で、背中にはその体格に見合
った大剣を担いでいた。
﹁何とかね・・・。あのまま逃げに徹されたら危なかったけど。こ
の人たちがいて、ある意味助かったわね﹂
マーチと呼ばれた女性は大男に向かって片手をあげて答えた後、
こちらに向き直った。
﹁それで、あんたたちは何でこんなところに?よく見たら二人とも
子供だし・・・。腕が立つわけでもなさそうだし﹂
最後の言葉は先ほどの戦いぶりを見てのことだろう。小馬鹿にす
るような言い方に、セトは助けてもらったことも忘れて思わず言い
109
返した。
﹁そっちだって子供じゃないか﹂
﹁なんですって!?﹂
セトの声は小声だったが、マーチは聞き逃さなかった。目尻をつ
り上げて荷台に詰め寄ってくる。そのまま乗り込んできそうな勢い
だ。
﹁腕が立てば、子供だろうと関係ないでしょ!剣に振り回されてる
ような奴にそんなこと・・・﹂
﹁まあまあ﹂
﹁ちょっと、はなしなさいよ、ユーフォ!﹂
大男・・・ユーフォがマーチの首根っこをつかむと、まるで猫を
持ち上げるようにしてマーチを荷台から引き離した。
﹁ごめん、マーチは子供扱いされるのが大嫌いなんだ。まぁ、君ら
をおそっていた小鬼をしとめたのはこの子だし、悪く言わないでや
ってよ﹂
ユーフォに諭されて、セトは自分が無礼を働いたことに気がつい
た。あわてて姿勢を正し、頭を下げる。
﹁あっ・・・ご、ごめんなさい。助けてくれて、ありがとうござい
ます﹂
﹁ふん﹂
マーチはそっぽを向いたままだ。
﹁やれやれ・・・。あ、僕はユーフォ。むくれてるのはマーチ。君
たち、人間だよね?どうしてこんなところに、ふたりでいたの?﹂
﹁僕はセト。こっちはシイカ﹂セトがまとめて自己紹介をする。シ
イカは軽く頭を下げた。
﹁もうひとりいるんだけど、はぐれてしまって・・・?﹂
そこまでしゃべったとき、セトは突然めまいを覚えた。初めて真
剣を使って戦った緊張が解けたからだろうか。
だが、明らかにそうではなかった。セトは腰が抜けたように突然
しりもちをつくと、そのまま仰向けに倒れてしまった。
110
﹁セト・・・?﹂シイカが何事かとセトをのぞき込もうとしたが、
いつの間にか荷台にあがってきていたマーチがそれを制した。
﹁ちょっと、見せて!﹂すでに気を失っているセトの身体を見回し
て、右腕の袖が裂けているのをみると、おもむろにその袖をめくり
あげた。
セトの右腕は赤黒く腫れ上がっていた。後ろで見ていたシイカが
息をのむ。
﹁やっぱり・・・斬られてたのね!何で言わないのよこいつ!﹂
傷自体はかすり傷のようなもので、出血もほとんどしていない。
おそらくセト自身気づいていなかったのだろう。
﹁な、なんで・・・﹂
﹁毒よ!小鬼が持っていた斧!﹂
おそるおそるつぶやくシイカに怒鳴るようにしながら、マーチは
自分の腰に帯びている小剣の片方を抜いた。ほぼふさがっている傷
口を切り開くと、どす黒く変色した血が流れ出す。マーチは舌打ち
すると、躊躇なく傷口に吸いついた。毒を含んだ血を吸いだし、吐
き捨てる。何度か繰り返したが、やがて顔を上げた。
﹁だめだ、結構回っちゃってる。毒消しがないと・・・﹂
マーチは動きを止めてしまった。ユーフォも顔をしかめたまま動
かない。ふたりとも、毒消しは持っていないのだ。
﹁どうしよう、とにかく里に・・・﹂
﹁それはダメだ。外のものを入れるのは・・・。それに、里の物資
だってギリギリなんだ。余分な薬草が残っているかどうか・・・﹂
シイカはふたりのやりとりを見ていることしかできずにいたが、
ふと思い立って声を上げた。
﹁そうだ、薬草なら!﹂
ガンファは薬草師だ。本人はこの場にいないが、薬草自体は荷物
の中にあるかもしれない。
祈るような気持ちでガンファの私物が入っている袋を開けると、
案の定薬草がたくさん詰まっていた。
111
思わず安堵したシイカだったが、すぐに困り果てることになった。
たくさんの薬草は、どれが何に効くものなのかさっぱりわからなか
ったのだ。
薬草は小分けされて瓶や袋に入れられてあり、すぐ使えるよう調
合済みと思われるものもいくらかあったが、どれが何に使えるとは
どこにも書いていなかった。ガンファ本人にはすぐわかるのだろう
し、薬草師ならわかるのかもしれないが・・・。
シイカは一縷の期待を込めてそれらをマーチとユーフォにも見せ
てみたが、やはりふたりともどれが毒に使える薬なのかはわからな
かった。
﹁やっぱり里につれていこう﹂そう言ったのはマーチだった。﹁里
には薬草師がいる。この中に毒消しがあれば、里の物資を使わなく
てもいいでしょ﹂
﹁だが・・・﹂
﹁このままじゃこいつ、死んじゃうよ!人間を見殺しになんてでき
ないでしょ!﹂
ユーフォは渋っていたが、マーチの説得にやがて折れたようだっ
た。
﹁・・・そうだな。見殺しにはできん﹂
﹁そうと決まれば、急いでいくよ!・・・って、何こいつ?﹂
ユーフォも荷台に乗り、御者台に向かったマーチは、そこで初め
て荷台につながれたラグスに気がついたようだった。
﹁これ、魔物・・・?なんでこんなのが繋がれてるの?そもそも、
いうこと聞くの?﹂
﹁馬と同じように扱えば、大丈夫だって言ってた﹂
戸惑うマーチだったが、シイカにそう言われたことと、一刻を争
う事態でもあることで、迷っている暇はないと判断したようだった。
﹁ええい、もう・・・!掴まっててよ!﹂
マーチが手綱をぴしゃりと鳴らすと、ラグスたちはまだ疲れた様
子ではあったものの、非常事態であることを察したのか、文句も言
112
わずに走り出したのだった。
113
森奥の里
二
毒に侵され、気を失ったセトを乗せた獣車が走り出してから一ク
ラム︵約三〇分︶あまり、手綱を握ったマーチはともすれば止まり
そうになる疲れたラグスを叱咤しながら、獣車を走らせ続けた。
﹁まだ、着きませんか?﹂
不安げにそう尋ねるシイカは、毒を含んだ血が脳に回るのを少し
でも抑えるために、意識のないセトの身体を横にして傷口を上に向
け、頭を自らの膝の上に載せていた。セトは時折呻くようにするの
で少なくともまだ死んではいないが、体温はどんどん下がっている
ようにも感じる。
﹁じきに着く。あまり顔を上げないでくれ﹂
荷台に乗っているもうひとり、ユーフォは険しい顔つきで荷台の
外を見ながら答えた。
マーチが獣車を走らせ始めてすぐに、ユーフォがシイカに要求し
たことが、できる限り周りをみないでくれ、ということだった。
向かっているのはふたりが住む里のはずだが、どうもその﹃里﹄
というのはふつうの里ではないらしい。周りを見るな、というのは
彼らの里への道筋を見せたくないからだろうか。光の当たり方から
どうやら森の中へ入ったらしいことはわかったが、先ほどから同じ
ところをぐるぐると回っているだけにも感じられて、シイカの不安
は募った。
そもそも、このふたり組は人間だけで森を徘徊し、しかも魔物を
狩っていたのだ。魔族が領地を荒らす魔物を討伐するということは
あるが、魔物討伐のためだとしても武装した人間の自由行動を許す
なんてことがあるだろうか?
はぐれたガンファのこともある。こうして道筋もわからない状態
114
で彼らの﹃里﹄に連れ込まれてしまったら、もう自力では先ほどの
場所まで戻ることもできないのだ。ひょっとしたらこのまま二度と
合流できない可能性も││。
考えれば考えるほど、自分たちが厄介な状況にどんどんはまりこ
んでいるように思えてきたが、セトがこの状態では流れに身を任せ
るよりほかになかった。
うつむいてそんなことをぐるぐると考えていたシイカに向けて、
マーチの声が威勢良く響いたのはそのときだった。
﹁着いたよ!突っ込むから、身体を伏せていて!﹂
﹁えっ?・・・きゃっ!﹂
思わずシイカが視線を向けると、進行方向に細かい樹木が幾重に
も絡んでできた、自然の生け垣があった。しかしマーチはまったく
速度をゆるめず、そのまま生け垣に突っ込んだ!
シイカがあわてて身を屈めると、身体のあちこちに木の枝が当た
る感触があった。だが、予想していたほどではない。やがてその感
触もなくなった頃、獣車がゆっくりと止まるのがわかり、シイカは
身体を起こした。
視界に入ってきたのは森ではなく、開けた空間だった。遠くには
いくつかの建物が見えている。どうやら、ここがマーチたちの暮ら
す﹃里﹄であるようだった。
一行の元に、簡素な鎧を身につけ、槍を携えた若い男が寄ってき
た。
﹁なんだぁ?エラい荷物だな、マーチ。戦利品か?﹂
﹁そんな場合じゃないの、オーディ。アンプはどこ?﹂
オーディと呼ばれた男││やはりどう見ても人間である││はマ
ーチにそう言われるとのんびりとした表情を険しくした。﹁なんだ、
怪我したのか!?﹂
﹁あたしじゃないけどね﹂と聞くとオーディはまた少し表情を和ら
げた。﹁アンプなら、さっき薬草取りから帰ってきたところだ。今
頃は自分のところで仕分けの最中じゃないかな﹂
115
マーチはそれだけ聞くと、オーディから目線をはずして﹁ありが
と﹂と言葉だけの礼を言うと再び手綱を握った。ラグスたちはいつ
になったら休めるのかと不平そうな鳴き声をあげたが、マーチが手
綱を鳴らすとしぶしぶとまた走り出す。
﹁お、おい!それごと行くのかよ!里長に報告は!?﹂
﹁けが人置いたらすぐに行くわよ!なんならあんた行っといて!﹂
﹁そんなことできるか!・・・あーあ、本当に行っちまった﹂
置き去りにされたオーディは、チェッとつまらなさそうに舌を鳴
らした。
﹁・・・そういえば、あの車、マーチと、ユーフォと・・・もうふ
たり乗ってたな。ありゃ、だれだ?﹂
﹁アンプ!﹂
﹁やあマーチ。今日も威勢がいいね﹂
マーチは血相を変えて飛び込んでいったが、たくさんの薬草に囲
まれた男は顔色一つ変えなかった。
年齢は四〇台半ば、細身で長身、ウェーブのかかった長髪をうな
じのあたりで無造作にしばったその男こそ、マーチが探していたこ
の里の薬草師、アンプである。
オーディが言っていたとおり、薬草採取から戻ったばかりのアン
プの仕事場は、たくさんの薬草が広げられていた。まだかごに入っ
たままのものもあり、室内は独特のにおいが充満している。
﹁アンプ、急病人よ。小鬼の毒にやられたの﹂
﹁なんだって?﹂
ユーフォがセトを背負って室内に運び入れる。診察台の上にも薬
草が広げられていたが、マーチがそれを無造作にどかすと、セトは
そこに横たえられた。
﹁これは・・・まずいな﹂
﹁手遅れってこと!?﹂
セトをみるなり険しい表情でアンプがつぶやくと、マーチが噛み
116
ついた。ユーフォの後ろについて室内に入ったシイカも絶句する。
確かにセトの右腕は赤黒く腫れた部分がかなり広がっており、素
人目にはかなり危険な状態に見える。
﹁いや・・・そういうことじゃない。ちゃんと治療をすれば問題な
く回復できる段階だが・・・。毒の治療に有効な薬草が、ここには
ほとんどないんだ﹂
﹁こんなにいっぱい草があるのに?﹂
﹁一つの森から採れる草の種類っていうのは限られているんだよ。
この森からは疲労回復や切り傷の炎症を防ぐ効能を持つ草はたくさ
ん採れるんだけどね・・・﹂
﹁あの、これ・・・﹂
頭を抱えるふたりにおずおずと声をかけたのはシイカだった。胸
にはガンファの薬草が入った麻袋を抱えている。
﹁そうだ!この中に使えるものはない?﹂
マーチに言われて袋の中をのぞき込んだアンプは、しばらく無言
のままそうしていたが、突如﹁なんだこれは!﹂と絶叫した。
﹁リクの葉に、エンキの根・・・。シホの花まである!それにこの
粉末は、まさかあのヤクシャールでは・・・あわわわ﹂
﹁固有名詞出されてもあたしたちにはぜんぜんわかんないんだけど、
使えるものはあるの、ないの?﹂
﹁あるには、ある﹂アンプは麻袋にほとんど顔をつっこんだ状態だ
ったが、顔を上げるとマーチではなくシイカの方を見た。﹁だが、
はっきりいってちょっとした毒消しに使うのはもったいないくらい
貴重な草ばかりだ。・・・本当にこれ、使っていいの?﹂
﹁私のものではないのですが・・・﹂シイカは戸惑ったが、そうは
いっても持ち主のガンファはここにおらず、セトが意識不明のまま
ではシイカが答えるほかはない。﹁持ち主も、この状況ならかまわ
ず使うでしょう﹂
﹁わかった。ならさっそく治療にかかろう。上着を脱がせるからユ
ーフォ、手伝ってくれ﹂
117
アンプはユーフォに指示をしてセトの身体を起こさせると、上着
を脱がせ、上半身を露わにさせた。すると、セトの首元がきらめい
た。
光ったのはセトが身につけていた首飾りだった。グレンデルから
別れの際に手渡されたそれには、粗末な服装のセトには不似合いな
ほど精巧な竜の細工が施され、宝石まではめ込まれている。
アンプは一瞬だけそれに目をやると、すぐに何事もなかったよう
にセトを診察台に寝かせた。
﹁マーチ、ユーフォ。おまえたちは出なさい﹂
﹁えっ、なによ急に?﹂
﹁どうせ里長への報告もまだなんだろう。ここは大丈夫だから、行
きなさい﹂
急に年上らしい威厳を見せたアンプに戸惑いながらもまだ何か言
い募ろうとしたマーチだったが、ユーフォに促されるとあきらめた
様子で外へ出ていった。
シイカはその場に残ったままだったが、アンプは気にする風でも
なく、小刀を持ち出すとセトの右腕に当て、腫れている部分を切り
開いた。止まっていた血がまた流れ出すが、先ほどよりも色合いは
悪い。
﹁心配しなくても、彼は助かるよ。処置が一段落するまで、座って
待っていてくれ﹂
立ち尽くしたままのシイカにそう一声かけた後は、もう周囲のな
にも気にならない様子で、素早い手つきでセトの治療に集中した。
シイカは壁際に腰を下ろしたものの、アンプの処置が終わるまで、
不安げな表情を和らげることはできなかった。
セトはアンプの治療を受けた後も目を覚まさなかった。
シイカはその間ほぼずっとセトの横にいて、看病をしていた。セ
トは高熱を出し、盛んに汗をかいたので、水で濡らした布で拭って
やっていたのだ。
118
意識のないままのセトが熱に浮かされるようにして呻くと、シイ
カはそのたび飛び上がるようにして奥の部屋で休んでいるアンプを
呼びにいく。だが、返事は素っ気ないものだった。
﹁薬で、わざと体温を上げているんだよ。汗をかかせて、毒素を一
緒に流しているのさ。そんなにおびえなくても、明日には元気にな
って目を覚ますよ﹂
シイカは結局ひとりでセトの元に戻り、また布を濡らしてセトの
汗を拭ってやった。ほかにすることも、できることもないのだ。汗
を吸った布は少しばかり黒ずんでいるようだった。毒が染みている
のだろうか。
里の空が夕焼け色に染まり始めた頃、マーチがひとりで戻ってき
た。包みを一抱えと、木製の水筒を持っている。
﹁食事持ってきたよ。おいで﹂
シイカに声をかけると、奥の部屋へ入っていこうとする。が、シ
イカがその場を動こうとしないのに気がついて、また声をかける。
﹁何してんの?﹂
﹁わたし・・・いいです﹂
シイカがそう言ったのはセトのそばを離れるのが不安だったから
だが、マーチはそれを遠慮ととったようだった。
﹁あたしと、あんたと、あの先生で三人分。もう作ってきちゃった
んだから、変な気を使うんじゃないの﹂
﹁あっ﹂
マーチはシイカの腕をとると、強引に引っ張っていった。
奥の部屋では、薬草の仕分けを終えたアンプが椅子に座ったまま
うたた寝をしていた。マーチと、彼女に引っ張られたシイカが部屋
に入っていくと、物音に気づいて目を覚まし、大きく伸びをした。
﹁あれ、もう夕方か・・・。やぁマーチ。食事かい?﹂
﹁そうよ。飲み物もあるから、グラス出してきて。三つね﹂
﹁君もここで食べるの?めずらしいね﹂
119
﹁この子もいるしね﹂
マーチは横を向いて答えた。奥の棚から素焼きのグラスを三つ出
してきたアンプはそれを見て意地悪そうな笑みを浮かべた。
﹁お母さんに叱られたんだろ?で、客人の面倒にかこつけて逃げて
きた、と﹂
マーチは言葉に詰まり、アンプは今度こそ声を上げて笑った。
﹁・・・里長にも怒られたし、小言はもうおなかいっぱいよ﹂
﹁里長は何だって?﹂
﹁森の外まで出すなんて、不手際もいいところだってさ。おまけに・
・・﹂大げさな手振りでしゃべりだしたマーチだったが、シイカと
目が合うと唐突に言葉を切った。﹁えーっと、とにかく食べよう。
お腹すいたし﹂
マーチが包みを開くと、無発酵のパンにいくらかの野菜と薄切り
の肉を挟んだサンドウィッチが三つ入っていた。肉は炙ってあるの
か、食欲をそそる香りがぷんと薫った。
マーチとアンプがそれぞれ手を伸ばし、口を開けてかぶりついた。
シイカは空腹を感じていなかったが、ふたりの様子を眺めているう
ちに、薄い腹がくぅと鳴った。
﹁食べなよ。おいしいから﹂
よくよく考えたら、今日口に入れたのはガンファにもらったハッ
カの葉くらいなものだった。いろいろなことがあったから自分のこ
とがよくわからなくなっているだけで、本当はお腹が空いているの
かもしれない。
サンドウィッチを手にとって匂いを嗅ぐと、自然と口の中に唾液
が出てきた。やはりお腹が空いているのだ、と思って、シイカはサ
ンドウィッチを一口かじった。
﹁肉は塩漬けだけど、野菜は今日畑でとれたやつだから、新鮮なま
まだよ。どう?おいしいでしょ﹂
マーチの言うとおり、野菜は生のみずみずしさがあった。直前ま
でセト等と暮らしていたシュテンや、それ以前にいたところでも、
120
野菜は塩漬けや酢漬けにして食べることが一般的だったから、シイ
カは軽い驚きを受けた。
一口食べた途端、それまで感じなかった空腹感が耐えがたいほど
におそってきて、シイカは二口、三口と立て続けに口に入れた。
﹁あんまりがっつくとむせるよ・・・。はい、これもどうぞ﹂
アンプが水筒の中身をグラスに注いで渡してやる。果実酒だった。
森で採れるものを使って作っているのだろう。それもシイカからす
ればあまり飲んだことのない、酸味を多く含んだ独特の味だった。
サンドウィッチにしろ酒にしろ、食べ慣れたものではなかったが
空腹を満たすためには問題ではなかった。夢中で食べ終えてしまう
と、マーチとアンプはまだそれぞれ自分の分を食べている最中だっ
た。
﹁あの・・・ありがとうございます。助けてもらって、食事までい
ただいて。お金なら・・・﹂
﹁あー、そういう話は里長とやって。明日、寝てる彼の目が覚めた
ら連れていくから﹂
全員が食事を終えた後、シイカがマーチに向かって礼を言うと、
マーチはひらひらと片手を振ってそう答えた。アンプの方は、食事
を終えると横になり、あっという間に寝息をたて始めてしまってい
る。
﹁この里はちょっと特殊なの。まぁ、ちょっとみればわかると思う
けど・・・その辺の話も、里長からあると思うから﹂
﹁この里には、魔族がいないんですね﹂
シイカの指摘にマーチは驚いたようだった。
﹁里の中は最低限しか見せていないと思ったけど・・・わかっちゃ
うもんかぁ﹂
﹁魔族が支配する土地では、人間はこんなに生き生きしていません
から﹂
﹁なるほどね。でも、それを言ったらあんたたちだってそうじゃな
121
い?逃亡奴隷のたぐいかと思ったけど、それにしちゃしっかりとし
た身なりだし・・・。立派な剣も持ってたわよね、彼。てんで使え
てなかったけど﹂
シイカは答えられなかった。﹃魔族に支配されていない土地﹄が
あるなどと教えられたことはない。目の前の彼女は善人に見えるが、
この里がいったいどういう存在なのか、それすらわからないうちに
は自分たちの事情をはなすわけにはいかないと思ったのだ。
マーチも、シイカの警戒心に気がついたようだった。
﹁まぁ、こっちにもそっちにも事情があるってことね。あたしには
話してくれなくてもいいけど、里長にはできるだけ素直に事情を話
した方がいいわよ。もしあんたたちがこの里に住み着きたいと考え
ているなら、なおさらね﹂
マーチは立ち上がった。﹁明日のお昼前に迎えにくるわ。アンプ
は戦争前、元々王国お抱えの薬草師だったらしいから、腕は確かよ。
あんまり心配しすぎないで、あんたも寝なさい。じゃあね﹂
シイカはマーチを見送ると、セトのそばへ戻った。相変わらず額
に汗を浮かべてはいるが、一時期ほど苦しそうではない。汗を拭っ
てやり、額に手をおくと、熱もだいぶ下がってきているようだった。
﹁わたしたち、どうなっちゃうんだろうね﹂
すでに日は落ち、明かりもない室内は急激に暗くなった。シイカ
のつぶやきは、あたりを包む静謐な空気を揺らすようにしてしんと
響いた。
122
隠れ里の長
セトはアンプの言ったとおり、翌日の朝には目を覚ました。
熱もすっかり引き、一日寝ていた診察台から降りると少しばかり
足をふらつかせてシイカをあわてさせたものの、腫れ上がっていた
右腕も特に問題なく動かせるようだった。
アンプは湯を沸かすと病人用の薄い穀物粥と薬草茶を作ってセト
にふるまった。薬草茶はシイカにも渡された。
﹁今日明日くらいは激しい運動は控えた方がいいけど、後遺症が残
るたぐいの毒じゃない。よかったね﹂
﹁ありがとうございます、アンプさん﹂
セトはシイカほどにはアンプを警戒していないようで、粥も茶も
素直に口にして礼を言った。それから何かを探すように辺りを見回
す。
﹁・・・ここに住んでいるのは、あなただけですか?﹂
﹁ん?そうだよ。治療院もかねているから、来客は多いがね﹂
﹁主人は、別のところに?﹂
﹁ああ、そういうことか﹂
アンプはセトの疑問を理解した。セトは魔族の姿を探しているの
だ。
﹁それについては、このあと説明があるよ。君を助けた女の子があ
とでやってくるから、彼女についていってくれ﹂
﹁・・・?﹂
アンプはそれで言うことは終わり、とばかりに食べ終えたセトの
食器を回収すると奥へ引っ込んでしまった。
﹁ここ、魔族はいないみたい﹂代わりにシイカが教えてやった。
﹁・・・どういうこと?﹂
﹁私にも、よくはわからないけど・・・。何か事情があるみたい﹂
セトとシイカが顔を見合わせていると、そこへマーチがひとりで
123
やってきた。今日は武装していないが、服装は男性的なパンツ・ス
タイルである。
﹁あ、起きてるわね﹂
﹁君は・・・﹂
﹁マーチよ。あなたは確か、セトだっけ﹂
マーチは腰に手を当て、上から目線でセトを諭した。同じところ
に並んでたつと、背丈も少しマーチの方が高い。
﹁剣を持つなら、自分の状態ぐらい把握できるようにしておきなさ
い。あなたが傷を負っていたことがすぐわかっていたら、あの場で
すぐに対処できたかも知れないんだから﹂
﹁う、うん・・・ごめん。ありがとう﹂
﹁おかげで二日続けて里長の小言を聞く羽目になったわ。・・・と
いうわけだから、準備がよければふたりとも連れていくけど?﹂
セトは頷きかけて、ふと思い出した。﹁ラグスたちは?﹂
﹁ラグス?﹂マーチはその単語に思い当たるものがなかったが、﹁
荷車を引いていた動物﹂というセトの答えを聞くと途端に苦虫をか
みつぶしたような顔になった。
﹁いちおう、そのまま外につないであるけど・・・。ねぇ、あれっ
てなんなの?昨日は気にしてる余裕もなかったけど﹂
﹁なんなのって・・・ラグスはラグスだけど﹂
﹁魔物でしょ!?﹂
﹁うん・・・まあ。でも速いし賢いし、おとなしい動物だよ。そん
なに珍しくもないと思うけど・・・見たことなかったの?﹂
シュテンの町でもラグスは飼われていて、セトも世話を手伝った
ことがあるし、街道をつなぐ定期便に、馬の代わりに採用している
地域もある。普及したのはここ数年のことだが、ここまで驚かれる
のも少々意外だ。
セト、シイカ、マーチの三人が外にでると、建物の脇の陰になっ
ているところに、ラグスたちは荷車ごとつながれていた。荷車の上
にはセトたちの荷物もそのまま積まれてある。
124
セトとシイカが近寄ると︵マーチはある位置までくると足を止め
た︶、ラグスたちは甘えるような声を出した。お腹が空いているの
だろう。
﹁なにか食べさせてあげたの?﹂セトが聞くと、シイカは首を振っ
た。
﹁お願いして、水はあげられたんだけど・・・﹂
セトはマーチの方を振り返った。
﹁ねぇ、こいつら一昨日の晩から走り通しで、何も食べてないんだ。
家畜用の飼料とか、分けてもらえないかな?﹂
﹁それ、何を食べるの?・・・っていうか、どうやって食事するの
?﹂
マーチは遠巻きにしたままでセトに尋ねた。ラグスの太い二本の
肢にのっかっている上半身は全体が毛に覆われた球体で、どこに顔
があるのかもわからない。
﹁穀物のたぐいだったら、何でも食べるよ。草も食べるし・・・。
放牧地があるなら、そこに放してやれば勝手に草とか食べるんだけ
ど﹂
﹁そんなことできないわよ!・・・わかった、何か持ってきてあげ
るから、待ってなさい!﹂
マーチは下手に放したら家畜を食い殺されるとでも思ったのか、
大げさに手を振って制止のジェスチャーをすると、あわてて走り出
した。
﹁あー、気持ち悪いもの見た・・・﹂
﹁そうかなぁ。慣れればかわいいと思うけど﹂
セト、シイカ、マーチの三人は里長の住む屋敷へと向かっていた。
あのあと、マーチは飼い桶に飼料を入れて戻ってきた。セトがラ
グスの前に置いてやると、ラグスのけむくじゃらの球体が突如割れ
て︵少なくともマーチにはそう見えた︶、そこからぎっしりと歯の
生えた口がのぞいたのだ。
125
ラグスたちはすぐに球体ごと口を飼い桶に突っ込んで食事を始め
たので、その光景はほんの一瞬の出来事だったが、マーチの脳裏に
はしっかりはっきりと刻み込まれてしまったのだった。
﹁直接乗ることもできるんだよ。なんならあとで乗ってみる?﹂
﹁乗るって、馬みたいに?﹂
﹁そう。ホントは、馬銜と一体になった専用の鞍があるんだけど、
コツをつかめばそんなのなくても乗れるよ﹂
﹁あんたも乗れるの?﹂
﹁一応・・・速く走らせるのは難しいけど、乗るだけなら馬よりも
楽かな。おとなしいし﹂
﹁ふうん・・・。あ、見えてきた。あそこが里長のお屋敷よ﹂
マーチが指さした先に建っているのは周辺にあるのと変わらない
木造平屋の建物だった。一応、大きさは一回り大きいようだったが。
セトは、少し後ろをついてきていたシイカを振り返った。あまり
しゃべらないのはいつものことだったが、表情は少し緊張している
ようにも見える。
﹁里長はちょっと口やかましいけど、別に悪い人じゃないから。そ
んなに緊張しなくてもいいわよ﹂
マーチの言葉はふたりに向けられたものだった。言われて、セト
は自分も緊張していることに気づいたのだった。
屋敷の入り口は多くの建物がそうであるように扉はないが、簾が
かけられていて中の様子は見えなかった。マーチは簾を無造作にか
きあげると、そのまま中へ入っていく。
セトたちも続いて中にはいると、広間になっていた。入り口すぐ
の部屋が一番大きいのは珍しいことではないが、一般的な家のそれ
に比べるとこの屋敷の広間は広い。おそらく里の集会所なども兼ね
ているのだろう。
広間の中央には十人ほどが同時に席に着けるであろうテーブルが
おかれ、その一番奥に男性がひとり、椅子に座ってセトたちを待っ
ていた。
126
﹁里長、連れてきましたよ﹂
マーチはそう言うとセトを促し、前に進ませた。
﹁君たちがマーチの連れてきた客人か。確かにずいぶん若いね﹂
里長は椅子に座ったまま、進み出たセトとシイカを一瞥してそう
言ったが、その里長自身もセトが想像していたよりずっと若い。長
というから、セトはグレンデルのような老人の姿を思い浮かべてい
たのだが、目の前の男性はせいぜい四〇歳に届くかどうかといった
ところだ。
﹁私はこの里を取りまとめているもので、名はテスという。君たち
の名前は?﹂
﹁僕はセト。この子は、シイカ﹂セトは名乗ると、頭を下げた。﹁
助けていただいて、ありがとうございました﹂
﹁まぁ、まずは座りたまえ。少し長くなるかも知れないからね。マ
ーチ、お茶の用意を頼むよ﹂
﹁はーい﹂マーチは間延びした返事をすると、かまどの方へ向かっ
ていった。セトとシイカはテスの向かいの椅子に並んで座った。
﹁まず・・・﹂テスは視界をちらりと動かして、入り口脇のかまど
に吊してあるやかんを外し、お茶の用意を始めたマーチを見やった。
﹁お礼を言ってもらったけれど、マーチとユーフォに聞いた限りで
は、君たちを襲ったのは武器を持った小鬼だったそうだね?﹂
﹁はい。手斧に毒が塗ってあって、それで・・・﹂
﹁それならむしろ、こちらが謝罪をしなければならないね。その小
鬼はこの里を探っていた魔族の手下で、マーチたちが追っていたも
のなんだ。彼女が森の中で確実にしとめていれば、そもそも君たち
が襲われる理由もなかったんだからね﹂
﹁でも、助けてもらいましたから﹂セトはきっぱりと言った。﹁原
因が何であっても、恩は恩だって、じいちゃんが言っていました﹂
﹁なるほど。・・・ユーフォは君たちのことを逃亡奴隷ではないか
と言っていたけれど、あまりそうは見えないな。魔族に虐げられて
いたにしては、ずいぶんとまっすぐだ﹂
127
﹁僕は虐げられてなんか・・・﹂
﹁まあいい﹂テスはセトの言葉をさえぎった。﹁まずはこの里のこ
とについて、言っておかなければならないことがある﹂
そこへ、マーチがお茶を運んで戻ってきた。最初にテス、それか
らセト、シイカの順に素焼きのカップを並べていく。
お茶は薬草をせんじたものだったが、アンプのところで出された
ものほど薬臭くはなく、漂う香りは心を落ち着かせる効用のあるも
のだった。
マーチはお茶を配り終えるとテーブルから離れ、テスの斜め後ろ
に控えた。
テスはお茶を一口すすると、少々大げさに顔をしかめた。﹁ちょ
っと渋いな。彼女は剣術だったら男にも負けないが、パンを焼いた
りお茶をいれたりはどれだけやらせても上手くならん。まぁ飲めな
いほどではないから、我慢してくれ。・・・さて、君たち。里の様
子は見たかな?﹂
﹁僕は、さっき目覚めたばかりなので・・・シイカ?﹂
﹁私も、少ししか見ていないけれど・・・。この里には、魔族が一
人もいないんですね﹂
シイカはお茶の入ったカップを両手で包み、手を暖めながら言っ
た。
﹁その通りだ﹂テスはまた一口、お茶をすすった。今度は真面目な
表情を崩さずに、シイカ、そしてセトを見やった。
﹁ここには支配する魔族はいない。ここは人間だけの隠れ里なんだ﹂
槍を担いだオーディは、里の入り口を警護するのが仕事だ。だが、
彼は先ほどからずっと里の奥、里長の屋敷の方ばかり眺めていた。
﹁こら、どっちを見てるんだ﹂
﹁うわっ、ユーフォさん﹂
肩をたたかれて振り返ると、ユーフォが立っていた。表情は穏や
かだが、オーディよりも頭一つ大きいユーフォはそこにいるだけで
128
威圧感がある。オーディはあわててごまかす。
﹁いや、今はたまたま・・・。それに、どうせ入り口には目くらま
しの魔法がかかってるんだから、なにも入ってきやしませんよ﹂
﹁まったく・・・。そんなに気になるのか?﹂
﹁そりゃあ、まあ。なんなんですか、あいつら?﹂
﹁さぁな。それを調べるためにも屋敷へ連れていったんだろう﹂
﹁マーチは昨日からつきっきりだし・・・﹂
オーディが口をとがらせると、ユーフォは苦笑した。
﹁気になってるのはそこか。そもそもあいつらを里に入れると主張
したのはマーチだからな。・・・おまえはマーチの婚約者のような
ものだから、おもしろくないのかもしらんが﹂
﹁い、いやそういうことじゃ・・・﹂オーディは赤面した。
﹁ああでも、もしあの連中がこの里に住み着くことになったらわか
らんな。マーチと歳の近い男がおまえくらいしかいない、というの
がそもそもの問題だったわけだし﹂
﹁歳が近いって言っても、八つは離れてるんですけどね・・・って、
あのガキども、ここに居着くんですか!?﹂
﹁最終的には里長が決めるだろうが・・・。若者が少ないのはこの
里の問題点の一つだからな。希望されたら断らないんじゃないか?﹂
ユーフォがからかうような笑みを向けると、オーディはおもしろ
くなさそうに顔を背けた。
﹁私はかつて、レジスタンスの中心人物だった﹂
﹁レジスタンス?﹂
﹁抵抗組織のことさ。魔族と人間の戦争は人間の敗北に終わったが、
私はあきらめが悪くてね。唯一生き残った王族を旗頭に立て、同じ
ようにあきらめが悪い人間を集めて戦ったんだ﹂
﹁この里が、そのレジスタンスなんですか?﹂
セトの問いに、テスは肩を揺すって笑った。
﹁かつて、と言っただろう。・・・レジスタンスはつぶされたさ。
129
私はかろうじて生き延びた。それでも、魔族の奴隷として生きるの
は耐えられなくてな。こうして森の中に隠れ里を作り、外界との接
触を断って暮らしている﹂
﹁だけど、魔族に見つからずに暮らしていけるんですか?森の中と
はいっても空は開けているし、魔族の中には空を飛べるものだって・
・・﹂
そう質問したのはシイカだった。
﹁もちろん、ただ森の奥に引っ込んでいれば見つからないなんてこ
とはないだろうね。対策はしてあるさ。この里全体に特殊な魔法が
かかっていてね。空からでは周りの森と同化して見える。入り口も、
里の者でなければ分からないようになっているんだ。君たちも、里
をでて森に入ったら二度と戻ってこれないから、気をつけるように
ね﹂
そこまで話し終えると、テスはお茶をすすった。カップをおくと
両手を組んで、ふたりをみる。﹁さて、次は君たちのことを聞こう
か。君たちは何者だ?なぜふたりで森のはずれに?﹂
セトはシイカをちらりと見やったあと、口を開いた。
﹁逃げてきました﹂
﹁どこから?﹂
﹁それは・・・言えません﹂セトは言葉を濁した。
﹁ふむ。警戒されているかな?﹂
﹁ごめんなさい。でも・・・あの、すぐに出ていきますから﹂
ふたりだけで行動することは不安も大きかったが、ガンファを探
しに行かなければいけない。テスの言うとおり、この里が外からは
見つからないというのならば、自分たちで探しに行くほかはないの
だ。
だが、テスの返答は予想外のものだった。
﹁・・・申し訳ないが、それは認められない﹂
﹁えっ!?﹂
﹁先ほどもいったように﹂テスの目つきがにわかに鋭くなったよう
130
に感じられた。﹁この里は、外界との接触を断つことで魔族からの
支配を免れている。君たちを解放することで、この里の存在を知ら
れてしまうおそれがある﹂
﹁そんな・・・でも、はぐれたままの人がいるんです!﹂
﹁残念だが、あきらめてもらうしかないな。里から出ない限りは、
君たちの自由は保障する。当面は監視をつけさせてもらうが・・・。
マーチ、君が面倒を見るように﹂
﹁あたしですか?﹂仏頂面で後ろに控えていたマーチだったが、突
然話を振られて驚いた声を上げた。
﹁そもそも君が連れてきた客だし、年齢も近いようだからな。彼ら
が里になじめるように、心を尽くしてやってくれ﹂
﹁はぁ・・・それじゃ、家に連れていきますけど﹂
﹁よろしく頼む﹂
﹁ちょ、ちょっと待ってください!﹂
勝手に話を進めるテスとマーチに、セトは身を乗り出して抗議す
ると、テスはやれやれといった風情で前髪をかきあげた。
﹁まぁ、なにも一生閉じこめておこうというわけじゃない。近頃は
魔族がこのあたりをよく捜索していてね。君たちを襲った小鬼もそ
うなんだが・・・。もうしばらくしたらそれも止むだろうから、そ
のときにこっそりと出してあげよう。君たちがこの里のことを口外
しないという条件付きだが・・・とりあえずひと月くらいは様子を
見ることになるかな。なに、この里の暮らしだってそんなに悪いも
のじゃない。魔族の奴隷として生きるよりは、よっぽどね﹂
言うべきことは言ったとばかりに、テスは立ち上がった。セトは
食い下がろうとしたが、テスの冷たい視線に射抜かれると、声を出
せなくなってしまった。
﹁ではマーチ、後は頼む﹂
テスは奥へと引っ込んでしまった。
その場に残されたのはセト、シイカ、そしてマーチの三人。
﹁セト、大丈夫?﹂シイカがセトをのぞき込んで声をかけた。セト
131
の顔色は少々青ざめている。
﹁うん・・・。でも、あの人、なんだか怖いひとだね﹂
﹁里長が?そうかなぁ﹂
応じたマーチは、いつの間にか自分用のお茶を淹れてすすってい
た。テスがいる間はおとなしくしていたが、すっかり砕けた調子に
戻っている。
﹁あんな風に睨まれたの、初めてだった﹂
﹁睨んでた?そんな風には見えなかったけど﹂
マーチはセトの隣の椅子に腰を下ろした。
﹁なんというか・・・敵意があるという感じではなかったけど。す
ごく冷たい目をしてた﹂
﹁まぁ、戦争の頃はいろいろあったひとらしいから・・・。その辺
の話は、あたしも詳しくは知らないんだけどね﹂マーチは努めて明
るい声を出していたが、セトの表情は晴れなかった。
﹁それにしても・・・ガンファを探しに行かなくちゃいけないのに﹂
﹁ガンファって、はぐれたって言ってた・・・。もしかして、あの
薬草の持ち主のこと?﹂
﹁ガンファは薬草師なんだ。町でも一番の腕前だった。でも僕たち
を逃がしてくれて、別の町まで連れていってくれる途中だったのに・
・・。ちょっとしたことではぐれちゃったんだ﹂
﹁行く当てがあったんなら、その人だけ先にそっちへ行ったのかも
しれないよ?この森は水も豊富だし、木の実や果物もそこらじゅう
にあるから、万が一迷ったとしてもしばらくは生きていられるし・・
・。そんなに悲観しなくても大丈夫だよ、きっと﹂
﹁うん・・・ありがとう﹂
マーチの言葉は気休めは気休めだったが、落ち込んでいる自分を
安心させたいという誠意が伝わってきたので、セトは礼を言った。
マーチは立ち上がると、四人分のお茶の入っていたカップをまと
めて台所へ持っていった。瓶に溜めてある水で軽く中をすすぐと、
ふきんで拭いて棚へ戻したあと、セトたちのところへ戻ってきた。
132
﹁さ、あたしの家へ行こ。あんたたちの寝床の準備をしなきゃなら
ないし、お母さんにも紹介しなきゃ。おいしいものを食べてぐっす
り眠れば、きっと気持ちも晴れるからさ﹂
133
里の暮らし
四
里長の屋敷を出ると、まだ日は高く昇っており、よく晴れた空が
遠くまで蒼いのが目に染みるようだった。
里の周辺は確かに森の木々に囲まれてはいるが、里の中はすっか
り切り開かれており、あまり森の中にいるという実感はわかない。
里長テスは魔法の力によって護られているとは言っていたが、空
から見ても分からないというのはにわかには信じがたい言葉だった。
﹁あんまり人がいないんですね﹂そう言ったのはシイカだ。建物の
数自体それほど多いわけでもないが、今は人の姿がほとんどなく、
閑散とした印象を受ける。
﹁この時間だもの。みんな仕事中よ﹂マーチが答える。﹁里長が言
っていたけれど、この里は外界との接触を完全に絶ってる。だから
全部自給自足なの。畑仕事や家畜の世話、森に入って木の実や薬草
を採ってくるのも、里の住民全員が交代でやるのよ。例外なのは里
長と、里が発見されないように周辺を偵察したり、入り口を見張っ
たりしてる連中くらいね。昨日あたしと一緒にいたユーフォみたい
な﹂
﹁マーチは?﹂セトは何気なく聞いただけだったが、マーチは少々
不機嫌そうに頬を膨らませた。
﹁あたしは・・・見習いね。本当はユーフォみたいに、里の外を警
戒する仕事がしたいんだけど。昨日は研修というか、ちょっとした
テストみたいな意味合いもあったのよ。・・・だけど標的を森の外
まで逃がしちゃうし、見事に落第よ。またしばらく畑仕事だわ・・・
はぁ﹂
﹁畑仕事だって、楽しいじゃない﹂
﹁それがイヤだってわけじゃないの。あたしは、魔族をやっつけた
134
いのよ﹂
マーチの声のトーンが急激に落ちて、セトはマーチを見た。彼女
はそれまでになく険しい表情で足下を睨みつけながら、独り言のよ
うに続ける。
﹁あたしのお父さんは魔族に殺されたの。・・・あたしとお母さん
を逃がそうとして、あたしの目の前で死んだわ。お父さんの無念を
晴らすために、魔物でも魔族でも、一匹でも多く殺してやるって、
そのとき誓ったのよ﹂
セトはなにも言うことができなかった。物心ついたときから平和
なシュテンの町で、グレンデルという大きな存在に護られて育てら
れてきた。そんなセトからしたら、これほど強い魔族への憎しみを
目の当たりにするのは初めてのことだった。
マーチはセトとシイカが無言でこちらを見つめていることに気が
つくと、あわてて表情を柔らかくした。
﹁あ、ごめんね、ヘンな話聞かせて。ほらあそこ、あれあたしの家
だからさ﹂
大げさに腕を振って指し示すマーチに相づちを打ちながらも、セ
トの脳裏には先ほどのマーチの表情が刻み込まれたままだった。少
女らしい明るさを持つ彼女の笑顔と、いましがたの憎しみの表情が
同じ人物のものとは思えなかったのだ。
魔族の支配を受け入れられないものたちの隠れ里││その意味の
一端を垣間見た思いがした。
この里の人たちは、きっと大なり小なりマーチと同じような感情
を持っているのだろう。そう考えると、この里が見つからないよう
になっているのはありがたいことともいえた。ガンファがセトたち
を探してこの里を見つけてしまったら、きっとガンファは捕らえら
れ、最悪殺されてしまうことだろう。
﹁ガンファ、大丈夫かな・・・﹂思わず口にでた。
﹁はぐれちゃった人?きっと大丈夫だから、元気出しなって!﹂
マーチの励ましには微塵の悪意もない。セトが慕うガンファが魔
135
族であることを、彼女は知らないのだから。
﹁お母さんは、まだ仕事ね。今日は畑だったかな・・・﹂
マーチの家に着いても、中は静まり返っていた。里長の屋敷に比
べるとだいぶ小さいが造りはほとんど同じで、入ってすぐのところ
が広間になっていて、入り口のすぐ脇が台所。広間の奥には小さな
部屋が合計四つつながっている。
﹁一番左端が、お母さんの寝室。その隣があたし。右側の二部屋は
倉庫。で、あんたたちだけど・・・﹂マーチはセトとシイカを改め
て見て、首を傾げた。﹁そういえば、あんたたちってどういう関係
なの?﹂
﹁兄妹だけど﹂セトはさも当然、とばかりに答える。﹁見えない?﹂
﹁見えないっていうか・・・どう見ても違うじゃない﹂マーチは憤
然とした。セトとシイカは顔を見合わせる。
セトとシイカは年こそ近いが、血がつながっているわけではない
ので顔立ちは全然違う。そもそもセトは黒髪に茶色の瞳。シイカの
ほうは髪も眼も透き通るような銀色をしていて、これで兄妹と言わ
れて一発で納得する方がどうかしているだろう。
﹁私たち、同じ家で育てられたんです。それで・・・﹂シイカが弁
明する。
﹁・・・奴隷仲間ってこと?﹂
﹁兄妹だってば﹂今度はセトがやや憤然としている。﹁本当はもっ
といっぱいいるんだ。シイカが一番下で、僕はその上﹂
﹁ふーん・・・まあいいや。倉庫を片方あけるから、セトはそこね。
シイカはあたしと一緒。それでいい?﹂
﹁別にそんなことしなくても、ぼくも一緒でかまわないけど?﹂
﹁あのね・・・。年頃の男女が同じ部屋で寝るのがいいわけないで
しょ﹂
﹁あっ、そうか・・・ごめん﹂マーチに言われて、セトは赤面した。
グレンデルの屋敷では多いときで六、七人の子供がいたため、寝室
136
を分けるという概念がそもそもセトにはなかった。シュテンの町を
でる直前は子供はシイカとセトしかいなかったうえ、グレンデルは
病気がちということもあって別の部屋で寝ていたため、ずっとふた
りで寝起きしていたのだ。
﹁それに、奥の部屋はどこも狭いから、寝台はみっつも入らないわ
よ﹂
﹁寝台?台の上で寝るの?﹂
﹁・・・ほかにどこで寝るっていうのよ?﹂
﹁床の上で、ふつうに・・・﹂
﹁床の上なんかで寝たら、身体中痛くなっちゃうじゃない!あんた
たちの住んでたところって、変な風習があるのね﹂
﹁そんなこと言ったら、台の上なんかで寝てもしそこから落ちたり
したら、すごく痛いじゃないか!﹂
セトが反論すると、マーチはなぜか顔を赤くした。﹁お、落ちた
りなんかしないわよ!それよりほら、部屋の荷物を移して、寝台を
運び込んだりしなきゃいけないんだから!﹂
強引に話を打ち切ったマーチはきっと寝台から落ちたことがある
んだろうな、とシイカは思った。それも、わりと頻繁に。
寝台といわれて、セトが思い浮かべたのは今朝まで寝かされてい
た治療所の寝台だった。あれは石の台におおきな布をかぶせただけ
のものだったが、今セトたちの目の前にある、設置し終えたばかり
の寝台はそれとは違い、木製の枠に柔らかいワラを敷き詰め、その
上から布をかぶせたものだ。
﹁うわぁ・・・ふかふかだ﹂押し当てた両手が沈み込む感触に、セ
トは感嘆の声を上げた。
﹁床に寝るより、こっちの方がずっといいでしょ?﹂マーチは得意
げにしている。﹁使い古しだけど、結構いい木材を使っているのよ、
それ。何しろ森の中だから、木だけは使い放題なのよね﹂
﹁うん、ありがとう、マーチ﹂セトは屈託のない笑顔でマーチに礼
137
を言った。
﹁さてと、もういい時間よね﹂マーチは部屋の窓を覆っていた木製
のふたを跳ね上げると、そこから顔を出して外を見た。そろそろ日
が落ちる頃合いだ。
﹁お母さんもそろそろ帰ってくると思うけど・・・。あっ、そうだ
火をもらってこなきゃ。ふたりとも、一緒にきて。場所を教えるか
ら﹂
マーチは初めて見る木製ベッドに寝転がったり、飛び跳ねたりし
ているふたりに声をかけると、外へ連れ出した。
﹁なにをもらってくるって?﹂
﹁火よ。火がなけりゃ、パンも焼けないでしょう﹂
﹁そういえば、かまどの火が消えてたね﹂シイカが言った。﹁火お
こしはどうするのかな、っておもってたの﹂
﹁いちいちおこしてたら大変だから、外にある火炊き場でもらって
くるの。面倒なときは、隣の家からもらっちゃうときもあるけどね﹂
﹁消さなければいいんじゃないの?﹂セトの暮らしていたところで
は、かまどの火は絶やさないのが鉄則だった。
﹁火事になったら大変じゃない。みんな木でできているんだから。
下手したら森中が火事になっちゃうわ﹂
﹁あー・・・そうか﹂セトは納得した。さっきの寝台のこともそう
だが、住むところが変われば生活の仕方も変わるのだということを、
セトは初めて学んでいた。
火炊き場は、里のほぼ中心部にあった。石窯の中で火が燃えてお
り、火の粉が飛ばないように、また雨などで消えることがないよう、
鉄製のふたがかけられている。その横には大量の薪が積み上げられ
ていた。
マーチが釜の脇にある取っ手を引くと、音を立ててふたが開いた。
そこへセトが薪を差し入れて火をつける。さらにその脇からシイカ
が数本の薪を釜の中に投げ入れると、マーチが取っ手を戻してふた
を閉めた。
138
﹁これでよし。いやあ、人手がいると楽ね。釜の前って暑いから、
あんまり立ちたくないし﹂しれっと一番暑いポジションをセトに任
せたことを告白するマーチ。﹁さて、もどろうか﹂
火炊き場を後にし、家に戻ろうとする一行に、後ろから声がかか
った。
﹁マーチ!﹂﹁お母さん﹂
マーチがうれしげに振り返ったので、セトとシイカもそれに習う
と、こちらに手を振りながら駆け寄ってくる女性の姿があった。
マーチの母親は、比較的ゆったりした麻のシャツに、足下まであ
るスカートを着用していた。戦争以前であれば、一般的な女性の服
装である。マーチが男っぽい格好をし、髪の毛も短くしていること
から、セトは母親というのも同じようなスタイルなのだろうかと何
となく思っていたが、こちらは髪も背中まで伸びており、先の方は
ゆるやかなウェーブがかかっている。マーチも髪を伸ばせばそうな
るのかな、とマーチをみると、目が合った。﹁・・・なによ﹂じと
目で睨まれた。
﹁はい、マーチ。これ、今日のお夕飯の材料﹂マーチの母親は、側
にくるなり抱えていた編みかごをマーチに渡した。なんだかそわそ
わしているようだ。﹁それで、この子たちが昨日言っていた・・・﹂
﹁うん、セトと、シイカよ﹂マーチは簡単な紹介をすると、セトの
方を見て言った。﹁あ、気をつけてね。お母さん・・・﹂
﹁?・・・むぐっ!﹂マーチが言い終わらないうちに、マーチの母
親がこちらへ向かってきたと思ったら、何のためらいもなくセトを
抱きすくめた。母性を感じさせるには十分な質量をもった胸に顔を
埋めさせられて、セトは混乱した。
﹁お母さん、抱きつき魔だから。・・・もう遅いけど﹂
マーチの母親はセトを解放すると、今度は突然の事態に硬直して
いるシイカも同じように力いっぱい抱きしめる。セトよりも小さい
シイカは顔が完全に胸に埋まってしまい、おまけに足が浮いてしま
って自力では逃れようがなくなっている。
139
﹁お母さん・・・もう離してあげて﹂
半ばあきれ顔のマーチに促されて、ようやく解放されたシイカは、
息が詰まっていたのか顔を真っ赤にしている。
﹁いやあ、こんなかわいい子たちがうちに住むなんて・・・。あた
しはソナタ。あんたたちも、お母さんって呼んでいいからね!﹂
マーチの母親、ソナタは、セトがまだ目を白黒させ、シイカが息
を整えるのに必死な中、満面の笑みでそう言ったのだった。
﹁・・・これから、どうしようか﹂
夕食をとり終え、セトは自分用に割り当てられた部屋でシイカと
相談していた。
﹁セトはどうしたいの?﹂
﹁ガンファを探しに行きたい・・・けど・・・﹂
里の外にでることを禁じられたこともあるし、仮に外にでること
ができたとしても、狼一匹追い払えない自分では森から無事にでら
れるかも怪しい。かといって、この里の住民は魔族に対してネガテ
ィブな感情が強い。魔族であるガンファを探すことに、協力してく
れる人はいないだろう。
﹁私は、この里にとどまるのは悪いことじゃないと思う﹂シイカが
言った。
﹁あの里長の言うとおり、この里が魔族から完全に隔離されている
なら、セトをねらっている人から隠れられるし﹂
﹁あのひと、信用できるのかな・・・﹂セトは不安げだ。
﹁ある程度は、してもいいんじゃないかな。私たちを拘束しようと
しないし、本当に、ここに住み着いてほしいと思っているのかも﹂
﹁ガンファも一緒だったらな・・・﹂
この里の居心地はそれほど悪くない。里長のテスは腹に一物ある
ように見える人物だが、この里であったそのほかの人物、とくにマ
ーチやソナタは善人であるように感じる。せめてガンファの安否が
わかっていれば、ここまで不安にかられることはないのかもしれな
140
い。
﹁もう寝るよ、シイカ?﹂部屋の外から、マーチの声がかかった。
ふたりは一緒の部屋で寝ることになっている。
﹁あ、うん。・・・じゃあセト、また明日ね﹂
﹁うん。おやすみ﹂﹁おやすみ﹂
ひとりになったセトは、明かりを消すと今日作ったばかりのベッ
ドに寝転がった。窓も閉じているため、室内は真っ暗である。
﹁僕は、もっと強くならなくちゃ・・・﹂
選択肢がない今の状況は、結局のところ自分に力がないからだ。
狼を追い払うことができるくらい強ければ、ガンファとはぐれるこ
ともなかったし、小鬼を無傷で倒せていれば、この里に運び込まれ
ることもなかった。森を単独で踏破できる能力があれば、強引に里
をでてガンファを探しに行くこともできたかもしれない。
そもそも、自分がこんな頼りない子供でなかったなら、あの町か
ら逃げ出す必要もなかったのではないか。
危険に見舞われたら、シイカを護ることを最優先にしろ、とグレ
ンデルは言っていた。しかし今の自分にはそんな力もない。
誰かに護られているだけでは、理不尽から逃れられないのだと、
そんなことを考えているうち、セトは眠りに落ちた。
﹁剣を教えてくれって?﹂
翌日。朝食を食べ終えたセトは、食器を片づけるマーチを手伝い
ながら、自らの希望を口にした。
﹁うん・・・自分の身もろくに守れないんじゃ、たとえ里をでるこ
とになったとしても、ガンファを探しに行くなんてできないと思う
し﹂
﹁なるほどねぇ・・・まあ、ユーフォもいるし、あたしも見習いと
はいえ基本くらいは面倒見てあげられるけど・・・﹂マーチはしば
らく思案顔をしていたが、やがて向きなおって言った。
﹁じゃあ、あんたはあたしに何か教えてくれるの?﹂
141
﹁えっ?﹂
﹁だって、里に残らないかもしれない人に、ただ技術を提供してあ
げるだけって訳にいかないもの。なにかある?ちなみに金貨とか意
味ないわよ。ここじゃお金、使わないから﹂
﹁うーん・・・﹂セトは考え込んでいたが、そのうち思い浮かんだ
ことがあった。﹁じゃあ、ラグスの乗り方を教えてあげるよ﹂
﹁ラグスって、まさか・・・﹂
﹁ちょ、ちょっと!これ、本当に大丈夫なの?﹂
マーチら里の自警団が訓練に使っている小さな広場。屈み込んだ
ラグスの上にまたがって、その胴体を覆い尽くしている長い毛をつ
かんだマーチだったが、その姿勢はどう見ても不安定だった。
﹁大丈夫だよ。手じゃなくて、太ももをしっかり締めてバランスを
とるんだ。それじゃ、立ち上がらせるよ?﹂
﹁待って、ちょっと待って・・・わぁっ!﹂
セトの合図でラグスが畳んでいた足を伸ばし、立ち上がろうとと
すると、マーチはあっさりとバランスを失った。思わずつかんでい
た手を離してしまい、そのまま背中から地面に落ちる。
﹁いったぁ・・・﹂
﹁変に暴れるからだよ。馬に乗れるんだったら、そんなに難しくな
いと思うんだけど?﹂
言いながらセトはもう一頭のラグスにまたがると、軽く舌を鳴ら
して立ち上がらせた。
﹁ほら、こんな感じ。バランスが悪く見えるかもしれないけど、実
際にはそんなことないから﹂
﹁うう・・・なんかくやしい。もう一度!﹂
あっさり立ち上がったセトを見て、持ち前の負けん気を刺激され
たマーチは立ち上がると再びラグスの体毛をつかみにかかった。当
初は得体の知れないシルエットを持つラグスを気味悪がっていたが、
セトへの対抗心がそれを忘れさせたようだ。
142
その様子をユーフォが少し離れた位置から眺めていると、オーデ
ィが近づいてきた。今日は鎧を身につけておらず、槍も持っていな
い。
﹁よう、オーディ。今日は休みか?﹂
オーディに気づいたユーフォが声をかけたが、オーディは特に返
事をせずにユーフォの横に並んだ。
﹁・・・ずいぶん、仲がよさそうっすね﹂
﹁なんだ、やきもちか?﹂
﹁そんなじゃないですけど・・・。外からきたばっかりのヤツに、
ずいぶん気を許してるな、って﹂
﹁確かにな。まぁマーチと同年代の人間がここにはずっといなかっ
たから、はしゃぐ気持ちも分かるだろう﹂
﹁確かにそうですけどね・・・﹂言いながらも、オーディは面白く
なさそうだ。
﹁おまえも教えてもらったらどうだ?オレは身体が大きすぎて無理
だったが、おまえくらいの体格だったらいけるんじゃないか?﹂
﹁そこまで野暮じゃありませんよ・・・。そういえば、もうひとり
いた女の子は?﹂
﹁こっちには来てないよ。ソナタさんについていってるんじゃない
か?﹂
男ふたりがそんなやりとりをしている間にも、マーチはなかなか
ラグスを立ち上がらせることができないでいた。ちょうど今も派手
に振り落とされたところだ。
﹁マーチ、センスないなぁ﹂
﹁くぅー・・・。あんた、この後の剣の訓練、覚えてなさいよ!﹂
上から目線で言われて、マーチは尻餅をついた格好のまま悔しげ
にうめくのだった。
そのころ、シイカはソナタにつれられて里からほんの少しだけ森
にはいったところに流れている川辺に来ていた。ほかにも数人の女
143
性が同行している。
﹁ここも一応、里の外だからね。危険はないけど、離れて歩くと迷
うから、気をつけてね﹂
﹁はい・・・それで、ここでなにを?﹂
とりあえずソナタの手伝いをする、ということだけでついてきた
シイカがそう尋ねると、ソナタはいきなり自分の腰帯をほどき、服
を脱ぎ始めた。周りの女性たちも同じようにしている。
﹁なにって、川ですることっていったら洗濯だよ!里の住民全員分
をまとめてやるんだ。ほら、シイカちゃんも脱いだ、脱いだ!﹂
あっという間に下着姿になったソナタは、ひとりだけ服を着たま
まのシイカを脱がせにかかった。
﹁わ、じ、自分で脱げますから・・・﹂
﹁なにあんた、細いねー!胸もおしりもちっちゃいし、たくさん赤
ん坊を産もうと思ったら、もっとお肉をつけなきゃ!﹂
﹁あの、あの、はなして・・・﹂
服を脱がされるついでに無遠慮に身体を撫で回されて、シイカは
息も絶え絶えといった風情だ。
﹁あたしがおいしいご飯を作ってあげるから、たくさん食べなきゃ
だめだよ!﹂
結局、下着姿にされるまで解放してもらえなかった。最後に背中
を大きく叩かれて、シイカは咳き込んだ。
この里での洗濯は、人が四、五人は入れる大きな桶に川の水を張
り、そこに灰を獣脂で固めた石鹸を砕いたものを入れたあと洗濯物
を入れ、複数の女性たちで踏み洗いをするというものだった。
シイカも踏み洗いをしてみたが、体重が軽いので効果が薄いとな
り、すぐにお役御免になってしまった。その後は洗い終わった洗濯
物を干す作業を手伝った。里の住民全員分となればたいそうな量な
のでそうすぐには終わらず、里の女性たちも何度か役割を交代しな
がら作業を進めている。
﹁ところで、シイカちゃんはあの男の子・・・セトくんのことはど
144
う思ってるの?﹂となりにきたソナタがそう聞いてきた。
﹁えっ?﹂
﹁セトくんは兄妹ですー、なんて言ってたけど、あんたもそう思っ
てるのかい?﹂
﹁私は・・・そうですね、兄妹とは、少し違うのかもしれませんね﹂
﹁やっぱりそうなんだね﹂
シイカがそう答えると、ソナタは我が意を得たりとばかりにうな
ずいた。
﹁応援してあげたいのは山々なんだけど、マーチもずいぶんあの子
のことを気に入ったみたいだからねぇ。母親としては困ってしまう
ね﹂
﹁あ、そういうことではないんですが・・・﹂
シイカは苦笑混じりに否定したが、ソナタは聞いていないようだ
った。
﹁あの子には一応決まった相手がいるんだけどね。ただ、八つも年
上だし、悪い子じゃないんだけど、どことなく頼りない子でねぇ。
ほら、門番のオーディって子なんだけど、もう会ったかい?﹂
﹁えーと・・・﹂
﹁それでもこの里じゃそもそも出会いがないから、ずっと独り身で
いることになるよりはいいかと思ってたんだけど・・・。自分で気
に入った相手を見つけられるなら、やっぱりその方がいいわよねえ
?﹂
﹁そう・・・ですね・・・?﹂
﹁そういうわけだから、シイカちゃんの応援はしてあげられないな
ぁ。でもセトくんも、こんなにかわいいシイカちゃんと二年も一緒
に暮らしてたっていうのに何にも気づいてないなんて、ちょっと朴
念仁なところがあるのかしらねぇ・・・?﹂
﹁あの・・・﹂
ソナタはすっかり作業の手を止めて、しゃべることに夢中になっ
ている。シイカがなにを言っても聞いてもらえず、かといって無視
145
することもできない。さらに近くにいた女性たちも数人がおしゃべ
りに参加すると、川べりはあっという間に女性たちのかしましい声
でいっぱいになった。
こんな風にして会話の渦に巻き込まれる経験のなかったシイカは、
その場から逃れるきっかけもつかめないままに、四方から矢継ぎ早
に繰り出される言葉の奔流に飲み込まれていくのだった。
﹁うう、なんだか疲れたな・・・﹂
﹁なんでシイカが疲れてるのさ。僕なんかもう腕がパンパンだよ﹂
夕食を終えたセトとシイカは、今日もセトの個室でくつろいでい
た。
﹁剣の稽古、きつかったの?﹂
セトはベッドにうつ伏せに寝転がり、今にもそのまま眠ってしま
いそうだった。
﹁うん・・・まずは真剣の重さに慣れないと話にならないって、今
日はずっと剣を振らされてたんだ﹂
セトはシュテンにいた頃から剣を習っていたが、手習い程度であ
ってそれほど本格的に時間をかけて剣を振ったことはこれまでなか
った。
﹁そのあとアンプにも診てもらったし、ちゃんとユーフォにマッサ
ージしてもらってたじゃない﹂
部屋の入り口から声がして、ふたりが視線を向けるとマーチが立
っていた。お盆にカップをみっつ乗せて持っている。
﹁はい、これ。筋肉を柔らかくするのよ。シイカもどうぞ。おいし
いから﹂
セトがベッドから起きあがる間に先にカップを受け取ったシイカ
が口を付けると、果物を搾ったジュースだった。さわやかな酸味が
あって、確かにおいしい。
セトよりもシイカが気に入った様子で、セトが二口三口と口を付
ける間にすぐ飲み干してしまった。
146
﹁お母さん、シイカのことをずいぶん気に入ったみたいよ。明日も
また問答無用で連れていかれると思うから、覚悟しておいてね﹂
﹁連れていかれるなんて・・・私も楽しかったですよ﹂
﹁でもうちのお母さん、ずっと横にいるとやかましいでしょ﹂
﹁そんなことは・・・﹂
思わず言葉を濁してしまって、マーチに笑われてしまった。
﹁で、セトは明日もこっちに来るでしょ?それとも、腕が動かない
かな?﹂
﹁行くさ。こっちから頼んだのに、一日でめげたりしないよ﹂
﹁そう、良かった﹂マーチはいたずらっぽい笑みを浮かべた。﹁セ
トが剣を学びたいって言ってくれて良かったわ。おかげで﹃お目付
け役﹄のあたしも、畑仕事に回されなくてすんだし﹂
マーチ自身、里の中での立場は兵士見習いといったところである。
セトを襲った小鬼を逃がしかけたことで、その地位すら追われかか
っていたのが、里長のテスからセトの監視を言いつけられたおかげ
でその危機から脱したのだった。
﹁やけにあっさり引き受けてくれたと思ったら、そういうことか﹂
﹁まあまあ。双方にメリットがあるってことで、いいじゃないの。・
・・さて、そろそろ寝ようかな。明日も厳しくするから、セトもよ
く休まなきゃだめよ。ほら、シイカ。行こう﹂
マーチは椅子から立ち上がり、シイカを促すと自分は空になった
カップをお盆に乗せた。
﹁あんたたちは早くこの里をでたいんだろうけど、あたしは・・・﹂
﹁なに?﹂
﹁なんでもない。じゃあ、また明日ね﹂
マーチは言葉を濁したまま出ていってしまった。シイカもそれに
続く。
セトは、マーチがなにを言いたいのか何となく察することはでき
た。だが、それを純粋にうれしく思うことはできなかった。
﹁ガンファ、今どうしてるかな・・・﹂
147
はぐれたきりのガンファの身を案じ、セトの心は明かりの消えた
室内同様に暗く沈むのであった。
そのころ、ガンファはまだ森の近くにいた。
姿をくらませてしまったセトとシイカの行方を探して、獣車の轍
のあとを追い、セトたちが森の中へ入ったらしいことはわかった。
しかし森の中は道が悪く、轍もとびとびに切れているうえ、この先
はだんだんと道が細くなっており、獣車はそれほど奥まで入ってい
けるようには見えない。
日が落ちてしまい、今日はこれ以上の捜索は無理と判断して森の
はずれで火を焚いて休むことにしたのだった。
﹁でもどういうことだろう?森の中に入っているなんて・・・﹂
ガンファは首をかしげた。
セトにしろシイカにしろ、言いつけを破るような子供ではないか
ら、何かトラブルに巻き込まれたとみるのが自然ではある。しかし、
たとえば森の狼などにおそわれたのだとしたら、森にはいるより森
から離れる方が賢明だ。
﹁なにかに、捕まったのか?でも・・・﹂
フェイ・トスカら魔王軍の関係者に捕まったのならば、近隣の都
市へ連れていかれるだろう。野盜の類だとしても、わざわざ森の奥
まで連れていく必然性はない。
さらにガンファの不安をあおるのは、獣車が森に入ったと思われ
る、そのすぐ近くに転がっていた一匹の小鬼の死体だった。昨日、
セトたちが行方をくらませた後、轍の跡をたどっていったときは確
かにそこにあった。だが、一日経って今日再び同じところへ行って
みると、死体は影も形もなくなっていた。
実際には、里の人間がセトたちを運び込んだ翌日に死体を処分し
たのだが、ガンファにはそこまでのことはわからない。
だが、その死体とセトたちが無関係であるとは思えず、ガンファ
の心配は募った。
148
﹁やはり・・・ユーフーリン様に助力を頼むべきか・・・﹂
今日一日、轍の跡が見えなくなったあたりを中心に森の中を歩き
回ったが、なにも収穫を得ることはできなかった。
あまりにもぱったりと唐突に手がかりが潰えてしまっており、ガ
ンファはそこに多少の不自然さも感じていた。論理的な考え方が通
用しない状況には、魔法の力が絡んでいるということもよくあるこ
とだ。
ガンファには魔法の素養がない。一方で、ガンファが頼ろうとし
ているユーフーリンは、高知能の魔族で魔力も強い。領地までは距
離があるが、このままひとりで森の中をさまよい続けているよりは
状況を改善できるように思われた。
﹁よし・・・﹂
ガンファは立ち上がると、焚き火に砂をかけた。決めた以上、一
刻も無駄にはできない。一度大きく息をつき、身を沈めると、勢い
よく駆けだした。
その速度は、全速力のラグスもかくや、とばかりのハイスピード
だ。普段の静かな物腰からは想像もできないが、巨人族であるガン
ファの身体能力はやはり人間とは比較にならなかった。
だが、ユーフーリン領は獣車で三日はかかる距離である。ガンフ
ァがどれほど駆けても二日はかかるだろう。安否のわからないセト
たちのことを思えば、その時間すら惜しく思えて、ガンファの心は
逸った。
149
隠れ里の真実
新魔暦一〇年 五の月
一
﹁よう、セト。そろそろあがろうぜ﹂
﹁はい、オーディさん﹂
槍を傍らの木に立てかけ、額の汗を拭いながらオーディがそう言
い、セトはうなずいた。
里の周辺の見回りを終え、これから戻るところである。
﹁少しは慣れてきたんじゃないか?﹂
オーディがセトに、屈託のない笑みを向けた。
セトとシイカのふたりが里に来て、ひと月あまりが経過していた。
セトはその間、マーチやユーフォ、そしてオーディについて剣術な
どを習い、シイカは里の女たちとともに家畜の世話をしたり、衣服
を縫ったりして過ごしていた。
善良な里の住民とともに暮らすうち、セトたちも里の生活にずい
ぶんとなじんでいた。里の住民たちもセトたちを受け入れ、今では
セトは自警団の一員としてこうして里の外を見回るようになったほ
どだ。
ただし、完全に監視が解かれたわけでないことはセトも理解して
いた。当初のようにマーチがつきっきりで側にいるということはな
くなったが、今でも誰かひとりは里の人間がついている。今のよう
にセトが里の外に出るときは、シイカは必ず里の中に留めおかれる。
逆もまたしかりで、シイカが洗濯などで里の外に出るときは、セト
は必ず里の中にいるように要求された。
だが、そのことを苦痛に思うことはほとんどなかった。シュテン
150
の町で、グレンデルの元で過ごしていた日々が帰ってきたように感
じることさえあった。
しかし一方で、セトもまた、里のすべてを信用することはできな
いでいた。その要因の筆頭はやはり、里長のテスである。
初めてあったときのやりとりも引っかかってはいたが、さらに後
日、今度はセトの首飾りを見せてほしいといってきたのである。
セトは首飾りを肌身はなさず身につけてはいたが、グレンデルか
ら忠告を受けていたこともあって極力他人には見せないようにして
いた。だがテスはセトが高価な首飾りを身につけているということ
を知っている口振りだった。
断っても立場が悪くなるだけだと感じたセトは結局求めに応じた。
テスは首飾りをしげしげと眺めると礼を言ってセトに返した。
﹁ずいぶんといいもののようだけど、どこで手に入れたんだい?﹂
﹁・・・もらったものです﹂
テスは穏やかな笑みを浮かべてはいたが、目が笑っていなかった。
セトは詳しく語るのはまずいと感じ、それしか答えなかった。
見せない方が良かったのだろうかとも思ったが、たとえ自分の身
元が知られても、魔族から隠れて暮らしているここであれば自分を
捜している魔王の手のものに知られることはないだろう。それきり
首飾りについて言及されることはなかったし、里には追っ手の影も
見えなかった。
そして、ガンファのこともある。結局消息は分からないままだっ
た。里の外に出してもらえるようなったので、一度はぐれた地点ま
で行ってみたいと頼んだこともあったが、それは許してもらえなか
った。
﹁おまえのいったとおりの場所だとすると、里からは離れすぎてい
るな。見回りの意味も薄い。気持ちは分かるが、認めるわけにはい
かない﹂自警団を取り仕切るユーフォはそう言うと、セトの肩をひ
とつ叩いた。﹁あれ以来、里の周辺に部外者の気配はない。マーチ
のいうとおり、多分森をでて当初の目的地へ先に向かったのだろう
151
さ。そう心配するな﹂
そう言われても、生きているという確証はなく、ガンファのこと
を思う度に、セトの表情は曇るのだった。
﹁また暗い顔してるな﹂
隣を歩いていたオーディが、心配そうにセトをのぞき込んだ。
﹁ガンファってやつのこと、また考えてたのか?﹂
﹁うん・・・﹂
セトがうなずくと、オーディは肩をすくめた。
﹁気持ちは分かるけど、思い詰めたってしょうがないだろ。とにか
く、里にはいるまでには引っ込めとけよ。マーチがまた心配するか
らな﹂
マーチの﹁婚約者﹂であるらしいオーディは、マーチが必要以上
にセトをかまうことから当初はセトに対してつっけんどんな態度を
とっていたが、何度か行動をともにする間に打ち解け、今ではセト
の兄貴分ともいえる存在になっていた。今日のように一緒に行動を
することも増えている。
﹁うん、ごめんね、オーディ﹂
﹁俺に謝るなよ﹂
﹁でも、マーチが心配するのをみるのはいやなんでしょ﹂
﹁おまえな・・・﹂
オーディは実際マーチのことを憎からず思っているのだが、そこ
そこ年齢差があることもあってなるべくそのことを表に出さないよ
うにている・・・と思っているのは本人だけであって、実際には里
での暮らしがひと月ほどのセトでも充分わかってしまうほどであっ
た。
﹁オーディ、セト。おかえり﹂
里に戻ると、そのマーチがふたりを出迎えた。
﹁マーチが見張り番なんて、珍しいね。それに・・・﹂
152
セトが驚いたのは、マーチの横にシイカもいたことだった。
﹁今日は、ソナタさんが面倒みられないから、って﹂
﹁シイカもいるし、たまには、と思って引き受けたけど、こんなに
退屈な仕事ってないわね!これなら畑を耕す方がまだ気が楽っても
のだわ。オーディ、あなたよくやってられるわね﹂
マーチに大げさに肩をすくめられて、オーディは苦笑した。
﹁そりゃあ、マーチはじっとしてられないからだろ﹂
﹁子供扱いするな!﹂セトと初めて会った時もそうだったが、マー
チは子供扱いされると過剰に反応するところがあるようだ。
﹁はいはい。じゃあ、僕らは里長に報告に││﹂
﹁あ、ちょっと待って﹂マーチをあしらって里長のいる屋敷へと足
を向けたオーディを、マーチが制止した。﹁今日は報告はいいって﹂
﹁どういうことだ?﹂オーディは驚いた。森の外へ出たものは、戻
った際に必ず里長への報告が必要になる。それがこの隠れ里の大原
則のはずだったからだ。
﹁あたしも詳しくはよくわからないけど﹂マーチも戸惑い気味に説
明する。﹁さっきから屋敷では大人たちが集まって、なにか話し合
いをしているみたい。誰も中に入れないように、誰も近づけないよ
うに、だってさ﹂
﹁なにかトラブルがあったのかな﹂オーディは不安げに顔をしかめ
た。﹁それでソナタさんがシイカを解放したのか﹂
マーチのいった﹃大人﹄とは里の中で重要な地位にいる人物のこ
とを差す。自警団をまとめているユーフォや、里で唯一の薬草師で
あるアンプなどがそうで、ソナタも里の女たちをまとめる立場にあ
るので呼ばれたのだろう。
﹁お母さん、シイカにべったりだものね。久しぶりに解放されて良
かったでしょ?﹂マーチが表情を和らげてシイカに問う。
﹁あはは・・・﹂シイカは笑ってごまかすほかない。
﹁はじめて女の子ができた、って喜んでたぜ、ソナタさん﹂
﹁うるさいよ、オーディ﹂茶化したオーディをにらみつけると、マ
153
ーチはセトに向き直った。
﹁さてと、まだ元気なら、後で稽古つけてあげるけど?﹂
﹁もちろん、やるよ。そろそろマーチから一本とれそうだしね﹂
セトを筋がいいといってくれた魔族の言葉は嘘ではなかったよう
で、このひと月で剣の腕前はずいぶんと上達した。近頃はマーチ相
手なら互角に近い勝負ができるようになってきている。
﹁言ったわね。じゃあ交代が来たらいくから、先に訓練場へいって
て﹂
﹁うん、じゃあ後でね﹂
セトとオーディがマーチに背を向けると、シイカもそれに続こう
としたが、マーチが素早くその手を抑えた。
﹁シイカは、もう少し話し相手をしててよ。一人じゃこの退屈さに
耐えられないの﹂
母親のことを﹁べったり﹂と評したマーチであったが、こちらも
相当なものであった。
里長の屋敷に集まっているのは、みながこの隠れ里が成立した頃
からメンバーであった。一同の表情は例外なく緊張しており、場を
支配する空気は重い。
﹁返事が来た。やはり手配の対象になっていたよ﹂テスがそう言っ
た。
﹁あの竜の首飾り・・・サンクリーク国内にあちこち飾られていた
王族の肖像画で見た記憶があったんだ。ただ、宝石の色は違ってい
たとおもうんだが﹂そう言ったのはアンプだ。彼は戦争前、サンク
リーク王国で城に仕える薬草師の一人だった。
﹁宝石は売るか何かして、別の安い石を嵌めたってところじゃない
か?﹂ユーフォが続けた。﹁やはり、その首飾りが決め手なのか?﹂
﹁いや・・・名前と顔が描かれた手配書が出回っているらしい。首
飾りについては特に情報はなかった﹂とテス。
﹁ふうん・・・まぁアンプが気づいて﹃外﹄へ問い合わせたおかげ
154
で、こうして先手を打てるんだから、いいけどな﹂
﹁先手を打つ?﹂それまで黙っていたソナタが尋ねる。
﹁魔族へ引き渡す﹂さも当然、とばかりにユーフォが言った。﹁向
こうから追求されて差しだしたんじゃ、かくまっていたとの嫌疑を
受けかねない。こちらから見つけましたと言えばそんな心配はない
だろ﹂
﹁そんな・・・でも﹂
﹁ソナタさん、あなたや娘さんがあの子たちを気に入っているのは
知ってるが、これは里の将来を左右しかねない問題だ。情に流され
て判断を誤ることはできない﹂ユーフォは冷たく言い放ち、ソナタ
は下を向いてしまった。
﹁ただ・・・ね﹂重く沈んだ空気をやんわり押し破るように口を開
いたのは、アンプだ。﹁自分から振っておいてこんなこというのも
どうかと思うけど、魔族が躍起になって王族狩りをしていたのは、
戦中や戦後まもなくの話だ。情勢が安定していない当時ならともか
く、いまさら昔の王族がひとり見つかったくらいで今の魔族の世が
覆るとも思えない。手配されているとはいっても、そんなに重要度
の高い案件とも思えない。どうかな?﹂
﹁見逃される可能性があるということか?﹂テスが言った。﹁・・・
この里のように﹂
﹁人は魔族の奴隷になれ。それ以外に生き残るすべはない。・・・
・・・・・・・
当時物心ついていた人間なら、すべてのものがこの言葉を耳にした
はずだ。・・・だけど現実に、僕たちは見逃されている。もちろん、
外部から完全に隔離されることで、﹃例外はない﹄という建前は維
持されているけれどね。彼もこの里の中でなら、王族は皆殺し、と
いう建前から見逃される可能性はある、と考えることもできるよね﹂
﹁可能性の話だろう﹂ユーフォは不機嫌そうだ。﹁希望的観測にす
がることが得策とは思えん﹂
﹁だけど、彼らはこのひと月でずいぶん里にとけ込んでしまったよ。
彼らがある日突然姿を消したとしたら、事情を知らない里の住民た
155
ちはどう思うだろうか?﹂
﹁あいつは森の外に出たがっている。里長が許可を与えて森から出
した、と説明すればいいだろう﹂
﹁別れの挨拶もさせてあげられないよ?特に親しい君の部下たち・・
・オーディやマーチはそれで納得するかな?﹂
﹁む・・・﹂ユーフォは言葉に詰まった。この里が実は完全な隠れ
里ではなく、魔族からある程度故意に﹃見逃されている﹄ことは、
いまこの屋敷の中にいるものたちしか知らない。里に暮らしている
ほとんどのものたちは、この里が魔法の力によって完全に外界から
隔離され、世界で唯一魔族の支配から逃れられる場所であると本当
に信じているのだ。
この秘密が里のものたちにばれてしまうこともまた、里の崩壊に
つながりかねない。マーチのように、魔族への嫌悪が強いものは多
いのだ。
﹁あの・・・それなら﹂アンプとユーフォのやりとりが止まったと
ころで、ソナタが口を開いた。﹁もしセト君がこの里の中で生涯を
終えることを納得してくれるのなら、彼を魔族に引き渡さなくても
いい、ということになりませんか?﹂
﹁危険性はゼロではないけれど、一番穏便な方法なのは確かだね﹂
アンプが答える。﹁だけど、ユーフォの言うとおり、彼はずっと森
から出たがってる。道中ではぐれたものを探しにいきたいとね。彼
を納得させるのも、なかなかの大仕事だと思うけどなぁ﹂
ユーフォは口を挟まない。この場にはほかにも数人の関係者がい
たが、いずれもことの成り行きを見守る腹積もりのようだ。
﹁それなら・・・﹂自分が説得すればいい。ソナタがほんの少し安
堵の気配を見せたとき、テスが口を開いた。
﹁いや、駄目だ﹂
﹁!・・・何故、ですか﹂思わず責めるような声がでた。
﹁彼らは王族狩りに固執している﹂テスはテーブルに視線を落とし
たままだ。﹁詳しい理由は知らん。だが、単に世上を安定させると
156
いうだけではないことは確かだ。・・・それだけは、確かなのだ﹂
テスの脳裏には、およそ一〇年前、自らの組織したレジスタンス
が壊滅する瞬間がまざまざと思い出されていた。だが、今この場に
いるほかの人間には、その光景を共有するものはいない。
﹁では、やはり﹂ユーフォが辺りを見回しながらいった。その先は
言うまでもない。里長が心を決めた以上、反対するものもいなかっ
た。
﹁とはいえ、白昼堂々ひっ捕らえるわけにはいきませんよね。薬で
眠らせるかして、夜のうちに何とかするのがいいと思います﹂とア
ンプ。
﹁薬はアンプに任せるとして、どうやって飲ませる?﹂
﹁食事に混ぜるのが一番簡単でしょうけど・・・﹂アンプは消沈し
ているソナタを見やった。﹁ソナタさん。やれますか?﹂
ソナタは目を伏せたまましばらく沈黙していたが、やがて顔を上
げた。
﹁そうしなければこの里を維持できないというのなら・・・やりま
す﹂
﹁よし。ならば魔族側に引き渡しの段取りをつける。決行は五日後。
それまでは彼らの扱いは今まで通りだ。変に態度を変えて怪しまれ
ないように﹂テスの最後の言葉は、主にソナタに向けて発せられた
のだろう。
﹁では、解散﹂テスの合図とともに、列席者は三々五々立ち上がっ
てその場を後にする。ソナタも神妙な顔つきのままそれに習ったが、
ユーフォが後を追ってきて、ソナタの横に並んだ。
﹁ソナタさん。すみません・・・きつい言い方をしてしまって﹂
﹁気にしないで。あなたの立場なら当然でしょうから﹂
﹁手配書が回っているのは、男・・・つまり、セトだけのようです。
もう一人、シイカについてはこの里に残すことも可能でしょう﹂ユ
ーフォはソナタを少しでも元気づけようとそう言ったのかも知れな
いが、ソナタはにこりともしなかった。
157
﹁私は、娘がこれ以上何かに苦しんだり、憎んだりする姿を見たく
ない。・・・私には、それしかないんです﹂
このひと月あまりをともに過ごした少年を失えば、彼女は悲しむ
だろう。もしもそこに関わる事情を知ったならば、今度はソナタ自
身が憎しみを向けられるかも知れない。
だが、父親の命を奪った魔族から逃れ、ようやく得た安住の地を
失うことは、彼女に逃れるすべのない苦しみを与えることになるに
違いない。
それだけは絶対に阻止する。それが娘を守ることなのだと、ソナ
タは自らの心に固く言い聞かせるのだった。
隠れ里のある森から東方に二日ほどのところにあるゲンシィ領。
領主の城の中でもっとも上等な客間に、フェイ・トスカは滞在して
いた。
﹁将軍、ご子息の居場所が判明しました﹂
ひざをついて報告するシェンドを、フェイは厳しい目で睨みつけ
た。
﹁そんな呼び方をするな。・・・それで、どこにいたって?﹂
﹁ここより西方の森の中にある隠れ里が偶然保護したとのこと。奴
隷に似合わぬ装飾を持っていたので問い合わせたところ、手配書と
同一人物であることを確認した、と﹂
﹁へぇ・・・役に立ったな、手配書。隠れ里っていったら・・・あ
の近衛騎士がいるところか。生かしておいた甲斐があったな﹂
﹁三日後に引き渡す、とのことですが・・・﹂
頭を垂れたままのシェンドの言葉に、フェイは渋面を作った。
﹁タイミングが悪いな。グローングから召集がかかっているから、
俺は一度戻らねばならん。ま、相手は子供だし、おまえ等だけでも
大丈夫だろう。ああ、捕らえてもすぐには殺すなよ。それは俺がや
る。さすがに宝珠は預けていくわけにはいかんからな﹂
﹁あの男はどうしますか?﹂
158
﹁連れていけばいいだろう。たとえ裏切ったところで、別に問題は
あるまい?﹂
﹁そうですね。問題はありません﹂﹁ならそうしろ﹂
シェンドが立ち上がってその場を辞そうとしたとき、ドスドスと
足音をたてながら客間に入ってくるものがあった。
﹁フェイ・トスカ殿!魔王様より召集がかかって、お戻りになられ
るとか!﹂
﹁これは御領主。滞在中は世話になったな﹂
威勢良くフェイの前に立った領主ゲンシィに、フェイは型どおり
の礼を述べた。
﹁なんの、なんの!今宵は将軍をお迎えしての最後の晩餐、腕によ
りをかけて極上の材料を・・・﹂
﹁普通で結構﹂フェイはゲンシィの言葉を遮って言った。
ゲンシィの姿に、ここへきて最初の﹁歓迎の宴﹂に供された料理
の姿が重なった。ゲンシィは体中が毛に覆われ、その上から人が着
るような肩口で留めるマントを羽織っている。ずんぐりとした体つ
きをしており、口の部分だけがすぼめたように伸び、そこから長い
舌が飛び出している・・・要は、アリクイをそのまま巨大化したよ
うな魔族なのだ。
そのゲンシィがいう﹃極上の材料﹄とは、すなわち生きた蜂や蟻
などの昆虫にほかならなかった。
人間も虫を食べる地域は多くあるし、フェイは文化の違いについ
てとやかく言うつもりはなかったが、さすがに皿の上をうごめく虫
の群を見て食欲を湧かせることはできなかった。
﹁やはりお口に合いませんでしたか?・・・おいしいのになぁ﹂ゲ
ンシィは至極残念そうに肩を落とし、フェイはため息をついた。
﹁戻るのは私ひとりで、部下は置いていく。引き続き面倒を見てや
ってくれ﹂
﹁はぁ。それは・・・かまいませんが﹂ゲンシィは横目でちらりと、
フェイの背後に控えるように立つシェンドを見やった。
159
﹁こいつは人間だが、奴隷ではなく私の部下だ。それ相応の扱いを
よろしく頼む﹂
﹁はっ、それはもちろん﹂
目ざとくその目線に気付いたフェイにくぎを刺されて、ゲンシィ
はかしこまった。
︵腹の内までかしこまったわけではないだろうがな。まぁ、せいぜ
い虫を食わされんように気をつけることだ︶フェイは意地の悪い笑
みを浮かべてシェンドにそう耳打ちしたのだった。
160
暗闇と嘘
二
︵落とさな・・・そっと・・・︶
︵薬・・・そこまで強く・・・うごかさない・・・︶
途切れ途切れにそんな声が聞こえたような気がした。この家のな
かではほとんど聞くことのない男性の低い声。
夢を見ているのかと思ったが、それにしては奇妙な現実感がある。
意識を集中すると、少しずつ覚醒していくのがわかった。
暗闇の中で、シイカは目を覚ました。
風を入れるために上げてある木窓から月明かりが入ってきていて、
その範囲はいくらか明るい。向かいのベッドでは、マーチが眠って
いる。彼女のたてる規則的な寝息がしっかりと聞こえてくるほどに、
あたりは静かだった。
たまたま夜中に目が覚めてしまっただけで、なにも変化はないよ
うに感じる。だがその静けさがシイカの不安をあおった。
マーチを起こさないように、そっと自分のベッドから抜け出すと、
居間を抜けてセトが眠っている部屋へ向かう。
シュテンでともに暮らしていた頃、いつも横にあったセトの寝顔
を見れば安心できるはずだった。・・・しかし。
ベッドはもぬけの殻だった。
壁に立てかけられたままの剣が、非常事態を訴えているように感
じられて、シイカは血の気が引くのがわかった。
自分の部屋へ戻り、眠っているマーチを揺さぶったが、マーチは
目を覚まさなかった。戦士として修行をしているマーチは、普段は
気配に敏感なはずなのに、今日はどうしてしまったのか。
もう一度部屋を出て、今度はソナタの部屋へ向かう。だが、ソナ
タの姿も部屋にはなかった。
161
﹁どういうことなの・・・﹂
シイカはまた部屋へ戻り、マーチを起こそうと試みた。だが、い
くら揺さぶっても反応はない。湧き上がる不安を抑えきれなくなっ
たシイカはマーチを抱え起こすと、最後の手段に出た。
﹁ごめん、マーチ!﹂
シイカは右手を振りあげると、精一杯力を入れてマーチの頬を張
った。ぴしゃりと乾いた破裂音が響く。マーチは目を覚まさない。
もう一発。破裂音が響き、マーチの左頬が真っ赤に染まった。
﹁う・・・なに・・・?﹂ようやく反応があった。だが安堵してい
る暇はない。
﹁マーチ、起きて!セトがいないの﹂
﹁トイレじゃないの・・・﹂とりあえず意識は戻ったようだが、覚
醒にはほど遠い様子のマーチはむにゃむにゃとそんなことを言った。
﹁でも、剣は起きっぱなしだし、ソナタさんもいないし、マーチは
ちっとも目を覚まさないし、何かおかしいよ!﹂
重さに慣れるために剣はいつも身につけていろ、とは剣を習い始
めたその日にセトが言われたことで、セトは今日までその言いつけ
をしっかり守っていたのだ。
﹁たしかに・・・なんかぼーっとする。なんだろこれ・・・?﹂
マーチはベッドから降りて立とうとしたが、ふらついてシイカに
抱きとめられた。それでも少しずつ目が覚めてきているようだ。
﹁セトを探しに行きたい。マーチ、手伝って﹂
﹁うん・・・。ちょっと待って、今ちゃんと起きる﹂
マーチはシイカから離れて立つと、しこたま頭を振った後、両手
で自分の頬を数回たたいた。
﹁・・・?左側だけやけに痛い﹂
﹁あ、それは・・・ごめん﹂
セトたちを探しに外に出るため、ふたりは普段着に着替えて居間
に出てきた。
162
﹁セトとお母さん、いつからいないの?﹂より目を覚ますために柔
軟体操をしながら、マーチが尋ねた。
﹁私もついさっき起きたばかりだけど・・・そのときにはもういな
かったの。でも﹂
シイカは少し戸惑った後、自らの考えを口にした。
﹁目が覚める寸前に、セトじゃない男の人の声を聞いたような気が
するの。夢だったかも知れないけど・・・﹂
﹁そいつらに連れ去られたかも知れない?﹂マーチがつなぐと、シ
イカがうなずいた。
﹁うーん、この里にそんなことするやつがいるとは思えないけど・・
・でもお母さんもいないし、二人とも戻ってこないし・・・確かに
心配ね﹂マーチは体操を終えると、完全に覚醒した様子でシイカに
向き直った。
﹁よし、それじゃまずは火炊き場に明かりを取りに行こうか。それ
までは足下が暗いから・・・﹂
﹁あ、待って﹂シイカはマーチを制止すると、一人でセトの部屋に
引っ込んだ。すぐにでてきたが、セトの剣を両腕で抱え持っている。
﹁持っていくの?﹂﹁うん・・・いやな予感がするの﹂
セトにも少々大きいその剣は、より小さいシイカでは抱えて歩く
のも難儀しそうだ。マーチはひもを持ってくると、剣を括ってシイ
カが背中に担げるようにしてやった。
﹁ありがとう、マーチ﹂シイカが礼を言って剣を背中に装備する間
に、マーチも普段使いの二本の小剣を腰に佩いた。
﹁セトにも持ってろっていった手前、あたしも一応持ってくか・・・
それじゃいこう、シイカ﹂
シイカとマーチのふたりは家を出ると、マーチが提案したとおり
に火炊き場に向かった。
月がよくでているので全くあたりが見えないということもないが、
やはり足下は少々心許ない。
163
この里には魔法の灯りが存在せず、また森に囲まれ家もすべて木
製であることから火の使用も最低限である。そのため日が沈んだあ
とに活動することはほとんどなく、夜の闇の中を歩き回る経験はシ
イカだけではなくマーチにもほとんどない。ふたりの足取りは必然、
速やかとはいかなかった。
しかし探し人のうち一人は、あっさりと見つかった。火炊き場の
ところに人影を見つけたのだ。
﹁あれ、火炊き場のところにいるの・・・お母さん?﹂
女性にしては背の高いソナタのシルエットは、遠目からでも判別
できる。
こんな時間にいったいなにをしているのか、一点を見据えたまま
のソナタは動く気配がない。だが、マーチとシイカが後ろから近づ
いて声をかけると、ソナタは幽霊でも見たかのように仰天した。
﹁マーチに、シイカちゃん!?どうして・・・﹂
﹁シイカが、セトがいなくなったっていうの。お母さん、どこに行
ったか知らない?﹂
ソナタはマーチの言葉が聞こえていないのか、﹁そんな・・・確
かに三人の食事に・・・﹂とぶつぶつ独り言を言っている。
﹁お母さん?﹂マーチが怪訝な目を向ける。
ソナタはこれ以上狼狽した姿をふたりに見せないように、二度大
きく息をついた。アンプに渡された薬は副作用などが出ることのな
いように、と彼女が強く頼んだためにそれほど効力が強いわけでは
ないはずだったが、それでもこんなに早くふたりが目覚めてしまう
のは予想外だ。
とはいえ計画通りにいったとしても、翌朝にはふたりに事情を説
明しなければいけなかったのだ。
すでに事態は動き出しており、巻き戻すことは出来ない。ソナタ
は両手をマーチの両肩に乗せて、言った。
﹁聞いて、ふたりとも。セト君は・・・里を出て行ったの﹂
﹁なんで、急に!?﹂驚きの声を上げたマーチの肩をつかんで、ソ
164
ナタは続けた。
﹁里長から、セト君一人だけなら里から出してあげると言われたの。
ほら、ずっと外に人を探しに行きたがっていたでしょう?あなたた
ちを悲しませたくないから、黙っていくことにしたのよ。セト君か
らはシイカちゃんをよろしく頼むって・・・﹂
計画が決まってから、頭の中でずっと考えていた言葉を一気にま
くし立てる。まるで言い終えれば、彼女の心を支配する罪悪感から
解放されるかのように。
マーチはソナタの言葉を表情を変えずに聞いていたが、シイカは
発言が進むほどに、その表情を曇らせていく。
﹁嘘、ですよね。それ・・・﹂
やがて発せられたシイカの言葉は、セトの行動が信じられないと
いう言葉ではなかった。ソナタの言葉が嘘であるという確信ととも
に、ソナタがこの場面で嘘をつくことの意味に半ば気づいてしまっ
たことへの悲しみが込められていた。
﹁嘘じゃないわ、シイカちゃん﹂ソナタの表情がこわばる。
﹁それなら、何で剣を置いていったんですか?﹂シイカの背中には、
セトがこの一月の間肌身はなさず身につけていた剣がずしりとその
存在を主張していた。
﹁それは・・・﹂ソナタは言葉に詰まってしまった。剣など、セト
の身の回りのものは、引き渡しがすんだ後、夜が明けないうちに処
分する算段だった。それが済んでいない今の状況では、セトが自分
の意思で森を出たという言葉は全く信憑性を持たない。
﹁どういうこと、お母さん﹂マーチも疑いのまなざしを向けている。
沈黙する時間が長引けば長引くほど、自身の言葉が嘘である証明
になる。そのことはソナタにもわかっていたが、かといってふたり
を信用させるに足る言葉は見つからなかった。
﹁まさか、魔族に引き渡そうとしてるんじゃ・・・﹂
シイカから決定的な言葉が出た。だが、マーチはさすがにそこま
で考えることは出来なかったようだ。
165
﹁それはないよ、シイカ。この里は魔族とのつながりを完全に絶つ
ことで存在しているんだから﹂
﹁でも、マーチの様子からしても、たぶん薬を使って無理矢理つれ
ていったのよ。どうしてそんなことする必要があるの?﹂
﹁それは・・・セトを里からだそうとした?﹂マーチのいいわけも
苦しい。
﹁それなら、セトに里から出るように伝えればいい。セトは拒まな
いと思うわ。無理矢理するのは、セトが望まないことをさせるため
でしょう?﹂
﹁そうだけど、さすがに魔族なんて・・・﹂マーチは戸惑いを隠せ
ない。この里は魔族の支配から逃れ、そのつながりは完全に絶たれ
ている。長年信じ込んでいたその確信が、今大きく揺らいでいる。
﹁お母さん、違うなら違うって言ってよ!どうして黙ってるの?﹂
ソナタは、ふたりのやりとりを聞きながらもなお、必死で言葉を
探していた。
だが、嘘は嘘だ。セトが自分で森を出たということも、この里が
魔族の支配下にはないということも。
我が子に向かってついたふたつの嘘を、これ以上つき通すことは
もう出来ない。ついに、ソナタの思考は停止してしまった。ソナタ
の目尻から涙があふれ、ソナタは両手で顔を覆ってしまった。
﹁ちょっと、お母さん!どうして泣くの!違うんでしょ?違うって
言ってよ!﹂マーチもだいぶ混乱しているのか、声を荒げてソナタ
の肩を揺さぶった。
﹁ごめん・・・ごめんね、マーチ﹂ソナタは嗚咽に何度となく声を
途切れさせながらも、ついにその口から真実を告げた。
﹁この里は・・・隠れ里なんかじゃないの。私たちのような、魔族
の支配を受け入れられないものたちを効率よく監視するために・・・
見逃されているだけ。あなたのお父さんを殺した魔族に・・・形は
違っても、結局は支配されているのよ﹂
﹁そんな・・・﹂力の抜けてしまったマーチがつかんでいた肩を放
166
すと、ソナタはその場にくずおれてしまった。
﹁ソナタさん!セトはどこへ連れて行かれたんですか!﹂
今度はシイカがいままでにない強い口調で問いつめると、ソナタ
は弱々しく口を開いた。
﹁里長の屋敷の奥から、外へ・・・森の外で、魔族との引き渡しが・
・・﹂
﹁森の外・・・﹂シイカは歯噛みした。隠れ里という言葉が偽りで
も、里には確かに目くらましの魔法がかけられている。回避の方法
を知らないシイカでは、後を追うどころか森の外へ出ることが出来
るかどうかもわからないのだ。
ソナタは最早下を向いて顔を覆い、さめざめと泣くばかりだ。シ
イカはマーチの方を見た。
﹁マーチ、里を出る方法を・・・﹂彼女もまた重い事実を突如突き
つけられて、混乱してしまっているかと思ったが、その瞳には光が
宿っている。一度は力なく母の肩を放した両手を握りこぶしにし、
力強く言った。
﹁あたしも行く﹂腕でこするようにして浮かんだ涙をぬぐい去ると、
きっぱりと言った。
﹁こんなの許せないし、納得できない。あたしはセトを助けに行く﹂
﹁マーチ・・・ありがとう﹂
そうなれば一刻も猶予もない。里長の屋敷に向かって駆け出そう
とするシイカだったが、マーチがそれを制止した。。
﹁待って。あたしたちの足じゃ、たぶん追いつけない。一回訓練場
へ行こう﹂
﹁訓練場?・・・あっ﹂なぜそんなところへ、と一瞬考えたシイカ
だったが、すぐに合点がいった。訓練場には二頭のラグスがつなが
れている。セトに対抗心を燃やしたマーチが毎日のように乗ってい
たのだ。
﹁ラグスなら夜目も効くって聞いたし、今からでも追いつけるかも
しれない。シイカ、乗ることは出来る?﹂
167
﹁乗るだけなら、何とか・・・。でもあんまり早く走らせたことは
ないの﹂
﹁大丈夫、あたしに任せて。この一月の間、ほとんど毎日練習して
たんだから。さ、行こう﹂
マーチが火炊き場の釜の取っ手を引き、シイカが備え付けのたい
まつを差し入れて火をつける。新しい薪は入れないまま、マーチは
取っ手を戻した。シイカはすぐに走り出す。マーチは傍らに座り込
んで泣いている母を見やった。
﹁それじゃ、お母さん・・・﹂
ソナタは返事をしなかった。
﹁さよなら﹂
娘の走り去る足音を聞きながら、ソナタはただ肩をふるわせるば
かりだった。
168
奪還
三
訓練場の隅には厩舎があり、この里にも四頭の馬が飼育されてい
る。荷運びをすることはこの里ではあまりないので、もっぱら畑を
耕すなどの重労働に使われていた。
ここの空いている房にラグスたちもいる。体が小さいこともあっ
て一つの馬房にまとめて入れられていた。
マーチが厩舎にはいると、ラグスたちがいるはずの一番奥の馬房
からがさがさと音がした。ラグスが彼女の気配を感じて目を覚まし
たようだ。
奥へ向かう間に確認すると、馬房の中で寝ているはずの四頭の馬
のうち、三頭の姿がなかった。
﹁三人・・・ってことは、里長と、ユーフォと・・・あとは、アン
プとかかな﹂マーチがセトを連れて里の外に出た人物を予想する。
﹁アンプはどうとでもなるけど、里長は昔は歴戦の戦士だったって
いう噂だし・・・。そもそもあたし、ユーフォに一対一で勝ったこ
とないんだよね﹂
﹁やっぱり、戦うことになるのかな﹂
シイカは下を向いた。ソナタを問いつめたときは興奮していて、
とにかく追いつきさえすればセトを助けられると思いこんでいたの
だが、少し落ち着いて考えればそんなはずはなかった。
セトを連れ去ったものたちの抵抗にあうのはもちろん、状況によ
っては魔族とも対峙しなければならない。
シイカには戦うことは出来ない。となればセトを救出するための
戦力は、マーチひとりだけということになる。
﹁まぁ、なるだろうね・・・返せっていって返してくれるとは思わ
ないし﹂マーチは言いながらラグスを馬房から出すと、桶にくんで
169
きた水を飲ませながら、体毛を撫でつけてやっている。当初は近づ
くのも抵抗があったはずだが、この一月でずいぶんと慣れたようだ。
﹁向こうがセトをどうやって連れているのかわからないけど・・・。
でも、向こうもあたしたちが追ってくるとは思ってないだろうし、
うまく仕掛ければ何とかなると思うよ。ここへきたおかげで装備も
ちゃんとしたし﹂
不安がるシイカを安心させようと、マーチは背中に装備した弓矢
を揺すってアピールすると、笑顔を向けた。
服装は家を出たときのまま、ゆったりめの麻製の上衣をベルトで
留め、その下にズボンという格好だが、皮の胸当てがあったのでそ
れも身につけている。マーチは念のため、とシイカにも胸当てを身
につけさせようとしたが、一番小さいサイズでもシイカには大きす
ぎたため断念した。
﹁ラグスなら、奇襲もしやすそうだし。とりあえず矢でもってユー
フォをなんとか戦闘不能にして、あとは里長か・・・。ブランクで
腕が鈍っていることを期待ね。シイカは隠れて見てて。危ないから
出てきちゃだめよ﹂
﹁でも・・・﹂自分がマーチを巻き添えにするような形なのに、そ
れではあまりにも不公平だ、とシイカは思ったが、反論しようと開
いた口にそっと指を当てられてしまう。
﹁万が一、あたしが捕まったり・・・殺されることがあったら、そ
のまま逃げること。シイカの細腕じゃ、アンプにだって勝てるか怪
しいからね。・・・逃げる当てはあるの?﹂
セトの救出に成功したとしても失敗したとしても、この里に戻っ
てくることは出来ない。
シイカにとって当てといえるのは、はぐれる前にガンファが言っ
ていた目的地、ユーフーリン領しかなかった。だがシイカが知って
いるのは森から南に三日ほど下ったところ、というだけで具体的な
位置はわからない。ずっと里で暮らしていたマーチにしても、領名
だけではどこだかわからないだろう。
170
当てというには曖昧だが、ほかに候補はない。シイカがそうマー
チに告げると、マーチも少し困ったような顔をしたが、すぐに覚悟
を決めたようだった。
﹁まあ、何の当てもなく逃げ回るよりはいいわよね。もしはぐれた
りした場合も、そこを目標に集まるようにしようか﹂
マーチは水を飲み終え、準備万端とばかりに姿勢を低くしたラグ
スにまたがると、声をかけて立ち上がらせた。もうすっかり習熟し
たらしく、スムーズな動作だった。両手も体毛をつかむことなく、
太ももと腰回りのバランス感覚だけで乗りこなしている。
シイカももう一頭のラグスにまたがり、立ち上がらせた。こちら
はそれほどスムーズとは言えないが、両手で体毛をつかんでいれば
落ちることはなさそうだった。
﹁シイカの乗ってるラグスにはあたしのあとを付いてくるように指
示するから、シイカは落ちないようにすることだけ、注意してれば
いいわよ﹂
マーチはまずシイカのラグスに向かって命令すると、自分のラグ
スにも指示をした。二頭のラグスはゆっくりと進み出し、厩舎を出
ると加速を始めた。
シイカが目覚めてから半アルン︵約一時間︶ほどはすでに経過し
ている。できれば森の外に出るまでにセトを連れた里長たちを発見
したいが、時間的にはぎりぎりだ。
マーチが全速力を指示すると、周りの景色が流れるように飛び、
あっという間に里長の屋敷が見えてきた。この屋敷の背後に、通常
里の住民はあまり使わない、里の外へと出られるポイントがある。
﹁森に入るよ、落ちないように気をつけて!﹂
マーチはあとに続くシイカに一声かけると、ほとんど減速させず
に森の中へと突入した。
薬で眠らされているセトを連れた一行は、ゆるやかな足取りで森
の中を進んでいた。
171
先頭をアンプ、その後ろに里長のテス、そして最後尾にユーフォ
という順番で、それぞれが騎乗している。意識のないセトはテスの
馬に乗せられていた。
﹁あとどれほどです?﹂最後尾からユーフォが尋ねる。
﹁もうあと半クラム︵約一五分︶ほどで森の出口です。手はず通り
なら、そこで受け渡し相手が待っているはずです﹂先をゆくアンプ
が答えた。彼は薬草師という職業柄、この森をもっともよく知って
いる。そして、外部││魔族側との交渉窓口になっているのも彼で
あった。
﹁よく眠っているな﹂
テスは自分の前で眠り込んでいるセトに視線を落としながら言っ
た。落ちないように馬の背をまたがせているが、上半身は馬の首に
力なく寄りかかるようにしている。駆け足を使っていないとはいっ
ても、馬の背の上はそれなりに揺れるのだが、少年が目を覚ます気
配はなかった。
﹁この子たちが持っていた薬草を少し拝借しましたからね﹂
ガンファの薬草は、セトたちでは保管の方法もわからないという
ことで、結局アンプが管理するようになっていた。この森では採取
できない貴重なものも多く、アンプもセトたちがもしも平和的に里
を出るようなことがあったら返すつもりで保管していたが、こうい
うことになれば遠慮する必要もなかった。
﹁朝になればすっきりとお目覚めです。副作用もありません。調合
の残りが少しありますから、里長も眠れないときはおっしゃってく
ださればお渡ししますよ﹂
﹁・・・そうだな﹂
テスは抑揚のない返事をすると、セトから目を離した。
真夜中の森は木々が被さって空もほとんど開けておらず、月明か
りも入ってこない。アンプとユーフォがそれぞれ掲げているたいま
つがなければ、自分の手元すらなにも見えないだろう。
テスが幼少から成人までを過ごしたカルバレイクは国土の多くを
172
熱帯雨林に覆われた国であった。テスも子供の頃から遊ぶ場所とい
えば森の中だったから、本来ならば森の中は居心地のいい場所のは
ずであった。
だが一方で、自らの立ち上げたレジスタンスが決定的な敗北を喫
したのも森の中だった。十年あまりが過ぎた今でも、あの日の光景
は何日とおかず夢に見る。
以来、森の中はテスにとって息苦しさを覚える場所であった。特
に今のように、少数で森を進むのは、かつての逃避行と重なって胸
が詰まりそうになる。
だから、先頭のアンプが﹁そろそろ出口です﹂と告げたときは、
心底ほっとした。実際に胸をなで下ろすようなことは、ほかのふた
りの手前しなかったが。
重なりあう木々の数が少なくなり、森の終わりがテスの目にも見
えるようになってくると、その先の開けた場所にはいくつかの灯り
が焚かれているのがわかった。アンプの言ったとおり、﹁手はず通
り﹂あの先で魔族が待ち受けているのだ。
テスは再び、眠るセトへ視線を向けた。安らかな顔で眠る少年を
あそこで引き渡せば、里は危険から未然に身を防ぎ、魔族の支配か
ら免れている、という建前は維持されることになる。
これまであまり他人を疑うということをしなかったのだろう。自
分への警戒心を隠すことが出来ず、顔を見せるだけで露骨に身構え
るようなところがあった。その一方で、わずかな期間でよそ者への
警戒心が強いはずの里の住民の間にとけ込み、あっという間になじ
んでしまった。おかげでこのように夜陰に乗じなければ里から出す
ことも出来なくなった。
意識してそうしたとは思えないが、この少年にはひょっとしたら
天性のカリスマのような物が備わっているのかもしれない。今後順
調に人生経験を積んでいけたなら、どんな大人物に││。
そこまで考えて、テスは思考を止めた。今の彼にとっては、里を
維持すること、今里にいる者たちを守ることがすべてだ。それに、
173
人間は奴隷になるか、自分たちのように隠れて暮らすしか道のない
世の中では、どのように成長しようがさしたる意味はないのだ。
一行が森の外へ出ると、待ちかまえていた魔族たちがそれを取り
囲んだ。だが、数は一〇体ほどで、それほど多くはない。その中か
ら、中央に立っていた人物が前に進み出た。
﹁ご苦労様です、テス殿﹂魔族側と交渉をしているのはアンプであ
ったから、彼らがテスのことを知っているとは思えなかったが、ど
ういうわけかテスは最初に挨拶を受けた。
テスは怪訝な表情でその人物をみたが、やがて顔立ちや、北方の
種族特有の色素の薄い肌、金色の髪に見覚えがあることに気づいた。
﹁お忘れですか?・・・といっても十年前、私はまだ子供でしたか
ら、無理もないかもしれませんが﹂
﹁あのときの小姓か﹂言われてテスは合点がいった。レジスタンス
が襲撃を受けたあの森の中で、テスとともに生き残った小姓だった
のだ。
﹁山を下りたあとに別れたが、まさか魔族の手下になっていたとは
な﹂
﹁あのあと、私はフェイ・トスカに拾われたのです﹂小姓││シェ
ンドがそう答えると、テスの肩に力が入った。
﹁フェイ・トスカだと!﹂
﹁はい。それ以来、私はあの方に仕えています﹂
﹁来ているのか、あの男が﹂テスの語調は隣にいるアンプやユーフ
ォが驚くほど強くなっていた。
﹁いいえ。ここへは来ていません﹂シェンドは淡々と答えた。﹁今
日は﹃荷物﹄を受け取るだけですから﹂
﹁荷物・・・﹂テスはその言葉に肩の力を抜き、視線を落とした。
セトは相変わらず、安らかに寝息をたてている。自らが荷物扱いさ
れていることにも気付かずに。
﹁なぜあの男は、これほど執拗に王族を狙うのだ?﹂
﹁さあ・・・詳しいことは存じません﹂シェンドは幾分鋭い目つき
174
になって、テスを見据えた。﹁それに、いまさらそんなことを知っ
てどうするのです?・・・戦いを放棄したあなたが﹂
淡々とした口調はそのままだったが、その言葉はテスを強く貫い
たようだった。覇気を失ったテスは、シェンドから目をそらした。
﹁そうだな。もう俺には関係がないことだった﹂テスは馬から下り
た。﹁では、荷物を引き渡そう﹂
マーチとシイカはラグスに騎乗したまま、森の影でその光景を見
守っていた。正確には、身動きがとれないでいた。
ラグスを全速力で駆けさせてきたものの、先行するテスたちの姿
をとらえたときにはもう森の出口で、その先に魔族の一団が待ちか
まえているのも見て取れたからだ。
テスとユーフォ︵とアンプ︶だけならまだしも、魔族の集団まで
いてはマーチだけではどうしようもない。のこのこ出ていったとこ
ろで捕まるか殺されるかするだけだ。
それでも好機がないものかと、灯りを消して木陰に身を潜めては
みたものの、チャンスが訪れる気配は一向になかった。
﹁くそ、このままじゃ・・・﹂弓矢を構えているマーチは口の中で
毒づいた。セトは今まさに馬から下ろされ、魔族側に引き渡されよ
うとしていた。
﹁・・・?﹂
そのとき、マーチたちが身を隠すのとはテスたちを挟んでちょう
ど反対側の草むらが揺れたことに気付いたのは、そこにいた者たち
の中ではシイカだけだった。
セトを抱えたテスがシェンドの元へ近づき、その身柄を渡そうと
したまさにそのとき││草むらに身を潜めていた﹃影﹄が猛然と飛
び出してきた。
それはその場にいたすべての者たち︵その﹃影﹄そのものを除い
て︶にとって予想外の出来事だったが、そこにいたものの多くは戦
175
いに慣れた者たちであったから、対処するための行動は迅速だった。
テスとシェンドはセトの身柄を受け渡すことなく後退し、替わり
に馬面の大柄な魔族が飛び出して、飛び出してきたそいつを抑えよ
うとした。
だが、彼らにとってさらに予想外だったのは、その﹃影﹄が馬面
の魔族よりもさらに巨大であったことだった。
﹃影﹄は馬面の魔族をはじきとばすと、そのままの勢いでテスへ
と迫った。牙が覗く歯を堅く食いしばり、人を本能から恐れさせる
形相をしていた。
﹁うおおっ!﹂
テスの後ろから気合いとともに飛び出してきたユーフォが、騎乗
のまま背中から引き抜いた大剣をためらいなく斬りつける。
大剣は﹃影﹄の右肩に食い込んだ。だが、並の魔族ならその圧力
で強引に叩きつぶすことが可能な大剣さえ、その巨躯の外皮部分を
傷つけたに過ぎなかった。それでもなんとか﹃影﹄の突進をくい止
めることに成功し、そこにいた者たちはようやく﹃影﹄の正体を知
サイクロップス
った。
﹁一つ目巨人・・・!﹂驚愕の声を上げたのはテスだ。
戦闘力の高い巨人の魔族の中でも、伝承に名前がでるような存在。
そんなものがどうしてこの場にいるというのか。しかも、こちらを
狙っている。一つ目がギョロリと動き、その目線がテスが抱えたま
まのセトを捉えた。
テスはシェンドの方を睨んだが、どうやらあちら側も少なからず
混乱しているようだ。彼らの手配ではないらしい。
﹁取り押さえろ!﹂
シェンドの号令で、数体の魔族が巨人を取り囲む。間合いを取っ
て巨人と向き合っていたユーフォを含めて四名が一斉に巨人に襲い
かかった。
だが、巨人はものともせず、左腕を振るって二体の魔族をはじき
飛ばし、正面から来た魔族には蹴りを見舞った。さらにユーフォが
176
空いた右側面から斬りかかったが、巨人は素早い身のこなしで上段
からの一撃を躱す。ユーフォの体勢が乱れたところを、巨人が拳骨
で大剣を殴りつけると、それは焼き菓子のように音を立てて砕けて
しまった。さらに大剣を砕いた拳がそのまま馬の横腹を殴りつける
格好になり、馬は横倒しになってユーフォは為すすべもなく鞍から
投げ出された。
﹁どういうことだ・・・﹂事態をはかりかねているテスはセトを抱
えたままということもあり、身動きがとれずにいる。
そのとき、巨人が出てきたのとは反対側の森からさらに飛び出し
てくるものがあった。何事か叫びながらあの得体の知れない魔物│
│ラグスにまたがってこちらに向かってくる銀髪の少女。シイカで
あった。
﹁ガンファーっ!﹂
シイカは声を限りに叫びながら、前傾姿勢でこちらに向かってラ
グスを走らせている。なぜ彼女がここにいるのかは分からないが、
彼女の目的は明白だった。
﹁アンプ、止めろ!﹂
﹁うぇっ、僕ですか?﹂
戦闘は門外漢、と傍観を決め込んでいたアンプだったが、里長に
命令されてしぶしぶ馬をうごかし、向かってくるシイカとテスの間
に立つ。
﹁薬が効かなかったのかな?まぁとにかく、おとなしくして││﹂
そこまで口にしたとき、馬が突如悲鳴のような鳴き声をあげて棒
立ちになった。よく見ればその尻に矢がつき立っていたのだが、ア
ンプには理解する暇もない。
﹁うわあぁっ!﹂あっさりと手綱から手を離してしまい、馬から落
ちた。馬は主に目もくれず、その場から走り去ってしまう。
シイカの背後からもうひとり、ラグスにまたがった少女、マーチ
が飛び出してくる。アンプの馬に矢を飛ばした彼女は、さらに弓に
矢をつがえ、すぐ射撃ができる体勢でシイカに追いついた。
177
﹁ちょっと、シイカ!どういうことなの、あの巨人は││﹂
﹁あれはガンファよ。ガンファを襲っている魔族を追い払って!﹂
マーチは巨人の姿を見るなり飛び出していったシイカに面食らい
ながらも、自分よりもこの場を把握しているらしいシイカに従った。
ガンファを取り囲んでいる魔族にめがけ、立て続けに二射の矢を放
つ。
矢は二射のうち一射が羽根付きの魔族の背中に当たり、もう一射
は外れたが、それによって魔族たちの意識もシイカとマーチに向い
た。
巨人││ガンファは自分への注意が弱まった瞬間を逃さなかった。
強引な正面突破で魔族の囲みを破ると、テスへと迫った。
テスはセトを抱えたまま、自分の腰に佩いた剣を抜きはしたもの
の、圧倒的な力を持つ巨人に対抗するすべなどない。一瞬、眠る少
年の首筋に剣を当てれば巨人は止まるのでは、という考えが頭をよ
ぎったが、そこまで鬼には成りきれない心がどこかにあってテスを
躊躇させた。
結局、その一瞬の躊躇の間にガンファはテスの眼前に立ち、大し
た抵抗もさせずにセトを奪い取ることに成功した。ガンファは左肩
にセトを軽々と抱えると方向転換し、シイカたちに合流した。
﹁逃げるよ。こっちだ﹂ガンファは目的を達したからか、先ほどま
での鬼神の如き形相は影を潜め、普段の穏やかな表情を取り戻しつ
つある。
シイカは無言でうなずくと、ラグスをガンファの後ろにつけた。
﹁ちょっと待ってよ、シイカ!﹂
その後ろのマーチはまだ事態が飲み込めておらず、何もいわずに
巨人の後へ付いていくシイカに向かって不満げな声を上げたが、背
後からは魔族が追走を始めており、結局は後に続くしかなかった。
ガンファたちと彼らを追っていった魔族たちの姿が見えなくなる
と、その場にはシェンドと追走には向かない鈍重な魔族が数体、そ
178
してテス、ユーフォ、アンプが残された。
﹁何者だ、あの魔族は?おまえたちの仲間ではないのか﹂
テスが問いかけたが、シェンドは返事をしなかった。
︵ひとりで逃げているはずはない、とは思っていましたが、まさか
あれほどの強力な魔族が護衛にいるとは・・・失態でした︶
シェンドはガンファたちが逃走した方角に目を向けたまま思案を
めぐらせた。
︵あの男の情報、やはり信用するべきではなかったでしょうか。だ
が、あの方角へ逃げたのなら││︶
﹁こ、これは事故だ!﹂野太い声がシェンドの思考を止めた。馬か
ら飛ばされた際、腰を打ちつけて一人では立てなくなったユーフォ
が、アンプに支えられながらシェンドに向かって大声を張り上げて
いる。
﹁我々は確かに、あの小僧を引き渡すつもりだった!邪魔が入った
のは我々のせいではない。だから││﹂
・・・
外聞もなくわめき散らす男を、シェンドは侮蔑のこもった眼で睨
めつけた。
﹁あなたたちのつもりなんて、どうでもいいことです﹂
言い放たれた言葉の冷たさに、ユーフォはそれ以上言い募ること
ができなかった。
﹁心配しなくても、このことであなたたちの里が報復を受けること
などありません。あなたたちにはそんな価値もないのですよ。せい
ぜい隔離された森の中で身を屈めて生きていけばいい﹂
あからさまな侮辱にユーフォは顔色を変えたが、腰の痛みが邪魔
をして行動にでることはできなかった。代わりにテスが、表情は落
ち着いたままで言った。
﹁何とでも言え。今の私たちにとってはあの里を守ることがすべて
なのだ。世界で唯一、人間らしく生きられるあの里がな﹂
﹁人間らしく、ね・・・﹂シェンドは薄い笑みを浮かべた。﹁私と
あなた、一時同じ王に仕えましたが、そこで得たものはずいぶんと
179
違うようです﹂
そう言うと、シェンドは踵を返した。残っていた魔族たちに撤退
を指示する。
﹁では、これで。もう会うこともないでしょう﹂それきりテスたち
には目もくれず、その場を後にする。
︵さて、別動隊がうまく捉えてくれるといいのですが︶
その視界に、もはや森の姿は入ってはこなかった。
180
再会と別れ
四
フェイ・トスカたちにセトの情報を渡した男││リタルドは、万
が一セトの確保に失敗した状況に備えて配置された別動隊の中の一
隊にいた。
リタルドは、シュテンではセトを護ろうとする立場にあったから、
彼らがシュテンを出た後に向かう先がユーフーリン領であることも
知っていた。この周辺地域に、そこ以外にセトを保護しようとする
勢力はないことも。リタルドによってもたらされたこの情報により、
セトが逃走に成功した場合、通るであろうルートをいくつか予想し
て別動隊が配置されたのだった。
しかしリタルドは、セトの名前や外観、そして逃走先などの情報
をフェイ・トスカに提供した一方で、いくつかの情報を隠した。そ
の最たるものが、セトに同行するものがいるという情報だった。
彼は迷っていたのだ。
フェイ・トスカの語った﹃計画﹄は、リタルドにとって確かに魅
力的なものだった。いや、それを知ればリタルドのみならず、戦争
で失ったもののある多くの人間が魅力を感じるだろう。ただ、セト
やシイカのような戦争を知らないものたちにはそうではないかもし
れない。
なにより、計画を達成するためにはセトの生命が不可欠なのだ。
リタルドはセトを弟のように愛していたし、セトもまたリタルド
を慕っている。その関係に偽りはない。そのセトを犠牲にしなけれ
ば達成されない﹃計画﹄││そんなものは認めるわけにいかないと
いう思いはあった。
しかし一方で、戦争で両親を失った自分を育ててくれ、もう一人
の父親のように尊敬していたはずのグレンデルが真の姿を見せたあ
181
の晩以来、消えていたはずの魔族へのわだかまりが抑えられなくな
ってしまった。あのままシュテンの町に残り、セトの無事を願いな
がら、魔族の親方の元で肉屋の奉公を続けることももう出来なくな
っていたのだ。
﹁時間は過ぎたが、完了の合図がこない。各自警戒しろ﹂別動隊の
指揮を執っている魔族が、その場にいる全員に聞こえるようにそう
言った。
それを聞いたものたちが、各々の持ち場へと散っていく。新参も
のに過ぎないリタルドは、何の役割も与えられていない。リタルド
は思考の間閉じていた目を開き、正面を見据えた。一面背の低い草
原が広がるそこは、月に照らされてほんのわずか日中の青さを思い
出させる。
セトが逃走に成功し、リタルドのいるこのルートを通るなら、一
アンログ︵=一〇〇〇ログ、約七〇〇メートル︶ほど先に広がる森
から出てくる公算が大きいだろう。
ここで再びセトに見えることになるかもしれない。あのあどけな
い少年の顔を見たら、揺れ続ける自分の心を定めることが出来るだ
ろうか。
心地の良い風が、草原を揺らしている。逃走者の姿はまだ見えな
い。
﹁それで、ガンファはどうしてあの場所が分かったの?﹂
ラグスにまたがったセトが隣を行く巨人に尋ねた。
あの後、魔族の追撃は執拗に続き、ガンファたちはなかなか振り
切ることが出来なかったが、マーチの先導で森に入り、里を護るた
めにかけられている目くらましを上手く使うことで追っ手を撒くこ
とに成功した。
落ち着いたところでガンファが気付けの薬草を嗅がせてセトを起
こすと、セトはまるで穏やかな朝日に頬を撫でられたかのように健
やかに目を覚ました。さすがに状況を理解させるのに少々手間がか
182
かったが、なんとか事態を理解したセトはシイカから剣を受け取り、
ラグスの操縦を替わった。
ラグスが馬より劣る点は身体が小さすぎて二人乗りが出来ないと
ころにある。そのためシイカはガンファに背負われていくことにな
った。
﹁ユーフーリン様が・・・教えてくださったんだ。フェイ・トスカ
が部隊を動かしているって﹂ガンファが答える。ラグスに乗ってい
るセトの身体は普段より高い位置にあるが、それでもガンファから
すれば見下ろす位置だ。
今は追っ手の姿もないため、早足は使わず静かに森の中を進んで
いる。森から出るまではこの調子で進んで問題ないだろう。
マーチは夜明けまで森の中に身を隠すことを提案したが、ガンフ
ァがそれを却下した。今回身柄の引き渡しが夜中になったのは里側
の事情であり、魔族側には関係がない。日が昇ればむしろ捜索がし
やすくなるはずで、ガンファとすればそうなるまえに出来るだけ森
から離れておきたかった。
マーチはセトたちの少し後ろを、明らかに不機嫌そうな表情でつ
いてきている。斜め前を行く巨人の魔族が、セトたちがずっと安否
を案じ、探しに行きたがっていたガンファであるということは、つ
い先ほど説明を受けたばかりだった。
里で暮らす間、セトもシイカも、ガンファが薬草師で、身体は大
きいけどとても心穏やかな存在であるということは教えてくれたが、
その正体が魔族であるなんてことは一言もいってくれなかった。も
ちろん、マーチが魔族にたいして強い嫌悪を持っているということ
を理解していたからこそ黙ってたのであろうと、マーチ自身も心の
奥底で、まぁなんとなく、理解出来ないこともなかったが、里と母
親を棄ててまで助けに来たというのに、いきなり裏切られたような
気分にどうしてもなってしまうのであった。
それに、ガンファの先ほどの戦いぶりは、セトたちから聞いてい
た優しげなガンファのイメージからはかけ離れていた。そのことを
183
言うと、それはシイカも意外だったと応じた。眠らされていてその
シーンをみていないセトは、﹁へぇ、ガンファって強いんだ﹂と実
感のこもらない感想を述べていたが。
﹁そろそろ森から出そうだ。そうしたらまた、一気に走るよ。セト、
気分は?﹂上を見て、木々の重なり合いが薄くなってきたのを見た
ガンファがそう言った。
﹁僕はもう、大丈夫﹂セトは笑顔で応じると、背中に担いだ剣に手
をふれた。寝ているところを連れ出されたセトは当然ながら寝間着
姿で、腰帯に剣を差せないためシイカがそうしていたのをそのまま
流用して背中に剣を装備している。﹁マーチは?﹂
﹁平気﹂セトに振り返られたマーチはぶっきらぼうにそう答えたが、
邪険に扱われたと感じたセトが肩をすぼめて正面に向き直るのを見
て、自分の胸も痛くなった。
一行はガンファの言葉通り、森から出ると同時に速度を上げたが、
数十ログと進まないうちに前方に待ち受ける影を見つけた。もちろ
ん、フェイ・トスカが差し向けた魔族の一隊である。
だが、その数はおよそ一〇体ほどで、周囲の地形からもこれ以上
の伏兵は無いように見える。逆を言えば森から出てしまった一行も
これ以上隠れる場所がない。
ガンファは強行突破することを決め、背中にいるシイカにしっか
り掴まっているようにと一声かけると、身を沈めて突進した。一番
近くにいた相手を肩ではじきとばすと、空を飛ぶ魔族が上昇を始め
る前に、その首根っこをつかんで振り回し、容赦なく地面にたたき
つけた。
予想外に強力な敵の出現に色めきたった魔族たちだったが、リー
ダーらしきものの﹁集団で囲め!﹂というかけ声とともにたちまち
五体ほどの魔族がガンファを取り囲んだ。先ほどとは違い背中にシ
イカをかばっているガンファは、強引に突破することが出来ない。
﹁先に!﹂ガンファがセトに向かって号令をする。セトはうなずく
184
と、ガンファを取り囲む集団を避けて先に進んだ。だが、先ほどほ
かの魔族に号令したリーダーと、もう一体全身を甲冑に包んだ魔族
がセトの前に立ちはだかった。
漫然とふたりの後方についていたマーチは出遅れてしまった。あ
わててセトに追いつこうとしたものの、マーチと同等の大きさの鳥
の魔族がセトとの間に入り込んでしまった。
﹁くっ!﹂かわしていこうとしたが、相手はマーチの周りをうるさ
く飛び回ってそれを許さない。マーチは矢筒に残った最後の矢を弓
につがえると、セトを待ちかまえている魔族たちに向かって放った。
そして弓を放り投げると、腰の二本の小剣を抜き、鳥の魔族に対峙
した。
セトは止まることなくラグスを走らせながら、正面をふさぐ二体
をどうかわそうかと思案した。縦長の巨大な顔を持つリーダーの魔
族はがたいがいいが、鎧などは身につけていない。もう一体は体格
は大人の人間ほどだが頭からつま先まで全身を鎧甲で覆っている。
体当たりをかますにはどちらも難儀な相手だ、と思ったが、そこ
へマーチの最後の矢が飛んできた。明確にねらいがつけられたもの
ではなかったが、眼前に迫っていたセトに気を取られたのだろう、
リーダーの魔族の左肩に矢が突き刺さった。
リーダーの魔族がひるんだのを見てセトは覚悟を決めた。ラグス
に号令して精一杯の速度を出すと、自身も身を屈めてリーダーの魔
族に向かって突進する。そのまま右肩をつきだして、相手の身体│
│をねらったのだが胴体と同じくらいに顔が大きかったので結果的
にその顔に向かって全身でタックルをかけた。
タックルは見事に決まったが、魔族の質量はセトの想像以上で、
セトとラグスの勢いもまた止められてしまった。顔面にタックルを
フルアーマー
喰らった魔族はひっくり返ったまま動かない。セトは再びラグスを
走らせようとしたが、そこへ全身鎧のほうが迫ってきて、鞘から抜
いた長剣をセトに向かって振りおろした。
185
セトは身をひねって回避したが、続けざまに放たれた左手のパン
チをかわしきれずに左肩に受け、ラグスから落ちてしまった。
たかがパンチとはいえ相手は手甲を身につけているのだからまと
もに喰らえばただではすまないが、幸いにしてそこまで力はのって
フルアーマー
いなかったようで、身体へのダメージはほとんどない。セトは跳ね
起きると全身鎧と距離をとった。
フルアーマー
ガンファもマーチも、自分と対峙しているものの相手で精一杯の
ようだ。一瞬だけ背後を確認した視線を戻すと、全身鎧は先ほどは
片手で振るった長剣を今は両手で持ち、型どおりの構えでこちらを
待ちかまえていた。先ほどタックルではじきとばしたもう一体は完
全に気絶したようで、ひっくり返った姿勢のままだ。
相手が実質一体であることと、やや不意打ち気味だった直前の長
剣による一撃を回避できていたことがセトに自信を持たせた。里で
のひと月の間、実践的な稽古を重ねてきたことも手伝って、セトは
背中の剣の柄を握ると、引き抜いて正眼に構えた。
︵自分の命くらい、自分で護らなきゃ︶
セトは覚悟を決めると、気合いの声を一声あげて、相手に向かっ
ていった。
ガンファは遠くからセトが剣を抜いたのを見て歯噛みした。
五体いた自分を囲む魔族は三体に減っていたが、背中にシイカを
かばっている以上、強引な突破は出来ない。実質片腕で戦っている
ような状況の中、上手く隙をついて一体ずつ片づけていくほかはな
い。歯がゆさのあまり、うなるような声がガンファの口から漏れた。
本来戦闘に特化した種族でありながら、戦いを敬遠し、草花を育
てることに傾倒したガンファは同族の中でも屈指の変わり者である。
争いごとを嫌う自身の心を変えたいと思ったことは今に至るまで一
度もないが、そのせいで本来備わっているはずの戦いの力を十分に
発揮できないことを後悔せずにはいられなかった。
186
フルアーマー
セトが気合いとともにはなった一撃は、全身鎧の操る長剣によっ
て簡単にいなされてしまった。
セトは再び間合いを取ると、一度深呼吸をした。
来年で一五歳となり、そうなれば一般に成人として扱われるセト
ではあるが、その体躯は同年代の男性と比較してもやや小さい。対
して相手は、飛び抜けて大きいわけではないが、それでも人間の男
性と比べれば大きい方である。上背でいえばユーフォと同等だ。
セトは里の中でユーフォと打ち合ったときのことを思い出した。
自分より身体が大きい相手と戦うことになったときは、正面からま
ともにやりあっても不利になるばかり。思い切って相手の懐に飛び
込まなければならない││。
さらに、相手が全身を鎧甲で覆っていることも問題だ。セトの使
う剣はかつてはフェイ・トスカが王女を救出するまで使用していた
ものを鋳なおしたもので、上質の鉄が使われており、魔法の力があ
るわけではないがなかなかの業物だ。鎖帷子くらいなら上手く力を
乗せれば断ち切れそうだが、板金に覆われた部分はそうはいかない
だろう。顔面も面頬をおろしてしっかりガードしており、帷子部分
が露出しているのは脇の下くらいしか見あたらない。
おまけにセトは剣以外は丸腰といっていい。ベッドにはいるとき
そのままのゆったりとしたローブ姿で、サンダルも履いていないの
だ。
あのように鎧を着込んでいる相手に対しては剣での斬撃よりも、
かなづちのようなもので叩くかもっと薄くしなる剣で鎧の継ぎ目を
ねらう方が効果的だが││セトは何か利用できる物はないかと辺り
を見回した。辺りは一面の草原だが、ところどころに大きめの岩が
フルアーマー
転がっているのが見えた。
全身鎧がセトに迫り、長剣を振りおろしてくる。セトは転がって
横によけた。振りおろされた長剣がそのまま横に薙ぎ払われるが、
セトは冷静にその動きを読んで剣で防御した。
そのまま懐にもぐり込んで板金ではなく帷子で覆われている脇の
187
辺りをねらおうとしたが、相手もさすがにそこが自分の弱点である
フルアーマー
ことは把握しており、しっかりと防御する。
全身鎧は長剣だけではなく、ときおり拳や蹴りでの攻撃も混ぜ込
んできたが、セトはいずれも確実に対処することが出来た。相手の
技量もそれほど高くはない上、セトはどうもこの相手とは手が合う
というか、クセが読めるような気がしてきていたのだ。セトはその
感覚を、里での稽古の成果だと感じていた。
フルアーマー
だが、相手の攻撃を防ぐことは出来ても、やはり剣だけではダメ
ージを与えることが出来ない。セトは一計を案じ、全身鎧と距離を
フルアーマー
とって待ち受ける作戦にでた。
全身鎧は動きを止めたセトをいくらか警戒したようではあったが、
やがてセトに向かってきた。そしてセトの予想通り、上段から剣を
振りおろした。
フルアー
セトが身をかわすと、その背後には大きな岩が鎮座していた。草
マー
原の草とセトによって隠されていた岩の存在に気づかなかった全身
フルアーマー
鎧は、セトが身をかわしたことで盛大にその岩を長剣で叩いてしま
フルアーマー
った。セトはその隙をついて全身鎧の背後に回り込むと思い切りジ
ャンプし、その無防備な背中を両足で蹴りとばした。全身鎧は体勢
を崩し、いましがた自分で叩いた岩めがけて突っ込んだ。胸から落
フルアーマー
ちた上、勢いがついて顔面も岩に打ちつけたようだった。
めまいがするのか、頭を振りながら起きあがった全身鎧がこちら
を向くと、まさにセトの想定通りだった。強烈に打ちつけた鎧の胸
がへこんで歪み、腹部との継ぎ目部分に隙間が出来ていたのだ。あ
そこならセトの剣でも刃を入れることが出来る。
フルアーマー
さらに顔面を覆っている面頬のつがい部分が壊れたらしく、面頬
がぐらついていた。そのせいで視界が悪くなったのか、全身鎧はか
ぶとを脱ぎ捨てた。
フルアーマー
そこで初めて露わになったその顔を見たとき、セトは動きを止め
てしまった。
現れたのは人間の顔だった。全身鎧は魔族ではなく、単に甲冑に
188
身を包んだ人間だったのだ。
だが、セトが驚愕したのは、その人間が自分の見知っている人物
だったからだ。
﹁リタルド兄ちゃん・・・?﹂その名はこのひと月あまりの間口に
することがなかった。だがセトは意識せずに自然とその名を口にし
た。
セトと同じ黒髪と、セトとは違う浅黒い肌を持つリタルドが、甲
冑に身を包んでそこにいた。
しかし、セトからすればリタルドがこの場にいることも、彼が自
分に向けて剣を振るってきたことも理解しがたいことだ。
本当に本人か?よく似た他人ではないか?あるいは何らかの魔法
の力で化けているのではないか?
困惑するセトを、リタルドは無表情で見据えていた。そして長剣
を水平に構えると、無言のままセトに突進した。セトの左肩をねら
って鋭い突きを繰り出す。
セトは思考が追いつかず、突きが繰り出されるのを見ても自分の
身体に何の命令も出せなかった。だが、未だに顔も知らぬ父から受
・・・・・・・・・
け継いだ戦士としての血がそうさせたのだろうか。危機を回避すべ
く、身体が勝手に動いた。
セトの身体は膝を屈めて突きをかわすと、柄を腰の位置にして剣
を構えた。すかさず屈めた膝をバネのように伸ばし、相手の懐へ飛
び込み││鎧の継ぎ目にできた隙間へ、剣先をねじ込んだ。
肉を断つ感触が、セトにも伝わった。
剣は柔らかな肉と骨を容易に突き破り、背中から付き出て鎧の背
に当たって止まった。
﹁そうか・・・そうだよな・・・﹂
耳になじんだ声を頭上から聞いて、セトはようやく我に返った。
仰ぎ見ると、昔何度も見た、慈しむような笑みを浮かべて見下ろ
すリタルドの顔があった。
﹁リタルド兄ちゃん・・・﹂セトはその表情を見て、その男がリタ
189
ルド本人であると確信した。
リタルドの口の端から、一筋の血が流れでる。その身体から力が
抜け、膝が折れた。剣をその身に突き立てたまま、仰向けに倒れた。
セトはその手から剣が離れても身動きできず、そのままの姿勢で
立ち尽くしていた。
そのころ、ガンファとマーチはようやくそれぞれが対峙していた
フルアーマー
魔族を退けることに成功していた。
ガンファは遠目にセトが全身鎧を撃退したのを確認して安堵のた
め息をついたが、セトが力無く立ち尽くしているのを見え不審に思
い、急いでセトの元に駆けつけた。ずっと背負っていたシイカを下
ろすと、セトに声をかける。
﹁セト、大丈夫?けがは?﹂
﹁ガンファ・・・﹂こちらを振り返ったセトは特に外傷などは負っ
ていないように見えたが、顔色は青ざめ、身体が震えているのがわ
かった。﹁兄ちゃんが・・・﹂
ガンファもシイカも、やはりその場にリタルドがいるなどという
ことは考えもしないことだったから、セトの様子ばかりを気にして、
倒れている鎧に身を包んだ男のことなど見向きもしなかったが、セ
トがその傍らに膝をついて涙を流し始めたことで初めてその顔を見
て息をのんだ。
﹁まさか・・・なんてことだ﹂
仰向けに横たわったリタルドの顔からは血の気が引き、腹部に突
きたった剣を伝うようにして血が流れ出している。まだ息はしてい
るが、その呼吸は弱々しいものだった。
シイカが気丈にも近づいて剣を引き抜こうとしたが、ガンファが
制止した。剣を抜けば逆に出血が増し、あっという間に死んでしま
うだろう。
﹁鎧を脱がさないと・・・﹂
このままでは治療のしようがない。だが、金属鎧はただでさえ着
190
脱が大変な上、剣は継ぎ目の部分から刺さっているので脱がすには
障害になるのだ。
ガンファは継ぎ目の隙間に指をかけて、無理矢理隙間を広げて傷
口を露出させようとしたが、それが傷口に響いてしまったのか、リ
タルドが苦しげなうめき声を上げた。
﹁もういいよ、ガンファ・・・どうせもう・・・﹂その痛みで少し
意識が覚醒したのか、リタルドは少しだけ首を動かしてガンファを
見ると、そういった。
﹁リタルド兄ちゃん!しっかりして!﹂セトが涙混じりの声をあげ
た。
﹁セト・・・ごめんな・・・﹂リタルドはセトの方へとまた少し首
を動かすと、口元を弱々しくゆがめた。笑おうとしたのかもしれな
い。
﹁俺が・・・おまえのことを、教えたんだ。名前や、顔・・・その
せいで、また・・・﹂
﹁いいから、しゃべらないで﹂セトはリタルドの手を握った。その
手は温かい。だが、リタルドの目は徐々に焦点を失い、その言葉は
うわごとに近くなっていった。
﹁フェイ・トスカは・・・世界を救おうとしている。俺はその考え
を、魅力的だと思ったんだ。だけど、そのためには・・・セトの生
命が必要だっていうんだ。俺は、分からなくなってしまった﹂
リタルドを覆っていた影が一つ離れた。ガンファがリタルドから
離れたのだ。セトがガンファをみると、ガンファは力なく首を振っ
た。
﹁だけど、分かったんだ・・・。おまえは生きていくべきだって。
そんなの、当たり前のことなのにな・・・。俺は、間違ってしまっ
たんだ・・・﹂
ガンファはリタルドの傍らに座り込み、目を伏せ、唇を噛みしめ
ている。シイカはガンファの隣に立ち、沈痛な面もちでセトとリタ
ルドを見つめていた。リタルドのことを知らないマーチは、少し離
191
れたところでことの顛末を眺めている。
セトが包み込むようにして握っているその手が動いて、セトの頬
に、そこを流れる涙にふれた。
﹁強くなったな、セト・・・。あのころは、俺に一度も勝てなかっ
たのに・・・﹂
﹁兄ちゃん・・・﹂
﹁父さん、母さん・・・これで、会い、に﹂
言葉が途切れ、セトの握る手から力が抜けた。その手はまだ温か
かったが、もはやその熱は生命の残滓に過ぎなかった。
﹁兄ちゃん、リタルド兄ちゃん!﹂
セトは手を離し、リタルドの肩を揺すった。それが無駄だという
ことは分かっていたはずだが、そうしないで済ますことは出来なか
った。
﹁兄ちゃぁあああん!﹂
魂を失った肉体は、何に応えることもなく、絶叫は虚空へと吸い
込まれていった。
192
安息は遠く
一
セトは夢を見ていた。
悪夢だ。まだ夢の途中なのに、これが悪夢だということだけは分
かる。
これを夢だと自覚したときから、ずっと逃げ続けている。表情の
見えない強い悪意が、セトを飲み込もうと追ってくる。
前方に、大きな影が見える。あれはきっとガンファだ。自分を包
み、守ってくれる影。セトは残った力を振り絞って走り、大きな影
の後ろに逃げ込んだ。
ようやくひと息ついて見上げると、リタルドが優しく笑いかけて
いた。ほんのついこの間まで、何度となく見てきた微笑み。﹁よう、
セト。そんなに急いでどこへ行くんだ?﹂そんな風に、今にも聞き
なれた明るい声が聞こえてくるような気がした。
だが、リタルドは何も言わない。﹁リタルド兄ちゃん?﹂セトが
声をかけても、微笑みを浮かべたまま口を閉じている。
やがて、その口の端から血が一筋流れ出た。その途端、両手にず
っしりと重みを感じてセトが目をやると、いつの間にかその手には
剣が握られている。そしてその剣先は││。
次の瞬間、セトの脳裏に蘇るのは、初めて人の肉を自らの剣で斬
り裂いた生々しい感触。握った手の先から生命の灯火が失われてい
く実感。そして、肉親を知らないセトにそれに等しい愛を注いでく
れた男の死という現実だった。
セトを包み込む影は今や泥のような重さをもってセトにのしかか
り、セトの身体から自由を奪っていた。
セトは叫んだ。声を限りに叫んだ。自らを縛る泥の中から抜け出
そうと、この悪夢から一刻も早く覚めるようにと。
193
だが、泥のような悪夢から覚めた先には石のように冷たい現実が
待っている。
﹁・・・ぁぁあああっ!﹂
叫び声が現実の空気を揺らし、セトは悪夢から解放された。
身体中に寝汗をかいている。不快感を感じながら、寝台から身を
起こした。
そこはずっと木造の家屋で過ごしてきたセトにはなじみの薄い、
石造りの部屋だった。長方形に切り取られた窓から日光が差し込ん
でいた。
寝台の脇にはセトの着替えとして服がひと揃いたたまれて置いて
あった。室内にはセトが寝ていたのとは別にもう一つ大きな寝台が
あるが、そちらは今は空いており、室内にセト以外の人影はない。
セトは寝台を降り、汗を吸った寝間着を脱いだ。用意されていた
服に着替え、腰帯をしめ終える頃、部屋の外から足音が聞こえてき
た。
﹁セト・・・起きた?﹂
ガンファが窮屈そうに入り口をくぐってきた。飲み物の入ったポ
ットとカップをふたつ持っている。
セトはガンファを見て薄く微笑んだが、言葉は発しなかった。ガ
ンファもそれ以上何もいわず、ポットの中身をカップに注ぐとセト
に手渡した。
ポットの中身は冷えた薬草茶だった。セトは椅子に腰掛けてゆっ
くりと薬草茶を飲んだ。ガンファはもうひとつのカップに自分用の
茶を注ぎ、ポットを備え付けのテーブルの上に置くと、自分は寝台
の上にゆっくりと腰をかけた。
ふたりとも何も話さず、茶をすする音だけが静かに響いた。
ガンファはもともと積極的に会話をするタイプではないので、ふ
たりになったときは大概セトが一方的にしゃべって、ガンファは時
194
折相づちを入れながらひたすら聞き手に回っていることが多いのだ
が、今、セトは下を向いたままで、口を開こうとする気配もなかっ
た。
あれから三日が経ち、セトたちは無事当初の目的地であったユー
フーリン領へとたどり着いていた。昨夜遅くに領主の住むプリアン
の町へ到着した一行は、彼らを待っていた領主の使いに案内され、
屋敷へと通された。とはいえすでに領主ユーフーリンは休んでいる
とのことだったので、男女それぞれに用意された客間で一晩を過ご
したのだった。
一行の中でリタルドの死にもっともショックを受けていたのは言
うまでもなくセトであったが、何も出来なくなってしまうというこ
とはなく、ここまでくる間も自分でラグスに乗ってきた。だが、ほ
とんど口をきかず、先導するガンファは幾度となく振り返って彼が
きちんとついてきているか確認しなければいけなかった。
とりあえず目的地に到達し、久しぶりに周りを警戒することなく
暖かなベッドで眠れたことで少しは気持ちも晴れるのでは、とガン
ファは期待したのだが、そう簡単にはいかなかったようだ。額には
汗の名残が見て取れ、心地よい目覚めにはならなかったことをガン
ファに教えていた。
﹁セト・・・﹂
励ましてやりたくて口を開いたが、後の言葉を続けられなかった。
こんなとき、自分に出来ることがあまりにも少ないことに気づいて
ガンファはショックだった。
リタルドならなんと声をかけただろう。彼は自分と違って気さく
で社交的で、セトは彼を兄貴分として心から慕っていた。きっと彼
なら、こんな風に落ち込んでしまったセトを元気づけることが出来
るだろう││。
いくら考えても詮無いことではあったが、ガンファはそう考えず
にはいられず、そしてそんなリタルドをよりにもよってセト自身が
195
その手で殺してしまう形になってしまったことを思い、そのことに
よってセトが受けた衝撃はガンファがこれまでの人生で受けたどん
な衝撃よりも深く重いものであったであろうことを想像し││そし
て結局、そんなセトに対してかける言葉を見つけることが出来ず、
口をつぐんでしまうのだ。
今だけでなく、ここへたどり着くまでの間もずっと、ガンファの
中ではそんな思考が渦を巻いていたのだった。
﹁ガンファ・・・ありがとう﹂
下を向いてしまったガンファに、セトが微笑みながら礼を言った。
その笑みは普段のそれに比べればまだまだ弱々しいものだったが、
逃走中はほとんど機械のように硬い表情を崩していなかったから、
それでも少しは気持ちに活力が戻ってきたのだろうか。寝ている間
に汗をかいたせいか、蒼白だった顔色もいくらか赤みが戻っている
ように見える。
﹁僕は何もしてない・・・何も出来ないんだ﹂
﹁そんなことないよ﹂
セトの笑い皺が深くなった。﹁ガンファがそばにいてくれると、
時間がゆっくりになったように感じられるんだ。おかげで、少しだ
け心が落ち着いたような気がする。このお茶のおかげもあるのかな
?﹂
カップ半分ほどに減ったお茶は、セトがあまり嗅いだことのない、
独特の芳香を放っていた。
﹁ああ・・・鎮静作用のある草を、煎じたからね﹂
﹁ほら。ガンファは何も出来ないなんてことはない。こうしてそば
にいてくれるし、僕のために薬草茶をいれてくれる。たくさんのこ
とを僕はしてもらっているんだ﹂
励ますつもりがいつの間にか、ガンファの方が励まされている。
結局いつもの通り、しゃべるのはもっぱらセトの方で、ガンファは
聞き役だ。だけれどセトはそうやって無理にでも言葉を紡ぐことで、
固まってしまった心を少しでもほぐそうとしているのかもしれない。
196
いくつかの言葉のやりとりの後、小さな沈黙があった。先ほどま
での気まずい沈黙ではない。セトの顔から笑みは消えたが、無表情
に戻ったわけではなく、ガンファの目をしっかりと見据えていた。
﹁僕・・・リタルド兄ちゃんを殺してしまった﹂はっきりとそう言
った。
﹁彼は、ギリギリまで、顔を隠していたんだろう?仕方のないこと
だよ﹂ガンファはそう言ったが、セトは首を振った。
﹁でも僕、殺すつもりだったんだ。兄ちゃんの顔が見えるまでは。
相手を岩に向けて蹴りとばして、鎧に隙間をつくって・・・出来た
隙間はお腹のところだった。そこに剣を差し込めばどうなるかなん
て、誰にだって分かるよね﹂セトは淡々と話している。ガンファは
何も言えなかった。
﹁相手がかぶとを脱いで、それがリタルド兄ちゃんで・・・そこか
らはあんまりよく覚えていないけど、気がついたら僕は相手の懐に
入っていて、両手で剣を持って、その隙間にねじ込んでいた。直前
までシミュレートしていたとおりに﹂セトは言いながら手を動かし、
その瞬間の動きをなぞって見せた。
﹁あのときは夢中で、そこまで考えてなんかいなかったけれど・・・
。僕はあのとき、相手の命を奪うつもりだったんだ。殺してしまっ
たのがリタルド兄ちゃんじゃなかったら、こんな風に思わなかった
のかもしれないけど、僕は・・・﹂
そこまで一気にしゃべって、セトはまた口をつぐんでしまった。
ガンファは言葉を探したが、やはりこの場面で言うべき言葉は見つ
からなかった。
再び気まずい沈黙が流れたが、それを壊したのは外から響く鐘の
音だった。
﹁﹃朝の終わりの鐘﹄だ・・・﹂ガンファは顔を上げた。
町中に時を知らせる鐘は、一般に教会の鐘が使われる。魔族は神
を信仰しないので、戦争終結とともにほとんどの教会はその本来の
役目を失ったが、時を告げる役割はそのまま担っているところが多
197
い。
このプリアンでは領主の屋敷に教会が併設されている。そのため、
鐘の音はガンファたちの部屋によく響いた。
その鐘の音に混じって足音が聞こえた。石床を一定間隔で打つそ
の音に振り返ると、上等の絹のシャツに黒のズボン、そして堅い木
の靴底をつけたブーツを履いた小鬼の老執事が立っていた。
﹁ガンファ様。ユーフーリン様がお会いになります。みなさまを連
れて執務室までおいでください﹂鼻の大きな老執事はぴんと背筋を
伸ばして││それでもその背丈はセトよりも低く、ガンファの腰ほ
どもない││、慇懃な態度でそう告げた。
﹁ありがとうございます、すぐに伺います﹂ガンファがそう応える
と、しわくちゃの老執事は鼻でひとつ息をつき、﹁主はご多忙でい
らっしゃいます。お急ぎくださいますように﹂とやはり慇懃に告げ
たあと、くるりと回れ右をして立ち去った。木底のブーツがこつこ
つ立てる足音が、等しいリズムを刻みながらだんだん小さくなって
いく。
﹁さあ、ご挨拶にいかなくちゃ。ユーフーリン様は気さくな方だか
ら、かしこまる必要はないけど・・・セト、気分は大丈夫?﹂
﹁うん、大丈夫﹂
セトは立ち上がってそう答えたが、その表情にはまだ少し影が差
しているように見えて、ガンファの心配は晴れなかった。
セトとガンファは部屋を出ると、別の客間にいたシイカ、マーチ
と合流し、ガンファの案内でユーフーリンがいるという執務室へ向
かっていた。
シイカもセト同様、用意された服に着替えていたが、マーチは里
をでるときに着ていた服をそのまま身につけていた。
﹁あたしは戦士よ。シイカと同じ格好なんか出来ないわ﹂
と、用意されていたのがシイカが今身につけているのと同じ女性
用のローブとベストだったことが不満であるように言っていたが、
198
その硬い表情は、理由がそればかりではないことを示していた。
人間ばかりの隠れ里で育ったマーチが、ほとんど成り行きで魔族
の支配する土地へやってきたことに抵抗を感じているのは、知り合
ったばかりのガンファでも容易に想像できることだった。
とはいえガンファにとって今一番の心配ごとはやはりセトについ
てのことであったから、彼女について深い詮索をする余裕はなかっ
た。
﹁こちらにいらっしゃるみたいだ﹂
屋敷は三階建てで、執務室はその最上階にあった。入り口の脇に
衛兵が一人立っている。猿に似た魔族の衛兵は、昨夜一行を客間へ
と案内した衛兵だった。ガンファが呼ばれてきたことを告げると、
中へはいるように促された。
ガンファ、セト、シイカ、そして一歩遅れてマーチの順で中へは
いる。執務室は広く、大きく切られた採光窓から日光がふんだんに
入ってきて明るさも申し分なく、快適に仕事が出来そうだったが、
中央に置かれた仕事用と思われる立派なテーブルの周辺に人影はな
かった。その奥には大人数が席に着ける円卓も置かれていたが、そ
こにも人の気配はない。
﹁いないじゃない﹂無遠慮にマーチがそう言ったが、マーチの方を
見たセトが気づいた。﹁マーチ、後ろ﹂
マーチが振り返ると、入り口脇にいた衛兵がマーチにくっつくよ
うにして室内に入ってきていた。気配に気づかなかったマーチが飛
び退くと、衛兵は無言のまま進み出て一行の前に立つと、優雅に、
そして少々大仰にお辞儀をして見せた。
﹁ようこそみなさま。私はユーフーリン。このプリアンをはじめ、
一帯を任されているものです﹂
﹁昨日会ったわよね、この衛兵﹂セトとシイカが思わず顔を見合わ
せる中、マーチがまたしても無遠慮に指摘した。普段からはっきり
ものを言う方ではあるが、やはり魔族への嫌悪感からか、どことな
く喧嘩腰にも感じられる。﹁領主は寝てるからまた明日、って、あ
199
なたが言ったんじゃなかった?それとも魔族って、みんな同じ顔を
しているの?﹂
﹁おっと、これは失礼﹂ユーフーリンを名乗った魔族はマーチの突
っ込みに悪びれた様子もない。﹁では、これならいかがかな?﹂
その途端、ユーフーリン︵?︶の姿が歪んだ。マーチは一瞬、自
分の目がおかしくなったのではと思い、両目を強くつむり、手で押
さえた後ゆっくりと開いた。すると、正面にいたはずの猿の魔族は
そこから姿を消し、代わりに大きな鼻をもつしわくちゃの老小鬼が
そこに立っていた。
﹁これなら領主に見えるかね、お嬢さん?﹂老小鬼は片眉をつり上
げてそう言った。
﹁このひと、さっき来た執事さん?﹂ガンファの方を向いて、セト
がそう言った。﹁でも、ちょっと雰囲気が違うけど・・・﹂先ほど
客間に現れたときにかもし出していた慇懃な空気がないので、セト
は少し首を傾げた。
﹁ほう、君はよくみているね。あれは有能なんだが、感情を制御し
きれないところがある。私に命じられて丁寧に接してはいるが、人
間を下に見ている本心が態度に出てしまっているんだろうな﹂老小
鬼が含み声でと笑うと、またその姿が歪んだ。
今度はマーチも目を閉じずに、むしろ瞬きをしないように目を見
開いてその様子を見ていたが、歪んで戻ったと思ったらすでにそこ
には別人が立っていた。
新たに現れたのは、赤と黒のスーツに身を包んだ初老の男性だっ
た。目を丸くしているセトやマーチの姿を見て、スーツの男は襟元
に指をかけ、満足げに胸を張ると、ガンファの方を見た。
﹁これならどう?﹂
﹁・・・充分です﹂すでにユーフーリンと面識があるガンファは、
すこしうんざりした面もちでそう答えた。
﹁じゃあ、しばらくこれでいくとしよう。改めて、初めまして。私
はユーフーリン。この地域一帯を魔王様から預かっているもので、
200
今見てもらったとおり、変身能力を持った魔族だ。驚いた?﹂
領主ユーフーリンは、深みのあるバリトンでそう挨拶した後、茶
目っ気たっぷりにウインクした。
挨拶がすむと、一行は円卓へと案内され、紅茶が振る舞われた。
運んできたのは先ほど領主が化けて見せた老小鬼で、初めてその姿
をみたマーチとシイカは思わず領主と執事を何回も見直してしまっ
た。
﹁そのお姿が、領主さまの本来のものなんですか?﹂シイカが尋ね
ると、ユーフーリンは肩をあげ、首を振った。いちいちリアクショ
ンが大きい。
﹁残念ながら違う。私は頭に思い浮かべることができるものになら
何でも姿を変えることができるが・・・﹂
﹁何でも?﹂おもわずマーチがそう口に出したのを聞き逃さず、ユ
ーフーリンはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
﹁何でもだ。たとえば、こんなふうに﹂また姿が歪んだ。じっと見
ていると気分が悪くなりそうだったので、マーチは少しの間視線を
逸らしたが、視線を戻した途端叫んでしまった。
﹁ちょっと、なによその格好!﹂
﹁ちょっと、なによその格好!・・・どうだ、そっくりだろう?﹂
なんとユーフーリンはマーチそっくりの姿になってみせたのだった。
声もしっかり女性の、というよりマーチの声そのものになっている。
﹁部屋に入るとき、彼女の後ろについていたから、後ろ姿もばっち
りだ。どうだい?﹂ユーフーリンは席を立つと、その場の全員によ
く見えるようにくるりと一回転した。
﹁わあ、本当だ﹂素直に感嘆の声をあげたセトを一瞬睨みつけると、
マーチは声をあらげた。﹁いいから、早く戻って!﹂
﹁おお、こわ﹂肩をすくめたユーフーリンの姿がまた歪んだ。歪み
が戻るとマーチの姿ではなくなったが、その前の初老の男性に戻る
のではなく、今度はセトやシイカよりも幼く見える少年の姿になっ
201
た。
﹁あんまり怒ると老けるよ、おねえちゃん?﹂可愛らしく言われた
ことがよけいにマーチの癇に障ったらしい。いすを蹴りあげてつか
みかからんばかりの空気を感じて、セトが慌ててなだめた。
﹁何の話をしていたかな。そうそう、私はこのようにどんな姿もと
ることができるが・・・﹂言いながらユーフーリンはまた姿を変え
た。少年姿から一転して禿頭白髭の老人姿になり、声も少年らしい
甲高いものからあっというまに老人特有のしわがれたものになった。
﹁その能力を得るとともに、いくつかの制約も得ることになってし
まったのさ。制約のひとつは、同じ姿で長時間居続けることができ
ないということ。ばらつきがあるんだが、だいたいやかんに満たし
た水を火にかけて沸騰するくらいの時間かな。もうひとつ、一度と
った姿にはしばらく戻れないということ。これもあんまり戻ろうと
したことがないから曖昧だが、だいたい一日くらいはもどれない。
そして、最後の制約が・・・本来の自分の姿にはどうやっても戻れ
ないということさ﹂
﹁そうなんですか・・・﹂シイカは悪いことを聞いてしまった、と
うなだれたが、ユーフーリンは顎の長い白髭を撫でつつほほえみ│
│また姿を変えた。今度は筋骨隆々の大男だったが、髭はそのまま
残っている。ただし、白髭ではなく黒髭になっていた。
﹁気にすることはない。別に戻りたいと思ったこともないしね。そ
もそも、この能力を得てからもう一〇〇〇年以上経っているから、
本当の自分がどんなだったかなんて、もうすっかり忘れてしまった
よ﹂黒髭をいじりながら、体格にあわせて豪快に笑い声をあげた。
﹁さて、自己紹介はこれで充分かな。本題にはいるとしようか﹂ユ
ーフーリンは両肘をついて、組んだ両手を顔の前に置いた。そして
その両手越しにセトを見やった。
﹁セト君。セト・トスカ君と呼んだ方がいいかな?﹂
﹁セト・トスカ?﹂セトはその呼ばれ方に全く思い当たることがな
いという顔をした。
202
﹁私の旧友であり君の育ての親でもある、グレンデル殿から君につ
いては聞いていたのだが。君はフェイ・トスカの息子なんだろう?﹂
﹁あ・・・はい、そうです﹂そう言われてようやく、セトは納得が
いった。フェイ・トスカの息子だから、セト・トスカ。たしかにそ
う言う理屈になる。だが、それでもやはりセトにはピンとこないよ
うだった。
﹁僕は、セトとしか呼ばれたことがないので、そう呼んでください﹂
しばらく考えた後、セトはそう答えた。
﹁なるほど。ではそうしよう﹂ユーフーリンはうなずいた。同時に
大柄な男性の姿から、今度は長いくちばしを持った鳥頭の魔族の姿
になる。マーチが顔をしかめた。
﹁ではセト君。先ほども言ったように、君のことはグレンデル殿か
ら聞かされている。彼は以前から君が命をねらわれる事態を考慮し、
もしもの時は頼むとも言われていた。だから君がこの領地へ来るこ
とになったとき、受け入れることができるように準備はしていた。
私はこう見えて義理堅い性格なんだ。旧友との約束に従って、君が
安全に人生を全うできるように最大限の配慮をしよう﹂
﹁この屋敷に、セトを住まわせるの?﹂マーチが聞いてきた。
﹁それは出来ない。フェイ・トスカがこの領を訪れたとき、ここに
立ち入らせない、ということはさすがに出来ないし、そうでなくと
も様々なものが出入りをする場所だ。どこからかボロが出ないとも
限らない﹂ユーフーリンはまた姿を変えた。今度は頭だけではなく、
全身が完全に鳥になってしまった。くちばしをときおりカチカチ鳴
らしながら、それでも流ちょうな口を利いた。
﹁簡単なのは、私以外の魔族の奴隷にしてしまうことだね。戦争で
減ったとはいえ、人間の数は多い。奴隷の数を子細に把握している
領地なんてないから、見つかることもないだろう。・・・そうだな、
ガンファ。君に領地を少し与えるから、君の奴隷だということにし
たらどうだい?﹂
﹁ぼく、ですか?﹂ガンファは驚いて、ひとつしかない目を見開い
203
た。
﹁君は強力な戦闘種族の末裔なんだから、領地を持っていたって不
思議はないだろう。そこのふたりもまとめて奴隷にしてしまえば、
離ればなれになることも・・・﹂
﹁冗談じゃないわ!﹂
ユーフーリンにくちばしを向けられたマーチが、我慢も限界とば
かりに立ち上がった。
﹁魔族の奴隷になるなんて、あたしは御免よ!﹂
﹁マーチ﹂セトが見上げている。その表情を見て、マーチは悲しく
なってきた。セトはたとえそれが隠れ蓑のようなものだったとして
も、自分が奴隷扱いされることを何とも思わないのだろうか。隠れ
里で長年を過ごしたマーチにとって、初めて出会ったといっていい
同年代の近しい男性。だが、ふたりの過ごしてきた世界はあの里で
のひと月ををのぞけば、全く違うものであったのだということを、
セトの瞳の色を見て、マーチは思い知ったのだった。
どうしてあたしはこんなところにいるんだろう。偽りに満ちた里
に居続けることは苦痛だと思ったし、理不尽に連れ去られるセトを
放っておくのも耐えがたかった。だが、それは里をでる理由にはな
っても、今ここに居続ける理由にはならない。
マーチは、今は巨大な鳥そのものであるユーフーリンを正面から
見据えると、一度だけ深く頭を下げた。追っ手から救われ、一夜の
宿を借りたことに対する礼を失しないことで、自らの矜恃を守るた
めに。
﹁ふむ?﹂ユーフーリンは鳥らしく首を傾げた。
マーチは何も言わず、円卓から離れると背を向けて歩きだした。
そのまま部屋を出ていってしまう。
﹁マーチ!﹂彼女を呼ぶ声はいくつか飛んだが、彼女を追おうと席
を立ったのはシイカだった。セトが続こうとするが、シイカは抑え
た。
﹁大丈夫。セトはここにいて。ガンファ、セトをお願い﹂
204
ガンファがうなずくのを確認すると、シイカもまたユーフーリン
に一礼し、部屋を出ていった。
205
心に根差すのは
二
﹁ふむ。彼女はなにが気に食わなかったんだろう。鳥が嫌いだった
とか?﹂ユーフーリンは傾げていた首を戻すと、金髪の成人男性の
姿になった。姿だけでなく、服装も毎回それに合わせたものに変化
している。
﹁マーチは、人間だけの隠れ里でずっと暮らしてきたんです。・・・
父親を魔族に殺された、とも言っていました﹂
﹁ふうん。・・・まあいい﹂ユーフーリンは本当に興味がない、と
いわんばかりに鼻を軽く鳴らした。﹁君の話に戻ろう。私がグレン
デル殿から保護を依頼されていたのは君ひとりであって、後はおま
けだ﹂
あからさまな物言いにセトは少しだけ顔をしかめたが、なにも言
わなかった。
﹁話の腰を折られてしまったが、君が生き延びるために一番簡単な
のは今言ったとおり、君を奴隷にしてしまうことだ。私が主になる
ことは出来ないが、そこのガンファ君を正式に私の配下に置き、領
地を与えることは出来るし、ガンファ君が領地経営や屋敷の維持の
ために君を奴隷にすることは出来る。そうなれば君の扱いはこれま
でとさほど変わらないだろう﹂
﹁でも僕は・・・シュテンでも奴隷でした。じいちゃ・・・グレン
デル様は本当によくしてくださったから、つらい思いをしたことは
ぜんぜんなかったけど。でも、結局は見つかってしまいました﹂
﹁あまり言いたくはないが、グレンデル殿の失策をひとつあげると
するなら、領地を広げる努力を怠ったことだ。あまり目立ちたくな
いと思ってらしたんだろうが、領土を広げ、奴隷を多く抱えれば、
その中から特定の誰かを捜し出すのはそれだけ難しくなる。このユ
206
ーフーリン領は、大陸西方では一番といっていい規模だ。グレンデ
ル領と比べて領地は三倍、人口は五倍ある。そこから君一人を捜し
出すのは並大抵のことではないだろうな。・・・ちょっと喉が渇い
た﹂ユーフーリンは言葉を切って自分のカップをのぞいたが、紅茶
はすでに空になっていた。部屋の隅に控えていた老小鬼の執事がそ
の動きに気がついて近づいていく。だが、その手にお茶のポットは
ない。ユーフーリンはまた姿を歪ませて・・・なんと自分自身がポ
ットになってしまった!
それを見てセトは目を丸くしたが、執事は全く動じず、ポットと
なったユーフーリンに近づくと優美な手つきでポットを持ち上げて、
空になっている主のカップに注ぎ口を傾けた。果たして香り高い湯
気を上げながら、紅茶がポットからカップへ注がれていく。
主のカップが紅茶で満たされると、執事は横目でガンファ、セト
の順にそれぞれのカップを確認したが、いずれもまだ半分以上紅茶
が残っていたので、なにも言わずにポットを円卓の上に置いた。執
事が一礼してその場を離れ、元居た場所にたどり着いた頃、ポット
の姿が歪んだ。今度は美しく長い黒髪を持つ妙齢の女性の姿になっ
たユーフーリンが、湯気を上げるカップを口元に近づけ、上品な仕
草で一口飲んだ。
﹁・・・うん、いい味だ。君たちも遠慮せずに飲みたまえ﹂
セトはユーフーリンを見、ガンファを見、それから自分の前に置
かれた紅茶のカップを見た。さっき飲んだときは確かにおいしい紅
茶だったのだが、ひょっとしてこの紅茶も同じように注がれたのだ
ろうか?
シイカは、屋敷の中を大股で進んでいくマーチに、必死に走って
ようやく追いついた。
﹁マーチ・・・待って﹂
マーチは最初無視して振り切ってしまおうかとも考えたが、走っ
ておいすがるシイカが余りにもつらそうな顔をしていたので少々不
207
憫になり、歩幅を狭めた。
﹁どうして追ってきたの?セトのそばにいてあげなよ﹂マーチはシ
イカと視線を合わせないようにしながらそう言った。歩幅を狭めた
といっても早足には変わりなく、シイカはときおり小走りになりな
がら、必死にマーチの横に並ぼうとしている。
﹁マーチこそ、セトの隣にいてあげて﹂シイカがそんなことを言っ
たので、マーチは思わず振り向いてシイカを見てしまった。シイカ
は真剣だった。
﹁セトは味方がとても少ないの﹂ようやくマーチに並んだシイカは
切実に訴えた。﹁お願い、マーチ。セトのそばにいて、彼を助けて
あげて﹂
﹁シイカがいれば、十分でしょう。むしろあたしがいない方が・・・
﹂
隠れ里でともに過ごすうち、マーチはシイカとセトの関係につい
て、セトが最初に言ったように﹁兄妹﹂であると考えているのはど
うやらセトの方だけだとわかっていた。シイカの方は、少なくとも
セトを兄としては見ていない。はっきりと恋愛感情を持っていると
も断言はできないが、何かにつけ彼を気にしているのは明らかだっ
た。兄妹としてではなく、憎からず思っているのであれば、ふたり
にしてやれば遠からずそういった関係へと変化しても不思議ではな
いだろう。
だがシイカは、マーチの言葉に首を振った。
﹁私じゃだめなの、マーチ。だって私は・・・﹂シイカは言葉を濁
した。マーチはほんの少しの間、シイカが続きを話すのを待ったが、
すぐに思い直して前を向きなおした。
﹁いずれにしても、あたしには無理。魔族と一緒に暮らすなんて出
来ないし、奴隷なんてもってのほか﹂
やりとりの間にもマーチの足は止まらず、すでにふたりは領主の
屋敷の正面玄関を抜け、敷地の外にでようとしていた。門の脇に立
っている猿顔の魔族がそこを通り抜けようとするふたりを見やった
208
が、何もいわなかった。マーチは目を合わせず、少しだけ歩く速度
を上げて門をくぐり抜けた。
シイカは立ち止まり、一度だけ屋敷を振り返ったが引き返すこと
はせず、先へ行ってしまったマーチを追って門をくぐった。
﹁・・・とまぁつまり、君が奴隷として生きることを納得してくれ
さえすれば、君はこの地で安全に生きられるということだ。もちろ
ん、君の主になる魔族には君が奴隷だからといって理不尽な扱いを
受けることはないように取りはからうようよく言って聞かせる。ガ
ンファ君が主になるならそんな心配はいらないだろうがね﹂
ユーフーリンは紅茶を飲み終えた後、セトがここで安全に暮らせ
る根拠を延々語って聞かせたが、その間にもその姿は何度も変わっ
た。本人がそう言っていたように、全く同じ姿は一度もない。老若
男女問わず、人間も魔族も問わず、果ては動物や魔物、もっと言え
ば有機物も無機物も彼にとっては関係がないことのようだった。今
はあちこちに宝石をあしらった豪奢な服に身を包んだ中年男性の姿
をとるユーフーリンは、ガンファとセトへのプレゼンテーションを
終え、どこからともなく葉巻を取り出してくわえると、指先から魔
法の火を出して葉巻に火をつけた。大きく吸い込み、さも満足げに
煙を吐き出すと、葉巻の先端をセトに向けた。
﹁さて、君の方から何か要望はあるかな?ここを出て奴隷としての
暮らしを始めてしまえばこうして面と向かっては話す機会はそうそ
うないだろうから、今のうちに言っておくといい﹂
セトはユーフーリンの話を聞き終えた後、しばらく下を向いて考
え込んでいたが、やがてのっそりと顔を上げた。
﹁ユーフーリン様。僕なんかのために手を尽くしてくださること、
本当にありがたく思います﹂
﹁気にするな。それが旧友の願いだったのだからな﹂
﹁でも、僕は・・・生きていていいんでしょうか﹂
﹁ふむ?﹂
209
﹁なにを言うんだ、セト﹂
ユーフーリンは葉巻をくわえたまま首を傾げただけだったが、隣
にいたガンファは思わず身体ごとセトに向けてそう言った。
﹁僕は、殺されるかもしれないといわれて、逃げてきました。生き
ていてほしいといわれたし、死にたくないっていう思いも、確かに
ありました。でも、ここへくるまでに、僕は人をひとり殺しました﹂
最初はユーフーリンへ向けて発せられていた言葉は、重ねるごと
に独り言のようになっていく。セトは言葉を続けながら、その顔は
また段々と下を向いていった。
﹁それで、わからなくなったんです。僕は死にたくないって思って
いたけど、兄ちゃんも、死にたいなんて思っていなかったはずなの
に。僕と兄ちゃんに、違いなんてなかった。なのに、僕は自分が生
き延びるために、兄ちゃんを殺したんです﹂
セトの思い詰めた表情を見て、ガンファはまた内心で自分を責め
た。セトはあのときからずっと、このことを考え続けてきたのだろ
う。今朝、鐘の音を聞くまえに少しだけ話しかけていた。そのとき
に、もっとしっかり話を聞いてやるべきだった。
﹁そんな自分が、またこうしてガンファに護ってもらって、ユーフ
ーリン様にもご迷惑をおかけしている。僕はそんなに、価値のある
生き物でしょうか。自分ではとてもそんな風に思えないんです﹂
﹁価値、ね・・・﹂黙って葉巻をくゆらせながら話を聞いていたユ
ーフーリンは、セトの言葉が一段落ついたところで大きく煙を吐き
出した。
﹁自分の価値というものは、基本的に自分自身で決めるものじゃな
い。君の周りにいる他人が決めるものだ。たとえば私にとって、君
を生かすということは、かつて旧友と交わした約束を守ることにつ
ながる。そうすることで私は旧い友情を思い出すことが出来るし、
﹃義理堅い自分﹄という自分自身のイメージを守ることが出来る。
これが私にとっての君の価値だ﹂セトがなにも言わずにいるので、
ユーフーリンは言葉を続けた。
210
﹁君を捕らえ、殺そうとする連中は、そうすることで得るものがあ
るのだろう。つまり君は、生きるにしろ死ぬにしろ、他人に影響を
与える、価値のある人間だということになる﹂
﹁ユーフーリン様、そんな言い方は・・・﹂セトを落ち着かせるど
ころかあおるような物言いに、珍しくガンファが口を挟んだ。
﹁もちろん、こんなこといわれたって納得はできないだろうね。だ
がね、セト君。君に価値をつけるのは君自身ではなく他人のするこ
とだが、自分自身が生きる動機というのは、君自身にしか見つけら
れないんだ﹂
﹁動機・・・﹂セトがユーフーリンをみた。ユーフーリンは大仰に
うなずく。
﹁生きていていいのかと考えるのは、生きていたいと考えているこ
とにほかならない。君は今まで、生きていることが当然だと思って
いた。だけど不幸にも他人の命を奪ってしまったことで、それが当
然ではないことを初めて知ったんだ。そして知ってしまった以上、
なにも考えずに生き続けることはもう出来ない。食事をすれば身体
を生かすことは出来るが、心を生かすにはそれでは足りない。君は
君自身が生きるための動機を探さなければならない﹂
ユーフーリンの姿が歪み、その姿がセトそっくりのものになった。
﹁私は君の姿を真似られる。だが、心の奥までは真似られない。そ
こだけは君自身のものだ。よく考えたまえ。君は生きたがっている。
きっと君の心のどこかに、その理由は眠っているはずだ﹂
﹁・・・はい﹂セトから思い詰めた表情は消えていなかったが、鏡
写しのようにセトそっくりのユーフーリンに返事をしたセトの声は
しっかりとしていた。
﹁よろしい﹂ユーフーリンは満足げにうなずいた。その姿が歪むと
そこから鏡写しのセトは消えた。中肉中背で色黒の男性の姿になっ
たユーフーリンが首を巡らすと、いつの間にかその背後に老小鬼の
執事が立っている。
﹁仕事の時間か?﹂ユーフーリンが尋ねると、老執事はユーフーリ
211
ンだけではなくガンファとセトにも聞こえるように口を開いた。
﹁ご報告がございます﹂
﹁何だ﹂ユーフーリンが続きを促した。
﹁先ほど席を立たれたおふたりですが、屋敷の外に出られたようで
す。すでに半アルン︵約一時間︶ほど経ちましたがお戻りになられ
ません﹂
﹁ふむ・・・﹂ユーフーリンの顔が渋くなった。﹁あまりよくない
な﹂
﹁どういうことですか?﹂セトが聞いた。
﹁君を追っている彼らはおそらく、君たちがこのユーフーリン領へ
はいったことはつかんでいるだろう。だが私の持っている情報では、
フェイ・トスカ本人は今魔王様に召還されていて本都グローングに
いる。たとえ君たちがこの屋敷にいることまで彼らが知っていたと
しても、さすがにフェイ・トスカ本人がいなければ強引な手段はと
れない。だがそれは私の権力が直接及ぶこの屋敷に限ってのことで、
屋敷の外では完全な保証は出来ないということだ﹂
﹁ねらわれる可能性がある、と?﹂
﹁プリアンは私のお膝元だ。治安には自信があるからそうそうは、
と思うが・・・。何しろ彼らはフェイ・トスカが不在の中でセト君
を取り逃がす、という失態を犯している。少々の無茶はしてくるか
もしれない﹂
﹁そんな・・・﹂
﹁君が探しに行くのは無しだよ、セト君﹂無意識に腰を浮かせたセ
トを、ユーフーリンがたしなめた。﹁それじゃわざわざエサ場にエ
サを撒きに出向くようなものだ。みんな喜び勇んで飛び出してくる
ぞ﹂
﹁でも、心配です﹂セトは腰を下ろしたが、気持ちまで落ち着いた
わけではないだろう。ユーフーリンはセトを落ち着かせるため、で
きるだけ優しい目つきで言葉をつないだ。
﹁あまりおおっぴらにはやれないが、こちらから何人か出して捜さ
212
せよう。シイカ君が説得に成功すれば、自分たちで戻ってくるだろ
うから、心配しすぎないことだ﹂
セトは険しい表情のままそれでも一応はうなずいた。
﹁ガンファ君、彼を連れて部屋に戻っていてくれたまえ。彼女たち
の消息をつかむか、彼女たちが戻ってくるかすればすぐに伝えるか
ら﹂
﹁わかりました﹂ガンファが立ち上がってセトを促すと、セトは素
直にそれに従った。
﹁セト君﹂ユーフーリンが声をかける。﹁今は、彼女たちを心配す
るよりも、自分のことを考えなさい。悩みから抜け出す方法はいろ
いろあるが、大切なのは悩みから目を背けないことだ。落ち着くの
は難しいかもしれないが、考えることを放棄しないように﹂
﹁はい、ありがとうございます﹂セトは一礼すると、ガンファとと
もに部屋を出ていった。
﹁さて、彼のためにも心配ごとは減らしてやりたいんだが﹂ユーフ
ーリンの姿が歪み、また別の姿に変わったが、渋い表情はそのまま
だ。
﹁予感というものは悪いもの程良く当たるという。いやな教訓だけ
どね﹂
213
決意するもの
三
魔族は領地の名に領主の名をそのまま冠する。﹁グレンデル領﹂
﹁ユーフーリン領﹂というように。また、﹁シュテン﹂や﹁プリア
ン﹂といった都市の名前は、基本的に戦争以前の都市名をそのまま
使っていることが多い。これは戦争以前に人間が築いた都市の枠組
みをほぼそのまま使っているからである。体格差や生活習慣の違い
を埋めるための改修はなされているが。
おそらく拝領した魔族の中にはもっと違う名前を使いたかったも
のもいたのだろうが、何しろ魔王が直々にそう決めたので、だれも
逆らうことはできなかった。
ただし、そうした名前のルールにも例外はある。今のところ唯一
の例外が、まさにその魔王グローングが治める本都グローングであ
った。
グローングは領地を持っていない。正確には、配下の魔族に振り
分けていない土地はすべて彼の領地なのだが、あちこちに分散して
いるので﹁ここがグローング領﹂ということはできない。そのため、
魔王が直接治める都市に彼の名前を冠することになった。
かつてのサンクリーク王国首都アルメニーこそ、今の本都グロー
ングであった。
ユーフーリンの情報通り、フェイ・トスカは今この本都グローン
グにおり、まさに今、魔王グローングとの謁見を終えたところだっ
た。
用意された控えの間に戻ってきた彼は、被っていた儀礼用の帽子
を乱暴に脱ぐと、忌々しげな舌打ちとともに放り投げた。
かつてサンクリーク王城のあった地に新たに建てられた魔王城は、
214
サンクリーク王城が三千年に及んだ人の世の象徴であったのと同じ
ように、これから続いていくであろう魔族の世を象徴する建物にな
るはずである。確かに外観は負けず劣らず壮大であったが、内部は
比べるべくもない、というのがフェイの評価だった。
フェイが騎士として務めたサンクリーク王城は、芸術の粋を集め
たといわれる華美な城で、柱の一本一本に至るまで繊細な彫刻が施
され、フェイのような下級の騎士が詰めている部屋でさえ輝いて見
えるほどであった。
対してこの魔王城は、ひとつひとつの部屋はとんでもなく広い。
おまけに天井も高い。人間の何倍も大きい魔族もいるからそうせざ
るを得ないのだが、城の高さはサンクリーク王城とさして変わらな
いのに階層の数はふたつかみっつほど少ないようだった。
そして、装飾らしい装飾はほとんどない。柱に彫刻どころか、調
度品を並べて置くことすらしないのだ。カーテンやカーペットは高
級品を使っているが、これは実用性を兼ねているのだろう。
もちろん、これらはこの城の主である魔王グローングの指示によ
ってそうなったのだった。魔王は華美な装飾を嫌っている。そのこ
とはそのフェイが配下になって程なく知ったことだったが、ここま
で徹底しているとは思わなかった。
だが今、フェイが苦虫を噛みつぶしたかのように顔を歪めている
のは、この城の無粋さが腹に据えかねているわけでは、もちろんな
かった。
︵まさか、このタイミングで言われるとは︶
フェイの渋面の原因は、今し方謁見した魔王の言葉にほかならな
い。
︵命令の撤回と﹃太陽の宝珠﹄の返還・・・あと少しだというのに
!︶
﹁どういうことですか?﹂
魔王の口からその言葉を聞くとは全く予想していなかったフェイ
215
は、思わず聞き返してしまった。
﹁どういうこともなにも、そういうことだ。戦争終結から一〇年が
経ち、多くの地ではすでに領地経営も安定している。いまさら﹃太
陽の宝珠﹄の力を借りずとも、我ら魔族の統治は数千年、いや、一
万年の時を越えても続くだろうさ﹂
﹁しかし・・・﹃太陽の宝珠﹄に魔力を満たし、その力でもって神
にまみえ、それによってはじめて、千年の時を越える太平が約束さ
れる││古文書には確かに、そう記述がありました﹂
逆を言えば、宝珠の力を使わなければたとえ戦争に勝ったとして
も長くは持たない、と記されていたのである。だが、魔王グローン
グは一笑に付した。
﹁古文書はしょせん古い文書、だ。昔に世界を支配した魔王は、ど
うせ大した努力もせずに、宝珠の力に頼って世界を治めていたんだ
ろう。だから宝珠の魔力が弱まったとたんにまた世が乱れた。わし
はそんな愚は犯さん。必要以上には略奪も破壊も許さず、秩序をも
って治めることができるものに優先して領地を与えた。流通や貨幣
制度をはじめ、人の世のものであっても優れておれば壊さず残し、
改良の努力も怠らなかった。今や世界は復興に沸いておる。神の力
など借りずとも、治めていくことは可能なのだ!﹂
しゃべっているうちに興奮したのか、グローングは玉座から立ち
上がり、右手の鉤爪をふりあげた。まるで大勢の臣民に向かって演
説をぶつかのようであったが、聞いているのはフェイひとりだ。
﹁と、いうわけだから﹂グローングはフェイへ向かってあっさりと
言った。﹁おまえに与えていた命令と権限は撤回する。おまえもわ
しの配下になってずいぶん時が経ったし、そろそろ領地を与えても
いいだろう﹂
﹁しかし・・・最後の王族の所在はすでに判明しているのです﹂フ
ェイは食い下がった。﹁もう後少しで││﹂
﹁必要ない﹂魔王は素っ気なかった。﹁宝珠も返してもらおう。今
持っているのか?﹂
216
﹁今は││持っておりません。向こうの配下に預けております﹂
フェイはとっさに嘘をついていた。実際には配下に預けていいよ
うな代物ではなく、今このときもフェイは宝珠を持っていたのだ。
だが、魔王は深くは追求してこなかった。
﹁ならば、戻ってすぐ持ってくるように。命令の撤回は、おまえが
戻ってきたときに正式に下すことにしよう﹂
﹁││わかりました﹂
そう答えるほかはなかった。
︵﹃太陽の宝珠﹄を取り上げられたら俺の計画はなりたたない︶
乱暴にいすに腰掛けたフェイは、自分に残された道筋を探った。
フェイがこれまで魔王の配下として忠実に働いていたのは、﹃太
陽の宝珠﹄に魔力を満たすという目的が合致していたからだ。フェ
イは魔王の名の下に宝珠に魔力を満たし││最後にはその力を掠め
取るつもりだった。
だが、ここへきて魔王は宝珠の力は不要だと方針を翻してしまっ
た。
フェイは今、どの魔族の領地へも自由に立ち入り、必要な行動を
とることができる。だがこれは宝珠に力を満たすために魔王から与
えられた権限である。命令を撤回されて一領主になってしまえば、
そんな勝手なことはできなくなる。
︵おまけに、あいつらは目標の確保に失敗したという︶
シェンドたち配下がセトの確保に失敗したという知らせは、今朝
になってフェイの耳に届いていた。
そうはいっても逃走先の目処はすでについており、数日のロスが
生じるだけで大勢に影響はないはずだった。
それが、魔王の言葉によってすべて覆されてしまったのだ。
︵宝珠を渡さずにすんだおかげでとりあえずの猶予は得たが、そう
何日も引き延ばせはしないだろう。それに、報告書には目標の逃走
先はユーフーリン領だと書いてあった︶シェンドからフェイへの報
217
レア
告は書面にまとめられ、高速で飛行ができる稀少な魔物によって届
けられていた。
︵ユーフーリンは魔族たちの中心にいるわけじゃないが、長生きし
てるせいか顔も広いし耳が早い。のんびり獣車で戻っていたら、俺
が魔王に命令を撤回されるという情報をつかんでしまうかもしれな
い︶
そうなれば、ユーフーリン本人がセトをかくまっているようなこ
とがあった場合││実際そうなのだが││、たとえフェイが乗り込
んでいっても難癖を付けられ、時間を稼がれる可能性がある。
︵となれば、のんびりしている暇はない︶
フェイは立ち上がって儀礼用の服を脱ぎ捨てると、いつも身につ
けている暗闇色の重鎧を身にまとった。そしておもむろに床に座り
込むと、あぐらをかいて精神を集中し始めた。
フェイの体が徐々に白熱し、その身体からあふれる光が室内を覆
いつくし││唐突に消えた。
外で控えていた兵が何事かと中をのぞき込んだが、そのときには
光ばかりか、フェイ・トスカの姿もそこから消え失せていたのであ
った。
﹁ねえマーチ、どこへ行くつもりなの?﹂
ユーフーリンの屋敷を出て大分たったが、マーチが足をゆるめる
気配はなかった。シイカは時折振り返りながらその後を追っていた
が、ひときわ大きく、遠目からも目立つはずの屋敷は今はもう目に
入らなくなっていた。
﹁別に、決めてないけど﹂マーチの返答は素っ気ない。
ずっと隠れ里で暮らしていたマーチだから、目的地があるはずは
ない。彼女の言うとおりなのだろう。先ほどから路地が目に入れば
曲がっている。行き止まりにぶつかって引き返すことも多い。まさ
に行きあたりばったりである。
表通りを歩いていたときは、人間のふたり組という珍しい組み合
218
わせを遠巻きに眺める魔族たちの視線をよく感じていたが、いつし
か道も細くなり、周囲の人影もまばらになってきている。
﹁あまりお屋敷から離れない方が・・・﹂
﹁シイカはそうかもね。道に迷わないうちに戻ったら?﹂
マーチは言い放して角を曲がったが、また行き止まりだった。高
い石壁が正面を塞いでおり、両側は二階建ての建物。戻るしかない。
﹁また!どこへ行ったら外にでられるわけ?﹂
﹁マーチ、外へでたいの?﹂マーチが悪態をついたおかげで、シイ
カはようやくマーチがどこへ向かおうとしているのかを知った。
﹁ここは外壁に囲まれてるから、町の外にでるなら正門へ行かなき
ゃ﹂
﹁囲まれてるって、ずっとこの壁があるってこと?﹂
﹁うん。・・・あ、そうか。マーチはずっと森にいたから﹂
広大な農地をのぞき、町を外壁で囲むのはほとんどの町で行われ
ていることだったが、マーチは幼い頃から森の中にいたのでそうい
ったことは知らないのである。
シイカの口調にマーチを揶揄するような響きはなかったが、それ
でもマーチは自分の失態に顔を赤くした。しれずふくれっ面になり
ながら、シイカを追い抜いて引き返していく。
﹁もう、マーチ!﹂
追いすがってこようとするシイカの声を背中に聞きながら、二つ
目の角を曲がった、その刹那。
後頭部に激しい衝撃を受けて、マーチは倒れ込んだ。
﹁!?﹂
何とか頭をもたげたが、身体はいうことを聞かない。衝撃のせい
で耳鳴りがひどく、状況が把握できない。それでも顔を巡らせると、
数人の人物がいるらしいことはわかった。頭も上げられないので、
足元しか見ることができない。
耳鳴りに混じっていくつかの声が聞こえてくる。大半は低い声だ。
時折聞こえる切羽詰まったような甲高い声は、シイカのものだろう
219
か。
そのときちょうどマーチの前に、鳥の足を持った人物が立った。
魔族だ。マーチは力を振り絞って頭を上げ、そいつの姿を見た。
その魔族は鳥の足に長いくちばしを持っていたが、翼は片方しか
生えていなかった。それをみてマーチは自分が襲われたわけを知っ
た。その鳥の魔族はセトを救出した後に待ち伏せを受けたとき、マ
ーチの前に立ちふさがった魔族だったのだ。
そのときマーチはそいつの右の翼を斬り落としたのだが、とどめ
は刺さなかった。もう戦えないだろうと思ったからだ。だがそれは
裏目にでた。
﹁くそっ・・・﹂マーチはせめて精一杯そいつをにらみつけてやろ
うとしたが、そこで限界がきた。
頭の奥がじんとしびれ、視界が何重にも広がって揺れていく。
そうして、マーチは気を失った。
次に目をさますと、薄暗い部屋の中だった。ずいぶんと天井が高
い、石造りの部屋。
﹁うぐっ﹂
体を起こそうとすると、後頭部に鋭い痛みがはしった。
﹁マーチ、起きた?大丈夫?﹂
自分のすぐとなりから声が聞こえた。マーチが用心深く頭を動か
すと、すぐ横にシイカが腰を下ろしていた。
﹁殴られたところ、痛むの?ちょっと待っていて﹂
シイカは立ち上がると、部屋の入り口へと向かった。簾やカーテ
ンではなく、しっかりとした木戸がはめ込まれている。シイカがノ
ックをすると、ゴツゴツと分厚い音がした。
﹁あの、お水と・・・切れ端でいいので、何か布をもらえませんか
?冷やさないといけないので・・・﹂
シイカはドア越しに何者かと喋っている。その声を聞くうちに、
マーチの意識もはっきりとしてきた。
220
どうやらシイカとふたり、セトを追っていた魔族どもに捕まって
しまったのだろう。この部屋は監禁用の部屋だろうか、小窓はある
がずいぶん高いところに切られている。明かりはそこからしか入っ
てこないので室内は薄暗いが、入ってくる明かり自体はまだしっか
りとしたものだった。自分が丸一日以上気を失っていたのでなけれ
ば、あれからそこまで時間は経っていないようだ。
シイカはしばらくドア越しにやりとりをしていたが、やがて手桶
と麻の手ぬぐいを持って戻ってきた。手桶には水が張られている。
﹁起きあがれる?ちょっと、後ろ向いて﹂
シイカはマーチを座らせると、その背後に膝をついた。手ぬぐい
を水につけて固く絞り、マーチの肩口まである髪││マーチは自分
で切ってしまうので、少々乱雑に切りそろえられている││を掻き
あげると、手ぬぐいをうなじの上のあたりにそっと押し当てた。
﹁どう、気持ちいい?﹂
﹁・・・うん﹂
なんとなく流れに身を任せていたが、後頭部の熱が冷やされてい
くうちになんだか急に気恥ずかしくなってきた。
﹁も、もういいよ。自分でやれるから﹂シイカから手ぬぐいを奪い
取ると、自分で後頭部に押し当てた。
﹁ここ、どこなの?﹂後頭部の痛みは強烈なものではないが、絶え
ることはなく主張を続けている。マーチは顔をしかめながら、シイ
カに尋ねた。
﹁町からはでていないと思うけど・・・私は目隠しをされていたか
ら、よくわからないの﹂
シイカの説明では、マーチたちを襲ったのは五名ほどの魔族で、
うち何名かはシイカも見覚えがあり、やはり、先日マーチたちがと
どめを刺さずに見逃した魔族たちということだった。戦うことがで
きないシイカが降参すると、気を失ったマーチはそのまま、シイカ
は目隠しをされた上に後ろ手に縛られて、魔族に引っ張られるよう
にして歩いてここへきたという。
221
﹁じゃあ、シイカは乱暴なことはされてないのね?﹂シイカがうな
ずくのをみて、マーチは安堵の息を吐いた。確かに、見る限りで彼
女に外傷はないようだった。
﹁よかった﹂
﹁心配してくれたの?﹂
﹁そりゃあ・・・シイカはあたしについてきて巻き込まれたような
ものだし﹂
マーチは頭を掻いた。詳しい背景はわからないが、おそらくはセ
トを捕らえるためのエサとして、不用心に屋敷を出てきた自分と、
たまたま一緒にいたシイカがねらわれたのだろう。
﹁ごめん﹂屋敷を出たこと自体も不用心だったのだろうが、あのと
き、マーチは気が立っていて周囲への警戒を怠っていた。一度は追
っ手から逃げきった、という安心感もあったのかもしれない。いず
れにしても、普段のマーチならば襲撃される前に角の先の気配に気
づいて立ち回ることも可能だったかもしれない。そうできなかった
ことにふがいなさを感じて、自然と謝罪の言葉が口をついた。
﹁謝ることはないけど・・・﹂シイカは気遣うような笑みを浮かべ
た。﹁でも、一緒の部屋に入れてくれてよかった。やっとゆっくり
話せるもの﹂
﹁話すって?﹂
﹁セトのそばにいてあげてほしい、っていうこと﹂
シイカに言われて、マーチはああ、と膝を打った。そういえばそ
もそもそんなやりとりをしていたのだ。
マーチは不思議な思いでシイカをみた。戦いのスキルはないのに、
こうして敵対勢力にとらわれていても、妙に落ち着いている。ふつ
うの女の子なら、こんな事態になったなら部屋のすみっこで膝を抱
えてメソメソ泣いているくらいしかできないんじゃないのか。とい
っても、あたし自身とてもふつうの女の子じゃないから、それは想
像でしかないんだけど。
と、そんなことを考えていると、シイカは真顔になってマーチを
222
説得し始めた。
﹁ねぇ、マーチ。ユーフーリン様は私たちを奴隷にするっておっし
ゃっていたけど、それは本当に肩書きだけのことよ。ガンファなら
とても優しいし、絶対にあなたを奴隷扱いしたりしないわ。マーチ
がセトとふたりだけで暮らしたいっていうのなら、それだって何と
かしてくれると思うし﹂
﹁ふ、ふたりでって﹂マーチは思わず口ごもってしまった。顔が熱
くなるのを感じてしまったと思ったが、どうにもできない。﹁あた
しは別に、セトとふたりになりたいから奴隷がいやだなんていって
ないよ。あたしは魔族の下につくのがいやなの。それがあの、ガン
ファって奴でも﹂
マーチ自身、この数日でガンファという魔族が自分がこれまで想
像していた、典型的な﹁魔族﹂という存在からは大分かけ離れてい
ることを理解していた。だが、それだけで彼女に長年かけて積み重
なった魔族への不信や憎しみが晴れるはずもない。
﹁マーチが魔族を嫌いなのは知ってる。その原因も﹂父親を魔族に
殺された、という話をマーチがしたのはセトたちが里に着いた翌日
の一度きりだったが、そのとき垣間見せた表情は普段の快活な少女
のそれとは大きなギャップがあった。
﹁でも、お父さんを殺した魔族とガンファは、別人よ﹂
﹁だから、間違ってるって言いたいの?﹂マーチの語調が強くなっ
た。だが、シイカはひるまない。
﹁マーチがお父さんを愛していたことも、そのお父さんを殺した相
手を憎む気持ちもわかるわ。でも、中にはガンファみたいに心優し
い魔族だっていっぱいいるの﹂
﹁関係ない﹂マーチはきつく言い放った。﹁あたしにとって、魔族
は憎むべき敵。お父さんが殺されたことだけじゃないわ。そもそも
魔族が戦争なんか仕掛けなければ、あんな森に押し込められる必要
もなかった。お母さんを泣かせる必要だって・・・﹂マーチの脳裏
に、闇の中で泣き崩れる母の姿が浮かんて、マーチは思わず言葉を
223
切った。﹁とにかく、あたしには魔族はみんな憎しみの対象なの﹂
﹁でも、﹃魔族﹄っていっても、いろんな生き物がいるのよ。鳥の
ように空を飛んだり、馬のように早く走ったり・・・。実際には、
魔族の中にも、いろんな種類がいるわ﹂
﹁でも、魔族は魔族よ。人間じゃないことには変わらないわ﹂
﹁そう・・・﹂シイカは一度だけマーチから目線をはずすと、息を
ついた。﹁じゃあ、私のことは嫌い?﹂
﹁えっ?﹂マーチは困惑した。いきなりなにを聞いてくるのか。シ
イカの言わんとしていることはわからなかったが、その真剣な表情
に押されるようにして答えていた。﹁嫌いなわけないじゃない。な
にを言っているの?﹂
﹁そう、よかった﹂シイカは弱々しくほほえんだ。﹁じゃあ、私が
実は人間じゃない、って言ったら?﹂
﹁・・・は?﹂今度こそ、マーチはシイカの言っていることがわか
らなくなってしまった。﹁なにを言って・・・どうしちゃったの、
シイカ﹂
﹁本当よ、マーチ。私は人間じゃないの﹂シイカの顔から笑みが消
えた。
まっすぐに目をあわせられて、マーチはうろたえた。嘘を言って
いる様子ではない。
﹁どうみたって人間じゃないの﹂そう返すのが精一杯だった。確か
にシイカのもつ銀の髪と銀の瞳は珍しいが、それ以外はどこをとっ
ても歳相応の少女としか思えない。﹁あのユーなんとかって魔族み
たいに、魔法で化けてるとでもいうの?﹂たとえそうだとしても、
もうひと月以上一緒にいるのだ。なんの気配も感じさせずに化け続
けるなんてできるのだろうか。それに、魔族がわざわざ人間に化け
ることにメリットがあるとも思えなかった。
﹁今の私の身体は、人間のものとほとんど変わらないわ。この姿の
ままでいれば、私は歳とともに成長し、やがては老いて、百年も生
きないうちに死ぬでしょう。・・・本当の私の身体と能力は、今は
224
封印されているの﹂
﹁封印?﹂ずいぶん大がかりな話になってきた、とマーチは思った。
きっとシイカは、魔族をかたくなに嫌っている自分をなんとか翻意
させたくて、こんな話をでっち上げたのだ。マーチはそう思おうと
していたが、一方ではシイカの淡々とした話しぶりに困惑もしてい
た。
﹁そう。・・・でも、全く人間と同じというわけでもないのよ。た
とえば、セトが連れ去られた夜のこと、覚えてるでしょう?あの日、
ソナタさんは私たち三人の食事に睡眠薬を入れたわ。だけど、私は
それほど時間をおかずに目覚めた。私、毒や薬のたぐいは効きづら
いのよ﹂
確かにあの晩、シイカに起こされなければマーチはずっと眠って
いただろう。ソナタが三人の食事に何かを混ぜた、というようなこ
とを呟いていたのも聞いた。
だが、それだけでシイカを人間ではないなどと思うことはできな
い。毒に耐性を持つ人間というのも稀には存在するものだ。
﹁それに、怪我にも強いわ。ちょっとの切り傷くらいならすぐ治っ
てしまうの。普段はセトやマーチが護ってくれるから、怪我自体ぜ
んぜんしないけど。実際に見せた方が早いかな﹂
そう言うと、シイカは室内を見回し始めた。この部屋の中には傷
を付けることができそうな道具はなかったし、マーチの小剣も取り
上げられてしまっていたが、放っておいたら壁でも殴りつけかねな
い。マーチはシイカの腕を取った。
﹁ばか。やめなさい﹂その腕は白くほっそりとしていて、か弱い少
女の腕そのものだ。
﹁私、人間じゃないの。本当なのよ﹂シイカはもう一度、そう言っ
た。﹁やっぱり、信じてもらえないかな・・・﹂その瞳が哀しげに
沈んだ。
﹁どうして、そんなことを言うの﹂シイカがあまりにも消沈した様
子なので、マーチははっきり否定できないでいた。﹁そんなに、私
225
にセトのところへ戻ってほしいの?﹂
﹁それもあるけど・・・マーチになら、言ってもいいかなって思っ
たの﹂シイカは微笑んだ。少し悲しげに。﹁私のこと、嫌いじゃな
いって言ってくれたから﹂
﹁そういうことは、セトに言えばいいじゃない﹂マーチは気恥ずか
しくなって、シイカから目をそらした。﹁あいつなら、信じてくれ
るんじゃないの?﹂
だが、シイカは首を横に振った。﹁セトには言えないの。私の正
体は、セトの運命に関わっているから﹂
﹁封印とか、運命とか、ずいぶんと重たいのね﹂マーチが言うと、
シイカはうなずいた。
﹁そうだね。ひょっとしたら、セトには世界を変える力があるかも
しれない﹂マーチは半分冗談くらいのつもりで言ったのだが、返っ
てきたのはさらに重たい言葉だった。
﹁だけど、今のセトはそんな力は望んでいない。ただ平穏に暮らし
ていきたいだけ。だから言えないの。知ってしまえば、どうしたっ
て巻き込まれてしまうから﹂
マーチはそれまでずっと、手ぬぐいを左手で後頭部に押し当てた
ままだったが、手ぬぐいがすっかりぬるくなっていることに気づい
てそこからはずした。まだ少し痛みはあるが、もうそれほど気にな
らない。
﹁そこまで真剣に言われると、簡単に嘘とは言い切れないわね﹂手
ぬぐいを桶の水に漬けながらそう言うと、シイカは目を輝かせた。
﹁信じてくれるの?﹂はじけるようにそう言って、それからまた声
のトーンを落とした。﹁じゃあ、人間じゃない私のこと、憎くなる
かな﹂
マーチは改めてシイカをみた。彼女の言葉については、まだ半信
半疑という以上の印象は持てない。シイカの言葉を念頭に置いて彼
女を見ても、当然のことながらそれでシイカの印象が変わるという
ことはなかった。
226
﹁そんなわけないでしょ。シイカはシイカよ﹂正直にそう答えると、
シイカは心配ごとがいっぺんに晴れたような、心底うれしそうな笑
顔を浮かべた。
﹁ね?人間じゃないならすべて憎いなんて、そんなことないのよ﹂
﹁それとこれとは││﹂
言葉の上では同じことだが、実際にはそんな簡単に割り切れるこ
とではないだろう。
だが、シイカの言葉を信じてあげるためには、自分も少し変わら
なければいけないのかもしれない。手ぬぐいを絞りながら、マーチ
はそう思った。
﹁・・・それにしても﹂今はこれ以上言い合っても仕方ないと、マ
ーチはシイカから目線をはずし、高い天井を見上げた。窓からはい
る光は細く、部屋の角までは届いていない。その様子を見て、抑え
込んでいた不安がにわかに鎌首をもたげてきた。
おそらく自分たちは人質として使われるのだろう。それならばす
ぐに殺されるようなことはないだろうが、最終的にどうなるかはわ
からない。そもそもシイカもマーチもセトも、全員無事に生き延び
られなければ、今のやりとりにしても何の意味も持たないのだ。
﹁どうなっちゃうんだろうね、これから﹂
ぽつりと漏れた呟きは、妙に響いて聞こえた。
227
ほの見える道筋
四
結局、マーチとシイカは丸一日過ぎても屋敷へ戻ってこなかった。
マーチだけならばともかく、追っていったシイカまで何の連絡も
なしに戻らないのはどう考えてもおかしい。彼女たちの身を案じて
まんじりともせず夜を過ごしたセトは、これまでの心労もあってず
いぶんと憔悴した様子だった。
ガンファにできることといえば、セトのそばにいてやることと、
彼のために心を安らかにする薬草茶を淹れてやることくらいである。
彼がもともと持っていた薬草の大半はあの隠れ里に置いてきてしま
ったが、ユーフーリンは自分の蔵に貯蔵してある薬草を自由に使わ
せてくれたので、ガンファはせめてその中から出来るだけ上質の薬
草を選び抜いてお茶を淹れてやった。
﹁ありがとう、ガンファ﹂自分の生きる意味に悩み、マーチとシイ
カの安否を心配するセトは、とても周りに気を配る余裕などないだ
ろう。それでもお茶をひと口飲むと、笑顔でガンファに礼を言った。
﹁飲んだら、少し横になった方がいい。眠れなくても、目を閉じて
いるだけでも違うから﹂
﹁うん。でも││怖いんだ、僕﹂セトは下を向いた。ガンファには、
このところ、本来は快活なこの少年の、こんな顔ばかり見ているよ
うに感じられた。
﹁目を閉じると、リタルド兄ちゃんのことを考えちゃう。そこに、
マーチとシイカが重なってくるんだ。もし・・・もしも、マーチや
シイカが死んでしまったりしたら、それはまた、僕のせいだ。僕が
生きているせいで、マーチやシイカは﹂
﹁そんな考え方をしたらだめだ、セト﹂ガンファはセトの肩を揺す
って、強引に話を止めさせた。﹁リタルドは、結果的にセトの手に
228
かかったけれど、それは君のせいじゃない。それに、マーチもシイ
カも、死んだりはしていないよ﹂
実際、マーチたちが死んだということは考えにくい。ユーフーリ
ンの言葉どおり、プリアンは治安がいい。それが人間であっても、
事故などで死者が出れば行政が把握するし、少し調べればユーフー
リンの耳にも届くだろう。町の外へでてしまっていればわからない
が、昨日それらしき人物が外壁の外へでたという情報もない。少な
くともマーチたちはまだ町中にいて、生きているのだ。
だが、その先の消息はつかめていない。おそらくはフェイ・トス
カの手のものに拉致されたのではないか、というのがユーフーリン
の見解だった。
﹁僕は、もっとうまくやれたんじゃないのかな﹂セトがぽつりと言
った。
﹁マーチを行かせてしまわなければよかったんだ。そうすれば、こ
んなことにならなかったのに。もっと剣をうまく扱えたら、リタル
ド兄ちゃんを死なせずにもすんだ。・・・それとも、あのときやっ
ぱり、じいちゃんのところに残っていればよかったのかもしれない。
そうすれば、僕が死んだだけで、あとは誰も死んだり、苦しんだり
せずにすんだんじゃないのかな﹂
﹁それは違うよ、セト﹂ガンファは出来るだけ優しく声をかけた。
それまで向かい合って座っていたが、ゆっくりと立ち上がって、セ
トの腰掛けているベッドの隣に腰を下ろした。ベッドがきしんだ音
をあげて抗議したが、ガンファは気にせず、セトがもっと幼い頃よ
くしてあげたように、大きな腕を回して彼の肩を抱いた。
﹁後悔は誰だってする。僕もそうだ﹂
﹁ガンファも?﹂セトは顔を上げた。いつも鷹揚としていて、セト
を優しく見守ってくれているガンファが、今の自分と同じような思
いに苛まれているなどとはとても想像できなかった。
﹁つい昨日、同じようなことを考えたよ﹂
ガンファは一度大きく息を吸った。それからゆっくりと、でもで
229
きる限りしっかりとした口調で、セトに語って聞かせた。
﹁僕たち巨人族は、本来は戦いのために生まれたっていわれてる。
僕も本当は、もっともっと強くなれたのに・・・そうなろうとしな
かった。もしそうなっていたなら、あの日、ぼく一人ですべての敵
を片づけることが、出来たかもしれない。セトが剣を抜く必要もな
く、リタルドを殺してしまうことも、なかったかもしれない﹂
ガンファはあくまでも優しい口調でセトに語りかけている。ずっ
と昔には、ぐずるセトを寝かしつけるために子守歌を歌ってやった
こともある。そんなことを思い出しながら。
﹁昨日、落ち込んでいるセトを見て、リタルドだったら、きっと君
のことを上手に元気づけてあげられるのに、って考えた。僕は口べ
ただし、鈍重だ。森ではぐれたのだって、僕が不用意に獣車を離れ
てしまったからだ。どうしてこんなことにって、あの後ずっと自分
を責めていたんだ﹂
ガンファは言葉を紡ぎ続ける。自分でも驚くほど、たくさんの言
葉が口から出てきていた。幼い頃から見守り続けたこの少年のこと
をなんとか元気づけてやりたくて、ガンファは今必死だった。
﹁みんな同じなんだよ、セト。すべてを失敗せず、上手にやっての
けるなんて、人間も魔族も、誰にも出来ない。こうすればよかった、
ああすればよかったって、みんな思いながら生きているんだ。だけ
ど、その思いに囚われすぎたらダメなんだ﹂
肩に回した腕から、セトの体温が伝わってくる。ガンファに比べ
たらずっと小さく細い肩ではあるが、昔に比べたらだいぶ筋肉がつ
き、大人の体つきに近づいている。
﹁後悔は、明日生きるための糧にするんだ。今日失敗したことは、
明日成功するように、って。リタルドは・・・もう戻ってこないけ
れど、シイカとマーチは、そんなことはないんだから﹂
話しながら見下ろすと、セトはまぶたが閉じている時間が少しず
つ長くなっているようだった。ガンファの大きな腕にに肩を抱かれ
て安心したのか、まどろむようにしている。
230
﹁彼女たちが囚われているなら、救い出す方法を考えよう。無事に
生き延びたら、ユーフーリン様に少しだけ土地をいただいて、それ
をみんなで耕すのも、きっと悪くないよ﹂
﹁うん・・・﹂セトは返事をしたが、もうほとんど聞こえていない
風であった。ガンファは微笑むと、出来るだけベッドをきしませな
いように注意しながら立ち上がり、セトを横たえさせた。
﹁ゆっくりお休み﹂ガンファはしばらくセトを見守っていたが、セ
トがやがて安らかな寝息をたて始めるのを確認すると、話し始めた
ときよりもずっと深く息を吐いた。こんなに長くしゃべったのは初
めてかもしれない。
自分の気持ちがしっかりとセトに伝わったかどうかは分からなか
ったが、少なくとも、今セトはよく眠っているようだ。少しでも安
心してくれたのなら、今はそれでいい。
窓に布を掛けて日の光が強く入らないようにしてから、ガンファ
は静かに部屋を出た。
またユーフーリン様の薬草蔵へ入れてもらって、セトが目を覚ま
したときに飲ませるための薬草を探してこよう。セトが悪い夢を見
ることがないよう願いながら、ガンファは今自分が出来ることをし
ようと思った。
後悔は、明日を生きるための糧に。セトを励ますために口にした
言葉は、自分へ向けての言葉でもある。
鳴り響く鐘の音で、セトはゆっくりと目を覚ました。
室内が薄暗いのは、窓に本来はテーブルに掛けられていた布が掛
かっていて、即席のカーテンになっているからだった。窓からは微
風が入り込み、カーテンはそよそよと揺れて、明るい日差しが忍び
込むように差し込んでいる。
セトがベッドから起きあがってカーテンをはずすと、太陽はすで
に真昼の高さだった。今鳴り響いている鐘は、正午を示す﹃一日の
半分の鐘﹄だろう。
231
そうなるとセトが眠っていたのはおよそ二アルン︵約四時間︶ほ
どだったが、それでも朝方に比べればずっと体が軽い。セトはガン
ファが自分を寝かしつけてくれたことを思い出して、胸中で彼に感
謝をした。
自分が幼い頃、よくガンファの仕事場へ遊びに行って、ガンファ
が薬草を調合していてもおかまいなしに、その身体によじ登って遊
んでいたことを思い出す。そのころからガンファの身体は今と同じ
くらい大きくて、自分の身体は今よりもずっと小さかったから、そ
の背中を上って肩にのっかるだけで、小さなお山を登るくらいの感
覚だった。今から思えば、あれはガンファからすれば邪魔で仕方な
かっただろうが、ガンファはいやな顔ひとつせずセトに付き合って
くれた。やがて遊び疲れると、ガンファはその腕の中でセトを寝か
しつけてくれたのだった。
先ほどもガンファが肩を抱いていてくれたおかげだろうか、悪い
夢をひとつも見ることなく、セトはぐっすりと休むことが出来たの
だった。
カーテン代わりに使っていたテーブルクロスを元に戻すと、鐘が
鳴り終わった。それと入れ替わるようにして外から足音が聞こえて
くる。
現れたのはガンファだった。目玉がひとつきりのガンファは人間
に比べて表情を読みとりにくいが、今は心なしか神妙な顔つきをし
ている。
﹁セト、起きたのかい﹂
そう声をかけたガンファは、セトの表情が朝と比べてだいぶすっ
きりとしているのをみて安堵したが、すぐまた表情を引き締めた。
﹁シイカたちの消息が分かった。ユーフーリン様のところへ行こう﹂
執務室へ向かうと、今日はユーフーリンと思わしき人物が執務用
のテーブルについていた。正装した初老の男性だ。
﹁やあセト君、気分はどうだい﹂
232
初老の男性は立ち上がるとそうセトに声をかけた。部屋の角には
老小鬼の執事が控えているし、ガンファも何もいわない。やはりこ
の男性がユーフーリンなのだろう。今日はさすがにいたずらはしな
いようだ。
﹁大丈夫です﹂セトは返事をしたが、ユーフーリンは特に何もいわ
ず、テーブルを離れてセトたちに近づいてきた。
﹁やはり悪い予感が当たってしまったようだ﹂ユーフーリンは立派
な口ひげをひとつ撫でると、一枚の書面をセトに手渡した。﹁つい
先ほど、これが届けられてね﹂
セトが書面をみると、ずいぶんと難しい言葉が書き連ねられてい
た。セトは以前にグレンデルやガンファたちが教師をしてくれたお
かげで読み書きは一通り出来るが、それでも読むのにずいぶん苦労
した。ガンファに手伝ってもらいながら何とか読み解くと、いくつ
かの形式的な時候の挨拶の後に、こんな文章がつづられていた。
さて、貴卿におかれましては、
たいそう珍しい子鹿を手に入れられたとか。
当方も丁度美しい小鳥を二羽手に入れたばかりにございます。
め
是非一度互いに持ち寄って、愛で合うのはいかがでしょうか。
もしも貴卿が当方の小鳥を気に入られたならば、
子鹿と交換することもやぶさかではございません。
何とも回りくどい言い方だが、セトにも何とか意味は理解できた。
つまり、﹁珍しい子鹿﹂はセトのこと。二羽の﹁美しい小鳥﹂と
はマーチとシイカのこと。
233
要約すれば、マーチとシイカを引き替えにセトをよこせ、という
ことである。
どうにか読み終わったセトはひとつ息をついて書面をユーフーリ
ンに返した。
﹁まぁ、昨日彼女たちが戻らなかった時点で、予想できていた内容
ではある﹂ユーフーリンは口ひげを撫でながら言った。﹁だが少々
計算外だったのは、これがフェイ・トスカによる直筆で、正式な書
簡として届けられたということだ﹂
﹁どういうことですか?﹂セトが聞いた。
﹁つまり、フェイ・トスカは今このプリアンにいるということだ。
数日前には確かに本都に向かっているという話だったのだがね。そ
の段階で引き返したのだとしても、今この町にいるというのは早す
ぎる。だいたい、将軍が町に入ったのに私の耳に届かないというの
はおかしい﹂
﹁転移の魔法でしょうか?﹂今度はガンファが尋ねた。
﹁ほかには考えられない﹂ユーフーリンはつまらなさそうに言い放
った。﹁魔法を使うことは知っていたが、まさかこんな特殊で高度
な魔法を使えるとはね。情報戦は得意なつもりでいたが、どうやら
一杯食わされたようだ。・・・ただ、気になることがある﹂
﹁それは?﹂
﹁フェイ・トスカがどうしてそんなに急いで戻ってきたのか?とい
うことだ﹂ユーフーリンは考えごとをする仕草のまま姿を変えた。
今度はセトのみたことのない、ゴツゴツとやたら角張り、強ばった
皮膚を持つ魔族だ。
﹁転移の魔法が使えるようになったらそれは便利だろうと思って、
若い頃に勉強したことがあるが││。あれはかなり魔力を消耗する
らしい。長距離を移動したりしたときには、そのあと数日は簡単な
魔法を使うことも出来なくなるんだそうだ。おまけに精神集中の方
法が特殊で面倒で、一度試してみたんだがなんだかややこしいパズ
ルを延々解かされているような気分になってね。あれは私のような、
234
才能だけで魔法を使っているような人種には不向きなんだ。何しろ
私は昔、大魔法使い某がかけたとかいう五重の結界を軽く念じただ
けで瞬く間に破ってしまったというほど膨大な魔力を││﹂そのま
ま昔話に突入するかと思われたユーフーリンは、全く話についてい
けないという風のふたりをみて、なにを話そうとしていたのかをか
ろうじて思い出した。﹁あー、つまり。転移の魔法っていうのは簡
単に使える類のものじゃない。使用者の精神力的な面でね。それを
わざわざ使ってまで急いで戻ってきたってことは、彼にとってこと
を急がなければならないような、不測の事態が起きたと考えられる
ってことさ﹂
﹁それは・・・セトを捕らえ損ねたからではないですか?﹂少し思
案した後、ガンファがそう答えた。
隠れ里から引き渡されようとするセトを助けたとき、フェイ・ト
スカはその場にいなかった。あの時点ですでに本都へ向かっていた
のなら、確保失敗の報を受けて急いで戻ってきたというのは自然な
発想に思えた。だが、ユーフーリンは首を振った。
﹁それなら、そもそも本都へ出向かないだろう。人間の王族を見つ
けだし殺害することは、魔王グローングが直々にフェイ・トスカへ
下した命令だ。それが達成間近な今の状況なら、たとえ魔王の召還
といえども後回しにしたところで大した罰を受けることもあるまい﹂
いや待てよ、とユーフーリンは首をひねった。﹁││そもそも、そ
んなタイミングで魔王がフェイ・トスカを召還しようとしたこと自
体が不自然だ。状況は当然、魔王の耳にも入っていたはずなのだか
らな。ということは││﹂ユーフーリンは顎に手を当てて﹁考え中﹂
の姿勢をとった。それが癖なのか、ユーフーリンはその姿勢でひと
つうなるごとに首を傾げる向きを変えるのだが、そのたびに姿まで
変わるので、セトたちはそれが気になって仕方なかった。
﹁そうか、成る程。合点がいったぞ!﹂セトの胸ほどの背丈の少女
の姿││獣のような耳が頭から生えている││になったとき、ユー
フーリンは閉じていた目を見開いてぽんと手を打った。よほど自信
235
がある推理なのか、大きな眼をいっぱいに見開いて嬉々として語り
始めた。
﹁フェイ・トスカはおそらく、魔王に命令を撤回されたのだ。ある
いは、じきされるのだろう。命令が下されてからもう一〇年以上が
経つし、将軍とはいえ人間が我が物顔で領内に入ってくるのを嫌う
魔族は多い。等々、理由はいろいろ考えられるが・・・まあそれは
いい。フェイ・トスカはこの仕事をなんとかやり遂げたいのだろう。
だが命令の撤回が広まってしまえば自由に動くことは出来なくなる。
もちろん我がユーフーリン領で勝手を働くこともな。だからその前
になんとかしてしまおうと、急いで戻ってきたのだ﹂これは正解に
違いない、とユーフーリンはどうだと言わんばかりにうなずいてみ
せたが、今は少女の姿なので少々説得力に欠けるように感じられた。
セトからもガンファからも、はっきりとした同意が得られなかっ
たので、ユーフーリンは不満げに口をとがらせた後、また姿を歪ま
せた。今日最初にみたのに近い、初老の男性の姿だ。容貌は違うが、
雰囲気は似ている。実年齢はともかく、ユーフーリンの精神はこれ
くらいの年齢性別が近いのかもしれない。
﹁となれば、この手紙への対処は、簡単だ﹂ユーフーリンはやれや
れとばかりに両手を広げて、言った。﹁無視してしまおう﹂
﹁えっ!?﹂セトが飛び上がるようにして声を上げた。
﹁もちろん正式な書面だから、返事は書くがね。子鹿など知りませ
ん、小鳥にも興味はありませんと書いてしまえばそれきりだ。フェ
イ・トスカが直接乗り込んでくるかも知らんが、時間稼ぎくらいは
どうとでもなる。そうできるように権力を捨てないでいたのだから
ね。その間に先ほどの推理の裏をとって││﹂
﹁そんなこと出来ません!﹂セトが叫んだ。その声には、ここへ来
てからとんと見せることがなかった、強い怒りの感情が混じってい
た。
この方は、マーチとシイカの身を案じてくれていたのではなかっ
たのか。わざわざ人をやって行方を調べてまでくれたというのに、
236
無視してしまおうとはどういうことか。
﹁マーチとシイカを見捨てるなんて、僕には出来ない﹂
﹁だが、この書面の内容に応じると言うことは﹂ユーフーリンは冷
ややかにセトを見た。﹁彼女たちと引き替えに君の命を差し出すと
いうことだ。君はそれでもいいのか?﹂
﹁かまいません﹂即答だった。﹁マーチたちを見殺しにするくらい
なら││﹂
﹁捨て鉢になるのは感心しないな。それに、君は昨日自分自身で言
ったことを忘れているんじゃないか?﹂
﹁どういうことですか?﹂
﹁君の命を護るために、すでに多くの力が使われ、他者の命も失わ
れた。少なくともその労力分の価値を君は持っている。対して、囚
われているふたりにそこまでの価値はない。特に私からすれば、何
の価値もない﹂
﹁何の価値もないだなんて・・・!﹂たとえ本当にそう思っていた
としても、言い方というものがあるではないか。セトはユーフーリ
ンをにらみつけた。
﹁君は旧友からの大事な預かりものだ。そして昨日も言ったが、預
かるよう頼まれているのは君だけだ。私は約束を果たすために力を
使う。君が納得しないのなら、ことが収まるまで縛り付けて納屋の
奥にでも放り込んでおこう。なに、悲しみは時間が解決してくれる。
一〇〇〇年以上生きている私が言うのだから間違いない﹂
セトは言葉に詰まって唇を噛んだ。ユーフーリンは有無を言わせ
ない口振りだ。だがそのとき、助け船が入った。
﹁そんなことは、させません﹂大きな一歩でセトの前に身を乗り出
したのは、ガンファだ。
﹁ほう?﹂ユーフーリンは少々意外そうにガンファを見やった。﹁
君は反対しないと思っていた。彼の思うとおりにしたら、彼は間違
いなく命を落とすぞ﹂
﹁ユーフーリン様こそ、昨日おっしゃったことをお忘れです﹂不安
237
そうな面もちのセトの視線を感じながら、ガンファは続けた。﹁セ
トを本当の意味で生かすには、動機が必要です。あのふたりを見殺
しにすることは、セトから動機を奪ってしまうのと同じことです﹂
﹁なるほど。だが人質を助けて動機を得たとしても、それで命その
ものを失っては意味がない。君にはセト君の命を守る算段があるの
かね?﹂
﹁それは・・・﹂ガンファは口ごもった。だが、身を引くことはし
ない。
﹁やはり君たちが無茶をしないよう、しばらくどこかに閉じこめて
おく必要がありそうだ。無理矢理にでもね﹂
﹁ぼくを無理矢理どうにか出来るとお思いですか?﹂ガンファはひ
とつきりの大きな瞳でユーフーリンを見据え、彼に出来る精一杯の
強さでにらんだ。﹁セトを救い出したとき、戦い方を少し思い出し
たんです﹂
サイクロップス
その身体を覆う筋肉がにわかに盛り上がり、圧力を増す。セトが
思わず見上げた。
﹁ふむ。伝説にも名を刻む一つ目巨人が本気を出したらどうなるの
か、少し興味はあるが・・・。やめておこう。屋敷を壊されるのは
御免だ﹂
ユーフーリンは両手をあげて降参のポーズを取った。
﹁ところで、ひとつ質問があるんだが、いいかね?﹂
急に声のトーンを変えてそう聞かれて、ガンファもセトも戸惑っ
た。
﹁・・・なんでしょう﹂ガンファがそう答えた。
﹁さらわれたふたりのうち、シイカという子がいたが、あれはどう
いう生まれのものなのか知っているかね?﹂
声の調子も変わったが、聞かれた内容も唐突なものだった。ガン
ファとセトは目線だけ動かして互いを見やったが、その間もユーフ
ーリンは返事を待っているようだった。結局ガンファが答える。
﹁シイカは、二年ほど前に、グレンデル様がご自身の家に連れてこ
238
られた子供です。どこの生まれか、詳しくは存じません。身寄りも
いっさいなく、正確な歳も分かりません。ただグレンデル様は、連
れてこられたときに八つか九つくらいではないか、とおっしゃって
いましたので、今は十か十一くらいと思われます﹂
答えながらも、どうして突然ユーフーリンがこんなことを聞くの
か訝しんだが、ユーフーリンは聞くだけ聞くとまた思案顔になって
黙ってしまった。また姿が変わる。今度はこれ以上ないというほど
丸く太った中年の男性だ。あまりにも太っている││身長はセトく
らいなのに、横幅でいったらガンファよりも太い││ので、セトな
どはこういう魔族がいるのか、と思ってしまった。
﹁わかった﹂ユーフーリンは思案をやめると、言った。﹁君たちの
希望通りにしよう﹂
﹁ユーフーリン様・・・ありがとうございます﹂どうしてユーフー
リンが自己の主張を引っ込めたのかは分からなかったが、とにかく
セトは礼を言って頭を下げた。ガンファも息を吐き、張りつめてい
た緊張が少し和らいだ。
﹁だが、むざむざと旧友との約束を反故にするわけにはいかない。
彼女たちを救い、なおかつ君の生命をも救う道を探してみせようじ
ゃないか。策を練ろう。ガンファ君、手伝ってくれたまえ﹂
ガンファはもちろんとばかりに大きくうなずいた。
﹁向こうは急いているから、そんなに余裕はないだろう。だがそれ
でも、実際の受け渡しには数日、間が空くことになる。セト君、君
はその間しっかり食べ、しっかり眠り、体調を万全にしておくんだ。
いいね﹂
セトもうなずいた。その瞳にはここへ来て以来彼が見せたどんな
瞳よりも力がこもっている。
﹁他人のために││それも、十分に、生きる動機になりうる﹂ユー
フーリンはその瞳を見ながらいった。
﹁だが、忘れてはいけない。次に彼女たちの顔を見るとき、そのと
きには必ずフェイ・トスカもそこにいる。それがどういうことか、
239
よく考えておくことだね﹂
そして、三日が経った。
今日、ユーフーリンとフェイ・トスカは一緒に狩りをするという
名目で町の外にあるアニスの丘と呼ばれる丘で落ち合うことになっ
ている。
もちろん、狩りは口実にすぎない。実際には、セトと人質になっ
ているマーチ、シイカを互いに引き渡すために落ち合うのだ。
セトは滞在中寝起きしていた部屋で、今日のためにあてがわれた
服に着替えた。糊が利いた白いシャツに、タイツのようにぴっちり
とした黒のズボン。セトはボタンで前を留める服など初めて着たの
で、少々手間取りながら着替えた。いつもならこういうときは、ガ
ンファがかいがいしく世話を焼いてセトを手伝ってくれるのだが、
今日はガンファはいない。彼は別行動ということらしく、まだ外が
薄暗いうちにひとりで屋敷を出ていった。
ユーフーリンとガンファが今日のためにどんな作戦を考えている
のか、セトは詳しく聞かされていない。﹁君は君の役割だけ果たせ
ばいい﹂とユーフーリンからは言われていた。
この三日間、セトはユーフーリンに言われたとおり、自身の状態
を回復させることにつとめた。しっかりと睡眠をとり、食事をし、
屋敷の中で出来うる限り運動をした。眠れば悪夢を見ることはあっ
たし、屋敷で供される食事は香辛料が強くて味がきつく、正直に言
ってセトにはあまり口に合わなかったが、それがマーチとシイカを
救い、自らも生きるために必要なのだと言われれば迷うことはなか
った。
靴も、セトからすれば編みこみサンダルの方が履きなれていてよ
いのだが、用意されたのは革製のしっかりとしたものだった。履い
てみると、意外と違和感はない。つま先でとんとんと床をたたいて
みる。なるほど、これだけしっかりしていれば、間違って小石を蹴
っとばしたり踏みつけたりしてしまっても、何のダメージもなさそ
240
うだ。
最後に腰帯を締めて、そこに剣を差した。これだけは、グレンデ
ルから渡された黒鞘の長剣だ。まだ完全に使いこなすとまでにはい
かないが、渡された当初からするとだいぶ身体になじんできた。
もともと少なかった私物はあの隠れ里にすべておいてきてしまっ
た。だから、今ではこの剣が唯一のセトの所持品である。
﹁ご準備はお済みになりましたか﹂まるでセトが着替え終わるのを
待ちかまえていたかのように、入り口から老小鬼の執事が姿を現し
た。
執事は無遠慮な目線で着慣れない服に袖を通したセトを上から下
まで眺め回したが、まあいいでしょう、と大しておもしろくもなさ
そうに言った。
﹁ユーフーリン様は先にお待ちでございます。ご案内いたしますの
で、こちらへ﹂
執事について歩いていくと、屋敷の門から少し離れたところに獣
車が停められていた。以前ガンファが用意したような、荷車を改造
したような代物ではない。立派な拵えの客車を前後二頭ずつ、合計
四等のラグスが引く高級品だ。領主にふさわしい乗り物といえるだ
ろう。
セトたちが近づくと、客車の扉が開いた。中から胸元が大胆に開
いた真紅のドレスに身を包んだ若い女性が姿をのぞかせる。
﹁どうやら準備はできたようだね﹂
﹁はい、ユーフーリン様﹂
セトが特に驚く様子もなくそう返したので、ドレスの女性││ユ
ーフーリンは、面白くなさそうに頬を膨らませた。
とはいえセトからすれば、ユーフーリンがどんな姿をしているか
はわからなくとも、誰がユーフーリンなのかは簡単にわかる。ユー
フーリンは初めてあったときに見せたような、屋敷の誰かに化ける
ことは仕事に支障がでるということで禁じられているらしい︵あの
あと執事にこっぴどく叱られた、と招待された食事の席で語ってい
241
た︶。つまり普段屋敷にいない人物、すなわちユーフーリンなのだ。
ましてこの屋敷にいるのは魔族ばかりで、いまはシイカもマーチも
ここにはいないのだから、セト以外の人間はそれがどんな人間であ
れユーフーリンなのだった。
﹁この数日ですっかり慣れられてしまったようだ﹂ユーフーリンは
そう言うと、整った髭を持つ老紳士の姿になった。そして改めてセ
トの姿を眺めて、
﹁馬子にも衣装だな﹂とだけ言った。
セトは言葉の意味が分からず、目をぱちくりとさせるばかりだっ
たが。
セトが客車に乗り込むと、獣車は走り出した。
壮麗な獣車を見れば、領民からはそれだけでユーフーリンが乗っ
ていることはわかるだろうが、人間であるセトまで乗っていること
を知られるわけにはいかない。そのため客車の窓は板が嵌められて
外の様子はわからなくなっていた。だが天井の採光窓から光が入っ
てくるので、室内は明るい。
車が走って幾らか経った頃、ユーフーリンが口を開いた。
﹁今日君は、フェイ・トスカと顔を合わせることになる﹂
ユーフーリンの顔には何の感情もない。ただ、セトの顔を見て言
葉を続ける。
﹁相手は君の父親だが、ためらわずに君を殺そうとするだろう。殺
そうと向かってくる相手には﹂一瞬だけ、言葉を切った。
﹁君もあの男を殺すつもりにならなければならない﹂
セトは神妙な表情を変えなかった。
﹁覚悟は出来ているかな﹂
﹁はい﹂セトはユーフーリンの目を見たまま、しっかりと答えるこ
とが出来た。﹁僕はやっぱり、まだ死ねない﹂
﹁ふむ﹂ユーフーリンは無表情のまま、さらに問いを重ねた。﹁な
ぜそう思うようになった﹂
242
﹁じいちゃんが昔言っていたことを思い出しました。他人から何か
をもらったら、貰いっぱなしではいけない。自分に出来ること、与
えられることのなかで、精一杯のお返しをしなくちゃいけないって﹂
セトはつかの間目線をユーフーリンからはずした。グレンデルの姿
を思い浮かべているのだろう。
﹁僕を生かそうと、たくさんのひとがいろんなものをくれました。
じいちゃんやガンファ、リタルド兄ちゃんにシイカ、マーチ、それ
にユーフーリン様も。僕は、まだ誰にも十分なお返しが出来ていま
せん。ここで死んでしまったら、なおさらです﹂セトはまた、ユー
フーリンを見た。その瞳に濁りはない。
﹁それに、マーチがかわいそうです﹂
﹁マーチ?あの怒って出ていってしまった方の娘か﹂
﹁そうです。もしマーチが助かっても、僕が死んでしまったら、マ
ーチはまた出ていってしまうかもしれません。そうしたら、彼女は
ひとりぼっちです。僕は何とか生き残って、マーチに魔族を憎む必
要なんかない、また一緒に暮らそうって説得しなければいけません﹂
﹁ふむ。それは結婚を申し込むということかね?﹂
ユーフーリンが少しだけ口の端を曲げた。からかうような口調で
そういうと、セトはちょっとびっくりしたようだった。
﹁あれ?そういうことになるのかな﹂そこまでは考えていなかった、
という風に首をひねる。
﹁まあいいさ。事がすんだ後の目標があるのはいいことだよ﹂ユー
フーリンははっきりと笑顔になって、セトの頭を軽くたたいた。
﹁君の覚悟のほどはわかった。私はそれを信じるとしよう﹂そう言
うと、長いすの上にごろりと横になった。﹁到着まではまだ時間が
ある。君も少し気を休めておけ﹂
︵生きていくには、十分な動機だ︶目を閉じて、ユーフーリンは考
える。︵だが、相手は歴戦の勇士だ。すべてがこちらの思い通りに
運んだとしても、最良の結果が得られる可能性は低い︶
だが、時間はもうない。分の悪い賭けとわかってはいても、下り
243
ることは出来ないのだ。
︵あとは私の推測が当たっていれば、まだ望みはあるのだが││︶
少年は自らの生きる道を見いだそうとしている。それが無駄にな
るのは見たくない。ユーフーリンは心からそう思った。
244
対決
五
﹁じきに到着いたします﹂
客車の外から、御者の声が聞こえて、セトはゆっくりと目を開い
た。獣車で揺られているうち、眠ってしまっていたようだ。
先に眠っていたはずのユーフーリンはすでに起きており、客車の
窓から外を見ていた。出発したとき嵌められていた板は外されてい
る。町の外に出て、セトのことをみられる心配がなくなったためだ
ろう。閉めきっていたときは少し蒸し暑かったが、今は窓から風が
入ってくるので心地よい。
座ったまま眠っていたので身体が固まってしまっている。セトが
少しでもほぐそうと身をよじると、胸元で鎖がちりりと音を立てた。
セトはユーフーリンが窓の外に気を取られているのを確認すると、
身につけたシャツの一番上のボタンを外し、首飾りを取り出した。
グレンデルから母の形見として手渡されたそれは、受け取って以来
本当に片時もはなさず身につけていたので、今では剣以上にその身
になじみ、身体の一部という感じさえする。
ただ、できる限り他人に見せないようにと言われていたので、こ
うして手にとって眺めることもこれまであまりしないようにしてい
た。
だが、これから向かう先で自分は命を落とすかもしれない。そう
考えたら、無性に手にとって見たくなったのだ。
細部まで丁寧に彫り込まれた銀細工の竜は、ずっとセトの胸のな
かにあったにも関わらず、こうして手にとって見るとわずかばかり
冷たく感じられた。台座にはめ込まれた深緑の宝石が、客車の天井
から差し込む光を受けてきらりと光った。
首飾りを手にしていると、これをセトに渡し、首につけてくれた
245
グレンデルと、自分をグレンデルに預けるときいっしょにこの首飾
りを置いていった顔も知らぬ母がことが頭に浮かぶ。
﹁シフォニア・・・お母さん﹂
グレンデルに一度だけ聞いた、母の名前をそっと口に出してみる。
口になじまないその名前は、セトにちょっとの気恥ずかしさと、そ
れでも甘酸っぱい暖かさを同時に与えた。
母がどんな人物だったのかは知らない。だが、彼女もまた、セト
に生きていてほしいと願っていたひとりであるという事は知ってい
る。
きっとグレンデルと同じように、優しくて暖かい母であったに違
いない。でも暖かいという意味でいったら、じいちゃんよりもガン
ファの方がお母さんらしいかな。
セトは口の中で笑った。肩の強ばりがとけ、身体の力が適度に抜
けていった。
セトが首飾りを元に戻し、シャツのボタンを元通りに留め終える
と、獣車が止まった。やがて客車の扉が開かれ、まずユーフーリン、
ついでセトが降ろされた。
アニスの丘は、見晴らしのよい場所であった。斜面は緩やかで一
面草原になっており、裾野には森が広がっている。丘の頂上には即
席の陣が張られており、ユーフーリンとセトはその中でフェイ・ト
スカを待つことになった。
﹁今日、フェイ・トスカと狩りをするというのは建前だが、実際、
ここは私が狩りに出向くときはよく拠点に使うのだ。丘の下の森に
は鳥やら獣やらがたくさんいるからな。私は魔法だけでなく、弓矢
の腕前もたいしたものだぞ﹂ユーフーリンはいすに腰掛けたまま弓
を引き矢を放つ仕草をしてみせた。その姿を見て思い出したかのよ
うに、セトが言った。
﹁弓矢なら、マーチもうまいですよ﹂
﹁ふむ﹂
﹁本人は、森で生きるには必要だから覚えただけで、別に好きでも
246
得意でもない、って言ってましたけど。でも、僕は何度も助けて貰
いました﹂実際、初めて出会ったときなど、彼女の矢が今まさに襲
いかからんとする子鬼を射抜いていなければ、セトは毒など関係な
くその場で首を掻き切られて死んでいただろう。
﹁恩義があるのだな﹂
﹁はい。ですから、あの・・・ありがとうございます、ユーフーリ
ン様﹂セトはユーフーリンに向かって頭を下げた。
﹁ふむ?﹂
﹁僕を納屋に閉じこめたりせず、ここへ連れてきてくださって。シ
イカは僕にとっては妹だから、大事なのは当たり前だけど、マーチ
は命の恩人なんです。それも一度じゃない。僕が眠らされて連れて
いかれそうになったときも助けにきてくれました。マーチは、里に
は家族も友人も、婚約者だっていたんです。それなのに、それを全
部捨てて、僕を助けにきてくれた。それだけのことをしてくれた人
を見捨てることなんて、絶対にできなかった﹂顔を上げたセトは、
決意に満ちあふれた表情をしていた。数日前、リタルドの死に打ち
のめされて、生きていていいのかと弱音を吐いた少年の面影はどこ
にもない。
﹁彼女を救うために、僕も命を懸けます﹂
﹁懸けるのはいいが、捨てるのはなしだよ、セト君。そこまでして
君を助けようとしたのなら、君の言っていたとおり、自分の命が助
かっても君がそうでなかったら、彼女はとても悲しむだろうからね﹂
﹁はい﹂
セトの返事を聞いたユーフーリンはうなずき、立ち上がった。そ
の姿が歪み、すらりとした長身の中年男性の姿になった。帽子に手
袋、腰帯には儀礼用の細剣を吊り下げた正装姿である。
﹁外が騒がしくなってきた。どうやらお客様のお着きのようだ﹂待
っていれば誰かが呼びに来るだろうが、こちらの準備は整っている。
セトも立ち上がり、腰帯に差した剣の具合を確かめる。
﹁これからの数刻で、君の未来が決まる。さあ行くぞ、準備はいい
247
かい?﹂
﹁はい!﹂
セトは元気よく応え、ユーフーリンの後に続いて陣を仕切る幕を
くぐった。
よく晴れた空高くに太陽がある。
五の月も半ばにさしかかり、春を満喫した草木たちの中でも気の
早いものたちは花を落とし、夏の準備に忙しい。石に囲まれた室内
にいると季節の移り変わりはわかりづらいが、こうして草原に立て
ば、草の香りは一段と濃くなっているのがわかった。
いつもなら、こんな日は仕事は忘れてひなたぼっこでも、とのた
まってただでさえしわくちゃな顔の老執事に渋面を作らせては喜ぶ
ユーフーリンも、今日ばかりは張りつめた表情を崩さない。
今日、ひとりの少年の未来が決まるのだから。
だが、そのことがすなわちこの世界の未来の行く末にもつながっ
ていることを知っているのは、いまここに集ったものたちのなかで
もひと握りに過ぎなかった。
﹁遠いところをよくお越しくださいました、将軍殿﹂
優雅に貴族式の挨拶をするユーフーリンの目線の先に、フェイ・
トスカがいる。
長年その存在を気にすることすらせずに過ごしてきたセトは、ユ
ーフーリンの三歩後ろに立って複雑な思いでその姿を見つめていた。
︵あれが、お父さん︶
そう思いながら見てみても、ちっとも現実感がわかない。
フェイ・トスカが何歳の時に自分が生まれたのかセトは知らなか
ったが、来年一五になる自分の父親ならふつうに考えて三〇の半ば
といったところであろう、それならばそろそろ中年といわれる年代
である。だが、精悍な立ち姿のフェイ・トスカはまだまだ若さに溢
れており、あまり年相応には見えない。そのこともセトに抱く印象
248
に影響しているのかもしれなかった。
公式の席ではないとはいえ、そうした場の正装に近い格好のユー
フーリンに対して、フェイ・トスカはいつものように暗闇色の重鎧
をまとい、背中に剣を担いでいる。だが、さすがに配下の魔族を近
くにたたせることはせず、ひとりである。斜面を下りた先に、フェ
イが乗ってきた獣車ともう一台獣車があり、数名の魔族が控えてい
るのが見えた。
フェイ・トスカはユーフーリンに型どおりの礼を返すと、視線を
動かした。先ほどから彼のことを凝視していたセトと目が合う。
セトはあわててフェイ・トスカから目をそらしたが、フェイの方
はセトから目線を外さなかった。
﹁それが、子鹿ですか﹂とくに感慨もなく、ただ確認する口調だっ
た。
﹁そうです。若々しく、生命力に溢れている﹂ユーフーリンはセト
を呼び寄せて横に並ばせると、その背中をたたきながら言った。﹁
どうです、まるであなたのようだ﹂
軽い揺さぶりにも、フェイ・トスカは少しも動揺する気配がない。
﹁では、こちらも小鳥をお見せしましょう﹂
フェイがそう言って背後へ合図をすると、獣車のそばで控えてい
た魔族││実際には魔族ではなく人間のシェンドがうなずいた。二
台の獣車のうち、より豪奢な一台はフェイが乗ってきたものであろ
う。質素だが堅牢な造りのもう一台にフェイの配下の魔族が近づき、
その扉を開けた。ややあって、ふたりの人物が降りてくる。セトの
場所からすると遠いので、はっきりと確認することはできないが、
そのふたりが誰であるのかはすぐにわかった。
﹁シイカ!マーチ!﹂セトは叫ばずにはいられなかった。
ふたりは魔族に先導されてこちらへ向かってくる。時折よろめき
そうになるのを見てセトは心配したが、どうやらそれはふたりとも
後ろ手に縛られているからのようだった。
やがてフェイ・トスカからもセトたちからも、十ログ︵約七メー
249
トル︶ほど離れたところで先導の魔族は足を止め、マーチとシイカ
もそれに従わされた。先ほどから一声も発しないのでよく見れば、
縛られているだけでなく猿ぐつわまでかまされている。これにはユ
ーフーリンが眉をひそめた。
﹁せっかくの美しい小鳥にそんなことをしては、鳴き声が聞けない
ではないですか﹂
﹁ご自身のお屋敷に連れ帰ってから、思う存分お聞きください﹂ユ
ーフーリンが魔族のなかでもそれなりに地位が高い存在だからか、
フェイ・トスカも丁寧な物腰で接している。
﹁では、交換していただけますか﹂フェイ・トスカのその言葉を聞
いてセトの肩に力が入ったが、ユーフーリンがその肩に優しく手を
置いた。
﹁その前に﹂ユーフーリンの目つきが、周りにはそれとわからない
ほどに、わずかに厳しさを増した。﹁なぜ、それほどまでにしてあ
なたがこの子鹿をほしがるのか、聞かせてはいただけませんか?﹂
フェイは注意深く見なければわからないほどに少しだけ、顔をし
かめた。
﹁耳の聡いあなたが、知らぬはずはありますまい。その子鹿は魔王
様のお探しものだ。私は命に従って、長い時をかけてそれを探して
いたのです﹂
﹁そればかりでは、ありますまい﹂ユーフーリンは、慎重にカード
を切った。フェイ・トスカの真意を知るために。﹁現に私が聞いた
ところでは、魔王様はもはや子鹿に興味を失われたとか﹂
フェイ・トスカから書面が届いてから今日までの間に、ユーフー
リンは情報網をフルに使って自らの立てた推理の裏をとっていた。
その結果、自らの推理にほぼ間違いがなかったことを確かめていた
のである。
だが、フェイ・トスカは意外そうに目を見開いたものの、とくに
動揺する気配は見せなかった。
﹁・・・本当に、お聡い耳をお持ちだ﹂そう言って口の端をつり上
250
げる。笑っているのに、その身から言い表せぬ圧迫を感じて、セト
の身がすくんだ。
﹁ならば、この宝珠のこともご存じですかな﹂フェイ・トスカは腰
袋を探ると、暗く沈んだ輝きを放つ宝珠を取り出した。その中に蓄
えられた強大な魔力を感じて、ユーフーリンの顔が自然とゆがむ。
﹁﹃太陽の宝珠﹄・・・その力を使えば、天界へ昇り、神とまみえ
ることができるといわれる伝説の宝珠﹂
﹁ご名答、さすがだ。だが、その伝説の細部までは知らぬでしょう。
私は人間の代表として古文書の解読に参加したので、この件に関し
てはあなたよりも知識がある。幾らか教えて差し上げよう。まず、
宝珠には最初から天界へと昇る力があるわけではない。宝珠に力を
ためるには、人か魔族、いずれか一方の高貴なる血筋││人間でい
えば王族の血液が必要になる。それもひとり残らず、死に際の血を
集めなければいけない。その血を宝珠に吸わせることによって、初
めて宝珠は力を発揮することができる﹂フェイ・トスカの表情は最
初にユーフーリンと向き合ったときのような取り繕った微笑みがす
っかり消え、陶酔しているかのような深い笑みに変わっていきつつ
あった。
﹁力を蓄えた宝珠を祭壇に掲げ、月の光を浴びせることで、天界へ
の道が開かれる。││ここで、重要なことがある﹂自分の言葉に酔
うようにして話していたフェイ・トスカは一度言葉を切り、ユーフ
ーリンを見た。
﹁重要なこと?﹂ユーフーリンが聞くと、フェイ・トスカはしたり
顔でうなずいた。
﹁天界への道を昇れるのは││魔王か、勇者のみ﹂
﹁魔王か、勇者﹂ユーフーリンの傍らでセトはいまひとつよくわか
らないといった表情を浮かべていたが、ユーフーリンはそれでフェ
イ・トスカの真意を悟ったようだった。
﹁つまり、天界へ昇る資格を持つものは、いまこの世にふたりいる。
魔王グローングか、勇者フェイ・トスカ││この俺だ﹂
251
﹁ふむ、なるほどな。魔王様のために集めたと見せかけて、いざ用
意が整えば己のためにその力を使うという算段だったわけか﹂
ユーフーリンの言葉に、フェイ・トスカは愉快そうに笑ってうな
ずいて見せた。
﹁戦争が終わったのに勇者と魔王がどっちも生きているなんて、さ
すがの神様も考えていなかったというわけだ。気まぐれな魔王が自
分で蒔いた種だよ﹂
﹁神に願って、魔族を異世界へ追い払うのか﹂
﹁それじゃ意味がない。魔族を倒すのは人間だ﹂それは意外な否定
だった。
﹁それならば、神になにを願う?﹂
﹁リセットだ﹂
フェイ・トスカの答えは、知識が深く頭の回転が速いユーフーリ
ンからしてもすぐには理解できないものであった。
﹁俺はかつて魔王に戦いを挑み、敗れた。だがそれは、俺の力が魔
王に劣っていたからじゃない。魔王はインチキをしていたんだ。ど
んな決定的な敗北をも、一度に限ってはすべてご破算にする特別な
加護を得ていたことを、俺は後になって知った。それさえなければ
あの時、破邪の剣をグローングの胸に突き立てたあの時で全ては終
わっていたんだ﹂
フェイ・トスカはいつしかその身の内に溜め込んだ感情を隠そう
ともしなくなっていた。激しい怒り、さもなくば憎しみか。セトは
額に浮かんだ汗を拭った。炎のように渦巻く激情にさらされて、お
尻のあたりに力を入れていなければ自然と後退ってしまいそうだっ
た。
﹁だが、手品の種を知っていれば問題はない。一度殺してだめなら
ば、二度殺せばいいのだからな。俺は神に願い、時間を巻き戻す。
この記憶だけを留めて、魔王との決戦をもう一度やり直すのさ﹂
﹁そんなことが││﹂できるのか、と問いかけて、ユーフーリンは
言葉を止めた。神はこの世界の創造主であり、破壊神にもなりうる
252
と言われている。創ることも壊すこともできるのだから、元に戻す
ことだってできるのだろう。
﹁だから、セト、といったか。俺の息子よ﹂突然フェイ・トスカか
ら目線をあわせられて、セトはぎくりとした。
﹁安心して俺に斬られろ。時が戻り、魔王を倒したならば、産まれ
てくる子供にもう一度その名を付けてやる。おまえの人生もやり直
しになるだけだ。異形の怪物に囲まれて貧しい暮らしをするのでは
なく、今度こそ王の一族として宮廷での暮らしを送ることができる﹂
父親から初めて息子へ向かって投げかけられた言葉は、しかしセ
トには何の感動も得られないものであった。
﹁僕は﹂セトは、声が震えてしまわないように精一杯気を張って、
フェイ・トスカに向かって声を上げた。﹁あなたの言っていること
はよくわからない。だけど、僕は今の生活が貧しいなんて思わない。
宮廷で暮らしたいなんて考えない。僕が今考えているのは、ガンフ
ァや、シイカや、マーチと一緒にこれからも生きていくことだけだ
!﹂力一杯、そう言い切った。
だが、そんなセトの決意もフェイ・トスカからすればなんの意味
もないかのようであった。
﹁そうかい﹂フェイはセトに目線を合わせたまま、右手を背中に担
いだ剣の柄へと動かした。﹁どうでもいいさ。もう一度生まれたと
きには忘れてるんだからな﹂そう言うと、剣を抜き放った。まだ頂
点を過ぎてはいない太陽の光を反射して、反り返った刀身が鈍い輝
きを放つ。
セトも剣を抜いた。両刃の直刀がフェイ・トスカのそれと同じよ
うに光を受けてひらめいた。
﹁抵抗する気か。だが、構えを見るだけでもまだまだ三流だな。俺
相手にどうにかできると思うのか﹂せせら笑うかのようなフェイの
言葉に、ユーフーリンが反論した。
﹁あまり甘くみない方がいい。何しろあなたの息子だ﹂ユーフーリ
ンはそう言いながら自身の姿をゆがませ、筋骨隆々の大男になって
253
みせた。両手に手斧を持っている。﹁それに、あなたの計画を聞い
た以上、私もなにもしないわけにはいかない﹂
﹁好きにしろ、サルマネ野郎が﹂
﹁それは私に対する最高級の侮蔑の言葉だ。では、好きにさせても
らおう!﹂ユーフーリンは吼えると、手斧を交差した構えでフェイ・
トスカに向かって突進した。
フェイはその動きを悠然と待ちかまえる││だが、そのとき別の
ところでも動きがあった。
フェイの左手後方およそ二〇ログ︵約一四メートル︶││後ろ手
に縛られたままのマーチとシイカのいる近く││の地点の土が突如
盛り上がり、中から猛烈な勢いで飛び出してきたものがあった。
飛び出したのはガンファだった。彼はあらかじめこの場所に潜ん
で息を殺し、奇襲のタイミングを探っていたのである。
驚異的な身体能力を持つガンファは、ひと飛びで一〇ログほどの
距離を詰め、フェイ・トスカと自身のちょうど中間ほどの位置にい
たマーチ、シイカのところまでたどり着いた。そして、彼女たちを
そこへ先導し、そのまま見張っていた魔族を目一杯殴りとばした。
魔族は事態を把握する暇もなく吹き飛び、絶命した。
﹁走って!﹂マーチとシイカも驚いて目を丸くしていたが、説明し
てやる余裕はない。ガンファは叫ぶようにそう言うと、フェイ・ト
スカへと向かっていった。
フェイ・トスカはすでにユーフーリンと斬り結んでいた。二本の
手斧を軽々振り回すユーフーリンに対し、フェイは防戦に徹してい
る。端から見ればユーフーリンが圧倒しているかにも見えるが、実
際には派手に斧をふるうユーフーリンに対してフェイは最小限の動
きで受け流しており、フェイの技量が上回っていることがわかる。
しかし、そこへガンファが突っ込んでくると、さすがにフェイの
表情から余裕が消えた。その巨体は武器を必要とせず、身体全体が
凶器となる。
﹁ちっ﹂フェイは舌打ちすると、ガンファの拳をかわして一歩退い
254
た。囲まれるのは危険すぎる。
セトは乱戦には加わらず、三人から少し離れて戦局をうかがって
いた。ユーフーリンから言われていたのは、﹁勝機を待て﹂という
こと。ガンファとユーフーリンが隙をつくるのを辛抱強く待ち、そ
れを逃さないことだった。
丘を下りたところにはフェイ・トスカの配下が数人控えているが、
加勢に向かってくる気配はなかった。半端な力量では無理に乱戦に
加わっても足手まといになるからだろうか。さらに風向きも丘の上
から下に向かって吹き下ろすようになっており、弓矢での援護も出
来ないだろう。ここまではユーフーリンの戦略通りといえた。
ガンファが拳を振り下ろすと、フェイは落ち着いた動作でそれを
かわすが、そこへすかさずユーフーリンが迫る。ガンファの巨体を
隠れ蓑にして、フェイの死角をついて手斧をふるうが、フェイは的
確にその動作を読んで攻撃をしのいでいく。だが、フェイはなかな
か攻撃に転じることが出来ない。二対一のうえ、相手はともに強力
な魔族だ。長期戦はフェイにとって好ましくなかった。
またガンファが向かってくる。フェイは強引な手段にでた。魔法
の力で筋力を瞬間的に増強すると、剣の腹でガンファの拳を受け止
めたのだ。まさか受け止められるとは思っていなかったガンファは
動きを止めてしまった。
そこへ、背後からユーフーリンが迫る。だが、ガンファとの連携
がとれていない分、フェイは余裕を持ってその攻撃をかわした。そ
して、魔法の力が残っている脚で強力な蹴りをユーフーリンに見舞
った。
ユーフーリンが吹き飛び、ガンファと一対一になる。とはいえ、
フェイのねらいはそもそもガンファではない。間合いをあけたら目
標であるセトに向かっていかれると考えたガンファは、フェイ・ト
スカに肉薄し続けた。だが、身体能力に頼った動きしかできないガ
ンファではフェイを抑え続けることは難しい。フェイにあしらわれ、
背中を向けてしまったガンファはその背を撫で斬りにされた。
255
﹁ぐぅっ・・・!﹂致命傷というほど深い傷ではないものの、十分
な動きを取ることは難しくなる。背中から伝わる痛みと、不覚をと
った悔しさでガンファはうめいた。
﹁このおぉっ!﹂そこへ、幼さを残す声が響いた。セトが突っ込ん
できたのだ。
セトは身を沈め、最短距離でフェイへと迫る。しかしそのタイミ
ングは絶妙とは言い難かった。背後からではあったが、フェイは十
分その動きに対応することが出来た。
何の工夫もない突進に、フェイも難しいことをする必要はなにも
なかった。振り向きざまに片手で剣を振りあげる、それだけでよか
った。
反り返った剣の刃が、正しくセトの首をとらえる。
そして、剣が振り抜かれ、セトの首が高く宙を舞った。
あまりのあっけなさに、フェイが息を吐こうとした││その瞬間。
﹁残念、ハズレだ!﹂セトの声で、首が叫んだ。
フェイの目前で力を失って倒れようとしていたセトの身体と、宙
を舞うその首が、突如歪む。
斬られたのは、セトの姿をしたユーフーリンだった。首を切られ
ても全くダメージはないらしく、胴体は牛に、首からうえは鳥へと
姿を変えて、それぞれでたらめにフェイから離れていく。
フェイの背筋を悪寒が走った。それはフェイがこの日初めて見せ
た隙だった。
剣を構え直そうとしたが、ガンファがそれを許さなかった。一気
に肉薄し剣を脇で挟み込んでしまう。フェイの動きが止まった。
そこへ、今度こそセトが、剣を構えて突進してくる。フェイ・ト
スカの首にねらいを定め、長剣を下に構えて振り抜く算段だ。
﹁うおおおっ!﹂
セトの口から気合いが迸った。
ガンファとユーフーリンがつくってくれた千載一遇の好機。絶対
256
に逃すわけにはいかない。
相手は鎧をつけているから、胴体はねらえない。︵先ほどまさに
フェイ・トスカがそうしてみせたように︶首を跳ね飛ばす。
一撃で決めなければいけない。セトはそのことだけに集中する。
その瞬間は、これまで思い悩んだことも、背後で見守っているマ
ーチとシイカのことも、全て忘れた。
視界も狭くなり、フェイの首筋、斬りつけるポイントだけが映し
出される。
あとはそこへむけて、構えた剣を振り抜くのみだ。
全てうまくいった。最高の形だ。ユーフーリンは自らの描いた戦
略を自画自賛した。
だが││。
﹁こざかしいんだよ!﹂フェイ・トスカが吼えた。
ガンファに抑えられた剣の柄を握ったままの左手から電流が走っ
た。瞬時に生み出された小さな魔法は、ガンファへと伝わった。
電流はガンファを焼いたわけではない。小さな刺激を与えただけ
だ。だが、絶妙に神経を刺激されたガンファは、しびれたようにな
って剣を挟んだ脇の力を緩めてしまった。
ガンファの脇から剣が抜けると、あとはつむじ風がうなるように
して、フェイの身体が回転した。
セトはその動きをほとんど知覚できなかった。ただ気がついたと
きには、振り抜いたはずの剣は自らの手に収まっていなかった。
フェイ・トスカによって跳ね上げられたセトの長剣は、きりもみ
しながら飛んでセトの背後に落ちた。
剣を拾いにいかなきゃ。
そのときセトに考えることが出来たのは、ただそれだけ。
257
次にはもう、どん、という衝撃を胸に受けていた。
セトが視線を落とすと、フェイ・トスカの剣が深々とその胸に突
きたっていた。
痛みを感じることはなかった。
目に入ってきた、自分の胸に剣が刺さっているというその映像が
現実のものだと理解する暇もなく。
のどの奥からなにかが逆流してきて、セトは嘔吐した。
血を吐いたのだと知覚することは、もう出来なかった。
セトの身体から力が抜けるのを確認して、フェイ・トスカは剣を
引き抜いた。傷口から血が吹き出す。フェイは返り血を避けるどこ
ろか、その身を抱えるようにして受けた。フェイの腰回りがあっと
言う間に血に染まった。その腰に身につけた袋も血まみれになる。
袋の中には、﹃太陽の宝珠﹄が入っている。
この世に残った最後の人間の王族。
宝珠は袋の中で、存分にその血を吸っていく。
やがてフェイは、唐突におもちゃに飽きた子供のように、無造作
にセトを投げ捨てた。草原のうえに仰向けに転がされたセトは、も
う何の反応も示さない。
ガンファも、ユーフーリンも、シイカも、呆然とその場で動けず
にいる中、マーチだけがセトめがけて駆けだした。
縛られたままでこけつまろびつ、猿ぐつわのせいで叫ぶことも出
来ないマーチが涙顔でセトの元へたどり着いても、フェイ・トスカ
は見向きもしなかった。
腰袋から﹃太陽の宝珠﹄を取り出したフェイ・トスカは、満面に
笑みを浮かべて宝珠を掲げて見せた。
先ほど取り出したときは﹃太陽の宝珠﹄とは名ばかりの暗い闇の
光を放っていた宝珠は、今やその名に違わぬ黄金色の光芒に満たさ
258
れていた。
﹁ふ、ふふふ・・・はははは!﹂フェイの笑い声が、丘に響いた。
﹁まさしく古文書にあったとおりだ!これで準備は整った!﹂
そして、改めて周囲を見回して、言った。
﹁ご苦労だったな、おまえたち。あとはこいつを祭壇に捧げれば、
時間は巻き戻る。俺は次こそ必ず魔王を倒し、二度と魔族が世界を
支配するなどという、間違った世界は訪れないだろう。おまえたち
も死ぬわけではないが、こうしてともに集うことはもうない。何し
ろセトは王族だからな。亡骸は残しておいてやるから、せいぜい別
れを惜しむがいい﹂
ガンファはこの言葉に、命を捨ててフェイ・トスカに飛びかかろ
うとした。だが、身体が動かない。それはセトを失ったというショ
ックばかりではない。ユーフーリンが魔法でガンファを抑えている
のだ。
牛と鳥の姿から人のそれに戻ったユーフーリンは、硬い表情でフ
ェイ・トスカをにらんだまま、何も言わない。
フェイ・トスカはその場に背を向け、笑いながら悠然と丘を下り
ていく。
やがて笑い声が聞こえなくなった丘には、マーチの漏らすくぐも
った嗚咽がかすかに響くばかりだった。
259
彼女の覚悟
一
フェイ・トスカたちが去った後、アニスの丘には悲痛な沈黙が残
された。
自らの未来を勝ち得るために戦いを挑んだ少年││セトは、しか
し無惨にも敗れ去った。
幅広の剣で胸部をひと突きにされたセトは、もはや物言わぬ骸と
なって草地に横たわっている。その傍らで後ろ手に縛られたままの
マーチが涙を流していた。猿ぐつわをかまされているため声を上げ
ることは出来ず、言葉にならない嗚咽がその隙間から漏れ出るばか
りだ。
ガンファはそこからほど近いところで前かがみになっている。マ
ーチ同様に縛られ猿ぐつわをかまされたシイカと、普段に近い初老
の男性の姿となったユーフーリンが、今はセトから一番離れたとこ
ろに立っていた。
ガンファが中途半端な姿勢をしているのは、フェイ・トスカが去
る直前に飛びかかろうとしたところをユーフーリンの魔法によって
抑え込まれたからだった。フェイ・トスカの姿が完全に見えなくな
った今になって、ユーフーリンが魔法をとくと、ガンファはそのま
ま力無くひざを突いた。
いまし
ユーフーリンはどこからともなくナイフ取り出すと、まず隣に立
っているシイカの縛めを解いてやった。解放されたシイカは詰めて
いたものを吐き出すように、ひとつ大きな息を吐いたものの、その
場から動く気配はない。
ユーフーリンは無表情のまま動き、セトの傍らに座り込むマーチ
の縄と猿ぐつわもはずす。声を出せるようになっても、マーチはな
にも言葉にできず、嗚咽とうめき声を出すばかりだった。
260
﹁なぜ、僕を、止めたのですか﹂
低く押し殺したような声が聞こえて、ユーフーリンが首を巡らす
と、ガンファがユーフーリンをにらみつけていた。フェイ・トスカ
にぶつけられなかった怒りを、代わりにユーフーリンにぶつけよう
とばかりに歯を食いしばっている。
﹁あそこで襲いかかっても、返り討ちにあうだけだっただろう﹂
﹁それでもよかった!﹂ガンファは激昂した。﹁セトを守ってやれ
なかった。ならいっそ、一緒に死んだほうが・・・﹂
ひとつきりの大きな目玉から、大粒の涙があふれて落ちた。せめ
て死出の道行きをともにして、そこでもセトのそばにいてやれたら
よかったのに。
その様子を見て、ユーフーリンはガンファに近づくと、腰を屈め
てガンファと視線を同じくした。
﹁絶望するには、いささか早い﹂
﹁どういう・・・ことですか?﹂ガンファの視線が、かすかに上を
向く。
﹁私は、セト君を救うすべはまだあると考えている﹂
﹁セトを、救う?﹂ユーフーリンの言葉に、マーチが反応した。﹁
だって││だってセトは、もう、こんな、こんな風に・・・!﹂
マーチの前に横たわるセトは、目を見開いたまま絶命している。
吐血と胸からの出血でユーフーリンが用意した真新しい服もすっか
り血に染まっていた。
﹁落ち着きなさい。シイカ君、彼女を支えてやってくれ﹂
ユーフーリンに呼びかけられて、シイカは硬い表情のままでうな
ずき、マーチのそばへとやってきた。マーチはもうセトを直視でき
ないのか、シイカに背中をさすられると、彼女の胸に顔を埋めてま
た泣き始めた。
﹁セトを救うとは、どういうことですか?﹂ガンファが問うた。マ
ーチに比べれば、まだしも落ち着いている。﹁彼の魂を清めて││﹂
死後安らかに眠れるようにすることか、という意味にとったガン
261
ファだが、ユーフーリンはそれを否定した。
﹁そうではないよ。フェイ・トスカの言葉を覚えているかな?﹂こ
の後に及んでもまだいくらか余裕があるのか、ユーフーリンはもっ
て回った言い回しを崩さない。
・・・・・・・・・・
・・・・・・・
・・・・・・・・・
﹁魔王グローングさまについて、彼はインチキをしていると言って
いた。どんな決定的な敗北も、一度に限ってはすべてご破算にする
特別な加護を得ていたとね。つまり、その加護をセト君に適用でき
れば、彼の敗北、そして彼の死を無かったことに出来るというわけ
だ﹂
﹁特別な加護・・・﹂口に出してみても、ガンファはその言葉に実
感をもてなかった。だいたい、その加護というものがどういったも
のなのかがわからなければ意味がない。すでにセトは倒れ、その魂
は今にも飛び去ってしまうかもしれないのだ。
﹁心配するな。私はその加護がどういうものなのか知っている﹂ユ
ーフーリンは胸を張った。﹁その加護とは・・・﹂
﹁﹃竜の加護﹄、ですね﹂答えを言ったのは、シイカだった。
﹁おじいちゃん・・・グレンデルが、グローングに与えた力﹂マー
チの背中をさすってやりながら、思い詰めた表情をしている。
﹁どうして、シイカがそんなことを知って﹂驚いて声を上げたガン
ファを、ユーフーリンが遮った。
﹁やはり、そうなのか。シイカ君。││いや、シイカ殿﹂
探していた答えをついに見つけたとばかりに、ユーフーリンは手
をたたいた。
﹁初めて会ったときから違和感を感じていたんだ。あなたの存在の
不自然さにね。グレンデル殿があなたを連れてきたという話を聞い
てもしやと思っていたのだが、あなたは人間ではなかった。あなた
は││﹂
ユーフーリンはそこで言葉を切り、シイカを見つめた。その期待
に満ちたまなざしに、観念したかのように、シイカは答えた。
﹁私は、竜です﹂
262
淡々と、しかしはっきりとそう口にした。
マーチが、シイカの胸から顔をあげた。涙と鼻水で、ひどい顔に
なっている。シイカは袖口でマーチの顔を拭いてやると、微笑みを
向けた。
﹁本当よ、マーチ﹂
マーチの脳裏に、監禁房でのやりとりがよみがえる。自分が人間
ではないと訴えるシイカは悲しげな表情をしていた。
だがいま、微笑みを浮かべているシイカの表情は、あのときより
もずっと悲しげであるように、マーチには見えたのだった。
﹁シイカ・・・﹂
ようやく嗚咽が収まったマーチはシイカから身体をはなした。
数日前にシイカの告白を聞いたとき、マーチは半信半疑だった。
彼女は真摯に、真剣に語ってくれたから、全く嘘と思うことは出来
なかったが、一方で自分をセトの元にとどまらせるために方便を使
っているのだという気持ちも消えなかった。
だが、今この状況で、ユーフーリンの態度からしても、これが方
便などであるはずはなかった。
目の前にいるこの可憐な少女は、人間ではないのだ。
マーチの戸惑いが伝わってくる。シイカは束の間目を伏せた後、
ユーフーリンへと向きなおった。
﹁でも、今の私には何の力もありません。おじいちゃんが封印して
しまいましたから﹂
﹁グレンデルが?﹂
﹁はい。おじいちゃんは、神が定めたルールに従って、自分の後継
者である存在││私のことを探し出しました。だけど、私に力を使
わせたくないとも思っていたようです。もう伝説を繰り返す必要は
ない、おまえは人として生きよ。そう言って、おじいちゃんは私の
本当の姿と能力を、石に封じました﹂
﹁ルール?伝説?﹂話についていけないマーチが不満げに声をあげ
た。
263
﹁神様は、すべての生き物の中でも飛び抜けて長い寿命をもち、な
おかつ力も強いわたしたち竜の一族から、一世代にひとりを選んで、
特別な使命を与えるの。人間と魔族の中から、﹃魔王﹄と﹃勇者﹄
を選び出すという使命を﹂
さらに説明を続けようとするシイカを、ユーフーリンが遮った。
﹁そして、選び出したものに﹃竜の加護﹄を与えるというわけだ。・
・・私もすべてを知っているわけではないから、あなたの話は大変
興味深いが、今はゆっくり聞いている時間はない。重要なことは、
あなたの封印を解き、ここで眠る少年を勇者とすることができれば、
﹃竜の加護﹄によって彼は息を吹き返す。この解釈に間違いはない
か?ということだ﹂ユーフーリンはそう言うと、人差し指を一本た
てた格好でシイカの返答を待った。ガンファとマーチも、固唾をの
んでシイカを見つめる。
﹁間違ってはいません﹂やがて、シイカは肯定の言葉を返した。
それを聞いてガンファやマーチの瞳には希望の灯りがともった。
細かいことはともかく、セトが助かる道筋はあるということだから
だ。だが、シイカは思い詰めたように下を向いたままだった。
﹁ふむ。問題があるのかな?﹂
﹁たくさん、あります﹂シイカは誰にも目を合わせず、下を向いた
まま答える。﹁まず、私の封印を解く方法も、封印されている場所
も、おじいちゃんしか知りませんでした。今ではもう、知る手段は
ありません。仮に、私の封印が解けたとしても、当然、セトが必ず
勇者になれるとは限りません。それに・・・﹂シイカはほんのわず
かに口ごもった後、言葉を続けた。﹁そうまでして生き返ったとし
て、セトは幸せでしょうか﹂
﹁シイカ・・・﹂
﹁なにを言うの、シイカ﹂
ガンファは悲しげに声をかけただけだったが、マーチはいくらか
怒ったような声でそう言った後、シイカの手を取ってこちらを向か
せた。
264
﹁じゃあシイカは、このままセトがここで死んでしまったほうが、
いいっていうの?﹂
﹁﹃竜の加護﹄を得ることができれば、セトは確かに生き返ること
ができる。でも、そうすればセトはこの先勇者として、戦いに身を
投じることを強制されるわ。たとえフェイ・トスカを止めることに
成功したとしても。あの穏やかで心優しいセトが、そんな生き方を
望んでいるはずがない﹂シイカにそう言い返されて、マーチは言葉
に詰まってしまった。
たしかに、セトに戦いはあまり似合わない。才能がないわけでは
なく、むしろ剣術などはこの先も修行を続ければひとかどの存在に
なり得ると思わせるところもある。だが、マーチの脳裏に浮かぶセ
トは、懸命に剣を振っているときなどよりも、アンプたちと一緒に
森へ入って薬草を採っているときや、訓練場でラグスの世話をして
やっているときのほうがよほどいきいきと魅力的に見えていたのだ。
だが、だからといってセトがこのままでいいなんて、マーチには
とても思えなかった。
なんとかしてシイカを納得させたいが、必死で頭を回転させても
いい言葉が浮かんでこない。もどかしさのあまり、マーチは地団駄
を踏んだ
。
代わりに、ガンファが口を開いた。﹁シイカ。セトは、戦いを嫌
っているわけじゃない﹂ガンファはセトの傍らに腰を下ろした。今
はその身に宿るものがないセトが目を見開いたままだったので、そ
っとその瞼をおろしてやる。﹁セトは、たくさん悩んで、失敗して、
後悔して││。それでも、ここへ来たんだ。戦うために﹂
﹁彼は生きたがっていた﹂ユーフーリンも同調する。﹁彼は自分を
生かすために多くの力や命が使われたことで、自分にそこまでの価
値があるのかと思い悩んでいた。だが、だからこそ、自分は生きな
ければいけないと思うに至ったようだ。彼は目の前の戦いに立ち向
かう覚悟を決めた。それがどんなに困難なものだとしても。││あ
265
あ、そうそう﹂突然ユーフーリンはいたずらっぽい目つきでマーチ
をみた。﹁彼は無事、全員生き延びたなら、君に結婚を申し込むと
いっていたぞ﹂
﹁うえっ!?﹂突然そんなことをいわれて、マーチは素っ頓狂な声
をあげた。こんな時だというのに、顔が熱くなるのを止められない。
﹁││ああ、いや、そこまでは言っていなかったかもしれん﹂ユー
フーリンはそう言うと、その姿を馬のそれへと変貌させ、ひひんと
いなないた。からかわれたとわかったマーチは憤慨したが、それよ
りもシイカを説得することが重要だと思い直して、ユーフーリンを
無視した。
﹁ね、シイカ。セトはこんなところで死んでもいいなんて思ってい
ない。それに、あの馬︵その一瞬だけ、ユーフーリンをじと目でに
らんだ︶はどうだか知らないけれど、あたしも、・・・ガンファも、
セトには生きていてほしいって思ってる﹂マーチは、自分を見よう
としないシイカの顔の正面に強引に身体を入れて、目を合わせた。
﹁シイカはどうなの?﹂
﹁私は・・・﹂シイカの目が一瞬だけ答えを探すように動いたが、
すぐにまた伏せられてしまった。﹁私は、中立でなければいけない
の。﹃竜の加護﹄を与える立場のものとして││﹂
シイカの言葉を遮って、ぱしんと乾いた音が丘に響いた。
マーチが、シイカの頬を張ったのだ。
﹁しっかりしてよ、シイカ﹂マーチは力強くシイカの両肩をつかむ
と、彼女に訴えた。﹁あなたは、セトの妹なんでしょ?﹂
マーチは今ここへきて、シイカがセトに対して向けていた、どこ
かよそよそしさを残した態度の理由を理解していた。シイカは自分
の正体を知っているが故に、心をすべてセトに預けきることができ
なかったのだ。
だがそれは、シイカがセトを愛していなかったということではな
い。むしろ逆だ。彼に好意を抱き、信頼に足る存在だと感じていた
からこそ、依存しすぎることがないように意識して距離を置いてい
266
たのだ。
マーチは確信していた。シイカもまた自分と同じように、セトに
生きていてほしい、そばにいてほしいと願っているのだと。
﹁私は││﹂シイカはまだ迷っている。自分の想いを口にすること
が、果たして許されることなのか。
それを後押ししたのは、ユーフーリンだった。いつの間にか人の
姿に戻っている││もちろん、先ほどとは異なる姿ではあるが。
﹁﹃竜の加護﹄を与えるものは中立・・・か。少なくとも、あなた
の先代にあたるグレンデル殿は、そんなことはなかったよ﹂
シイカは意外そうに顔を上げた。
﹁むしろ、情にほだされやすい性格でね。頭を下げて頼まれれば、
なんでも引き受けてしまうようなところがあった。私は友人として、
時にはきっぱり断ることも必要だと、一度ならず忠告したことがあ
るよ﹂
ユーフーリンは袖口を口に当て、懐かしそうに含み笑いを漏らし
た。
﹁グレンデル殿はセト君に、穏やかで安らぎにあふれた暮らしを送
ってほしいと願っていただろう。だが同時に、それが難しいことで
あることもある程度予見していたのかもしれないね﹂そう言って、
またシイカを見る。﹁あなたを見つけだし、側に置いていたことが
その証だ。単に自分の代で﹃伝説﹄とやらを終わらせたいだけであ
れば、あなたを捜さなければいいだけの話だ﹂
﹁でも、私の力は封印されているんです﹂シイカはむきになって反
論した。﹁たとえ私がセトに勇者の資質を見いだしていても、彼を
救いたいと思っていても││﹂思わずそこまで口に出してしまい、
しまったとばかりに口を押さえた。
﹁これで問題は単純になった﹂ユーフーリンはシイカの言葉を歓迎
するように両手を広げた。﹁今ここにいるものはすべて、セト君を
救いたいと考えている。そして彼自身もまた、この死を受け入れら
れずにいるはずだとね。となれば、あとはシイカ君の力へ施された
267
封印をどうにかすればいい﹂
ユーフーリンがまるでもうすべての問題がクリアになったかのよ
うに晴れ晴れとした表情をしているのを、シイカは不思議に思って
いた。それこそが一番の問題であるはずなのに。
怪訝な表情のシイカを見てその疑問を察したのか、ユーフーリン
は底意地の悪さを感じさせる笑みを浮かべた。
﹁実は、それについてはたぶん、私が何とかできるとおもっている﹂
﹁それはどういう││﹂
シイカの言葉には直接応えず、ユーフーリンはセトの亡骸のそば
にたった。そしておもむろに腰を曲げると、手を伸ばしてセトの上
着のボタン││フェイ・トスカに受けた傷口のすぐ上││をはずし、
まさぐった。
そして拾い上げたのは、首飾りだった。セトがグレンデルより渡
された、美しい竜の彫刻の首飾り。
しかし今はフェイ・トスカの一撃を受けた際に鎖がちぎれている
上、セトの流した血によって汚れ、頂点に近い太陽から光を受けて
も何の輝きも示さずにいた。
﹁今日ここへ向かう獣車の中で、セト君がさも大事そうに取り出し
・・・・・・
・・・・・
て眺めているのを、気づかぬ振りして横目で見ていた。これは首飾
りそのものはたいしたものじゃない。ちょっと手が込んでいるくら
いのものだ﹂ユーフーリンは悪びれもせず、サンクリーク王家に代
々伝わる首飾りを一刀両断した。﹁重要なのは、ここに嵌められた
宝石だ﹂
そう言うと、やはり血で汚れてしまった宝石を指で拭った。深緑
色の宝石がそこから顔を出す。
﹁この石はグレンデル殿があとから嵌めたのだろう。厳重にコーテ
ィングされているから彼の服の下にあるときはわからなかったが、
中に魔力が収められている。しかも・・・そうだな。かなり強力だ。
これは間違いないだろう。シイカ殿、あなたの力はこの石の中に眠
っています﹂
268
直接手にしたことで確信を得たらしいユーフーリンはきっぱりと
言い切った。
﹁こいつの封印を解けば、あなたは本来の姿と力を取り戻すことで
しょう﹂
﹁でも、封印を解く鍵は?﹂マーチが疑問を投げかけたが、ユーフ
ーリンの堂々とした態度は揺るぎなかった。
﹁そんなものは、必要ない﹂
﹁まさか、強引に解放するんですか?﹂シイカの声が、驚きにふる
えた。﹁おじいちゃんの・・・竜がかけた封印を?﹂
﹁私をバカにしてもらっては困る。私は魔族の歴史にその名を刻ま
れるであろう天才魔法使いだ!﹂ユーフーリンはそう言うと姿をゆ
がませた。ぐねぐねと曲がりくねった魔法の杖を手にもち、幅広の
つばにてっぺんが折れ曲がった三角帽をかぶったしわがれた老婆の
姿になった。おとぎ話に出てくる典型的な魔法使いの老婆の格好で
ある。
﹁私に解けぬ封印はない。一〇〇〇年の時を越えて他者の進入を拒
んできた王家の墓の封印から、とても手ではあけられないほど固く
しまったジャムの瓶のふたまで、いかなる封印もたちどころに破っ
てきたのだからな﹂
ユーフーリンは魔女らしくキッキッといやらしい笑い声をたてた
後、笑みを引っ込めてシイカに告げた。
﹁あとはあなたの覚悟しだいだ。あなたが人の姿を捨てられぬとい
うならば、私もこれ以上無理強いはしない。││さて、どうする?﹂
﹁わかりました﹂意外にも、シイカはほとんど間をおかずに返事を
した。﹁セトが覚悟を決めていたというなら、私も覚悟を決めます﹂
﹁シイカ・・・﹂マーチがそっと、シイカの手を握った。シイカの
覚悟とは、すなわち人であることを捨てる覚悟、ということなのだ
ろう。
﹁だけど、仮にユーフーリン様が封印を破ることに成功し、私が本
来の力を取り戻したとしても、それでかならずセトが助かる、とい
269
うわけではありません﹂
﹁ふむ?﹂
﹁﹃竜の加護﹄を得て、勇者となるために・・・セトには、試練を
受けてもらうことになります﹂
﹁竜の試練、というわけか。だがそれは、死んでいても受けられる
ものなのかね?﹂
﹁試練を受けるのは精神体です。肉体の状況は関係ありません﹂
﹁それならば、不利はないということだな﹂ユーフーリンが言うと、
ガンファがうなずいた。
﹁セトは、きっと、大丈夫です﹂
﹁そうだよ。きっと大丈夫﹂マーチも少し無理をして、笑顔になっ
た。﹁だからシイカも、心配しないで﹂
﹁よし。ではここで、私の見せ場だ﹂ユーフーリンはセトのそばを
離れ、全員から距離をとった。
﹁封印を解こう。危ないから近づかないように﹂
そう言いつけると、右の手のひらの上に首飾りを置いて、精神を
集中し始めた。
﹁強引に封印を解くなんて、本当にできるの?﹂マーチが不安げに
声をあげたが、ユーフーリンはもう聞こえていないようだった。
しばらくはなにも起こらない。
草原の気候はからりとしていて、ときおり吹き抜ける風が心地よ
い。つい先ほどまで太陽が出ていることさえ気にかける余裕がなか
ったことに、マーチはようやく気がついた。
ユーフーリンは微動だにしない。その手の上の首飾りも同様だ。
﹁やっぱり││﹂はったりだったんじゃないのか、そう言おうとし
たそのとき。
突如、首飾りが││正確にはそこに嵌め込まれた宝石が、強烈な
光を発しだした。
光っているのは宝石ばかりではない。いまやユーフーリン自体が
発光し、目を開いているのもつらいほどの光が洪水のように押し寄
270
せてくる。
それでもなんとか薄く目を見開いて様子を見ると、ユーフーリン
の姿が絶え間なく歪み、幾度もその容貌を変えているのがかろうじ
て見えた。
﹁ぬぬぬぬぬぬ!﹂ユーフーリンの食いしばった口からくぐもった
叫びが漏れ聞こえる。
ユーフーリンの姿は、ひと呼吸の間に幾度も変わり、もはや歪む
間もないほどだった。様々な人間の姿、マーチは見たこともないよ
うな異形の怪物たち。
その変わりようには法則もなにもないように見えたが、やがて人
間の姿をとることはなくなった。魔族の姿を立て続けにいくつも見
せた後、最後に再び人間の姿になった。金髪碧眼の、少年といって
いい若い男性。
それを最後に、ユーフーリンの姿は完全に光に包まれた。光は集
まって珠のようになり、ついには爆発するかのように四散した。
﹁上手く、いったの?﹂マーチは目をこすりながら誰にともなくそ
う言った。最後の方は光が強すぎてほとんど目を開けていられなか
ったし、たとえ開けていられたとしてもどうなったのかマーチには
理解できなかっただろう。
最初にユーフーリンが立っていた方を見たが、ユーフーリンらし
き人物の姿は見あたらなかった。
隣にたっているシイカを見やると、シイカは上空を見上げている。
マーチもそれに習って見上げると、太陽とは違う光の固まりがひ
とつ、中空に浮いているのが見えた。
光はすこしずつ、大きくなっている││違う。大きくなっている
のではなく、近づいてきているのだ。
シイカが歩きだした。マーチがついていこうとすると、シイカは
こちらを向いて仕草でそれを押しとどめた。
何も言われなかったが、何を言いたいのかはわかってしまった。
271
あの光を受ければ、シイカは人でなくなってしまうのだろう。
﹁シイカ!﹂マーチはその名を呼んだが、無理についていくことは
しなかった。
シイカはマーチの声を聞くと、一瞬だけ微笑んで見せた。
やがてある一点にたどりつくと、シイカは立ち止まり、再び空を
見上げた。光はゆっくりと、しかし着実に降りてきていて、その光
は人ひとりをすっぽり覆ってしまうほどの大きさであることがわか
った。
シイカが光に向けて、細くたおやかな右手を伸ばす。
光に右手が触れた。
光はシイカの右手から右腕を伝って、やがてシイカの全身をそっ
と包んでいく。
シイカの全身が光に包まれると、すぐに変化が始まった。光が膨
張し始めたのだ。
はじめマーチの身長よりも小さかったシイカの光は、すぐにマー
チよりも大きくなり、やがてガンファよりも巨大になった。最終的
に一〇ログ︵約七メートル︶ほどの高さまで膨れ上がると、光は吸
い込まれるようにして消えていった。
そこに現れたのは、どっしりとした重量感のある竜。全身を鱗に
覆われ、トカゲのようなしっぽを生やし、背中には巨大な翼、ぎょ
ろりとした巨大な眼球と、口からのぞく鋭い牙からは、か弱い少女
にすぎなかったシイカの面影を感じることはできない。
ただひとつ、体表を覆う銀色の鱗だけが、少女シイカの透き通っ
た銀の髪と銀の瞳を思い出させた。
シルバー・ドラゴン、シイカは本来の己の姿となって、今このア
ニスの丘に降り立ったのだった。
272
試練へと
二
マーチは、目の前に現れた巨大な竜の姿を、ただ声もなく見つめ
ていた。
その竜は、ほんのわずか前まで、彼女がそばにいて妹のように思
えていた、シイカという名前の少女だった。
身体はどこをとっても細く、これは誰かが守ってやらなければ、
と思わせるか弱さがあった。初めてその手を引いたときには、その
頼りなさに内心驚きの声をあげたものだった。
だが今、少し離れた位置でたたずむ巨大な生物からは、そんなか
弱さは微塵も感じられない。
頭にはたてがみと触覚のような角を生やし、深く裂けた口から鋭
い牙をのぞかせているその顔を見ても、いつも静かに落ち着いて穏
やかな笑みを浮かべていたシイカの印象とはほど遠い。
だが、頭の中でそんなことを考える一方で、マーチはこの竜が確
かにシイカであることをより本能的なところで理解していた。
目の前で姿が変わるところを見ていたから、というだけではない。
おそらくマーチは、ある日突然この竜が目の前に現れて自分がシイ
カだと言ってきたとしても、それを受け入れることができるような
気がしていた。
マーチにとって竜といえば、おとぎばなしに聞かされる﹁わるも
の﹂のイメージしかない。お姫様を誘拐して勇者に退治された話も
そうだし、農民が苦労して開拓した畑に雷を落としたり、水害を引
き起こした﹁魔物﹂も竜だった。
だが、目の前の銀色の竜は、彼女がそれまで抱いていた﹁竜﹂の
イメージからかけ離れていた。
確かに、しっぽと翼が生え、どっしりと巨大な後ろ肢と、それに
273
比べればずいぶん小さな前肢には鋭い爪が備わっている。身体のパ
ーツひとつひとつを見れば十分凶悪といってもいいのだが、それら
をまとめた全体をシルエットで見ると、とても流線的で女性的なの
だ。
何より、﹁彼女﹂のもつ銀色の体表面が、今ちょうど頂点にある
太陽から注がれる光をうけてきらきらと輝くさまが、ちょうど森の
中で木漏れ日を浴びている少女シイカの、銀色の髪が揺れながら光
をはじいている、その情景を思い出させるからかもしれなかった。
シイカ・ドラゴンは、自分を包んでいた光が完全に収まるまでは
まるで置物のようにじっと動かずにいたが、やがて見開かれていた
目を幾度か瞬きし、翼を一度だけ大きく羽ばたかせ、長い首を大き
く巡らせた。自分の身体が正しく動作するかを確認するかのようで
あった。
そこへ、誰のものでもない声が響いた。
﹁どうやら上手くいったようだね﹂
その場にいたもののうち、息のないセトをのぞいたガンファ、マ
ーチ、そしてシイカはその声の主を探した。そういえば、ユーフー
リンの姿が見えない。
﹁グレンデル殿もたいしたものだ。思いの外強力な封印だったよ。
おかげで私はこのざまだ﹂
﹁ユーフーリン様?﹂
口調と話す内容から、声の主はユーフーリンであるようだった。
だが、やはり姿は見えない。ガンファが呼びかけるように心配した
声をあげたが、ユーフーリンは軽い口調で答えを返した。
﹁ああ、探しても無駄だよ。魔力を使いすぎて、ついに何者の姿も
とることが出来なくなってしまったんだ。今の私は精神のみがこの
場に浮いているような状態だな﹂
﹁・・・死んだってこと?﹂言っている意味が分からない、とばか
りにマーチが顔をしかめた。
274
﹁とんでもない。私はそんな簡単に死んだりしないよ。魔法を解さ
ないマーチ君にも分かりやすく言うと、小麦粉の一粒よりずっと小
さい粒子の姿になって漂っていると、そんな風に解釈してくれれば
いい。ただそれだと風に流されて飛んでいってしまうから、マーチ
君の服にひっついているということにする﹂
﹁え、ちょっと、やめてよ!﹂
自分にまとわりつくユーフーリンの姿を想像でもしたのか、マー
チはあわてて自分の服をはたき始めた。ユーフーリンの笑い声がか
らかうように辺りに響いた。
﹁比喩だよ、比喩。まあそんなに心配しなくても、じきに魔力が回
復すればまた前のようにいろんな姿をとることが出来るようになる
から安心したまえ﹂
﹁心配なんかしてないわよ!﹂
たとえ自分が魔族そのものを憎むことがなくなるときがきても、
この魔族だけは例外だ。たとえこいつが人間だったとしてもあたし
はこいつが嫌いだろう。マーチは確信していた。
﹁さて、シイカ殿。準備のほどは?﹂
マーチが服をはたいても無駄だと悟って落ち着くのを待って、ユ
ーフーリンが先ほどまでとは声のトーンを変えてそう言った。
それに答えて、シイカ・ドラゴンがゆっくりと口を開く。
﹁準備は、ととのっています﹂
その声は、少女の姿だったときのシイカのものと、ほとんど変わ
らない声色だった。ただ違うのは、彼女だけひとり洞窟の中でしゃ
べっているかのように、深く遠くへ響くような音になっていること
だった。
﹁﹃竜の試練﹄は、精神世界で行われます。試練が行われている間、
私とセトはこの世界には存在しないことになります。試練が終われ
ば、それが成功でも失敗でも、またこの場所に戻ってきます﹂
失敗でも、と言われた瞬間、マーチの身体がほんのかすかにふる
えた。
275
﹁期間は?我々はここで待っているべきかね?﹂
﹁精神世界の時間の流れは一定ではありませんが、この世界で待つ
あなた方にはそれほど長くは感じられないでしょう。・・・明日の
この時間、またここへきてください﹂
この状態で一日待たされるというのはかなりの苦痛であるように、
マーチやガンファには感じられた。だがその問いを発したのはやは
りユーフーリンだった。
﹁ふむ。現実的に、セト君が試練を乗り越える確率はどれくらいな
のかな?﹂ そんなことを聞いてもし否定的な回答が帰ってきたらと思えば、
マーチやガンファに聞けないのも無理はない。
﹁私が過去に聞いた話などを統合すると、試練を乗り越える確率は
かなり高いようだが・・・﹂そう付け加えたのも、ひょっとしたら
彼なりにマーチとガンファに気を使っているのかも知れなかった。
だが、シイカの返答は気遣いの感じられるものではなかった。
﹁私たちは、資質があるものすべてに﹃竜の試練﹄を受けさせるわ
けではありません。資質があり、なおかつ試練を乗り越えることの
出来る実力をも兼ね備えていると判断したもののみを試練へと臨ま
せるのです。だから、生還率が高いのは当然です。・・・今回のよ
うに、緊急避難的に試練を与えるのは例外中の例外です﹂
竜となったシイカの顔は表情の変化に乏しい。ひょっとしたら変
化しているのかもしれないが、それは竜同士でなければわからない
のかもしれない。マーチなどが見ていてもただ淡々としゃべってい
るようにしか見えなかった。
﹁あなたの権限で、すこしその試練の内容に手心を加えてやるよう
なことは?﹂
そう問われると、今度は分かりやすく首を振って否定の意思表示
をした。
﹁それは出来ません。というより、しようがありません。厳密には
私は試練の舞台を用意するだけで、私が彼の何かを審査するという
276
わけではありませんから﹂
﹁しかし││﹂ユーフーリンの声はさらに質問を重ねようとするが、
ガンファがそれをやんわりと止めた。
﹁それで十分です、ユーフーリン様。シイカも困っていますから﹂
﹁何も君たちのためというわけではない。私だって心配なのだ﹂姿
のないユーフーリンではあったが、それでもシイカよりはずっと表
情がつかみやすい。わざとらしく口をとがらせている姿が見えるよ
うだ。﹁だが確かに、ここで質問を重ねたところで事態に変化はな
いようだ。邪魔して悪いことをした、白銀の竜よ。あとはあなたの
仕事を実行してください﹂そう言って、ユーフーリンは黙った。
﹁シイカ﹂ガンファが見上げて言った。巨人族であるガンファが、
誰かを見上げてしゃべることは珍しい。﹁セトを頼むよ﹂
﹁はい﹂シイカは、意識して首を動かし、うなずいて見せた。人間
の姿のときと同じ感覚では、上手に意思を示せないことがわかって
きたからだ。
次いで、シイカはマーチの方を見た。魔族を憎むこの女性は、自
分が人間ではないと告白しても、シイカはシイカだと言ってくれた。
だがそれはきっと、自分の告白をきちんと理解できていなかったか
らだったろう。今、どう見ても人ではないこの姿を目の当たりにし
て、彼女はどう思っているだろうか。
マーチはシイカに視線をあわせられて、何か言うべきだと思った
が、上手い言葉は思い浮かばなかった。仕方なく、思ったことをそ
のまま口に出すことにした。
﹁シイカ、さっきはごめんね﹂口をついたのは、謝罪の言葉だった。
﹁その・・・はたいたりして﹂
つい先ほど、セトを生き返らせることがいいことなのか、と悩む
シイカの頬を張ったときのことを言っているのだろう。それを聞い
てシイカは微笑みを返そうとしたが、竜の顔の筋肉は笑顔が作れる
ようには出来ていないようだった。ほんのわずか口の端がつりあが
ったが、マーチには分からなかっただろう。
277
﹁気にしないで﹂びっくりはしたが、実際ちっとも痛くはなかった。
﹁それに、おあいこだし﹂
﹁?﹂
マーチはきょとんと首を傾げたが、シイカはその言葉の意味を教
えてやることはせず、マーチから視線をはずした。そして大きな体
を数歩進ませて、横たわるセトの傍らに立った。
﹁それでは、いってきます﹂
シイカはそう言って、右手の鈎爪のように鋭い爪の先から小さな
光を生み出した。光はゆっくりと落ちていってセトを捉えると、広
がっていってセトの全身を包むようにした。セトの姿が光で見えな
くなると、光はゆっくりと浮き上がり、シイカ・ドラゴンの胸の辺
りの高さで止まった。
シイカはその背中に生えている大きな翼をはばたかせはじめた。
はじめはゆっくりと、やがてだんだん早く。
﹁明日、ここへ戻ってきます。││きっと、セトと一緒に﹂
その言葉を残して、シイカは後ろ肢を蹴りあげて、セトを包む光
とともに上空へと飛び上がった。
小さな光を抱えたシルバー・ドラゴンは、ほぼ垂直に近い角度で
あっというまに空高く舞い上がり、そのままぐんぐんと高度を上げ
││どこまで上がるのかと思った矢先、透きとおるようにして消え
てしまった。
彼女のいう﹁精神世界﹂とやらへ行ったのだろうか。マーチもガ
ンファも、沸き上がる不安をなんとかおさえつけながら、シイカと
セトの消えた空を長いこと眺めていた。
セトは闇の中で、ゆっくりと目を開いた。
頭が重くて、まだ身体の大部分が眠っているように感じられる。
夜がとても長い冬の日などは、とにかく身体を小さくして眠ってい
るほかないことがあるから、そんなときは目が覚めても今のように、
頭の芯がぼやけたままのときがある。
278
セトは、今が冬だったか思いだそうとしたが、上手くいかなかっ
た。
とにもかくにもまずは身を起こして、辺りを確認する。何も見え
ないのは真っ暗だからだと思ったが、自分の手足は不足なく見える。
床に手をおくと、石のような土のような、不思議な感触だった。
室内かと思ったが、壁の存在を感じられない。上を見てもただ暗
いだけで、天井があるかどうかも分からなかった。室内だとしたら、
とんでもなく広いところだ。セトはそんな広い部屋に入ったことは
ない。ひょっとして王様が住むような部屋なら、これくらい広いだ
ろうか。
立ち上がってさらに周囲を見回すと、ある一カ所から光が漏れて
いるのが小さく見えた。ほかには何もないし、誰の気配もない。セ
トは光に向かって歩き始めた。
光を目指して歩くうち、セトの頭はようやく少しずつはっきりし
てきた。今が冬などではなく、五の月の中頃だったことを思い出し
た。自分が何者かと戦っていたことを思い出した。
そして││。
自らの胸に、剣が突き立っている光景をまざまざと思い出した。
セトははっとして、両手で胸の辺りをかきむしった。そこには剣
など突き立っていなかったし、傷跡があるようにも感じられなかっ
た。
あれは夢だったのだろうか?
まだ完全に覚醒していないのだろうか。夢と現実の区別が付かな
くなっているのかも知れない。それに、ほかにも不思議なことがあ
る。
自分に剣を突き立てた人物も、そのとき自分の周りにいた人物も
││セトはさっきから、彼らの風貌も名前も、何一つ思い出せない
でいたのだ。
困惑しながらも、セトは光に向かって歩き続ける。
やがて、ただの光でしかなかったそれは、扉から漏れ出る光だと
279
いうことが知れた。やはりここは室内だったのだ。
さらに近づくと、扉のまえに人間がひとり立っているのが分かっ
た。
光源はその人間の背後の扉から漏れ出る光しかないのに、どうい
うわけかセトにはその人物の姿がはっきりと見て取れた。セトより
もいくらか幼く見える少女だ。銀色の髪が背後の光を受けて時折き
らめく。
セトは、その少女が知っている人物であるように思えたが、彼女
が誰なのかは思い出せなかった。
﹁よくきましたね、セト﹂セトが銀髪の少女の前に立つと、少女は
おごそかな口調でそう言ってきた。やはり聞き覚えのある声だ。だ
けど、いつ聞いた声なのか思い出せない。
﹁ここはどこ?﹂相手は自分のことを知っているようだったので、
セトは質問をすることにした。﹁僕は、確か剣で胸を││刺された
ような気がするんだ。なのに何の傷もなくて、いつの間にか知らな
いところにいる。ねえ君、僕がどうしてこんなところにいるのか理
由を知らない?﹂
﹁あなたの肉体は、今はまだ眠っています﹂それはセトの質問の答
えのあるようにも、そうでないようにも聞こえた。﹁今のあなたの
身体は、精神があなたの記憶を元にして、自分自身の姿を忘れない
ように形作っているだけの仮のものにすぎません﹂
﹁よく、わからないんだけど﹂セトは困惑したが、少女がとにかく
自分と話をする気はあるようなので、質問を重ねた。﹁これは夢っ
てこと?﹂
﹁そう思いたければ、それでもいいでしょう。││ただし、勝手に
目覚めることはありませんが﹂
﹁そんなの困るよ。だって僕は││﹂
理由を続けようとして、セトは困ってしまった。頭ははっきりし
ているつもりなのに、どうにも記憶が曖昧だ。僕はさっきまで、何
をしていたんだっけ?この先、何をするつもりだったんだっけ?
280
﹁目覚めたいですか?﹂
﹁││それは、もちろん﹂少女の問いに、セトはとりあえずうなず
いた。分からないことが多すぎるが、こんな暗いところにずっと閉
じこめられているよりはよほどいい。
﹁では、この先へとすすみ、試練をお受けなさい﹂少女はそう言う
と身を引いて、彼女の背後にあった扉をセトにはっきり見えるよう
にした。
扉は金属で出来ているように見え、かなり重厚な作りになってい
る。完全には閉まっておらず、少しだけ開いたところから先ほどま
でセトが目印にしていた光が漏れ出している。少女がどいたことで
光がセトの目を打ち、セトは目を細めなければいけなくなった。
﹁試練を越えれば、あなたの意識は戻り、肉体は再び活動を始める
でしょう﹂
﹁試練って、何をすればいいの?﹂
まぶしさを避ける意味もあって、セトは少女の方へと身体を向け
た。光が当たらなくなった少女の姿は半分闇に紛れていて、銀色の
髪も今は漆黒に染められている。
﹁あなたに、ひとつだけ魔法の力を与えます﹂少女はそう言うと続
けて口の中で何事かつぶやき、それからセトの目をじっと見た。す
るとセトは急に頭を両手でしっかり掴まれたかのように身動きでき
なくなった。
やがて唐突に、セトの頭のなかに短い言葉の羅列が浮かんで、消
えた。それと同時に再び体の自由が利くようになる。
﹁あなたには魔法の素養はほとんどありませんが、今の言葉を唱え
ることで、一度だけ魔法を使うことが出来ます﹂
﹁へぇ、今の││﹂
﹁今、口にしてはいけませんよ﹂セトがそのままなぞるように口に
出そうとしたので、少女が止めた。それまでの淡々とした話し方と
は違い、少しあわてた口振りだったので、セトはおかしくなってし
まい、ほんの一瞬だけ笑ってしまった。少女は咳払いしてそれを咎
281
めると、また無表情に戻って続けた。
﹁使えるのは、一回だけですからね。その魔法は、まぼろしを打ち
破る魔法です。あなたがこれから行く場所には、ひとつだけ真実で
はない、まぼろしで出来ているものがあります。それを見つけたな
らば、今の言葉を唱えなさい。あなたが正しくまぼろしを見破れた
なら、試練は終了です﹂
﹁ふうん・・・﹂セトは頭の中で言葉を思い浮かべながら、うなず
いた。﹁とにかく、この先へいけばいいんだよね﹂
﹁そうです﹂少女はうなずいた。
セトは歩みを進め、少女の脇を抜けて、扉のまえに立った。
﹁もし、間違えたときは?﹂セトは不意に振り返って、少女に問う
た。
﹁まぼろしを打ち破らなければ、あなたが目覚めることはありませ
ん﹂少女はセトの方を改めてみることはせず、ただ正面を向いて答
えた。
﹁ですから、言葉を唱えるかどうかは、よく考えて決めてください。
この試練に、時間の制限はありませんから﹂
﹁わかった。ありがとう﹂
セトは少女に礼を述べると、重そうな扉の取っ手に手をかけた。
力を入れて引くと、予想していたよりもずっと重かった。向こう側
から誰かが引っ張っているんじゃないかと思いながら、それでも少
しずつ開いている面積を広くしていく。
ようやく、セトの身体が滑り込める程度に扉が開いた。手を離し
たらまた閉まってしまうかも知れないと考えたセトは、急いでその
空間へと飛び込んだ。
暗闇になれていた目に光が覆いかかってきて、一瞬何も見えなく
なった。
やっとのことで目を開けると、背の高い木々に囲まれた、森のよ
うな空間だった。ただ、セトの立っているところを中心に、五ログ
282
︵約三・五メートル︶ほどの踏み固められた道になっており、頭上
には青空がのぞいている。道は緩やかな斜面になっていて、下りの
道は曲がりくねりながら先の方まで続いているようだ。
振り返って反対側の道を見ると、そう遠くないところに木造の家
が一軒建っているのが見えた。そういえば、今セトがでてきたばか
りの扉は影も形もない。
たち
あの少女は、結局誰だったのだろう。きっと知っている人のはず
だったのに││。セトは一度会った人のことはあまり忘れない性質
だったので、あの場で思い出せないことがちょっと悔しかった。
﹁試練﹂とやらを乗り越えたなら、彼女のことも思い出せるだろ
うか。
まぼろしでできているものを見つける││あまりにも曖昧で、手
がかりも何もない。あの家に住んでいる人に話を聞いてみようか。
セトは坂を上り始めた。
283
竜の試練︵一︶
三
坂の上の一軒家へたどりつくと、道はそこで途切れていた。
上り坂もここでいったん終わっている。家の周りは少し開けてい
て、奥の方には家畜小屋などもあるのかもしれない。ただ、その先
はまた森に覆われているようだ。
どこかの山の中腹にある村はずれ、といった風情である。
一軒家は二階建てで、一階は倉庫、二階が住居となっているよう
だ。セトは二階へと続く階段を上った。
入り口には木製の扉がはめられている。中に誰かいるかどうかは
開けてみないと分からないが、家の造りなどを見ても朽ちているよ
うなところもなく、生活感が感じられるので、人か、あるいは魔族
が住んでいることは間違いないだろう。
いずれにしても、ここで手がかりを得られなければ、坂を下りて
別の民家を探さなければならないだろう。セトが空を見ると、木々
の隙間に見える空の端がいくらか赤らんでいるのがわかった。夕刻
なのだ。
そもそも、今日はどこで眠ればいいんだ?食べるものは?セトは
自分が身につけている服以外何ももっていないことに気がついてぞ
っとした。剣すら帯びていない。
この家に住んでいるひとが親切なひとだったら、食べ物を分けて
もらえるようにお願いしてみようか。薪割りの手伝いくらいはでき
るし・・・。そんなことを考えながら、セトは扉を開いた。
中へ入ってみると室内は静まり返っていて、人の気配はなかった。
奥の方にはいくつか小部屋もあるようだが、そこからも静けさしか
漂ってはこない。
ただ、入り口のそばにある台所にはこの数日以内に収穫されたの
284
だろう新鮮な野菜がいくらかあり、さらには羽をむしられて下拵え
された鳥も編みかごに入れられている。かまどの火も燃えている。
今いないだけで、誰かが住んでいることには間違いないだろう。
ただ、セトからすれば今居てもらわなければ意味がないのだ。セ
トはここで誰かが戻ってくるのを待つか、それとも坂を下りて別の
民家を探すか考えなければいけなかった。
どちらにしてもここで立っていても仕方がない、とセトが踵を返
そうとしたそのとき、扉の外から誰かの気配を感じた。階段をきし
ませながらゆっくりと上ってきている。
そのときになってようやくセトは、誰もいない家に勝手に入り込
んでいる自分は家の人間からみたら泥棒か何かに見えるんじゃない
かということに思い至ったが、それは少々遅すぎる気付きだった。
何しろ、家人と思われる人物がもう扉のすぐそこまで迫っているの
だから。
セトは仕方なく、せめて怪しまれないようにと自分から扉を開い
て顔を出した。
扉の外、階段の中程に、人間の女性がひとり立っている。背中の
中程まで伸ばした髪が印象的だ。
いきなり扉が開いたので、女性はやはり少々驚いたようだ。両手
にそれぞれ水を張った桶を持っている。
﹁あの、僕は││﹂きょとんと見上げる女性に向かって口を開いた
セトだったが、
﹁そんなところにいるなら、手伝いなさい。これ、重いんだから﹂
と水桶を持った女性にぴしゃりと言われて、先を続けられなくなっ
た。
言われたとおりに女性から水桶をひとつ受け取って、また階段を
上がって扉を開け、先に中にはいる。﹁そこに置いて﹂と女性の指
示通りの場所へ水桶を置くと、続いて入ってきた女性がその隣にも
う一つの水桶を置いた。
﹁さて﹂身軽になった女性は振り返ってセトをみた。先ほど、日の
285
当たる中で見たときは長い髪が明るい翠色をしているように見えた
が、室内で見るとセトと同じ黒髪だ。背丈はセトとそう変わらない。
ただ、背筋がぴんと伸びていて姿勢がいいので、背が高く見える。
年齢はよく分からないが、少なくともセトよりはだいぶ年上である
ように見えた。
﹁どうしたの、こんなところで。まさか、つまみ食い?﹂
愛らしさを感じる大きな目を幾分細めてこちらを見ている。やは
り空き巣狙いの泥棒にでも見えたのだろうか。セトは事情を話そう
としたが、女性はさらに言葉を続けた。
﹁だめよ、夕食がおいしくなくなってしまうじゃない。今日はこれ
から、お母さんが得意料理を作るんだから。それまでめいっぱい、
おなかを空かせておきなさいな﹂
怒っているというより、子供を諭しているかのような言い方だ。
﹁え?あの││﹂
﹁遊んでこないのなら、裏でお父さんの手伝いでもしていらっしゃ
い。たぶん、薪を割っているから﹂
セトが何か弁解する暇もなく、女性はセトの肩を遠慮なしにつか
むと背中を向けさせ、そのまま扉の外へと押し出してしまった。
﹁日が暮れる頃には出来ると思うから。楽しみにしていてね﹂
最後に笑顔でセトに向かって手を振ると、結局セトにはなにもし
ゃべらせないままに扉を閉めてしまった。
﹁???﹂
セトはしばらくの間、ぽかんと口を開けて扉を眺めていたが、や
がて目が覚めたように首を振った。
︵何だったんだ、今のは?︶
まるで、自分があの女性の子供であるかのような扱いだった。だ
が、セトはあの女性のことは知らない。つい先ほどの少女のように、
会ったことがあるのに思い出せないのではなく、全く見覚えがない
のだ。あんな風に親しげに接される覚えはなかった。
しばらく考えて、これは与えられた﹁試練﹂の一部なのかもしれ
286
ない、という考えが浮かんだ。あの少女はこの試練に時間制限はな
いといっていた。とはいえ着の身着のまま放り出されただけでは、
目的のものにたどり着くまえに倒れてしまうかもしれない。ひょっ
として、この家を拠点にして少女が言っていた﹁まぼろしのもの﹂
をさがせ、ということなのだろうか。
いくらかこじつけに近い考え方のようにも思えたが、ほかに自分
を納得させるだけの考えも思い浮かばない。
そういえば、﹁裏にお父さんがいる﹂とも言っていた。その人に
会って話を聞けば︵さっきの女の人は一方的にしゃべるだけで、こ
ちらが聞きたいことは全く聞けなかった︶、もう少しはっきりした
事情をつかめるかもしれない。
﹁試練﹂のためにも、状況を理解するためにも、とにかく情報が
足りないのだ。セトは﹁お父さん﹂に会ってみることにして、家の
裏手に回った。
家の裏手は、セトが想像したとおり、そこそこの広さの庭のよう
な空間があり、その奥には小さいが家畜が飼われていそうな小屋も
あった。
そして庭の片隅で、女性の言っていたとおりに、薪割りをする男
性の姿があった。陽が落ちかかっていることもあって今は風が涼し
く、過ごしやすい陽気だが、薪割りの斧を振っていればそうはいか
ないのだろう。男性は上着を身につけておらず、よく鍛えられたた
くましい肉体を外気にさらしていた。
体つきは立派だが、背丈はセトよりも若干大きい程度だ。とにか
く話を聞いてみよう、とセトは男性に近づいた。
男性はこちらに背を向けた状態で薪を割っていたが、セトの気配
に気がついたのか、動作を止め、こちらを振り返った。
そしてセトの姿を認めると、身を完全に起こして声をかけてきた。
﹁よう、おまえか﹂軽い呼びかけだった。
だが、その声を聞き、その顔を見た瞬間、セトは身の毛がよだつ
287
感覚とともに、ずっとぼやけていた頭の一部が猛烈な勢いで記憶を
取り戻すのを感じた。
その男は無表情でこちらを見下ろしている。右手には剣が握られ
ている。そしてその剣先は││自分の胸を貫いている。
急速に色がついて鮮明になった自分の記憶。セトはすべてを思い
出した。そして今、目の前にいるこの男は。
﹁フェイ・トスカ!﹂セトは叫んだ。そして、男に向かって一も二
もなく駆けだしていた。
何か考えがあっての行動ではない。何しろ武器も持っていないの
だ。だが、とにかくこの男に向かっていかなければいけない、とい
う切迫した使命感が記憶とともにあふれだして、セトは自分を制御
できなくなっていた。
男││フェイ・トスカは、自分に向かって敵意をむき出しにして
駆けてくるセトを見て、驚いた表情を浮かべた。その手には薪割り
用の斧が握られている。
だが、フェイはその斧を邪魔にならないところにそっと置いた。
そして、つかみかかろうとするセトの腕を自らの腕でからげて、
そのままセト自身の力を使って反対側へ放り投げた。
一瞬セトの体が浮き上がり、次には地面へと落とされる。
だが、落ちたのは柔らかい下草の上だったので、セトは一瞬息が
詰まっただけですぐに起きあがることが出来た。
あわててもう一度フェイ・トスカに向き直ると、全く緊張感の伴
わない顔でこちらを見ていた。
﹁なんだ急に。遊んでほしいのか?﹂
﹁なっ││﹂
あまりに予想外の反応に、セトは二の句が継げなかった。
目の前の男はフェイ・トスカだ。それは間違いない。だが雰囲気
がまるで違う。自分たちの前に立ったときの不遜な態度や、初めて
セトと視線を合わせたときの剣の切っ先のような冷たい視線とは似
ても似つかない。
288
その表情から、優しさを感じたのだ。
セトは激しく戸惑い、動けなくなってしまった。背筋を冷たい汗
が流れるのが分かった。
どういうことだ?ひょっとして、この男が少女の言っていた﹁ま
ぼろし﹂なのだろうか。
セトは教えられた言葉を唱えてみたい誘惑に駆られたが、思いと
どまった。まぼろしを打ち破る魔法を使えるのは一度きり、失敗し
たら目覚めることはない、という少女の言葉を思い出したからだ。
セトが緊張を解くことが出来ず、かといって再びとびかかること
も出来ないでいるのを、フェイ・トスカはすこし戸惑ったような│
│見方によっては心配しているようでもある││様子で見つめてい
る。
そこへ、セトの背後から声がかかった。
﹁あなたーっ﹂
遠くへ呼びかけるようなその声を聞いて、セトはようやく体を動
かすことが出来るようになった。振り返ると、先ほどの女性がこち
らへ向かってゆっくりと歩いてくる。料理の最中だったのか、少し
汚れの目立つ前掛けを身につけていた。
﹁シフォニア。どうした?﹂
背後のフェイ・トスカが女性にそう声を返すのを聞いて、セトは
また衝撃を受けた。
お父さんはフェイ、お母さんはシフォニア。
それは、セトがグレンデルに一度だけ教えてもらった、自分の両
親の名前だったはずだ。
セトはまばたきすることも忘れて、女性を凝視した。顔立ちの整
った美しい女性だ。大きめの瞳に少女らしい愛らしさを残しながら、
大人の落ち着きがそこに違和感なく同居していた。背中に伸ばした
黒髪は、やはり陽光に透けると明るい翠色に輝くようだ。
だが、やはり見覚えはない。とはいえそれは当然のことともいえ
た。セトは母親の姿を覚えていないし、肖像画などを見たこともな
289
いのだから。
シフォニア、とセトの母の名で呼ばれた女性はセトを追い越すと、
フェイ・トスカの側まで行って立ち止まった。
﹁ねえフェイ、悪いのだけれど、下のタッカーさんのところへ行っ
てきてくださらない?私、ぶどう酒をお願いしていたのにもらって
くるのを忘れてしまったの﹂
﹁今からか?﹂
﹁あなたが、今日はお酒なしでもいいというなら明日私が取りに行
くけれど?﹂
﹁・・・すぐ行ってくるよ﹂
フェイ・トスカとシフォニアは身体を寄せあってそんな会話をし
た後、頬がふれあう程度の軽いキスを交わした。
﹁じゃあ、セト。薪割りの残りは頼んだ﹂
フェイ・トスカはこちらへ向かって無言で目を見開いているセト
をみてちょっとだけ怪訝な顔をしたものの、そのことには特にふれ
ずにそう言付けをして、さっさとその場を離れていった。
﹁セト、よろしくね。お母さんは夕飯の支度に戻るから﹂
シフォニアはそう言いながらセトのそばを通り抜けようとして│
│突然ひょいと顔を近づけ、今し方フェイ・トスカと交わしたのと
同じ、互いの頬をくっつけるような軽いキスをセトに見舞った。
セトはびっくりして、思わず盛大に飛び退ってしまった。だがシ
フォニアはとくに気にした様子もなく、﹁変な子ね﹂と軽い笑いを
浮かべて家の中に戻っていった。
その場にはセトがひとり残された。セトはやっとのことで緊張を
解いて、詰めていた息をおおきく吐きだした。
あのふたりは、いったい何者だ?
セトの頭の中で、疑問が渦を巻いている。あの男は確かにフェイ・
トスカだった。直接会ったのは一度きりだが、忘れられるはずもな
かった。ほんの少し前まで霞がかかったようにぼやけていた記憶は
すっかり戻っている。自分の胸に剣を突き立てられている光景も、
290
その剣を握っている男の顔も。
だが、まとっている空気が違う。あの暗闇色に輝く鎧を身につけ
ていないからだろうか。きっとそれだけではないはずだ。
そして、あの、シフォニアと呼ばれた女性。シフォニアは母の名
だ。そして彼女はセトに向かって自分のことを﹁お母さん﹂と言っ
た。そしてセトに親しげに接してきた。
彼女はセトの母親なのだろうか?
セトが母親について知っていることは、シュテンでの別れの際に
グレンデルに教えられたことがすべてだ。シフォニアという名前で
あること。王国の姫君で、たいそう美しかったこと。そして、戦争
に敗れたことで命を落としたこと。
そうだ。お母さんは死んでしまったんだ。
それなら、あの女性が母親であるなどありえない。それに、お母
さんはお姫様だったんだから、こんな森の中の小さな家に住んでい
るはずはない。
セトはそれで自分を納得させようとしたが、心のどこかがそれに
反発していた。あの女性は美しかったし、歩く姿を見るだけでもき
ちっとしていて、どこか気品を感じさせる。
セトは頭を振った。ちっとも考えがまとまらない。
そもそも、ここがどこかもわからない。山の森だからか、セトの
知っている森とは生えている樹木の種類なども違っているようだ。
ひょっとして、この世界そのものが、魔法か何かでつくられたま
ぼろしの世界なのだろうか?
それなら、答えは簡単だ。今すぐ教えられた言葉をつぶやけば、
それで試練は終わりということになる。だが、その考えをすぐに実
行に移すことは、やはりはばかられた。
魔法を使えるのは一回だけ、という少女の言葉が思い出され││
セトははっとした。
あの空間にいた銀色の髪の少女。あれはシイカじゃないか。
セトは魚の小骨のようにのどの奥に引っかかっていた少女のこと
291
をようやく思い出して安堵し、同時に愕然とした。いくら寝ぼけた
ような状態だったとはいえ、妹のことを忘れていたなんて。しかも、
直接言葉を交わしても思い出せなかった。
それにしても、どうしてあの場にシイカがいたのだろう?しかも
向こうはセトを忘れていたわけではないのに、ずいぶん他人行儀な
話し方だった。
セトはもう一度会って話を聞きたいと思ったが、この森へ来てす
ぐにでてきた扉は消えてしまった。おそらく﹁試練﹂を無事に終え
なければ会うことはできないだろう。
そういえば、あの場にいたほかの人たち、ガンファやユーフーリ
ン様、それにマーチは無事なのだろうか。あの場でのセトの記憶は、
フェイ・トスカに剣を突き立てられたところで途切れている。
顔を思い浮かべると会いたくなってくる。セトは魔法の言葉を口
にしたい衝動に駆られて、何とか抑え込んだ。シイカ曰く、﹁失敗
したら目覚めることはない﹂のだ。つまりみんなに会うこともでき
なくなるのだろう。
この世界そのものがまぼろしなのか、あるいはセトの両親を名乗
るあのふたりなのか、それとももっと別の何かなのか。決めつけて
しまうにはまだ情報が足りないように感じられた。
とにかく、もう少し様子を見よう。まぼろしがこの世界であるに
しろ、あの両親であるにしろ、探っていけばきっとどこかでぼろが
出るだろう。フェイ・トスカは警戒しなければいけないが。なにし
ろ自分を殺そうとした父なのだから。
今後の方針が定まったところで、セトは辺りを見回した。考えご
とをしている間にだいぶ陽も落ちてきて、空は端の方がだいぶ暗く
なっている。
そういえば、薪割りを頼まれていたのだ。フェイ・トスカに言わ
れたことを、律儀にこなすのはなんだか変であるような気もしたが、
あのふたりについて様子を見るなら言いつけは守っておいた方がい
いだろう。それに、考えごとのせいで頭がもやもやしていて、とに
292
かくすこし身体を動かしたい気分でもあった。
フェイ・トスカが残していった薪材は、まだ結構な量が残ってい
る。セトはさきほどまでフェイ・トスカが振るっていた斧を手に取
ると、しばらく薪割りに集中することにした。
﹁セトったら、まだ薪を割っていたの!﹂
背後から声をかけられて、セトは動きを止めた。
手にしていた斧を薪割りの台にしていた切り株に突き立ててから
振り返ると、角灯を手に女性が立っていた。シフォニアである。
驚かれて初めて、セトはあたりがすっかり暗くなっていることに
気がついた。
﹁もうご飯ですよ。お父さんも帰ってきているから、セトもおいで﹂
シフォニアは優しい微笑みとともにそう告げると背中を向けた。
セトは一瞬だけ迷ったが、結局それについて行くことにする。
角灯を前にかざして先をいくシフォニアは、やはり背筋がぴんと
伸びている。それに、草地を歩いているのに足音も静かだ。たとえ
ば農業に従事している人間ではこういう歩き方はできない。マーチ
のように身体を鍛えているものは姿勢もいいし、森の中で静かに歩
くこともできるが、それは技能として修得しているのであって、今
目の前を歩いている女性のそれとは違う。この女性はいかにも自然
に、滑るように歩くのだ。
それがもとはお姫様だったからかどうかまではセトにはわからな
かったが、ともかく今までセトが出会ったことのある、どんな種類
の人間とも違っているように思えた。
シフォニアとセトは家をぐるりと回って、正面の入り口から中に
入った。家にはいる前に、シフォニアは持っていた角灯を入り口の
扉の上に吊した。
﹁消さなくていいの?﹂セトの感覚では、灯りは貴重品だ。
﹁こうしておけば、夜中に魔物が寄ってこないのよ﹂シフォニアは
そう答えた。﹁それに、これは魔法の灯りだから、風が吹いても消
293
えないし、火事の心配もないのよ﹂
﹁へぇ・・・﹂セトは驚いて、改めて角灯をみた。魔法の灯りは街
灯などにはよく使われているから、セトも灯りそのものは初めて見
るわけではなかったが、こうして人が携帯できるようにしてあるも
のは初めてだった。確かに火を使うよりも安全だが、魔法使いはそ
んなにたくさんいるわけではないし、ろうそくを買うよりお金はか
かりそうだが・・・。
﹁お父さんが魔法を使えるおかげで、灯りを使うのにお金の心配が
いらなくて、うちはとても助かっているわ﹂
そう言われて、セトはフェイ・トスカが魔法を使うということを
思い出した。なるほど、自分で魔法を使えればお金はかからない。
だが、フェイ・トスカが灯りをつけるために宝珠に魔力を込めて
いる姿がセトには想像できなかった。
扉を開けたシフォニアに続いて中にはいると、香ばしく焼けた肉
のにおいがセトの鼻腔をくすぐった。
そのにおいを嗅いだとたん、自分がとてもおなかを空かせている
ことに気づいたセトは、そのままふらふらとテーブルに向かおうと
して、シフォニアに止められた。
﹁こら。まずは手を洗いなさい。薪割りで汗もかいたみたいだから、
顔も洗っておいで﹂
セトは言われるままに台所へ行き、水瓶の水で手と顔を洗った。
そばにあった麻の手ぬぐいで濡れた顔と手を拭き、それから料理の
並べられているテーブルへ向かおうと振り向いたが、足が止まって
しまった。
テーブルの一席に、フェイ・トスカがいたからである。
フェイ・トスカがセトの﹁お父さん﹂である以上、当然のことで
はあるのだが、頭でそう考えただけで割り切れるものではない。
﹁どうした、セト﹂そのフェイ・トスカが声をかけた。
その声は先ほど裏庭でセトに声をかけたときと同じ、セトに対し
294
て何の緊張も抱いていない声だった。セトはその声と、空腹の両方
に背中を押されて席に着いた。隣にはシフォニア。フェイ・トスカ
は彼女の正面、つまりセトの斜め前に座っている。
﹁うわあ・・・﹂テーブルの上の光景を見たセトは、思わず驚きを
声に出してしまった。
テーブルには、三人分の料理がそれぞれ皿に盛られていた。メイ
ンディッシュは地鳥のロースト。きれいに切り分けられ、その上に
セトがみたこともない、赤紫色のソースがかけられている。手前の
深皿には、なにか穀物を似たお粥のようなものが盛られている。パ
ンがないので、これが主食なのだろうか。テーブルの中央にはサラ
ダがある。これだけは全員分まとめて一つのボウルに盛られている。
セトからしたら、お祭りの時になら食べられるかも、というくら
いに豪華な料理だ。今日は何か特別な日なのだろうか。だが、シフ
ォニアとフェイ・トスカは平然としている。
﹁これ・・・本当に食べていいんですか?﹂セトは今にも大きな音
を立てそうなおなかを手で押さえながら聞いた。
﹁もちろん﹂シフォニアは笑顔でうなずいた。﹁ちゃんとお祈りを
してからね﹂
﹁お祈り?﹂セトはオウム返しにそう言ったが、シフォニアは気に
せず胸の前で両手をくみ、目を閉じた。みれば、フェイ・トスカも
同じようにしている。セトはどうしたものかとふたりを見比べてい
たが、薄目をあけたシフォニアに見咎められて、あわててふたりに
ましま
倣って手を組み、目を閉じた。
﹁神は天に在し、人は地にあり﹂フェイ・トスカの声が朗々と響い
た。
﹁今日の平和に感謝を。一日の糧を得られたことにも感謝を。すべ
ては神の御心のままに、願わくば我らを明日もお導きくださいます
よう﹂
﹁お導きくださいますように﹂シフォニアがフェイ・トスカの後に
続いてそう言ったので、セトも言った方がいいのかと、とにかく口
295
をもごもごと動かした。
﹁さあ、食おう。今日の料理もうまそうだ﹂フェイ・トスカのその
声とともに、静かな空気がまた動き出した。
セトが目を開けると、フェイ・トスカもシフォニアも、とっくに
組んでいた手を解いている。フェイ・トスカはぶどう酒の入った瓶
を手に取ると、自分、シフォニア、そしてセトの順に素焼きのグラ
スへと注いだ。
﹁はい、かんぱーい﹂
隣のシフォニアがグラスを持ってセトに寄ってきた。セトがグラ
スを手にすると、そこに少々強引にグラスを合わせる。さらに、フ
ェイ・トスカもグラスを合わせてきた。乾いた音が立て続けにいく
つか鳴る。
ふたりがそのままグラスへと口を付けたので、セトも流れで口を
付ける。ぶどう酒は水で割ってあるらしく、それほどアルコールに
なれていないセトでも飲みやすかった。
﹁いっぱい食べてね。今日は自信作なの﹂
シフォニアに言われて料理を見ると、自然に口の中に唾がたまっ
てきた。
地鳥のローストをひと切れ摘んで口に入れる。皮はパリパリで、
肉には肉汁がたっぷり含まれていた。ただでさえ肉を口にする機会
が少ないセトにはそれだけでも十分なごちそうである。
さらに、かかっているソースはセトが今まで味わったことがない
ものだった。なんと甘いのである。ただ甘いのではなくて、甘酸っ
ぱい。この赤紫は何か果物を使っているのだろうか。甘さも酸っぱ
さも程良くて、肉の脂とよく絡んだ。
セトはこれまで料理の味付けといえばしょっぱいか酸っぱいか知
らなかった。甘いものは甘いものであって、それを肉にかけて食べ
るなんて考えたこともなかったのだ。
夢中になって立て続けにもうふた切れ口に入れてしまう。それを
見ていたシフォニアが﹁同じものばっかり食べていてはだめよ﹂と
296
注意した。
そこで、深皿に盛られた穀物粥をさじですくって口にすると、こ
れも食べたことのないものだった。粥自体は病気の時などに食べた
ことがあるが、もっとどろどろしていた記憶がある。これは適度に
とろりとしていて、しっかりと穀物の粒の感触があった。
﹁これは何ですか?﹂聞いてみた。
﹁お米のリゾットよ。セトはお米、食べたことなかったの?﹂
食べたことはなかったが、シュテンにいた頃に教えてもらったこ
とがある。ずっと東の方や、南の方ではパンよりもお米を主に食べ
る地方もある、と。
サラダも、オイルをたっぷり使った││でもぜんぜん脂臭くない
││ドレッシングがたっぷりかけられていて、とてもおいしかった。
セトは目の前のふたりに対する警戒心などすっかり忘れ、夢中で食
べた。リゾットはおかわりし、地鳥のローストはシフォニアのお皿
に残っていた分を︵そんなに気に入ったのなら、もっと食べる?と
いわれて︶分けてもらってまで食べた。
ボウルに残っていたサラダも全部平らげて、セトはお腹をさすり
ながらいすの背もたれに寄りかかった。
﹁ごちそうさまでした・・・﹂
﹁大丈夫?ちょっと食べ過ぎじゃない?﹂
ちょっとどころではない。食べ過ぎだ。
﹁明日腹をこわしても知らないぞ﹂フェイ・トスカがからかうよう
な口調でそう言ってきても、返答する気も起こらなかった。
しばらくいすの上でお腹をさすっていたが、苦しいのが落ち着く
と急速に眠くなってきた。そのままうとうとしていると、食事の後
かたづけを終えたシフォニアが近づいてきた。
﹁ほら、セト。寝るのは自分の部屋でね。あなた!セトがまねする
から、そこで寝ないで﹂
食事が終わってからもずっとぶどう酒を飲んでいたフェイ・トス
カも、セトの向かいでうとうとしていたのだった。
297
セトは、奥にいくつかある小部屋のうち、自分の部屋がどれだか
わからないので、寝ぼけているふりをして、シフォニアにつれてい
ってもらった。
﹁はい、寝間着もここにおいておくから、ちゃんと着替えてから寝
るのよ﹂
﹁はい・・・﹂
﹁まったく、今日はどうしたの?ずいぶん手間がかかるわね﹂
シフォニアの言葉は不満げだが、実際の口調はそうでもない。表
情などを見ると、どこか嬉しそうですらあった。
﹁少しくらい手間をかけさせてくれた方が、お母さんは嬉しいけど・
・・﹂
セトには聞こえるともなしにそうつぶやいた。
﹁おやすみなさい﹂
﹁はい、おやすみなさい﹂
シフォニアは挨拶がすむと、セトの頬にまた軽くキスをしてから
部屋を出ていった。
セトは裏庭でされた時ほどには驚かなかった、というよりまたさ
れるのかな、と少し覚悟していたので、飛び上がったりはしなかっ
たが、それでもしばらくはドキドキと心拍があがるのを抑えられず
にいた。
ずっと母親がいなかったから、単にスキンシップになれていない
ということもあるだろう。だが、たとえば隠れ里で一緒に暮らした
マーチの母親、ソナタもよく抱きついてきたりしたが、そのときに
感じたドキドキとも少し違うように思える。
あの人が本当にお母さんだったなら││。
そう考えそうになって、セトは思い切り首を振ってその考えを頭
から追い出した。
お母さんはもう死んでしまったんだ。だから、あの人はお母さん
ではない。誰かがそのふりをしているか、﹁試練﹂が見せているま
298
ぼろしなんだ。
そう考えると、ようやく気持ちが落ち着いた。セトは用意された
寝間着に着替え、寝台にその身を滑り込ませた。
寝台はふかふかしていて、暖かかった。セトはほどなく眠りに落
ちた。
翌日、セトはものの見事に腹をこわした。
フェイ・トスカは﹁そら見ろ﹂といってセトを容赦なく笑ったが、
シフォニアが呼んだ医者の診断に寄れば、単なる食べ過ぎではなく、
食あたりとのことだった。原因はローストにかかっていたソースで、
使われていた野いちごに毒性のあるものが混ざっていたらしい。
だが、フェイ・トスカとシフォニアは何ともないし、セトの症状
もそこまでひどいものではなかったので、医者は一日安静にしてい
れば治るでしょうといって帰っていった。
医者が帰ると、フェイ・トスカも﹁じゃあ、俺は仕事に行ってく
る﹂と告げてさっさと出て行ってしまった。
シフォニアはほとんどずっとセトのそばにいて、セトに水を飲ま
せてやったり汗を拭いてやったりと、かいがいしく世話をしている。
セトは定期的にお腹を襲う鈍痛に苦しみながらも、不思議と安ら
ぎを感じてもいた。
セトはあまり病気をしたことがない。シュテンでの暮らしは貧し
く、病気にかかるのだって結構な負担になるからだ。
だが、それでもかかってしまったときは、グレンデルが面倒を見
ている子供たちが、代わる代わるセトの世話を焼いてくれた。もち
ろん、ほかの子供が病気にかかれば、セトも世話を焼く方へと回る。
最後にはセトとシイカのふたりだけだったグレンデルの孤児院も、
多いときには十人ほどの子供がいるときもあった。そんなときは病
気で寝込んでいるときも、どれだけ気をつけたところで、やはり騒
がしくなってしまう。
今、シフォニアはほとんど口を開かない。セトもしゃべらないが、
299
シフォニアはまるでセトの気持ちが分かっているかのように、のど
が渇けば水を飲ませてくれ、寝苦しくなれば汗を拭いてくれた。
なにもなければ、ただ隣で座っているだけである。今もそうだ。
だが、セトは昨日感じていたような警戒心を、この女性に対しては
抱かなくなっていた。
この人は本当のお母さんではない。でも、そうなのかもしれない
と思わせるくらい、暖かさを感じている。
初めて知る暖かさ。セトは戸惑いを感じながらも、この女性を少
しずつ受け入れている自分を止めることができないでいた。
300
竜の試練︵二︶
四
セトがフェイ・トスカとシフォニアの家に来て、十日が経った。
セトの食あたりは医者の見立て通り一日ですっかり治り、その翌
日からは家の外へでて情報収集することが可能になっていた。
家から続いている曲がりくねった下りの道を行くと、やがて小さ
な村落があって、セトはそこでいろんな話を聞くことができた。
まず、ここはどこなのか。外れとはいえこの村に住んでいる子供
がどうしてそんなことを聞くのか、と聞かれたおばちゃんは変な顔
をしたが、それでも親切に教えてくれた。
それによれば、ここはファーリの村といって、位置的にはサンク
リーク王国の北西の端にあり、山を越えてさらに北へ行けば大陸の
北を横切る大河、エルストラーデ川を挟んですぐにマホラ公国があ
るのだという。
セトはマホラ公国という国は初めて聞いたが、サンクリーク王国
についてはシュテンで教師をしてくれた魔族に教えてもらっていた
し、エルストラーデ川も大陸で屈指の大河だから、見たことはない
けれども知っている。
セトが暮らしていたシュテンは大陸でも西の端、サンクリーク王
国は逆に東の端にある。王国の領土は広いとはいえ、東側であるこ
とには変わりがない。セトは周囲に生えている草木や、森にいる動
物に見たことのない種類が多くいる理由を理解していた。
ただ、セトからすればサンクリーク王国というのはすでに滅んだ
国だ。マホラ公国にしても、そもそも魔王は国という概念をすべて
潰してしまったのだから、存在しているはずがなかった。なのに、
おばちゃんはさも当然とばかりにふたつの国の名前を出したのだ。
そもそもこの村は、マーチと出会った隠れ里のように、魔族のい
301
ない村だった。あの里と違うのは、外界との接触を断つということ
を全くしていないところだ。魔法で護っているような気配もない。
それどころか先日は、村の外から幌馬車が来て、広場で市を開いて
いた。聞けば定期的にこの村へ来ていて、野菜や山でとれる果実な
どを仕入れるついでに街で作られている雑貨などを売るのだという。
彼らも皆人間だった。
フェイ・トスカとシフォニアについては、酒場の吟遊詩人が歌物
語を聞かせてくれた。曰く、勇者フェイ・トスカは見事魔王を討ち
果たし、王都へ凱旋して愛しのシフォニア姫と結ばれた。だが元は
下級騎士であるフェイ・トスカはほかの貴族から疎まれ、さまざま
な嫌がらせを受けるようになる。嫌がらせが姫にまで及ぶことを危
惧したフェイ・トスカは、たとえ子供が産まれても王位を次がせる
よう
気はないと王の御前で宣言すると、なんと姫を連れて王都を出奔し
てしまった。
その後、勇者と姫の行方は杳としてしれず、しかし一説にはとあ
る山里に落ち着いて幸せに暮らしているという││。
吟遊詩人がそこまで歌い終わると酒場の客はみなやんやの喝采、
そのうち客のひとりが少々わざとらしい仕草で﹁そういえば、ファ
ーリの村のはずれには││?﹂と声をあげる。と同時に、客の騒ぎ
もいったん収まる。
すると、吟遊詩人はたいそう大げさに人差し指を唇に当て、﹁そ
こから先は、言わぬが花というものです﹂
しばしの沈黙の後、吟遊詩人が優雅に礼をすると、今度こそ客は
みな手をたたいて大騒ぎ。吟遊詩人にチップが飛んだ。今のやりと
りまで含めて、歌の一部だったのだ。
吟遊詩人の歌の通りであるならば、この世界はセトの知っている
世界とは歴史が違う。フェイ・トスカが魔王に勝利した世界なのだ。
だから、人間が堂々と暮らしているし、王国も滅びていない。そし
て、母も生きている。
302
試練の答えは、簡単なものだった。やはり、まぼろしなのはこの
世界そのものだ。あるいは、勇者が魔王に勝利したという事実がま
ぼろしともいえる。いずれにしても、セトはこれ以上なにも探す必
要はなかった。教えられた言葉をセトが唱えさえすれば、まぼろし
の世界は消え去り、セトは目を覚ますことができるだろう。
だが、セトはそうしないでいた。セトは、このまぼろしを、すぐ
に消してしまうのは惜しいと思うようになっていた。
試練のことが頭になければ、この世界がまぼろしだなどと思わな
かっただろう。本当の世界と同じように、ここにも日が昇り、日が
沈む。山の中腹だからか気候はおだやかでいつも涼しいが、時には
雲がかかり雨も降る。畑に水をやれば野菜が育つし、家畜の鶏は毎
日卵を生む。
村人は気のいい人ばかりで、セトにも親切だった。あの吟遊詩人
の歌を知っているなら、セトが勇者と姫君の間の息子であることも
知っているはずだが、とくに遠慮を見せることもない。
なにより、セトは人間がこんなに生き生きと暮らしている姿を見
たことがなかった。あの隠れ里ですら、どこか抑圧され、常に緊張
感があったように思える。
そしてもちろん││。
﹁あ、セト。おかえりなさい﹂
陽も落ちかけたころ家に戻ると、いつものようにシフォニアが前
掛けをつけて夕食の支度をしている。
﹁ただいま﹂
シフォニアは手を止めると、セトのそばまできた。
﹁ねぇ、ほら。小麦粉を手に入れたのよ。セト、パンが食べたいっ
ていっていたでしょう。明日にでも、作り方を教えてくれる?﹂
﹁いいけど・・・。僕が食べていたのは本当に簡単なやつだよ。発
酵もさせないし﹂
﹁それでいいのよ。セトのために手に入れたんだから﹂
この世界では、セトはずっとシフォニアとフェイ・トスカの元で
303
育ったはずだが、セトが本来は知らないはずの西方の食べ物や習慣
を知っていても、あまり気にされることがなかった。そこは作られ
た世界らしく、都合よく解釈されているのだろうか。
﹁ただいま﹂そこへ、フェイ・トスカも戻ってきた。
﹁おかえりなさい、あなた﹂シフォニアが寄っていって、いつもの
ように軽い口づけを交わす。シフォニアはセトに対しては、セトが
嫌がるからか寝る前など限られたときにしかこうしようとしないが、
フェイ・トスカに対してはほとんど顔を合わせるたびにキスをして
いる。見ているセトの方が恥ずかしくなるくらい、このふたりは仲
睦まじい。
﹁よう、セトも戻ってたのか﹂
フェイ・トスカがセトにも笑顔を向ける。こうされるのは未だに
少しなれないところがある。
﹁明日は、セトにパンづくりを教えてもらうの﹂
﹁なんだ。パンなら俺だって、旅の最中によく食べてたし、作り方
だって知ってるぞ﹂
﹁いいのよ。セトに教えてもらうんだから﹂
﹁ちぇっ﹂
フェイ・トスカがすねたように舌打ちをして、シフォニアから離
れた。セトのそばを通り過ぎるときに、セトの頭をぽんぽんとたた
き、﹁人の嫁さんをとるなよなぁ﹂と言った。
セトがどう答えたものか戸惑っていると、﹁私は確かにあなたの
お嫁さんだけど、セトの母親でもあるんです﹂とシフォニアが言い
返した。
フェイ・トスカはそれを聞くとお手上げのポーズを取って、﹁武
器の手入れをしてるから、夕飯ができたら呼んでくれ﹂と言い残し
て自室へ入っていった。
﹁自分の息子に嫉妬するなんて、困った人ね﹂シフォニアははにか
むように笑いながらそういうと、夕飯の支度を再会した。
セトは不思議な気持ちだった。フェイ・トスカもこの人も、きっ
304
と魔法か何かで作り出されたまぼろしの一部にすぎない。だけど、
今胸を占めている暖かさは間違いなく本物の自分の感情で、しかも
それはこれまで感じたことがない種類のものだった。
試練に時間制限はないのだ。それならもうすこしだけ、この暖か
さに浸っていたい。現実には起こり得ない家族との暮らしを、もう
少しだけ味わっていたい。セトの心の隅で密やかに、だけれど次第
にはっきりと、その感情は育っていった。
﹁ねぇ、セト。ちょっと手伝ってくれないかな?﹂
﹁うん、母さん﹂
台所からのシフォニアの声に、セトは笑顔で答えていた。
さらに時が流れた。
セトがこの﹁試練﹂の世界へと入ったとき、まだ春の匂いを残し
ていた季節はいつしか夏を過ぎ、秋の入り口へとたどり着いていた。
森の中にあるセトたちが暮らす家の周辺ではさまざまな茸や果物
の果実が採れるようになり、セトはフェイ・トスカらとともに森へ
はいってはそれらを収穫した。ときには野生のイノシシなどを狩る
こともあった。
また、セトの家にはごく小さな畑しかなかったが、ファーリの村
は稲作農家が多く、開けた山腹に広大な水田があった。そこに植え
られた稲はいまやしっかりと稲穂をつけ、収穫の時へ向けてその身
を青から黄金色へと少しずつ変化させている。
本格的に収穫の時期になれば、水田を持っていないセトたちも含
め、村人たちが総出で収穫を行い、それが終われば村をあげてのお
祭りになるのだそうだ。セトは楽しみだった。
そして今、セトが夢中になっていることといえば、それはフェイ・
トスカに剣術を習うことだった。
シフォニアへの警戒心は早いうちに薄らいだものの、やはりフェ
イ・トスカに対しては同じようにはいかなかった。シフォニアのよ
うにかいがいしく世話を焼いたり、スキンシップをとってこようと
305
はしないが、ここではフェイ・トスカもやはり父親らしく、セトを
優しく見守り、時には声をかけてくる。だがあの日、丘の上で対峙
し、容赦なく自分を攻撃したフェイ・トスカの表情がそこにかぶさ
ってくるので、セトはそれに素直に答えることはできないでいた。
それが変わったのは、六の月も中頃にはいったある日のことがき
っかけだった。
夕飯の支度ができたからお父さんを呼んできて、と頼まれたセト
は断るわけにもいかず、抵抗を感じながらも初めてフェイ・トスカ
の自室へと入った。
フェイ・トスカは食事前に自室にはいるときは、たいてい﹁武器
の手入れをしてくる﹂と言い残していくことが多いが、この日もそ
の言葉通り、いくつかの武器を床に広げていた。
今のフェイ・トスカは戦いを生業にはしていない。森で収穫でき
る物を売ったり、村で力仕事を手伝ったりして収入を得ている。ま
た、村にはフェイ・トスカをのぞいて魔法使いがいないので、魔法
が必要な仕事があると結構な臨時収入になるようだ。
さが
武器を使うことはいまではほとんどないはずだが、それでも長年
戦士として生きてきた性なのか、手入れを怠ることはしなかった。
﹁セトか。夕飯か?﹂
﹁うん││﹂
フェイ・トスカの声に答えながらも、セトの目は広げられた武器
へと向けられていた。短剣が四本、中には儀礼用なのか、柄には宝
石が嵌められ、鞘に透かしの彫刻が彫られている物もある。
刀身が一番長い両刃の剣は、セトにとってなじみの深い物だった。
セトがシュテンをでるときグレンデルより手渡され、それからずっ
とセトの愛剣だった長剣である。たしかグレンデルの話では、グレ
ンデルがフェイ・トスカと戦ったときに使い物にならなくなり、グ
レンデルの元へ残していったと語っていたが・・・。この世界では
どういう経緯かフェイ・トスカの元にある。刀身はやはり鋳直され
ているのか、十分に使えそうである。
306
そして、それよりもいくらか短い刀身を持つ、やはり両刃の直剣
に、セトの目は釘付けになっていた。
見た目が特別というわけではない。だがその剣は、まるで剣自身
が光っているかのように、ほかの武器とは異なる輝きを放っている
ようにセトには見えた。
﹁これは││﹂思わずかがみこんだセトが剣へと手を伸ばす。
だが、フェイ・トスカはセトの動きをみるやその剣を引っ込めて
しまった。剣は鞘へと収められ、輝きも消えてしまう。
﹁こら、勝手にさわるな﹂
﹁ご、ごめんなさい﹂
フェイ・トスカに咎められてセトは謝ったが、相手は本気で怒っ
ているわけではないようだった。セトを見て、少し感心したように
うなずいている。
﹁おまえ、魔法の素養はないくせに、この剣のことはわかるんだな。
この剣がなんだか知っているのか?﹂
﹁え?いいえ・・・﹂セトは首を振った。フェイ・トスカの持って
いる武器を間近で見るのはこれが初めてだった。
﹁ふうん。だけど、村へ降りたときに、一度くらいは聴いたんじゃ
ないのか?魔王退治の歌物語﹂
それなら、確かに聴いた。というより、半ば強引に聴かされたの
だ。村人たちが言うには、その歌物語は今世界で一番有名で、子供
から大人までだれでもそらんじることができるほどだという。
勇者が魔王にとどめを刺すときは、こんな感じだ。勇者は魔王の
爪をひらりとかわし、光かがやく剣を振るった。破邪の剣が魔王の
心臓を突き破り、魔王はあえなく断末魔。あっという間にその身は
崩れ、灰となって風に散らされたのだった││。
その一節を思い出して、セトはあっと声をあげた。
﹁ってことは、その剣は││﹂
﹁そうだよ。これが魔王を倒した、破邪の剣だ﹂
フェイ・トスカはそう言うと、情感のこもったてつきで剣の鞘を
307
なでた。
﹁魔王を倒したときに身につけていた装備は、どれもいろんな国か
らの借り物だったからな。鎧や盾なんかは返してしまったんだが、
これは例外なんだ﹂
﹁へぇ・・・﹂セトは改めて剣をみた。そういう思いで見ると、鞘
に収まっている今でさえ、光を放っているようにも見える。
また無意識に手が伸びて、フェイ・トスカにたしなめられた。
﹁さわるなって﹂
﹁ちょっとだけ﹂
セト自身こんなに武器に執着する自分に少々驚いていたが、破邪
の剣はとても魅力的に見えて、セトはちょっとでもさわりたい気持
ちが抑えきれなかった。だが、フェイ・トスカは許してくれず、立
ち上がると剣を壁に掛けてしまった。
﹁別に意地悪で言ってるんじゃないぞ。この剣は魔法の剣で、使い
手を選ぶんだ。未熟者がうかつにさわると、持てないどころかはじ
きとばされて怪我をする﹂
フェイ・トスカは別段セトのことを言ったわけではないのだろう
が、セトは﹁未熟者﹂という言葉を聞いて口をとがらせた。
﹁僕だって、剣を使えるよ﹂
﹁本当か?﹂
セトの抗議に、フェイ・トスカは半信半疑と言わんばかりの声で
答えた。
﹁本当だよ﹂セトがさらに言い募ると、フェイ・トスカはほかの武
器も片づけながら、
﹁それなら、明日から少し稽古を付けてやるよ。それなりに使える
ようなら、剣をさわらせてやってもいい。いや、そうだな││﹂そ
こまで言って少し考える素振りを見せ、﹁おまえ、来年はもう成人
だよな。よし、成人の儀式の時までに俺から一本とって見せたら、
儀式で使う剣をこの破邪の剣にしてやってもいいぞ﹂と言った。
セトは、つい先日成人の儀式について教えてもらった時のことを
308
思い返した。
成人の儀式は毎年春の頭に行われる。内容は地域によって様々だ
が、この地域では儀式の最後に、親から子へ︵親がいなければ村の
かんざし
長などから︶贈り物がされる。一般的に、男の成人には剣が、女の
成人には簪が贈られることが多いという。
剣は短剣であることが多いようだが、フェイ・トスカはその剣を
﹁破邪の剣﹂にしてもいい、と言っているのだ。ということは││。
﹁それって、破邪の剣を僕にくれるってこと!?﹂セトは飛び上が
った。その拍子にこれまでなかったほどフェイ・トスカに自分から
近づいてしまったが、そんなことも気にならない。
﹁一本とったら、だぞ。俺は手なんか抜かないからな﹂
フェイ・トスカが釘を刺しても、セトは浮かれた様子のまま、逆
に何度も﹁約束だよ!﹂とフェイ・トスカに念を押した。
フェイ・トスカを夕飯に呼びにきたのに、そんなこともすっかり
忘れてセトが騒いでいるので、ついにはシフォニアがやってきて、
﹁もう、お夕飯が冷めちゃうじゃないの﹂と小言を言ったのだった。
それ以来、セトは毎日のように時間を作ってもらっては、木剣を
手にフェイ・トスカへ挑んだ。薪割りをする裏庭が稽古場だ。
フェイ・トスカはとにかく滅法強かった。稽古を付けてもらうよ
うになってから最初の数日は、セトは素人同然にあしらわれ、一本
とるどころかまともに剣をあわせることもできなかった。
少しでも隙をつこうと動き回っても、フェイ・トスカは全く動じ
ることなく対応する。無駄に運動量ばかりが増え、セトが息も絶え
絶えに倒れ込むようになっても、フェイ・トスカは汗一つかいてお
らず、これ見よがしにあくびをされることもあった。
﹁おまえなぁ、闇雲に走り回ったって意味なんかないよ。もっと相
手をよくみるんだ﹂
﹁でも、父さんは全然隙がないし││﹂
﹁本当にそうか?俺だって人間なんだ。呼吸もするし、じっとして
309
れば身体のどこかが痒くなってくることだってある。たとえば息を
吐ききった瞬間をねらえば、相手は力を入れて防御することが難し
くなる。そういう瞬間を見つけるのが隙をつく、っていうことだ。
そのためには相手をしっかり観察しろ﹂
だが、そう言われたセトが足を止めてフェイ・トスカを観察しよ
うとすると、容赦なく間合いを詰められて木剣の腹で頭をたたかれ
た。
﹁棒立ちになってどうする。それじゃおまえが隙だらけだ﹂
なにしろフェイ・トスカはスピードが違う。セトがこれまで剣を
習った誰よりも素早く、正確な動きをした。セトが少しでも隙を見
せれば、すかさず木剣で叩かれた。ただし、ほとんど剣の腹である。
それだけ手加減されているのだ。
﹁踏み込みの速度も全然だな。振り込みが足りないのももちろんだ
が・・・そもそも、身体が細すぎるんだよ。背が小さいのも俺に似
ちまったしなあ。せっかく母さんが毎日おいしい料理を作ってくれ
るんだから、もっとしっかり食って筋肉つけろ!﹂
フェイ・トスカの言うとおり、セトの身体は同年代の男性に比べ
ると小さいし、細い。背丈は父親譲りとしても、身体の細さはずっ
と貧しい生活を送ってきて、一日一食ということもざらにあったか
らである。
だが今、セトの食生活はこれまでにないほど充実していた。フェ
イ・トスカは裕福というほどではないものの三人家族が生活するに
は十分な稼ぎを得ていて、セトは毎日しっかりと、栄養のある食事
をとることができていた。
何しろ成長期である。夏を越す間に、セトの身体は周りが驚くほ
どにしっかりと筋肉がつき、たくましくなっていた。背丈も少しは
伸びたようである。
秋になっても、セトは相変わらず毎日のようにフェイ・トスカへ
と挑んだ。たまに仕事で相手をしてもらえないときは、裏庭で薪を
310
割り、森を駆け回って体力づくりの日々である。
あるとき、フェイ・トスカと打ち合いをしているさなか、珍しく
相手が体勢を崩した。足下に少々大きめの木の枝があって、うまく
避けることができずにバランスを崩したのだ。
セトは千載一遇の好機とばかり、大上段からフェイ・トスカへと
打ち込んだ。だがフェイ・トスカは予想に反してまったく落ち着い
ていて、セトの一撃をあっさりいなすと無防備になった背後に回り
込み、左の手首をつかんでひねりあげた。
﹁いたたた!﹂セトはあっけなく悲鳴を上げた。
﹁あんな見え見えの誘いに引っかかるとはな﹂フェイ・トスカはセ
トを解放してやると、あきれ顔で苦言を呈した。
﹁やっと身体つきはいくらか見られるようにはなってきたが、おま
えには戦略ってものがないな。やみくもに突っ込んでばかりこない
で、相手を観察しろと言っているだろう。どれだけの期間俺と打ち
合いをしてると思ってる。さあ考えてみろ。俺がいつも軸足にして
いるのはどっちの足だ?﹂
﹁││右足﹂答えながら、セトはフェイ・トスカの言いたいことを
理解していた。
先ほどの状況を思い返してみる。フェイ・トスカが木の枝を踏み
つけたのは左足だった。軸となる右足は普段通りで、実際にはバラ
ンスは保たれていたのだ。左足と上半身を大げさに揺らしたことで、
セトを誘い込もうとしたのである。
そのことを告げると、フェイ・トスカはいくらか満足そうな顔で
うなずいた。
﹁そういうことだ。相手に隙がなければ隙を作ることも必要だし、
相手のそうした動きを見破ることも必要だ。・・・おまえはもっと
場数を踏まなきゃいかん。そうだな、今度自警団の招集がかかった
ときには、おまえも連れていくとするか﹂
村の男衆で構成されている自警団は、たとえば水田を荒らす魔物
が出現した際に招集がかけられる。そう機会が多いわけではないが、
311
実際に魔物と戦闘になることもあるのだ。
﹁本当に?﹂
セトが見上げるようにして確認をすると、フェイ・トスカはいく
らか考える素振りを見せた後、うなずいて見せた。
﹁本当は成人前の子供は参加させない決まりなんだが・・・。まあ、
おまえなら大丈夫だろう﹂
﹁ありがとう、父さん!﹂
セトは飛び上がって喜び、感謝を述べた。自警団に参加できるこ
ともそうだが、なによりもフェイ・トスカにいくらかでも認められ
ていることがわかったことがうれしかった。
その日の夕食で、フェイ・トスカがセトを自警団に参加させるこ
とをシフォニアに告げると、シフォニアは露骨に顔をしかめて見せ
た。
﹁魔物と戦わせるなんて・・・大丈夫なの?﹂
﹁別にひとりで戦わせるわけじゃない。自警団の一員としてだし、
なにより俺もついていくんだ。大丈夫さ﹂フェイ・トスカがそう言
っても、シフォニアは納得がいかないようだ。
﹁でも││﹂
﹁それに、セトだって来年成人だ。身の振り方を考えなきゃならん。
一人前に剣を使えるようになっておけば、いろいろと仕事の選択肢
も増えるってもんだ﹂
﹁選択肢って?﹂
﹁そりゃ、たとえば町へでて傭兵になるとか││﹂
﹁そんなのだめよ。危険すぎるわ﹂シフォニアはフェイ・トスカの
言葉を遮って食ってかかった。
﹁待て、待て、落ち着け﹂フェイ・トスカは両手をあげてシフォニ
アをなだめた。セトはシフォニアがこんな風にフェイ・トスカに反
論する姿をこれまで全く見たことがなかったので、食事の手も止め
て唖然とふたりのやりとりを見守るばかりだ。自分のことを話して
312
いるのに、会話に割り込む隙もない。
﹁傭兵っていったって、なにも危険な仕事ばかりじゃないぞ。たと
えば商隊の護衛なら、国内だけを通るルートはほとんど安全だ。も
ちろん、安全なルートは実入りも少ないが・・・。若いうちだけ前
線にでて、ある程度名前が売れたらあとはさっさと引退して、町中
で剣術道場を開く、なんていう手もある。考えようによっては騎士
の方がよほど危険だ。あっちは跡継ぎがいなけりゃ引退もできない
し、上司も選べないから場合によってはとんでもないところに送り
込まれることもある。傭兵ならどの戦いに参加するかはある程度自
分で選べるからな。もっとも、最近は平和だからそんなに需要はな
いかもしれないが﹂
﹁セトにそんなことさせる必要なんてないわ﹂フェイ・トスカの弁
解にもシフォニアは聞く耳持たずといった態度だ。
﹁それに、こいつ才能あるぞ。今はまだまだだが、将来的には俺よ
り使えるようになるかもな。魔法が使えない分、そっちに才能が偏
ったのかもしれん﹂
フェイ・トスカがそんなことを言ったので、セトは手にしていた
米粥のさじを取り落としてしまった。
﹁そんなこと言ってセトをその気にさせたってだめよ。この村にだ
って仕事はあるのに、わざわざでていく必要なんかないじゃない。
道場が開きたいならこの村で開けばいいわ。それに、この間スフォ
ルツァさんに、そろそろお宅も水田を持ってみないかって言われた
の。わたし、やってみてもいいって思っているのよ﹂
﹁正直、俺はおまえが田んぼにいる姿をあまり見たくないんだが│
│﹂
﹁あら、どうして?﹂
フェイ・トスカは答えずに、セトの方を見た。
だって、似合わないよなあ。
その目がそう言っていた。セトは同意だった。
もとお姫様であるシフォニアは、ふつうの村人とはどこか違う気
313
品を持っている。家で繕いものや刺繍をしたりしているときは気に
ならないし、料理をしている姿も見慣れたが、たまに畑へでて野菜
の世話をしたり、家畜に餌をやっている姿を見るのは未だに違和感
が拭えなかった。
﹁まあ、それはともかく﹂フェイ・トスカはその話題を横へ追いや
った。
﹁村に残る残らないは、セトが自分で決めることだ。俺たちは選択
肢を作ってやればいい。自警団で実際に魔物に遭遇することはそう
ないが、現場の空気を感じておくだけでも違う。もし剣を生業にす
るっていうならな﹂
まだシフォニアは不満そうな顔をしている。フェイ・トスカはさ
らに付け加えなければならなかった。
﹁もしそういう事態になっても、危険なことはさせないさ。約束す
るよ﹂
夕食後、セトは自室で寝間着に着替えながら、先ほどの両親のや
りとりを思い返していた。
あまり深く考えていなかったが、成人すれば一人前の大人として
仕事に就かなければならない。そして、セトは身の振り方を自分で
選ぶことができる。
これまで、セトは自分の将来をどうしようかなどと考えたことは
なかった。その必要がなかったからだ。シュテンで暮らしていた頃
は、おそらく自分はグレンデルが亡くなるまでそばで世話をして、
その後はリタルドのようにどこかの魔族のもとで働いて生きていく
のだろうと思っていたし、シュテンをでてからは生きることで精一
杯で、先のことを考える余裕はなかった。
シフォニアは村に残ってほしがっているようだったが、フェイ・
トスカは才能を活かしたらいいと考えているようだった。
そう。フェイ・トスカはセトに、剣の才能があると言ってくれた
のだ。
314
そのことを思い返すと、セトは自然と口元がゆるんでしまう。
実際に打ち合っている最中は口調も態度も厳しくて、セトは自信
を失ってばかりいたのだが、その実きちんと評価してくれていたの
だ。
その期待に応えたいと思う。
そのためには、なんとしても来春の成人の儀式までにフェイ・ト
スカから一本とって、破邪の剣を受け継いでみせることだ。
セトは寝台に入り込んで目を閉じた。明日から、これまで以上に
頑張れるような気がする。自警団の招集もはやくかかればいいと思
いながら、眠りについた。
真っ暗闇の中で、自分一人だけ立っている。
おそらく夢だろう。目覚める直前に見るような、これが夢だと最
初からわかっている夢。
なにもない暗闇でありながら、つい最近ここに来たことがあるよ
うにも感じられる。
﹁セト・・・﹂声が聞こえた。懐かしい少女の声だ。
﹁シイカ!﹂セトは叫んだ。今度はちゃんと思い出せた。そう思う
のと同時に、セトはこの暗闇の空間が、﹁試練﹂の世界へと入る直
前に訪れた場所なのだと知った。
セトはシイカの姿を見たいと思ったが、前回と違って光の漏れる
場所はなく、誰かのいる気配はうっすらと感じられても、シイカの
姿を認めることはできなかった。
﹁セト。試練の答えは見つかりましたか?﹂
﹁それは・・・﹂セトは口ごもった。
答えはわかっている。だが、シイカに向かってそう答えてしまっ
たら、それでもう、あの世界には戻れないような気がした。
今セトは、あの世界での暮らしを終わらせたくないとはっきり願
っていたのだ。
﹁どうやら、もう分かっているようですね﹂シイカの声は、セトの
315
心を見透かしているかのようだった。
﹁現実の世界でフェイ・トスカと対峙したとき、フェイ・トスカが
﹃太陽の宝珠﹄を用いてなにをすると言ったか、覚えていますか?﹂
少々唐突なシイカの問いに、セトは頭をひねって思い出す努力を
した。
﹁ええっと・・・。確か、﹃世界をリセットする﹄とかなんとか│
│﹂
﹁そうです。フェイ・トスカは今の世界を破棄し、己の記憶だけを
残して世界を再構築するつもりなのです。彼がグローングと戦う直
前まで﹂
声は確かにシイカなのだが、いつにもまして他人行儀な話し方を
崩そうとしないので、セトは時々不安になった。
﹁あなたが今暮らしているのは、フェイ・トスカの望み通りに彼が
グローングを倒すことに成功した世界。それからあなたの実年齢に
あわせて、歴史の流れをシミュレーションした世界なのです﹂
自分の知っている歴史と異なっている点があることは、セトも理
解していることだった。流れをシミュレーション云々は、よくわか
らなかったが。
﹁・・・それで?﹂
﹁仮にあなたがこのまま目覚めなければ、フェイ・トスカは現実の
世界で自らの望みを達成するでしょう。そうすれば細かい違いはあ
れ、大まかには今あなたが暮らしている世界が現実のものとなりま
す。つまり、グローングが敗れ、人類がこれまで通りに世界を治め
る世界が﹂
セトは考え込んでいる。シイカの声が響き続ける。
﹁あなたが目覚めれば、あなたはフェイ・トスカの行為を止めるた
めに戦わなければなりません。そのための力はお貸ししますが、戦
うのはあなた自身です﹂
﹁││でもさ﹂シイカの声がやんでからもしばらく考えていたセト
は、やがて顔を上げるとどこにいるのか正確にはわからないシイカ
316
に向かって言った。
﹁それって、止めないといけないの?この世界はとっても平和だよ。
人間だって、生き生きしてるし﹂
それがセトの正直な感想だった。ファーリの村に暮らす人々はみ
な素朴で闊達、なにより親切で暖かい。セトがこれまで知っていた
人間といえば、多くは常に抑圧されていて表情に乏しく、いつも下
を向いていてこちらが声をかけても反応しないか、露骨に逃げてい
くような人ばかりだった。グレンデルの屋敷で育ったきょうだいた
ちや、マーチなどは数少ない例外なのだ。
それに比べれば、この世界の方が余程いいようにさえ思えてくる。
﹁それを決めるのは、あなた自身です﹂シイカの声が響いた。
﹁あなたにもうひとつ、魔法の言葉を与えます﹂シイカがそう言う
と、今度は頭を掴まれたりはしなかったが、セトの脳裏にこの間の
ものとはまた別の短い言葉が浮かんだ。
﹁その言葉は、試練の放棄を宣言する言葉です﹂シイカの声が、淡
々と告げる。﹁もし、あなたが目覚める必要はないと結論づけたな
ら、その言葉を唱えなさい。今この世界は、現実の世界のある時間
と常にリンクしていて、あなたがこの世界でどれだけ時を過ごそう
と現実の世界では時が流れません。ですが、あなたがこの言葉を唱
えたなら、そのリンクは切れ、現実の時も流れ出すでしょう。もっ
とも、その様子を知ることはできなくなりますが。それと同時にあ
なたは私が最初に教えたまぼろしを打ち破る言葉も忘れてしまいま
す。あなたはこの世界の住人として生涯を終えることになります﹂
セトはちょっと考えた後、﹁もし、どっちの言葉も唱えないでい
たら?﹂と質問してみた。
﹁あなたは今、精神のみがこの世界にあり、肉体は別のところにあ
るというやや不安定な状態です。まだしばらくは大丈夫ですが、い
つまでもこのままではいずれ存在を保てなくなるおそれがあります。
﹃言葉﹄を唱え、あなたが存在する世界を確定させることが必要で
す﹂
317
セトはうなずいた。シイカの言っていることのすべてを理解でき
たわけではなかったが、重要なことは分かったからだ。
この世界で穏やかな暮らしを続けるか、それとも現実へと目覚め
てフェイ・トスカを止める戦いに身を投じるか、選択しなければい
けない。
セトは理解した。この選択こそが真の﹁試練﹂だったのだ。
唐突に足下が怪しくなった。セトは身体が浮くような感覚におそ
われて、辺りを見回した。目覚めようとしているのだと分かったか
らだ。
﹁シイカ!﹂どこにいるのか分からないが、とにかく呼びかけた。
﹁シイカはどう思っているの?﹂
沈黙が流れ、もう答えは返ってこないのかと思った頃に、シイカ
の声が聞こえた。
﹁あなたの人生です。あなたが決めてください││﹂
声は急速に遠くなり、最後は掻き消えるようにして聞こえなくな
った。
目覚めると、いつもと同じ朝だった。夏の間はいくらか寝苦しい
夜もあったが、今は吹き込む風も心地いい。一年の間でももっとも
過ごしやすい季節だ。
だが、セトの目覚めは軽やかとはいかなかった。もちろん、直前
に見た夢のせいだ。
唱えれば﹁試練の放棄を宣言する﹂ことになるという短い言葉が、
セトの頭の中にはっきりと残っている。
﹁まぼろしを打ち破る﹂もうひとつの言葉と、どちらを口にする
のか。いずれにしても、重い決断になるだろう。セトはため息をつ
いてから、寝台を降りた。
318
竜の試練︵三︶
五
それから数日は、セトはこれまでとほとんど変わらない日々を過
ごしていた。森に入ったり、薪を割ったり、シフォニアを手伝った
り、フェイ・トスカに稽古で痛めつけられたり。
だが、表面上はその暮らしぶりが変わらなくとも、セトは内心悩
み続けていた。試練の答えをどうするかについてだ。
もちろん、まぼろしを打ち破り、現実の世界へと目覚めるべきだ。
セトは最初にそう考えた。だが、思考を深めていくうちに、だんだ
ん自分がどうすべきか分からなくなってしまっていたのである。
シイカの声が言うには、セトは仮に目覚めたとしたら、、現実の
世界を﹁リセット﹂して創り直そうとしているフェイ・トスカのた
くらみを止めるため、戦わなければいけないのだという。そして、
今セトが暮らしているこの世界こそ、フェイ・トスカの宿願がかな
い、魔王グローングを退治した世界なのだ。
セトはこの世界で暮らせば暮らすほど、フェイ・トスカのやろう
としていることは間違いではないのではないか、という思いにとら
われ始めていた。
現実の世界では、魔王の政策によって人間は奴隷としての生活を
余儀なくされ、その結果、ほとんどの人間たちはまともに自分の感
情を表すことさえできなくなっている。
一方で、この世界ではそんなことはないのだ。人々は皆生き生き
と人生を謳歌している。セトが直接知っているのはファーリの村の
中だけではあるが、両親や村人に聞いた話ではどこかで大きな戦争
が起こっているという話もなく、今世界は平和そのものなのだ。
現実の世界もこうなるのなら、それはいいことなのではないか?
セトは、その考えを否定することができないでいた。
319
﹁今日、水田近くの魔物用のワナを見回ったら、いくつかエサをと
られているところがあった。近々、自警団の招集がかかるかもな﹂
そんなある日の夕食の席で、フェイ・トスカがそう口にしたのを
聞いて、彼の向かいに座っているシフォニアがまた顔をしかめた。
﹁そうなったら、本当にセトを連れていくの?﹂
﹁ああ。もう自警団の主だった面々には話を通してある﹂
フェイ・トスカの回答に、シフォニアはため息をついた。
﹁前にも言ったろ。危険なことはさせないって﹂
﹁でも・・・﹂
ここのところ、この話題が出る度にこんなやりとりが交わされて
いる。険悪というほどの空気ではないが、普段はけんからしいけん
かをほとんどしないふたりである。この程度でも言い争いをするの
は珍しいことだったし、またその原因が自分にあると感じて、傍ら
で聞いているセトは居心地が悪かった。
﹁危険なんて、どこにひそんでいるか分からないものでしょう?﹂
﹁そんなことを言い出したらきりがないだろう。こいつを一日中、
おまえの目の届く家の中に閉じこめておけっていうのか?﹂
連日同じことをやり合っているせいか、やりとりがだんだん相手
の揚げ足を取るような内容になってきている。このままでは本当に
けんかになりそうだった。
このふたりが感情をむき出しにして怒鳴り合う姿は見たくない。
そう思ったセトは、会話に割り込むことにした。
﹁大丈夫だよ、母さん﹂
﹁セト・・・﹂
﹁自警団についていくことになっても、危険なことはしないし、ち
ゃんと父さんのいうことを聞いておとなしくしてるさ。心配しない
で﹂
セトができるだけ落ち着いた口調でそう告げたが、シフォニアは
まるでしかられた子供みたいに目を伏せてしまった。
320
﹁でも・・・わたしは││﹂
セトが言っても、シフォニアは安心できないようだ。むしろ、彼
女は自警団が危険だからセトを参加させたくないわけではないのか
もしれない。。そう考えたら、彼女が渋っている本当の理由はすぐ
に想像がついた。
シフォニアは、セトが村を出ていってしまうことが怖いのだ。
フェイ・トスカは、セトが将来剣を生業にしたいなら、自警団に
ついていって現場の空気を知ることは有意義だと言った。おそらく
シフォニアは、今度のことを許してしまったら、セトが成人ととも
に︵やはりフェイ・トスカがそう言っていたように︶村を出て傭兵
になってしまうと思っているのだろう。
となれば、シフォニアを安心させてやれる言葉はひとつしかない。
セトは迷った挙句、その言葉を口にした。
﹁母さん、僕は村を出ていったりしないよ。成人しても﹂
その言葉に、シフォニアだけでなくフェイ・トスカも、食事の手
を止めてセトを見た。ふたりからすればその発言は、セトの将来を
ある程度固めてしまうものだ。
そして、セトにとっては別の意味もある。
この村に││この世界に、この先もとどまり続ける。そう言う意
味にもつながる言葉だった。
もしこのとき、シフォニアがセトが予想した通りの反応を││満
面の笑顔で両手を叩いて歓迎するような││示していたなら、セト
の心は完全に決まっていたかもしれない。
だが、シフォニアの反応は予想とは異なっていた。彼女は伏せた
顔を上げ、セトをまっすぐに見たが、その表情に笑みはなかった。
﹁本当に、それでいいの││?﹂
歓迎どころか、聞いてはいけないことを聞いてしまったかのよう
な、戸惑いの表情を浮かべている。セトは少々面食らったが、一度
口に出した言葉を撤回するつもりはなかった。
﹁うん、いいんだ。母さんの言うとおり、この村にも仕事はいっぱ
321
いあるし﹂
そこまで聞いて、ようやくシフォニアはゆるやかに笑顔になった。
﹁そう││そうなの﹂
﹁でも、自警団にはついていくよ。まだ父さんから一本とってない
しね﹂
﹁なんだ、まだあきらめてなかったのか﹂
セトが付け加えると、フェイ・トスカが豪快に笑いながらそう言
った。それが呼び水になって、食卓に明るい空気が戻ってきた。
﹁もちろん。破邪の剣のこと、忘れないでね﹂
﹁忘れちゃいないが、今の調子じゃ来年どころかあと五年はかかり
そうだからなあ﹂
﹁僕はまだ成長期なんだから。油断してると痛い目に遭うよ。とり
あえず、背丈は父さんよりも高くなりそうだよね﹂
﹁おまえ、それを言うか!﹂
笑顔で言い合いながらシフォニアを見ると、ふたりのやりとりを
優しい笑顔で見守っている。
きっとこれでいいんだ。この世界は悪くないし、なによりこのお
母さんを悲しませることはしたくない││セトは半ば無理矢理に、
そう自分を納得させようとしていた。
翌日以降もワナが荒らされることが続き、村の自警団が招集され
ることが正式に決まった。
ワナが荒らされたのはどうやら夜中であるらしく、警らは夜に行
われることになった。
フェイ・トスカはそれに備えて魔法の灯りを複数作るため、日中
から村の集会所で作業をしている。また、シフォニアもこの日は炊
き出しの手伝いなどですでに家にはいなかった。いつも静かな村が、
その日は少しばかり騒がしくなっている。
セトは日中は家に残り、夕刻になったらフェイ・トスカの自室か
ら彼が指示したとおりの武器を持って村まで降りてくるように、と
322
言付けされていた。
セトはこのところフェイ・トスカに代わって自分の日課にしてい
る薪割りを終えたあと、時間までどうやって過ごそうかと考えた。
普段なら森へはいるのだが、魔物と遭遇する可能性があるので今は
禁止されている。
木剣を使って型の訓練でもするか、と考えたとき、ひとつひらめ
いた。
セトはフェイ・トスカの自室にはいると、彼に指示されていたと
おりの刀剣類を部屋から運び出した。短剣が二本と、あとは黒塗り
の鞘に収められた長剣が一本。
セトはそれらを抱えたまま裏庭に出ると、短剣は薪割り台の切り
株の上に置いて、長剣を鞘から抜いた。
この剣は現実の世界ではセトの愛剣だった。だが、ここではフェ
イ・トスカの持ち物である。もともとそうだったからだ。フェイ・
トスカと打ち合いをするときも剣は必ず木剣で、長らく真剣はさわ
ることができなかった。
今ならフェイ・トスカもシフォニアもいないので、誰にも咎めら
れずにこの剣を振るうことができる。それに、どうせ後でフェイ・
トスカのもとへもっていく剣なのだから、持ち出すこと自体は何の
問題もないのだ。
どうせなら破邪の剣を、という欲求もないわけではなかったが、
フェイ・トスカからさわらないように言われていたこともあったし、
なによりあの剣はセトがフェイ・トスカから一本をとったときの賞
品でもあるのだから、今ここで手にしてしまうのは卑怯だと感じて、
セトは手を出さなかった。
久しぶりに手にしたセトの愛剣は、やはりしっくりとくる重さが
あった。木剣とは根本的に違う鉄の重みは、かつては扱いにくさを
感じるばかりであったが、今手にすると逆にその手の中に残る重さ
が安心感を与えてくれるようにすら感じる。
試しに以前隠れ里でユーフォに教えてもらった剣の動きの型をひ
323
とつやってみると、自分でもはっきりと分かるほどに動きに鋭さが
増している。それに、ついこの間まで自分が扱うには長すぎると感
じていた剣の刀身を邪魔に感じることがなくなっていた。
この数ヶ月、フェイ・トスカを相手に厳しい稽古を続けてきた。
フェイ・トスカには未だに子供扱いされることが多いが、それでも
この身体には成果が身に付き始めているのだと知って、セトはうれ
しくなった。
結局それから夕暮れ時まで、セトは剣を振り続けていた。我に返
ったときには空の端はすでに暗くなり始めていて、もう村へ降りな
ければいけない頃合いだった。ここは村からは離れすぎていて、村
の教会で鳴らされる鐘の音はほとんど聞こえてこないのだ。
たっぷりと汗を掻いていて、セトはできればしっかりと汗を流し
てしまいたかったが、もうそんな時間は残っていなかった。仕方な
いので上衣を脱いで、水に漬けて絞った布で上半身を軽く拭くだけ
にした。
上衣を着直して腰帯を締め、そこに長剣を差した。長剣は一本し
かもってくるように言われなかったので、おそらくこれはフェイ・
トスカが使い、セトには使わせてくれないのだろうが、せめて集会
所につくまでは自分の腰に差していたかったのだ。
さらに二本の短剣を抱えて村へ降りる頃には、空はすっかり暗く
なってしまっていた。セトは灯りをもっていなかったのでいくらか
歩きにくくなってしまったが、月がでていたのと目的地の集会所は
灯りが集まっていて明るかったので、それを頼りに歩いた。
夕方に来いといわれていたのにすっかり夜になってしまったので、
セトは怒られるかと思っていたが、集会所の中にはいると一番奥に
いたフェイ・トスカに﹁遅いぞ﹂と言われただけで、ほかの村人か
らはなにも言われなかった。
持ってきた武器のうち、案の定長剣は取り上げられてしまった。
セトにはもってきた短剣のうち一本と、集会所に備え付けてある弓
324
矢がひとそろい渡された。
セトが弓の弦を確認していると、人影がよってきた。シフォニア
だった。手に湯気の立つ椀をもっている。
﹁今日は夕食をとる時間はないからね。今のうちに食べてしまって﹂
椀の中には米粥が入っていた。塩漬けの菜を刻んだものが混ぜ込
まれている。シフォニアから受け取って一口すすると、思ったより
しっかりと塩味がしておいしい。
﹁これからの予定を説明します。セトは食べながらでいいから聞き
なさい﹂フェイ・トスカが室内を見渡しながらそう言うと、シフォ
ニアは無言で奥の部屋へ下がっていった。
今この部屋に女性はおらず、フェイ・トスカとセトを含めて全部
で十人の男性がいる。魔物と戦う可能性があるとはいえ、しっかり
とした鎧などを着ているものは誰もおらず、せいぜいが硬くなめし
た毛皮のベストを着込んでいるものが何人かいるくらいだ。武器は
槍を持っているものが四人。後は弓矢だけである。
﹁魔物の出現位置はこれまでの傾向からだいたい予測できているの
で、班分けはせず、全員で水田へ向かいます。魔物を発見した場合、
前衛は私が。槍をもっている四名は二名ずつに分かれて左右から。
これは威嚇につとめ、魔物が私から離れないようにしてくれれば結
構です。残りのものは弓矢で後方援護。これも接敵中は相手を直接
ねらうことはせず、鏑矢で威嚇をしてください。相手を逃がさず、
確実にとどめを刺せるように﹂フェイ・トスカの言葉に、集まった
面々は特になにも言わない。何人かは無言でうなずきを返している。
おそらく、いつもこのような作戦なのだろう。
集まっている村人の中にはフェイ・トスカよりも年上のものも何
人かいるが、指揮を執るのも実際に魔物と向き合って戦うのもフェ
イ・トスカが行うようだ。歴戦の戦士であるフェイ・トスカに対し
て村人はほぼ全員が農夫なのだから、それは当然といえよう。
﹁今回はワナの破損状況や周囲の森の荒れ具合から察するに、そこ
そこ大型の魔物であることが推察されます。みなさん、無理はしな
325
いように。威嚇による誘導が無理なら、逃がしてしまってもかまい
ません。村の中には、私が絶対に入れませんから﹂
大型の魔物、という言葉に、一同からわずかにざわめきが漏れた。
セトも粥をすすりながら、緊張でみぞおちのあたりに自然と力が入
るのを感じた。
だが、フェイ・トスカは落ち着いている。彼はこれまで、数多く
の魔物や魔族を打ち倒してきたのだ。その中には、彼の身長の何倍
もあるような大型の種族も含まれると言われている。
村人たちも当然そのことを知っているのだろう。この場に緊張感
はあっても悲壮感はない。
﹁それから、今日は新参ものを一人同行させます﹂フェイ・トスカ
がそう言うと、その場の全員が一斉にこっちをみた。
﹁ご存じの通りこいつは私の息子ですが、腕前はまだ見習いもいい
ところです。今日は後衛に立たせますが、まあ役には立たないと思
いますのでみなさん当てにしないでください﹂
その物言いに場を支配していた緊張感が一気に溶け、笑いが漏れ
た。だしにされた格好のセトはおもしろくなかったが、ここで父親
に楯突いたところで空気を悪くするだけなので、素直に頭を下げた。
﹁よろしくお願いします﹂
﹁未来の勇者様だな!﹂
﹁ま、今日は親父さんの戦いをしっかり見学しておくといい﹂
何人かがセトのところへ寄ってきて、肩を組んだり背中をたたい
たりした。
﹁さあ、出発しましょう﹂
やがてフェイ・トスカの号令で、村人たちは自分の武器を担ぎ、
何人かは魔法の灯りのはいった角灯も手にして集会所から出ていっ
た。セトもそれに続こうとしたところへ、またシフォニアがやって
きた。
﹁ちゃんと食べた?﹂
そう言われてまだ椀を手に持ったままだったセトは、空になった
326
椀をシフォニアに返した。﹁うん。おいしかった﹂
﹁そう、よかった﹂シフォニアは笑顔で椀を受け取った後、一度傍
らに置き、それからセトのことを正面から軽く抱きしめた。
﹁気をつけて行ってくるのよ﹂
﹁うん││母さん﹂
セトは右手だけシフォニアの背中に回し、軽くたたいた。ほっそ
りとした母の背中は、すこしだけ震えているようでもあった。
﹁心配しないで。大丈夫だから﹂
シフォニアはセトから身体をはなすと、微笑んだ。
﹁そうね。││お父さんはとても強いから、任せておけば、大丈夫
よ﹂
﹁そうだね﹂セトも微笑んだ。﹁行ってきます﹂
﹁行ってらっしゃい﹂シフォニアは椀を手に立ち上がると、奥の部
屋へと戻った。
セトは腰に差した短剣の具合を確かめ、矢束の入ったかごを背負
い、弓と角灯を手にすると、集会所を後にした。
自警団の一行はフェイ・トスカを先頭にして水田に向かった。セ
トは最後尾につく。
魔法の灯りによって照らし出される水田は幻想的な美しさがあっ
た。稲穂はかなり色づいてきており、収穫の日も近い。
魔物の痕跡が村そのものより水田の方に集中しているのは、人的
被害が出にくいことを考えればありがたかったが、この時期はあり
がたいばかりではない。せっかく育てた作物をかすめ取られる可能
性があるからだ。
ただでさえ、収穫間近の作物はデリケートだ。日照りや水害、虫
害もそうだし、稲穂の実をつついて中身を食べてしまう鳥もいる。
いざ収穫したらもみ殻ばかりで実がなかった、なんて笑えない話も
ある。管理に追われている農夫たちはみんなこの時期はぴりぴりし
ているのだ。
327
その上魔物の侵入である。鳥や虫なら警戒していれば追い払うこ
とは可能だが、魔物は程度による。鍬を振れば逃げていくような輩
もいれば、人間ごと襲って食べてしまうようなやつだって中にはい
るのだ。
そうなれば、あとはもう魔物が満足してそこを立ち去るのを震え
ながら隠れて待つか、村人の方がさっさと逃げ出してしまうほかな
くなる。国が討伐隊を出してくれることももちろんあるが、それは
大抵いくつかの村落が甚大な被害を被った後だ。
結局のところ、自分の身は自分で守らなければならない。そのた
めに、どの村落にも自警団はある。戦の経験のあるものが中心にな
って団をまとめていることが多いが、その点、このファーリの村の
自警団は恵まれている。なにしろ、かつての勇者フェイ・トスカが
いるのだから。
その昔単身で魔王の本拠に乗り込み、見事制圧して見せた男であ
る。あれから一五年ほどが経ち、現役を退いているとはいえ、まだ
まだそこいらの魔物に後れをとるようなことはない。彼がこの村に
来て以来、魔物の襲撃という点においては村は一切の被害を免れて
いた。
││というのが、水田を抜け、切り開かれていない森の側まで来
る間に、セトが自警団の村人から聞かされた内容である。
﹁だからまぁ、旦那に任せておけば心配はないってことよ﹂
槍を担いだ村人がそう言って笑った。顔の半分を伸ばした髭に覆
われていて人相がよくわからないが、確かフェイ・トスカよりもだ
いぶ年上のはずだ。
﹁あまり任されすぎるのも、この村にとっていいのかどうか﹂先頭
をいくフェイ・トスカがたしなめるように言う。﹁私だって人間で
す。これからは衰える一方ですよ﹂
﹁なに、旦那が引退する頃には、今度は坊ちゃんが一人前になって
るって寸法だ。そうだろ?﹂
村人に豪快に背中をたたかれて、セトはむせた。
328
﹁そいつが一人前になるのを待っていたら、あと何年前衛でいなけ
ればいけなくなるやら││﹂フェイ・トスカはそこで軽い口調を唐
突に切ると、左腕を水平にあげて後続を制した。﹁気配があります。
静かに﹂
その合図で全員が口をつぐんだ。フェイ・トスカを含めて全員が
耳を澄ますと、眼前に広がる森の中から金属のこすれる音がかすか
に聞こえてきた。
﹁ワナにかかっています﹂フェイ・トスカが言うと、村人のひとり
が小さく叫んだ。﹁昨日設置した頑丈な奴だ!あれなら抜け出せな
い﹂
﹁油断は禁物ですよ﹂フェイ・トスカは別の村人から角灯を受け取
ると、腰にくくりつけた。﹁近づきます。弓隊は援護の用意。槍隊
は打ち合わせ通り、私を中心にして扇の陣型に﹂
フェイ・トスカの指示で、槍を持っている四人は二手に分かれた。
弓を持っているものたちはそれぞれ矢束から鏑矢を取り出して弓に
つがえる。セトもそれに習った。
フェイ・トスカは右手を剣の柄にやり、気持ち姿勢を低くして、
森へと近づいていく。森の中から聞こえる金属の音は徐々に大きく
なっており、本来静かな夜の空気を揺らしてセトたちのところまで
ガチャガチャという音がはっきり聞こえてくるようになっていた。
そして、フェイ・トスカが森まで残り数ログというところまで近
づいたとき、唐突に金属音が途絶えた。
次の瞬間、森から何者かが飛び出し、フェイ・トスカに襲いかか
った。
数日前から森に潜み、村の水田へと侵入を試みていた魔物の正体
は、その場にいた全員に戦慄をはしらせた。
﹁きょ、巨人!?﹂弓隊の中の誰かが叫んだ。
森の中から飛び出してきたのは、全長五ログ︵約三・五メートル︶
ほどの巨人族だったのである。
329
巨人の右足首にはとらばさみが食い込み、そこから鮮血が流れ出
ている。これまでのワナが壊されていたために特注された強力なワ
ナだ。巨人はとらばさみを破壊できないと知るや、それを打ち込ん
でいた杭の方を怪力で引き抜いたのだった。
人里を襲う魔物は、たいていが知能の低い、鳥獣の毛が生え替わ
った程度のものが多い。それに時折若干知能が働く小鬼が混じるこ
とがあるくらいだ。
巨人族は知能は小鬼とさしてかわらないが、なんといっても怪力
と強靱な生命力を持っている。はっきり言って、その辺の村に現れ
たら村を放棄して全員で逃げ出す方が賢いくらいなのだ。
だが、この村にはフェイ・トスカがいる。
巨人はフェイ・トスカに向かって拳を振りおろしたが、フェイ・
トスカは転がってその一撃をよけ、落ち着いて間合いを取った。予
想外の大物にいくらか意表をつかれはしただろうが、この程度で取
り乱す男ではない。
﹁とにかく、う、射て!﹂その様子を見て我に返った弓隊の誰かが
号令し、全員が思いだしたように弓を構えなおし、てんでばらばら
に鏑矢を放った。ただし、セトをのぞいて。
セトもほかの村人同様に衝撃を受けていたが、その衝撃は異質な
ものだった。
飛び出してきた巨人が、一瞬ガンファではないかと思ったのだ。
いつも側にいて、優しくセトを見守っていてくれた一つ目の巨人
族ガンファ。
ここしばらくは思い出すことすらしていなかったその姿が、今フ
ェイ・トスカと対峙している巨人に重なって見えたのだった。
だが、今あそこにいる巨人はガンファではない。確実なのは一つ
目ではないことだ。あの巨人は人間同様ふたつの目がある。身体も
ガンファよりはいくらか小さい。というより、肩の盛り上がり具合
などからしても、肉体がまだまだ未成熟なのが見て取れた。子供な
のかもしれない。
330
巨人から間合いを取ったフェイ・トスカは、自分の斜め後方に控
えている槍を持った村人たちを身振りで指示してもう数ログ後退さ
せた。もし巨人があちらに向かっていってしまったら、貧弱な槍で
は到底抑えられない。
腰の剣を引き抜いて軽く構えながら、巨人を観察する。ぼろぼろ
の腰布のみを身につけた巨人は、足からはずれないとらばさみから
絶えず伝えられる痛みに目を血走らせ、荒い息をついている。かな
り興奮しているのは間違いない。
そこへ、弓隊が放った鏑矢が飛来した。威嚇用の鏑矢は風をはら
んでうなるような音を立てながら森の中へと飛んでいく。
巨人は自分の脇を通り過ぎていくその音にいっそう興奮を増し、
誰にともなく雄叫びをあげた。
フェイ・トスカはその様子を見ながら、鏑矢はやめさせた方がい
いかもしれない、と思った。巨人はすでに周りが見えていないほど
に興奮している。これ以上は相手の行動を読めなくなるだけで、む
しろ逆効果になりかねなかった。
時間をかけると予想外の被害を産み出しかねない。そう判断した
フェイ・トスカは、巨人を無力化すべく剣を正眼に構えて間合いを
計り始めた。
広範囲に響きわたる巨人の雄叫びに、何人かがひっと声をのみ、
次の矢をつがえる動作を止めた。
離れたところにいるものにさえ恐怖を与えるその声に、しかしセ
トは全く違う響きを感じていた。
その雄叫びは、セトからすればとても悲しく、つらそうに響いた
のである。
まるで、足が痛くてたまらない、誰か何とかしてくれと、懇願し
ているかのようだった。
セトはほとんど確信していた。あの巨人はまだ子供なのだ。
331
そう思ってみれば、体つきもずいぶん貧弱だ。親がどうなってし
まったのかはわからないが、きっとお腹がすいてどうしようもなく
なって、仕方なく人里まで出てきてしまったのだ。足の手当てをし
て食料を少し分けてやれば、おとなしく出ていくだろう。
だが、フェイ・トスカは抜き身の剣を構えて間合いを計り、今に
も打ち込もうとしている。声をかけてやるような気配はない。
村人はもとよりお父さんも、巨人の生態は知らないのだろうか。
ずっとガンファが側にいた自分にはわかっても、彼らにはわからな
いのかもしれない。となれば、自分が行って教えてあげた方がいい
かもしれない。
セトが横を見ると、村人たちが再び矢をつがえ、今にも放とうと
している。またあの音を聞いたらよけいに興奮してしまうと考えた
セトは、とっさに止めた。
﹁だめです、射たないで!﹂
﹁えっ、しかし、坊ちゃん││﹂
戸惑う村人とフェイ・トスカを見比べたセトは、ここで村人に事
情を詳しく話している余裕はないと判断した。
﹁あの魔族はまだ子供です。僕が行って話をしてきます﹂
言うが早いか、セトは弓矢を地面に置くと駆けだしていた。
﹁父さん、待って!﹂
その声は、フェイ・トスカがまさに巨人に飛びかかろうとする直
前に聞こえてきた。
目線だけ動かして息子がこちらに向かって駆けてくるのを確認す
る。弓矢は置いてきているようなので、身につけているのは短剣だ
けのはずだ。護身用というより、緊張感を持たせるためだけに渡し
ていた武器。魔物相手に立ち向かえるものではないし、まして相手
が巨人とくればなおさらだ。
﹁あのバカ・・・﹂口の中で毒づいた。
目線を戻し、巨人を見るとあちらもセトの声に反応していた。フ
332
ェイ・トスカから完全に視線をはずし、首をねじってセトの方を向
いている。
息子がここへ来る前に片を付けなければならない。幸いなことに
巨人は意識を逸らしている。
そう考えたフェイ・トスカは、身を沈めるようにして巨人へと突
進した。巨人はその気配に気づいたが、遠くから走ってくるセトと
フェイ・トスカを見比べて困ったようなうめき声を上げた。
﹁父さん!﹂今度のセトの声は、集中したフェイ・トスカの耳には
届かなかった。
フェイ・トスカは巨人の左脇を走り抜けざまに、とらばさみが食
い込んでいない巨人の左脚ふくらはぎのあたりを素早く切り裂き、
もっとも太い腱を一撃で断った。
巨人は衝撃に顔を歪ませ、唐突に力の入らなくなった左脚から崩
れてひざをついた。それからようやく伝わってきた痛みに声を上げ
る。
完全に我を失った巨人は、もはや闇雲に腕を振り回すばかり。そ
うはいってもたとえ偶然でもその腕に当たれば人間などはただでは
すまないのだが、フェイ・トスカは落ち着いていた。腕の届かない
位置まで接近すると、あとは滑り込むようにしてひざ立ちの相手の
すぐ側まで到達する。
そして、無防備なわき腹にためらいなく剣を突き入れたのだった。
セトがたどり着いたとき、すでに戦いの趨勢は決してしまってい
た。
フェイ・トスカは巨人のわき腹から引き抜いた剣の血を拭き取っ
ているところで、巨人は力なく仰向けに倒れ込んでいた。わき腹か
らは鮮血が止めどなく流れ出している。どう見ても致命傷だった。
﹁さすがフェイ・トスカ殿だ﹂
﹁きょうも鮮やかな手並みだったなあ﹂
先ほどまで緊張の面もちで槍を構えていた村人たちも、もう危険
333
は去ったと判断したのか、口々にそんなことをしゃべりながら近づ
いてきている。それは後方で弓を構えていたものたちも同様だった。
全体として先ほどまでの張りつめた空気はゆるんできていたが、
そんな中でセトは厳しい顔つきでフェイ・トスカと巨人の間に立ち、
フェイ・トスカを見据えた。フェイ・トスカも一切表情をゆるめず
にセトをみた。
﹁言いつけを守らなかったな﹂さきに口を開いたのはフェイ・トス
カだった。
だが、セトはそのことには答えなかった。
﹁なぜ、殺したのさ﹂セトの声は震えていた。﹁この魔族はまだ子
供だ。きっとお腹がすいていただけなんだ。ワナにかかった足が痛
いって泣いていただけなんだ。話を聞いてあげれば、殺す必要なん
かなかったのに!﹂
﹁話を聞く?﹂フェイ・トスカはぴくりとも表情を変えなかった。
﹁魔物相手にか﹂
﹁巨人族なら、言葉だってわかるはずだよ。そのくらい、父さんだ
って知ってるはずだ﹂
﹁そうだな。確かにわかるかもしれない。だが、話をしてどうする
?こいつを生かしておいても、俺たちには何のメリットもない。た
とえこの村を襲わなくなったとしても、それはここではない別の村
を襲うというだけのことだ﹂
﹁そんなこと、わからないじゃないか﹂セトの反論はむなしく響い
た。ガンファのような心優しい魔族もいるということを、フェイ・
トスカも村人たちも知らないのだ。それがわかれば、きっと││。
だが、続くフェイ・トスカの言葉は、決定的なものだった。
﹁この世界のどこだろうと││﹂その瞳が冷ややかに光った。﹁魔
物が生きていていい場所などない﹂
セトは言葉を失った。その目はあのとき、セトの胸に容赦なく剣
を突き立てたときのフェイ・トスカの目と同じいろをしていた。こ
の世界で、ともに暮らす中ではただの一度も見なかった凍り付いた
334
ような冷たい目だった。
セトが辺りを見回すと、いつの間にか周囲に集まってきていた村
人たちの目つきも同様だった。魔物の存在を一切許さないという、
冷たい同意の目をセトに向けている。
セトはまるで、自らの存在をその視線によって削られているかの
ような錯覚に陥った。これほど明確で頑なな拒絶の意志を向けられ
たことは今までなかったからだ。
セトは知らず後ずさった。その背後には横たわる巨人がいる。
そのとき、フェイ・トスカが動いた。腰に差していた短剣を鞘か
ら抜くと、セトに向かって投擲したのだ。
とっさの動きにセトは反応できず、固まってしまったが、短剣は
セトの脇をすり抜けて飛び││巨人の眉間へと突き刺さった。
短剣の行方を追うようにして振り返ったセトは、巨人の左手が自
分の頭にもう少しで触れるというところまで差し上げられていたこ
とを知った。
ただひとり自分を擁護しようとしてくれた少年に謝意を伝えたか
ったのか、それとも人質にでもしようと思ったのか。
その真意は誰にもわからない。だがフェイ・トスカはその動きを
危険なものと判断して短剣を投げた。そして眉間をつらぬかれた巨
人は今度こそ絶命し、差し上げられた左手も、なにもつかむことの
ないままに地に落ちた。
﹁あ・・・﹂
セトの口から力のない声が漏れた。
固まってしまった身体に何とか命令をして首の向きを元に戻すと、
フェイ・トスカがセトのすぐ目の前まで近づいてきていた。
そして、次の瞬間にセトは殴りとばされていた。
一切手加減のない強烈な拳を受けて、セトは飛ばされ、横倒しに
なった。
ちょうど側にきていた村人がセトを助け起こしてくれたが、その
表情は硬く、セトに言葉をかけてはくれない。
335
﹁どうやら、おまえのことを少し買いかぶりすぎていたようだ﹂フ
ェイ・トスカの声が冷たく響く。
﹁規則を曲げてまで連れてきてやったのに、言いつけを守れなかっ
た。戦場で指揮官の命令を聞かないってことは、自分だけでなく周
りの味方全員の命を危険にさらすことになるんだ。それくらいは頭
にはいっていると思っていたんだがな。しかも、魔物をかばうため
にだ。こんなに大馬鹿者だとは思わなかった﹂
そう言われて、セトはまた顔をこわばらせた。なぜ魔物をかばう
ことが、大馬鹿者なのか。彼らだって生きているというのに。
口は出さなかったが、目つきからその思いのいくらかを感じ取っ
たのだろう。フェイ・トスカは少しだけ諭すような口調になった。
﹁このままでは、おまえは村にいられなくなるぞ。││みなさん、
こいつは少しばかり頭に血が上ってしまっているようです。命令違
反の罰として、数日の間監禁房に入れて反省させます。それでよろ
しいですか﹂
村人たちからは取り立てて賛成の声も聞かれなかったが、反対の
声も挙がらなかった。
フェイ・トスカはそれを承認と受け取ったようだった。
﹁セト。おまえがどうして魔物を助けようなどと考えるようになっ
たのかはしらんが、この村で、いやこの世界でふつうに生きていく
にはそんな考えは邪魔にしかならない。なぜこの世界が平和でいら
れるのか、よく考えて見ろ。時間はたくさんあるからな﹂
336
竜の試練︵四︶
六
巨人の死体を処分したあと、自警団の一行は村へと戻ってきた。
無論、セトも一緒に。
村を脅かす魔物を無事退治できたというのに、一行を取り巻く空
気は硬かった。時折、思い出したように口を開く村人もいるものの、
会話が続くことはほとんどなかった。まだしも行きの道の方が、軽
口をたたくものもいて砕けた雰囲気があったものだ。
原因は、もちろん巨人を斃したあとのフェイ・トスカとセトのや
りとりである。
セトは犯罪を犯したわけではないから、つながれるようなことも
されずにおとなしく一行について歩いている。だが、行きの時には
道すがらいろいろと話を聞かせてくれた村人たちは、今ではセトを
遠巻きに見るばかりで、目を合わせることもしてくれなかった。
やがて一行が村の集会所に戻ってくると、数人の女たちが出迎え
た。自警団に参加している男の妻のうち、この集会所の近くに家が
あるものたちだ。
出発の時には村のはずれに住むシフォニアをはじめ、多くの女性
たちがこの集会所に集まっていたが、今は夜が更けたこともあって、
家が遠いものたちは一足先に帰宅している。とはいえ夫や家族の無
事が知れるまでは、家で灯りをともして待っていることだろう。
出迎えた女たちは、一行がことを為したにしては暗いので、目標
を逃がしてしまったか、あるいは誰か怪我人が、と案じたが、フェ
イ・トスカから報告を聞くと、心配するようなことはなかったと知
って一様に安堵の表情を浮かべた。
だが、セトを監禁房に入れるので準備をお願いします、というフ
337
ェイ・トスカの言葉にまた戸惑うことになった。
集会所の一角に設置されている村唯一の監禁房は、万が一村で犯
罪が起こったときなどに使われる。だが、基本的に平和で人口も少
ないこの村では犯罪など滅多に起こらない。この中に誰かが入るこ
となど、数年単位でなかったことなのだ。
命令違反を犯したセトを反省させるためだ、というフェイ・トス
カの説明に女たちは一応納得したものの、その場でのやりとりを見
ていないからか、男たちとは違ってセトに同情するような目を向け
るものもいた。
﹁入れ﹂
監禁房の扉を開いたフェイ・トスカは、厳しい口調でセトに告げ
た。セトは答えず、しかし逆らうことはせずにおとなしく扉をくぐ
った。
犯罪者を入れる為の部屋であるからといって、集会所のほかの部
屋と特別な違いがあるわけではない。違うのはほかの部屋より小さ
く、入り口には扉││当然、外から鍵を閉めるようになっている│
│があり、窓に木の格子が嵌められていることくらいだ。寝台はな
く、板張りの床の隅に薄く綿の入った布団が置かれている。反対側
の隅には簡単なしきりの向こうに便所があるのが見えたが、普段は
使われていないこともあって特に臭いもしなかった。
閉められた扉の向こうで錠前をおろす金属の音がしばらく聞こえ
た後、扉につけられているのぞき窓が開いて、そこからフェイ・ト
スカが顔をのぞかせた。セトのいる室内には灯りがないが、フェイ・
トスカの持っている魔法の角灯の光がのぞき窓からかすかに差し込
んで、その周辺だけ少し明るくなった。
﹁食事は昼に一度運んでもらうように言っておく。反省が済めばす
ぐだしてやるが││﹂
﹁言いつけを守らなかったから、ここに入れられることに文句はな
いよ、父さん﹂セトはフェイ・トスカの言葉を途中で遮ると、その
338
目を見ながらはっきりと告げた。
﹁だけど、あの巨人を護りたいと思ったことについては、今も後悔
してない。殺す必要のない生き物まで殺すなんて、間違っているよ﹂
フェイ・トスカは目つきを││のぞき窓はそれほど大きくは切ら
れていないので、表情のすべては伺いしれない││変えぬまま、数
拍の間無言だったが、やがて重々しく口を開いた。
﹁あれが一時の気の迷いでないと言うなら、おまえはこの村では生
きていけない。それどころか、ほとんどの国、ほとんどの町でも村
でも、その考えを口にする度に、半ば強制的に出ていくことになる
だろう。おまえがこの村で母さんと一緒に暮らしていきたいと思っ
ているなら、この監禁房にいる間にその考えを捨ててしまうことだ。
魔族を生かしておきたいなどという考えをな。この世界は人間の世
界なのだから﹂
﹁戦争に勝ったからって﹂セトは反論した。﹁相手を全部殺してい
いなんておかしい﹂
そうだ。現実の世界で魔族は人類に勝利したが、人類を皆殺しに
してしまうことはなかった。
だが、この世界で魔族に勝利した人類は、魔族を皆殺しにしよう
としている。
ふたつの世界を知るセトにとって、この違いはとても大きなもの
であるように感じられた。だが、フェイ・トスカにそのように言う
ことはできない。相手はこの世界のことしかわからないのだ。
﹁魔族はもともとこの世界にはいなかった生き物だ。それを排除す
るのは自然なことだ﹂フェイ・トスカの声は頑なだった。﹁その考
えを口にしなくて済むようになったら、ここから出してやる﹂
その言葉を残して、のぞき窓は閉められた。足音が遠ざかってい
くのがかすかに聞こえる。
セトはその音を聞きながらため息をひとつ吐くと、布団の上に寝
転がった。
フェイ・トスカが灯りごと立ち去ったため、今では窓の格子の隙
339
間からわずかに漏れいる月明かりが室内を申し訳程度に照らしてい
るばかりだ。
普段ならもう眠っている時間だろう。静けさの中で目を閉じると、
すぐに眠気がおそってきた。
だがその一方で、空腹も感じている。ここのところ毎日のように
お腹いっぱい食べていたので、出掛けにシフォニアから渡された米
粥一杯では満足できなかったのだ。シュテンにいた頃は、腹一杯食
べられることの方がよほど珍しかったのだが。
寝床にしても、床の上で眠るのは久しぶりだ。こちらはマーチの
隠れ里で暮らしたとき以来、ずっと寝台で眠ることが続いていた。
暖かくて柔らかい寝床と、おいしい母の手料理を脳裏に思い浮か
べながら、セトは眠りについた。
翌日、セトはほとんどいつも通りの時間に目覚めたが、狭い室内
に閉じこめられている状態ではする事もない。そのまま布団の上で
限界まで惰眠をむさぼった後、こわばった身体を柔軟体操などでほ
ぐしたが、その後は壁に寄りかかって考えごとをするほかなかった。
閉ざされている扉の向こうには見張りが立っている気配もない。
ただ、定期的に誰かが見回りにやってきてはいるようである。聞こ
えてくる教会の鐘の音と照らしあわせると、だいたい一アルン︵約
二時間︶に一回の間隔だった。
昼には食事も出されたが、フェイ・トスカから言いつけでもあっ
たのか、薄い米粥と何種類かの漬け物だけの質素な内容で、セトは
午後からも久しく忘れていた空腹感と戦わなければいけなかった。
手持ちぶさたのセトは、腰帯に差していた短剣を取り出して眺め
てみる。魔物討伐に向かう前、弓矢とともにフェイ・トスカから渡
された短剣だ。ここに入れられるときに取り上げられるかと思った
が、フェイ・トスカは忘れていたのかそれとも気にしなかったのか、
なにも言わなかった。
短剣は質素な革製の鞘に収められており、柄などにも特別な意匠
340
はない。刃渡りは二〇オーログ︵約一四センチメートル︶ほどで、
かつての勇者が所持していたにしてはなんの変哲もない品物だった。
短剣を眺めながら、昨夜のフェイ・トスカとのやりとりを思い出
してみる。
この世界に、魔物が生きていていい場所などない││。
その言葉とともに思い出されるのは、フェイ・トスカの凍り付い
た視線だ。
そして、あまりの言葉に困惑したセトが辺りを見回したとき、周
囲に集まってきていた村人たちも、フェイ・トスカと同じ目をして
いたのだった。
普段、あんなにも朗らかで心優しい村人たちが、こと魔物や魔族
の扱いに対しては、皆一様に冷たい反応を示す。しかも、だれもそ
のことを疑問に思っていないのだ。
セトにはそのことが一番ショックだった。
あの巨人は確かにその気になれば人間を殺す力を持っていただろ
う。だが、その力を行使するかどうかは別の問題だ。あのとき暴れ
ていたのは、ワナにかかって興奮していたのと、フェイ・トスカか
ら向けられた敵意に反応していたにすぎない。
巨人が本当に村人たちに害を与える存在であったかは、あの段階
では誰にもわからなかった。そして、それを知る手段は、確かにあ
ったはずなのだ。
だが、フェイ・トスカを含め、村人たちは誰ひとりとして、その
手段を探そうとはしなかった。それどころか、あえて遠ざけている
ようにすら、セトには感じられた。
そのものが善きか悪しきかは関係なく、ただ﹁魔﹂という言葉に
くくられる存在であるというだけで、排除すべき存在になってしま
う。
それが正しいことだとは、セトにはどうしても思えなかった。
ふと、ガンファの顔が浮かんだ。あの優しい一つ目の巨人は、こ
の世界ではどうしているのだろうか。彼でさえも、もしこの村に現
341
れたとしたらフェイ・トスカによって殺されてしまうのか。
そのシーンを想像してしまいそうになって、セトは大慌てで頭を
振り、不吉な考えを追い出した。ガンファは優しい上に思慮深いか
ら、迫害を受けるとわかっていて人里に出てくるようなまねはしな
いだろう。ひょっとしたら、彼が生まれたという異世界に帰ってい
るのかもしれない。
ガンファをはじめ、ほとんどの魔物や魔族はこの世界とは異なる
軸を持つ世界から来たのだ、という話を、セトはかなり昔に彼から
聞かされていた。もっとも、幼かったセトには異世界という概念は
理解できず、﹁簡単にはいけないくらい遠くにある場所﹂くらいに
思っていた。
それを聞いてセトは、ガンファの生まれたところに行ってみたい、
としばらくは彼の顔を見る度にそうせがんだのだが、その都度ガン
ファは困ったような顔をするのだった。
あそこは、とても暗くて、とても寒いから、僕はもう、行きたく
ないな。
そう言って笑ったガンファの顔がとても悲しそうだったのを覚え
ている。
セトはまた頭を振った。この世界で人間からの迫害におびえなが
ら生きているにしても、もう行きたくないと言っていた異世界にい
るとしても、ガンファが幸福な暮らしをおくれていないであろうこ
とは想像に難くなかった。
一方で、フェイ・トスカが敗れた現実世界では、人間と魔族の立
場は逆になっている。世界を支配しているのは魔王グローングを筆
頭とした魔族たちであり、人間は奴隷として生きていくことを余儀
なくされている。
しかしそのことは、人間が魔族に問答無用で虐げられ、迫害され
ているということをそのまま意味していない。確かに戦争終結直後
は、王族や高位貴族、さらには聖職者が多数捕らえられて処刑され
るといったことがあった。今でも一部の領地ではむごい扱いを受け
342
ている奴隷も少なくない。
だが別の側面として、それこそセトの暮らしたグレンデル領のよ
うに、奴隷であるからといってもそこそこに豊かな││経済的にで
はなく心理的な面で││生活ができる地域はあるし、そうした場所
は年々増えている。また、グローングがここ数年の間に施行した法
律の中には、理由なく奴隷を虐待したり殺したりすることを戒める
など、奴隷の保護を目的としたものも存在する。
なぜこのような違いがあるのか。その理由を詳しく検証できるほ
どには、セトの知識は深くはなかった。
だがわかったことがある。数ヶ月の間暮らしたこの世界は、セト
にとってあたかも理想のように見えていた。しかしそれはある一面
││人間の立場からみた側面でしかない、ということだった。
魔族の存在をすべて消し去ろうとするこの世界は、魔族にも失い
難い友人のいるセトにとっては、ひどく歪んで見えるのだ。
現実の世界でも、セトはずっと貧しい暮らしをしてきたし、今は
人間にとって住みよい世界とはいえない。だからこそ、この世界が
魅力的に見えた。
現実も、フェイ・トスカが創り直そうとしているこの世界も、ど
ちらも歪みがある。だが、歪みの幅が小さいのはどちらだろうか。
そして、歪みを取り去ることのできる可能性があるのは││?
もっと簡単な考え方もできる。この世界では、ガンファやユーフ
ーリン、それにシュテンの町でセトによくしてくれた多くの善良な
魔族たちは、いずれも謂われのない迫害を受けるか、彼らの生まれ
たという異世界へ││帰る手段があるのだとすれば││帰ってしま
っているのだろう。もう生命がないものがいてもおかしくはない。
セトにとって、その想像は耐え難いものだった。この世界を受け
入れてしまったら、多くの友人を失うことになるのだと、セトは気
づいた。
試練の答えは決まった。
343
だが、セトはすぐに答えを口にすることはできなかった。扉の脇
の壁に寄りかかり、窓に嵌められた格子の隙間からのぞく空を見て、
ため息を吐いた。
現実の世界には、ガンファやマーチ、シイカなど、セトを待って
くれているものがいる。だが、欠けているものもある。
・・・・・
この試練を受けるまで、セトは思いもしなかったことだ。それは
もともとセトにはないもので、欠けているなんて考えたことはなか
った。
あの世界には、母がいない。
セトの母シフォニアは、現実には死んでしまっているのだ。
344
母の言葉
七
閉められたままの扉の向こうから、なにやら物音がする。
うつうつと眠っていたセトはその音で目を覚ましてまぶたを持ち
上げたが、室内は目を閉じているのと変わらないくらい暗かった。
夜なのだ。曇っているのか、月明かりもほとんど入ってきていない
ようだ。
どのくらい夜中なのかはセトにはわからなかったが、外からは鳥
の声も聞こえない。もう村人は寝ている時間だろうか。扉の向こう
の物音がなおさら大きく聞こえた。内容までは聞き取れないが、男
女の話し声らしきものも聞こえてくる。
こんな時間に、見回りだろうか?
そう思いながら扉を注視していると、物音はやがて扉の前までや
ってきた。扉の隙間から灯りが漏れてきて、室内が少し明るくなる。
話し声もいくらかその内容がわかるようになった。
﹁いいですか、一クラム︵約三〇分︶までですからね。あと、ばれ
てもフェイ殿には││﹂
﹁大丈夫、私が無理矢理頼んだって、ちゃんと伝えますから﹂
そんなやりとりとともに錠前が開けられ、扉がゆっくりと開いた。
魔法の灯りとともに、滑るようにして入ってきたのは、シフォニ
アだった。
﹁それじゃ、済んだら呼んでください﹂一緒にきたまだ年若い村人
は、扉の外で待つつもりのようだ。﹁あと、灯りはこっちを。魔法
の灯りは明るすぎて、窓から漏れる光でばれちゃいますから﹂
﹁わかりました。ありがとう﹂シフォニアはいかにも貴族らしい笑
顔で村人に礼を言い、持っていた角灯を村人が持っていた灯油式の
ランプと取り替えた。村人はシフォニアがランプの光量を絞るのを
345
確認すると、また静かに扉を閉めた。
シフォニアは扉が完全に閉められたことを確認すると、セトのそ
ばへ身を寄せてきた。
﹁セト、体調はどう?気分が悪いとかはない?﹂
﹁うん、大丈夫。││母さん、どうしてこんな夜中に?﹂
セトが聞くと、シフォニアは少々わざとらしくふくれっ面をして
見せた。
﹁だって、フェイが様子を見に行かせてくれなかったんだもの﹂そ
して、今度は意地の悪さを含んだ笑みを浮かべた。﹁だから、あの
人がお酒を飲んで寝てしまってから内緒で来ることにしたの﹂
シフォニアは、それからこれ、とセトに持っていた包みを渡した。
﹁お昼しか食べていないのでしょ?おなかが空いていると思って﹂
油紙にくるまれていたのは、細く切った野菜や肉を先日セトが作
り方を教えた薄いパンで包んだ食べ物だった。見た途端に空腹が抑
えきれなくなったセトは、何も言わずに大口をあけてほおばり始め
た。
﹁小麦粉が余っていたから、今日の夕食はそれにしたの。包んで持
ってくるのも楽だし﹂
セトは口いっぱいに食べ物を詰め込みながら、ありがとうと礼を
言った。もちろんもごもごとしか発音されなかったが、シフォニア
には伝わったようだった。シフォニアはほかに薄めたぶどう酒の入
った水筒も持っていて、セトがパンをのどに詰まらせる前にぶどう
酒を渡してくれた。
食事が終わり、セトはようやく人心地ついた気分になった。シフ
ォニアは食べかすしか残っていない油紙を丁寧にたたむと、水筒と
一緒に脇に置き、セトの傍らに腰を下ろした。
しばらく、どちらも無言だった。
セトはシフォニアになにをどう切り出したらいいのかわからず、
口を開くことができないでいたのだが、シフォニアの方はとくに何
かを言いたげにしているという風ではなかった。
346
だが、結局先に口を開いたのはシフォニアの方だった。
﹁セトは、魔物を殺すのがいやなの?﹂
きっと、フェイ・トスカからいくらか事情を聞いたのだろう。そ
・・
の口調に問いただすような響きはなかったが、セトは若干憮然とし
ながら答えた。
﹁魔物だから、とかじゃなくて││そのひとが悪いことをするかど
うかも分からないうちから襲いかかって殺すなんて、おかしいじゃ
ないか﹂
口に出しながら、セトは下を向いていた。もしシフォニアの方を
見ながらこんなことを話したら、彼女でさえもその目を冷たいもの
に変えてしまうのを見てしまうのではないか。そう思うと顔を上げ
ることができなかった。
シフォニアの手の片方が、セトの肩にそっとおかれた。優しい熱
が、セトの強ばりをほぐすようにゆっくりと伝わってくる。
﹁セトは優しいのね﹂声の調子も、あくまで柔らかい。
セトが意を決して顔を上げると、目があったシフォニアは微笑み
を浮かべてセトを見ていた。
どうやら彼女は、フェイ・トスカやほかの村人たちほどには排他
的思想を持っていないようだ。セトはひとまず安堵した。
﹁フェイは、あなたになんて言ったの?﹂
﹁この世界のどこにも、魔物の居場所はない、って﹂
﹁そう││。それは悲しいけれど、本当のことね﹂
シフォニアの大きな瞳が、少しだけ悲しげに細められた。
﹁どうしてさ﹂セトは不満を隠さずに言った。この世界の人間たち
がほんの少しでも、魔族を受け入れようとしてくれたならよかった
のに。
﹁もともと、魔族はほとんどこの世界にいなかったんだもの。いな
いものが急に現れて、しかも強引に土地を奪い、侵略しようとした
のよ。そんなひとたちのことを、許してくれると思う?﹂
﹁それは││﹂
347
﹁フェイが魔王を倒したおかげで、本格的な戦争にはならずにすん
だけれど、それでもあのとき、魔族が来たせいで土地を失ったり、
家族を失ったりした人も大勢いたのよ。その人たちに、魔族だって
悪いひとばかりじゃないって言ったところで、受け入れてもらうの
は難しいでしょうね﹂
セトは唇をかんだ。反論したかったが、いい言葉が浮かばない。
セトが難しい顔をしているのを見て、シフォニアは少し声の調子
を変えた。
﹁でも、お母さんはセトの言いたいことも分かるのよ。お母さんは
昔、魔族に誘拐されて二年くらい、一緒に暮らしていたことがある
の。最初は怖かったけれど、何度か言葉を交わすうちに本当はお優
しい方なんだとわかったわ﹂
それはきっと、グレンデルのことだ。セトは顔を上げた。
﹁その方に、魔族がもともと住んでいた世界のお話も聞いたの。と
ても暗くて寒いところなのだそうよ。食べ物もほとんどなくて、時
間の流れも曖昧になるくらい長い間ひもじい思いを続けていたって。
魔族が人間に比べて身体が強かったり、いろいろ特別な力を持って
いるのは、厳しい環境の中で何とか生きていけるように、自分たち
の身体を変化させていったのだともおっしゃっていたわ﹂
グレンデルがシフォニアに語って聞かせたのであろうそのことは、
セトがかつてガンファに聞いた内容よりも具体的だった。
﹁だけど、魔族は自分の意志で異世界からでることは出来なかった
んですって。それが、魔王グローングによって自由に出ることが出
来るようになった。魔族たちは一刻も早く厳しい異世界での生活か
ら解放されたくて、競うようにして飛び出していったそうよ﹂
その結果、人間の世界に魔族が増え、しかも無秩序に人里をおそ
うことが急激に増え始めたのだという。
﹁私がさらわれたのは、魔王がそういった魔族たちを抑えて、統制
し直すためだ、とも言っていたわ﹂
どうして私がさらわれることが魔族の統制につながるのかは、よ
348
く分からないけど││シフォニアはそういうと小さく舌を出した。
﹁私が分かったのは、その方や、もしかしたらその方に命令を下し
た魔王も、いたずらに人間を害しようなんて考えてはいなかったと
いうこと。魔族は異世界から抜け出したかっただけで、人間と戦う
ことすらあの人たちは望んでいなかったのでは││そんな風に考え
ることさえあったわ﹂
その通りだ。セトは心の中でうなずいた。セトは魔王のことは知
らないが、グレンデルのことならよく知っている。セトにとっては
育ての父、というより祖父といった方がいいかもしれないが、いず
れにしてもあの老人が争いを望んだりするはずはない。
﹁でもね、セト。お母さんはお城に戻った後も、その考えを誰にも
伝えなかったの﹂
﹁!││どうして?﹂
﹁私がフェイに助けられて国に帰ったとき、国民は熱狂的に迎えて
くれたわ。そしてフェイは勇者と呼ばれるようになった。もしあの
とき、私が魔族にもいいひとはいます、なんて言ったら││どんな
ことになるのか想像もつかなかった。ただ、よくないことになると
いう以外には。あのとき国民の意思はすべて魔王打倒で統一されて
いて、私にはそれを壊すことができなかったの﹂
シフォニアはひざを立てて座り、そのひざに腕を回す格好をして
いる。今はセトの方を向いていないが、セトにはその口振りはそう
しなかったことを後悔しているようにも感じられた。
﹁もしあのとき、私がフェイや父さま││サンクリークの国王に私
の考えを伝えることが出来ていたら、何かが変わっていたかもしれ
ない。でも、なにも変わらなかったかもしれないし、もっとひどい
結果になったかもしれない。結局わたしは勇気がなくて、言われた
とおり部屋に閉じこもって││ただ、あの人が無事で帰ってくるこ
とを祈ることしかできなかった﹂
シフォニアの独り語りは、いつしか懺悔のようになっていた。ひ
ざに回された手が小さくふるえていることに、セトは気づいた。
349
セトはほんの少し迷い、それからゆっくりと手を伸ばして、母の
小さな手に触れた。シフォニアは顔を上げ、セトを見た。ふるえが
止まった。
﹁私は、セトに勇気のある子でいてほしいの。あなたは勇者の子な
んだもの﹂シフォニアはそう言うと、触れられていたセトの手を両
手で包むようにした。
﹁セトの言っていること、間違っていないと思うわ。人間にだって
中には悪いことをするひとがいる。それと同じで、魔族にだって心
の優しい人はいる。私は実際に、何人か知っていたのだから。でも、
ここで生きていくには、その考え方は邪魔にしかならない。村人た
ちにとって、魔物は日照りや水害と同じ││害でしかないのよ﹂
それは、当の村人たちから直接言われるよりも重い否定だった。
シフォニアはセトの言いたいことを理解した上で、村人たちの意識
を変えることは出来ないと言っているのだ。
﹁ねえ、セト。セトには本当は、行きたいところがあるんでしょう
?﹂
﹁えっ!﹂
シフォニアに突然そう言われて、セトは狼狽した。その様子を見
て、シフォニアはくすくすと笑う。
﹁あまりお母さんを甘くみないの。とくにここ数日は、ずっと悩ん
でいたみたいじゃない﹂
まさか気づかれているとは思っていなかったセトは、びっくりす
ると同時になんだか恥ずかしくなって、思わず赤面してしまった。
﹁セトはどこへ行って、なにをしたいの?﹂
﹁僕は││﹂セトは少し考えてから答えた。﹁会いたいひとたちが
いるんだ。それに・・・この世界は間違っているところがあるって、
教えてあげたいひともいる﹂
その答えは、シフォニアからすれば曖昧でよく意味が分からない
ものに聞こえるかもしれないとセトは思ったが、シフォニアはそれ
以上追求しなかった。
350
﹁あなたが村に残ると言ってくれたとき、お母さんとってもうれし
かったわ。あなたがこの村にずっといてくれて、いつかお嫁さんを
もらって、私はおばあちゃんになってあなたの孫を抱く││それは
とても素敵な想像だけれど、でもそのために、あなたに窮屈な思い
をさせたくないの。だから、勇気を持って言うわ﹂そう言うと、シ
フォニアはセトの手を握る力を強くした。
﹁セト。あなたはこの村を出なさい。もう私やお父さんの庇護から
抜け出して││大人になるときがきたのよ﹂
まっすぐな視線が、セトを見据えている。
﹁成人にはまだ少し先だけれど、お母さんが認めてあげる。セトは
もう、立派な大人よ﹂
﹁母さん・・・ありがとう﹂
決心がついた。
セトは自分の手を包んでいるシフォニアの暖かい両手をそっとほ
どくと、立ち上がった。
最後の心残りだった母と話し、その心を知ることが出来て、そし
て自分の意志も固まった。思い残すことはなにもない。
﹁試練﹂と言われて送り込まれたこの世界は、セトが知らない暖
かな幻影でセトを絡めとろうとする世界だった。一時はそのまぼろ
しに心を沈めてしまおうと思ったこともあったが、最後は誘惑に勝
つことが出来た。
だけど不思議なのは・・・もっとも強い誘惑であるはずの母が、
最後は自分の決意を助けるようにしてくれたことだ。
その母は、狭い監禁房の中で突然立ち上がったセトに戸惑うこと
もなく、ただ静かにこちらを見上げている。
その目を見て、また決意が揺らぐことのないうちに││。セトは
教えられた言葉をつぶやいた。
その言葉はセトからすれば何の意味も持たない単語の羅列でしか
351
ない。
だが口にするごとに、まるで音に重さがあるように一音一音を発
するのに力がいるようになった。
やっとのことで言葉をすべて口に出すと、言葉に込められた魔法
はすぐに効力を発揮し始める。
はじめは、セトの視界のほんの端から。はめ込まれたパズルのピ
ースがはずれるように、部屋の一角がこぼれ落ちる。一つのピース
がはずれると、あとは猛烈な勢いで、部屋全体に縦横の線が入り、
最初にはずれた場所から伝染して部屋が崩れた。
崩れたピースは落ちるのではなく浮かび上がって、上空へと巻き
上げられていく。壁も天井も、セトが立っていた床もあっという間
に視界から消え去る。
崩れるのは当然部屋だけではない。その外に広がる山も森も、夜
の空にさえ縦横の線で区切りが入り、巻き上げられて消えていった。
そして最後に残るのは、暗闇ばかり。
試練に入る前、フェイ・トスカに胸を貫かれたセトが目を覚まし
たのと同じ暗闇││。
そう思ったが、足下に何か気配を感じて、セトは視線を落とした。
﹁母さん││どうして?﹂
そこにはまだ、シフォニアが座っていた。
セトのつぶやいた言葉で、まぼろしの世界は消え去った。それな
のに、なぜ彼女は消えていないのか。
セトは屈みこみ、シフォニアの姿を見直した。なんだか彼女の身
体全体がうすく発光しているように見える。そのせいか、暗いとこ
ろでは黒に見える彼女の長い髪も、今は陽に透かしたときのように
明るい翠色をしている。
よく見れば、顔立ちも少し││大人びた雰囲気が薄れ、もとより
大きな瞳がより強調されて、いくらか子供っぽさも感じさせる。ま
るで、十年以上若返ったかのように││。
﹁ずっと見ていたのよ、セト﹂シフォニアはそう言って右手を伸ば
352
し、セトの頬に触れた。﹁やっぱり、心配だったから。でも、グレ
ンデルはとても大切にあなたを育ててくれた。あの方に預けたのは、
間違っていなかった﹂
﹁どうして・・・?﹂セトは繰り返した。
﹁魂だけの存在だから、見ているだけでなにもできなかったけれど。
あの世界が、私に少しだけ力を分けてくれたのね。おかげでこうし
て、あなたに触れることが出来る・・・﹂シフォニアの手が、セト
の頬を愛しそうに撫でた。﹁ああ、でも。もう終わりみたい﹂
シフォニアの身体の光が強くなった。シフォニアは頬を撫でてい
た手を首の後ろに回し、セトを抱き寄せた。
﹁ねえ、セト。あの人に伝えて。やり直す必要なんかないって。あ
なたが守るべきひとは、この世界にもまだ生きていて、新しく生ま
れてもいるのよって。なかったことにするのではなくて・・・この
世界を変えていけばいいの。セトと一緒に﹂
﹁母さん・・・本当に、母さんなの?﹂
﹁まぼろしだったけれど、あなたに母さんと呼ばれて、あなたの世
話が出来て幸せだった。それに、あの人と夫婦として暮らせたこと
も。私はもう満足よ﹂
シフォニアの光はますます強くなり、その身体が徐々に重さを失
う。足先が浮いていることに気づいて、セトはあわててシフォニア
の背中に腕を回すと、めいっぱい引き寄せた。
だが、それも無駄な努力だった。シフォニアの身体は光に包まれ
てほとんど見えなくなり、背中に回しているはずの腕からも重さを
感じなくなる。そして、光は緩やかに上昇を始めた。
シフォニアはセトから身体がはなれる直前、顔を近づけてセトの
額にキスをした。
﹁そんな顔をしないで。元に戻るだけだから││お母さんはこれか
らも、あなたのことを見守っているわ﹂
﹁母さん、待って││母さん!﹂
セトは叫び、必死で腕をのばして光が離れるのを押しとどめよう
353
としたが、もはやどうにもならなかった。光は腕をすり抜け、緩や
かに、しかし確実にセトから離れていく。
光はついにシフォニアの顔も覆い隠した。完全な光の珠となった
シフォニアは、もうセトが手を伸ばしても届かないところまで浮か
び上がった。
︵行ってらっしゃい、セト。元気でね︶
最後の言葉は、頭の奥に直接響いた。
それが合図になったかのように、光は急速に弱くなり、最後は暗
闇に吸い込まれるようにして消えたのだった。
﹁母さん・・・﹂
セトは力なくひざをついた。
あの母もまた、親を知らないセトを誘惑するために生み出された
まぼろしだと思っていた。だが、そうではなかった。
あれは本当に、母だったのだ。
死んで魂だけの存在になってまで、セトを見守ってくれていたの
だ。
あのまぼろしの世界の中で、どうして顔さえ知らなかった母を簡
単に受け入れ、ああまでも離れ難く思うことになったのか、セトは
ようやく理解した。
だが、理解したときは、同時に別れのときでもあったのだった。
﹁セト。よく試練を乗り越えましたね﹂
セトの背後から、感情の乗っていない透明な声が聞こえた。
セトがゆるゆると振り向くと、銀色の髪の少女││シイカが立っ
ていた。もともとあまり感情を表に出すタイプではないが、今はい
つも以上に無表情を装っている。
﹁あの世界は、そのものにとってもっとも欠けているものを教え、
補うための世界です。受ける人によって世界は変わり、厳しい戦場
であったり、なにもない無人島であったり││。あなたの場合は、
354
両親からの愛情や、満たされた生活。心の奥底でずっと渇望してい
たことが満たされてもなお、困難に立ち向かう信念を捨てずにいら
れるか。そういったことを試されていたのです﹂
シイカは淡々とセトの﹁試練﹂がなんだったのかを解説したが、
セトが知りたいのはそんなことではなかった。
﹁母さんは、どうして││?﹂
﹁あの世界を作り出すため、セトの身の回りのものにまつわってい
た思念やオーラの残滓を利用しました。たとえばフェイ・トスカは、
あなたの身につけていた剣に残された思念を元に構成されました。
シフォニア姫も同様に構成されるはずでしたが││あなたが身につ
けていた竜の首飾りには、姫の思念だけではなく、魂そのもののか
けらが宿っていたので、あのようにただのまぼろしとは違う存在に
なったのでしょう﹂
﹁首飾りに・・・﹂
セトはつぶやいて自分の胸に視線を落としたが、いつも身につけ
ていた首飾りの感触は今はなかった。
﹁さて、あなたにこれから﹃竜の加護﹄を与えます﹂シイカは厳か
に宣言したが、セトにはまだ納得のいかないことがあった。
﹁どうして、シイカがそんなことをするの?﹂セトはそのあたりの
事情を全く聞かされていない。おまけに先ほどから︵実はこの暗闇
の世界に来てからずっとそうなのだが︶シイカはセトにたいして全
く他人行儀に話すので、セトは気に入らなかった。﹁それとも、あ
なたはシイカの格好をした別のひと?﹂
﹁私はシイカよ、セト﹂シイカは少しだけ口調を変えて、穏やかな
微笑みを浮かべて首を傾げて見せた。セトが見慣れたシイカの仕草
だった。
﹁でも、私はほんとうはあなたと同じ人間ではないの・・・﹂
シイカは自分が本当は何者であるかについて、手短に語って聞か
せた。
﹁ここは精神の世界だから、あなたを混乱させないためにまだこの
355
姿をとっていられるけれど、あなたが目を覚ました後はそうはいか
ないでしょう。これまでのように親しくは思えないでしょうから、
今のうちに覚悟をしておいてください﹂
シイカはそう言うと目を伏せたが、セトはすぐに言い返した。
﹁大丈夫だよ、シイカ。本当の姿がどんなだって、シイカはシイカ。
同じだよ﹂
﹁でも││﹂
﹁目が覚めて、シイカを見ても驚かないって自信があるよ﹂
セトがあまりにも自信満々に胸を張って見せたので、シイカはお
かしくなってしまい、口に手を当てて少し笑った。
﹁もう・・・セトに怖がられてもショックを受けないようにって、
予防線を張っていたのに││﹂
﹁だから、大丈夫だって﹂
二人で顔を見合わせてしばらく笑いあった後、シイカは呼吸を落
ち着けて、もう一度表情を引き締めた。
﹁こんどこそ、あなたに﹃竜の加護﹄を与えます。この力は世界を
混沌に落とそうとする存在と戦うために与えられる力。最大のもの
は、一度に限ってはどんな激しい負傷、たとえ即死に至るものでも
防ぎ、あるいは治癒するというものです。ですが、今回、あなたの
肉体はすでにこの力を消費しなければ回復しえない損傷を受けてい
ます。この力はあなたが﹃竜の加護﹄を得ると同時に使用され、失
われます﹂
セトはうなずいた。
﹁まず、今は接触を断っているあなたの肉体と精神をもう一度つな
ぎます。あなたの精神は今は時間の流れから切り離されていますが、
これによって再び時間も流れ始めます。ただし、今あなたの肉体は
活動を停止していますので、あなたは意識を失うことになります。
その後は一晩かけて、肉体の損傷を修復し、さらに精神の成長にあ
わせて肉体を成長させます﹂
﹁僕は寝てるだけ?﹂
356
﹁そうよ。もう試練は終わったもの。それに、ふつうの眠りとは少
し違うから、眠ったと思ったら目が覚めるような感じだと思うわ﹂
シイカはそう言うとセトを招き寄せ、足下に寝かせた。
﹁ほかに質問は?﹂セトの傍らに屈みこみながら、シイカが聞いた。
﹁質問はないけど、言いたいことはあるよ﹂
﹁なに?﹂
﹁シイカ・・・僕にうそをついたね。﹃試練﹄のこと﹂
そう言われて、シイカは目を伏せた。
最初にセトに説明した﹁試練﹂は、これから行く世界にひとつだ
けあるまぼろしのものを探せ、というものだった。
だが実際には、世界そのもの、すべてがまぼろしだった。試練の
本質はそこにはなく、まぼろしの誘惑を打ち破ることが出来るかど
うかが試されていたのだ。
﹁それは、そのうそに気づくかどうかも、試練の一部だったからよ。
あの世界のすべてがまぼろしだということも││﹂
﹁そういう意味じゃないよ﹂セトは笑っていた。
﹁?﹂
﹁世界の中に、ひとつだけまぼろしがあったんじゃなくて││﹂
まぼろしの中に、ひとつだけ真実が混ざっていたんだ。
そのおかげで、僕はまぼろしの世界の中で、本物の愛情を知るこ
とが出来たんだよ。
今まで顔も知ることが出来なかったお母さん。これからは簡単に
その顔を思い出せる。
もう会うことは出来ないけれど、淋しいなんて思わない。
目が覚めたらまた戦いに行かなくちゃならないけれど、それは新
しく知ることが出来たお母さんの願いを叶えるためでもあるから│
│、
だから、行ってきます。母さん。
357
母の言葉︵後書き︶
この章は予定の倍くらいの分量になってしまいました。
文字数もばらばらで、構成の未熟さが出てしまっていますね。読み
づらくてすみません。
頭の中の物語を書き写すだけなのに、小説を書くのは難しいです。
自分の書きたいことがちゃんと伝わっているのか、不安になります・
・・。
読んでくださっている方には、心から御礼申し上げます。
ご意見、ご感想などありましたら、ぜひお聞かせください。
358
長い一日は過ぎて
一
シイカ・ドラゴンが、生気を失ったままのセトの身体を光に包み、
ともに去ってから一夜。
マーチは、ユーフーリンの屋敷の一室で目を覚ました。
最初にここへたどり着いた日、まだ少女の姿をしていたシイカと
ともに泊まった部屋だ。
マーチは昨夜この部屋へ案内されて独りになってからも、セトの
ことを思えば不安ばかりが先に立ち、今夜は一睡も出来ないのでは
と思っていた。だが、実際には寝台に入って目を閉じればそれほど
時もかからずに眠りに落ちてしまっていたようだ。
フェイ・トスカの手勢に捕まってからはずっと緊張し続けていた
のだから、それも無理のないことである。
昨晩は久方ぶりに湯を使い、隠れ里を出て以来、ずっと着たきり
だった服も替えた。といっても、これは湯を使っている間に屋敷の
メイドたちに強引に洗濯場へもっていかれてしまったためで、マー
チとしては不本意ではあるのだが・・・。
寝台脇にはマーチのための新しい服も用意されているが、これも
自前のものではなかった。まだ洗濯場から戻ってきていないらしい。
ただ、女性用の裾の長いローブを着たがらないマーチの要望を考慮
に入れ、男性用の衣服がおかれていた。
ズボンはぴっちりと肌に張り付くもので、最初マーチはサイズが
小さいのではないかと思ったが、そういえばあの丘でセトが身につ
けていたのもこんなズボンだったことを思い出した。この地方では
こういうものが一般的なのかもしれない。
このズボンとチュニックの上から腰まで丈のある上衣を羽織り、
腰帯を締める。帯には長年愛用している二本の小剣を差した。
359
と、そこへ唐突に声がかかった。
﹁ふむ、もうすっかり準備ができているようだね﹂
﹁わあっ!﹂
まったく気配を感じていなかったマーチは盛大に驚き、寝台の上
まで飛び上がって壁を背にすると、右手で小剣の片方を抜いた。左
手はもう一本の小剣の柄の上だ。
﹁いつ入ってきたのよ、このスケベ魔族!﹂
声の調子で誰なのかはすぐにわかったが、剣を突きつけてやろう
といくら目線を動かしても相手の姿は見えない。
﹁ひどい言われようだな。君の着替えが終わっていることくらい気
配で確認した上で入ってきたんだが。││といっても、この姿では
信じてもらえないかもしれないね﹂
スケベ魔族││とマーチに呼ばれてしまった││ユーフーリンは
そう答えたが、相変わらずその姿は目に見えないままだった。
昨日、シイカの能力にかけられた封印を解くために魔力を使った
結果、どんな姿にもなることができるユーフーリンはその力を失い、
何者の姿もとることが出来なくなってしまったのだった。今は精神
だけが漂っているような状態とのことだが、その姿は見ることも触
れることも出来ない。
﹁それ、時間が経てば治るっていってなかった?﹂
﹁その通りだ。だが、一日や二日で治ったりはしないよ。他人の目
に見える姿をとることが出来るようになるまでだいたい一〇年、完
全に元に戻るまでには五〇年くらいかかるんじゃないか?﹂
ユーフーリンの声はいとも簡単にそう言ってのけたが、マーチは
驚いた。これまでの口振りからもそんな大事であるとは思っていな
かったからだ。
だが、ユーフーリンの声はまったく気にしていない声色で続ける
のだった。
﹁私の寿命は長いから、これくらいは何ともないさ。ああ、人間の
寿命は平均すると五〇年くらいと聞いているから、ひょっとすると
360
もう君に再び私の姿を見せることは出来ないかもしれないがね﹂
しばらくすると小鬼の老執事が現れ︵彼はきちんと入り口の外か
ら声をかけた︶、マーチは案内されて屋敷の外に出た。ユーフーリ
ンも途中までは話し声でついてきているのがわかったが、マーチが
あまり受け答えをしてくれないので、やがて声は止んでしまった。
屋敷の正門近くには豪華な客車がついた獣車が停められており、
一つ目巨人のガンファがマーチを待っていた。
ガンファはマーチが近くまでくると、その大きな瞳で軽くマーチ
の顔をのぞき込み、﹁よく眠れたみたいだね﹂と言った。マーチは
﹁まあね﹂とだけ答えると、自分で扉を開けて客車に乗り込んだ。
あの巨人の心が優しいのは、セトやシイカに聞いていたことでも
あるし、数日一緒にいただけでも十分に伝わってくるものではあっ
た。それでもあの巨体には無条件で身体が強ばってしまうものがあ
る。そう簡単に慣れることは出来なかった。
シイカが言っていたように、魔族にもいろんなものがいる。その
ことはマーチも否定しない。だが、実際に自分とは異質の生き物と
ともに暮らすというのは、そんな理屈だけで簡単に収めてしまえる
ほど簡単なこととは思えなかった。
だが、この先もセトたちと一緒にいたいと考えるならば、なんと
かしてその理屈を受け入れなければならない。
とはいえ、それはセトが無事に生還した後のことだ。
ガンファは客車には入らず、御者台に座った。客車は十分に頑丈
だったが、ガンファのような巨大なサイズをもつものが乗ることは
考慮されていない。要するに、扉をくぐることができないのである。
マーチは正直に言って、あの巨人と向かい合わせに座ることになら
ずにすんでほっとした。ユーフーリンは声が聞こえないのでどこに
いるのかわからないが、まあどこかにはいるのだろう。
﹁それじゃ・・・出発します。揺れに気をつけて﹂
361
ガンファが御者台からそう告げて、獣車が緩やかに走り出した。
これからあの丘に向かい、昼頃に戻ると告げたシイカの帰還を待
つ。
果たして、セトは一緒だろうか。
アニスの丘に着いたのは、太陽が頂点に達するよりも幾分早い頃
合いだった。
丘には昨日ユーフーリンの配下が張った陣がそのまま残されてい
て、竜が現れるまではそこで待とう、とユーフーリンは言ったが、
マーチはじっとしていることが出来ずに、すぐに陣を出ていってし
まった。
とはいえ、陣の外に出ても出来ることは草原を歩き回ることくら
いで、しかも歩き回ったからといって別段時の経つのが早くなるわ
けでもない。やがては草原に腰を下ろして待つことになった。
マーチが腰を下ろしたのは、昨日、セトがフェイ・トスカに胸を
突かれて倒れたその場所のほど近くだった。
そこには昨日、血溜まりが出来ていた。今はその血は土に吸われ
てしまったのか、それともシイカがセトの肉体を持ち去るときに一
緒に血液まで拾っていってしまったのか、目立つほどではなくなっ
ている。ただ、倒された草にはところどころ血が付着したままにな
っており、その場所を見つけだすのは簡単だった。
その場にただ座っていると、そこが本当に、つい昨日忌まわしい
戦場であったのかと疑いたくなるほどのどかで穏やかだ。昼近いの
で陽射しを少々感じるが、空気が乾いているのでそれほど暑くはな
い。また、風が丘の上から吹き下ろしてくるので、血のにおいも風
に紛れていってしまう。
マーチは膝を抱えた姿勢のまま、草原の一点を見つめ続けていた。
目を閉じることが出来ないでいる。目を閉じると、考えたくもな
いはずの最悪の結果ばかりが勝手に頭に浮かんでくるのだ。
ふと、背後に気配を感じて、マーチは振り返った。
362
少し離れた位置で、ガンファがこちらを見ていた。手に何か持っ
ている。
ガンファは、マーチがこちらに気がついたのを確認してからゆっ
くりと近づいてきた。警戒させないように気を使っているのだ。
その身体の大きさにあった長い腕がマーチにやっと届くというと
ころまで来たところで立ち止まり、手に持っていたものをマーチに
手渡す。
それは素焼きのカップだった。中には飲み物が注がれている。
﹁リラックスできるお茶・・・どうぞ。薬草を昨日から水出しにし
ていたんだ。ちょうどいい味になっているから﹂
カップの中の液体はうすい黄緑色をしているようだ。ガンファか
らお茶を振る舞われるのが初めてのマーチは少し戸惑ったが、ちょ
うどのどが渇いていたこともあって口を付けることにした。
薬草茶というと、隠れ里で体調を崩したときにアンプに飲まされ
た苦い薬湯のイメージが強かったが、このお茶は飲みやすかった。
ほんの少しだけ渋みがあるが、何口かに分けて飲むごとにすぐ気に
ならなくなった。
マーチはあっという間にお茶を飲み干すと、礼を言ってカップを
ガンファに返した。
﹁屋敷から持ってきたの?﹂
﹁うん。セトはきっと、のどが渇いていると思ったから﹂
﹁そうか・・・﹂マーチは、ガンファに向けていた目線を一瞬そら
した。﹁あなたはいいわね。セトのために出来ることがあって﹂
﹁そんな││﹂ガンファは何かをいわなければと思ったものの、う
まく言葉にすることが出来なかった。
﹁あたしは、ただ待っていることしかできないし、セトが無事に戻
ってきたとしても、せいぜい声をかけることくらいしかできないわ﹂
﹁そんなことはないぞ!﹂
マーチが自嘲気味にそう言うのを、背後から別の声が力強く否定
した。
363
﹁君にしかできないことだってもちろんある。安心したまえ﹂
相変わらず声はすれども姿は見えないユーフーリンであった。
﹁どうしてわざわざ後ろから声をかけるのよ﹂
﹁それはまあ、他人を驚かせるのは私の生き甲斐でもあるから仕方
がない。だがもう慣れられてしまったようだな。何か手を考えなく
ては﹂
マーチはそれを聞いてうんざりしたが、この性悪の魔族が出てく
るときに気になることをいっていたのを思い出した。
﹁││それで、あたしに出来ることって?﹂
﹁ふむ。興味があるかね?﹂
﹁それは、まあ﹂
﹁ならば言うが・・・なに、別に難しいことでも、準備が必要なわ
けでもない。セト君が無事に戻ってきたならば、その身をきつく抱
きしめてやればいいだけだ﹂
﹁抱き・・・﹂マーチの顔が分かりやすく真っ赤になった。
﹁やはり抱擁はするにもされるにも異性が良い。彼のように年頃の
男子ならなおさらそう思うことだろう。我々の中で女性は君しかい
ないのだから、これは間違いなく君にしかできないことだろう?何
ならそのままキスをしてやれば彼はきっと喜ぶ﹂
﹁キ・・・そんなこと出来ないわよ!﹂
﹁なんだ、君は案外貞操観念が強いんだな。だが君たちは互いに憎
からず想い合っている仲じゃないか。正式な約束はまだなのかもし
れんが、順序がいくらか入れ替わることはよくあることで││﹂
﹁ああもう、聞かなきゃよかった││なんとかしてこいつを黙らせ
る手段はないのかしら!﹂
マーチは頭を抱えている。実体のないユーフーリンがどんな様子
かは口調からしか分からないが、赤面するマーチの周りを大喜びで
飛び跳ねている様が容易に想像できた。
・・
結局、遠巻きにその様子を眺めているだけだったガンファが、上
空で太陽の光を反射する何かに最初に気づいた。
364
﹁ユーフーリン様、マーチ!・・・時間のようです﹂
マーチはその言葉に顔を上げてガンファの目線を追い、ユーフー
リンは﹁そうか﹂と短い返事を残して押し黙った。
太陽の光を反射しているのが、上空を飛行する竜の白銀の鱗であ
ることはすぐにはっきりとした。
白銀の竜・シイカは、上空で幾度か旋回した後、巨大な翼をはた
めかせながらゆっくりと高度を下げ、草原の上に降り立った。マー
チたちからは少し離れたところだったが、それでも翼の打ち起こす
風が舞い上がって彼女らの髪や服をはためかせた。
マーチはほとんど駆け足でシイカの元へと向かい、ガンファも続
いた。やがて、彼女の巨体からすれば小さい││それでも人間から
すればよほど太い││二本の前腕が、何かを抱えているのが見えた。
シイカ・ドラゴンが身をゆっくりと屈め、その腕に抱えているも
のを草原に横たえた頃、マーチとガンファは彼女の元にたどり着い
た。
﹁シイカ!セトは・・・﹂
マーチの言葉は先を続ける必要性を失って途切れた。
草原に横たえられていたものこそセトだったからだ。
身につけていた衣服は血にまみれた上衣はもちろん、ズボンや靴
も新しいものに取り替えられていた。胸元はきっちり閉じられてお
り、外見からは傷が残っているのかわからない。
だが、セトは目を閉じていた。シイカによって仰向けに横たえら
れた姿勢のまま微動だにしない。
﹁セ││っ﹂
考えずにいられなかった最悪の想像が現実になったのかと思った
マーチは息をのみ、吊し糸が切れたかのようにひざが崩れた。
だが、そのひざが地面につく前に、ガンファがそっとその肩を支
えてやる。
﹁大丈夫・・・よく見て﹂
そう言われ、改めてセトを見る。やはり目を閉じたままで、緩く
365
握られたままの拳も動かない。
だが、その胸はかすかに││注意してみれば確かに││上下して
いた。
﹁安心してください﹂独特の響き方をするシイカの声が上から聞こ
えてきた。﹁今は眠っているだけです。じきに目覚めます﹂
﹁ってことは││﹂
﹁はい。セトは試練を乗り越え、見事﹃竜の加護﹄を得ることに成
功しました﹂
シイカのはっきりとした肯定の声を聞いて、今度こそマーチは力
が抜け、眠るセトの傍らにそのひざをついた。
﹁セト・・・よかったあ・・・﹂
表情なく眠るセトの顔をのぞき込んでいると、自然と涙があふれ
てきて、止めるまもなくセトの頬の上に落ちた。
こぼれた涙はセトの頬を伝って唇に達した。すると、その感触で
目が覚めたのか、セトは顔を幾度かしかめ、自身の唇を濡らす何か
を││おそらくは無意識に││舌でぺろりと舐めとった。
﹁あっ!﹂マーチは驚いて、セトの顔の上から飛び退いた。
セトはまだしばらく顔をむずがゆそうにむにむにと動かしていた
が、やがてゆっくりと、目を開いた。
﹁しょっぱい・・・﹂
寝ぼけたようにそんなことを言ったので、マーチはまた顔を赤く
したのだった。
﹃竜の加護﹄の力によって死の闇から帰還したセトは、草の上に
横たわったままで目だけを動かし、なぜかこちらを見ずにうつむい
ているマーチの姿を最初に認めた。
﹁久しぶり、マーチ﹂
﹁なに言ってるのよ、ばか﹂
笑いかけても、マーチはそう答えるだけで、こちらを向いてくれ
なかった。
366
﹁久しぶりじゃないよ、セト﹂シイカの声が聞こえた。
﹁セトは試練の中で数ヶ月の時を過ごしたけれど、現実にはセトが
倒れてからまだ一日しか経っていないんだから﹂
﹁ああ、そうか﹂セトは納得し、それから別の疑問を頭に浮かべた。
﹁シイカはどこにいるの?﹂
そう言いながら身体を起きあがらせる。セトの身体は過不足なく
自分の頭脳から出される指示を受け入れた。
上半身を起こした姿勢で改めて周囲を見回すと、すぐ傍らにマー
チがひざ立ちの姿勢でおり、少し離れたところにはガンファがいつ
も通りの優しい視線を投げかけてくれている。だが、シイカと思し
き人物の姿は見あたらなかった。
﹁セト、上を見て﹂
﹁上?﹂
言われたとおり素直に顎をあげると、数ログ離れたところにあっ
てもはっきりと巨大な竜の瞳と視線があった。
それではじめて、セトは自分のそばにいたガンファよりも巨大な
竜の存在に気がついたのだった。
﹁私がシイカです、セト﹂ぽかんと口を開けているセトを見下ろし
て、シイカ・ドラゴンが言った。﹁・・・驚きましたか?﹂
セトは二、三度まばたきをすると、開けっ放しの口を閉じた。そ
れから改めて口を開き、﹁うん、ちょっとだけ││びっくりした﹂
と答えた。
﹁あ、でも、悪い意味じゃないよ﹂シイカの本当の姿を見ても驚か
ない自信がある││自分でそう言ったことを思い出して、セトはあ
わてて立ち上がった。少しでも顔の位置を近くしようと思ったのだ
が、そうすると顎はさらに上げなければならず、ずいぶん窮屈な姿
勢になった。﹁まさか、ガンファより大きいとは思ってなかったか
ら﹂
﹁無理しなくてもいいのに﹂シイカはそう言うと身体を少し前に倒
し、首をひねって顔の高さをセトに近くした。セトは首に負担をか
367
けなくてもよくなったが、今度は竜となったシイカの顔を間近で見
ることになった。
わに
シイカ・ドラゴンの顔には、人の姿をしていた頃の面影を感じさ
せるものはない。既存の生き物で言えば鰐がもっとも近い顔をして
いる││ただし、セトは鰐を見たことはないが。大きな口からは鋭
く並んだ歯と牙が露出し、その奥にはやはり大きくて長い舌がのぞ
いている。銀色の皮膚は遠目では透きとおるように美しいが、近く
で見ると鱗によって覆われていることがわかる。大きな鼻孔も、頭
から生えた触角のような長い二本の角も、人間に恐怖を与えるには
十分な迫力を持っていた。
だが、子供の頃から魔族に囲まれて育ったせいか、セトには気に
ならなかったようだ。
﹁確かにずいぶん変わったけど││でも髪の色はまえと一緒だね﹂
シイカの顔を間近で眺めた感想がそれだった。
確かに、シイカ・ドラゴンの髪││生えかたからいえばたてがみ
というべきだろうが││は、彼女が人の姿をしていた頃と同じ、美
しい銀色をしていた。
セトはシイカに近づき、頭を撫でてやろうとしたが届かなかった
ので、首筋を撫でてやることでそのかわりとした。鱗のせいでつる
つるとした感触だった。
﹁私のこと、怖くないの?﹂
﹁どうして?﹂
シイカのか細い問いに、セトは疑問を返した。
﹁だって││私はその気になれば、木の枝を折るくらいの力加減で
人を殺すことも出来てしまうわ﹂
﹁それは、ガンファだってそうだし・・・僕もそうだよ﹂セトがそ
んなことを言ったので、シイカは大きな双眸をめいっぱい見開いた。
﹁どういうこと?﹂
﹁斧があれば、薪を割るのと同じ力で人を殺せる﹂セトが答えると、
シイカはちょっと怒ったように語気を強めた。
368
﹁そういうことじゃなくて││﹂
﹁同じだよ﹂セトはシイカの言葉を遮っていった。﹁大事なのは、
その力があるかじゃなくて、その気があるかどうかだ。シイカは簡
単に人を殺そうなんて考えていないだろう?ガンファだって、僕だ
って同じだ。そのことをわかっていれば、相手が強力な魔族だから
っていう理由だけでおびえたりする必要はないんだ﹂そこまで言う
と、表情を引き締める。﹁みんなが正しく理解していれば、種族が
違うっていうだけで争ったり、虐げたり・・・。なにもしていない
のに殺してしまうなんてことは、きっとなくなるはずなんだ﹂
﹁セト、なんだか雰囲気変わったね﹂マーチが言った。﹁大人っぽ
くなったっていうか││って、あれ?﹂
マーチは急にセトのそばに駆け寄ってくると、水平にした手を自
分とセトの頭の上で行き来させ、驚きの声を上げた。﹁なんだかセ
ト、大きくなってない?﹂
﹁え、そう?﹂
﹁そうよ。だって││この間までは確かに、あたしの方が背が高か
ったもの!﹂
マーチはよほど悔しいのか、セトに身体をくっつけんばかりにし
てふたりの身長差を繰り返しはかっている。セトはあまり気にして
いなかったのだが、そういわれれば確かに、マーチの目線の高さが
以前より低い位置にあるような気がしてきた。
﹁マーチが小さくなったんじゃ・・・﹂
﹁何ですって?﹂
マーチは自分の身長について何か思うところでもあるのか、セト
をにらみつけた。
﹁セトの身体は確かに大きくなっています﹂シイカがふたりの疑問
を解決してやるために間に入った。
﹁セトは、竜の試練を精神の世界で受けましたが、そこでは数ヶ月
の時間が経過していたのです。ですが、この世界ではたったの一日。
肉体はこの世界にあり、しかも生命活動を停止していましたから、
369
そご
全く変化していません。この精神と肉体の齟齬をそのままにしてお
くと、思うように体を動かせなくなり、最悪の場合、精神と肉体が
分離してしまいます。それを防ぐために、竜の加護の力で肉体を精
神にあわせて成長させたのです﹂
﹁へえー・・・。じゃあ、あの世界でご飯をいっぱい食べたり、身
体を鍛えたりしたことも無駄になってないんだ﹂
﹁そういうことです﹂
シイカの言葉に、セトは満足そうにうなずいたが、試練のことを
よく知らないマーチはいまいち理解しきれなかったようで、セトの
頭のあたりを不満そうに見つめていた。
﹁そういえば、この服・・・﹂
セトは改めて自分の服装を見た。それはまぼろしの世界で最後に
着ていたのとまったく同じものであった。違いは、腰帯に長剣が差
してあること。あの世界ではあくまでもフェイ・トスカの所持品で
あったセトの長剣である。
と、その長剣に重なるようにして、さらに短剣が腰帯に差してあ
ることに気がついた。
短剣を鞘ごと取り上げてみると、シンプルな革の鞘に収まったそ
の短剣は、やはりあの世界でフェイ・トスカから渡されたものと同
じであった。
﹁服は、竜の加護の一部です﹂シイカの声が響いた。﹁もともと、
竜の加護を与えたものには、魔法の装備を一式手渡すことになって
いるのですが・・・。セトの戦いかたからいって、重装備をさせて
も動きを鈍くするだけだと判断したので、魔法の力を込めた服にし
ました。見た目はただの服ですが、炎や雷など、魔法の攻撃には強
い耐性があります。ただし、直接攻撃に対してはほぼ見た目通りな
ので注意してください。武器に関しては、使い慣れたものを替える
必要はないと思ったので、長剣に魔法のコーティングをして、強度
を増してあります。使い勝手は変わりませんが、威力が増していま
すよ。短剣は、おまけというか││お守りのようなものだと思って
370
ください﹂
﹁へえ・・・﹂セトは服の裾を引っ張ったりしてみたが、見た目ど
ころか手触りもただの服と変わらない。魔法の品だといわれても本
当かどうかもわからなかった。
だが、シイカがうそをつく理由はないし、あの世界を││両親と
の暖かい生活を││思い出すことのできる意匠にしてくれたことは
素直にうれしかった。
﹁ありがとう、シイカ﹂セトが礼を言うと、シイカは数回瞬きをし
てそれに答えた。
﹁さて、君たち﹂その場にいる誰のものでもない声が聞こえてきて、
セトは首を左右に巡らせた。
マーチはもう慣れたようで、唐突なタイミングでも全く驚かなく
なっている。
﹁今の・・・そういえば、ユーフーリン様は?﹂
﹁気にしてくれてありがとう﹂思い出したようにその名を口にした
セトに、ユーフーリンの声が答えた。﹁いないことにされるのでは
ないかと、少し心配したよ﹂
ユーフーリンは、自分の今の状態と、どうしてそうなるに至った
かを物語形式で語って聞かせた。所々にはいる嘘や誇張は、マーチ
が的確につっこみを入れるというスタイルで。
﹁すみません、ご面倒をおかけして﹂
﹁まあ、君を救わなければフェイ・トスカの所行は止められないと
いうのだから、ほかにやりようもなかった。それに、あの戦いで君
は敗れはしたが、その戦いぶりは冷静かつ勇敢で、十分に称賛に値
するものであった。私はそれに報いたいと思ったに過ぎんよ﹂ユー
フーリンは高らかに笑いながらそう言った後、声の調子を変えた。
﹁で、だ。再会を喜ぶのはいいが、物語はこれでハッピーエンドと
いうわけじゃない。そろそろ今後の対策を練るべきではないかと思
うのだが、どうかね?﹂
371
﹁それなら・・・陣に行きましょう﹂ガンファが遠慮がちに言った。
﹁お茶を用意してありますから﹂
﹁ガンファのお茶、ずっと飲めなかったからうれしいな!﹂セトが
目を輝かせた。﹁あ、精神的には・・・だけど﹂
﹁安心したから、なんだかおなかも空いたわ﹂とマーチ。﹁食べ物
もあるのかしら?﹂
﹁私は陣には入れませんね。お茶も飲めないし﹂シイカがそんなこ
とを言うと、ガンファが笑いかける。﹁お茶はたくさんあるよ。カ
ップじゃ小さいだろうから・・・桶にでも入れれば、シイカも飲め
るかな﹂﹁わあ・・・ありがとう、ガンファ﹂
とにかくセトが無事に戻った安堵感からか、楽しげに陣へと向か
う四名の背中を見ながらユーフーリンはつぶやく。
﹁まあ、今くらいは良しとするか。││しかし、わたしがお茶を飲
めないことは気遣ってもらえないのだなあ﹂
日頃の行いのせいか、疎外感に背中が煤ける思いを味わいながら
︵背中もないのだが︶、ユーフーリンは少し離れて後に続くのだっ
た。
372
竜の背に乗り
二
﹁そうだセト、││これ﹂
マーチが懐から取り出してセトに渡したのは、あの竜の飾りのつ
いた首飾りだった。
もともとシイカの本性を封じ込めた緑色の宝石をはめ込まれてい
たが、その宝石はユーフーリンが強引に封印を解いた際に砕け、ま
たその際に漏れ出た力の余波を受けて精巧に作られていた竜の飾り
もひしゃげてしまっている。
フェイ・トスカの一撃によって断ち切られた鎖はつなぎ直されて
いたが、元の上品な美しさはもはやみじんも感じられない有様にな
っていた。
﹁ありがとう、マーチ﹂
だがセトは笑顔でマーチに礼を言うと、何のためらいもなく元の
ように首に下げたのだった。
セトからすれば、意匠のすばらしさなどどうでもいいのだ。
この首飾りはグレンデルから手渡されたものであり││母の魂の
かけらが宿っているのだから。
丘の上の陣まで戻った一行は、ガンファの持ってきた薬草茶で人
心地ついた。張られた幕よりもよほど大きなシイカは陣の中には入
れないので外で待ってはいたが、獣車を引いてきたラグス用の飼い
桶を洗ったものにたっぷりと薬草茶を注いでもらったものを、前腕
で器用に抱えて飲んでいた。
屋敷のものが用意してくれた簡単な食事もあって、昨日食事がほ
とんどのどを通らなかったマーチはよく食べたが、セトは試練の世
界でよく飲み食いしていたせいか、それほどおなかは空いていなか
373
った。そこで陣の外にいるシイカに何か持ってこようかと聞きにい
ったが、シイカは断った。
﹁このサイズだと、人間向けに作られた食べ物は小さすぎて食べご
たえがないと思うわ。ガンファのお茶だけで十分﹂
﹁竜って、なにを食べるの?﹂
﹁何でも食べるけれど・・・肉体的には、私たち竜はほとんどなに
も食べる必要がないのよ。それでも生きていけるの﹂
﹁へえ、じゃあ、おなかが空いたりしないんだ﹂セトは感心したが、
シイカはその言葉には首を振った。
﹁ずっとなにも食べないでいると、おなかが空いたような気分にな
るのよ。それでも我慢していると、だんだん精神がやつれてしまう
から、やっぱり時々は何かを食べた方がいいみたい﹂
﹁そうなんだ││﹂セトはうなずきながら、別の疑問を感じて聞い
てみた。﹁シイカって、昨日その姿になったばかりなのに、実際に
そうなったことがあるみたいだね﹂
﹁なったこと、あるよ﹂シイカの巨大な瞳が細められた。﹁私、二
年前まではこの姿で生きていたんだから﹂
﹁えっ、そうなの?﹂セトは仰天した。﹁でも、そんなこともひと
ことも言わなかったじゃないか﹂
﹁言ってしまったら、私が竜としての使命に縛られることなく生き
ていけるようにって、せっかくおじいちゃんが封印をしてくれた意
味がなくなってしまうじゃない。セト・・・ユーフーリン様のお話、
ちゃんと聞いていたの?﹂
﹁えーっと、聞いてはいたけど・・・﹂シイカに責めるように言わ
れて、セトは頭を掻いた。
ユーフーリンがシイカの封印を解く顛末を語った話の中には、セ
トが知らなかった事実がいくつかあった。その中の最たるものが、
セトを育ててくれたグレンデルの正体が竜であるということだった。
﹁じいちゃんがシイカと同じ竜だった、っていうところでびっくり
しすぎて、あとはあんまりよくわからなかった﹂
374
﹁もう・・・﹂シイカはため息をついた。
﹃竜の加護﹄を得たセトはすでに勇者と呼ばれるべき存在のはず
なのだが、こうして隣で会話をしているとあまりにも今までと変わ
らない。変に気負ってしまうよりはいいのかもしれないが・・・。
もう少し威厳がでるような装備をこしらえてあげた方がよかった
のかしら?と、ほんの少し後悔をするシイカであった。
﹁さあ、では作戦会議を始めるとしよう﹂
シイカ、セト、マーチ、ガンファは円を描くようにして草原に座
り、ユーフーリンは声の響きからしてその中心にいるようだった。
﹁会議っていっても・・・フェイ・トスカを追いかけていってやっ
つければいいんじゃないの?﹂マーチが口をとがらせて言った。
﹁ふむ。実にストレートで、しかも全く間違っていない。ではまず、
フェイ・トスカは今どこにいて、どこへ向かっているのかな?﹂
﹁うっ、それは││﹂
﹁さらに、私とガンファ君、ふたりの強力な魔族が同時にかかって
いってもいいようにあしらわれてしまったフェイ・トスカをどうや
ったらやっつけられるのか?﹂
﹁わかった、悪かったわよ!﹂
ユーフーリンに問いつめられて、マーチは両手をあげて降参した。
﹁ふふふ、人の話はよく聞くものだ。さて、今あげた問題のうち、
フェイ・トスカがどこへ向かうのか?││この点についてははっき
りさせることができる﹂
﹁フェイ・トスカは・・・﹃太陽の宝珠﹄の力を発動させようとし
ているはずです﹂ガンファが応じた。
﹁その通りだ。そして、力の発動の方法については、ご丁寧にフェ
イ・トスカ本人が教えてくれている。セト君、覚えているかな?﹂
﹁えっ?えーと・・・﹂名指しされてセトは考え込んだが、﹁試練﹂
を経たセトにとってはフェイ・トスカとここで対峙したのは数ヶ月
前に体験したような感覚である。そこでなにを喋っていたかなど、
375
細部は思い出しようがない。
﹁宝珠を祭壇へ掲げ、月の光を浴びせることで天界への道が開かれ
る││フェイ・トスカはそう言いました﹂代わりに答えたのはシイ
カだった。
﹁その通りだ。││ところでシイカ殿﹂ユーフーリンはいきなり話
題を変えた。﹁その大きな身体は非常に魅力的だが││魔法でサイ
ズダウンすることはできないのかな?グレンデル殿は、人間の姿に
化ける魔法を使っていたのだが。いちいち見上げていると、首が痛
くなってね﹂
﹁首なんかないじゃない﹂マーチの突っ込み。
﹁それは・・・方法がわかれば、使えるとは思うのですが。やり方
がわからないのです。おじいちゃんは私を人間として育てるつもり
でしたから、魔法は教えてくれませんでしたし﹂
﹁なるほど・・・。私が教えてあげられればよいのだが、竜の使う
魔法というのは系統が違うらしいからなあ。仕方がない、首が痛い
のは我慢するとしよう・・・気持ちの問題だしね﹂
﹁それで、シイカ﹂セトが話題を戻した。﹁お父さんは、その祭壇
ってところにいるの?﹂
﹁まだ、いないのではないでしょうか﹂シイカが答える。﹁フェイ・
トスカは転移の魔法が使えます。そして、月の祭壇はおそらく、グ
ローングの管理地にあるでしょう。どこかに身を潜め、時がきたな
らば一気に祭壇へと乗り込んで儀式を成してしまう方が確実です。
儀式そのものにはさほど時間はかかりませんから﹂
﹁時がきたなら、ってことは、その儀式っていうのはいつでもでき
るってわけじゃないのね。││で、その時っていつなの?﹂マーチ
が首を傾げる。
﹁ふむ。月の光を使う儀式とくれば、月の光がもっとも強い時に行
うものと相場が決まっている。となれば、満月の夜と考えるのが妥
当だろう﹂ユーフーリンが言うと、シイカが長い首を振って肯定の
意を示した。
376
﹁問題は、月の祭壇がどこに作られているのかということなのです
が・・・﹂
﹁それならば、私にまかせなさい。有力魔族の情報網を甘くみては
いけないよ﹂ユーフーリンが胸を張った││もちろん実際にそうし
たわけではないが、その場にいた一同が皆容易にその様を想像でき
た。
﹁月の祭壇は、かつて解放戦争中に魔族の本拠地であった旧魔王城
にある。場所は本都グローングから南東へ獣車で大体三日、さらに
大河をわたった先だ﹂
﹁それって、大問題じゃないの?﹂マーチが言った。﹁だって、次
の満月っていったら・・・﹂
﹁そう、満月は二日後だ。ふつうの手段では、月の祭壇どころか本
都にもたどり着かない﹂認めながらも、ユーフーリンはどこか落ち
着いている。﹁だが、目的地さえはっきりしていれば心配はいらな
い。そうだろう、シイカ殿?﹂
ユーフーリンに話を振られたシイカは肯いた。
﹁私が運びます。休憩を入れながらでも本都まで一日あればつきま
す﹂
﹁シイカの背中に乗るってこと?﹂セトは驚いた後、笑顔になった。
﹁ちょっと楽しそうかも﹂
﹁でも、さすがに全員は無理じゃない?・・・とくに、ガンファな
んか﹂マーチがちょうど正面に座っているガンファを見ながら言っ
た。確かに、シイカより身体は小さいとはいっても、背中に乗せて
飛ぶのは大変そうだ。
﹁そうね、ガンファは││というよりも、私はセトひとりを連れて
いくつもりだったのだけれど。危険なのよ、マーチ。ここで待って
いた方が・・・﹂
﹁私はお姫様じゃないのよ、シイカ。事情を知っているのに、なに
もせずに祈りながら待っているなんてできないわ。フェイ・トスカ
と戦うのは無理でも、露払いくらいはやってみせる﹂
377
﹁マーチ・・・﹂シイカはマーチを見て心配そうな声で名前を呼ん
だが、マーチはこの件に関しては聞き入れるつもりはない、とばか
りに横を向いてしまった。
﹁解決されていない問題はまだある。そしてこれが最大の問題だろ
う。果たしてどうやればあのフェイ・トスカを止めることができる
のか?﹂
﹁あの・・・フェイ・トスカではなくて、﹃太陽の宝珠﹄を狙うと
いうのは、どうでしょうか?﹂そう提案したのは、ガンファだ。﹁
宝珠がなければ、神にあうこともできない。・・・フェイ・トスカ
から
は、目的を達成できなくなります﹂
﹁ふむ。搦め手か。だが、それはあまり賢明ではないな﹂ユーフー
リンの声が渋くなった。﹁あの宝珠に収められた魔力は相当なもの
だ。むやみに解放してしまうと、最悪の場合大陸の何分の一かは吹
き飛びかねない。それでフェイ・トスカの野望を阻止できたとして
も、安くない犠牲だ。そもそも、あの宝珠は床に叩きつけたくらい
では壊れないだろうな。魔法のアイテムとは、そういうものだ﹂
﹁そうですか・・・﹂ガンファは肩を落とした。
﹁やはり、セト君に期待するほかないか。だが、セト君もよくわか
っているだろうが、あの男の強さはかなりのものだぞ。﹃竜の加護﹄
を得たとはいえ、勝算はどれほどなのかな?﹂
﹁僕は・・・﹂セトはしばらく下を向いて考えた後、顔を上げてい
った。﹁戦って勝てるかどうかは、正直わかりません。僕はむしろ、
父さんを説得したいんです﹂
﹁説得?己の野望を達するためにすべてを犠牲にしてきた男をか?﹂
ユーフーリンの声のトーンがあがり、茶化すような口調になる。﹁
戦って倒すよりもよほど難しいことのように聞こえるぞ?﹂
﹁もちろん、簡単だなんて思っていません。でも、可能性はゼロじ
ゃないと思います。僕は、﹃試練﹄の中で、父さんがなにを望んで
いるのかを少し知ることができましたから﹂セトは決意に満ちた目
でユーフーリンの声が聞こえてきた先を見つめた。ユーフーリンが
378
目線をあわせてくれるようにと、一点を見据えて動かさないように
する。
﹁それでもだめなら、戦う覚悟はできています。勝算も・・・ない
わけじゃないです﹂
﹁試練﹂の世界で、セトは毎日のようにフェイ・トスカと剣をあ
わせていた。まぼろしではあったが、シイカが長剣にまつわってい
る思念から生んだというまぼろしのフェイ・トスカは、本物そっく
りのコピー品だ。
そのコピーからも結局一本とることはできなかったわけだが、そ
れでも始めたばかりの頃からすればかなり粘ることができるように
なっていたし、﹁惜しい﹂と感じる場面もいくつかはあったのだ。
なにより、セトはこの世界での経験を肉体の成長も含めて現実に
持ち帰っているのに対し、現実のフェイ・トスカはこのような経験
をしていない。フェイ・トスカからすれば、セトと剣をあわせたの
はあくまでも昨日、この丘で刹那のうちにセトの胸を貫いた、あの
一瞬だけなのだ。
このことが、セトにとってかなり有利な点であることは間違いな
い。
﹁セトは、﹃竜の加護﹄と﹃試練﹄によって、大きく成長していま
す﹂シイカも同調した。﹁一対一での戦いになれば、勝利を保証す
るところまではいかなくとも、五分の戦いをすることができるでし
ょう﹂
﹁ふむ。世界の命運がかかっているのだから、必ず勝ってくれなけ
れば困るのだが・・・﹂
﹁信じましょう、ユーフーリン様﹂まだ不満げなユーフーリンを、
ガンファがなだめた。﹁セトは、きっと、やってくれます﹂
﹁・・・ふむ、そうだな。信じなければなるまい。勇者を勝たせる
のは、最後には民衆の信心の力であったと、かつて読んだ書にも記
してあった﹂
ユーフーリンが納得すると、マーチが背伸びをしながら言った。
379
﹁結局、相手のところに突っ込んでいって、話をつけるかやっつけ
るしかないってわけね。作戦会議っていう割には、単純な結論だけ
ど﹂
マーチは立ち上がって固くなった身体をほぐしながら、シイカに
向かって笑顔を向けた。﹁それで、すぐに出発するの?時間もない
んでしょ?﹂
なしくずしに事を進めてしまおうというのがわかって、シイカは
声を暗くした。
﹁マーチ・・・あなたはやっぱり、ここに残って﹂
﹁いや﹂マーチはまたそっぽを向いてしまう。
﹁これから向かうのは、魔族たちの本拠地よ。なにがあるのかわか
らないわ。それに、もしセトとフェイ・トスカが戦うことになれば、
あなたを守る余裕はないかもしれない﹂
﹁いやったらいやよ。なんと言われようと、ついていくわ﹂マーチ
はかたくなに拒むが、その様子は子供がだだをこねているかのよう
だ。
﹁マーチ﹂セトが、背中を向けているマーチの肩にそっと手をおい
た。マーチの肩は驚いたように一度びくりと跳ねたが、その後も小
さく震え続けていることに、セトは気づいた。
﹁マーチ、怖いの?﹂
﹁怖くなんかないわ。私は戦えるもの。ここに置いていかれる方が、
よっぽど││﹂
﹁そうか・・・マーチは、独りにされるのが怖いんだね﹂
その言葉は、マーチの心を無遠慮にえぐった。
かっと血が上ったマーチは、振り向きざまにセトの頬を平手で張
った。甲高い音が丘に響く。
左の頬を赤くしながらも、セトは微動だにしなかった。
﹁ごめん、マーチ。でも、僕もマーチにはここで待っていてほしい。
なにが起こるかわからないから││﹂
﹁いやよ、あたし││﹂真っ赤な顔をしたままのマーチは、感情を
380
制御できなくなって大粒の涙をこぼし始めた。
﹁昨日一晩、独りで待っているだけでも心細かったのに。もしセト
が生きて帰ってこなかったらどうしようって、そんなことばかり考
えていたのよ。このうえまたシイカもセトもいないところで、なに
も出来ずに待っていろっていうの?そんなのあんまりだわ。あのと
きの光景を、毎日ずっと夢に見て、もしもまたあんなことになって
いたらって、一日中考えずにいられなくなるに決まってる!﹂
マーチはセトにほとんどすがりつくようにしながら、涙を流して
訴えた。﹁お願いよ、セト。連れていって﹂
﹁マーチ・・・ううん、困ったな﹂セトは頭を掻いた。いつも快活
な女性であるマーチが、こんな風に涙を流していること自体、セト
は初めて目にするのだ。
だが、彼女を大切に思えばこそ、連れていくわけにはいかない。
﹁そうだな││じゃあ、これを持っていてよ﹂
セトは両手を首の後ろに回すと、先ほど返してもらったばかりの
首飾りをはずした。そのまま腕を回して、マーチの首にかけてやる。
﹁この首飾りには、母さんの魂が宿っているんだ。話したりは出来
ないけど、これで独りじゃないだろ?﹂
﹁え、でも・・・﹂マーチは驚いて、自らの首に下げられた首飾り
を手に取った。竜の細工は崩れてしまったが、上質の銀が太陽の光
をはじいて優美な輝きを放っている。
﹁もしかしたら、また父さんと戦わなきゃならないかもしれない。
母さんにはあまりそんな場面を見せたくないんだ。だから、これを
持ってここで待っていてほしい﹂
セトは、首飾りを手にしたマーチが泣きやんだので、これはいい
説得だとおもったのだが、実はマーチは別の理由で驚きのあまり、
涙が引っ込んでしまっていた。
つまり、一般常識として男性から女性に貴金属︵特に、家に由来
のあるもの︶を贈ったり預けたりするというのは、プロポーズの意
味合いを持つのである。
381
﹁えっと、その﹂以前ユーフーリンにからかわれたこともあり、そ
ういう意識を持っていないわけではなかったとはいえ、まさかこの
タイミングでとは考えておらず、完全に不意をつかれたマーチはう
つむいて黙ってしまった。
マーチが急にしおらしくなってしまった理由にユーフーリンはす
ぐに気づき、ついでシイカが、やがてガンファも気づいた。
当事者であるセトが一番最後まで気づかずにいたが、シイカとガ
ンファにじっと見つめられて、ようやく自分の行動がただマーチを
なだめるだけのものでないことに気づいたようだった。
﹁あ・・・﹂
置いていくことをマーチに納得してもらうだけのつもりが、予想
外の展開になってしまった。だが、ここで取り乱すようではいろい
ろ失格である。セトはマーチの肩に、そっと手を置いた。
﹁必ず戻ってくるよ。だから、待っていて﹂
マーチが顔を上げたので、約束の意味を込めて、しっかりとうな
ずいてみせる。
マーチは、セトの目線から逃れるように下を見て、それから何か
言おうとして口を開き││、セトの目を見るとまたなにも言えなく
なった。
﹁・・・うん﹂
結局、それだけ答えるのが精一杯で、うなずいたのかうつむいた
のか、また下を見てしまうのだった。先ほどまでの涙の筋を残す頬
を、紅く染めながら。
﹁これが、傷口に塗る軟膏。炎症を、抑えてくれるよ。こっちは、
飲み薬。身体にたまった毒素を流してくれる。それから・・・これ
は酔い止めになる。今、ひと包み飲んでおくといいよ﹂
﹁うん、ありがとう、ガンファ﹂
セトたちはユーフーリンの屋敷へ戻ってきていた。
セトは話がまとまると、すぐにでもシイカの背中に乗っていこう
382
としたが、いくらなんでも少しは旅支度をした方がいいとガンファ
やユーフーリンが言い、シイカもそれくらいの時間の余裕はあると
答えたので、ひとまず獣車で帰ってきたのだ。
ガンファは簡単に服用できる薬を一回分ずつに分けて包み、ひと
つひとつ用途をセトに説明したあと、セトが背負うことになる麻袋
にしまいこんだ。
長旅になるわけではないので、麻袋の中にはほかに少量の携帯食
料と水など、最低限の荷物しかない。
また、獣車で旅をすれば七日から十日はかかる本都までの道のり
を一日で飛ぶというシイカの背中の上は、おそらく快適とは言いが
たいだろう。シイカにもらった魔法の衣服の上から、寒さを防ぐた
めの長衣を着込む。
﹁これ、何ですか?﹂
小鬼の老執事から手渡されたよくわからないもの││頭からかぶ
るようになっている││を指先でいじりながら、セトがたずねると、
ドラゴンライダー
ユーフーリンが得意げに教えてくれた。
グリフォン
﹁それはゴーグルだ。私の知り合いに竜使いは残念ながらいないが、
鷲獅子に乗ることが出来る奴を知っていてね。そいつの話では、高
速で飛ぶときには目を保護した方がいいとのことだった。で、その
ときにそいつが持っていたそれを頼み込んでひとつ譲ってもらった
のを思い出したのだよ。目を覆う部分のパーツは稀少品だぞ﹂
レンズはやや茶色がかっているが、透明で薄く、軽い。透明で固
いものといえば一般的にはガラスだが、セトの知っているガラスは
ここまで薄くも軽くもならない。それに、これは衝撃にも強そうで、
落としたくらいでは割れなさそうだ。
﹁それひとつしかないから、大事に使ってくれたまえ。ま、もらっ
て倉庫の奥に入れたきりもう一〇〇年はほこりをかぶっていたもの
だから、壊しても別に怒ったりはしないが﹂
試しに身につけてみると、意外と邪魔にならない。目を覆う部分
に色が付いているので視界が悪くなるのではと思ったが、視野も狭
383
まらないし、細部がぼやけて見えることもない。若干重さを感じる
が、これも使っているうちに慣れてしまう範囲だろう。
﹁ありがとうございます、ユーフーリン様﹂
﹁なに、このぐらいならおやすいご用だ。ところで││出発前に、
マーチ君の部屋に行かなくていいのかね?﹂
﹁?﹂セトは首を傾げた。﹁どうしてですか?﹂
﹁どうしてって、あまり淡泊なのも考え物だと思うがね。これから
戦いに向かう前に、愛し君と逢瀬を重ねておきたい、とか思わない
ものかな?﹂
﹁こんな時になにをいっているんですか﹂
﹁いやいや、こんな時だからこそ、だよ!﹂セトは呆れたが、ユー
フーリンは力説する。﹁大体、ここへの帰り道だって、せっかく獣
車の中でふたりきりだったのに、なんにもしない!想いが通じあっ
た若い男女が、だ!私は信じられないよ﹂
﹁ふたりきりって・・・ユーフーリン様、ずっといたじゃないです
か﹂今度はセトが口をとがらせた。﹁僕だって、なにもしたくなか
ったってわけじゃ・・・﹂
﹁黙っていたんだから、わからないだろう?今の私には姿がないの
だから﹂
﹁ユーフーリン様はそうおっしゃいますけど・・・見えてますよ、
姿﹂﹁え、うそ﹂
﹁薄青い霧みたいなのが、集まっているんです。ガンファは見えな
いの?﹂セトに聞かれて、ガンファは首を振った。
﹁マーチも気づいてないみたいだったけど・・・これも﹃竜の加護﹄
のちからなのかな﹂
﹁そういわれれば、確かに・・・。セト君はこっちをまっすぐ見る
な、とは思っていたのだが・・・﹂
試しにユーフーリンは黙ったままで位置を変えてみたが、セトは
確実にユーフーリンのいる方へと視線を巡らせるのだった。
﹁なんということだ﹂ユーフーリンはうちひしがれた。﹁これでは
384
セト君がいるときはいたずらが出来ないではないか・・・﹂
セトはため息をついた。
﹁僕がいなくても、マーチにいたずらしないでくださいね﹂
準備を終えたセトたちが屋敷の外に出てくると、門の向こう側に
ちょっとした人だかりが出来ていた。
セトは驚いたが、理由はすぐにわかった。屋敷の庭で待っていた
シイカの存在である。
屋敷の正門よりよほど大きなその身体と、白銀に輝く鱗の美しさ
が魔族たちの歓心を買うのか、屋敷に用のないものまで集まり始め
ているようだった。シイカの目線からよく見れば、人間の奴隷も少
し混じっていることがわかる。
﹁ああ、セト。早くいきましょう﹂シイカはセトたちの姿を認める
と、安堵のため息をついた。こんな風に見られることは慣れていな
い。
﹁うわあ・・・すごいひとだね﹂セトは驚き、感嘆の声を上げた。
﹁ふむ。そもそも竜はあまり数がいない上に、人前に出てこない。
民衆が珍しがる気持ちも分かるな。││せっかくだから、ちょっと
盛り上げて見るのもいいか﹂ユーフーリンはそう言うと、ガンファ
に小声で声をかけた。
﹁・・・え!僕が、ですか?﹂
﹁今の私では目立たないだろう。君は身体も大きいし地声もでかい。
私の振りをしてしゃべれば、民衆は私がしゃべっていると勝手に思
ってくれる。いいか、こう言うんだ・・・﹂
ユーフーリンが企みごとをしている間に、セトはマーチと向き合
っていた。
﹁じゃあ、行ってきます。マーチ﹂
﹁うん。セト、あの││﹂
﹁なに?﹂
385
マーチが口ごもったので、セトは顔を近づけた。
﹁いいやもう、見られても・・・﹂
マーチはつぶやくと、素早い動作でセトの唇に自分の唇を押しつ
けた。
一瞬だけ触れあう、小鳥のようなキス。
﹁約束通り、待っててあげるから。約束通り、ちゃんと帰ってくる
のよ!﹂
マーチは顔を真っ赤にしながら、セトの目を見てそう言った。
セトはちらと横を見て、青い霧が少し離れて背中を向けたガンフ
ァの辺りで漂っているのを確認すると、マーチにお返しのキスをす
る。
さっきよりほんのちょっとだけ時間の長いキスだった。
﹁必ず帰ってくる。待っていて、マーチ﹂
セトは微笑みを浮かべ、マーチは目に涙をためてうなずいたのだ
った。
身体の大きいシイカの背中にまたがるのはなかなか骨の折れる作
業だった。シイカはセトがのぼりやすいように寝そべってくれたが、
あぶみ
それでも背中の高さはほぼセトの頭の位置である。そのうえ、なに
しろ鞍も鐙もないのだ。
﹁たてがみを掴んでしまって大丈夫だから。関節のでっぱりに足を
乗せて・・・そう﹂
﹁ごめんね、痛くなかった、シイカ?﹂やっとのことでその背にま
たがると、セトは謝罪しながらシイカの土足で踏みつけてしまった
部分に手を伸ばして、土を払った。
﹁平気。私は竜なんだから﹂シイカは首をひねり、顔を向けながら
セトに答えた。
﹁たてがみが長くなっているところが左右に一房ずつあるでしょう
?乗っている間はそれをつかんでいて。もし何か指示したいときは、
それを馬の手綱のように使えばわかるから。もっとも、目的地まで
386
は私が連れていくから、セトは落ちないように掴まっていればいい
だけね││立ち上がるよ、いい?﹂
セトは言われたとおりに左右に長く伸びたたてがみを掴むと、﹁
うん、いいよ﹂と返事をした。
シイカがゆっくりと身体を起こす。同時にセトの視点も高くなり、
あっと言う間にガンファをも見下ろす位置になった。門の向こう側
で遠巻きにこちらをみている人だかりもよく見えるようになり、最
初に思ったよりも多くのひと︵もちろん大半は魔族︶がいることも
わかるようになった。
﹁よし、今だ﹂人だかりが立ち上がったシイカ・ドラゴンに注目し
た時を見計らって、ユーフーリンが小声で合図すると、ガンファが
叫んだ。
﹁み、皆のもの、聞きたまえ!﹂出だしでどもってしまったものの、
その体格に似合った大きな声が集まった群衆の注目を集める。もう
後戻りは出来ないと、ガンファは覚悟を決めた。
﹁ここにおわす竜は、世界を混沌へ導かんとする逆臣、フェイ・ト
スカを討ち果たすべく天より舞い降りられた!そしてその背に乗る
のは、竜によって選ばれし勇者、セト!﹂
ガンファは大げさな身振りで腕を振り、セトを指し示した。群衆
は静まり返ってガンファ││おそらく領主ユーフーリンだと思って
いるのだろう││の言葉を聞いている。
﹁これより勇者は竜を駆り、逆賊を討つため月の祭壇へと向かう!
さあ皆のもの、世界を安寧へと導く勇者セトを、歓声にて送り出し
てくれたまえ!﹂
ガンファの言葉が途切れると、屋敷の庭は一瞬静寂につつまれた。
││だが、数拍おいた後、群衆が爆発的に歓声を上げ始めた!
﹁いいぞー、勇者ー!﹂
﹁フェイ・トスカなんかぶったおせー!﹂
﹁あいつむかしから気に食わなかったんだ!﹂
﹁勇者セト万歳!﹂
387
つい今し方までまったく事情を知らなかったはずなのに、あっさ
りとガンファの説明を受け入れて騒ぐ群衆に、マーチは唖然とした。
﹁そんな簡単に受け入れていいの?それに、セトは人間なのに・・・
﹂
﹁彼らは私の領地の住民だぞ。マーチ君﹂歓声に紛れながらもユー
フーリンの声が聞こえる。﹁人間だから格が低いなどという考えは
ここの領民たちは持っていない。能力があるものは評価する、それ
が基本だ。といっても、今は決まりがあるから奴隷という立場を変
えることは出来ないがな﹂
﹁人間が好きな魔族もいるんだよ、マーチ﹂演説を終えたガンファ
が下がってきた。﹁僕らの中にも、人間がすべて奴隷だという考え
はおかしいって思っているひともけして少なくないんだ﹂
﹁ま、単純におもしろいことや騒ぐのが好きだというのもあるがな﹂
とユーフーリン。﹁今日はこのまま祭りにしてしまうか﹂
群衆の歓声はやむどころか、少しずつ大きくなってきている。竜
の来訪に気づいていなかったものたちも、この騒ぎに何事かと集ま
り始めているのだ。
﹁セト、シイカ。早く行った方がいいよ﹂ガンファが促した。﹁こ
のままだと、門の中に入ってきちゃうかもしれない。飛び立てなく
なるよ﹂
﹁うん﹂セトはうなずくと、ゴーグルをしっかりとかぶり、たてが
みを手に巻き付けるようにしてしっかりと握った。﹁ガンファ、マ
ーチ、ユーフーリン様!行ってきます!﹂
その声を合図に、シイカが翼を大きくはばたかせ始める。その様
子に、また歓声が大きくなった。
シイカの後ろ肢が大地から離れ、その巨体が浮き上がる。シイカ
はセトに気を使っているのか、あくまでもゆっくりと上昇していく。
それでもマーチたちの顔はすぐに識別できなくなり、やがては歓
声も聞こえなくなった。
388
﹁まさかこんなにたくさんのひとに見送られるとは思わなかったな﹂
セトは相変わらず盛り上がっている群衆を振り返りながら言った。
﹁父さんの望み通りにしてしまったら、あのひとたちも居場所を失
ってしまうことになるんだ・・・﹂
フェイ・トスカが創り替えようとしている世界に、魔族たちの安
息の場所はない。
自分の肩に掛かる運命の重さを感じて、セトは身震いした。
この重みの大切さをフェイ・トスカに伝えることが出来れば、き
っと思いとどまらせることも出来るはずだ。セトは決意を固くする
のだった。
389
勇者と魔王
三
シイカ・ドラゴンの背に乗り、マーチやガンファ、さらには期せ
ずして多くの領民に見送られながら上空へと旅だったセトだったが、
晴れやかな気分でいられたのは、シイカがセトに注意をうながして
自分の背中の上に腹ばいにさせ、本格的な加速をはじめるそのとき
までだった。
かなり上空まで高度をかせいだシイカは、空気抵抗が少なくなる
ように首をぐんとのばし、ひとつ大きくはばたくと、急降下をはじ
めたのだ。
セトは突然襲いかかってきた風圧に全身を押さえつけられ、うめ
き声しか出せなくなった。
シイカは急降下によって速度をかせぐとはばたいて上昇し、また
落下して速度を上げるということを何度か繰り返した。そのあいだ、
セトは両手に巻き付けたシイカのたてがみだけを頼りに、飛ばされ
ないようにしがみついているだけで精一杯だったのである。
シイカが十分な速度と風を得て姿勢を安定させたころには、セト
ははやくも疲れはてていた。
﹁大丈夫、セト?﹂
﹁・・・なんとかね﹂
シイカが首を曲げてそう聞いてきたので、セトはやっとのことで
そう答えた。
高度は安定したとはいっても、速度がでているので快適な状況と
はほど遠い。セトはシイカを安心させるために、なんとか自分の顔
だけは上げて見せた。
それだけで風が容赦なく吹き付けて痛いほどだ。ユーフーリンか
らもらったゴーグルがなければ、目を開けることも出来なかっただ
390
ろう。
﹁一アルン︵約二時間︶ぐらい飛んだら休憩に降りるから。それま
では我慢していてね﹂
シイカはそう告げて、首をもどした。
セトはそれを聞いて、一アルンもの間この状態だなんて、と思っ
たが、当然そんな弱音をシイカに聞かせるわけにはいかなかった。
だいいち、こうしなければ転移の魔法をつかえるフェイ・トスカが
儀式を行うことを止めることは出来ないのだから、我慢するほかは
ない。
それでも、竜の背中に乗って飛ぶのがちょっと楽しみだと言った
ことをほんのちょっと後悔しながら、セトはシイカの白銀の鱗とた
てがみに覆われた背中に顔をうずめるのだった。
シイカは言葉どおり、一アルン飛んだあと休憩におり、一クラム
︵約三〇分︶ほど休んだあとまた飛びたった。ほどなく日が落ちて
しまったが、シイカは気にする様子もなくそれまでと変わらぬ速度
で飛び続けた。
今度はさきほどよりいくらか長い時間飛んだあとでまた地上へ降
り立った。
﹁明け方までここで休むわ﹂
﹁時間は大丈夫なの?﹂
セトが言うと、シイカは大きな両眼を細めた。それがほほえみに
近い仕草なのだと、今ではセトもわかっていた。
﹁大丈夫よ。それに、夜じゅうずっと空を飛んでいたら、セトは眠
れないでしょう。体調は万全にしておかなければ、ここから先はも
たないよ﹂
確かに、地上に降りたとたん、セトは頭の奥がしびれるような強
い眠気を感じていた。すでに夜はとっぷりと暮れている。普段なら
間違いなく眠っている時間だ。
それに、シイカの背中にしがみついているのはなかなかの重労働
391
だった。風圧にはようやくすこしは慣れてきて、身体を起こして下
の風景を見る余裕も出てきてはいたものの、手でつかんでいるたて
がみのほかにシイカとセトを結びつけているものはないため、つと
居眠りでもすればその身を大空に滑らせかねない。
﹁うん、そうだね﹂
セトは同意すると、シイカのすぐ脇の地面に腰を下ろした。背の
低い草が繁っていて、身体が汚れる心配もなさそうだ。セトの暮ら
していたシュテンの町のあたりでは、この時期はまだ夜になると肌
寒いこともあるのだが、だいぶ南の方に降りてきているからか気候
も穏やかで、このまま眠っても風邪を引くことはなさそうだった。
セトは上空での防寒着として身につけていた長衣を脱ぐと、身体
の上にかけなおした。それからシイカに﹁ちょっと身体を貸してね﹂
と告げると、そのどっしりとした後ろ肢にこてんと身体を預けてき
た。
セトは目を閉じたが、すぐには眠れないと思ったのか、シイカに
話しかけた。
﹁そういえば、上から大きな川が見えたよね﹂
﹁もう下を見る余裕ができたのね。あれはカカリ川。北のエルスト
ラーデ川と双璧をなす、南の大河よ﹂
﹁月の祭壇は、川を越えた先にあるって、ユーフーリンさまが言っ
ていたよね。あの川を越えていくの?﹂
﹁そうね、月の祭壇は確かにあの川を越えた先だけれど・・・今向
かっているのは祭壇じゃなくて、本都グローングのほうよ﹂
シイカがそう言うと、セトは驚いて閉じていた目を開けた。﹁そ
うなの?どうして?﹂
﹁祭壇はまず間違いなくグローングの軍勢が守っているわ。いきな
りそこへ突っ込んでいったら、フェイ・トスカと立ち会う前にその
軍勢と戦わなければいけなくなるでしょう。まずはグローングに会
って、私たちの目的を伝えて、祭壇に通してもらえるようにお願い
するのよ﹂
392
﹁グローングって、確か魔族で一番偉い人じゃなかった?いきなり
行って、会わせてもらえるのかな﹂
セトは不安を感じたが、シイカの方は問題にしていないようだっ
た。
﹁大丈夫よ。グローングは竜が自分のところに来ることが、どうい
うことか知っているから。少なくとも会うのを拒んだりはしないと
思うわ﹂
﹁ふうん?﹂
セトは首を傾げたが、詳しいことを聞こうとするよりも先にあく
びが出てしまった。
﹁ほら、もう寝たほうがいいわ。あと三アルン︵約六時間︶もしな
いうちに夜は明けてしまうから﹂
﹁え、もうそんな時間なんだ・・・﹂
セトの感覚ではまだ日付が変わるには早いと思っていたのだが、
実際にはとっくに変わってしまっているらしい。
となれば、ゆっくり会話をしている時間もない。セトはあらため
て目を閉じた。もともと寝付きのいいセトは、野宿であってもあっ
という間に寝入ってしまうのであった。
魔族の王・・・今では世界の王となった魔王グローングが治める
本都グローング。かつてはサンクリーク王国の首都アルメニーであ
ったその都は、支配するものが替わった今でも世界の中心であるこ
とは変わらない。
この地は、魔族が人類を完膚なきまでに打ち破った解放戦争が終
わりを迎えた場所でもある。魔王軍と、抵抗を最後まで続けたサン
クリーク王国軍が最後に戦火をまじえたのはここより二〇〇アンロ
グ︵約一四〇キロメートル︶ほど南のリディア平原だが、王国軍が
壊滅し、人類に戦う力が残されなくなった後、魔王は戦争の終結を
世界に知らしめるため、人の世の象徴であったサンクリーク王城と
城下町を徹底して焼いた。
393
実のところ、魔王が大規模かつ無差別に都市を焼くことを容認し
たのはこのときだけである。その他の地を征服したときには、むし
ろ無意味に都市を破壊する行為や、無抵抗の人間を陵辱、虐殺する
ようなことは戒めていた。ただそこは戦争の常で、小規模な破壊や
虐殺行為を完全に防げるものではなかったのだが。
魔王は戦争後、焦土とかしたこの地に再び都市と城を築いた。そ
れもまた、世界の支配者が代替わりしたことを示すための象徴的な
行為であったと言っていい。
戦争集結から一〇年あまりが経ち、新たな魔王城は先年無事落成
を迎えた。都市からも戦争の名残はほとんど消え失せ、かつての王
都アルメニーがそうであったように、いや、もしかしたらそれ以上
に、世界でも有数の都市として成長を果たそうとしている。
魔王グローングは魔王城の最上階に設置されたテラスから、眼下
の風景を眺めていた。戦争集結以来、都市の復興と整備に多大な労
力を使ってきた魔王にとって、遙かさきまで広がる本都の様子を眺
めることが、多忙な彼にとって貴重な癒しとなる。
だが今は、休息の時間ではない。予定にあった会議をすべてとり
やめにしてここに出てきたのには理由がある。
白銀の竜が、ここへ向かっている。空を警戒する見張りから報告
が来たのだ。
グローングには、かつて配下であった黒竜グレンデル以外に見知
っている竜はいない。ただでさえ稀少種である竜は、まず世俗に関
わろうとしないのだ。グレンデルのように、使命を持っているもの
をのぞいては。
グローングは上空を見通した。彼の持つ四つの目は、人間などよ
りはるか遠くまでを正確に見ることができる。その視界に、今はま
だ黒い点でしかないが、明らかにこちらへ向かっている影が見えは
じめていた。
こうしておおやけに出てくるということは、白銀の竜も使命を持
っている。
394
そしてここへ向かっているということは、その使命はグレンデル
と同じもの││魔王と勇者にかかわることに違いないのだ。
﹁あそこへ降りるわ、セト﹂
シイカが声をかけ、魔王城最上部のテラスへ向かって着陸姿勢に
はいる。
﹁誰かいるよ、シイカ﹂
﹁あれが魔王グローングよ﹂
セトが目を凝らすと、比較するものがないので大きさはよくわか
らないが、翼をはやした魔族がこちらを見ているのがわかった。ま
だらに見える身体は、近づくにつれて獣毛と鱗に覆われているのだ
とわかった。
﹁大丈夫なの?﹂
セトの声が少し不安げになった。
﹁ここでいきなり攻撃してくるくらいなら、まずこんなに近づけさ
せる前になにか対応してくるよ﹂
テラスはシイカ・ドラゴンが降りるのに十分な広さがあった。魔
族にはいろんな種族があるので、さまざまな魔族が訪れる魔王城は
高さ・広さに関しては巨人族が基準になっている。
シイカは翼を器用にあやつって速度を落とし、高度を合わせてふ
わりと着地した。少しだけ風が舞ったが、乗っているセトもテラス
にいるグローングもほとんど衝撃を感じない見事な着地であった。
﹁初めまして、グローング王。わたしはシイカ。グレンデルの使命
を引き継ぐ竜です﹂
シイカは、背中にセトを乗せたままグローングへ挨拶をした。
グローングは身長が五ログ︵約三・五メートル︶ほど。シイカは
セトを背中に乗せているため身体を倒しているが、それでやっと両
者の目線の位置は同じくらいだった。
﹁やはり、グレンデルの関係者か﹂グローングは特に警戒している
様子もなく、シイカに向かって数歩近づいてきた。
395
﹁それで、背中にいるのは?﹂
シイカの首の後ろを見やりながら聞いてくる。
﹁あ、はい﹂セトは返事をすると、シイカの背から飛び降りた。こ
こへくるまでに何度か乗り降りしたので、だいぶコツをつかんでい
る。
シイカの脇へ降り立ったセトは、駆け足気味に彼女の前にでると、
グローングを見上げた。体つきはガンファをさらにひとまわり大き
くしたくらいだ。
はじめて目にする魔王は、セトがこれまで知っているどの魔族よ
りも異様な姿をしていた。四つの目玉を持つものも、手が鉤爪にな
っているものも、翼があるものも獣毛や鱗をはやしているものも知
っていたが、それらの特徴をすべてまとめて持っている魔族など見
たことがなかった。
だが、とりたてて恐怖感や嫌悪感が湧くということはなかった。
かつてはフェイ・トスカと互角に戦い、﹃竜の加護﹄の力添えがあ
ったとはいえ倒しているのだから、どんな迫力があるのかと思って
いたが、こうしてただ向き合っているだけならなんということもな
かった。
セトはとりあえず、はじめて会った人にはそうするものだと昔グ
レンデルに教えてもらったとおり、ぺこりとお辞儀をした。
﹁初めまして、セトです﹂
ほかになにを言えばいいのかわからなかったので、しごく簡単な
挨拶になった。
﹁セト?どこかで聞いたな・・・﹂
グローングは首をひねって思い出そうとしたが、さきにシイカが
補足をした。
﹁彼はフェイ・トスカの息子です﹂
﹁ん?ああ、そうだった。しばらく前に報告を受けていたな﹂
グローングが納得すると、シイカはすぐに本題を切り出した。
﹁私たちはこれから、月の祭壇へ向かいます。あなたの勢力が、わ
396
たしたちを攻撃することのないよう取りはからってください﹂
﹁月の祭壇・・・ということは、やはりフェイ・トスカが﹃太陽の
宝珠﹄の力を使おうとしているということか。││うん?﹂
グローングはまた首をひねった。
﹁おまえがフェイ・トスカの息子なら、なぜ生きておる?﹃太陽の
宝珠﹄の最後の鍵はおまえの死に際の血であったはずだ﹂
﹁セトは、一度殺されたのです。フェイ・トスカに﹂シイカが答え
た。﹁彼を救うために、彼の精神に試練を受けさせ、﹃竜の加護﹄
を与えました﹂
﹁なるほど﹂グローングは合点がいったとばかりにうなずいた。﹁
ここ数日身体が重いと思っておったが、そういうことか﹂
﹁?﹂今度はセトが首を傾げた。シイカを見上げ、﹁どういうこと
?﹂と問う。
﹁﹃竜の加護﹄は、同時にひとりにしか与えられないの。セトに加
護を与えたことで、セトの前に加護を受けたもの││グローング王
からはその力は消えたということよ﹂
﹁でも、魔王さまに加護を与えたのはじいちゃんなんでしょ?シイ
カとは別じゃないの?﹂
﹁﹃竜の加護﹄とはいうけれど、厳密には竜の力ではなく竜に使命
を与えた神の力なの。与えた竜がだれでも、力は同種のものよ﹂
シイカは、セトの方へ向けていた首をまたグローングへと向けて、
言った。
﹁フェイ・トスカが今どこにいるのかはわかりますか?﹂
﹁いや、実は数日前にこの城にいたのだが、そこを出た後の消息が
不明なのだ。それでもしやと思っていたのだが││﹂
どうやら、グローングの元にはユーフーリン領で起きた事態につ
いての情報はまだ届いていないようだった。
シイカが、フェイ・トスカはすでに﹃太陽の宝珠﹄に力を満たし、
今は月の祭壇へ侵入するタイミングをどこかでうかがっているはず
だというと、グローングは頭を振ってうめき声を上げた。
397
﹁やはりあの場で無理矢理にでも拘束してしまうべきだったか。見
誤ったわ﹂
﹁フェイ・トスカに、宝珠を返すように言ったのですか?﹂
﹁そうだ。密告があってな。あいつが宝珠の力をかすめ取ろうとし
ておると。宝珠を取り上げてしまえば動きを止められると思ったの
だが、逆に急がせる結果となってしまった。しかし、そうか・・・
あいつには期待しておったのだが﹂
グローングはセトとシイカから顔をそらすと、嘆息した。
﹁期待?﹂セトが問うと、グローングの四つの瞳が一斉に動いてセ
トをみた。
﹁そうだよ、フェイ・トスカの息子。わしはあいつに、人間と魔族
をつなぐ存在になってほしかったのだ﹂
﹁人間と魔族を、つなぐ・・・﹂
﹁人間と魔族の争いは、解放戦争が最初ではない。遠い昔から、幾
度となく繰り返されてきたのだ。最初に魔王が生まれ、勇者によっ
て倒されたのが今から何年前か知っているかね?﹂
セトは首を振った。
﹁実は、わしも知らん。というより、もう正確に知っているものは
誰もおらんのだ。一説には一〇〇〇〇年前とも二〇〇〇〇年前とも
言われているがな。ほとんど伝説の世界で、文献も残っていない。
わしが知っているもっとも長生きの魔族はいまおよそ五〇〇〇歳で、
その方も知らないと言っておるから、すくなくとも五〇〇〇年より
は昔のことだ。神の使いである竜は、もっとくわしい歴史を知って
おるかな?﹂
グローングに話を振られたシイカは、静かに首を振った。
﹁ならば、引き続きわしが話そう。それほど昔の時代から、人間と
魔族は争ってきた。あまりにも戦いが続くので、このままでは世界
そのものが滅びてしまうと案じた神は、人間と魔族に戦いのルール
を課した。それが勇者と魔王の存在だ。人間の代表として勇者、魔
族の代表として魔王が生まれ、一対一か、それに近い状況で戦う。
398
そして勝った方の種族が、この世界をおさめることになる﹂
﹁負けた方は?﹂
﹁この世界を追い出され、異世界へ逃れることになる。あそこは厳
しい世界だぞ。気候は常に厳しく、食料も足らない。人びとは生き
ていくだけで精一杯になり、限られた食料をめぐって毎日のように
同種族で殺しあいがおきる。当然、異世界に閉じこめられたほうは
何とかしてそこを出ようと、またこの世界へと戦いをしかける。だ
が実際に戦うのは勇者と魔王だから、世界そのものを焼きつくして
しまうようにはならない。戦いはなくならないが、世界が滅びるこ
ともない。神の思惑どおりというわけだ﹂
神の思惑どおり、という部分で、グローングの語調が強くなった。
﹁あれ?でも・・・﹂セトが口を挟んだ。﹁この前の戦争では、人
間が負けたのに、人間はまだこの世界にいますよね?﹂
すると、グローングは口の端をぐいっと吊りあげ、なかなかにイ
ンパクトのある笑顔になった。
﹁その通りだ。そしてそれこそが、歴代の魔王や勇者とわしの違う
ところなのだ﹂
﹁それは、どういう・・・?﹂
シイカが聞いた。
﹁わしが考えたことは、戦いそのものをなくしてしまいたい、とい
うことだ。これまでの歴史では、魔王が勇者に勝利したことも何度
かあった。だが、いずれも支配期間は長くなかった。いくら人間を
異世界に送り込んで数を減らしても、強力な勇者がひとり現れれば
同じことだ。逆の立場でも言えることだがな。異世界に閉じこめら
れて、そこから出たくないなどと考えるものはいない。となれば、
戦いをなくすためには、わしが勝利したあと、人間を異世界に送ら
なければよい﹂
それは確かに、画期的な考え方だった。だが、従来と異なる思想
は排除されがちなのはどこの世界でも常識である。グローングは続
けた。
399
きゃつ
﹁もちろん、配下の魔族からは反対の意見が多く出た。人間ととも
に暮らすなど受け入れられない、と言ってな。彼奴らの言うことを
無視してしまうと、今度は魔族どうしで争いになりかねん。わしは
間をとって、人間には対等の権限を与えず、奴隷とすることで納得
させたのだ﹂
グローングは、ふたたびセトを見た。
﹁わしは、個人的には人間になんの恨みもない。だから、こういう
形で罪のない人びとに苦痛を強いていることを、申し訳なく思って
いる﹂
セトは驚いた。まさか謝罪されるとは思っていなかったのだ。
セト自身は、物心ついたころからずっとグレンデルに育てられて
いたこともあり、奴隷としての苦痛を直接味わったことはほとんど
ない。だが、シュテンは逃亡奴隷も多く、彼らが逃げ出す前にどん
な生活をおくっていたか、話に聞くことはたびたびあった。
それを聞けばセトだって、魔族にもいいひとと悪いひとがいるけ
れど、人間を奴隷にした魔王はきっとよくないひとなんだろうと思
うことはあったのだ。
だが、事実は少し異なっていたようだ。
この言葉を、マーチが聞いたらなんていうかな。セトは、ユーフ
ーリン領で母の首飾りとともに帰りを待ってくれている恋人の顔を
思い出した。
﹁もちろん、ずっとこのままにしておくつもりはない。それでは、
またいずれ奴隷の中から勇者が生まれるに違いないからな。時間を
かけて、少しずつ人間たちの地位を安定させていくつもりだった。
いつかは奴隷の身分から解放することも視野に入れてな。││フェ
イ・トスカには、その際には人間側の調整役になってもらおうと考
えておったのだ﹂
グローングは残念そうに下を向いた。
﹁あやつにはこの考えのすべてではないが、いくらかは話してあっ
たのだがな・・・。わしが信用されなかったのか、それともあやつ
400
自身が魔族の頭の固い連中同様、魔族と共存するのではなく、放逐
しなければ気が済まないと考えておったのか・・・﹂
その言葉に、セトも下を向いた。
フェイ・トスカはやはり、魔族の存在が許せないのだろうか。月
の祭壇で再びフェイ・トスカに会っても、説得は難しいのかもしれ
ない。
しばらく沈黙が落ちたあと、気を取り直したようにグローングが
言った。
﹁だが、そうなってしまった以上は仕方がない。わしのこれまでの
努力を潰されてしまうわけにはいかんからな。だが││﹂
グローングは、今度は品定めするようにセトのことを上から下ま
で眺めた。
﹁正直に言って、﹃竜の加護﹄を得ているとは思えないのだが・・・
。白銀の竜よ、本当にこやつはフェイ・トスカを止められるほどに
強いのか?﹂
真正面から遠慮なしに言われて、さすがにセトはすこしむっとし
た。
﹁心配はいりません。セトは日々成長していますから﹂
シイカがフォローしても、グローングはむずかしい顔をしていた
が、やがてよし、といって右手の鉤爪をかちりと鳴らした。
﹁わしも一緒にいこう。﹃竜の加護﹄を失ったいま、一対一ではフ
ェイ・トスカに勝てんかもしれんが、ふたりがかりならなんとかな
るだろう﹂
﹁王様がお城にいなくて大丈夫なんですか?﹂
セトがちょっとだけおもしろくなさそうにそう言った。
﹁それに、フェイ・トスカを止められたとしても、万が一グローン
グ王に何事かあれば、安定しはじめた世界が再び混乱するかもしれ
ません﹂
シイカも懸念を伝えた。
﹁むう・・・一日くらいの遅れは取り戻せるし、そういうことなら
401
わしは後方支援に徹しよう。いずれにせよ、わしがいかねば祭壇に
は入れぬ。旧魔王城全体に、結界が仕掛けてあるからな。解除する
にはわしがいくのが一番早い﹂
﹁でも、シイカには乗れませんよね﹂
﹁わしの翼は伊達ではないぞ、こぞう﹂
グローングは背中にはやした翼をはばたかせた。
﹁ま、竜と競争はできんがの。ここから旧魔王城まで、わしの翼で
も二アルン︵約四時間︶といったところじゃ。フェイ・トスカが現
れるのは明日の夜。となれば、明日の昼には発てば十分間に合う﹂
どうやら、連れていくほかないようだ。実際、グローングのよう
な強力な魔族が援護についてくれるならこれほどありがたいことは
ない。
﹁それでは、よろしくおねがいします﹂
シイカが首を垂れて礼を言った。グローングはうなずくと、セト
とシイカにに背を向けてテラスから中へ入っていく。入り口のとこ
ろで振り返り、その場で佇んでいるふたりに声をかけた。
﹁なにをしている、おまえたちも来い﹂
﹁え、でも・・・﹂セトはシイカを仰ぎ見た。
﹁部屋を用意してやる。せいぜい長旅の疲れをとっておけ。心配せ
ずともここはすべての魔族の中心たる城だ。全長十ログ︵約七メー
トル︶の巨人も滞在できるように設計されておるわ﹂
その後、セトたちは城内の客間へ案内された。巨人族用の一番大
きな部屋だ。セトには別の部屋が用意されていたが、シイカと一緒
にいる方が落ち着くので、セトは断った。
食事も供されたが、シイカには大量の果実が、セトにはふつうに
調理されたものがふるまわれた。
セトがうれしかったのは、その料理が米粥を中心に、あの試練の
世界で母がつくってくれた料理と似ていることだった。母もきっと、
生前はこんな食事をしていたのだ。
402
湯まで使わせてもらい︵これはセトのみ︶、あとは明日に備えて
眠るだけとなったが、もう夜も深まっているというのに、セトはち
っとも眠くならなかった。
﹁眠れないの?﹂
わざわざ運び込んでもらった寝台の上で身を起こしたセトに、シ
イカが声をかける。彼女用の寝台はさすがにないので、シイカは二
重に敷かれたカーペットの上に丸く寝そべっていた。
﹁うん・・・なんだかまだ、お昼みたいな感じ﹂
セトはまばたきをしながら答えた。どうにも体内時計が狂ってし
まっている感じなのだ。
﹁長距離を一気に移動したから、仕方ないね。それでも、目を閉じ
ていればいずれは眠れるものよ﹂
﹁うーん・・・ねえ、そっちへ行ってもいい?﹂
﹁え?うん、いいけど││﹂
すこしとまどいながらもシイカが了承すると、セトは寝台から降
りてシイカのそばまでやってきた。そして、シイカのおなかの脇に
座ると、シイカの寝そべっているせいですこし見えている白い蛇腹
の部分に頭をつけた。
﹁思った通り、ここはやわらかいんだね。一度試してみたかったん
だ﹂
﹁もう、セト﹂
シイカは鼻を鳴らしたが、追い払おうとはしなかった。セトは目
を閉じた。
﹁あ、これ、すごい落ち着く・・・﹂
しばらくたってから、そうセトがつぶやいた。
﹁ひょっとしたら、昔おじいちゃんがこうやってセトを寝かしつけ
ていたのかも﹂
﹁うーん・・・でも僕、じいちゃんが竜だったすがたなんて、ぜん
ぜん覚えてないよ。兄ちゃんや姉ちゃんたちからも聞いたことなか
ったし﹂
403
﹁だから、セトがずっと小さなころよ。お母さんから預けられたば
かりのころ﹂
﹁そうなのかなあ・・・﹂
答えながらも、セトのまぶたは下がり、呼吸が深くなりはじめて
いた。どうやら眠ることができそうだ。
明日は正念場だ。フェイ・トスカを説得することも、戦って倒す
こともいずれも簡単なことではないが、そのためにもセトにはせめ
てしっかり眠り、体調を万全にしてもらわなければいけない。
フェイ・トスカは転移の魔法を使って月の祭壇に現れるだろう。
となれば、魔力は消耗しているはずだ。さらにグローングが援護し
てくれるとなれば、セトにも勝算があると考えることは十分に可能
だった。
﹁でも、ちょっと変な感じ﹂
シイカの思索を、セトの声がさえぎった。セトの目はもう閉じら
れており、半分寝言のようになっている。
﹁・・・なにが?﹂
﹁父さんは勇者で、グローング様は魔王なんでしょ?で、僕はまた
勇者で・・・。それで魔王様と手を組んで、勇者の父さんを止めに
いく、なんてさ・・・﹂
﹁││そうね﹂シイカの声がすこし沈んだが、ほとんど眠っている
セトには気にならなかっただろう。セトは返事をせず、深い寝息を
たて始めた。
グローングがセトに語って聞かせた、﹁神が定めた戦いのルール﹂
は、正確なものではない。だが、シイカはあえて指摘しなかった。
知らなくても特に影響があることではないと考えたからだ。
だが、教えておけばよかったと、彼女は後悔することになる。
404
﹃かみのて﹄
四
明けて翌日、満月となる今夜は再びフェイ・トスカとまみえるこ
とになる日である。
セトは全体的に浅い眠りではあったものの、合計で三アルン︵約
六時間︶ほどは眠ることができた。完調とはいかないまでも、支障
のないレベルにはなっている。
﹁では、行くか﹂
昼になり、出発の準備をすませたセトたちの元へとグローングが
やってきた。なぜか、少々疲れた面もちである。
﹁出る前に、最低でもこれだけはこなしていけと政務官に言われて、
さっきまで仕事をしておった﹂
﹁大丈夫ですか?﹂とセトが聞くと、グローングは豪快に笑い飛ば
した。
﹁わしは人間ほど貧弱な身体ではないから、一日二日眠らずとも支
障はないわ﹂
しかしそういった後であくびをして、﹁とはいえわしもだいぶ老
骨だからな。眠いものは眠い・・・﹂と言った。
本都グローングの魔王城から飛び立った一行は、月の祭壇のある
旧魔王城へと一路邁進していた。
と言っても、シイカ・ドラゴンほどには速く飛べない魔王グロー
ングのペースに合わせているため、ずっと彼女が全力で飛ぶ上で踏
ん張っていなければいけなかったセトからすれば、ずいぶん快適で
ある。
快適になったのは、速度が遅いこととセト自身が騎乗になれてき
たこともあったが、魔王城の宝物庫にあった竜用の鞍をシイカが装
405
着できたことも大きかった。
手綱などはなく、シイカの長くのびたたてがみを握っているのは
変わらないが、座りごこちもいいし、なによりありがたいのは、鞍
にベルトがついていてセトの身体を固定してくれていることである。
これのおかげで始終気を張っていなくても滑り落ちることもないし、
シイカが突然宙返りしたって大丈夫だ︵もちろん、セトはシイカが
絶対にそんなことをしないようにお願いしたのだが︶。
南の大河カカリ川を越えて行くと、いつしか大地から緑は消えて、
荒廃し、半ば砂漠と化した土地が目に入るようになる。
﹁このあたりは、熱帯の上に雨が極端に少なく、安定した食糧供給
が難しい﹂
シイカと並んで飛ぶグローングが、セトにむかって言った。
﹁ここや、さらに南方の、海を隔てた先にある大陸など、異常気象
で我らが住むことが出来ない土地はまだ多くある。そうした土地が
開拓できれば、魔族と人間がともに暮らすことで上昇した人口密度
など、さまざまな問題が解決できるのだが・・・﹂
グローングはすっかり政治家の口調になっている。いかめしい風
貌には少々不似合いだが、これが魔王グローングの本性と呼べる一
面なのかもしれない、とセトは思った。
﹁城が見えてきたわ﹂
シイカが言った。セトが正面を見ると、視界のさきのほうにまだ
豆粒ほどの大きさではあるが、自然のままの周囲とは明らかに異な
る人工の建造物があるのがわかった。
まだ太陽は西の空に浮かんでおり、夕刻よりもいくらか早い。
﹁このまま乗り込みますか?﹂
シイカが首を曲げて、グローングに聞いた。城には結界が張られ
ているが、グローングなら解除は簡単なはずだからだ。
グローングは、その問いにすぐには答えなかった。しばらく四つ
の目を一様に細めて城の様子を見ていたが、やがて言った。
﹁いや、一度近くに降りよう。少し様子がおかしい﹂
406
本都グローングの魔王城と同等の大きさを持つ旧魔王城。そこは
周辺を砂漠に囲まれているにも関わらず、旧魔王城を中心とした一
帯のみに草木が生え、小さな森が形成されていた。さながらオアシ
スのようである。
森と城の間にある草地に降りたったセトを乗せたシイカとグロー
ングは、そこから少し歩いて魔王城の正門付近へむかった。グロー
ングはある地点でシイカを制止すると、自分はもう少し先へと進ん
でなにやら探りはじめた。
﹁やはりおかしい。結界が書き換えられておる﹂
しばらくしてシイカとセトの元へと戻ってきたグローングは、忌
々しげにそう吐き棄てた。
﹁どういうことですか?﹂セトが聞いた。
﹁ここの結界はわしの認証があればすぐに解除できるようにしてお
いたのだが、それが出来なくなっておるのだ﹂
﹁勝手に書き換えられている?﹂とシイカ。﹁簡単に出来ることで
はないはず﹂
﹁そうだ。かなり強力な魔力を持つ何者かが││﹂そこまで言って、
グローングは口をつぐんだ。
何者か、と言われて思い浮かぶ心当たりは、セトにもシイカにも、
そしてグローングにもひとりしかいなかった。
﹁まさか、父さんが?﹂
﹁しかし、かつて戦ったときはそこまで強い魔力を持っているよう
には見えなかったが・・・﹂
﹁魔力は年齢に応じて多少変化するものです。フェイ・トスカの場
合はそれが強まる方へと働いたのでは﹂シイカの声にすこし焦りが
混じっている。﹁城の中に、警備のものなどはいますか?﹂
﹁いや、おらん。人員を割くのは費用がかかるし、実際、この城は
重要拠点ではあるが、宝物が納められているわけでもないし、この
地そのものに価値はない。入れないようにしておけば十分だと判断
407
しておった﹂
シイカはそれを聞くと、少々強い声で言った。
﹁ならばなおのこと、このようなことをするのはフェイ・トスカ以
外に考えられません。おそらくフェイ・トスカはすでに転移の魔法
を使い、城内に進入したうえで、儀式を邪魔させないように結界を
逆手に取ったのです﹂
﹁父さんがもう中にいるってこと?﹂セトの声も強くなる。﹁それ
って、まずいんじゃ﹂
﹁まずいわ﹂シイカが空を見上げた。まだ空の色が変わるほどでは
ないが、太陽は少しずつ西へとかたむきはじめている。﹁グローン
グ王、結界の解除は可能ですか?﹂
﹁可能だが、簡単ではない。ふつうにやれば、おそらく一∼二アル
ン︵約二∼四時間︶は見積もる必要があるな﹂
それでは遅い。月がのぼるまで、せいぜい一アルンといったとこ
ろだ。シイカがめずらしく、獣らしいうなり声をあげた。
﹁強引に突破するわけには・・・﹂
﹁やめておけ。竜であるそなたは耐えられても、人間は無理だ。耐
魔法の服を着ているといっても、せいぜい灰になるのが消し炭にな
るというほどの差しかないだろう﹂
﹁しかし!﹂
﹁おちつかんか。まったく、竜とはいってもやはり年若いものは同
じだな。いくら逸ったところで事態は変わらん﹂
グローングに叱責されて、シイカは面目なさそうに首を下げた。
﹁ふつうにやれば解除まで二アルン、だが強引にやれば話は違う。
竜よ、手を貸せ。魔王の名にかけて、月がのぼる前にやってみせる
わ﹂
グローングは左腕をぐるぐると回しながら、再び結界のそばまで
近づいていく。シイカも今度は後に続いた。
セトはシイカの上に乗ったまま、空を見上げた。いくらか空の端
の色が変わりはじめているように見える。
408
魔力を持たないセトでは、この局面で出来ることはない。歯がゆ
さを感じながら、土の上に座り込んで集中を始めた魔王の背中を眺
めるのだった。
旧魔王城内の最上階に、フェイ・トスカはいた。
そこはかつて、フェイ・トスカが勇者として魔王に戦いを挑んだ
場所だった。あのときは高い天井に覆われていたが、いまそれは取
り払われて、一面に空が広がっている。
空はすでに夕闇にいろどられていた。月の光がここまで届くのも、
もはや秒読み段階だ。
グローングの座っていた玉座があったところに祭壇が設置されて
おり、フェイはすでに﹃太陽の宝珠﹄をそこに安置していた。古文
書にあったとおりの手順はすでにこなし、あとは月がのぼるのを待
つばかりである。
フェイは石床の上に座り込んで瞑想し、魔力の回復につとめてい
た。転移の魔法に加え、邪魔ものの進入を防ぐために結界の書き換
えをおこなった。相当に魔力を消耗したはずである。
だが、そう考える一方で、フェイは自分がさほど疲れていないよ
うにも感じていた。転移の魔法は消耗が激しく、かつてはじめて使
ったときは魔力どころか体力も使い果たし、そのあと一日は寝台か
ら起きあがれなかった。だがいまは、転移の魔法を使った直後に魔
王がつくったであろう結界に強制介入して書き換えるなどという芸
当も難なくこなせるほどになった。
もちろん、かつてに比べればフェイ自身の魔力は強力になってい
るが、それにしてもここしばらくの成長は異常と言ってもいい。
ひょっとしたら、﹃太陽の宝珠﹄を長く身につけていたことで宝
珠の魔力に影響を受けているのかも知れない、とフェイは考えてい
た。
結界は、しばらく前から何度となく揺らいでいた。外から干渉さ
れているのだ。グローングがフェイ・トスカの動きに気づき、遅ま
409
きながら妨害にやってきたのだ、とフェイは考えた。
度重なる干渉で結界の魔力は弱まり、じきに突破されてしまいそ
うだった。
︵だが、もう遅い︶フェイはほくそ笑んだ。
もう空に明るさはなく、空の端まで見渡せるところであれば、月
の姿も確認できるころだろう。この祭壇へ月の光が届くまで、もう
時はないはずだ。わずかな差だが、状況はフェイに味方していた。
さらに言えば、たとえ結界が解除され討手が来たとしても、そし
てそれがグローングだったとしても、フェイ・トスカは戦って勝て
る自信があった。それくらい、心身ともに充実しているのを感じて
いた。
今の自分ならなんでもできる。そんな昂揚感にかられて、フェイ・
トスカは瞑想をやめ、立ち上がった。
﹃太陽の宝珠﹄の側まで近づき、その様子を眺める。魔力の満ち
た宝珠は煌々とした光をたたえながらも、まだ変化の兆しは見えな
い。
ついで上空をみたフェイ・トスカは、はっきりと笑顔になった。
城の壁と空の境に、月の上端を見つけたからだ。
﹁さあ、早くのぼれ!﹂フェイは思わず叫んだ。
結界の魔力もかなり弱まっているのをフェイは感じていたが、そ
れでもこの調子なら月がのぼるのが早い。
月はフェイを存分にじらしながらゆっくりとその姿を露わにし│
│ついに一寸の欠けもない満月となって祭壇を照らした。
﹁おお・・・﹂
フェイは感嘆の声をあげた。
それまで黄金色の光を放っていた﹃太陽の宝珠﹄が、月の光にさ
らされたとたん青白い光へと変貌したのである。
宝珠は徐々に輝きをまし、放たれる光がフェイ・トスカの視界を
完全に奪うかどうか、といったところで、いったん収束した。
だが次の瞬間、宝珠の光は一気に拡散した。
410
﹁!﹂
フェイは光の波に押し流されるように感じて、両腕を前に出し、
目を閉じてその場にふんばった。
フェイの身体を押す圧力はしばらく続き、唐突に収まった。
腕を解き、目を開けたフェイは、その光景に息をのんだ。
自分の立っている床やその先の柱、石壁が、ヒカリゴケが全体に
付着したかのようにうっすらと発光しているのだ。先ほど宝珠から
放たれていたのと同じ、青白い光だった。
さらに上空を見上げると、ちょうどかつて天井があったほどの高
さを、やはり青白い光が包んでいるのだった。これまでこの旧魔王
城を包んでいたのとは別の、この月の祭壇だけを包み込む結界であ
るようだった。
﹁なんだ?急に結界が││﹂
一アルンあまりの間、結界を解除するため休むことなく一点を見
据えて魔力を注ぎ続けていたグローングが、頓狂な声を上げた。完
全に解除するまでにはもうしばらくの時がかかると思われていた結
界が、唐突に力を失ったからである。
﹁シイカ、あそこ!﹂
セトが指さした先││旧魔王城の最上階からは、青白い光が漏れ
だしている。夜の闇に映えるその光は、なにもないところに光の壁
が出来たかのようになっていた。
﹁間に合わなかった・・・﹂首を伸ばしてその様をみたシイカが半
ば放心したようにつぶやく。
﹁手遅れなの!?﹂
﹁城の結界は破れたぞ。今からでも突入できんのか?﹂
セトとグローングから相次いでそう言われて、シイカは思い直し
たように首を振った。
﹁グローング王は、ここに残ってください。ああなってしまっては、
あの中に入れるのは私と、セトだけです﹂
411
グローングは、何か言いたげに口を動かしたが、それも一瞬のこ
とだった。
﹁わかった﹂
﹁セト、覚悟はいいですか?﹂
シイカの声を聞き、その背上のセトは身体を震わせた。怖いので
はない。これは武者震いだ。ここから先、たくさんのひとの運命が
間違いなく自分にかかってくる。
﹁大丈夫。シイカ、お願い!﹂
精一杯、腹から声を出した。
﹁はい!﹂
シイカも威勢良く返事をし、翼をはばたかせはじめた。
結界の中のフェイ・トスカは、あたりを覆いつくしたその光景に
一瞬目を奪われながらも、すぐに我に返って祭壇へ向きなおった。
﹃太陽の宝珠﹄は、祭壇に安置されたまま、青白い光を放出し続
けている。ただし、目を塞がれるほど強い光ではなく、周囲の床や
壁より少し強い程度の光だ。
そしてその横に、黒い影が浮いていた。
光に照らされた何かの影ではない。影そのものが質量をもったか
のように、その場に浮いているのだった。
長細い影の大きさはだいたいフェイと同じくらいだ。
﹁宝珠の力を解放したのは、おまえか﹂
影がしゃべった。
影に口があるわけではなかったが、フェイにはそれがその影の声
であるということがはっきりとわかった。
﹁そうだ﹂フェイは答えた。﹁おまえが神か?﹂
﹁ちがう﹂影が言った。﹁わたしは﹃かみのて﹄だ﹂
﹃太陽の宝珠﹄の力が解放された後のことについては、古文書に
詳細な記載はなかった。だがフェイからすれば、願いさえ聞き入れ
られればあとはどうでもいいことだった。
412
﹁名前はどうだっていい。古文書にあった﹃力を持つもの﹄っての
はおまえのことか﹂
﹁おそらくそうだろう。わたしは神ではないが、神の遣いとして戦
いに勝利した勇者か魔王の願いを聞き、神の代行としてその願いに
力を与えることが出来る﹂
﹁それだけ聞ければ十分だ﹂
﹃かみのて﹄とやらの口調は抑揚がなく、しかもゆったりしてい
るので、フェイは少々苛立ちながら言った。
﹁なら、俺の願いを聞いてくれ﹂
だが、﹃かみのて﹄の答えは意外なものだった。
﹁それは出来ない﹂
﹁なに?﹂
フェイは戸惑った。これ以上条件があるなどとは聞いていない。
﹁どういうことだ。﹃太陽の宝珠﹄の力を解放するだけでは足りぬ
と言うのか﹂
﹁ちがう。いまのおまえには資格がない﹂
﹁資格だと?俺は魔王と戦った勇者だぞ!﹂
﹁ちがう﹂﹃かみのて﹄はまったく抑揚なく言った。﹁おまえは勇
者ではない﹂
﹁なっ・・・﹂フェイの頭は真っ白になった。
まさかここまできて、そんなことを言われるとは思いもしなかっ
たのだ。
﹁ばかな!俺は伝承のとおり、かつて勇者が身につけた武器防具を
まとい、一対一で魔王と戦ったんだぞ!俺が勇者でないというなら、
この世に勇者など存在しない!﹂
﹁ちがう。おまえは思い違いをしている﹂﹃かみのて﹄を名乗る影
の固まりが姿を変貌させた。ただの長細い球体だった影から頭部と
手足が生え、人間の身体のようになったのだ。
﹁勇者とは、﹃竜の加護﹄を得たもののことを言う・・・いまから
来る﹂
413
影の右腕に当たる部分が上げられ、フェイの背後を指した。
フェイが振りむくと、青白い光の結界の先に、巨大な竜の姿が見
えた。
結界の光にはいかにも魔法の力がありそうだったので、突入する
ときには衝撃が来るかとセトは覚悟して目を閉じていたのだが、意
外にも何の抵抗もなく、セトを乗せたシイカ・ドラゴンはするりと
結界の中に入り込んだ。
着地のゆるい衝撃でセトが目を開けると、三〇ログ︵約二一メー
トル︶ほど先に重鎧に身を包んでこちらをみている男の姿があった。
﹁父さん!﹂セトは叫んだ。大急ぎで鞍と自分を結びつけているベ
ルトをはずし、ゴーグルを脱いで鞍のでっぱりにひっかけると、滑
るようにしてシイカの背から下り、一〇ログほどの距離まで駆けよ
った。
﹁間に合った・・・のかな?﹂
フェイ・トスカは険しい表情でこちらをみている。その様子では、
まだフェイ・トスカの﹁世界をリセットする﹂という儀式は完了し
てはいないようだった。
﹁よくぞきた、勇者よ﹂
別の方向から声が聞こえて、セトはそちらをみた。人間の影をそ
のまま立体にしたようなものがいる。ほかに人影はなく、どうやら
声はその影が発したようだった。こんな魔族もいるのかな、とセト
は思った。
﹁あ、こ、こんばんは﹂勇者と呼ばれるのはまったくくすぐったか
ったが、影が自分に向かってそう言ったのは確かだったので、セト
はグレンデルの教えにしたがって挨拶をした。
﹁貴様、なぜ生きている?﹂挨拶に被さるように、フェイ・トスカ
の声が響いた。﹁それに、竜だと?まさか・・・﹂
﹁セトは竜の試練を乗り越え、﹃竜の加護﹄を得たのです﹂答えた
のはシイカだった。﹁﹃竜の加護﹄がどんな力を持っているかは、
414
あなたも知っているのでしょう?﹂
﹃竜の加護﹄は、一度に限っては即死に至るほどのダメージでも
無効化するという力を持っている。グローングはフェイ・トスカと
の決戦において、この力によってフェイ・トスカに勝利した。
﹁勇者とは、神の遣いである竜によって選ばれた、﹃世界を正しき
姿に導く﹄存在。竜は自らが選びしものに、証として﹃竜の加護﹄
を与える﹂影が淡々と言った。
﹁それはおかしいだろう、﹃かみのて﹄さんよ﹂フェイ・トスカが
言った。内心に渦巻く怒りを何とか抑えながら。﹁それなら、俺が
戦ったグローングは魔王じゃなくて勇者だってことになっちまう﹂
﹁それはその通りだ﹂
﹃かみのて﹄は、フェイの言葉をあっさり肯定した。それから、
体の向きを少し変えて、セトの後方にいるシイカに向かって言った。
﹁この男は、勇者と魔王の戦いのことを正しく知らないようだ。お
まえやおまえの先代の竜は、正しいことを教えていなかったのか﹂
﹁それは││﹂﹃かみのて﹄の口調はやはり淡々として抑揚がなく、
責めるような響きがあったわけではないが、シイカは首を下に向け
た。
﹁おまえは、ずいぶん若い竜だな。││では、わたしが語ろう。ル
ールは正しく理解されていなければ、ときに公平さを欠くこともあ
る﹂
﹃かみのて﹄はそう言うと、フェイとセトの二人に向かって語り
はじめた。
415
魔王の誕生
五
﹁そもそも、この世界は神によって創られた﹂
﹃かみのて﹄と名乗る人のかたちをかたどった影が、淡々と語る。
﹁はじめ、世界は平穏だったが、やがてその平穏を壊しかねない生
物が出現した。それがおまえたち、人間だ﹂
フェイ・トスカ、セト、そしてシイカは、互いにすこし距離をと
った状態で、﹃かみのて﹄の話を聞いていた。
﹁人間は、必要以上に争い、同族同士で殺しあうことを好んで行っ
た。にもかかわらずその数は増え、やがて気候条件のいい北の大陸
全土に広がるようになった。その間にも争いは減らず、しかも兵器
や魔法の力を使い、ますます規模が大きくなるようになっていった。
そんな中で、あるひとつの争いが、大陸全土を巻き込む大規模なも
のとなろうとしていた﹂
﹁・・・﹂
﹁発端は、あるひとりの魔法使いが、人間は魔法によって強力に進
化すべしという考えのもと、魔法を使えないものたちを虐殺したこ
とだった。はじめはひとつの町での出来事だったが、捕らえようと
した兵士を返り討ちにしていくうちに、ついには一国の軍隊をまる
まる差し向けられるほどになった。ところがこの魔法使いは、歴史
上まれにみる力の持ち主で、この軍隊を駐留していた都市ごと吹き
飛ばしてしまったのだ﹂
﹁そんな││﹂セトがおもわず呻いた。
﹁あまりの強大な力に、屈するものやその思想に賛同するものが出
はじめ、次第に争いは大陸全土へ広がるようになっていった。魔法
使いは自らを魔法使いの王││魔王と名乗り、各所でその強大な力
を誇示して見せた。時には神の創った自然を破壊することで。神は
416
自らの創った世界が破壊されるのを黙ってみていることができなく
なり、ついに介入をした﹂
﹁魔法使いの王で、魔王だと?﹂フェイ・トスカが怪訝な顔でそう
言った。だが、﹃かみのて﹄はその言葉に答えず、先を続けた。
﹁神は魔王に抵抗する勢力の中からもっとも力の強いものを選び、
加護を与えたうえで魔王と戦わせたのだ。はたしてそのものは魔王
の命を奪うには至らなかったものの、力を削ぎ、封じることに成功
した。神は争いの火種となった魔王とその一派を、異世界へと封じ
込めた。魔王と戦ったそのものは勇者とたたえられ、後に世界を統
べる王になった││これが、もっとも古い魔王と勇者の戦い。おま
えたちの感覚からすれば、はるか昔のことだ﹂
その言葉に、セトは昨日グローングから聞いた言葉を思い出した。
一説には一〇〇〇〇年前とも、二〇〇〇〇年前とも言われている、
と言っていたはずだ。
﹁その後も、この世界に残った人間たちは、なにかにつけ争いを繰
り返していた。神は自らが創ったこの美しい世界が、争いによって
汚されてゆくことに心を痛めていた。だが数百年が経過したあると
き、異世界に封じ込めた魔王が力を取り戻し、異世界とこの世界を
つなぐ扉を強引にこじ開けて、この世界を自らのものにしようと現
れた。最初の勇者はすでに死亡していたから、神は新たな勇者を選
び出し、魔王と戦わせた。今度こそ勇者は魔王を打ち倒したのだが、
このとき神はあることに気づいた﹂
﹃かみのて﹄は平板な口調のまま話し続ける。
﹁それは、勇者が魔王と戦っているあいだ、この世界ではほかの争
いがほとんど起こらなかったということだ。その時点で継続中だっ
たものでさえ収束してしまった。つまり、魔王という強大な敵の前
にこの世界の人間たちは目の前のちいさな相違を忘れて結束したの
だ。神はこれをうまく利用すれば、この世界を争いによる破壊から
守れると考えた。そして、ルールを作ったのだ﹂
﹁ルール・・・﹂
417
﹁巨大な戦いが起きたときは、まず魔王と勇者を定め、そのものた
ちに争わせることによって勝敗を決める。こうすれば戦闘は局所的
なものに終わり、神の創りし世界を極端に破壊するということもな
くなる。そして、勝った勢力がこの世界で生きることを許し、敗れ
た勢力は異世界へと送る。同じ問題で争いが再燃することを避ける
ためだ﹂
﹁ちょっと待て﹂一本調子に語り続ける﹃かみのて﹄に、フェイ・
トスカが待ったをかけた。
﹁さっきから聞いていると、争っているのは人間同士で、魔族が出
てこない。魔王っていうのは魔族の王ってことじゃないのか﹂
﹁ちがう﹂﹃かみのて﹄はあっさりと否定した。﹁そもそも、魔族
というのは種族の分類として正しくない﹂
﹁・・・?﹂
﹁おまえたちが魔族と呼んでいるものは、かつての戦いによって異
世界へ送り込まれたものたちのことだ。異世界は自然に存在する魔
力に歪みがあるため、もともと持っている魔力がよほど強いもので
なければ、人の姿のまま長く生きることは難しい。異世界に送られ
た人々は数を減らしながらも、歪んだ魔力に適応しようと少しずつ
姿を変えていった。それが今日おまえたちが﹃魔族﹄と呼んでいる
存在だ﹂
﹁ってことは││﹂セトが声を上げた。﹁魔族も、元は僕たちみた
いな人間だったってこと?﹂
フェイ・トスカは、セトのことを鋭くにらみつけると、﹁そんな
バカな話があるか!﹂と吐き棄てた。だが、﹃かみのて﹄はセトの
方へとわずかに身体の向きを動かして、﹁勇者の言うことが正しい﹂
と言った。
﹁ただし、人間以外の動物が歪んだ魔力によって知能を得たケース
もあるから、﹃魔族﹄すべてが元は人間、というわけでもない﹂
そう言うと、﹃かみのて﹄は身体の向きをもとに戻した。いずれ
にしてもわずかな動きではあったが。
418
﹁どうやら、この辺りにルールが正しく伝わらなくなった原因があ
るようだ。もともと﹃魔王﹄﹃勇者﹄という言葉は、最初に神が介
入した戦いの故事からとったというだけで、言葉そのものには意味
はなかった。神が││あるときからは神の使命を帯びた竜が選んだ
ものを﹃勇者﹄と呼び、それに対するものを﹃魔王﹄と呼び慣わし
ていただけだ。だがあるときの魔王が、もともとの人間の姿とはか
け離れた存在となった自分たちの一族を﹃魔族﹄と呼び出したこと
で、﹃魔王﹄とは﹃魔族の王﹄の意であると思われるようになった
ということだな﹂
﹃かみのて﹄は、合点がいったとばかりに首肯した。そしてフェ
イ・トスカに向かって言った。
﹁これでわかったか?﹃勇者﹄とは﹃竜の加護﹄を受けたもののこ
とを言う。ほかの決まりはない。神が認めた存在なのだから、人間
だろうが魔族だろうが関係ないのだ。逆におまえがどれほどの戦い
で名をあげていようと、﹃竜の加護﹄を受けていない以上、勇者で
はない﹂
フェイ・トスカは﹃かみのて﹄を強烈ににらみつけていた。堅く
握られた両のこぶしは怒りに震えんばかりだ。フェイは絞り出すよ
うにして言った。
﹁グローングが勇者だったというなら・・・魔王は誰だったんだ?﹂
﹁勇者が﹃世界を正しき姿にみちびくもの﹄ならば、魔王は﹃世界
を歪ませ混沌へと落とすもの﹄だ。それは基本的に、勇者と対立す
る勢力の長である。すなわち、サンクリークの王、ノヴァ八世だ﹂
﹁王が・・・ノヴァ八世が魔王だと?ふざけるな!﹂フェイ・トス
カは激高し、大きく腕を振って﹃かみのて﹄に抗議した。﹁あの方
は国民から名君とうたわれたお方だぞ!陛下が王になられてからグ
ローングが現れるまで、大陸では国同士の諍いはほとんど起こらな
かった││それがどうして﹃世界を歪ませる﹄などと言われるのだ
!﹂
﹁わたしはこの世界のこまかい事情は知らない﹂﹃かみのて﹄はに
419
べもなくそう言った。﹁神は些事にはこだわらない。それゆえ、勇
者を選ぶ使命を竜に預けたのだ。なにが歪みであり、それを正すも
のが誰であるのかを見つけだすのは竜だ。そうして﹃竜の加護﹄を
得たものが現れたならば、そのものと対立するものを魔王とする。
それだけのことだ﹂
﹁俺のしてきたことは││まったく見当はずれだったということか・
・・?﹂フェイ・トスカは一、二歩よろよろとあとずさった。﹁そ
れでは、俺は何のために││、あの男に従ったふりをして、姫を・・
・﹂
﹁父さん││﹂
セトは落胆の色を隠せないフェイ・トスカを見て心が痛んだが、
一方でこれならフェイ・トスカと自分が戦う理由もなくなる、と思
った。
だが、そう考えていられたのはわずかな間だった。﹃かみのて﹄
がフェイ・トスカに言葉を続けたのだ。
﹁このまま戦いをやめるなら、そうなる﹂﹃かみのて﹄はあくまで
も感情のない声で言った。﹁だが、おまえの願いは聞こえている。
戦いをつづけるならば、神に願いを届かせることも出来るかもしれ
ない。おまえ次第だ﹂
フェイ・トスカはその言葉に、うつむかせていた顔を上げた。今
までとはちがう、すがるような目つきで﹃かみのて﹄を見つめる。
﹁どういうことだ。おれは勇者じゃないのだろう。資格がない、と
言ったのはおまえだ﹂
﹁確かに言った。﹃いまは資格がない﹄とな。だが、そのための場
はととのいつつある﹂
﹁﹃かみのて﹄よ、お待ちください﹂
﹁シイカ?﹂
やりとりを見守っていたセトの背後から、突然シイカが声をあげ
た。
﹁戦いがおこらないのなら、それが一番いいことのはずです。これ
420
以上││﹂
﹁控えていろ﹂﹃かみのて﹄が、これまでになかった強い口調でシ
イカを一喝した。
﹁ルールは公平でなければならない。どちらかに肩入れするような
ものはそもそも受け入れられないのだ。審判役であるおまえがその
ように感情を見せれば、当然ルールも歪む。なるほど、どうやらお
まえたち竜にも責任の一端があるようだ﹂シイカに向かって話す﹃
かみのて﹄は、フェイやセトに対するときとは違い、わずかだが感
情が見えるようだった。
﹁おまえはまだ若い。どうやら、前任の竜には問題があったようだ
な。この戦いが終わったら、おまえにはもう一度神の考えを教えこ
まなければならないだろう。だが、それは後回しだ。││さて、フ
ェイ・トスカよ﹂
﹃かみのて﹄はもとのように抑揚のない声音にもどって続けた。
﹁おまえの願いは、世界を揺るがすほどに強いものだ。そして、﹃
竜の加護﹄を得た勇者もこの場にいる。勇者の目的は、おまえを止
めることだ。すなわち、おまえには魔王となる資格がある﹂
﹁俺が、魔王・・・だと?﹂
フェイ・トスカは、両目を見開いた。
﹁そうだ。おまえは魔王となり、一対一で勇者と戦う。そして、勝
者の属する勢力が、この世界に残ることになる﹂
﹁俺の願いを知っているのだろう。俺にとっては、今のこの世界も
異世界も同じ、何の魅力もない。それとも、神と言えども時を巻き
戻すことは出来ないということか﹂
﹁神を愚弄するな﹂﹃かみのて﹄はそう言ったが、やはり抑揚はつ
かなかった。﹁本来、﹃太陽の宝珠﹄の力は敗者を異世界へと送り
こんだ後、異世界の入り口をふさぐために使われるものだ。そのた
めの膨大な魔力を使えば、おまえの願いを叶えることも十分に可能
だ。││ただし、条件を付けさせてもらう﹂
﹁なんだ﹂
421
﹁時を戻した後も、おまえの記憶は残る。おまえはここで聞いた話
たお
を持ち帰り、歪んでしまったルールをもう一度正しい形に戻すのだ。
そのうえで、もしおまえがグローングを自らの力で斃したいと望ん
でいるのなら、おまえ自身がふたたび魔王となれ。この役割を果た
すと誓うならば、神はおまえの願いをかなえるだろう﹂
﹁いいだろう﹂フェイ・トスカは即答した。﹁あのときへ戻れるの
なら、何だってやってやる。・・・それで?魔王ってやつにはどう
やってなるんだ。俺もなにか試練を受けるのか?﹂
﹁その必要はない。おまえは十分に力を持っている﹂
﹃かみのて﹄はそう言うと、音を立てずにすっと後ろへさがった。
フェイ・トスカはその様子を見ると﹃かみのて﹄から視線をはずし、
セトへと向きなおった。
﹁つまり、俺がもう一度このガキを殺してみせれば、それで願いが
叶うってわけだな﹂
そう言って、不敵な笑みを浮かべた。﹁長ったらしい話を聞かさ
れてどうなることかと思ったが、結局はやることがひとつ増えただ
けか﹂
フェイが背中の剣を抜いた。反り返った刀身が、祭壇を満たす青
白い光を受けて輝いた。
その身から溢れる殺気が波のようにセトへと向かう。セトは反射
的に腰に差した長剣の柄に手をやったが、剣を抜くことはしなかっ
た。
﹁父さん、待って﹂ともすれば緊張に震えてしまう身体を叱咤しな
がら、セトは声を張りあげた。﹁僕は戦いに来たんじゃない﹂
こうべ
﹁今更なにを言っていやがる﹂フェイ・トスカはしかめっ面になっ
た。﹁戦う気がないなら、敗北を認めろ。俺の前でひざまずいて頭
を垂れてくびをさらせ。そうすれば痛くないように殺してやる﹂
実の息子に対しての容赦も躊躇もない言葉に、セトは試練の世界
でともに暮らして感じた父親のあたたかさを微塵も見つけられなか
った。だが、飲まれてしまうわけにはいかない。
422
﹁そうじゃない。戦う意味がないってことだよ。いま﹃かみのて﹄
さんが言っていたじゃない。人間と魔族はもともと同じ生き物だっ
たんだ﹂
﹁それがどうした?﹂フェイ・トスカは一蹴した。﹁同じ生き物ど
うし、手を取り合って仲良く暮らしましょう、ってか?││いかに
も子供の論理だな﹂
﹁すぐにはうまくいかないことくらい、僕だってわかってる。でも、
時間をかければ出来る。父さんが一緒にやってくれるなら、きっと
││﹂
﹁冗談じゃない﹂フェイ・トスカの目つきがさらに鋭くなった。﹁
元が同じかどうかなんて関係ない。俺には魔族は憎しみの対象なん
だ。多くの人間たちにとってそうであるようにな﹂
﹁魔族にだって、いい人はいっぱいいるんだ!﹂セトの声が意識せ
ずに大きくなっていく。フェイ・トスカがまるで聞く耳を持ってく
れないことに対するいらだちを反映するように。﹁そう思っている
のは僕だけじゃない。少なくとも、母さんはそうだったんだ!﹂
﹁母さん?﹂
フェイ・トスカからみなぎっていた殺気が、その言葉とともに一
瞬、かききえた。﹁それは、シフォニア姫のことを言っているのか
?﹂
﹁そうだよ、父さん﹂セトはここぞとばかりに言いつのる。﹁母さ
んは、じいちゃん││グレンデルと一緒に暮らして、そのことに気
づいた。でもあのときは言えなかったんだって、僕に﹂
轟音が、セトの言葉を遮った。
フェイ・トスカが、抜き身の剣を石床にたたきつけたのである。
床は豪快に砕け、破片がセトのそばまで飛び散った。
﹁おまえに姫のことがわかるものか﹂フェイ・トスカの声はうなる
ようだった。﹁どこでそんな話を聞いたが知らんが、でたらめだ。
姫のお気持ちを理解しているのは俺だけだ。気安く母などと呼ぶな
!﹂
423
﹁本当に母さんが言ったんだ!僕は試練の中で、母さんの魂に会っ
たんだよ﹂セトは烈火のごとく怒るフェイに、必死で訴えた。﹁母
さんは言ってたんだ。やり直す必要なんかない、この世界を変えて
いけばいいって。父さんにも、そう伝えてくれって﹂
﹁でたらめを言うな!﹂フェイは怒鳴った。﹁俺は姫に誓ったんだ。
あのとき││姫の首をはねるときに!﹂
王城の陥落とともに捕らえられたシフォニアは、玉座で自決して
果てたノヴァ八世をのぞく、ほかの多数の王族とともに公開処刑に
された。
捕らえられてから処刑までの数日、ほとんどまともに食事も与え
られていなかったであろう姫はやつれ、身にまとった服も薄汚れて
いたが、それでも王族として毅然とした態度を崩すことなく、背筋
を伸ばし、自らの足で歩いて処刑場へあらわれた。みじめに逃げ出
そうとして引きずられるものや、恥も外聞もなく命乞いをはじめる
ようなものも多数いる中で、最後まで気品を失わなかった姫の姿に
は魔族の間からも感嘆の声が漏れたほどだった。断頭台へうつ伏せ
に寝かされると、念のため手足に枷がはめられたが、おそらく枷が
なくても逃げ出すようなことはなかっただろう。
王族の処刑は、すべてフェイ・トスカが直接手を下した。このと
きにはすでに﹃太陽の宝珠﹄の力をフェイは理解していて、表面上
は魔王への忠誠を示すため、その実﹃太陽の宝珠﹄を自ら管理する
ことが出来るように、志願して処刑役となったのだ。
フェイは、かつて忠誠を誓っていた王族たちをためらいなく処断
していった。だがさすがにシフォニアの姿を目の前にすると、傍目
には平静を装ってはいたものの、内心では気持ちが揺れた。姫を縛
る枷をたたき壊し、転移の魔法で姫を連れて逃げ去ろうかと、本気
で考えさえした。
だが、ここまでに及んでもなお堂々とした態度を崩さない姫の姿
424
を見て思い直した。フェイ自身このときは勇者として、姫に恥じる
ことのない矜恃を示さなければならないと思ったのだ。
フェイはシフォニアのそばに、抜き身の剣とともにたつと、﹁覚
悟はよろしいか、姫﹂と周りにも聞こえる声で言った。
﹁はい﹂シフォニアは短くそう答えた後、下を向かされている首を
少し動かして、フェイの方を見た。そして小さな声で、﹁フェイ様
がご無事で、安心いたしました﹂と言ったのだ。
フェイは内心驚いて、少し離れて見守っている魔族たちにわから
ぬようにシフォニアの顔をのぞき見た。シフォニアは微笑みを浮か
べていた。皮肉でも何でもなく、心からの言葉だとわかった。
フェイは怪しまれることのないよう、処刑時に決められた所作を
周りからはわからないように少しだけゆっくりにして続けた。そう
しながら、周りに聞こえない声でシフォニアに語りかけた。
﹁姫。私には秘策がございます﹂フェイはこれから彼女の白い首め
がけて振りおろすことになる大刀の刃を姫に見せ、ついで処刑を見
に詰めかけた観衆に見えるようにしながら、言った。﹁策が成れば、
時を戻しすべてをやり直すことさえ可能です。ですが、そのために
今は、この剣でもってお命を頂戴せねばなりません﹂
シフォニアは表情を変えなかった。﹁わたくしは、フェイ様を信
じております﹂やはり周りには聞こえない小さな声でそう答えたの
みだった。
﹁姫、私は誓います。必ずや策を成し、この地上から魔族を追い払
います。そのときこそ、私は││﹂
言いながら、ついに大刀を振りあげると、観衆から歓声と悲鳴が
同時にあがり、フェイの言葉をかき消した。魔族たちは歓声をあげ、
むりやり連れてこられたものがほとんどの人間たちは悲鳴をあげて
いる。
シフォニアの唇が動いて、なにかフェイに告げた。だが、周囲の
声に消されて聞こえない。フェイは覚悟を決め、大刀を振りおろし
た。
425
﹁姫は、俺を信じると言ってくださったのだ﹂
フェイ・トスカが剣を握る手を見つめてなにを思い出したのか、
セトにはわからない。それはフェイ・トスカの中にしかない記憶だ。
﹁俺は姫を殺した。あまたの王族とともにな。たとえ歴史が巻き戻
っても、この業が消えることはない。だがそれでも││だからこそ、
この策は果たされなければならない!﹂
フェイ・トスカは郷愁を振り払うように剣を振りあげると、切っ
先をセトに向けた。
﹁さあ、おまえも剣を抜け﹂
﹁こんなの間違ってるよ﹂セトはなおも訴えた。﹁母さんは、僕の
こともあなたのことも、愛してくれているのに││﹂
なにを言っても、フェイ・トスカのかたくなな目は変わらない。
あるじ
セトは歯がゆくて仕方がなかった。
フェイ・トスカが主として、女性として愛しているひとと、セト
が母として愛しているひとは、間違いなくおなじ女性だ。であるの
になぜ、ここまですれ違ってしまうのだろうか。
このまま神のルールに従って、父と子で殺し合いをしなければい
けないのか。
﹁抜かないのなら、それでもいい。別に正々堂々と戦えなんて言わ
れていないからな﹂
フェイ・トスカは剣を正眼に構え直すと、じりじりと間合いを詰
めてくる。一度圧倒した相手であっても油断する気配はなかった。
﹁セト・・・﹂苦しげに、シイカが言った。﹁説得は無理です﹂
セトは唇をかんだ。フェイ・トスカはもはや自分を倒し、神の力
で願いをかなえることしか頭にない。シイカの言うとおり、これ以
上なにを言っても事態が変わるとは思えなかった。
じきにフェイ・トスカの間合いにはいる。フェイは言葉通り、た
とえセトが戦う気を見せなくとも、容赦なく打ち込んでくるだろう。
426
セトの剣は抜き打ちではないので、それまでに剣を構えていなけ
ればしのぐことはできない。だが、剣を抜くと言うことは、戦う意
志を見せるのと同義だ。
﹁父さん・・・﹂
セトの声に、もうフェイ・トスカは毛ほども表情を変えなかった。
セトはついに剣を抜き、フェイ・トスカ同様正眼に構えた。
﹁それでいい﹂フェイは間合いを詰める動きをいったん止めて、そ
う言った。﹁さあ、勇者と魔王の最終決戦だ﹂
﹁父さんは魔王なんかじゃない﹂セトは言わずにいられなかった。
﹁勇者とか魔王とか、そんな言葉にしばられる必要はないよ、父さ
ん!﹂
﹁黙れよ、勇者様﹂フェイは挑発するような笑みを見せた。﹁別に
縛られてやしない。願いがかなえてもらえるなら、たとえ神の小道
具になろうが何だっていいのさ。俺はここで勇者セトを倒し、時を
さかのぼって再び魔王となり、勇者グローングを倒す。そして魔族
をすべて異世界に放り込み、姫との約束を果たす。それでいい﹂
フェイの身体から吹き出る魔力が色を帯び、その身にまとってい
る暗闇色の鎧をさらに暗黒に輝かせた。そのさまは、﹃世界を歪ま
せ、混沌へと落とす﹄という魔王の姿そのものといえた。フェイは
まがまがしく吼えた。
﹁さあ行くぞ、勇者!俺は、魔王フェイ・トスカだ!﹂
427
父と子の戦い
六
フェイ・トスカは、まだいくらか間合いが広いと思われた位置か
ら剣を振りかぶると、ひと跳びで距離を詰め、セトに向かって強力
な一撃を打ち込んできた。
セトは少々意表を突かれながらも、なんとか初撃を受け流すこと
に成功し、転がって間合いを取った。フェイ・トスカも続けて向か
ってくることはせず、セトとの距離を測り直す。
今のフェイの動きは、セトが一刀のもとに臥されたあのときとも、
試練の中で幾度も剣を合わせたときとも違い、半ば人間離れした跳
躍と速度があった。なにか魔法を使ったのだろうか。
一方でフェイ・トスカも、セトの動きが変わっていることに気が
ついていた。もしセトがあの日のまま成長していなければ、今の攻
撃を無傷で受け流されるということはなかっただろう。
どうやら、﹃竜の加護﹄とは単に敗北を一度取り消すというだけ
のものではないらしい。やはり、肉体的な強化も施されているよう
だ。
だが今のセトの動きを見る限り、それほど強力な強化ということ
もない。フェイの口の端に自然と笑みが浮かんだ。
﹁竜よ。おまえは手出し無用だ﹂
戦いが始まったころ、﹃かみのて﹄がシイカのそばまできてそう
言った。表情をうかがうことはできないが、口調は少々威圧的に感
じる。
﹁竜の役割は、勇者を選び、加護を与えるというそれだけだ。もう
おまえにすることはない﹂
﹁・・・わかっております﹂シイカは﹃かみのて﹄の方を見ずに答
428
えた。
﹁どうかな。おまえは勇者に対して特別な感情を持っているようだ。
釘をさしておかなければ、なにをするかわからない﹂
﹁・・・﹂
﹁この戦いが勇者の勝利に終わったならば、おまえには神に仕える
竜とはどうあるべきかをいちから教えてやろう。魔王が勝ったなら
ば、グローングを勇者に選んだ竜を調教しなおす﹂
﹁神の目的は、戦いをなくすことではないのですか﹂
﹁ちがう。やはりなにもわかっていない。神の目的は、戦いを管理
することだ。この美しい世界を守るためにな。人間は争いなしには
生きられない。戦いを完全になくしてしまっては、人間は抑圧され
ることになり、やがて爆発するだろう。神の制御も及ばぬほどに﹂
﹁人間は、そこまでおろかではないはずです﹂
﹁おろかなのだよ。いまもああして戦っている﹂
戦いはフェイ・トスカが一方的に押していた。魔法も織り交ぜな
がら攻め込むフェイ・トスカに対し、セトはシイカに与えられた耐
魔法の服の力もあってなんとか致命的な負傷はせずにしのいでいる。
﹁あれはあなたがそうしむけたのでしょう!﹂
シイカが声を荒げると、﹃かみのて﹄は明確にさげすむ口調にな
った。
﹁わたしは舞台を提供したにすぎない。そうしなければ、たとえこ
の場は収まったとしても、別の時によりおおきな規模の戦いが生ま
れるだけだ。その程度のことも理解できないとは、時を経て竜もお
ろかになったということか﹂
﹁・・・﹂
﹁場合によっては、おまえを調教しなおすよりも別の竜を私が見つ
けた方が早いかもしれんな。││もっとも、今の様子では勇者の勝
ち目は薄そうだが﹂
﹃かみのて﹄の言葉にシイカが首を巡らせると、今まさにフェイ・
トスカが大振りの一撃をセトに繰り出すところだった。セトはかろ
429
うじて剣で受け止めたものの、勢いを殺しきれずにはじき飛ばされ
た。
﹁セト!﹂
シイカはとなりの﹃かみのて﹄の存在も忘れて叫んだ。
戦いに手を出すつもりはない。だが、セトを心配する気持ちを封
じ込めることもできなかった。
﹁さっきから守ってばかりだが。それでは俺に勝つことなどできん
ぞ﹂
フェイ・トスカが次の間合いを入念に探りながら言った。
その言葉は、試練の世界でまぼろしのフェイ・トスカに言われた
ことと重なるものであった。
││小さいものと大きいものが戦うとき、小さいものが守勢に回
ってはだめだ。
受け身になればたとえ剣力が互角だったとしても、少しずつ体力
は削られていく。体力勝負になってしまえば、どうやっても身体の
大きいものが有利なのだ。
﹁わかってるよ、父さん﹂
わかっていても、攻め込めないのだ。セトは口の中で粘つく唾液
を吐きだした。
フェイ・トスカの攻撃は、全体的に速度と威力が向上してはいる
ものの、剣さばきのリズムやくせは試練で戦ったまぼろしと酷似し
ていた。そのおかげで、ここまでたびかさなる攻撃を凌いでこられ
た。
だが、いざ攻め手に回るとなるとやっかいなのが魔法だった。試
練の世界のフェイは、稽古で魔法を使うことはしなかったので、対
処が遅れがちになる。セトが攻めるチャンスと見て踏み込んでも、
魔法の攻撃でリズムを狂わされるのである。
フェイ・トスカの放つ攻撃魔法は威力よりも発生速度に重点が置
かれていて、直撃されない限りはシイカのくれた服が防いでくれる。
430
だが、魔法でひるんだところに間髪入れず斬撃がやってくるので、
セトは間合いを詰めることができない。
次の攻撃も、またフェイ・トスカからだった。
間合いを詰める一歩目にもおそらく魔法を使っているのだろう。
セトには反応するのがやっとという速度で迫ってくる。セトはここ
でも守勢に回らざるを得なかった。
上段から振りおろし、セトが剣で受けると無理に押し込もうとは
せず、素早く剣をひるがえして今度は横から薙ぎはらう。剣舞のよ
うな無駄のない美しい動きで、セトを少しずつ追いつめていく。
セトは反撃に転じることも、かといって間合いを引き離すことも
できず、それでもなんとか剣を合わせながら、攻撃の糸口を探り続
ける。
﹁ほら、ほら、どうした!﹂
剣をふるいながら、フェイ・トスカが声をあげる。その顔には笑
みさえ浮かべている。
セトはどんどん鋭さを増していく攻撃の中で、それでも一瞬の隙
を見つけだした。ほんの少し大振りになったフェイ・トスカの一撃
をくぐって回避し、はじめてフェイの剣の内側へ進入する。
だが、それでもフェイに一撃を与えるまでには至らなかった。フ
ェイ・トスカはその動きを予期していたかのように、左手を開いて
セトの眼前に差し出した。魔法発動の予兆となる光がその手に集ま
るのを見て、セトは間合いを離さざるを得なくなった。
飛びすさったセトを、雷の魔法が追いかけてきた。かわしきれず
に左肩に雷撃が当たったが、耐魔法の服がほとんどのダメージを吸
収してくれたので、肩が少ししびれた程度ですんだ。
セトは再びフェイ・トスカとの間合いをはかろうとして││フェ
イ・トスカが彼自身と同じくらいの大きさを持つ火球を頭上に掲げ
ているのを見てぎょっとした。
フェイは邪悪な笑顔を浮かべて、ためらいなく大火球をセトに向
かって投げつけた。さすがにこれは服が守り切れるとも思えず、セ
431
トは必死の思いで横へ飛び、なんとか直撃を逃れる。
大火球は直前までセトが立っていた場所を抉りとった。もうもう
とした煙が上がる。
﹁う││げほっ、げほっ!﹂セトは動き続けていたのと煙とで息が
苦しくなり、たまらず咳こんだ。
﹁ふ、はははは!今日の俺は絶好調だ!﹂フェイ・トスカは魔力も
体力もまったく消耗した様子を見せず、豪快に笑い声をあげた。
事実、以前のフェイ・トスカにとって魔法は連発が利くものでは
なく、使いどころを見極めなければいけないものだった。無理に魔
法を使いすぎると集中力が低下し、剣を使うことに支障が出ること
もあったのだ。
それがここのところ、自分ではっきりと自覚できるほど魔力が高
まり、高威力の魔法を続けて使うことも可能になっていた。今日に
至ってさらにその傾向は強まり、先ほどからどれほど魔法を使って
も一切疲労を感じなくなっている。それどころか、ますます心身が
充実してくるようであった。
﹁今度の魔王は、﹃太陽の宝珠﹄とずいぶん相性がいいようだ。宝
珠から魔力を吸収している﹂
戦いを傍観している﹃かみのて﹄が、フェイ・トスカの様子を見
てそう言った。同じように見入っていたシイカは首を曲げて﹃かみ
のて﹄にたずねた。
﹁宝珠から、魔力を・・・そのようなことが?﹂
﹁いま目の前で起きている以上、あることということだ。吸収して
いる魔力は宝珠が内包しているそれからみれば微々たるものだが、
宝珠の魔力による結界に覆われたこの神殿は、魔王からすれば戦い
やすいことこのうえないだろうな﹂
﹃かみのて﹄の口振りは淡々としていたが、言っていることはま
るで﹃かみのて﹄がフェイ・トスカの勝利を望んでいるようにさえ
聞こえた。
432
︵﹃かみのて﹄には、私やおじいちゃんの考え方が神のそれとずれ
ているという不審があるようだ。あるいは、フェイ・トスカの望み
通り時間を巻き戻したほうが、世界を神の考えているとおりに導き
やすいと考えているのかもしれない︶
シイカはそう考えて不安に思ったが、﹃かみのて﹄がそれを理由
にこの戦いに直接介入するというのは考えにくいことだった。神は
直接的な介入を出来るかぎりさけるという基本思想がある。勇者の
選別を竜に任せるようになったのもその考えからきているのだ。
フェイ・トスカが宝珠から魔力を吸収していることで、この場所
はフェイ・トスカにとって有利になってしまっているが、これはフ
ェイ・トスカに魔力があり、たまたま宝珠と親和性が高かったから
そうなっただけで、﹃かみのて﹄が意図してそうしたわけではない。
もし﹃かみのて﹄がなにか介入するような素振りを見せれば、シ
イカもセトを守るために動くつもりでいたが、少なくとも今その気
配はない。そもそもセトの方が劣勢なのだ。
シイカはセトを手助けしてやりたかったが、そんなことをすれば
﹃かみのて﹄によってセトの﹃竜の加護﹄を剥奪されてしまうかも
しれない。シイカに出来ることはセトに祈ることだけであった。
また、大火球がセトを襲った。
魔力を持たないセトには、耐魔法の服が防げない規模の魔法はと
にかくよけるしかない。めいっぱい跳んでかわし、体勢を立て直す
かどうかというところへ、フェイ・トスカが迫ってくる。
上段から振りおろし、横から薙ぎ払う。セトは剣を巧みに使って
しのぎつつ、なんとか反撃の隙をさぐろうとするものの、フェイ・
トスカはあまり無理をしてこない。数合してもダメージを与えられ
ないと見るや、あっさりと間合いをはなして再び魔法を使用してく
る。
剣しか攻撃手段のないセトからすれば、このほうが厄介だった。
有効打を与えるには自分から近づかなければいけないが、といって
433
闇雲に突っこんだのでは魔法の標的にされるばかりだ。
先ほどから強力な魔法を使い続けるフェイ・トスカは、それでも
一向に疲れた様子を見せない。それどころかむしろ魔力は強まって
すらいるようで、放たれる魔法はどんどん威力を増している。あと
どれだけかわしつづけていられるか、セトは自信がもてなかった。
フェイ・トスカはより強力な魔法を放つために意識を集中してい
る。もちろんセトのことは油断なく見据えており、うかつな動きは
出来ない。だが先ほどからみられるこの短い時間の中で、セトはフ
ェイ・トスカの攻撃を思い返していた。そして、フェイ・トスカの
攻撃にはひとつのパターンがあることに気がついた。
先ほどからフェイ・トスカは、魔力をめいっぱい込めた強力な一
撃を放ったあとで、セトが体勢を立て直す前に突っこんできて剣で
攻撃をする。魔法にしろ剣にしろ、その攻撃パターンは多岐にわた
っていて特定できないが、魔法を放ったあと踏みこんできて剣で攻
撃、というパターンはしばらく変わっていないのだ。
フェイ・トスカが気付いているかはわからない。だが、魔力の集
中が終わったフェイはいまも左手をかざし、新たな魔法を打ち出そ
うとしている。これを勝機にするほかはないとセトは考え、長剣と
一緒に腰に差していた短剣の留め金を密かにはずした。
フェイの頭上には人間ひとりでは抱えられないほどの太さの氷柱
が出現している。フェイが左手を振りおろすと、氷柱はセトに向か
って一直線に、すべるようにしてむかってきた。
セトは先ほどまでと違い氷柱の回避に集中せず、視線の端でフェ
イ・トスカを追い続けた。すると案の定、フェイは氷柱の陰に隠れ
るようにしてこちらへ向かって第一歩を踏み出している。
セトは長剣を左手に持ちかえながら氷柱を横っ跳びにかわした。
しかしかわしきれず、左肩を氷柱が抉っていく。深手ではないが、
抉られたところを中心に凍傷のようになって左腕の自由が奪われる。
セトは左手の長剣を取り落とすことのないよう力を入れながら、空
いた右手で短剣を鞘から抜くと、フェイ・トスカの動きを読み、足
434
もとへ届くように投げた。
はたして短剣は見事フェイ・トスカの足もとをとらえた。フェイ・
・・
トスカは足甲を身につけているから、傷を与えることは出来ない。
だが短剣フェイ・トスカの右足を絶妙にとらえており、フェイ・ト
スカは大きく歩調を乱した。
戦いの中で、フェイ・トスカがセトにはじめて見せた隙。
セトはそれを確認するよりも早く、体勢を立て直して駆けだして
いた。この好機を逃せば、次はない。左肩の痛みも忘れて、フェイ・
トスカに向けて突進する。
思うように動かなくなっている左手から長剣を右手でもぎ取ると、
左手は柄頭にそえて突きの体勢をとった。片手で振ったのではねら
い通りに操れるかあやしいうえ、威力も足りなくなるおそれがある。
﹁おのれっ﹂
フェイ・トスカから先ほどまでの不敵な笑みは消え、憤怒の形相
で右手の剣を水平に薙ぐ。だがセトに対して半身となった姿勢から
では十分な形にならず、セトは冷静に身体を沈めて避けた。
すると今度は左手が向けられる。魔法が来るのだとわかったが、
ここで回避してしまったらまたやりなおしだ。セトは賭けにでた。
歯を食いしばり、魔法を受け止める算段にでたのだ。
フェイ・トスカの左手から、雷の魔法が放たれる。魔法はすでに
直近にいるセトをとらえた。激しい電流がセトの身体を通り、視界
がスパークする。
﹁うわあああああっ!﹂
セトは叫びながらも、懸命に右手を突きだしていた。
手応えを感じる余裕はなかった。
セトの視界は暗くなり、それが目を閉じているからなのか、電撃
に焼かれた故なのかさえわからなかった。
ただ、右手の剣ばかりははなすまいと、神経のすべてをそこに集
中させていた。
435
しばしの沈黙。
やがて身体に少しずつ感覚が戻りはじめ、左肩を中心に焼け付く
ような痛みを全身がセトの脳に訴えだした。
つまりそれは、セトの感覚がまだ正常であること││魔法をしの
ぎきったことを意味していた。
セトは、砕けんばかりに食いしばっていた歯から力を抜き、ずっ
と閉じたままでいると気付いた目を開いた。
目の前に、フェイ・トスカが立っている。
目をむき、歯を食いしばってセトをにらみつけ、右手の剣を振り
かぶり││その姿勢で硬直している。
セトの長剣は、﹃竜の加護﹄によって剣に与えられた魔力と、セ
トの渾身の力をその刀身にのせて、フェイ・トスカの重鎧を突き破
り、その左胸をつらぬいていた。
フェイ・トスカの目玉が動き、自らをつらぬく剣を見た。
﹁ばか、な﹂つぶやきの端に、咳がまじる。
﹁父さん、││ごめん﹂
セトは父を呼び、一瞬迷ってからそう言った。もっと言うべきこ
とがあるような気がしたが、今は思い浮かばなかった。
セトは痛みをこらえ、右手でつかんだ剣を引き抜くと、フェイ・
トスカの胸から血が吹き出した。
フェイ・トスカは右手の剣を取り落とし、血を吐き、ひざを折っ
てついには地に伏したのだった。
セトは涙を流さなかった。
リタルドのときとは違う。セトは剣を構えた時点で、こうなるこ
とを覚悟していた。
殺さずにすめばと、そう思わなかったわけではない。だが、そう
考えれば剣先は鈍る。それで勝てるような相手ではないこともわか
っていた。
436
セトの背中には、今この世界で生きる多くの人々の運命があるの
だ。
セトは敢えて迷いを棄て、殺すつもりで戦った。それではじめて、
フェイ・トスカと同等になるのだから。
セトはうつ伏せに倒れたフェイ・トスカに近づいていく。背後か
らシイカが止まるよう訴えたが、セトは気にせずフェイ・トスカの
そばにかがみこみ、その身体を仰向けにしてやった。床には血だま
りができていた。
フェイ・トスカはまだ息をしていた。だが、その目に力はない。
呼吸は血の泡混じりで、身体を動かすことも出来ないようだった。
﹁父さん﹂もう目が見えていないかもしれないと思い、セトは呼び
かけた。
﹁俺、は・・・﹂フェイ・トスカの口が弱々しく動き、か細い声で
そう言葉を発した。
﹁俺は、勇者・・・を、││して・・・魔、・・・を﹂
フェイの言葉は途切れ途切れで、セトにはなにを言っているのか
把握することができなかった。セトにむけて話しかけるという風で
もなく、本人の意識ももう定かでないのだろう。
セトはフェイ・トスカの手を取った。試練の世界で、まぼろしの
フェイ・トスカと手を合わせたことはあったが、実際にこうするの
ははじめてのことだった。生気を失い、かさついていたが、その手
はやはり、大きかった。
﹁姫・・・約束、は││﹂
それきり、言葉は途切れた。
セトはしばらくフェイの様子を見、やがて開かれたままの目にそ
っと手をあててまぶたをおろしてやった。
勇者として世を救わんとし、使命にとらわれるあまり魔王となっ
たフェイ・トスカは、絶命したのであった。
437
父と子の戦い︵後書き︶
お読みいただきましてありがとうございます。
父と子││魔王の勇者の戦いは決着し、物語はエピローグへ・・・。
と行きたいところですが、まだ少し続きがあります。
よろしくお付き合いくださいませ。
ご意見・ご感想などありましたらぜひお聞かせください。
438
神の決断
七
魔王││ではなく、実は先代の勇者であったグローングは、フェ
イ・トスカによって書き換えられていた結界の解除にかなりの魔力
を使ったことと、新たに発生した祭壇を覆う﹃太陽の宝珠﹄の結界
の中には入れないと言われたことで、今はその結界が見える位置に
座り込み、体力の回復につとめていた。
月がのぼってから半アルン︵約一時間︶ほどは経過しただろうか。
夜の黒の中で、﹃太陽の宝珠﹄の青白い結界の光が幻想的な輝きを
放っている。
結界は遮音の効果もあるらしく、鋭い聴覚を持つグローングの耳
にも祭壇での音は聞こえてこない。中の様子を知ることは出来ない
が、おそらくは戦いになっているだろう、とグローングは予想して
いた。
﹁果たして勝つか負けるか││﹂
その予想は簡単ではない。
だがもしも勇者がフェイ・トスカに敗れるようなら、この身を焼
いてでも結界に飛び込み、自分がフェイ・トスカを倒さなければな
らないだろう。
よくて相打ちだろうが、それでもここまで苦労して土台を作って
きた世界をご破算にされるよりはましというものだった。
そんなことを考えながら青白い結界を眺めていると、唐突に結界
の光が弱まりだした。グローングはこころを引き締めると、注意深
くその様子を観察していたが、結界の光はそのまま消え去ってしま
った。
グローングは闇に混じってしまった祭壇にむけて耳を澄ませたが、
これといった音は聞こえてこない。
439
﹁戦いは終わったのか?﹂
とにかく、結界が消えたのならここで待っている理由はない。グ
ローングは腰を上げた。
セトは立ち上がるとフェイ・トスカの遺体のそばをゆっくりと離
れ、シイカと﹃かみのて﹄のいる場所へと戻ってきた。
戦いが終わったからか、いつの間にか祭壇を包んでいた青白い光
は消え、夜空の月と星の淡い光が祭壇を照らしていた。﹃太陽の宝
珠﹄は力を失ったわけではないのか、黄金色の光を放ち続けている。
﹁見事であった、勇者よ﹂﹃かみのて﹄はなんの感慨も感じさせな
い声で、そう言った。
﹁戦いは勇者の勝利で終わった。そして、﹃太陽の宝珠﹄のちから
はみたされている。さっそく、異世界への扉を開こう﹂
その言葉に、セトは戸惑った。
﹁異世界・・・なぜですか?﹂
﹁戦いのルールについて話しただろう。勝者はこの世界へ残り、敗
者は異世界へと送られるのが決まりだ﹂
﹁待ってください﹂セトは驚いてそう言った。
﹁僕は父さんを止めたかっただけで、異世界へ送ろうなんて思って
いません。だいいち、父さんはもう亡くなりました。このうえ、誰
を送るっていうんです?﹂
﹁││おまえの願いは別の生物となった人間と魔族の融和、か﹂
﹃かみのて﹄はどうやったのか、まだ語っていないセトの思いを
口にした。
﹁神のちからを使えば、それさえ造作ないこと﹂
﹁・・・?﹂
﹁もともと同族であった人間と魔族は、ともに暮らしていくことに
本来なんの問題もない。それを邪魔しているのは思想だ。おまえの
ように姿形のちがいにとらわれないものもいれば、人間は人間、魔
族は魔族とあくまで線引きをするものもいる。だがそういったもの
440
たちも長いときをかければいずれは、自分と違うものがそばにいる
ことを当然のこととして受け入れるだろう﹂
セトは﹃かみのて﹄の言葉にうなずいた。それこそ、セトが感じ
ていたことであった。そして、グローングや、おそらくグレンデル
もそう思っていたのだろう。
だが、﹃かみのて﹄の言葉はそこで終わらなかった。
﹁しかし、なかにはどれだけ時が経とうとも、そうした変化を受け
入れられないものがいる。その代表格がフェイ・トスカだったのだ。
この度の魔王と勇者の戦いは、そうした思想の対決といってもいい
だろう﹂
﹁・・・﹂
﹁異世界へと送るのは、フェイ・トスカと同様の思想をもったもの
たちだ。そのものたちを排除してしまえば、人間と魔族の融和とい
うおまえの願いは、より簡単に達成されるだろう﹂
﹁ちょ、ちょっと待ってください﹂セトはあわてて言った。﹁それ
はだめです!﹂
﹁なぜだ。こうするのがもっとも効率がいいはずだ﹂
﹁考えが合わないから切り捨てるというのでは、これまでと変わり
ません。僕が言っているのは、そういった人も含めて、すべてがこ
の世界で暮らしたいっていうことなんです﹂
﹁よく言った、勇者よ!﹂
セトの言葉にかぶさるように、上空から声が響いた。セトが見上
げると、結界のはれた空からグローングが翼をはばたかせてこちら
へ降りてくるところだった。
グローングはセトのすぐとなりへ舞い降りると、ぐるりと辺りを
見回した。
﹁フェイ・トスカは││どうやら、倒したようだな﹂
﹁はい﹂
グローングの問いに、セトは短く答えた。グローングはその言葉
に万感の想いがこめられていることを感じ取り、小さくうなずいた。
441
﹁おまえは、先代の勇者か﹂
その様子を見ていた﹃かみのて﹄が、身体の向きをゆっくりとグ
ローングへあわせてそう言った。
﹁なんだ、このうさんくさいのは﹂
﹁この方は神の使い、﹃かみのて﹄です﹂
グローングの不遜な態度に、シイカが少しあわてた声を出した。
だが、グローングは気にする様子もない。
﹁ほう、こいつをフェイ・トスカが呼び出したのか。だがご苦労だ
ったな。フェイ・トスカが倒れた以上、おまえの仕事はない﹂
﹁正しき歴史を知らぬ勇者よ、私はおまえを責めはしない。責める
べきは正しき歴史をおまえに教えなかった竜なのだからな﹂
﹁なんだと?﹂
﹁だが、この場はおまえの出る幕ではない。わたしはこれより勇者
セトの願いを聞き入れ、その考えに沿わぬものを異世界へと送るよ
う神に奏上する﹂
﹃かみのて﹄は平板な口調のまま、グローングを冷たくあしらっ
た。そしてあらためてセトの方に向き直る。
﹁勇者セトよ。神の考えに従え。いくらかのものを異世界へと切り
捨てさえすれば、この世界はふたたび平穏になる﹂
﹁でもそれじゃ、異世界へ送られてしまった人たちはまた不満をた
めて、いつかはそこから出てきてしまうのでしょう。そうしたら、
また戦争になってしまいます﹂
﹁前の勇者と魔王の戦いが局地戦とならず、大規模な戦争になって
しまったのは確かに予想外だった﹂﹃かみのて﹄が言った。﹁だが、
それは前の勇者を選んだ竜が、正しい歴史と神の定めたルールを勇
者に教えなかったからだ。魔王と勇者が役割を果たせば、必要以上
の犠牲を出すことはない﹂その後に付け加えた言葉が、セトの神経
を逆撫でした。﹁もっとも、先の戦争は広範囲にひろがった割に、
たいした被害はでなかったのだがな﹂
﹃かみのて﹄が口にした被害という言葉には、建物や自然以外の
442
損害、つまり人命││魔族を含めて││が全く含まれていなかった。
セトは直接戦争を知っているわけではないが、解放戦争によって
多くの血が流れたことは教えられて知っているし、マーチやリタル
ドのように、親兄弟、あるいは身近な人をなくしたという存在は多
く知っていた。
そんな戦争を、﹁被害が少なかった﹂と平然と言われてしまうこ
とに、セトは釈然としない思いを抱いた。
﹁あの戦争で死んだ人はたくさんいます。そんな言い方はしないで
ください﹂
﹁別に種族が滅亡したというわけでもあるまい。騒ぎ立てるな﹂
﹁なっ﹂
あっさりと言ってのけた﹃かみのて﹄に、セトは言葉に詰まった。
その背後でグローングの顔つきが厳しくなり、シイカはそっと目を
伏せる。
﹁神と人では視点が違うのだ。おまえたちは人を個で見るが、神は
数で見る。戦争の後も、人間の数は十分残っているぞ。この一〇〇
〇年あまり争いがなかったことで、むしろ増えすぎていたのがちょ
うどよくなったくらいだ﹂
﹁人が死んだことをよかったなんて││﹂
﹁落ちつけ、勇者﹂
言いつのろうとしたセトを、グローングが制止した。頭に血が上
っているセトに変わって﹃かみのて﹄に抗弁する。
﹁人民を個でなく数で見よ、とは政治家であれば誰もが知っている
言葉だ。だが一方で、数の中の個を意識できなくなった政治家は世
を乱すとも言われるぞ。おまえの言うことには同意できる部分も少
しはあるが、少々上から目線が過ぎるな﹂
﹁・・・﹂
﹁たとえ規模が小さいものでも、戦争は罪のないものを傷つける。
わしはあの﹃解放戦争﹄が最後の戦争となるように、いま改革を進
めておる。この一〇年でようやく地ならしが終わり、これから基盤
443
づくりだ。﹃かみのて﹄とやら、おまえの神に黙ってみていろと伝
えろ。異世界で苦しむものも、戦争で傷つくものもない世界ができ
あがっていく様をな﹂
グローングは自信満々に胸を張った。
﹁戦争をなくすとでも?﹂﹃かみのて﹄の身体が震えた。何かの感
情を表したのだとしたら、嘲ったのだろうか。﹁無理だ﹂
﹁無理なものか。今は力によった支配を続けていくが、段階的に対
話による協調へと転換していく、そのためのプランはすでに出来て
いるぞ。人間の勇者であるそこの少年の協力があれば、魔族と人類
の融和はさらに加速度的に進むことに││﹂
﹁無理なものは、無理だ!﹂それまでシイカに対する時をのぞき、
ずっと感情らしいものを見せなかった﹃かみのて﹄が、はじめて語
気を強くした。﹁神がどれほどの長い年月、おまえたちを観察し続
けてきたと思っているのだ?人は争いを棄てられない。神の管理が
なければ際限なく争い、いつかは神の創りし世界をも破壊する、ど
うしようもない生き物どもだ!﹂
﹁かつてそうだったとしても、わしらは成長しているのだ。代を重
ねながらな。かつて知らなかったことも、今は学び、知っている。
争いの本能があったとしても、知識がそれを抑えるだろう﹂
﹁何かを知れば、何かを忘れるのもまた、おまえたちだ﹂﹃かみの
て﹄の平板な口調は失われ、あきらかに興奮しているのがわかった。
﹁神が定めた戦いのルールも、魔族と人間がかつて同族であったこ
とも、おまえたちは忘れてしまっただろう﹂
グローングは魔族と人間が同族、という言葉に一瞬、目をしばた
かせたものの、すぐに反論に転じた。
﹁忘れたということは、必要がなくなったということだ。神のルー
ルなどなくても、我らは生きてゆける。おまえたちの監視など、も
う必要ないわ﹂
グローングがそう言いはなつと、﹃かみのて﹄はまた身体を震わ
せた。それからこれまで以上にゆっくりと身体の向きを変えると、
444
セトの方を向いて言った。
﹁勇者よ。おまえの考えもこのものと同じか?﹂
セトは﹃かみのて﹄のことをしっかりと見据え、ひとつ大きく息
をついた後、うなずいた。
﹁僕たちは、神さまにまもってもらわなくても、やっていけます。
神様が創ったっていうこの世界も、きれいなままで﹂
﹁竜よ﹂
﹃かみのて﹄は今度は身体の向きを変えずに、シイカのことを呼
んだ。
とが
﹁二代続けて勇者がこのようなことを言うというのは、おまえたち
竜の咎だな﹂
シイカは下げていた首を少し上げて、やや高い位置から﹃かみの
て﹄に答えた。
﹁咎、とおっしゃいますか﹂
﹁咎でなくてなんだというのだ。おまえたち竜が神のご意思をしっ
かりと伝えぬから、このように神を軽んじたことを勇者が言うのだ。
神の力をひとに伝えるべき勇者が!﹂
シイカは目を閉じ、﹃かみのて﹄の暴言をなんとか飲みくだそう
と努力している。
﹁伝言役もまともにできないとはとんだ無能者だな。今度の件が片
づいたら、新たな神の遣いはわたしがじかに選び、教育し直さなけ
れば﹂
﹁お言葉ですが、﹃かみのて﹄よ﹂
シイカはついに我慢が出来なくなり、語気を強めた。
﹁彼らは過去より学び、未来をよりよいものにしようと努力してい
るのです。古いルールで縛るのではなく、我が子の成長をおもって
その手を離してやったらいかがですか!﹂
﹁シイカ・・・﹂溜まった澱を吐き出すような勢いのシイカを、セ
トが驚いたような感心したような目で見上げた。
﹃かみのて﹄はまた震えた。先ほどからどんどん頻繁になってき
445
ている。
﹁我が子だと?このような出来損ないを、神の子とおもえとは!長
命とはいえ所詮は有限の命を持つもの、代を重ねればおろかにもな
るということか﹂
そう言って全身をぶるぶる震わせる。震えがおさまるとまた言葉
を発した。
﹁ああ││なんということだ。神はついに決断を下された!﹂突然
大きく腕を振ってそう叫んだので、セトは驚いた。
﹁決断?﹂
﹁神はおまえたち歪んだ生命がはびこってしまったこの世界を、放
棄することを決定したのだ﹂
﹃かみのて﹄は先ほどまでの様子とは別人のように、腕を振り、
歌でも歌うかのような抑揚のある声でそう言った。
﹁それはいい﹂グローングが揶揄するように笑った。﹁もうわしら
を放っておいてくれ﹂
﹁馬鹿を言うな。失敗作をそのままにしておくほど、神は厚顔でも
無責任でもない。それに、新たな世界を創るのにはまた膨大な魔力
が必要になるのだ﹂
﹃かみのて﹄はするすると移動すると、祭壇の宝珠のそばで止ま
った。
﹁この世界は破壊する。そして世界が内包する魔力を吸い出して、
再び別の世界を創造するのだ﹂
﹁世界を、破壊する?││そんな!﹂セトが叫んだ。
﹁なにを言ってももう遅い。神は決めたことを覆したりはなさらな
いからな﹂
﹃かみのて﹄はその棒のような腕を伸ばした。腕の先が祭壇に鎮
座している﹃太陽の宝珠﹄へとむけられると、﹃太陽の宝珠﹄はそ
の腕の先に吸いつくようにして浮き上がった。
﹁あれを媒体に使うか﹂
そう言った﹃かみのて﹄が﹃太陽の宝珠﹄をもったまま、フェイ・
446
トスカの亡骸のそばへと向かう。
﹃かみのて﹄は仰向けに倒れているフェイ・トスカの傍らに止ま
ると、すでに事切れているフェイの胸元のあたりに、無造作に﹃太
陽の宝珠﹄を押しつけた。
すると、﹃太陽の宝珠﹄の光が強くなった。その光で、フェイが
身につけていた暗闇色の鎧が、まるで紙切れのようにおし破られ砕
け散っていく。
﹁父さん!﹂
詳しい状況は理解できぬままに、セトが駆けだした。﹃かみのて﹄
が具体的になにをしようとしているのかは分からなかったが、父親
の亡骸を冒涜するようなまねは許せなかった。
だが、宝珠の光が結界のようになって、セトをはじきとばす。数
ログ飛んだセトを、グローングが受け止めた。
暗闇色の鎧を砕き、フェイ・トスカの血にまみれた上半身を露わ
にさせた﹃太陽の宝珠﹄は、フェイの肉体を砕きはしなかった。だ
が、﹃かみのて﹄が宝珠を押し込むようにすると、そのままずぶず
ぶとフェイの胸元に呑みこまれていく。
そしてフェイの体内に宝珠が完全に呑みこまれた。
﹁本当に相性がいいな。簡単に入ってしまったぞ﹂
﹃かみのて﹄はそう言いながら、宝珠を押し込んだ腕をフェイの
胸の上からはなさないでいる。
宝珠がはなっていた光はフェイの体内に入ったことで消えた。だ
が、セトがもう一度そちらに向かって駆けだそうとしたそのとき、
今度はフェイ・トスカの全身から先ほどまで宝珠が放っていたのと
同じ光がはなたれはじめた。
それと同時に、フェイ・トスカの身体が浮き上がり、離れた位置
にいるセトたちにも全身が見えるようになった。
光に包まれたフェイ・トスカの遺体は、変質をはじめていた。血
の気を失った白い肌に、まるで別の血を無理矢理流し込みでもした
かのように、見たこともない緑色の肌へと変色していく。
447
右腕がぼこぼこと泡立つように膨れ、およそ人のそれではない太
さになっていく。同じ変化が左腕、左足、右足と││。
﹁父さん!やめろっ、父さんになにをするんだ!﹂
死者への冒涜としか思えない光景に、セトはフェイ・トスカの肉
体の変質を間近で眺めている﹃かみのて﹄へ叫んだ。
なんとか足を動かしてそちらへ近づこうともしているが、フェイ
の肉体からあふれる光は質量を持っているかのようにセトの身体を
押しており、近づくどころかはじきとばされないように踏ん張るこ
とで精一杯だ。
﹃かみのて﹄はセトの叫びに何の反応も示さない。その間にもフ
ェイ・トスカの変質は進んでいる。その様は数千、数万の時をかけ
て行われてきた人間から魔族への変質を、このわずかな時間で圧縮
して実行しているかのようであった。
﹁グ、アア・・・アアアア!﹂
突然、フェイ・トスカが叫び声を上げた。すでに顔も異形の者へ
と変質しかかっているが、かろうじて見てとれる表情は苦悶にゆが
んでいる。
﹁父さんっ!﹂
﹁むう?なんだ、まだ魂が離れていなかったのか﹂
セトの叫びを全く意に介さない﹃かみのて﹄は、まだ生きている
かのように反応しはじめたフェイ・トスカを見上げて、独り言のよ
うにそう言った。
﹁よろこべ、魔王よ。おまえの願いは半分だけかなえてやるぞ。お
まえの望み通り、この歪みきった世界などはなかったことにしてや
ろう。ただし、おまえが願ったような形に作り直しはしない。この
世界よりもより清浄で美しい世界をあらためていちから構築するの
だ。おまえの肉体はそのための力を行使する媒体となる。さあ、早
くでていけ。そこにはわたしが入るのだ!﹂
﹁オ、オ、ア、アアア!﹂
フェイ・トスカは言葉にならない咆哮をあげる。悲しみか怒りか
448
は分からないが、セトにはフェイが﹃かみのて﹄の言葉に抵抗して
いるように感じられた。
﹁父さーん!﹂
相変わらず足は前に踏み出せないので、セトはせめて声を張り上
げる。フェイ・トスカの姿はすでに生前のものとは似ても似つかな
くなっていて、五体は徐々に緑色の繭のようなものに包まれ、その
なかでなおも変質を続けているようだった。
フェイ・トスカはまだしばらくの間そうして口から声を上げてい
たが、ついにはその口も、というより顔全体も緑色の繭に覆われる
と、おとなしくなってしまった。
ついにその全身が繭に包まれると、その身から発せられる光はさ
らに強くなった。
セトは踏ん張りきれなくなり、後ろへとばされそうになったが、
今度はシイカがセトの背中を支えてくれた。ただしシイカもとばさ
れないでいるのが精一杯といったところだ。
﹁ぐうううっ・・・!﹂
セトは両腕を前にだして光の圧力に耐えながらも、父親の肉体が
変質していくのをただ見ていることしかできなかった。
ようやく強烈な光がおさまると、セトたちを押さえつけていた圧
力もなくなった。だが、セトは父親の身体のもとへ駆け寄ることが
できないでいた。
﹃かみのて﹄によって﹃太陽の宝珠﹄を体内に埋め込まれたフェ
イ・トスカの遺体は、その膨大な魔力によって蹂躙され、いまやか
つての精悍な戦士の面影はどこにもなくなってしまっていた。その
様子に、セトの足は動かなくなってしまったのだ。
肥大した肉体は、どことなく手や足の部分を残してはいるものの、
腕や腿といった器官は胴体に飲み込まれてしまっている。その胴の
肉もかつての引き締まった筋肉質のそれではなく、ぶよぶよとたる
みきっている。
449
肌色は腹面が白、背面が緑。肉の質感も含めて、蛙を想起させる。
全体的なシルエットはヒトデを極限まで太らせたら近いだろうか。
飛膜をいっぱいに広げたむささびとも言えるが、むろん愛嬌などは
ない。
かつて顔だった部分には、白い肌に瞳を持たないただ黄色いだけ
の目玉がふたつついており、鼻や口は見えなくなっていた。
﹁ひどいな、これは。魔族にだってここまでのやつはなかなかいな
いぞ﹂
グローングがあきれたような声を出した。彼自身たいそうな異形
っぷりだが、手足や耳、鼻、口など、体の各器官は人間のそれと機
能的には変わらない。違うのは翼があることくらいだ。だが、目の
前の存在は体の基本的な機能からして変質してしまっているように
見えた。
﹁││上出来だ﹂
フェイ・トスカの肉体であった異形のそれが、言葉を発した。
セトは一瞬、フェイ・トスカがよみがえったのかと思ったが、す
ぐにその考えを自分で否定した。あんな身体でよみがえったとして、
上出来などというはずはないだろう。
さらに、光がおさまってから﹃かみのて﹄の姿が見えなくなって
いる。フェイ・トスカの肉体が変質を続けていたときの﹃かみのて﹄
の言葉を思い出し、セトは問うた。
﹁あなたは、﹃かみのて﹄なんですか?﹂
﹁そうだ﹂
異形の目玉がぎょろりと動いたあと、そう返事が返ってきた。
﹁父さんは、どうなったんですか﹂
﹁知らない。魂はもうこの身体には残っていない。追い出したから
な。だが、死者の魂が肉体から離れるのはふつうのことだ﹂
淡々とした説明に、セトは拳を固く握りしめた。
﹁今この身体には﹃太陽の宝珠﹄が溶けこみ、その魔力を自由に引
き出せるようになっている﹂
450
﹃かみのて﹄は新しい身体に馴染もうとしているのか、しきりに
目玉を動かし、手をばたばたとはばたかせていたが、やがて動きを
止める。
﹁これより、この身体を用いて世界を破壊する﹂
そして真っ黒い影の固まりだったときと同じ、平板な口調で宣言
した。
セトは怒りに震えた。こんなことは死者への冒涜だ。わかりあえ
なかったとはいえ、誇りを持って戦い、そして死んだ父を汚す行為
だ。
﹁待ってください!﹂
セトは怪物となった﹃かみのて﹄へ叫んだ。﹃かみのて﹄は黄色
の目玉を細めてセトを見た。
﹁父さんの身体を使って、そんなこと││﹂
しかし、そう言って﹃かみのて﹄の方へ一歩踏み出したそのとき、
何の前触れもなく﹃かみのて﹄の眼前にセトの身体と同じ大きさの
火球が出現し、セトを襲った。
セトは突然の攻撃を全く予期できず、身体がすくんでしまった。
動きを止めてしまったセトを、グローングが横からかっさらうよ
うにして火球の進路から救い出した。
ふつう、魔法を使うときは何らかの予備動作が必要である場合が
多い。威力があるものはなおさらだ。だが、今の魔法は﹃かみのて﹄
によって、筋一本も動かさずに生み出された。
グローングが反応できたのは、﹃かみのて﹄の肉体ではなく魔力
の動きを読んだからである。魔力を持たないセトには、こうした行
動はできない。
﹁うかつだぞ、勇者﹂
﹁・・・﹂
セトは抱きかかえられたまま、父の身体を奪った﹃かみのて﹄を
にらみつけている。
﹁もうおまえたちに用はない﹂
451
﹃かみのて﹄はそれだけ言って、満月の浮かぶ空を見上げた。
すると、いかにも鈍重そうな﹃かみのて﹄の醜くふやけた身体が
浮かび上がった。そのままゆるゆると高度を稼いでいく。翼もなに
も使わず、魔法の力だけで浮いているのだ。
﹁まず肩慣らしに、この祭壇からこわしてやるとしよう﹂
﹃かみのて﹄はそうセトたちに言い残すとすこしばかり速度を上
げ、祭壇から離れていく。
﹁これは・・・まずいぞ﹂
﹁グローング王、セトをこちらへ!﹂
つぶやいたグローングに、シイカが怒鳴った。
グローングはひと跳びでシイカの元にたどりつくと、セトを直接
シイカの背中に下ろした。
﹁ここにいては巻き込まれます。セト、急いで﹂
シイカに急かされながら、セトは鞍にまたがってベルトを締め、
あし
ゴーグルをつけた。それを確認するやいなや、シイカはいったん身
を沈めて翼をはばたかせた後、後ろ肢で力強く蹴りあげて舞い上が
った。
シイカは﹃かみのて﹄へ向かっていくことはせず、祭壇から離れ
ることに専念した。グローングも後に続いてくる。
﹃かみのて﹄はそんなシイカたちを歯牙にもかけなかった。
すでに﹃かみのて﹄の周囲にはいくつもの火球が出現しており、
やがて一斉に落とされる。
轟音が響きわたった。
無数の火球が祭壇を砕き、さらには祭壇のある旧魔王城全体を容
赦なく打ち壊していく。
セトを乗せたシイカとグローングはひとまず安全圏と思われる位
置まで退避した。
﹃かみのて﹄はまったく気にせず火球を落とし続けていたが、旧
魔王城が四分の一ほど壊れたところでその動きを止めた。
だがそれはもちろん、破壊行為をやめたということではない。小
452
さい││といってもひとつひとつが﹃かみのて﹄の身体ほどの大き
さなのだが││火球をいくつも落とすことに飽いたのか、今度は眼
前に出現させたひとつの火球をとことん大きくすることに集中しは
じめたのだ。
火球はあっという間に﹃かみのて﹄の身体の数倍の大きさになり、
なおも膨らんでいく。
﹁シイカ・・・﹂
セトが右手でつかんだシイカのたてがみをひいた。しかし強いも
のではなかった。
止めにいかなければ、とは全員が思っていただろう。
だが、どうやって止めるというのか?
剣でひと突きしたくらいで止まるとは思えなかった。
ただ突っ込んでいったところでなにもできない。かといって逃げ
ることもできない。そんなことをしても意味はないのだ。
火球はついに旧魔王城を包んでしまうほどの大きさになった。火
球の熱が、数百ログは離れたところにいるセトたちのところまで伝
わってくる。
やがて、火球が落とされた。あまりに大きいため、ひどくゆっく
りと落ちていくように見える。
火球の持つ熱量に圧倒された旧魔王城は、金づちで叩かれた焼き
菓子のように、あっけなく崩壊していく。
そこから発せられる音と衝撃をその身に受けながら、勇者たちは
その光景をただ眺めていることしかできなかった。
453
約束
八
死者の魂は、かつての自らの肉体を離れると、通常は空へと浮か
び上がり、やがて天空に吸い込まれて、次に生まれるあらたな魂の
礎となる。そのように言われていた。
ただ中には、たとえばこの世に強い未練があったものなどは、天
空へと吸い込まれずにそのままこの世界に残るものがいるという。
そうなったものは、あらたな生命となることはできず、ただ消滅す
るまで、この世界を漂い続けている。
・・
その魂が天空へとあがることなくそこへ留まっていたのは、強い
未練があったからであろうか。生前の彼を知るものなら、そうに違
いないと言うだろう。自らの望む世界を実現するために、すべてを
犠牲にして邁進した男であった。
だが、魂のみの存在となった彼には、もはやそういった未練など
残されていなかった。まるでどこかに置き忘れてきたかのように、
すっぽりと抜け落ちてしまっていたのである。
魂はあたりを見回した。といっても、目玉があるわけではないか
ら、感覚的な問題である。
周辺は破壊し尽くされていた。つい先ほど、頭上から落ちてきた
空を覆い尽くすほどの巨大な火球が原因だった。
その場所は生身の人間ではとてもいられないほど高温になってい
たが、魂である彼には関係のないことだった。だが、彼はそこに居
たくないと思った。
魂はそこから離れた。
あらためて見回すと、たくさんの光の粒が、あちらこちらに浮か
454
び漂っているのがわかる。
きっとあの光は、自分と同じように行き場をなくしてさまよって
いる魂なのだろう。彼はそう理解した。
・・
まだ自分に肉体があった頃のことを思い出すことはできるが、そ
うして思い浮かぶ光景にはいろがなかった。あのとき自分がなにを
思っていたのか、なにをしたかったのか││そうした感情が、いっ
さい抜け落ちていたのだ。そのせいで、まるで他人の記憶のようだ
った。
このまま、あのたくさんの光と同じように、自分もさまよえる魂
となって漂い続けるのだろう。
魂はそう思ったが、そんな中にひとつだけ、ひとところに留まり
続ける光を見つけた。
その光はとても澄んでいて、まっすぐな輝きを放っていた。その
清廉な輝きに目を奪われるうち、魂はひとつだけ、果たすことので
きなかった約束を思い出した。
そうだ、俺は戻らなければいけなかったんだ。
その場所はきっと、あの美しい光の元だ。魂となった今ならば、
時間も距離も制約にならない。きっとすぐにたどり着けるだろう。
すべきことを思い出した魂は喜びに光を強くし、空を舞うように
してまっすぐな輝きを放ち続ける光の元へと向かった。
セト、シイカ、そしてグローングの三名は、﹃かみのて﹄が破壊
した旧魔王城の惨状を呆然と眺めていた。
本来、火に強い石造りの城ではあるが、﹃かみのて﹄の作り出し
た火球の熱量は、それをものともしなかった。超高温で焼かれた旧
魔王城はところどころマグマのように溶かされながら、もとの形を
想像できないほどぐずぐずに破壊されてしまっている。
455
むくろ
旧魔王城の周辺にわずかばかり広がっていた森林もまずは火球の
圧によってなぎ倒され、えぐられた土の上で骸のようになって燃え
ていた。
﹁竜よ﹂
グローングがやっとの思いで言葉を出した。
﹁止める手だてはないのか﹂
そう言われても、シイカはすぐに答えることができなかった。答
えることができない、それ自体が雄弁な答えになっていることを自
覚しながら。
﹁・・・﹃太陽の宝珠﹄は、神とこの世界を直接つなぐ唯一の媒体、
﹃かみのて﹄はその管理人です。つまり、﹃太陽の宝珠﹄と一体化
しているあの﹃かみのて﹄を倒せば、この世界は神の管理から切り
離されることになります﹂
﹁ほお、意外と分かりやすい突破口だな。だが││﹂
グローングの言葉に、シイカは首を縦に振った。
﹁﹃太陽の宝珠﹄の魔力は膨大です。世界を破壊するという﹃かみ
のて﹄の言葉も、駆け引きではありません。本当にこの世界を残ら
ず破壊できるだけの力を持っているのです﹂
﹁弱点があったりしないのか?﹂
﹁フェイ・トスカの身体を媒体に使っているとはいっても、あれは
もはや生命ではなく、魔力の固まりです。魔力を放出しきってしま
えば消滅しますが・・・﹂
﹁そのころには、世界も破壊し尽くされているというわけか﹂
﹁・・・﹂
シイカはうつむいた。
﹁でも、行かなきゃ﹂
そう言ったのはセトだ。﹁ここで見ていても、なにも変わらない
よ。行けば、何かが変わるかも﹂
﹁そこまで楽観的には考えられんが、行動を起こすべきという意見
には賛成だ﹂と、グローング。﹁せいぜい邪魔をして、相手に無駄
456
な魔力を使わせれば、ひょっとしたら世界を破壊し尽くす前に魔力
が尽きるかもしれん﹂
﹁ですが・・・﹂
シイカはその言葉に否定的な目を向けた。﹃かみのて﹄はもうこ
ちらを敵視しないだろう。そんな必要はないのだ。かりにうまく挑
発してこちらを攻撃するようにしむけたとしても、どれほど浪費さ
せれば﹃太陽の宝珠﹄の魔力が尽きるのか、シイカには想像するこ
ともできなかった。
どう考えても、こちらの体力が尽きる方が早い。
口に出さずとも、その考えはグローングへと伝わったようだ。と
いうよりも、やはりグローングも同じように考えてはいたのだろう。
﹁絶望的でも、やらんよりましだ﹂グローングは言い切った。﹁こ
のまま大地ごと我が人民が貪られていくのをただ見ているなど耐え
られんしな﹂
砂漠地帯であるこのあたりには人間も魔族も住んではいないが、
﹃かみのて﹄がじきに北上してそうした地を攻撃することは自明だ。
グローングが決断できずにいるシイカを置いていこうとするのを
見て、ようやくシイカも決意が固まったようだ。
﹁・・・わかりました。でも││﹂
シイカはせめて、セトを下ろしてやりたかった。威嚇をするのに、
セトが乗っていても意味はないからだ。だが、セトは先手を打った。
﹁僕も行くよ、シイカ。相手の攻撃をよけるのに、目は多い方がい
いでしょ﹂
﹁下が安全とも言えんぞ。竜の翼ならよけられる攻撃でも、人の足
ではそうはいかんからな。流れ弾一発でおわり、ということもあり
うる﹂
グローングにもそう言われてしまうと、シイカはそれ以上言うこ
とはできなくなった。
﹁見て!﹂
セトが指さしたその先で、﹃かみのて﹄がゆっくりと移動を始め
457
ていた。その行く先は││。
﹁やはり、北へ向かうか!﹂
グローングが吐き捨てるように言う。﹃かみのて﹄は人や魔族の
住む北の大陸から破壊するつもりなのだ。
こうなれば、もはや迷う時間も議論する余裕もない。
﹁ほかに手はない。できるだけ奴の近くを飛んで、進路を邪魔し、
魔法で攻撃させろ!そして体力の続く限り、それをよける!奴の魔
力がどれだけあろうが、それが尽きるまでやるのだ、いいな!﹂
グローングが号令し、セトとシイカがうなずいた。
先にグローングが翼をはばたかせ、落下を使って速度をかせぎな
がら﹃かみのて﹄を追う。シイカも同じようにしながら、別方向か
ら﹃かみのて﹄へと迫った。
どれほどの抵抗ができるかはわからない。だが自分たちの背中に
多数の生命がかかっていることを知っている以上、抵抗をしないわ
けにはいかないのだった。
同じ頃││ユーフーリン領でセトたちの帰りを待つマーチは、ユ
ーフーリンの屋敷の一室にいた。
マーチはいすに座り、机に突っ伏して眠っていた。その手にはセ
トが預けていった首飾りが握られている。
つい先ほどまでは、窓から空をのぞいて遠く東にいるセトを案じ
ていたのだが、昨晩はさすがに心配が先に立ってあまり眠れなかっ
たために、簡単な昼食を済ませた今頃になって眠気にあらがえなく
なったのだった。
ただ、このとき彼女が眠っていたことは、世界にとって幸運であ
ったといえる。
眠っていなければ、こんな夢を見ることもなかったのだから。
﹁ここは・・・?﹂
マーチは闇の中にいた。
458
先ほどまでいた室内ではない。座っていたはずのいすも、机も、
なにもない。ただひたすらに暗闇であった。
だが、人間ならば誰でもが抱く闇への恐怖心は感じられなかった。
不思議なことに、やすらぎすら感じられるほどだ。
これは夢なのだろう。マーチはほとんど直感的にそう理解した。
夢にしては現実感があるが、夢であることを理解しながら夢を見
るということもときにはあることだ。
とはいえ、こう暗いだけではいったいなんの夢なのか。そんなこ
とを考えていると、自分の胸のあたりからぽうっと柔らかな光が生
まれた。
目線を落としたマーチは自分の胸が光っているのを見て少しだけ
驚いたが、すぐにその光の正体に見当がついた。
胸元に手を入れて、その光を放つものを取り出す。セトから預け
られた首飾りが、淡い青の光を放っていた。
精緻な竜の細工は崩れてしまっていても、こうして光に包まれた
銀の首飾りは美しい。
マーチがその光景に見とれていると、光が首飾りを離れ、ひとり
でに中空へと舞った。
すると光は唐突に広がって、瞬く間に人の姿をかたどったのであ
る。
マーチはその人物に見覚えがなかった。
美しく長い黒髪をもつその女性は、こちらを見ると、かすかに首
を傾げてやんわりとした微笑みを浮かべる。そして、鈴を転がした
ような声音を発した。
﹁マーチさん、ですね?﹂
﹁え?あ、はい。そうです﹂
思わずこちらの口調も丁寧になってしまう。見た目の年齢はマー
チとそれほど変わらないようにも見えるのだが、その物腰から、こ
ちらもいい加減な対応をしてはいけない気分にさせられたのだ。
﹁私は、シフォニアといいます。セトの母です﹂
459
会釈して膝を落とす、貴族式の挨拶をされてマーチははっとした。
セトが首飾りをマーチに預けるとき、この首飾りには母さんが宿っ
ていると、確かに言っていたのだ。もっとも、竜の試練の詳細を知
らないマーチには、そのときは単に母の形見だという以上の意味に
は思えなかったのだが。
シフォニアは、あらためてマーチに視線を向けると、相好を崩し
た。
﹁あなたが、セトの選んだ女性なのね﹂
﹁うえっ?あの、まあ・・・はい﹂
ずばりと言われて、マーチは赤面した。
シフォニアは、あわてて下を向いたマーチの初々しさを微笑まし
く見つめていたが、それも束の間、すぐに表情を険しくした。
﹁いろんなお話をしたいけれど、残念ながら時間がないの。あなた
に、伝えなければいけないことがあります﹂
マーチも、シフォニアのただ事ではない雰囲気を感じ取って、顔
を引き締めた。
﹁なんでしょうか﹂
﹁その前に・・・驚かないでくださいね﹂
シフォニアがそう言うと、彼女の身体から分かれるように赤い光
が飛び出してきた。シフォニアが青い光であったのと対照的なその
赤い光は、やがて同じように広がって人の形になった。
その姿に、驚かないで、と言われていたものの、マーチは驚かず
にはいられなかった。
﹁フェイ・トスカ!﹂思わず叫んでしまう。
赤い光が形作ったのは、セトが止めに向かったはずのフェイ・ト
スカ本人だったのだ。
フェイ・トスカはなにも言わず、無表情でマーチのことを見つめ
ている。あの高圧的な暗闇色の鎧は身につけておらず、どこか清廉
な印象さえ受けるその立ち姿に、マーチは戸惑った。
﹁彼は、魂となるときによほど強い衝撃受けたのか、記憶のいくつ
460
かを落としてきてしまったようです。彼の魂は傷ついていて、残さ
れた意識も薄れつつあります。あなたに危害を加えたりはしません
から、安心してください﹂シフォニアがそう説明する。﹁彼は昔に
交わした私との約束は覚えていて、こうして私のもとへと帰ってき
てくれました。そして、私に戦いの顛末を教えてくれました││彼
の記憶を知ることによって﹂
﹁顛末・・・って、もう戦いは行われたの!・・・ですか?﹂
ついいつもの口調で叫んでしまって、あわてて語尾を付け加えた。
﹁でも、眠ってしまう前は、やっとお昼を過ぎた頃だったはずで・・
・﹂決戦は満月の夜に行われるものと思っていたマーチは、自分が
そんなにながく眠りこけていたのかと思ったが、シフォニアはその
考えを優しく否定した。
﹁あなたがこの後目覚めても、まだ夕方前です。そうではなくて、
セトが今いる場所はあなたがいる場所よりもだいぶ東側なので、日
が沈むのが早くなるのです。・・・あまり詳しい理屈はわかりませ
んけど﹂
通信や長距離の移動などが一般的でないこの世界では、時差とい
う概念は確立していない。一部の魔法使いが知っている程度だ。
﹁とにかく、戦いはすでに行われ・・・セトはフェイ・トスカを説
得することはできませんでしたが、戦って打ち倒すことには成功し
ました。しかし、神はセトの願い││思想の異なるものを異世界に
閉じこめることをせず、魔族も人間も等しく同じ世界で暮らすとい
う願いを聞き入れませんでした。それどころか、勇者が神のルール
に背く発言をしたことに怒り、この世界を破壊すると宣言したので
す﹂
﹁世界を、破壊・・・?﹂
マーチはシフォニアの言葉を繰り返したが、言葉の意味を実感す
ることができなかった。
シフォニアはマーチが首を傾げるのを見て、眉根をひそめてすこ
しだけ悲しげな表情を浮かべた。
461
﹁実感できないのも、無理はありませんが・・・﹂
どうしたら真実味を持ってもらえるだろうか、とシフォニアが思
案したあげく、とんでもないことを言い出した。
﹁マーチさん、あなたもフェイに触れてみてください﹂
﹁えっ!﹂
マーチは思わず高い声を上げてしまう。
﹁夢の中は、魂の世界と似ています。あなたがフェイに触れれば、
私がそうだったように、あなたにも彼の記憶がわたるかもしれない﹂
そう言って、シフォニアはフェイ・トスカの右手をとってマーチ
に差し出した。
マーチはその右手を凝視したまましばらく動けないでいた。彼女
にとってフェイ・トスカは、セトの父親であるということは知って
はいても、やはりセトを突き殺した張本人で、悪人のイメージが強
すぎたからだ。
だが、マーチがあきらかにためらう様子を見せても、シフォニア
はフェイ・トスカの右手を引っ込めようとはしなかった。マーチが
困った顔でシフォニアを見ても、神妙な顔でうなずきかえすだけで
ある。
マーチはしぶしぶと手を伸ばし、指先でフェイ・トスカの手の甲
にちょんと触れた。
その途端、フェイ・トスカの魂に残された記憶が、奔流となって
マーチの脳裏に流れこんできた。
映像が映し出されるわけではなく、音声が響くわけでもない。ま
さに記憶は記憶のままで送り込まれてきた。
渡されたのは、祭壇で﹃かみのて﹄を呼び出し、セトとふたたび
まみえ、戦って敗れた記憶。そして、魂となったフェイ・トスカが、
もとの肉体から﹃かみのて﹄によって追い出された記憶。
そして、肉体を乗っ取り、異形へと変貌した﹃かみのて﹄によっ
て、天を覆うほどの火球が頭上に落とされる記憶だった。
﹁う、・・・あっ!﹂
462
マーチは、自分の中に自分のものではない記憶が生み出される感
覚に戸惑い、振り払うようにしてフェイ・トスカから手を離した。
﹁今のは││本当のこと・・・なの、ね﹂
色のない記憶は、どこか空虚なものがあった。だが、口で語って
聞かされるよりはよほど鮮明で、説得力のあるものだった。マーチ
は納得するほかなかった。
﹁セトは、まだ無事なの?﹂おそるおそる、そう口に出してみるが、
その問いに答えられるものがこの場にいないのは明らかだった。今
この場にいる三人は、みな同様にあの場所でのフェイ・トスカの記
憶を持っているのだから。
﹁すくなくとも、あの巨大な火球が落ちてくるとき││近くにセト
の姿はなかったようです。無事でいると信じるほかはありません﹂
シフォニアの言葉は、自分に言い聞かせているようでもあった。
﹁私たちは、これからセトの元へと向かいます﹂
﹁これからって・・・セトはずっと遠くにいるのでは?﹂
﹁魂である私たちには、距離や時間は問題になりません﹂
シフォニアはあっさりとそう言った。そもそも、つい先ほどまで
セトと戦っていたフェイ・トスカの魂が今ここにいるのだから、確
かにそうなのだろう。
﹁フェイは力を貸してくれると言っています。セトのために、でき
ることをしにいきます﹂
シフォニアは、小さく笑顔を浮かべていた。はじめて両親として
息子になにかしてやれることが、嬉しくすらあるかのように。
﹁マーチさんはこの夢から醒めたならすぐに、世界が崩壊の危機に
さらされていることをひとりでも多くの人に伝えてください。﹃か
みのて﹄はきっと息子が何とかしますから、それまでは少しでも安
全なところに隠れているようにって﹂
﹁そんなの、どうやって・・・﹂
マーチは戸惑った。ろくな通信手段もないこの世界で、遠くへ意
思を伝えるのは簡単なことではない。まして時間もないのだ。
463
﹁無理なら、あなたの周りの人だけでもかまいません。できるだけ
頑丈な建物に入るなどして、すこしでも犠牲になる生命を減らせる
ように。お願いします﹂
シフォニアは頭を下げた。そのいさぎよい態度を見て、マーチは
これ以上戸惑っている姿を見せるわけにはいかないと、対抗心のよ
うなものを感じて、﹁わかりました、努力します﹂とできるだけ張
りのある声で答えた。
それを聞くと、シフォニアは笑顔になった。﹁ありがとう﹂とい
ってもう一度頭を下げた。
﹁セトは、かならずあなたの元へ帰します。││そのときはあの子
のこと、よろしくお願いしますね﹂
﹁は、はい!﹂
最後の返事は、少しばかりうわずってしまったのだった。
形容しがたい緑と白の怪物と化した﹃かみのて﹄は、進路を変え
ることなく、順調に北上を続けていた。
速度はそれほど速くはない。シイカばかりでなく、グローングも
余裕で追跡が行える程度だ。ただし、もちろんただ飛んでいるだけ
ではなかった。
﹃かみのて﹄がここまで通ってきたところは、ほとんどが半砂漠
化した荒れ地ではあったが、そうした土地の上に、﹃かみのて﹄は
容赦なく魔法の災害を降らせているのだ。
火球の雨を降らせて岩山を削り取り、雷を落として大地に大穴を
あける。使われる魔法も、時間がたつごとにどんどん強力なものに
なっていくようなのだ。
セトを乗せたシイカ・ドラゴンと魔族の王グローングは、﹃かみ
のて﹄の周りをうるさく飛び回り、少しでも﹃かみのて﹄の注意を
自分たちの方へと向けさせようと努力していた。
直接的な攻撃は予想通りほとんど効果を持たなかった。グローン
グがなんどか接近してそのたるんだ皮膚を鉤爪で斬り裂いたが、斬
464
り裂きはできるものの出血もなにもなく、すぐに傷口がふさがれて
しまう。ひょっとしたら傷口をふさぐのに魔力が使われているかも
しれないが、そうだとしても微々たるものだろう。
セトは長剣を鞘に収め、両手でシイカのたてがみをつかんで手綱
のように操っていた。シイカは首を曲げないと見える範囲が限られ
ているので、セトが周囲を警戒して伝えてやる方がより確実な機動
が行えるのだ。
セトとシイカ、そしてグローングは交互に﹃かみのて﹄の正面を
ふさぐ。﹃かみのて﹄はほとんどの場合意に介さず、高度を上げ下
げしてよけていこうとするが、それでもくらいつくと、時折強烈な
魔法をセトたちにむけて放ってくるのだ。
だが、それも﹃かみのて﹄がこれまで大地にむけて放った魔法の
量からすればほんのわずかなものでしかなかった。
そうしているうちにも﹃かみのて﹄は北上を続け、ついには大陸
南の大河、カカリ川が視界に入ってくる。
あの川の周辺はすでに人や魔族の暮らす地域だ。そして、川を越
えてしまえばすぐにいくつかの都市があり、本都グローングももう
そう遠くはない。
﹁あはははは、壊すのは楽しいなぁ!﹂
﹃かみのて﹄が叫んだ。
黄色の目玉を見開いて叫ぶその声色は心底嬉しそうだった。先ほ
どまでの平板な口調とは全く違っている。
﹁美しく作り上げた世界を自らの手でたたき壊す!これほど爽快な
ことはない!おそらくはこれこそが神のご意志!この快感のために
世界は作られたのに違いない!﹂
﹁なにを言うんだ!﹂
それを聞いたセトが叫びかえした。
﹁壊すために作るなんて、そんな神さまがいるもんか!﹂
﹁力のないものにはわからんのだよ﹂
﹃かみのて﹄はそういうと、目元をぐにゃりとゆがめた。ほかに
465
表情を示すパーツがないのでわかりにくいが、おそらく笑ったのだ。
それも、セトたちをさげすむような笑いだった。
﹃かみのて﹄は眼前に迫りつつあるカカリ川へと視線をむけた。
﹁そろそろ魔力を使うことにもなれてきた。次はあの川を氾濫させ
てみよう﹂
﹁やめろ!あそこにはもう、人がいるんだ!﹂
﹁だからどうした。心配しなくとも、世界は等しく破壊してやる。
生き物がいようがいまいが、関係なくな﹂
セトからすれば、﹃かみのて﹄の言動はすでに常軌を逸していた。
その姿に一瞬、祭壇での戦いで強力な魔法を連発していたときのフ
ェイ・トスカの姿が重なって見えた。
強大な力を持つと、みなあのように変わってしまうのだろうか。
そんな思いにとらわれたものの、すぐに現実に引き戻される。
﹃かみのて﹄がセトたちにむけて火球を放ち、シイカが急な機動
でそれをよけたのだった。
﹁セト、気をつけて!﹂
たてがみから伝わるセトの気配が一瞬途絶えたことを案じたシイ
カが声をかける。
﹁ごめん、シイカ・・・﹂
セトはそう口に出しながら、ふいに背後から圧力を感じて振り返
った。
﹁シイカっ!﹂叫びつつ、たてがみを引いて回避を指示する。
一度避けたはずの火球が、弧を描いてシイカの背後から迫ってき
ていたのだ。これまでそうした攻撃は一度もなかったため、シイカ
は攻撃をよけきったつもりになってしまっていた。セトも一瞬とは
いえ思索にとらわれてしまったことで、反応が遅れてしまった。
シイカはそれでもセトの指示に従って右へ身体をひねったが、火
球はなおもその動きを追尾する。ついにはシイカ・ドラゴンの左翼
に命中した。
﹁うわっ﹂
466
セトは衝撃で身体が浮き上がるのを感じたが、鞍にベルトで結び
つけられているためシイカの身体から飛ばされることはなかった。
だがバランスを崩したシイカは身体を安定させようとしない。
見れば、首が下がってしまっており、気を失っているようだった。
飛び散った火球の破片が頭にあたりでもしたのだろうか。
意識を失ったシイカが、高高度から落下する。
セトは、たてがみをめいっぱい引っ張って、何とかシイカを覚醒
させようと試みた。だが、シイカは頭から落ちていくため、セトも
落下の風圧をもろに受ける。その衝撃はすさまじく、セトの意識さ
え奪っていく││。
セト。負けてはいけませんよ。 懐かしい声が聞こえた。
約束したんだってな。 もうひとつ、別の声がした。
一本とったら、おまえにやるって。だから││。 やはり懐かし
い声だった。
大事に使えよ。使ってくださいね。 ふたつの声が、暖かくセト
を包み込んでいく。
意識が戻ると、シイカも目覚めていて、竜の巨体は墜落を免れ、
地面すれすれを飛行していた。
﹁シイカ、大丈夫?﹂
﹁私は平気です。でも││声が聞こえました﹂
シイカは首を巡らせて、セトを見やった。
﹁あなたのことを、よろしく頼むって。その声で、意識が戻ったの
です﹂
467
セトは、笑顔になった。﹁お父さんと、お母さんだよ。僕も聞い
たんだ﹂
﹁セトには、なんて?﹂
シイカに聞かれて、セトは首を傾げた。
﹁おまえにやるから、大事につかえって。でもなんのこと││﹂
﹁セト、剣が!﹂セトの言葉を遮って、シイカが叫んだ。
セトが腰に目をやると、鞘に収めたままの長剣が光を放っている。
セトが剣を抜くと、刀身の長さが変わっていた。よく見れば、柄
のデザインまで変わっており、まったく別物へと変貌していた。
そしてその姿に、セトは見覚えがあった。
﹁これは││破邪の剣だ﹂
父フェイ・トスカが、グローングに戦いを挑んだ際に使った剣。
邪な心を直接打ち砕くといわれる魔剣。試練の世界で、フェイ・
トスカが持っていたものに間違いなかった。
その言葉を聞いたシイカは、しばらくしてはっと声を上げた。
﹁破邪の剣・・・それならば、﹃かみのて﹄に有効かもしれない﹂
﹁どういうこと?﹂
﹁それがまさしく破邪の剣ならば、肉体よりも精神にダメージを与
える魔剣です。魔力とは精神に因っているもの。その剣で攻撃すれ
ば、﹃かみのて﹄の魔力を削り取ることができるかも﹂
﹁本当に?﹂
﹁ただ、どれほどの効力があるかはわからないけれど﹂
﹁それでも、さっきまでよりはぜんぜんいいってことだよね!﹂
セトは空を見上げた。かなり上空なので見えないが、﹃かみのて﹄
はもちろん健在のはずだ。今はシイカがここにいるのでグローング
がひとりで抵抗を続けているはずである。
﹁でも、どうして││?﹂
シイカは首を傾げたが、セトは破邪の剣が与えられた理由が何と
なくわかっていた。
﹁僕、父さんと約束したんだよ﹂
468
フェイ・トスカから一本とったら、破邪の剣を成人の儀式で自分
にくれるという約束。ただし、それは試練の世界での約束で、相手
はまぼろしのフェイ・トスカだった。
試練の世界ではフェイ・トスカから一本とることはできなかった
が、祭壇での戦いで勝利したことで、セトは現実世界において約束
の条件を達成したのだ。
もちろん、試練の世界での約束が現実世界で果たされたことに疑
問を感じることはできたが、セトからすればそんなことは些細なこ
とだ。
父と母が自分に声をかけ、力を貸してくれた。それだけで十分な
のだ。
﹁さあシイカ、行こう!﹃かみのて﹄を止めなくちゃ!﹂
セトにたてがみを引かれ、シイカが再び高度を稼ぎはじめる。
セトは右手で破邪の剣を握り、その柄越しに父と母の思いを感じ
ながら、先ほどまでの絶望感が嘘のように高揚する思いに駆られな
がら、﹃かみのて﹄のいる上空を見据えるのだった。
469
世界にひびく声
九
悠然と浮かび続ける﹃かみのて﹄の周りを、グローングが今はひ
とりで飛びまわっていた。
﹁いい加減に離れろ、先代の勇者。大きい魔法を使うから、少し集
中したいんだ﹂
﹁そう言われて従うはずがなかろうが、ばかものめ!﹂
シイカ・ドラゴンが気を失って下に落ちていくのはグローングも
確認していたが、救出に動くことはしなかった。カカリ川の氾濫を
宣言した﹃かみのて﹄を妨害することをやめるわけにはいかない。
幸いにも、自然に直接干渉するような大きな魔法にはまだ集中す
る時間が必要なようで、有効な攻撃手段はなくとも、グローングが
周囲を飛び回っているだけで効果はあるようだった。
﹁仕方がないな﹂
﹃かみのて﹄は至極面倒くさそうにそう言うと、瞬く間に四つの
火球を生み出した。ひとつひとつの大きさはグローングと同等だ。
﹁おまえも竜と同じように落ちてしまえ﹂
火球がグローングに向かって放たれる。シイカを襲ったものと同
じ、回避しても追尾してくる魔法だ。
グローングは﹃かみのて﹄から距離を離しすぎないように注意し
ながらも、繰り返しおそってくる火球を回避した。うまく軌道をあ
わせて火球同士を衝突させることでまずふたつ破壊し、その間に練
り上げた魔力で生み出した自分の顔ほどの火球を操り、襲いくる火
球の中心に当てて相殺させる。これでみっつ。だが最後の火球がす
ぐ目前に迫ってきて、もうよけることも無力化することもできない。
﹁かああっ!﹂
なんとグローングは気合いを込めて左手で火球をたたき飛ばした。
470
強引に進路を変更させられた火球はそれ以上グローングを追尾する
ことはなく、下方の大地へと落ちていった。
グローングの左手はぶすぶすと黒煙を上げている。軽微とはいえ
ない損傷だが、直撃をくらうよりはましというものだ。
その様子を見た﹃かみのて﹄は、つまらなさそうに目を細めた。
﹁なんだ、落ちなかったのか││ん?﹂
ふいにその頭上に影が差して、﹃かみのて﹄は緩慢な動作で目線
をあげる。
上空から猛スピードで接近してくる物体││シイカとセトであっ
た。
シイカは、いったん﹃かみのて﹄のいる位置よりもさらに高高度
まで浮上し、そこから急降下して﹃かみのて﹄に接近した。
セトはたてがみから手を離し、両手で破邪の剣を構えている。で
きるだけ強力な一撃を与えられるようにと考えた上での行動であっ
た。
﹁セト、﹃かみのて﹄の背後をすり抜けます!﹂
﹁うん!﹂
シイカはいっさい減速せずに、﹃かみのて﹄と背中合わせにすれ
違う。
セトは剣を振るうことはせず、面を打つ位置で固定したまま、剣
を飛ばされないようにめいっぱい踏んばった。
かくして、破邪の剣はねらい通りに﹃かみのて﹄の苔むしたかの
ような緑色の背中を縦に長く切り裂くことに成功する。
﹁どうだ││?﹂
シイカが体勢を立て直す間もセトはその斬り口を注視していた。
斬ってすぐは、グローングが鉤爪で斬り裂いたときと同様、ただ
黒い傷口が開いただけのように見えた。
だが、やがてその傷口から青い光の粒子が放出され始めた。
﹁なにかでてきたよ、シイカ!﹂
セトが叫ぶと、それを確認したシイカの声も少しはしゃいだ。
471
﹁あれが魔力です!この攻撃は有効よ、セト!﹂
﹁・・・?貴様、なにをした?﹂
グローングに傷つけられても何の反応も示さなかった﹃かみのて﹄
が動きを止めた。シイカとセトに向き直ると、これまでにない強い
言葉を口にする。
セトは答えず、再び破邪の剣を両手で構え直す。その動きを合図
に、シイカがまた﹃かみのて﹄に向かった。
先ほどまでとは違って今度は﹃かみのて﹄もその動きを黙認せず、
雷の魔法でシイカをねらう。追尾はしないが、一直線に速度のはや
い攻撃だ。だがシイカもそれは折り込み済みで、左右へ動きながら
雷をかわした。
今度の攻撃は、﹃かみのて﹄の左足首のあたりをとらえた。
その黄色の目玉で傷口を見、そこから魔力が青い光となって漏れ
でていることを確認した﹃かみのて﹄は、絶叫した。
﹁うぉぉぉおおおおお!なんってことを!﹂
目玉をめいっぱい見開き、身体をばたばたと揺らしながらわめき
散らす。
﹁神の力を行使するための尊い魔力がぁ・・・。なんということだ・
・・なんということだ・・・﹂
わめき声は徐々に小さくなっていく。やがて﹃かみのて﹄は身体
を丸めたような姿勢で動かなくなってしまった。
﹁無事だったのか。今の攻撃は何だ?﹂
その隙に、グローングが近くへ寄ってきて声をかけた。
﹁この剣が、﹃かみのて﹄に有効みたいなんです﹂
グローングはセトが示したほのかに光を放つ剣を見ると、むう、
と難しい顔になった。
﹁なんだか見覚えがあるぞ﹂
﹁破邪の剣です。父さんが使っていました﹂
﹁そうだ、そうだ。たしかわしと戦ったときもその剣を使っていた。
・・・だが、あのときわしが握りつぶしたはずだが﹂
472
﹁もともとセトが使っていたただの長剣が、何かの力を受けて変貌
したのです﹂
シイカが説明する。といっても、シイカ自身よくわかってはいな
いので、それ以上詳しいことはわからないのだが。
﹁父さんと母さんが、僕に力をくれたんです﹂セトはそう言って胸
を張った。
﹁ふむ・・・人間は何かにつけ、こういう不可思議なことは全部神
の奇跡だと言う輩がいるが・・・。少なくともこれは違うだろうな﹂
グローングはそう言うとにやりと笑った。世界を破壊しようとし
ている神が、それを止めようとするセトに力を与えるはずもない。
﹁とにかく、そいつで斬りつければあの怪物にもダメージを与えら
れるというわけか﹂
﹁そのようです﹂
﹁なるほどわかった。ならばここからはわしが援護に回るから、お
まえはあいつが消滅するまで攻撃し続けろ﹂
﹁はい!﹂
セトは威勢良くうなずくと、左手でシイカのたてがみを引いて合
図した。
セトとシイカが﹃かみのて﹄への攻撃を再開する。グローングは
少し離れた位置でその動きを見守り、﹃かみのて﹄がそちらを狙う
ようであれば援護ができるように油断なく身構えている。
シイカは﹃かみのて﹄の正面から背面へと抜けると、翻って今度
は頭上から足下へと抜けた。セトがその動きにあわせて剣を振るう
と、﹃かみのて﹄の背中からわき腹にかけて十字の傷が生まれ、そ
こからまた青い光がこぼれ出す。
﹃かみのて﹄は、さきほどから身体を丸めたままの姿で動かなく
なってしまった。セトに斬りつけられるまま、まるで無抵抗のよう
に感じられる。
だが、傷口から魔力の青い光を流し続けているとはいえ、﹃かみ
のて﹄が弱りきっているようには見えない。どうして完全に動きを
473
止めてしまったのか、言いしれない不安がその場の三名によぎった。
﹁シイカ、これってどのくらいのダメージなの?﹂
また背面を傷つけ、そこから魔力が漏れでるのを確認しながら、
セトがたずねた。
﹁一撃で削れる魔力はそこまで多くはないみたい。この調子だと、
かなりの間攻撃を続けなければならないけれど・・・。セト、身体
は大丈夫?﹂
シイカが首を曲げてセトを見やった。セトはつい先ほどフェイ・
トスカとの死闘を戦い抜いたばかりなのだ。疲労ばかりでなく、左
肩には浅くない負傷も負っている。
セトは肩で息をしながらも、気丈に笑って見せた。
﹁大丈夫。やるしかないんだから﹂
﹁そうね・・・﹂
シイカが首を戻しても、﹃かみのて﹄は同じ姿勢のままだ。
観念しているとは思えない。だが、まるで抵抗を見せないのは│
│。
その理由に最初に気がついたのは、グローングだった。
﹁気をつけろ!魔力を集中しているぞ!﹂
声を上げてセトとシイカに警告する。
本来、強い魔力を持つシイカとグローングは魔力の流れと呼ばれ
るものを見ることができる。だが、セトが無作為に﹃かみのて﹄を
傷つけ、魔力を流出させたためにその流れが見えにくくなっていた
のだ。
有効な攻撃手段を見つけたセトたちを無視してまで魔力を集中し
ているのは、セトたちを攻撃するためではないだろう。なにしろ今
の﹃かみのて﹄は、セトたちを丸ごと飲み込むような火球でさえも、
ひと呼吸のうちに作り出せるのだ。
標的はもちろん、眼下の大地である。
﹁セト!できるだけ集中を乱せるように攻撃して!﹂
シイカが怒鳴り、セトの返事を待たずに﹃かみのて﹄へと突撃す
474
る。
セトもまた何も言わずに剣を構えなおし、シイカの動きにあわせ
た。
シイカは﹃かみのて﹄の脇をすり抜けるのではなく、身体を﹃か
みのて﹄にぶつけていったのだ。もちろん、剣を構えたセトごとで
ある。
斬り裂くのではなく、突く形になった。﹃かみのて﹄の腰とおぼ
しき場所をとらえた切っ先は、見た目通りに柔らかい﹃かみのて﹄
の肉に深々と突き刺さり、そこから青い光があふれだす。
だが、﹃かみのて﹄は全く動じなかった。
セトが見上げると、先ほどから閉じられていた﹃かみのて﹄の黄
色の目玉がゆっくりと開き、こちらを見るとぐにゃりとゆがんだ。
﹁ひどいことをする﹂どこか余裕のある口調だった。﹁神に捧げら
れた魔力をこのように浪費させるとは、この罰当たりめ。まあそれ
でも﹃太陽の宝珠﹄に蓄えられた量からすれば微々たるものだがな﹂
﹁・・・﹂セトは﹃かみのて﹄をにらみつけた。
﹁だが、おかげで計画を変更することになってしまった。本当なら
いろんなところに火の玉や雷を落として楽しむつもりだったのに、
おまえたちが騒がしいからさっさと終わらせろとのお達しだ﹂
﹃かみのて﹄は丸めていた背中をぴんと伸ばした。セトの破邪の
剣はまだ腰に刺さったままで、﹃かみのて﹄の動きにあわせて傷口
をさらにえぐったが、お構いなしだ。
﹁さあ、まずはこの力で地上の生き物を一気に減らすぞ!﹂
﹃かみのて﹄は高らかに吠え、両手を天にむけた。
セトは﹃かみのて﹄を注視していたが、それきりまた動かなくな
ってしまった。
だが突然、左肩に焼けるような痛みを覚えてのけぞってしまう。
﹁うわっ!﹂セトは叫び、思わず破邪の剣から手を離しそうになっ
てしまったが、何とか取り落とさずにすんだ。
﹁これは││雨?﹂頭上から雨粒が落ちはじめている。勢いはさほ
475
どでもないが、大粒で、当たったところがぴりぴり。先ほどはこれ
が傷口に当たったのでひどく染みたのだ。
﹁いけない││これは、魔法の雨だわ!﹂
シイカが気づいて叫ぶと、﹃かみのて﹄から距離をとって雨雲か
ら離れた。﹃かみのて﹄の頭上に生まれた雲は今はまだ小さいが、
確実に広く大きくなっていく。
﹁これはやっかいだぞ﹂
グローングが近づいてきて、シイカとセトに何か魔法をかけた。
﹁雨をはじく魔法だ。雨があの勢いなら、わしらは大丈夫だが・・・
﹂
﹁あれは私たちというより、人々を攻撃する魔法でしょう。あの雨
に当たったら、魔法に耐性を持たないものはひとたまりもありませ
ん﹂
﹁おまえが痛がるだけですんだのは、その服のおかげだぞ。あのま
まあたり続けていたらどうなったかわからんがな﹂
そんな会話を交わしているうちにも雨雲は広がり、再びセトたち
の頭上からも雨粒が落ちてくるようになった。だが、グローングの
魔法のせいで身体に当たる前にはじかれていくので、今のところダ
メージはない。
もちろん、雨雲の中心部にいる﹃かみのて﹄は自らの降らす雨に
さらされているが、本人はまるで気にする様子がない。たるんだ腕
をいっぱいに広げ、むしろ雨に当たるのを楽しんでいるかのようだ。
﹁生命を溶かす特別な雨だぞ!神の慈悲に打たれて死ぬがいい!﹂
誰にともなくそんなことをわめいている。
﹁雲が広がるのを止める方法は?﹂セトがグローングにたずねた。
﹁魔法というものは基本的に、術者が止めるか、術者を止めるしか
ない。おまえたちは﹃かみのて﹄を攻撃し続けろ。わしは何とかあ
の雲よりも早く飛んで、民草に建物の中にはいるよう警告する﹂
﹁間に合うの?﹂
﹁せんよりましだ。とにかくわしはいく。おまえたちはなんとして
476
でもあの化け物をとめてみせろ!﹂
グローングはそう言い放つとシイカたちに背を向けて飛び去って
いった。
﹁シイカ││﹂
﹁ほかに有効な手段がない以上、やるしかないわ。幸い、グローン
グがかけていった防御魔法は有効みたいだし、あなたが着ている服
もこの雨が魔法である以上は身を守ってくれるはず。私たちはこの
雨に打たれていても大丈夫。セトは破邪の剣を落とさないようにだ
け注意していて﹂
シイカの声にも焦りが感じられる。破邪の剣による攻撃で削り取
れる魔力は多くなく、雨雲が人里まで広がるまでに﹃かみのて﹄を
止めることは不可能とすら言えた。
だが、口に出したとおり、やるしかないのだ。ほかに﹃かみのて﹄
の魔力を削る手段はなく、自分たちのほかに﹃かみのて﹄を止めう
る人物はいないのだから。
シイカはセトが破邪の剣を両手でしっかりと構えたのを確認する
と、雨雲の中心、﹃かみのて﹄へと再び向かっていった。
その少し前。
セトの両親と邂逅したマーチは、その夢から醒めるやいなや自室
を飛び出し、ユーフーリンがいるはずの執務室へ飛び込んでいた。
本来のユーフーリンの席である中央の大きな机のところには誰も
いない。はじめてマーチたちがこの部屋を訪れたときに案内された
奥の円卓に、一つ目巨人のガンファが座っていた。どういうわけか、
書類仕事をしているようだった。
ガンファはマーチに気がつくと、ゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。
﹁やあ・・・マーチ。どうしたんだい?﹂
﹁あ、えーっと、ユーフーリン・・・さま、は?﹂
﹁わたしはここだよ﹂
ガンファのゆったりとした声にすこし勢いをそがれながらもマー
477
チが聞くと、その答えは背後から返ってきた。
マーチは反射的に振り返ったが、そこに何者の姿もないことはわ
かっていた。魔力を大量に消費したユーフーリンは、当分の間何者
の姿もとることができなくなっているからだ。
だが予想外だったのは、なにもない空間にすこし陽炎がたったよ
うな揺らぎがあることだった。
﹁どうしたのかな、息を切らせて﹂
どうもその揺らいでいるあたりにユーフーリンがいるようであっ
た。
ユーフーリンもマーチが自分を目で追っていることに気がついた
ようで、﹁魔力がだいぶ集まってきているから、魔力がないマーチ
君にも見えるようになってきたかな?これでますますいたずらしに
くくなったなあ﹂と言った。
﹁それで、何事だい?君がわざわざ私をさがすからには、よほどの
ことだろう?﹂
マーチは息を整えると、先ほど夢の中でみた出来事をユーフーリ
ンとガンファに語って聞かせた。
﹁信じられないかもしれないけど・・・﹂
マーチ自身、どこか信じきれないという思いがある。だが、フェ
イ・トスカから直接渡された記憶は夢から醒めた今でもはっきりと
思い出せるのだ。
﹁いや、おそらくマーチ君が会ったのは本当のフェイ・トスカの魂
なのだろうね﹂
そう言ったのはユーフーリンだった。
﹁作り話をする意味はないし、ただの夢だというのなら君が知らな
い情報が入っているということはないだろう﹂
﹁あたしが知らない情報・・・?﹂
﹁人間で時差のことを知っているのは、転移や遠見の魔法を研究し
ているような高位の魔法使いだけだ。それこそ、フェイ・トスカの
ような。魔族にしたって、わたしのような魔法使いのほかでは、高
478
速で且つ長距離を移動できるような一部の特殊な魔族しか知らない
ような知識だよ。魔法に縁のない君が知っていたとは思えないね﹂
﹁││なるほど﹂ちょっとおもしろくなかったが、マーチは納得し
た。
﹁町に、高札を立てますか?﹂
ユーフーリンにガンファが進言した。彼はセトを見送った後、身
体をなくしたユーフーリンに指示を受けて雑務をこなしていたらし
い。働いていた方が気が紛れると考えたのだろう。
﹁そうだな││﹂
ユーフーリンは言葉を切り、考えているようだった。
﹁いや、それでは効果は限定的だ。このプリアンの、しかも都市部
にいて高札を見るものにしか効果がない﹂
﹁でも、それだってやらないよりはいいじゃない!﹂
マーチからすれば、それこそユーフーリンに頼もうと思っていた
ことだった。多くの人に世界の危機を伝え、少しでも頑丈な建物に
避難してもらおうと思っても、自分が町中を叫んで歩くのでは誰も
従ってなどくれないだろう。領主の名前で指示を出してくれた方が
少しでも効果があるように思えたのだ。
﹁もっと有効な方法があるということだよ、マーチ君﹂
﹁有効な方法?﹂
﹁魔法とは万能の力ではないが、目的が確かであるなら往々にして
有効な手段足りうる。もちろん、私のような有能な魔法使いがいて
こそのことではあるがね﹂
﹁まさか、みんなに意志を伝える魔法があるの?﹂マーチは目を丸
くした。﹁魔法ってそんなこともできるのね﹂
﹁みんなかどうかはわからない。だが、私が思いつく限りではもっ
とも多くの人に思いを伝える手段だ﹂
ユーフーリンがそう言うと、マーチは陽炎のように揺れるユーフ
ーリンに向かって﹁じゃあ、早く!お願い!﹂と懇願した。
﹁ふむ。では君には衣装部屋へいってもらおう。ガンファ君、案内
479
してやってくれ﹂
﹁へっ?﹂予想外のことを言われて、マーチの目は点になった。
﹁それなりのことをするにはそれなりの準備が必要なのだ。追って
着付けのできるメイドを行かせるから、先に行って服を選んでいた
まえ。できるだけ清楚で且つ女性らしさがでるように・・・まあど
うせ貴族の服などわからんだろうから、メイドに任せてしまっても
かまわんが﹂
﹁えーっと・・・どういうこと?﹂
﹁物わかりが悪いな。いいから衣装部屋へ行って、メイドの言うと
おりに服を着替えろ。私はその間に魔力を練っておくから﹂
ユーフーリンはそれきり黙ってしまい、仕方なくマーチはガンフ
ァに案内されて衣装部屋とやらにむかったのだった。
それから半アルン︵約一時間︶ほど経って、マーチは執務室へと
戻ってきた。
その際ガンファの腕に手を預けていたのは、そうしたかったから
ではなく、そうしないとどこでバランスを崩して転ぶかわからなか
ったからだ。
﹁ほう、悪くないではないか﹂ユーフーリンがマーチに声をかけた。
魔力を練り上げていたせいか、心なしか陽炎のような揺らぎが強く
なっていたが、マーチはそんなことに気づく余裕もないようであっ
た。
マーチは、ドレスに身を包んでいた。
薄桃色を基調とした豪奢なデザインのドレスである。上半身は下
品にならない程度に身体のラインを見せつつ、肩と胸元が露出して
いる。スカートの部分はゆったりとしていて丈が長く、裾は床を引
きずっている。
気を抜くとこの裾を踏んでしまいそうなのだった。さらに胴には
コルセットをきつく締められており、呼吸をするのも一苦労だ。も
ちろん、マーチはこんな格好をするのは初めてだった。
480
服だけではない。動き安さ重視で短く切りそろえていた髪には付
け髪を足され、それを結い上げられている。なんだかやたらと光を
反射するティアラもつけられているせいで頭がひどく重い。ちょっ
と頭を傾けたらそのまま倒れていきそうに感じてしまう。おかげで
首も動かせず、衣装部屋からここまで歩いてくるだけでマーチはす
でに疲労困憊だった。
﹁なんで・・・こんな格好・・・?﹂こめかみをひくつかせながら
ユーフーリンにたずねる。
﹁世界が破壊されるなんて話を、いきなり聞いて信じる人は多くな
いだろうということくらいは君にもわかるだろう。しかも私がこれ
から使う魔法は、相手が納得するまで説得できるというたぐいのも
のではない。一方的に思考をとばすだけだ。少しでも信憑性を持た
せるために、君には高貴な女性を演じてもらう必要があるのだよ﹂
﹁あたしが・・・だって、魔法を使うのはあなたでしょう?﹂
﹁魔法を使うのは私だが、メッセージを伝えるのは君の仕事だ﹂
﹁わたしが?どうして?﹂
マーチは本気で驚いていた。ただの人間である自分よりも、有力
な魔族であるユーフーリンが伝えた方がよっぽどよく伝わるはずだ。
﹁これは簡単な魔法ではないんだ。私は魔法を完成させることに集
中しなければならない。メッセージを伝える人物は別に必要だ。ガ
ンファ君は口べただし、君の方がまだ見目がいい。覚悟を決めて、
そこのいすに座りたまえ﹂
マーチにはまだすこししりごみする気持ちがあったが、これ以上
議論の余地はなかった。この場にはユーフーリンとガンファ、そし
てマーチしかいないのだ。それに、時間も惜しい。
観念して、一つ大きく息をつく。それからもう一度深呼吸して︵
そうしないとドレスのせいで歩けないのだ︶、部屋の中央にセット
されたいすへと向かった。ユーフーリンが執務中に使う、一番質の
よいいすが机から引っ張り出されて置かれている。マーチはサイズ
がぎりぎりのドレスを破かないように細心の注意を払って腰かけた。
481
﹁よし。でははじめようか。通常、遠く離れた場所へ思考を届ける
には、思考を発信するだけでなく、受信する存在がいなければなら
ない。だがこの魔法はそれを必要としないところが特別だ。その代
わり、対象を選ぶことはできないがな。魔法が届く範囲のものであ
ればすべてのものが君の声を聞くことになる。まさにこんな時にう
ってつけの魔法というわけだ。もちろん、大陸を覆うほど広範囲に
魔法を届かせることができるのは、私の魔力があってこそのことで
││﹂
﹁いいから、早くはじめて﹂マーチはうんざりとして言った。ユー
フーリンの物言いにというよりは、座っていると腹を締め付けるコ
ルセットが余計に食い込んでくるようであることにうんざりしてい
たのだが。
﹁ふむ。時間に余裕があるわけでもないしな。ではマーチ君、目を
閉じてイメージしたまえ。声に出す必要はない。ただしごく簡潔に。
長いメッセージはそれだけ遠くへ届きにくくなる﹂
マーチは言われたとおりに目を閉じた。切迫した状況ができるだ
け伝わるように、フェイ・トスカから渡された記憶を思い浮かべ、
そこにシフォニアの言葉を乗せるイメージを作った。
目を閉じ、想いを集中していると、祈りを捧げているような気が
してくる。自然と、マーチの両手が胸の前で組み合わされた。
﹁では、行くぞ!﹂
気合いのこもったユーフーリンの声が聞こえ、マーチの身体の中
を何かが走り抜けていった。
ユーフーリンの魔法は、マーチの想いを乗せて波のように伝播し
ていった。マーチのいるプリアンの町から始まってユーフーリン領
全体へと広がり、さらに近隣の領へと速やかに広がっていく。
人々は、突然脳裏に入り込んできたドレス姿の女性の訴えに多く
は当惑した。空耳だと片づけてしまうものも当然少なくなかった。
だが、人間よりも魔力に身近な魔族が支配している今では、どの
482
都市にもたいてい何名かは魔力の流れが見えるものがいる。彼らは
マーチの声を聞くと同時に、東南の空から異常な規模の魔力が広が
り始めていることに気づいた。
これはただ事ではない。そう感じた彼らは、ドレスの少女の声に
従い、頑丈な建物へと避難するように周囲に訴えはじめる。彼らが
権力者であったり、あるいは権力に近いものであれば││魔力の強
いものはそうした地位にいることが多い││、その訴えは強制力を
持ち、マーチの声に半信半疑なものもとりあえずは指示に従った。
やがて、東南から広がった雨雲に都市が覆われたとき││建物の
中に入っていたものたちは魔法の雨によって命を奪われることはな
かったが、声に従わなかった何人かのもの、あるいは家畜を小屋に
入れようとして間に合わなかったものなどは瞬く間に命を落とした。
人々はその様を見て、少女の言葉が真実であることを知った。そ
して神が世界を破壊しようとしている事実にあらためて震えた。
人間ならばこんなときは神に祈る。だが今はその神こそがこの命
を奪う雨を降らせているのだ。絶望する人間たちに向かって、ある
魔族が言った。
﹁ならば、俺たちの命を救ってくれたあの少女に祈ればよい﹂
そうだ。そうしよう。皆が口々にそう言い始め、あの薄桃色のド
レスに身を包んだ少女と同じように、両手を胸の前に組み合わせて
目を閉じた。
神が世界の破壊などという行為を思いとどまるよう、どうか少女
よ、伝えてください。どうか、我らの命をお救いください││。
その声には、人間も魔族もなく、雨雲の拡大にともなって、世界
を包む声になっていく。
483
意思を為すもの
十
マーチの声は、雨雲の下で剣を振るい続けるセトとシイカにも届
いた。
﹁今のは・・・マーチ?﹂
もう何度目かわからない突撃のさなかに突如浮かんだその姿と声。
セトとシイカは、﹃かみのて﹄の脇を斬り裂きつつすり抜けると、
動きを止め、顔を見合わせた。
﹁どうしてマーチが?﹂
﹁おそらくユーフーリン様の魔法だと思うけど・・・でも、どうや
ってこっちの状況を知ったのかしら﹂
マーチの訴えは、神が世界を破壊しようとしている、勇者がそれ
を止めるために戦っているから、みんなはできるだけ頑丈な建物の
中に避難するように、というものだった。
﹃かみのて﹄が降らせている魔法の雨は、あくまでも地上の生き
物の生命を奪うことを目的としているようで、自然や建造物を破壊
する力はなかったから、マーチの言っていることはとても有効なの
だ。
もちろん、この声を聞いた人すべてが言うとおりにするというこ
とはないだろうが、それでもこの声によって助かる命もでてくるは
ずだった。
﹁マーチ・・・ありがとう﹂
セトは束の間目を伏せて、想い人に心から感謝した。
﹁それにしても、ずいぶんと着飾っていたわね。まるでお姫様みた
いだった﹂
シイカがすこしくだけた口調でそう言うと、セトは先ほど脳裏に
浮かんだ姿を思い返すようにした。
484
﹁確かにきれいだったけど・・・。僕は普段のマーチの方が好きか
なあ﹂
セトがそんなことをいったので、シイカは苦笑した。
﹁それ、マーチには言っちゃ駄目よ﹂
﹁?﹂
セトが本気でどうして?という顔をしたのでシイカはあきれたが、
それ以上言うのはやめておいた。まだ戦いの途中なのだ。
だが、今のちょっとしたやりとりで、シイカは強ばっていた身体
中の筋肉が少しほぐれたような気分だった。
そしてそれはセトも同様だった。自分の帰りを待ってくれている
はずの彼女の顔を見ることができたことで、積もり積もっていた疲
労が霧散し、剣を握る手に新たな力がこもった。
とそのとき、破邪の剣がかすかに鳴動した。それとともに刀身を
包んでいるほのかな光が、わずかばかり輝きを増したように感じら
れる。
ひょっとして、破邪の剣もマーチの声を聞いたのだろうか。
両親の声とともに変貌を遂げたこの不思議な剣なら、そんなこと
もあるかもしれない。セトはすんなりと納得して、剣を握りなおし
た。
﹃かみのて﹄は雨雲を広げることに集中しているのか、先刻から
また、セトたちを無視している。セトが斬りつければ傷が付き、そ
こから魔力が漏れだすのが確認できるものの、それ以上の変化はな
い。傷はやがて閉じてしまうし、﹃かみのて﹄が疲弊しているよう
にも見えず、本当にシイカの言うとおりこの攻撃が﹃かみのて﹄に
有効であるのか、セトは自信がなくなってきていた。
だが、命を持ったかのようにかすかに震える破邪の剣の、その先
ほどよりいくらか光を強くした刀身で次に﹃かみのて﹄に斬りつけ
たとき、不思議なことが起こった。
﹃かみのて﹄が一瞬その顔を歪ませて、その傷を見やったのであ
る。肉体的な痛みを感じないはずの﹃かみのて﹄が、あたかもそれ
485
を感じたかのように。
﹁││なんだ?﹂
﹃かみのて﹄も戸惑ったような声を上げてセトを見た。その手の
剣の光が強まっているのを見て取ると、目を細めて忌々しげに言っ
た。
﹁そうか、それはそういう剣か﹂
﹁そういう剣?﹂セトが聞き返しても﹃かみのて﹄は応えず、セト
から目線をはずして魔法の雨雲が広がっていく先││北を見やった。
﹁もう人間の住む都市にも広がっているはずだが、思ったより死人
がでないな﹂
セトには届かない声でそうつぶやくと、先ほど付けられた傷を見
た。傷はまだふさがっておらず、青い光の粒がそこから漏れ続けて
いる。
﹁仕方がない。不十分ではあるが、次だ﹂
すると、﹃かみのて﹄は突然、吊し糸が切れたように制御を失っ
て、落下し始めた。少なくとも、セトにはそう見えた。
﹁シイカ!﹂
とにかく、追わなくてはいけない。たてがみを引くまでもなくシ
イカが降下をはじめる。
﹃かみのて﹄は完全に自由落下のまま、赤土と岩の露出した大地
に墜落した。もういくらか先にはカカリ川が見える場所だが、まだ
このあたりに人家はない。
シイカはそれよりも遅れて、﹃かみのて﹄が落ちた場所から少し
距離を離した場所に降り立った。
﹁死んで・・・ないよね﹂
﹁物理的なダメージを受けることはないはず││ひょっとして、空
に浮いているのに使う魔力を節約したのかも﹂
﹁ってことは?﹂
﹁残りの魔力を気にする必要がある、つまり、セトの攻撃が効果を
発揮しはじめているということだわ﹂
486
セトはベルトとゴーグルをはずし、シイカの背中から降りた。地
上ではシイカは機動力を活かしきれない。
﹃かみのて﹄が身を起こした。やはり、見た目にはダメージを負
っているようには見えない。セトが最後に付けた傷も、ほかの傷よ
り緩やかにではあるが、徐々にふさがりつつある。
﹃かみのて﹄はセトを見た。
﹁本来ならばまず地上の生き物を殺し、先にその魔力を回収してか
ら世界を破壊した方がより効率よく多くの魔力を神の元へ送ること
ができるのだが・・・。おまえのせいでそんな時間の余裕はなくな
ってしまったようだ﹂
﹁・・・﹂
﹁これから世界中に地震を起こし、大地を完全に崩壊させる。雨に
濡れずに済んだ生き物どもも、崩れる建物につぶされ、あるいは割
れる大地にのみこまれて全て息絶えるだろう﹂
そういうと、﹃かみのて﹄は右手を振りあげた。まるでその手を
振りおろせば、今言ったことが即座に実現するとでも言うかのよう
に。
セトはそれを見るや駆けだした。そんなこと、絶対にさせるわけ
にはいかないとその一心で。
両手で握った破邪の剣はかすかな鳴動を続けており、その刀身を
包む光は徐々に強くなってきている。今斬りつければ、これまでよ
りももっと大きなダメージを﹃かみのて﹄に与えられるかもしれな
い。
そんな思いとともに、﹃かみのて﹄へと接近したセトは、渾身の
一撃を与えるべく破邪の剣を振りあげ、振りおろした。
だが、破邪の剣を手にしてからこれまで何度となく﹃かみのて﹄
に斬りつけ、そのたびに感じていた肉を斬り裂く感覚はやってこな
かった。
﹃かみのて﹄がさきほどまで振りあげていた右手で破邪の剣を受
け止めていたのだ。
487
﹁いつまでも好きにやらせると思うなよ﹂
﹃かみのて﹄の目が細められた。セトは破邪の剣を﹃かみのて﹄
の右手から引き抜こうとしたが、﹃かみのて﹄は強力に破邪の剣の
刀身をつかんでおり、剣はびくともしない。
セトは油断していたわけではなかったが、これまで﹃かみのて﹄
の動作はずっと緩慢だった。一度も機敏な動きを見せなかったため、
セトは心のどこかで﹃かみのて﹄は素早く動くことはできないのだ
と決めつけてしまっていたのだ。
しかし、今セトの攻撃にあわせて動いた﹃かみのて﹄は驚くほど
素早く、セトはその差に対応することができなかったのだった。
﹁﹃意志を為す剣﹄だったとはな。少々やっかいだから、先に壊し
ておくとしよう﹂
その言葉に、セトは青ざめた。破邪の剣を折られたら、セトには
もう﹃かみのて﹄に抗する手段がない。
﹁セト!﹂
セトが捕まったのを見て、シイカが飛びこんできた。
だが、﹃かみのて﹄はその動きもしっかりとらえていて、一直線
に向かってくるシイカへと魔法を放った。もちろん、破邪の剣は捕
まえたままだ。
何の予備動作もなしに放たれた魔法││﹃かみのて﹄にそれが可
能であることはわかっていたはずだが、セトが捕まったことで動揺
していたのか、シイカはそれをまともにくらってしまった。
風の魔法によって周囲の気流を乱されたシイカは、大きくはじき
とばされて露出した岩に身体を強打した。
﹁うう││﹂すぐ起きあがろうとするが、翼を痛めたらしくふらつ
いている。
﹁シイカ!││くっ、この!﹂首を回してその様子を見たセトはな
んとかして剣を奪い返そうと柄を握る手に力を込めたが、﹃かみの
て﹄は破邪の剣を放さなかった。
﹁勇者よ、無駄な抵抗はするな。ほら、これで終わりだ﹂
488
﹃かみのて﹄が刀身を握る指先に力を込める。セトは破邪の剣を
めいっぱい引っ張ったが、それは﹃かみのて﹄の言うとおり、確か
に無駄な抵抗だった。
頼みの綱の破邪の剣はボキリと鈍い音を立て、セトの目の前であ
っけなく折れてしまったのだった。
﹁││魔法は、うまくいったの?﹂
意識の集中を解いたマーチがたずねたが、ユーフーリンの返事は
聞こえてこなかった。
先ほどまではいすに腰掛けたマーチの正面で、陽炎のように揺れ
ながらその存在を主張していたはずだったが、それも見えなくなっ
ている。
﹁まさか、魔力を使いきって・・・﹂
ついに存在を維持できなくなってしまったのだろうか?
ただでさえシイカの封印を解くのに大量の魔力を消費した直後で
ある。そこへ世界中へ思考をとばすなどという魔法を使ったから、
さしものユーフーリンも保たなかったのではないだろうか。
マーチはそばに立って魔法が放たれる様子を見ていたガンファを
見やったが、彼も首を振った。ガンファもマーチ同様に魔力がない
ので、ユーフーリンがどんな状態なのか確認する術がないのだ。
沈黙が降りる執務室に、小鬼の老執事が入ってきた。ポットとカ
ップを乗せたトレイを持ち、すました顔で二人の前を通り過ぎると、
円卓の上にトレイを置いて、なれた手つきで二人分のカップに紅茶
を注いだ。
﹁どうぞ﹂
まずマーチに、それからガンファにカップを手渡す。
﹁ど、どうも・・・﹂
カップを受け取ったものの、マーチは気まずい心持ちで老執事を
見る。領主が消えてしまったと知ったら、この老執事はなんと言う
だろうか。
489
﹁あの、ユーフーリン様、は・・・﹂
﹁領主は、お休みになられたのでしょう﹂
重い口を開いたマーチの言葉を遮って、老執事がそう言った。
﹁大きな魔法を使われた後は、たいていそうです。数日待てば、ま
たやかましく騒ぎだすものと思われます﹂
老執事の言葉に、根拠があるようには感じられなかった。だが、
むりやりそう信じようとしているにしては、老執事の所作はいつも
通り落ち着いている。
﹁さきほど、あなたの姿と声が私にも聞こえました﹂
老執事はマーチの方へむきなおると、はっきりと目を見てそう言
った。このどこか人間を見下すようなところのある小鬼の老執事が、
こんな風にマーチに語りかけるのははじめてのことだった。
﹁たいそう美しく、また立派な物言いでございました。あなたの顔
を知らないものには、聖女のお告げのように聞こえたでしょうな﹂
﹁聖女って・・・﹂
マーチは照れたが、老執事はいたってまじめな顔で続けた。
﹁このプリアンの町でも多くの住民が自主的に避難をはじめている
ようです。むろん、声に従わないものには役所から派遣した人員が
避難させていますので、ご安心を﹂
﹁そうなんだ・・・﹂
マーチは少しだけ安心して、身体の力を抜いた。手にしたカップ
を口元に近づけ、そっとひとくちすする。温かい紅茶が、マーチの
心の不安をいくらか溶かしてくれるようであった。
とはいえ、すべての不安が解消したわけではない。マーチはいす
から立ち上がると、窓際へと向かった。
この部屋の窓にはガラスがはめ込まれていて、そこから外の様子
をうかがうことができる。ユーフーリンの屋敷は市街地から少し離
れた丘の上にあるので、人々の避難の様子まではさすがに見えない。
セトか戦っている場所からだいぶ北西にあるこの地にはまだ魔法
の雨は降り始めていないが、東の空には暗雲が立ちこめているのが
490
見て取れた。
人々が避難をはじめているということは、魔法は効果を発揮して
いるということだ。それがわかっただけでもよかったが、マーチが
一番に知りたいことを教えることができるものは、ここには誰もい
なかった。
果たして、セトは無事なのだろうか。
東の空を見つめながら、紅茶をまたひとくち含んだそのとき。
突然、足下が揺れだした。
最初は自分が揺れているのかと思ったが、そうではない。
﹁地震││あっ﹂
マーチはバランスを崩し、後方へ倒れそうになる。まだ紅茶が残
っているカップがその手を滑り抜け、床に落ちてその中身を散らす。
だが、マーチは倒れずに済んだ。
いつの間にか自分の背後に来ていたガンファが、マーチの背中を
支えてくれたのだ。
﹁大丈夫?﹂
﹁ありがとう、でも││﹂
ガンファの声に応えつつも、マーチは不安げに視線を動かした。
まだ揺れは続いているのだ。
だが、ガンファの声は落ち着いている。
﹁この屋敷は頑丈だから、大丈夫だよ﹂
大きな手でマーチを支えながら、言葉を続ける。
﹁それに・・・そんなに大きな揺れじゃない﹂
そう言われれば確かに、壁の棚に納められている本が落ちる様子
もなく、揺れは次第に収まりつつあるようだった。小鬼の老執事も
とくにあわてた様子もなく立っている。
どうやら、マーチがバランスを崩したのは揺れの激しさというよ
りも着なれないドレスの影響が大きかったようだった。
やがて揺れが完全に収まると、ガンファはマーチをそっと立たせ
てやり、にっこりと微笑んだ。
491
﹁きっと、セトが何とかしてくれる。・・・信じて、待っていよう﹂
マーチはその笑顔を見て、セトが何度も口にしていたガンファの
優しさをようやく理解していた。
﹁今のは││﹂
地震は﹃かみのて﹄とセトが対峙する場所でも同様に起こってい
た。
セトは﹃かみのて﹄が魔法を発動したのかと覚悟したが、﹁建物
が崩れ、大地が裂ける﹂という﹃かみのて﹄の言葉からすると今の
地震はだいぶ規模の小さいものだった。事実、セトの立っている大
地は裂けてなどいないし、目に見える範囲で岩山が崩れたりした様
子もない。
﹃かみのて﹄の魔法ではなく、自然発生したただの地震だったの
だろうか。
そして戸惑っているのは﹃かみのて﹄も同様だった。
﹁なんだ、それは・・・どういうことだ!﹂
その声は、セトの右手にむけて発せられていた。
その手には破邪の剣が握られている。ただし、つい先ほど﹃かみ
のて﹄によってその刀身は根本から折られていた。
だが、しかし││刀身がまとっていた光は消えておらず、まるで
その光が刃となったかのように、かつての刀身をかたどっていたの
だ。
そればかりか、折られるまでは刀身を覆うかすかな光でしかなか
ったのに、今では直視すればまぶしく感じるほどはっきりとその輝
きを増しているのだった。
セトもまた、不思議な思いで光の刃を見つめていた。
剣の柄を通じて、力が伝わってくる。この力は、どこから送られ
てくるものなのだろうか。
セトは剣を正眼に構えた。光の刃がそれに合わせるようにして輝
きを増す。
492
セトが間合いを詰めると、﹃かみのて﹄はあきらかにそれをいや
がり、火球の魔法をセトに向けて投げつけてくる。
だが、セトがおそれずに光の刃を振るうと、火球はあっけなくは
じきとばされてしまった。
﹁いやあああっ!﹂
裂帛の気合いを込めて剣を一閃させる。﹃かみのて﹄は右手を突
き出したが、光の刃をつかむことはできなかった。光は﹃かみのて﹄
の右手を斬りとばし、そのままの勢いで左の二の腕をとらえ、左腕
も切断した。
﹁ぐぃやあうぅあああああ!﹂
﹃かみのて﹄が叫び声をあげる。物理的な痛みは感じないはずだ
が、それはどう聞いても苦痛の叫び声だった。
セトがまた剣を構える。﹃かみのて﹄は後ずさって逃げようとし
たが、セトがその右足を斬りつけ、斬りとばすとその場にへたりこ
んでしまった。
﹁まて、まて・・・﹂
﹃かみのて﹄がセトに訴える。斬りとばされた右手首、左腕、そ
して右足の傷口からは青い光がとめどなく流れ出していた。
﹁意志を為す剣││そうか﹂
﹃かみのて﹄が破邪の剣の刀身を折る直前につぶやいた言葉を思
い出して、セトは理解した。
﹁この光は、みんなの意志なんだ。世界を壊されたくなんかない、
まだこの世界で生きていたいっていうみんなの想いを、この剣は力
にするんだね﹂
セトの言葉に、﹃かみのて﹄があわてた声で付け加えた。
﹁確かにそうだ。だが、たかが人間がどれほど結束したところで、
そんなに強い力になるはずはない。どうして││﹂
そのとき、また大地が揺れた。先ほどに比べれば揺れは小さく、
またすぐに収まってしまう。
そして地震が収まると、破邪の剣の放つ光はよりいっそう強いも
493
のになった。
﹁人間だけじゃない。きっとこの世界そのものが言っているんだよ。
壊されたくないって。今のは、言葉の代わりなんだ﹂
﹁世界に意思があるというのか?神はそんなことをおっしゃられた
ことはなかった!﹂
﹁神さまがそうしたんでないのなら、自然に生まれたんだね﹂
セトはそう言うと、剣を構えた。
﹁まて、わたしとわたしの中の﹃太陽の宝珠﹄を消してしまったら、
本当にこの世界は神の庇護を得られなくなるのだぞ?そんな状態で、
この世界がどれだけ維持できると思っているのだ!﹂
﹁何年だって、やってみせるさ。僕たちはみんな生きたがってる。
この世界もね。そのことを、こんなにもはっきりと知ることができ
たんだから﹂
そんなやりとりの間にも、﹃かみのて﹄の身体からは魔力が漏れ
だし続けていた。やがてその胸の中心に、ぼんやりと光のかたまり
があるのが見えるようになった。
あそこに﹃太陽の宝珠﹄が埋まっているのだ。
セトはそのことを意識すると同時に、事切れて眠るフェイ・トス
カの胸に﹃太陽の宝珠﹄が押し込まれていく光景を思い出して顔を
しかめた。
﹁その身体は、もともと父さんのものだったんだ。││もう返して
もらうよ﹂
柄を肩口に構え、突きの態勢をとる。
﹁や、やめろ!もう壊さない!世界は壊さないから!﹂
﹃かみのて﹄がわめいた。惨めな命乞いだった。
セトは応えず、光の刃の切っ先を﹃かみのて﹄の胸元に突き入れ
た。
その光景をなにも知らずに見る人がいたならば、美しいと言った
かもしれない。
494
光の刃は世界の意思でもって﹃太陽の宝珠﹄を砕き、それととも
に宝珠に残っていた魔力は統制を失ってあふれだした。
青い光の奔流は赤茶けた大地に花が咲くように広がっていく。
世界をも破壊する膨大な力の種であった魔力は、今はただ美しい
だけの光の粒になって流れ、大地を埋め尽くしていった。
セトは、﹃かみのて﹄を突いた姿勢のまま、放心したように青い
光を眺めていた。
﹃かみのて﹄の黄色く光っていた目玉は輝きを失い、その身体は
やがて、その身から放出されていたはずの魔力の青い光に吸い込ま
れるようにして消えていった。
これできっと、父さんも安らかに眠れるはずだ││母さんと一緒
に。
セトは大きく息を吐いた。
構えを解き、右手に握ったままの剣を見た。まばゆい輝きを放っ
ていた光の刃は消え去り、刀身の折れた柄だけがその手に残されて
いる。
意思を為す剣は、その力を失った。それはつまり、意思は果たさ
れたということだった。
﹁セト││﹂
シイカがゆっくりと歩いて、セトのそばにきた。
﹁終わったよ、シイカ﹂
セトは振り向き、笑顔でシイカに告げる。
﹁うん。でも││これで神とこの世界のつながりはなくなったわ﹂
シイカはすこしばかり不安げな声で応えた。
これから先、この世界は神の導きなしで時を進めていくことにな
る。人間や魔族より神に近い位置にいた竜であるシイカは、それが
簡単なことではないとわかっていた。
人々の間から争いをなくす││それは言葉にするほど簡単なこと
ではないだろう。長い時を経て別種族といえるほどの隔たりができ
た人間と魔族の融和、果たしてそんなことが可能だろうか?
495
ひょっとしたら﹃かみのて﹄が懸念していたとおりに、近い将来
人間と魔族は世界を巻き込む争いを起こし、神の破壊から守ったこ
の世界を、自分たちの手で壊してしまうかもしれないのだ。
﹁そんな顔をしないで、シイカ﹂
セトが言った。
﹁わかってるよ、これからが大変だってこと。でもきっと大丈夫。
時間をかけて、少しずつ変えていくんだ。神さまが作ってくれたこ
の世界を、美しいままで﹂
長い戦いを終えたばかりのセトは疲れた表情ではあったが、その
目の光は力強かった。
﹃かみのて﹄を打ち倒し、世界を救う勇者としてのセトの戦いは
これで終わる。だが、この先は人と魔族の垣根を取り払うという長
く苦しい戦いが待っている。グローングのそうした真意を知る数少
ない人物であるセトはそこから逃げることなどできないだろう。
そして、セト自身逃げ出す気などないのだ。困難に立ち向かえる
強い心、それもまた勇者の資質のひとつ。シイカは当然、そのこと
をよくわかっていた。
﹁さあセト、背中に乗って。まずはグローング王にことの顛末を報
告して、それからユーフーリン領へ帰ろう﹂
シイカがそう言ってセトが自分の背中に乗れるようにかがみこむ
と、セトは笑顔になった。きっと自分たちを待っている人々の顔を
思い浮かべたのだろう。だがすぐに心配顔になった。
﹁でも、シイカ大丈夫?身体の方は・・・﹂
はや
シイカ自身、﹃かみのて﹄の攻撃を受けて負傷している。
﹁ゆっくり飛ぶぶんには平気よ。もう疾く飛ぶ必要はないのだから﹂
﹁││うん、そうだね﹂
同時に空を見上げる。
﹃かみのて﹄の作り出した魔法の効力は失われて、雨は上がり、
雲は晴れた。今は大地を覆う青い光に負けない輝きを放つ星空が、
ふたりの頭上で瞬いている。
496
それはふたりの目に映る限り、どこまでも続いているのだった。
497
時は流れゆく
新暦三〇一三年 五ノ月
南大陸の新フェネリカ公領は、およそ六〇〇年ほど前に成立した
学問の地である。世界情勢が安定し、人民の生活が落ち着いたこと
を期に時の王グローング三世が識字率の向上や過去の歴史の編纂な
どを目的に作らせた。
し
なかでも新フェネリカ公立大学は、学問を極めんとする若者なら
ば誰もが目標とする最高学府である。過去を識り、新たな未来を創
造するために、毎年世界中から人々が集ってくるのだった。
﹁はあぁ・・・。参ったなぁ﹂
青年はそびえ立つ六階建ての建物から出てくるなり、深いため息
をついた。
﹁新フェネリカの公立図書館なら古い文献もたくさんあるっていう
から期待してたのに、あれっぽっちか﹂
青年は建物をかえりみると、南大陸最大の図書館に向かってそう
悪態をついた。短く刈そろえられた黒髪に手をやって、ぼりぼりと
掻いた。
そこへ、建物の外から近づく影があった。大柄なシルエットが青
年の身体を覆い隠す。
﹁よう、アルセン。課題のすすみ具合はどうだ?﹂
﹁ギーエか﹂
アルセンと呼ばれた青年は、声をかけられて巡らせていた首を戻
した。声だけで誰かはわかったが、目を合わせてから相手の名前を
呼ぶ。
目の前に立っていた大男ギーエは、目をばちばちとしばたたかせ
ながらアルセンに近づきその肩を抱いた。今日は暖かな陽気だが、
498
ギーエの肌はひんやりと冷たい。
﹁その様子だと、あまり芳しくはなさそうだな﹂
﹁ああ・・・ひどいもんさ﹂
ギーエが遠慮なしに体重をかけてくるので、アルセンは右足でし
っかりと体重をかけていないとそのまま押し倒されそうになる。
アルセン自身、人間の中ではそこそこがたいの大きいほうだが、
ギーエにはかなわない。そもそもギーエは人間ではない。
彼は四肢の発達した鰐が二足歩行を覚えて服を着たような姿をし
ていた。肌の大部分はうろこに覆われ、体表は緑色である。
ただし、彼の姿形はここ新フェネリカ公立大学の中にあってそれ
ほど特別と言うことはない。ただ、彼が同族の中で初めて公立大学
に進んだ若者であるという点では特別ではあったが。
そして、そのことはアルセンについても言えた。彼もまた大学の
中で特別目立つ存在ではない。ただ、彼の先祖について少し他人と
は違う点があるのだ。
ギーエが言うには、こうやって身体をくっつけ合うのは彼の種族
においては友情の証なのだという。それはそれでいいのだが、ギー
エはいつも体格差というものを考慮に入れてくれない。
﹁せっかく教授に頼み込んで古文書の閲覧許可をもらったのに・・・
って、ちょっとギーエ、重い、離れて!﹂
﹁おっ、悪い悪い﹂
口ではそう言いながら、身体を離したギーエはさして悪びれる様
子もなかった。
﹁俺は同族ばかりの集落にすんでいたから、どうも人間相手は力加
減がわからなくってな﹂
そう言ってげはげはと笑うのだった。
﹁気をつけなよ。誰かの首の骨を折ってからそんなこと言っても遅
いんだから﹂
﹁そうするよ﹂
﹁あっ、アルセンにギーエじゃない!﹂
499
今度は甲高い声が聞こえて、女性がふたりの元に駆け寄ってきた。
﹁やあ、ファナ﹂
アルセンは片手をあげて挨拶したが、ギーエがそれに割り込むよ
うにして大きな身体を広げた。
﹁ファナじゃないか!今日も美しいね。耳のうろこが輝いて見える
よ﹂
﹁ありがとう、ギーエ﹂
アルセン、ギーエと同級生のファナは、遠目には人間と変わらな
いシルエットをしている。美しく伸ばした金髪と整った顔立ちで、
男子生徒の人気も高い。ただし、つんとつり上がった眼は彼女の性
格を反映しており、軽い気持ちで彼女に声をかけたものはみな手ひ
どくあしらわれるのだが。
そして、少し近づいてみればわかることだが、ファナの耳は人間
のそれとは違っていた。
彼女の両耳は魚のひれのような膜状のものになっており、その根
本にはうろこもあるのだ。
ファナの両親は人間である。だが何世代か前に魚類系の他種族の
血が混じっており、それが隔世遺伝として彼女にあらわれたのだっ
た。
彼女のようなケースはそれほど多くないが、人間と他種族の混血
も進みつつある今では、彼女の外見そのものは珍しいものでもない。
ファナは屈託のない笑顔でギーエに礼を言うと、アルセンにはじ
と目を向けた。
﹁アルセンは、なんかないの?﹂
﹁挨拶しただろ、ちゃんと﹂
﹁たまにはギーエみたいにしてみたら?女の子にもてないわよ﹂
アルセンが素っ気なく答えると、ファナは頬を膨らませてそう言
った。三人が集まると、最初はいつもこんなやりとりになる。
フェミニストのギーエは女性にはいつも優しいが、ファナは特に
お気に入りらしく会うたびに外見やら声やら、どこかしら褒めたた
500
えている。
対してアルセンは女性を誉めたりするのは気恥ずかしいのだが、
ファナはそれが気に入らないらしい。
一度ギーエに﹁ファナは本当はアルセンにこそ褒めてもらいたい
んだ﹂と言われたことがあるが、はいそうですか、と急に褒めそや
すのにも抵抗があり、結局はこうなるのだった。
﹁ふたりとも、課題をしにきたの?﹂
ファナはお決まりのやりとりを終えるとけろりとしてそう言った。
﹁ああ・・・﹂
﹁ま、俺はもうほとんど終わってるけどな﹂
﹁え、うそ?いいなー﹂
三人は先月から同じ教室になった。長いつきあいではないが、ど
うやら馬が合うらしく一緒にいる時間が多い。
ファナの言う課題とは、歴史学の教授に出されたものだった。そ
れは、﹁自分の祖先について調べ、ルーツを明らかにすること﹂と
いうものである。
﹁この課題ってさぁ、やっぱりアルセンがいるからなのかな﹂
﹁そうかもな﹂
ファナが思案顔をして言うと、ギーエが同意した。
﹁なんと言っても、伝説の勇者の子孫だからな、アルセンは﹂
﹁もう三〇〇〇年も前の話だよ。いくらなんでも伝説すぎる﹂アル
センは首を振った。
アルセン・トスカの祖先は、公式文書に記されている最後の勇者、
セト・トスカであった。
三〇〇〇年の時を経ても彼の名前は有名である。それは、彼の冒
険と戦いが数え切れないほど多くの歌や物語として世界中で語り継
がれているからであった。
﹁みんな期待してるぜ。おまえが発表の時にどんな﹃伝説﹄を語っ
てくれるのかって﹂
ギーエはそう言うと少し意地悪そうにげふげふと笑った。
501
課題自体は﹁祖先について﹂としか言われていないのでセト・ト
スカについてでなくてもいいのだが、それでは周りが納得してくれ
ないだろう。
また、アルセン自身もセト・トスカが実際にはなにを為した人物
なのか知りたいという思いがあった。民間に広まっているものは荒
唐無稽なものが多く、なにが真実なのかさっぱりわからないのだ。
それで、教授に頼んで図書館に所蔵されている古い文書を調べさ
せてもらったのだった。
﹁それで、なにかおもしろいことはわかったのか?﹂
﹁うーん・・・この南の大陸は勇者セトが最後の戦いを終えた後に、
家族で移住して開拓して住めるようにした、っていうのは本当らし
いよ﹂
﹁あ、それ聞いたことある!元々この辺は砂漠だったけど、勇者が
魔法で土に活力を与えて作物が育つようにしたんだって﹂
﹁残念だけど、それは嘘だろうな。セト・トスカは魔法が使えなか
ったんだ﹂
﹁えー、そうなの?﹂ファナはそう言うと、残念そうに肩を落とし
た。
﹁うん。だから勇者が魔法でどうこうした、っていう物語はどれも
後世の創作っていうことになるね﹂
﹁それなら、どうやって砂漠を開拓したんだ?﹂ギーエが口を挟ん
だ。
﹁さあ・・・そこまでは載っていなかったよ。誰か別の魔法使いを
連れていったとかじゃないかな?﹂
﹁ほかには?﹂ファナが促してくる。
﹁そうだな・・・最後の戦いのとき竜に乗っていたのはどうやら本
当らしい﹂
アルセンがそう言うと、ギーエとファナは一様に驚いて顔を見合
わせた。
﹁え!そうなの?﹂
502
﹁それこそ誰かが適当につくった話だと思ってたぜ﹂
﹁僕もそう思ってたけどね。でも、古文書にもちゃんと書かれてた
よ。﹃勇者は竜を駆りて空を舞い、大地を破壊せんとする悪を砕い
た﹄ってね﹂
アルセンの言葉に、ファナが感心したような声を出した。
﹁竜って、昔は本当にいたんだねえ﹂
﹁今だっていないわけじゃないぞ。高い山の頂上まで登れば、空を
飛んでるのを見られることもあるっていうぜ﹂
ギーエがそう言ったが、ファナは信じられないようだった。
﹁それこそ、作り話じゃないの?﹂
﹁俺の集落の長老の話だぜ!││まあ、長老も自分で見た訳じゃな
いらしいが﹂
﹁やっぱり﹂
﹁やっぱりとはなんだ!﹂
言い争いを始めたふたりを後目に、アルセンは空を見上げた。
当然、空を舞う竜の姿などは目に入らない。ただ晴れ上がった空
が広がっているだけだ。
セト・トスカについて、公式の文書の記録は端的なものだった。
ふたりに話した以外にわかったことは、南の大陸の開拓をすすめな
がら同時に奴隷制度の撤廃に尽力していたこと、妻との間に三男二
女をもうけたことくらいだ。
そして、新暦五二年に五六歳で死去している。
ちなみに、実際に奴隷解放宣言を出したのは彼の孫であった。
一度だけ見せてもらった家系図にいちばん大きな文字でかかれて
いるご先祖様についてわかったのは、その程度のことだった。
しばらく空を見上げていると、やがて言い争いをやめたふたりも
それにならった。
﹁││いい天気だねぇ﹂ファナがぽつりとつぶやく。
誰も答えず、三人でしばらく雲が流れていくのを眺めていた。
やがて同じ姿勢に疲れたアルセンが伸びをして、その時間は終わ
503
った。
﹁なんかいいよね、こういうの。平和で﹂ファナがふたりに笑顔を
向けた。
﹁平和って││﹂いいかけて、アルセンは口をつぐむ。
ファナの出身地方では先年大きな内乱が起こった。今は下火にな
ったが完全に収まったとは言えない。
ファナはその地に、両親とふたりの弟を残してきているのだと言
っていた。
彼女がそのことを気にしていないはずはない。だが、彼女は笑顔
を絶やさないのだ。
﹁やっぱり平和がいいよなぁ﹂ギーエが言い、アルセンの背中をた
たいた。
﹁・・・そうだね﹂アルセンも笑顔でそう答えるのだった。
﹁そうだ、明日もいい天気になりますように、ってマーチさまにお
願いしとこ﹂
ファナがそんなことを言ったので、アルセンは思わず吹き出した。
。
﹁マーチさまって・・・子供じゃあるまいし﹂
﹁なによ、別に子供しかお願いしちゃいけないなんてことないでし
ょ?﹂
﹁マーチさま﹂はほぼ南北大陸全土に広がっている信仰の一種で、
神さまではあるがおまじないに近いものだった。御利益は地方によ
って多少異なるが、転んですりむいた傷が早く治るようにであると
か、そういう﹁ちょっとしたお願い﹂を聞いてくれる神さまだと言
われている。
﹁そういえばさ﹂ファナがふと思い出したようにアルセンに向かっ
ていった。
﹁マーチさまって、勇者のお嫁さんなんだって聞いたことあるよ﹂
﹁そうなのか?﹂ギーエは初めて聞いたらしく、驚いてアルセンの
504
ほうに聞きなおした。
﹁勇者が最後の戦いに挑んだとき、一般民が巻き添えにならないよ
うにお告げを下した女神さまが元になっているから、時代はあって
るけど・・・さすがに出来すぎな話だよね﹂
アルセンはそう答えたが、家系図のセト・トスカの隣の名前は何
だったか、と思い出そうとしてもはっきりとは思い出せなかった。
﹁まあいいから、みんなでお願いしようよ﹂
﹁俺たちもかよ?﹂
﹁みんなで同じお願いをしたほうが、叶えてもらえるんだって!ほ
ら、せーの!明日も晴れますように!﹂
ファナが号令したが、結局のところ口に出したのは彼女だけだっ
た。
﹁もう!何で言わないの?﹂
﹁お祈りってのは心の中でやるもんだろ﹂
﹁やるなんて言ってないしね﹂
ギーエとアルセンの答えにファナが憤慨する。それさえも日常の
光景である。
三人のそばを、からりと心地の良い風が吹き抜けていった。
上空を、一頭の竜が飛んでいた。
地上から見上げたくらいではわからないほど高い場所である。
白銀の身体を持つ竜は、耳を澄ませて彼らの会話を聞いていた。
老練な竜のわざであった。
やがて竜はその場を離れ、自分のねぐらへと帰っていく。
北の大陸の天険に、彼女の住処がある。そこは魔法の結界が敷か
れていて、他者は簡単に入ってこれないようになっているのだ。
岩場の影に丸くなると、眠る準備をする。太陽の位置はまだ高い
が、齢をとるごとに眠っている時間は長くなっていた。
勇者セトが﹃かみのて﹄の暴挙から世界を救い出し、三〇〇〇年
505
の時が経とうとしていた。
その間に、人間は奴隷の立場から解放され、魔族という言葉も失
われた。見た目の大きく違う彼らの隔たりは全く失われたとは言え
ないものの、年が経つごとに溝は小さく、狭くなっている。
だが、この長いときがすべて平穏であったはずはなかった。
人はやはり、争いを捨て去ることは出来ない。その点では﹃かみ
のて﹄は正しかった。ある地域では平和であっても、別の地域では
争っている。大小さまざまな戦争はほぼ時をおかずに発生し、世界
全体規模での戦争が起きかかったこともあった。その火種は完全に
消えたわけではなく、為政者たちが舵取りを誤ればすぐまた燃え上
がるだろう。
しかし、神の支配から抜け出して三〇〇〇年の時が経っても、こ
うして世界は存続している。それは間違いのないことだった。
人間でも魔族でもない竜は、神の遣いであった自分がこれ以上歴
史に関わるべきではないという思いから、こうして人里から離れた
場所に隠遁した。つまりこの三〇〇〇年は、間違いなく人間たちだ
けで紡いできた歴史なのだ。
そしてその歴史は、﹃かみのて﹄が断言したように世界を滅ぼす
ことにはなっていないのだった。
老竜は、先ほど聞いた三人の会話を思い出した。彼女にとって、
懐かしい言葉を含んだ会話だった。
胸が暖かくなる。竜には食物を口にするという意味での食事の必
要はないが、ときおりこうして地上の声を聞くことが、彼女にとっ
ての食事だった。
勇者セトの名前はまだ世界中で語り継がれている。だが、彼が実
際にどんな人物であったのか、そして具体的になにを為したのか、
正しく知っている人はもういない。彼についての多くの伝承は、も
はや空想の物語と大差なくなっている。
そして竜の存在についても、実在を信じている人は少なくなって
いる。大昔の人々の想像から生まれた伝説の生き物だと考えている
506
ものが多くなった。そしてそれが自然なのだ。竜とは本来、地上と
は関わりを持たないで生きる生物である。今では彼女もそうしてい
るが、それでも定期的に地上の人々の声を聞きにいく、それさえも
ほかの竜はしない特別な行動だった。
だがそれも、もうあと何度あるかわからない。竜の寿命といわれ
る三〇〇〇年はもう過ぎ、彼女は自分の身体が日に日に衰えるのを
感じていた。
彼女はあれ以来、ただひとりの勇者を選ぶこともなく、また自分
の使命を受け継ぐ竜を探し出すこともしなかった。自分の命がつい
えたとき、神の定めたルールはまさしく消滅する。
それでも、きっと世界は続いていくだろう。
勇者が地を駆け、竜が空を舞う時代は終わっても、彼らはこれか
らも歴史を紡いでいくはずだ。
そういえば。老竜は心の中で苦笑した。
││マーチさまにお願いって、ほんとうに世界中の人が言うのね。
勇者の戦いを実際に目にしたものは限られているが、あの戦いの
とき脳裏に映った彼女の姿は、あのとき生きていたすべての生物が
目撃した。
その結果、マーチはあのあとある意味では勇者以上に有名な存在
になったのだ。
そして語り継がれるうちに、いつしか彼女の存在は神格化される
ことになった。それが﹁マーチさま﹂である。
神を失った人々は、それでも神に祈ることをやめなかった。それ
どころか、自分たちで新たな神をつくりだしたのだった。
人間とは本当にたくましい生き物だ。
新たな神々のなかには、立派な聖堂にまつられている高尚な神も
いれば、人々の記憶の中だけでありがたがられているものもいる。
﹁マーチさま﹂は後者だった。なんだか彼女らしい、と老竜は思
っている。
507
岩場の陰から首を伸ばすと、太陽はまだ空にあって、彼女の顔を
照らした。だが、北の方には黒い雲が集まっているのが見える。あ
の下は雨が降っているのだろうか。
あの雲が南へ流れていくなら、明日南大陸では雨が降るかもしれ
ない。
天気はめぐるものだ。地方によって頻度に差はあっても、時には
晴れ、ときには曇る。世界は広い。どこかで太陽が顔を出していて
も、どこかでは冷たい雨が大地を濡らしている。
それでも、明日も晴れますように、と願うものはいる。逆に大地
が渇けば、明日こそ雨が降りますように、と願うものもいる。
たとえ神が差配していたとしても、すべての願いを叶えることな
ど出来ないだろう。
人々はいつでも自分たちにとってよりよい明日を願い、それ故に
ときには争う。それはきっと永劫、変わらないものだ。
だが、そうだ。彼らの願いは自分だけのためのものではない。自
分と、自分の周りにいる、彼らの愛すべき人たちのための願いだ。
彼らはそのことを知ることができる。自分とは別の願いをもち争
うものも、また自分だけのためではなく、多くの人のために願って
いることを。
互いに知ることで、食い違う願いの到達点を知り、妥協しあるい
は融通することで争いを収めることも出来るのだ。
そして人はまた願う。明日も晴れますように、と。
だがそれは以前とまったく同じ願いではない。新たに知り得た人
々のいる空も、同じように暖かく晴れますようにと願うのだ。
彼女は思う。それはいつか、世界をひとつに覆う意思になるので
はないかと。
あの日、勇者の剣に世界中の意思が集まったように。
それもまた、ひとときのことかも知れない。だが、それもいいだ
ろう。
508
世界がひとつになるのは一瞬のことでも、その出来事は三〇〇〇
年の時を経てなお、人々の記憶に残るのだから。
だから、彼女も願うのだ。
││明日も晴れますように。
と。
そして老竜は目を閉じ、眠りに就いた。
了
509
時は流れゆく︵後書き︶
お読みいただき、ありがとうございました。
これほどの長編を書いたのははじめてのことなので、読みにくい部
分も多々あったとは思いますが・・・。
少しでも楽しんでいただければと思って書きましたが、いかがでし
たでしょうか。
よろしければ、ぜひご感想をお聞かせください。
510
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n3268s/
勇者は地を駆け、竜は空を舞う
2012年9月6日06時09分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
511