極彩グランギニョル - タテ書き小説ネット

極彩グランギニョル
青柳 立夏
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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︻小説タイトル︼
極彩グランギニョル
︻Nコード︼
N6945O
︻作者名︼
青柳 立夏
︻あらすじ︼
金環食の日、異界の扉が開く。年の離れた姉と共に放り込まれた、
たぶん異世界。魔法と姉妹愛とで、なんとかなる・・・かなぁ。
1
2012年5月21日
乗り継ぎの駅で降りると、まず携帯を確認するのが習慣だ。
私の通学電車には1回乗り継ぎがある。姉はその乗り継ぎの駅まで
車でやってきて、それから電車で出勤するのだけれど、私と姉の登
下校や出退勤の時間は基本的には微妙にズレている。
もちろんたまに時間が合えば、この乗り継ぎの駅から車で連れて帰
ってくれる。
というわけで私は、次の電車のホームに移動する前に携帯に姉から
のメールなり着信なりが入っていないかを確認するというわけだ。
﹁でもちょっと早いかな﹂
心の中でそう呟いて、ぱかりと携帯を開くと﹁着信1件﹂の文字。
地味な女子校育ちなのが災いしているのか、学校の友達と家族以外
から連絡が入ることのまずない、極めて健全な携帯電話なので、そ
れだけで姉からだと察することが出来てしまうのが少し哀しいお年
頃だ。
案の定それは姉からの着信だった。
仕事の折り合いで早く帰れるのだろうか。私はすぐに折り返しの電
話をかけた。
﹁あ、お姉ちゃん?﹂
﹁・・・環、今どこ?﹂
掠れた姉の声に私は眉をひそめた。
2
﹁また風邪?﹂
んー、と返ってくる返事にはいつもの姉の、無駄なキレの良さはな
い。
﹁今駅についたとこ。お姉ちゃんは?﹂
﹁ちゅーしゃじょーにいるから、おいで﹂
わかった、と答えて電話を切ると、少し小走りに改札を抜けた。
姉はカラダが弱い。
といっても、何か重篤な持病があるとかではなくて、本当に無駄に
風邪をひきやすい性質なのだ。
予防接種を受けていても、マスクをしていても、手洗い嗽を励行し
ていても、インフルエンザには毎年襲われている。2種類のインフ
ルエンザが流行っていれば、2種類、しかもご丁寧に2回別々に罹
患できる。季節の変わり目には季節風邪。
そんな姉が勤務しているのは製薬会社である。製薬会社の開発部に
いるので、職場はほぼ無菌。おそらく姉の進路選択や職業選択はそ
の﹁無菌﹂を切実に必要としていたからであろう、と私は思ってい
る。
一方の私は健康優良児。学業成績は中の上だが、無遅刻無欠席が唯
一の自慢だ。もちろん姉が何回インフルエンザに罹っていようと私
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には感染らない。
小学生の頃、父親と一緒に庭で裸になって乾布摩擦をしていたおか
げだと思う。たぶん。
当時、もう大学を卒業していた姉はそんな私と父を冷ややかに見て
﹁お父さん、環ももう高学年になるんだから、いい加減にしないと
変質者って言われるわよ﹂ととんでもないことを口走っていた。も
ちろん乾布摩擦などしなかった。
姉は透けるように肌が白い。著しくインドアな性格のせいだろう。
たぶん。同じ両親から生まれても、中学まで陸上部だった私とは人
種の違いぐらいに肌の色が違う。
私と姉は17歳の年齢差がある。現在34歳、そして独身。私のク
ラスメイトの一番若いお母さまは確か37歳。
その話は姉にとって何の感慨ももたらさないらしく、話してみても
﹁20歳で子供産んで、その子供がまた20歳で子供産んだら、4
0歳で孫・・・切なすぎる・・・﹂と他人事のように言うだけだ。
妹の私から見ても、うちの姉は︵性格はともかく︶見た目的に何の
支障もない・・・というか、むしろキレイな方だと思うのに、どう
してこうなのか。たぶん性格のせいだろう。
なにしろ三度の飯より﹁無菌﹂を愛する姉は、どちらかといえば装
飾的でないファッションを好む。スッキリとしたスーツに、髪はさ
らりとしたショートカットで、年がら年中お風呂に入っている。
透けるように白い肌に、切れ長の薄茶色の瞳。感情を垂れ流さない
面差しはクールビューティーという言葉が似合う。﹁跪いて足をお
舐め﹂という台詞で、うちの姉をイメージしてしまうのは私だけで
はないと思う。
まあ、まったく男っ気がなかったのではなく、17歳という年齢差
4
ゆえに姉がそういうことで浮ついていた頃の私はいたいけな小学生
で、その気配を察することも出来なかっただけのことかもしれない。
私の知っている姉は、年の離れた妹をいささか溺愛する傾向のある、
始終風邪をひいている、家族以外に対して無駄に居丈高で潔癖症気
味の困った人だ。
潔癖症の割に2カ月ほど洗車をしていない黒のオペルを見つけて、
私はまた少し足を速めた。着信の時刻からしてもう20分ほど姉を
待たせたことになる。
待っているのは姉の勝手だし、こういうことで怒る人ではないけれ
ど、風邪ひいて会社を早退した人をあえて待たせるのは忍びない。
ここん、と助手席のウィンドウを叩くと姉がロックを解除した。
﹁おかえり﹂
﹁ただいま。お姉ちゃん、また風邪?﹂
頷いた姉は喉がつらいのか余計なことは何も言わずエンジンをかけ
る。
駅に隣接するショッピングモールは、鉄道会社と結んで﹁パークア
ンドライド﹂運動を展開しているとか。姉は乗り継ぎが面倒だから
という理由で、家から電車なら40分ほどのこの駅まで車で通って
いる。
そのショッピングモールの駐車場から車を出すと、姉は気怠そうに
溜息をついた。
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﹁いつもよりひどい感じ?﹂
ん、と頷く姉の瞳は潤んでいる。妙に可愛いベージュの地色にグレ
ーのチェックの入ったマスクは母の手作りだ。
なんとかフラッシュという、日光などを触媒として活性化する殺菌
成分が吹きつけてあるとか。私にはよくわからないけれど、カラダ
の弱い︵というよりも風邪菌に弱い︶姉を育てた母はそういうこと
に敏感だ。実を結んでいるとは言い難いが。
﹁じゃあ早く帰って寝た方がいいね﹂
言いながら私は進行方向に目を向けた。
生憎右折する交差点の信号は赤だ。
あー、と不服の声をあげた姉はぐいっとハンドルを切った。交差点
の手前で近道をするつもりらしいけれど、お姉ちゃん、少しハンド
ル操作が乱暴過ぎます。
と。
﹁なにあれ﹂
﹁・・・ぐ﹂
交差点手前の住宅が立ち並ぶ近道、その家々の屋根の合間に見える
青空にぽかりと裂け目が入っていた。
姉の車は、そのまま住宅と住宅の間へ進んでいく。
﹁今日、何日?﹂
6
マスクを外して姉は掠れた声を出す。珍しく少し焦っている。
﹁え、5月21日だけど﹂
油断した、と姉が言ったとき、車を閃光が包んだ。
7
城
ひゅるりと頼りなく一抹の風が額髪を揺らした。
あの閃光に包まれた時点で乗っていたはずの姉のオペルは、少なく
とも私の周囲には存在していない。
私の周囲に存在しているのは、緑なす草原、そして姉。
﹁どうしよう、お姉ちゃん。ていうかここはどこ。何が起きたの﹂
呆然と呟く私に、姉は苦虫を噛み潰したような顔で答えてくれた。
﹁あなたの好きな小説みたいなことが起きたのよ﹂
﹁はい?﹂
いせかいしょうかん、と姉は言った。
﹁ここは、シュルヴェステル国。ケウルライネン大陸の中央を分断
するルミヤルヴィ山脈の東、サンナ平原、そしてそのサンナ平原を
横断するリューディア川の北に位置する、王制を敷いた国。そして
この草原は・・・アレクサンテリ大公家の領地。地球の日本で20
12年5月12日だった本日、シュルヴェステルではオルセン暦1
490年アラーノの月、シルパ3の日。あなたの名前は、佐藤環で
はなく、サニー・フランシス・オルセン。ただし、オルセンという
姓は通常名乗らないこと。アレクサンテリ大公家のサニーです、で
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済むから﹂
さっきまで車の中でいかにもつらそうにしていた人とは思えない、
しっかりした声と足取りで、姉は草原を迷いなく歩き始めた。
慌てて立ち上がり、それを追いかける。
﹁お姉ちゃん、もう少し筋道だてて話してくれないかな。異世界召
喚とか、そういう冗談はナシで。私って事故のとき気絶したかなん
か?﹂
立ち止った姉は、珍しく諦めたように微笑んだ。
﹁ごめんね、環。いつか言わなくちゃと思ってたけど、言えなかっ
た﹂
﹁は?﹂
﹁私たち家族は、13年前にここから、あの地球のあの国へ跳んだ
の﹂
姉の瞳には、本当に珍しいことだけれど、挑戦的な色の代わりに私
への労わりと気遣いが浮かんでいた。
立ち尽くしていた私は、その場に膝を折った。
﹁お父さんは、アレクサンテリ大公。お母さんはその夫人、私はア
レクサンテリ大公家の長女。あなたが4歳のとき、地球とこことで
同時に金環食が起きた。それは予測されていたことだったから、金
環食に合わせて準備をして、跳んだ。まぁ・・・次元を超えた亡命、
みたいなものかしらね﹂
亡命貴族、あのお父さんとお母さんが。
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﹁ど、どうして? 革命とかなんか?﹂
それに答える姉の言葉に私は頭を抱えてしまった。﹁そんな大層な
ことではなくて・・・お父さん、今の仕事をしたかったらしいのよ
ね﹂
父の職業は電器メーカーの工場勤務。電子レンジとかテレビとかを
組み立てている。
﹁・・・工場勤務したいお貴族さま? 社会主義者かなんか?﹂
﹁じゃなくて。機械が好きなの﹂
そう言って姉は私の手を取り、立たせた。
﹁この世界では、魔力という生命エネルギーによって文明も文化も
成立している。でもその魔力には個人差があってね。魔力の少ない
人々にとってはひどく不自由なことだって多いの。不自由なだけじ
ゃなく、その魔力の多寡で身分も将来もある程度決まってしまうと
いうか。お父さんはそういう事態を憂えて・・・と本人は言ってる
けど、とにかく魔力を使わない生活必需品を開発しようとしていた
ところ、違う次元の世界には魔力の代わりに電力を使う機械文明が
あると聞いて・・・﹂
﹁行っちゃったの?﹂
﹁そう。行っちゃったの﹂
ぐらり、と景色が揺れる気がした。
父のことは大好きだ。毎日楽しそうに仕事に通い、休日ともなれば
庭に建てた﹁研究室﹂という名のささやかなプレハブ小屋でさまざ
まな機械装置を︵大して役には立ちそうもない代物ばかりだったが︶
造るのが唯一の趣味という、極めて無害な人だ。夫にするなら理想
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的だと思う。思っていた。
でも。いくらなんでも。
﹁機械いじりの工場勤務の為に、異世界にまで渡るお貴族さまって、
どっかおかしいんじゃない? 電子レンジのネジより頭のネジ、心
配するべきなんじゃない?﹂
﹁私は、お父さんの頭のネジについては日々心配しているわよ﹂
ひどい言い草だが、それは事実だ。姉がいつまでも嫁に行かないの
は両親が頼りないせいもあるのだろうと常々思っていたぐらいだ。
││ああ、でも。そういう理由ではなかったのかもしれない
13年前といったら姉は21歳だ。もしかしたら、こちらの世界で
誰かと恋をしていたかもしれない。そして父の傍迷惑な趣味を追う
ための異世界渡りに巻き込まれ、引き裂かれ・・・その恋の相手の
ことを忘れられなかったから結婚はしなかったのかも・・・。
﹁お姉ちゃん可哀想﹂
﹁・・・あなたの頭のネジも時々心配よ。さっきまでの会話でどこ
をどうすれば私が可哀想なんて感想に繋がるのか少しも理解できな
いわ﹂
そう言って私に背を向けると、姉はまたさっさと歩き出した。
その背中はずいぶんとしゃっきりしている。
だいいち、声がおかしい。いや、おかしいというか、まともな声に
なっているのだ。
姉の固有名詞を羅列した解説よりも、その身体症状の劇的な改善、
という事実の前にはこの突拍子もない事態にいくばくかの真実味が
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あると思わざるを得なかった。
ショッピングモールの駐車場からここまで、姉の体調が本復するほ
どの時間が経っているにしても、本当に異世界に来てしまったのだ
としても、いずれにせよ突拍子もないことであるには違いない。
だいいちそれほどの時間失神していて、草原で目が覚める時点でお
かしいよね、うんおかしい。それなら普通は病院のベッドの上だよ
ね。せめて家のベッド。一億歩譲って、交通事故のせいで重篤な意
識状態に陥った私を哀れに思った姉が、せめて好きだった草原の風
を︵別に好きだったわけではないが︶感じさせてやろうと連れだし
た・・・ならば、草原は草原でもストレッチャーの上だろうと思う
の。
地面に寝てましたから、気がついたとき。
いくら姉の心は鬼でも、体力の無い姉が私を担いでここを歩けるは
ずはない。
とにかくね、見渡すかぎり、草しかないの。
電線一本見当たらないのよ。おかしくない? いくらなんでも。今
日び、ちょっとやそっとの山の中なら高圧線ぐらい通ってるって話
よね。
﹁そこの斜面を下ったところに城があるから、とりあえずそこに行
きましょう﹂
﹁城? 誰の? 王様の?﹂
﹁うちの﹂
ああ、もういいや。
私はもしかしたら、唐突に記憶が混乱する病気か何かに罹ったのか
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もしれない。つまり姉と二人でハイキングに来て突然意識が、ショ
ッピングモールを出た2012年5月21日に逆行したとかね?
さっきからの姉の言動はぶっ飛んでるけど、うちのお姉ちゃんは、
そんな大変そうな記憶障害に直面した妹を異世界話でからかうほど
鬼だっただろうか。
・・・﹁そんなことない﹂と断言できないのが苦しい。
でも﹁うちの城﹂てなに。
結論。確かに城でした。
江戸城とか名古屋城とか、そういう日本のお城ではなく、シャトー
っていうか。
中世ヨーロッパの貴族のお城という雰囲気の﹁城﹂でした。きっと
これはアレよね、﹁シャトーなんとか﹂っていうラブホだよ、きっ
と。猥雑さはあまり感じられないけれど郊外型ラブホは建築条例の
都合であんまりいかがわしくできないのかもしれない。
門を入ったところから、アプローチ沿いにずらりと・・・使用人?
いや、従業員か。そんなような人々が並んで、姉と私の姿を認め
ると一斉に頭を下げた。
その先頭にいた初老の男性が代表らしく、一歩前に進み出る。
﹁無事の御帰還、心よりお喜び申し上げま・・・﹂
言いかけた男性の頬を姉が拳でぶん殴った。
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﹁おっ、お姉ちゃん!﹂
私の制止の声を無視して姉は、ぞっとするほどの鬼の声を発した。
﹁驚きもせず出迎えるとは、この召喚はそなたらの仕業か﹂
﹁お姉ちゃんひどい。ラブホ借りてまでドッキリに付き合わされて
いる人が気の毒だと思わないの? こんなお歳になってまで・・・
仕事選べないのよ?﹂
姉の鉄拳によろめいたおじいちゃんに駆け寄って、私は姉に言い募
った。
﹁い、いえ、サニー様。レイン様のお怒りはごもっともでございま
す。なれどお優しきお心遣い、まことにありがとうございます。御
幼少の頃よりお優しくていらっしゃいました﹂
﹁もういいんですよ、おじいさん。私もう十分びっくりしましたか
ら。いい画も撮れたと思います。カメラ見当たらないけど、きっと
隠しカメラなんですよね﹂
環、と姉が脱力しきって﹁そういうの﹃否認﹄っていうのよ﹂と呟
いた。
﹁なんてこというのよ。私はまだ清い体よ?﹂
﹁そのヒニンじゃない。受け入れがたい現実を否定して認識しよう
とする姿勢を否認だと言ってるの﹂
﹁平成の日本にこんなふざけた建物があるとしたら、古臭いラブホ
以外の何物でもない!﹂
﹁・・・環﹂
﹁あ、待てよ。メイドさんも執事スタイルも・・・ってことは・・・
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いつから彼等はテーマパークを作るほどの文化に出世したの?﹂
こめかみを押さえる姉の姿を気の毒そうに見た執事らしきおじさん
が︵初老の執事は守備範囲外だったが、これはこれでなかなかイケ
る、と私は思った︶諦めたように首を振った。
﹁レイン様、この召喚は国王陛下の命により王宮魔術師方が執り行
われました。お怒りはごもっともでございますが、明日、陛下への
謁見が申し渡されておりますゆえ、ひとまず城にお入りいただきま
して、おくつろぎのうえ、サニー様にもゆっくりご説明なされた方
がよろしいかと。おそれながらサニー様は・・・この・・・っこの
アドキンスのことも覚えておられぬ御様子にて﹂
最後の方はなぜか声が震えていた。
﹁わーかった。わかったから、泣くな、アドキンス。あのハゲの企
画なのね、これは?﹂
﹁はい・・・国王陛下たってのお望みでございました﹂
﹁というわけだから、環。本日はここに泊るしかないみたい﹂
おお! と俄然テンションが上がる。中世ヨーロッパ風テーマパー
ク御宿泊コース! お嬢さまを溺愛する執事付き。
途中で記憶がぶっ飛んでるのはともかくとして、姉とそういう旅行
に来ていたのだと思えば辻褄は合う。
姉は比較的若いメイドさんたちに囲まれ、私は逆にお母さんぐらい
の年齢のメイドさんたちに案内され、その﹁うちの城﹂とやらに入
ることとなったのだった。
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﹁ねえ、お姉ちゃーん。﹃俺の城﹄っていう飲み屋さんのマッチを
お父さん持ってたけど、ここってそれ系の発想だよね﹂
姉はそれには答えず、可哀想なものを見る目つきで私を一瞥すると、
メイドさんに囲まれたまま城に入っていった。
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私の﹁おねえちゃん﹂
お母さんと似た年格好のメイドさんは先に立って廊下を歩きながら
﹁お渡りになられましたのは、まだ昨日のことのようでございます
のに﹂と慨嘆するという小芝居までしてくれる。
廊下を歩きながら﹁よく出来てるなあ﹂と私はしきりに感心した。
メイドさんの小芝居ではなく、その建築が。
なんかこう・・・安っぽさがないのだ。
もちろん私は建築に詳しいわけでも西洋骨董に詳しいわけでもない
し、実際の古城になど足を踏み入れたこともないけれど、造りが雑
であればそれはそれなりに気付くのではないかと思う、いくらなん
でも。
││まあ、お姉ちゃんがチョイスしたホテルがそんなに安っぽいは
ずもないか
亀の甲より年の功だ、なんて言ったらひっぱたかれるので口にはし
ないが、確かに母と三人で温泉宿に行くときなどに姉が選ぶ宿にハ
ズレがあった例はない。
違和感があるのは、このメイドさんたちだけだ。
避暑地にある中世ヨーロッパの古城を思わせる重厚かつ荘厳な雰囲
気のリッチな滞在型ホテル、というだけなら十分に姉の好みとして
理解出来る。
でもそこにあえて執事風味の支配人やメイド服を着用した年配の女
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性を配するというセンスは、真っ先に拒絶しそうなものだ。しかも
この小芝居。
﹁本当に御身大きくおなりで。さ、こちらがサニー様のお部屋でご
ざいます。お懐かしいことでございましょう﹂
妙に芸が細かいというか、しつこいというか。
そう思いながらも、開け放たれたドアから見える部屋の光景に、微
かな不安を感じて瞬きをした。
決して明晰ではないにせよ、それは一種の既視感。
││私はここを知っている
僅かに褪せたピンク色の壁紙。このまま足を踏み込んだときに感じ
るであろう毛足の長い絨毯に足裏が沈む感触。
そして。
﹁スノードームは、まだある?﹂
咄嗟に頭に浮かんだ物体の名称を口にする。私は、記憶が鮮明な5
月20日までの私は、そんなものを所有してはいなかったはずなの
だ。
しかし、メイドさんはぱっと華やかな笑顔を浮かべた。
﹁もちろんでございます﹂
││嘘でしょ?
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そう。確かにそれはスノードームだ。私の脳裏に咄嗟に浮かんだ通
りの形の。
ただし・・・。
﹁いくらなんでも大き過ぎやしないかな﹂
しかも。
﹁手を触れてもいないのに雪が降り続くという仕掛けはいったい何
デスカ、オネエサマ﹂
肩を落として呟いた独り言の最後に付け加えたのは、姉が入ってく
る気配を感じたせいだ。背後から溜息が聴こえた。
﹁地球から父上が実験として取り寄せたものよ、それは。あなたは
とても気に入ったけれど、小さいのがつまらないと言い、私が魔術
で大きくしたの。そうしたら今度は大き過ぎて回せないとさんざん
駄々をこねてアドキンスがぎっくり腰になるまで回させて・・・あ
れがあまりに哀れだったから私がまた魔術をかけて雪が自動的に循
環するようにした、そういういわくのある代物﹂
異世界、という言葉がじわじわと実感を伴って押し寄せてくる。
私は振り返ることの無いまま、姉に尋ねた。
﹁ねえ。さっきから私は違和感なく会話出来てると思うんだけど、
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ここは日本じゃないの?﹂
姉は﹁メイドやアドキンスたちの唇の動きを見ておきなさい﹂とだ
け言った。
ああ。そうか。
違和感なく理解出来ているから日本語で会話していると思い込んで
いただけなのか。
とても中途半端だ、と私は思った。
たった一人で異世界に放り出されたわけではない。姉と一緒だ。し
かも姉は十分にこの突飛な事態を理解し受け入れている。
異世界といったって、両親と姉︵プラス幼き日の私︶はすでに自分
たちの意思で日本に渡ったことさえあるというのだから、悲観的に
なるところではないと思う。
この世界で生きていくのに、当面は困らなそうだし、日本に帰る方
法も、きっとある。少なくとも姉は知っている。
姉と二人で少し長めの海外旅行に来たとでも思えば良いのかと考え
てみるけれど、そんな呑気な気分にはとうていなれそうになかった。
イタリアだろうがフランスだろうがドイツだろうが、言葉の壁があ
るにしても少なくともそこは地球である。地球の物理法則の範疇で
考え得る事態しか起こらない。
が、しかしここは﹁魔術﹂や﹁召喚﹂なんて言葉が普通に用いられ
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る世界なのだ。
そのうえ・・・。
﹁サニー様、お手を失礼いたします﹂
﹁あのぅ・・・﹂
﹁はい?﹂
﹁服ぐらい自分で脱げます、ていうか、お風呂は一人で入りたいで
す﹂
﹁なりません﹂
ふくよかな笑顔できっぱりと断られた。メイド長のエイダは、気さ
くな雰囲気のあるおばさんで、温泉施設なんかで一緒になるのに抵
抗はない感じではあるのだけれど、﹁湯浴みのお世話﹂までされた
くはない。
﹁サニー様は、こちらでのお暮らしをお忘れでいらっしゃいます。
もとより御年四歳であられた時分にお渡りになられたのですから、
湯浴みをおひとりでなさったことなど一度もございませんのです﹂
﹁・・・はい﹂
﹁その状態でお一人での入浴は危険を伴います﹂
﹁って。お風呂でしょう? いったいどんな危険が・・・﹂
﹁滑って転びます﹂
﹁・・・﹂
最早何も言うまい。
エイダには何も言わず、私は大きく息を吸った。そして肺活量の許
す限りの大声で、この世界で唯一の頼れる人物に助けを求めた。
﹁おねえちゃーーーーーーーーーーーん!!﹂
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﹁さっ、サニー様? レイン様はただいま、明日の謁見に備えてお
衣装を合わせておられる最中で・・・﹂
﹁おねえちゃんを呼んでください。いや、自分で呼びます、おねえ
ちゃーーーーーーん!﹂
そのとき、きんっと五感に響く空間の振動があった。
﹁サニー様・・・﹂
エイダの諦めたような声と裏腹に私は﹁さすがだ!﹂と内心で感嘆
した。きっとこれはあれだ。空間転移というやつだ。きっとそう。
目の前に明るいブルーの光が溢れ、エイダが右手で顔を覆った。
そして私は、制服のブレザーを脱がされ、ネクタイを外され、ブラ
ウスを脱がされ・・・つまり上半身はブラのみ、というあられもな
い格好で、唖然と口を開けた。
﹁いかがした﹂
その声は、中性的なその顔立ちに相応しくテノール気味ではあった
が、少なくとも女性の声ではなかった。
﹁さ、サニー様、落ち着いてくださいませね?﹂
そのエイダの声に弾かれたように私は、両腕で胸を抱え込み、片足
を大きく回して、目の前の﹁男﹂に蹴りを入れたのだった。
﹁落ち着け﹂
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落ち着き払って、私の渾身の回し蹴りをかわした﹁男﹂は、そう言
うとエイダに﹁まだ言っていなかったの?﹂と確認をした。
││ん?
語尾が柔らかくなったことに違和感を覚えて、私はがっちりと両腕
で胸をガードしたまま、眉を寄せて﹁男﹂を睨みつけた。
﹁申し訳ございません、お嬢さま﹂
﹁いやいい。今日は忙しかったものね。湯浴みの折に話すつもりだ
ったのでしょう﹂
﹁さようでございます﹂
││ん?
﹁男﹂は拳を口元に当て、くすりと笑いをこぼした。
なかなかのイケメンである。と言いたいところだが、その目つきが
どうも誰かに似ている気がする。
というか、口調が。語尾が。この人、アレですか。
﹁サニー様。こちらは、第二位王位継承者であらせられます、アレ
クサンテリ大公家御子息レインフォード様で、そのぅ・・・あなた
様の姉君、レイン様の公式でのお姿でいらっしゃいます﹂
﹁・・・は?﹂
﹁レイン様は、本来の御姿はアレクサンテリ大公家の御長女なので
すが、御成人前後の一時期、王太子殿下の御名代が必要となったた
め、公式にはアレクサンテリ大公家の御長男として御公務を務めて
来られました﹂
﹁・・・・・・はい?﹂
﹁驚かれるのもいたしかたないことと存じますが、こちらの方は、
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紛れもなく、姉君のレイン様でいらっしゃいますのよ﹂
﹁ちょちょちょ、っと! だって、これ、このイケメン、男装とか
いうレベルじゃなくない? ホンモノでしょ﹂
﹁・・・ありがとう﹂
そう言うと﹁レインフォード﹂とかいう男は、体をくの字に折り曲
げてひぃひぃと笑いだしたのであった。
限りなく不審なこの男が、私の姉。
年の離れた、少しシスコン気味の、でも聡明で颯爽としたクールな・
・・私のひそかな自慢の姉は、異世界で王子様をやっていた、と。
男装とかを超えて。男性体で。
私の繊細な︵と自分では思っている︶神経にもそろそろ限界がきた
ようで、目の前がすうっと色を失っていくのがわかった。
24
ファースト・レッスン
気がついたのは私の部屋ということになっている最初に通された部
屋だった。
淡いベージュで統一された落ち着いた色調の部屋︵ただし調度はい
ろいろと豪華︶の、無駄に寝心地の良いふかふかの、天蓋付きのベ
ッドの上で。
天蓋付きといってもびろうどのずっしりと重苦しいものではなく、
シルクのような薄物がはらりとかかっている、どちらかといえばシ
ンプルなものであるのが救いだ。
﹁気がついた?﹂
﹁・・・ん﹂
聞き慣れた姉の声で私は身を起こした。
﹁変な夢見ちゃった。お姉ちゃんがイケメンで王子様で﹂
﹁夢じゃないわよ、それ﹂
﹁・・・・・・﹂
私はこめかみに指を当てた。頭が痛くなりそうだ。
﹁あのねお姉ちゃん﹂
﹁ん?﹂
﹁ここが異世界だということは受け入れます。受け入れました。ア
ドキンスさんもエイダさんも、聴こえてくる声と唇の動きが違うも
の。お姉ちゃんの言った通り。魔術か何かで私の理解しやすい言葉
に変換してるのよね? スノードームも、確かに物理的に理解出来
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る種も仕掛けもないのだから、お姉ちゃんの言うとおり、魔術で雪
が降り続いているのよね? でも・・・でもね、お願いだから・・・
こう・・・異世界から来たばかりの、何も知らない私の常識を慮っ
た言動を心がけてくれないかしら﹂
ベッドサイドの肘掛椅子に座って、右肘を立てた姉は面白そうに﹁
例えば?﹂と言った。
││どうしてこの人はこうくつろげるのかしら
この豪華な﹁城﹂の中で、姉はとてもリラックスしていた。
着ている服は、グレーのパンツに白いドレスシャツという、現代日
本にいた頃とそう変わりないものなのに、立ち居振る舞いが馴染み
過ぎている。
﹁日本にいた頃から確かにそういう傾向はあったけれど、お姉ちゃ
んってさ、前置きがなさすぎ。やることも説明も・・・さっきのイ
ケメンはお姉ちゃんが魔術か何かで、そのように幻影を見せたのだ
と思うけれど、いきなり浴室にあの姿で入ってくるというのがそも
そも・・・﹂
﹁違う﹂
﹁もう少しワンクッション置い・・・え?﹂
﹁いろいろ違うわよ﹂
﹁何が違うの﹂
まず一つ、と姉は右手の人差し指を立てる。﹁あの姿はね、幻影じ
ゃないの。実体﹂
﹁はい?﹂
﹁アレクサンテリ大公、つまりうちのお父さんだけど、要するに国
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王陛下の弟なわけね。我が家は王家の極めて近しい分家。シュルヴ
ェステルの王族には、だいたい半々の割合で、身体の組成を変えら
れる人間が生まれるの。組成を変えると言っても、魔獣化したりと
いうことは無理。男性体と女性体を自由に変更できる程度ね。種族
は変えられないけど性別は都合に合わせて、という程度のことなら
出来るの。なのであの時点で私は、遺伝子レベルでも男性体だった
わけ﹂
﹁つまり、お姉ちゃんは、お兄ちゃんにもなれる、と﹂
﹁・・・まあ、そういうことでいいでしょう。それからもう一つ。
私が勝手に入ったわけじゃないわ﹂
私は顔をしかめた。﹁そのぐらい覚えてるわよ。私がお姉ちゃんを
呼んで叫び声をあげたから、慌てて飛んできてくれたんでしょ?﹂
﹁違う﹂
﹁え?﹂
﹁あなたよ﹂
姉がにやっと笑った。
﹁あの空間転移を引き起こしたのは、私じゃなく、環自身なの﹂
﹁・・・はあ?﹂
﹁あなたが私を呼んでる声には気付いたけど、エイダと一緒にお風
呂に入ってる時間だと思ったし、私もあの姿だったし、急いで駆け
付ける必要はないと思ったのよ。そうしたら次の瞬間、転移が始ま
ったの。だから、あれは私がしたことではなく、環の能力で私が移
動させられたってわけ﹂
というわけで、と言って姉が椅子から立ち上がった。
27
﹁お、お姉ちゃん?﹂
﹁あなたのその能力と・・・無自覚と無知をどうにかする必要があ
りそうね﹂
﹁はい?﹂
﹁何かあるたびに無理矢理呼び寄せられたんじゃ困るから﹂
﹁そ、そう?﹂
ちょっとだけ﹁なんて超便利能力﹂と言いかけた私は口を閉じた。
﹁・・・あのね、環。王位継承順位は第二位なんだけど、私の方が
王太子殿下よりも、立場的に軽い分、顔が知られてるの。さっきみ
たいにいきなり私を問答無用で呼び出してごらんなさい。あなたが
どこだかの貴婦人とお茶会をしている真っ最中に﹃アレクサンテリ
大公家のレインフォード殿下﹄が、例えば着替えてる最中だったと
したら、パンツ一枚で登場、なんて大惨事を引き起こしかねない﹂
﹁・・・大惨事だね、それは﹂
﹁でしょう? どこの変態だって話になるわよね?﹂
﹁はい﹂
椅子から立ち上がり、腕組みをした姉が﹁しばらくは家でアドキン
スから一般常識と作法を学ぶことになるわ﹂と言った。
﹁しばらく?﹂
﹁来ちゃった以上は腹を括るしかない﹂
﹁どういうこと?﹂
﹁・・・少なくとも次の金環食が地球と一致するときまでは、帰れ
ない﹂
ぽかんと口を開けて姉を見上げた。
28
﹁それまでの間、環は佐藤さんちの次女にして女子高生の環ちゃん
ではなく、アレクサンテリ大公家の嫡子にして、アレクサンテリ大
公の公務すべてを代行するという意味で、大公そのものになるの﹂
﹁わ・・・私が、ですか?﹂
﹁そうよ。王宮に上がれる程度の作法と常識が身に着いたら、今度
は王宮内にある学問所で魔術の訓練と御公務です﹂
﹁私が?﹂
﹁ええ﹂
﹁お姉ちゃんはその間どこにいるの﹂
﹁諸々の御公務です﹂
﹁王宮で?﹂
﹁だけならいいけどね﹂
憂鬱そうに姉が呟いた。
﹁それ以外のところにも行く可能性があるの?﹂
私のその問いに姉は答えず、困ったように首を振った。
﹁一つだけ、これだけは今すぐ肝に銘じなさい、サニー・フランシ
ス・オルセン。大公という地位と魔力を持つ者として、音にしてい
い言葉とそうでない言葉、あるいは音にしていい時期とそうでない
時期とがある。あなたの不用意な言葉一つで、誰かが首を刎ねられ
るかもしれない、あるいは誰かに呪いが降りかかるかもしれない。
今、環がいるのはそういう世界のそういう立場なの﹂
﹁・・・ひゃい﹂
﹁名前も同じよ﹂
﹁へ?﹂
﹁今私はサニー・フランシス・オルセン、とあなたの名前を呼んだ
けれど、これは真名という。魔力拘束の対象になる名前﹂
29
﹁・・・はあ﹂
﹁王族の真名は、王族以外は知らない﹂
﹁はい﹂
﹁なので、絶対に、名乗っては、ならない﹂
一語一語を区切って重々しく言う姉に、私は慌ててこくこくと頷い
た。
﹁はい、言ってみて﹂
﹁え?﹂
﹁自分の真名を﹂
﹁あ・・・サ、サニー・フラ・・・│││・・・あれ? サニー・
フラン││・・・﹂
﹁これが魔力拘束﹂
どうやったって音の出て来ない喉を押さえて、私は姉を見上げた。
﹁環はまだ・・・この世界の基準では成人に達しているけれど、少
なくともしかるべき覚醒を迎えたわけではないから、私の拘束が効
いている。でもじきに私が施した拘束を自分の意思で解除してしま
うようになるわ。それまでの間にしかるべき教育と訓練を受ける必
要がある﹂
﹁・・・わかりました﹂
こんなわけのわからない力で﹁拘束﹂されるのは勘弁して欲しい。
真名だけならまだしも、他の事にこの﹁魔力拘束﹂とやらが使われ
た場合にとても困ることになるというのは身にしみて理解できまし
た。
﹁明日の謁見はとりあえず私一人でいいみたいだから、あなたはそ
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の間ゆっくりしてなさい﹂
﹁はい﹂
﹁起きたらそこのベルを鳴らしてエイダを呼ぶといいわ。食事が済
んだらアドキンスから簡単な一般常識のレッスンぐらいはあると思
うけど﹂
││あるのかよ
﹁明日、一応伯父さまに説明はしておくから正式な呼び出しはしば
らく経ってからだと思うけどね・・・アレは・・・お忍びでも来そ
うだし・・・﹂
﹁アレ?﹂
憂鬱そうにかぶりを振る姉を首を傾げて見つめても、具体的な固有
名詞は返ってこなかった。
﹁伯父さまって誰デスカー﹂
﹁・・・環、説明はなるべく一度で覚えなさいね﹂
﹁何の説明よ?﹂
﹁うちのお父さんの名前は佐藤重吉。重吉はこの世界では、アレク
サンテリ大公です。そして現国王陛下の弟﹂
﹁へ?﹂
﹁言ったでしょ、ついさっき﹂
││いろいろと御説明くださった事例が強烈過ぎて忘れてました・・
・はっ!
﹁お、お姉ちゃん!﹂
﹁今度は何よ﹂
﹁お、お父さんもマサカ、実はお姫様だったりとか﹂
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﹁ああ、違うわよ。重吉は正真正銘、あの通りのオッサン。性別を
ころころ変えてたのは、私以外では王太子殿下と、お祖父さま・・・
っていうかお祖母さまっていうか、とにかく前国王陛下ね。隔世遺
伝するケースが多いみたい﹂
頭が痛くなってきました、本当に。
﹁というわけだから、なんていうか・・・シュルヴェステルの王宮
や大公家などでは、あんまり性別による取り扱いの違いがないとい
うか、ね﹂
﹁へ?﹂
﹁アドキンスやエイダには重々言いつけてはあるんだけど、環も気
をつけてね﹂
﹁な、なにを、でしょう﹂
﹁つまり、私の妹なわけだから、魔力が覚醒したら男性化するので
はないかと、若いメイドたちがそういう期待をして、よからぬ行為
に及ばないとも限らない。まぁ、環がいいなら私は別に構わないん
だけど。メイドに押し倒されて、男性化した途端に童貞卒業ってい
うのも少し哀しいんじゃないかなあと思うの﹂
もう泣きそうです。
﹁わ、私もそうなの?﹂
﹁さあ。4歳までの間に男性化したことはなかったわよ。でもそれ
からずっと日本にいたでしょ。だから、そこらへんがどうなのかは
ちょっとまだはっきりしないわ。まぁ、いずれにせよ、ね。男性化
するにせよしないにせよ、自分の貞操は自分で守りなさい﹂
││この国の若いメイドっていったい・・・
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﹁いったいどういうメイド教育をしてるのよ、大公家のくせに!﹂
姉は苦笑して﹁大公家のメイドは、それはもう、優秀よ。他のとこ
ろにいるよりは、たぶん安全なんじゃないかしら﹂と、まったく慰
めにならないことを言い置いて、部屋を後にした。
翌朝、陽もずいぶんと高くなってからやっと目覚めた私はエイダに
よって着替えさせられ、ブランチを摂ったあと、エイダに尋ねた。
﹁エイダさん。昨日、おねえ・・・姉上から伺いましたが、大公家
のメイドともあろう皆さんが、その・・・私の、私のですね、貞操
を・・・﹂
﹁まぁ、ほほほ﹂
エイダは可笑しそうに声をあげて笑った。
﹁冗談、ですよね? こちらの皆さんは優秀な方だとは言ってまし
たけど、それならそんなことするはずありませんしね?﹂
そうですわね、と一応は同意しながらエイダが私の髪を櫛で梳いて
くれる。
﹁もちろん当家の使用人は十分に優秀でございます。また、淫魔族
への耐性も強い家系から選んでおりますので、他家のメイドたちよ
りは安心していただいてよろしいかと﹂
﹁・・・はい?﹂
33
﹁ただ、レイン様もそうですが、淫魔の血が色濃くお出になった場
合ですと・・・万一のことがないとも言い切れませんのですよ﹂
﹁いんま・・・﹂
ぴた、と櫛が止まる。
﹁申し訳ございません、レイン様からそのあたりのお話はまだ?﹂
﹁いんまの話はまだです・・・﹂
││もう泣いていいですか
これは失礼いたしました、とエイダは深々と頭を下げた。
﹁これは特に機密の事項ではございませんので、私から御説明申し
上げても構いません。畏れ多くもシュルヴェステル王家におかれま
しては、その始祖に淫魔族の血が入っていると伝えられております。
レイン様のように性別を変えることがお出来になる能力というのも、
淫魔の血に由来するものでございます。淫魔の血が濃ければ、性別
を変えることも容易くお出来になる、しかし、一方で淫魔の血濃き
ゆえに、耐性のない人間はその魅力の前に理性を失ってしまうので
ございます﹂
﹁は・・・はは・・・﹂
再び櫛をとって髪を梳き始めたエイダは、本当に耐性があるのかど
うか疑わしい、うっとりした目つきで続けた。
﹁レイン様も王太子殿下も、先王陛下に非常に良く似ておいでで、
強い魔力と淫魔の血を色濃く受け継いでいらっしゃいますから、幼
き頃よりお二人が睦まじく過ごされるときなどは、まだ頑是ないレ
イン様と王太子殿下であろうとも、それは絵のように妖しく美しく﹂
34
何か可笑しな形容詞が混じっている気がします。
﹁王宮で数名の侍女が発狂したことを受けて﹂
すごく物騒な動詞が聴こえました。
﹁王宮と大公家では、使用人の魔力や耐性の有無まで調査してから
雇うことと決まっているのでございますよ﹂
安心させるような微笑みを浮かべて﹁さぁ出来た﹂と鏡の中の私を
エイダは見つめた。
﹁あ、ありがとうございます﹂
遠い日本のお父さまお母さま。
お姉ちゃんは、お兄ちゃんで王子様で、ついでに淫魔だそうです。
ここで無事に生きていけるかもしれない、という安心感が砂上の楼
閣のようにさらさらと崩れ落ちていきます。
35
帰還の日
平原の彼方に彼方に青白い稲光が天空を貫いて輝くのを認め、魔術
師たちは歓声を上げた。
﹁成功だ・・・!﹂
﹁国王陛下に奏上せよ!﹂
﹁大公家へ使い魔を飛ばせ﹂
日頃沈着なはずの魔術師たちが浮き立つのを眺めて、王宮魔術師団
長クルト・アーデルベルト・ヒルシュは﹁やれやれ﹂と安堵とも苦
笑ともつかない息を漏らした。
﹁ヒルシュ男爵、おめでとうございます﹂
隣に立った近衛騎士の制服を着た長身の男がそう声を発した。ゲア
ハルト・ヴィクトール・クラウス・ライヒである。
﹁ヴィクトール、本当にそう思うかね﹂
﹁・・・陛下は少なくともお喜びになる﹂
﹁大公家への使いには何と?﹂
﹁明日の謁見を伝えてあります﹂
明日か、とヒルシュは反射的に左の頬を撫でた。
﹁治癒術者たちを揃えておこう﹂
﹁それがよろしいかと﹂
﹁レイン様として謁見なさるならまだいいのだが﹂
﹁鉄拳制裁の可能性を考えれば、レイン様の方が被害は少なくて済
36
みますからね﹂
﹁レインフォード殿下として、であろうな、きっと﹂
﹁おそらくは﹂
アレクサンテリ大公家令息レインフォードは、その中性的な美貌の
みならず、卓越した戦術においても、また詠唱も陣も用いず術を発
動させ得る高過ぎる魔力とで、王宮の文官武官とを問わず、高い尊
敬を勝ち得ていた。
ただし、王族の近くに侍ることを許された高官たちは、その限りで
はない。
強過ぎる魔力の持ち主は往々にして、自我もまた強烈である。魔力
と生命エネルギーとがイコールであるこの世界において、それは当
然の理。
シュルヴェステルの双璧と称される王太子エセルバートと第二位王
位継承者レインフォードとは、一方を﹁炎のエセルバート﹂もう一
方を﹁嵐のレインフォード﹂と綽名される気性の激しさまでも双璧
を成していた。
その﹁嵐のレインフォード﹂が、この召喚に対してどういう反応を
見せるか、考えるだけでも寒気がする。
界を渡ったときのレインの言葉を、ヒルシュはまだ忘れてはいなか
った。
││エセルがいる。この国の王太子はエセルだ。エセルが王では諸
国に対抗できないというのは己の外交能力の欠如を誤魔化す言い訳
に過ぎぬ
数多の高官たち││無論、民草に比べれば遥かに高い魔力を誇る集
37
団││が震えあがるほどの勢いで、謁見室の半分を吹き飛ばし、王
位継承を促す彼等への怒りを露わにした。
﹁王太子殿下が王となられたという召喚であるならばまだしも。こ
のような有様では﹂
﹁やはり結界を施しておいたほうがよろしいのでは?﹂
﹁レイン様のお怒りの前に、我等が結界など文鳥の籠じゃ﹂
シュルヴェステル王国は、未だ王位継承問題に揺れていた。
﹁それは祝着至極。到達地点は予定通りか?﹂
玉座の前に跪いた使者は﹁仰せの通り、大公家の領地内、狩の草原
とみえます﹂そう、きびきびした言葉で告げる。
﹁レインの機嫌はいかがか﹂
王の言葉に使者は戸惑ったように﹁は・・・レ、レインフォード様
におかれましては、現在のところまだ居城にお入りになってはおら
れませぬゆえ、御機嫌までは・・・申し訳ございません﹂と平伏し
た。
﹁ああ、よい・・・あれの機嫌が良いはずはない﹂
﹁大公家の執事殿より、居城にお入りになられましたらすぐに連絡
が来る手筈となっておりますゆえ、いましばらくのお待ちを﹂
﹁・・・アドキンス。気の毒な役回りをさせた﹂
38
死にはすまい、と国王が呟いた物騒な一言は幸い使者の耳には入ら
なかった。
使者が退出したあと国王は再び独言する。﹁ヒルシュが何も言って
こぬということは・・・二人の召喚が成功した、ということか﹂
玉座から見える窓の向こうには、急激に黒い雲が盛りあがり始めて
いた。
凄まじき力が世界をこじ開けて入ってきたことを感じ、彼女は眼を
瞠った。
﹁レインか? いや、レインだけではない・・・もう一つは・・・﹂
シュルヴェステル王家より、連絡は受けていた。
彼女の即位に際し強く支持を表明し、継承戦争に王位継承順位第二
位である﹁嵐のレインフォード﹂の出兵までも許したシュルヴェス
テル王国は、友好国という以上の存在である。
よってこの国は、大公家が界渡りをしたことを知らされた唯一の国
でもあった。
﹁面白い気をしておる﹂
レインの帰還が叶ったということならば、近々連絡が入るに違いな
い、と彼女は考えた。
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そのときにこの﹁もうひとつ﹂への対面も適うであろう。
この尋常ならざる気に、他国の王ならいざしらず、この自分が気付
かぬとはよもやシュルヴェステルの国王も思いはすまい。
││あのハゲがいくら阿呆でも
彼女は、シュルヴェステル王の優柔不断ぶりにほとほと呆れ果てて
いた。友好国として敬意は表するが、レインや王太子に対するほど
の親しみを国王に対しては感じない。
なので、彼女としてはとっとと王太子が即位すればよい、と他人事
ながら思うのだ。
││そしてレインは妾が妻とする
うんうん、と彼女は満足げに頷いた。妻でも夫でもどっちでも構わ
ないアバウトな伴侶の決め方なのは、彼女が魔族だからである。
齢292歳。魔の国の女王は、魔城から狩人のごとき殺気を立ち上
らせた。
ぞくりと背中に悪寒を感じたレインフォードは、外套の襟をきつく
合わせた。
﹁・・・面倒だ﹂
40
自分ひとりだけを召喚されたのならば、とっくに昨日のうちに王城
に転移してどいつもこいつも破壊してやってもよかった。
こうして早朝から男性体に変異して、臣下の礼をとって馬車で王宮
に向かっているのは、ひとえに﹁アレクサンテリ大公﹂への配慮ゆ
えである。
なぜ自分だけでなく環まで召喚されたのか。
その真意を確かめないうちは、思い切ったことは出来ない、と判断
した。
﹁ああ・・・面倒だ﹂
昨夜からまとわりつくピンク色の﹁気﹂が鬱陶しく、レインはひど
く苛立っている。
いくつもある界渡りの理由の一つは、間違いなくこれだった。
当代の魔王は、王として、外交交渉の相手として申し分ない。その
点においてレインは彼女を認めている。
優れた王である。親政の手腕だけなら。
問題は、たったひとつ。そしてそれが大問題なのである。
﹁くそ・・・あのハゲだけはぶっとばす﹂
姪が魔王︵女性体︶に熱烈に求愛されていると知りながらこの世界
に呼び戻す伯父がいったいどこにいる、とレインはぶつぶつこぼし
た。
41
腕組みをして王太子エセルバートは窓の外を眺めていた。
﹁レインが近づいてきた﹂
﹁さようで﹂
楽しげにエセルバートは﹁ヴィクトール、ひとまず安心するが良い﹂
と言って口の端を上げる。
﹁は?﹂
﹁レインは、陛下を殴りはしてもそなたらを殴るつもりはないよう
だぞ﹂
シュルヴェステルの双璧、と言われるのは何も並び称される能力か
らだけではない。エセルバートとレインの間には、心を読み合う回
路のようなものが開いている。
意識的にその回路を閉じるとエセルバートは﹁出かける﹂と言った。
﹁殿下。謁見の間には・・・﹂
﹁行く必要はない﹂
きっぱりと王太子エセルバートは言った。
﹁しかし・・・﹂
﹁陛下とレインの間で取り決めはなされよう。私の出る幕はない﹂
42
外套を羽織ったエセルバートは﹁そうだ﹂とヴィクトールに向き直
った。
﹁ヒルシュに申しつけて、結界を強めてやれ。昨夜からあの女につ
きまとわれて疲れ果てているようだから﹂
﹁あの女﹂が誰なのかヴィクトールはもちろん知らないはずだが、
それを隠して﹁御意﹂とだけ言って下がった。
││魔国との友好に傷をつけるつもりか
かつて自分が言った台詞を思い出す。
それに応じたレインの台詞も。
││魔族の仕業なら彼女も知っているべきだ、そうは思わないの?
思わなかったし、今も思っていない。
彼女が知れば、奪われてしまう。
﹁レインはさっさと嫁に行けばいいと思う﹂
本人が知れば頭を掻き毟って抵抗するに違いない口癖を呟いて、エ
セルバートはふわりとスカートを揺らして転移した。
43
Little
ONE
﹁武官や魔術師たちは、王太子エセルバート殿下を﹃炎のエセルバ
ート﹄レイン様を﹃嵐のレインフォード﹄と称しておりますように、
お二方は他国からも﹃シュルヴェステルの双璧﹄と呼ばれるほどの
高い魔力と行動力を以て、王族として並々ならぬ資質を証明し続け
ておいでです﹂
アドキンスさんの﹁一般常識講座第一回﹂の最中である。
﹁嵐のレインフォード、ですか・・・﹂
﹁なにか﹂
﹁いえ、大したことじゃないんですけど、お姉ちゃん・・・あ、姉
上、はあちらの世界での名前が雫というんです。雫と嵐じゃ大違い
だなと思って﹂
なるほど、とアドキンスさんは重々しく頷いた。
﹁良いところにお気づきになられました。レイン様の御名は、レイ
ン様御自身が水の女神の加護を強く受けておられるゆえのものでご
ざいます。同様に、これまでお暮らしの世界でも、水のお名前を用
いておいでだったのでしょう﹂
﹁水の女神の加護・・・やっぱり水属性の魔法に強いとかあるんで
すか?﹂
﹁左様でございます。と申しましても、生来の魔力が大変お強い御
方でございますので、他の属性の魔法でも、王太子殿下を除けばど
なたにもひけはおとりになりまぬが﹂
﹁水属性は特に、ってことですか?﹂
﹁仰せの通り。レイン様が強い感情に支配されておいでのときは、
44
だいたい嵐になります﹂
﹁は?﹂
﹁前回の嵐は、界渡りの前々日でございましたか﹂
遠い目をしたアドキンスさんがぼそりと言った。
﹁何か、あったんですか?﹂
私の問いに少し迷ったが、一つ頷くと﹁いずれ御説明申し上げる必
要は出てまいりましょう﹂と言って答えてくれた。
﹁本来であれば、レイン様はあくまでも王位継承順位で言えば第二
位。王太子殿下が前面にお出になるのが筋でございます。ですが、
御成人あそばされてよりこのかた、レイン様は、レインフォード様
として男性体で、王族の諸々の御公務をこなしておいででした。そ
うした事績が重なるにつれ、王位継承順位そのものを見直すべきだ
という声が諸侯の間で高まったのでございます﹂
﹁えーっと、つまり、レインフォードを王太子に、というキャンペ
ーンが起きたということ?﹂
﹁左様。国王陛下御臨席の御前会議の最中のことでございました。
とある諸侯が、かねてより彼等の間で懸案となっていた事柄である
として、国王陛下に御進言申し上げたのでございます。その途端、
晴天にわかに掻き曇り、轟く雷鳴に王宮は近衛兵から水汲み女に至
るまで悲鳴をあげたといいます。雷鳴轟くのみならず、御前会議が
催されていた王宮・楓の間は雷の直撃を受け、屋根が半分ほど失わ
れ・・・﹂
││お姉ちゃん・・・
名調子で続けようとするアドキンスさんを両手で﹁どうどう﹂と押
45
しとどめた。
﹁だいたいのところは理解できました。でもどうして姉はそんなに
気分を害したのでしょう?﹂
﹁レイン様は・・・序列を重んじる御方でいらっしゃいます。国王
陛下に御子がおありでないならともかく、歴とした王太子がおわす
時点で王位継承順位を云々するその姿勢こそが国の乱れを招くと﹂
なるほど。
姉の言いそうなことである。私は深く深く頷いた。
﹁そういうヒトですよね﹂
﹁はい。そのような御気性の御方であらせられます﹂
﹁でもその王太子殿下は、なぜ後の国王にふさわしくないんですか
? 王位継承問題が浮上したということは何か問題があったからで
すよね? その・・・なんだっけ﹃炎のエセルバート﹄さんに﹂
﹁いくぶん御病弱であらせられるのです﹂
すらすらとアドキンスさんが答えた。
﹁そもそもレイン様が、レインフォード様として国政の前面にお出
になったのもそのためでございます。王太子の激務は、エセルバー
ト殿下御一人には重すぎる荷物だったのでございましょう﹂
﹁じゃ、諸侯の皆さんにも一理あったわけですね﹂
﹁レイン様はそうはお思いにならなかったようですが﹂
﹁というと?﹂
﹁レイン様のお考えは、私ごときには然とはわかりかねますが、わ
かる範囲で申し上げますと、つまりは王が誰であろうと、それを支
えるだけの能力が諸侯や官吏にはあるべきだと。王太子殿下に致命
的な能力的人格的欠陥があるわけでもないのに、王太子をすげ替え
46
ねば諸外国との外交に支障が生じるという考えそのものが怠慢であ
る、とおっしゃられたそうにございます﹂
ふむふむ、と私は頷いた。
その頃すでに日本や地球について聞き知ってはいたはずだ。スノー
ドームその他を取り寄せる実験をしていただろうから。
姉のその発想││有能な官吏と閣僚の力で政治が滞りなく行われ、
王族は象徴的に存在する││は、とても地球っぽいな、と思う。
そこでふと思った。
﹁アドキンスさん、この国・・・というかこの世界は、王様が直接
政治を行われるわけですか? 大臣とか官吏とかは?﹂
﹁もちろんおいででございますが、大方は王族の手によって政は為
されております。大臣と申しましても、貴族諸侯の名誉職といった
趣が強く、生まれながらに王族として帝王学を学ばれた王族の皆様
にはとても及ぶものではございませぬ﹂
││はっはーん
言葉を選んだアドキンスさんの表現から、とりあえずかいつまんで
理解したのは、要するにこの国の﹁大臣﹂たちは、身分が高いだけ
の烏合の衆である、ということだった。
﹁・・・サニー様はお聡くていらっしゃる﹂
﹁は?﹂
﹁いえ。今日はもうずいぶんと多くのことを学ばれました。そろそ
ろお疲れでございましょう﹂
││いえいえ、学校で勉強することに比べたら
47
関数や古文に比べたら﹁本日のお勉強﹂は、まるでファンタジーの
世界なので、脳はさほど疲れていない。
疲れているのはむしろ感情の方。淫魔とか淫魔とか淫魔とか。
姉が男性体でイケメンの王子様だった、ということよりも﹁淫魔﹂
問題の方が重大である。処女の私にとっては。
姉に淫魔の血が流れているということは私もじゃん、とかね。
﹁お部屋にお戻りになりますか?﹂
﹁あ、いえ﹂
アドキンスさんが怪訝そうに私の目を覗き込んでくる。
﹁お庭、とかありますよね。昨日ちらっと見た限りですけど﹂
﹁ええ。庭園を御散策なさいますか﹂
││﹁お庭﹂じゃなくて﹁庭園﹂かよ
にっこりとほほ笑んで私は﹁ちょっとそこらへん、という程度でい
いんですけど﹂と応じた。
庭に出た私にアドキンスさんは言った。
﹁レイン様がお出かけの前に庭園にも結界を施しておいでです。と
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申しましても、あまりに広大な庭園全部というのは必要ないとの御
判断でございました。サニー様が﹃庭﹄と認識なさる程度の範囲で
よろしい、と仰せでしたが、見当はおつきになりますか?﹂
││それってすっごく狭い範囲なんじゃないの? ここの規模に比
して
ちょっと卑屈になりそうだったが、アドキンスさんにそれをぶつけ
ても仕方がない。
﹁ええ。だいたいは。それにこの・・・皮膚にちくちくする感じが
魔力っていうことです、よね?﹂
﹁おお。それがおわかりになられるのでしたら話は早い。左様、そ
れが結界の魔力をお感じになっておられるということでございます。
その感覚の消えぬところまで、というのを目安に御散策くださいま
せ。ご希望でしたら私が同行いたしますが﹂
控え目に付け加えた言葉に私は慌てて首を振った。
﹁よろしいのですか?﹂
﹁ええ。少し一人で外の空気を吸いたいだけですから。それに姉の、
結界? の中だけ、ということでしょう? だったら一人で大丈夫
です﹂
とりあえず一人になりたいのでございます。
アドキンスさんもエイダさんもいい人たちだし、この世界に来て2
日目の私が日常生活の瑣末なことでも戸惑うと考えてずっとついて
てくれるのはありがたいのだけれど、そろそろ自由行動がしたい。
割と切実に。
49
こちらの世界のお嬢さまならいざしらず、日本での私は女子高生︵
庶民︶だったわけだから、いい歳をしたおじさんおばさんが24時
間くっついてくる生活なんて、ストレス以外の何物でもない。
﹁そうですね。お一人のお時間も必要でございましょう﹂
││おお、アドキンスさんわかってる!
﹁では、くれぐれもお気をつけて。もし何か不都合がございました
ら、お心のうちで私をお呼び下さればすぐに参りますので﹂
﹁あ、アレですね。瞬時に移動するとかいう﹂
﹁はい﹂
満足げに微笑んで、アドキンスさんは出血大サービス的に私の眼前
でふっと掻き消えて見せてくれた。
ちょっと粋なおじさんである。
﹁さて、と﹂
││しかし、広過ぎるだろう
思わず苦笑が漏れる。
よく手入れされた芝生に生垣。
だだっ広いだけで花のないその一角は馬で走れそうなぐらいだ。
││というか、たぶんそうなんだろうな
起きて身支度をした私が、姉はもう出かけたのかと尋ねると、アド
キンスさんは﹁はい。正式の謁見でございますので馬車での登城で
50
ございます。早暁に御出発になりました﹂と教えてくれた。
つまり、馬車があって馬がいる、と。
玄関から僅かに脇に入ったこの一角は、馬で駆け込んできてもいい
ように、というスペースなのだと考えられる。
日本にいる母は、ここに比べれば花壇と間違えられそうなほど小さ
な庭ではあったけれど、庭にはどの季節でもたいてい何かしらの花
を咲かせていたように思う。
その母が、貴族の夫人だからといって花の一輪もないこの庭をその
ままにしていたとは思えないので、きっとどこかに花の咲く庭があ
るはずだ。
くるりと向き直って芝生に足を踏み入れた私は、そこに想像もしな
かったものを見つけて、固まった。
ばし、と口を手で覆い、叫び出しそうになるのを堪える。
││ちょ・・・なにこれ、かわいい!
私を見上げているのは、黒曜石のように黒く艶やかな瞳を持つ、真
っ白なふわふわの、仔犬だった。ぶっとい前足はそれが相当な大型
犬の仔であることを示している。首には真っ赤なリボン。
││そうか! そうよね、こんだけ広かったら犬は飼い放題! ど
んな超大型犬でもどんと来いだよ。神様、これは私への贈り物でし
ょうか。ですよね、きっとそう。ていうか、うちの庭にいた時点で
もう私のモノ
迷わずそれを抱き上げて頬擦りである。
白いふわふわの被毛の中にたまに強い毛が混じっているのは、少し
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毛が生え換わり始めているのだろう。ふわふわのアンダーコートと、
硬いトップコート、そして立ち耳。
これ何の犬種だろう。
異世界だから、あんまり見たことない犬種なのかな。
でもいいや。かわいいから。
仔犬はふんふんふんふんと私の耳の匂いを嗅いでいる。
﹁名前は何にしようねぇ﹂
私がそう呟いたときだった。
ちりっと五感を騒がせる気配を感じ、辺りを見回す。
ピンク色の靄が、さっきまで私が立っていた地点に漂い始めていた。
││これ、お姉ちゃんじゃない、よね
昨夜姉が転移してきたときには、こんな色はしていなかった。
というか、ピンク色という愛らしい色であるはずなのに、どこか禍
々しいのはなぜだろう。
仔犬を抱いたまま思わず後ずさってしまう。禍々しいピンク色って、
なんかすごくイヤ。
ごくりと息を飲んで、靄が晴れるのを待った。
靄の中からいったいどんなトンデモ生物が現れるのか、と思いなが
ら。
ゆるりと風に流れていく靄の中から現れたのは、ものすごい美女だ
った。
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﹁ほぅ・・・そちは・・・﹂
私の顔を見て、その絶世の美女は少し驚いたようで、そんなことを
呟くと、唐突に両手を広げた。
││さ、叫びたい。お姉ちゃん助けてって叫びたいけど、でも、昨
日それやってちくちく皮肉を言われたばっかりだし・・・
一瞬だけ逡巡した。
﹁さぁ! 母と呼べ。父でも良いぞ!﹂
││これは非常事態と判断します、オネエサマ!
﹁おっ、お姉ちゃーーーーーーん! 変質者登場ーーーーーーー!﹂
とりあえず私は全身全霊で叫んだのであった。
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光の子
青い閃光がきっと姉の色。
そう見てとった瞬間に安堵した私は、次の瞬間、我が目を疑った。
││国王陛下に﹁謁見﹂に行ってたんじゃなかったの?
美しい紺青の髪は乱れ、サッシュ︵剣帯︶は半分ほどかれ、白い乗
馬ズボンみたいなものはウェストが弛められ、勲章がじゃらじゃら
下がった軍服仕様の詰襟の上着ははだけられ、中に着ている白いシ
ャツのボタンは吹っ飛び、中性的な美貌の割に逞しい胸板まで覗い
ている。
﹁お・お姉・・・サマ﹂
そのあられもない服装を指摘しようとしたとき、怪訝な顔で周囲を
見回した姉は心底うんざりしたような溜息をついた。
﹁なにこれもう・・・早速勢ぞろいとか・・・どこから突っ込んで
いいのかわからない﹂
││それはこっちの台詞ですがオネエサマ
言いかけた私が声を発する前に姉︵男性体︶は私に向かってピッと
指を突き付けた。
﹁まず、サニー。幼稚園でいじめられた子供じゃあるまいし、いち
いち私を呼ばないで﹂
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﹁・・・はい﹂
││そうですね、お楽しみの最中におよび立ていたしまして申し訳
ございませんでしたね、しかたないですよね、だってレインフォー
ド閣下は淫魔ですからね!
そんな私の声を代弁するかのように、変質者︵女性体︶が口を開い
た。
﹁ずいぶんな申しようではないか、レイン。いや、今はレインフォ
ードか。妾というものがありながら、どこぞの女官とお楽しみであ
ったか?﹂
やめて! と女性的な語尾で変質者の声を遮った姉は耳を塞いだ。
﹁・・・お、お姉ちゃん﹂
私の言葉を聴き咎めたのか、変質者は﹁ん?﹂と怪訝な顔をした。
﹁姉、とな?﹂
﹁え? そうですよ。あれが、一応、私の姉です。今は兄っぽくな
ってますけど﹂
﹁・・・ふむ。左様であったか﹂
変質者はドレスの裾を軽く摘んで、優雅な貴婦人の礼をとった。
﹁それは大変な失礼をいたした、アレクサンテリ大公の御息女とは
つゆ知らず。妾はアルタミラーノ王国を治めておるミレーナ・フラ
ッツォーニと申す者。妾の即位にまつわる我が国での内乱には、シ
ュルヴェストル国国王陛下の名代として、こちらのレインフォード
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閣下にはひとかたならぬご尽力を賜った。その妹御とあらば、妾の
妹も同然。今後ともよしなにお付き合い願いたい﹂
と、変質者は流れるように自らの立場を明かし・・・ん?
﹁え、えぇ? じょ、女王様なんですか?﹂
﹁ふむ。そうとも申すな﹂
慌てて私は、仔犬を抱いたままぺこぺこと頭を下げた。
﹁それは、えーっと、変質者とかってすごく失礼なこと言いました。
すいません、もうホンットすいません﹂
﹁・・・それは別に間違いじゃないからいい﹂
しゃがみこんだまま姉がぼそりと言う。
﹁ちょ、お姉ちゃん!﹂
﹁よいよい。レインはもとよりこのような物言いをするのじゃ、妾
に対してのみ、の﹂
若干得意げな女王陛下︵どっかよその国の︶だったが、それのどこ
が自慢ポイントなのか、悪いけど全然わからない。
その私と女王陛下を無視して、姉は私が抱いている仔犬に話しかけ
た。
﹁・・・その格好はナシじゃないですか﹂
仔犬は何を言われているのかわからないらしく、愛らしく小首を傾
げる。
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﹁あ、そうだ、お姉ちゃん。私ってここの家の当主みたいなものな
のよね? だったらこの子飼う件、もう決定したから﹂
急いで私はそう言った。﹁私の庭にいたもふもふは私の愛犬ですか
ら!﹂
姉は大きく大きく溜息をつく。
﹁・・・・・・これは、犬じゃないわよ﹂
﹁どうしてよ、どこからどう見たって可愛い仔犬じゃない。そんな
ガタイでオネエ言葉喋る変態しかも淫魔に種族についてケチをつけ
る資格はないと思う﹂
﹁いろいろと指摘したい発言だけど聞き流してあげる。あのね、サ
ニー。これは、犬じゃなくて狼。天狼と呼ばれる高位魔獣、その中
でも最高位の天狼族の長、いわば女王。年齢は推定3﹂
その刹那、私の腕の中で仔犬が激しい敵意を込めて盛大に吠え始め
た。
││うっわ・・・
﹁もう、お姉ちゃん。こういう超大型犬の声って響くんだから﹂
私の非難などどこ吹く風で、姉は仔犬を睨みつけた。﹁恥ずかしく
ないんですか、その姿。いい歳して真っ赤なリボンとか、超有り得
ない﹂
その姉の台詞がツボに入ったらしく、絶世の美女にして変質者で女
王な人は身を捩って笑い始めてしまった。
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﹁確かにのう。いかな妾とてそれは無理じゃ﹂
﹃・・・無礼な輩どもめ﹄
﹁・・・お姉ちゃん、今、黄色い髪の、男名前で年齢不詳の、霊と
か見えちゃうヒトの声が聴こえた気がします﹂
﹁レインの妹御、サニーよ、その自称仔犬を下に下ろしてやるがよ
い。さて、天狼の長ともあろう貴女じゃ。偽りの姿ではなく、真実
の姿で契約を交わされよ。目的はそれであろう?﹂
その言葉に姉が少し驚きに目を瞠った、ように見えた。
腕の中からすたんと地面に飛び降りた仔犬もとい天狼は、お利口に
お座りをした。
﹃真実の姿はおいおい見せてやらねばこの娘が驚くと思うたがゆえ
ぞ。貴殿のような癖は私にはない﹄
女王陛下に向かってお座りをした仔犬もとい天狼の声、だろうか?
﹁・・・どこをどうやったら、あの姿を﹃おいおい﹄見せられると
思うんですか﹂
姉の声に反応して天狼は︵きっともうそれで決まりなんだろうな︶
首を傾げる。
﹃おいおい成長するのを装ってだな﹄
﹁・・・何千年生きようとも、犬はあんなにでかくなりません。だ
いいち犬は3千年も生きません。驚かさないでむしろ喜ばせる方法
なら、私に聞いてくださればよろしいのに﹂
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﹃なに? そのようなものがあるのか?﹄
頷いた姉は私を手招きした。
﹁え?﹂
﹁サニー。リアルもののけ姫﹂
﹁・・・え?﹂
﹁今からこの仔犬は、サンになるわ﹂
姉の、髪と同じ紺青の瞳を見つめて、私は再びばし!と口を覆った。
﹁マジで?!﹂
﹁大マジ。ど? 真実の姿を希望する?﹂
﹁希望します﹂
間髪いれずに頷いた私を、天狼は唖然と眺めている。
﹃サン、とはナニモノぞ﹄
﹁もののけの森の女王!﹂
﹁・・・この子が育った世界に、貴女に酷似した存在が登場する絵
物語があったのです﹂
姉の説明に、変質者兼女王陛下が今度は目を丸くした。
﹁レイン、そはまことか?﹂
﹁まことまこと﹂
﹁笑えるのぅ﹂
﹁うん、私も笑っちゃった﹂
時代がかった言い回しながら女同士の世間話的な雰囲気になりつつ
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ある二人は放っといて、私は仔犬の愛くるしい瞳を見つめた。
﹃良いのか?﹄
﹁ぜひ!﹂
そう私が答えた瞬間に、天から光の粉が舞い落ちてきた。
﹃王の血の願いに答え、姿を現そう。怖じるでないぞ、光の子よ﹄
舞い散る光の粉の中で、白い塊がぐんぐんと大きくなる。私の背を
超え、城の2階を覗き込めるほどの高さにまで。
﹁・・・り、リアル・サン!﹂
﹃光の子よ、我が伴侶となることを望むか﹄
││はい? 伴侶?
﹁あー、サニー。この場合の伴侶っていうのは、結婚しろとかそう
いう意味じゃないから。信頼で結ばれた関係、という程度。助言し
たりされたり、ともに戦ったり、遊んだり﹂
﹃左様﹄
﹁戦いは無理ですけど、お友達にはなりたいです、是非﹂
ならば、と言って天狼は私の耳たぶをそっと噛んだ。ちくりと痛み
が走る。大きさの割に細かいことをするものだ。
﹁耳朶採血とは、今度はずいぶんとお優しい﹂
﹃前回はヒトとの契約が久々でな。加減を忘れておった﹄
さて光の子よ、と天狼が私を見下ろす。﹃名は何と言う﹄
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﹁サニーです。サニー・・・でいいです。貴女は?﹂
﹃サンとやらではないぞ、間違うなよ。私の名はアドリアーナ。ア
ディと呼ばれることが多い﹄
﹁わかりました、アディ。これからよろしくお願いいたします﹂
深々とお辞儀をした私に、アディは大きな唇の端を上げた。たぶん
狼的には微笑だと思う。
﹃さて、ところでレインよ﹄
﹁なんですか?﹂
﹃後宮の住み心地はいかがであった?﹄
アディの早速の爆弾発言だった。
﹁お姉ちゃん、説明して﹂
﹁レイン、釈明を聞こう﹂
女性体に戻って着替えた姉は、ぐたりとソファに凭れた。アディは
サイズが大き過ぎるので、普段は普通の狼サイズで暮らしてもらう
こととなり、私の足元に寝そべっている。
﹃どうもこうもないわ。貴族どもに押し切られ、ハゲがレインフォ
ードを王座に据えるか否かは別として、世継ぎを作らせるためにと
王宮内にレインのための後宮を開いたのだ﹄
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御説明ありがとう、と姉は疲れ切った声で暗にアディの言葉を肯定
した。﹁あと、ミレーナ、あなたに釈明する義務は別にないと思う﹂
﹁・・・ハゲめ・・・妾のレインを・・・。いや・・・? うむ良
いぞ、レイン。レインフォードとして世継ぎを為すがよい﹂
﹁ミレーナ。人の話を少しは・・・﹂
﹁考えてみれば妾は永遠に近い時を生きる種族。いかなレインとて
寿命は来るのでな、そなたの血脈が営々と続くことは妾にとっても
喜ばしい﹂
﹁人の話を・・・﹂
﹁ただ、そなたには妾の子を孕んで貰わねばならぬゆえ、せいぜい
あと2年しか待たぬがの。2年の間に出来得る限りの子種を蒔いて
おくがよい﹂
姉の長い脚がミレーナさんの頬を蹴りつけた。
﹁ちょ、お姉ちゃん!﹂
﹃案ずるな、光の子よ。こやつらは昔からこのような関係だ﹄
﹁人の話を少しは聞けと言ってるでしょう! この淫魔!﹂
立ち上がった姉は肩で息をしながら、ミレーナさんを睨みつけてい
る。
﹁でも淫魔はお姉ちゃんもじゃないの?﹂
ぴく、と動きを止めた姉は髪をかきあげた。﹁サニー。﹃遠い先祖
に淫魔がいる﹄のと﹃淫魔そのものである﹄のとでは、意味がだい
ぶ違うのよ﹂
﹁その違いさえなければのぅ﹂
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割と平然とミレーナさんがぼやいた。
﹁え?﹂
﹃レインとしてもレインフォードとしても、身持ちは堅いな、確か
に﹄
﹁え?﹂
﹁王族の淫魔の血は、主に変性の能力と、他者に及ぼす作用として
しか顕現せぬ﹂
﹁どういうこと?﹂
﹃500年ほど前までの王族は、ほぼ淫魔だった。巨大な後宮を造
営し、数多の美しき女性を侍らせ、酒池肉林に耽っていた。こやつ
もその頃の落胤の孫なるぞ﹄
アディがミレーナさんを見上げて言う。
﹁でも時代が下るにつれて、淫魔の血は薄くなっていったの。一部
の能力が受け継がれただけで、精力も性的好奇心も普通の人間レベ
ルになったわ﹂
﹁妾の母は、内親王として我が一族の長に嫁ぎ、淫魔としての子を
産み育てたがな﹂
﹃ところが、その一部の能力、というのが厄介よ﹄
﹁そう。妾のレインは﹂
言いかけたミレーナさんに踵落としを見舞って姉があとを引き取っ
た。﹁わかりやすく言うと、無駄にフェロモンを垂れ流す羽目にな
ったの﹂
﹃おなごの体であれば、おのこが色めき立ち、おのこの体であれば、
さきほどのようにおなごどもに衣服をはぎ取られかねぬ始末﹄
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﹁だから、変性できる王族はたいていの場合、男性体で公の場に出
るの﹂
﹁・・・な、なんで?﹂
﹁サニー嬢は御年いくつにおなりじゃ? まだ子供には早うはない
か?﹂
珍しく道徳的な発言をミレーナさんが発したことで、私は固まった。
﹁あれは13年前・・・ということは12歳であろう?﹂
姉が眉を寄せた。
﹁ミレーナ﹂
回し蹴りでも踵落としでもなく、ただ険しい表情を見せる姉にミレ
ーナさんは少し目を瞠った。
﹁サニーは、17年前にこの国で生まれたの﹂
姉の語気はいくぶん強過ぎる気がした。
﹁あのね、サニー。少しは頭を使いなさい。さっきアディが言った
ように、他人をその気にさせてしまう体質を持ったまま、女性体で
公の場に出たときに、どんな目に遭うか。またそれが内親王や女王
だった場合、どんな問題が生じるか。男性体であれば、女性たちか
ら迫られても逃げることは出来なくはない。だからよ﹂
﹃幸いにして、変性出来ぬ王族にはそのような質もないのでな。そ
なたは案ずることはないと思うぞ﹄
アディも姉も、何かに触れるのを避けたのだと、私は思った。
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ミレーナさんが﹁解せぬ﹂と言いたげな顔つきのまま城を後にする
のを見送って、私は姉とアディに尋ねた。
﹁アディは私の前にも誰かと契約を交わしていたの? 誰かの伴侶
だったことがあるの?﹂
﹃長い間生きておればな。幾人かはおる﹄
﹁でも、私の前の人は、お姉ちゃんも知っている人よね?﹂
﹁・・・そうね﹂
﹃あの男はもう死んだ﹄
﹁・・・ええ、そうね﹂
姉とアディが、口裏を合わせる時間はまったくなかった。
でも私には、二人が結託して何かの秘密を避けているとしか思えな
かった。
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オーバーフロー
ねえ、と大型犬サイズになったアディをブラッシングしながら、こ
こ数日、考えるともなく考えていた疑問を口にした。
﹁アディの前の﹃伴侶﹄ってどういう人だったの? 男の人だった
んだよね﹂
前足でくいっくいっとブラシを胸へ誘導してアディは﹁ふむ﹂と頷
く。﹁勇猛な男であった﹂
﹁勇猛? 軍人さんとか?﹂
﹁まあ、そうだな﹂
﹁お姉ちゃんも知ってるんだよね﹂
知ってはいるが、とアディが大きく欠伸をする。﹁レインは奴のこ
とはあまり話したがるまい﹂
アディの耳の後ろにブラシをかけながら﹁どういう関係だったの?﹂
と尋ねた。お姉ちゃんが話したがらないならアディに聞くまで。
﹁ミレーナが即位するにあたっての継承戦争にシュルヴェストルか
らも出兵したことは先日聞いたであろう。そのときにともに闘った
男だからな﹂
﹁戦友とか?﹂
﹁そうとも言う﹂
ブラシを止めて﹁アディ﹂と私は声を低めた。
もっと、と言わんばかりに前足を上げたアディに﹁ちゃんと教えて﹂
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と要求する。
アディはぽとりと前足を下ろし、鼻からふんっと息を吐いて﹁知っ
てどうする﹂と喉の奥に篭った声を発した。
﹁え?﹂
﹁そなたが知るべきことであれば、いずれレインが語るであろう。
いずれにせよ死んだ男のことだ﹂
﹁でも・・・隠してるよね?﹂
隠してはいる、とアディ。﹁そなたはまだ幼い。触れられたくない
傷を持たぬ身。しかし、レインも我も、共に闘った男を失った。そ
れは傷である。そなたが知るべき時に至ればすべてを語ろう。なれ
ど今はまだ時満ちてはおらぬ。必要の無い傷をこじ開けるほど、我
等も強靭ではないぞ﹂
﹁・・・うん﹂
﹁そなたはレイン・・・いや、レインフォードが戦友の死を軽々に
口にする男に見えるか?﹂
私は黙って首を振った。
レインフォードとしてのお姉ちゃんを理解しているわけではないけ
れど、少なくとも私の知っている佐藤雫は、そういうタイプでは、
たぶんない。
﹁年が離れてるからかなぁ。お姉ちゃんの友達とか、彼氏とか、そ
ういう存在の話って聞いたことないんだ﹂
日本にいた頃、会社帰りに食事をしてくるだとか、休日に誰かとラ
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ンチに出かけるとか、もちろん不自然でない程度にはあったと思う
けれど、特に誰と名前を聞いたこともなければ、家に連れてきたこ
ともない。
﹁サニーよ。そなたが今為すべきことを為すがよい﹂
﹁ブラッシング?﹂
﹁それもある。だがしかし、大局的に申せば、そなたはまずアレク
サンテリ大公の執務を代行するまでに至らねばならぬのではないか
? 無論、異界に育ったそなたに今すぐにと無理を強いることはな
かろうが﹂
そこも疑問なんだよねぇ、と私は溜息をついた。
﹁お姉ちゃんが大公家の跡取りなんじゃないの?﹂
アディはふるりと首を振る。
││さらっと否定するんだ・・・
﹁無論、王太子が正式に即位するなり世継ぎを生すなりすれば、そ
のままレインフォードが大公位を継ぐことになろうがの。現状では
その可能性は極めて低い。大公は臣下であるゆえな。王位継承者と
して有力視されている現状でレインフォードを大公とするより、そ
なたが大公家息女として公務に就くことが望ましい﹂
﹁でもさ・・・いずれお姉ちゃんも私も日本に帰るわけだし﹂
﹁帰れると思うか?﹂
アディの視線は微塵も揺らがず、そんな言葉を発する。
帰れるかどうか、疑問に思わないと言えば嘘になる。
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﹁お姉ちゃん﹂
王城から転移して帰宅したお姉ちゃんの気配を感じて書斎を訪ねる
と、白いスタンドカラーから細い鎖骨を覗かせた女性体に戻ったば
かりのお姉ちゃんが少し疲れた顔で迎えてくれた。
﹁どうしたの。何かあった?﹂
﹁うん・・・あのさ。お城の仕事って、大変なの?﹂
﹁まぁ、それなりにね﹂
私は書斎のソファにごろんと横になったお姉ちゃんの顔の傍にしゃ
がんだ。
﹁あのさ。金環食を待って、日本に帰る、んだよね?﹂
お姉ちゃんは﹁そうねぇ﹂と生返事をする。
﹁お姉ちゃんも私と一緒に、帰るんだよね﹂
ふふっと笑ってお姉ちゃんは肩肘をついて半身を起こした。﹁なに
急に? 心配になったの?﹂
帰るつもりは、ないのかもしれない。
妹暦17年は伊達じゃない。
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お姉ちゃんは、嘘はつかない。嘘はつかない代わりに、隠し事をす
る。話をはぐらかす。
すでに界渡りをしてしまった私たちを、この世界は呼び戻した。そ
れは見方を変えれば﹁逃げ切れなかった﹂ということではないのか。
私はけれどそれは言葉にせず、ゆるりと首を振った。
そのことを追及したら、お姉ちゃんはきっと言うだろう。﹁少なく
とも環だけは日本に帰すから心配しないの﹂と。
﹁あのさ、お姉ちゃん﹂
﹁んー?﹂
﹁ここってさ。学校みたいなの、あるんだよね? アドキンスさん
から聞いたけど、貴族の子弟は王城内にある学校みたいなところで、
政治経済を学ぶって﹂
あるわよ、とお姉ちゃんは言って大きく伸びをした。
﹁そこに行きたいんだけど﹂
お姉ちゃんはしばらく天井を見つめ、そして﹁いいわよ﹂と言った。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n6945o/
極彩グランギニョル
2012年10月18日14時57分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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