満洲鉄鋼業研究の現状* - 岡山大学学術成果リポジトリ

岡山大学経済学会雑誌 3
0
(
3
)
,
1
9
9
9
,1
6
3
-1
8
2
満洲鉄鋼業研究 の現状*
松
本
俊
郎
1 問題 の所在
(
1
) 本稿 では中国東北鉄鋼業に関わ る歴史研究の到達点を総括す る。対象
となるのは ,1
9
4
0
年代半ばか ら1
9
5
0
年代前半 までの時期である。それは 「
満
洲国」 (
以下では 「」をはずす)の終盤か らソ連軍 の東北進駐 ,二転三転を
くり返 した国共内戦 ,そ して社会主義中国の建国へ と続 く激動の時代であっ
た。鞍山の製鉄所 も戦争の荒波に もまれて昭和製鋼所 ,清洲製鉄鞍山本社 ,
ソ連軍管轄下の鞍山製鋼所 ,国民政府経済部管轄下の鞍山鋼鉄廠 ,同政府資
源委員会管轄下 の鞍山鋼鉄有限公司,中国共産党遼東分局管轄下の鞍山鋼鉄
廠そ して東北行政委員会管轄下の鞍山鋼鉄公司 と,その社名 と運営主体をめ
まぐる しく変 えてきた (
松本 ,1
9
9
8a)0
鞍山の製鉄所が混乱を繰 り返 した上記の数年間は,満洲国が二次にわた っ
て実施 した満洲産業開発五 力年計画 (
1
9
3
7
-1
9
4
1
年 ,1
9
4
2
1
9
4
5
年) と社会主
9
5
3
-1
9
5
7
年) とい
義中国が継続的に取 り魁 んで きた五 力年計画 (
第 1次は1
う二種類 の五 力年計画には さまれた時期であった。二つの五 力年計画が掲げ
た理念 と目標 はまった く異質であった。 しか し,どち らの計画 も鉄鋼業の開
発に最大の重点を置 き,中国東北鉄鋼業を急速に発展 させた とい う点では,
よく似た性格を持 っていた。
二つの計画の もとでの鉄鋼生産は,かな りの部分が同 じ製鉄所に よって担
われた。両計画の主要部分が鉄鉱石や原料炭 といった原料を同 じ資源賦存地
-1
6
3
-
6
6
0
に依存 していたか らである。 しか し,製鉄所の立地場所については,原料入
手先の同一性 とい う問題ばか りでな く,戦前来の鉄鋼生産をめ ぐる有形無形
の蓄積 とい う問題を考慮す る必要がある。なぜなら中国東北鉄鋼業の戦後復
興は,これか ら確認す るように,無か らの再建ではけ っしてあ りえない,き
わめて迅連なものだ ったか らである。
満洲産業開発五 力年計画は,関東軍の指導のもと,満洲国,満鉄 ,昭和製
鋼所な どの官僚 ,技術者か
Sよって立案 された.同計画の第 1次計画は1
9
3
6
年
皮 (
康徳 3年度)にまとめ られ ,翌 1
9
3
7
年度に着手 された。計画の 目標は ,
1
9
41
年に対米英戦に突入す ることを想定 し,それ以前の段階で 日本 ,朝鮮 ,
台湾 ,華北そ して満洲の域内に重化学工業の 自給 自足体制を作 るとい う理念
に基づいて設定 されていた。それは旧 日本帝国が構想 した 「
円ブ ロック」の
アウタルキー化政策の一環であった。東北鉄鋼業に関 しては,銑鉄 と鋼塊の
増産に重点が置かれた。 日本鉄鋼業が持 っていた屑鉄の対米依存や銑鉄の対
英領イン ド依存 とい う戦争遂行上の弱点を克服す るためであった。計画規模
は 日中戦争の勃発 (
1
9
3
7
年 7月)や中国戦線の拡大に ともなって何度か拡大
された。1
9
4
0
年代にはいってか らほ,生産 計 画 は独 ソ戦 の開始 (
1
939年 9
月)やその後 の欧米か らの資材入手難に よって,ほ とん ど毎四半期 ごとに縮
小を繰 り返 した。増産計画の 目標は,結局 ,縮小 されたそれについても未達
9
4
2
年度に始 まった満洲産業開発第 2次五 力年計画は
成のままに終わ った。1
第 1次五 力年計画の積み残 し分を消化す ることに終始 したが,それで も目標
を達成す ることはで きなか った。 しか し,2次 にわ た る満洲五 力年計 画に
9
3
7
年か ら1
9
4
2
-4
3
年 の ピー クにかけ て銑鉄
よって東北鉄鋼業の生産高は ,1
が7
6.
2T
tン (
1
9
3
7
年)か ら1
71.
0
万 トン (
1
9
4
3
年 ,1
9
41
年 度設備能 力 目標値
2
5
3
万 トン)- ,鋼塊が4
5.
1
万 トン (
1
937年) か ら86.
2万 トン (
1
943年 ,
1
9
41
年度同 目標値 2
0
0
万 トン)- ,普通鋼鋼材が2
0.
6
万 トン (
1937年) か ら
4
9.
4
万 トン (
1
9
4
2
年 ,1
9
41
年度 同 目標値 1
5
0
万 トン)へ とそれぞれ大幅に増加
9
7
2,1
1
3ページ ;資源庁長官官房統計課編集 ,1
9
50:8
2
4ぺ一
した (
原朗 ,1
6
4一1
満洲鉄鋼業研究 の現状
6
6
1
ジ)。
一方 ,いわゆる五 力年計画は,抗 日と独立そ して革命を達成 した後で中華
人民共和国が実施 した経済建設計画であ り,資本主義勢力に対抗 して国家の
自立を維持す ることを 目指 した社会主義計画であった。同計画は第 1次五 力
年計画 (
1
9
5
3
5
7
年) とこれに続 く第 2次五 力年計画 (
1
9
5
8
1
9
6
2
年)な らび
に第 3次五 力年計画 (
1
9
6
3
1
9
6
7
年)に よって ,すなわち1
9
6
7
年 までの1
5
年間
に中国経済の社会主義的改造をほぼ完了 し,一応の整 った社会主義工業体系
9
7
1,7
2
7
4
ペ ージ ;江海波 ,
を うち立てるとい う目標を持 っていた (
小島 ,1
1
9
9
4:3
1
ト3
2
7
ペ ージ)。鉄鋼業は この計画の中で経済建設を牽引す る基軸部
門として位置づけ られ ,これを再建 し発展 させ ることは最重要 の追究課題 と
された。鉄鋼業に対 しては中国全土か ら集め られ ,あるいは ソヴィニ ト連邦
か ら提供 された人材 ,資材 ,資金な どが重点的に配分 された。 これに よって
中国鉄鋼業なかでも東北鉄鋼業は飛躍的な発展を遂げたO中国の鉄鋼生産高
紘,第 1次五 力年計画の実施期間で見 ると,銑鉄が2
1
7
万 5千 トン (
1
9
5
3
年)
か ら5
9
4
万 トン (
1
9
5
7
年 ,同年 目標値4
6
7.
4
万 トン)- ,鋼塊が 1
7
7.
4
万 トン
(
1
9
5
3
年)か ら5
3
5
万T
lソ (
1
8
5
7
年 ,同 目標値4
1
2.
6
万 トン)- ,鋼材が1
6
7
万
トン (
1
9
5
3
年)か ら4
4
7.
8
万 トン (
1
9
5
7
年 ,同 目標値 3
0
4.
5
万」
tン)- と急速
に上昇 した。満州産業開発五 力年計画 とは対照的に,計画 目標 を大幅に上回
9
5
9:3
2
3
3
ペ ージ)(
1
)
O
る躍進であった (
大久保泰 ,1
二つの五 力年計画の実行主体は,まった く異なるイデオ ロギーに よって支
えられ ,軍事的には敵対関係にあった。そ してそれぞれの計画が実施 された
二時期の間には,日中戦争 と国共内戦の終盤が もた らした混沌 の極み ともい
(1)鞍山の鉄鋼業は,五 力年計画に対するソ連か らの援助物資 に よってそ の後 も拡張を
9
5
0
年代 ,1
9
6
0
年代 を通 して常に中国最大 の鉄鋼生産基地 として機能 した0
続け ,1
1
9
5
8
年の鞍山の鋼塊生産高4
0
5
万 トンは,中国の給生産高 1
,
1
0
8
万 トンの中で3
6
.
6
%の
9
7
7:
2
3
ページ ; 『
新 中国年鑑 』1
9
6
2
年版 :1
0
9
ペー
割合に達 した (日中経済協会 ,1
ジ)0
-1
6
5
-
6
6
2
うべ き戦乱の数年間があった。東北鉄鋼業の諸施設 も社会的な混乱の中で,
深刻な被害をこうむ った。 しか し,注 目すべ きことに,新中国が第 1次五 力
9
5
3
年 までに,東北鉄鋼業は満洲産業開発五 力年
年計画に本格的に着手 した1
計画が実現 していた戦前期の最高生産力水準をあらかた恢復 していたQ前者
は明らかに後者の土台の上に新たな飛躍を達成 していたのである。
この点を鞍山に即 して今少 し具体的に敷街 してお くと,第 2次大戦末期 と
戦争直後における牧山の鉄鋼業は,歴史研究に とって重要な意味を持 ってい
る。その第 1の理由は,鞍山の製鉄所 が擁 していた生産施設 の大 きさにあ
る。昭和製鋼所そ してその後身である満洲製鉄鞍山本社は,戦前の日本帝国
の勢力圏内で第 2位の生産親榎を誇っていた。それは,もちろん,満洲国の
中にあっては一頭抜 きんでた大 きな存在であったOそ して戦後の中華人民共
和国で鞍山鋼鉄公司は,長い間,断然の首位の地位を保 ってきた。戦争直後
の一時的な中断を除 くと,鞍山の鉄鋼生産は常に巨大であった。
9
4
3
年の生産実績を見 る
今か りに 日本帝国 と満洲国をあわせた領域の中で1
ならば,昭和製鋼所の実績は高炉銑鉄 1
3
0.
8
万 トン,普通鋼鋼塊8
4.
3
万 トン,
6.
5
万 トンで,これは 日本製鉄八幡製鉄所の高炉銑鉄 1
69.
0万 ト
普通鋼鋼材2
2
4.
4
万 トン,同鋼材1
7
4.
4
万 トンにつ ぐ規模であった。当該
ン,普通鋼鋼塊 2
7.
8
% ,鋼塊3
0.
9
%,
地域の中で八幡製鉄所の生産高が占める割合は,銑鉄2
5.
7% といずれの分野においても第 1位であったが,昭和製鋼所の生産
鋼材3
1.
5
%,鋼塊 1
1.
6% ,鋼材5.
4
% ときわめて高か った (
資源庁長官
割合 も銑鉄2
9
5
0
)
0
官房統計課編集 ,1
一方,中華人民共和国の建国4
0
年周年を記念 して編纂 された遼寧省統計局
『
遼寧奮進四十年
1
9
4
9
-1
9
8
9
年』によれば,鞍山鋼鉄公司は4
0
年来 ,銑鉄 ,
鋼塊 ,鋼材の生産において全国の 4分の 1を占め,その納税金額は全国の鉄
鋼企業に よる納税総額の 3分の 1に達 した(2)0
鞍山の製鉄所が巨大な生産親模を誇 った戦前戦後の二つの時期の関係は,
断絶的であると同時に連続的でもあった。1
9
4
0
5
0
年代は この断絶 と連続 の
-1
6
61
満洲鉄鋼業研究の現状 663
関係が併在 した移行期 であ り,そ の後 の時 代 を規 定 した重 要 な時 期 で あ っ
た。鞍 山では 1
9
4
0
年代 に施設 の破壊 が くり返 され ,生産活動 は一 時期 ,完全
に中断 した。 しか し他方 で ,中国東北鉄鋼業 の戦後復興 は ,わず か に 3- 4
年 の うちに達成 された。第 1表 は製鉄 所 の生産 実 績 を示 した もの で あ る0
1
9
5
2
-3年 の鞍 山の生産実績 は銑鉄 8
2.
5
6
万 トン (
1
9
5
2
年 ,1
9
5
3
年1
0
5.
6万 ト
ン,1
9
4
3
年1
3
0.
8
万 トン),鋼塊 7
9.
4
4
万 トン (
1
9
5
2
年 ,1
9
5
3
年8
9.
0万 トン,
1
9
4
3
年8
4.
3
万 トン),鋼材 6
3.
1
5
万 トン (
1
9
5
2
年 ,1
9
5
3
年7
4.
9
万 トン ,1
9
4
3
年
2
6.
5
万 トン) を記録 したo鋼塊 と鋼材 に関 しては早 くも戦前 の最高水準 を回
復 あ るいは凌駕 していた ことにな る。復興 の速度 が比較 的に遅か った銑鉄生
産 の場合 で も,第 8高炉 (
1
9
5
3
年 3月再 開),第 7高炉 (
1
9
5
3
年1
2
月再 開)が
生産 を回復 した 1
9
5
4
年 には年産 1
5
0
万 トン体制 が確立 され ,そ の生 産 高 は戦
前 の最 高水準 を凌駕 した。
『中国年鑑』 は こ うした事態 を さ して 「
49年 か ら52年 (マ マ) まで の 間
に,
鞍 山の各種 生産設備 は満州 国時代 の最高水準 に まで回復 した」 (
中国研究
第 1表
1
9
40年代後 半 ・1
9
50
年 代前 半 の鞍 山鋼鉄公 司
生産実蹄
(
万 トン)
年
銑鉄
鋼塊
1
94
3年
1
3
0.
8
1
0.
2
51
.
6
6
7.
6
8
2.
6
1
0
5.
6
1
5
0.
5
21
3.
6
8
4.
3
9.
3
3
8.
2
6
0.
3
7
9,
4
8
9.
0
9
9.
9
11
5.
2
1
949
1
950
1
951
1
952
1
953
1
954
1
955
資料
鋼材
2
6.
5
8.
0
3
2.
2
4
7.
6
6
3.
1
7
4.
9
8
4.
8
9
7.
6
.
1
94
3
年 の昭和製 鋼所 の実寮 は資 源庁長 官 官 房統 計 課編集 (1950), 1949- 95
5
年 の実 若
は鞍 鋼史志 編 纂委 員会編 (
1991:3
1
1,325,37
4
-375
ページ).
1
(2) 「
四十年来,畷銅生産的鉄,鍋,鋼材占全国的四分之一,実現利税占全国鋼鉄企業的
三分之-,均在全国同行業中居首位」(
遼寧省統計局編,1
9
8
9:1
3
1
ページ)
。納税面での
貢献率が生産面に比べて高かった事実は,鞍山鋼鉄公司が40年という歳月の うちに生
産技術が立ち後れてしまった背景を暗示している。
-1
6
7-
6
6
4
所編 ,1
9
5
5
年版 :2
5
7
ページ)と総括 し,日本外務省は 「
国民経済回復期にお
1
9
5
2
年 の各種鉄 鋼生産 品 の生産
け る鉄鋼工業回復 の速度は頗 る速 く,--・
は,既に全部 (
ママ)歴史上最高を超過 している」 と,迅速な復 旧に驚 きを
示 した (
外務省経済局東西通商課 ,1
9
5
9:1
5
-1
6
ぺ-㌔)0
社会主義中国が ソヴィニ ト連邦か らの援助を受けなが ら第 1次五 力年計画
を開始 したのは ,1
9
5
3
年であった。そ して中国では,しば しば第 1次五 力年
計画が実行 された1
9
5
3
1
9
5
7
年 の五年間を 「
一五時期」と称 し,これに先立つ
1
9
4
9
5
2
年の三年間を 「
3年恢復時期」と呼んで,各 々の時期に達成 された経
済発展を区別 している。鞍 山では全国の動 きに 1年先駆けて1
9
5
2
年か ら①大
型圧延工場 (
1
9
5
3
年11
月稼働),② シーム レス鋼管工場 (
1
9
5
3
年1
0
月稼働),
③ 7号高炉 (
1
9
5
3
年1
2
月稼働) の三大 プロジェク トが,第 1次五 力年計画の
一環 として始 まった。 しか し,これ らの施設が実際に生産活動を開始 したの
は,いずれ も翌 1
9
5
3
年の終盤以降の ことだ った。 ソヴィェ トか らの援助が本
格化す る以前の
「
3
年恢復時期」の段階で,鞍山の鉄鋼業はかな りの立ち直
りを見せていた ことになる。すなわち1
9
5
2
年 までの中国鉄鋼業の急速な復興
紘,基本的には,ソ連軍に よる撤去を免れた中華民国 ・満洲国時代か らの残
存設備 の再建に よって実現 されていたので あ る (日中経 済協会 ,1
97
7:2
ページ)。 こうした事態をふまえると,数 々の歴史資料に記録 され た深刻 な
戦争被害の内容が問題 にな って くる。 しか し,徹底的な破壊 と急速な復興 と
い う一見矛盾す るような事態に焦点をあてた歴史研究は,これまで追究 され
てこなか った。
製鉄所の運営は資材や機器 ,原料 といった物的条件ばか りでな く,設計 ,
建設 ,操業に関わ る専門知識や経験に 羊っても支え られなければな らないo
実際 ,戦後の鞍山では工場を再建す るために必要な人的資源すなわち技術知
識や労働力が ,体制 の違いを越 えて,施設等の物的条件以上に 「
効率的」 に
継東 された。 しか し,この間題に対 しても研究者の関心は稀薄だ った。
9
4
0
5
0
年代 の鞍 山情勢 が極東
鞍山研究の重要性に関わ る第 2の理 由は ,1
-1
6
8-
満洲鉄鋼業研究の現状
6
6
5
情勢の縮図であった ことに よっている。鞍 山では 日本人社会 ,国共両勢力そ
して ソ連軍 までもが,情勢の激 しい展開に振 り回された。現地にいた多 くの
当事者に とって,当該時期は先を見通す こ とが で きない混沌 の時代 で あ っ
た。鞍山の支配勢力は確認で きただけで1
9
4
5
年 8月以降に 8度 も交替 し,占
領者たちの製鉄所政策は修正 ,とん挫 ,再開を くり返 した。国共両勢力 とソ
連軍 の間の関係 も複雑 であった。 しか し,不安定で 「
意外」に も思われた各
勢力の製鉄所政策は,それぞれにそれ な りの根拠 と思惑 を背景 に持 ってい
た。
巨大な製鉄施設が存在 していたために,鞍山は関東軍 ,米軍 ,ソ連軍 ,国
府軍 ,八路軍の戦争指導者に とって常に戦略上の要地 とな り,日本の敗戦 と
満洲国の倒壊が確定 した後 には ソ連軍 ,国府軍 ,八路軍の間で製鉄所をめ ぐ
る争奪戦が展開 された。各勢力はいずれ も鞍 山の製鉄所を 自己の管轄下にお
さめ ようと努め,それがかなわぬ場合 には施設 を敵対勢 力 の手 に渡す まい
と,いわば次善の策 として ,何度 もその破壊を試みた。鞍山の製鉄所 では,
形勢の逆転が反復 された国共 内戦 とそれに対応 して変化を続けた ソ連軍の対
中政策 ,極東政策に即応 して,再建 と破壊が繰 り返 された。三つの軍事勢力
の間での鞍山をめ・
ぐる争奪 と 「
提携」 は,戦後 の極東情勢を直裁 に反映 して
いた。
(
2
) 満洲国の崩壊か ら新 中国の成立- と移行 した この時代 の東北鉄鋼業を
分析す るにあた っては,二つの課題が重要になる。第 1の課題は,満洲国期
に急速に増設 された鞍山の鉄鋼業が どの ような水準に到達 し,どの ような特
徴を持 っていたかを明らかにす ることである。第 2の基本課題は,満洲国期
の東北鉄鋼業が戦後 の社会主義中国-継承 ・非継東 された過程を具体的に探
ることである。
二つの課題 のいずれについて も,資料 の発掘 に多大な労力を投 じ,周到な
分析を行 った先行研究がある。 しか し,実証事実 と基本的な問題意識におい
-169一
6
6
6
て,松本 (
9
5a,
b,C ,d,e,9
6,9
7a,9
8a,b),Ma
t
s
u
mo
t
o(
1
9
91,
9
6,9
7,9
8
)は,独 自の提起を行 ってきた (松本 「
東北鉄鋼業研究 の新地
平」,『
岡山大学経済学会雑誌』第3
0
巻第 4号)0
9
4
0
年代前半におけ
第 1の課題に関わ って新たに振起 された実証事実は ,1
る製鉄所の生産活動に関 してのものであった。満洲国期の鉄鋼関連産業につ
いては,比較的に多 くの先行業虞がある。鉄鋼業の開発は満洲国の産業政策
の中でもっとも重要な課題であ り,研究者の関心 もおのず とこれに集まった
か らである。実際,鉄鋼業 (
鉄鉱業) と石炭業は満洲産業開発五 力年計画に
9
9
7
)
。この結果 ,当該産業はもっと
おける最大の投資分野であった (
安富 ,1
も顕著な増産を実現 して,円ブロック全体の中でも重要な位置を占める巨大
9
4
0
年代の満洲国の終盤に ど
な産業 となった。 しか し,東北鉄鋼業の開発が1
れほどの生産規模を実現 し,またそれによって中国東北経済の中に どの よう
な変化が生まれていたかについては,実証的な研究成果が乏 しかった。 これ
9
3
0
年代までに限定 してお り,言及がなされ
までの研究は多 くが対象時期を1
た場合にもその内容はおおむね ,五 力年計画の到達点が掲げられた開発 目標
に照 らしてはるかに低位であった ことを一般的に指摘す るに とどまってい
た。
1
9
4
0
年代前半に関す る実証研究 としては,本鋼史編写観 (
1
9
8
5
),[本鋼誌
1
9
8
9
)を翻訳 した阿津坂弘訳 (
1
9
9
1a,b),村上勝彦 (
1
9
8
2
),
編写魁 ?] (
1
98
6
),解学詩 ・張克良編 (
1
9
84),鞍 鋼 史 志編 纂 委 貞 会 編
君 島和彦 (
(
1
9
9
1
)が挙げられる。
本鋼史編写魁 (
1
9
8
5
) と阿津坂訳 (
1
9
9
1a)は,本深耕煤鉄公司 (
本渓鋼
鉄公司)に関す る通史である。両書の分析では,遼寧省楢案館 ,本渓市楢葉
鰭 ,本渓市党史資料征集雛公室 ,本渓鋼鉄公司枯葉管理処等に保有 されてい
る一次資料が活用 されている。満洲国時代における過酷な労働条件や抗 日運
動についての記述は詳細である。 しか し,東北鉄鋼業の中心企業であった鞍
山の製鉄所の実態 ,あるいは本渓湖県鉄公司が持 っていた鞍山との関わ りに
-1
70-
満洲鉄鋼業研究の現状
6
6
7
ついては触れ られていない。
村上論文は,大倉財閥関連資料 (
東京経済大学所蔵)や水津資料 (
一橋大
学所蔵)に収録 された一次資料にもとづいて,本渓湖媒鉄公司の歴史を通史
的に明らかに した。製品,原料炭 ,鉄鉱石の生産計画値 ,実績値等を示す同
公司の内部資料を駆使 して,戦時情勢の変化に対する同公司の対応の揺れ動
きが克明に追跡 されている。昭和製鋼所についても同公司との関わ りで分析
がなされている。
君島論文は戦時期の満洲鉱工業を全体的に検証 した労作である。特に,大
9
4
0
年代の労働力不足が中国関内か らの
東亜省関係の動員資料を発掘 して ,1
中国人労働者の強制徴用に よって補われていた事実を明らかに した点が貴重
であるo
解 ・張編 (
1
9
8
4
)は ,1
9
0
9
1
9
4
8
年の乾山鉄鋼業の歴史を包括的に検討 した
通史であ り,この間題に関す る基本文献である。同書では鞍山鋼鉄公司楢案
館等に所蔵 されている一次資料に依拠 して ,蕨密 な実証分析 が行われ てい
る。取 り扱われた問題は多岐にわた っているが,中でも日本が行 った植民地
支配の実態を検証 し,中国人の解放運動を克明に追跡 した点に大 きな特色が
ある。
1
9
1
9
-1
9
8
5
年を対象 とした鞍鋼史志編纂委員会編 (
1
9
9
1
) は グル ープ研究
の強みを活か した より包括的な通史であ り,特に生産施設の内容に関する詳
1
9
8
4
)と相補いあって鞍山の製鉄所の全
細な解説は有益である。解 ・張編 (
1
9
9
1
)には,満洲
体状況を教えて くれ る。ただ し,鞍鋼史志編纂委員会編 (
3
5
0
3
5
2
製鉄鞍山本社 と関連会社 との関わ りについて不正確な記述 も多い (
ペ-ジ)o
1
9
8
2
),君島 (
1
9
8
6
),解 ・張編 (
1
9
8
4
)の場合には ,1
9
4
0
Lか し,村上 (
年代の鞍山そ して東北全体に関わる鉄鋼生産 ,製品 ・原料 (
石炭 ・鉄鉱石)
の輸移出入については,発掘 された諸資料 が断片的に配列 され るに とどま
り,原資料を連結 して総括的な加工資料を作成 しようする試みはあま り行わ
ー
17 1 -
6
6
8
れていない。 このため,それぞれの箇所で示 された統計数値が前後 で どの よ
うにつなが り,あるいはつなが らないのか ,同 じ時期に関 しても異なる資料
が どの ような補完関係にあるのか ,そ して全体 としての生産動 向が どうな っ
ていたか といった問題が読み と りに くい記述 となっている。鉄鉱石問題や鉄
鋼製品の流通問題についても,立 ち入 った検討はなされていない。鞍鋼史志
編纂委員会編 (
1
991
)には多 くの系統的な統計データが示 されているが ,満
洲国期の終盤に関す る論及は,詳細に区分け された生産工程 に対応 して分散
され ,全体動向がつかみに くい。
中国東北鉄鋼業は1
940
年代に,大 き く変化 した。1
940
年代の東北鉄鋼業の
生産拡大の実態を,原料調達面での変貌に着 目しなが ら明らかにす ること,
そ して増産の過程で鉄鋼製品の流通が どの ように変 っていたのかを検証す る
ことが,求め られている。 これに よって製鋼原料の生産基地 として開発が続
け られた中国東北鉄鋼業が ,日本帝国の勢力圏内でその役割を どの ように果
た していたかが明らかになる。
(
3
) 第 2の課題である戦後 の中国東北鉄鋼業 の問題について も,優れた先
行研究がある。石井明 (
1
9
90
),香島明雄 (
1
990
)は外交史 の側面か ら,国民
党 とソ連軍の間で行われた旧 日本施設 をめ ぐる返還交渉を検証 したO西村茂
1
985
),山本有造 (
1
986
),田島真弓 (
1
990
) も,この間題を追究 した労
雄 (
作 である。 しか し,これ らの研究は,いずれ も鉄鋼業の実態に立 ち入 った も
のではなか った。
第 2次大戦以後の鉄鋼業を実証的に検討 した研究 としては ,本渓湖煤鉄公
1
98
2),本鋼史編写魁 (
1
985
),阿津坂弘訳
司に酪連す る大倉財閥研究会編 (
(
1
9
91a),資源委員会の活動を詳述 した鄭友挨 ・程麟蘇 ・張侍浜 (
1
991
),
1
950
年代前半期の中国の各製鉄所に ついて個別施設の建設の経緯 と現状を網
1
95
6a,b),1
950
-60
年代 の中国鉄鋼業 を概
羅的に記録 した内官調室監修 (
観 した岡崎文勲 (
1
96
2
),明野義夫 (
1
95
7,1
964
),小島麗逸 (
1
9
71),Chen
- 172-
満洲鉄鋼業研究 の現状
6
6
9
(
1
9
55
),Gar
dner(
1
9
73
),そ して鞍山鋼鉄公司の通史である解学詩 ・張克良
1
98
4
) と戟鋼史志編纂委員会編 (
1
991
)が挙げ られ る。
編 (
大倉財閥研究全編 (
1
9
82
) は,すでに紹介 した ように,本渓湖煤鉄公司に
ついての重厚な実証研究であるo Lか し,同書の戦後の時期に関する分析は
簡略なものにとどまっている (
68
8ページ以下).
1
98
5
) は,復興問題についての記述が詳細である。個別工
本鋼史編写阻 (
場の修復設備 ,第 1次五 力年計画,第 2次五 力年計画による新たな施設の建
設そ して文化大革命期における混乱 とい った本渓湖床鉄公司の戦後 の歩み
は,本書に よっておおむね把握することがで きる。 しか し,同書 の分析 で
は,早急な復興 と建設を可能に した残存施設の内容 ,留用技術者か らの技術
移転 といった問題については関心が払われていない。 ソ連軍が行 った施設撤
去についても工場 ごとの被害状況が重量の一覧 として示 されているだけであ
1
36ぺ-㌔)。阿津坂弘訳 (
1
9
91a) では被害一覧表に収録 された工場数
る (
が若干増えているが,撤去された設備の内訳についてはむ しろ記述が簡略化
49ページ)。鞍山の製
され,上記の諸問題についての分析は行われていない (
鉄所は,検討の対象外 となっている。
鄭 ・程 ・張 (
1
991
)は,資源委員会の関連資料を活用 して,同委員会の顛
末を実証的に分析 した労作である。同書は東北鉄鋼業についても,牧山の軍
事情勢を詳細に跡づけ,鞍山鋼鉄有限公司の中国人職員が新中国のもとで製
鉄所の復興に協力するようになった経緯を明らかに したo Lか し,鄭 ・樫 ・
1
9
91
)の情勢分析は,追跡の対象を国府軍 と八路軍の対抗関係に限定 し
蘇 (
ている。同書では,ソ連軍の動向や製鉄所施設の具体的な状況あるいは日本
人技術者の留用問題については分析が及んでいない。
昭和製鋼所 を直接 に取 り上げた諸文献 についていえば ,内官調室監 修
(
1
9
56a,b)は記録文書 としての性格が強 く,研究書 とい うよりは歴史資料
として扱われるべき文献である。
岡崎 (
1
96
2) は,内官調室監修 (
1
9
5
6a) と中国内で発表 された新聞記事
-
173-
6
7
0
を集成 しその成果を現場視察の結果 と重ね合わせた,当時 としては貴重な現
9
6
0
年代初頭に量
状分析の報告書であった。中国の製銑 ,製鋼 ,圧延能力が1
的には急速に日本の水準に迫 っていた こと,しか しその生産は町工場的な中
小企業によって担われる割合が高 く,鉄鋼製品の品質は大企業の生産品を含
めて,当該時期の日本製晶に比べ るとはるかに低い水準にあった こと,そ し
て新中国の鉄鋼業に対す る取 り敵みが国民経済の力に比 して過剰であった こ
1
9
6
2
)は 「
竹のカーテン」 とい う制約をお し
とを先駆的に指摘 した。岡崎 (
て中国鉄鋼業に関す る情報を丹念に収集 し,示唆に富む分析を捉起 した。 し
か し,本書が対象 とす る1
9
4
0
年代後半か ら1
9
5
0
年代初頭にかけての時期につ
1
9
6
2
)が把捉 した製鉄施設の復興事実 は内官調室監修 (
1
9
5
6
いて,岡崎 (
a) に記された域を出ていない。
明野義夫 (
1
9
5
7,1
9
6
4
)は,第 1次ならびに第 2次五 力年計画に よる鉄鋼
9
5
0
-6
0
年代に行わ
開発を扱 った現状分析である。詳細で包括的な分析は ,1
1
9
5
7,1
9
6
4
)では,「3年恢復
れた研究を代表する成果である。 しか し明野 (
時期」についてはほとんど言及がない。戦後の中国鉄鋼業の発展が方向付け
られたもっとも重要な時期は第 1次 5カ年計画期であるが ,「3年恢復時期」
が持 っていた歴史的な意味は,やは り独 自に検討 される必要がある。
1
971
) 紘,第 1-2次五 力年計画がそれぞれに持 っていた基本
小島麗逸 (
的な性格 とそれに対応 した鉄鋼業の発展過程 を先駆 的に概括 した論文 であ
1
9
7
1
)は,第 1次五 力年計画がほぼ達成 された 1
9
5
6
1
9
5
7
年以後に
る。小島 (
77ページ)O当該時期の鉄鋼業 をめ ぐる需要構
力点を置いて分析を行 った (
造 と供給構造の変化が手際 よくまとめられている。重点の設定が行われた一
1
9
7
1
)が執筆 された当時 ,
「3年恢復時期」の中国鉄鋼業
つの理由は,小島 (
に関する情報が限定 されていた ことにあった。 しか し,同時にそれは小島が
「3年恢復時期」における鉄鋼生産力の回復を内実の伴わない 「
発展」 とみ
な し,当該時期が持 っていた五 力年計画にいたるまでの過渡期 としての役割
7
7
ページ)0
を軽 く見ていたためでもあった (
-1
7
4-
満洲鉄鋼業研究の現状
6
71
Che
n(
1
9
5
5
)は,中国内で発行 された新聞や雑誌か ら鉄鋼関連情報を収集
し,国民党が作成 した関連資料を これに照 らして分析 した現状報告書 で あ
る。同報告書は国共両党の対立が激 しかった1
9
5
0
年代に香港 の国民党系研究
機関に よって発行 された。新中国のマス ・メデ ィアか ら集め られた鉄鋼産業
に関わ る情報は分量 も内容 も豊富で,岡報告書は貴重 な記録文書で もある。
しか し,Ch
en(
1
95
5
)紘,日本人技術者に関わ る問題については資料の収集
と分析を行 ってはいない。 また鞍山鋼鉄公司の生産量に関す るデータは,特
に製鋼部門に関 してかな り誤解があるo
Ga
r
dne
r(
1
9
7
3
)は,コ-ネル大学に所蔵 された CI
A 文書 (
TheWe
e
kl
y
I
nf
o
r
ma
t
i
o
n Repo
r
t on Co
mmuni
s
t Chi
na,The We
e
kl
y Repo
r
to
n
e
y(
1
9
4
6
),Chen(
1
9
5
5
),そ して各種の中国マ
Co
mmuni
s
tChi
na
)や ,Paul
スメデ ィアに掲載 された経済情報を整理 し,大躍進期 (
1
9
5
8
年∼)にいたる
までの社会主義中国におけ る鉄鋼業 の再建過程 を概観 した論文 で あ る。特
9
5
0
年代の常 山 と本沃湖におけ るソ連式製鉄技術 ,生産魁織 の導入過程
に ,1
に関す る追跡は詳細である。Ga
r
dne
r(
1
9
7
3
)は ,1
9
4
9
-1
9
5
3
年 の段階におけ
る鞍山鋼鉄公司の急速 な復興について ,1
9
51
年か ら始 まった ソ連式の技術者
養成にその背景を求め ,1
9
51
年以前の時期については生産艶織 の非合理性を
強調 している。残存 していた諸設備 の修復 の可能性 につ いては触 れていな
い。 日本人技術者あるいは国民党系技術者はすべて逃げ去 り,新中国の鉄鋼
政策 に とって戦力 ではなか った と見 な され てい る。 そ して , この ことが
1
9
4
9
51
年 の時期に製鉄所 の組織建設 が立 ち後 れ て しま った大 きな原 因で
あった と見なされている (
pp.
4-5)D
解 ・張編 (
1
9
8
4
)では,すでに指摘 した ように,中国側が こ うむ った戦争
被害の検証 と解放運動の賞賛が基本的な追究課題 となってお り,満洲国期の
工業化の進展 と戦後 の経済建設 との関わ りにつ いては関心 が払われ ていな
い。
1
9
91
)は,鞍山鋼鉄公司公司楢案館その他に所蔵
鞍鋼史志編纂委員会編 (
-
175-
6
7
2
されている内部資料をふんだんに紹介 し,特に技術史の面で記録資料 として
の価値が高い。同書は,被侵略の事実を意識 し社会主義中国を賞賛 しなが ら
編集された鞍山公司に関す る総合事典であ り,公的な通史である。中国版の
1
9
5
6a) とい うこともできよう。 しか し,鞍鋼史志編纂委員
内官調量監修 (
1
9
91
)では戦前戦後の連続性 と断絶性を統一的に とらえ ようとい う問
会編 (
題に対 しては,特に関心は払われていない
。
(
3)
各論文の執筆にあたっては,鞍山関係者が したため,あるいは持ち帰 った
記録や回想録 ,製鉄所の内部資料 ,そ して当事者か らの聞き取 り調査の結果
が重視 された。
(
4
) 第 1の課題 と第 2の課題 との関連 ,すなわち植民地における経済状態
と独立を達成 してか らの経済建設 との関わ りとい う問題については,これま
でにも松本 の基本的な考 えを説 明 して きた (
松本 ,1988,1994a, b ;
Mat
s
umot
o,1
991
)。しか し′無用な誤解を避けるためには,東北鉄鋼業に引
きつけて,改めてこの問題を論 じてお く必要があるのか もしれない。
1
945年にいたるまでの中国東北鉄鋼業は,日本帝国の植民地支配の一環 と
して開発が進められた。鞍山の鉄鋼業は,公的資金に よる設備投資や統制価
9
3
0
年代の後半か ら急速にその生産親操
格制度に よる保護等に よって,特に1
を拡大 した。鞍山では,ジグザ グとした過程はあったものの,日本鉄鋼業の
製鋼 ・圧延原料すなわち銑鉄 と鋼片の不足を補 うとい う開発の 目的が維持 さ
れ,特に銑鉄の生産に偏 った鉄鋼開発が強力に推進 された。 コス トの上昇辛
操業効率の低下を甘受 しなが ら生産量の引 き上げが追求 され ,鉄鋼生産 は
(3)1
9
5
0
年代の中国鉄鋼業の全般的な状況については,萩原允 (
1
9
9
5
)の記述がまとまっ
ている。第 1次五 力年計画 との関わ りで当該問題を扱 った文献 は本文 の中で触れた研
究業蹟以外にも数多 く存在するが (
e
x.大久保泰 ,1
9
5
8,1
9
59;明野義夫訳 ,1
96
4;
a
T
d,1
9
6
1,
'
J
a
i
n,1
9
7
7:
鄭竹園,1
9
5
5,等)
,ここでは 「
一五時期」以後
Hu
gh
e
s& Lu
の問題については立ち入 らない。
-1
7
6-
満洲鉄鋼業研究 の現状
6
7
3
1
9
4
0
年代にいたるまで持続的に拡大 した。 日本の戦争利害を最優先に して植
民地ならではの鉄鋼増産が追求 された こと,これが満洲国期の東北鉄鋼業の
最大の特徴であった。その過程では労働力 と原料炭 ,鉄鉱石の不足が とりわ
け深刻な問題 とな り,これ らの陸路を打開す るために強制労働を含む過酷な
労働条件が中国人労働者に課せ られた (
松本 ,1
9
8
8
)
0
そ うした戦時の異常な開発がもた らした東北鉄鋼業の肥大状況を確認 し,
それが破壊 と再編を くり返 した後で,当初の開発の意図とは別の次元で,結
果 としては,物的施設 ,生産技術 ,人的資源の各方面でかな りの程度に新生
社会主義中国に遺留,継承 されていた事実を検証す ること,それが一連の論
文の基本課題であった(4)0
(
5
) 資料の散逸問題 と社会主義イデオロギー
重要性が明瞭であったにもかかわ らず第 2次大戦末期か ら国共内戦の最終
段階そ して中国社会主義革命初期にかけての乾山鉄鋼業に関す る研究が立遅
れて しまった背景には,次の ような理由が考えられる。
第 1の理由は,戦乱の時代が もたらした資料的な制約 とい う問題である。
9
4
0
年代については植民地問題に関する資料が乏 しく,歴史研究は立
一般に1
1
9
9
7
)は,残 されている歴史資料の特徴 と利用
ち遅れてきた。井村哲郎編 (
条件を総括的に案内 した資料解題書である。資料 問題 の全体状況について
は,同書に拠 るのが最善である。鉄鋼業の問題に絞 って補足す るならば,満
洲国時代そ して国民党時代の鞍山関連資料は,日本の敗戦 と国共内戦の過程
(4)戦後に対する影響 とい う視点か ら満洲国が残 した経済資産 の処理 問題 を取 り扱 った
研究 としては,満鉄の鉄道串両問題を分析 した王強 (
1
9
9
3
)があるO三強氏の主張は,
① ソヴィ- 一軍の活動の重点が,鉄道資産の自国への搬出よりもその解体にあった,②
ソヴィ- T
・
軍による搬出の量はそれほ ど大衆横でなか った , とい う 2点 を強調す るこ
とにあった。王氏はこうした指摘をふまえて 「
東北鉄道 (
旧満州鉄道)の再建は短期間
に実現」 した と結論づけている (
王強 ,1
9
9
3:8
6,9
5ペ-㌔)。
-
177
-
674
で散逸 した(
5
)
。まとまった形で残 った資料 としては,水津資料 (
一橋大学所
蔵),張公権文書 (
スタンフォー ド大学 7-ヴァ-研究所所蔵),資源委員会
文書 (
台湾中央研究院近代史研究所所蔵 ,台北),同 (
国士舘所蔵 ,台北),
同 (
第二歴史朽葉館所蔵 ,南京),昭和製鋼所資料 (
鞍山鋼鉄公司楢葉館所
蔵)等が挙げられる。資料の所蔵場所は国境を越えて広範囲に散 らばった。
(5) 日満商事に勤めていた吉田昌世は , 8月 1
4日に同社の幹部か ら日本 の敗戦 を告げ ら
れ ,翌1
5日に,玉音放送を聞いた後で,東北鉄鋼業に関す るあらゆる資料を焼却するよ
う命令を受けた。吉田は 「
終 日書類の山を焼いた」(
鞍山中学同窓会 ,1
9
9
7
-:創刊号 9
ページ)O機密文書 ,経済資料の隠滅は,同 じ頃に中国東北の各地で範織的に行われ た
(
井村 ,1
9
97a:6
4-6
6ページ)0
公的文書ばか りでな く,鞍山の一般 日本人社会に関す る資料 も数多 く紛失 した。留用
された技術者 と家族の帰国にあたっては,一般人の遣送時 よ りも持 ち帰 り品につ いて
の親御が媛かったC元昭和製鋼所第
2製鋼課長数納勲即の場合に紘 ,「
行李 も布団 も鍋
メ
釜 も持つ ことを許 された」 (
数納勲郎 ,1
9
92:21
7ページ)。数納はこの 「
特権」 を利用
し,製鋼工場の操業記録を書 き写 した 「
公には持 って帰れない」 ノー トを 1
3
年間の想い
出として布団の綿の中に隠 し,密かに持ち帰 った (
岡上 :21
4ページ)。
しか し,留用者の遣送に先行 した一般遭送に際 しては,帯同晶が リュックサ ック一個
に収め うる最少限の身の回 り品に制限 され ,風景が映 った写真等 は厳 し く持 ち出 しを
禁止 された。 このため,昭和製鋼所員を含む多 くの日本人居留民は,書類や 日記 ,写真
等をかの地で放棄 した。例えば,長春で発行 されていた 日本語新 聞 『
前進報
日文版』
(
第3
5
号 ,民国3
5
年 7月 BE
l,第 2面,東大法学部所蔵)は ,
「
心せ よ日本人の面汚 し
禁制品携帯は大隊の迷惑」 と題する記事を掲載 した。同記事は,同月 6日に長春で,東
北 日僑停管理 (
紘)処督察魁張中校が東北 日僑善後連絡稔処の日本人幹部に提示 した注
意事項を紹介 し,「
大隊全員が共同責任 となって迷惑 した ことが度々あるので禁制 品は
絶対持たない様徹底 されたい」 と遣送者に訴えた (
『
前進報』の存在については池 田拓
司氏か らご教示を受けた)0
第4
8大隊の一員 として乾 山か ら引 き揚げた元昭和製鋼所主計課員酒井久雄 に よれ
ば,違反者がでれば 「
本人はもとより所属する引揚げの小隊 ,大隊 も足止めされ る」(
宿
井 ,1
997a,1
9
98
) とい う警告があったため,引揚者は所持品の選BT
l
に際 して神経質に
ならざるをえなか った。酒井 の場合 ,「
書 き物 は友人等 の住所録一冊 しか」 (
酒井 ,
1
9
98
)持ち帰ることができなか った。引揚者の間には 「
勇気がなかった。もっと持ち帰
れば良かった」 (
岩崎 ,1
99
6
) とい う後悔の想いが,今 も強 く残 っている。
酒井久雄 と同 じ列車で引 き湯げた元南満化成社貞米浮朝美は ,「日記類は没収す ると
い う噂があったので,検査の時に見つか りに くい よう,手帳の中身を破 って持 ち帰 っ
た」 (
米揮 ,1
997
)。カバーをはず された米浮の 日記は,遣送の途中で表面が こすれ ,鉛
筆書 きの一部が判読不明になった.
-1
7
8-
満洲鉄 鋼業研 究 の現状
67
5
これ らの資料はいずれ も収集者や編纂者 の立場 ,所蔵 され るにいた った経緯
そ して所蔵機関の性格を反映 して,それぞれ長所 と短所を持 っている。 しか
ち,これ らの資料の利用が可能にな ったのは,最近 のことであった。
水津資料や張公権文書 の存在が一般の研究者の前に明らかになったのは,
1
980
年代の ことであった(
6
)
。台北の二つの資源委員会関連資料は ,1
980年代
に整理が進んだ。 しか も国民党 と中国共産党の間の政治的な対立に よって,
研究者は1
990
年代にいた るまで,国士舘な らびに鞍山の資料を簡単には利用
す ることができなか った。国民党の公的資料館である国士舘 の政治的な位置
や鞍山鋼鉄公司の軍事的な重要性は,部外者の利用を制約 した。南京の歴史
楢案館が所蔵 している資源委員会 の関連資料 は ,1
990
年代にな ってか らの復
刻 出版 に よって , よ うや く利用 が簡便 にな った (中国第二歴史楢 葉館 ,
1
990
)。戦後の時期について も資料上の制約は大 きか った。鞍 山の製鉄所 が
重要な軍事施設であるとい う理 由か ら,中国共産 党 は厳 しい報道管制 をひ
き,工場名に暗号記号を使用 した り,あるいは内容の異なる報道を意図的に
流す といった様 々な情報操作を行 って,その実態が明らかになることを阻ん
できた (
Chen,1
95
5:pp.9-ll
)Q
研究が立 ち遅れた第 2の理 由も,イデ オ ロギ ーに関わ る問題 であ るo 中
国,台湾 ,韓国そ して 日本において も,植民地における近代化や工業化 の進
展を戦後 の復興問題 に関わ らせて論評す ることは,長 い間避け られてきた。
これを積極的に認めることは植民地支配を美化す ることにつなが りかねない
とい う危供の念が,研究者 の問題意識 の醸成や実証-の取 り組みに足かせ と
(6)石川滋監修 (
1
97
9,1
980
),アジア経済研究所編 (
1
9
8
6a)を参照。昭和製鋼所企画課
1
980) と水津利 輔
長であった水津利輔 の経歴 と水津資料 の特徴については松 田芳郎 (
(
1
9
74
)が ,東北行営経済委員会主任委員 ,中央銀行総裁 な ど国民党政府 の経済官僚 と
986
して活躍 した張公権 の経歴 と彼 の残 した張公権文書の内容につ いては 山本 有造 (1
a),須永徳武 (
1
997
)が有益 な解説である。なお水津資料 は一橋大学 日本経済統計情報
セ ンターで ,張公権文書はアジア経済研究所 図書資料部で,それぞれマイ クロフィル ム
版を閲覧す ることができる0
- 179-
67
6
なってきたか らである (
松本 ,1
9
8
8:序章)。近年になってこうした研究状況
に異を唱える植民地史研究が増えつつあるが(7),中国東北の工業化 問題 に限
定 して言 うならば,鞍山鉄鋼業についてはもちろんのこと,東北工業一般に
ついても,こうした視角か らの研究は生まれていない。む しろ,くり返 され
た戦争被害の程度が深刻であった ことから,中国東北の戦後復興の初期条件
は皆無に等 しか った とす る見解が,研究者の間では一般的である。
加えて中国東北の戦後の復興問題については,中 ソの共産党の 「
友好」関
係も歴史研究に否定的な影響を与えてきた。 ソ連軍が中国東北で経済施設を
大量に破壊 した ことも,中 ソの共産党が第 2次大戦が終結する以前か ら根深
く対立 していた ことも,研究者の間では早 くか ら知 られていた。 しか し,こ
れ らの事実を実証的に明らかにすることは難 しく,特に学会の研究活動が政
治情勢に左右 されてきた中国の研究者にとって,それは長い間,不可能に近
9
8
0
年代後半に入 ってか ら,ソ連軍が行 った施設撤去 の
いことであった(8)0 1
問題を分析 した 日本人研究者の論文が公表 されたが,個別の産業分野に踏み
込んだ実証研究の成果はまだ現れていないとい うのが現状である。
(7)掘和生 (
1
9
9
5
)は,植民地朝鮮における工業化について,その進展を認める立場か ら
体系的に問題を提起 したO同書の基本的な問題意識には本書 のそれ と重 な る ものがあ
る。 しか し,堀氏にあっても日本資本が支配的であった重工業分野に関 しては,戦後の影響 とい う問題について明示的な位置づけがなされていない。娠氏の研究 に対す る
松本の見解については,松本 (
1
9
9
7b)に詳述 したO
満洲に関 しては,こうした視覚か ら工業化問題を検討 した研究成果は見あた らない。
しか し,満洲国期に進んだ近代化の側面を検討 しようとい う研究は,増加す る傾向にあ
る。植民地における近代化 ,工業化が他国の民族主権を奪い,当該地域の住民に犠牲を
強いながら推進 された とい う問題は,植民地経営を評価す るにあた って避け る ことが
できないはずである。 しか し,論者に よっては,これ らの問題 との関わ りを抜 きに して
近代化の一面だけが論 じられている (
松本 ,1
9
9
4b)
O
植民地支配のもとでの近代化の進展 とい う問題を視野に入れ てま とめ られた研究史
整理 としては ,松本 (
1
994a),金 宗絃【(1996),金 子 文 夫 編 (1993),Ka
ne
ko
(
1
9
9
5
),鄭在貞 (
1
9
9
5
),田村紀之 (
1
9
9
7
)がある。鄭 (
1
9
9
5
) と田村 (
1
9
9
7
)紘,近
代化の側面を重視 した最近の研究が持 っている (
持ち うる)問題点を冷めた考察で指摘
してお り,教えられる。
-1
8
0-
満洲鉄鋼業研究 の現状
6
7
7
*本稿は松本俊郎の研究成果を総括 した拙稿 「
満洲鉄鋼業研究 の新地平 」
(
『岡山大学経済学会雑誌』第30
巻第 4号)の姉妹編である。参考文献に
ついては同論文の末尾に付 した リス トを参照 されたい。
**本稿は文部省国際学術研究 「
近代中国東北における社会経済構造の変
課題番号
容一経済統計資料 ,並びに,歴史文書史料か らの分析 -」 (
090
4
40
2
6,研究代表 :江夏由樹 ・一橋大学教授) の成果 の一部 であ
る。
[
追記]本稿の執筆にあた っては 日本鉄鋼連盟常務理事戸 田弘元氏か ら,1
9
6
0
年代以降の同
連盟における中国研究についてご教示いただいた。また同連盟情報管理部資料室 の
村松てる子主任か らは,資料室の利用に際 して多 くの助言をいただいたo記 して感謝
いた しますO
(8) 中国においても,近年 ,こうしたタブーに挑戦する興味深い研究が生まれている。徐
熔 (
1
9
9
3
)は,日本の敗戦直後における人民解放軍 とソ連進駐軍の接触過程を分析 し,
両者の関係が当初か らした ぎ くしゃ くと していた ことを克 明に明 らか に した。孟憲
章 ・楊玉林 ・張宗海 (
1
9
9
5:2
4
4
1
2
4
6
ページ),劉統 (
1
9
9
7:1
4
1
-1
5
1
ページ)は,ソ連軍
の施設撤去の経緯についてかな り詳細に触れている。
11
81
-
678
A Survey of the Historical Studies in Japan
and the World regarding the Iron and Steel Industry
in Northeast China during 1940 s-1950 s
Toshiro Matsumoto
The iron and steel industry in northeast China has been playing an
important role both in the Manchukuo period and the Socialist China.
The academic achievements of the historical analysis concerning the
industry during 1940s and 1950s, however, has not been so rich, because
of the following two reasons; (1) lack of historical materials; (2)
ideological obstacles against recognizing the rapid economic development
under the Manchukuo regime and its aftermath toward the new born
China.
Many historical resources were lost in the chaos during and just after
the WWII. None the less, not negligible amount of materials exist not only
in Anshan but in Nanjing, Taipei, Tokyo, Washington, London etc.,
crossing widely the boundaries of the counties. The iron and steel
industry is a key military industry. For this reason, the Communist and
the Nationalist had strictly prohibited researchers to use their collections
until 1980s. On the other hand, the image on the socialism had for long
been simply stereotyped as justice or liberation among the historians in
Japan after 1945. Such a situation reflexes the important truth of the
history. It has, however, made the research angle of the historians
inadequate to recognize the positive aspects of the industry developed by
colonial authorities.
-182-