お寺にある素敵なものを、発信していきたい 2012年 冬 平成23年12月28日発行(第12号) ユ ジュ YUJ http://www.kagawa-konzouji.or.jp/ [email protected] 日 本 創 世 の 神 イ ザ ナ ギ、 イザナミと淡路島の関係 ことあま つ かみ な ぎのみこと い ざ な み し ょ う。 」 と 約 束 し、 天 の 御 柱 伊邪那美命を見つけた伊邪那 ざ と、伊邪那岐命と伊邪那美命に ぬ ぼこ とすばらしい男性でしょうか」 あ ろ う か 」 と 声 を か け、 「なん 岐 命 は、 「なんと美しい女性で あめ うきしま い あわ ぢ ほ ふたなの さわけの で結婚をし、子供を産みました。 か 矛を海水に下ろして、コロコロ (淡 まずは、 淡道の穗の狹別島 みつごの よ と 撹 き 鳴 ら し て 引 き 上 げ る と、 き 路島) 、 次 に 伊 豫 の 二 名 島( 四 さ どの おおやまととよあき づ おお や しまぐに い きの 、 、隱伎の三子島(隠岐諸島) もってひとつの島となりました。 国) つ つくしの 、伊伎島(壱岐) 筑紫國(九州) や ひろどの ご ろ じま イザナミの兄妹神による「国産 これを淤能碁呂島といいます。 み はしら お の み神話』がよく知られるところ 、佐度島(佐渡島) 、 津島(対馬) あめ 二柱の神は、その島に降り立 最後に大倭豊秋津島(大和)を き です。現存する日本最古の歴史 ち、天の御柱と八尋殿を立てま (日 産んで、 この八島を大八島國 じ 書『古事記』によりますと、国 し た。 伊 邪 那 岐 命 は、「 あ な た ています。 こ 産みの物語は次のように語られ 本)と呼びました。 お 矛の先より滴り落ちた海水が積 那 美 命 ) は、 天 の 浮 橋 に 立 ち、 と返した二柱の神は、その場所 あめ 二柱の神(伊邪那岐命と伊邪 ふた はしら れました。 命令を下し、天の沼矛を与えら い るこの国を固めて形にしなさい」 を巡りました。 は、 「クラゲのように漂ってい (天界に住む創造神) い。私は左から巡り、出会いま 別天津神 おのころ島神社(南あわじ市) はこの柱を右より巡ってくださ きょうだい 日本創世、それはイザナギと 国産み神話 創世 神話 「YUJ」とは「瑜伽」とも書き、サンスクリット語で、「結ぶ、繋ぐ」 を意味します。 YUJ を手に取った方とお寺が良い縁で結ばれますよう。 したようになります。 『古事記』 島であるということです。 もう一つの創世神話 ところで、もうひとつの「創 イザナミと別離したイザナギ は、アマテラス、ツクヨミ、ス と 比 べ て 大 き く 異 な る こ と は、 秋津島の順位が大きく前進して 世神話」があることをご存じで 日本書紀との比較 以上が「国産み神話 」 の 概 要 サノオの三神を産むと、アマテ しょうか。これは『出雲国風土 さて、気になるのは淡路島に 地上を任せましたが、スサノオ ヨミに夜の世界を、スサノオに 津野命が他の余った土地を継ぎ 狭かった出雲の国に、八束水臣 記』にみられるもので、国土が い づ も こく ふ ど いること。これは現実の秋津島 ラスに天界(高天原)を、ツク みられる「胞」の文字です。広 が母であるイザナミのもとに行 足して広くしたという話です。 たかまがはら ですが、国産みの順番 に 疑 問 を の地位の反映でしょう。 が置かれたのは畿内で あ り 、 始 辞苑によりますと、胞とは胞衣 きたいと懇願するため、根の国 き 感じませんか。大和朝 廷 の 基 盤 めに産まれるのは秋津 島 で あ る と 同 義 で、 「胎児を包んだ膜と この神話は「国引き神話」と や つ か み ず おみ べ き で し ょ う。『 古 事 記 』 の 記 胎 盤 」 と あ り ま す。 つ ま り は、 へと行かせました。 して知られ、出雲地方だけでな え 事が特殊なのでしょう か 。 そ こ 神としてすべての仕事を終え く、東国や大和地方にも存在し ぬ で、同時代に成立した 『 日 本 書 胎児である大八島を守り育む母 た イ ザ ナ ギ は、 『古事記』によ つ 紀』の「国産み神話」 の 内 容 も 胎そのものが胞というのです。 え な 確認してみましょう。 ていたようであり、大和朝廷を が が たいしゃ 像に難くありません。 ま た こ の「 国 引 き 神 話 」 は、 『日 犬 上 郡 多 賀 町 の 多 賀 大 社、 日本各地の山や湖沼を造ったと た れば、胞であることは、国産み 本書紀』の説をとると兵庫県淡 言 わ れ る 伝 説 の 巨 人、 「ダイダ が の始めに位置づけられる以上に 路市多賀の伊弉諾神宮となりま ラ坊」と酷似しています。つま た 重要であると考えられていたの す。どちらが正しいかは古来よ は疑いようのないことです。 とは何なのでしょうか。 できます。一方、 「国産み神話」 す が、 淡 路 島 が「 国 産 み 神 話 」 話があったであろうことが想像 い ざ なぎじんぐう ではないでしょうか。 り日本全域に「国引き」型の神 イザナギが鎮まった場所が淡路 本書紀』に見られます。それは、 に深く影響を及ぼしていること ひ と つ 注 目 す べ き 記 事 が、 『日 さて、淡路島について、もう り意見の分かれる所ではありま いぬがみ ものといえそうです。そうであ 『 古 事 記 』 の 説 を と る と 滋 賀 県 イ ザ ナ ギ の 鎮 座 し た 場 所 は、 在していたであろうことは、想 た れ ば「 淡 海 之 多 賀 」 に、『 日 本 1 別伝第十 あふみ たとえば、別伝第八では、国 中心とする畿内にも、この「国 の中で、淡路島に関する記事は、 産みの舞台であるオノコロ島が 『日本書紀』の「国産 み 神 話 」 書紀』によれば「淡路之洲」に 引き神話」が創世神話として存 胞 あ わ じ の しま 鎮座したといいます。 別伝第六 1 胞とされています。このことか 2 本文と六種の別伝が紹 介 さ れ て 2 別伝第一 2 1 別伝第九 1 らも、胞は国産みの基盤となる 胞 書紀本文 1 別伝第八 1 胞 別伝第七 1 います。その内容は左 の 表 に 示 淡路島 秋津島 そもそもイザナギと イ ザ ナ ミ 像できます。 ろ、とりわけ淡路島と大和朝廷 民 を 殺 し て し ま お う 」 と い い、 淡路島は王族や中央貴族にとっ み 込 ん で し ま う 荒 々 し い 波 と、 この場面は、あらゆるものを飲 民を産ませよう」と返しました。 『 日 本 書 紀 』 に よ り ま す と、 の関係が密であったのでしょう。 イザナミは「一日に千五百人の ま し ょ う。「 ナ ギ = 凪 」 と「 ナ て、絶好の狩猟場であったこと、 イザナギとイザナミは、淡路 その後に豊漁をもたらす穏やか という二神の名前に注 目 し て み ミ=波」という文字が そ れ ぞ れ さらに「御饌都国」であったこ 島を中心とした海人たちによっ な海の姿(凪)そのものである イザナギとイザナミ の語尾に認められます 。 つ ま り と が 分 か り ま す。 御 饌 都 国 と て信仰されていた神であり、彼 ように思えます。 つ くに 二神は海の神であろう こ と が 想 は、「 天 皇 の 食 膳 の 材 料 を 奉 る らは大和朝廷に近侍していたこ のでした。その海を神格化し信 け 像できます。 国」という意味で、とりわけ淡 とが分かりました。しかし、大 また天皇の妃や国の要人を船 「 国 引 き 」 型 の 神 話 が 存 在 し て 仰することは、当時の大和朝廷 み 実 際、「 国 産 み 神 話 」 に 類 似 路島は海産物や塩を貢納する国 いたのに、なぜ淡路島の「国産 の人々にとっても、受け入れや 和 朝 廷 を 中 心 と す る 畿 内 に は、 とって、海は古来より身近なも 国土を海に囲まれた日本人に した神話は九州以南の 島 々 な ど であったようです。 で送迎したり、皇位継承の争い み神話」を大和朝廷の神話体系 昨年の未曾有の大津波で多く こうのう に見られ、男女の神が 島 を 産 み 残っています。つまり 、 海 の 近 「 国 引 き 」 型 の 神 話 は、 国 土 力となっていることが確認でき、 にとりいれたのでしょうか。 が起きたときには一方の主要戦 にある山や湖沼の成り立ちにつ の尊い命が奪われてしまいまし 人類の祖先を産んだと い う 話 が くで生活をしていた人々は、「国 いて十分に説明できます。しか たが、また多くの命を育むのも 話であったのはないで し ょ う か 。 しょうか。 すいものであったのではないで 産み」型の創世神話を 語 り 、 そ その際「淡路○○之海人(○○ し日本の国のように、島々が点 海である、と「国産み神話」は ま あ ま 」と記載されている ナギとイザナミの「国産み神話」 は 地 域 名 ) の神を信仰していまし た 。 イ ザ つまり、淡路島の人々は魚を 在する理由を説明するには十分 あ ことが分かります。 採る海人であるだけでなく、軍 なものではありません。その点、 語りかけてくれているようです。 大和朝廷と淡路島 きんじ 要人に近侍していたであろうこ 「 国 産 み 神 話 」 の 方 が 好 都 合 と いえそうです。 伊藤清司・大林太良編 も、もともとは淡路島 の 地 方 神 事的な役割も担い、天皇や国の ここで大和朝廷と淡 路 島 の 関 とが想像できます。 學生社 係を確認してみましょ う 。 淡 路 イザナギとイザナミが別離す み このような淡路島に関する記 よ 島は地理的な位置から も 分 か る るとき、黄泉の国の住人となっ りちゅう 事は、応神・仁徳・履中の三代 た イ ザ ナ ミ は、 「一日に千人の にんとく ように、かなり早い時 期 か ら 大 に集中しており、四~五世紀こ おうじん 和朝廷と交渉があった こ と が 想 『日本神話研究 2』 te r a fe せ ちゃ 行事があります。 み い こ い、ということをおっしゃって だ き な が ら、 始 め る 予 定 で す。 黒ごま…少々 水…大さじ 4 砂糖…50g いたということです。 この施茶を、この度五月に当 寺で初めてさせていただく予定 です。心を込めて、参拝者との 一期一会を有難く感じるととも に、私にとっては、普段接する ことのない三井古流煎茶道を 様々な方に知っていただくよい 機会だと楽しみにしています。 といっても、まずは同じ分会 施茶とは、布 施利他 の 修 行 の 次回のこのコーナーにて日時を に属する先生方にお手伝いいた ひとつです。布施とは 「 も の で ご案内しますので、もし、煎茶 た も心でも、惜しみなく 他 者 に 分 道に興味のある方、ぜひ覗きに せ け与えること」で、利他とは、「自 おいでください。また、触れて ふ 分を犠牲にしても他人 に 分 け 与 い みたいという方、一緒に煎茶を い でら 四国霊場第四十三番札 所 で 本 寺 めいせき じ ただける方、大歓迎です。 それでは、今回のレシピです。 ひ しゅう と同じ天台寺門宗の明石寺にて さつまいもをじっくり揚げたお じ てん だ い じ も ん 定期的に行われていま す 。 初 代 菓子です。ほくほくと甘く、冬 しょう 宗匠は、深い慈悲の心、心づく にぴったりのお菓子を、どうぞ そう しのお茶、美味しく喫 し て い た お楽しみください。 現在、施茶は本山三井寺の他、 煎れてみませんか。お手伝いい み えること」とあります 。 り 流煎茶道には、施茶と呼ばれる りゅうせんちゃどう 現在お稽古をしている三井古 recipe.08 だくという心を忘れて は い け な recipe.09 さつま芋のかりんとう 【作り方】1. さつま芋を繊維に沿って細長く切る(長さ 3 センチ、厚み 【材料/ 2 人文】 5mm ほど)。切ったさつま芋はすぐに油 (冷たいまま) をはった鍋に入れる。 さつま芋…約 200g 2. 1の鍋を強火でじっくりとさつま芋を揚げる。 キツネ色に揚がったらバッ サラダ油…適量、 トに上げる。3. フライパンに砂糖と水を入れ、焦げないように混ぜなが ら溶かしていく。とろみがついてきたら 2 のさつま芋を入れて絡め、最後 に黒ごまを振って出来上がり。 de c a 浜口育弘(文) 浜口緑研究所代表。除草剤などで弱ってい た「乃木将軍妻返しの松」を独自の研究に よって元気な姿に戻す。連絡は、 〒 763-0065 香川県丸亀市塩屋町 2-16-17 ―金倉寺境内に立つ大きなスギ も立ってるんは、スギ爺と着物 たけど、具合が悪いのに何十年 んな角度から考えることも肝要 ばたせんと思案するんや。いろ こんぞう じ 爺。その幹は根元から上まで煙 ぎ ゴロハチ、なんや体がムズム くまで冷静に対応するで。 先にある真実を見抜くんや。あ で。理論と実際が合わん現状の 和 尚、 ま た う ま い こ と 言 う くことが重要や。 やが、その先にある真実を見抜 の ―乃木さんは寝るときも軍服で 過 ご し た 軍 人 さ ん で す。 っ て、 余計なことは言わない。 ゴロハチ、あんた門前のサク ラ親父を元気にしたんやろ。ワ シもひとつ頼めんやろか。前向 ゴロハチか。相変わらず軽口 ギたちもその方法で救えるはず んたが元気になったら、他のス うけないで。やけどスギ爺、あ あんたほどこっけいな体もよ ずやがな。 養分の流れる道が太ぉなったは あ っ た ひ び 割 れ を 繋 い だ ん や。 そ う や ろ。 あ ん た の 体 中 に ズしてきたで。 叩きよる。これまで、痛い言わ や。いっちょやったろかい。 きに頑張るきん。 んと我慢してきたんやが、さす ―でました。ゴロハチの魔法の サクラ親父も同じこといい で弁慶さんの七つ道具背負いよ がに葉の量が少のうなってしも 聴診器。ゴロハチはさっそくス よったで。 スギ爺、 よかったなぁ。 その幹やともう末期やな。大 んが。ほれ、スギ爺、しっかり おかしいのぉ。理論と合わへ るみたいやで。 うた。これでは、頼みの花粉を ギ爺に必要なものを与えます。 風で枝葉も折れよるし、そろそ か。ゾクゾクしてきたが… ス ギ 爺 は イ ヤ。 こ れ か ら は スギ兄と呼んでくださる? えらいこっちゃ。サジ加減間 イタタタ…、また大枝が折れ ―コラコラ…。スギ兄も元気に せんか。 仁王さんやお不動さんが てしもた。さすがにもういかん あれ、めでたしめでたし? 違えたんやろか… じっと立ってるのに、ワシだけ なったということで、何はとも どうにもならんときは、ばた のかのぉ。 あんたは偉い。前から思とっ 横着するわけにいかんが。 ろ横になったらどうな。 ワシも若いモンの仲間入り 飛ばすことも適わん。 べんけい きや熊手が納まっとるが。まる 穴のところにうまいことほう しもうた。 のような雄大な姿やなくなって やが、大風で枝葉が折れて、昔 ワシもねばいで頑張っとるん スギ爺がんばれ。 突のようにぽっかりと大きな穴。 姿の乃木さんくらいや。 Denny Horimizu(絵) 生まれ育ちは金蔵寺。金倉寺にて月に 1 度、 EmaFace を展開。似顔絵、ウェルカムボー ド他、ご要望があれば承っています。 http://www.moridukuri.cho-chin.com/ べんてん りょうしょ 良諝と別れの挨拶をし、天台山 けい んは、日本からの求法僧の備え この地で円覚と別れた円珍さ 日のことでした。 神を変貌させたのか、その理由 み だい し かんどう そうぼう とすることを願って、国清寺境 内に止観堂と僧坊の建設に着手 しました。この止観堂が完成し たのは九月七日のことで、国清 寺では「天台国清寺日本国大徳 すると財産を得る事が出来ると して、巳の日に弁才天にお参り 天さまの縁日となりました。そ まのお使いとされ、巳の日が弁 広がります。まず、蛇は弁天さ 財天」へと変貌すると、逸話が ともかく、「弁才天」から「弁 国清寺に帰り着いたのは六月四 ちょうあん はわかっていません。 えんちん 円珍さんの長安でのもうひと いう話になり、蓄財の神として 僧院」と呼ばれました。 その後の国清寺に留まった円 だいまん だ ら ぞう 信仰されるようになったのです。 つの大きな任務は、大曼荼羅像 の 図 絵 を 依 頼 す る こ と で し た。 珍さんは、およそ二年の月日の べんざい ちょう ちなみに、弁天さまは、元来 イ ン ド の 河 神 で あ る こ と か ら、 絵師には宮廷の画工であった刁 しょう スバティーという大河 の 女 神 で でんぽう か 大部分を手に入れた経典類を精 けい 慶を雇い、検閲には伝法和尚で 査し、さまざまな論書と照らし はっせん 日本でも、水に深い関係のある あった法全があたり、事務的な べんざい す。日本には、仏教とともに入っ 場所に祀られることが多いよう えんかく 修学の時間にあてました。 この大曼荼羅像も完成し、円 わ こうして多くの成果を手に円 び 弁舌・学芸の女神でした。また、 それを意識した場所にお迎えし 珍さん一行が長安を発ったの 珍さんが帰朝したのは、天安二 みっきょう ています。弁天さまの歴史を参 は、大中九年(八五六)十一月 年(八五八)六月二十二日のこ 楽の神様とされました 。 てんあん 密教系では、琵琶を持ち弾いて 考に、どうかそれぞれの思いを 二十七日のことでした。その一 とでした。 ひろさちや 集英社 『信ずる心 福神信仰』 だいちゅう おられる姿から、イン ド 同 様 音 持ってお参りください。 らくよう てんだいさんこくせい じ その後、洛陽に一月ほど滞在 えっしゅう した一行は、天台山国清寺への かいげん じ 帰路につきました。道中、越州 開元寺に立ち寄った円珍さんは、 『人物叢書 円珍』 ところが、いつのま に か 福 徳 を授け、財物を与えて く れ る 神 様に変わってしまいま し た 。 即 物的なご利益を授けて ほ し い と いった日本人の願望が 、 こ の 女 佐伯有清 吉川弘文館 行には円覚の姿もありました。 せんじゅつしょ てきたのですが、当初は「弁才 あわせ、撰述書を著すといった 女性神で、元来はイン ド の サ ラ その 11、円珍さん⑩ 天」といわれ、あくまでも学問・ です。 従って、 当寺の弁天さまも、 ことには円覚があたりました。 弁 財天は、七福神の中 で 唯 一 の 弁 天さまとしてなじ み の あ る その 11、弁天さん 逆打ち遍路 うるうどし 今年は四年に一度の閏年。閏 なぜこのように言われている のでしょうか。それはお遍路さ え もんざぶろう んの初代ともいわれる衛門三郎 の伝説が関係しています。 弁財天の安置 前回のYUJで弁財天さまを といったイメージがあります ために二十度四国霊場を巡礼 衛門三郎は弘法大師と会う されました。金倉寺へ参拝の際 したが、昨年末に弁財天が安置 お迎えするとお伝えしておりま が、四国霊場にとって も 特 別 な し ま し た が 会 う こ と が で き ず、 はぜひお詣りください。またカ 年といえばオリンピックの年 一年になります。実は 閏 年 に 四 二十一度目に逆に巡ったところ、 ラーの御影を納経所にて二百円 こうぼう だ い し 国霊場を逆の順に(八 十 八 番 → とうとう弘法大師と会うことが YUJの定期購読 を希望される方は送 付先と部数、できれ ばご感想も(励みに なります)明記して 金倉寺までご連絡下 さい。購読料、送料 ともに無料ですが、 一緒にお寺の行事案 内を送りますことを ご了承下さい。 定期購読の案内 ご覧ください。 は「気になる?気になる!」を 弁財天さまについて、詳しく でお授けしています。 八十七番→…)巡拝する(逆打 で き ま し た。 そ の 年 が 閏 年 で ぎゃく う ち)と、いつもの年の 数 倍 も の あったといわれています。 打ち遍路はいつもの年の数倍の ご利益があるとも、お大師さま に会えるともいわれています。 さらに今年度は、讃岐国限定 で、納経された方に記念散華を お渡しいたします。この散華に は梵字が一つずつ印刷されてお り、讃岐国二十三霊場を巡ると 光明真言が完成するようになっ ています(写真の台紙は千円) 。 今年の四国巡礼は、逆打ち遍路 に挑戦されてみてははいかがで しょうか。 金倉寺掲示板 この伝説がもとで、閏年の逆 ご利益がある、と言わ れ て い る からです。 記念散華 ■編集後記 哲済 今回のテーマは「創世 神 話 」。 ぜ ひ 新 年 に 取 り上げてみたいテーマ で夏頃より温めてまし た。書き出したのは一 週間ほど前からですが。 けど、またまた神さま の話になっちゃった… 香祥 「 気 に な る? 気 に な る!」も、「弁天さま」 やったし、今回のYU Jは神さまづくしやね。 哲済 「 お 寺 に あ る 素 敵 な も のを、発信していきた い」って書いてあるの に、どうしてこうなる のかなぁ…次号はまた 仏教の話にします!取 り上げて欲しいテーマ があれば是非お便りを。 平成二十三年十二月二十八日発行 編集・発行 金倉寺 発行人 村上法照 お問い合わせは 〒七六五ー〇〇三一 香川県善通寺市金蔵寺町一一六〇 TEL〇八七七ー六二ー〇八四五 [email protected] 一月 睦月 二月 如月 四月 卯月 25 か子供が授からな なかな か り てい くて、訶利帝堂に足を運ぶカッ 20 プ ル に は、 い ろ い ろ な 方 が い 14 らっしゃい ま す 。 13 初めは緊張のせいか言葉少なだった 方 も、 お 話 を す る う ち に 、 す っ き り さ 12 れ た 様 子 で 帰 る 方、 た ま っ て い た も 6 のを押し出すかのように涙を浮かべ 22 5 24 る方など。いずれにしても、日常でい 21 4 厄除祈願 かにこの特有の悩みをはき出す場が限ら 20 火 戌の日 れているか を 実 感 し ま す 。 戌の日 月 18 パソコンで検索すればするほど情報は溢れ出し、 かえって不安が増してきます。かといって、周りに 護摩供 日 17 三月 弥生 15 土 戌の日 相 談 で き る よ う な 話 で も な い。 そ う や っ て、 ど ん 25 14 金 11 どん追い詰められるカップ 24 13 木 10 ルも多いのではないでしょ 18 12 水 9 うか。 17 21 31 8 訶 利 帝 堂 は、 そ の よ う な 10 30 3 方々が少し落ち着いて お 話 が で き る、 気 分 転換になる空間にな 9 戌の日 29 火 29 護摩供 8 11 3 31 護摩供 27 23 涅槃会 2 4 1 6 訶利帝母縁日 土 金 木 5 27 戌の日 30 訶利帝母縁日 れ ば、 そ し て、 少 し でも私たちはそのお手 伝いができれいいな、と 思っています。 毎月 28 日午前 11 時から本堂にて 護摩祈願を行います( 12月は除く) 25 20 21 19 願を行います(行事などによる変更あり) 不動尊護摩供 20 18 着帯戌の日 戌の日の午前 11 時と午後 2 時より安産祈 毎月16日午前10時から午後2時まで 訶利帝堂内に参拝できます 19 29 15 訶利帝母縁日 18 15 13 27 17 17 訶利帝母縁日 15 12 戌の日 11 26 13 24 2 30 12 23 1 29 11 6 27 10 8 10 9 8 5 7 4 26 7 22 月 23 6 24 日 22 5 初護摩供 戌の日 初護摩供 3 戌の日 1 水 護摩供 4 23 戌の日 21 土 訶利帝母縁日 金 22 25 戌の日 木 9 水 月 火 日 土 金 木 水 火 月 日
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