マネーロンダリング∼二億円の行方 - タテ書き小説ネット

マネーロンダリング∼二億円の行方
青い鯖
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︻小説タイトル︼
マネーロンダリング∼二億円の行方
︻Nコード︼
N4376BL
︻作者名︼
青い鯖
︻あらすじ︼
※2014年11月1日、TO文庫様から発売!現在アマゾンに
て予約受付中!
フリーターとして毎日を退屈に過ごしていた和樹は、ある日山の
中でとんでもない物を掘り出してしまった。それは銀行強盗が強奪
した二億円近い金だった。しかもその金を手にしたことは、和樹以
外の誰も知らない。
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しかしその金をそのまま使えば、札の番号から足がつく恐れがあ
る。ならば、どうやったらその金が使えるようになるのか?
突然怪しげな二億円を手に入れた和樹、そしてひょんな事から関
わりを持つようになった風俗嬢の初音、それを追う刑事たち。更に
やくざ、銀行員が複雑に絡み合う、ヒューマン・サスペンス!
和樹はその金を、最後まで無事使い切れるのか?
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第1話
日が西に傾き、山に夕暮れの気配が漂っていた。十月に入り、日
が落ちるのが急速に早くなっていくのを、和樹は肌で感じていた。
なぜなら、和樹は八月末に仕事を辞めてから、有り余る時間をただ
潰すために、毎日のようにこの山に入っていたからだった。
山と言っても、神戸の北の新興住宅地の裏に続く山である。しか
し、山を切り崩して造成した住宅地群の一番奥に位置するこの宅地
の端からは、裏六甲と丹生山系に連なる奥深い山々が続いていて、
一歩山道に足を踏み入れると、日常とは切り離された孤独な時間が
流れていた。
今度の仕事も上手くいかなかった。
大学を卒業してそこそこ大きな商社に勤めてみたものの四年で辞
め、その後転職した飲食店チェーンも、あまりの忙しさに体を壊し、
一年で辞めてしまった。
それからは、短期の契約社員やコンビニのアルバイトでなんとか
食いつないでいたが、ようやく見つけた健康食品の通販会社の正社
員の職を、たった三カ月で客とのトラブルで辞めさせられてからは、
もう働く気力を失ってしまっていた。
幸い、両親がこの住宅地に三十坪の二階建ての家を遺してくれて
いた。
母親は和樹が中学生の時に癌で亡くなり、父は、和樹が商社に入
社したすぐ後に、やはり癌で亡くなった。一人いる歳の離れた姉は、
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和樹が高校生の時に東京に嫁ぎ、両親が亡くなってからは帰省する
ことも無くなり、この家で和樹は、一人で暮らしていた。
和樹が登っていたのは、住宅地からも見える、このあたりで最も
高い山だった。
標高は六百メートルほどであるが、低い山の合間に点在する住宅
地群の向こうに、明石海峡大橋と淡路島が見える。
頂上から家まで歩いて帰るならば二時間はかかるが、登り口まで
原付バイクでやってきたので、山道を下りるのに一時間くらいかか
っても、日が落ちるまでには家に辿り着く計算だった。
和樹は、灌木の間の曲がりくねった登山道を下って行った。途中、
うっそうとした暗い森も通り過ぎる。
何度も来た道だが、山の中腹位まで降りてきたときに、道が枝分
かれした地点で、上ってきたのと違う方向に曲がってしまっていた
ようだった。だが大体の地図は頭に入っていたので、暗くならない
うちにバイクに辿りつけるだろうと思った。
思いのほか手間取って日が暮れかけたころ、どうやら県道につな
がる別の林道に達した様だった。その道を下っていくと、遠くに車
が止まっているのが見えた。目を凝らして見ると、軽貨物の後部の
荷台から何かの荷物を取り出して、林の中に入って行く人影が見え
た。
和樹は反射的に木の陰に身を隠し、成り行きを見守った。
十分くらいたってから再び林道に現れた人影は、又しても荷物を取
り出し、やはり林へと消えた。
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和樹は音を立てないように慎重に土の道を忍び足で更に近づき、
車から十メートルほど離れた窪みに身をひそめ、その人物を林の中
に探した。
サクッ、サクッという不気味な音が、静まり返った林の中に響く。
こんな夕暮れ時に、しかもこんな寂れた林道の突き当り付近での不
審な行動に、和樹は危険な臭いを感じた。
和樹は頭を引っ込めて、息をひそめ、慎重に音を立てないように
しながら、その人物が去っていくのをひたすら待った。
もう日は完全に落ち、あたりに闇が漂い始めるころ、ようやく作
業を終了したのか、その人物は車に戻り、エンジンをかけた。
ヘッドライトが点灯し、辺りが瞬時に眩しく浮かび上がる。車は
細い林道で何回も切り返してUターンしてから、ようやく軽いエン
ジン音を響かせながら遠ざかって行く。
和樹は念のためにしばらく窪みの中でとどまっていてから、よう
やく穴を這い出して車が止まっていたあたりまでやってきた。
そこから林の中には、確かに人が分け入った跡が残っている。し
かし林の奥は既に真っ暗で、和樹はそこに踏み入れるのを断念し、
林道の端に少し大きめの尖った石を目印として置いてから、車が下
って行った方に歩き出した。
十分ほど歩いてようやく県道に出る。山の間を貫いているこの県
道自体、夜になると殆ど車は通らない。既に暗くなった県道を右に
曲がって少し歩くと、原付バイクで乗り入れた林道を発見し、バイ
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クを取って家に辿りついたのは、和樹が予定していた時間よりも三
時間遅い、午後八時過ぎとなっていた。
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第2話
缶ビールを開け、途中のコンビニで買ってきた弁当をレンジで温
めて食べながら、和樹はさっきの光景を思い出してみた。
人物は、黒っぽい服を着た男だった。薄暗くて顔は見えなかった
が、中肉中背の、平均的な体型だったはずだ。
林の中に運び入れていた荷物は、飛行機の機内に持ち込めるほど
の大きさの取っ手が付いたバッグで、全部で四つだった。
林の中で聞こえた音は、地面をスコップか何かで掘り起こしてい
た音だろう。きっと運び入れたバッグを埋めていたに違いない。で
はそのバッグに何が入っていたのだろうか。何か犯罪に関わるもの
なのか。そう考えて、和樹は身震いした。
死体、しかもバラバラにした死体かもしれない。
和樹はすぐにでも警察に通報しようかと思ったが、何かとんでも
ない秘密を握ってしまったような気がして、とにかくまず自分で確
かめてみたいと思った。
そして明日にでも掘り出しに行こうかと考えたが、﹁犯人﹂が確
かめに戻ってくるかもしれない。しばらく様子を見てから行ってみ
た方が良さそうだ。
和樹は、気分を落ち着かせるために更にビールの缶を開け、何気
なしに一週間前に買ってきた求人誌をパラパラとめくった。
すると不思議なことに、何か新しいことが始まるような気がして、
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奇妙にも、仕事への意欲が湧いてきた。確かめに行くのは一週間後
にして、とりあえず明日は求人の面接に行こうと和樹は考えた。
翌日、食品工場の軽作業というアルバイトの面接を受け、年内二
か月ばかりの仕事だったが、和樹は採用された。
工場は家からも近く、菓子パンをひたすらビニール袋に入れ続け
るという単純作業で、朝は六時からと早いが、昼過ぎに終わるのが
好都合だった。
和樹は毎日、従業員に支給される規格はずれの調理パンをもらっ
て、原付バイクで例の県道へと向かった。そして、バッグが埋めら
れた場所を観察することのできる絶好の高台を発見し、そこで日暮
れまでを過ごした。バッグを埋めた人物が、気になっていずれ現場
に戻って来るのではないかと和樹は考えていた。
もう山は晩秋から初冬へと季節は移り変わっていた。
和樹は防寒服に身を包んで茂みに身を潜め、調理パンをかじり、
ポットに入れてきた熱いコーヒーを飲みながら、午後の大半の時間
を費やした。
時には、頭上高く飛んでいる鳶を目で追いながら、商社に勤めて
いた頃の溌剌とした自分の姿を懐かしく思い出した。
第一志望ではなかったが、中堅の私立大学を卒業して一部上場の
商社に就職できた時、同級生たちからは随分と羨ましがられたもの
だった。
さすがに東大や京大卒といったエリート新入社員とは違って地味
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な部署に配属されたが、それでも入社二年目には上司の海外出張に
も同行できたし、何より、同じ課で働く女子大卒の彼女が出来た。
平凡ながらも順調な社会人スタートのはずだった。
しかし、会社が海外事業での巨額な損失を出し、上位の総合商社
に吸収合併されることになった頃から、少しずつ人生が狂い始めた。
本気で結婚を考えていた彼女とも別れた。やりがいのない部署に回
され、それならばと転職を試みたが、そう上手く行くわけがない。
そんな今の和樹にとって、こうしてぼんやりと山を眺めている時
間が、最も心地良かった。
二週間和樹は山に通い続けた。しかし人物は現れず、いよいよ次
の休日にでも掘り出そうと考えて家に帰り、二三日読まずにテーブ
ルに積み上げていた新聞を片付けようと手に取った時、一面に大き
く載っていた記事が目に入った。
﹃銀行強盗犯を逮捕﹄
﹃十月一日に大阪市北区で発生した銀行強盗の二人組を捜査してい
た大阪府警は、そのうちの一人とみられる中田茂容疑者の身柄を、
大阪市阿倍野区の宿泊先で確保した﹄
そんな事件があったのだと初めて知った和樹は、その事件翌日の
朝刊を探し出して読んでみた。一面トップでその事件は報じられて
いた。
﹃大阪で銀行強盗 拳銃を発射して二億円を強奪﹄
﹃十月一日午後三時半頃、大阪市北区中津の三成銀行中津支店で閉
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店間際に二人組の強盗が押し入り、拳銃を一発天井に向かって発射
し、金庫から二億円の現金を奪って逃走した。客や行員には怪我は
なかったが、警察は通報と共に緊急配備を行い、逃げた強盗の行方
を追っている﹄。
二億円!和樹は驚いた。二億円と言えば、和樹の去年の年収二百
万円の百年分だ。そんな金額だとどんなことが出来るのだろうかと、
和樹は事件のことよりまずそのことを考えた。そして社会面の記事
を更に詳しく読んでみた。
閉店間際で客の込み合った店内に二人組の男が押し入り、犯人の
うちの一人が天井に向けて一発拳銃を発射して脅かし、客をフロア
の一角に集める。もう一人がカウンターを乗り越えて、銃を四方に
向けて威嚇しながら、金庫から現金の束を持ってこさせる。
用意したバッグにそれを詰め込ませると、二人で一斉に出口から
飛び出し、そこにエンジンをかけたままで止めてあった軽自動車に
荷物を投げ込み、急発進して、一方通行の路地を走り抜けて行った。
一人の行員が、犯人を追いかけてカラーボールを軽自動車に向か
って投げつけていて、非常ベルが押されていたので警察は五分もせ
ずに駆けつけすぐに緊急配備したものの、逃走した車は五百メート
ルほど離れた空き地で乗り換えられていて、その日のうちに犯人は
逮捕できなかったということだった。
実に大胆というか強引というか、杜撰な強盗であると和樹は思っ
た。よっぽど借金などで切羽詰まった連中の、やけっぱちの犯行で
しかない。
捕まった一人は中田茂五十二歳、小さな会社の経営者だった。や
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はり、会社の資金繰りなどで現金が必要だったのだろう。まだ捕ま
っていなもう一人は山崎忠志四十二歳、暴力団関係者のようで、指
名手配された。確かに拳銃のような物騒な物など、一般人には手に
入らないだろう。
和樹は、十月一日という日付に何か引っかかるものを感じ、﹁銀
行強盗犯逮捕﹂の記事をもう一度読み直した。
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第3話
﹃なお、強奪された二億円の現金と拳銃はまだ見つかっておらず、
他の一人の行方とともに、捜査中である﹄
現金は見つかっていないということは、もう一人の犯人が持った
まま逃げているのだろうか。しかし一体、二億円とはどれくらいの
大きさなのだろう。
和樹はネットで調べてみた。
一万円札のサイズは縦が七六ミリ横が百六十ミリ、厚さは○・一
ミリというから、百万円を束ねると一センチとなる。これを一○○
万円ずつ束にして、縦に五列横に四列で一○段に積むと、縦三八セ
ンチ、横六四センチ、高さ一○センチと、大きめのスーツケースに
収まる嵩である。重さは一枚一・○二グラム、二億円で重量約二○
キロとなる。
案外コンパクトだが、街中を逃げ回るには邪魔だろうし、人目に
も付く。自分だったらどこかに隠して、身軽になって逃げるだろう。
そう考えたとき、山の中であの奇妙な行動を目撃したのが、十月
二日だったことに気付いた。
夕暮れ時にあんな山の中に何かを埋めるなんて、どう考えても怪
し過ぎる。しかも強盗事件の翌日である。事件の起こった大阪から
もそれほど遠くない。あの男が埋めていたのはバラバラ死体とかで
はなく、強盗犯が奪った現金二億円なのではないだろうか。和樹の
その考えは、やがて確信に変わった。
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しかし、和樹はしばらく様子を見ることにした。
まだ捕まっていないもう一人が、逃亡資金を得るため金を掘り出
しに来るかもしれない。そんなのに遭遇すれば危険だ。
それに、金を掘り出して、自分はどうしようと考えているのか。
今はあの強盗事件と自分とは何の関係もない。しかし、現金を掘り
出した瞬間、自分は犯罪者になってしまうかもしれない。
和樹は当面山には近寄らず、パン工場のアルバイトに通い続けた。
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第4話
強盗事件発生から一月たった十一月初旬の休日、事件は予想外の
展開を見せた。それは朝刊の一面トップ記事で知った。
逃走中の山崎忠志が、警察に追い詰められて民家に侵入し、人質
を取って立て籠もっているというのだ。
和樹はすぐにテレビをつけた。すると朝のワイドショーで、その
事件が報じられていた。しかし機動隊に囲まれた民家の門を何人も
の警察官が慌ただしくくぐって行く画面が流れていたので、人質は
もう解放されていたようだった。
現場のレポーターが紙をめくりながらしゃべり始めた。
﹁もう一度繰り返します。昨夜発生した先の銀行強盗犯による人質
籠城事件は、犯人の射殺という衝撃的な結末を迎えました。人質の
田崎由美子さんも、犯人に拳銃で撃たれ負傷している模様、先ほど
救急車で搬送されましたが、怪我の程度は不明です﹂
パン工場が休みだったその日、和樹は一日中テレビを付けっ放し
にしてニュース番組を見続けた。
簡易宿舎にいるところを警官に発見された山崎は、逃げる途中に
拳銃を発砲し、一人の警官が負傷している。
たまたま通りかかったバイクを奪って逃走を試みたが、すぐにパ
トカーに追い込まれ、苦し紛れに逃げ込んだ民家に一人暮らしの老
女が在宅していて、山崎は彼女を人質に立て籠もるしかなかった。
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警察が説得と時間引き伸ばしを図っていた時、突然家の中から発
砲音と女性の悲鳴が聞こえた。警察は人質の生命が危険に晒されて
いると判断して突入し、短い銃撃戦の後、犯人射殺という結末に至
った。近年稀に見る馬鹿げた騒動である。
女性は左足の太ももを撃ちぬかれていて、後三十分遅れていたら
出血多量で危なかったという医師の見解が、警察の判断を正当化し
ていた。
翌日の新聞には、犯人が射殺されたことが一面トップで掲載され
ていたが、奪われた金の行方については、何も書かれていなかった。
翌々日の新聞には、強奪された金の一部である二千万円が、中田
の家の床下から発見されたとあった。主犯の山崎が強奪した金のほ
とんどを分捕り、中田には二千万円ぽっきりを配分したに過ぎない
ようだった。
ならば残りの金の行方は?それについては被疑者死亡ということ
で、まだ不明のままだった。中田も、残りの金については知らない
と言い張っている。
その金の行方を知っているのは、自分だけだと和樹は思った。
あの時林道で見かけたのは一人だけ、恐らくそれが山崎だったの
だろう。他に誰もいなかった。だから共犯者の中田も、あんな場所
に金を埋めたことは知るはずもない。
和樹は思わず身震いした。そして、いよいよ次の休日に掘り出し
に行くことを決めた。
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第5話
パン工場は、シフトで水曜日が休みだった。平日が休みというの
は好都合だった。休日ならば時々ハイカーなども見かける林道だが、
平日はまず人の立ち寄る場所ではない。
和樹は大きめの段ボールをバイクの荷台にくくり付け、その中に
アウトドア用の折り畳み式スコップとビニール袋に軍手を入れた。
バックに鍵がかかっていることも考えて、鍵を切り取るニッパーも
用意した。
和樹は早朝、まだ暗いうちに出かけた。出来るだけ人に会わない
ようにして、短時間で作業を終わらせるつもりだった。
県道から林道に入るころ、ようやく日が山の隙間から見えて、辺
りは急速に明るさを増していく。予想はしていたが、和樹以外誰一
人、こんな山道にはいない。目印の石をみつけ、林道の端の茂みに
バイクを隠すように止め、林の中にまで日が差し込むのを、じっと
待った。
慎重に周囲の様子を観察して、やはり誰もいないことを何度も確
認した。
和樹は段ボールの中から道具とブルーシート、そして黒いビニー
ルの大型ごみ袋数枚を取り出し、気持ちを奮い立たせて林の中に分
け入った。もう後戻りはできない。
鳥の飛び立つガサガサと言う音にビクビクしながらも、慎重に地
面を見ながら三十メートルほど林道から森の中を進むと、確かに、
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不自然に落ち葉や枯木が積まれた場所があった。
和樹はスコップの柄を伸ばして、地面に突き刺した。
ここに一億八千万円が埋まっているはずだ。しかし、いざこの場
になってみて、その自信はなかった。
やっぱり、単にゴミの不法投棄だったのかもしれない。銀行強盗
が隠した現金を見つけるなんて妄想に過ぎず、その妄想にこの一週
間支配されていて、掘り出してみたら粗大ごみだったなんて、とん
だお笑い草だ。
しかしとにかく確かめてみるしかない。
和樹は地面を掘り返し、すくった土を林の中に投げ込む。乾いた
落ち葉の上にザラザラと土の落ちる音が、静まり返った林の中に響
く。土は確かに一端掘り返されたようで、スコップは楽々土に刺さ
り、順調に掘り進められた。その間も常に周囲を見渡して、人気が
無いのを何度も確認した。
そしてついに、スコップの先が何か固いものにぶつかった。周囲
の土を取り除いていくと、果たしてあの時見た、黒いバッグが姿を
現した。
和樹は恐る恐る取っ手を掴み、一つを地面に引き上げる。思った
以上に重かった。丁度コメの五キロ袋といった感じである。
バッグは下にも埋められていて、全部で四つ、すべてを引き上げ
た。
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和樹はビニール袋を広げ、土を払い落とした四つのキャリーバッ
グを並べた。そして一つを手に取ってファスナーを開こうとしたが、
やはり鍵がかかっていた。しかし安物のバッグで、用意したニッパ
ーで、すぐに鍵を切り取ることができた。
心臓の鼓動が高鳴る。この静けさの中で、遠くまで届いているの
ではないかと思うほど、心臓が大きな音を立てている。
和樹はファスナーを一気に開き、ふたを開けた。
中身は黒いビニール袋に包まれていて、バンドで固定されていた。
和樹はカッターでその袋の中央を切り開き、袋を押し広げた。
和樹は一瞬息を止めた。汗がどっと額から噴き出してくるのを感
じた。そして手が小刻みに震え出し、手にしていたカッターナイフ
を取り落した。袋の中には、確かに和樹が思い描いていた物、すな
わち現金の束が詰め込まれていたのだった。
他のバッグにも現金が詰まっていた。和樹は気持ちを落ち着かせ、
それらをビニール袋に丁寧に詰め替え、何回かに分けてバイクの荷
台の段ボール箱まで運んだ。
すべてを運び込んでから再び現場に戻り、今度はバッグを埋め戻
す作業に取り掛かろうとした。念のため穴に何か残っていないかと
確認すると、半分土がかぶさっていて見過ごしそうだったが、小さ
な包みが目に入った。
手を伸ばして拾い上げると、片手に入る大きさだったが案外重い。
ビニール袋に入れられ、ガムテープが何重にも巻かれていた。
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和樹はその包みを手で触って、先が筒状に細くなっていることを
確かめた。その反対側はずっしりと重い。
本物の拳銃など持ったことは当然ないが、それが拳銃であること
は間違いないと思った。さらに包みの中には箱のようなものがあり、
恐らく銃弾を入れているケースなのだろう。この金が銀行強盗で奪
われた金であることは、もはや間違いない。
和樹は拳銃をどうしようかと迷ったが、同じ場所にバッグと一緒
に埋め戻した場合、それが発見されたら強盗に使った拳銃だと分か
るから、誰かが現金だけ抜き取ったということが、すぐにばれてし
まう。和樹はバッグだけを埋戻し、拳銃はいったん持ち帰り、別の
場所に埋めることにした。
和樹はバッグの中に何も残っていないことを確かめてから、ファ
スナーを閉めて、一つ一つ穴の中に投げ込んで、土をかけていった。
作業中はずっと軍手をしていたから、指紋は残していないはずだ。
誰かがもし掘り起こしたとしても、確かに不審な遺棄物ではあるが、
その中に現金が詰め込まれていたなんて想像できないだろう。壊れ
たバッグの不法投棄くらいにしか思われないはずだ。
和樹は段ボール箱のふたをしっかりとガムテープで押さえ、拳銃
はジャケットの内ポケットに突っ込み、荷台のロープを確かめてか
らバイクに跨った。
もう一度辺りを見回し、人がいないのを確認してからエンジンを
かけた。林道をゆっくりと下り、県道にも車が無いのを見てからア
スファルトの道を走り出す。途中対向車と何台かすれ違うが、ここ
まで来たら別にどうってことはない。
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和樹は荷台に積まれた結構重い荷物が落ちないように、速度を下
げ気味にして、慎重に家までの道を走った。
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第6話
もう昼前となっていて、リビングルームには、窓からレースのカ
ーテンを通して、眩しい光が差し込んでいる。和樹は部屋の電気を
つけてから遮光カーテンを引いた。
ガムテープを剥がして中を見ると、一万円札の束がきちんと詰め
込まれていた。和樹はパン工場から持ち帰ってきたシリコン製手袋
をつけてそれを取り出し、ブルーシートを敷いたリビングの床に、
隙間なく並べていった。
ほぼ二畳分くらいのスペースに収まり、それを数えていくと、百
万円の束が百七十三あった。しめて一億七千三百万円。
報道されていたように、高橋の分け前として二千万円を差し引き、
恐らく当面の資金として一千万円くらいを懐に入れていたとすると、
残金は一致する。
今まで見たことのない大金を目の前にして、和樹は嬉しいという
より恐ろしくなってきた。とんでもないことをしでかしてしまった
のではないか? 今ならまだ間に合う、一銭も手を付けていないのだから。たまた
ま掘り出してびっくりしたのでとりあえず持って帰ったという理由
をつければ、警察に通報しても、なんとか言い訳にはなるだろう。
通報しなくとも、このまま燃やしてしまうなり、跡形もなく存在
を消し去ってしまったなら、誰からも気付かれるはずはなく、金の
存在自体、いずれ忘れ去られてしまうだろう。
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しかし、隠した本人が口を割る前に死んでしまったのだから、こ
の金を掘り出したことなど、誰も気付くはずがない。
突然金遣いが荒くなったりするならば、何らかの疑惑を生むかも
しれないが、幸い和樹は、すぐに金に困っている状況ではない。
フリーターとは言え、両親が遺してくれた家がある。とり立てて
趣味といったものもなく、彼女がいるわけでもない。食べていくだ
けならば、時々アルバイトでもすれば何とかなるだろう。
この地球上では、貧困や飢えに苦しんでいる多くの人々がいるの
だろうが、少なくともこの日本で、体を動かすことの出来る若者が、
食べるものが無くて死んでしまうといった状況に陥ることなど滅多
にないだろう。
ただ心配なのは、将来のことである。今は良いにしても、身寄り
もなく、老後に収入が途絶えた時にどうなるかといった、随分と先
のことだが、それのみが心配だ。そのため普通なら、年金を積み立
て、保険をかけて老後に備えているわけだが、自分にはそれが欠け
ている。
もし国なりが、﹁六十歳以上は無条件で生活を保障してやる。だ
からそれまでは好き勝手にやれば良い﹂といった制度を作ってくれ
ていたら、もっと楽しくて創造的な社会になるのではないだろうか。
そうであったら、自分も商社を辞めた時、給料に引かれてあんな外
食チェーンになど転職せず、自分でしたいことをやっていたかもし
れない。
﹁しかしそうなれば、誰も働かなくなってしまうかもしれない﹂
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和樹は思わず苦笑いした。
和樹がこの生涯賃金に匹敵するような額を手にしてまず思ったの
は、そういったずっと先のことを心配しなくてもよくなったという
ことだった。この金で贅沢三昧をしようとか、これを元手に何かも
っと儲けようなどの考えは、不思議と起こらなかった。
つくづく、自分はつまらない人間だなと、和樹はため息をついた。
若い時に自分のしたいことも出来ず、老後の備えのためにひたすら
働き、そして年老いてからそのわずかな蓄えを食いつぶして死んで
いくなんて。
しかし、この金を老後の保険ということにしてタンス預金にして
おくことで、今の日常がもっと気楽に、そして楽しく暮らしていけ
るなら、それだけでもいいじゃないか。
少し冷静になって考えてみると、どれも真新しい札束であるから、
お札の番号が記録されているかもしれないと思った。いや、記録さ
れているのは間違いない。むやみに使うのは、確かに危険だろう。
何十年後かに、既に﹁時効﹂となってから使えば良い。
この金の横領が、どんな犯罪に当たり、そもそも﹁時効﹂が存在
するのか、またあったとして何年なのかは全く知らないが、そうす
るのが安全だし、なんとなく罪悪感も薄らいでいくような気がした。
和樹は別に用意したバッグに札束をきれいに詰め直して、押し入
れの荷物を一端出してから一番奥に押し込んで、荷物をその前に積
み上げて隠した。
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第7話
次の日、まだ契約は一か月余り残っていたが、体調を崩したとい
う理由でパン工場は辞めた。
賃金を清算してもらい、そのわずかな給料を持って、和樹は大阪
に出かけた。例の銀行を、一目見ておこうと考えたからだ。
阪急梅田駅で降り、線路に沿って淀川の方へと歩き出す。途中で
阪急電車の高架を抜けて、幹線道路を更に進む。
交通量は多いが、歩道を歩いている人は少なかった。しばらくす
ると、道路沿いの八階建てビルの一階に、その支店はあった。ビル
の横は一方通行の路地となっていて、新聞記事によると、犯人はそ
の道を車で走って逃げたということだ。
銀行の入り口には﹁お詫び﹂の張り紙が貼られていたが、中に入
ると、最近強盗に入られたとは思えない、何処にでもあるような平
和な風景だった。和樹は拍子抜けして表に出ると、ブラブラと大阪
駅の方へと向かった。
昼食をとっていなかったので腹が減り、駅前の安い定食屋に入ろ
うと思って店を探した。財布にはそれ程の金額は入っていなかった。
しかし和樹は、久々に贅沢な食事でもとってやろうと思い直した。
何と言っても、家には一億七千三百万円の札束があるのだから。
サラリーマン時代に作ったクレジットカードはまだ有効だったか
ら、心配する必要はない。和樹はJR大阪駅のガードを潜り抜けて
駅の表に回り、高層ビルのホテルの最上階に上った。
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案内されて窓際のテーブル席に座ると、ウェイターが分厚いメニ
ューを持ってきて、普段なら真っ先に値段を見るが、今回は値段を
確かめることなく、和樹は最も高いコース料理を注文した。
﹁ワインリストもお願いします﹂
﹁かしこまりました﹂
ウェイターがこれも分厚いワインリストを持ってくるが、それに
目を通しても和樹にはどれがどんなワインなのか、全く分からない。
﹁このコース料理にお勧めのワインはどれですか﹂
﹁はい、ではソムリエを参らせますので、ご相談ください﹂
ウェイターと入れ替えに、落ち着いた雰囲気の男性がやってきた。
﹁お一人ですか﹂
﹁はい、一人です﹂
﹁では、赤か白か、どちらか一つになさいますか。それともハーフ
ボトルで両方お出ししましょうか﹂
﹁赤のフルボトルでお願いします﹂
﹁はい、かしこまりました。お値段はおいくら位でお考えいたしま
しょうか﹂
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和樹はいくらでも良いと思ったが、スーツを着てきたとはいえ、
考えてみれば量販店で買った安物でしかない。靴や腕時計も普通の
物である。ここで超高価なワインなど注文すれば、確かに支払いは
問題ないが、きっと不審がられるに違いない。
しかし料理は一番高いコースを既に注文してしまった。
﹁そうですね、今日は仕事が上手くいって、ちょっと自分へのご褒
美のつもりで贅沢しようと思ったんですが、さすがにそれほど高い
のは難しいね﹂
和樹は話を作って苦笑いをした。
﹁一万円前後ので、お願いできますか﹂
﹁はい、今日のメインディッシュにぴったりのがございますよ﹂
ソムリエに勧められるまま、その赤ワインを注文した。
ソムリエがうやうやしくコルクを抜き、和樹の前に置く。それを
つまんで鼻に近づけて臭いをかぐ素振りをするが、もちろんいいの
か悪いのかなんて分からない。
しかしグラスに少量注がれたワインを味見すると、それほど高級
なワインを飲んだことのない和樹でも分かるくらい、ふくよかな香
りと味わいがして、和樹は満足した。
﹁美味しいですね﹂
﹁ありがとうございます﹂
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ソムリエは大きなワイングラスにワインを注ぎ込み
﹁どうぞ、ご自身へのご褒美を、ゆっくりとお楽しみください﹂
と笑いかけた。
前菜が運ばれ、程よい間隔で美味しい料理が運ばれてくる。和樹
はたっぷり二時間かけて、ワインを味わいながら食べた。金の心配
をしなければ、こんなにも優雅で心地よい時間が遅れるのだと、和
樹は改めて気付かされた。
﹁チェックお願いします﹂
和樹はウェイターが持ってきたレシートの値段を確認してから、
クレジットカードを差し出す。請求額は三万八千円だった。
ソムリエが見送ってくれるレストランを出て、和樹はエレベータ
ーで一階のロビーに降り、正面玄関から表通りに出た。
仕事帰りの会社員が大勢、駅の方角に黙々と歩いていた。和樹も
そのまま神戸に帰るつもりでいたが、ワインの酔いの勢いもあり、
もう一軒寄ってから帰ろうと考え直した。だが財布に現金は五千円
余りしか入っていない。せいぜい居酒屋くらいだろうか。
しかし、クレジットカードのキャッシングを利用することを思い
つき、まだ空いているATМで十万円を手にしてから、和樹は﹁阪
急東通り商店街﹂と書かれたアーケードに潜り込んだ。
パチンコ屋が賑やかな音楽を流している。
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サラリーマン時代に時々寄ったことはあったが、二三千円負ける
とすぐにやめて、そうのめり込むことはなかった。しかし酔った勢
いもあって、軽快なメロディーに釣られて店内に入り、五千円分の
カードを買って台に向かった。
運が良い時とはそういう時なのだろう。まだ千円分の球を使い終
わらぬうちに、一度目の大当たりがやってきた。そして確率変動で
続けて大当たり。結局一時間余りでドル箱を何箱も積み上げ、換金
してみると三万円以上の稼ぎとなっていた。
和樹は景品交換所で金を受け取ると、居酒屋や怪しげなスナック
が立ち並ぶ路地に入り込む。店の前ではキャッチが﹁六十分八千円﹂
と客に呼びかけている。
和樹は無視して通り過ぎようとしたが、店の中から若い女の子が
出てきて色目を使うので少し立ち止まってしまったら、キャッチに
腕を掴まれ、それに抵抗することもなく、自然に店の中に入る。薄
暗い店内はそれほど広くなく、客席のあちらこちらから嬌声が聞こ
えてくる。
ボーイがおしぼりを運んでくる。
﹁ご指名はありますか?﹂
﹁いや初めてで分からないけど、若くてきれいな娘にしてよ﹂
和樹はボーイに一万円札を掴ませた。
ボーイは目を輝かせて急いで戻り、一人の女の子を連れてきた。
メイクはしっかり決めているがそれほど派手ではなく、しかし男好
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きする若い子だった。
﹁水割りでいい?﹂
﹁ああ﹂
﹁私もコーラ頼んでいい?﹂
和樹が﹁いい﹂と言わないうちに彼女はボーイを呼んで、水割り
とコーラを注文した。
﹁うちの店初めて?﹂
﹁初めてだ﹂
﹁仕事帰り?﹂
﹁まあ、そんなところかな﹂
ボーイが水割りとコーラを運んでくる。形ばかりの乾杯をして、
和樹はウィスキーの水割りに口を付ける。
﹁どんなお仕事?﹂
﹁ただのサラリーマンだよ﹂
﹁そう﹂
﹁店は長いの?﹂
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﹁一年くらいかな﹂
﹁儲かるの?﹂
﹁えっ?まあ本業の三倍くらいかな﹂
﹁アルバイトなんだ﹂
﹁そうよ﹂
こういった店に来たことのなかった和樹は、どんな会話をしてい
いのか分からなかった。
﹁アルバイトで、そんなにも儲かっているんだ﹂
﹁本業が安いからね﹂
﹁でもそんなに儲かるのなら、本業なんて辞めちゃえば良いのに﹂
女の子は不思議そうな表情をして、
﹁アルバイトで儲かって贅沢も出来るから、本業が続けられるんじ
ゃない。本業辞めちゃったらこれが仕事になって、楽しくないじゃ
ない﹂
と返す。
和樹は、そんな考えもあるのだと、妙に納得した。
﹁こういうとこ来るの、初めてなんでしょう﹂
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彼女が突然問いかける。
﹁どうして?﹂
﹁だって変だもん﹂
彼女は笑って、手を和樹の膝の上に置いた。
﹁まあそうだね﹂
和樹は体を固くする。
﹁何かあったの?﹂
﹁いや、別に。ただちょっと良いことがあって、自分へのご褒美の
つもりかな﹂
和樹はソムリエに言ったのと同じ言い訳をした。
その後、水割りを何杯かおかわりしながら、彼女の話す芸能界の
裏話などに無理やり調子を合わせて、ようやく六十分が経った。
﹁延長する?三十分で四千円だけど﹂
﹁いやいいよ。お会計してくれる﹂
﹁わかったわ﹂
ボーイがレシートを持ってくる。請求額は八千円丁度だった。
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﹁案外安いんだね﹂
﹁そうよ、だからまた来てね。私詩織って言うの。今度来たとき指
名してね﹂
彼女は和樹に名刺を渡した。
店を出た和樹は、何か物足りないような気がして、もう一軒飲み
に行くことにした。
﹁おさわりは自由ですが、本番はなしですよ﹂
そんな文句に誘われて入った店では、三十分で一万五千円もとら
れた.
もう終電がなくなっていて、和樹は駅前のシティーホテルにチェ
ックインする。
ベッドに潜り込んでから、和樹は詩織という名の女の子のことを
少し思い出したが、酔いが回ってきて、すぐに眠りに陥った。
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第8話
目が覚めるともう十時半を回っていて、十一時のチェックアウト
には間に合わない。和樹はフロントに電話を入れて、レイトチェッ
クアウトを申し込む。
バスタブに湯を張って、ゆっくりと体を沈める。昨夜の酔いがま
だ残っていたが、宿酔いと言うほどひどいものではなかった。バス
から上がると、和樹は冷蔵庫から缶ビールを取って栓を開けた。
計算してみると、この二日で七万円ばかりを使ったことになる。
パチンコでの儲けを差し引いても四万だ。こんな浪費をしたことな
ど、ここ数年なかった。
午後にホテルを出て、御堂筋の歩道をブラブラと歩いた。通り沿い
の銀杏がそろそろ色づき始めていたが、まだ温かさが残る、穏やか
な秋の日だった。
ゆっくり歩いている和樹を、多くの会社員たちが足早に追い抜い
て行く。かつては和樹も、追い抜いて行く方の立場だった。
仕事にやりがいを感じ、いつか自分の手で大きな事業を成功させ
てやろうと意気込んでいた時もあった。しかしいつの間にか、仕事
も辞め彼女とも別れ、社会から取り残されて山を徘徊するしかでき
ない自分になってしまっていた。
そんな時に、この金が転がり込んできた。金さえあれば、昨夜の
ような贅沢な時間も持つことが出来る。それなのに、老後の保険だ
とかいった考えしか持てないでいる自分に、ほとほと嫌気がさして
きた。
33
和樹は、神戸に向かう阪急電車の中で、金の使い方を考えてみた。
昨日みたいに美味しいものを食べて、女の子といちゃつくのも楽
しいだろうが、まとまったお金で、もっと大きなことができるので
はないだろうか。
しかしすぐに、あの金がそのままでは使えないことを思い出した。
手にした金はどれも真新しい札だった。札の番号で足がつく可能性
がある。マネーロンダリング、つまり金の出所を隠す必要があるの
ではないだろうか。
和樹は、札の番号が証拠となって逮捕されたというニュースを確
かに聞いたことがある。しかし、どうやって足がつくのかを考えて
みたが、見当もつかない。
大体、一万円札を受け取った人が、一々番号など確認するはずは
ない。どの段階で札の番号が記録され、どのように管理されている
のか。元々札の番号が、本当に銀行で記録されていたのだろうか。
そもそも札の番号に、どんな意味や利用方法があるのか。今までそ
んなことを考えてもみなかったから、全く分からない。
和樹は家に帰り着くと、パソコンをネットにつなげ、﹁お札 番
号﹂とキーワードを打ち込んで検索してみた。
まずヒットした﹁国立印刷局﹂で調べてみると、札の番号のこと
を記番号と言うらしいが、その番号のつけ方の仕組みくらいしか記
載されていなかった。しかし、現在でも使える紙幣の中でも記番号
のない札があることを知って驚いた。とは言ってもその紙幣とは、
昭和二十一年発行の、壱円・五円・拾円といった、まだ使えるそう
34
だが、一円・五円・十円の支払いで使うようなものでは当然ない。
他のサイトでも調べてみたが、それ程意味のある番号ではなさそう
だ。
では、札の記番号が証拠となって逮捕されたという犯罪にどんな
ものがあったかを検索してみると、事務所のロッカーから頻繁に金
銭が盗まれ、被害者の一人が札の番号を控えていて、疑わしい従業
員の財布の中から同一番号の札が見つかったとか、その程度でしか
ない。
和樹は、何だそんなものかと、札の番号を必要以上に重大なもの
と誤解していたと安心し、翌日から気楽に使っていこうと考え、ノ
ートパソコンの蓋を閉じた。
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第9話
翌日、押し入れの奥のバッグから百万円の束を一つ取り出し、三
宮に向かった。
銀行に寄ってATМで記帳すると残高が五万八千円余り、とりあ
えず、カードで昨日一日に支払った額とキャッシングした金額を入
金しておこうと思った。
入金のボタンをタッチして通帳を差し込んで一万円札を入れよう
としてから、ひょっとしてこのATМは、札の番号を記録している
のかもしれないと思いつき、急いでキャンセルのボタンをタッチし
て銀行を出た。もし番号が記録され、それが自分自身の口座に入金
されたものだと知られたら、それこそ致命的である。
昨日調べた限りでは、札の番号にそれ程の意味はないようだった。
しかし、これだけIT技術が発達している時代に、本当に札の番号
が意味をなさないのだろうか。もっと詳しく調べてみる必要がある。
結局、和樹はその日に例の札を使うことなく、早々に家に引き上
げた。
和樹は再びネットにつなぎ、﹁紙幣 記番号 判別﹂というキー
ワードで検索をかけた。その結果世の中には、﹁紙幣判別機﹂と﹁
紙幣鑑定機﹂という二つの種類の機械があるらしいということが分
かってきた。
﹁紙幣判別機﹂とは、偽札か本物か、そして紙幣の金額を見分ける
機械で、自動販売機などに組み込まれているやつだ。札の色々な特
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徴や偽造防止技術をセンサーで読み取り、真偽と金額を判定するら
しい。
それに対し﹁紙幣鑑定機﹂は判別機よりも更に精度が高く、これ
は記番号まで判定できるようだ。
記番号を判定するのは、判別機をすり抜けるくらい精巧な偽札が
出回った時、その記番号から偽札を見分けることが主目的のようで、
この機械は、まだ金融業などの特殊な分野でしか用いられていない
ようである。
しかし偽札の記番号を読み取って取り出す能力があるのなら、警
察から届けられた番号の札を特定することは可能だろう。
仮にATMでは読み取れなかったとしても、銀行で最終的に処理
する過程でその札が見つかれば、その札がいつどこから入金された
ものかは、すぐに分かるはずだ。
和樹は、深く考えもせずにATMで自分の口座に入金しようとし
ていた浅はかな行動を思い出し、ぞっとした。
本当のところはよく分からないが、銀行では記番号が確認される
と考えた方が良いだろう。だが逆に、銀行に達して初めて分かるの
だから、銀行以外で使われた段階では、絶対に分かるはずはない。
該当番号の札を使用した現場を押さえられない限り足がつくはずは
ないし、それはまず不可能だ。一度に多量の現金を使うようなこと
さえしなければ、絶対安全のはずだ。
和樹は、少量ずつ、札をきれいな金に換えていくことを考えた。
毎日一枚換えていくだけでも十分生活は成り立つが、それだけでは
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物足りない。
もしきちんとした計画を建てるなら、この金を元手に、更に金を
増やすこともできるのではないか。今までは、資金が無かったから
何にも出来なかったし、やろうとも思わなかっただけではないのか。
元手さえあれば、自分にはそれを成し遂げることのできる能力があ
るのではないだろうか。
和樹は根拠のない自信が沸き起こって来るのを感じた。そして御
堂筋の両側に立ち並ぶ立派なビルを思い出しながら、一度社会の隅
っこに追いやられた自分が、今度は社会の中心に舞い戻ってくる姿
を思い描いた。
しかしその前に、和樹はしておかなければいけないことがあるの
を思い出した。それは、金と一緒に掘り出した拳銃の処分である。
別の場所に埋めようと思っていた拳銃が、まだ箪笥のひきだしの奥
に隠したままである。こんな物を持ち続けていたら、何かの拍子に
見つかった時、確実に銀行強盗との関連を知られてしまう。
和樹は拳銃と折り畳み式スコップをショルダーバッグに入れ、原
付バイクに跨った。そして金を掘り出した林道よりもっと遠くまで
県道を走り、人がまずは踏み入れそうにない獣道を百メートルほど
分け入った辺りの木の根元に、それを埋めた。
明日から﹁両替﹂を実施していこう。和樹は家に帰ってから、具
体的な方法を考えることにした。
38
第10話
お札はいずれ銀行に到達し、最終的には日本銀行に回収される。
しかし市中で使われたお札が銀行に達するには、経路も時間差もあ
る。できるだけ広範囲で使用するなら、その経路を遡って行くのは
難しいはずだ。しかも、少なくとも一回目は安全だ。和樹はまず、
東京で﹁両替﹂することにした。
やはり大都会で使うのが最も危険が少ないだろう。しかしコンビ
ニとかは防犯カメラがあるから、やはり避けた方が良い。
調べてみると、最近の防犯カメラの性能は飛躍的に向上していて、
レジを写すカメラなどは、お札の番号まで読み取れるくらい解像度
が高いそうだ。パチンコ屋や馬券売り場なども警戒が厳重そうだか
ら、やめた方が良いだろう。
もちろんコンビニやそういった場所に限らず、あちらこちらに防
犯カメラは設置されている。しかし不特定多数が利用する場所なら
ば、ある程度は安心だ。それはやはり自動販売機だろう。しかも一
万円札が使える自動販売機でなければならない。
和樹は駅の自動券売機を使うことにした。確かに駅は防犯カメラ
が網羅されていて、記録されることは覚悟しなければならないが、
この多くの乗客の中の誰が使ったかなんて、すべての駅の映像記録
をつき合わせても、特定するのは不可能なはずだ。しかも、一万円
札で一区画の切符を買っても別に怪しまれないから、両替のコスト
も抑えることができる。和樹はまず、JRの東京駅で最初の一枚を
使用した。
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JR中央線に乗り、御茶ノ水で降り、地下鉄丸ノ内線に乗り換え
て大手町まで戻る。次に出口を出ずに東西線に乗り換え飯田橋で降
りる。そこで都営大江戸線に乗り換えて新宿に出た。そこまでで三
万円を変えたことになる。コストはしめて六百円也。
JR、東京メトロ、都営地下鉄と、できるだけ違う会社の路線を
使い、また帽子とメガネと上着を三つずつ、折り畳んで小さくでき
るバッグも三つ用意して、途中ですべて取り換える用心深さだった。
たかが三万円を両替するだけでも、予想以上の時間がかかった。
しかし使えば使うほど儲かるのだから、苦にはならない。ただやは
り、一万円札を自動券売機に差し込む度、心臓が高鳴るのは避けら
れなかった。
和樹は次に新宿から小田急線で下北沢まで行って降り、京王井の
頭線に乗り継いで渋谷に出る。今度は東急東横線に乗り換えて中目
黒で降り、メトロ日比谷線で一気に上野まで出る。それから京成本
線に乗り京成関屋で降り、牛田から東武スカイツリーラインに乗り
込み、東京スカイツリーを横に眺めながら浅草に至り、都営浅草線
で新橋まで出た。
途中、下北沢の商店街にあった小さな煙草屋で煙草を二箱買った
ので、しめて十二万円分を両替したことになる。電車に殆ど乗り放
しだったのでくたくたで、その日の両替はそこで打ち切りとした。
和樹は駅前のビジネスホテルの部屋を偽名で取り、部屋で千円札
と小銭で膨れ上がった財布を整理して千円札だけを入れ直し、近く
の居酒屋に入って、熱い燗酒と
つまみをとりながら考えた。
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今日だけで経費を差し引いて十万円余りの儲けである。日当十万
円の仕事なんて、和樹には今まで想像もつかない世界だった。しか
も電車に乗っているだけで稼げるのだから、楽と言えば楽である。
だが、一日十万円として一年で三千六百五十万円、一億七千万円
すべてを両替するには五年近くもかかる。五年間も日当十万円の仕
事が続くと考えれば確かにそれはすごいことだが、やはり面倒くさ
い。
それに駅で札が使われたと分かれば、警察は駅や交通機関を重点
的に警戒するだろう。一万円札が使える券売機をつねに見張ってい
て、一万円札が使われる度に番号をチェックするくらい、警察なら
やりかねない。まあ現実的には難しいだろうが、使われた時間をあ
る程度絞り込み、防犯カメラの画像記録から割り出してしまうかも
しれない。だから、そんなに毎日出来るわけはない。
しかしとりあえず、クレジットカードの支払額と当面の生活費を
稼がなくてはならない。明日は電車ではなく、店で買い物をして換
えてみよう。コンビニやスーパーとかいった所ではなく、街のあり
ふれた商店で試してみよう。どこがいいかなと考えて、和樹はアメ
横へ行くことにした。
アメ横は人でごった返していた。観光客も多かった。和樹は大き
な袋を持って買い出しに出かけ、三軒おきくらいの間隔で店に飛び
込み、種々雑多な品物を買い求めた。もちろんすべて一万円で。
袋には明太子、鰹節、お茶、安物の腕時計と、脈絡のない品物が
続々詰め込まれていった。確かにここではすぐに金が使える。しか
し切符と違ってコストがかかりすぎる。大体千円近くする商品ばか
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りだったから、原価率一割と言ったところか。
もちろん利益率九割の商売なんてぼろ儲けには違いないが、やは
り資金が目減りしていくような気がしてもったいないと思った。そ
の日アメ横で三十万円は使ったが、儲けは二十五万円ほど、つまり
五万円分の商品を買ったことになる。
食品は転売することもできない。腕時計とかは換金できないこと
は無いが、質屋とかでは足がつく恐れもある。
結局重い荷物をホテルまで持ち帰り、部屋でいくらの醤油漬けを
肴に、カップ酒をあおった。
東京に出てきたのが土曜日だったから、昨日今日に使った札は、
まだ銀行で仕分けられていないだろうと和樹は考えた。しかし明日
月曜日には、早くも使われた札が発見されるかもしれない。
和樹は月曜日にはおとなしく千円札で新幹線の切符を買い求め、
神戸まで引き上げた。
神戸に着くと、早速千円札と五千円札をATМで自分の口座に入
金した。切符や商品代の他、神戸と東京の往復新幹線代やホテル代
で十万円くらいかかったから、純益は三十万円ほどである。これだ
けあれば、クレジットの支払いも含めて、今月は何とか暮らせる。
しかしみみっちいなと和樹は苦笑せざるを得なかった。一億七千
万円もありながら、数万円単位の小遣いしか使えない。もっと効率
的な両替方法はないのだろうか。
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第11話
和樹は、翌週に名古屋辺りで同じように両替をしようと思ってい
たが、当面の生活費は問題なかったし、ひょっとしたら使用した札
のことで何らかのニュースがあるかもしれないと思い、しばらく使
用を控えて様子を見てみようと考えた。
またその間に、もっと有効なマネーロンダリングの方法を考えよ
うと思った。しかし、それを思いつかないまま年の瀬も暮れ、いよ
いよ翌月の生活費が心細くなってきた。
一人暮らしの和樹は、姉も帰省するわけでもなかったから、別に
正月を迎える特別な準備は必要なかった。考えてみたら、ここ何年
も、正月が特別な日ではなくなっていた。
まだ両親が健在で姉も家にいたころは、どこにでもある正月を過
ごしていた。
大晦日には紅白歌合戦を見て、ゆく年くる年を見ながら新年を迎え
る。元日の朝は、ニューイヤー駅伝をテレビで見ながらおせち料理
をつつき、午後には三宮の生田神社に初詣に行って、センター街で
福袋を買って帰る。
和樹は懐かしさに胸が詰まった。
今度の正月はどうやって過ごそうかと考え、和樹は、どうせ寂し
い正月を過ごすくらいなら、初詣でごった返す神社で両替しようと
思った。多分安全で効率が良いはずだ。そして大晦日の夕方、大阪
で最も初詣の参拝者が多く集まる住吉大社へと向かった。
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難波から南海電車に乗って住吉大社駅で降りる。もう十時を過ぎ
ていて、駅は大混雑だった。駅前から住吉大社へ向かう道も、既に
参拝者で埋め尽くされていた。
和樹は道の両側に並ぶ出店で、リンゴ飴、イカの姿焼き・熱いカ
ップ酒を立て続けに一万円で買って、ついでに輪投げにも挑戦し、
小さなライターを獲得した。参道に入るとおみくじを二回引き、小
吉と末吉を引いた。
厄除けと交通安全のお守りを別々に買い、破魔矢も買った。
本殿に参拝し、たまった小銭を手に掴んで賽銭箱に投げ込み、柏
手を打って、この金が早く使える金に換えられ、そして全部換える
まで警察に捕まらないようにと祈った。
丁度午前零時となり、傍にいた若者グループが﹁ハッピーニュー
イヤー﹂と大声を上げると、周りの参拝者も﹁おめでとう﹂と声を
掛け合っている。その雑然とした人ごみの中を、和樹は一万円札を
一枚握りしめながら、それを使う場所を探しながら歩いた。
住吉大社での参拝を終えると、今度は大阪天満宮へ移動し、ここ
でもスイートコーン、ベビーカステラ、たこ焼きに缶ビールを買い
求め、学業成就と安産のお守りに絵馬を買って、絵馬には﹁儲かり
ますように﹂と書いて奉納した。
ここで最初に引いたおみくじは凶だったので、もう一度トライし
て大吉を引き当てた。
梅田にまで戻って阪急東通り商店街に寄ったが、さすがに前に行
った店は閉まっていた。仕方なく、大阪駅に近いビジネスホテルの
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空き部屋を探し出し、そこで元日の朝を過ごすことにする。
フロントでチェックインすると、ロビーの片隅に樽酒が置かれて
いて、そこから柄杓で升に注ぎ込んで一気に飲み干すと、いい加減
酔いが回ってきて、部屋に入るなりベッドに倒れ込んだ。
その日の両替金額は三十万円余り。翌日正月二日目は、京都の八
坂神社に行くことにした。
昼過ぎに阪急電車で四条河原町に着き、階段を上がって地上に出
ると、空は気持ちよく晴れ渡り、穏やかな冬の日差しで暖かさを感
じる四条通の歩道は、八坂神社への参拝客で埋まっていた。艶やか
な振り袖姿の女の子たちが彩りを添えている。人の流れに乗って八
坂神社を目指す。
途中の土産物店であぶらとり紙を一つ買い求める。昔付き合って
いた彼女に、京都に仕事で行くときにお土産としてねだられた品物
だ。別の店で生八つ橋も買った。
八坂神社正面の階段を上がり、本殿を目指す。ここでも出店で生
姜糖、みたらし団子、綿菓子を買って、おみくじも二回引く。
本殿でお参りした後円山公園に抜け、茶店の屋外の席で熱い甘酒
を注文するが、その時は千円札で支払った。一万円札を使うことに
大分慣れてきたものの、やはり長い時間留まる場所での使用は、控
えた方が良いだろう。
空を見上げると雲一つない青空が広がり、暖かい日差しが降り注
いでいる。希望の持てる新年の予感がした。
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和樹は平安神宮と下賀茂尾神社に寄り、伏見稲荷もお参りしてか
ら京都を後にし、神戸に向かった。
﹁これだけ多くの神社をお参りしたのだから、ご利益が無いはずは
ない﹂
和樹は神戸に向かう電車の中で、自分のその考えに思わず笑って
しまい、周囲の乗客に変な目で見られたかもしれないと思って、急
いで目を伏せた。
和樹は、大晦日に家を出るときに持ち出した百万円の束を、この
お正月二日間でほぼ両替に成功したのだった。
46
第12話
三成銀行市ヶ谷支店では、十一月初旬、年末の特別警戒に向けて、
強盗に襲われたという想定の防犯訓練が行われていた。
先月大阪の支店で実際起こったわけなので、いつもより真剣に行
われていた。
﹁本城君、非常ベルはちゃんと押せただろうね﹂
﹁はい支店長、大丈夫です﹂
﹁よかろう。中津支店でも金は奪われたが、お客様や行員に怪我も
なく、被害は最小限に抑えられたと言ってもいいだろう。これも日
頃の訓練の成果だ。まあ、二億円はちょっとでかかったけどね。は
はは﹂
日本のメガバンクの一角を占める三成銀行ならば、二億円ぐらい
どうっていう額ではない。
﹁とにかくコンビニ強盗と一緒で、適当な金を掴ませて、早く追い
出すのが一番だ。ただし、渡す金にちゃんと記番号を記録しておい
た金を紛らせておくこと﹂
支店長がその手順について再度反復してから訓練を終えたが、中
津支店に同期の小林がいる本条は、事件後に彼と会う機会があって
その恐ろしい体験を聞かされていたから、本当に用心しないといけ
ないと思った。
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しかし、共犯者から回収した二千万円と、死亡した犯人が持って
いた一千万円弱以外の金は、どこに行ってしまったのだろうか。
もし共犯者がいるならば、死んだ山崎から横取りした金を悠々と
使うだろう。そうなれば、いずれ近いうちに、記番号が一致する札
がどこかで見つかるはずだ。しかし、警察の発表によると共犯者は
いないようだから、あの金はどこかで眠っていて、その可能性はか
なり低いだろうと本城は考えた。だが、本城の予想に反して、その
札は思わぬところから見つかった。 防犯訓練から三日後の月曜日、窓口が閉まった頃に本城が外回り
から帰ってくると、店の中が妙にざわついていた。
﹁亜由美ちゃん、どうしたの?﹂
本城は窓口の中山亜由美に尋ねた。
﹁ええ、問題のお札が⋮⋮﹂
﹁問題のお札って?﹂
﹁本城君、ちょっと来てくれ﹂
支店長が本城に声をかけてきた。支店長室に入ると、支店長代理・
次長、そして出納係の他、現金輸送の警備会社の警備員など数人が
集まっていた。
﹁本城君も聞いておいてくれ﹂
本城はまだ若手とはいえ、支店長に高く買われていた。
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﹁実は今日、都営地下鉄の駅から午前の便で輸送されてきた売り上
げの中に、中津支店で奪われた一万円札が一枚見つかった﹂
﹁えっ、本当ですか﹂
﹁ああ、奇跡と言うのかね。うちのお金が伝書バトのように戻って
来るなんてね﹂
﹁どこの駅からですか?﹂
﹁飯田橋駅です﹂
警備員が答える。
﹁午前の便と言うことは、今日は月曜日だから、先週の金曜日の午
後から今朝の午前十時までに使われたということですな。それで一
枚だけだったのか﹂
﹁はい次長﹂
出納係が答える。
﹁警察に届け出よう。しかし年末に向けて忙しい時に、やっかいな
ことになったな。まあ、元々うちの金だから仕方がないが﹂
支店長が困ったように嘆く。
﹁ところで本城君、今の仕事はなんとかケリがつかないか?﹂
﹁はい、後は契約だけですから﹂
49
﹁じゃあ悪いが、警察の対応は君にお願いするよ。まあそんなにか
からないとは思うが﹂
﹁わかりました。では私が窓口となって対応しますので、発見され
た時の状況などを担当者に詳しく聞いておきます﹂
﹁頼んだよ﹂
支店長は本店の常務に連絡してから、警察に通報した。
三十分もしないうちに警察がやって来た。支店長が通用口から招
き入れ支店長室に通す。
﹁警視庁捜査三課の山下です﹂
一人の私服刑事が警察手帳を見せる。
﹁支店長の田中です﹂
﹁見つかったという一万円札はどこですか﹂
支店長は、ビニール袋に入れた札を本城に持ってこさせた。刑事
は手袋をはめてその札を取り出して別の袋に入れ、もう一人の私服
刑事に手渡した。
﹁見つかった経緯をお話しいただけませんか﹂
﹁はい、わかりました﹂
50
ここからは本城が、みんなから聞き出した情報をまとめて刑事に
話した。
﹁すると、都営地下鉄飯田橋駅で先週金曜日の午後から今朝十時頃
の間に使われたということですね﹂
﹁一万円札はつり銭には使用しませんから、他の紙幣と違ってほぼ
全部持ってきますので、まず間違いないと思いますが、駅で確認し
て下さい﹂
﹁途中で他の売り上げと混ざるということはありませんか?﹂
﹁それはありません。うちの支店と契約している駅には、各駅ごと
に専用のケースを用意していて、向こうで受け取るときに警備会社
の担当者が金額を確認後、施錠して引き渡されます。鍵は駅とうち
の銀行にしかありませんので、途中で別の回収分が混じることはあ
りません﹂
﹁わかりました。この一万円札はお預かりしますが、よろしいです
ね﹂
﹁はい﹂
﹁今後、何回か事情をお伺いすることになると思いますが、よろし
くお願いします。それからこのことはまだ公表しないように。他の
行員さんや警備会社の人にも念を押しておいてください﹂
﹁はいわかりました。これからは私本城が担当しますので、よろし
くお願いします﹂
51
本城は二人の刑事に自分の名刺を手渡した。
窓口の亜由美が、着替えを済ませて残っていた。
﹁食事でもして行かない?﹂
本城が彼女を誘う。
﹁いいわね、何食べる?﹂
﹁居酒屋でもいい?﹂
﹁ええ、いいわよ﹂
﹁仲がいいね。結婚式にはちゃんと招待してくれよ﹂
支店長が冷やかす。
﹁もちろんです﹂
二人は来年の春に結婚が決まっていた。
本城と亜由美は、よく仕事帰りに立ち寄る大衆居酒屋に来ていた。
本城は難関と言われる国立大学卒で入行五年目、市ヶ谷支店は入
行してから二つ目の支店であり、今は融資係をやっている。高校時
代はラグビーをやっていただけあって体格はガッチリしていて、さ
わやかなスポーツマンらしい性格は、上司や同僚からも好かれてい
た。
中山亜由美は、女子大を卒業後すぐに市ヶ谷支店に配属されて二
52
年目、艶やかな長いストレートの黒髪が男性の目を引き付ける、お
嬢様タイプの美人である。本店営業部部長の娘さんだ。
本城が市ヶ谷支店に配属になってすぐ付き合い始めたが、同僚た
ちはやっかむというより、﹁あの二人だったらお似合いだね﹂と祝
福するしかない雰囲気だった。
﹁しかしびっくりしたね。あんなことがあるなんて﹂
本城は焼き鳥を肴に二杯目のビールを飲みながら、亜由美に話し
かけた。亜由美は一杯目のチューハイを飲んでいる
﹁そうね、本当に偶然よね﹂
﹁共犯者がいたんだろうか﹂
﹁でも死んだ犯人は、捕まる前にいくらかは使っていたんでしょ﹂
﹁ああ、だけども、犯人は大阪で使っていたんじゃないかな。新聞
記事によると、犯人は大阪や神戸を逃げ回っていたみたいだから﹂
﹁大阪でお札を受け取った人が東京で使ったとか﹂
﹁その確率はかなり低いと思う﹂
﹁どうして?﹂
﹁一万円札の寿命は四五年と言われている。案外短いとは思わない
か?﹂
53
﹁確かにそう言われればそうね﹂
﹁日本銀行の各支店が地域に供給しまた回収するわけだから、年数
がたてばもちろん分布は広がっていくだろうけど、使われたお金は
地域の銀行に入金され、それがまた地域の人に手渡されていく繰り
返しの方が圧倒的に多いと思う﹂
﹁遠いところへの送金なんて、ただデータのやりとりだけだものね﹂
﹁そう、電子マネーが発達した今の時代ならば余計に、現金の拡散
は低いはずだ﹂
﹁本城さんって理系向きよね﹂
﹁理屈っぽいてこと?﹂
本城は今度は日本酒を熱燗で二合注文した。
﹁ううん、論理的と言うか、そこが好きなんだけど﹂
亜由美は恥ずかしげに小声でつぶやいた。
﹁まあ、こんな短期間であのお札が東京で見つかるなんて、何人か
の人手を経て移動したと考えるより、あの金を持った人物が、直接
持ち込んだと考える方が合理的だと思う﹂
﹁確かにね﹂
﹁しかも使われたのが、恐らく駅の自動券売機だ。あの金を手にし
た人物が、マネーロンダリングしようとしているのに違いない﹂
54
﹁と言うことは、犯人、まだ共犯者かどうか分からないけど、が、
お札から足がつくということに気が付いているってこと?﹂
﹁そうだろうね。多分お札の記番号が照合可能ということを知って
いるはずだ﹂
﹁本城さんって、刑事さんみたい﹂
﹁小さい頃から推理小説が好きだったからね。銀行員にならなかっ
たら、警察官の試験を受けようと思っていたくらいだから﹂
﹁えっ、初めて聞いたわよ、そんな話﹂
﹁そうだっけ﹂
﹁実は私も大の推理小説ファンなの﹂
﹁えっ、そうだったの?﹂
まだまだお互いのことで知らないことがあったのが嬉しくて、二
人は遅くまで、今までに読んだ推理小説の話題で盛り上がっていた。
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第13話
警視庁捜査三課の山下は、大阪に出向いていた。大阪府警の担当
者から、三成銀行中津支店強盗事件の詳細について聞くためである。
﹁遠くからわざわざお越しいただき、ご苦労さんですな﹂
応対しているのは、大阪府警大淀警察署の刑事、岸本である。
﹁捜査資料を見る限り、山崎と中田二人だけの犯行のようですが、
東京で奪われた一万円札がこんなに見つかると、やはり共犯者が他
にいると疑わざるをえません﹂
﹁全部で十枚ですか﹂
﹁ええ、しかもすべて駅の自動券売機で使われたと考えられます﹂
﹁指紋は?﹂
﹁山崎のものも、複数の札で共通する指紋も出ませんでした﹂
﹁山崎が大阪で使用した一万円とは考えられないということですな﹂
﹁その通りです﹂
三成銀行市ヶ谷支店で見つかった後、警察で各金融機関に照会し
てみたところ、同じ日だけで十枚もの該当する紙幣が見つかった。
しかも使われた場所はJR、東京メトロ、都営地下鉄といった交通
機関の駅ばかりである。明らかに紙幣の出所を隠すための行為とし
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か考えられない。
﹁銀行強盗犯の一人が山崎であると分かった経緯について、もう少
し詳しくご説明いただけませんか。資料は読みましたが﹂
﹁はい。そもそも府警の暴対がロシアから持ち込まれた拳銃を捜査
していましてね、あの犯行で使われた拳銃がそれに一致したことか
ら大野組にガサ入れをして、最近組を破門になった山崎がすぐに浮
かび上がったというわけです﹂
﹁なるほど﹂
﹁それに、山崎は組の金に手を付けていて、金を返さなかったら命
が危なかったんでしょうな。山崎の身辺を洗っていくうちに共犯の
中田も浮かんできて、当日のアリバイに不審な点があったので、す
ぐに二人の逮捕状を取ったわけです。しかし中田は逮捕できたもの
の、山崎の方はあんなことになってしまいました﹂
﹁マスコミがうるさく騒いでいますが、人質が助かっただけでも大
手柄ですよ﹂
﹁そう言って下さると、ほんま助かりますわ﹂
岸本の口から思わず関西弁がもれる。
﹁で、共犯者がいないと判断した理由は?﹂
﹁山崎は組からタマを狙われていたわけですから、組関係者でそん
な危ないやつに協力するやつなんていませんよ。中田の方は、闇サ
イトで知り合った山崎に無理やり巻き込まれたようで、金に切羽詰
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まった挙句のやけくそ的な犯行だと考えています﹂
﹁山崎と中田の家族は?﹂
﹁山崎は独身。親兄弟はいません。中田は嫁さんと子供がいました
が、商売が傾いてから離婚していて、元嫁さんに事情聴取したとこ
ろ、ここ三年は音信不通だということでした。もちろん捕まるまで
そこに張り込んでいましたが、中田は寄り付きませんでした﹂
﹁なるほど、二人だけの犯行と考えるのが自然かもしれませんね。
で、金の行方について、その後の状況は﹂
﹁いやそれがね、まだ不明なんですわ﹂
岸本は頭を掻いた。
﹁残りの金について中田は知らないだろうと、判断していますが﹂
﹁しかし二億円奪ったにしては、中田の取り分二千万円は安過ぎま
せんか?﹂
﹁ええ、我々もその点を追求したのですが、中田の言い分では、元
々二千万円の報酬で犯行に加わる約束だったということです。あん
な大金を奪えるとは考えていなかったようです﹂
﹁確かにやってみなければ、どれだけの金が手に入るかなんてわか
りませんからね﹂
﹁それに中田は山崎に脅されて、借金返済の二千万円あれば良しと
して、あとは関わりになりたくなかったと言っています。臆病なや
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つです﹂
﹁誰か人に預けたとか?﹂
﹁それも考えましたが、さっきも言いましたけど、山崎には金を預
けるほど信用できる知り合いがいません﹂
﹁ということは、どこかに隠したということですか?﹂
﹁はい、山崎の遺留品から、キャリーバッグのものだと思われる鍵
が四個発見されました。メーカーを割り出して確認すると、全国の
ホームセンターで売られている量産品のバッグでしたが、確かに四
つで丁度二億円が収まりそうな大きさでした﹂
﹁ロッカーの鍵とかは?﹂
﹁それがあったらもう見つけていますよ﹂
﹁そりゃそうですね、失礼しました﹂
﹁金はそのキャリーバッグに入れてどこかに隠した。そこまでは見
当が付いているのですが、隠し場所となると、山崎の逃走中の行動
を今全力で捜査していますが、まだ分かっていません﹂
﹁そうなると、山崎が金を隠した場所を知っている第三者かがいる、
ということですね﹂
﹁そうとしか考えられません﹂
岸本は山崎の足取りから、山下は金の経路から、金の所在と使用
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した誰かを追いかけることにしたが、いずれも捜査の進展は見られ
なかった。
そして年が明け、正月の三賀日が過ぎて世間が普通の営みを再開
し始めた頃、今度は大阪と京都で、問題の一万円札が相次いで見つ
かったのだった。
大阪、京都で使われた場所はいずれも神社だった。おみくじやお
守りの売り上げから見つかったということである。
﹁やっこさん、よっぽど信心深いんやな﹂
﹁初詣の混雑の中ではばれないと思ったからじゃありませんか、岸
本係長﹂
﹁あほか、そんなこと当たり前や。しかし、駅にしても神社にして
も、使った時はばれへんにしても、直接銀行に札が行くというとこ
ろまでは頭が回らなかったようやな。おかげさんで、犯人の足取り
がかなり掴めたやないか。それに住吉さんにお参りに行くぐらいや
から、きっと関西の人間や﹂
﹁住吉大社が大阪で一番初詣が多いのは、他の地方の人間でも調べ
れば分かると思いますが﹂
﹁そりゃそうかも知れへんけど、それやったら明治神宮とか成田山
とか、関東にはもっとようけ人が集まる神社があるやろう﹂
﹁でも、最初に見つかったのは東京ですし﹂
﹁最初は出来るだけ遠くで使いたいやろう。そこで上手くいったか
60
ら、今度は地元で試してみようという気になったんや﹂
﹁根拠は?﹂
﹁カンや﹂
﹁まあ、係長のカンは馬鹿にはできませんけど﹂
﹁馬鹿には出来ん?あほか、このカンでどれだけの事件を解決して
きたと思っとるんや﹂
﹁はあ、確かに﹂
﹁ぼけっとしてへんで、神社に聞き込みに行ってこい﹂
怒鳴りつけられた若手の刑事はしぶしぶ住吉神社に向かった。初詣
の雑踏警備に当たった住吉警察署の署員たちにも話を聞いたが、何
ら得るものはなかった。
一方金の経路を追っている警視庁捜査三課の山下は、その札が東
京駅で使われていることに注目した。そして札が見つかった駅をつ
なげて使用した人物の移動経路を推測すると、どうやら東京駅を起
点にして行動したのではないかと推測できた。
それならば使用した人物は、地方からJRで上京したのではない
かと考えられる。しかも東京駅ということは、恐らくやって来たの
は東京より西からだ。 山下の推測は、岸本のカンと見事に一致していた。
だが駅の防犯カメラの解析や駅員の事情聴取を精力的に行ったも
のの、やはりあまりにも人が多過ぎて、絞り込める人物などは見当
61
たらなかった。
しかし、札が更に使われ、もっと見つかるようになれば、かなり
絞り込んでいけるのではないかと、山下は考えていた。警察の緻密
さと組織力には、絶対の自信が山下にはあった。
62
第14話
正月で百万円近くの両替に成功した和樹は、その金で五つの銀行
と二つの証券会社に新しい口座を作った。今後両替が増えるにつれ、
一つの口座に入金が集中するのは、税務署に目を着けられる危険性
もあったからだ。
三成銀行にも口座を作った。何となく、恩返しの気持ちがあった
のかもしれない。
和樹はスーツも新調することにした。前に高級ホテルで食事をし
たとき、やはり量販店での吊るしのスーツでは様にならないと思っ
たからである。そんな安物のスーツで贅沢していたら、おかしく思
われても仕方がない。
しかし和樹は今まで服に金をかけたことがなかった。変に海外ブ
ランドのスーツを新調すれば、成金丸出しで、やはり怪し過ぎる。
和樹は無難に、三宮のデパートでオーダーメイドのスーツを作った。
それでもサラリーマン時代に買っていた値段の五倍はした。
服だけではなく時計や靴も、それなりの物を揃えておかねばなら
ないだろう。しかし時計もいきなりロレックスではやはり変だし、
第一まだそれを買えるだけの金もない。だから時計はオメガにして、
靴はイタリア製だが地味な物にした。
それと、健康食品の通販会社を辞めた時解約してしまった携帯電話
を再契約し、スマホにした。欲しかったタブレットPCも手に入れ
た。
支払いはすべて現金で行った。カードの支払いが急に増えるのも
63
危険だと思った。
それだけでも四十万円かかってしまった。しかしまだ一億六千九
百万円は残っている。だが当面使えるのは五十万円に過ぎない。五
十万円あれば二か月は悠々と暮らせるし、不足してきたらまた両替
に行けば良い。
しかしこんな生活を繰り返しているだけでは、社会の中心に舞い
戻って来るといった思いなんて、到底実現しそうにない。やはりこ
の金を元手に、何らかの事業を起ち上げることが必要だ。
今は単なるフリーターに過ぎないが、自分に能力がないとは思わ
なかった。現に商社に勤めていたときに手がけた﹁海外でウナギを
養殖して輸入する﹂というプロジェクトは、和樹が中心にまとめあ
げ、実現の一歩手前まで行った。
あの時は、会社が他の商社に吸収されることになったから、残念
ながら実現しなかった。だが、今のニホンウナギの不漁を考えると、
あの時他社に先駆けてやっておけば大きな利益をもたらしていただ
ろうにと、和樹は悔しさが蘇ってきた。
もし自分に資金とチャンスがあるならば、自分にはそれを生かす
能力があるはずだ。
和樹の気持ちは急速に昂ぶってきた。そして今、その両方が手元
にある。だから月々何十万円かを変えて満足しているわけにはいか
ない。
ならば、どうやったら多額の金を短期間で両替できるのだろうか。
和樹はそのウナギプロジェクトを思い出しながら、海外に目を向けた
64
タックスヘブンの国への資金移動は、マネーロンダリングの常套
手段である。しかし和樹に必要なのは、ただ単に金の出所を隠すた
めの通常のマネーロンダリングではなく、金そのもの、つまり記番
号の登録されているかもしれないこの一万円札自体の出所を隠さね
ばならない。
確かに現金を海外に持ち出して現地で両替すれば、足がつく可能
性は低くなるだろう。和樹は、海外へ渡航した時のことを思い出し
てみた。
しかし考えてみると、いずれも円を、日本の銀行でトラベラーズ
チェックなりドルなりに換えてからしか行っていない。現地で両替
するにはどうしたら良いのだろうか。そもそも日本からそんな多額
の現金を持ち出せるのであろうか。
調べてみると、それほど多額でなければ両替自体は簡単だが、金
の持ち出しについては、百万円を超える場合税関での申告が必要だ
った。それ以上持ち出すには、商取引の証拠などの審査が必要との
ことである。
確かにバッグの中に現金を隠して持ち出すことも出来なくはない
だろうが、見つかった場合、ただ単なる外為法違反だけではなく、
そのお札自体でやばいことになる。
百万円以内ならば問題ないが、何回も渡航するならたとえ近場の
韓国とかでも、旅費としてそれなりに経費はかはかかる。それにそ
んなに頻繁に海外旅行をしていたら、麻薬の密輸などの疑いをかけ
られ、﹁痛くもない﹂腹を探られるのも恐い。
和樹は海外の事情をいろいろ調べているうち、商社に勤めていた時
65
のお盆休み、彼女とハワイへ遊びに行ったときのことを思い出した。
ワイキキビーチで見たサンセット、そしてビーチのバーで飲んだ
マイタイ。その後ホテルのベッドで交わした彼女との甘くて心地良
い時間。
和樹は少し切なくなった。金は手に入り、まだうまく使えるかど
うか心もとないが、社会にリベンジするための材料は手に入れた。
しかし彼女と別れてからは、心の中にぽっかりと穴が開いたままだ
った。
そんなときなぜか、あの店の娘を思い出した。名前は確か詩織と
言ったはずだ。女性とまともに会話したのが久しぶりだったことも
あるが、どこか惹かれるものがあった。和樹は前に行った阪急東通
りの店に再び行くことにした。
店に入って詩織を指名する。
﹁すみません、今別のお客様の指名入っていまして﹂
和樹は前と同様ボーイに一万円を掴ませると、﹁分かりました﹂
と言って、和樹を席に案内する。
﹁あら、お久しぶり﹂
﹁覚えていてくれたんだ﹂
﹁もちろんよ。ところで前と違って、上等のスーツじゃない﹂
﹁前は安物だって分かったんだ﹂
66
﹁そりゃそうよ﹂
﹁結構観察しているんだね﹂
彼女はそれには答えず、水割りを和樹に手渡す。 ﹁前に来た時、良いことがあったって言ってたじゃない。それって
何だったの?﹂
﹁そんなこと言ってたっけ﹂
和樹は確かに、ソムリエに言い訳したのと同じようなことを彼女
に言ったことを思い出した。それにしても彼女が、初めて来た客な
のによく覚えているなと感心した。
﹁独立して事業を起ち上げた、それが順調に進み始めた﹂
﹁どんな事業?﹂
彼女は目を輝かせて尋ねる。
﹁秘密、もっと大きくなったら言うよ﹂
﹁へー、前会った時、普通のサラリーマンじゃないとは思っていた
のよ﹂
﹁どうして?﹂
﹁だって、変だったじゃない﹂
67
﹁ははは、まいったな﹂
和樹は前回とは打って変わってテンションが高かった。そして、
本気で﹁事業を起ち上げた﹂気分になっていた。
その日は会話が弾み、酒も進んだ。あっという間に六十分が経っ
た。
﹁延長する?﹂
﹁ああ三十分ね。その後一緒に飲みに行かないか?﹂
自分の口からそんな言葉が出てきたことに、和樹自身が驚いた。
﹁いいわよ。今日は十一時までで明日は本業休みだから、大丈夫よ﹂
彼女はあっさりОKした。
﹁それは良かった﹂
それが彼女の営業に過ぎなかったとしても、和樹は素直に喜んだ。
﹁じゃあ十一時過ぎにお店の前で待ってて﹂
﹁分かった﹂
和樹は時間を十五分残して店を出た。待ち合わせの時間まで一時
間ある。今夜も神戸には帰れないだろうと思い、前に食事をした駅
前の高級ホテルに寄り、部屋をとった。
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十一時に店の前に戻ると、約束通り彼女が店から出て来た。店の
中で見た印象とは、少し違っていた。
﹁どこへ行く?﹂
﹁バーにでも行こうか﹂
﹁バー?﹂
﹁ホテルのバーでゆっくり飲むのも悪くない﹂
﹁まあいいわ﹂
彼女は少し意外そうな表情をした。
和樹は、部屋をとったホテルの最上階にあるバーラウンジに向か
った。
﹁僕はジントニック、君は何にする?﹂
﹁私も同じもので良いわ﹂
﹁じゃあ、ジントニックを二つ﹂
二人は乾杯した。
﹁どんな事業を起ち上げたの?﹂
早速彼女が興味深そうに尋ねてきた。
69
﹁まだ始めたばかりだから、軌道に乗ったら話すよ﹂
﹁名前聞いていなかったけど﹂
﹁それもまだ秘密﹂
﹁秘密が多いのね﹂
確かに秘密が多すぎる。和樹は自分でもそう思った。
和樹は二杯目にスコッチのロックを、詩織はチェリーが添えられ
た甘いカクテルを頼んだ。
﹁あの店はアルバイトだって言っていたけど、昼間の仕事は何やっ
ているの?﹂
﹁秘密よ。だってあなただって秘密にしているじゃない﹂
﹁そりゃそうだ﹂
和樹は笑った。
﹁前にお店に来た時は、ちょっと暗い人かなって思っていたけれど、
今日は違うわね﹂
﹁そうかな、変わっていないと思うけど﹂
﹁全然違うわ﹂
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﹁確かに事業を始める前だったから、色々と悩んでいたからかもし
れない﹂
﹁じゃあ、とりあえず、おめでとうということで﹂
彼女はにっこりと微笑んで、再びグラスを合わせた。わざとらし
い乾杯だったかもしれないが、和樹は嬉しかった。
﹁ところで、こんなアルバイトしていたら、言い寄ってくる男も多
いだろう。僕みたいに﹂
﹁まあそうだけど。でも私、基本的にアフターはしていないの﹂
﹁アフターって?﹂
﹁お店終わってからのデートのことよ﹂
﹁でも、お客さんに誘われたりするでしょ?﹂
﹁普段は朝が早いし、そんな気になれないわ﹂
﹁じゃあ今日はどうして?﹂
﹁どうしてかしら?﹂
﹁今日の僕はラッキーだったっていうことだね﹂
﹁まあラッキーと言うか、私もそんな気分だったから﹂
﹁そんな気分?﹂
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﹁まあ、私にも色々あるから﹂
二人はたわいのない会話で盛り上がって三杯目も注文し、それを
飲み干したとき、ラストオーダーとなった。
﹁もう一軒行かない?﹂
和樹は、彼女の方から誘われたので驚いた。
﹁まだ大丈夫かい?﹂
﹁大丈夫よ﹂
和樹は、まだ幾分冷めている頭の中で意を決して言った。
﹁部屋をとっているんだけど、部屋で飲まない?﹂
彼女は一瞬戸惑った表情を見せたが、
﹁いいわよ﹂
と頷いた。
部屋に入ると、カーテンの開け放された窓の外に、大阪の夜景が
広がっていた。
﹁きれいね﹂
彼女は窓際に駆け寄って、外を眺める。
72
﹁シャンパンでも飲む?﹂
和樹は彼女の返事を待たずに冷蔵庫からシャンパンの瓶を取り出
して、シュポッと音をたてて栓を抜き、ふたつのグラスに注いで、
片方を彼女に手渡した。
彼女はシャンパンを片手に、窓の外の風景に見入っている。和樹
は、そんな彼女をしばらく黙って見ていた。
﹁何見てんのよ﹂
﹁いや、詩織って結構可愛いなと思って﹂
﹁馬鹿﹂
和樹は詩織の手にしているグラスを奪ってテーブルに戻すと、彼
女をベッドに押し倒して、ワンピースの背中のファスナーを下ろし
た。
﹁乱暴にしないでよ﹂
﹁分かっている﹂
ハワイの海が見えるホテルの部屋での、昔付き合っていた女性と
の交わりを思い出し、和樹は一気に燃え上がった。
詩織も何度も頂上に上り詰めながら、和樹の背中に爪を食い込ま
せた。
﹁私、久々に本気で気持ちよかったわよ﹂
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﹁僕もだよ﹂
二人はまだ残っているシャンパンで再び乾杯し、お互いに何かを
求めあうように固く抱き合ったまま、深い眠りに陥った。
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第15話
翌朝の目覚めはさわやかだった。和樹の傍らには、可愛い寝顔で
スヤスヤと眠っている詩織がいた。和樹はルームサービスで朝食を
注文する。ボーイが鳴らしたチャイムで詩織は眼を覚ます。
﹁おはよう﹂
﹁もう起きていたの﹂
﹁朝食を頼んでおいたから、一緒に食べよう﹂
﹁私シャワー浴びて来るね﹂
和樹はボーイからワゴンを受け取り、テーブルの上に並べる。ポ
ットのコーヒーを注ぎ、バスルームから聞こえてくるドライヤーの
音を聞きながらゆっくりと飲む。やがて着替えとメイクを済ませた
詩織が、バスルームから出てきた。和樹はバスローブのままである。
﹁あれ、もう着替えちゃったの。もう一戦やろうと思っていたのに﹂
﹁馬鹿﹂
和樹は彼女のカップにもコーヒーを入れる。
﹁私、言っておくけど、誰とでも寝るような女じゃないわよ﹂
﹁じゃあどうして僕と?﹂
75
﹁まあ、ちょっと気になったからかな﹂
﹁僕だって、見境なく女の子をくどいているわけじゃない﹂
﹁じゃあどうして?﹂
﹁昔の彼女にちょっと似ていたからかも﹂
﹁馬鹿﹂
確かに詩織は、昔付き合っていた彼女と何となく雰囲気が似たと
ころがあった。顔というより、首筋から乳房にかけてのラインが、
何故か昔の彼女を思い出させた
﹁今日は休みだって言っていたよね。夕方までデートしないか﹂
﹁デート?﹂
詩織は怪訝そうな顔をした。
﹁お茶飲んだりショッピングしたり﹂
﹁何か恋人みたいね﹂
﹁まあいいじゃないか。一日ぐらい﹂
﹁いいわよ。暇だし﹂
﹁よし、食べ終わったらデートに出発﹂
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和樹は楽しかった。女性とこんな会話をするのも何年か振りだっ
た。
二人は御堂筋から心斎橋筋に入り、ブラブラとウィンドショッピ
ングを楽しんだ。和樹がアクセサリーでも買ってやろうかと言った
が、詩織は見るだけでいいと断った。
戎橋まで歩き、橋の上でしばし立ち止まり、グリコの看板を眺め
た。
﹁私、いかにも大阪っていうこの景色が好きなの﹂
﹁僕はこんなごちゃごちゃした景色は好きじゃないな﹂
﹁へー、どうして?﹂
﹁僕が神戸生まれだからかもしれない﹂
﹁へー、神戸なんだ。神戸の人って大阪が嫌いなの?﹂
﹁神戸の方がお洒落だと思っているからかもしれないね﹂
和樹は自分の素性の一部を漏らしてしまったことを少し後悔した
が、ゆきずりの女でしかない詩織だから、まあいいかと思った。
﹁私、神戸も大阪も一緒だと思っていた﹂
﹁君はどこ出身なの?﹂
﹁私は九州、九州は宮崎﹂
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﹁宮崎か、だったらタイガースじゃなくてジャイアンツじゃないか﹂
﹁私野球興味ないから﹂
﹁僕もそれ程ね。でも関西にいたら、タイガースファンじゃなけれ
ばやっていけない﹂
﹁確かにそうね。タイガースが勝った日には店も盛り上がるし、野
球の話しておけば、結構間をもたせられるから﹂
﹁そんなものかもしれないな。でもどうして宮崎から大阪に出て来
たの?学生とか?﹂
﹁違うわ﹂
彼女は小さなため息をついた。
﹁もうあのバイトは辞めようと思っている﹂
和樹は驚いて彼女の顔を見た。
﹁どうして?﹂
﹁今の生活が楽しくないっていう訳じゃないけど、このまま続ける
のもね﹂
﹁まあ、そうかもしれない﹂
和樹も同じような気持ちだった。
78
﹁専門学校行って、保育士の資格でも取ろうと思うの﹂
﹁ふーん﹂
﹁今も昼間は保育園で働いているんだけど﹂
﹁保母さんなんだ﹂
和樹は少し驚いた。
﹁ううん、正確には保育補助者って言うんだ。やってることは保育
士と殆ど一緒だから、子供たちからも保母さんって言われているけ
ど﹂
﹁資格取ったら給料上がるとか?﹂
﹁それもあるけど、今働いているところは無認可保育園だから、ち
ゃんと保育士の資格を取って、認可保育園で働きたいの﹂
﹁案外真面目なんだな﹂
﹁もともと真面目よ。バイトの給料だって、学費のために貯金もし
ているし﹂
和樹は詩織の横顔を見つめた。寒風に頬を染めたその横顔は、幼
く見えた。そして一億七千万円の使い方を考えている自分との距離
を感じた。きっとこの詩織の方がまともだ。
﹁店辞めてからも、時々会えないか?﹂
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﹁えっ﹂
﹁いや、何となく。嫌だったらかまわない﹂
和樹は不意に飛び出した自分の言葉に驚いた。しかし、この娘と
自分の間に、何か共通するものがあるのを感じた。
﹁ええいいわ。でもどうやって?﹂
﹁メールアドレスを教えてくれないか、連絡するから﹂
﹁いいわよ。でもあなたのもよ﹂
﹁ああ当然だ﹂
﹁それと本名﹂
﹁分かった。高橋和樹、本名だ。君は?﹂
﹁横沢初音﹂
﹁僕の事業が軌道に乗ったら連絡する﹂
﹁それっていつぐらい?﹂
﹁まだ分からないけど、一年以内には軌道に乗せるつもりだ﹂
﹁分かったわ、私もその間頑張って勉強しておく﹂
80
﹁なんか不思議だね﹂
﹁そうね、恋愛ごっこやってるみたい﹂
﹁ごっこか﹂
﹁ごっこね﹂
二人はメールアドレスを交換した。
﹁じゃあここで﹂
﹁バイバイ﹂
二人は戎橋で別々の方向へと別れた。
和樹は、本名まで伝えてしまったことに自分でも驚いた。でも、
そうすることにより、もう後戻りできないと改めて思った。
確かに自分のやっていることは犯罪かもしれないが、別に誰かを
傷つけたわけでもない。享楽のためだけに使うのではなく、今まで
の自分の生き方を作り変えていくために使うのなら、少しぐらい許
してくれるのではないか。
誰に許しを請うわけでもないが、和樹はその思いを益々強くした。
81
第16話
和樹は、早速金のスピーディーな両替方法を考え始めた。今まで
の様に街中で細々と交換するのでは埒が明かない。
和樹は海外に札を持ち出す方法を考えた。だが不法に鞄に隠して
渡航するのは、前に考えた通り危険過ぎる。だったら合法的に海外
へ持ち出すにはどうしたら良いか。
百万円を超す現金の持ち出しには税関への申請が必要だとは、前
に調べて分かっていた。だがその申請方法は随分と簡単だ。必要書
類に記入してパスポートと照合すればそれで済む。原理的にはいく
らでも持ち出し可能である。しかし、やはり持ち出すにはそれなり
の合理的理由を作っておく必要がある。
何らかの商取引をするために現金を持ち出すのなら、説明はつく
だろう。その円で直接何か、例えば絵画や骨とう品などの高額商品
を買い集めて日本に輸入して売りさばく、というのが良いかもしれ
ない。
しかし海外でも一度に多額の現金取引を行えば、素性を知られる可
能性がある。とにかく日本でも海外でも、その金を使ったのが誰か
が、分からないようにしなければならない。
だったら例えば蚤の市などで古着やアンティークな小物を少額ず
つ多量に買い付けて輸入するということもありそうだが、そんな所
では素性は隠せるかもしれないが、円はそのままでは使えそうにな
い。現地通貨に両替しなければならないだろう。
だったら初めからそんな面倒くさいことをしないで、架空の取引
82
をでっちあげて現金を持ち出し、持ち出した現金を現地通貨に両替
して、それをまた円に換えて持ち帰るのが一番シンプルだ。為替レ
ートや手数料で幾分かは目減りしたとしても、アメ横で明太子や鰹
節を買うよりましだ。
しかし両替するにしても、海外だからと言っても、やはり銀行は
避けた方が良いだろう。高額の両替にはパスポートの提示などが求
められるかもしれないし、記番号をチェックされるかもしれない。
やはり銀行以外の街中の両替所で、身分証明も必要なく、そこそ
この額の両替ができるところを探しておかねばならない。しかし手
数料は高いが、そういった両替所は結構ありそうだ。
だが両替に成功したとしても、今度は日本に持ち込む際にも申告
が必要だ。多額の現金を持ち出して、少しは目減りしているにして
も同じくらい多額の現金を持ち帰るなんて、やっぱり怪しまれる。
架空の取引では、突っ込まれてばれた時、確実に金の出所を探られ
てしまう。
やはり安全のためには、実際に商取引を行うのが良いと考えた。
しかしそのためには取引相手にこの金を直接渡さなくても良い方法
が必要である。
和樹は考えた。
まず商取引を行う国に銀行口座をこしらえておき、前もって日本
から送金しておく。そして取引を理由に現金を持ち出し、実際には
送金しておいた金で支払いを済ませ、持ち込んだ現金はどこかで両
替し、両替した現地通貨をその銀行に入金する。
83
これならば安全に金を交換することが出来る。和樹はその考えに
満足しかけた。
しかし、取引で支払ったはずなのに、それと同じくらいの金額が
ほぼ同時に入金されるわけだ。金の交換には成功できたかもしれな
いが、それでは税務署の調査が入った時、説明がつかない。
確かに海外の銀行だから国内よりは調査が難しいだろうが、国際
的にこれほどまでにマネーロンダリングの監視が厳しくなっている
昨今、不審な金融取引があれば、その国から日本の金融当局へ通報
されるのではないだろうか。﹁たかが﹂一億二億くらいの金額が監
視対象となるのかどうかは分からないが。
和樹は、今度は金が入って来る合理的な説明を考えなければなら
なかった。
そして、何かを売ったことにすれば良いことに気付いた。当たり前
だが、金が入って来る理由として最も妥当である。和樹は金の流れ
を再度思い描いた。
まず海外の銀行に、例えば一千万円を送金しておく。次に押し入
れの奥から取り出した一千万円を鞄に詰めて渡航する。
渡航先で何かを一千万円で購入し、海外の銀行から引き出した金
で支払う。今度は何かを一千万円で売りつけて、どこかで両替した
持ち出した金と共に銀行に入金する。
そこまで考えて、和樹は何かまだ足りないような気がして、更に
考えた。
売るものを買わなくてはいけないことに気付き、和樹は苦笑した。
売るものが無ければ一千万円は手に入らない。
84
もう一度金の流れを確認する。
まず海外の銀行に一千万円を送金するのと同時に、一千万円分の
何かを買っておく。
押し入れから一千万円を取り出し、それを持って海外へ渡り、海
外の銀行から一千万円を引き出して支払いに充て、同時に既に買っ
ておいたあるものを売りつけて、両替した一千万円と共に銀行に入
金する。
しかし、和樹にはまだ腑に落ちない点が残った。
現地の銀行に入金するのは、売り上げと両替した一千万円の、合わ
せて二千万円となる。
もちろん一千万円で買ったものを一千万円で売るわけはないのだ
から、二倍の値段で売ったことにしても問題ないだろう。これだと
二千万円投資して、ちゃんと二千万円のリターンがある。
いや、実際には押し入れの金と合わせると、投資した金額は三千
万円のはずだ。つまり三千万円投資して二千万円しかリターンがな
いことになり、一千万円減ることになる。いや、一千万円で買った
商品が残っている。これを日本で一千万円で売れば、実質三千万円
の投資で三千万円のリターンとなり、収支ゼロじゃないか!
和樹は途中で頭が混んがらがって来るのを我慢しながら、一応マ
ネーロンダリングの仕組みを描いた。
もちろん、輸送費やその他の経費、手数料といったものはかかっ
てくるし、一千万円で輸入した﹁何か﹂が、本当に国内で上手く売
れてくれるのかも分からない。しかし、どうにかこうにか、一度に
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大金を洗浄できる仕組みを思いつき、和樹は満足して缶ビールを開
けた。
しかし構想は立てたものの、話が大きくなり過ぎてしまった。駅
の自動券売機や神社で両替するのとは訳が違う。そんなことが本当
に出来るのか。
だが、和樹には、目論見が無いではなかった。
和樹は大学を卒業してから四年間は、曲がりなりにも一部上場の
総合商社に勤めていた。
総合商社の花形は、海外プラントの建設や鉱物資源の取引などの
大型プロジェクトであり、一般商品の輸出入などを扱う部門は地味
だった。たいてい東大や京大卒の新入社員は花形部門に配属され、
中堅私大出身の和樹が配属されたのは、その地味な部門である食料
本部の流通部門だった。冷凍食品やお菓子などの輸入を担当する部
署である。
しかしそこで和樹は貿易実務についての研修も受け、実現できな
かったが﹁ウナギ﹂の養殖と輸入についてのプロジェクトをまとめ
た経験もある。資金さえあれば、個人輸入のビジネスを立ち上げる
ことぐらいはできるという自信はあった。
だが初期投資の二千万円が問題である。もちろん二千万円という
のは、あくまでも机上の計算であり、それ以上になるか、それ以下
で済むのかは、もっと緻密な計画が必要である。しかし少なくとも
海外で取引するには、会社を作らねばならないだろう。貿易会社だ。
その会社で、一つ二つまともな仕事での実績を作った上で資金洗
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浄に乗り出す方が安全だ。だがその資金が手元にない。国内でチマ
チマ金を洗浄しながら気長に資金を貯めこむしかないのか。でも、
それでは初音と約束した一年以内というのは無理だろう。
こんな時になぜ彼女とのたわいない約束を思い出したのか、和樹
は不思議だった。
﹁恋愛ごっこ﹂と彼女は言った。
自分も恋愛ごっこだと思っていた。
しかし和樹は戎橋の欄干にもたれかかって道頓堀川を眺めていた
初音の横顔を思い出しながら、こんなことをしでかすとき、心の支
えになるのが彼女しかいないことに気付いた。
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第17話
﹁さあ、そろそろおねむの時間ですよ﹂
十畳ほどの板張りの部屋に小さな布団を敷き詰めて、横沢初音は
子供たちに呼びかけた。
部屋の片隅でブロック遊びをしていた子供たちは、渋々初音の呼
びかけに応じて、自分の布団の上に横たわる。でもまだ遊び足らず
に追いかけっこをしている子供たちも何人かいる。
﹁健人、琢磨、詩織、早くお布団の所に行きなさい﹂
長い髪を無造作に後ろで一つにくくり化粧気もない初音は、子供
を追いかけて捕まえ、ようやく全員が自分の布団に横たわる。
まだ何人かは布団の上でモゾモゾしているが、スヤスヤと寝入っ
ている子供もいる。でももう十分もすれば、全員がおとなしく眠っ
てくれる。この保育園では、﹁お昼寝タイム﹂は厳しく躾けている。
またお昼寝タイムが保育士たちの唯一の息抜きの時間でもあった。
﹁初音さん、考え直してくれた?﹂
隣の狭い休憩室で初音がコーヒーを飲みながら同僚と話をしてい
ると、園長先生が声をかけてきた。
﹁ええ、でも私やっぱり、正式に保育士の資格を取るために学校へ
行きたいので、今月で辞めさせてもらいます﹂
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﹁そう、仕方がないわね。資格取ったらまた来てね。うちもいつま
でも無認可ではなく、ちゃんと認可をとれるようにするから﹂
﹁はい、その時はまた声をかけてください﹂
隣室から子供のざわめきが聞こえ始めた。お昼寝タイムは終わり
である。
仕事が終わってアパートに帰ってきて、途中のスーパーで買って
きた材料で簡単な夕食をとる。食事を終えてからシャワーを浴び、
ニトリで買った小さなドレッサーに向かい、念入りにメイクをする。
なぜこんな生活になってしまったのかを、初音は何度も自問する。
父親の経営していた工務店が倒産し、福岡の私立大学への進学が
決まっていたのに、それを辞退して、家出同然に大阪に出てきて保
育園の仕事を見つけた。しかし給料も安く、心を許せる友達もいな
かった。
そんなとき街で誘われて始めた今のアルバイトは、最初は抵抗が
あったものの、お金にもなるし、友達のように店の女の子たちとフ
ァッションやセックスの話ができるのも楽しかった。
しかし高校を卒業して宮崎を出てからもう四年、二十二歳になっ
ていた。
このままの生活でいいと思っている人なんて、ほんの一握りしか
いないと思う。大抵は、今の生活を何とか変えようと思っているの
だろう。でもそのきっかけとチャンスがない。自分にもそれがなか
った。
89
そんなとき、あの男に出会った。
事業を起ち上げたと言っていたので、お金も魅力的だった。でも
初めは、行きずりの男だと割り切って一緒に寝ただけのつもりだっ
た。
しかしセックスだけならそんな気持ちにはならなかっただろう。
心斎橋筋を恋人のように二人で歩いた。こんなアルバイトをして
はいたが、初音には初めての経験だった。
男がもう一度会えるか、と聞いてきたのにも驚いた。
ハンサムとまでは言えないが、小ざっぱりとしていて、風俗の子
しか相手にしてもらえないタイプではない。それなのに、私みたい
な女の子に、真面目くさってそう尋ねてきた。
名前を教えてくれたらと頼んだら、本名を名乗ってくれた。
実はあの男が眠ってから、初音は財布から免許証を抜き出して、
住所と名前を調べておいた。
もし嘘の名前を告げていたら、そこで終わっていただろ。だがあ
の男は、ちゃんと本当のことを言ってくれた。
だからどうだっていうわけではない。あの男が事業を起ち上げた
という話も嘘かもしれないし、あの男との再会を本気で望んでいる
というわけでもない。
﹁恋愛ごっこ﹂かもしれない。でもとにかくそれで踏ん切りがつい
90
た。もう一度勉強して、ちゃんとした生活に戻ろう。
初音は今夜でアルバイトを辞めようと決め、店に出かけた。
いつも通り、入店してすぐ指名が付いた。
﹁ちょっとやーさんぽいけど、我慢してね﹂
店長が言う。
﹁大丈夫よ。二回ぐらい延長させるから﹂
﹁頼んだよ﹂
初音が席に着くと、客はキープしたボトルのウィスキーをグラス
に半分ぐらい注ぎ、そのまま初音に飲めと命じた。
﹁私お酒弱いから、コーラもらっていい?﹂
﹁ワイの酒が飲めへんてか﹂
﹁そんなことじゃなくて、私お酒弱いからって言ってるじゃない﹂
客はかなり酔っぱらっていた。
﹁やったら、はよなめてや﹂
客はズボンのジッパーを下ろす。
﹁そういう店じゃないの﹂
91
﹁なんやと﹂
客は急に立ち上がって﹁店長を呼べ﹂と怒鳴った。
店長が飛んで来て﹁お客さん、悪いけど帰ってくれませんか﹂と
言うと、客は店長をいきなり足蹴りし、店長は腹を押さえて床に倒
れ込んだ。
店の中が騒然とする。
客は初音の腕をつかみ、それを払いのけて逃げようとする初音の
頬を、握りこぶしで思いっきりなぐりつけた。初音の意識は瞬間に
吹っ飛んだ。
気が付くと、病院のベッドに寝かせられていた。三日三晩意識が
なかったということだ。頬ははれ上がり、顔の左半分いっぱいに大
きな湿布が貼られていた。そしてベッドの傍らには母親がいた。
店の女の子が昼間勤めている保育園に問い合わせて、なんとか実
家の連絡先を調べて電話してくれたようだった。
女の子は保育園にも実家にも、店で働いているということは隠し
たつもりだったが、あの騒動で店長と初音以外にもけが人が出て、
止めに入ったボーイの一人は重傷を負い新聞沙汰にもなっていたの
で、すぐに知られてしまった。
母親が悲しそうに初音に話しかけた。
﹁なにしよっとね。お父さん、てげ怒っちょったよ﹂
92
結局保育園も、今月いっぱいで辞めると言っていたのに、解雇と
なった。
両親から宮崎に戻って来いと強く言いつけられ、退院してから仕方
なく部屋を引き払って宮崎に戻った。
しかし自分が帰って来ても、両親の厄介になるだけだった。周囲
の冷たい視線と噂にも耐えきれなかった。初音は再び、誰にも告げ
ずに神戸にやって来た。
アルバイトで学費にと貯めた貯金がいくらか残っていて、それで
神戸の元町通りの裏筋のアパートを借りて、当面の生活資金とした。
﹁何か嫌になっちゃった﹂
自業自得と言われればそれまでだが、こんなはずじゃなかったと
いう思いを消し去ることはできなかった。
親や今まで繋がりのあった人たちとの連絡を絶つため、携帯電話
も買い換え番号もメールアドレスも変えた。電話帳に登録してあっ
た番号もアドレスもすべて消去した。ただ和樹に教えてもらったメ
ールアドレスだけは、消すことができなかった。
初音は貯金が残っている間に次の仕事を探そうとしたが、保育園
を含めてまともな仕事の口はなく、仕方なしにまた風俗の仕事に戻
った。以前より、もっと過激なサービスをしなければならない店だ
った。
しかも今度はこれが本業となってしまったので、以前のように楽
しくはなかった。
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もうあと数日で三月になり、寒さも幾分かは緩んできたが、初音
は春になったからと言って、何かの希望が持てるとは思えなかった。
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第18話
音楽が鳴り始め、宴会場の重い扉が両側から一斉に開けられ、ス
ポットライトが二人を照らし出す。三成銀行市ヶ谷支店に勤める本
城雄志と旧姓中山亜由美のキャンドルサービスが始まった。
頭取の座る主賓席のキャンドルから順次火を着けていく。八人掛
けの丸テーブルが全部で十個、これでも人数を絞るのには苦労した。
社内結婚だし、新婦の父親が本店の営業部長で、四月から執行役
員に昇進することが決まっていたから、銀行関係と取引先のお偉い
さんは外すことが出来ない。大学の指導教官も決まりだ。
お互いにもっと友人を招きたかったが、大学の友人を三人ずつ、
幼馴染を二人ずつ、そして会社の同僚を三人ずつとし、二つのテー
ブルを設けるだけで我慢した。だから友人たちの席でキャンドルに
火を着けるときには、どこよりも盛り上がった。
﹁おめでとう﹂
﹁お幸せに﹂
決まりきったお祝いの言葉だが、二人は嬉しかった。
披露宴の翌日、二人は新婚旅行でハワイに出発した。
ロイヤルハワイアンに宿泊し、昼間はワイキキビーチでのんびり
と過ごし、夜の食事の後は、マイタイバーでオリジナルマイタイを
飲んだ。
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もちろんその後は、部屋に戻ってからの濃厚な時間が流れる。
結婚前も交渉はあったが、﹁できちゃった婚﹂にならないように
気を付けていたから、ハネムーンベイビーでもいいや、と思って交
わる今回は、二人にとってまた格別の意味を持った初夜となった。
﹁男の子がいい、それとも女の子?﹂
﹁どちらでもいいけど、やっぱり最初は女の子かな。一姫二太郎と
も言うし﹂
亜由美は寿退社で、専業主婦になる。
﹁じゃあ女の子だったら名前はどうしましょう﹂
﹁ははは、気が早いな﹂
二人は、この先ずっとこの幸せが続いていくことに、何の疑いも
持っていない。
朝食は、ビーチに面したレストランのテラス席で、ダイアモンド
ヘッドを眺めながらとった。
﹁このパンケーキ、美味しいわよ﹂
﹁朝から甘いものは苦手だな。やっぱり朝はご飯と味噌汁が一番か
な﹂
﹁あら、私朝食にフレンチトーストなんてのも好きなんだけど﹂
96
亜由美は少し残念そうに言う。
﹁だったら朝食はご飯にするわ﹂
﹁いや、ご飯とパンの半々で良いよ。それに時々フレンチトースト
でもいいさ。でもこのホテルみたいに毎日パンケーキが出るのはち
ょっとね。ははは﹂
﹁確かに毎日だったらね、ふふふ﹂
旅行から帰ってからの新婚生活も、二人には楽しみだった。
初めは雄志の実家で親と同居するつもりだったが、雄志の神戸支
店への移動が決まったので、四月から、社宅であるが、二人だけの
新婚生活が送れる。雄志の両親とはうまくやっていけると思ってい
たが、亜由美はやはり嬉しかった。
﹁ところで、披露宴に同期の小林が来てくれていただろ﹂
﹁ええ、私の大学時代の友達のみやちゃんの隣に座っていた人でし
ょ﹂
﹁そう、あいつ結構みやちゃんが気になっていたようだけどね﹂
﹁本当?﹂
﹁二次会で、紹介してくれって頼まれたんだよ﹂
﹁えー、みやちゃんのタイプじゃないかも。みやちゃんって、どっ
ちかと言うとグイグイ引っ張っていくタイプが好きみたいよ。小林
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さんってやさしそうっていう感じじゃない﹂
﹁そりゃ残念だ、あいつ落ち込むだろうな。でもあいつああ見えて
も結構度胸がすわっているんだぜ﹂
﹁どうして?﹂
﹁中津支店で強盗があったろ﹂
﹁ええ、去年の十月にね﹂
﹁強盗が店を出て行った直後に追っかけて、カラーボールを車に投
げつけたのは彼なんだよ。強盗は拳銃も持っていたのに﹂
﹁へー、でも恐いわ。雄志さんはそんなことしないでよ﹂
﹁うん、もちろん危険なことはしないよ﹂
﹁もう、一人じゃないんだからね﹂
﹁その小林が二週間前に東京に出張に来ていて二人で飲んだんだけ
ど、見つかった一万円札の話になってね﹂
﹁また推理モノ?﹂
﹁刑事の山下さんから聞いた話だけど、お正月に関西の方で使われ
ていたらしい﹂
﹁そうなんだ﹂
98
﹁それで、小林と今度はどこで使われるだろうかということを色々
推理していた﹂
﹁関西でも駅の自動券売機とかで使われたの?﹂
﹁いいや、今度のはそうではなく、初詣で混雑する神社で使われた
らしい﹂
﹁まあ人ごみの中で使われたら分からないものね﹂
﹁でも、どこでいつ使われたのかが分かれば、人物像は推測できる﹂
﹁どんな風に?﹂
﹁例えば、お正月に何か所もの神社で使われたということは、多分
独身だろうね﹂
﹁どうして?﹂
﹁そりゃそうだろ。いくら縁起担ぎだったとしても、お正月に家族
を引き連れて、何か所も初詣に行くかな。もし僕が何か所も初詣に
行くって言ったら、亜由美は素直について来る?﹂
﹁雄志さんが行きたいって言えば、私は付き合うわよ﹂
﹁えっ、嬉しいな﹂
雄志は目じりを下げた。
﹁それに普通だったらお正月は家族と過ごすじゃない。一人でうろ
99
うろ出歩いたりしたら、家族に怪しまれるんじゃないかな﹂
﹁そうかもね。でも家族がみんなグルだったら。例えば借金で一家
心中一歩手前の家族がいて、たまたまお金を見つけて、家族総出で
手分けして使い歩くとか﹂
﹁なるほど、面白いこと考えるね﹂
﹁お正月だったら、子供が使っても、﹃お年玉でもらったのかな﹄
程度で不審がられないかもしれないし﹂
﹁まあ、強盗の共犯者ではなく、その金をたまたま見つけたんだと
いう亜由美の考えには賛成だね。あんな杜撰な強盗に比べて、使い
方が慎重過ぎるからね。強盗とは関係ない人物であることは確かだ
と思う﹂
﹁でもどうやってお金を発見したのかしら。たまたま山で掘り出し
たとか﹂
﹁まさかね﹂
﹁それで、今度使うとしたらどこだと思うの?﹂
﹁人の多く集まるところか、一万円札を使っても怪しまれないとこ
ろ﹂
﹁例えば?﹂
﹁例えば買い物客で賑わっている商店街とか﹂
100
﹁なるほどね﹂
推理小説ファンの二人の話は尽きそうになかったが、時計を見る
ともう昼前だった。
﹁今日はノースショアをドライブの予定だったわよね﹂
﹁やばい。レンタカーの予約時刻まであと三十分もない﹂
﹁急ぎましょう﹂
二人は慌てて席を立ち、部屋に駆け戻った。
101
第19話
﹁係長、やつの指紋が出ました﹂
大淀警察署の若い刑事が、岸本係長に勢い込んで伝えた。
﹁どっちのだ?﹂
﹁山崎、中田の両方です﹂
﹁その車はどこにあったんだ?﹂
﹁尼崎の工場の駐車場です﹂
岸本は、山崎が銀行から金を奪ってから立て籠もり事件を起こす
までの足取りを追っていた。
山崎は、奈良・和歌山・京都・滋賀と、近畿一帯を広範囲で移動
していた。そして 山崎を警官が発見したのは梅田から阪急電車で
二つ目の﹁十三﹂駅前の簡易宿舎で、人質をとって立て籠もったの
が尼崎だった。山崎が電車やバス・タクシーで移動したとは考えら
れなかったし、どうやら山崎をかくまっていた共犯者もいないよう
である。ならば山崎が移動手段とした何かがこの辺にあると踏んで
いた。
﹁やっぱり盗難車か﹂
岸本は、銀行強盗前後に発生した車の盗難事件を、まず洗い出す
ことにしていた。
102
﹁どんな車だ﹂
﹁軽トラックです﹂
﹁ナンバーからNシステムで移動経路を割り出してくれ﹂
﹁はい、既に手配済みです﹂
﹁よし、ご苦労﹂
岸本は車の発見現場に向かった。
既に制服警官がその車を保存していて、鑑識課員が軽トラックの
運転席に入って調べていた。
﹁指紋以外の遺留品は?﹂
﹁空になったコーラの空き缶と煙草の吸殻がありましたので、既に
DNA鑑定のため、科研に送っています﹂
﹁それ以外は?﹂
﹁はい、荷台にスコップが一つ﹂
鑑識課員が工事用のスコップを見せた。
﹁スコップもすぐに送るんだ﹂
﹁了解﹂
103
﹁この車に乗り換えて逃走し、途中で中田を下ろして山崎一人でず
らかったということやな﹂
﹁多分そうでしょうね﹂
若手の刑事も頷く。
大淀警察署で捜査会議が開かれていた。
﹁車はダイハツのハイゼット、九十四年式で、幌はつけられていま
せん。ナンバープレートは偽造。昨年九月二十八日に、大阪市生田
区の土建業者の駐車場から盗まれています﹂
﹁犯行後の乗り換え用として、あらかじめ準備していたということ
やな﹂
﹁そう思われます﹂
﹁移動経路は﹂
﹁はい、Nシステムその他による移動経路のご説明をいたします﹂
ホールの前面に張られたスクリーンに、近畿地方の地図が映し出
された。
﹁銀行が襲撃された十月一日以後の足取りで、判明した経路です﹂
岸本はメガネを取り出してかけた。
104
﹁まず十月二日、阪神高速環状線を経由して午前七時五分、十五号
堺線住吉出口で高速を降りています﹂
﹁中田を送り届けたということか﹂
﹁その後、経路は不明ですが、午後三時過ぎ、国道二号線芦屋を通
過しています﹂
﹁芦屋?大阪から西へ向かったわけか﹂
﹁午後七時半頃、西宮北インターチェンジから中国自動車道に入り、
豊中から名神、吹田から近畿自動車道、東大阪ジャンクションから
十三号東大阪線を経て第二阪奈道路に入り、奈良に向かっています﹂
﹁一度西に向かい、神戸辺りから中国自動車道まで六甲山を抜けて、
大阪へと引き返してきたということやな﹂
﹁そう考えられます。十月三日には、奈良県大和郡山市から、国道
二十四号線を通って和歌山に向かっています﹂
その後の移動経路は、山崎が立ち寄ったホテルや簡易宿舎の足取
りと一致した。
﹁犯行翌日に神戸に立ち寄ったのが、不思議やな﹂
岸本は呟いた。
﹁ところで、煙草の吸殻の鑑識結果は?﹂
﹁はい、吸殻に付着していた唾液が、山崎のものと一致しました﹂
105
﹁スコップの方は?﹂
﹁はい、スコップは車を盗まれた土建業者がもともとトラックの荷
台に置いていたものでしたが、スコップに付着した土を今科研で詳
しく分析中です。まだはっきりとは言えませんが、土建業者が最近
請け負って工事をしていた大阪市街地の土質とは、明らかに異なる
土が付着していたというところまで判明しています﹂
﹁別の土が付いていた?﹂
岸本は、山崎が逃走経路のどこかで、このスコップを使って金を
どこかに埋めたのではないかと閃いた。そして、それを掘り出した
人間が金を使っているのではないだろうか。
その人物が何者かは全く見当がつかない。山崎の知りという線も
まだ捨てきれないが、もし山崎と全く関係のない人物であったら、
それこそ人物を特定するのは至難の業であろう。
岸本は、山崎の逃走経路をもう一度見直した。
﹁一度神戸に向かい、わざわざ六甲山を超えて北から大阪に戻った
というのが、不思議やな﹂
中国自動車道の西宮北インターチェンジは﹁西宮﹂ではあるが、
六甲山の海側にある市街地ではなく、六甲山の裏側に位置している。
神戸市の北端、有馬温泉のすぐ隣りである。
六甲山の海側市街地から西宮北インターチェンジに至る経路はい
くつかある。もっとも時間的に早いのは、新幹線の新神戸駅付近か
106
ら六甲山を貫く新神戸トンネルを抜けるコースである。
六甲山ドライブウェイに入り、六甲山頂経由も考えられる。ここ
は有馬温泉に抜けるドライブコースとして、観光客にも人気の道で
ある。
﹁山崎は神戸に土地カンがあるのか?﹂
﹁以前、神戸に住んでいたことがあります﹂
岸本は神戸の地図を見ながら、市街地から北へ向かう道路を見比
べた。
﹁この道はどうや、お前神戸出身やったな﹂
﹁ええ﹂
声をかけられた若い刑事は地図を見ながら
﹁有馬街道といって、三宮からもう少し西に行った平野という所か
ら有馬温泉に抜ける道です。神戸電鉄という私鉄が並行して走って
います﹂
﹁交通量は多いのか?﹂
﹁ええ、あの辺は山を切り開いた新興住宅地が多いですから、朝夕
のラッシュはかなり混みます。ですが、谷間に沿って走る山道って
いう感じですね﹂
﹁山崎は、土地カンのある神戸まで、金を隠しに来たんやないか﹂
107
﹁確かにその可能性はありますね﹂
﹁隠す場所は当然人気のないところや。山の中に掘って隠すんが一
番や。死体遺棄事件を見ても分かるやろう。ならばトンネルはもち
ろん、観光客の多い六甲山も避けるやろう﹂
﹁すごい飛躍した推理ですね﹂
しかし科研での詳しい土質分析の結果から、その土はまさしく、
岸本が推測していた通り、有馬街道の西に位置する、六甲山から兵
庫県の中部に連なる、丹生山系と呼ばれる一帯の土質に近いことが
分かった。
岸本は、兵庫県警の応援を仰いで、この一帯の捜査に取り掛かっ
た。
108
第20話
和樹は神戸で貿易会社を起ち上げることにした。神戸は港町で小
さな貿易商も多いから、別に珍しいことでもない。初めは小規模な
取引から始めようと思った。しかしいざ会社を起ち上げようと思っ
ても、簡単に出来るものではない。まず資本金がいる。
それに、本当に計画通りにマネーロンダリングが上手く行くのか
も、自信がなくなってきた。そんな大それたことなど考えずに、最
初に思った通り老後の蓄えとして置いておき、それなりの毎日を過
ごしていく方が、よっぽど楽に違いない。
しかし、会社を設立するための資本金は、なんとかなりそうだっ
た。この家を売ればよい。
三十坪の中古の家とは言っても、一千万円以上では売れそうだ。
しかしこの土地と家は、和樹と姉とで半分ずつ相続しているから、
自分一人で勝手に処分できはしない。和樹は久々に、東京にいる姉
と連絡を取ることにした。
和樹は商社を辞めて飲食店チェーンに転職した頃までは、それな
りに姉と連絡を取り合っていた。両親の法事で姉家族みんなが神戸
に戻ってきたこともあった。しかし和樹が飲食店チェーンも辞めて
フリーター状態になってしまってからは、和樹の方から連絡するの
は気が引けたし、姉もあえて連絡を寄越すことはなくなっていた。
﹁姉さん、和樹だけども﹂
和樹は姉の家に電話した。
109
﹁和樹、今どうしているの?﹂
姉は少し驚いた様子で、とりあえず和樹の近況を問う。
﹁飲食店チェーンを辞めてからいくつかの仕事をやってみたけど、
なかなか合う仕事が無かったんで、自分で会社を起ち上げることに
した﹂
和樹はフリーターだったということは隠していた。
﹁会社を起ち上げる?どんな会社を?﹂
﹁貿易会社。商社に勤めていた時の同僚から声をかけられた﹂
和樹は嘘を付いた。
﹁えー、そうなんだ。でも大丈夫なの?﹂
﹁ああ、前に商社に勤めていときに食品の輸入の仕事をやっていた
から、ノウハウは持っているよ﹂
﹁商社の時の同僚って、信用おける人なの?﹂
﹁一緒に仕事をやったこともあるやつだから﹂
姉は警戒している様だった。
﹁それで相談なんだけど、会社を起ち上げる資金のため、今の家を
売ろうと思うんだ。一人でこの家に住んでいるのはもったいないし
110
ね﹂
﹁まあそうね。でも﹂
﹁分かっている。名義が半分姉さんのものだってこと﹂
﹁うちも子供たちの教育費とか、これから大変だからね﹂
﹁もちろん。だから、全部譲ってほしいとかじゃなくて、そのお金
を僕たちの会社に出資してくれないかな。株式会社にするから、利
益が出たら配当も出すし﹂
﹁そんなに上手くいくかしら﹂
﹁いい取引先が見つかりそうなんだ﹂
姉はまだ半信半疑だったが、和樹が詳しい計画書を送るからと言
うと、
﹁じゃあ、うちの人と相談してみるから﹂
と言った。
﹁ありがとう﹂
﹁ところで和樹、あなたまだ結婚を考えている人はいないの。そろ
そろいい年なんだから﹂
﹁ああ、いないことはないんだけど﹂
和樹は一瞬初音のことを思い浮かべて驚いた。
111
﹁このビジネスが軌道に乗ったら結婚するつもりだ﹂
﹁そう、ならば出来るだけ応援するから﹂
和樹は久々にパワーポイントを開いて、プレゼンテーション用の
資料を作り始めた。商社勤めの時以来で、和樹は再びビジネスマン
に戻った様な気がして、ウキウキしてきた。
まず会社の名前を決めなければならない。
和樹は色々な名前を思い浮かべた。﹁○○貿易﹂といった日本語
名より、﹁○○トレード﹂といった横文字の方がいいかな。しかし
それだとインチキくさいかもしれない。
結局無難に苗字をとって﹁高橋通商﹂に決めた。
次に資本金をいくらにするかを考える。
家を売った金を全部注ぎこんだとして一千万円。それに一緒に会
社を起ち上げる架空の人物もいくらかは出資させないとまずいから、
プラス二百万円にして、これは国内での両替でなんとか賄おう。
事業内容は物品の輸入と輸出に加え、海外取引のコンサルティン
グ業務とでもしておこう。
事務所兼自宅として元町通りあたりにアパートでも借りよう。
予定していた共同設立者は、結局会社を辞められなかったことに
して、じゃあ代表取締役は自分だ。
112
和樹は、マネーロンダリングのために作る会社に過ぎないのに、
何かすごいビジネスを計画しているような気になってきた。そして
﹁代表取締役﹂という響きに気分が高まり、将来この会社が大きく
なって、青年実業家として名をはせる自分を想像した。
企画書を完成させて義兄に送り、一応了解を取り付け、家を処分
するために不動産屋に仲介を頼んだ。家が売れて金が手に入るまで
に、生活資金も含めても三百万円ほど両替しておく必要がある。
和樹は正月二日で百万円両替して問題がなかったことから自信を
持ち、二週間くらいあれば三百万円の両替は可能だろうと思った。
しかし慎重を期さねばならない。今足がついてしまっては元も子も
ない。
和樹は再び駅の自動券売機で両替することを考えた。人と直接接
触しないその方法が、最も安全だと思った。。しかし和樹はもう一
度、その方法の良し悪しを点検してみた。
券売機の裏で、駅員が一々差し込まれた一万円札の記番号を確か
めることなどしないだろうが、一度使われた手であるし、一万円が
使える券売機は駅の中でも限られている。だったらその周辺の防犯
カメラを強化してくるかもしれない。
更に考えてみたら、その札は誰かの手を経ることなしに銀行に直
接持ち込まれる可能性が高い。札が使われた場所と時刻から、自分
の足取りを割り出されるかもしれない。
そう考えると、最初だったから良かったものの、二度目からは決
して安全だとは言い切れない。やっぱり、街中で買い物をして換え
113
る方が良いように思った。
しかし考えてみると、一万円札というのはそれ以外の金とは異なっ
て、釣り銭として人と人の間を行きかう紙幣ではない。店で使った
としても、売り上げは通常なら
一度銀行に入金されてしまうだろうから同じだ。
売り上げを銀行に入金せずに、そのまま仕入れに回すような小さ
な店ならば可能かもしれないが、どんな業種がそれに当てはまるの
か、和樹には見当がつかなかった。
和樹は色々と考えたが、国内で両替するのに絶対安全な方法は無
かった。無かったからこそ、海外での両替を計画しているのだ。
しかし、一度に大量の一万円札を使うのではなく、移動しながら
ありふれた場所で小出しに使っていくなら、それが使われた場所と
時間を掴まれたくらいで和樹に辿りつくことはまず不可能だと考え
て、一日に一か所十万を上限に、一か月かけて全国各地を移動しな
がら両替して行こうと決めた。 114
第21話
三月になって相次いで、金沢・仙台・福岡・広島で、三成銀行中
津支店で強奪された一万円札が見つかった。警視庁捜査三課の山下
は、その都度全国を駆け巡らねばならなかった。
金沢では近江町市場、広島では本通りといった商店街で使われた
ことが分かった。それも食料品店・ドラッグストア・土産物品店な
ど多種多様であり、釣り銭目当ての買い物であることが、容易に推
測された。
﹁まるで観光客気取りですね﹂
金沢を訪れた山下は、石川県警の刑事から話しかけられた。
﹁そうですね、西は福岡、北は仙台ですから、日本中でまき散らす
つもりなんでしょう﹂
二人は近江町市場を歩きながら話した。
軒を連ねる鮮魚店には観光客らしき買い物客も多く、威勢の良い掛
け声が飛び交っていた。
﹁防犯カメラは設置されていますよね﹂
﹁はい、再開発ビルが出来たのをきっかけに、警察も指導して、こ
こには最新のカメラが設置されています。市場事務所に寄って行き
ますか﹂
﹁お願いします﹂
115
山下は事務所に寄って、商店街の役員に防犯カメラの画像の提供
を要請した。
その後、使われたと思われる鮮魚店で話を聞いたが、話を聞いて
いる間にも一万円札で買い物する客がひっきりなしで、店の従業員
も思い当たる客はいないということだった。
﹁小松から仙台行の直行便はありますか?﹂
﹁ええ、お昼過ぎに一便﹂
﹁仙台から福岡へも直行便が飛んでいますから、飛行機を使って移
動したかもしれませんね﹂
﹁搭乗者名簿を当たってみましょう﹂
﹁よろしくお願いします﹂
山下は一応頼んでおいたものの、移動手段は鉄道ではないかと考
えていた。その方が小回りが利き、適当な駅で降りて使うことがで
きる。案の定、札はそれ以外の県でも続々見つかっていった。
今回使われた場所は時間も地域も入り乱れていて、どこを起点と
したのかはまったく見当がつかなかった。しかし何らかの痕跡を残
しているはずだ。
山下は、商店街と駅の防犯カメラの映像解析を気長にやっていく
しかないと思った。解析すべき映像は膨大な量だが、まずは金沢の
近江町市場と広島の本通り商店街の映像を付き合せて、同一人物が
116
写っているならば特定できる。
防犯カメラの映像の質と人物検索のテクノロジーは年々格段に進
歩していて、画像から性別の他、身長や大体の年齢まで推測できる。
従って、膨大な人数であっても、その特徴ごとにカテゴリー分類し
ていき、特徴が似通った人物を絞り込んで照合していけば、二つの
商店街にいた人物を探し出すことができる。
複数の人間が手分けして換金しているならば無理だが、山下は単
独犯だとにらんでいた。なぜならば、一万円札が見つかった日時に
多少のずれがある。複数犯だったら各地で同時に実行するだろう。
もし金沢と広島の二か所で見つからなければ、もっと時間はかか
るが、比較する場所を追加していけばよい。警察の総力を上げれば、
それは不可能ではない。
しかし仮にその人物の画像が特定できたとしても、その身元を割
り出すのも難題だ。
その人物が一万円を使用した現場を押さえなければいけないから、
写真を公開して指名手配することはできない。あくまでもその人物
に気付かれないようにして、身元を割り出さねばならない。
山下は、大阪府警の岸本に電話を入れた。
﹁岸本さん、捜査の進展状況はその後いかがですか?﹂
﹁ああ山下さん、山崎の足取りと、金を隠した場所のおおよその位
置がつかめました﹂
117
﹁それはお手柄ですね。それでどこですか?﹂
﹁神戸市北部の山の周辺だと推測しています。山崎が盗んだ車に積
んであったスコップに、そのあたりの土が付着していました。それ
でおたくの方は?﹂
﹁金沢と広島の二つの商店街で使われたことが判明したので、今か
らその商店街の防犯カメラの映像解析に取り掛かるところです﹂
﹁どうも札を使ったやつは、神戸近辺に住んでいる人間やないかと
私は思っとります﹂
﹁山崎が金を隠した場所の近所の人間だと?﹂
﹁そう、なんかのきっかけであの金を見つけ、それをそのまま横領
して使っているんやないか、と﹂
﹁そうすると画像と地域から、かなり絞り込めますね﹂
﹁そうだといいんですが﹂
山下は、その人物へかなり近づいてきたように感じた。
﹁では画像解析が済んだらまたご連絡します。その時はよろしく﹂
﹁ええ、その時は一気に逮捕までいけるでしょう﹂
警察は、想像以上に和樹に迫っていた。
しかし、広島と金沢の二つの地点の画像だけで人物を特定するこ
118
とはできなかった。もっと多くの地点の画像解析が必要となった。
山下は、今後も金が頻繁に使われるものと予測した。この一月で
三百万円ほど見つかっているが、犯人は金を全部換えるのにかなり
の労力が必要だと分かったはずだ。ならばもっと頻繁に、そして額
も徐々に増えていき、そうなれば、金の使われた時間と場所がかな
り正確に割り出せる。
しかしその予測に反し、四月に入ってから、一万円札が発見され
るのがぴたりと止んだ。山下は落胆したが、とにかく、これまでの
資料から解析を進めていくしかない。きっと同一人物が、どこかに
紛れ込んでいるに違いない。
119
第22話
三月に目標の三百万円を両替し、家も予定していた額より大きい
一千二百万円で売れ、姉夫婦の出資の約束も取り付け、元町商店街
の海側に事務所兼自宅として新たにアパートを借り、和樹はいよい
よ会社設立に取り掛かった。
専門家にもアドバイスを受けるため、今後メインバンクにと考え
ている三成銀行の三宮支店に、家を売った金を入金したのを手掛か
りに、相談を持ちかけた。
その時和樹の応対をしたのは、この四月に東京から転勤してきた
という本城という行員だった。本城は人当たりが良く誠実そうな人
物だったので、和樹は信頼して相談できると思った。
﹁このたびはご入金ありがとうございました﹂
本城は和樹を応接室に通し、タオルと通帳ケースの粗品を手渡し
ながら礼を言った。
﹁ところで、会社設立をご相談とのことですが、どんな会社ですか
?﹂
年齢も和樹と同じくらいだと思った和樹は、自分がかつて商社で
働いていた経歴を交えながら、小規模だが今までに他社が扱ってい
ないような魅力的な商品を輸入して販売する会社の構想を、本城に
熱っぽく語った。
﹁神戸は貿易の伝統がありますから、きっといい会社になると思い
120
ます。私どもともぜひお取引をお願いします﹂
和樹は本城に紹介してもらった司法書士に会社設立の手続きを任
せ、ビジネスの構想をじっくり練ることにした。
もちろん﹁本業﹂はマネーロンダリングなわけだが、最初に考え
たように、まず初めは小規模な実際の取引を行って信用力を着け、
また海外での金のやり取りに慣れてから、大規模な両替に移行する。
しかも両替で足がつく恐れの低い地域はどこだろうかと考え、やは
り東南アジアが良さそうだと思った。
本業では儲けは無くても損さえ最小限に抑えれば良いのだから、
かなり良心的な取引ができるだろう。それに適した商材は何か。
そう考えて、和樹の頭に﹁ウナギ﹂が閃いた。それならば商社時
代にプロジェクトを計画した経験もあるし、何よりもツテがある。
和樹はウナギを扱うことに決め、パソコンのファイルから当時の
プレゼン資料を呼び出した。
和樹は当時交渉していたフィリピンの業者に、試しに少量を輸入
したいとメールで交渉を持ちかけた。そしてそれと共に、鰻専門店
を訪問するため上京した。
昼休みが終わり、店が少し落ち着く時間帯を狙って店に飛び込む。
﹁こんにちは、高橋通商の高橋と申します﹂
和樹は真新しい名刺を取り出して、店の主人に手渡す。
121
﹁以前、もう三年くらい前になりますか、丸栄物産の社員としてお
伺いしたことがあります﹂
﹁ああ、そう言えば見かけた顔だね。会社変わったの?﹂
﹁はい、独立しまして﹂
﹁ほう、若いのに立派だね。でっ、前と同じで海外産の話?﹂
﹁はい﹂
﹁あの時はうちもそんなに乗り気ではなかったからね。でもこう高
くなっちゃったら、本気で考えないとね﹂
﹁ええ、そう思いまして、ご案内にうかがいました﹂
﹁中国産?﹂
﹁いえ、中国でもウナギが不漁でしてね、今手がけているのはフィ
リピン産です﹂
﹁どうなの?﹂
﹁ミンダナオ島では天然ウナギも捕れるんですが、稚魚から養殖し
ている業者がいて、管理された環境で育てますから、ニホンウナギ
並みに脂がのっていて、おまけに安いですから、一度試していただ
ければと思って﹂
﹁そうだね、今年の土用は確実に品薄になるから、いまから色々と
試しておいた方がいいかもな﹂
122
和樹は東京と大阪のいくつかの鰻専門店を巡り、とりあえず試食
用に使ってもらう約束を取り付けた。それと同時に、浜松に寄り、
生きたまま輸入したウナギを飼ってもらう生簀も手配した。輸送と
通関の業者も決め、和樹は自分にこれほどの情熱と実行力があるの
に驚いた。
和樹は三成銀行の三宮支店を再び訪れ、マニラ支店に口座を開設
した。
﹁いよいよですね。フィリピンでどんな取引をなさるんですか?﹂
﹁ウナギです﹂
﹁ほう、フィリピンにもウナギがいるんですか﹂
﹁ええ、結構美味しいですよ。それに安いし﹂
﹁それはいい。私も食べてみたいですね﹂
﹁今度試しに取り寄せたウナギを大阪の専門店で料理してもらいま
すから、よろしかったらその時にご招待しますよ﹂
﹁えっ本当ですか。楽しみだな﹂
和樹は何度かこの銀行を訪れているうちに、本城と仲良くなって
いた。
和樹はいよいよフィリピンに渡ることにした。
123
今回は、きれいな金だけを持っていく。二百万円を持っていき、
出入国時の税関での申告方法やその検査方法、そしてフィリピンで
の両替方法、そして三成銀行マニラ支店での現地通貨の入金などを
予行演習してみるつもりだった。
すべての準備を整えて明日出発となった夜、和樹はこれからのこ
とを考えると、緊張と興奮で、なかなか眠りに着けなかった。
気持ちを鎮めるために窓を開けて外を眺めると、そこには、低い
ビル群の向こうに、ライトアップされたポートタワーがそびえてい
た。それを見つめながら、なぜか初音のことを考えている自分に気
が付いた。
124
第23話
﹁詩織ちゃん、いいよ、もっと激しく腰を揺すって﹂
初音は腰を揺らしながら、早くこの客がいってくれないかと思っ
ていた。
この店でも﹁詩織﹂という源氏名を使っていた。詩織は前に勤め
ていた保育園で預かっていた三歳の女の子の名前だ。
詩織ちゃんは少し発達の遅い子で、周りの子供たちと一緒の行動
が難しかったので、初音は特に彼女の世話を焼いていた。でも目が
大きくて色白の可愛い女の子だった。その﹁詩織ちゃん﹂が今、客
の汚いものに突き刺されて腰を振っている。
﹁はい、お疲れ﹂
店長がその日の日当を手渡す。今日は五人客を取ったから七万五
千円。多い方だ。不況のせいで以前より客足は随分と減ったという
ことで、かつては月に何百万も稼いでいたヘルス嬢もいたというこ
とだが、今では店でナンバーワンの初音でも、一月に百万には届か
ない。
もちろん普通の仕事に比べれば何倍もの高額だから、ちゃんと蓄
えていけば、この仕事から早く足を洗うことも出来るだろう。しか
し、ここまで堕ちてしまうと、少しぐらいのきっかけではやり直す
ことは出来ない。
それでも初音は、和樹との出会いを、時々初恋の日のように思い
出して、それが唯一の手がかりのような気がした。
125
﹁詩織ちゃんご指名、三番の部屋に行って。やーさんだけど、よろ
しく﹂
やくざと聞いて、初音は身振いした。
﹁やくざは苦手なんですけど﹂
﹁そんなこと言わんでよ﹂
もちろん客の選り好みなどは出来ない。初音は仕方なく三番の個
室に入った。 ベッドには背中に大きな弁天の刺青を入れた客が、うつ伏せに寝
そべっていた。
﹁おう、別嬪さんやな。早速お願いするわ﹂
初音はローションを手に付け、刺青の入った背中をなで始めた。
﹁そんなしんけくさいことせんでええから﹂
男は体を半転して、自分の股の下のモノを突き出した。
﹁はよ入れてや﹂
﹁でも﹂
﹁面倒くさいことはええねん、さっさと済まそうや﹂
126
客は真珠入りの一物で、ぐいぐいと初音の局部を突いて来る。
﹁これ塗ったら、もっと気持ちよくなるで﹂
客は枕元から小瓶を取り出してふたを開け、何かの液体を初音の
敏感な部分に塗りつけた。
初音は今まで感じたことのない強烈な快感が込み上げてくるのを
感じた。そして、そのうち訳が分からなくなってきた。
﹁ああっ﹂
初音は男のモノを深く受け入れ、何回もうめき声を上げて絶頂に
達した。
﹁どうやった?これ覚えたら、もう忘れられへで﹂
客は上着を着ながら、まだベッドに倒れ込んでいる初音の局部を
さすりながら言った。まだ意識がぼんやりとしている初音は、その
声をどこか遠くから聞こえてくるように感じていた。
一週間後またあの客が来て、初音を指名した。初音は部屋に行く
前に、もう体中がムズムズしてくるのを感じていた。
﹁どうやった、またあの薬塗ったろか﹂
初音は拒否する素振りを見せたものの、体はそれを拒めない。初
音は自ら大きく股を広げ、その男に催促する。
﹁やっぱしな﹂
127
男は期待通りの行動に満足し、初音の局部に液体を塗る。
その日も初音は何度も絶頂に達した。
﹁ちょっと付き合ってくれへんか﹂
時間終了後、ベッドでまだぐったりしている初音に男は声をかけ
た。
﹁店長には話しつけてるさかい﹂
初音は頷いた。
ロッカーで着替えを済ませてから店の外に出ると、男が煙草を吸
いながら、車の前で待っていた。
﹁乗りな﹂
男は煙草を投げ捨て、初音を車の助手席に押し込んだ。
﹁どこへ行くの?﹂
﹁ええとこや﹂
初音は不安に思いながらも、もうあの快感からは逃れられなくな
っていた。
連れて行かれた先は、港の近くにある古ぼけた小さなビルの一室
だった。男は鍵を開けて小さな事務室のような部屋に入り、電気を
128
付け、初音を招き入れる。部屋には事務用デスクと壁には鍵のつい
たロッカーが並んでいた。
男は一つのロッカーの鍵を開け、中から小瓶を取り出した。
﹁これや、これが欲しいんやろ﹂
男は小瓶を机の上に置いた。初音は恐る恐るその小瓶を手にした。
﹁もう一回試してみるか?﹂
初音は初め躊躇したが、首を縦に振る。小瓶の蓋を開け、人さし
指でその液体をぬぐい、ショーツを下ろして自分のあそこに塗りつ
ける。その瞬間、またあの快感がよみがえってくる。
﹁早く来て﹂
初音はデスクに両手をついてスカートを捲し上げ、男を招き入れ
る。
﹁ああっ﹂
初音は再び快感の虜になり、何度も意識が遠のいていく。
男は煙草を吸いながら、まだうつろな表情の初音に声をかけた。
﹁このクスリ、一瓶三万円でどうや?﹂
初音はコックリと頷く。
129
﹁それと、これ他の女の子に売ってくれたら一瓶あたり一万円やる
けど、どうや?﹂
初音は再び頷く。
﹁これで商談成立やな。携帯の番号教えてや、後でこっちから連絡
する﹂
初音はメモ用紙に自分の電話番号を書いた。
三万円払って瓶を持ち帰った初音は、早速それを付けてみて、自
分で慰める。多分ヤバいクスリなんだろうとは分かっていたが、も
う後戻りできない。
130
第24話
和樹は関西空港から香港経由でマニラに到着した。飛行機を降り
ボーディングブリッジに移ると、まだ五月というのに熱帯特有のむ
っとした湿気が身体を包む。
日本を出国時に税関で二百万円の持ち出しを申告したが、現金を
見せたりの必要もなく、すんなりと通った。フィリピンへの入国時
にも律儀に申告したが、その必要もなかったようだった。
空国から、安全と言われている黄色のタクシーに乗ってホテルに
着き、パスポートを見せてチェックインする。通された部屋は、マ
ニラ湾が見下ろせる快適な部屋だった。
マニラに着いた翌日、市内を見学に行く。もちろん観光旅行でな
く、両替所の探索である。
商社勤めの時にも来たことのあるマニラなので、大体様子は分か
っているつもりではあったが、その時は仕事の合間にマニラ大聖堂
などの代表的観光スポットを車で回っただけだ。
和樹はホテルでもらった地図を頼りに、ホテルからほど近い両替
所を訪ね、試しに二十万円の両替を試みる。レートは悪いし手数料
は高いが、すんなり両替してくれる。
試しにいくらぐらいまで両替可能かと聞いてみると、いくらでも
OKと言う。ならば一千万円でも大丈夫かと聞いてみると、前もっ
て連絡してくれれば大丈夫だとのことである。しかし両替直後に強
盗に合う恐れがあると聞いていたので、周囲への警戒は怠らなかっ
131
た。
大金を持って歩くのは不安だったので、高額なチップを付けて安
全なタクシーを手配して回ったが、市内の車の渋滞はひどく、結構
な時間を費やした。それでも他に何か所かの両替所を訪れて十万円
ずつ両替し、同じ質問をすると、OKの返事が返ってきた。そして
五十万円ほどをフィリピンペソに両替し、その半分を三成銀行マニ
ラ支店に入金してから無事にホテルに辿り着いた。
金の両替と銀行への入金になんら問題は無かった。後は﹁正規の﹂
ビジネスを行うだけである。和樹は翌日ミンダナオ島へ飛ぶ飛行機
の時刻をチェックした。
マニラから二時間弱、飛行機は熱帯雨林を眼下に眺めながら徐々
に高度を下げてくる。曲がりくねった川が見えてきた。タバオ川で
ある。この川の上流に、ウナギを養殖している業者がいた。
タバオ国際空港はマニラよりもっと南国色が強く、観光客らしき
日本人の団体も見かけた。
空国からほど近い海沿いのリゾートホテルに向かう。部屋に入っ
て窓のカーテンを開けると目の前に島が見え、島との間の細長い海
は、美しいエメラルドグリーンに染まっていた。
景色をのんびりと眺めていたかったが、翌日からの仕事に供え、
フロントでレンタカーと通訳を手配する。まだ予行演習の段階だ。
本番はまだ先であるから、ここで気を抜くわけにはいかない。
翌日も南国の眩しい光が降り注いでいた。ホテルを出てスペイン
瓦の色とりどりの屋根が美しい住宅街を抜け、ハイウェーに乗り、
132
タバオ川にかかる橋を渡る。少ししてから小さな道に入り込み、そ
の道は森の中へと続いている。道沿いに小さな集落が点在していて、
いくつか目かの集落から更に小さな道に分け入り、その道は川に行
き当たって、その川べりに養殖場はあった。
和樹は通訳を介して挨拶し、早速商談に入った。
そこのウナギはニホンウナギよりは少し大きめだが、見た目はそ
んなに変わらない。和樹は持参したカセットコンロに網を広げ、業
者がさばいてくれたウナギの身を、やはり持ってきたたれにつけて
食べてみると、ホカ弁で食べた鰻弁当に入っているウナギより脂が
のっていて、美味しいと感じた。
試しに三百キログラムのウナギを生きたままで空輸する契約を結
び握手する。代金はタバオの銀行に、マニラの三成銀行から振り込
むことで了解された。
和樹は、たとえそれがマネーロンダリングの隠れ蓑に過ぎなかっ
たとしても、商社勤めのときに実現できなかったプロジェクトを達
成できたことに、大きな充実感を覚えていた。
その日のうちにマニラに戻り、残りの一万円札のすべてを両替屋
でペソに換え、三成銀行マニラ支店から指定された講座に振り込む。
こうしてフィリピンでの仕事をすべて終え、無事帰国の途につい
た。
一週間後、浜松の養殖場からウナギが届いたとの連絡があり、行
ってみると数パーセントは死んでいたが、残りのウナギは元気よく
泳ぎ回っていた。そのうち何十キロ分かを水槽に移し替え、自分で
133
運転する車で、話を付けておいた東京の鰻専門店に持ち込み、調理
してもらう。
板前さんの評価はまずまずだった。
和樹は水槽の一つを大阪にも運び、前に約束していた三成銀行の
本城を呼び出した。
﹁フィリピン産の鰻ですね﹂
﹁ええ、ミンダナオ島のタバオで買い付けて来たウナギです。東京
の店での評価はまずまずでした。関西でも行けると思っていますが﹂
﹁確かに、東京と大阪では鰻の焼き方が違うそうですからね﹂
﹁ええ、東京では鰻を蒸してからたれを付けて焼きますが、関西風
では蒸さずにそのまま焼きます。それに開き方も異なります﹂
﹁開き方も?それは知らなかった﹂
﹁はいっ、出来たよ﹂
店主が蒲焼を皿に入れて出してくれた。
﹁まあまあじゃないかな﹂
一口食べた店主は、満足そうな表情だった。
﹁美味しいじゃないですか﹂
134
本城は驚いたように言った。お世辞とかではなさそうだ。
﹁あとは値段の問題やな﹂
店主が言う。
﹁いくら位だったら大丈夫ですか?﹂
﹁そうやなあ、まあ国産の半値くらいかね﹂
﹁半値ですか、それはちょっときついかもしれませんね。でも今年
の土用あたりは国産が相当高くなりそうですから、その頃の半値の
線は可能かと思いますが﹂
値段を決めてから再提案することになったが、損さえ出なければ
よいから価格はかなり抑えることができると、和樹は計算した。
﹁うまくいったようですね。帰りにちょっと一杯やっていきません
か。おごりますよ﹂
本城が和樹を誘った。
﹁おごるなんて、色々お世話になったのでこちらこそおごりますよ﹂
﹁いえいえ、では割り勘で﹂
二人は三宮まで戻って、駅裏の居酒屋に入った。
﹁仕事の成功を祈って乾杯﹂
135
本城がジョッキを差し出した。和樹もそれに合わせて﹁乾杯﹂と
返す。
杯を重ねるうちに仕事からプライベートな話題に移る。
﹁高橋さんはご結婚されているんですか?﹂
﹁いえ、独身です﹂
﹁高橋さんのように仕事のできる人ならば、周りがほっとかないで
しょうに﹂
﹁いえ、いえ﹂
和樹は商社を辞めてから飲食店チェーンに転職したもののすぐに
辞め、その後しばらくフラフラしていたことを正直に語った。
﹁一念発起といったところですね。好きな女性ができたとか?﹂
和樹は﹁いやいや﹂と手を振って否定したが、頭の中に初音の姿
を思い浮かべた。
﹁本城さんは?﹂
﹁この三月に結婚したばかりです﹂
﹁新婚さんですか、羨ましいですね﹂
﹁いえいえ、社内結婚ですが﹂
136
﹁僕の方は、なかなか女性と出会うチャンスがなくてね。それに女
性と話をするのが苦手ですし、趣味もない﹂
﹁そんなこと無いですよ。仕事が趣味というのは上等だし、話して
みると案外共通の趣味が見つかったりするもんですから﹂
﹁ほう﹂
﹁僕も妻と付き合うまでは共通の趣味なんてないと思っていたんで
すけど、話してみるとお互い推理小説ファンだということが分かり
まして、今では本を途中まで読んで犯人を当てっこしたりしていま
すよ﹂
﹁楽しそうですね﹂
﹁ところで、うちの銀行で去年強盗がありましたでしょ﹂
和樹はドキッとした。
﹁奪われた一万円札が、よりによって僕が前に勤務していた東京の
支店で見つかったんです﹂
和樹はジョッキに半分ほど残っていたビールを一気に飲み干して、
気持ちを落ち着かせてから本城に尋ねた。
﹁どうして分かったんですか?﹂
﹁お札には番号が印刷されているでしょ、銀行ではそれを記録して
管理しているんですが、警察から要請があった札が見つかると、通
報することになっています。もっとも今回はうちの銀行から奪われ
137
た金ですから、警察から言われなくても分かっていましたけどね、
ははは﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁それに一万円札って釣銭にならないから、案外流通範囲が狭いん
ですね。だから、いつどこで使ったかは、ある程度分かるんですよ﹂
和樹は動揺が顔に出ないように必死でこらえた。
﹁それで妻と、今度どこで使われるなんかを推理して楽しんでいた
りするんですが、たわいのない話ですみません﹂
﹁いえいえ﹂
﹁実はこの話、警察からは人に言わないでくれって言われているん
で、内緒にお願いしますね﹂
和樹は、慎重に使ったつもりだから大丈夫だとは思ったが、やは
りこれ以上国内ではもう使えない。
﹁仕事の話に戻りますが、ウナギの取引を拡大するとき、融資のご
相談にのっていただけますか﹂
﹁もちろん喜んで。高橋さんのビジネスならば大丈夫だと思います
よ﹂
和樹は一回の取引規模を拡大して、海外でのマネーロンダリング
を急がねばならないと思った。
138
本城と別れて和樹は、三宮センター街のアーケードを元町に向か
って歩いた。
警察がどこまで掴んでいるのかを不安に感じたが、今後国内で使
わなければ、まず大丈夫だろう。そう考えて安心すると、今度は、
推理小説を読んで犯人を当てっこするといった本城の仲睦まじい新
婚生活を思い描き愉快な気持ちになった。
そして初音のことを考えた。
携帯には初音のメールアドレスが登録されている。次の渡航で無
事金の洗浄が成功すれば、彼女にメールを送ろうと思った。そして
初音と結婚するということを一瞬想像した。
﹁まあ、そんなことにはならないだろうけど﹂
しかし和樹は、何故か嬉しくなった。
139
第25話
土質から神戸市北西部に金が埋められていた可能性が高いことが
判明して、大阪府警の岸本は兵庫県警の協力の下、捜査を進めた。
この事件は既に警察庁の広域重要指定事件として、警視庁捜査三課
の山下を中心として、全国で捜査協力体制が敷かれていた。
だが埋められていたと思われる地域の範囲が広すぎて、思うよう
に捜査は進んでいなかった。しかも金はもう掘り出された後なのだ
から、跡形もない可能性もある。しかし、警察はもう一つの懸念、
つまり銀行強盗で使用された拳銃の行方も追っていた。
銀行強盗に押し入った際に二挺の拳銃が使われた。山崎を銃撃戦
の末射殺した時には、拳銃は一挺しか押収していない。つまりもう
一つはどこかに隠されている。これが第三者の手に渡れば、新たな
事件を引き起こす恐れがある。拳銃が金と同じ場所に隠されている
可能性もあるので、警察はとにかく金が埋められていた場所を探す
ことにした。
一方山下は、防犯カメラの映像解析に集中していた。
幸いなことに、広島の商店街のドラッグストアでは自動釣銭機付
のレジを使っていて、一万円札が使われた時間がかなり絞られた。
金沢の鮮魚店でも、普段は店が終わってから夜間金庫に預けるとこ
ろ、その日は支払いがあったので、お昼過ぎに一度経理の職員が銀
行に入金しているので、午前中に使われたことが分かった。
二つの商店街の防犯カメラの映像をくまなく調べ直し、山下は気
になる数人をあぶりだすことができた。
140
﹁確かにニット帽も眼鏡も違うが、靴が似通っているんじゃないか﹂
﹁確かにどちらも、三本線が入った白のスニーカーですね。しかし
このタイプはありふれていますから﹂
﹁眼鏡と帽子は手軽に持ち運べるから、着け替えるのには便利だ﹂
﹁そこまでやるでしょうか﹂
﹁眼鏡とニット帽と三本線の入ったスニーカー、普段ならごくあり
ふれた格好でことさら特徴がないと思うかもしれないが、何千人か
を映し出した二つの商店街の画像の中から、その三つが一致したの
は、この五人だけだ﹂
﹁しかも年齢も近そうですね﹂
﹁この五人の顔を、更に画像修正で鮮明にできないか?﹂
﹁大丈夫です、やってみます﹂
﹁よし、それを各県警に送ってくれ。それと他の地域の防犯カメラ
の映像も、この特徴で絞ってくれ﹂
一歩一歩捜査は進展している。しかし人物が特定されたとしても、
身元を割り出すにはまだまだだと、山下は認めざるを得なかった。
和樹は本城の話を思い出し、やはり不安を感じ始めていた。
確かにあんな大勢の中から、あの一万円札を使った人物などを特
141
定するのは無理だと思った。仮に自分に使用の嫌疑がかけられても、
知らぬ存ぜぬで言い逃れもできるかもしれない。指紋も残していな
い。
万が一自分が使ったという確かな証拠を示されたとしても、今度
はその入手先で言い訳が可能だ。例えばパチンコ屋で換金したとか、
いざとなったらポストに投げ込まれていたとかだって言えるかもし
れない。
しかし何より危険なのは、この金を押し入れの中に隠し持ってい
るということだ。使った現場を押さえられなくても、何かの容疑で
家宅捜査されて見つかってしまったら、さすがに言い逃れはできな
い。逆にこの金さえ見つからなければ、何とでも言い訳ができる。
和樹はこの札束を、再びどこかに隠すことに決めた。そして海外
へ持ち出すときだけ、そこから取り出せば良い。
しかしいざ隠そうと思っても、どこに隠していいか分からない。
銀行の貸金庫やコインロッカーなんかもってのほかだ。
強盗犯の山崎が、あんな山の中に隠した気持ちがようやく分かっ
た。やはり誰にも見つかることのない山の中が一番だ。和樹は原付
にまたがり、有馬街道を北へ走った。この金を掘り出した場所がど
うなっているかを確かめに行こうと考えた。
有馬街道は、神戸の市街地からすぐに山の中に入る。谷間の道を
走っていると、どんな山奥につながっているかと思えるような道だ。
だが途中の長いトンネルを抜けると、鈴蘭台の住宅群が左手に広が
っている。そこからは神戸電鉄に沿っていくつかの住宅地を結びな
がら有馬温泉に至る。
142
和樹の家があったのは、鈴蘭台よりも少し北の方だった。そして
有馬街道はそのあたりで枝分かれしていて、枝分かれした道はより
深い山の中へと続いている。その途中に、あの金を掘り出した林道
があった。
有馬街道に何故かパトカーが目立ったような気がしたが、この県
道まで来ると、さすがに車は殆ど見かけなかった。和樹はそれでも
慎重にバイクを走らせ、他の車が来ないのを確認して林道に入った。
金を掘り出した時とは季節が移り変わっていた。
あの時は木々の葉も落ち寒々とした山の風景だったが、初夏の今、
木々の緑は鮮やかで、森の奥にも眩しい光線がシャワーのように注
ぎ込んでいた。落ち葉に覆われていた地面にも草が生い茂り、目印
に置いた石を隠していた。
林の奥に生い茂った草を踏みながら分け入ると、見覚えのある場
所に出た。そこも草が落ち葉を隠し、明らかにあれから誰も来てい
ないようだった。
和樹はここに一度金を戻しておこうかと考えた。しかし、自分が
偶然これを見つけたのは、この道が山へ登るハイキングコースの入
り口となっていたからでもある。ならば、もっと安全な場所、そう、
あの拳銃を埋めた場所の方が適当だ。和樹はその場所を後にし、バ
イクで更に県道を進んだ。
バイクを道端に置き、茂みをかき分けて獣道を進む。しかし目印
を間違えたようで、目的の木は見つからなかった。そう言えば、も
う少し先のカーブを曲がった辺りだったことを思い出す。
143
しかしあの場所も、茂みをかき分けて入らなければならないのは
同じだから、県道から一万円札の束を運び込むのはやっかいだなと
思った。それに、バイクを道端に止めておかねばならないから、目
立つ恐れもある。
やっぱり別の場所を探そうと茂みをかき分けて県道まで下りてき
たとき、バイクの横にパトカーが止まっていて、二人の警官がバイ
クを見回していたので、和樹は息をのんだ。
﹁君のバイクか?何してる﹂
和樹はとっさに言い訳を探した。
﹁急にお腹が痛くなりまして﹂
﹁そう、ところでこの近所にお住まいですか?﹂
﹁まあ近くですけど﹂
﹁免許証見せて﹂
和樹は免許証を素直に渡した。住所はまだ変えていなかった。
﹁時々この道通るの?﹂
﹁いや滅多には。でも今日は休みで天気もいいし、久々にツーリン
グでもと思って﹂
和樹は動揺を悟られないように必死に平静を保った。
144
﹁この車、この近くで止まっていたりするのを見かけなかった?半
年くらい前なんだけど﹂
警官は和樹に車の写真を見せた。それは軽トラックだった。
﹁さあ、覚えていないです﹂
﹁半年も前だし、ありふれた軽トラックだからな﹂
一人の警官がもう一人に話しかけた。
﹁何かあったんですか?ひき逃げとか﹂
和樹は思い切って尋ねてみた。
﹁いや、お時間をとらせてすまなかった﹂
警官はパトカーに乗り込み、赤色灯を付けて走り出した。
和樹はパトカーが視界から消えた途端体が震えだした。あの写真
に写っていた軽トラックは、和樹があの日に林道で見た車ではなか
ったか。それがどうして、警察がこんな近くで探しているのか。
和樹はUターンして有馬街道まで出て、市街地に向かって走りな
がらも、まだ動揺は収まらなかった。
どうして警察はここまでたどり着けたのだろう。ひょっとして既
に自分が捜査範囲に入っているのだろうか。
145
アパートに辿り着いた和樹は、冷蔵庫から缶ビールを取り出して
一気に飲み干し、ふらついた頭の中で必死に考えようとした。
どうしてあの辺だと分かったのだろうか。和樹はもう一缶開けた
ビールを飲みながら、少し冷静さを取り戻して考えた。
一万円札を使った経路から分かるはずがない。東京・大阪・金沢・
広島・仙台・福岡など、神戸とは離れた場所でしか使っていなかっ
たから、そこから神戸にまで辿りつくのはどう考えても不可能だ。
ならば、自分が既にマークされているのだろうか。しかしそうで
あれば、あの警官たちは、もっと何かを質問してきただろうし、免
許証をもっと詳しく調べただろう。あれは単なる通行人に対する聞
き込みに過ぎなかったように思える。
和樹は徐々に頭を働かせながら、一万円札の使用経路からではな
く、強盗犯の足取りからあの辺が割り出されたのではないかと考え
た。
強盗犯があの人質籠城事件を起こすまで、多分盗難車か何かで移
動していたのを掴んで、その足取りを追っていたにちがいない。そ
れならばまだ自分の所まで繋がっているはずはない。和樹はそう考
えて一安心した。
しかし警察の捜査力は、和樹の想像以上だった。いずれ空になっ
たバッグが発見されてもおかしくない。それに、拳銃も発見される
かもしれない。しかし発見されたとしても、この金さえ見つけられ
なければ、自分と結び付けるものは何もない。早くこの金を使い切
ってしまわねば。
146
和樹は翌日、押し入れから金を取り出し、レンタカーを借りて西
へ走り、兵庫県と岡山県の県境の誰も訪れることもない山中にそれ
を埋めた。
147
第26話
大阪の鰻専門店とは国産の半値という価格で折り合いが付き、注
文を取ることが出来た。東京の店もその値段ならということで取引
が成立し、試しにと輸入した三百キロのウナギは、試供分と合わせ
て全部はけて、少しばかりきれいなお金で回収することができた。
和樹はそれらの専門店への販売実績を武器に、今度は関西の中堅
スーパーへの売り込みを図る。そこでもとりあえずテスト販売の契
約を取り付けることができた。事業は順調に滑り出した。
和樹はもう一つのビジネス、つまり現地で買い付けた金額以上を
入金するための口実、つまり輸出の方も手掛けなければならなかっ
た。
こちらの方はまず最初に、ウナギ養殖に使う配合飼料に決めた。
日本に輸入する以上、日本の食品安全基準にのっとった養殖方法が
必要だしその方が高く売れる、と現地の養殖業者を説得すると、将
来性を認めてくれて契約が成立した。飼料は、日本での飼育をお願
いしている浜松の養殖業者の関係する業者から買い付けることがで
きた。それに加え、輸送に必要な中古トラックも数台調達してほし
いとの依頼もあって、約五百万円の輸出額を確保した。
いよいよ本格的なマネーロンダリングのスタートである。
和樹は夕刻、レンタカーを借りて神戸を出発した。今回もナビの
電源は切っている。和樹はドライブマップを見ながら、前回と違う
コースで金を埋めた場所へ向かう。
148
日がとっぷりと暮れ、真っ暗な山道を和樹の車一台だけが走って
いる。目印の標識を過ぎ、小さな脇道に入り込む。そのまま進むと
ダムに突き当たる道であるが、その途中で車を止め、他に車が無い
ことをもう一度確認してからガードレールを乗り越え、林の中に十
メートルほど分け入る。
金を埋めた時にそのあたりの状況を記憶に焼き付けておいたので、
真っ暗の中、懐中電灯の光だけが頼りだったが、すぐにその場所は
見つかった。
目印として置いた大きめの石を横にどけて、持ってきたスコップ
で掘り進める。一度掘り起こされた地面は柔らかく、それほど深い
穴でもなかったので、すぐに突き当たる。
一千万円ずつ束にしてビニール袋に入れておいたうちの一つを手
早く拾い上げ、再び土をかぶせて石を置いた。十分ほどの時間でそ
の作業を終えることができた。
和樹はビニール袋の土を手で払いのけてから、車のトランクに入
れる。そしてUターンして元来た山道を遡る。神戸に着いた時には、
既に日は上っていた。
和樹は部屋に戻って袋から一千万円の束を取り出して机の上に並
べた。
金を最初に掘り出して家に運び入れた時もドキドキしたが、今の
方が更に恐ろしい。
あの時はまだ金に手を付けていなかったし、たとえ発見されても
言い訳は効くという気持ちがあった。それに、老後の保険に置いて
149
おこうと考え、持っていることだけで安心だと思っていた。しかし
今は、持っていること自体が恐怖だった。
しかしこれをフィリピンに持ち出さなければ先は開けない。
和樹は金を鍵のついたアタッシュケースに入れ、その日の午後、
関西空港に向かった。
今回持っていく現金は、前回の二百万円の五倍である。しかもや
ばい金である。だから今回はわざわざ商用ビザを取って行くことに
した。きちんと仕事もしてくるのだから、怖気る必要はない。自分
の胸にそう言い聞かせて、出国手続きをする。すると、今回も問題
なく出国できた。
やはり香港経由でマニラに着いた。今度は入国手続きである。こ
こも申請が必要だった。前回は書類だけで通ったが、現金を見せる
ように言われてドキッとした。しかしアタッシュケースを開けて見
せると、﹁ビジネス?﹂と聞かれたので﹁イエス、ビジネス﹂と答
えると、﹁ビーケアフル﹂と言われただけで無事通過した。
第一関門は突破した。
和樹は前回泊まったホテルに宿泊した。ここのセキュリティーが
しっかりしていることは、前回で確認済みだ。和樹はここを拠点に、
まず持ち込んだ円の両替から始める予定であった。
一か所に全部持ち込むのはやはり避けて、前回の下見で目途を付
けていた五か所に分散して両替することにした。面倒だが、現金は
ホテルの部屋のセフティボックスに保管しておき、一回両替するご
とに持ち出すことにした。ひったくりなどに遭遇した場合に、最小
150
限の被害に抑えるためである。もしこの金が盗まれても、警察に届
けるわけにはいかない。
二日で一千万円の両替はすべて済んだ。和樹は緊張感から解き放
たれてどっと疲れが出た。部屋でウィスキーをロックで飲みながら、
このペソを再び円に換えて日本に持ち帰るだけでも良いような気が
した。
しかし正規のビジネスもしておかねば、後々で厄介なことになる
かもしれない。和樹はエネルギーを振り絞って、翌日タバオへ飛ん
だ。
商談は順調に進んだ。前回の五倍のウナギを買い付け、飼料と中
古トラックの売り渡しもうまく事が運んだ。
養殖業者の男性から招待を受けて、彼の家に食事にも行った。家
族みんなが歓迎してくれ、このビジネスが彼のためにもなっている
ことを確認し、嬉しかった。
スーパーが本格的に取り扱うようになれば、次はもっと取引を拡
大していくことに同意した。そして彼は、周りの同業者にも声をか
けてくれることを約束してくれた。
マニラに戻って、三成銀行マニラ支店にあらかじめ日本から送金
していた一千万円をペソに換え、ウナギ養殖業者に振り込んだ。そ
の後市内で両替した一千万円分のペソを入金する。
引き出してすぐに入金した格好になっているが、ウナギの支払い
と、輸出した飼料とトラックの手付金ということで、名目は付く。
ウナギ業者から更に代金として五百万円分がこの口座に振り込まれ
151
ることになるが、それは輸出代金の残額ということならば問題ない。
すべて思惑通りに行った。次回は更に何倍かの金を一度に洗浄で
きると自信を深めた。
しかしそれ以上に、このビジネス自体がひょっとして成功するか
もしれないと思った。マネーロンダリングのことなど忘れて、ビジ
ネスの将来を楽しく想像した。
そして初音のことを思った。
和樹はマニラ湾に沈む美しい夕日の眺められるホテルのラウンジ
で、ドライマティーニを飲みながら初音に教えられたアドレスにメ
ールを送った。
﹁仕事が順調に軌道に乗った。君の方はどう?もし約束を覚えてい
てくれるなら、今度会いたい。連絡をください 高橋和樹﹂
しばらくしてメールの着信があった。急いで開いてみると、しか
しそれはエラーメールだった。アドレスを交換した時は確かに届い
たはずだ。アドレスを変更したのだろう。
和樹は笑い出した。そりゃそうだ。あんな出会いで続くはずがな
い。
和樹は携帯を胸ポケットに戻し、マティーニを一気に飲み干し、
二杯目を注文した。
﹁恋愛ごっこか﹂
152
日は水平線の向こうに沈み、マニラ湾は鮮やかな夕焼けに包まれ
始めていた。
153
第27話
初音は、例のクスリを店の女の子に売りつけ、最初は一瓶一万円
のマージンを男からもらって喜んでいた。しかし店の女の子に一通
り行き渡ると、更にマージンを稼ごうと思って客にまで売り始め、
それが店長にばれ、クビになってしまった。
仕方なくあの男に相談を持ちかけると、売るために預かっていた
瓶まで買い取ったことになっていて、知らぬ間に三百万の借金が出
来ていた。
﹁そんなの約束と違うわ﹂
初音は事務所に乗り込んで必死に抗議した。
男は初音の髪を掴んで床にねじ伏せ、初音のスカートを捲りあげ
てショーツを剥ぎ取り、局部にあのクスリを塗って乱暴に自分の一
物を挿入した。
初めは抵抗していた初音だが、徐々にその快感に自分を失い、気
が付いた時には男の上で腰を振っていた。
行為が終わってから男が言った。
﹁まあ心配すな、別の店を紹介したるから﹂
男に紹介してもらった店はやくざがらみのソープで、そこでの日
当から借金の返済として天引きされ、わずかな小遣いが入るだけと
なった。まんまと初音は男の罠に引っかかった。
154
仕方がなく毎日客を取り、少しずつでも返していき、早くこの世
界から足を洗おうと思った。
しかし、前に風俗でアルバイトしていた時もそうだったが、多く
を稼いでいる時には、普通の感覚が麻痺してしまっていてズルズル
と続けてしまう。しかし今回はさすがにこりた。コンビニのアルバ
イトでもいいから慎ましやかな生活をして、保育士の資格を取るた
めの専門学校に通おう。
しかし男は週に一度は初音のアパートに来て、クスリを塗って初
音の体をもてあそんだ。それを初音は拒むことは出来なかった。
男が怖いということもあったが、それだけではなく、体が求めて
いた。だからあの男が来ない日は、店が終わるとホストクラブに通
い、あのクスリを塗ってホストに抱かれた。
だが初音はホストクラブに頻繁に通えるだけの金もなく、男の息
のかかった店に通うしかなかった。そしてその支払いはあの男が肩
代わりしていることになっていて、結果として初音の男への借金は
逆に雪だるま式に増えていき、もうどうしようもなくなってしまっ
ていた。
毎日ソープで体を売り、店が終わってからのホストクラブ通い。
坂を転げ落ちるのはなんと簡単なことなのだろうと初音は思った。
もう死んでやろうか、初音は深夜の元町商店街のアーケードの下
を、うつろな目をしながら歩いていた。
お洒落な洋菓子店やファッションの店が立ち並ぶ元町商店街も、
155
この時間には店のシャッターも閉まり、人気もない。アーケードの
天井に初音のヒールの音がコツ
コツと響き渡る。
親元に逃げ帰ったとしても、きっとあの男は居場所を突き止めて、
宮崎まで追って来るに違いない。膨れ上がった一千万円の借金なん
か、親が払えるはずもない。このままボロボロになるまであの男に
飼い殺されるより、いっそ死んでしまった方がよっぽど楽だ。
初音は、自分のアパートとは反対側の、港へ向かう路地に入った。
立ち並ぶ低いビルの向こうにポートタワーが見える。初音はその光
に引き付けられるようにメリケン波止場まで来て、暗い海を眺めた。
﹁誰か助けて﹂
しかし心の中の悲痛な叫びは誰にも届かない。
足元の小石を拾い上げて海に投げ込む。波もない静かな海面にポ
チャンという音が響いた。対岸のポートアイランドの高層ビルの赤
色灯が、寂しく点滅を繰り返す。このまま真っ暗な海の底に沈んで
いく自分の姿を想像し、身震いする。
その時ふと和樹のことが頭をよぎった。和樹に抱かれたあの日の
安らかな快感と、二人で歩いた心斎橋筋の光景が蘇った。
もう、あのクスリはもう二度と使わない。初音は強く思った。そ
して何年かかるか分からないが、何とか借金を返して、あの男から
逃れよう。
156
初音は携帯を取り出して和樹のアドレスを呼び出したが、すぐに
消した。
こんな姿は見せられない。しかし、会うことも連絡することもでき
ない和樹だけが、初音にとって唯一の心の支えとなっていた。
翌日男が初音のアパートにやって来た。いつもの様にクスリを塗
ろうとしたが、初音は拒んだ。
﹁なんでやねん。あんなにヒーヒー言うとったやないか﹂
﹁もうあのクスリはいらないわ﹂
初音はキッパリと言い放った。
﹁何偉そうなことを言うてんねん﹂
初音は無理やりショーツを脱がそうとする男の手を払いのけた。
男は初音をあのクスリで繋ぎ止めることはもう無理だと諦めて、
今度はテーブルの上に置かれたセカンドバッグから注射器を取り出
した。
﹁分かったわ。もっとええもん欲しいんやろ﹂
男は針を注射器にはめて、初音の腕を掴んで針を差し込もうとす
る。
﹁やめて﹂
初音は注射器を払うと、突き刺さった針の先から真っ赤な血が噴
157
き出した。
初音は針を引き抜いて男に投げつける。男がひるんだ隙に台所に
駆け寄って、流しの下から包丁を取り出した。
﹁わかった、もうええから﹂
﹁私の所にもう来ないで﹂
﹁なんやと、そやったら俺が貸した金を、今すぐ耳を揃えて返した
んかい﹂
﹁借金はちゃんと返すわ、でも今すぐは無理なのは分かっているで
しょ﹂
﹁そやったら、おとなしく俺の言うこと聞けや﹂
初音は包丁を身構えた。
﹁借用証を書くわ。それがあれば逃げられないでしょ﹂
﹁借用証?﹂
﹁いくらよ﹂
男は、最早初音が大人しい金づるでなくなったと判断した。この
まま力づくでねじ伏せることも出来ないことはないが、下手に騒が
れたら、クスリを横流しにしていることが組にばれ、自分の身も危
ない。
158
﹁分かった、一千五百万や﹂
一千五百万もこの女から巻き上げれば、十分満足だと男は考えた。
﹁一千五百万円?前聞いた時は一千万円って言ってたじゃない﹂
﹁あれはクスリとホストクラブ代や。お前を前の店から引き抜いた
時、店に引き抜き代として五百万おれが肩代わりしたったんや﹂
﹁うそ、私はクビになったんでしょ﹂
﹁それはお前がそう思うとっただけや﹂
﹁騙したのね﹂
﹁人聞きの悪い。この紙に﹃私は一千五百万円を借用しました。今
年十二月三十一日までに返済します﹄と書けや。もちろん署名と拇
印も押してな。そうしたら、勘弁したるさかいに﹂
﹁今年中には無理よ﹂
﹁無理でも何でも金作れ。まあお前の体やったら月に百万は稼げる
やろ。足りない分は金貸し紹介したるから、そいつに借りたらええ
んや﹂
といち
初音はこの男に借金するよりは、十一の闇金融でも何でもいいか
ら金を借りて返した方がましだと思った。
﹁分かったわ﹂
159
初音は戸棚から便箋を取り出して一千五百万円の借用書を書いた。
﹁ここに拇印や﹂
初音は紙を奪い取り、右手の人さし指でまだ腕から滴り落ちる自
分の血をぬぐって拇印を押した。
﹁これでいいわね﹂
﹁ああ、雄琴でも吉原でも、勝手にさらせ。ただしお前の宮崎の実
家の住所は掴んどるからな、逃げられへんで﹂
やっぱりと初音は思った。
﹁逃げようなんて思わないわ。ちゃんと返すわよ、心配しないで﹂
男は借用証を奪い取ると、初音の部屋にあったクスリの瓶をひと
つ残らず段ボール箱に詰めて持ち去った。
初音は男が出ていくと、張りつめていた気持ちが急に緩んで、膝
がガクッと折れて床に座り込んだ。
ああ言ったものの、一千五百万円など、あと半年で作れる自信な
んてない。闇金融で借りれば、もっとひどいことになるような気も
した。
とにかく少しでも多くお金を作らなきゃ。やはり雄琴のソープで
働くくらいしか手は無いのだろうかと考えた。しかしもう体を売る
仕事はしたくない。だがそれ以外で大金を稼ぐ方法は見つからない。
160
初音はぼんやりと天井の電球を見続けていた。
161
第28話
関西の中堅スーパーでの輸入ウナギのテスト販売が好調だったこ
とで、和樹はそのスーパーと本格的に取引する契約を結ぶことが出
来た。
考えてみたら、ニホンウナギとは不思議な生き物である。太平洋
のどこかで産み落とされて、海流に乗って日本まで辿り着き、シラ
スウナギという稚魚として川を遡る。そしてそこで成長して再び海
に帰り、太平洋の何処かで産卵する。その経路や生態もまだはっき
りとは分かっていない。
あの金も、日本から持ち出し、遠く離れた東南アジアで生まれ変
わって日本に戻ってくる。その経路は和樹以外の人間には決して分
からない。マネーロンダリングはウナギに似ていると和樹は思った。
スーパーとの契約も加わって、今度は一度に二千万円の洗浄が出
来そうだった。しかもその正規のビジネスでも利益が出て来た。そ
ろそろ夏も近づいてきて、土用のウナギの需要がピークを迎える。
そこで更に取引量を増やすことが出来れば、年内で全ての金を洗浄
してしまうことが出来るかもしれない。
和樹は再び山の中に二千万円の札束を取りに行き、フィリピンへ
と渡った。そして更にウナギの仕入れ先を広げ、今度も順調に両替
とビジネスは成功した。
神戸山手の市街地と港の夜景が見えるバーで、和樹は本城とくつ
ろいで飲んでいた。
162
和樹の会社は人を雇うわけにもいかず、輸送の手配から決済まで
一人でやっていたから、毎日早朝から深夜まで働き詰めだった。久
々にほっとできるひと時だった。
﹁ビジネスは順調に行っているようですね﹂
﹁おかげさまで﹂
﹁初年度からかなりの利益が出そうですね。輸出の方も上手く行っ
ているようで、やはり目の付け所が良かったんでしょうね﹂
﹁まあラッキーだったようです﹂
﹁いえいえ、それは高橋さんの商才ですよ﹂
本城に褒められると嬉しいが、後ろめたい気持ちも同時に起こっ
た。
﹁ところで、うちの銀行としても高橋さんとはもっと取引を拡大し
たいと思いまして、ご融資させていただけませんか﹂
和樹は取引を拡大して一気に金を洗浄してしまうには、確かに手
持ちの資金だけでは不十分だと感じていた。
﹁そうですね、それはありがたい﹂
﹁支店長が積極的でしてね﹂
﹁ところで、いくらくらいまでなら可能ですか?﹂
163
﹁ええ、僕の感触では、公的助成金も利用すれば無担保で五千万円
はご融資できると思いますが﹂
﹁五千万もですか﹂
﹁まあ、それなりの審査も必要ですが﹂
和樹は五千万あれば、今までの洗浄分と合わせて一気に約半分の
金を洗浄できると思った。
﹁分かりました、考えておきます﹂
﹁それでは今日は僕のおごりということで、もちろん経費で落とせ
ますから﹂
本城は愉快そうに笑った。和樹もつられて笑った。
和樹が三成銀行に必要な書類を揃えて申請すると、すぐに審査が
通って五千万円の融資を受けることができた。それをすぐにマニラ
支店の口座に送金する。和樹は再び山の中に金を取に行く。五千万
円は今までよりずっと重く感じた。
今度は成田経由でマニラへ入った。正規のビジネスのおかげで、
なんらビクつくこともない。フィリピンでも何の問題もなく入国出
来、定宿としているホテルに無事着いた。
新たに開拓した両替屋も使って、二日で二千万円をペソに換え、
前に来たときに作っておいた、三成銀行とは別の現地の銀行口座に
入金した。輸出の売り上げが入った時に、その金と混ぜて一緒に三
成銀行マニラ支店の口座に振り込むためである。
164
一つの店での両替は、二百万円を上限とした。もっと一度に多く
の金額を換えることも可能だったが、それくらいに抑えておいた方
が、より一万円札が拡散し、足が付きにくいと考えた。だから結構
手間がかかり、一日一千万円の両替が限界だった。
しかし前に国内で金を洗浄した時には一日で十万がやっとだった
から、その百倍の効率である。そして後三日で両替を済ませ、ミン
ダナオ島に渡る予定だった。
その日の朝も、朝食を取ってから部屋で待っていると、呼び鈴が
鳴り、タクシーの運転手が迎えに来た。色黒で小柄な五十過ぎの中
年で、最初に来た時にホテルのフロントで紹介された。
日本にも出稼ぎにきたことがあるということで、片言の日本語も
しゃべれる。
﹁キョウハドコイク?﹂
和樹は地図を示しながらルートを説明した。今回も用心のため、
ホテルから一回に持ち出す金額は二百万円にしている。だから両替
屋とホテルを五往復する計画だ。和樹はその日一回目に換えるため
の二百万円をポーチに入れて出発した。
﹁いつも混んでるね﹂
﹁マニラノミチ、イツモコウネ。ウラミチカライクヨ﹂
タクシーは混雑している大通りから路地に入った。そして小さな
路地を何回も右や左に曲がりながら進んでいく。
165
信号で止まった時に和樹は地図を広げ、﹁今何処?﹂と尋ねると、
運転手は﹁ココ﹂と指をさす。
確かに目的の両替屋に近づいているようである。しかし外の風景
は、和樹が今まで見慣れていた近代的なきれいな街とは雰囲気が違
っていた。
タクシーは、両側に薄汚れた家が立ち並び、車が一台通れるか通
れないかというような道に入り込み、一軒の店の前で止まった。
﹁ノミモノカッテクルネ﹂
運転手は車を降りて店に入って行く。エンジンはかけたままだ。
しばらく待っていると、運転手が大柄な男二人を連れて戻ってき
た。和樹は嫌な予感がした。
見知らぬ男二人は、一人は助手席に、もう一人は後部座席のドア
を開けて、和樹の隣に座る。
﹁何のつもりだ﹂
﹁オトナシクシタホウガイイヨ﹂
運転手は素知らぬふりで車を発進させた。和樹の隣の男は、胸ポ
ケットから拳銃を取り出し、和樹の横腹に突き付けた。
車は見知らぬ空き地に着き、和樹は車から引きずり降ろされる。
﹁バッグノオカネモラウヨ﹂
166
一人の男が和樹からポーチを奪い取る。
﹁ホテルノキート、キンコノバンゴウ、オシエテモラウヨ。ソウシ
タラコロサナイデアゲルヨ﹂
和樹は抵抗しても無駄だと観念して、財布から部屋のカードキー
を取り出し、暗証番号も教えた。
﹁バンゴウウソダッタラコロスヨ﹂
﹁本当だ﹂
運転手と一人の男がタクシーに乗り込み、空き地を走り去った。
拳銃を持った男は背中に拳銃を突きつけながら、崩れかけた廃屋に
和樹を押し込む。この男は終始無言だった。
一時間後、その男の携帯電話が鳴った。しばらくボソボソと話し
てから、携帯電話を和樹に手渡す。
﹁キンコアイタヨ、カネハモラッテイクヨ。パスポートモモラウヨ。
ワタシシッテルヨ、アノカネガキタナイカネダッテコト。ダカラポ
リスニハイワナイデヨ﹂
男は和樹を外に連れ出し﹁ゴー﹂と言って拳銃で背中をつついた。
和樹はゆっくりと空き地を歩き始め、途中から全速力で駆け出した。
そして建物の陰に入って空き地を振り返ると、男は反対側にゆっく
りと歩き出し、建物の向こうに消えた。
和樹はどことも分からないスラム街を足早に抜けて大通りによう
167
やく出て、タクシーを捕まえて銀行に向かった。幸い引出しカード
などは銀行の貸金庫に預けておいたので、無事である。そこで当面
必要な金を引出してからホテルに戻った。
鍵を失くしたとフロントで申し出ると、もう四回目の滞在なので
顔見知りとなっているフロントマンがすぐに再発行してくれ、部屋
に戻るとベッドの上にバッグの中身が散乱していて、セフティーボ
ックスの中身は空だった。
命があっただけでも良かったと、和樹は思った。あの金は仕方が
ない、もともと無かった金なのだから。それにビジネスの取引には
影響ない。もともと支払い分は日本から送金済みである。ただパス
ポートを盗られたのは厄介だった。面倒な手続きが必要だ。
和樹はとりあえず、パスポートといくらかの現金を入れたポーチ
を街でひったくられたことにして、警察には届けず、大使館でパス
ポートの再発行だけを申し出ることにした。
予期せぬ災難にあったものの、翌日にミンダナオ島に渡り、無事
商売の方は成立した。また市の要職についている人物も紹介され、
もっと大規模な養殖施設への出資も持ちかけられ、ビジネスとして
は大きな成果を出すことが出来た。あの二千万円は、もうどうでも
良くなっていた。
今回の事件は災難だったが、これを契機にあの金とは縁を切ろう
と、和樹は考えた。
もともと自分の退屈した生活を変えるきっかけが作りたかっただ
けだ。もうその役割は十分果たしている。それにあの金に頼らずと
も、もう自分はやっていける。あの金に頼っている限り、常に罪の
168
意識が重くのしかかる。もうあの金は山の中に朽ち果てるまで捨て
ておこう。
和樹はそう考えると、急に気持ちが軽くなった。
マニラでパスポートの再発行を受け、予定より三日遅れて帰国し
た。
神戸に戻ると雨がしとしと降り続き、六甲山が煙って見えた。梅
雨に入ったようだった。
しかしうっとうしい季節の到来も、その先に輝かしい夏という季
節がやって来ると思うと、和樹にはその雨空も愛しく感じることが
出来た。だが、和樹の心の中に少しだけ空いている穴だけは埋める
ことは出来なかった。
初音のことを少しだけ、思い出していた。
169
第29話
警察は一万円札を使用した人物をほぼ特定することができた。
金沢と広島の防犯カメラで絞り込んだ五人の中で、他の地域の防
犯カメラの映像にも似通った人物を発見することが出来たのだ。
﹁恐らくこいつに違いない﹂
﹁確かに帽子は被っていませんし眼鏡は違いますが、背格好はほぼ
同一ですし、この男に間違いないでしょうね﹂
﹁この画像を大阪府警の岸本警部へも送っておいてくれ﹂
﹁はい﹂
警視庁捜査三課の山下は、ようやく手ごたえをつかんでいた。
岸本は、送られた画像を更に兵庫県警の木戸刑事にも転送した。
木戸は県警本部でこの事件の捜査を指揮していた。木戸は早速捜査
会議を開き、今後の捜査方針を確認した。
﹁警視庁による防犯カメラの画像解析から、マル容がほぼ特定され
た。こいつだ﹂
前面のスクリーンに、眼鏡をかけた男の顔写真が大きく映し出さ
れた。
﹁眼鏡はあちこちで取り換えているし、普段はかけていないかもし
170
れない。眼鏡をかけていないとすると、こんな雰囲気になる﹂
画像を処理して眼鏡を外した状態の顔写真も映し出された。
﹁こいつがどこにいるのかはまだ不明だ。しかし大阪府警の捜査に
よると、犯行後の山崎の足取りと、盗難車の遺留品に付着していた
土の分析から、強奪された金は神戸市北西部に埋められた可能性が
高いと判明している。したがってその金を横領した人物も、神戸市
近郊にいた可能性がある﹂
スクリーンに神戸市全体の地図が映し出され、木戸はレーザーポ
インターで神戸の北西部を丸で囲んだ。
﹁その人物は、金と同時に、まだ発見されていないもう一挺の拳銃
を手にした可能性もある。拳銃はマカロフPМだ﹂
﹁警部、死亡した山崎の関係者という線は無いんですか?﹂
﹁大阪府警の捜査によると、山崎は銀行襲撃後、中田と別れてから
は単独行動をしていたようだ。誰かと接触した様子はない﹂
﹁では金を盗ったのは、全く関係ない第三者ということですか?﹂
﹁そう考えられる﹂
﹁それを探し出すわけですか、これは難しいな﹂
﹁そこが問題なわけだ。何か別の事件を起こしているならば簡単だ
が、問題の一万円札を所持しているか、使用した現場を押さえなけ
ればどうしようもない。だから本人に知られないように極秘でこの
171
人物を割り出さねばならない﹂
﹁顔写真を公開して指名手配することが出来ないということですね﹂
﹁そう、それに情報が漏れるのを防ぐためにも、限られた範囲内の
捜査官にしか伝えてはいない。だからこの会議の内容は、ここに集
まってもらった捜査官以外には絶対に漏らすな﹂
﹁足で探すしかないな﹂
﹁一般市民への聞き込みも駄目か﹂
捜査官たちはざわめいた。
﹁そこでだ﹂
木戸が話を続け、捜査官たちは口をつぐむ。
﹁マル容はこの神戸電鉄沿線の住民だとすれば、神戸電鉄の鈴蘭台
以北の駅または北神急行の谷上駅に立ち寄る可能性がある。よって
手分けしてこれらの駅に張り付いてもらいたい。しかも悟られない
ように。以上﹂
木戸はとにかくしらみつぶしに探すしか手はないと思っていた。
しかし多くの警察官を動員することは出来ないので、時間がかかる
ことは覚悟した。
和樹は﹁高橋通商﹂に社員二人を雇い入れ、アパートの近くに事
務所も借りた。もうわざわざフィリピンまで出向く必要も無くなっ
たので、電話やメールで発注し、また輸出品の注文も受け付けた。
172
スーパーからの注文は拡大し、それを聞きつけた持ち帰り弁当チ
ェーンからも問い合わせが来た。
その年は国産だけではなく中国産ウナギも前年以上の不漁で値段
が倍に跳ね上がり、マニラで強奪された二千万円の損失も、かなり
取り返すことが出来た。和樹が開拓したルートは業界からも注目さ
れ始めた。そのスピーディーな事業展開は、まさしく青年実業家そ
のものだった。
和樹がタバオ市から持ちかけられた大型養殖施設への投資の件を
本城に相談したところ、三成銀行本店でも検討したいとの反応があ
り、そのプレゼンをするため大阪本店に和樹は出向いた。
三成銀行の本店は東京に移っていたが、元々は大阪が発祥なので、
御堂筋沿いのレトロな八階建てのビルに、関連企業と共に大阪本店
があった。
和樹はJR大阪駅を降り、御堂筋を淀屋橋まで歩いていた。
初音と初めて会った日の翌日、御堂筋の両側に建つビルを眺めな
がら、いずれ社会の真中に戻って来るぞと思っていたことが実現し
ようとしている。プレゼン資料の入ったタブレットPCのケースを
腋に抱え、ゆっくりと歩いている人たちを追い越しながら、三成銀
行大阪本店まで歩いた。
受付で申し出ると、三階の応接室に通された。お茶を飲みながら
しばらく待っていると、本城と年配の男性が入ってきた。
﹁高橋さん、お待たせしました﹂
173
和樹は立ち上がり会釈をする。
﹁こちらは本店ホールセール事業部執行役員の中山常務です﹂
﹁初めまして、高橋です﹂
和樹は名刺を交換した。
﹁実は中山常務は僕の妻のお父さんで、先日会った時に高橋さんの
話をしたら、興味をもってくれまして﹂
﹁雄志君、いや本城君から高橋さんのウナギ養殖事業の話を聞いて、
是非もっと詳しいお話を伺いたいと思いまして、ご足労をお願いし
ました﹂
常務は丁重にお辞儀をした。
﹁いえいえ、こちらこそわざわざ東京から来ていただき、ありがと
うございます。本城さんには色々とお世話になっていまして、本当
に感謝しています﹂
﹁いえ、僕の方こそ﹂
和樹は養殖場予定地の写真や、タバオ市の受け入れ態勢、マーケ
ットの需要予想や資金繰りなどをまとめたプレゼン資料を説明し、
そのデータを落としたCDを中山常務に手渡した。
﹁面白い提案だと思います。早速検討して、可能な限りご協力した
いと思います﹂
174
﹁ありがとうございます﹂
手ごたえは十分だった。
﹁ところで高橋さん、今晩は空いていますよね。お義父さんと三人
で一杯やりに行きませんか?﹂
﹁ええ、喜んで﹂
三人はハイヤーで北新地の料亭で食事をとり、くつろいだ雰囲気
でビジネスの将来性について議論した。
﹁それでは私は東京に戻るので、二人でゆっくりと楽しんでくださ
い﹂
中山常務は明日午前中に東京本店で会議があるということで、そ
の店で別れた。本城と和樹は、もう一軒寄っていこうということに
なった。
﹁この近くに落ち着いたクラブがあるので、行ってみませんか?﹂
﹁新地のクラブなんて、僕は敷居が高くていったことが無いんで、
お任せします﹂
﹁いや僕も、仕事がらみでしか行ったことが無いんですが、儀父の
紹介でしてね﹂
二人は北新地を歩いて、その店に向かった。
175
﹁あら、本城さんお久しぶり﹂
和服姿のママが二人を迎え入れ、奥のボックス席に案内する。
﹁中山常務もお元気?﹂
ママはおしぼりを二人に渡しながら本城に尋ねる。
﹁さっきまで一緒だったんだけど、明日早くから会議があるってこ
とで、東京に戻りました﹂
﹁そう、残念ね。次に大阪に来られた時には、是非お寄りしてとお
伝えくださいね﹂
﹁ええ、伝えておきます﹂
﹁こちらも銀行の方?﹂
﹁いえ、こちらの高橋さんはうちの銀行のお客さんで、海外でビジ
ネスを手掛けていらっしゃる将来有望な事業家さんです﹂
﹁まあ、すごい﹂
和樹は少し恥ずかしかった。
﹁どんな仕事をされているの?﹂
﹁貿易です﹂
﹁高橋さんは、フィリピンに大規模なウナギの養殖場の建設を計画
176
されているんです﹂
﹁ウナギ?そう言えば最近高くて困っているわ﹂
﹁高橋さんは、美味しくて安いウナギの輸入を手掛けているんです﹂
﹁まあ、すごい﹂
和樹は店の雰囲気に戸惑いながらも、かつて商社で勤めていた頃
に何度か経験した銀座での接待を思い出していた。
﹁新しい女の子が入ったので紹介するわね。いい子よ﹂
ママはボーイに指示する。
﹁初めまして、詩織です﹂
和樹はその女性を見て固まった。
詩織と紹介された女性も、和樹を見て固まった。
﹁あら詩織ちゃんどうしたの?﹂
﹁いえ、初めまして詩織です﹂
詩織と呼ばれた女性は本城と和樹の間に座り、水割りを作ってぎ
こちなく乾杯をする。
﹁初めまして、僕は本城、三成銀行三宮支店に勤めています。こち
らは高橋通商の社長の高橋さん。僕は結婚しているけど、彼は独身
177
だからね﹂
本城は楽しそうにしゃべりかけた。
﹁詩織さんは大阪の人?﹂
﹁いえ、宮崎です﹂
﹁そう、じゃあジャイアンツファンかな?﹂
かつて和樹がしたのと同じような話になる。
﹁いえいえそんな、やっぱりタイガースですわ﹂
﹁僕は東京生まれの東京育ちだから、ジャイアンツなんだな、これ
が。高橋さんは?﹂
﹁僕はタイガースですね﹂
﹁じゃあ一人だけ除け者だね、ははは﹂
ママが他の席に移ってから和樹も時々話に加わったが、水割りを
黙って飲んでいる方が多かった。だが、本城は程よく酔いも回って
快活にしゃべり続けていたので、場は自然な雰囲気と言えなくもな
かった。
﹁ちょっとお手洗い﹂
和樹は席を立ち、トイレに向かう。そこからホテルに電話して、
部屋を予約した。そして手帳のページを破り、そこで待っていると
178
走り書きした。
トイレから戻り、本城の目を盗んで、初音にその紙片をそっと手
渡す。初音はそれを広げずにすぐ胸元に差し込み、水割りのお代わ
りを作った。
﹁ではそろそろ失礼します﹂
和樹が腕時計をちらっと見てから言う。
﹁もうこんな時間か。長らくお付き合いさせて申し訳ありませんで
した。今日は本当に楽しかったですね﹂
﹁ええ、こちらこそ﹂
﹁じゃあ詩織ちゃん、チェックお願いします﹂
音が見送りに来て、丁寧に頭を下げる。
﹁またお義父さまとご一緒にいらしてね。高橋さんも﹂
﹁ええ、また来ます﹂
和樹はただ微笑しただけだった。
二人はJR大阪駅で別れた。和樹は一度改札口を入って別の出口
から出て、初音に伝えたホテルに向かった。
部屋に入り冷蔵庫からシャンパンの小瓶を取り出し栓をあける。
大分飲んだはずだが、不思議と酔いは感じていなかった。
179
彼女は来るだろうかと、和樹は考えた。
連絡先を変えたということは、あの約束なんて最初から果たす気
なんかなかったんだろう。和樹は初音を誘ったことを後悔し始めて
いた。
それに、風俗じゃないけれど夜の仕事をまだしているってことは、
保育士になるために勉強したいと言っていたのも口から出まかせだ
ったのかもしれない。
初音を誘った自分が益々嫌になって来る。
この瓶を空けたらおとなしく寝ようと思ってシャンパンをグラス
に注いで口を付けた時、呼び出しチャイムが鳴った。
180
第30話
和樹はビクッとした。来ないだろうと思っていたのに、本当に来
たのが不思議な気がした。しかし、和樹が考えていたような甘い再
会ではなく、単に金のために来たのではないかと疑った。
和樹は何気なさを装って、ドアを静かに開けた。
初音が立っていた。見ると、驚いたことに彼女の目は潤んでいた。
﹁わっ﹂と声を上げて初音は泣き出し、和樹に倒れ掛かってきた。
和樹は初音を胸で受け止め、彼女が泣き止むまでそのままじっと体
を強く抱きしめた。
﹁どうしたんだ?﹂
﹁ううん、嬉しくて﹂
﹁本当?﹂
﹁本当﹂
﹁でもそれならば、どうしてアドレスを変えたのを連絡してくれな
かったんだ﹂
﹁メールくれたのね?﹂
﹁ああ﹂
181
﹁ごめんなさい、連絡できなかったの﹂
﹁どうして?﹂
和樹はまだ、初音のことを信用できないでいた。
初音はベッドに腰掛けて、涙をハンカチでそっとふき取った。
﹁あの時約束した自分になれなかったから﹂
﹁保育士になる勉強を始めるっていう約束?﹂
﹁それだけじゃない﹂
和樹は彼女にもグラスを手渡し、シャンパンを注いだ。
﹁何があったのかを話してくれないか﹂
﹁今は話せない。今日も本当に来ていいのか随分迷ったの。ちゃん
とした自分になってから、あなたに連絡しようと思っていたの﹂
初音はバッグから携帯を取り出して、和樹のアドレスを呼び出し
て見せた。
﹁何か辛いことでもあったのか?﹂
初音の目から再び大粒の涙が零れ落ちた。
﹁ううん、もう大丈夫。今年いっぱいで解決すると思うの。それま
で待って﹂
182
和樹は、初音の言葉を信じようと思った。なぜなら自分も彼女を
唯一の心の支えとしてやってきたのだから。
﹁何か困ったことがあるなら、相談してほしい﹂
﹁大丈夫。一人で出来る﹂
﹁時々会えないか?﹂
﹁お店なら﹂
﹁お店でしか会えないの?﹂
初音は、顔を和樹から背けて言った。
﹁本当は会いたい。ずっと一緒にいたい。でも自分のしたことをき
ちんと片づけてからしか、あなたの顔をちゃんと見られない﹂
初音の目は涙で溢れていた。
和樹は、初音がどんな悩みを抱えているのか、想像出来なかった。
和樹は初音の横に座り、シャンパングラスを受け取ってテーブル
に置くと、彼女の体に腕を回し唇を重ねようとした。
﹁だめ﹂
初音は首を振った。
183
﹁二人で一緒に解決しよう﹂
﹁ううん、あなたには迷惑かけたくない﹂
﹁お金の問題?﹂
和樹は初音が夜の仕事をまだ続けているのは、金を稼がなければ
ならないからだと考えた。
﹁聞かないで﹂
初音は顔を背けた。和樹はやはり金の問題なのだと感じた。
﹁僕は君と会えたから、今の自分がいる﹂
和樹は正直そう思った。
初音に会った頃は、ただ単に一億七千万円の汚れた金の使い方し
か考えていなかった。しかも、ただ今までの生活を維持していくだ
けの目的でしかなかった。初音と交わした何気ない約束があったか
らこそ、和樹はここまでやってこれたのだ。
﹁君と一緒にいたい﹂
和樹は初音を強く抱きしめた。
二人はベッドに倒れ込み、和樹は初音の唇を求め、今までのしか
かっていた重圧から逃れるように体を求めた。今度は初音も拒むこ
とはせず、和樹の体にしがみついた。
184
二人は二回目に会った夜のように交わり、初音はあのクスリでは
得られなかった、安らかな快感が体中に満たされていくの感じた。
和樹は冷蔵庫から缶ビールを取り出しベッドに座って一口飲み、
毛布にくるまって壁に寄りかかっている初音に手渡した。
﹁何があったのか、話してくれないか﹂
初音はビールを一口飲んで和樹に返してから、ぽつりぽつりと話
し始めた。
前の風俗の店を辞めようと思ったこと。そして最後の日に客に殴
られて意識を失ったこと。そして宮崎に一度戻ったが家出同然で再
び神戸にやってきたこと。そして仕事が見つからずに再び風俗の仕
事を始めたこと。そこでも客とトラブルになって辞めたこと。そし
て今のクラブに拾ってもらったこと。
そしてある男に騙されて、多額の借金を背負ってしまったことま
でを話した。しかしあのクスリのことは言わなかった。
和樹は初音の話を信じた。和樹から金をだまし取ろうとしている
なら、もっと前に初音の方から連絡してきたはずだと思った。
そして、自分の知らないところでそんな辛いことを体験してきた
初音を、より愛おしく感じた。
﹁その借金って、いくらなんだ﹂
﹁ううん、いいの。私一人で返すから﹂
185
﹁今の僕はある程度の金なら融通がきく、君に貸すことにして、そ
れで借金を返したらいい﹂
初音は驚いた表情で和樹を見つめた。
﹁そんなことお願いできない﹂
﹁お金は少しずつ返してくれたらいい。そうすれば、君とずっと一
緒にいられる﹂
初音は毛布を頭から被って泣いた。
あの汚い金で稼いだ利益は、初音のために使おう。それが自分の
後ろめたさを唯一軽くする方法かもしれない。
﹁いくらなんだい?その借金って﹂
和樹は再度尋ねた。
初音は少しためらってから﹁一千五百万円﹂と小さく呟いた。
この短い期間に一千五百万円もの借金を作ってしまったのには、
余程のことがあったはずだ。
﹁ごめんなさい。相手がやくざだったの﹂
﹁やくざ?﹂
﹁ええ、丸政組の組員だった﹂
186
﹁とんでもないやつに関わってしまったんだ﹂
﹁ごめんなさい。大阪のお店での出来事で、何もかも上手く行かな
くなってしまって⋮⋮﹂
初音は再び目に涙をためていた。
﹁どんな借金か知らないが、本当は払う必要がないはずだ﹂
﹁でも、借用証を書いてしまったの﹂
﹁それも効力はないはずだ。でも、そいつとの縁を完全に断ち切る
には、金で解決するしかない﹂
和樹は一千五百万円なら、すぐに都合できると思った。
﹁その金は僕が用立てるから、すぐに返してしまおう﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
初音は驚いて和樹を見た。
和樹は初音のためにそうしようと思った。しかしそう思った瞬間
に、別のある考えが浮かんだ。上手く行けば、今まで使ってしまっ
たあの汚れた金の出所を、完全に消し去ってしまうことができるか
もしれない、と。
187
第31話
﹁ねえ、この間、お父さんと新地に行ったでしょう﹂
亜由美が少し不機嫌そうに雄志に尋ねる。
﹁ああ、お客さんと一緒にね﹂
﹁お父さんと別れてから、どこか行ったでしょう﹂
﹁ああもう一軒、接待でね﹂
﹁どこ行ったの?﹂
﹁新地のクラブだよ。お義父さんに紹介してもらったお店﹂
﹁変なお店じゃないでしょうね﹂
﹁ばか、仕事で接待するためのお店だよ。変な店じゃないよ﹂
﹁お母さんに、気を付けていた方がいいよって言われたのよ﹂
﹁なんで?﹂
﹁お父さん、結構そのお店お気に入りみたいで、女でもいるんじゃ
ないかって﹂
﹁ははは、そんなお店じゃないよ。確かにママさんはちょっと色っ
ぽいけども﹂
188
﹁若い女の子もいるんでしょ﹂
﹁そりゃそうだよ﹂
﹁どんな子?﹂
﹁宮崎出身だけど、ジャイアンツじゃなくてタイガースファンの子。
ひょっとして妬いてる?﹂
﹁もう﹂
まだ新婚気分の消えていない二人だった。
﹁お義父さんにも紹介した高橋さんっていうお客さん、僕と同じく
らいの年なんだけど、すごいやり手でね﹂
﹁何をしているの﹂
﹁ウナギをフィリピンから輸入していて、今度現地に大規模なウナ
ギ養殖場を造るからって、うちに融資を持ちかけて来たんだ﹂
﹁確かに国産ウナギは高くて手が出ないわよね﹂
﹁それをお義父さんに話したら、本店でも興味を持ってくれてね。
これが上手く行けば、僕の株も上がるかも﹂
﹁へー、頑張ってね﹂
﹁だから土用には、ちょっと奮発して、国産鰻でお願いするよ﹂
189
﹁分かったわよ。でもそのウナギも、食べてみたいわね﹂
﹁マルエツスーパーで売っているよ﹂
﹁じゃあ、今晩はフィリピン産ウナ丼ね﹂
﹁じゃあ行ってきます﹂
本城は社宅を出て職場に向かった。
午前中自分のデスクで書類の作成に追われていた本城は、昼前に
支店長に呼ばれて応接室に出向くと、見知らぬ男が二人座っていた。
﹁本城さんですか、初めまして、私は兵庫県警の木戸といいます。
こちらは大阪府警の岸本警部です﹂
﹁岸本です。初めまして﹂
﹁刑事さんですか﹂
﹁ええ、例の金の件で、警視庁の山下警部と共同で捜査しているも
のです。山下警部から本城さんをご紹介してもらったというわけで
す﹂
﹁ああ、山下さんですね。ですが、どうして僕に?﹂
﹁実は、例の金が、最近大阪と神戸で多量に使用されていることが
分かったのです﹂
190
﹁二か月ほど音沙汰なかったんやけど、ここになって再び使われ始
めたというわけです﹂
岸本が補足説明する。
﹁それに、インターポールを通じて、どうやらフィリピンでも多量
に使われたらしいことが分かってきました﹂
﹁フィリピンですか、確かにあそこはマネーロンダリングの天国と
言われていますから﹂
﹁そうなんです。例の金を掴んだ人物は、最初は自動券売機などで
細々と換えていたようですが、かなり大掛かりなマネーロンダリン
グに踏み込んでいると判断しています﹂
﹁それで僕に何を?﹂
﹁ええ、我々警察だけではなかなか正体を捉えるのが難しいという
ことで、金融のプロの方に協力をいただこうと言うことで、山下警
部から紹介してもらったというわけです﹂
﹁それにその中心人物はどうやら神戸の人間やないかと、我々は見
とるんです﹂
﹁どうしてですか?最初発見されたのは東京のうちの四谷支店でし
たよね﹂
﹁ええ、しかし詳しいことは言えへんけど、例の金は神戸周辺に隠
されていたことが分かってきたんですわ﹂
191
﹁具体的にどんな協力をすればいいんですか?﹂
﹁ええ、これは神戸と大阪にある金融機関すべてに要請することに
しているのですが、不審な金融取引があれば、すぐに報告してほし
いということです﹂
﹁けど個人情報の関係で、すべての銀行からの情報収集が難しい面
があるんで、本城さんのところに入ってきた他の銀行からの情報も、
できるだけ伝えてほしいということですわ﹂
﹁本城さんは、他の銀行と関係する仕事も多いと聞いておりますの
で﹂
﹁ええ、まあ﹂
﹁ひとつお願いしますわ﹂
岸本が頭を下げる。
﹁元々うちの銀行が被害者ですから、出来る限りのご協力をいたし
ます﹂
﹁本城君、頼んだよ﹂
支店長も警察への協力を約束した。
本城が仕事を終え帰宅して玄関の扉を開けると、鰻の美味しそう
な匂いが漂っていた。
﹁朝言っていたように、今晩はウナ丼よ﹂
192
﹁美味しそうだな﹂
﹁それに言っていたように安かったわ。国産の半額よ。飛ぶように
売れていたわ﹂
﹁だろうな﹂
﹁いただきます﹂
二人はビールで乾杯してからウナ丼に箸をつけた。
﹁美味しいわ、本当に﹂
﹁だろ、大阪で高橋さんと試食した時に美味かったから、きっと成
功するだろうと思っていたんだ﹂
﹁フィリピン産って分からないくらいね﹂
﹁そうだね﹂
本城は、亜由美の﹁フィリピン﹂という言葉を聞いて、何か不思
議な気がした。﹁フィリピン﹂という国名を最近どこかで耳にした
ような気がした。思い出すと、今日刑事から聞いたばかりだ。
﹁今日銀行に兵庫県警と大阪府警の刑事が来てね﹂
﹁あらどうして、例の一万円札の件?﹂
﹁そうなんだ﹂
193
﹁でもどうしてあなたのとこへ?﹂
﹁それがよく分からないだけど、どうもあの金が、海外を経由した
マネーロンダリングに発展しているんだそうだ。しかもそれがフィ
リピンだろうということで﹂
﹁へー﹂
﹁しかも、犯人は神戸の人間じゃないかってことで﹂
﹁どうして神戸だと分かったの?﹂
﹁詳しいことは教えてくれなかったけど﹂
﹁あなた、その犯人と縁があるかもね、だって最初に発見されたの
が市ヶ谷支店だもんね﹂
﹁そうだね。それで色々と情報があったら教えて欲しいって﹂
﹁益々探偵みたいになってきたわね﹂
推理小説好きの亜由美は身を乗り出した。
﹁例えばどんな情報?﹂
﹁仕事柄他の銀行とも付き合いがあるから、不審な金融取引とか﹂
﹁ねえ、わたし思っていたんだけど﹂
194
﹁何?﹂
﹁例の犯人って、最初自動券売機や初詣の神社なんかで、一万円札
を千円札や五千円札に一生懸命換えていたじゃない﹂
﹁そうだね﹂
﹁換えたお金、どうしたと思う?﹂
﹁まあ、きれいになったお金だから、どこでも使えるよね﹂
﹁全部使っちゃったと思う?﹂
﹁酒やギャンブルに使ってしまったということはありがちだけどね﹂
﹁でもかなり計画的にやっていたみたいだから、もっと堅実なこと
を考えるんじゃないかしら﹂
﹁堅実なこと?﹂
﹁例えば貯金とか﹂
﹁確かにね、きれいな金だから、銀行に堂々と預けられる﹂
﹁でも考えて、一万円札は貯金できないわ﹂
﹁それはそうだ﹂
﹁と言うことは、犯人は貯金する時、全部一万円札以外のお金で入
金したということになるわ﹂
195
﹁なるほど。それで?﹂
﹁私窓口やっていたから分かるけど、お店の売り上げとかを入金さ
れると結構面倒なのよ。小銭も含めて計算するのに時間がかかるか
ら﹂
﹁そうだろうね﹂
﹁お店の売り上げだから小銭が多いけど、一万円札が全然ないって
ことはないわ﹂
﹁確かに﹂
﹁窓口で入金するにしてもATМで入金するにしても、券種はすべ
て記録されるわ。それに一つの銀行だけに集中するのも心配だから、
色々な銀行に口座を作ったはずよ﹂
﹁だとすれば、十二月・一月に作られて、一万円札以外の紙幣か小
銭ばかりの入金となっている口座が怪しいってことになるね﹂
﹁しかもそれが複数の銀行で重なったら、それが犯人よ﹂
﹁亜由美の発想は鋭いね﹂
﹁まあね、伊達に本は読んでいないもの﹂
亜由美は満足そうな笑みを浮かべながら、フィリピン産のウナギ
を頬張った。
196
197
第32話
和樹と初音は元町通りを歩いていた。平日の昼下がりということ
もあって、人通りはそれほど多くはなかった。
﹁こんなに近くにいたんだね﹂
実際、和樹が初めに事務所兼自宅として借りたアパートと初音の
いたアパートとは、元町通りを挟んだ海側と山側だったが、二百メ
ートルも離れていなかった。
﹁本当ね。こんなに近くにいたのに全然気付かなかったのに、あん
な所で会うなんて﹂
初音は大阪のクラブに勤め始めてから、尼崎の下町に引っ越して
いた。家賃を節約するためと、あのやくざから出来るだけ離れたか
ったからだ。新地のクラブでの偶然がなければ、和樹と再会するこ
とは無かっただろう。
﹁初音の住んでいた部屋からポートタワーは見えた?﹂
﹁ええ見えたわよ。時間があれば、いつも眺めていたの﹂
﹁僕も部屋の窓から眺めていた﹂
元町通りに交差する路地の向こうに、ポートタワーが見えた。
ポートタワーは、神戸港のメリケン波止場に建つ高さ百八メート
ルの展望塔で、鼓を細長くしたような形は、海から見ると六甲山の
198
背景と重なって、神戸のランドマークとなっていた。
﹁上ってみようか。考えてみたら、小学生の時に何回か行ったこと
があるけれど、それ以来行ったことがない﹂
﹁東京の人にとっての東京タワーみたいなもの?﹂
﹁それ以上かもね﹂
展望台まで上がると、海の向こうに紀伊半島が眺められた。梅雨
が明けた夏空に、関西空港への着陸態勢に入った飛行機が、高度を
徐々に下げていくのが見えた。
﹁考えてくれた?﹂
和樹は初音にさりげなく尋ねた。
﹁ええ、でももう少し一人で頑張りたいの。あなたに借りたお金を
返すまで﹂
﹁わかった﹂
和樹も、自分のしでかしたことの後始末をつけるのに、もうしば
らくは一人でいた方が良いとも思った。
﹁でも、時々会えるよね﹂
﹁うん﹂
﹁よし、今度は六甲山に登ろう。夜景を見ながら食事できるいい店
199
がある﹂
﹁いいわね﹂
﹁明日からフィリピンに出張だから、再来週の日曜日でどうかな﹂
﹁楽しみにしているわ﹂
和樹は初音を元町駅まで送った。
﹁それじゃあ仕事に戻るから、ここで﹂
﹁ええ、フィリピンから帰ったら連絡ちょうだいね﹂
﹁分かった﹂
初音は快速電車に乗り込み、尼崎へと向かった。
車窓に流れる六甲山の緑を眺めながら、初音は次のデートを楽し
く思い描いた。しかし、少し気がかりなことがあった。和樹はどう
してあんなことを自分にさせたのだろうか。
あの偶然の再会を果たした日の三日後、初音は和樹から呼び出さ
れた。
﹁君が借りた一千五百万円のことだけど﹂
﹁私やっぱり自分で返済するわ。何年かかるか分からないけど﹂
﹁いや、僕が肩代わりする。ただし、僕の言うとおりにやってくれ
200
ないか﹂
﹁あなたの言うとおりって?﹂
﹁そのやくざに簡単に金を返してしまったら、君がいい金づるだと
思って、ずっと付きまとわれるかも知れない﹂
﹁そうかもしれない﹂
﹁それで君は、金に困って仕方なく闇金融から借りて返すことにし
よう﹂
﹁なるほどね﹂
﹁出来たらば、その男の知り合いがいい。多分やくざなら、一人や
二人、そういった関係者と知り合いがいるだろう﹂
﹁確かに、闇金を紹介すると言っていたわ﹂
﹁それは好都合だ。そいつを利用しよう﹂
﹁そしてその闇金に返せばいいわけね﹂
﹁いや、また別の闇金から借りる﹂
﹁どうして?﹂
﹁その闇金にも、君が金に困っていると思わせるためだ。君が簡単
に金を返してしまったら、やくざに伝わるかもしれない﹂
201
﹁慎重なのね﹂
﹁多分最初の闇金では一千五百万円をすぐに貸してくれるだろう。
君の素性を知り合いのやくざが握っているからね。でもそこに返す
ために借りる闇金では、一か所で一千五百万もの大金は貸してくれ
ないだろう。だから何か所かでようやく金を作れたことにする。そ
うすれば、もう君が借金地獄に陥ってしまったと思うだろう﹂
﹁でも闇金だから、利息がかなりかかってしまうわ﹂
﹁それはあの男との関係を完全に断ち切るための保険だから、それ
ぐらいは仕方ないだろう﹂
﹁そうね﹂
﹁それからもう一つ﹂
﹁何?﹂
﹁闇金から借りた金を、一度僕に預けて欲しい﹂
﹁どうして?﹂
和樹は少し間をおいてから、
﹁女の君が大金を持ち歩いたりしたら、危ないじゃないか﹂
と言った。
﹁そうかもね﹂
202
﹁僕も一緒に借りに行ってあげるから﹂
﹁そんなことまで頼めないわ﹂
﹁大丈夫だよ﹂
初音はあのやくざに電話した。
﹁あのお金、今年中には無理よ﹂
﹁やったら、実家の土地建物の権利証か、親父さんに生命保険をか
けるしかないわな﹂
﹁そんなことやめてよ。前にお金貸してくれるところがあるって言
っていたじゃない。そこで借りるわ﹂
﹁本気か?﹂
﹁本気よ。あなたに借りているくらいだったら、闇金にでも借りた
方がよっぽどましよ﹂
男は﹁ふふふ﹂と含み笑いをした。
﹁分かった。普通やったら、お前なんかに一千五百万円も貸し付け
るアホな金貸しなんかおらへんけど、わいの知り合いやったら大丈
夫や。そやけど、そこでケツまくったら、お前の家族全員の命の保
証は出来へんで。ワエらより恐ろしいで﹂
初音は身震いした。しかし和樹がたてた筋書き通りに話が進んで
いるので、安心もした。
203
﹁大丈夫よ。ちゃんと返すから﹂
﹁やったら明日、わいの所に来いや。その金貸しの所に連れて行っ
たるから﹂
﹁分かったわ﹂
﹁久しぶりにあのクスリで楽しませてやろうか﹂
﹁冗談じゃないわ﹂
初音は顔が赤くなった。
すぐに初音は和樹に電話で報告した。
﹁あの男の知り合いの闇金から借りることが出来そうよ﹂
﹁第一段階は突破だな、それでいつ?﹂
﹁明日来いって。その闇金の所に連れて行ってくれるそうよ﹂
和樹は少し考えてから、
﹁じゃあ僕は後をつけていくよ﹂
と言った。
﹁大丈夫よ一人で﹂
﹁いや心配だ。それに、一つやってもらいたいことがあるから﹂
204
﹁何?﹂
﹁君に前もって一千五百万円の現金を渡しておくから、借りたお金
と取り換えて、やくざに渡してほしい﹂
﹁えっ、どうして?﹂
和樹は再び数秒間沈黙の後、
﹁もしかして、闇金から借りた金の中に偽札とか混じっていたら、
後で厄介なことになる﹂
と言った。
﹁そんなことあるかしら﹂
﹁いや、用心のためだ﹂
初音は一応納得したが、そこまでやる必要があるのかと、少し不
思議に思った。
初音は、神戸のあの男の事務所を訪ねた。二度と見たくないあの
男が、机に足を投げ出して、ふんぞり返っていた。
﹁久しぶりやな、今は新地のクラブか。まあそこそこの稼ぎはある
ようやな﹂
初音は、今の店のことも突き止められていたことに驚いた。やは
り和樹の言うように、この男から逃れるためには色々と算段が必要
なことを改めて思った。
205
﹁だから、今年中では無理だけど、ちゃんと返せる見込みはあるわ﹂
﹁勝手にせえや。後で泣きついてきても知らんからな﹂
﹁泣きついたりはしないわ﹂
﹁おいスグル、この女を桜井さんのところまで案内したれ﹂
﹁オッス﹂
﹁話は付いとるから、金借りさせてすぐに戻って来いや﹂
﹁オッス﹂
初音は若いチンピラに連れられて事務所の横に停めてあった黒の
セルシオに乗せられた。
車は路地を抜けて国道二号線に出て、西へ向かって走り出した。
助手席に乗せられた初音は、運転手に気付かれないようにバックミ
ラーを覗くと、和樹が運転する車が見え、ほっとした。
﹁姉さん、本当に桜井のジジイに金を借りるんですか。ケツの穴の
毛までむしりとられますよ。それよりかは、兄貴のスケになってお
いた方がイイっすよ﹂
﹁余計なお世話よ﹂
﹁強がり言っていられるのも今のうちですよ。姉さんがどうにもこ
うにもならなくなったら、俺に相談にきたらいいですよ。兄貴には
206
黙っていてあげますから﹂
スグルと呼ばれていたチンピラは嫌らしい目つきで眺め、左手を
初音の太ももに置いた。
﹁よしてよ﹂
その手を初音が払いのけると、スグルは﹁チェッ﹂と舌を打って、
アクセルを乱暴に踏み込んだ。
﹁桜井金融﹂と書かれた古めかしい木札のかかったすりガラスの扉
を開けて初音が中に入ると、和服姿のいかにも怪しげな老人が革張
りの立派な椅子に座っていた。そばのデスクに、秘書らしき眼鏡を
かけた男が控えている。その男が初音に声をかける。
﹁契約書は作っておきました。ここに署名と捺印を﹂
一枚の契約書を手渡され、初音はざっと目を通した。金額は一千
五百万円。利息の欄が空白になっている以外、別に普通の契約書の
ようだった。初音は少し躊躇したが、署名捺印した。
﹁もう一枚、お願いします﹂
秘書らしき男が別の契約書を初音に手渡した。驚いたことにそれ
は生命保険の契約書だった。五千万円の死亡保険契約で、受取人は
﹁桜井義男﹂となっていた。
﹁これは何ですか?﹂
﹁万が一返せなかった時には、これで支払ってもらいます﹂
207
初音は青ざめた。
﹁心配しないで下さい。念のためですよ。ちゃんと返済したらこれ
は破棄しますから。それにもし返済が困難になったら、別のところ
も紹介してあげますから﹂
男は事務的に語った。
﹁まあまだ若いし別嬪さんやから、いくらでも稼げるやろう﹂
それまで黙っていた老人が口を開き、不気味な笑い声を上げた。
初音は渋々保険契約書にも署名捺印した。
﹁金を渡してあげなさい﹂
桜井は男に命じて、金庫から一千五百万円の札束を持ってこさせ
た。
﹁ご確認を﹂
初音はパラパラっと封印された百万円の札束をいくつか調べたふ
りをして﹁いいわ﹂と言った。
﹁利息は十日で三パーセント、だから初めの十日は四十五万円にな
ります。元本を返済していくにつれ利息は下がってきますから、支
払いは段々楽になってきますよ。利息さえちゃんと払ってくれれば、
元本の返済はいつまででもお待ちしますから。それに、もし利息の
支払いが難しい時には、ここで用立ててもらえばいいです﹂
208
男は一枚の名刺を差し出した。そこには別の金貸しの名前が刷ら
れていた。こうやって、借金の泥沼にはまり込んでいくのだろう。
初音は恐ろしくなった。
﹁この男を受け取りに行かせるから、しっかりと稼いどいてな﹂
桜井は再び不気味な笑い声を響かせた。
スグルが金を受け取ろうとしたので初音はそれを制し、
﹁私が直接手渡すわ﹂
と札束の入った紙袋を奪い取った。
帰りの車では、初音は後部座席に乗り込んだ。
﹁姉さん、十日で四十五万ですよ。兄貴に泣きついた方がええんち
ゃいますか﹂
﹁返してやるわよ﹂
﹁まあ強がり言えるのは最初だけ、何かあったら俺が面倒みますか
ら﹂
初音は、バックミラーにスグルの卑猥な視線を感じた。
初音は鏡から目を逸らし、足元に置いた金の入った紙袋を拾い上
げ、音をたてないようにそっと袋の口を開き、札束を取り出した。
そして別の大きめのバッグに入れていた和樹から渡された札束を紙
袋に入れ、借りた金をバッグに押し込み、上からハンカチで覆った。
209
なぜ金を交換しなければならないのか初音はまだ疑問だったが、
和樹にはそれなりの考えがあるのだろうと思った。後ろを振り返る
と、和樹の車が一台の車を挟んで見えた。
金をあの男に返すと、男はあっさりと借用証を破いてみせた。
﹁まあこれで、おまえとは何の関係もない﹂
﹁もう付きまとわないでよ﹂
﹁その必要もない﹂
﹁じゃあ帰るわよ﹂
﹁スグル、送ってやれ﹂
﹁結構よ﹂
初音は一刻でも早く、その場を離れたかった。
﹁せいぜい桜井のジジイに貢ぐことやな﹂
男の言葉を背に受けながら、初音は部屋を飛び出し階段を駆け下
りて外に出た。そして和樹の車に走り寄り、助手席に飛び込んだ。
﹁終わったわ﹂
初音はそう言うと和樹にしがみつき、声を上げて泣いた。
﹁恐かった﹂
210
﹁もう大丈夫だよ﹂
和樹はそっと初音の髪を撫でた。
﹁後は計画通り闇金に返済していけば、それで終わりだ﹂
﹁本当に終わりよね﹂
初音の問題はこれで解決した。だが、ここから和樹の問題が再び
始まる。
やくざに渡ったあの一万円札と、これから次々と闇金に流れてい
く一万円札が、和樹の計画通り、出所が分からないまま上手く流通
してくれるだろうか。
まだあの山の中には、一億円近い金が眠っている。
211
第33話
和樹は初音と元町駅で別れてから、事務所に戻って出張の準備に
取り掛かった。三成銀行の幹部を連れて、タバオの養殖場予定地を
現地視察するためだ。これで融資が決定すれば、一気に事業を拡大
することが出来る。
翌日関西空港で落ち合った。本城も一緒に行くことになっていた。
本店から同行することになったのは、ホールセール事業部の佐伯部
長で、三人は成田経由でマニラに向かった。
﹁中山常務から、くれぐれもよろしくとのことでした﹂
﹁こちらこそ、よろしくお願いします﹂
﹁僕はフィリピン初めてなんですが、治安とかは大丈夫なんですか
?﹂
前の座席に座っている本城が、振り返って尋ねた。
﹁ミンダナオ島には反政府ゲリラとかがいますが、最近和平合意が
出来たと聞いていますし、タバオの町は全然大丈夫です。でもマニ
ラの下町は、少し注意しておいたほうがいいですね。実は、前回行
った時ひったくりにあって、パスポートを盗られてしまったんです
よ。まあ、これは私の不注意でしたけどね﹂
﹁パスポートを?それはやっかいですね。日本人のパスポートは高
く売れると聞きますがね﹂
﹁ええ、すぐに大使館に連絡しておきましたが、悪用されたりする
212
と恐いですね﹂
和樹は拳銃で脅された時のことを思い出し、少し身震いした。
しかし、あの事件を契機にこの仕事にまっとうに取り組んだから
こそ今の自分があるのだと、あのギャング団に感謝すべきかと思っ
て、愉快な気持ちになった。
﹁当機は間もなくフィリピンのニノイ・アキノ国際空港に到着しま
す﹂
機長のアナウンスが流れ、三人は倒していたシートを元に戻した。
﹁タバオに渡るのは明日なので、今日はマニラでゆっくりしましょ
う。美味しいレストランを押さえていますから﹂
﹁いや申し訳ない。気を使っていただいて﹂
飛行機を降りると、むっとした湿気が肌にまとわりついた。大阪
も暑かったが、フィリピンの暑さは熱帯特有の感触で、ボーディン
グブリッジを渡っている間にも、汗が噴き出していくのを感じた。
タバオへの乗継便の関係でマニラに一泊せざるをえなかったが、
本当はマニラに長居はしたくなかった。あのタクシー運転手やギャ
ング団に遭遇するのは厄介だ。こちらの弱みを掴んだつもりで、和
樹に金をせびりに来るかもしれない。
だから、今回は和樹が定宿としていたのとは別のホテルにした。
それと、ショーなどが見られるクラブのあるホテルにして、出来る
だけホテルから出なくてもいいようにと考えた。
ホテルに着いて一旦各自の部屋に荷物を下ろしてから、三人はロ
213
ビーラウンジに集合して、これからのスケジュールの打ち合わせを
していた。
その時一人の男が近付いてきて、三人に声をかけてきた。
﹁高橋さんは?﹂
和樹が振り返ると、制服を着た警察官らしき男だった。顔は日本
人と変わらない。本城と佐伯も驚いて男を見上げた。
﹁アイ、アイアム﹂
﹁日本語で大丈夫です﹂
警官は身分証を示して﹁ナカノ﹂と名乗った。どうやら日系のよ
うだった。
﹁何か御用ですか?﹂
和樹は動揺を抑えて尋ねた。
﹁この男を知っていますか?﹂
ナカノは、男性が写った一枚の写真を見せた。そこにはあのタク
シー運転手が写っていた。
和樹は足が震えそうになるのを無理やり抑え、どう答えるべきか
迷った。
﹁誰ですか?﹂
214
﹁見覚えはありませんか?﹂
﹁どこかで見かけたような気もしますが﹂
とりあえずあいまいな返答をして、相手の出方を伺った。本城と
佐伯も二人の様子を黙って見ていた。
﹁タクシーの運転手です﹂
これ以上しらばっくれるのはまずいと思い、和樹はようやく思い
出したようなふりをして言った。
﹁ああ、以前泊まったホテルで、仕事のために何回か使ったことの
あるタクシーの運転手でしたか。あまり印象に残っていませんでし
たから。それで彼が何か?﹂
その運転手が和樹から奪った金のことで、事情聴取されるのだと
思った。二千万円もの大金を奪われたのに、なぜ被害届を出さなか
ったのかを追及されるだろう。しかも間が悪すぎる。よりによって
三成銀行の行員と一緒の時に。
和樹は頭が真っ白になり、額に汗がにじみ出る。
﹁三日前に殺されました﹂
﹁えっ!﹂
﹁トンドのアパートで、拳銃で撃たれて殺されました﹂
215
トンドとはマニラのスラム街で、治安状態が悪いところとして有
名な場所である。
﹁それで私に何を?﹂
意外な事実に驚いたが、和樹は冷静さを取り戻しつつあった。あ
の運転手が死んでしまったのなら、あの金を和樹が持っていたこと
とか、頻繁に両替を繰り返していたこととかは、何とか隠しおおせ
ることが出来るかもしれない。
﹁彼のアパートから、あなたのパスポートが見つかりました。それ
で大使館に問い合わせたところ、ひったくりにあって盗まれたとい
う届け出があったということで、彼について何かご存知のことがあ
ればお聞きしたいと思いまして﹂
なるほど、奪われたパスポートの件だったのかと、和樹は少し安
心した。
﹁パスポートの盗難とその殺人事件とで、何か関係があるのですか
?﹂
和樹は相手の様子を探った。
﹁いえ﹂
﹁では、どうして私に話を?﹂
﹁実は﹂
ナカノは頭を掻きながら答えた。
216
﹁実は、タクシー運転手を含め五人が殺されるという事件があり、
犯人の手がかりが一向に掴めず、少しでも解決につながる話が聞け
たらと思いまして﹂
マニラ警察は、汚れた金のことを捜査しているのではないようだ
った。和樹は完全に自分を取り戻すことができた。
﹁五人も?それは大変だ。何かお役にたてるならば、どうぞお聞き
ください﹂
和樹は佐伯と本城にも同意を求めた。二人は黙って頷いた。
ナカノは和樹の隣の席に座って、佐伯と本城に会釈をした。
﹁お仕事ですか?﹂
﹁ええ、タバオにウナギの養殖場を作ろうとしています﹂
本城が答えた。
﹁おお、ウナギね。フィリピンではあまり食べませんが、日本人は
好きですね。私の父親も大好物でしたよ﹂
ナカノは人懐こい笑みを投げかける。
﹁高橋さん、パスポートを盗られた時の状況を、詳しくお話しして
いただけませんか﹂
﹁ええ、あの運転手のタクシーに乗ってお土産物を買いにアヤラセ
217
ンターに行った時に、路上で見知らぬ男にポーチをひったくられま
したが、まさか乗っていたタクシーの運転手が関わっていたとは思
いませんでしたね﹂
﹁パスポートの他に盗まれたものはありませんか?﹂
﹁現金が二万ペソくらいですかね﹂
﹁警察に被害届は出さなかったのですね﹂
﹁ええ、翌日タバオで商談があったので、パスポートの盗難だけ大
使館に届け出て再発行の手続きをお願いしました。まあ現金の方は
二万ペソですから、まあいいかなって思いまして﹂
﹁そうですか。ポーチをひったくったのはどんな人物でしたか﹂
﹁後ろから襲われて、そいつはすぐに逃げていきましたので、顔は
見ていません。追いかけるのも危険かと思いまして﹂
﹁下手に抵抗しない方がいいですよね﹂
佐伯部長も口を挟む。
﹁タクシー運転手は、あなたがパスポートを持ち歩いていたのを知
っていたんでしょうか?﹂
﹁ええ多分。銀行で両替する時に必要かと尋ねると、﹃要るかもし
れない﹄と言っていたので、部屋まで取りに戻りましたから﹂
﹁なるほどね、それで共犯者に連絡して待ち伏せさせたのかもしれ
218
ない﹂
﹁全然気が付きませんでした。もっと用心しておけば良かった﹂
﹁いやいや高橋さん、そこまで計画的なら、高橋さんの落ち度って
ことはありませんよ。とんだ災難でしたよね﹂
本城が同情をこめて話しに割り込む。
﹁何か気付いたこととかがあれば、ここに連絡してください﹂
ナカノは電話番号の記されたカードを高橋に渡して立ち上がった。
﹁はい、わかりました﹂
和樹はすっかり落ち着きを取り戻して、ナカノを笑顔で見送った。
ひょっとしたら、自分から奪われた二千万円が元での仲間割れが
原因かもしれないと思ったが、それはどうでも良かった。
﹁そう言えば部長、うちの中津支店で強奪された一万円札が、フィ
リピンでも見つかったと、先日兵庫県警の刑事が来て言っていまし
たよ﹂
和樹は耳をそばたてた。
﹁ほう﹂
﹁やっぱり、ああいったマフィアみたいな連中が関係しているんで
しょうかね﹂
219
﹁そうかもしれないね。国際的にマネーロンダリングの規制が厳し
くなってからは、うちらのような銀行経由は難しいだろうからね﹂
﹁それから、最近になって大阪や神戸でも頻繁に使われ始めたとも
言っていました﹂
和樹は、フィリピンまで捜査の手が及んでいることに驚いたが、
あの金がやくざや闇金融からも流れ出したことを知って、思惑通り
にことが進んでいることに満足した。
それにフィリピンで両替した金も、ギャング団がらみで逆に出所
が益々分からなくなるだろう。あの運転手も死んでしまったし、和
樹が多額の円を両替していたということを示す証拠は何もない。
﹁すみません、私のことでお時間を取らしてしまって。そろそろ食
事の時間ですから、予約していたレストランにご案内します﹂
和樹は上機嫌になっていた。
翌日三人はタバオに渡り、ウナギ養殖場予定地を視察した。和樹
と取引のある養殖場の経営者の自宅に招かれて歓迎を受け、市長か
らも歓待された。
﹁確かに良い条件ですね﹂
﹁これならば問題はないだろう﹂
本城と佐伯は、融資の障害となる問題点はないと判断したようだ
った。
220
関西空港に降り立って、和樹はすぐに初音に電話をかけた。
﹁フィリピンから今帰ってきたよ﹂
﹁お仕事どうだった?﹂
﹁ああ、多分上手くいったと思う﹂
﹁良かったわね﹂
﹁あれから桜井から何か言ってきた?﹂
﹁ううん、何も。死亡保険契約の解約通知も届いたし、もう安心し
て良いわよね﹂
﹁そうだね。新たに借りた分の返済も順調に進んでいる?﹂
﹁ええ、後三件の三百万円だけ。明日に全部返せると思うわ﹂
﹁じゃあ今度の日曜日、六甲山に行こうね﹂
﹁ええ、楽しみだわ﹂
﹁それじゃあ、また電話する﹂
本城がニヤニヤして話しかけてきた。
﹁彼女ですか﹂
﹁いやいや﹂
221
﹁顔がほころんでいますよ﹂
﹁えっ、そうですか﹂
﹁前に聞いた時は、彼女いないなんておっしゃっていましたよね。
最近できたんですか?﹂
﹁ええ、まあ﹂
﹁羨ましいな。やっぱり順調な時は順調なことが続きますよね。い
つか紹介してくださいよ﹂
﹁ええ﹂
本城は大阪本店に寄って行くと言うので、二人は空港で別れた。
和樹は、本城が言うとおり、自分にツキが回ってきたような気が
した。
和樹は、神戸に向かう阪神高速湾岸線を走るリムジンバスの窓か
ら、六甲山の緑を眩しそうに見つめた。
222
第34話
﹁これは一体どういうことなのでしょうかね。パチンコ屋、競馬の
場外馬券売り場、競輪場、競艇場、そして居酒屋﹂
どれも、強奪された一万円札が新たに使われたと判明した場所で
ある。
﹁しかもすべて大阪、神戸、京都ですね﹂
﹁今までとは、使われた場所のジャンルが違いますね﹂
﹁それに使用された時間帯が重なっているから、一人では無理やな﹂
大阪府警の岸本が主導する広域捜査会議でのやりとりである。 ﹁あの一万円札が、なんらかの方法で一度に多量にばらまかれたと
考えるしかありませんね﹂
警視庁の山下が分析を加える。
﹁つまり、今回使っているのは、なんらかの方法であの金を掴まさ
れた人物。つまり、真犯人は別にいるということやね﹂
﹁どのような方法で金をばらまいたのでしょうか。まさか見ず知ら
ずの人間に金を渡したとは考えられないし﹂
﹁パチンコや競馬とか、ギャンブル関係が目立っていますね﹂
223
兵庫県警の木戸が指摘する。
﹁そういった所に出入りする人間が金を入手する場所は?﹂
﹁サラ金や!﹂
会議に出席している捜査員のすべての意見が一致した。
﹁すると、あの金を横領した人物は、金を貸す側の人間ということ
になりますか?﹂
﹁汚い金を貸し付けて、きれいな金で返済させる。少々焦げ付きが
あっても、痛くもかゆくもない。大手の消費者金融とかではなく、
個人的にやっているような小規模な金融業者だろう﹂
﹁正規ではなく、闇金や﹂
﹁しかし﹂
山下が話を続ける。
﹁元々金融業者であれば、初めからそうやって金を洗浄したでしょ
う。最初は自ら釣銭でやっていたわけですから、途中でやり方を変
えたと考えた方が良いでしょう﹂
﹁と言うことは、逆に金を借りて、あの金で返したということか﹂
﹁そう考えられます﹂
﹁でも、大手の消費者金融ならばいざ知らず、元々不法な金貸しで
224
ある闇金だとすれば、誰に貸し付けたか、誰から取りたてを調べる
のは難しい﹂
﹁契約書などは残していないでしょうからね。うまいやり方だ﹂
兵庫県警の木戸が冷めた口調で言う。
﹁だが少なくとも、今借りているやつらの身元が分かるものはある
はずや。一斉摘発で行きましょう﹂
﹁しかし摘発するにしても、なんらかの名目が必要でしょう﹂
﹁そんなのもんいらへん。叩けば埃の出るやつばかりや﹂
岸本の乱暴な提案に、皆が苦笑した。
﹁まあ岸本さん、そんなに焦らずとも、金を使っている人間を特定
して、そこから辿って行った方が早いんじゃないですか。今金を使
っているやつらは、別に隠れて使っているわけではありませんから。
それに金を借りてギャンブルするようなやつらですから、何度も同
じ所に来るでしょう﹂
山下の言葉に木戸が頷く。
﹁まあそやろうね。では各所轄でよろしくお願いしますわ﹂
兵庫県警は、捜査員の多くを元町のウィンズ神戸で警戒に当たら
せた。しかし自動投票機や窓口で次から次へと支払われる一万円札
を、一枚一枚点検していくわけにもいかず、困難を極めた。
225
木戸は、場外馬券売り場からパチンコ屋に、捜査の比重を移した。
札の記番号のチェックをこまめに行って使用された日時を特定し、
店内の防犯カメラの映像を詳しく分析し、使われた時間帯にカメラ
に何度も写っている人物をすぐに絞り込むことが出来た。
﹁百二十六番﹃海物語﹄で打っている人だと思います﹂
三宮センタービル一階のパチンコ屋で張り込んでいた捜査員が、
店員に確認した。
﹁よし﹂
生田警察署の二人の刑事が、百二十六番台で打っている若い男の
両側を囲んだ。
﹁ちょっとお話を伺ってもいいかな?﹂
一人の刑事が警察手帳を示して話しかけた。男は驚いて、球を打
つのを中断した。
﹁なんやねん﹂
﹁ちょっと財布見せてくれないか﹂
﹁なんでや?﹂
刑事の一人が、すばやく傍らに置いてあった札入れを取り、中か
ら一万円札を数枚取り出して確認した。
﹁あった!﹂
226
刑事が確認した一万円札の記番号は、今まで探し続けていた番号
と、確かに合致した。
﹁木戸警部、見つかりました﹂
早速一人の刑事が無線で木戸に報告した。
﹁でかした、そいつを任意で署まで同行させろ﹂
﹁はい、わかりました﹂
﹁ちょっと、署まで同行してもらえませんか﹂
﹁なんでやねん﹂
﹁いやちょっと、ある事件の捜査に協力してもらいたいので﹂
男の顔色が変わった。
男は皿に残った球を何気なく一握り掴んで、いきなり刑事に向か
って思いっきり投げつけた。
﹁わう﹂
二人の刑事がひるんだ隙に、男は通路を駆け抜け、三宮センター
街の人ごみをかき抜けて逃走した。
﹁こちら安岡、重要参考人が逃走しました。三宮一丁目からセンタ
ー街を元町方面に逃走。緊急配備をお願いします﹂
227
二人の警官も追いかけるが、男は路地に曲がり、姿を見失う。
﹁こちらサンマルヨン、三宮本通りトアロード入口待機﹂
﹁こちらヨンナナイチ、センター街フラワーロード入口待機﹂
﹁サンチカにも人数を回せ﹂
警察無線の報告が飛び交う。
街のあちこちをパトカーが走り回り、多数の警官が慌ただしく走
り回っていて、買い物客たちは、何があったのかと騒然とする。
﹁容疑者確保。ガード下、元町駅東﹂
﹁よし、署まで連行しろ﹂
署で指揮をとっていた木戸は、ほっと息をつき、煙草に火を着け
た。
逮捕されたのは、広域指定暴力団立川組傘下の丸雅組準構成員の
安田卓、二十歳だった。
﹁おいスグル、久しぶりやな﹂
取り調べは、木戸の他、暴対の津川も立ち合った。
﹁なんで捕まらなあかんのや。なんもしてへんわ﹂
228
﹁警官に対する暴行と、公務執行妨害だ﹂
木戸が冷たく言い放つ。
﹁パチンコ玉を投げつけられた警官は、目じりを切っている。一つ
間違えば失明の恐れもあった。悪質な暴行罪だよ﹂
﹁そんな、急に職質されたから驚いただけやんか﹂
﹁幸い警官の傷は深くない。素直に取り調べに応じてくれるならば、
早くここから出してやることも可能だ﹂
﹁なんも隠し事なんかしてへんから、なんでも聞いてや﹂
スグルは開き直った態度でうそぶいた。
﹁おまえが財布に入れていた一万円札、どこで手に入れたんや。チ
ンピラのくせにようけ持っとるやんか﹂
津川が財布を机の上に投げつけ、ドスの効いた低い声で質問する。
スグルはキョトンとして二人を見上げる。
﹁万札?なんやそれ?﹂
﹁質問に答えるだけで良い﹂
﹁そりゃ俺かていろんな所で稼いどるから、一々その札がどこから
入ったかなんて、覚えとるわけないわ﹂
﹁嘘着け。おまえが稼げるところなんか、あるわけないやろ。組で
229
もらったんやろ。正直に吐け﹂
﹁そりゃ組からも、いくらかはもらうけどな﹂
﹁丸政組の焼津か?最近羽振りがええって巷で噂されとるからな﹂
﹁まあ、アニキからもいくらかは﹂
﹁どこで掴んだ金や﹂
﹁そんなん知らへん。俺たち下っ端には分からへん﹂
﹁よく考えてから話すんやな﹂
津川はドスンと机を叩いた。
﹁分かりましたよ。話せばええんやろう。でもホンマに詳しいこと
は知らへんけど﹂
﹁ああ、知っていることだけでええ。最近丸政組に関しては、変な
噂もあるからな﹂
﹁多分、女から貢がせた金や﹂
﹁女?﹂
﹁なんでか知らんけど、アニキに借金こさえていて、闇金に金借り
て返しとった女がおった﹂
﹁どこの闇金や﹂
230
﹁桜井金融﹂
﹁あのくそジジイか﹂
﹁どんな女や﹂
﹁若くて別嬪やった。新地のクラブに勤めているとかアニキが言う
とった﹂
﹁いくらぐらいや﹂
﹁千五百万﹂
﹁千五百万も?なんでそんな借金こさえたんや﹂
﹁それは知らへん。多分ホスト遊びでもしていたんやろう。風俗で
働いていた女やって、アニキが言っとったから﹂
﹁じゃあ君が所持している一万円札は、その女が焼津に渡した金の
一部だということだね﹂
木戸が質問する。
﹁多分そうやないか。金借りに連れて行ったのは俺やし、その後す
ぐ、上機嫌に三十万くれたから﹂
﹁じゃあ元々は、その金は桜井金融から借りた金ということだね﹂
﹁桜井の爺さんに借りてからすぐ返しよったから、そうやろう﹂
231
木戸は首を傾げた。
安田卓をとりあえず留置場に入れ、公務執行妨害で送検すること
にした。
木戸はすぐに岸本と山下とに連絡し、テレビ会議を持った。
﹁どうも予想とは異なりましたね﹂
﹁そうやな﹂
﹁桜井金融とはどんなところですか?﹂
﹁ええ、一応営業許可はとっていますが、色々と悪い噂の絶えない
ところです。立川組の資金源になっているとも考えています﹂
﹁立川組か。こりゃ大掛かりになってきよった﹂
﹁一素人の犯行だと考えていましたが、やくざがらみだとすると、
死んだ山崎の背後関係を、もう一度洗ってみる必要がありますね﹂
﹁拳銃もやつらの手に渡ったとしたら、やっかいやな﹂
﹁では緊急に捜査会議を開いて、今後の方針を再検討しましょう﹂
﹁女の方は大阪府警にお願いします﹂
﹁桜井金融の方は?﹂
232
﹁兵庫県警で内定調査に入ります。囮に金を借りさせて、あの一万
円札がまだ残っているかを調べてみましょう﹂
山下は腑に落ちないものを感じながらも、もう一度一から捜査を
立て直さねばならないと覚悟した。
233
第35話
スグル以外にも何人か、あの一万円札を使用した人物が特定され、
彼らから話を聞き出すと、いずれも桜井金融との接点があった。兵
庫県警の囮捜査官が桜井金融から百万円を借りたところ、そのうち
の二枚が、強奪された一万円札と一致した。
あの金が大量に出回ったのは、最早桜井金融以外には考えられな
かった。
﹁銀行を襲って金を強奪した山崎は、犯行翌日の十月二日に盗難車
で神戸に入ったことが、Nシステムの分析などから明らかになっと
ります。そして盗難車に残されたスコップから、神戸市北西部の土
質と似通った土が付着しているのが判明し、我々は、山崎が金をそ
の周辺に埋めたと判断したわけです。そしてその金を偶然掘り出し
た誰かが、横領したと考えたわけですな﹂
岸本が説明する。
﹁しかしその金が、立川組の資金源ではないかと疑いのある桜井金
融から流れ出ている。そうなると、銀行強盗の山崎は、金を隠すた
めではなく、桜井金融に持ち込むために神戸に向かったとも考えら
れます。確かに山崎は組の金に手を付けていて、金に困っていた。
それで仕方なく桜井金融から金を借り、それを返済するために銀行
を襲った、というストーリーも考えられますね﹂
木戸が話を引き継ぐ。
それを静かに聞いていた山下は、
234
﹁ですが、そうだとすれば、初めに自動券売機や金沢・広島・仙台
で使用した人物の存在が説明できません﹂
と反論した。
警視庁捜査三課の総力を上げて割り出した人物像に、山下はこだ
わりを見せた。
﹁そこなんですわ﹂
岸本も頭を抱えた。
﹁とりあえず、桜井金融から金を借りて丸政組の焼津に金を渡した
という女から事情を聴くしかないですね﹂
﹁それと桜井のジイサンもやな﹂
兵庫県警暴力団対策課の津川ら数名が、丸政組の事務所を訪れた。
準構成員の安田卓に関連した捜査という名目だった。
﹁だんな方、何か御用ですか?﹂
スグルが逮捕されたと聞いて、焼津はすぐに例のクスリを処分し
ていたので、警察に踏み込まれた時も、平然と対応した。
﹁最近景気が良さそうやないか﹂
﹁全然あきまへんわ。わしらみたいにまっとうな商売しとる所は、
あがったりや﹂
235
﹁何あほなこと言うとんねん。ちょっと突つけば、いくらでもブタ
箱にぶち込めるだけの材料は揃っとるで﹂
﹁おお、恐わ。それで何の用や。こっちも忙しいねん﹂
津川は、一通りスグルのことを尋ねた後、話題を逸らして女のこ
とにチラリと触れた。焼津は敏感に反応した。
﹁なんでそんな借金、お前にこさえたんや﹂
﹁何度も忠告したんやけど、ホストクラブに入れ込んでな。そこの
男に貢いどったんや。それでわしも甘かったんやな。そいつの言い
なりに金を回しとったら、あっと言う間や。ええ女やったけどな﹂
焼津は鼻の下を伸ばした。
﹁それで、その女に桜井金融を紹介したというわけやな﹂
焼津は驚いて津川の顔を見つめた。
﹁なんでそんなこと聞くんや?﹂
桜井金融の名前が出たことに、焼津は驚いた。桜井義男は、立川
組先代の直系の舎弟である。下手なことは話せない。
﹁とにかくその女に、桜井金融から金を借りさせたんやな﹂
﹁止めときやってゆうたんやけど、金貸してくれるところ紹介して
くれってせがまれたから紹介したっただけや。何か問題あるんか?﹂
236
焼津は、少し動揺した様子で乱暴に言った。
﹁その金はもう返済したのか?﹂
﹁知らへんわ。金返してもらったら、あの女とは関係あらへん﹂
﹁その女の名前は?﹂
焼津は、初音のことを探られると、あのクスリのこともあからさ
まになると恐れた。
﹁知らへん。東門街のソープで﹃詩織﹄って名前で働いとったぐら
いしか知らん﹂
﹁嘘着け、どこの誰かも分からん奴に、一千五百万も金を貸すアホ
がどこにおるねん﹂
津川は椅子を蹴とばした。
﹁分かった、言いますよ。横沢初音っていう名前や﹂
﹁新地のクラブいるそうやが、店の名は?﹂
﹁金返すまでは居所抑え取ったけど、その後はどうなったか知らん﹂
焼津は初音の居場所を知っていたが、時間稼ぎのため嘘を付いた。
﹁ほんまやな﹂
﹁ああ、ほんまや﹂
237
津川は、とりあえずスグルの供述の裏がとれたので、引き上げる
ことにした。
焼津はまずいことになったと思った。
あの女が桜井金融と何かトラブルを起し、それが元で桜井金融に
警察の手が入ったなら、その女を紹介した自分の立場も危ない。そ
れに、あの女が警察にクスリの話をすれば、それもまずい。
﹁出かけるで。前川、運転せい﹂
初音に桜井とのことを聞き出し、クスリのことも口止めしておか
なければならない。焼津は尼崎へ向かった。
初音は土曜日の店勤めを終え、客に食事の誘いを受けたのを断っ
て、真直ぐタクシーで尼崎のアパートへ向かった。明日の日曜日は、
和樹と六甲山へ行く約束だった。
タクシーをアパートの手前のコンビニで降り、朝食にとサンドイ
ッチと缶コーヒーを買って、アパートに向かう暗い路地を曲がった。
アパートまであと十メートルの所まで来たときに、玄関前に車が
停まっているのに気が付いた。
何だろうと思った時に急にヘッドライトが点灯し、眩しさで目が
くらむ。ドアの開く音が聞こえ、たちまち男に羽交い絞めされ、口
をふさがれた。
﹁車に押し込め﹂
238
聞き覚えのある声が聞こえた。
後部座席に押し込められると、隣にあの男が座っていた。初音は
恐怖で気が遠くなりかけた。車は静かに発進する。
﹁何の真似よ。お金はちゃんと返したじゃない﹂
初音は力を振り絞って声を張り上げた。
﹁まあ落ち着け。別に取って食おうというわけやないから﹂
﹁じゃあ何よ﹂
﹁ちょっと頼みたいことがあってな﹂
﹁何よ﹂
﹁しばらく、姿をくらませておいてくれればええんや﹂
﹁なぜよ﹂
﹁おまえにとってもその方がええで﹂
﹁どうしてよ﹂
﹁おまえも警察の厄介にはなりとうないやろ﹂
初音の顔が青ざめた。
239
﹁どういうことよ﹂
﹁例のクスリ、おまえも売り歩いていたやろ。わしらと同罪や﹂
﹁それは⋮⋮﹂
初音は言葉に詰まった。
﹁少しの間でええから、わいの別荘で大人しくしておいてくれ﹂
﹁別荘って何処よ?﹂
﹁まあ、しばらくやから我慢してや﹂
初音は無言で頷いた。
焼津は話しを続けた。
﹁ところで、おまえ桜井の爺さんと何かもめ事起こさへんかったか
?﹂
﹁どうして?﹂
﹁ちゃんと金返したんか﹂
﹁全部返したわよ﹂
﹁その金、どこから掴んだ﹂
﹁借りたわよ。桜井金融よりましな所から。だからどうして?﹂
240
﹁ほんまやろうな﹂
﹁本当よ﹂
焼津は初音のバッグから携帯電話を取り出して、電源を切ろうと
する。
﹁ちょっと止めてよ﹂
﹁しばらくの間やから﹂
﹁私、明日人と待ち合わせしているの。何も言わないですっぽかし
ちゃったら変に思われるわ。それにお店も﹂
﹁誰と待ち合わせや、男か﹂
﹁店のお客さんよ﹂
﹁あいかわず体で稼いどるんやな﹂
﹁そんなんじゃありません﹂
﹁まあええ、それやったらメールでも打っときや。そのかわり変な
こと書くな。わいに見せてから送信せえ﹂
﹁分かったわ﹂
初音はまずクラブのママにメールした。
241
﹃父親が急に倒れ、実家に帰らないといけなくなり、突然ですが、
しばらくお休みをいただきます﹄
﹁これでいいでしょ﹂
﹁まあええわ﹂
初音はママ宛のメールを送信した。その間にも、和樹にはどう伝
えようかと必死に頭を働かせた。
﹃明日急にお仕事が入って、ご一緒出来ないことになりました。ご
めんなさい。詩織﹄
﹁これでどう?﹂
﹁まあええわ﹂
初音は、﹁詩織﹂とわざわざ名前を書いたことで、和樹が気付い
てくれることを願って送信ボタンを押した。
﹁じゃあこれはしばらく預かっとくからな﹂
焼津は初音から携帯を取り上げ、電源を切った。
初音は車に二時間ほど乗せられて、山の中の人里離れた民家に連
れ込まれた。外観は古ぼけているが、中はリフォームしたのか、案
外きれいだった。
﹁前川、お前残ってこの女を見張っとけ。色々聞きたいことがある
からな。地下室があるから、そこに入れとけ﹂
242
初音は驚いた。
﹁それって監禁じゃない。約束と違うわ﹂
﹁約束?何か約束したか﹂
初音は恐怖に顔を引きつらせた。そして警察と聞いて大人しくつ
いてきてしまったことを後悔した。こんなことだったら、どうなっ
ても必死に抵抗すべきだった。
初音は前川の手を振り払って逃げようとした。焼津が初音の足を
払い、初音は床に倒れ込む。
﹁大人しくしとったらなんもせえへんが、逃げようとしたらタダじ
ゃすまへんからな。前川、わいは片付けもんがあるからちょっと戻
るが、よう見張っとけよ﹂
﹁ええ、アニキ﹂
焼津が立ち去り、前川と初音の二人だけとなった。
﹁まあ、そんなに恐がらんでもええ。こっちに来て酒でも飲まんか﹂
男がウィスキーを二つのグラスに注ぎ入れる。
﹁いらないわ﹂
﹁ほんならこのクスリ試してみよか。これ塗ったら天国行けるで﹂
243
男はそう言って、ポケットから小瓶を取り出した。
﹁よしてよ﹂
初音は押し倒されて、乱暴に服を剥ぎ取られた。前川は瓶に指を
差し入れてクスリをすくい取り、初音の敏感な所に塗りつけようと
した。
初音は必死に抵抗して、男の持っていた瓶を奪い取り、壁に投げ
つけた。
﹁このアマ﹂
男は初音の髪の毛を掴み、床に押し付ける。初音はなおも抵抗し
ながら、足をばたつかせた。
その時テーブルの上に置かれた携帯電話が鳴った。男は﹁ちっ﹂
と舌打ちをしながら、その電話を掴んだ。
﹁へいアニキ、大丈夫です。なんもしとりません。女は大人しくし
とります。ええ、分かりました﹂
男は不機嫌そうな表情で初音の腕を掴み、地下室へと連れて行っ
た。
初音は地下室に閉じ込められた。ノブを何回も回したが、鍵がか
かって開かなかった。ドアを何回も叩いたが、何の反応も返ってこ
ない。
投げ込まれた服を身につけながら、狭い部屋を見渡した。薄暗い
244
蛍光灯がついたその地下室は八畳くらいの大きさで、埃っぽくて、
湿気がひどかった。もちろん窓はない。
部屋の奥にベッドが一つあり、薄いマットレスが敷かれていた。
初音はようやくはっきりとしてきた頭の中で、状況を理解し始め
た。そしてそれを理解すればするほど、絶望的な気持ちになってい
った。
金を返して断ち切れたと思っていたあの男との関係だのに、あの
クスリの件が表ざたになり、警察が調べているのだろう。だったら
この自分は、口封じとして消されてしまうかもしれない。
せっかく幸せを掴みかけたかもしれないと思っていたのに、やは
りそんなには甘くなかった。あんなことなどしなければ良かったと
後悔しても遅い。
初音は薄汚れたベッドにうつ伏して、電車の窓から見上げた六甲
山の緑を思い出しながら、声を押し殺して泣いた。
245
第36話
その日の目覚めはさわやかだった。部屋のカーテンを開けると、
眩しい日の光が差し込んできた。空は気持ちよく晴れている。暑い
一日になりそうだったが、気持ちは弾んでいた。
和樹はコーヒーを入れ、飲みながら携帯をチェックした。すると
昨夜のうちに初音からのメールが届いていた。
﹃明日急にお仕事が入って、ご一緒出来ないことになりました。ご
めんなさい。﹄
えっ、和樹は驚いた。店は日曜日は休みのはずだがと不思議に思っ
たが、何か急用でもできたのだろうか。
せっかく今日六甲山にでかけるつもりで、昨日の土曜日も仕事を
片付けるために遅くまで働き、六甲山上のレストランのディナーも
予約していたのにと、和樹は落胆し、少し腹立たしい気持ちになっ
た。
そして最後の名前を見た。
﹃詩織﹄
初音がメールしてくる時は、本文に名前は書いてこない。しかも
﹁初音﹂ではなく、店で使っている﹁詩織﹂である。
店の客に送るメールを間違って送ったのだろうか、と和樹は思っ
た。少し腹が立ったが、商売柄お客さんに誘われるのは仕方ない。
それに﹁行けない﹂というのは、和樹とデートだから断ったのだろ
246
う。そう考えると和樹は機嫌をとり直した。とりあえず初音に電話
してみよう。
しかし電話は通じなかった。電源が入っていないようである。十
分ほど間を開けて何回も試してみたが、同じだった。こんなことは
今までなかった。和樹は胸騒ぎがし、とりあえず初音のアパートを
訪ねてみることにした。
再会してから初音のアパートを訪ねたことはなかったが、住所は
聞いていた。
和樹は原付バイクで国道二号線を東に向かい、阪神尼崎で右に曲
がって阪神高速の高架をまたいで更に海側へ向かう。工場地帯の手
前にごちゃごちゃとした街が広がっていて、その路地を右に左に曲
がりながら、目的の住所を探した。
どうにかそのアパートを見つけた。思っていた以上に古くて汚い、
二階建てのアパートだった。
和樹が訪ねたいと言っていたのを初音が拒んでいたのも、分かる
ような気がした。でもそれだけ節約して、和樹に返済するお金を少
しでも早く貯めようとしていたのだと思って、初音が余計に愛おし
くなった。
錆びついた外階段を上って突き当りの部屋が、初音の部屋だった。
表札はかかっていなかったが、部屋番号で確かめた。
和樹は周囲を見回して誰も人がいないのを確認してから、部屋の
ドアを何回かノックする。しかし返事はなかった。ドアノブを回し
てみるが、鍵がかかっていて開かない。ここでも電話してみたが、
247
部屋の中で電話が鳴っている様子もなく、何回かけてもつながらな
かった。
仕方なく階段を下りて、バイクを階段下に停めたまま、アパート
のまわりを歩き始めた。何かが分かるはずも無かったが、何かをし
なければならないという苛立ちを感じた。
コンビニがあり、中に立ち寄った。
きっと初音がよく使っていた店なのだろうと想像しながら店の中
を一回りして、ミネラルウォーターを買った。
それを飲みながら再びアパートに向かって歩いていると、道端に
何か小さな鼓状の物が落ちているのが目に付いた。気になって拾い
上げてみると、それはポートタワーの形をしたバッグチャームだっ
た。紐がちぎれていた。
前に二人でポートタワーに上った時、土産物屋で初音が買ったも
のだ。
﹁中学生や高校生みたいじゃないか﹂とからかったが、初音は気に
入ったと言って、その場で袋から出してバッグに付けて、嬉しそう
に和樹に見せた。和樹はそれを拾ってポケットに入れた。初音の身
に何かが起こったのは明らかだった。
自分のせいだ。あんなことを初音にさせたから、やくざに何かを
感づかれたのかもしれない。
和樹はどうして良いのか何も思い浮かばないまま、ただ国道をバ
イクで引き返した。
248
アパートに辿り着いてからも落ち着かなかった。再びすぐに部屋
を出てバイクに跨り、あのやくざの事務所へ寄ったが、日曜日とい
うこともあって、ひっそりとしていて、ビルに人の出入りはなかっ
た。桜井金融へも様子を見に行ったが、シャッターが下りていた。
再び部屋に帰り着き、ウィスキーをグラスに入れて、そのままあ
おった。少しでも気持ちを落ち着かせようとした。
色々事情をこじつけて警察に相談しようかと思ったが、もちろん
そんなことは出来ない。しかし初音の身に何かが起こったら。
その時和樹の頭の中に一瞬、初音がこのままいなくなってくれれ
ば自分にとっては都合が良いのでは、という考えが湧いた。和樹は
げん骨で自分の頭を何回も叩き、そんなはずはないじゃないかと、
一瞬でもそんなことを考えた自分を嫌悪した。
日はいつの間にか暮れていた。窓を開けると、ライトアップされ
たポートタワーが見えた。
和樹は初音の落としたアクセサリーを手で握りしめながら、絶対
に初音を助けよう、そしてすべてをありのままに話してしまおう、
と決めた。
大阪府警の岸本たちは、ようやく横沢初音の勤める店を見つけた。
しかし店を訪ねてみると、もう三日ほど休んでいるということであ
った。ママさんによると、実家の父親が病気だからということであ
る。
実家は宮崎ということで、ママは実家の住所までは知らなかった
249
が、免許証で本名であることは確認しているということなので、宮
崎県警に照会してみると、すぐに住所は判明した。
しかし実家の父親が入院しているとか、横沢初音が宮崎に帰って
いるとかの形跡はないという返事が返ってきた。
﹁岸本警部、ちょっと変ですね﹂
﹁ああ﹂
﹁とりあえず横沢のアパートを調べますか﹂
﹁そうするしかないやろう﹂
岸本たちは尼崎の初音のアパートを訪ねたが、留守だった。管理
人に鍵を開けさせて中の様子をざっと見渡したが、単に留守だとい
うだけで、別に変った所は見られなかった。
﹁偶然にすれば出来過ぎやな﹂
﹁我々が来るのを予想していた、ということですかね﹂
﹁そうやろう﹂
﹁と、言うことは﹂
﹁あいつしかおらへん﹂
岸本は、焼津の監視を兵庫県警に要請した。
250
一方兵庫県警の木戸は、桜井義男を署に呼んで、任意で事情聴取
を行っていた。
﹁お久しぶりですね、桜井さん﹂
﹁木戸さんか、今日は何の用でっか﹂
﹁ちょっと困ったことが起こりましてね﹂
﹁なんやねん﹂
桜井はいぶかしげに木戸をにらみつけた。
﹁おたくから貸し出された金に、変なものが混ざっていましてね﹂
﹁変なもの?何や、それは﹂
﹁ある所から盗まれた金の一部でして﹂
﹁そんなの知らんで。金なんか、あちこちから入って来るからな。
そりゃ中には変な金も入って来るかもしれん﹂
﹁それはそうですが、焼津に返す金を借りに来た女がいますよね。
名前は横沢初音﹂
﹁そんな女おったか﹂
﹁焼津の所の安田卓が、一緒におたくの所に借りに行ったと言って
います﹂
251
﹁ああ、あの別嬪さんやな﹂
﹁いくら貸しましたか?﹂
﹁確か千五百万円やったかな﹂
﹁その金の出所は?﹂
﹁出所?金庫に決まっとるやろ﹂
﹁金の出入りは、もちろん記録していますよね。出来たらば、それ
を提出願えないかと﹂
﹁あほ、顧客情報やで﹂
﹁桜井さん、任意で出してくれるならば、なんら問題ない。しかし
そうでなかった場合、貸金業法違反の疑いで、強制捜査に入らざる
をえませんよ﹂
﹁どんな容疑や﹂
﹁最近、行き過ぎた取り立てがあったようですし﹂
木戸は桜井の前に、囮捜査官の契約書を置いた。桜井の顔色が変
わる。
﹁身内使って汚いことすんな。こんなもの証拠にはならへんで﹂
﹁分かっていますよ。でもあんただって叩けば埃はいくらでも出て
くる﹂
252
﹁わいも、えらい被害者や﹂
﹁同情しますよ、桜井さん﹂
桜井は、横沢初音に金を貸した日の一週間前までの返済者のリス
トを提出することを渋々認めた。
桜井義男は不機嫌だった。妙なことに巻き込まれてしまい、今後
しばらく、商売もやりづらくなったと思った。
警察には横沢初音が借りる前の返済者リストを提供したが、あの
女に貸したのは、焼津から前もって連絡があってから別に用意した
金である。﹁変な金﹂が自分の所に入ってきたとすれば、少なくと
もその後である。
﹁焼津のやつめ﹂
桜井には、最近少し気になっていることがあった。立川組ナンバ
ースリーである山城組組長の山城巌の動きがおかしい。どうも跡目
を狙っているのではないかと噂されていた。丸政組は、その山城組
の傘下の組の一つである。山城巌の影がちらついた。
警察に目を付けさせることで自分を封じ込め。自分が肩入れし、
資金提供もしているナンバーツーの若頭、相沢にとって代わろうと
しているのではないか。
﹁大内、住宅に行くぞ﹂
眼鏡をかけた秘書の大内はすぐに車を回し、桜井は立川組組長の
253
住宅でもある組本部へと向かった。
﹁なんやと、若頭の相沢がわいを?﹂
焼津は驚いた。
﹁なんでも、桜井のジジイが若頭に何かを吹き込んだようです。山
城さんの所の若いもんからの情報です﹂
焼津の顔色が変わった。
確かに自分は山城組に肩入れしている。来るべき跡目相続の時に、
運よく山城巌が継いでくれれば、自分も一気に幹部へと駆け上るこ
とができると考えていた。だからこの所、少しヤバいことに手を出
しても、山城組への上納金を上積みしてきた。
しかし決してナンバーツーの若頭に楯突いたことなどもない。そ
んなことをすれば、一気に潰されてしまうことは分かりきっている。
﹁あの女が、なんかしよったんやな﹂
﹁とにかく、山城組長に話をつけてもらいましょう﹂
﹁あの女は何者やねん。とりあえずわいは、あの女を締め上げて何
を企んどるのかを吐かせて、若頭に突き出すしかないやろう﹂
焼津は慌てて事務所を出てセルシオに乗り込み、自ら運転して路
地を駆け抜けた。
事務所の近くで見張っていた和樹は、その慌てた様子から何かあ
254
るに違いないと考え、セルシオの後を追った。
和樹は、初音と連絡がつかなくなった翌日から、どうして良いの
かも分からなかったが、とにかくあのやくざが関係しているに違い
ないと考え、組事務所を見張るしか手はなかった。
幸いにも最近経営幹部としていい人材を雇い入れることが出来た
ので、東京への出張だと偽って会社をあけても、業務に支障は出な
かった。
セルシオは猛スピードで国道を突っ走り、和樹の借りた車ではす
ぐに見失ってしまった。しかしセルシオに発信器を取り付けておい
たので、タブレットPCに表示される地図を見ながら、セルシオの
後を辿った。和樹は、初音を救い出すためにそれなりの準備はした
つもりだった。
車は奈良県に入り、和歌山につながる山道を走っている。かなり
の山奥である。どうしてこんな山に入ったのか。初音の所に向かっ
ているのだろうか。
しかしあんなやくざから、果たして初音を救い出すことは出来る
のだろうか。和樹はまだ自信を持てないでいた
セルシオが動きを止めた。和樹の車の先五キロメートルほどの、
少しばかり開けた山奥の集落の外れのようだった。
和樹は集落の手前で車を停め、人家を避けて林の中の細い道を歩
いた。タブレットPCの画面には、目的地が徐々に近づいていくの
が見えた。
255
日は傾き、山里に夕暮れの気配が漂っている。先ほどまで聞こえ
ていた耕運機のエンジン音も途絶え、ひっそりとした静寂が辺りを
包み始めていた。
集落の外れに出て細い農道を進むと、山を背に、一戸だけ離れて
建っている平屋建ての家の庭にセルシオが停まっているのが見えた。
和樹は一度引き返して農道をはずれ、再び林の中に入って目的の家
の裏側に回った。
木々の間から、明かりのついた家の窓が見えた。用意していた双
眼鏡で覗いてみると、男が二人見えた。一人はあの男である。何か
を話しているようだった。初音の姿は見えない。本当にここにいる
のかは、まだ自信が持てないでいた。
しばらくすると。もう一人の男の姿が消えた。家から出てこない
ので、別の部屋へ行ったのだろう。それ以外の人物は見えなかった
から、この家にいるのは初音を除いて二人のようだ。二人ならなん
とかなるかもしれないと、和樹は思った。しかし初音の所在を確認
することがまず先決だ。
和樹は音をたてないようにゆっくりと林を抜け、家の裏口に回っ
た。そして壁に集音マイクを取り付け、中の様子を探った。
男が階段を下りていく足音が聞こえる。平屋建てだから、地下室
があるのだろうか。やがて男が鍵を開けてドアを開ける音が聞こえ、
直後に女性の泣き声が聞こえてきた。
初音だ!和樹の心臓は高鳴った。なんとかしなければならない。
和樹は震える手でバッグの中から拳銃を取り出した。それは、あ
256
の山の中から掘り出したものだった。まさか再び手にすることにな
ろうとは、考えもしなかった。しかし今、唯一頼りになるのがこの
拳銃である。
和樹は、山の中で試しに地面に向けて発射したときの感触を思い
出しながら、拳銃のグリップを固く握りしめた。
庭に回り、双眼鏡で覗いていた窓の下に来て部屋の様子を伺った。
初音は男に連れられて、その部屋に入ってきたようだった。カーテ
ンがさっと引かれる。
﹁おまえ桜井のジジイに何しでかした﹂
﹁何もしていないわよ﹂
窓から声が漏れ聞こえてくる。
﹁おまえどこの組の差し金や。相沢のところか﹂
﹁相沢って誰よ﹂
﹁若頭の相沢よ﹂
﹁そんな人知りません﹂
﹁嘘着け、痛い目に合いとうなかったら、正直に吐きさらせ﹂
﹁知らないわよ﹂
初音の声は涙で震えている。
257
バシッという鈍い音とうめき声、そして誰かが床に倒れる音が聞
こえる。もう一刻の猶予もない。
和樹は決断した。
和樹はサングラスとマスクに手袋を着け、近くにあった鉄パイプ
を手にした。そして思いっきりガラスを叩きつけると、粉々に砕け
散った。そして間をおかず、部屋の天井に向かって拳銃を発射した。
轟音が響き渡り、硝煙が部屋に立ちこめる。床には初音が転がっ
ていて、男二人はソファの陰にとっさに身を隠していた。
和樹はもう一発を天井に向けて発射し、窓から部屋に飛び込み、
初音の足もとまで走り寄る。さすがのやくざと言えども、不意を突
かれて身動きが取れないでいる。
﹁動くな。この女はもらっていくぜ﹂
和樹はわざとなまったアクセントで、拳銃を二人に向けながら初
音の手を引いた。初音の意識はしっかりしていて、ヨタヨタしなが
らもしっかりと立ち上がった。
﹁どこの組のもんや﹂
焼津がようやく口を開く。
﹁死にたくなければ黙っとれ﹂
和樹は大声で怒鳴ると、拳銃を男の方へ向けて二発発射した。
258
拳銃の扱いなど初めてであるから、ひょっとして命中してしまう
かもしれないが、それでも良いと和樹は思った。初音にこんなひど
いことをしたその男達に、和樹は殺意すら感じていた。その迫力と
本気さに押され、男らは大人しく従った。
和樹は二人に拳銃を向けながら、初音の腕を掴んで部屋のドアの
方へ、ゆっくりと後ずさりする。マニラで拳銃を突きつけられた経
験が、逆に和樹を大胆にし、冷静に行動させた。
ようやく部屋の出口まで辿り着き、和樹は初音を廊下に押し出し
て、背中を押した。
﹁玄関を出て右に行くと、二百メートル先に車を停めてある。そこ
まで走れ﹂
初音も突然のことで、何が起こったのかをまだ十分に理解できな
かったが、和樹だということは分かったようだった。 ﹁あなたは?﹂
﹁後ですぐに行く﹂
初音は頷き、玄関に自分の靴を見つけて履くと、下駄箱に置かれ
た自分のバッグを抱えてから、玄関ドアを勢いよく開け駆け出した。
和樹は二人に拳銃を向けながら、初音が追いつかれないように時
間を稼いだ。
もうそろそろ初音が車に辿り着いただろうという頃を見計らって、
259
もう一度最後に部屋に向かって拳銃を撃ち放し、ドアをバタンと蹴
って閉めてから、玄関を飛び出し、セルシオの前輪を撃ち抜いてか
らバッグを拾って全速力で走りだした。
振り返ると男たちも玄関を飛び出してきたが、和樹が拳銃を向け
ると、門柱の陰に身を隠した。
和樹は初音に追いつき、急いで乗り込んで車を発進させる。山間
の曲がりくねった暗い道を、和樹は無言のままフルスピードで車を
走らせる。エンジンの唸りとタイヤのきしむ音が車内を支配する中、
初音もずっと黙ったままだった。
もうここまで来れば大丈夫かなと、和樹がアクセルを緩めた時に、
ようやく初音が口を開いた。
﹁どういうことなの?﹂
その問いに和樹が助手席の初音に振り向いた時、前方のカーブ周
辺が急に明るく照らし出され、ハイライトのまま猛スピードで、ク
ラクションを鳴らしながら対向車が近付いてきた。
﹁危ない﹂
初音が叫ぶ。
あのやくざが電話で応援を寄越したのかと、和樹は車を路肩に急
停止して、バッグから拳銃を取り出し、弾倉を差し替えた。
しかし黒塗りのその車は和樹たちの横をすり抜けて、猛スピード
で走り去って行った。
260
気を取り直して再びアクセルを踏み、ゆっくりと道を下って行く
と、奈良盆地の明かりが見えた。車はようやく市街地に出て、国道
の車の流れの中に入り込んだ。
交差点の赤信号で車が停車した時に、初音が再び口を開いた。
﹁どういうことなの。あなたもやくざなの?﹂
﹁いや違う﹂
和樹は首を振った。
﹁でも、君には本当のことを話さなければならない﹂
﹁本当のこと?﹂
信号が青に変わって、和樹は車をゆっくりと発進させた。
本当のことを言おう。洗いざらい話してしまい、初音に謝ろう。
それで初音が自分を見限っても、警察に通報されて捕まっても、そ
れは仕方がないことだ。
和樹は車を走らせながら、今までのことをポツリポツリと話し始
めた。
261
262
第37話
和樹は、金を偶然見つけて掘り出したこと、それが銀行強盗で強
奪された金だったこと、最初はそれを細々と両替して生活していた
こと、そしてその金で初音の店に行ったことを話した。
拳銃もその時一度掘り出してすぐに埋め戻したのだが、今回再び
掘り出したのだと説明した。
その後再び初音に会った時に自分の情けなさに愛想を尽かし、何
とか生活を変えようと、今の事業を起ち上げたことまでを話した。
事業が上手く行って、もうあの金は使わないでおこうと一度は決
めたのだが、既に使ってしまった金の出所を隠すために、闇金を利
用しようと考えたことも、正直に話した。
初音は驚いた様子だったが、俯いたまま黙って聞いていた。
﹁呆れた話だろう、軽蔑するだろう。それに僕は君を利用してしま
った。それでこんな危険な目に合わせてしまった。謝っても許して
くれないと思うけど、とにかく本当のことだけは言っておきたかっ
た。君の安全のためにも、警察に通報するなり好きなようにして欲
しい。警察には本当のことを言うよ。君を巻き込んでしまったって
ことを﹂
初音は顔を上げ、首を横に振った。
﹁いえ、あなたのせいじゃないわ。あのやくざに連れて行かれたの
には、別の理由があるの﹂
263
和樹は驚いて初音の顔を見た。
﹁私に原因があるの。私もあなたに隠していたことがある﹂
初音はためらいながらも、あのクスリの話をした。そして、警察
という言葉に怯えて、あの男の言いなりになってついて行ってしま
ったと話した。
﹁だからあのやくざは、口封じのために私を連れて行ったんだわ。
あなたが助けてくれなかったら、私はきっと殺されていた﹂
和樹は国道沿いのユニクロの駐車場に車を停めた。
﹁そんなことがあったのか、でも、きっと僕のせいだと思う。とに
かく今は、あのやくざから逃げることを考えよう。家に帰るのはま
ずい。しばらくどこかに隠れていた方がいい﹂
初音の服は、切り裂かれてボロボロになっていた。
﹁とりあえずジーンズとTシャツを買ってこよう。君は車の中で待
っていてくれ﹂
初音は、後部座席で和樹が買ってきた服に着替え、再び助手席に
座った。和樹は車を走らせる。
長い沈黙の後、初音が口を開いた。
﹁あなたのしたことは確かに悪いことかもしれないけれど、誰も傷
つけてはいないわ。それに同じようなことがあれば、私もそうした
264
と思う﹂
﹁えっ﹂
﹁それに私はあなたに三度も助けられた﹂
﹁三度?﹂
﹁今回のことが三度目。お金を貸してくれたのが二度目。でも最初
に助けられたのは、心斎橋筋のデートに誘ってくれたこと﹂
﹁なぜ?﹂
﹁それまであんなアルバイトをしていたけど、あのデートで辞める
決心がついたの。結局こんなことになっちゃったけれど、あのまま
ズルズルとあの仕事を続けていたら、もっと駄目な人間になってい
たと思うわ。だから、あなたを恨んだりはしないし、軽蔑したりも
していない﹂
和樹は初音の予想外の反応に驚いた。
﹁いや、助けられたのは僕の方だ。あのままダラダラと金を使って
いたら、もっとどうしようもない人生を送っていたと思う﹂
﹁私たちって、似た者同士だったのかもね﹂
和樹は、大阪駅に近いシティホテルの玄関に車を乗りつけた。
﹁しばらくは、ここにいてくれ。出歩かない方がいいだろう。当座
のお金はこれを使ったらいい。明日の朝電話する﹂
265
初音がバッグの中を探ると、携帯電話が見つかった。
﹁良かったわ。あなたの名前とか電話番号が登録されていたから心
配だったの﹂
﹁幸い、あいつは僕のことをどこかの組の者だと勘違いしているよ
うだから、身元はばれていないだろう。まさか一般市民が拳銃を持
っているとは思わないだろうからね﹂
和樹は力なく笑った。
﹁会社をしばらく離れていたから、明日から当分僕も休めない。で
も電話で連絡を取りながら、今後の対策を話し合おう﹂
﹁ごめんなさいね、色々と迷惑をかけてしまって﹂
﹁そんなことはないよ。僕の方こそ悪かった﹂
初音は笑顔で手を振って、ホテルに入っていった。
和樹は初音に真実を語ったことで、少しは肩の荷を下ろしたよう
な気がしてほっとした。しかも驚いたことに、初音にも負い目があ
ったとはいえ、そんな和樹を受け入れてくれた。
和樹は、初音を全力で守ることを、強く心に誓った。
﹁社長、東京はいかがでしたか﹂
事務を任せている女性社員が、お茶と新聞を差し出しながら尋ね
266
た。
﹁ああ、千葉の中堅スーパーとの話をまとめてきた﹂
メールと電話でのやりとりだけだったが、実際に契約は取れてい
た。
﹁また忙しくなりそうですね﹂
﹁ああ、あと何人かを募集しないとね。求人広告の手配をお願いし
ます﹂
﹁はい、分かりました﹂
和樹は女性社員が手渡した新聞に目を落とし、一面の片隅に載っ
ていた記事を見て驚いた。
﹃暴力団の抗争か? 和歌山で組員二人が死亡﹄
詳しく読むと、昨夜奈良県と和歌山県の県境の村で、広域指定暴
力団立川組系丸政組の組長焼津秀樹と、組員の前川渡が拳銃で射殺
されているのが発見されたということだった。顔写真が載っていて、
それを見ると、初音を監禁していたあの二人に間違いなかった。
﹁ちょっと出かけてくる。夕方には戻るから﹂
和樹は新聞を抱えたまま、事務所を出た。
喫茶店に入り、もう一度詳しく読み直し、また別の新聞も読み比
べた。
267
それによると、昨夜八時頃、集落の外れの家の方からパンパンと
いう鈍い音が響き、一度は止んだものの、しばらくするとさらに多
くの音が聞こえたので、村人が何かと思って様子を伺いに行くと、
数人のやくざらしき男が家の中から出てきて、急いで車で立ち去っ
たということである。
焼津と前川は、数発を撃たれて絶命していたらしい。
和樹は思い出した。車で逃げる途中に山道で猛スピードですれ違
ったあの車に、別のやくざが乗っていたに違いない。
和樹は最初応援を頼んだのだと思っていたが、何らかの理由で焼
津を追っていた別のやくざが、居所を突き止めて殺しに行ったのだ
ろう。
その理由とはなんだろうか。
焼津も和樹に向かって﹁どこの組のもんや﹂と言っていた。何か
対立する原因があったのだろうか。
しかしそれが初音だとは思えなかった。初音は確かにクスリの片
棒を担がされていたかもしれないが、あの男に借金は返済したし、
一度は解放されていたわけで、初音がやくざの組織と深く関わって
いたとは思えない。
だったらあの金が原因なのかもしれないとも思ったが、それ以上
は想像できなかった。
和樹は初音に電話をかけた。
268
﹁もう知っているよね﹂
﹁あのやくざが殺されたことね﹂
﹁そう﹂
﹁もちろんあなたが殺したのではないわよね﹂
﹁ああ、もちろん。山道ですれ違った車で駆けつけたやつだと思う﹂
﹁多分そうだと、私も思うわ﹂
﹁ところで、殺されたやくざは、君に何かを話していたかい﹂
﹁そうね、しきりと桜井金融のことを気にしていたみたいだけど﹂
﹁やっぱりあの金が原因なのか﹂
﹁わからないわ。それと相沢っていう人の差し金かとも聞かれたわ﹂
﹁相沢?﹂
﹁若頭とか何とか言っていたみたいだけど﹂
和樹は﹁相沢﹂という名前に聞き覚えがあった。そう言えば新聞
や週刊誌で時々見かける名前である。確か、立川組のナンバーツー
で、現組長の有力な後継者であるはずだった。すると、殺されたや
くざは、それに対抗する組とかだったのだろうか。いずれにせよ、
暴力団内部の抗争であることには違いない。
269
﹁事情が詳しく分かるまで、やはりしばらく身を隠していた方がい
い﹂
﹁ええ、分かったわ﹂
和樹はネットカフェに行って、立川組のことを調べた。
日本有数の規模を誇る立川組は、五代目組長の篠崎を頂点に、ナ
ンバーツーの若頭相沢、ナンバースリーの総本部長山城以下、最高
幹部が十数名、その下に何千人もの組員、準構成員を従えている。
だが、絶大な権力を誇っている篠崎も高齢で、そろそろ跡目相続の
問題が生じているらしい。
順当ならば若頭の相沢というところだが、総本部長の山城巌も跡
目には色気を出していて、立川組の内部では、相沢派と山城派に分
かれて少なからず反目しているらしい。焼津の率いる丸政組は、山
城派に属していることも分かった。
和樹は、自分たちがそんな恐ろしい暴力団の世界に巻き込まれて
しまったのかと、ぞっとした。
しかし考えてみると、あの金が原因だと思われるフィリピンのギ
ャング団の殺人事件も起こっている。初音は﹁誰も傷つけていない﹂
と言ってくれたが、この金が原因で、もう何人もの命が失われてい
る。和樹は、自分がしでかしてきたことの重大さを、改めて思い知
った。
しかし同時に、和樹はある可能性に気が付いた。
270
立川組が、最近他の暴力団と抗争事件を起こしているとは、聞い
ていない。それに、たとえ初音がクスリに関与していたとはいえ、
巨大な勢力を誇る立川組からすれば、些細なことに過ぎないはずだ。
それなのに、これ程の凶悪な発砲事件になるには、もっと重大な別
の原因が、立川組内部にあるに違いない。初音がこの抗争事件の直
接の原因とは思えない。
それならば、初音に直接関わっていた焼津が死んで丸政組が壊滅
すれば、とりあえず初音は、やくざ組織から安全圏に脱出できたと
いうことにならないか。
それよりも問題は、今回の事件で警察がどう動いてくるかである。
警察の捜査で、あの金が焼津や桜井金融に流れたことは、いずれ判
明するだろう。いや、焼津が初音に桜井金融のことを尋ねていたこ
とを考えれば、警察は既に金の存在を掴んでいて、焼津や桜井金融
をマークしていたかもしれない。
すると、焼津と桜井金融を結ぶ初音に、捜査の目が向けられるの
は間違いない。とにかく、今後の捜査の行方に、より一層注意を払
うしかないだろうと和樹は思った。
271
第38話
﹁しかし妙な展開になってきましたね﹂
大阪府警本部で、木戸が岸本に話しかけた。
﹁最初から立川組が絡んでいたとはね﹂
岸本も腕を組みながら首をひねる。
和歌山県で発生した暴力団の抗争がらみで拳銃によって二人が死
亡した事件で、三成銀行強盗事件で使用された拳銃の弾痕が発見さ
れたのである。
二人に撃ちこまれた弾丸は別の拳銃によるものだったが、天井と
壁に撃ちこまれていた数発の弾丸の線状痕が、三成銀行強盗事件の
ものと一致した。しかし拳銃は見つかっていない。
﹁やはり、三成銀行に押し入った山崎は、金を桜井金融に持ち込み、
拳銃も立川組関係者に渡したということになりますか﹂
﹁そう考えるのが妥当やな﹂
﹁焼津の身柄を、早く押さえておくべきでした﹂
﹁まあ、あまり気にせえへんで下さい﹂
大阪府警・兵庫県警・和歌山県警の合同捜査会議が始まった。岸
本と木戸が、今までの経緯を説明する。兵庫県警暴対の津川が、立
272
川組に関する最新の情報を補足説明した。
和歌山県警の捜査員の報告が続く。
﹁近所の住民によりますと、最初の銃声が聞こえたのが午後七時半
ごろ、そして次の銃撃戦らしき音が聞こえたのが八時前と、三十分
くらいの間があります﹂
﹁焼津は胸と腹に各一発、前川は額に一発の弾丸が撃ちこまれ、ほ
ぼ即死だと思われます﹂
﹁かなり拳銃を使い慣れたやつやな﹂
﹁ええ、しかし三成銀行で使用された銃から発射された弾丸は、い
ずれも天井や壁から発見されています﹂
﹁三十分の間があいているということやから、まず最初に例の拳銃
で脅かして何かを聞き出そうとしたんやないか。それを白状したか
しなかったか知らんけど、用が無くなったから消しよった﹂
﹁そういう風に考えられます﹂
﹁しかし、庭に停めてあった車の前輪も撃ち抜かれています。二人
とも殺しているわけですから、車を走行不能にする必要はありませ
ん﹂
﹁他に誰かいたということかな﹂
木戸が尋ねる。
273
﹁百十番通報があって八時三十分ころに現場に到着した時には、被
害者以外の人物はおらず、すぐに県道に非常線を張りましたが、そ
れに引っかかる者もいませんでした。ただ夜だったので山狩りまで
はできず、山越えで逃走した人物がいなかったかどうかは、現在捜
査中です。
﹁遺留品は?﹂
﹁被害者の二人が使っていたと思われるグラスなどの食器、それに
液体の入った瓶が残っていました。液体の成分は現在鑑定中ですが、
覚醒剤及び麻薬の成分は検出されなかったとの報告が入っています﹂
﹁なんや、それは﹂
﹁神戸の福原あたりで一時流通していた媚薬やないかな。丸政組が
関与しているという噂やったから﹂
津川が発言する。
﹁でも、脱法ハーブの成分は検出されたものの、包括規制前だから、
立件は出来ませんでしたけど﹂
木戸が付け加える。
﹁他に、現場からは女性の衣服の一部と見られる布切れが見つかっ
ています﹂
﹁女?直前までいたのかな﹂
﹁それは分かっていません﹂
274
﹁死ぬ直前まで、その媚薬でお楽しみやったんやないか﹂
岸本がつぶやく。
合同捜査会議は長時間に及んだが、奈良から和歌山に向かう国道
で目撃された不審な黒塗りの車の洗い出しと、立川組内部情報を詳
しく探って、実行犯の特定を最優先に行うことに決まった。
捜査会議終了後、木戸は岸本に誘われて、大阪駅ガード下の串カ
ツ屋で立ち飲みしながら、意見を交わした。
﹁思わぬ方向に進んでいますね﹂
﹁そうやねん﹂
﹁立川組がらみだったら、もうマル暴に任せて、我々は手を引きま
すか﹂
﹁まあ、山崎の足取りを再捜査して、焼津なり桜井なりにつながっ
たら、あとは任せるほかはないやろうな﹂
二人は元々、三成銀行で強奪された金の経路と拳銃の行方を捜査
していたわけだから、暴力団の抗争事件の捜査に加わるつもりはな
かった。
﹁ただあの女が気になるわな﹂
﹁横沢初音ですね﹂
275
﹁そうや、あいつが桜井から借りた金の中に例の札が入っていたか、
焼津から掴まされた金の中に紛れ込んでいて、それが桜井に渡った
か、いずれにせよ二人を結んでいるのがあの女やから﹂
﹁彼女は単に、金の受け渡しに利用された媒介に過ぎなかったのか
もしれませんね﹂
﹁しかし、我々が焼津に接触した直後から姿を消しているのを考え
れば、あの女は焼津と何かのつながりを持っていることになります
な﹂
その時、岸本の携帯に連絡が入った。
﹁何やと、あの女が店に出勤しとるって﹂
﹁横沢初音ですか?﹂
﹁ええ、横沢初音が新地のクラブに出勤しているということのよう
です。行ってみますか﹂
﹁そうですね﹂
二人は勘定を支払って店を出て、小走りで北新地へと向かった。
﹁いらっしゃいませ。まあ! ﹂
新地のクラブ﹁雛﹂のママは少し顔をしかめた。
﹁詩織ちゃんに御用ですか?﹂
276
﹁ええ、お願いします﹂
﹁分かりました。呼んできますので、外でお待ちください﹂
ママは店の奥へと向かった。
﹁詩織ちゃん、警察の方がお呼びよ。詩織ちゃんが休んでいるとき
にも来たけど﹂
ママは初音にそっと耳打ちした。
﹁ちょっと失礼します﹂
初音は席を立ち、ママに従った。
﹁詩織ちゃん大丈夫なの?借金の悩み事でもあるんじゃないの?﹂
﹁ママごめんなさい、迷惑かけちゃって。でも借金は全部返したか
ら心配しないでね﹂
﹁なら良いけど﹂
初音は、その日店に出勤すると、ママから警察が訪ねてきたとい
うことを聞かされていた。その時、和樹から言われた通り、借金関
係でトラブルがあったと話していた。
﹁それからママ、ずる休みしちゃって、ごめんなさい﹂
初音はまた、この三日間休んだのは、彼氏と東京に遊びに行った
ことにしていた。これも和樹の指示だった。
277
表に出ると、刑事らしき男が二人待っていた。
﹁ママさん、少しの間お借りします﹂
﹁横沢初音さんですね﹂
﹁はい、でも何か?﹂
﹁少しお時間をいただけますか﹂
﹁ええ、いいですが﹂
三人はビルを出て、近くの喫茶店に入った。
﹁この男をご存知ですね﹂
木戸は一枚の写真を見せた。初音は頷いた。
﹁焼津秀樹、広域指定暴力団立川組系丸政組組長です。昨夜殺され
ました﹂
﹁知っています。今日の新聞で読みました﹂
﹁横沢さん、しばらく店をお休みされていたそうですが、ご実家に
帰省されたとか?﹂
﹁何か関係あるんですか?﹂
﹁いえ、ただ﹂
278
﹁実家には帰っていません。ちょっと遊びに行っていました﹂
﹁遊びに?どちらへ﹂
﹁東京です﹂
﹁お一人でですか?﹂
﹁何故そんなことを尋ねるんですか。ひょっとして、焼津の事件で
私を疑っているんですか?﹂
﹁いやいや、そういうことではあらへんのですが﹂
岸本が横から割り込む。
﹁焼津に借金があったそうやね﹂
﹁ええ、確かにあの男から金を借りていました﹂
﹁いくらですか?﹂
﹁額まで言わなくちゃいけなんですか?﹂
﹁いえ、参考まで﹂
﹁千五百万円です﹂
﹁そりゃたいへんやわ。けど、なんでそんな大きな借金こさえてし
もうたんや﹂
279
﹁わたしが馬鹿だったんです。ある事件がきっかけで自暴自棄にな
ってしまって﹂
﹁どんな事件ですか?﹂
﹁阪急東通りの風俗店で働いていた時、やくざに因縁をつけられて、
暴力を振るわれました。それが昼間の職場にも伝わり、クビになっ
てしまいました﹂
初音は事実を話しているので、淀みなく答えることが出来た。
﹁そう言えば、そんな事件があったな。あんたが被害者やったんか﹂
﹁はい﹂
岸本が席を離れて署に電話して調べさすと、確かに横沢初音がそ
の事件の被害者ということが確認できた。
﹁焼津に借金は返されましたか?﹂
﹁はい、返済しました﹂
﹁でも千五百万も、よく都合がつきましたね﹂
﹁私から何を聞きたいんですか?﹂
初音は苛立った様子で二人に尋ねた。
﹁いや、よく返済できたなと思いまして﹂
280
木戸は初音から何かが引き出せると思った。
﹁借りました﹂
﹁誰から?﹂
﹁消費者金融からです﹂
﹁担保とか保証人は?普通千五百万円も借りるとなると、それなり
の用意が必要ですよね﹂
﹁担保も保証人も要らないからって焼津に紹介された、闇金からで
す﹂
﹁桜井金融からですね﹂
﹁そうです﹂
﹁桜井金融への返済はどうなっていますか﹂
初音はテーブルにうつ伏せ、声を荒げた。
﹁もういい加減にして下さい。あの闇金には、他から借りて全額返
しました﹂
初音は声を上げて泣き出した。喫茶店の客が一斉に振り返る。
﹁いやあ、我々は、焼津か桜井金融かが関係する事件のことを調べ
とって、あんたが知っている話を聞きたかっただけやねん。気にせ
んといてや﹂
281
岸本が声をかける。
﹁お時間を取らせて申し訳ありませんでした。後日またお話を聞く
ことがあるかもしれませんが、その時はよろしくお願いします﹂
木戸が立ち上がった。
岸本と木戸は、初音を店まで送り届け、ママに礼を言ってから店
を後にした。
﹁木戸さん。あの女は焼津に何か弱みを握られて、金を搾り取られ
ていたようやね﹂
﹁確かに。でも、横沢初音が、三成銀行から強奪された金に何らか
の関わりがあったとは考えられませんし、今回の発砲事件と繋がる
線はありませんね﹂
﹁やっぱり銀行強盗を犯した山崎が、桜井に金を持ち込んだと考え
るのがええんちゃいますか﹂
﹁そうかもしれませんね﹂
﹁口直しにもう一軒行きますか﹂
岸本と木戸は、阪急梅田駅裏の飲み屋街へ向かった。
店に戻った初音は、ママに詫びた。
﹁ごめんなさい。私が借金をしていた人がやくざで、昨日の発砲事
282
件で殺された人なんだって。それで知っていることがあれば話して
欲しいって﹂
﹁詩織ちゃん、気を付けなさいよ﹂
﹁はい﹂
初音は早引きしたいとママに頼んで、許してもらった。
着替えを済ませて店を出ると、初音はすぐに和樹に電話を入れた。
﹁あなたの言う通りだった。桜井金融のことを聞かれたわ﹂
﹁クスリのことは聞かれなかった?﹂
﹁ええ、そのことは何も﹂
﹁良かった。だったら、やっぱり単にあの金に関する参考人という
ことだろう﹂
﹁大丈夫かしら﹂
﹁何も知らないって押し切れば大丈夫だ。何も証拠など無い。焼津
はもうこの世の中にはいないんだ﹂
和樹は、初音のところに、あの金の件で警察が訪れることを予想
していた。
もし、クスリの件で事情を聞かれたら、﹁焼津に脅されて売った﹂
ということにすれば良いとも言っておいた。その件は隠しおおせる
ことはできないだろう。
283
最悪銃撃現場に居合わせたことがばれたとしても、焼津にクスリ
のことで脅されて連れて行かれたと、正直に話せば良い。銃撃戦の
間に隙を見て逃げたことにすれば辻褄は合う。
クスリの件では、何らかの罪には問われるかもしれない。それは
仕方ない。しかしそれで自分が初音を突き放すことはしないと約束
した。初音はそれを受け入れて、腹をくくってくれた。
和樹自身があの事件現場に行っていたことさえ隠し通すことがで
きたならば、何とかなる。
和樹は、ようやく先が見えてきたような気がした。
﹁まだ傷は痛む?﹂
﹁大丈夫。顔のあざも、お化粧でなんとか隠せたし﹂
﹁今度の日曜日、六甲山に行ける?﹂
﹁行きたいわ﹂
﹁じゃあ行こう﹂
和樹は電話を切ってから、机の引き出しに隠していた、新聞紙に
包まれた拳銃をバッグに入れてアパートを出た。
車で国道をしばらく西に走り、右に曲がって有馬街道を目指す。
更に有馬街道を北上して分かれ道で西に曲がり、金を掘り出した山
の近くまでやってきた。
284
しかしその山を貫く県道には曲がらず、更に直進していくと、集
落を抜けて再び谷間の道となる。その先には、ダムでせき止められ
た湖があった。
深夜、一台の車も通らない湖畔の道の傍らに車を停め、和樹は車
を降りた。
真夏の夜、街中とは異なる心地よいそよ風が吹き抜ける。
和樹はバッグの中から包みを取り出して、くるんでいた新聞紙を
剥ぎ取った。そして、半月の光に鈍く光る重い物体を片手に掴み、
ふうっと息を勢いよく吸い込んで止めると、振りかぶって湖の中に
投げ込んだ。
数秒後、静まり返った闇の中でポチャンという水のはじける音が
響いた。あれを使うことなんて永久にないだろう。
和樹は車をUターンして、街に向かった。だが真直ぐアパートに
は戻らず、途中で和樹が以前住んでいた住宅地に寄ってみた。
相変わらず、ゴーストタウンのように寂れた街のままだった。和
樹がかつて住んでいた家は取り壊され、更地になっていた。
それほど年月が経っているわけではないのに、ここで暮らしてい
たことが、遠い過去のように思えた。もう後には戻れない、しかし
この先に、わずかだが希望らしき光を感じることができた。
285
第39話
﹁本城君、高橋通商への投資、OKが出たよ﹂
三成銀行三宮支店の支店長が本城に告げた。
﹁ありがとうございました。早速高橋社長に連絡して、明日にでも
詳細を詰めたいと思います﹂
﹁よろしく頼むよ﹂
本城が高橋通商に電話すると、普段ならどちらかと言えば控えめ
な高橋社長が、いつよもよりハイテンションで喜んでくれたのに、
本城は驚いた。
それに、お礼に席を設けたいとの申し出があった。しかも妻の亜
由美もご一緒にとのことである。
﹁ひょっとして、社長の彼女もご一緒ですか?﹂
本城が冷やかし半分で尋ねると、
﹁ばれましたか、よろしいですか?﹂
﹁もちろんです。では妻と一緒に行かせてもらいます﹂
本城は快諾した。
本城が帰って亜由美にそのことを告げると、亜由美も嬉しそうだ
286
った。
﹁フィリピンに一緒に行った人でしょ?﹂
﹁そう。前に話した、ウナギの輸入を手掛けている青年実業家﹂
﹁フィリピンで、変な所に行ったりしなかったでしょうね﹂
﹁まさか、本店の佐伯部長とも一緒だったから、そんな所には行け
ないよ﹂
﹁一緒じゃなかったら行っていたの?﹂
﹁そんなことないよ、まったく﹂
﹁だったらいいけど﹂
﹁もう。でもね、ちょっとしたアクシデントがあったよ﹂
﹁何?﹂
﹁向こうの警察から事情聴取された﹂
﹁えっ、あなたが?﹂
﹁いや、高橋社長なんだけどね﹂
﹁どうして?﹂
﹁前にフィリピンに行った時、パスポートを盗まれたそうなんだ﹂
287
﹁へー﹂
﹁そのパスポートを盗んだやつが、何かの事件に巻き込まれて、拳
銃で殺されてしまったらしい﹂
﹁恐いわね﹂
﹁それで、迷惑なことに、高橋社長に話を聞きたいって、僕たちが
打ち合わせをしている時に警官がやってきて、僕もちょっと驚いた
けどね﹂
﹁フィリピンって治安悪いの?﹂
﹁悪い所もあるらしいけど、そういった所に行かなければ、全然大
丈夫だよ﹂
﹁気を付けてね﹂
﹁分かってるよ﹂
﹁でも日本でも、この間の和歌山の事件みたいに物騒な事件がある
わよね﹂
﹁やくざの抗争事件みたいだったね﹂
﹁そう言えば、中津支店の強盗犯のうちの一人も、暴力団関係者だ
ったわよね﹂
﹁そうだった﹂
288
﹁あの事件って、その後どうなったの?﹂
﹁分からない。でも、ちょっと変な噂を聞いてね﹂
﹁変な噂?﹂
﹁これは内部情報だから、絶対他人に言ったら駄目だよ﹂
亜由美は唾をゴクンと飲み込んだ。
﹁分かったわ。極秘情報ね﹂
亜由美の﹁探偵趣味﹂が刺激されたようだった。
﹁実はね﹂
﹁実は?﹂
﹁あの銀行強盗で強奪された金額は約二億円、正確には二億三百万
円ということになっているけど、本当は一億九千八百万円だったら
しい﹂
﹁本当は、五百万円少なかったってこと?﹂
﹁そう。結婚式にも来てくれていた、中津支店の小林から聞いた。
お義父さんの中山常務に確かめたところ、確かにそんな噂があって、
今調査しているっていうことだった﹂
﹁つまり、誰かが五百万円を、事件が起こる前に着服していたって
289
こと?﹂
﹁分からない。でもその可能性があるということで、内部調査を始
めているそうだ﹂
﹁それは大変ね﹂
﹁外に漏れたらうちの信用に関わるからね。絶対他人に言ったら駄
目だよ﹂
﹁分かったわ。これでも元銀行員だもん﹂
亜由美は神妙に頷いた。
和樹と初音は、念願の六甲山に登った。
阪急六甲駅で待ち合わせて、そこからタクシーで六甲ケーブルの
下駅まで行く。六甲山への登り方はいくらでもあるが、ケーブルカ
ーで登るのは、遠足に行くような気分がして、和樹は好きだった。
花柄のノースリーブのワンピースに麦藁帽という格好の初音も、
少女のようにはしゃいでいた。
ケーブルカーに乗って徐々に斜面を登って行くと、眼下に阪神間
の景色が広がっていく。初音はそれを見ながら小さな歓声を上げる。
隣に座っている和樹はそんな初音を眺めながら、つい何日か前にあ
んな修羅場があったのに無邪気に振る舞っている姿に、初音のたく
ましさといじらしさを感じた。しかし心の中には、きっと深い傷を
負っているのだろう。自分がそれを癒していかなくてはならない。
和樹は改めて思った。
290
山上駅に着いて、すぐ横にある展望台から景色を眺める。大阪湾
の向こうに紀伊半島もくっきりと見えた。
﹁ポートタワーからの眺めも素敵だったけど、やっぱりスケールが
違うわね﹂
﹁一応標高九百メートルはあるからね﹂
﹁結構高いのね﹂
﹁少し歩いてみよう﹂
二人は木立の中を歩き始めた。途中にいくつか別荘のような建物
が建っていて、表札を見ると、企業の保養所が多いようだった。
﹁こんなところで何日か、のんびりと過ごしたいよね﹂
﹁そうね、色々あったから﹂
﹁今度、どこかに旅行に行かないか?﹂
﹁えっ、でも、お仕事忙しいんじゃない?﹂
﹁すぐにとかは無理だけど、お正月とかだったら休めるだろう﹂
﹁そうね﹂
﹁でも宮崎に帰省しなくてもいいのか?﹂
291
﹁家出同然で出てきたから、帰れないわ﹂
﹁しかし、いずれは顔を見せなければね﹂
﹁どうして?﹂
﹁やっぱりね﹂
﹁まあね﹂
和樹は何か言いたそうだったが、初音にはそれが何か分からなか
った。でもそれ以上は聞かなかった。
二人は六甲山牧場で牧羊犬による羊の追い込みショーを見たり、
チーズ工場を見学したりした。日差しは強かったが、山上の空気は
気持ち良かった。
二人はそこでたっぷりと時間を過ごしてから、バスで六甲山ホテ
ルへと向かった。
﹁すてきなホテルね﹂
初音は、山小屋風の、近代化産業遺産にも指定されている落ち着
いた造りの旧館を見て感激したようだった。
﹁レストランは本館の最上階だけど、旧館も見学して行こうか﹂
﹁ええ﹂
二人は本館からつながる通路を通って、ひっそりとしたレトロな
292
雰囲気が色濃く漂う旧館に進むと、ロビーの一角にブライダルサロ
ンがあって、純白のウェディングドレスが飾られていた。初音はそ
れを見ようともせず、階段を上ろうとする。
﹁ちょっと待ってよ﹂
和樹が初音を呼び止める。
﹁何?﹂
﹁これって、初音に似合いそうだよね﹂
和樹がウェディングドレスのショーケースの前で立ち止まってい
る。
初音はびっくりして和樹を見つめる。
﹁バカ﹂
和樹は階段を駆け上り、踊り場で初音を抱きしめた。
﹁結婚しよう﹂
初音は、体の力がふっと抜けていくのを感じた。そして涙が一気
に溢れ出した。
﹁嘘﹂
﹁本気だ﹂
293
﹁私みたいな女でもいいの?﹂
﹁それより、僕みたいな男でもいい?﹂
初音は頷いた。
和樹は初音を強く抱きしめ、二人は唇を合わせた。
本館最上階のレストランで、食前酒として頼んだドライシェリー
を飲みながら、二人は言葉もなく、ただ眼下に広がるパノラマの風
景を眺めていた。
ウェイターがオードブルを持ってきて、ようやく和樹が口を開い
た。
﹁フィリンピンの事業に、三成銀行も投資してくれることが決まっ
た﹂
﹁すごいわね﹂
﹁うん、こんなに上手く進むとは思っていなかったよ﹂
﹁元々才能があったのよ。それを発揮するためのきっかけが、ちょ
っと変わっていただけ﹂
日が落ちて辺りが薄暗くなり、いわゆる一千万ドルの夜景が徐々
に広がり始めていた。
﹁それでね、今度そのお礼に、三成銀行の本城さんと彼の奥さんを
食事に誘おうって思っているんだ﹂
294
﹁本城さんって、あなたをお店に連れてきてくれた人?﹂
﹁そう、彼がキューピットと言うわけだからね﹂
﹁そうね﹂
﹁その席に、君を連れて行きたい﹂
﹁私を?﹂
﹁いいだろ﹂
﹁えっ、でも、私が行っても良いの?﹂
﹁ああ、君を紹介したいんだ。婚約者として﹂
初音ははにかむように、外の景色に目をやった。
﹁本当に私でも良いの?﹂
初音は再度尋ねた。
﹁フィリピンのホテルでも、マニラ湾に沈む夕日を見ながら、君の
ことを思い出していた﹂
﹁私も、いつもあなたのことが、頭から離れなかった﹂
﹁初めは恋愛ごっこだと思っていたんだけどね﹂
295
﹁恋愛ごっこ?﹂
﹁きみが言ったんじゃないか﹂
﹁私、そんなこと言ったかしら﹂
和樹は可笑しそうに笑った。
﹁でも、これからはずっと一緒にいようね﹂
初音も笑顔で頷いた。
すっかり日は暮れ、眼下には、眩いばかりの光の海が広がってい
た。
296
第40話
大阪府警・和歌山・兵庫県警の合同による捜査で、和歌山での事
件の当日、奈良市内から向かう不審な車が明らかとなり、実行犯は、
立川組系山城組傘下の、大阪市西区に事務所を構える沢松組の構成
員だと特定された。いわゆる﹁鉄砲玉﹂である。
すぐに大阪府警が三人の実行犯のうち二人の身柄を押さえ、残る
一人を指名手配した。
犯行に使われた拳銃も押収されたが、その中に三成銀行で使用さ
れた拳銃はなかったが、指名手配されたもう一人が、それを所持し
たまま逃走しているものと思われた。
沢松組はもとより山城組の事務所まで家宅捜査し、立川組ナンバ
ースリーの山城巌にも事情聴取を行ったが、その背景は不明のまま
だった。
しかし兵庫県警の内偵調査から、立川組先代の舎弟であり、現若
頭の相沢との繋がりも強い桜井に、山城組傘下の焼津が何かのへま
をやらかし、このままでは立川組総本部長である山城巌の立場に影
響が及ぶとの懸念から、相沢への生贄として焼津が消されたという
ことが推察された。
立川組における若頭相沢の勢力は、近年他の組を圧倒していて、
さすがの山城巌も、もはや逆らえないと考えていたようだった。
﹁やはりあの金が原因やったんやろうか﹂
297
﹁ええ、でも、それ以外にも、最近焼津が相沢組系のシマを荒らし
ていたという情報もあります﹂
﹁まあ焼津は、人身御供ということやな﹂
﹁そうですね﹂
﹁銀行強盗犯の山崎との線はどうなってます?﹂
﹁まだ直接の繋がりは明らかになっていませんが、焼津組の金庫か
ら一千万円を超える番号の一致する紙幣が見つかっていますから、
証拠としてはそれで十分かもしれません。残りの金は見つかってい
ませんが﹂
﹁すると、あの女が焼津から金を受け取って、桜井に回したという
ことですな﹂
﹁横沢初音は、他の闇金から借りて桜井金融に返済したと言ってい
ましたが﹂
﹁焼津は女に闇金からわざと金を貸させて、その返済にあの金を当
てて洗浄したんやないかな﹂
﹁もう一度、横沢初音から聞いてみますか﹂
﹁その必要がありそうやな﹂
二人は、新地のクラブ﹁雛﹂の前で、初音が出てくるのを待った。
﹁少しお時間をいただけませんか﹂
298
﹁刑事さん、まだ私に何か?﹂
初音は迷惑そうな表情を見せた。
﹁桜井金融に返済した金の件で、もう少し詳しくお話を伺いたいの
で﹂
﹁またあのお金のことですか﹂
三人は、以前の喫茶店に再び入った。
﹁横沢さん﹂
﹁はい﹂
﹁あなたは、焼津から借りた一千五百万円の借金を、桜井金融から
借りて返済しましたね﹂
﹁ええ﹂
﹁その借金を、別の闇金から借りて返済したって言っていましたよ
ね﹂
﹁前に言った通りです﹂
﹁本当ですか?﹂
初音はビクッとした。
299
﹁本当って?﹂
﹁桜井金融に返済した金って、本当は焼津から渡されたんじゃない
んですか﹂
﹁どういうことですか?﹂
﹁あなたが桜井金融に渡した金の中に、ある事件で手配されていた
一万円札が混ざっていたと考えられるんですよ﹂
﹁銀行強盗や、大阪の中津の銀行から奪われた金や﹂
初音は驚いたように二人の顔を見つめた。
﹁その銀行強盗と私に何か関係があるとか?﹂
﹁いや、そうは思っとりまへん﹂
﹁じゃあどうして?﹂
﹁つまり、焼津が関係しているんやないかと考えておるんですよ。
あんたを利用して、金を洗浄したのやないかと﹂
初音は落ち着きを取り戻し、話し始めた。
﹁闇金から借りて桜井金融に返済したのは確かです。でも、闇金か
ら借りた金を一度焼津に渡して、焼津から桜井金融に返してもらい
ました﹂
﹁どうして、そんな回りくどいことをしたんだね?﹂
300
﹁自分が交渉して、利子を安くしてやるって言われたからです﹂
﹁で、他の闇金から借りた借金は、どうやって返したんや﹂
﹁焼津から借りました﹂
﹁ということは、焼津に結局金を借りたままだったということやん
か﹂
﹁いえ、本当は借りたくなかったんですが、闇金からの取りたてが
厳しくて、闇金から借りて焼津に返済しても、結局また焼津から借
りてしまうという繰り返しでした。このまま一生焼津にお金を返せ
ないのかと、半分あきらめていました。焼津も、それが目的だった
のかと思います。でも知り合いがお金を貸してくれたので、ようや
く全部返せたんです﹂
﹁知り合いって、誰から借りたの?﹂
﹁それはちょっと﹂
﹁まあええわ、よう分かった。変な奴から金なんか借りんなよ﹂
﹁ええ、もうコリゴリです﹂
その後の捜査で、初音が借りたという桜井金融以外の闇金の金庫
からも問題の一万円札が見つかり、横沢初音の証言の裏が取れた。
﹁結局焼津が根っこか。被疑者死亡のままで送検やな﹂
301
﹁まあ、その線でしょうかね﹂
木戸と岸本は、あの金の事件は、そろそろ終わりだと感じていた。
芦屋の閑静な住宅街にある老舗料亭の一室で、和樹と初音は本城
夫妻が来るのを待っていた。
﹁私で大丈夫かな?﹂
﹁心配ないよ﹂
﹁だって三成銀行の重役の娘さんでしょ。私なんか、話を合わせら
れるかしら﹂
﹁なんでも推理小説好きみたいだけど﹂
﹁私、本なんか、あまり読まないし﹂
﹁いや、君が刑事に話した作り話、即興だったのに見事だったよ。
それにお店で色々なお客さんとの会話で鍛えられているだろうし﹂
﹁あれは営業﹂
﹁ははは、大丈夫、大丈夫﹂
和樹は実際、初音の頭の良さに感心した。刑事に話した初音の話
で、完全に辻褄が合う。焼津が死んでしまった以上、それ以上の追
及は不可能だ。
﹁おまちどうさま﹂
302
ふすまが開き、本城夫妻が部屋に入ってきた。
﹁この度は妻共々お呼びいただき、ありがとうございます﹂
﹁いつも主人がお世話になっています﹂
﹁いえいえ、こちらこそ﹂
﹁初めまして、横沢初音と申します﹂
初音も畳に手を付いて、丁寧にお辞儀した。
顔を上げた本城が、﹁あれ﹂という顔をして、和樹を見つめた。
﹁本城さんは初めてではないですよね﹂
和樹の方から話題を向けた。
﹁なんだ、そういうことだったんですか。高橋さんも隅に置けない﹂
亜由美が、何のことかと不思議そうに皆を見渡す。
﹁本城さんに連れて行ってもらった大阪のお店で出会ったんです。
ですから本城さんがキューピットということで﹂
和樹が亜由美に説明する。
﹁そうなんですか﹂
303
亜由美は初音を見た。初音が笑顔で返す。
場は急に和み、ビールで乾杯してから、運ばれてきた上品な先付
に箸をつけた。
﹁宮崎出身なのに、ジャイアンツじゃなくタイガースファンだって
言ってた人さ。前に話したよね、亜由美﹂
﹁そう言えばそういう話をしていたわね。お父さんもよく通ってい
るお店でしょ﹂
﹁タイガースファンっていうのは、お客様にお話を合わせただけで、
実はあまり野球のことは知らないんです﹂
亜由美は本城の横っ腹をつついて笑う。
﹁男性なんて、そんなもんよね。すぐにいい気になっちゃうんだか
ら﹂
すっかりと打ち解けて、楽しく食事会は進んだ。
和樹と本城は、養殖場施設の将来性についての話で盛り上がって
いた。初音と亜由美は、食べ物やファッションの話題で話が弾んで
いるようだった。
﹁ところで高橋さん、ご結婚のご予定はいつですか?﹂
﹁ええ、まだ具体的な日取りは決めていないんですが、ミンダナオ
の施設が着工してからと思っています﹂
304
﹁そうですね、それまではなかなか忙しいですからね﹂
﹁その時にはお呼びいたしますので、是非奥様とご一緒にお越しく
ださい﹂
﹁楽しみにしていますわ﹂
そろそろお開きにということになり、和樹と初音は二人を外まで
見送りに出た。
再び部屋に戻った二人は、燗酒をもう一合注文した。
﹁お疲れ様。でも本城さんたちも楽しんでくれたようだね﹂
﹁疲れたわ。緊張しちゃって﹂
初音はぐったりとした様子で足を投げ出した。
﹁そうかな。すごく自然だったけど﹂
﹁あなたの顔を潰しちゃいけないと、もう必死だったんだから﹂
﹁ありがとう、初音﹂
二人はお猪口を合わせて、小さく乾杯した。
﹁このまま、何もなく上手く行くのかしら﹂
﹁上手く行くよ﹂
305
﹁でも、クスリの件が残っている﹂
初音は悲しそうな表情を見せた。
﹁もしあなたに迷惑がかかるようだったら、そうなる前に私を捨て
てね。私は全然かまわないから﹂
和樹は驚いて初音を見つめた。
﹁まさか、そんなことするわけない無いじゃないか。それを信じて
もらうために、今日初音を本城さんに会わせた﹂
﹁そうだったの﹂
初音の目が潤んだ。
﹁私、泣き虫になっちゃったみたい﹂
初音は和樹にもたれかかって、小さな声を上げて泣いた。
﹁僕はあの金を、使ってしまった分を元に戻して、埋め戻すつもり
だ。そんなことで許されるとは思わないが、君とずっと一緒にいる
ために、それだけはしておこうと思っている。もし君が何らかの罪
を償わなければならなくなっても、僕は君とは離れない﹂
初音は、肩を震わせて嗚咽した。
ミンダナオ島のウナギ養殖施設の建設のため、和樹は頻繁にフィ
リピンに渡った。会社の業績は順調に伸びて行った。そして和樹は
中小の飲食店との取引では現金取引を行い、せっせと一万円札を貯
306
めていった。
初音は結婚するまではお店を続けると、相変わらず尼崎の古いア
パートから店まで通った。
夏も過ぎ秋の気配が漂い始めるころ、和樹はようやく今までに使
ってしまった金額を一万円札で作ることが出来た。
日曜日の昼下がり、和樹は初音と元町で昼食をとりながら話を切
り出した。
﹁ようやく使った分の一万円札が貯まった。この金を埋め戻してく
るよ﹂
﹁私も一緒に行ってもいい?﹂
﹁駄目だ。人目についてもまずいから、僕一人で片付けてくる﹂
﹁分かったわ。気を付けてね﹂
和樹は初音と別れてからすぐに、車で兵庫県と岡山県の県境にあ
る山を目指した。金を移し替えて隠した場所である。
姫路あたりで時間を潰し、日が落ちてから山道に入った。相変わ
らず車の殆ど通らない道である。
ダムへつながる脇道に入り込んだ頃には夜の十時を回っていて、
新月のその夜は、辺りは闇に包まれていた。しかし目的の場所はす
ぐに見つかり、用意してきたスコップで掘り返すと、簡単にバッグ
を掘り出すことができた。
307
掘り出した四つのバッグのうち二つは、まだ手つかずの一万円札
が詰め込まれていて、ずっしりと重かった。和樹はそれらのバッグ
の土を払ってから、車のトランクに積み込む。和樹は金をそこに埋
めるのではなく、元有った場所に埋め戻すつもりだった。
一年前にこの金を見つけてから、自分の人生は急激に変化した。
それまでは何年も同じような日々を繰り返し、人生なんてそんなに
簡単に変わるものじゃないと思っていたのに、ちょっとしたきっか
けで大きく変わることがあるのだと、和樹は初めて知った。
バッグをアパートに運び入れ、中身を点検する。
二つのバッグには、黒いビニール袋に入れられた一万円札が、ぎ
っしりと詰まっていた。空の二つのバッグには、新しい黒のビニー
ル袋に入れた一万円札を詰めていく。しめて一億七千万円、掘り出
した時の金額である。
今では何億もの金を動かすことが出来るようになった和樹だが、
やはりこれだけの現金を目の当たりにすると、恐ろしく感じた。
二日後の夜、和樹はバッグを車に載せて有馬街道を北上し、金を
掘り出した山を目指した。
相変わらず夜になると車も殆ど通らない県道から林道に入り込み、
その突き当りまで進む。
ヘッドライトを消すと、真っ暗な闇に支配される。しばらく窓を
開けて、車の中から周囲の様子を観察する。早く作業を始めたかっ
たが、誰もいないことを慎重に見極めるつもりだった。
308
﹁よし﹂
和樹は車を降りて懐中電灯を点け、トランクからスコップとバッ
グ一つを取り出して林の中に分け入る。
サクサクという土を掘り起こす音がやけに響く。金を掘り出した
時と同じだ。
ようやく必要な深さの穴を掘りあげ、バッグを底に置く。
車に引き返して、二つのバッグを抱えて再び林の中に入り、穴の
中に静かに下ろす。あと一個だ。
その時突然、林の奥でガサガサという音が鳴った。
和樹は懐中電灯を消して息を潜める。
その音は段々と近づいてくる。和樹の額から汗が噴き出る。
小さな光る物体が、茂みの中にじっとして動かない。和樹は思い
切って懐中電灯をつけ、茂みを照らし出した。
﹁ニャオ﹂
うずくまっていた猫が次の瞬間に茂みの中に飛び込み、和樹は一
瞬全身から力が抜けた。
和樹は最後のバッグも無事運び入れ、上から土をかぶせ、念入り
にスコップで叩き、足で踏んで固めた。そして小枝や草を拾い集め、
309
その上を覆った。
これを見つける人間が再び現れるかどうか、和樹には想像がつか
なかった。
もし見つけたら、自分と同じことを考えるのだろうか。
和樹はそれも見当がつかなかった。
車をUターンさせて県道に出る。そのまま真直ぐには帰らず、拳
銃を投げ入れたダム湖に寄った。
﹁これでもう完全に終わった﹂
和樹は真っ暗な湖面を眺めた後、﹁すべて終わった﹂と初音にメ
ールを送った。
310
第41話
ミンダナオ島の施設の着工も決まり、翌年の二月から養殖を始め
る見通しが立ち、和樹は、初音との結婚を翌年の三月にしようと提
案した。初音もそれに同意した。和樹が東京の姉夫婦に報告すると、
驚いていたが、喜んでくれた。
和樹は、初音の両親に挨拶に行きたいと言うと、初音は最初拒ん
だが、和樹が強く言い張ると渋々同意し、お正月に宮崎に行くこと
に決めた。
初音は年内で新地のクラブ﹁雛﹂を辞めることにし、ママにその
ことを告げると、喜んでくれた。
二人は、すべてが順調に進んでいるように感じていた。
十二月も半ばを過ぎ、初音の勤めるクラブも、忘年会の二次会で
連日忙しかった。
﹁おつかれさま﹂
普段より店を閉めるのが一時間も遅くなり、ようやく店を出た初
音を、見知らぬ男が待ち伏せていた。初音は不意をつかれ、動揺し
た。
﹁横沢初音さんですね﹂
﹁はっ、はい、でもあなたは?﹂
311
﹁私は警視庁捜査三課の山下といいます﹂
男は警察手帳を提示した。
﹁警察?あの事件に関しては、大阪府警か兵庫県警かの刑事さんに、
全部話しましたわ。もう話すことなんてありません﹂
初音は不機嫌そうに言った。
﹁ええ、しかし、ある人物のことで少しお話を聞きたいのですが﹂
﹁焼津ですか?﹂
﹁いえ、別の人物です﹂
﹁誰ですか﹂
﹁署までご同行お願いします﹂
﹁署まで?﹂
初音は、前に刑事に話を聞きたいと言われた時には向かいの喫茶
店だったのに、﹁署まで﹂という言葉に驚いた。
﹁署まで?﹂
初音はもう一度聞き返した。
﹁はい、あなたを、ある横領事件の重要参考人として、署までご同
行お願いします﹂
312
﹁重要参考人?﹂
見ると、道の向こうに制服警官が二人たたずんでいた。これまで
の状況とは全く違う。初音は恐怖を感じた。
﹁行かなければいけないんですか?﹂
﹁あくまでも任意です﹂
﹁じゃあ、行かなくても良いんですね﹂
﹁その場合は、逮捕状を請求します﹂
﹁逮捕状?﹂
初音は驚いた。今までは参考人という立場で、あくまでも事情を
聞かれていただけだった。いきなり﹁逮捕状﹂と言われ、初音は戸
惑った。
﹁何の容疑ですか?﹂
﹁とにかく、署までご同行お願いします﹂
初音はその言葉に従わざるをえなかった。
初音はパトカーの後部座席に乗せられ、大阪府警本部へと向かっ
た。
﹁すみませんね、こんな時間から﹂
313
言葉遣いは丁寧だが、威嚇するような響きを初音は感じた。
﹁誰のことを聞きたいのですか?﹂
初音は不安で、声が震えた。
﹁この男です﹂
山下は一枚の写真を見せた。それは帽子を被り眼鏡をかけている
が、すぐに和樹だと分かった。
﹁ご存知ですね﹂
初音は言葉に詰まった。
﹁高橋和樹、現在高橋通商の社長です。あなたとのお付き合いがあ
りますよね﹂
初音は頷くしかなかった。
﹁高橋和樹とは、いつからのお知り合いですか?﹂
﹁彼がどうかしたんですか?﹂
﹁質問に答えるだけで結構です。彼とはいつ知り合ったのですか﹂
初音は山下の威圧的な質問に、どう答えるべきかと必死に頭を働
かせようとした。
314
﹁去年の十月頃だと思います﹂
﹁去年の十月ですね。それからずっと高橋和樹とお付き合いしてい
たというわけですか?﹂
﹁いえ、でも彼がどうしたんですか?﹂
山下は初音の質問を無視しながら尋問を続ける。
﹁あなたは、高橋和樹から、金を借りましたよね﹂
前の刑事への返答では、焼津に何回も借金して、最後に知人から
借りたお金で清算したことにしていた。
﹁はい、高橋さんからお金は借りています。でもそれが何か?﹂
﹁あなたは、桜井金融に返済した金は、闇金から借りたと言ってい
ましたよね﹂
﹁ええ﹂
﹁確かに、あなたが複数の闇金で借りたことは確認できました﹂
﹁それでまだ何か?﹂
﹁闇金で借りた金を、そのまま桜井金融の返済に充てたのですね﹂
﹁ええ、焼津から返してもらいました﹂
﹁嘘だ﹂
315
山下は突然声のトーンを換え、初音はビクッと固まった。
﹁あなたは、自分自身で桜井金融に返済している。これは桜井金融
の事務員から証言を取っています。あなたは、闇金から借りた金を
高橋和樹に渡し、高橋和樹から渡された金を桜井金融に持ち込んだ
のですよね﹂
﹁何を証拠に、そんなことを断言するんですか。そもそも彼が何を
したって言うんですか﹂
初音は力を振り絞って反論した。
﹁高橋和樹は、三成銀行中津支店の銀行強盗犯、山崎忠志が隠した
金を横領した容疑がかけられています。そしてあなたは、場合によ
っては、その共犯の疑いがかけられているんですよ﹂
初音はうつむいた。
﹁あなたが正直に話してくれれば、あなたは彼に上手く利用されて
いたに過ぎないと、我々は判断します。しかしあなたが彼をかばう
ようであれば、我々はあなたも共犯者として逮捕・送検するつもり
です﹂
警察はどこまで知っているのだろうか。初音は必死に考えた。
﹁どんな証拠があるんですか﹂
﹁この写真は、去年十一月、金沢の商店街の防犯カメラで撮られた
ものです。そしてこれは﹂
316
山下は更に二枚の写真を初音の前に置いた。
﹁これは仙台・広島の商店街の防犯カメラの映像から焼き付けたも
のです。同一人物であることが、画僧解析から明らかになっていま
す﹂
初音は三枚の写真を見比べ、確かにすべて和樹だと思った。
﹁そして、この映像が撮影された日に、銀行から強奪された一万円
札が、近くの商店で使用されていることが確認されています﹂
﹁どうしてそんなことが分かるんですか?﹂
﹁一万円札に印刷された記番号というお札の登録番号から、どこで
使われたかが分かるんです。つまり、銀行強盗で強奪された金を使
用したのは、高橋和樹だということです﹂
﹁でも偶然そこに居合わしただけじゃないんですか﹂
﹁金沢・仙台・広島、この遠く離れた三つの街で、問題の一万円札
が使われた同じ日に偶然居合わせるなんていう確率は、あり得ませ
ん。高橋が使ったんです﹂
初音は山下の顔を見た。すべてを見透かされていると初音は感じ
た。
しかし、初音は頭をフル回転して状況を分析しようとした。
和樹を逮捕せず私から証言を引き出そうとしているのは、確かに
317
状況証拠はあるが、和樹を逮捕するだけの直接の証拠が掴めていな
いからではないか。ならば、自分させ話さなければ、和樹は逃れる
ことが出来るのではないだろうか。
﹁知りません﹂
初音は、知らないということを貫き通そうとした。
﹁あくまでも否認するおつもりですね﹂
山下はコホンと咳払いをした。
﹁あなたは、彼から何か脅されているのではないのですか。例えば
焼津から渡された怪しげな媚薬の件で﹂
﹁媚薬?﹂
﹁あなたが福原の風俗店に勤めていた時に、従業員の女性や客に売
りつけていたものです﹂
初音は、ついにあの件で追及されるのかと、動揺した。
﹁確かに、焼津から渡されたものを売っていました。でもその中身
が何かなんて知りませんでした﹂
しかし初音は、あくまでもしらを切ろうとした。
﹁そうですか。ところで、あなたは焼津が殺された現場行ったこと
がありますよね。あの家からあなたの指紋が検出されましたよ﹂
318
クスリの件は覚悟していたし、もはや隠しおおせるものではない。
それで逮捕されるならば仕方がない。しかしそれならば、すべてを
クスリのせいにして、和樹とは何の関係もないと言い張ろう。
﹁焼津にクスリの件で脅されて、あの家に連れていかれたことがあ
ります。でも誰にもしゃべらないことを約束したら、帰してもらい
ました。変なことに巻き込まれたくなかったので、今まで言いませ
んでしたけど﹂
ところが山下の口から、思わぬ事実を聞かされた。
﹁いや、あの薬は確かに脱法ハーブの成分が含まれていましたが、
現在の法規制では、あなたを罪に問うものではありません﹂
﹁えっ﹂
初音は驚いた。
﹁それに、焼津が殺されたのは立川組の内部抗争だと判明していて、
あなたがたとえ現場に居合わしたとしても、何ら関係ありません。
ですから、その件で高橋から脅迫されていたならば、それは気にす
ることはないということです。だから正直に話してもらいたい。正
直に話してもらえば、あなたは何の罪にも問われない﹂
山下はすぐに話を付け加えた。
﹁しかし、彼をかばうようなことがあれば、あなたは横領の共犯と
いう犯罪者になってしまいますよ﹂
319
初音は、予想外の展開に混乱した。
﹁あなたは犯罪者になりたいんですか。正直に話してください﹂
山下はなおも畳み掛ける。
正直に話せば解放される。初音は一瞬その考えが頭をよぎった。
﹁さあ、話してください、本当のことを﹂
﹁えっ、ええ⋮⋮﹂
320
第42話
﹁高橋和樹の逮捕状を請求しましょう﹂
兵庫県警の木戸が主張した。
﹁確かに限りなくクロやな﹂
大阪府警の岸本も同調した。
﹁しかし﹂
警視庁の山下はまだ踏ん切りがつかないでいた。
公開捜査ではなかったので、金沢・広島・仙台の防犯カメラの映
像に写った人物を特定するのは困難を極めた。金が隠されたと推測
された有馬街道沿いに走る神戸電鉄の各駅に配置した兵庫県警の捜
査員も、何の成果も上げることは出来なかった。
しかし、初音への事情聴取でほぼ焼津が横領したと断言しかけた
木戸が、その裏付け捜査のため初音の身辺調査を行ったところ、一
人の男性の存在が浮かび上がった。
その男が、初音の借金を肩代わりした人物であることはすぐに推
測された。そして驚いたことに、その人物が防犯カメラに写った人
物と極めて似ていたのだった。
早速その男を隠し撮りして画像を科捜研に送って解析してみたと
ころ、防犯カメラに写された人物と同一との結果が出た。
321
﹁問題の一万円札の周辺に必ずやつが絡んでいます。もうこれは、
やつしかいません﹂
木戸は主張した。
しかし状況は十分過ぎるほど整ってはいるが、公判に持ち込むに
は物証がまだ不足している。
合同捜査会議での検討の結果、金の洗浄に利用されたと考えられ
る横沢初音から証言を引き出すことに方針が決まった。
問題の金を高橋和樹から渡されたという証言さえ得られれば、決
定的な証拠となる。そのために初音を重要参考人として取り調べを
行ったのだった。
﹁横沢初音は、高橋和樹から金を受け取ったことは認めました。し
かし、焼津から借金を繰り返したとの主張は変えませんでした﹂
山下は初音への事情調書の結果を報告した。
﹁焼津が死んでしもうたから、その真偽を立証することは無理やな﹂
﹁ええ、我々が予想した以上に、あの女は狡猾です。闇金から借り
た金を、高橋和樹から渡された金とすり替えて返済に使ったという
ことは、最後まで認めませんでした﹂
山下は、苦々しく言った。
﹁まあ、金に色なんてついていませんからな。財布の中に入ってい
322
るどの金を使うかなんか、普通考えまへんわ。でもこれで、やっこ
さんが慌てて残りの金を処分しようと動いてくれれば、問題は解決
や。高橋を揺さぶることは出来たんやないか﹂
岸本は、気落ちしている山下に言った。
初音は深夜まで行われた事情聴取から解放されると、和樹に電話
を入れた。
﹁警察に呼ばれたわ﹂
﹁例の件で?﹂
﹁あなたのことを聞かれたわ﹂
﹁そうか﹂
和樹はついにやって来たかと思ったが、初音が自分に電話できる
ぐらいだから、まだ大丈夫だと考えた。
﹁それで﹂
﹁電話では話せないから、会いたいわ﹂
﹁分かった﹂
﹁でも気を付けてね。多分警察があなたを見張っていると思うから﹂
﹁じゃあ、六甲山カンツリーハウスで会おう。ペアリフトがあるか
ら、それに乗って話をしよう﹂
323
和樹は車で六甲山頂へと向かった。
初音が言っていたように、背後には、尾行らしき車が二台ついて
いる。しかし和樹は無理に尾行をまこうとはせず、表六甲ドライブ
ウェイを、制限速度を守りながら登った。
和樹と初音は六甲山カンツリーハウスで落ち合い、二人でリフト
に乗り込むと、初音はようやく少し元気を取り戻したようだった。
﹁どんな話を聞かれた?﹂
まわりの風景を楽しむような振りをしながら、和樹は初音に尋ね
た。
﹁金沢・広島・仙台の商店街の防犯カメラに写ったあなたの写真を
見せられたわ。変な帽子と眼鏡をかけていて、おかしかったわ﹂
初音は笑った。
話の内容は深刻なのに初音は余裕があるようで、和樹も緊張を少
しほぐして笑った。
﹁そうか、警察はそこまで掴んでいたのか﹂
﹁警察はあなたの行動を、かなりの所まで掴んでいるわ。でも決定
的な証拠がないみたいだから、あくまでも推測の域は出ていないと
思う﹂
﹁それで、何を話した?﹂
324
﹁前の話を繰り返しただけ﹂
﹁そうか、ありがとう﹂
﹁それから、聞いて﹂
﹁何だい﹂
﹁あのクスリの件、問題なかったわ﹂
﹁どういうこと?﹂
﹁あのクスリ、麻薬とかではなかったらしい。脱法ハーブの成分が
含まれていたらしいけど、罪にはならないって﹂
初音は嬉しそうに言った。
﹁そうだったのか﹂
和樹も喜んだが、それならば余計に、初音を自分の犯罪に巻き込
むわけにはいかない。
﹁もし辛かったら、警察に本当のことを言ってもいいよ﹂
和樹はさりげなさを装って初音に言った。
﹁まさか、そんなことしないわ﹂
初音は、和樹の左手を強く握った。
325
﹁本当に、それでいいのか?﹂
﹁もちろんよ﹂
﹁ありがとう。それならば、今まで通り普通の生活を続けて行こう。
そうすればまず大丈夫なはずだ﹂
﹁そうね。もうあのお金は手元にないし﹂
﹁でも、結婚はもう少し先に延ばそう﹂
﹁仕方ないわね﹂
﹁すまない﹂
初音は少し寂しそうな表情をした。
和樹と初音は、毎日電話で言葉は交わしたが、しばらく会わない
でそれぞれの日常を送った。
初音は、和樹の仕事の都合で結婚の予定が遅れるからと、年が明
けてからも新地のクラブを続けた。和樹は、ミンダナオ島の工事の
進捗状況を視察するため、何回かフィリピンに渡った。
和樹はいつも監視されていることに気付いていたが、普段通りに
振る舞った。後二年持ちこたえられれば逃げ切れる。
﹃刑法二五四条
遺失物、漂流物その他占有を離れた他人の物を横領した者は、一年
326
以下の懲役又は十万円以下の罰金若しくは科料に処する﹄
和樹は自分の犯した犯罪がこれに相当すると考えていた。
もちろん法律の専門家ではないし、また弁護士に相談するわけに
もいかないから本当のところは分からない。しかしもしこれに相当
するならば、公訴時効は三年である。もう一年以上経過しているか
ら、後二年持ちこたえれば、逃げ切れる可能性がある。
初音との結婚はその後にしなければならないと和樹は考え、初音
にも伝えた。
初音はそれを了解し、それまでは我慢すると言った。
なかなか尻尾を出さない二人に、警察は焦りの色が出始めていた。
﹁重要参考人として引っ張って尋問すれば、ボロが出るんやないか﹂
岸本は強行突破を主張した。
﹁しかし高橋が否認または黙秘した場合、我々は決め手となる証拠
を示せません﹂
山下はあくまでも慎重だ。
﹁確かに、高橋は問題の金は既に処分しているだろうから、やつの
身近から出てくる可能性はないでしょう。ただし、残りの金が発見
できれば、横領の事実だけは実証できます﹂
木戸が指摘する。
327
﹁確かに金が無くなっているわけやからな。誰かが盗ったというこ
とだけは確かや﹂
﹁しかし一端掘り出したとすれば、同じ所には隠していないでしょ
う。高橋に監視を付けてから、金を隠した場所に近づいた形跡はあ
りません﹂
﹁やっかいやな﹂
操作は手詰まりとなった感があった。しかし数日後、思わぬとこ
ろから決定的とも言える証拠が発見されたのだった。
﹁インターポール経由の情報ですが、マニラの殺人事件で逮捕され
た人物が、該当する一万円札を多数所持しているとのことです﹂
山下が報告する。
﹁殺人事件?﹂
﹁ええ、マニラでギャング団の仲間割れか、五人が射殺される事件
がありました。そのうちの一人が、高橋和樹のパスポートを所持し
ていました﹂
﹁パスポートを?﹂
﹁確かに、高橋和樹はパスポートを盗まれたと大使館に届け出てい
て、再発行を受けています﹂
﹁パスポート以外に現金も盗られたということやね﹂
328
﹁恐らく。ただナカノというマニラ市警の警察官が高橋から事情聴
取した際、現金の被害は少額のペソだったと言っていたと報告して
います﹂
﹁金を盗られたとは言えませんからね﹂
木戸も頷いた。
﹁これで落とせます。重要参考人として連行して、証言を引き出し
た段階で逮捕に切り替えましょう﹂
山下は言い切った。
﹁高橋は今どこや﹂
﹁マニラです。二日後の便で関空に到着予定です﹂
﹁よし勝負や﹂
三人は久々に威勢を取り戻した。
329
第43話
林道に、小型の重機を積んだトラックが二台入って行った。この
辺りは市の自然公園に指定されていて、数年前から新しい遊歩道の
建設が決まっていて、いよいよ着工となったのだ。
既に測量は終わっていて、林道の突き当りから小型ブルドーザー
が、低い木をなぎ倒しながら林を切り開く。その後をショベルカー
が、地面を掘り返して平坦にならしていく。
昼休みの休憩が終わった後、ショベルカーのオペレーターが作業
を再開してすぐ、シャベルの先に何かが当たるのを感じた。
﹁地面の様子、ちょっと調べてみてくれへんか。岩とかがあるかも
しれへんから﹂
﹁OK﹂
作業員がスコップでそのあたりを少し掘ると、何か固いものにぶ
つかった。
﹁なんか埋まってるな﹂
﹁なんや﹂
﹁ちょっと待ってや﹂
作業員が現場監督を呼んできて、掘り起こした。
330
﹁なんやこれ﹂
黒いキャリーバッグが四つ掘り出された。
﹁不法投棄か﹂
﹁いや、なんか入っているようや﹂
﹁開けてみよか﹂
﹁死体でも入ってるんやないやろうな﹂
皆は一瞬ギクッとした。
﹁まさか﹂
一人の作業員がバッグを開けると、黒いビニール袋の塊が現れた。
中身を触ってみると、感触は文庫本が何かのようだった。
﹁開けてみよか﹂
現場監督が無造作にビニール袋を破ると、何かの塊が地面に散ら
ばり落ちた。
﹁えー﹂
皆はその場で固まった。
﹁どないしよう﹂
331
﹁そりゃ、あれや﹂
﹁警察に知らせんと﹂
﹁もし五人で山分けしたら﹂
﹁あほ、すぐばれてお縄や﹂
﹁届け出て、もし持ち主が見つからんかったら﹂
﹁そりゃ五人で山分けや﹂
﹁持ち主が見つかっても、謝礼もらえるかもしれへんな﹂
これが普通の反応だろう。でも発見したのが一人だったら、五人
はそれぞれ一瞬それを想像して、ブルッと震えた。
関西空港の国際線ゲートを出ると、和樹は三人の男に囲まれた。
﹁高橋和樹さんですね﹂
﹁はい、そうですが﹂
和樹はいきなりで驚いたが、落ち着いて対応することが出来た。
﹁私は兵庫県警の木戸といいます。三成銀行中津支店から強奪され
た金の横領事件の重要参考人として、署までご同行お願いします﹂
﹁横沢初音に聞いていた事件ですね﹂
332
﹁横沢さんからお聞きと思いますが、あなたから直接話をお聞きし
たい﹂
﹁分かりました﹂
和樹はパトカーに乗せられ、湾岸高速を通って神戸に向かった。
パトカーの中では、全員一言も口を開かなかった。
生田警察署の取調室に入ると、警視庁の山下という刑事も同席す
ることになった。和樹は初音から、その名前を聞いていた。
﹁あなたは、三成銀行中津支店から強奪された金を横領して、使い
ましたね?﹂
木戸が最初から核心について尋問を始める。山下は壁際の机に向
かってそれを記録している。
﹁どうして僕がそんな金を持っているんですか﹂
和樹は反論する。
﹁強盗犯の山崎が隠した金を偶然発見したのですよね﹂
﹁そんな馬鹿な。どこで見つけたっていうんですか﹂
﹁恐らく、君が以前住んでいた北区のどこかだ﹂
﹁どこかって、それでは話になりませんよ﹂
和樹は苦笑した。
333
﹁しかし、銀行から強奪されたものと同一の記番号の一万円札が市
中に出回っている。誰かが使用したのは確かです﹂
﹁だったら、強盗犯が使ったんじゃないのですか﹂
﹁確かに一部は強盗犯の山崎が使用したのでしょう。ですが、別の
立てこもり事件で山崎が死亡した後も、その金が、しかも山崎が行
ったはずのない場所で見つかっている。山崎以外の誰かが使用した
のは間違いありません﹂
﹁それが僕だという証拠は?﹂
﹁あなたは三月に、金沢・広島・仙台に行きましたね﹂
和樹は、初音が見たという防犯カメラの映像の話だと気付いた。
﹁ええ、行きましたけど、それが何か?﹂
﹁何の目的で行ったのですか﹂
﹁旅行です。すぐ後に今の会社を設立しましたが、その前にのんび
りしようと思いまして﹂
﹁あなたがそれらの街にいた丁度その日時に、問題の金がその近辺
で使われているんですよ。そんな偶然が重なると思いますか﹂
﹁だってお金なんて人から人へと流通するわけですから、もし仮に
僕が使っていたとしても、どこからか偶然手にしたのかもしれませ
んし、第一、一万円札を使う時に、一々番号なんか見ていませんよ﹂
334
﹁高橋さん、一万円札を偶然手にすることが実際にありましたか?
一万円札は釣銭では使いませんよね。一万円札を手にするには、銀
行で引き出すか、給料を現金でもらうか、どこかで金を借りるかぐ
らいの場面でしかありませんよ﹂
﹁競馬やパチンコの景品交換所とかだってあるでしょう﹂
﹁しかしその金は、どこかの銀行から引き出された金のはずですよ
ね。奪われた一万円札は、どこの銀行からも引き出された形跡がな
いのですよ。つまり、直接市中に流通したのです﹂
﹁でも、それが僕だという物証があるのですか。その一万円札を僕
が多量に持っているとかならいざ知らず﹂
和樹の話は、確かに筋が通っている。
木戸が山下とヒソヒソ話をしてから、山下が代わって質問を始め
た。
﹁今の会社の資本金は、どうやって調達したんですか。あなたはそ
れまで、アルバイトなどで生計をたてていたようですが﹂
﹁両親が遺してくれたい家を売りました。千五百万円ばかりで売れ
ました。税務署にも申告していますよ﹂
﹁家が売れる前に、あなたは複数の銀行に口座を開設していますね﹂
﹁えっ﹂
335
和樹は少し動揺した。
﹁そこに三百万くらいを分けて預金していますが、その金は、どこ
から手に入れたのですか。そのころあなたは、無職だったようです
が﹂
和樹は返答に詰まった。
﹁しかも、預け入れたのがすべて一万円札以外だったことが、AT
Мの入金記録に残っています。不自然ですよね﹂
和樹は押し黙ったままだった。
﹁あなたはフィリピンに何度か行っていますよね﹂
山下は突然話を変えた。
﹁ええ、ウナギの輸入でフィリピンには頻繁に行っています﹂
和樹はようやく答えを返した。
﹁そこでパスポートの盗難に合いましたよね﹂
﹁ええ﹂
﹁その時、パスポート以外に取られたものはありませんでしたか﹂
﹁現金をいくらかは﹂
﹁金額は﹂
336
﹁二万ペソぐらいだったはずですが﹂
﹁それは嘘ですね﹂
﹁え?﹂
﹁あなたは、結構な金額を盗まれています。しかも円で﹂
﹁なんで、そんなことが分かるんですか﹂
和樹の動揺は更に大きくなった。
﹁フィリピンで、あなたのパスポートを盗んだタクシー運転手が殺
された事件はご存知ですよね﹂
﹁ええ、前にマニラに行った時、警察官から聞きました﹂
﹁その殺人犯が先日逮捕されましてね﹂
和樹は驚いて山下を見つめた。
﹁彼が所持していた一千万を超える一万円札が、問題の金と一致し
たんですよ。つまり、その一万円札を盗まれた被害者が、金の横領
犯ということになりますね﹂
﹁どうしてその金が、盗まれたものだと分かったんですか﹂
﹁確かに現段階では、それをどこから入手したのかは、捜査中です﹂
337
﹁だったら、僕から奪った、つまり僕が持っていたという証拠はな
いじゃないですか﹂
﹁高橋さん、時間の問題ですよ。マニラ警察で今彼を取り調べてい
る。そのうち、あなたから盗んだということを証言するでしょう。
あなたが宿泊していた部屋に不審な男たちが入って行ったというこ
とは、既にホテルの従業員から証言をえていますから﹂
和樹は言葉が出なかった。
﹁本当のことを話してくれませんか。あなたが金を横領したんでし
ょう。そして残りの金は、どこに隠しているんですか?﹂
その時取調室のドアが開き、一人の制服警官が入ってきて、木戸
に耳打ちをした。木戸は山下にやはり耳打ちをすると山下の表情が
綻んだ。
木戸は制服警官と入れ替わりで部屋を飛び出していく。和樹は何
が起こったのかと、緊張しながら一連の動きを観察した。
﹁高橋さん、問題の一万円札が発見されました。やはりあなたが以
前住んでいた家の近くでしたね﹂
和樹の顔が青ざめた。
﹁さて、すべて正直に話したまえ﹂
山下は強い口調で和樹に命じた。
338
第44話
兵庫県警の木戸は、パトカーに乗り込み、サイレンを鳴らしなが
ら金の発見現場へと向かった。
現場には既に制服警察官が配置されており、鑑識係もすぐに後か
ら到着して、バッグの埋まった周辺を詳しく調べ始めた。
﹁警部、こちらです﹂
制服警官が、第一発見者の作業員を木戸に紹介する。
﹁発見した時の状況を詳しく話してください﹂
作業員は、金を発見した時の様子を、興奮しながら説明した。
木戸たちは、大きなビニール袋に一つずつ入れられたバッグを捜
査車両に積み込み、署まで運んだ。
武道場の畳の上にビニールシートを敷きつめて、鑑識係員がバッ
グを袋から出し、中から慎重に現金を取り出して百万円の束を床に
並べていった。
大阪府警の岸本も駆け付けた。
﹁ついに見つかりましたか﹂
﹁ええ、偶然工事関係者が見つけてくれました﹂
339
二人は、次から次へと並べられていく百万円の束を眺めていた。
﹁バッグの鍵は壊されていました﹂
﹁一度、全部取り出してみたんやろうな﹂
﹁再び埋め戻して、使う時に取りに行ったんでしょう。まだ結構な
額が残っているようですから﹂
﹁しかし不足分が確定すれば、やつの横領が実証できる﹂
木戸と岸本は、これで高橋を追いつめることが出来ると思った。
﹁中身はすべて取り出しました﹂
鑑識係の一人が木戸に報告した。
﹁全部でいくらだった?﹂
﹁はい、まだ束の中身は確認していませんが全部で百七十三束、こ
れが全部一万円札だとすれば、総額一億七千三百万円となります﹂
﹁一億七千三百万円?﹂
木戸は声を上げた。
﹁ほんまかいな﹂
岸本も驚いた。
340
共犯者の自宅から見つかったのが二千万円、死んだ山崎が所持し
ていたのが約三百万円だから、奪われた二億三百万円には七百万円
足りない。しかし見つかった金を加えれば、それを超えてしまう。
﹁どういうことや﹂
﹁金が使われていなかったということか?﹂
﹁そんなあほな﹂
二人は予想外の出来事に戸惑った。
﹁それで、記番号は確認したか﹂
木戸は係員に尋ねた。
﹁まだ一部しか確認していませんが、通報されている番号の一万円
札もありましたが、そうでない札も混ざっているようです﹂
﹁どういうこっちゃ?﹂
﹁とりあえず、この金が三成銀行中津支店から強奪された金かどう
かを確認しましょう﹂
木戸は三成銀行中津支店に連絡し、行員に来るように要請した。
﹁小林君、うちから強奪された現金が発見されたという連絡が、今
警察から入った﹂
﹁ついに見つかってしまいましたか﹂
341
小林は舌打ちをした。支店長も険しい表情をしていた。
﹁君は、本店のコンプライアンス統括部長と一緒に行ってもらいた
い﹂
﹁はい、分かりました﹂
﹁前に打ち合わせていたように、くれぐれも慎重に対応してくれ﹂
﹁はい﹂
小林は、強盗犯の逃げ去る車にカラーボールを投げつけた勇敢な
男だが、今回の仕事は出来るなら避けたかった。警察相手に、どこ
まであの理屈が通用するのか不安だった。しかし、弁護士資格も持
つコンプライアンス統括部長が、なんとかしてくれるだろうとも思
った。
小林はタクシーで中の島の本店に寄って、コンプライアンス統括
部長の飯島を拾ってから生田警察署へと向かった。
車の中で飯島と小林は、最終打ち合わせを行った。
﹁小林君、まず君は、強奪された金かどうかを、帯封がついている
ならば、それで確認して下さい﹂
帯封とは、百万円を束ねる紙テープのことである。
﹁はい﹂
342
﹁帯封がうちのものに間違いがなかったら、奪われた金だと断言す
ること﹂
﹁分かりました。しかし帯封が無かった場合は?﹂
﹁通報した記番号の札を、一枚でも見つけてください。恐らくある
はずですから﹂
﹁了解しました﹂
﹁それからここが肝心ですが、通報した記番号以外の紙幣が混入し
ていても、うちの銀行から奪われた紙幣であるとの主張は変えない
こと﹂
﹁はい﹂
﹁もちろん理由を聞かれるはずだから、ここからは私が説明します﹂
﹁お願いします﹂
警察署に到着すると、二人はすぐに武道場に案内され、床に並べ
られた札束を見せられた。
﹁兵庫県警の木戸です﹂
﹁三成銀行中津支店の小林です﹂
﹁三成銀行本店コンプライアンス統括部長の飯島です﹂
二人は木戸に名刺を差し出した。
343
﹁では早速、この紙幣がおたくの銀行から強奪されたものかどうか
の確認をお願いします﹂
﹁はい﹂
小林は手袋を渡され、それを着けてから手渡された一つの札束を
詳しく見た。その帯封には、確かに三成銀行のロゴと中津支店担当
者の印鑑、そして日付が記載されていた。
﹁はい、間違いなくうちの中津支店から盗まれた紙幣です﹂
﹁こちらはどうですか﹂
木戸はもう一つの札束を本城に差し出した。見ると帯封は一度解
かれたようで、帯封に隙間があった。
﹁犯人が一度帯封を外したようですね﹂
﹁ええ﹂
﹁帯封を外して枚数を数えていいですか?﹂
﹁ではこちらで外します﹂
鑑識係が帯封を切らないように丁寧に札を引出して、机に並べた。
﹁百枚ですね﹂
小林は確認した。
344
﹁帯封自体は、うちから強奪された札に付けられていたものに、間
違いありません﹂
﹁札は?﹂
﹁と言うことは、もちろんそのはずです﹂
﹁ちょっと待ってや﹂
岸本が横から口を挟んだ。
﹁番号がちゃいまっせ﹂
﹁いや、それは﹂
﹁記番号については、私から説明いたします﹂
飯島が口を開いた。
﹁実は、申告した記番号に誤りがあった可能性があります﹂
﹁誤り?﹂
﹁はい、まことに申し訳ございませんが、我々も今この瞬間にその
ことを確かめることができたのです﹂
﹁一体どういうことなんですか?﹂
木戸と岸本は、狐につままれたようだった。
345
﹁実は﹂
飯島は、一呼吸おいてから話し始めた。
﹁元弊行中津支店の支店次長が、意図的に被害額と記番号に関して
虚偽の報告を行った疑いがあるのです﹂
﹁どうして?﹂
﹁彼を仮にA氏と呼ぶことにしますが、A氏は二年前から不正な入
出金を繰り返していた疑惑が、内部調査で浮上しました﹂
﹁横領ですか?﹂
﹁横領とは断定できていませんでした。銀行強盗が起こる前日まで
の支店の残高に問題がなかったからです﹂
﹁では何故不正があったと思われたのですか?﹂
﹁入出金のデータを改ざんした形跡が見つかりました。そのデータ
にアクセスする権限は、次長以上の人間でした﹂
﹁それで?﹂
﹁それが分かったのは強盗事件以後のことでして、残高に問題ない
以上、我々としては、それ以上の追及をすることは出来ませんでし
た。多分、市中金融から貸し借りを繰り返して、自転車操業的にな
んとか帳尻を合わせていたのだと思われますが、それを証明する手
段はありませんでした。銀行員としては恥ずかしい限りですが。A
346
氏はその後、自己都合で退職いたしました﹂
﹁それが分かった時点で、なぜ警察に通報しなかったのですか。隠
蔽するつもりだったのでしょう﹂
木戸は落ち着こうと努めていたが、声は震えていた。
﹁いえ、滅相もない﹂
飯島は逆に落ち着き払って話を続けた。
﹁今この瞬間、A氏の不正が明らかになりました。ですから我々三
成銀行は、A氏こと山田光則を、電磁的記録不正作出及び業務上横
領で刑事告訴します﹂
飯島は懐から封書を取り出し、それから告訴状を取り出して示し
た。
木戸は告訴状を奪い取って一瞥してから問いかけた。
﹁どうしてそれが今なのですか?﹂
﹁記番号です﹂
﹁この記番号が?﹂
﹁そうです。山田が不正に金庫から金を持ち出した場合、その記番
号の札が当然無くなります。同じ額の札をこっそりと返したとして
も、総額は一致しますが、記番号の異なる札に置き換わっているわ
けです﹂
347
﹁そりゃそうや﹂
﹁銀行では、入出金の際に札の記番号は記録しますが、毎日金庫に
保管している紙幣の記番号をチェックしているわけではありません。
入出金の記録から、当然金庫に残っている紙幣の記番号が分かるか
らです﹂
﹁そうでしょうね﹂
﹁山田はいずれ、その記番号のデータも改ざんしようと考えていた
のだと思いますが、あの強盗事件が起こってしまった。だから、本
来そこにないはずの記番号を報告するしかなかったわけです。しか
しそのことは、今強奪された紙幣に報告したものとは異なる記番号
の札が存在することが明らかになって、初めて確証が掴めたという
次第です﹂
飯島は自信を持ってそう言い放った。
﹁そんなあほな。俺たちは、その記番号とやらを唯一の手がかりと
して捜査をしていたんやで﹂
岸本の目は、怒りで充血していた。
﹁申し訳ありませんでしたが、我々としても致し方なかった。しか
し発見された額から、横領の実態も明らかにすることが出来ると考
えています﹂
﹁今我々は、問題の記番号の一万円札を多量に使用したと思われる
人物の取り調べを行っているんですよ﹂
348
木戸は飯島の弁護士バッジに目をやりながら、強い口調で飯島に
詰め寄った。
飯島は一瞬驚いた様だった。
﹁そうですか。確かにその一万円札は、かつてうちの銀行にあった
ものであることは確かです。しかし、どういう経緯でその方に渡っ
たのかは、こちらとしても不明です。強盗事件で奪われたお札かど
うかは判断出来ません﹂
﹁警察としては、その人物が奪われた金を偶然発見し、横領したと
見ています﹂
﹁当方としては、発見された金額が奪われた金額と相当するならば、
中身が仮に入れ替わっていたとしても、被害は無かったと考えます。
後はそちらの問題でしょう﹂
飯島は、その人物について、それ以上の興味を示さなかった。
木戸と岸本は、和樹の事情聴取を行っている山下を呼び出して、
三人で対応を協議した。
﹁私は、高橋和樹があの金を使用していたのは間違いないと考えて
います﹂
山下は主張した。
﹁しかし、唯一の証拠である記番号の信憑性が崩された以上、公判
を維持するだけの証拠がない。しかも被害者の三成銀行が、被害が
349
無かったと遺失物横領そのものを否定している以上、元々事件は無
かったということになりますかね﹂
木戸が力なく言った。
﹁全くふざけたやつや。三成銀行を虚偽告訴罪で立件したろうか﹂
岸本は怒りを抑えることができなかった。
﹁三成銀行自体が支店次長を告訴しているわけですから、それは無
理でしょう﹂
﹁高橋和樹を、遺失物横領罪ではなく、遺失物法第四条﹃拾得者の
義務違反﹄つまり犯罪の犯人が占有していたと認められる物件を速
やかに警察に提出しなかったということで立件できませんか?﹂
山下はなおもこだわった。
﹁高橋があの金を発見したということを立証するのは、使用したと
いう事実無くしては、難しいでしょうね。それに遺失物法第四条な
んて、微々たる罪状に過ぎません﹂
重い沈黙が三人を支配した。
﹁この事件はもうお終いや。中津支店次長の横領事件に、大阪府警
は切り替えますわ﹂
岸本が投げやりに言った。そして木戸と山下は、静かに頷くしか
なかった。
350
休憩を挟んで十二時間にも及んだ事情聴取で、和樹の体力と精神
力は、既に限界を超えていた。
午前零時を過ぎ、数々の証拠を突きつけられてもう駄目だと諦め
の気持ちが起きかけてきた時に、山下が部屋を一度出て、再び戻っ
てきた。
しかし山下は、さっきまでの鋭い眼光は消え失せ、視点の定まら
ないうつろな目を泳がせていたので、和樹は驚いた。
﹁高橋さん、お時間を取らせました。本日はこれでお引き取り下さ
い﹂
和樹は突然のことでびっくりした。
﹁帰っていいのですか?﹂
﹁ええ﹂
﹁次はいつ来なければならないのですか?﹂
﹁その必要はありません﹂
和樹は何が起こったのか、見当がつかなかった。
﹁僕の容疑が晴れたということですか?﹂
﹁いや、私はあなたがあの金を使用したと確信している﹂
﹁ではどうして?﹂
351
山下はドアを開けて、和樹に出るように促した。
﹁警察はそれほど暇ではない。被害者がいない事件にこれ以上深入
りするつもりはない﹂
和樹は十二時間ぶりに解放された。
352
最終章
翌日の新聞を見て、和樹は自分が解放された理由が少しは理解で
きた。
新聞には、銀行強盗で奪われた金が﹁まるまる﹂発見された、と
書かれていた。つまり警察は、誰かが使用していたということを隠
していることになる。
その理由も、二日後の報道で納得できた。三成銀行中津支店の幹
部が、自身の横領を隠すため、被害額を水増ししていた疑いで逮捕
されたとあった。つまり、警察が把握していた記番号の札が、別の
ルートで流通していたということになる。
金発見のニュースはひと時世間を賑わしたが、すぐに人々の話題
に上らなくなった。
和樹がその後本城と飲んだ時何気なく事件のことに触れると、警
察は遺失物横領事件の捜査を打ち切ったらしいと聞いた。
和樹と初音は久しぶりに会い、心斎橋筋を歩いた。
﹁あの時この通りを二人で歩かなかったら、こんなことにはならな
かったわね﹂
﹁ああ、君をこんな大変な目に合わせることもなかった﹂
﹁ううん、違うの。あなたと私が、こうして一緒にいるっていうこ
と﹂
353
﹁ああ、そうかもね。でもあの時は恋愛ごっこだと思っていた﹂
和樹は一件のジュエリーショップの前に立ち止まった。
﹁あの時、君に何かプレゼントしてあげようと言ったら、君は断っ
たよね﹂
﹁そうだったかしら﹂
﹁その時に君が高価なアクセサリーをねだっていたら、それっきり
になっていたかもしれない。でも今度は断らないよね﹂
﹁えっ?﹂
﹁結婚指輪を買おう。そして少し遅れたけど、五月に式を挙げよう﹂
初音は嬉しそうに頷いた。
指輪を注文してから、二人は戎橋まで歩いた。まだ冷たい風が、
初音の頬を赤く染める。そしてあの時と同じように欄干にもたれか
かった。
﹁これで終わったのよね﹂
﹁ああ、今度は本当に終わったはずだ﹂
﹁お金を戻したのは正解だったわね﹂
﹁ああ﹂
354
﹁私思うの。あなたは元々お金を横領しようとしたんじゃないわ。
借りただけよ﹂
﹁無断だったけどね﹂
﹁銀行なんだから、貸してくれてもいいじゃない﹂
和樹は笑った。
﹁人って、チャンスさえあれば何かできると思うの。でも殆どの人
には、そのチャンスが無いのよ。チャンスが与えられるのは一握り
の人だけ﹂
﹁そうかもしれない﹂
﹁神様は不公平だわ。だから、どんなことでも、それがチャンスに
なるなら、それを生かせばいいのよ﹂
和樹は、初音が自分のためにそう言ってくれていると感じた。
﹁でも僕は、罪を犯したのは事実だ。このことは、一生背負ってい
くつもりだ﹂
﹁だったら、別のことで償えばいいわ。人にもそのチャンスを分け
与えるとか﹂
﹁チャンスを?﹂
﹁そう、あなたが私にくれたチャンスみたいな﹂
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和樹はしばらく考えてから口を開いた。
﹁実は、少し前から考えていたことがある﹂
﹁それって何?﹂
﹁幸い会社は順調に軌道に乗っている。だから、別の分野にも手を
広げようと思っているんだ﹂
﹁どんな?﹂
﹁保育園さ﹂
﹁保育園?﹂
﹁そう、共働きの夫婦やシングルマザーが気軽に安心して預けられ
る、保育園を作ろうと思う。そうすれば、色々な人が、もっとチャ
ンスを広げられるかもしれない﹂
﹁素敵だと思うわ﹂
﹁君が園長だよ﹂
﹁園長?﹂
初音は可笑しそうに笑った。
﹁じゃあ、まず保育士の資格を取らないとね﹂
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﹁ああ、四月から学校に通えばいい﹂
﹁頑張るわよ、わたし﹂
冬のどんよりとした灰色の雲の隙間から、穏やかな陽光が差し込
んできた。
和樹は初音の横顔を見つめた。出会った頃に比べると、随分と大
人びて見えた。そして多くの園児に囲まれている初音の姿を想像し
て思わず笑みを漏らした。
﹁何笑っているの?﹂
﹁いや﹂
﹁変な人﹂
和樹は初音の肩に手をやり、体をそっと引き寄せた。そして二人
は、再び心斎橋通りのアーケードの人ごみの中に紛れて行った。
三成銀行東京本店の頭取室に、頭取の他最高幹部が数人集まって
いた。その中になぜかコンプライアンス統括部長の飯島もいた。
頭取が口を開く。
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﹁飯島君のアイデアには脱帽した。君を事務所から引き抜いたのは
正解だったな﹂
﹁恐れ入ります﹂
﹁立川組がらみの担保物件の競売で中津支店が得た二億円の利益を
そのままにしていれば、大変まずいことになっていたでしょうね﹂
副頭取が頷きながら言った。
﹁しかしあの強盗事件を利用しようなんて、飯島君の計画には心底
まいったな﹂
頭取は満足そうな笑顔を見せた。
﹁確かに。まさかその二億円を、盗まれた金とすり替えようなんて
ね、頭取﹂
﹁全くだ。ははは﹂
頭取は棚からブランデーのボトルを取り出してグラスに注ぎ、皆
にふるまった。
﹁ところで、金の隠し場所はどうやって推測したのかね﹂
﹁はい副頭取。本当はどこでも良かったんですよ、発見さえしてく
れれば。掘り出した人物が別の場所に埋め直したことだってあり得
ますから﹂
﹁なるほど﹂
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﹁でも、中山常務の娘婿、確か本城とか言いましたか、彼からの情
報が役に立ちました。強盗犯は神戸近辺に金を隠したのではないか
ということでしたから、調査会社を使って警察の動きを探ると、神
戸電鉄沿いに捜査員を配置しているのが分かりました。どうも、そ
の周辺に金の隠し場所があるのではないかと考えたわけです。警察
が推測している範囲で発見されたから、警察はそれが奪われた金だ
ということを、疑いもしなかったでしょう﹂
﹁しかし、タイミングよく発見してくれましたね﹂
﹁ええ、あの周辺で神戸市の計画で近々開発工事を予定している場
所がありました。今月から工事が始まりますので、そのあたりに埋
めておけば、遅かれ早かれ誰かが見つけてくれるだろうと考えたわ
けです﹂
﹁金の発見場所が違っていても、銀行から盗んだ金を隠したはずの
山崎は死んでいるし、その金を掘り出して使っていたやつがいたと
しても、そいつが警察に申し出ることは考えられないからね﹂
﹁ええ、しかし、警察がそれらしき人物を特定しているところまで
捜査が進んでいたのは意外でした﹂
﹁記番号は?﹂
﹁もし本当に盗まれた金が見つかった場合も考えて、盗まれた金と
後で埋めた金の番号を、半々で警察に報告しています﹂
﹁確かに全部違っていたら、おかしなことになってしまうからな﹂
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﹁幸い支店次長の不正行為が発覚し、それでなんとか誤魔化せまし
た﹂
﹁つまり、報告した記番号以外の札が混ざっていても、理由がつく
というわけだな﹂
﹁はい﹂
﹁実際は二億の損失だったわけだが、表には出せない金をきれいに
して穴埋めすることが出来たのだから、会計上は収支ゼロだ。まあ、
たかが二億だが﹂
﹁いえ、その二億で業務停止命令などになれば、何十億、いや何百
億の損失が発生したかは分からない﹂
頭取はグラスのブランデーを飲み干し、更に注ぎ足した。
﹁飯島君、まさか銀行強盗まで計画に入っていたのかね?﹂
﹁頭取、さすがにそこまでは﹂
﹁本当かね?まあいい。うまくやってくれた。これぞ完璧なマネー
ロンダリングだ﹂
頭取は声を上げて笑った。
五月の新緑がまぶしい六甲山ホテルのチャペルで、和樹と初音は
結婚式を挙げた。参列者はごく身内だけだったが、本城夫妻も参列
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してくれ、祝ってくれた。
挙式後のパーティーで、和樹は本城に話しかけた。
﹁もう何か月ですか?﹂
和樹は本城の妻の亜由美を見ながら尋ねた。
﹁もう四カ月です。ちょっと目立ってきましたか﹂
﹁男の子、それとも女の子?﹂
﹁いや、生まれるまで聞かないでおくことにしました﹂
﹁楽しみですね﹂
﹁いやいや、僕も初めての子だから、どうしたらいいのか心配で﹂
﹁実は、僕たちはいずれ保育園を作ろうと思っています﹂
﹁ほう﹂
﹁初音が保育園に勤めていたことがあるし、今保育士の資格を取る
ために、学校に通わせています﹂
﹁それは楽しみだ﹂
﹁もしお生まれになったら、お世話しますよ。一歳から受け入れる
つもりですから﹂
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﹁素敵ね﹂
亜由美も楽しそうに微笑んだ。
﹁高橋さんの方は?もう初音さんのお腹の中にいるとか﹂
﹁いえ、そんな﹂
初音は恥ずかしそうに頬を赤らめた。
パーティーが終わって参列者が帰り、二人は前に寄った最上階の
バーで、神戸の夜景を眺めながら二人でくつろいだ。
﹁ようやく落ち着いたね。学校があるから、新婚旅行は夏休みにし
よう﹂
﹁ええ、どこにする?﹂
初音は嬉しそうだった。
﹁ミンダナオ島にウナギを見に行くとか﹂
﹁それって仕事じゃない﹂
﹁マニラ湾の夕日はきれいだったよ。それも見せたい﹂
﹁分かったわ。そこでいいわ﹂
二人はドライマティーニで乾杯した。
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﹁ところで、初音には初めて言うけど、あの金が発見されたと新聞
に載っていた場所は、僕が埋め戻した場所とは違うんだ﹂
﹁えっ、どういうこと?﹂
﹁僕にも分からない﹂
﹁誰かが移動したってこと?﹂
﹁移動したか、別の金だったか﹂
﹁別のお金?何のために?﹂
﹁分からない。でも誰かにとって、奪われた金が見つかったことに
しておいた方が都合が良かったのかもしれない﹂
﹁それって銀行とか?﹂
﹁表に出せない金があったとか﹂
﹁じゃあひょっとして、あなたが埋め直したお金は、まだそのまま
になっているってこと?﹂
﹁その可能性はある﹂
﹁確かめてみる?﹂
﹁いや、止そう。もうあの金と僕たちは、関係がない﹂
﹁そうね﹂
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﹁もしまだ埋まっていて誰かが偶然見つけたならば、その人が判断
すればいい。今度はその人のチャンスだ﹂
﹁分かったわ﹂
二人は、今後あの金のことは触れないでおくことを約束した。
﹁未来のことだけ考えよう﹂
﹁そうね、生まれてくる子供のこととかね﹂
﹁えっ、ひょっとして?﹂
﹁嘘よ。まだ﹂
﹁なーんだ﹂
二人は手を絡ませ、幸せそうに微笑みながら、眼下に広がる神戸
の夜景をいつまでも眺め続けた。
その年は、梅雨の終わりに集中豪雨が続いた。あちこちで洪水や
がけ崩れの被害が相次いだ。
ニ十年勤めた鉄鋼会社をリストラでクビになり、それを機に妻と
子供からも見捨てられ、死に場所を探して山を歩いていた男がいた。
道はぬかるんでいて、男のズボンは泥が跳ねあがって汚れていた。
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縄をかける適当な木を探しながら、林道の突き当りから林の中に
分け入ると、大きな木が一本、根元から倒れている。その木を通り
過ぎようとした時、木が倒れて掘り返された土の中に、何かが埋ま
っているのが見えた。
﹁なんだろう﹂
男が土を手で払いのけると、バッグらしきものが埋まっていた。
男はバッグを地中から引き出し、中身を確かめた。
男は慌てて周囲を見回した。
もちろんこんな山の中に、その男以外の誰もいるはずがない。
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最終章︵後書き︶
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
感想を寄せていただいた方には、大変感謝申し上げます。
どうお返事すれば良いのかわからなくて返信はできておりません
が、大きな励みとなり、ようやく完結まで辿り着くことができまし
た。この場をお借りしてお礼申し上げます。またご指摘していただ
いた点などは、追々修正していきたいと思います。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n4376bl/
マネーロンダリング∼二億円の行方
2014年10月18日06時22分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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