ロンドンブリッジの恋人 斉河 燈 !18禁要素を含みます。本作品は18歳未満の方が閲覧してはいけません! タテ書き小説ネット[X指定] Byヒナプロジェクト http://pdfnovels.net/ 注意事項 このPDFファイルは﹁ノクターンノベルズ﹂または﹁ムーンラ イトノベルズ﹂で掲載中の小説を﹁タテ書き小説ネット﹂のシステ ムが自動的にPDF化させたものです。 この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また はヒナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用 の範囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止 致します。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にど うぞ。 ︻小説タイトル︼ ロンドンブリッジの恋人 ︻Nコード︼ N6358T 燈 ︻作者名︼ 斉河 ︻あらすじ︼ 神野維紗︵29︶、とにかく色々とギリギリなデパート受付嬢。 七年前、仕事中に出会った小学生が、ある日突然青年になってあら われて︱︱﹁約束通り、僕と一緒にロンドンへ行こう﹂そういえば そんな約束、したかもしれない! 仕事に結婚、日本にロンドン、 努力に怠惰、夢に現実、どれも放ってはおけなくて⋮⋮大人の恋っ て、難しい。俺様上司×努力家受付嬢×一途少年の三角関係ラブコ メディ。︵サイトからの移設、改稿、加筆修正版︶*マークには性 1 描写有り、数が増えるほど濃厚になります。ご注意下さい。*本編 完結しました! 2 1、ナーサリーライム︵a︶ Bridge ♪London down, is is falling down, down, down. falling falling Falling lady. Bridge fair London My いつか聴いた︱︱。 ナーサリー・ライムが頭の奥で高らかに鳴り響いていた。それは 童謡というよりまるで警鐘のように。 ︵いやいや、ちょっと待って︶ 私は混乱のあまり、突っ立ったまま自問する。今、何て言ったよ、 この少年。 ﹁も、申し訳ございませんが、もういちどお聞かせ願えます、か﹂ 受付カウンターに立ちはじめてから早七年、日々幾度となく口に 出してきたはずの台詞がなさけなく上擦る。 そういえば最近、館内アナウンスでも二度噛んだ。こんな調子だ からそろそろ事務職へ⋮⋮なんて噂が流れるわけだけれども。 たじろぎながら目を泳がせて︱︱泳がせて、最終的に辿り着いた のは対峙する少年の顔だ。 見たところ十八、九だと思うけれど、なんだろうこの、圧倒され るまでの色気は。 とくに目立つのは泣きボクロだ。そのせいか目元全体には蠱惑的 ともいえる雰囲気が漂っている。 その上、艶のある茶髪はいかにも櫛通りが良さそうで、触れてみ たいなんて不埒なことを思わせる。 3 ﹁賭けはお姉さんの負けだね、って言ったんだよ。聞こえなかった ?﹂ 時刻は十九時五十分、閉店時間まで十分を残すのみの、まさしく 仕事中のこと。 fair lady”。僕と一 卒倒しそうな私の脳内にはやはり、ロンドン橋落ちた、がリピー トされていて。 ﹁約束通り、迎えにきたよ“My 緒にロンドンへ行こう﹂ こうの いさ 神野維紗、もうすぐ三十歳独身女子、ちなみにデパート受付嬢。 負けっぱなしの人生でした、この瞬間までは。 1、 黒か白かと訊かれたら、それはもう見事な漆黒だと開き直って言 おう。 身に覚えならある。ないと言いたいところだけれど、ある。︱︱ 賭け? ええしました、しましたとも。 まさか履行の義務が生じるとは夢にも思わなかったから。だって。 だって、もう、七年も前の話だし。それに、あのとき彼の背には ⋮⋮。 ランドセルが背負われていた、のだもの。 *** 4 ︱︱﹃Excuse 忘れもしない。 me⋮⋮﹄ 七年前の今日、私は業界最大手としてその名を知られる一ツ橋デ パートの受付嬢として、初めてひとりでカウンターを任されていた。 三ヶ月の新人研修を終え、﹃研修中﹄のダサいバッジが胸から消 えた、記念すべき日だった。 真新しい制服はノーカラーのジャケットにワンピース、そして揃 いの帽子。どれもがブラックとベリーピンクのツートンカラーで、 文句なしに可愛い。 これが着たくて採用試験を受けた女子は少なくないと思う。私だ って当然そのひとりだったわけだけれど、自信は全くと言っていい ほどなかった。 そもそも一ツ橋は業界最大の優良企業なのだ。競争率が低いわけ がない。 そこへきて英語はおろか外国語なんてひとつも喋れない私は、容 姿だって中の上程度。そりゃ、ひとつだけなら特技もあるけれど⋮ ⋮と、それはさておき。 you?⋮⋮だっけかな﹄ そんな私におずおずと、流暢な英語で話し掛けてきたのは東洋人 help だっけ? 自信のない返答は、語尾に向かって空中 can ふうの少年だった。 I ﹃あ、えーと、I May 分解してしまう。 なんだって私、英語の授業中に爆睡したかな。慌てて手元の電子 辞書を開いたら、 ﹃あ、の﹄ 5 少年が再び口を開いた。 ﹃⋮⋮は、な﹄ ﹃はい?﹄ ﹃はな、どこ﹄ か細い声だ。声変わり前に違いない。 しかし、真新しく、傷ひとつないランドセルは彼の肩幅に対しオ Britain﹄ モチャみたいに小さい。新入生、ってことはなさそうだ。 to もしかして帰国子女ってやつなのかしら。 ﹃は、はな、えと、ノーズ?﹄ ﹃No.⋮⋮Flower⋮⋮send あ、そっちね。 ブリテン⋮⋮ということはイギリスに送りたいのだろう。生花は 無理だろうけど、プリザーブドならいけると思う。 first floor﹄ 気を取り直した私は、営業用の笑顔で ﹃The 一階ですよ、とご案内。化粧品売り場の奥の通路を示したのだっ た。 ︵なんだ、やればできるじゃない︶ とはいえ、これはつい先日、卒業旅行でハワイに行ったときにた またま耳にしたフレーズで、勉強した成果じゃあないのだけれど。 しかし、直後に遅番でやってきた先輩は、成り行きを聞くなり青 ざめた。 ﹃神野さん、その方にフロアマップはお渡しした?﹄ 6 ﹃いえ、一階ですし、難しい場所ではないので﹄ ﹃何言ってるの。その方、イギリスに花を贈りたいっておっしゃっ たのよね。イギリスからの帰国子女かもしれないのよね﹄ ﹃はい。それが﹄ なにか。 首を傾げると、その格好のままカウンターの外に押し出されてし まった。 floor”、二階が“f floor”なのよっ。早くその方を探して、再度ご案 ﹃イギリスでは一階は“ground irst 内して差し上げて!﹄ *** 早速やってしまった︱︱。 ハイヒールのまま、私は階段を駆け上がる。 しかし売り場は走らないのが鉄則ゆえ、フロアはギリギリの競歩 ペースで進んだ。 そうして婦人服売場を三分の二ほどまで見て回ったときだ。 ほんぶ ﹃本部さんっ﹄ 角のショップの店員さんから呼び止められたのは。 ちなみに本部さん、とは私個人のあだ名じゃあない。 彼らテナントの社員達が、私達一ツ橋デパートの社員を呼び止め るときの名なのだ。 デパートというのは売り場の大半がテナントで、彼らのようなシ ョップ店員の大半はそれぞれそのテナントに雇われている。 つまりスタッフの大半は直接の一ツ橋の社員、ではなかったりす 7 るのだ。 対し私達はこのデパートそのものに雇われている身なわけで、要 するに彼らに施設を貸し出している側の人間にあたる。それで、本 部さん、なのだ。 当然のことだけれど、私達“本部さん”は彼らテナントの方々が 不便を訴えれば対応しなければならない。設備も、戦略も、接客も、 だ。 ﹃いかがなさいましたか﹄ ﹃あの、お客様が﹄ 聴覚障害の方でして、とその女性スタッフは狼狽えた声で訴える。 見れば、そのお客様のほうが輪をかけて困った顔をしている。 急いでいるので後で、とは言えない雰囲気だ。 それはそうか。余裕があるなら筆談をしているはずだもの。 ﹃どうなさいましたか﹄ 私はお客様に向き直ると、両手を胸のほうへ引き寄せる動作をし、 直後に右手で人差し指を振った後、掌を前に差し出した。 言わずもがなこれは手話で、“どのようなご用件ですか”と尋ね たことになる。 お客様はほっとした顔で、急いで試着をしたいのだと訴えた。時 間がなく、すぐに欲しいので一揃えコーディネートして欲しい、と も。 衣類に関することならば、私よりショップスタッフのほうが適任 だ。 すぐさまその旨を彼女に伝え、お客様には﹃すぐに戻りますから﹄ と約束すると、私は踵を返した。 ︱︱早くあの少年を見つけなきゃ。 8 するとタイミングよく、通路の反対側に立っている小さな人影を 見つけた。 狐につままれたような、ぽかんとした表情で。 *** ﹃さっきの、なに? まほう?﹄ 花屋への道すがら、彼は興奮した様子で尋ねてきた。私の応対を ずっと見ていたらしい。 ﹃手話だよ。お姉さんね、手話検定持ってるの。それでここのデパ ートに就職出来たようなものなんだよね﹄ そう、私の特技というのはあれなのだ。大学時代を通して所属し ていたボランティアサークルで習得しておいたのが功を奏したって わけ。 持ち前のサービス精神がそうさせたのだろう、と両親は言うけれ ど⋮⋮実は当時好きだった先輩がサークル内にいたから俄然頑張っ てしまったというのが真実だったりする。 彼とはうっかり仲良くなりすぎて、付き合うには至らなかったけ れど。 思うにいつもそうだ。男の友人は多いのに、何故だか恋愛には発 展しない。 友達としてはいいやつだけど、恋人には⋮⋮ってあのとき先輩に 言われた台詞、その後も何度も耳にしているのは気のせい? すると、少年は目を輝かせたまま ﹃しゅわ⋮⋮﹄ 9 と復唱した。 発音は“手話”というより“Sure”に近い。理解してないだ ろうな、これ。 you from?﹄ ﹃ねえ、君はイギリスから来たの? あー、ええと、Where are ﹃うん、イギリス。パパがブリティッシュで、日本から来たママと 三人で、ロンドンに住んでた。今はママと僕だけ、こっちに来てる﹄ 突如ぺらぺらっと出てきた日本語に、面食らいそうになった。 ﹃なんだ。日本語、分かるんじゃない﹄ ﹃⋮⋮でも、おと⋮⋮ハツオンが変だって、皆が﹄ ああ、それはまあ、確かにそうだけど⋮⋮小学生って容赦ないな あ。フォローすべきか迷ったけれど、さりげなく話題を変えること にした。 うっかりしたことを言って後で親に怒鳴り込まれたらたまらない し。 ﹃ね、ロンドンってあのロンドン? ハリーポッターの九と四分の 三番線の﹄ ﹃うん、それはキングス・クロス駅。あそこ、いつも混んでるよ﹄ ﹃ふうん。じゃあロンドン橋は行ったことある? 有名だよね。ロ ンドンブリッジフォーリンダウン、って﹄ 昔、そんな遊びをしたような気がする。たしか、腕で作ったトン ネルをぞろぞろくぐって、最後の“マイフェアレディ”のところに 当たった人がその腕に掴まってしまうのだ。 懐かしみながら口ずさむ私を見上げ、彼はしかし訝しげに顔を顰 10 める。 down? downだよ﹄ down, down,My fai down.Londo broken ︱︱broken is bloken bloken Bridge ﹃falling ﹃えっ﹄ ﹃London is down, Bridge Broken n lady. 僕が知ってるのは、これ﹄ r ﹃へえ、歌、すっごく上手いのね、君﹄ 感心している場合ではないのだけれど、思わず吐息。音程もさる ことながら、本場の発音はやっぱり違うわ。 と、少年は照れくさそうにはにかみ笑いをした。 Muse 初めて見る笑顔はハーフだからなのか、子供のくせに色っぽくて シャム猫みたい。 ﹃おねえさんはロンドン、来たことある?﹄ ﹃ううん、ない。一度は行ってみたいんだけどね﹄ ﹃おいでよ! 僕、エスコートするよ。British Abbey、それからTower Londonに⋮⋮夜はビッグベンのあたりがすごくきれ umにWestminster of いなんだ﹄ ﹃へえ、いいなあ。新婚旅行で行こうかなあ﹄ 何気なく言うと、少年は泣き出しそうな顔で私の袖を引っ張った。 ﹃よてい、あるの?⋮⋮やだよ﹄ よほど懐かれてしまったみたいだ。 11 ﹃ううん。残念ながらない﹄ ﹃良かった! ねえ、僕とふたりで行こう。いつか迎えにくるよ。 そうしたら結婚して?﹄ 無邪気な申し出に、頬が緩んでしまう。ケッコン、ですって。可 愛い。事の重大さを分かっていないからこそ簡単に言える言葉よね。 ﹃ふふ。そうだね。じゃあ、私がそのときまだ独身だったらね﹄ ﹃⋮⋮きっと独身だよ﹄ ﹃あら失礼な。じゃあ賭ける? 君が迎えにきたとき私が独身で、 まだここで働いてたら︱︱そうね、ロンドンまでの旅費は私が出し てあげる﹄ ﹃うん! 約束だよ。ゆびきりっ﹄ ﹃はいはい。ゆーびきーりげんまーん﹄ 嘘ついたら針千本飲ます、指切った︱︱︱︱ってなわけだ。 このときは私、自分が二、三年のうちに寿退社をすると信じて疑 わなかった。 と、言ったら笑われるだろうか、それとも呆れられるだろうか。 いや、どっちもだな、こりゃ。 12 2、ナーサリーライム︵b︶ ﹁ウーロンハイ三つにカシス二つ、それとジョッキ生を五つですね。 他にご注文のある方は?﹂ ﹁あ、維紗ちゃん、八海山も﹂ ﹁はーい、部長は冷酒ですよね。了解です!﹂ 昼間の出来事を思えば早々に帰宅して頭を抱えたい精神状態だっ たのだけれど、私は仕事終わりに駅前の居酒屋にいた。月末恒例、 サービス課の懇親会だ。 全員分のオーダーを取りまとめて店員さんに告げにいくのは毎度 お馴染み私の役割。 後輩が入ってきても、いいよいいよー、なんて言って引き受けて いたら代替わりのチャンスを失ってしまった。 これ、カラオケに行ったってそうなのだ。歌って踊って盛り上げ て、追加注文をして、邪魔なグラスを片付けて︱︱そしていつも、 最後に帰る。 で、結果、ついたあだ名は“宴会部長”。 損な性分なんだ。分かってる。このお調子者キャラを脱却しない 限り、独身とはオサラバできないんだってことも。 でも、つい、頼られると断れない。 むしろ、期待以上のことをしようとしてしまう。 もちろん、過去には何度か女らしさってやつをアピールしようと 試みたことも、ないこともない。 料理は得意だから、可愛いキャラ弁を持参したり、バレンタイン に手作りチョコを配ったり。そのたび﹃らしくない﹄と笑われて、 結局こっちも笑ってごまかす羽目になったけれど。 皆、私に何を期待してるんだか。 13 みれい 時々、落ち込む。だけど表には出せなくて⋮⋮、悪循環。 ﹁神野先輩っ、今日の彼、どういうことですか!﹂ なつめ オーダーを終えて席に戻ろうとすると、後輩である夏目未怜こと ミレちゃんが私の腕をすがるように掴んだ。 彼女は今年で二年目を迎える帰国子女の受付嬢で、ぱっと見モデ ルさんみたいに可愛い。 こういう子はあと一年もすれば寿よ。そう、私の経験が言う。 ﹁⋮⋮どういうことだと思う?﹂ ﹁狡い答え方しないでくださいよ。もしかして彼氏ですか?﹂ ﹁ちがうわよ。昔、旅行の約束をしただけ﹂ ﹁旅行? いいなー、どうやってあんな美形と知り合ったんですか。 教えてくださいよ!﹂ ﹁いや、仕事中に応対したのよ。本当に、それだけ﹂ ﹁ええっ、じゃああたし、狙っちゃおうかなぁ﹂ ミレちゃんは両手を合わせておねだりポーズでしなをつくる。 同性からすると吐き気ものだしベタだけれど、これ、男性には案 外効果てきめんなのだ。 案の定、サービス課一のフェミニスト・及川課長が横から割って 入ってきた。 りゅうのすけ ﹁待て、皆のミレちゃんに男とは断じて許せんっ﹂ おいかわ 課長、とはいえ彼は︱︱及川龍之介は私と同い年。あっちはエリ ートコースにのっていて、こっちは崖っぷちという歴然の差はある けれど。 14 ﹁やだあ、課長ったらもう酔ってるんですかぁ﹂ ﹁そんな男、神野にくれてやれ。神野なら誰も悲しまない。むしろ ようやく片付いたって皆、涙を流して喜ぶぞ﹂ 刺さる言葉だ。サービス課の長のくせによくもまあ、そんなこと をさらっと言えたものだと思う。 入社したばかりの頃は親切だったくせに、いつからこんな暴言を 吐くようになったんだか。 色んな意味で悔しい。好きだった時期もあったから余計かもしれ ない。 それでもやはり、笑顔で対応してしまう私がいて。 ﹁ちょっと課長、それなら男紹介してくださいよっ﹂ ﹁無理。おまえを紹介したら相手に失礼だ﹂ ﹁で、ですよねえ﹂ 待ちわびていたみたいに、場がどっと沸いた。あはは、と私も同 時に馬鹿笑いをして盛り上げる。 直後にドリンクが届いたから、さりげなく席を立って配膳の手伝 いをした。ひそかに、ため息を押し殺しながら。 ⋮⋮本当に皆、私に何を期待してるんだか。 *** ようやく自宅に辿り着いたとき、時刻はすでに夜中の二時を回っ ていた。 ﹁どっこいしょっと﹂ 鉛のように重いショルダーバッグを玄関先に放り出し、感覚のな 15 い足からハイヒールを脱がせる。 実家にいた頃は片付けろと毎回口煩く言われたけれど、今は我が 城ゆえに脱ぎっぱなしが定位置だ。 そこからバスルームへはいつも直行。蛇口をひねり、お湯を溜め ながら、自前でセットした夜会巻きをほどく。 鏡に映るのは、魔法が解けたお姫さまならぬ、疲れた顔のオバサ ンだ。直視する勇気も、そりゃ日に日に衰えるってものよ。 どん底まで落ちた気分でメイクを落としたら、瞼まで落ちそうに なった。 ﹁寝るな。まだ寝たらダメよ﹂ そこに、往復ビンタをセルフで食らわし、湯船に浸かる。 your offer⋮⋮﹄ 落ち着いてから、iPodのスイッチを入れた。ゲルマニウムの accept ローラーをアゴの上で転がしながら。 ﹃︱︱I’ll スピーカーから流れるのは英会話の例文。入浴中は学習時間、と 決めている。 実を言うと私はあの少年に初めてあった日から、ラジオやポッド キャストでの勉強を日課としている。 英語と、それから手話も。どんなに遅くなっても、これだけは欠 かせたことがない。 あんなミスをしてお客様を困らせるのはもうごめんだから。 なんて、本当はここ数年で、勉強の目的はお客様のためから自分 accept your offer⋮⋮お言葉に甘 のためへと完全に移行してしまったのだけれど。 ﹁I’ll えて、か。私には遠い言葉ね﹂ 16 甘えている場合じゃないもの。 一ツ橋の場合、受付嬢の末路なんてあっけないものだ。 寿退社か、裏方への転向か。でなければ、自主的に辞めて別の仕 事に就くしかない。 要するに、華やかなのは一瞬だけってわけ。 当然、誰もが一番避けたいのは裏方への転向。だってそんなの、 鮮度が落ちて廃棄される刺身みたいだもの。 女としての賞味期限が切れました、って周囲に言ってまわるよう なものだもの。 私の場合、そんなのもともと始まってすらいない気がしないでも ないけど。でも。 最近、若くて可愛い新人が入ってくるたび、お払い箱になる恐怖 に怯える。 事実、ミレちゃんが入ってきた晩にはホウキで掃き出される夢を 見て飛び起きた。 そんな恐怖から逃げたくて、だから、私は私の武器をただ磨くの だ。 飲み会を盛り上げて、夜中に勉強をして、休日にはエステに通っ て。 ひたすら頑張って、頑張って、頑張って。 ﹁さて、次は手話、っと﹂ 顔をぺちぺちっと叩いて、姿勢を正す。 足元が見えないように。ただ前を見ているように。疑問に︱︱思 わないように。 どうしてこんなに頑張らなきゃいけないの、なんて。 *** 17 ﹁荷造りは順調?﹂ 翌日、遅番で出勤した私を待ち構えていたかのように、彼はカウ ンターにやってきた。 その姿は前日と変わらず見目麗しく、微笑みはこよなくセクシー だ。迂闊にも見蕩れてしまった。 いかんいかん、相手は元・小学生よ。⋮⋮いや、それは私もか。 ﹁まとまったら昨日教えたアドレスにメールしてね、取りにいくか ら。あ、ねえ、最初はどこへ行こうか。やっぱりロンドン塔かな﹂ 他のお客様への対応をしながら、ミレちゃんがちらちらとこちら を窺ってくる。気になってたまらないみたいだ。 何のことでしょうか、なんて知らぬ顔をしてやりすごすことも考 えたけれど、 ﹁ちょっと、こっち﹂ 私は彼の手を掴んで社員用の通路へと引っ張り込んだ。 売り場内で修羅場になるのは避けたかったし、何よりあのときの、 無邪気だった少年を思うとどうにも無下には出来なかった。 ﹁⋮⋮あのね、なんていったらいいかな﹂ その。ああ、言いにくいなあ。 ﹁⋮⋮わ、悪いんだけど私、君とイギリスには行けないのよ﹂ ﹁そんな、どうして﹂ 18 あのときと同じ、道に迷った子供みたいな目をしないで欲しい。 申し訳なさで胸が痛くなる。 かといってここでロンドンへ旅立つ勇気は、私にはない。 それは彼に対する信用うんぬんの問題じゃあなくて⋮⋮まず、遊 ぶための休暇が取れそうにないのだ。 そんな悠長なことをしていたら、ポジションが危うくなる。今で さえ代休はおろか、有給だって使えずにいるのに。 ﹁もしかして旅費のこと? それなら僕が出すから心配しなくてい いよ﹂ ﹁いや、お金の心配じゃなくて﹂ ﹁じゃあ何? 何でも言ってよ。不安なら解消するから﹂ 解消⋮⋮出来るものなら自力でしてるわよ。なんて、言えない。 情けなくて。 ﹁え、えっと⋮⋮ほら! 名前も知らない男女がふたりで旅行って 変でしょ。あなたのご両親だって心配するわ﹂ あしで つづる ﹁ふたりならお姉さんが来るの、楽しみにしてるって言ってたけど﹂ ﹁ば⋮⋮ばんなそかな﹂ ﹁あ、僕の名前は綴だよ。葦手綴、今年で十九。おねえさんは神野 維紗さんだよね。AB型でもうすぐ三十歳で、身長は百六十八セン チ、特技は手話と点字。他にも色々知ってるけど言ったほうがいい ?﹂ ﹁待て﹂ ちょっとどころでなく待て。掌を突き出して遮る。 ﹁どうしてそこまで知ってるの。君とはあの日、会って以来だよね﹂ 19 君じゃなくて綴だよ、と訂正する目は少し悲しげで、若干申し訳 なくなる私はやはり駄目な女だ。 どうして、いつから、こんなに期待を裏切るのが怖くなってしま ったのだろう。 ﹁うん、言葉を交わしたのはね。僕、日本にやって来たはいいけど 半年もしないうちにイギリスに帰っちゃったし。でも、僕は七年間 ずっと維紗ちゃんのことだけを見てたよ﹂ ﹁ず、ずっとって⋮⋮﹂ イギリスから? そんなわけないだろう。真剣なまなざしに私は たじろぐ。 ﹁あ、あのね、オバサンをからかうのはやめて⋮⋮﹂ 苦笑いしながら言うと、﹁からかってなんかない!﹂間髪を置か ず返されて、そのうえ右手首を掴まれてしまった。 ﹁真剣だよ。僕の気持ちはあの日から少しもかわってない。維紗ち ゃんをお嫁にもらう。今回、日本に来たのはそのためだ﹂ ﹁よ、嫁って、﹂ 本気だったのか。じゃあロンドンって旅行じゃなくて永住? 待 て待て待て。それならなおのこと待て。 ﹁考え直そうよ、わ、私、君より十歳以上も年上なのよ﹂ ﹁綴って呼んでよ。年齢なんか関係ないだろ。それとも他に好きな 奴でもいるの﹂ ﹁い︱︱ないけど。ほ、ほら、私、可愛いタイプじゃないし。どっ ちかっていうと宴会向けだし。綴くんみたいな美形なら他にもっと 20 若くてきれいな子が﹂ ﹁維紗ちゃんは可愛いよ。世界一きれいだ﹂ ﹁う⋮⋮﹂ もしこれが英国流の礼儀作法でないのなら、本気で勘弁して欲し い。チヤホヤされるのは慣れていないのだ。悲しいかな、笑われる のと頼られるのなら慣れっこだけれど。 しかし若さ故なのか、綴くんは完全に火がついた様子でまくした てる。 ﹁日本に来るたび、ここに来たよ。見るたびあなたはきれいになっ て、メチャクチャだった英語もどんどん上手くなって⋮⋮きっと凄 く努力してるんだろうなって思った。その姿に、何度励まされたか わからない﹂ どうしてそれを。 心の奥の、一番デリケートな部分に触れられた気がしてギクリと してしまう。 勉強もエステも、誰にも気付かれていないと思っていたのに。 たった一度、言葉を交わしただけの彼が︱︱わかっていてくれた なんて。 ﹁だから、迂闊には声もかけられなかったんだ。僕はまだ子供だっ たし、あなたとつり合うようなもの、何ひとつ持ってなかったし﹂ ﹁か、かいかぶりよ。私、つまらない人間だわ﹂ ﹁どうして卑下するんだよ。維紗ちゃんは自分の良さをわかってな い。僕があのとき、どれだけ勇気をもらったか︱︱わかってない!﹂ 綴くんは思い詰めたような顔になって、私の手首を握る手に力を 込めた。痛くはない。 21 ただ、何故だか、焼けるように熱い。 守衛さんがこっちを見ている。何でもありません、と首を振って 伝える、なんて強がりな私。 ﹁七年前、日本になかなか馴染めずにいた僕は、自分のいるべき場 所はここじゃない、イギリスだからいいんだって言い聞かせて生活 してた。だから同級生ともろくに会話なんてしなかったし、ずっと それでかまわないって思ってて﹂ ﹁綴く⋮⋮﹂ ﹁だけどあの日、維紗ちゃんは見せてくれた。魔法みたいな言葉で、 垣根を飛び越えるところを見せてくれた。そうして僕に、壁を乗り 越える勇気をくれたんだ!﹂ 勇気を? 私が? そんな︱︱。 大袈裟だわ、なんてさらりと受け流す余裕も経験値も、私にはな かった。 ﹁放し、て﹂ ただ、身をよじって半歩引くので精一杯だった。 こんな上手い話があるわけない。絶対にオチがある。そうだ、課 長が仕組んだドッキリなんだ。 そう、言い聞かせるのに心臓は一向に落ち着いてくれない。 ﹁いやだ。もう絶対に放さない。やっと準備が整ったんだ。やっと なんだ。本当は七年間、いつか手が届かなくなるんじゃないかって 毎日怖かった⋮⋮﹂ ぐっと引き寄せられて、硬直してしまう。どうしよう。こんなの 初めて。こんな、情熱的な告白。くらくらする。 22 混乱しながらも、夜更かしで荒れた肌を見られたくなくて顔を伏 せた。 間近には彼の胸。突きつけられているのは、圧倒的な体格の差。 つまりこの瞬間、ランドセルを背負った少年と綴くんは、私の中 で別物になったのかもしれなかった。 ﹁ロンドンで僕と暮らそう。君が首を縦に降るまで、毎日来るから﹂ 綴くんは私を力一杯抱き締めた後、社員通路から売り場へと飛び 出していってしまった。 断るどころか呼び止めることすらできなかった。膝が生まれたて の子羊みたいに震えた挙げ句、カクリと折れる。 そのまま力なくへたり込む私は、言ってみれば、broken down︱︱。 23 3、ナーサリーライム︵c︶ 予告通り、綴くんは翌日も一ツ橋デパートにやってきた。 私は気が気ではなかった。なにしろ前日はあの抱擁以降、脈拍は 乱れっぱなしで業務にも支障が出ていたくらいなのだ。 話しかけられる!と思い身構えたもののしかし、彼は受付カウン ターを何食わぬ顔で通りすぎた。 そうして、斜向かいの売り場にあるティーサロンに入ってしまっ たのだ。 拍子抜けというか何というか⋮⋮この脱力感はなんだろう。 ﹁先輩、今日はあそこで待ち合わせなんですか?﹂ ミレちゃんは私と彼を交互に見、小声でそう聞いた。 ﹁そんなわけないでしょう﹂ ﹁でも、手、振ってますよ彼﹂ ﹁え﹂ 指摘されて視線を向ければ、窓越しに見えたのは満面の笑み。ひ らひらと、優雅に振られる掌も。 確信犯だったのか、ティーサロンに入ったのは。しかも窓際の角 を陣取っているし、長居するつもりとみて間違いないだろう。 しかし本日はやけにパリッとしたスーツを着ているけれど、あれ はまさか私のため? 考えると、顔面から火が出そうになる。 慌てて顔を背けようとすると、綴くんは自分を指差した後、それ をこちらへと向けた。 はっとする。手話だとわかったからだ。 24 続けて、彼が親指と人差し指をのばして顎をはさみ、前に出しな がら合わせていくさまを見て︱︱。 ︵な⋮⋮!︶ 顔から火、どころではなく全身が火炎放射器にでもなるかと思っ た。 ﹁あれ、手話ですよね。何て言ったんですか﹂ ﹁さ、さあ﹂ ﹁さあ、って⋮⋮先輩にわからないわけないでしょ﹂ ﹁一瞬だったからよく見えなかったのよ﹂ ﹁本当ですかぁ? 怪しい﹂ 鋭い。もちろんはっきりと読み取れた。でも、明かせるわけがな い。 “僕はあなたが好きだよ”⋮⋮そう、言われたなんて。 いつの間に覚えたのだろう、あんなの。まさか、これも私の影響? 一晩かけて克服した昨日の動悸が蘇ってきて、体が一気に火照る。 ︵どうしろっていうのよぉ︶ 結局、午前中いっぱいぎくしゃくしながらの接客になってしまっ た。リカバリーしようとしても出来なかった。何故なら︱︱。 綴くんがいつまでたってもその席を動こうとしなかったからだ。 心底、生きた心地がしなかった。 お茶を飲む横顔は綺麗でつい視線が惹き付けられてしまうし、う っかり目が合えば甘い言葉を囁かれる。 それも、私のために覚えたであろう、優しい仕草の言葉で。 “かわいいね” “君は魅力的だ” 25 “今日もきれいだよ” “抱き締めたい” 日本人なら口に出すのに躊躇われるようなストレートな台詞ばか りを、たくさん。 おかげで視界に入っていないときでも、彼のいる方向が気になっ てたまらなかった。 *** ﹁も、不整脈になりそう⋮⋮﹂ ようやく訪れたランチの時間、きつねうどんを前に休憩室でうつ 伏せていたら、 ﹁おう、神野﹂ 憎い男がやってきて私の後頭部をしたたか打った。 ﹁った⋮⋮これ以上馬鹿になったらどうしてくれるんですか課長﹂ ﹁休憩時間まで役職名で呼ぶなよ。昔みたいに及川でいい。敬語も ナシな﹂ ﹁突然言われても。及川と違って鳥頭だから即対応はできないわよ﹂ ﹁してるし﹂ ふっと笑ってネクタイを緩める彼は、初めて会った頃より肩幅が がっしりした。 最初はもっと優男で、頼りがいのない感じだったのにな。 ﹁なあ、夕べミレちゃんが言ってた男ってどういうことだ? おま 26 え、まさか彼氏でもできたのか﹂ ﹁だから昨日も違うって言ったでしょ。お客様よ、単なる﹂ ﹁だよな。神野が色気づいたら一ツ橋もおしまいだ﹂ なら言うな。文句は、うどんと一緒に胃の腑まで流し込む。 及川は弁当の蓋を取ると、いただきます、と礼儀正しくも手を合 わせてから箸をつけた。 ホウレンソウのごまあえに生姜焼き、海苔入りのたまごやき、炊 き込みご飯か。 ﹁相変わらず豪勢だねえ。彼女、毎日頑張るじゃない﹂ 偉いわ、と言おうとしたら、彼はさらりと﹁別れた。これ、俺の 手製﹂ ﹁は!?﹂ 思わず、掴んでいたおあげをどんぶりの中に落下させてしまった。 びちゃっ、とだし汁があたり一帯に飛び散る。咄嗟に避けたもの の着弾は免れず、胸元にしっかりシミを作ってしまった。 ﹁うわ、ヤバい、ロッカーにスペアのワンピースってあったかな﹂ あたふたする私に、及川が呆れ顔で差し出したのはハンカチ。そ れも、きっちりアイロンがかけられたやつ。まさかこれも自分で? ﹁リアクション芸も見事なんだな、おまえ﹂ 受け取るか否か、迷ってしまった。だって。 私が及川を諦めようと思ったきっかけこそ、その彼女が出現した 27 ことだったし︱︱。 ふたりの付き合いはもう六年、そろそろ結婚するんじゃないか、 なんて噂も流れていたからだ。 及川が、別れた? 嘘でしょ。 ﹁そんなにビビることか?﹂ ﹁そ、そりゃもう、ビビらない大木だってビビる大木になるレベル よ﹂ 冗談めかして言ってみても、動揺はおさまらない。遠慮がちに受 け取ったハンカチの感触が、匂いが、何故だか生々しく感じられる。 ﹁なんだそれ。神野ってホントに面白いよな﹂ ﹁笑ってる場合じゃないでしょ。ちゃんと謝って許してもらったほ うがいいわよ。今なら間に合うって﹂ ﹁馬鹿言うな。俺が何かしたわけじゃない。⋮⋮いや、したのか﹂ わずかな沈黙。 直後、箸を置いた彼は顔の前で両手の指を組み合わせ、切なげな 視線を寄越した。 ﹁振ったんだ。俺のほうから﹂ ﹁そんな、可愛い子だったのに⋮⋮どうして﹂ ﹁どうしてだろうな﹂ 私に聞かないで欲しい。 その目を直視出来なくて思わず逸らせると、テーブルの上にあっ た左手をぎゅっと握られてしまった。 な、なに? 28 ﹁どうして俺、今まで気付かなかったんだろうな。本当に大切なの は、誰なのか﹂ ﹁おい⋮⋮かわ?﹂ ﹁俺、おまえが好きだ。本当はずっと、好きだったんだと思う﹂ ﹁な、にを馬鹿なこと⋮⋮﹂ 情けないけれど、奥歯が震えてカタカタ言っている。周囲の視線 が怖くて、私は深く俯いた。 及川は気にならないんだろうか。それとも、わざと皆の前で言っ てるの? ﹁馬鹿だろ。でもさ、やっと気付いたんだよ。結婚を考えたとき、 誰と一緒にいるのが一番楽しくて、一番居心地がいいのか﹂ そんなの、今更だ。夕べだってミレちゃんのことばかり持ち上げ ていたくせに。 憎まれ口ばかり叩いていたくせに。今更。 ﹁俺と結婚してくれないか﹂ 今更、どうしてそんなこと、言うのよ⋮⋮。 *** ミレちゃんと休憩を交代した私は、持ち場にひとりなのをいいこ とにぼうっと柱を見つめていた。 本来ならカウンターの中で拾得物のチェックをしたり、翌日刷ら れるチラシの内容を暗記したりという内職をこなさなければならな いのだけれど⋮⋮そんなの、手につく状態じゃあなかった。 29 ﹃俺と結婚してくれないか﹄ 先程の台詞がぐるぐる回って増殖して、頭の中を満杯にする。 いつからあんなことを考えてたんだろう、及川。 聞けば彼女とはもう同棲も解消しているらしいし、となると少な くとも昨日今日の決意ではないはずだ。 でも、そんなそぶりは今まで一度も見られなかったし、だから唐 突すぎて︱︱喜ぶべきか否か、複雑な気分。 そりゃ、告白されたことに関しては、嬉しくないわけじゃあない。 及川は某有名国立大学出身のエリートで稼ぎだって悪くないし、 ルックスもそこそこいいし、憎まれ口さえ叩かなければいいやつだ。 今もはっきり覚えている。 入社当時“どうしてあんな子が受付に”と陰口を叩かれていた私 を、及川が﹃堂々としてろ﹄と勇気づけてくれたこと。 あの頃はよくふたりで飲みに行ったものだった。休日も頻繁に逢 ったりしてたっけ。 デートというより、友達同士の馬鹿騒ぎという感じだったけれど。 きっと、及川と結婚したら楽しい家庭が築けると思う。それは、 知り合った当初からずっと思っていた。 先輩受付嬢の中には航空機のパイロットや弁護士と結婚した人も いるけれど、もう高望みができる年齢じゃないし、もとから高給取 りを狙っていたわけじゃないし。 願ったり叶ったりなのだ。そのはずなのだ。 なのに咄嗟に頷けなかったのは︱︱。 ﹃ロンドンで僕と暮らそう﹄ 綴くんの存在が頭をちらついていたからに他ならない。 彼とは及川と違ってほとんど面識もないし、まだ子供だし、彼が 私に抱いている感情だって恋と言うより崇拝というか⋮⋮帰依?、 30 そんな感じのものに近い気がして、信用に値するかどうかははかり かねているところで⋮⋮。 なのに。いや、だからかしら。 簡単にすげなくするのはあまりにも無慈悲だとか、私、ちょっと した義務感のように思ってる。 でも︱︱それだけ、とは言い難いのも事実で。 だって、あんなにどきどきしたのは生まれて初めてだった。 影での努力を見破られたのも、認めてもらったのも初めてだった。 そんなことを考えて俯きがちになっていた私は、カウンターが影 になったことではっとして顔を上げた。 ﹁あ、い、いらっしゃいませ﹂ また噛んでるし。 リブレス デ インプエストス?﹂ 今夜から早口言葉も勉強のひとつに加えないといけないかしら。 ティエンダス なんて思ったら、 ﹁アイ say it again⋮⋮﹂ 呪文のような言葉を投げかけられて、凍った。彫りの深い顔かた ち。外人さんだ。 ﹁ソーリー、Please 辛うじて聞き返したものの、目の前の岩石のような巨体の男性は 先程と全く同じ台詞を繰り返す。そこでようやく気付いた。 これ、英語じゃない︱︱。 31 ﹁クアル エス ラ ティエンダ え? え? 何語? コン マジョル スルティド?﹂ フランス語でないことはなんとなく分かるのだけれど、その先の 想像はつかない。早口だから、というわけでもなさそうだ。 ︵これ、私の手には負えないわ︶ そう判断した私は、ダメもとの英語で少々お待ち下さいと彼に伝 え、内線機でミレちゃんの携帯電話にダイヤルした。 彼女なら四カ国語を話せるし、最悪、どこの国の言葉かだけでも 見破れれば、解決の糸口が見つかるかもしれない。 しかしお決まりのように、こんなときに限って電話はいつまでた っても繋がらない。 バックヤードは奥まっているうえに入り組んでいるから、電波の なさは洞窟並みなのだけれど。でも、そうとわかっていても、焦燥 は募る。 仕方なく十回目のコールでミレちゃんに見切りをつけた私は、次 に及川の番号を押した。 及川も一応、留学経験があって語学には明るいのだ。が、今度は すぐに繋がったものの、外出中ですぐには戻れないと言われてしま った。 いよいよまずい。 他のフロアの受付係に来てもらおうか。ああでも、今日は週半ば だから人数少なめのシフトなんだっけ。 そもそも、英語以外の言葉が喋れるスタッフって他の部署にいた? ︵どうしよう⋮⋮!︶ ひんやりした汗が額を濡らす。 館内放送で呼ぶべき? でも、それは最終手段であって積極的に 使ってはならないことになっているし⋮⋮。 32 これまでもこんなことはあったはずなのに、いつになくうろたえ てしまうのは先程の同様が尾を引いている所為だろうか。 内線用の電話帳を捲る手が震えている。 どうしよう、ああ、もう、本当にどうしたらいいか︱︱。 すると、トントン、とカウンターをノックする音がして、同時に ﹁維紗ちゃん﹂ 名前を呼ぶ声。聞き覚えのあるそれに、私はゆるり、顔を上げる。 ﹁つ、綴くん﹂ いつからそこに。 ﹁僕が代わってもいい?﹂ ﹁え⋮⋮﹂ ﹁スペイン語。一応喋れるから﹂ そうして彼は優しい笑顔をひとつくれると、そのままお客様に向 き直りオラ、だかホラ、だか呼びかけた。 同じ言葉を返しつつお客様はほっと表情を緩め、堰を切ったよう に話し出す。 スペイン語だったのか。 私はその光景を前に、感動するやら安堵するやらで、涙ぐんでし まった。 凄い、綴くん⋮⋮。 ﹁維紗ちゃん、この人フィルムが欲しいみたい。一ツ橋の中にはな かったよね。僕、駅前の雑貨屋さんを案内してくる﹂ ﹁あ、ありがとう!﹂ 33 ﹁You’re welcome. 飯でいいよ? なんてね﹂ お礼は維紗ちゃんお手製の夕 軽く手を振って出て行く彼の後ろ姿は、これまで出会ったどんな 男性より頼もしかった。 別にがっしりしているわけじゃあないし、むしろ細すぎるくらい なのに、それでも。 私はカウンターの中で彼の背が見えなくなるまで見送り、そうし て思った。 綴くんが私の努力を見抜けたのは、彼がその努力ってやつを知っ ているからで、つまり彼こそよほどの努力をしてきた人なんじゃな いかなあ、って。 だって、よく考えてみれば綴くん、あの頃よりずっと日本語が上 手くなってる。 ︵私もしっかりしなきゃ︶ 両頬を叩いて気合いを入れる。そうして、午後はめいっぱい仕事 に精を出した。 彼が認めてくれた努力を、無駄にしてはいけないと思った。 綴くんはというと、よほど話が盛り上がったのか、遠くまで行っ てしまったのか、閉店時間になっても姿を見せなかったのだけれど。 34 4、フードプロセッサー 同じ日、とっぷり暮れた二十時半の駅前で、私はひとり綴くんを 待っていた。 閉店後、私のほうからメールで呼び出したのだ。彼の望み通りの、 お礼をしてあげたくて。 しかし暮れたとはいえ繁華街はまばゆいくらい明るくて、私は朝 日にそうするように、わずかに目を細める。 いつも思うのだけれど都会の闇って、ネオンに圧されて底が見え る程度の深さしかない気がする。情緒がないとでも言うのかな。 そのぶん物陰はやけに暗く感じられて、そこがまたいまいち夜ら しくなくて⋮⋮薄っぺらいの。 そんなことをぼんやり考えていたら、交差点の向こうから走って くる綴くんの姿が視界の隅にうつった。 ﹁維紗ちゃーん!﹂ 数時間ぶりに見る彼はスーツにヨレもなく喜色満面で、私はそこ に若さってやつを感じ取る。 私だって以前はあんなだっただろうに、どうしてこんなに老けた んだか。 ﹁待たせてごめんね。なかなか別れがたくて﹂ ﹁別れがたい? もしかして誰かと会ってたの? ごめん、私、急 に﹂ ﹁いや、違うよ。そうじゃなくて︱︱﹂ 聞けば、綴くんは先程のスペイン人旅行者と今の今までカフェで 35 話し込んでいたのだと言う。 時間にしたら十時間以上にもなる。聞き取ることさえ困難だった 私にとっては別世界の話だ。 ﹁凄いのね、綴くん。さっきも突然淀みなく喋るからびっくりしち ゃったわ﹂ ﹁そりゃ、維紗ちゃんにふさわしい男になるために猛勉強したから ね。今では一応六カ国語話せるよ﹂ ﹁ろ、ろっかこく!?﹂ それでは出来過ぎて逆に私のほうが彼にふさわしくない気がする ⋮⋮なんて、何考えてるんだろ、私。どうかしてる。 ﹁それにしても信じられないよ。まさか維紗ちゃんがディナーに招 待してくれるなんて﹂ ﹁夕飯をつくって欲しいって言ったの綴くんじゃない﹂ ﹁そうだけど、あれ、玉砕覚悟で言ったんだ。まさかこんな⋮⋮夢 かもしれない!﹂ 反応に困ってしまった。こんなに喜ぶなんて思わなかった。 ﹁あ、か、買い物寄るけどいい? メニュー、リクエストがあった ら言ってね﹂ ﹁うん。じゃあフィッシュ&チップス! ふるさとの味なんだ。日 本に来てからはありつけてなくて﹂ ﹁わかった、フィッシュ&チップスね。そうだ、せっかくだから和 食も食べる?﹂ ﹁つくってくれるの!? 凄いや維紗ちゃん、なんでも作れるんだ ね!﹂ ﹁な、なんでもってわけじゃ⋮⋮料理、好きなだけで﹂ 36 照れ隠しに後れ毛を弄りながら、彼と並んで駅ひとつ先のスーパ ーを目指した。 二十四時間営業の、いつもお世話になっている店だ。 自炊の食材はいつもここで調達する。一ツ橋からは少し距離があ るから同僚にも出くわさなくてすむし、だから笑ってごまかす必要 もない。⋮⋮何故こんなに気を遣わなければならないのか、考え始 めると落ち込むけれど。 *** ﹁本当にいいんだね、僕があがっても﹂ 買い物袋をぶら下げて玄関前、途端に綴くんは緊張の面持ちにな る。 つられてどぎまぎしかけたものの、平静を装ってさらりと返した。 ﹁どうぞ入って。子供が気を遣ったらいけないわ﹂ だめだめ、ここで変な空気をつくったら後がやりにくくなる。 ﹁⋮⋮それ、男は家に上げられない、って追い返されるよりショッ クだ﹂ がっくりと肩を落とすさまは不憫だけれど仕方がない。 こうして彼を玄関に招き入れた私は、一足早く廊下の先へ急いだ。 パジャマがソファーの上に放りっぱなしなのだ。急いでそれを洗 濯機に放り込み、辛くもセーフと呟く。 ﹁ここが夢にまで見た維紗ちゃんの部屋かあ﹂ 37 綴くんは目を輝かせて、きょろきょろしながらリビングにやって きた。 ﹁見たんだ、夢⋮⋮﹂ ﹁もちろん。七年も想っていれば一度や二度は見るよ。︱︱いや、 うそ。本当はもっと頻繁に見てた。毎晩、逢いたいって願ってたか らね﹂ ﹁またそういう﹂ 恥ずかしいことを言う。赤くなりかけた頬を隠すために背を向け て、ついでに流し台の上の戸棚を開いた。 確かこの辺にフードプロセッサーがあったはずなのよね。あれを 使えばスープの下ごしらえが楽になるんだけど。 しかし、背伸びをして手の先だけで探っても、なかなかそれらし いものには当たらない。 脚立を持ってこないとダメかなあ、とひとつ嘆息したところで、 ﹁これ?﹂背後から長い腕が伸びて来た。 ﹁えっ、あ、ありがと﹂ びっくりした。 綴くん、大きいんだ。ハイヒールを脱ぐと余計に実感してしまう。 百八十センチは超えてるだろうなあ。 ﹁それにしても調理器具、いっぱいあるんだね。電動泡立て器にホ ームベーカリー、あれはワッフルメーカー?﹂ ﹁うん。本格的にやってみたくてつい色々買っちゃって﹂ ﹁へえ、維紗ちゃんらしいや﹂ 38 耳を疑ってしまった。 ﹁私らしい? どこが﹂ 料理が? そんなわけないよね。 となるとミーハーなところかしら? なんて笑って聞き直そうと すると ﹁うん。研究熱心っていうか、勤勉なところ、すごく“らしい”よ。 維紗ちゃんはこうやって、当たり前のように影でこつこつ努力が出 来る人なんだよね﹂ 迷いなくそう言われて、思わず両目をしばたたいてしまった。 どうしてこの人はこう、いとも簡単に私の裏側を暴くのだろう。 昔からの友達にもバレないようにしているのに。バレずにやって きたのに。 どうして綴くんだけが。 ﹁だって⋮⋮美味しいものって人を幸せにしてくれるっていうじゃ ない? それで私、いっとう美味しいもの、食べたくて⋮⋮﹂ 動揺をごまかそうとして、私はうっかり墓穴を掘る。 何言ってるの、私。この子にこれ以上情けない自分をさらけだし てどうするのよ。 ﹁な、なんてね。要は食い意地がはってるだけなんだけど、うん﹂ 彼に言ったところで解決にはならないのに。愚痴にしかならない のに。 幸せに飢えていること。些細な幸せにでも縋りたいと思っている 39 こと。 ﹁さて、急いで準備するからちょっと待っててね﹂ 慌ててじゃがいもを流し台の中に置いて、エプロンを首からかけ る。まったく、もうすぐ三十なんだからしっかりしなきゃ。 そうして気を取り直した私は、直後にピタリと動きを止めた。止 めざるを得なかった。 ﹁なら、料理なんてさせない﹂ 彼が、背中から覆い被さってきたから。 ﹁維紗ちゃんを幸せにするのは料理じゃない。僕だよ﹂ ﹁つ、綴く⋮⋮﹂ どくん、どくん、胸が早鐘を打ち始める。 ﹁⋮⋮ねえ、キスしてもいい?﹂ 耳元で囁きかけられて、細い指にアゴをすくわれて、私は凍り付 いたまま狼狽する。 まずい、これ、絶対に回避しないとまずい。 しかし、肩越しにこめかみへと唇を押し付けられたら、腰骨のあ たりが淡く疼いた。 ﹁っ、ちょ、きょ、今日はご飯をご馳走するだけって︱︱﹂ 間近に迫るは、色気たっぷりの泣きぼくろ。 まっすぐにこちらを見つめる瞳は、虹彩のふちがくっきりしてい 40 て恐ろしいくらいの眼力をもっている。 見つめ返さずにはいられないほど。 ああ、見ちゃ駄目。だけど、目を逸らせない。 ﹁そう言ったのは維紗ちゃんだろ。僕は何もしないとは言ってない﹂ ﹁そ、れは⋮⋮﹂ ﹁さっきも玄関先で確認したはずだよ。本当に上がってもいいのか って。一応、忠告のつもりだったんだけどな﹂ 嘘でしょ。 私は震える手で彼の胸を押し戻す。しかし腰に腕を回されている 以上、根本的な解決にはなっていない。 ﹁やめっ、は、反則っ﹂ ﹁男として逢いにきた僕を子供扱いするほうがよっぽど反則じゃな いか﹂ ﹁ご、ご飯! 食べられなくなってもいいのっ﹂ ﹁それは困る。けど、今は維紗ちゃんに逃げられるほうが困るかな﹂ 生え際に、鼻の先、次に口付けられたのが唇のきわだったから、 私はますます身を堅くした。 キスなんてもう何年もしていない。どんな顔をしてどんなふうに 受け止めたらいいのかわからない。 わからないのよ、年上なのに。 ﹁︱︱っ、やめないともう、二度とご飯作ってあげないから!﹂ 私は両目をぎゅっと瞑って、苦し紛れにそう叫ぶ。 すると、綴くんはそれまでの強引な拘束が嘘のようにパッと手を 離した。 41 ﹁ならやめる﹂ ﹁⋮⋮よ、よし﹂ 後ろ手にキッチンの端につかまり、ひとまずの安心を得る。助か った。だけど、もう、膝に力がはいらない。 どうしよう。私、いつから男性への免疫、切れちゃってたんだろ う。 冷や汗を拭っていると、彼はこちらを覗き込んで無邪気に笑った。 ﹁でもそれって、今キスしなければ二度目があるってことだよね?﹂ うっ。 ものすごくマズいことを言ってしまった予感⋮⋮。 *** ﹁いただきまーす!﹂ 向かい合って食事を始めると、彼は一口食べるごとに美味しいよ とか完璧だとか褒めてくれた。 嬉しいことは嬉しい。でもあまりにも激しく絶賛するので、恥ず かしさのあまり料理とは無関係な世間話をふってしまった。 ああ、私、こういうところが駄目なのかも。でも、だって、慣れ ていないんだもの⋮⋮。 ﹁へえ、綴くんは大学生なのね。日本に来ちゃってて勉強のほうは 大丈夫なの?﹂ ﹁うん。問題なのは家族とバイトかなあ。母さんなんて、毎晩ホテ ルの部屋に電話をしてくるんだ。お嫁さんとはもう一緒なの? っ 42 て気が早いよねえ﹂ ﹁よ、嫁じゃないし⋮⋮、ええと、ば、バイトってなにをしてるの かな﹂ 焦って、大きいままのチキンをフォークで口に突っ込んでしまう。 うんがっごっご、某海洋生物系家族の奥さんよろしく、呼吸困難に 陥りかけて必死で胸を叩く。 落ち着け、落ち着くのよ維紗。相手は十一も年下の未成年なんだ から、大人の余裕をなくしたらいけないわ。 ﹁日本語を含めた語学の家庭教師。富裕層には結構需要あるんだよ。 ほとんど毎日授業が入ってて、あ、でも一回につき百ポンドくらい 貰えるから割はいいかな﹂ ﹁百ポンド⋮⋮﹂ 卑しくも、庶民の私は頭の中で電卓を叩く。 確か一ポンドが百五十円くらいだったと思うから、かけることの 百で一万五千円。それをひと月分、実質二十二日で計算すると︱︱ 三十三万円!? ﹁それ、私より収入多い!﹂ ﹁うん? でもロンドンは東京より物価高いし。相手はリッチなお 宅ばかりだから妥当かと﹂ そういう問題じゃあない。 正直、後ろ頭をしこたま殴られたくらいの衝撃があった。粉砕さ れたのは頭蓋骨じゃなくてプライドだけれど。 子供だと思ってたのに、まさか学生の彼が勤続七年の私より稼ぐ だなんて。 ああでも、綴くんは六カ国語が喋れるわけだから、講師としては 43 ものすごく優秀なはずだ。そう考えると、おかしくはない。 これだけ綺麗な顔立ちなら、奥様方にもウケが良さそうだし。 ﹁僕、将来的には語学のスクールを開きたいと思ってて。自宅の半 分を教室にしてさ、子供達をいっぱい集めて授業をするんだ。楽し そうだと思わない?﹂ 笑顔のまま、彼は大きな口でポテトを頬張った。 ﹁綴くんならきっと出来るわ﹂ うん、とはあえて言わなかった。仕事を﹃楽しそう﹄と言われて、 簡単に肯定できるほど私は若くなんかない。 そりゃ、七年前は︱︱入社した当時はそう思えていた時期もあっ た。 一ツ橋で働けることが誇りだったし、お客様のために力を尽くせ る自分が凄く好きだったし、ありがとうと言われると毎回格別に嬉 しかった。 仕事が活力になって、毎日が回っていた。充実していた。確かに 楽しかったんだ、あの頃は。 でも⋮⋮半年後くらい経った頃かな、現実に気付いたのは。 デパートの顔? そんなのとんでもない。受付はデパートにとっ て緩衝剤でしかないじゃないの、って。 お客様からテナントに対する苦情が入れば平身低頭して詫び、無 茶な要求をするお客様がいらっしゃれば今度は全力でテナントをフ ォローし、だから日々板挟みで、そんな自分がやけに八方美人に思 えてしまって、やるせなくて。 なのに休憩室では“気取ってる”“立ってるだけで給料がもらえ 44 る”なんて揶揄されて、店頭では制服マニアからの盗撮も絶えなく て、どこにも居場所がなくて。 けれど、こんな私達を憧れとして入社してくる人達がいるのも事 実で︱︱だから、完全に身動きがとれなくなった。 毎朝、頭痛薬と胃薬のお世話になっていた。 そんな生活を続けた結果、生き物としての生存本能がそうさせた のか、やがて嫌なことは感じなくなっていったのだ。 麻痺、したのだと思う。しかし同様に、感動する気持ちまで⋮⋮ 鈍くなった。 ありがとう、に特別感動はしなくなった。 言うなれば、全てを平坦にしか感じられなくなったのだ。駅前の、 夜の闇のように。 にもかかわらず、何故だか今の位置に必死でしがみつこうとして いる、なんて惨めな私。 プライド? ううん、そんなに綺麗なものなんかじゃない。これ はむしろ、執着とか保守とかそういう︱︱。 ﹁︱︱紗ちゃん、大丈夫? 維紗ちゃん﹂ ﹁え、あ﹂ 綺麗な顔に覗き込まれてハッとする。いけない、考え込んでた。 ﹁ごめん、な、なんの話だっけ﹂ ﹁いや、話は別に良いんだけど⋮⋮﹂ 綴くんは気遣わしげに、右の掌を私の額にあてがう。 それはじんわり温かくて、酷く懐かしい感触で、一瞬、目の前の 全てを忘れてしまうくらい心地良かった。 45 ﹁こちらこそごめん、疲れてるんだよね。なのに料理、ご馳走して くれて本当にありがとう。でもそろそろ休んだほうが良いよ。今日 は僕、もうホテルに帰るから﹂ ﹁え、でも、せっかく来てもらったのに﹂ ﹁僕が押し掛けたようなものじゃないか。維紗ちゃんが気にするこ とじゃない。でも⋮⋮仕切り直しはしたいから、今度のデートは僕 に奢らせて﹂ ﹁デート?﹂ これ、デートだった? ﹁うん、そう。そのときは僕、﹂ と、まさにそのとき、彼の台詞を邪魔するようにピンポンとリズ ミカルなチャイム音が鳴り響いた。 誰よ、こんな時間に。私は口早に﹁ちょっとごめんね﹂告げると 即座に席を立った。 ﹁はーい!﹂ 短い廊下を転げるようにして急ぎ、ドアノブに掴み掛かる。宅急 便だったときのために、印鑑をかまえて。 そうして大した確認もせぬままドアを勢いよく開いた私は︱︱ ﹁⋮⋮え﹂ 即刻、後悔してしまった。 ﹁よ、神野﹂ 46 そこに、馬鹿でかい花束を抱えた及川が立っていたから。 な、なんでここに。いや、ここの場所は以前から教えてあったし、 何度か招いたこともあるけど。 でも、なんで今? そして花? ﹁ちょっといいか? 話があるんだけど﹂ ﹁い、今!?﹂ ﹁ああ。上がってもいいか﹂ ぶるぶるとかぶりを振る。とんでもない、駄目に決まっている。 だって、今部屋には綴くんがいるんだもの。 しかし悪いことというのは、防ごうとしたときすでに進行してい るのが世の常で。 ﹁維紗ちゃん?﹂ 背後から呼ばれて、私は飛び上がった。及川の目が驚きに見開か れる。 振り返れば、廊下の先に佇む綴くんの眉間には深いシワが刻まれ ていた。 私を挟んで向かい合った男ふたり。 彼らはほぼ同時に互いを指差し、 ﹁誰だ、そいつ﹂ ﹁ねえ、その人誰﹂ と私に訊いた。 ︵うそでしょぉおお!!︶ 47 48 5、ワンストローク︵a︶ 波乱の一夜をからがら越え、翌朝︱︱。 私は寝不足のあとを、清水買いの美容クリーム︵十グラムで三万 円︶と目元専用コンシーラーでどうにか誤摩化し、気合いだけで前 日より三十分早い出社を果たしていた。 これほどの虚脱感を抱えて出勤するのは久々だ。しかし泣き言な んか言えない。 ﹁では、最後に接客七大用語の唱和にうつらせて頂きます﹂ 目前に広がるのは人の海。テナントを含め、本日出勤のスタッフ 全員を今、私は見下ろして笑顔になる。 ﹁︱︱“いらっしゃいませ”﹂ 木曜の朝礼、締めを任されているのは私達受付カウンターの面々 だ。このときは全員が壇上に立って、接客用語の唱和を促す。 ちなみに何故朝礼が月曜ではないのかというと、そこにはちょっ とした時代の趨勢みたいなものが関係していたりする。 というと若干小難しい話になりそうだけれど、単純に言えば月曜 定休の名残りなのだ。 ﹁“かしこまりました”﹂ 話は戻って、接客用語というのは接客業に従事している者なら必 ず知っている基本の言葉だ。 店店によって種類や数は違うのだけれど、一ツ橋デパートの場合 49 は、いらっしゃいませ、に始まり、かしこまりました、少々お待ち 下さいませ、お待たせ致しました、申し訳ございませんが、恐れ入 りますが、そして、ありがとうございました、の七つが設定されて いる。 私達は壇上でそれらの“最も美しいお手本”を見せなければなら ない。お辞儀は真礼の四十五度、言葉によってはとびっきりの笑顔 で。 そうして、テナントを含むスタッフ全員にその場で真似をしても らうというわけだ。 ちなみに四十五度のお辞儀というのは、上体をまっすぐに保った まま倒し、自分の爪先より一メートルほど先を見た状態らしい。 研修のときに、まず真っ先に習った。 つまり、何事も基本が大切ということなのだろう。 基礎なくして建物は建たない。学生時代からもそう、言われ続け てきた。 これは正論だと思う。 思うのだけれど。 *** ﹃開店十五分前となりました。開店の準備は整いましたか? 本日 の営業時間は︱︱﹄ 朝礼を終えてカウンターに戻り、スタッフ向けの館内放送を入れ ていると、ミレちゃんがどたばたと駆け込んできた。 ﹁すみません、寝坊しましたっ﹂ 50 ﹁しいっ、アナウンス中!﹂ あさぎ ふみ それを、フミさん︱︱本名は浅葱文︱︱が慌てて制止する。彼女 は私達と同じく正面入り口を担当する受付嬢で、私より四つ年下の 女の子だ。 ミーハーなミレちゃんに比べ地に足がついた知性派で、ショート カットが似合う中性的な美人。宝塚的、と言ったほうが良いかな。 そんな彼女に渋面で振り返られ、ミレちゃんは両手で口を押さえ 立ち止まる。 ﹃みなさま、本日も一日笑顔での接客を心がけましょう﹄ どうにか言いきると、私はスイッチを二カ所カチカチッと押して 電源を切った。 最後にはチャイム音を入れないのが一ツ橋流。スーパーのように なるのを避ける為だという。 ﹁まったく、これで何度目だかわかってるの、遅刻﹂ アナウンスを終えた私の前で、フミさんがミレちゃんを叱り始め た。私より年下なのに私より迫力があるとはこれいかに。 ﹁学生じゃないのよ。お金貰ってるんでしょ。自覚なさい﹂ ﹁はい、ごめんなさい⋮⋮﹂ ﹁すみませんでした、でしょう。基本よ基本。そういう細かいとこ ろで一ツ橋の品格が問われるんだから﹂ 彼女の言葉は正しい。立派な正論ってやつだ。思うに正論と基本 というのはセットなのだろう。 間違えてはいない。いないのだけれど⋮⋮。 51 割り込もうかどうしようか迷いつつ、ひとり黙々と開店準備を続 けていると、 ﹁おはようさん。立礼の準備はできてるか﹂ 及川が、まだ稼働していないエスカレーターを軽やかに駆け下り てきた。一瞬、どきっとして動作が止まってしまう。 ﹁あ、はい、もうすぐ﹂ ﹁なんだ、フルメンバーなのに随分もたついてるな。浅葱さん、夏 目さん、神野を手伝ってやって﹂ ﹁はい、すみません!﹂ 慌ててカウンターを磨き始めるふたりを前に、及川はちょいちょ いと人差し指を動かして私を呼ぶ。 何事かと体を斜めに傾ければ、﹁今夜、楽しみにしてるから﹂ひ そめた声で囁かれてしまった。 ﹁ちょ、か、課長﹂ なにも今、ここで言わなくても。 ﹁そんなにわかりやすい顔するなよ、もっと虐めたくなるだろ。︱ ︱しかし愉快だな。こればっかりは綴少年には真似出来ないだろう と思うと愉悦にひたるね﹂ ﹁⋮⋮及川がそんなに大人げないとは思わなかった⋮⋮﹂ 聞こえるか聞こえないかのボリュームで零すと、及川はあははと 爽やかに笑った。 ああ、今夜のことを思うと気が重い。胃が痛い。 52 というのも実は夕べ︱︱。 ﹃誰だ、そいつ﹄ ﹃ねえ、その人誰﹄ あのあと何の諍いもなく場をお開きに出来たかというと、そんな に都合のいい話があるわけもなくて。 ﹃あのっ、これは、ですね﹄ どちらに対してだかわからない弁解を始めた私を指差し、及川は ﹃ああ﹄と頷いた。 ﹃もしかして弟か﹄ なんて及川らしい、身勝手で能天気な解釈だろう。しかしこの言 葉を、若き綴くんが黙ってやり過ごせるはずはなかった。 ﹃まさか。僕は葦手綴、維紗ちゃんに︱︱求婚中の男だ!﹄ きゅ、きゅうこんって。私は黒目を泳がせながら、ふたりに悟ら れぬようわずかにあごを突き出した。それって口語だったっけ。 ﹃そっちは?﹄ ﹃あ?﹄ ﹃自らの名を名乗らないなんて、この国ではそういうの、無礼者っ て言うんじゃないの﹄ ﹃⋮⋮随分古風な価値観をお持ちのことで。まあいい。俺の名前は 及川龍之介、神野とは同期入社で現在は上司にあたる。それと﹄ 53 言って及川は私の脇腹に巨大な花束を押しつける。 ﹃え、あ﹄ 持ってろってこと? まさかくれるの? 咄嗟に両手で抱えたものの、大輪の薔薇ばかりを米俵のようなボ リュームでまとめたそれは、週刊誌を数冊担いでいるかのような重 さで、私は耐えきれずよろける。 ﹃俺も、こいつに求婚中の男だ。他に相手がいるって話は聞いてな い﹄ ﹃僕こそ﹄ まずいな、と思った。このままじゃ最悪、取っ組み合いになる。 ﹃あ、あのさ、とりあえず﹄ 立ち話もなんだから上がって話そうか、と私は言おうとした。 もうこうなった以上、争いは不可避だとしてせめて室内でお願い せねば。 玄関先で騒いでいたら近所迷惑だし、大家さんに訴えられでもし たらそれこそ日常生活に差し支える。 なのに及川はくっと意地悪く笑って、 ﹃なら握手でもしておくか。少年の︱︱失礼、綴くんの懐古趣味に 付き合って、この国らしく正々堂々と神野を取り合おう、ってな﹄ 綴くんの神経を逆撫でするようなことを言う。血の気が引いてし まった。 54 ﹃お、及川、なんてこと﹄ 恐る恐る振り返った私はしかし、そこに場違いなほどの余裕の笑 みを見た。 え、今、笑うところ? 思わず二度見してしまった。 ﹃随分おかしなことを言うんだね、おじさん。“正々堂々”は元を 辿れば孫子の兵法だよ。日本発祥じゃあない﹄ そ、そんしって誰。ソフトバンクの社長⋮⋮じゃないわよね。 ﹃⋮⋮随分頭でっかちなガキだな﹄ ﹃維紗ちゃんに相応しい男になるためにそれなりの努力はしてきた からね。経験の上に胡座をかいて偉ぶる大人にはなりたくないし﹄ ﹃言ってくれるじゃねえか。ま、そうやってすぐに頭に血がのぼる あたり、まだまだ若い証拠だな。せいぜい年相応の女とよろしくや れよ﹄ ﹃年齢を盾にしなければ自尊心が保てないの? 哀れだね﹄ ひい。 私はあわあわと唇を開閉しながら、罵りあう彼らを交互に見てい た。右左右左右左。首の運動かと。 言い合いがどのくらい続いていたのか、時計を確認していないか らわからない。 しかしその間にわかったのは及川が案外大人げないということと、 綴くんが卓識であること、そして自分が男女の諍いに全く慣れてい ないことの三点で︱︱。 気付けば私は、何故だか、彼ら各々との平等なデートの約束をさ せられていた。 55 経緯は覚えていない。けれど及川とは翌日つまり今日の晩、綴く んとは明日⋮⋮休日の昼間の予定だ。 先週土曜からの連勤の末、訪れるはずだった休息のとき。それを もれなく奪われて、私は泣きそうだった。 ここ数日、なかなか頭に入らなかった英会話の勉強、まとめて復 習しようと思ってたのに。 先週から目をつけていた無農薬野菜のカフェ、ひとりでのんびり 行こうと思ってたのに! でも、口々に“あいつに義理立てする理由があるのか”なんて問 われたら、どちらかだけを優先させるわけにもいかなくなってしま って。 人間関係って難しい。特に三人って集団は。 その難しさ、形状にもはっきり表れていると私は思うのよね。 だって三角形ってそう簡単には転がらないし、うっかりするとさ くっと角が刺さりそうじゃない? 56 6、ワンストローク︵b︶ ﹁では、お先に二番です。後はよろしくお願いします﹂ ﹁はい。お疲れさまです﹂ “二番”はよくある店頭用の隠語で、ここ、正面受付カウンター においては昼の休憩を意味する。 順番は日によって違うのだけれど、今日は私だけが早番のシフト で、ふたりより早めに退社する予定だから、必然的に休憩も一番先 になっているのだ。 いつもであれば休憩室に直行するところを、私は透明のビニール バッグを手に地下の食品売り場を目指した。 木曜といえばお惣菜コーナーの特売日。だから、本日のランチは 下で見繕って休憩室に持ち込もうと思っている。 ﹁お、維紗ちゃんじゃねえか!﹂ うおげん げんざぶろう 今日は煮付け弁当が安いよお、と威勢良く声を掛けてくれたのは 角の魚屋﹃魚源﹄のオーナーである源三郎さん。通称サブちゃん。 一ツ橋デパートを職場にしていて、彼を知らない者はいない。 元・ボディービルダーの肉体を生かして重い荷物を持ってくれる 彼は、いつも気さくで朗らかで、誰でも分け隔てなく接してくれる 人気者なのだ。 年齢は二十も違うけれど、私にとって彼は職場における貴重な“ お友達”だったりする。 ﹁カレイのいいのが入ってさ、どうだい維紗ちゃん、ランチに﹂ 57 トレードマークであるドーナツ型の髭を歪ませて、サブちゃんは 得意げに胸をはる。今日も立派な胸筋だ。 ﹁そうねえ、すっごく美味しそうだけど⋮⋮今日はサラダとパスタ って決めてるんだ。ごめん﹂ ﹁なんだよー、つれないねえ。おじさん、若い子に冷たくされると 血圧がさがっちまうよ﹂ ﹁あら、少しは下がったほうが健康にいいかもよ、案外﹂ ﹁鋭いところをつかないでおくれよ。その台詞はかみさんから散々 聞かされて耳タコさね﹂ ﹁まあ素敵、いい奥様じゃない。あ、そういえば先週の銀ダラはお かわりが食べたいくらい美味しかったわ!﹂ 言うと、沈んでいた彼の顔がパッと明るくなった。 ﹁本当かい! そりゃ嬉しいねえ。魚屋冥利に尽きるよ﹂ ﹁ふふ、また美味しいの、食べさせてね﹂ ﹁おうよ!﹂ 力こぶをつくる彼に小さく手を振り、私は売り場の中央を目指す。 今日はパスタとサラダ、そうと決めているのにはわけがある。 ここで物を買うときには、一応のローテーションを守って回るの がマイルールなのだ。 先週あちらを利用したら、次はこちら。一店舗だけを重点的に利 用したりは決してしない。 “本部さん”として、テナントを公平に扱う為に。 ﹁すみません、サーモンと水菜のサラダを二百グラムと、お豆腐と ゴーヤのサラダを百グラムください﹂ 58 さいえん サラダ専門店﹃菜園﹄を覗き込んで頼むと、小柄な中年女性が憮 まつこ 然とした顔でトングを持った。 オーナーの松子さん。人呼んでマツコ・ミニマムさん。毒舌なの だ。 彼女と私は正直、あまり仲が良ろしくない。 というのも、彼女が休憩室で﹃受付嬢っていけ好かないんだよね え﹄と愚痴をもらしているところに、偶然出くわしてしまったから で︱︱。 まあ、例の逃避構造が出来上がっていた私にとっては大した問題 ではなかったのだけれど⋮⋮。 しかしその後も﹃菜園﹄を利用し続ける私を、彼女はどうやら疎 ましく思っている様子だった。 当然か。 かといってわざわざ一ヶ所だけを省いて買い物をする気は、私に はどうしたっておきない。 別に意固地になっているわけじゃあない。 何となく信じていたいだけだ。自分自身に対して、そう言い聞か せていたいだけなのだ。 平等であるべきだ、って。 それは単純に、均等な配分をする、という話じゃあなくて⋮⋮。 努力をしたぶんだけ幸せになれるとか、そういう。 ︵ああ、やめやめ。マイナス思考終了。ご飯が不味くなるわっ︶ それに今はこんな私にも求婚者なる男性が二名も出現したわけで、 もはや不平等を嘆く立場じゃあない気もするし。 でも、と私は代金を支払いながら思う。 そういえば今日、綴くんを見かけない。毎日通うと言っていたの に、どうしたのだろう。 もしかしてライバルが現れた途端、やる気をなくしちゃったのか 59 しら。 つまり、それだけの気持ちだったということ? ﹁ありがとうございました﹂ いかにも形式的な挨拶で見送られ、色んな意味で釈然としないま ま歩き出す。 透明バッグの中で携帯電話が震えたのは、まさしくそのときだ。 ディスプレイには、﹃受付カウンター﹄と角張った文字で表示さ れていた。 ﹁もしもし?﹂ ﹃こ、神野先輩! すみません、トラブルです。いますぐ戻ってく ださい⋮⋮!﹄ 60 7、ワンストローク︵c︶ 購入したサラダをぶら下げたまま、私は携帯電話を片手に社員用 の階段を駆け上がる。 ﹁どういうこと? 簡単に説明して﹂ 急がなければ。でも、急ぎすぎては駄目。 ここで私が何の事情も知らないまま、慌てて駆けつけたって意味 はない。いや、かえってマイナスなのだ。 お客様はすでに苦情を一度スタッフに打ち明けている。同じこと を再び、口に出す負担をかけさせてはいけない。 ﹃ええと、先日お中元をお買い上げ下さったお客様なのですが、の し紙にミスがあったようなんです﹄ ﹁ミス? 印刷ミスってこと? 現物はお持ち頂いてる?﹂ ﹃はい。お名前の漢字に誤りがあったとのことで⋮⋮あの、お客様 も今はこちらに⋮⋮いらしているのですが﹄ ﹁わかったわ。すぐに行く﹂ そこでちょうど階段をのぼりきった。携帯電話をたたんで、バッ グにねじ込む。 社員用通路のドアを開けばすぐにカウンターだ。ふう、と短く息 を吐いてからノブに手をかけた。 ﹁大変お待たせ致しました。贈答品コーナーでお中元をご購入くだ さったお客様ですね﹂ 61 対面すると、彼はきちっとしたスーツ姿の男性で、見たところ三 十代半ばのサラリーマンといったふうだった。 しかし鉄仮面のように、柔らかいところのない表情をしている。 ゆえに押し殺そうとしている怒りが感じ取れて、まずいな、と私 は思う。 ﹁のし紙に不備があったとのこと、大変失礼致しました﹂ ﹁詫びてどうこうなる問題じゃあない。まだ手渡す前だから良かっ たものの﹂ ﹁はい。⋮⋮本当に申し訳ございません。直ちにかけ直しをさせて いただきます﹂ 深々と頭を垂れると、ちょうどその、下げた私の頭の先、カウン ターの上でドカッと重量のある音がした。 ﹁それならもう行ったよ。そこの女の子たちに、買った売り場へ持 って行けって言われてね﹂ 顔を上げると、そこには一ツ橋デパート伝統の薔薇柄の紙袋がふ たつ。当然、中に収められているのは贈答品だ。 ひとつが洗剤くらいの大きさだから⋮⋮恐らく合計で十二個くら いはあるだろう。 ﹁でも、行ったら混雑してて二時間待ちだと言われた。不備があっ た上に待たせるなんて、ここは一体どうなってるんだ?﹂ ︱︱そういうことか。 電話の際の、ミレちゃんの困惑しきった声を思い出し納得する。 そこまでは聞いてないわよ。 でも、今は内部で揉めている場合じゃあない。 62 ﹁も、申し訳ございません。手前どもの配慮不足です﹂ 再び頭を下げ、同時に考えを巡らせた。 ︵どうする?︶ 今からまた売り場へ行ってくれとは到底言えない。 あちらからスタッフを呼びつけてやらせるというのも無理だ。二 時間待ちの混雑状況なのだし。 しかし問題解決は急務。一分一秒だって迷っている暇はない。 横目で周囲を確認する。幸い、受付カウンターの周辺には人が少 ない。 となれば。 ﹁では、宜しければこちら︱︱わたくしどもで包装のかけなおしを させていただいても宜しいでしょうか﹂ ﹁⋮⋮あなたが?﹂ ﹁はい。お任せ頂ければ二十分程度で仕上げさせて頂きます﹂ ミレちゃんとフミさんがぎょっとした気配がした。前例がないか ら当然だろう。 しかしラッピングなら繁忙期に裏で手伝っているから慣れている。 のし紙の名入れも、小中学校を通して書道を習っていたから自信が ある。 十五分あれば何とかなりそうだけれど、余裕を見て二十分。でき る。 ﹁お任せ、頂けないでしょうか﹂ ﹁⋮⋮わかった。急いでやってくれ。一時間後には取引先へ向かう 予定があるから﹂ ﹁はい、ありがとうございます!﹂ 63 私は頷いて、振り向きざまに指示を出す。 ﹁夏目さん、お客様を待合室へご案内して。浅葱さんは贈答品売り 場から包装紙と無地ののし紙、それから筆ペンを急ぎ持ってきて﹂ ﹁はい!﹂ そうして、十五分後︱︱。 無事、包装し直した商品を手渡し、どうにかお客様には納得して 帰ってもらうことが出来た。 自分で言い出したこととはいえ、終えたときには全身が汗びっし ょり。首が繋がった、くらいの気持ちだった。 念のため課長に報告してからカウンターに戻ると、ミレちゃんと フミさんが揃って私に頭を下げた。 ﹁本当に、本当にすみませんでした!﹂ 四十五度より深々と。 叱責されるとでも思ったのだろう。そんなこと、一回だってした 覚え、ないのに。 ﹁起こってしまったことは仕方ないわよ。︱︱と、言いたいところ だけど﹂ 言いきれないのよね。私は事務所から持ってきたゴミ袋に、剥が したのし紙を詰め込む。 さて、あちらはどうにかなったけど、こちらはどうしようかしら。 今、頭ごなしに叱ったところでふたりの成長には繋がらないだろ う。この通り反省もきちんとしているようだし。 とはいえ、謝罪ひとつで問題自体をまるごと見過ごすのは年長者 64 として無責任というもの。 ﹁そうね。何がいけなかったのか、一緒に考えてみましょうか﹂ ふたりとも、真面目でいい子だ。しかしそれゆえに融通が利かな いところ、少々気にかかってはいたのよね。 ﹁まずはミスを黙っていたことね。ああいうことは真っ先に相談し なきゃ﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ ﹁けど、ご案内の内容に間違いはなかったわ。ああいうミスは本来、 販売した売り場が処理をする。そこはふたりとも、正しい判断をし たと思うの。でも⋮⋮﹂ ﹁でも?﹂ 泣き出しそうな目で問うのはミレちゃん。フミさんはというと、 その隣で緊張の面持ちになっている。 私も、ミスのあとはいつも怖かったな。先輩の顔色をうかがって、 ガチガチになってたっけ。 だからわざと、おどけて言った。 ﹁ちょっと惜しかったのよー、想像力が﹂ ﹁想像力、ですか﹂ ﹁そう、想像力。推理力とも言うかなあ﹂ どういうことですか、とふたりが揃って疑問を口にしたから、私 は顔の横に人差し指をぴっと立てた。 ﹁今日は何曜日でしょう﹂ ﹁えと、木曜、です﹂ 65 ﹁そう、お惣菜の特売日よね。となると、店内に主婦が増えるわ。 つまり若年層のお客様と違って、贈答品コーナーに流れる可能性も 高いんじゃないかしら﹂ ﹁あ⋮⋮﹂ ﹁そこで私達にできたことは何だと思う? お客様を基本通りにご 案内すること?⋮⋮とは、言い難いわよね﹂ フミさんがぱっと口元に手をやった。 ﹁ミスがあったお客様を何が何でも優先的に扱うよう、私達から売 り場に一言申し上げておくべきだった、んですね?﹂ ﹁そういうこと。と、私は思うわ﹂ 頷いて、しぼみかけているふたりの肩をぽんと叩いた。 ﹁そりゃ、基本って大事よ。なければ何もできないし。でもね、そ れだけで事が済むなら、私達はいらないの﹂ そう、基本だけの受付ならロボットにだって出来るのだ。実際、 病院の受付って最近はどこも機械だし。 にもかかわらず三人も生身の人間が立っているのだから、出来う る限り柔軟な対応をせねばと思う。 ﹁もちろん、無理を通したりするわけだから憎まれ役になることだ ってあるけど︱︱﹂ 締めに入ろうすると、プルルっ、とひときわ高い音を立てて内線 機が鳴った。率先してそれを取ったのはミレちゃんだ。 ﹁はい、正面受付です。ええ、はい。⋮⋮え? どういうことです 66 か﹂ 途端に狭まった眉間が、私に更なる厄介事を予感させる。今度は 何? 見ればフミさんも息を詰め、こちらに不安げな視線を寄越してい た。不穏な空気を察知したのだろう。 と、ミレちゃんが受話器を置き、ぱっと顔を上げる。 ﹁先輩、お惣菜コーナーから至急ヘルプとのことです。お客様が⋮ ⋮﹃菜園﹄のオーナーとやりあっているとかで﹂ え。 ﹁松子さんとお客様が? やりあってる、って喧嘩ってことよね。 発端は?﹂ ﹁はい、サラダをご購入下さった方が︱︱女性のお客様らしいんで すが︱︱お持ち帰り用のペーパーボックスを気に入ってくださった らしくて、同じものを二十枚譲って欲しいと願い出たそうなんです﹂ ﹁二十枚⋮⋮無料で、ということね﹂ ﹁そうです。それで﹃菜園﹄側は有料であろうと無料であろうと、 店のネーム入りの備品を無闇にお渡しすることはできないとお断り したらしいんですが﹂ もっともな話だ。 備品にだってお金はかかっているわけだし、もしお客様が手製の 料理をそこに詰めて誰かに手渡しでもしたら︱︱﹃菜園﹄の商品と 勘違いされかねない。 ﹁それで、お客様が納得してくださらないということなのね?﹂ ﹁そうです。マツコさん、もともと口が悪いというか、融通の利か 67 ない人ですし⋮⋮あの、私、行って﹃菜園﹄に一言お願いしてきま す﹂ ミレちゃんが踵を返そうとしたから、その腕を掴んで引き止めた。 ﹁駄目よ。今だけは、行ってお客様に頭を下げては駄目﹂ 先程のケースと今回とは根本が違う。ここは応用をきかせていい 場面じゃあない。 しかし、フミさんは焦った様子で視界に割り込んでくる。 ﹁でも、テナントさんはヘルプとおっしゃってるんですよね﹂ ﹁手を出さないとは言ってないわ。ただ、ここで﹃菜園﹄に不当な 要求をのませたら絶対に駄目なの﹂ ﹁不当? ですがそれもお客様が望むなら、サービスとして行うべ きなのでは﹂ ああ⋮⋮。私は右手を額に当てて息を吐く。誰よ、お客様は神様 だとか言ったの。本気で恨めしいわ。 ﹁じゃあ、もしお客様が毎日その要求をなさったらどうする? お 客様のお友達が、自分も、とおっしゃったら﹂ そんなことが続けば﹃菜園﹄はいつか潰れてしまう。 ﹁お客様を優先するあまり、本末転倒になるようなことがあっては いけないの。あくまでも、本分があってのサービスなのよ。そうで しょ﹂ ふたりは神妙な顔で納得したように﹁はい﹂ひとつ頷いた。 68 できないことはできない、と毅然として伝えるのも私達の仕事だ、 と教えてくれたのは何代前の先輩だっただろう。 ﹁⋮⋮とりあえず今回は課長にお願いしましょう。事務所にいるは ずだから内線で呼ぶわ﹂ ﹁課長に? 私達はいかなくていいんですか﹂ ﹁ええ。話がこじれたときは私達より上の者のほうが⋮⋮というの はまあ建前で、あれよ、ああいう無駄に外見の整った男はこういう ときに使わなくていつ使うって話よ﹂ 肩をすくめた私を前に、ふたりは顔を見合わせて口角を上げる。 ﹁サービスって、恋愛みたいですね﹂ ﹁え?﹂ ﹁相手が過ごしやすいように、臨機応変に⋮⋮でも、無理をしたら そこでおしまいって﹂ ミレちゃんらしい考え方だ。 そんなわけで結局、私が昼食にありつけたのはトラブルが無事に 解決した午後二時のことだった。 ぐったりだ。 69 8、ワンストローク︵d︶ ﹁うーむ﹂ 波乱続きだった一日をどうにか終え、私はロッカーで二枚のワン ピースを前に低く唸った。 ︵デート服、どっちにしよう︶ ネイビーのシャツワンピースか、ベージュとピンクのドッキング ワンピースか。 夜ゆえに明るい色のほうが映えるとは思うけど、ピンクは若干気 合いが入りすぎて痛い気もする。 しかしシャツワンピースのほうはご丁寧にも裾にレースが施して あるから、らしくないと笑われそうな予感がする。 散々唸った挙げ句、ベージュのワンピースに袖を通した。地味よ りは良かろう、と。一応、デートなんだし。 簡単にメイク直しをしてから、駆け足で駐車場へ向かう。及川は すでに愛車・ボルボの運転席にいて、内側から助手席のドアを開け てくれた。 ﹁ごめんっ、十分オーバー!﹂ ﹁昔からこうだよなおまえ。久々だけどやっぱ変わらねえなあ﹂ あっけらかんと言われたら、そこまでの高揚感や緊張感が全部溶 けてなくなった。 あれ、いつも通りじゃない、及川。 ﹁⋮⋮女の子はいろいろと身支度が大変なの﹂ ﹁女の子? 何だそれ、新しいギャグ?﹂ 70 ﹁あのね、女として見てないならどうしてプロポーズなんかしたの よ﹂ ﹁そりゃおまえ、居心地がいいからに決まってるだろ﹂ 神野といると素の自分でいられるからな、と屈託のない笑顔で言 われて、私の心臓はワンバウンド。 嘘みたい。及川が、私のことを好きだなんて。 ﹁じゃ、まずはメシだな﹂ ﹁うん。あー、お腹空いた!﹂ ﹁だろ。俺も。よし、ガッツリいこうぜガッツリ﹂ がっつり? 聞き返そうとしたところで、私の視線はうっかり囚 われてしまった。 まくり上げたシャツの袖から覗く、筋肉質な腕に。 昔と比べると、本当に男らしさが増したと思う。しかし、気怠そ うにシフトをチェンジする仕草はかわらない。 片手でハンドルを操作する癖も、あの頃と全く同じ。私の好きだ った、及川だ。 いつか遠くに置いて来たはずの未練が、徐々に蘇ってくるようだ った。 ﹁そういえばさ、綴少年のことなんだが﹂ あいつ、変じゃねえ? と問う声は上品な低音で、私の横隔膜あ たりにすとんと落とし込まれる。 ﹁どこが﹂ ﹁確か、父親がイギリス人で母親が日本人のハーフなんだよな﹂ ﹁うん。両親ともロンドンに住んでるって言ってたわ﹂ 71 ﹁そうしたら一般的には父親の名字を名乗るんじゃないのか? な んであいつ、名字が日本式なんだ﹂ 言われてみればそうだ。 ﹁んー、でも、国際結婚って名字、変えなくてもいいんじゃなかっ た? もしくは父親が“葦手”になったとか﹂ ﹁ロンドンに住むにゃ不便だろうが。アシデ、だぞ。発音もしにく いんじゃねえ?﹂ それを言ったらツヅル、はもっと発音しにくい気がする。言おう として、やめた。推測の域を出ないわ。 でも、考えてみれば綴くん、七年前に初めて会ったときには真新 しいランドセルを背負っていたっけ。 半年でロンドンに帰ったらしいけど、それならわざわざ買うかな あ、ランドセルなんて高価なもの。 となると、あのときもしかしたら日本に移住するつもりだった、 とか? じゃあどうして今もロンドンに居るんだろう⋮⋮。 ﹁おい神野、着いたぞ﹂ ﹁あ、うんっ﹂ いかん。すぐ考え込む癖、今日は封印しておかなきゃ。 慌てて車から降りた私の前に聳えていたのは︱︱﹃牛角﹄。一瞬 固まってしまった。 なんで焼肉。 ﹁どうした? 好きだろ、肉﹂ ﹁す、好きだけど﹂ 72 ワンピースの胸元、淡いベージュの布地をきゅっと掴む。この服 で焼肉って。 ﹁おし、行くぞ。今日は遠慮せず食えよ﹂ ﹁えっ、ちょ﹂ 困る。そう言いたいのに、言えなかった。 そのまま焼き肉屋で二時間、続けてカラオケで三時間。へとへと の体を引き摺って帰宅したときには午前様。 及川は変わっていない。私のことも、昔と変わらない私として見 てくれている。 自然体でいてくれる、いられるはずなのに。 なぜだろう、小さな違和感が、いつまでも拭えなかった。 73 9、ワンストローク︵e︶ 翌日、目覚めると顔の下にはヨダレでしわくちゃになったノート があった。 そこには中途半端にイヤホンを差し込んだ状態のiPodが挟ま っている。 どうやら私は夕べ、勉強を始めようとして座卓に突っ伏したまま 眠ってしまったらしい。 カーテンも閉めていない、ということは玄関からここまでは直行 だったのだろう。 服も昨日のままだし、メイクどころか髪もほどいていないという ていたらくに気付いたらどっと脱力した。 ︵まあ、いつものようにお風呂場で勉強を始めて、そのまま寝なか っただけマシか⋮⋮︶ 現在時刻は八時五十分。寝すぎた。けれど、寝たりない。 二度寝しようとベッドまでずるずる移動し、そのままふとんに転 がる。 朦朧としたまま、再び意識を手放そうと、瞼を閉じて︱︱。 直後、飛び起きた。 ﹁だめじゃんっ!﹂ 今日は綴くんとのデートだった! 待ち合わせは九時、あと十分しかない。移動に二十分かかるから、 もはや間に合う道理はない。 大慌てで謝罪のメールを打って、髪をほどきながらバスルームに 74 駆け込む。 ︵久々の休みなのにどうしてこんなに慌ただしいのよ!︶ 前回彼がスーツだったことから、上下黒のセットアップを着て家 を飛び出したものの、駅についてからは後悔の嵐だった。 乾かしっぱなしのストレートヘアとナチュラルメイクでは、服が 完全に浮いている。せめてトップスだけでも色柄ものにすれば良か った。 そんなわけで私は、綴くんとのデートへ気後れしながら向かう羽 目になってしまったのだった。 *** 待ち合わせ場所は、駅前の映画館に併設された小さなカフェだ。 その後の予定は一切聞かされていないけれど、そこに集合すると なるとまずは映画鑑賞ということでほぼ間違いはないと思う。 ﹁ごめんね綴くん、一時間も待たせちゃって!﹂ 息を切らして辿り着いた私に、彼はしかし不思議そうな顔で﹁そ んなに待ったっけ﹂。 そこから視線をおろしてみれば、本日の服装はジーンズにTシャ ツと非常にラフだった。ああ、完全にハズした。 ﹁本、読んでたからあっという間だったよ﹂ ﹁本? あ、“シャーロックホームズ”﹂ 思わず彼の手元を指差してしまった。”バスカヴィル家の呪い” だ。 75 学生の頃、この手のジャンルにハマって片っ端から読んだっけ。 ﹁そう。日本語訳のやつも読んでみたくて、こっちに来てから買っ たんだ。これがなかなか興味深くて﹂ ﹁ふうん。そういえばホームズもロンドンだったっけ。やっぱり地 元民としては外せない?﹂ ﹁もちろん。というか僕、ミステリーが好きなんだよね。日本の作 家さんの本も何冊か持ってるよ。江戸川乱歩とか、綾辻行人とか﹂ 親しみのある名前を耳にし、私は若干高揚しつつ彼の隣に腰を下 ろす。 ﹁私も好き! ねえねえ、ホームズ、原文とはやっぱりちがうの?﹂ ﹁本筋はさほど。でも、なるほどそう訳すかー、ってたまにびっく りしたりもするよ。ほら、このへんとか﹂ テーブルの上には氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーがひとつ 放置されている。口を付けた様子はない。よほど熱中していたのだ ろう。 綴くんが膝の上に本を広げたから、私は身を乗り出してそれを覗 き込んだ。 ﹁これ、原文では︱︱﹂ ふっと清潔感のある匂いが鼻をかすめる。シャンプーかな。 横目で盗み見ると、彼はやはり驚くほど綺麗な顔をしていた。 かといってアイドルみたいにキラキラしいのとはちょっと違うし、 色気も、強烈だけれど不思議と嫌味はない。 石に例えるならムーンストーンかしら。 ほんの僅かに濁りがあって、その淡さが柔らかくて、眺めている 76 と癒される感じ。 そうやって例のごとくぼんやりしていた私は、気付かぬうちにこ くりこくりと舟を漕ぎはじめていた。 ああ、だめよ。でも、なんだか心地いい。 綴くんの、低すぎない声と優しい喋り方⋮⋮。 こうして私はデート開始からわずか数分後、うっかり居眠りを始 めてしまったのだ。 気付いたのは、背中の凝りに耐え兼ねて伸びをした瞬間だった。 ﹁んー⋮⋮、っえ、あ!﹂ ﹁維紗ちゃんっ﹂ バランスを崩して椅子から転げ落ちそうになったところを、すか さず抱きとめられる。 ばさばさっ、と床に本が落ちたことで、私は現状を理解した。 ﹁や、やだ、私︱︱﹂ 寝てた!? 腕時計を見れば、すでに十一時。一時間ぶんの意識 が、ぽっかりないことになる。 ﹁うそ、ご、ごめんっ! こんな、寝るつもりじゃ﹂ 両手を合わせて詫びると、綴くんは何故だか興奮した様子で﹁す っごく面白かった!﹂目を輝かせた。 ﹁え、まさか私、寝言いってた⋮⋮?﹂ ﹁ちがうよ。ホームズだよ。何十回も読んだのにそれでも面白くて。 77 コナン・ドイルは本物の天才だよ﹂ ﹁は?﹂ 目をしばたたいてしまった。本、読んでたの? ずっと? そし て私が寝ていたことに関してはスルー? ﹁ん、あれ、僕、何かおかしいこと言ったかな﹂ ﹁いや、別におかしくは︱︱ううん、やっぱりおかしいかも。もし かして綴くん、天然?﹂ それともわざと大人の対応をしてくれているのかしら。だとした ら私、今、彼にとってはすごく子供ね。 耐えきれずふきだした私に、どう言う意味、と綴くんは眉をハの 字にして問うてくる。 ﹁なんでもない﹂ ﹁なんでもなくないだろ。⋮⋮あ、今、僕、お腹鳴った﹂ ﹁ぶっ、そういえば私もお腹減ったわ。ちょっと早いけどご飯でも 食べにいこうか﹂ ﹁うん!﹂ その瞬間、彼が手の中で小さな紙片をくしゃっと握りしめたこと には、気付いていたけれど気付かないフリをした。 映画のチケット。きっと先に買っておいてくれたのだろう。 なのに一言も責めないなんて、⋮⋮優しいんだ。 ﹁ねえ維紗ちゃん、この辺で美味しいレストランとかあったら案内 してもらえるかな。僕、あまり詳しくなくて﹂ ﹁んー、あ! 綴くん、野菜って好き?﹂ ﹁うん。基本的に好き嫌いはないよ﹂ 78 ﹁良かった。あのね、私、ずっと行きたかった無農薬野菜のカフェ があるんだけど﹂ 確か、この近くだったはず。その方角を指差した手を、取りなが ら綴くんは笑った。 79 10、ワンストローク︵f︶ ﹁こっち?﹂ ﹁えっ、あっ﹂ 強引にカフェから引っぱり出され、私の鼓動は一気に激しくなる。 男の子と手を繋ぐなんて、高校生のとき以来だ。つまり、初めて 付き合った彼氏以来。 どうしよう。握り返してもいいの? 今にも飛び出しそうになる 心臓を、脇に抱えたバッグでおさえる。 綴くん、背だけじゃなくて手も大きい⋮⋮。 ﹁こっちでいいの? 曲がるところがあったら早めに教えてね﹂ ﹁う、うん。あ、そこ左!﹂ ﹁O.K. それにしても日本人って、みんな歩調がはやいよね。 いつまでたっても慣れないや﹂ しかし︱︱。 手と違い、彼の頭部は行き交う人々と比べ絶対的に小さい。それ を支える体もバランスが抜群に良くて、モデルさんみたいだ。 見蕩れるというより、羞恥を覚える自分がいる。 私、⋮⋮保護者みたいになってないかな。 ﹁維紗ちゃん、もしかしてあそこ?﹂ だから、前方にナチュラルな木造の店舗が見えてきたときは、失 礼ながらちょっとだけホッとしてしまった。 80 ﹁そうそう! 良かった、まだ混んでないね﹂ カフェでは、開店直後だったせいか客数も少なく、オーダーの品 もすぐに出てきた。 だから私は数日ぶりにゆったりと、穏やかな気分でランチをとる ことができたのだった。 *** カフェでの滞在時間は二時間。食後にカフェラテまでいただいて、 心身ともにだいぶのんびりさせてもらった。 来る時と同じように私の手をとると、綴くんは喧騒を厭うように 裏路地へと進む。 ﹁ありがとう、結局奢ってもらっちゃったね﹂ ﹁いいのよ。あそこ、ひとりでも行くつもりだったんだもの﹂ 映画のチケットに比べたら安いものだし。とは、彼が黙っている 以上、胸の中だけに留めておくべきよね。 しかし綴くんは悄然と肩を落とし、叱られた子犬みたいな顔にな る。 ﹁それと、一昨日はごめん。僕、ムキになってあんな、維紗ちゃん の前で喧嘩とか⋮⋮怖くなかった?﹂ ﹁まさか! 卓識だなって感心しちゃったくらいよ。綴くんはなに も悪くないわ。あれはどう考えたって及川の責任だもの﹂ ﹁でも、もう休んだほうが良いとか言って結局長居しちゃったし。 今日こそ早めに帰すからね﹂ ﹁早めに?⋮⋮いいの?﹂ 81 せっかくのデートなのに。私、居眠りもしちゃったのに。 本当にこの子、心根の優しい子なんだなあ、と斜め下から見上げ れば、 ﹁維紗ちゃんは周りに気を遣いすぎだよ。もっと奔放に行動したっ て、誰も見捨てたりなんかしないのに﹂ 真顔で返されてどきっとしてしまった。 なんだろう、本音よりさらに奥の、深層を抉られたような気分。 ﹁そ、そう、かな﹂ ﹁もちろん。それに、ちゃんと本懐は遂げさせてもらうから安心し て﹂ ﹁本懐?﹂ ﹁うん。それまでは帰さない﹂ 意味深なことを言うと同時に、綴くんはくっと私の腕を引いて住 宅街へと入っていく。 どこへ向かっているのだろう。 躊躇する様子はないから、目的地がないということはないと思う けど⋮⋮。 ま、まさかラブがつくホテル? いや、いやいやいやいや、だっ て真っ昼間よ。それは流石にないでしょう。 ︵⋮⋮ない、よね?︶ すっかり逃げ腰になった私の前方、二棟のマンションの間から外 国風の街並が姿をあらわしはじめた。 やけにもっさりと緑が生い茂ったその一角は、ぐるりと格子のフ ェンスに囲われていて、中央に両開きの門が設けられている。 植物園かな、なんて考えていた。 レンガ敷きの小径の途中、アーチをくぐって見上げた空に、鐘を 82 宿した尖塔をみつけるまでは。 ﹁きょ、教会⋮⋮!?﹂ いや、チャペルだ。どっちも同じか。というかここ、結婚式場な んじゃ! ﹁ちょ、ま、綴くん、どういうことっ﹂ ﹁うん。とりあえず一緒に来て。悪いようにはしない﹂ ﹁と、とりあえずって︱︱﹂ ﹁大丈夫、無理矢理神に誓わせようってわけじゃないから﹂ うろたえる私の手を引き、綴くんはどんどん先へと分け入ってゆ く。拒否する暇はなかった。 小さな噴水の脇を通り、石段を上って、気付いたとき私はチャペ ルのドアを正面に見ていて。 するとそれは、待ち構えていたかのように内側から大きく開け放 たれたのだ。 ﹁え﹂ 目に飛び込んで来たのは、真っ直ぐに伸びる深紅のバージンロー ド。 左右には、溢れんばかりの百合の花が飾られている。奥の壁に穿 たれた窓は、やや縦長の十字の形だ。 こうして、何故だかパイプオルガンの音色が鳴り響く中︱︱ 一度離した手をこちらに差し伸べて、綴くんは天使の像より綺麗 に微笑んだ。 83 ﹁おいで、“My なに。 fair なんなの、これ!? ﹁ほら、怖くないから﹂ lady”﹂ ﹁や、ちょ、怖い。激しく怖いっ﹂ ﹁やだな、ドッキリでも肝試しでもないよ﹂ ﹁だったら困るわよ!﹂ ﹁ならいいじゃないか﹂ ﹁うっ﹂ してやったりの顔をする綴くんから、耐えきれず視線を外す。 この子、人の言葉を逆手に取るのが上手すぎだ。第一、ドッキリ なんて俗っぽい単語、どこで覚えたのよ。 狼狽のあまり、震え出した手。綴くんは痺れを切らした様子でそ れをとり、若干強引に歩き出す。 こうして一歩、踏み込んでしまったらもう、逃げ出せなくなった。 よく見ればパイプオルガンは生演奏だし、シスターのような女性 も数人いる。 ガタガタ騒ぐなんてみっともない真似はできない︱︱というのは、 大人の悲しい性だろうか。 ﹁どうしてこんな⋮⋮は、はずかしいわ﹂ 赤絨毯の途中、小声で漏らすと ﹁堂々としてなよ。主役は君だ。君のためだけに、ふさわしい場所 を用意したんだ﹂ 84 ﹁しゅ、主役? まさかずっと予約して︱︱﹂ ﹁ううん、お願いしに来たのは昨日。突然だったし、無理矢理頼み 込む形になっちゃったけど﹂ ﹁それで昨日、デパートには来なかったのね﹂ ﹁うん、まあ、それは理由の半分﹂ 半分? 問おうとしたときすでに私は壇上にいて、彼を数段下に見下ろし ていた。 ﹁維紗ちゃん﹂ 言って、綴くんはさも当たり前ように片膝をつく。 ﹁この間は不躾でごめん。あれはなかったことにしてほしい。それ で今、正式に申し込ませてくれないかな。⋮⋮僕の、言葉で﹂ 正式に、って、もしかして。 the o you rest you.⋮⋮Will share 察した途端、彼のジーンズとTシャツが、タキシードみたいに見 えてくるから不思議だった。 to ﹂ with want me? life I my ﹁︱︱ f marry これ、プロポーズ、だ。 ﹁つ、綴く⋮⋮﹂ 85 しかし七年前ならいざ知らず、こつこつ勉強を続けてきた私の耳 は、その言葉を存外すんなり受け入れていた。 “死ぬまで一緒にいたい”︱︱。 綴くん、本気なんだ。本当に私のこと。息を呑んでしまう。 そんな私を真っ直ぐに見つめ、彼が差し出したのはプラスチック の小箱だった。 ﹁答えは今でなくてかまわないよ。でも、これだけは今、受け取っ てほしい﹂ 透明の蓋から透けて見えるのは、立て爪のリング。こんなの、焦 らないはずがない。 ﹁ま、待って。そんな高そうなもの﹂ タダで受け取るわけには。掌で、押し返してしまう。しかし。 ﹁そうだね、昔はけっこう大金だったな、三百円﹂ ﹁さ、三百円?﹂ ﹁そう。実はこれ、七年前に君に逢った直後、おもちゃ屋で買った んだ。いつか渡そうと思ってさ。マセてるだろ﹂ 言われて凝視してみれば、それは確かに、入れ物からしていかに も子供向けだった。 ﹁僕の、七年分の想いが詰まってる。どうか、一瞬でいいからこれ で君の指を飾らせて﹂ そんなふうにお願いされて、断れる人間がいるだろうか。 86 少なくとも私には無理だ。無下になんて、できなかった。 恐る恐る差し出した左手、薬指に差し込まれるおもちゃの指輪。 フリーサイズ用のスリットが入っているせいか、ピタリと根元にお さまる。 顔の近くに持ち上げて見てみると、それはやはりお世辞にも綺麗 とは言い難い品だった。 輪の部分の金具は変質して輝きを失っているし、石の部分はプラ スチックなのか、劣化のためのヒビが入っている。 しかしそれは︱︱。 透過している光を曲げて、キラリと鋭く一閃した。 見蕩れてしまった。 私の目には、まるで割れ目が薄く光を噛んで、そこにとどめてい るようにも見えて。 七年前の、彼の衝撃ごと。 87 11、ダブルエンゲージ︵a︶ 隣の芝生は青い、とか言う。 the grass の部分にガラス板のようなものがあるん si is other ってやつ。 the “The on fence.” greener すなわち、英語でいうところの of always de fence 私はこれを﹃青芝フィルター﹄と密かに呼んでいる。 つまり、 じゃないかと。 それを通して見れば、あちら側のものはなんだって美しく見えて しまうんじゃないかと。 そんな解釈をしていたわけなのだけれど。 ﹁⋮⋮なんだこれ﹂ おかしいな。 私は手の中の指輪をまじまじ見、そのあとミキモトのショーウィ ンドウに向かって目を細める。 あちらの値札は¥232,050、親友が婚約指輪として貰った ことで、ずっとずっと憧れていたダイヤモンドリング。 こちらは綴くん曰く¥300で、ヒビの入ったプラスチックのイ ミテーションリング。 なのに⋮⋮何回角度を変えてみかえしてみても、こちらのほうが 何十倍も綺麗に見えるなんて。 ︵これって何フィルター?︶ 88 うーむ、と首を傾げたところで右斜め上から突然低い声が響いた。 ﹁へえ、そういうのが好みなのか神野﹂ ﹁お、及川!﹂ びっくりした。 ﹁⋮⋮いきなり後ろから話しかけるのやめてよ。心臓止まるわ﹂ ﹁なら、休憩時間だからって売り場にボケッと突っ立ってるの、や めろ﹂ 呆れ顔で腕組みをする彼。その視線から隠すように、手の中の指 輪をポケットへと滑り込ませた。 言えるわけがない。綴くんに改めてプロポーズされた、なんて。 及川のことだから絶対に対抗するもの。 ﹁昼飯食った?﹂ ﹁ううん、これから。及川は﹂ ﹁俺も。そうだ、せっかくだから外に行かねえ?﹂ 念のため腕時計を見、私は頷く。12時20分か。 ﹁そうね、たまにはいいかも﹂ 綴くんとのデートから一夜明けた、本日︱︱。 早番での勤務時間は早くも折り返し地点に差し掛かろうとしてい る。 かわりばえのない一日だ、⋮⋮と言いたいところだけれど、ちょ っとだけ、ちがう。 昨日、予定通り早めに帰宅した私は、ここぞとばかりにためてい 89 た勉強を片付けた。ゆっくりお風呂にも入れたし、余裕を持って就 寝することもできた。 だから、一昨日と比べ今日は精神的にも体力的にもかなり楽なの だ。 ﹁そういえば綴少年は? 今日も来るのか﹂ ﹁うん。クリーニングに寄ってから来るって。だから午後になるら しいわ﹂ ﹁クリーニング?﹂ ﹁そう。こないだスーツ着て来たでしょ、それの引き取りらしいん だけど﹂ 実はあれ、プロポーズのときに着ようと思って用意したものらし いのだ。 しかしタイミングを見計らっているうちに汚してしまって、結局 ジーンズとTシャツを着る羽目に︱︱という話はやっぱり伏せてお いたほうがいいよね。 ﹁ふうん、クリーニングならホテルに頼めば良かったのに﹂ ﹁知らなかったんですって。まあ、子供だからね。スーツの扱いな んて知らなくて当然よ﹂ 言うと、及川はにやりと笑って﹁子供、ね﹂私の手を握った。 ﹁俺のほうが有利ってことだよな﹂ ﹁え? ちょ、誰かに見られたらどうすんのよっ﹂ ﹁わざとやってんだよ。これ以上、おまえに妙な虫がつかないよう にな﹂ ﹁うわ、待っ⋮⋮、及川!﹂ 90 強引に腕を引っぱられ、正面入り口から外へと連れ出される。事 態が飲み込めないまま、私は交差点を横断しはじめていた。 綴くんのそれとは真反対の、男性的で筋張った掌。有無を言わせ ぬ、圧倒的な力強さ。 神経が全部、持っていかれてしまう。 しかし︱︱。 私はまだ、彼らのどちらを結婚相手として選べば良いのかなんて ⋮⋮正直、見当もつかなかった。 *** ランチは贅沢にも鉄板焼きのお店で黒毛和牛ヒレ肉ステーキをい ただいてしまった。 昼間だっていうのに。それも、及川の奢りでだ。 今までは割り勘だったのに、突然気前良くなっちゃって⋮⋮どう したんだか。 ﹁ただいま戻りました。次、どうぞ﹂ 満たされた胃をさすりつつカウンターに戻り、浅葱さんに声をか ける。 いつもなら笑顔でおかえりなさいと言ってくれるのに、返事がな いどころか目もあわせてもらえない。 おかしいな。 何かあったの、と尋ねようとすると﹁失礼します﹂彼女はぞんざ いなお辞儀を残して行ってしまった。 ﹁⋮⋮具合でも悪いのかしら﹂ 91 生理中? 眉をひそめる私の元に、ミレちゃんがざざざっ、と迫り寄ってく る。噂話を始めるオバチャンみたいに。 ﹁ちょっと先輩っ、どういうことですかさっきの!﹂ ﹁さっきのって﹂ ﹁及川課長のことですよ。手、繋いで出て行ったじゃないですか。 いつからあんな仲になったんです?﹂ ああ、見られてたのね。そりゃそうか。ここ、正面入り口の真横 だものね。 ﹁まだ付き合ってるわけじゃないわよ。単なる上司部下、同期の枠 を出ないわ﹂ ﹁ふうん⋮⋮“まだ”、ってことは発展する可能性もあるってこと ですよね﹂ ﹁それは﹂ 否定出来ない。 ﹁となると先輩、こないだのハーフの美少年はどうするつもりなん です﹂ 答えに困ってしまった。どうする、って聞かれたって、どうした らいいのか教えて欲しいのはこっちのほうだ。 自分でも不思議だけど。 何故こんなに迷うのか。 かたや昔の想い人、かたやほぼ見ず知らずの少年︱︱二者択一な んて容易いはずなのに。 92 ﹁先輩のことだから二股なんてしないと思うけど⋮⋮早くはっきり したほうがいいですよ。でないと、浅葱先輩が可哀想ですもん﹂ ﹁フミさんが? どうして﹂ ﹁私、さっき聞いちゃったんです。浅葱先輩、﹂ ミレちゃんが言いかけたところで、正面入り口の向こう、沿道に 黒いベンツが停車するのが見えた。 ﹁あ、尾関さまだわ﹂ おぜき・ゆき ︱︱尾関由貴さま、御歳六十二歳。尾関貴金属工業のCEOだ。 車体を見ただけでわかる。それほど馴染みのお得意様で、ついで にいえば彼女は一ツ橋デパートの大株主でもある。 毎回正面入り口の前に車を横付けするのは、彼女が車いすを使用 していることと無関係ではない。 駐車場からは距離もあるし、幸い運転手付きであることから﹁ぜ ひ正面でお降り下さい﹂とこちらのほうから申し出たのだけれど。 ﹁お出迎え、行かれますか﹂ ﹁そうね、今日の天気だと日傘を︱︱﹂ カウンターの下に置いておいた傘の柄を掴み、私は小走りで尾関 さまの元へ向かう。 ﹁いらっしゃいませ!﹂ ﹁あら神野さん、今日はやけに晴れやかな顔ね﹂ ﹁尾関さまにお会い出来たからですよ﹂ ﹁ふふ、相変わらずお上手ねぇ。そうやって何でもソツなくこなそ うとするから男が出来ないのよ﹂ 93 ﹁うっ⋮⋮﹂ 相変わらず容赦ないなあ。私は言葉を詰まらせつつ、傘をさしか ける。雲ひとつない、初夏の空に。 すると運転手さんが車いすを広げ、手慣れた様子で彼女を降ろし た。﹁よろしくお願いします﹂﹁かしこまりました﹂引き受けてそ れを押す。 ﹁尾関さま、本日はどのようなものがご入用でしょうか﹂ ﹁ベビー用品よ。といってもあたしが産むわけじゃなくてね、孫が﹂ ﹁お孫さんがお生まれになるのですか? うわあ、素敵! おめで とうございます﹂ ﹁ちがうわよ。孫が産むの。ひ孫よ、ひ孫﹂ ﹁え﹂ エレベーターのボタンを押しながら動作を止めてしまった。 お孫さんって確か、まだ高校生だった気が。ついこの間、高校に 入学したとか聞いた覚えがあるけど。 ﹁全くお恥ずかしい話、実は相手の男がまだ結婚出来る年齢じゃな いのよね。うちのはねっかえりは辛うじて、十六になったところな んだけど﹂ ゴタゴタしちゃって大変だったわよ、と尾関さまは長いため息。 それはそうだろう。 男の子の家族だってよほどのお家柄でない限り青ざめたはずだ。 なんたって相手は生粋のお嬢様なのだし。 しかし十六歳って、私の人生の約半分じゃないの。若い、若すぎ る。 94 ﹁⋮⋮そんな中、ご来店下さってありがとうございます。ご面倒で したらいつでもお呼びつけくださいね。ご希望の商品、いくらでも 持ってお伺いいたしますから﹂ ﹁最初はそうしようと思ったの。でも、呼んだら来るのはあなたじ ゃないでしょ﹂ ﹁ええ。外商部の者が参ります﹂ ﹁それじゃつまんないもの。あたし、こうして神野さんとおしゃべ りするのが楽しいのよ﹂ ﹁まあ。嬉しいです、恐れ入ります﹂ 苛められそうでちょっと怖いけど。 エレベーターのドアが開いたから、私は車いすを回転させ、後ろ に引っ張る格好で乗り込んだ。 密室に頭から突っ込まれて、扉を背にすることほど怖いものはな い。これは、ボランティアサークルで自ら経験して実感したこと。 だから車椅子の場合、エレベーターはまず内部をご確認頂いて、 それから段差を下るときと同じように、バックでお乗せするように している。 こうしておけば、目的のフロアーでも真っ先にお客様から降りて 頂けるし。 ﹁では、三階に参ります﹂ エレベーターガールよろしく告げると、尾関さまは嬉しそうにう ふふと笑った。 95 12、ダブルエンゲージ︵b︶ ﹁じゃあこれ、全部いただくわ﹂ 目の前に並べられた商品を指差して、そうおっしゃる尾関さまは 華やかな笑顔。 ありがとうございます、と頭を下げたらショップのスタッフとハ モってしまった。 ﹁あらやだ、一ツ橋はこんな面白いサービスも始めたの?﹂ からからと笑ってくれる。 王者の風格とでも言うのだろうか、こういうの。 年齢を微塵も感じさせない優雅なふるまいは、毎回私をハッとさ せてくれる。 詳しい事情までは存じ上げないのだけれど︱︱。 尾関さまが車いすでの生活を始められたのは高校生の頃だったら しい。つまり思春期、真っ盛りのことだ。 そして尾関貴金属工業を興したのは二十歳のとき。だから、まさ しく彼女はその腕だけで今の社会的地位を築き上げたことになる。 尊敬してしまう。もし自分が同じ立場になったとしたら、自暴自 the fence”。 the other 棄になるに決まっているし、起業なんて絶対に出来っこないから。 ⋮⋮いや、それは今だってそうか。 of どんなに憧れたところで、それこそ“on side 所詮、一般人の私と王者の尾関さまとでは、住んでいる世界が違 96 うのよね。 ﹁きっとお孫さんも喜ばれますね。こんなに大事にされてるんです もの﹂ 包装を待ちながらそう話しかけると、彼女の顔色が曇った。 ﹁だといいんだけど⋮⋮あたし、最初に大反対しちゃったのよ。話 もろくに聞かずにね。だからきっと、もう嫌われたと思うわ﹂ ﹁まさか、そんなこと﹂ ﹁フォローはいらないわよ。すごく後悔してるの﹂ 長い、長いため息。 ﹁そりゃ、両親は立場上反対してしかるべきでしょ。でもあたしは、 正論なんか捨てて味方になってあげるべきだったの。だって普段か ら躾に口を出していたわけじゃないのよ。だから︱︱世間に後ろ指 をさされても、祖母であるあたしは、あたしだけは、唯一の砦であ るべきだったのに﹂ ﹁尾関さま⋮⋮﹂ そんなことがあったなんて。 うわべだけの慰めではかえって失礼になる気がして、私は口をつ ぐむ。 と、彼女はこちらを見上げて﹁何か、他にはないかしら﹂と弱々 しく笑った。 ﹁他に、あの子に必要なものはないかしら。なんでもいいの。して やりたいのよ﹂ ﹁必要なもの⋮⋮ですか﹂ 97 ﹁ええ。他の妊婦さんは、どんなものをここに買いにくるの?﹂ 妊婦さんがお求めになるもの︱︱? 過去の接客を思い出し、私 は考えを巡らせる。 とはいえ、ベビー用品はあらかた購入して頂いたし、マタニティ ウエアはご本人に試着して頂かないとなかなか難しいし⋮⋮。 そうね、できれば出産後にプレゼントとして頂くようなものでは なくて、今すぐに必要なものがいいわ。 お孫さんを思いやる、尾関さまの強い気持ちが伝わるものが。 そうだ! ﹁でしたら、フラットシューズなどいかがでしょうか﹂ ﹁フラット?﹂ ﹁はい。かかとの低い、安定感のある靴です。当店ではデザイン性 の高いものも多数取り揃えておりますし、滑り止めの加工も売り場 で行っております。ですからお生まれになる前も、産まれてからも ご愛用頂けるのではと﹂ 説明すると、尾関さまは年輪の刻まれた瞼をぱっと開いた。 ﹁そうね、そういえばあの子、やけにかかとの高い靴ばかり履いて た気がする。あれ、危ないわよね。そうよね、あたし、自分がこう だから気付かなかったわ。早速案内してくれる?﹂ ﹁はい、かしこまりました﹂ ﹁やっぱりあなたと会えて良かったわ。いつも憎まれ口ばっかりた たいてるけど、本当はすごく頼りにしてるのよ﹂ ﹁そんな、恐縮です。恐れ入ります﹂ 夕べからの精神的な余裕の所為だろうか。久々に、心の底から嬉 しいと思った。 98 フェンスの向こう側から、何かを投げ入れてもらえた、そんな気 がして。 こんな気持ち、ずっと忘れていた気がする⋮⋮。 *** 婦人靴売り場にて、お買い上げいただいた靴は三足。すぐに靴底 の滑り止め加工も施し、三十分ほどでお渡し出来た。 驚くべきは尾関さまがお孫さんの靴のサイズや服の好みまでしっ かり覚えていらしたこと。おかげで、スタッフからの提案もとても スムーズに行えた。 こんなに想っていらっしゃるのだから、きっとお孫さんとの関係 もすぐに解決するはずだ。⋮⋮と、信じたい。 それからいつものように運転手さんに車を回してもらうと、私は 尾関さまを正面口から見送った。 ﹁ありがとうございました!﹂ 四十五度の、真礼で。 下げた頭の後ろ、帽子からはみ出したわずかな後れ毛を湿った南 風がさらう。 つい一昨日まで不快に思っていた湿気を、爽やかに感じられる自 分がおかしかった。 不思議だな。 ︵なんだか、初心に還った気がする︶ 綴くんのおかげかな。 ﹁維紗ちゃーん!﹂ 心の中で噂した途端その声が聞こえて来て、一瞬幻聴かと思う。 99 しかし続けて、 ﹁維紗ちゃん、今日も綺麗だよ!﹂ そう叫ばれたら、姿を探さないわけにはいかなかった。 どこ、どこなの、奥ゆかしき日本の文化を完全に踏み倒している 子は。 ﹁僕は、君が、大っ、好きだ︱︱!﹂ ︵いやぁあああ、堪忍してぇ︶ 知らん顔をしようにも、すでに挙動不審に陥っていた私は、もは や道ゆく人々の注目の的だった。 もう、まったくどうしてあの子は恥ずかしげもなく、恥ずかしい ことをこうも源泉掛け流しで⋮⋮! と、アスファルトに引かれた縞模様の向こう、嬉々として両手を 振り回している彼を見つける。 これ以上言わないでよ、と目で訴えたけれど、伝わったかどうか は怪しい。 信号が青になった瞬間、全速力で駆けてくる綴くんはまるで、飼 い主に飛びつこうとする大型犬のようだった。 ﹁維紗ちゃん、一日ぶり!﹂ こらっ、と一喝してやりたいのに、出来なかった。 前歯全開の笑顔には一点の曇りもなくて、それはそれは嬉しそう で。 持っていた傘を、取り落とすかと思うほどどきっとしてしまった から。 あれ? あれ? なに、これ⋮⋮。 100 ﹁どうしたの?﹂ ﹁え、ううん、な、なんでもない﹂ 焦って背を向けた私の斜め前、小走りで回り込んでくる彼は無邪 気で、やっぱり犬みたい。それも、散歩に出たばかりではしゃいだ 状態の。 かわいい。可愛いのに、かっこよくて綺麗で色っぽくて︱︱こん な子、他に見たことがない。 ﹁ねえ維紗ちゃん、もうランチは食べた、よね﹂ ﹁うん。ひさびさに外でステーキなんていただいちゃった﹂ お客様の手前、小声で答える。ドキドキを誤摩化しながら。 ﹁そっか、もう三時だもんな。やっぱり間に合わなかったか⋮⋮急 いで詰めて来たんだけどな﹂ ﹁何を?﹂ ﹁お弁当。この間は維紗ちゃんに作ってもらっただろ、そのお礼に 作って来たんだ﹂ ﹁えっ、綴くんが?﹂ お弁当︱︱私に? 意外すぎる。 そうだよ、と彼が得意げに持ち上げたトートバッグはネイビーの ボックスチェック柄。 それは細身のジーンズに黒のタンクトップと白のシャツ、という カジュアルすぎない今日の服装にぴったり合っている。 ﹁といっても日本風のごはんじゃなくて、スコーンとサンドイッチ なんだけど﹂ 101 ﹁へえ! 私、スコーン好きよ。でもどこで調理したの? 今、ホ テル暮らしなんじゃ﹂ ﹁おばあちゃんち。ここから近いから台所を借りたんだ。けっこう 自信作なんだけど、どう? お昼が駄目なら軽いディナーにでも﹂ ﹁本当? いただけるならいただきたいわ、本場のスコーン﹂ ﹁いただいてよ、もちろん僕もセットでね。美味しい紅茶の葉っぱ も持って来たから、淹れてあげ︱︱﹂ 綴くんが言いながら自分を指差したときだった。 ﹁神野っ﹂ ﹁きゃ﹂ 右肩を乱暴に掴まれ、私は全身を竦ませ立ち止まる。一瞬、スト ーカーか何かだと思った。 たまにいるのだ。お客様でもなんでもなくて、単純に受付嬢の制 服を目当てにやって来て、盗撮をしたりする粘着質な奴らが。 しかしそこにいたのはやけに汗だくの及川で、彼はいかにも取り 乱した様子で私の手を引いた。 ﹁神野、ちょっと﹂ ﹁も、もう、突然話しかけるのやめてって言ったでしょ﹂ ﹁来い。話がある﹂ ﹁は? ︱︱ちょ、及⋮⋮﹂ じゃない、勤務中だから課長だ。 しかしランチのときよりさらに強い力で引っ張られ、私は顔を歪 める。 ﹁い、痛っ﹂ 102 ﹁急げ。モタモタするな﹂ ﹁やめろよ! 維紗ちゃん、痛がってるだろ﹂ 綴くんは止めに入ってくれようとしたけれど、及川は鬼の形相で それを振り払った。 ﹁ガキは家に帰って宿題でもしてな。おまえの出る幕じゃねェんだ よ﹂ 社員用通路へ連れ込まれるまでに、要した時間は数秒。 もしかして妬いてるの? だとしたらなんて大人げのない。 この間から思っていたのだけれど、及川には年相応の落ち着きっ てやつが足りないような気がするのよ。 薄暗い階段、文句のひとつでも言ってやろうとすると、彼はぴた りと立ち止まった。 それから私を壁際に寄せ、﹁いいか、落ち着いて聞け﹂ ﹁な、何⋮⋮?﹂ あまりにも真剣な表情に、思わずひるむ。と、 ﹁おまえに人事異動の話が来てる﹂ ﹁⋮⋮え﹂ ﹁執行部がおまえを、受付から外商部へ異動させろと言って来てる んだ﹂ ﹁外商⋮⋮部?﹂ ﹁そうだ﹂ どうして。 頭の中が、真っ白になった。 103 104 13、ダブルエンゲージ︵c︶* 直後、会議室に呼ばれたことで、及川の言葉は決定的なものとな った。 ﹁我々としては、せめてあと一年、新人を育て上げるまで神野くん に受付で頑張ってもらいたいと思っていたんだが⋮⋮。神野くん自 身の希望はどうだ?﹂ 部長のその問いに、私は答えを出すことが出来なかった。 足掻いたところでリミットは一年なのだと、わかってしまったか ら。たとえ今どうにかして元のポジションに戻ったとしても、来年 の異動は確実なのだ。選択の余地は、あるようでない。 しかし、これまで受付からの異動は事務へと相場が決まっていた。 そこへきて外商部に、というのは異例の人事だ。 外商部︱︱。 一ツ橋では、一度のお買い上げ金額が四十万円を超え、なおかつ 現金一括でお支払い頂いたお客様をターゲットに、ご自宅までお伺 いして商品を販売する業務を行っている。 その部署への、ある意味での大抜擢。 どうやら、尾関さまをはじめ上客に知り合いの多い私を使って、 彼らを固定客としてがっちりつかまえておこう、というのが上層部 の考えらしかった。 このご時世に給料のベースアップも約束されているし、悪い話じ ゃあない。でも。 105 ﹁少し、考えさせてください﹂ ﹁そうか。そうだな。すぐに答えられる質問ではなかったな﹂ 部長はつるりとした禿頭を撫で、少し考える。 ﹁神野くんは確か、代休も有給も手付けずのまま溜まっているだろ う。この機会に、ゆっくり休んで考えてみたらどうだ﹂ はい、と言ったら喉の奥が詰まって、涙が滲んだ。なにこれ、厄 介払いみたい。⋮⋮だめ、まだ、勤務中よ。 ﹁ありがとうございます。失礼します﹂ きゅっと口角を上げて一礼し、辛うじて笑顔で会議室を出た。 すると壁にもたれるようにして立つ及川が目に飛び込んでくる。 どうしてここに。 もしかして、ずっと待っていてくれたとか? ﹁大丈夫か﹂ ﹁もちろん。何を心配してるの。だって栄転よ?﹂ とっさに強がってしまったのは、これまでがずっとそうだったか らだ。 及川に泣きついたことなんて、ない。他に、彼女、いたし。そう いうの、私らしくないし。 すると、彼は安堵したように表情を緩めて﹁これ﹂私の手に、ぎ ゅっと何かを握らせる。 ﹁え?﹂ 106 小箱、だった。 濃紺のラッピングペーパーで丁寧に包まれたそれには、見覚えの あるロゴ入りのリボンがかけられている。 ﹁ミキ⋮⋮モト?﹂ これ、まさか。 ﹁こういう選択肢もあるんだってことを、覚えておいて欲しい﹂ ﹁お、及か⋮⋮﹂ ﹁サイズは適当に選んだからあとで持っていって直してもらえ。じ ゃあな﹂ ﹁え、ちょ、及川ってば!﹂ 突き返すこともできず手の中に残ったそれは、ロッカーでこっそ り確かめてみたところ、やはり指輪だった。 昼時に、私が見ていた、あの。 ずっと憧れていた、ダイヤモンドリングだった。 *** 結婚するか、転職するか、外商部への異動を受け入れるか。 どれを選ぶにも、並々ならぬ勇気がいる。だって、現時点でわか っていることはひとつだけなのだ。 これが、人生を決める、一手になるということ。 ﹁維紗ちゃん!﹂ 勤務を終えて社員通用口から出ると、綴くんが正面に待ち構えて いた。 107 ガードレールに腰掛け、チェック柄のトートバッグをぶんぶん降 っている。 そうだ。そういえばスコーン、貰うって約束してたっけ。 部長との話以降、売り場には行かなかったし、あのことしか頭に なかったからすっかり忘れていた。 ﹁今日もお疲れさま。ねえ、これから維紗ちゃんち、お邪魔しても いいかな。紅茶、淹れてあげたいんだけど﹂ 本当は断ってしまいたかった。 彼と︱︱未来への希望に溢れた若者と向き合って、談笑できる自 信なんてなかったし。 けれどこの時間まで待たせたことを思うと、申し訳なくて⋮⋮で きなかった。 ﹁うん、いただくわ。ありがとう﹂ 退社前︱︱。 部長の提案通り、私は明日からの長いお休みを申請した。入社以 来、一度もとったことのなかった五日間の連休を。 その間に、すべきことはひとつ。 進退を考えることだけだ。だから次に出社するときは、結論を告 げるとき。 覚悟が決まったらクリーニングに持っていこうと、制服は全て持 って出た。 もう、戻れない。 ﹁おじゃまします。じゃあ僕、キッチン借りるね﹂ ﹁うん。私、着替えてくるから﹂ 108 しかし帰宅したとき、私はまだ異動のことを綴くんに打ち明けら れてはいなかった。 何度か、電車の中で話そうとはしたのだ。 けれど、口に出したら現実を認めることになりそうで、怖くて。 ︵つまりまだ⋮⋮撤回されるかも、なんて期待してるのかもしれな い、私︶ 未練がましいったらない。 迷いを吹っ切るように、着ていたワンピースをかぶりで一気に脱 ぐ。 そのときだ。足先がトンと軽いものに当たったのは。 会社から持って来た紙袋だ。気付いて目を遣ると、それは床の上 に豪快に中身を吐き出していた。 ︱︱ブラックと、ベリーピンクの。 見慣れているはずのそれを目にした瞬間、ついに限界がおとずれ た。 下着姿のまま、ベッドの足下に崩れ落ちる。同時に、両頬を生温 い涙が伝っていった。 ﹁⋮⋮っ﹂ これを受け取った日の感慨は、今でもありありと思い出せる。 家族も喜んでくれたし、一ツ橋のため、お客様のために誠心誠意 尽くそうなんて心に決めたっけ。 何のために毎日、必死で勉強をしてきたのだろう。 ああ、もしかして自分のエゴを仕事に持ち込んでいたから? お 客様のため、を忘れていたから? 109 だからバチが当たったの? 憤りとも絶望ともつかない感情に、私の胸は焼き切れそうになる。 どうして、どうして︱︱。 ﹁維紗ちゃん?﹂ トントン、乾いたノック音。 ﹁変な音がしたけど大丈夫? 貧血?﹂ 開けるよ、と彼は言う。 答えるだけの気力はなかった。涙を拭うことも、下着姿を隠すこ とも、できなかった。 ﹁つづ⋮⋮る、く⋮⋮﹂ ねえ、どうしたらいい? その名を呼んだとき、彼がどんな顔をしていたのかはわからない。 床が、幾度か軋んだ。 気付いたとき私は、彼の腕の中で、きつく抱き締められていた。 ﹁︱︱何か、あったんだね?﹂ 自分以外の汗の匂い。しゃくり上げて、その背にしがみつく。 そうでもしなければ、足下が崩れて奈落へおちていきそうな気が した。 ﹁⋮⋮っ、わたし、私⋮⋮っ、しご⋮⋮っ﹂ ﹁いいよ、ゆっくりで。ゆっくり、話せるところから、話してごら ん﹂ 110 ﹁しごと、だめに、なっちゃっ⋮⋮﹂ だめになっちゃったの。 もう私、綴くんが憧れてくれた受付嬢じゃ、なくなるのよ。 ﹁⋮⋮っく、どうし、⋮⋮どうしてぇ⋮⋮っ﹂ 見た目より広い胸で、涙を拭いながらかぶりを振った。どうして なの。何がいけなかったの。 ﹁維紗ちゃん、落ち着いて﹂ ﹁いやぁ﹂ 泣きじゃくって頑なになる私は、だだをこねる子供よりタチの悪 い生き物だっただろう。 それは自分でもきちんとわかっていた。 ﹁大丈夫。君は、絶対に大丈夫だよ﹂ 彼は着ていたシャツを脱いで私の肩にかけ、その上からそっと背 中を撫でてくれる。 ﹁⋮⋮全然、大丈夫なんかじゃ⋮⋮っ﹂ ないわ。私。 もう、何のために何を頑張ればいいのか、わからない。わからな いの。 しかし綴くんは、私の頬を両手で包み込んで﹁大丈夫﹂自信たっ ぷりに言う。 111 ﹁あんなに頑張ってたんだ。あの努力が、無駄になるわけがないじ ゃないか﹂ ますます泣けてきて、たまらなかった。 そんなふうに言ってくれるのは綴くんだけ。 ﹁ぅ、っふ、うぅ⋮⋮っ﹂ 綴くんだけだわ。 涙でびしょびしょになった頬を、拭ってくれる優しい親指がいと しい。 目を閉じて、そこに自分の手を添えた。他に縋れるものなんて、 私には残されていなかった。 ﹁君は、泣き顔も世界一きれいだよ﹂ オデコに落とされる、雨粒のように優しいキス。続けて瞼、眉間、 頬にも。 ﹁⋮⋮ぁ、っ﹂ 顎にちゅっと口付けられたから、私は反射的に身を引いた。ダメ、 このままじゃ。 しかし後退させた体はベッドの側面にふんわり当たって止まり︱ ︱。 束の間、目が合った。 まずい、と思ったときには遅かった。 下唇を軽く噛まれる。それからふんわり、柔らかく、口全体を塞 がれたのだった。 112 ﹁⋮⋮ん、⋮⋮っ﹂ それは長く忘れていた感触と熱で、私から判断能力を奪うに足る 威力を持っていた。 ううん、もう、他には何も考えたくなかった。せめて今だけは、 忘れていたかった。 目の前の現実も、重ねてきた努力も。 未練がましく過去にしがみつこうとする、愚かな自分のことも。 ︵綴くんの舌、熱い⋮⋮︶ 彼の首に腕を回すと、肩にかけていたシャツがぱさりと落ちた。 もう、かまわない。肌を見られたって、別に。だから。 ﹁ン、⋮⋮っふ﹂ まだ、酔わせていて。離れないで。 ﹁⋮⋮、あ!﹂ けれど彼は私の腕をすり抜けて、耳殻に唇を押し当てながら囁く。 ﹁触ってもいい?﹂ ﹁っえ⋮⋮﹂ ﹁脱がせないから、触らせて﹂ 許可する間もなくブラの上から両胸をつかまれ、私は体をかたく する。うそ、どうしよう。 ﹁維紗ちゃん、柔らかい⋮⋮﹂ 113 谷間に顔を埋められて、身悶えてしまう。さらさらの前髪と囁き が、同じくらいくすぐったい。ときどき吹きかけられる息は、冷た いのに私の体を熱くする。 やめてほしいのか、続けて欲しいのか、わからなくなってくる。 触れられている部分から、とろけていきそうな感じ⋮⋮なに、これ ⋮⋮。 そんな私に挑発的な視線を向けながら、綴くんは私の両胸を握っ たり揉んだり、揺さぶったりしつづけた。 ﹁あ、っぁ、う﹂ 胸が。胸全体が、張っていくみたいで気持ちいい。 うそみたい、こんな。男の子にこんなことされるの、初めてだわ。 声が、勝手に漏れちゃう。 けれどやがて、ブラからはみ出たふくらみを当たり前みたいに口 に含まれたから、慌てて引き剥がした。 ﹁や、触るだけ、って﹂ ﹁うん、触ってるだけだよ。唇でね﹂ ﹁へ、屁理屈よ⋮⋮!﹂ ﹁子供のわがままだと思って許してよ﹂ ﹁子供はこんなことしないわ、っ﹂ ﹁じゃあこれからはきちんと男扱いしてくれる?﹂ 綴くんは大人びた表情で笑って、続きを始める。 そうだ。この子、男なんだ。年下でもちゃんと、男なんだわ。今 更だけれどそれを実感して、青ざめる。 どうなっちゃうんだろう。 そんな不安が頭をもたげたとき、胸の上部にちりっとした痛みが 114 はしった。 ﹁い、⋮⋮っ﹂ ﹁ごめん、痛かった?﹂ ﹁少しだけ﹂ ﹁わかった。じゃあこれ一個だけにしとく﹂ 一個? 見れば胸の上部には、鬱血のあとがしっかり残っている。鮮やか な、紅を掃いたような赤色の斑点が。 恥ずかしい。だけど、どうしてだろう。嫌じゃない。少しも、嫌 じゃないの。 ﹁⋮⋮いいよ﹂ ﹁うん?﹂ ﹁一個じゃなくていい。もっと、して⋮⋮?﹂ 綴くんになら、されたい。まだ、こうしていたい。 何故だかもっと強く抱き締められたくなってしまって、彼を引き 寄せこちらからキスをした。足りない、ような気がした。 なんだろう、この気持ち︱︱。 ﹁あまり煽らないでよ。脱がせないで済ませる自信、なくなるだろ﹂ 私はそれから、明け方まで浅い眠りと淡い覚醒を交互に繰り返し た。 しっかりした腕の中で、全身に、とても情熱的な愛撫を受けなが ら。 115 14、ダブルエンゲージ︵d︶ ﹁スコーンもうひとつ食べる?﹂ ﹁う、うん﹂ ﹁どうしたの、挙動不審になっちゃって﹂ 綴くんが持って来たサンドイッチとスコーンは、夕食を飛び越え 翌日の朝食になった。 形にばらつきはあるけれど、どちらもすごく美味しくて感心して しまう。自炊に慣れている感じがする、というか。 私は食べることに集中していると見せかけて実は、彼の顔を直視 するのを避けていた。 見られるわけがない。あんなことがあったあとで。 ﹁もしかして気にしてるの、夕べのこと﹂ しかし綴くんはあっけらかんとした声で、﹁大丈夫だよ、妊娠さ せるようなことはしてないから﹂。 ﹁に、にんっ⋮⋮﹂ 首から上がかあっと熱くなる。その綺麗な顔で妊娠とか、言わな いで欲しかった。 だけど、そうなのだ。私は昨日の下着を、朝まできちんと身に着 けていた。 その上から、あちこち撫でられた記憶はある。キスだって数えき れないほどしたし、痕だってたくさん残された。 でも彼はその先へ、決して踏み込んで来ようとはしなかったのだ。 116 ﹁⋮⋮ご、めん⋮⋮﹂ ﹁どうして謝るの。僕は満足してるよ。及川とかいうおじさんが、 維紗ちゃんにまだ何もしてないってわかったから﹂ 言って、彼はジャムの付いた中指をペロリと舐める。見てしまっ てから後悔した。 昨日もあんな仕草、してた。それで、下着の上から。だから私。 私、痛い、って言っちゃったんだわ。 まさか布越しでもあんなに痛いなんて思わなかった。 ﹁もしかして初めて、だったりとか、する?﹂ 悔しいかなその通りだ。 これまで虚勢をはって経験豊富そうに見せかけてきたけれど、私 の経験値なんて限りなくゼロに近い。 とはいえ、簡単には頷けなかった。 だって私、来月には三十なのよ。十六歳で母親になる人間がいる 昨今、こんなの絶対変に思われる。 ﹁あの、ええと、私⋮⋮﹂ ﹁やっぱりいいや、言わないで﹂ 否定されたら嫉妬で死ねそうだから、と彼は言う。 ﹁焦りたくないし。あれ以上のことは、維紗ちゃんから欲しがって くれるまでしたくないしね﹂ ﹁ほ、欲しがっ⋮⋮、﹂ ﹁うん。でなきゃ意味がないだろ。そりゃ、昨日みたいなことはす ると思うけど﹂ 117 するんだ。でも、嫌だとは言えない。だって、嫌じゃなかった。 悔しいくらい。 ﹁⋮⋮綴くん、慣れてるのね。私のこと、一筋だったとか言ってお いて、本当はそんなことなかったんでしょ﹂ ぽろりと零してからハッとする。これじゃ妬いてるみたいじゃな い。 すると彼はいたずらっぽく笑って、 ﹁今はパソコンさえあれば大概のことは知れるんだよ﹂ 目線を合わせたまま、もう一度わざとらしく中指を舐めたのだっ た。 ﹁え、⋮⋮えっち﹂ ﹁生物なんだし、生殖本能はあってしかるべきだろ﹂ ﹁せ、せいっ⋮⋮!?﹂ ﹁維紗ちゃん、いちいち赤くなりすぎ。そういう態度、他の男に見 せたら駄目だからな﹂ ﹁どうして﹂ ﹁可愛すぎるから﹂ 食後にも散々キスをして、綴くんはまた夜に来るからと言い残し て帰っていった。 名残惜しくて、やけに寂しくて、裸足でその背を追いかけそうに なったことは︱︱。 恥ずかしくて、打ち明けられそうにない。 118 *** それから簡単に着替えた私は、ふらり買い物に出た。 彼にまた、フィッシュアンドチップスでも作ってあげようと思っ たのだ。冷蔵庫の中身、大したものが入ってなかったし。 馴染みのスーパーにいつも通り入って、鮮魚コーナーをうろうろ しながら思う。 ︵夕べ、綴くんがいてくれて良かったな︶ そりゃ、キスをしてしまったことや、体を触られたこと、そもそ も下着姿で泣きついてしまったことは不覚だったし、冷静に考えれ ば切腹ものの恥ずかしさなのだけれど、でも。 本音をぶちまけられたせいか、多少気持ちが軽くなったというか。 彼がいてくれなかったら私は今もひとり絶望の中にいただろう。 朝食だって喉を通らなかっただろうし、ましてやこんなふうにいつ もの調子で買い物になんて出られなかったと思う。 不思議な子だ。無邪気かと思うと妙に大人だったり、ロマンチス トの割に現実的だったり。子供のくせに、紳士的だったり。 だけど、これだけは確信した。彼が現在、誰よりも私を理解して くれていること。 ︵だからかな、素直に甘えられるの︶ それとも、単純にタイミングの問題だったのかしら。 回想してぼんやりしていると、レジの順番が回ってきた。代金を 支払おうと、慌ててハンドバッグを開け、財布を探す。 しかしそこで私はハッとして手を止めた。 ミキモトの小箱が、何食わぬ顔でそこに収まっていたから。 そうだ、及川から貰った指輪、入れっ放しだったっけ。忘れてた、 119 って言ったら怒るかな。怒るよね、当然。 でも夕べ、他のことを考える余裕なんて与えてもらえなかったも の⋮⋮。ごめん、及川。許して。 荷物と一緒に申し訳ない気持ちを抱え、スーパーを出てマンショ ンへの帰路に就く。エコバッグをぶら下げてぼちぼち歩きながら、 私はその指輪の箱を開けた。 寸分の狂いもなく一列に並べられたダイヤ、指の形にフィットす る美しいフォルム、隅々まで行き届いた緻密で繊細なデザイン。 文句なしに可愛いし、恐れ多いくらい綺麗だと思う。私の指には 本気で勿体ないわ。 ︵なのに、どうして?︶ 高い太陽にそれをかざし、脳内で比較するのは300円のオモチ ャだ。 あの、ヒビが内に噛み留めていたきらめきの美しさには、どうし たってかなわないと思う。 本気でそう思ってしまうのは、何故なの。 ﹁青芝フィルター、こないだから一体どうしちゃったのかしら﹂ 手前にあるもののほうが綺麗に見えるなんて、こんなのおかしい わよ。もしかして私のフィルター、濁ってるとか? もしくは親の 欲目みたいなものとか⋮⋮。 そんなことをぼそぼそ呟いてからふと気付く。 ︱︱ちょっと待てよ。 フィルター? 欲目? そんなの、一切影響するわけがないじゃ ない。 120 だって今、指輪はふたつとも私のフェンスのなかにある。 揃って、青芝フィルターより手前にあるのだから。 ︵条件は同じ。と、なると⋮⋮︶ ごくり、息を呑んで私は足を止めた。すぐ後ろを歩いていたサラ リーマンが一瞬背中にぶつかって、危ないよと小さく漏らしながら 追い越していく。 聞こえていたけれど、反応はできなかった。衝撃が、あまりにも 大きくて。 そうだ。そうだよ。どうして今まで気付かなかったの。 もし︱︱。 隣の芝生が青く見える状況でも、自分の芝生のほうが青く見えた ならそれは。 裸眼で確かめて、それでも圧倒的に青いなら、それは。 ︵それは絶対的な、本物の青さに違いないわ︶ すぐさま小箱をしまい、携帯電話を開いた。じっとなんて、して いられなかった。 気付いてしまった。この青さは、私の目が見せている。そしてそ んなふうに思えるということは、自分の内側に原因があるのだと。 そうしたらもう、いてもたってもいられなくなった。知りたいと 思った。これほどの鮮やかな青さを、私にくれた彼のこと。その根 底にあるものを。 彼の全てを、もっと。もっと、きちんと知りたいと思った。 ﹁もしもし、綴くん? うん、申し訳ないんだけど今日の予定、や っぱりキャンセルさせてもらってもいいかしら﹂ 121 具合でも悪いの、と聞かれたから力一杯違うと否定する。 ﹁これからちょっと、実家に行きたいのよ。それでね、金庫から⋮ ⋮パスポート、出してきたいと思って﹂ そう、それで、それから。 エコバッグの取っ手をぎゅっと握る。思い切るなら今しかない。 それだけは確信している。 入社以来、初めてとれた長い休みなのだ。こんなチャンス、きっ ともう二度と巡ってこない。タイミングは今しかない。今しか。 だったら、一日だって迷っている暇はないはずだ。一分一秒だっ て無駄に出来ないはずだ。今こそ決断、するべきだ。 そして私はきっぱりと告げたのだった。 ﹁行きたいの、ロンドン﹂ この目で見てみたいの。 あなたが育った、街を。 122 15、ボヤージュ︵a︶ 私の実家は、現在暮らしているマンションから駅ふたつ向こう、 住宅密集地の一角にある。 閑静で瀟洒な高級住宅街、といいたいところだけれど、もちろん 違う。過疎化と高齢化が進んだ、それは古めかしい町なのだ。 我が家も例に漏れず築三十年、あちこちにガタがきた一昔前の一 戸建て。去年は二階が雨漏りしたとか、父が騒いでいたっけ。 ﹁ただいまー。お邪魔しまーす﹂ って、毎回どっちを言ったらいいのか迷うのよね。 廊下の先を覗き込みつつ、担いできた生鮮食品を上がり端に置く。 と、 あや ﹁おう維紗、お帰り。突然来るって言うからびっくりしたぞ﹂ ﹁紋兄!﹂ こうの・あや 和室の襖が開いて、斜めに見知った顔がのぞいた。 彼︱︱神野紋は、三つ年上の兄。私にとっては唯一、血の繋がっ たきょうだいだ。 女の子みたいな名前に加え、心根が優しかったせいか幼い頃はよ く苛められていた紋兄だけれど、今や立派に一家を率いる大黒柱。 地方公務員として働き、この家で家族︱︱妻と子供ふたり、そし て父︱︱を養っているのだ。 今日は有休を取って、午前中に父を病院へ連れて行ったらしい。 特に急病とかではなく、いつもの通院だそうなのだけれど。 123 ﹁ごめん、急で。パスポートとったらすぐに帰るから﹂ 靴を脱ぎながら両手を合わせた私に、紋兄は﹁何言ってんだ﹂に っこり笑顔になる。 きみこ ﹁昼飯くらい食ってけ。さっき電話があってから、季実子が張り切 って、おまえのぶんも支度してるんだ﹂ 季実子さん、はもちろん紋兄の奥さんだ。 ふたりは高校の同級生で、当時から付き合っていたので、彼女の ことは私もよく知っている。 ﹁ええ? じゃあ私、手伝うよ﹂ ついでにこの食品も食べてもらおう。エコバッグを持ち上げかけ たものの、私はそれをもう一度床に置く。 ︵そのまえにやることがあるわ︶ そうしてそこからオレンジをひとつ取り出すと、足早に奥の仏間 へと向かった。 ﹁お母さん、ただいま﹂ 仏壇にオレンジを供え、お線香をあげて、両手を合わせる。独特 の煙たさに、鼻の奥がつんとした。 りつ ︱︱母・利律が亡くなったのは四年前。胃癌だった。 母は私にとって、辛抱強い人だったという印象が強い。頑固な父 に黙って尽くして、常に自分のことは後回しで。 昭和の人、というより江戸あたりの雰囲気の女性だったように思 124 う。 だから苦痛にも、極限まで耐えてしまったのだろう。発覚したと きには末期で、手の施しようがなかった。 すぐさま入院を余儀なくされて、亡くなるまではたったの一ヶ月。 満足に、お別れも言えなかった。 だけど⋮⋮ああ、だから、だったのかな。 期待に応えなきゃって、思うようになったの。 私が一ツ橋デパートに就職出来たことを、誰より喜んでくれたの は母だったから。 ﹃あの一ツ橋の顔だなんてすごいわ。お母さんはほとんど働かない うちにお見合いをして、お父さんのところにお嫁に来ちゃったから ⋮⋮維紗には、私のぶんもしっかりつとめてもらいたい﹄ 入院してからもそう言っていた。 花嫁姿は見せてあげられなかったし、親孝行らしい親孝行もでき なかったから、せめてしっかり勤めたかった。 母の期待だけは、裏切りたくなかったのにな。 ﹁ごめんなさい⋮⋮﹂ 私、つくづく駄目な娘よね。 ﹁⋮⋮でも、こんな私でもいいって。お嫁に欲しいって言ってくれ てる人がふたりもいるんだ、今﹂ 瞑目したまま、ぼそぼそ言う。ねえ、これってもしかしてお母さ んが与えてくれた転機なの? ﹁正直、迷ってる。だから、見極めに行こうと思うの。そうしたら 125 きちんと考えて結論を出すから、心配しないで。でなきゃ、これも 仕事の二の舞になるもんね﹂ 必死になるばかりで、何も掴めないまま終わるのはもう嫌だから。 控えめな笑顔を浮かべる遺影に、微笑みかけてから立ち上がる。 それから再び玄関へ戻り、エコバッグを携えて台所へと向かった。 いつか母と並んで立った、懐かしい台所へ。 ﹁きぃみこさん﹂ 呼ぶと、びっくりしたように彼女は振り返り、きゃあと叫んで私 に飛びついた。 ﹁維紗ちゃん、久しぶり! 会いたかったあ﹂ ﹁ふふ、ありがとうございます。なかなか来れなくて⋮⋮父のこと、 任せっぱなしですみません﹂ ﹁えー、そういうのナシ。だって家族だもん﹂ 季実子さんはどこかしら、母と印象が重なるひとだ。 小柄で控えめで家庭的で、決して自分を飾ることなんてなくて⋮ ⋮だけど華やかで可愛いの。 兄夫婦はもともと別のアパートに住んでいたのだけれど、母亡き あと、ここへ移り住んだ。悄然としてしまった父の面倒をみるため だ。 同居する、と兄が言い出したときも、彼女は黙って従うのみだっ た。 そんな季実子さんを見ていたら、小姑としてここに居座るのは気 が引けてしまって、私は一人暮らしを始めたのだった。 しかしその結果、父を任せっ放しになっていることは、申し訳な いことこの上ないと思う。 126 ﹁あ、季実子さん特製餃子! 私、これ大好き﹂ ﹁ほんと? 実はこれね、昨日つくりすぎちゃって。良かったら持 ってって﹂ ﹁うーん、そうしたいのはやまやまなんですけど、いつ発つかわか らないので⋮⋮今日いっぱい食べときます﹂ ﹁たつって、どこか行くの、維紗ちゃん。あ、そうか、それでパス ポート﹂ ﹁はい、ロンドンです。そのために、長いお休みももらっちゃいま した﹂ 本当の理由はそれではないのだけれど、何の方向性も定まってい ない今、打ち明けるのは尚早かなと思う。 三十近くにもなって、義姉に心配をかけさせるっていうのもちょ っとね。 それに、今は他にやらなければならないことが山ほどある。 部長に電話して有給を限界まで延ばしてもらわなければならない し⋮⋮いや、それは出発日が決まってからか。 チケットは綴くんが手配してくれるそうだから、彼から連絡をも らうのが先だ。 となるとあとは荷造りと両替かな。ハワイに行った時のトランク、 どこへしまったっけ? ﹁ロンドンかあ。私、海外なんて行ったことないから憧れるわ。も しかして彼氏と?﹂ ﹁えっ﹂ ﹁やだ赤くなっちゃって、図星よ﹂ うそ、赤いかな。両頬を焦って押さえたら、季実子さんが手にし ていた菜箸の先にブラウスが当たってしまった。 127 べったり、油のあとが肩口に残る。 ﹁きゃあ、ごめんなさい! せっかくのいいお洋服が⋮⋮これ洗濯 機で大丈夫? すぐ洗うから着替えて!﹂ 大丈夫だと言ったのに、替えのTシャツと共に客間に放り込まれ てしまった。 このくらい、帰ってから自分で洗うのに。しぶしぶブラウスを脱 ぐと︱︱ ﹁おーい、維紗?﹂ 紋兄が、勢いをつけてストンと襖を開いた。 ﹁ギャー!﹂ 慌てて両手で覆い隠すも、兄の視線は私の胸元に︱︱つまり赤い 斑点に︱︱注がれている。 ﹁へえ、お前にもそういう痕、つけてくれる相手がいたんだなぁ﹂ ﹁いやーっ、早く閉めてよ!﹂ ﹁そうか、海外旅行って彼氏とだったのか﹂ ﹁ちがっ⋮⋮、い、﹂ いないわよ彼氏なんて。といいかけて咄嗟にやめた。 彼氏がいないのにこの大量のキスマークはないわ。 ﹁違うのか。じゃあ及川くんは留守番か?﹂ ﹁は﹂ ﹁今、玄関先に来てるぞ。維紗を迎えに来たって﹂ 128 ええ? 129 16、ボヤージュ︵b︶ 慌ててTシャツに袖を通し、玄関へと走る。 兄の言う通り、そこには普段職場内で見かけるのと同じ、半袖シ ャツにネクタイをきっちりしめた、一ツ橋流なんちゃってクールビ ズの及川がいた。 ただ、いつもと違っていることがひとつ。彼が酷く汗だくで、見 るからに狼狽していることだ。 ﹁どうして及川が、ここに﹂ とはいえ、もちろん場所は知っていて当然なのだけれど。 勤め出した当初、私はこの家から一ツ橋へ通っていた。だからふ たりで遊んだ帰り、ここまで送ってもらったこともあったのだ。 ゆえに今問題なのは何故彼が“ここ”にいるのか、ではなく、何 故“今”ここにいるのか、で。 ﹁今日、仕事じゃ⋮⋮﹂ 信じられない気持ちで両目をしばたたく。幻? ﹁神野﹂ 及川は魂の抜けたような声でそう呼ぶと、お邪魔しますの一言も なく土間に靴を脱ぎ捨てた。 そうしてどかどかっと乱暴に床を鳴らして上がり込み、私を、お もむろに抱き寄せたのだ。 130 ﹁⋮⋮っかやろ、なんで何も言わずに消えるんだよ⋮⋮っ﹂ 夕べと全然ちがう、むせ返るような汗の匂い。 混じって鼻をつくのは、整髪料の香りだろうか。それとも香水? シトラス系で爽やかなのにかすかにアルコールっぽくて、くらく らする。 ﹁別に、消えてなんか⋮⋮﹂ ﹁馬鹿言え。部長に聞いたらおまえ、今日から連休とってるって言 うし、電話しても繋がらねえし、マンションに行ってもいねえし⋮ ⋮何か、あったのかと﹂ ﹁え? で、電話?﹂ ポケットに入れておいた携帯電話を取り出して開くと、彼の言う 通り、メールと着信が五件ずつ残されていた。 どれも、綴くんに連絡した直後のものだ。全然気付かなかった。 ﹁ごめん。でもほら私、見ての通り何ともないから。連休はゆっく り考えようと思ってとっただけだし﹂ ﹁本当か。嘘じゃないな﹂ ﹁本当よ﹂ ﹁ったく、心配させんなボケ、心臓止まったぞ﹂ 文句を言いながらも、抱き締める腕に力を込めるなんて狡い。い つもみたいに言い返すことも、振り払うことも出来なくなる⋮⋮。 ﹁ねえ、仕事はどうしたのよ﹂ ﹁催事の打ち合わせだって言ってバックレてきた﹂ ﹁なにやってんの、いい大人が﹂ ﹁⋮⋮るせぇ、誰の所為だと思ってる﹂ 131 普段飄々としている彼にそれはあまりにもアンバランスな態度で、 笑ってしまった。 ﹁ふふ、ごめんね。本当、ごめん﹂ なんだか微笑ましいわ。 と、彼の肩越し、襖の隙間からこちらを伺う紋兄の姿が垣間見え た。 彼は出歯亀らしく興味津々の目で、しかもうっすらと生暖かい笑 みまで浮かべている。慌てて、両手で及川の胸を突き放した。 キスマークを見られたあとでこれって、タイミングが悪いったら ない。 ﹁おーい、維紗ぁ?﹂ しかし本当にタイミングが悪かったのは父だったのかもしれない。 ﹁金庫開けたぞ。ほら、パスポート﹂ ぎくりとしてしまった。 隠しているつもりはなかったけれど、まだ及川には、ロンドンへ 行くことを告げてはいないわけで。 ﹁パス⋮⋮ポート?﹂ 及川は訝しげにゆるりと振り返り、父の手の中にあるそれを確か めるように見る。 ﹁どういうことだ﹂ 132 言い訳なんて、咄嗟に思いつくはずもなかった。 *** 及川には間の悪さを助長させる神様でもついているんじゃなかろ うか。 追い討ちをかけるように﹁餃子が焼き上がったわよー﹂季実子さ んが大皿を持って現れ、強引に居間へと連れ込まれてしまった。 ﹁噂の彼氏さんよね。せっかくだから一緒にお昼食べてって!﹂ ﹁え、ちょ﹂ こうして私達は、揃って神野家の食卓を囲む羽目になったのだ。 ﹁︱︱だからね、見て来たいのよ、綴くんが育った国。私、まだ彼 のこと何も知らないでしょ。このままじゃ結論なんて出せないって 思って﹂ 家族の手前、後にしようかとも思ったのだけれど、及川が憮然と した態度を決め込んでいるので、私は覚悟を決めて本音を打ち明け た。 ﹁だからってわざわざ大枚はたいてロンドンまで行くか。あんなガ キの言うことを真に受けて﹂ しかし彼は不機嫌なまま、納得してくれないどころか、綴くんの 本気を真っ向から否定する。カチンと来てしまった。 ﹁ガキって⋮⋮綴くんは確かに若いけどちゃんとした男の人よ﹂ 133 ﹁どこがだ。まだ学生だろうが。親のスネを囓ってる奴に結婚とか 言われたって現実味なんか湧かないね﹂ ﹁なによ。及川は知らないでしょうけど、綴くんは私よりずっと稼 いでるんだから﹂ 山盛りの餃子から上がる湯気は、目の前でぐんぐん勢いを失って いく。そのぶん、部屋中に充満しきった芳ばしい匂いがなんともも の悲しい。 ﹁それに⋮⋮七年前からずっと私を想ってくれてて、今は私のこと、 誰より理解してくれてる﹂ ﹁俺よりもか﹂ ﹁そうよ﹂ ﹁若い男にちやほやされて正常な判断力を失ってるんじゃないのか。 それが単なる思い込みじゃないってどうして言える﹂ なんて意地の悪いことを。私は悔しさというより反感のあまり語 気を荒げる。 ﹁なによ。いつもいつも、そうやって憎まれ口ばっかりたたいて。 それで好きだとか言われたって全然信じられないっ﹂ ﹁俺はおまえを心配して言ってんだよ!﹂ ﹁余計なお世話よ。私は自分の目で見て考えたいの。だって私の人 生なのよ﹂ ﹁その目が曇ってるから教えてやってるんだろうが。俺よりあいつ のほうがよっぽど疑わしいんだよ。出会ってからまだ数日だろ。純 粋に好かれてるだけだってどうして信じきれるんだ。他に魂胆があ るんじゃないかって何で疑わないんだよ﹂ ﹁私を騙したって得することなんかなにもないわ! それに、疑う なら尚更確かめに行ったほうがいいじゃないっ﹂ 134 話はすっかり段違い平行棒と化してしまった。見れば、紋兄と季 実子さんの頭上にはクエスチョンマークがいくつも飛んでいる。 それはそうだ。会話の端々に第二の男・綴くんの名前が出て来れ ば。 でも今は、事細かに説明する気力なんてとても湧かない。 ﹁⋮⋮とりあえずいただきましょ。このままじゃせっかく作ってく れた季実子さんに悪いわ﹂ そっぽをむいたまま茶碗を手に取り、冷めた餃子を口に詰めた。 気まずい雰囲気の中、父だけが、部屋の隅で平和そうに新聞を捲 っていた *** 食事を終えると、自宅まで車で送るという及川の言葉に、私は甘 えることにした。 ふたりきりで話したいことがあったからだ。 ﹁これ、返す﹂ バッグに入れっぱなしだった指輪を、箱ごと彼の膝の上に置く。 当然、話したかったのはこのことだ。 ﹁悪いけど私、今のままじゃ及川の本気、信じられないから﹂ 正直、悔し紛れだったのだと思う。綴くんの気持ちを否定された ことがひたすら悔しくて。 だって、自分が本物と信じたあの青さまで、偽物だと言われたよ 135 うで⋮⋮こんなの、黙っていられるわけがない。 その後、マンションに着くまで車内は沈黙に支配されていた。視 線を振るにも躊躇するくらいの、重い空気だった。 ﹁送ってくれてありがとう。じゃあね﹂ 駐車場で車を降りると﹁待てよ!﹂案の定、及川は追って来た。 振り返ってなんかやるもんかと思った。 急いでエレベーターに乗り、﹃閉﹄のボタンを親指で連打する。 もう、顔も見たくない。 なのに、閉まりかけたドアに力づく体を割り入れ、及川は強引に 乗り込んでくる。 ﹁⋮⋮おまえ本気であいつと結婚する気かよ﹂ 腕を掴まれたから、思い切り振り払った。 ﹁勝手に話を進めないでよ。私はそこまで言ってない。まだなにも 分からないの。分からないから確かめにいくんじゃない﹂ ﹁なら、俺にもまだ分はあるんだな﹂ ﹁どうしてそうなるのよ。いい加減にして!﹂ ︱︱とっとと仕事に戻ったらいいのに。 仕事中に抜け出すなんて暴挙、私の身分では到底出来なかった。 及川にそれが許されるのは、地位が確固たるものだからだ。 名高い国立大の出身で、留学経験もあって、両親は共に代議士。 ちなみにコネでの入社だ。こうなるともう、何もかもが鼻につくっ たらない。 三階で扉が開くと同時に、競走馬の如き駆け足でそこを出る。と、 部屋の前にしゃがみ込んでいる人影が見えた。カーキ色のクロップ 136 ド丈のパンツに、襟を立てた白のポロシャツ︱︱あれは。 ﹁綴くん!﹂ ﹁あ、維紗ちゃん﹂ 彼が笑顔で振り向いてくれたとき、どれだけホッとしたか知れな い。 ﹁どうしたの。今日の予定は中止って言ったのに﹂ ﹁うん、でも、いてもたってもいられなくて。早く逢いたくて、逢 って確かめたくて、我慢出来なくて。気付いたらここにいたんだ﹂ ﹁もうっ、私が帰って来なかったらどうするつもりだったのよ﹂ わからない、と泣きそうな顔で笑って、綴くんはしゃがみ込んだ まま私の左手をとる。 それから躊躇なく、甲に熱の籠ったキスを落とした。 ﹁だって、君をロンドンに連れて行けるんだよ。やっと夢が叶うん だ。冷静でなんかいられるわけがないよ﹂ ﹁綴くん⋮⋮﹂ ﹁チケットもとれたから安心して。維紗ちゃんの言うとおり、ホテ ルのコンシェルジュに頼んだらすぐにとってくれた。コペンハーゲ ン経由だけどいいよね﹂ 私は背後に神経をとがらせる。及川が追いかけてくる気配はない。 ﹁準備もあるだろうから、出発は明後日。スカンジナビア航空の9 84便で、成田を十一時四十分発だよ﹂ ﹁うん﹂ 137 綴くんを前にして諦めて帰ったのかな、助かったな、なんて、こ のときは思っていたのだけれど。 138 17、ボヤージュ︵c︶** 私は鍵を開けると、綴くんを部屋へと招き入れた。 知らなかったとはいえ待たせてしまった手前、玄関先ではいさよ うならと追い返すわけにはいかない。 それに、出国に向けて決めておかなければならないことがたくさ んあるから。 ﹁どうぞ。今、お茶でもいれるからソファーにでも座ってて﹂ 屈んで、下駄箱からスリッパを出しつつ廊下の先を示す。 しかし︱︱あと二、三時間もすれば夕飯時だ。 こうなると、午前中に買った食材を実家に置いてきてしまったこ とが悔やまれる。冷蔵庫にあるのは納豆とミネラルウォーターくら いだし、今から調達するのもせわしないし⋮⋮。 ﹁そうね、お茶を飲んだら食事にでも行きましょうか。それで、食 べながらいろいろと決めて︱︱﹂ 言いながら立ち上がると、ふいに視界に影がさした。 身構えることもできないまま、抱き寄せられて私は身を固くする。 ﹁つ、綴く⋮⋮﹂ ふんわり香るのは、多分シャンプーの匂いだ。 綴くんは及川よりも肩の位置が高いから、私は前がすっかり見え なくなる。 こんなふうに額の上まですっぽり包み込まれると、体格の差を実 139 感して動揺せずにはいられない。 ﹁維紗ちゃん、ありがとう﹂ ﹁え?﹂ ﹁最初は僕と一緒には行けないって言ってただろ。なのに⋮⋮決心 してくれてありがとう﹂ 夕べの影響か、彼のテノールは驚くほど甘美に響いて、私の芯を たちまち緩くする。体を全て、預けてしまいたくなるというか。 駄目。こんなの、恋人でもないのに変よ。 理性はそう訴えるのに、綴くんの体温は病み付きになるほど心地 良くて、突き放せない。 すると、そんな私を正気に戻すように、彼は次の一言を放った。 ﹁⋮⋮夕べの続き、してもいい?﹂ ︱︱は? ﹁え、な、何言って⋮⋮あれ以上しないはずじゃ﹂ 焦って身をよじるも、例のごとく腰に腕を回されていて逃げ出せ ない。 ﹁君が欲しがるまではね。でも、結婚を承諾してくれたってことは OKのサインととってもいいんだろ﹂ ﹁結婚!?﹂ 承諾なんてした覚えはない。 ﹁い、いい、言ってない! 結婚する、とまでは言ってないっ﹂ 140 ﹁でも、ロンドンには来てくれるって﹂ 綴くんは不思議そうな顔をしながらも、右の掌を私の左胸にあて がった。それからぐにゅっと指を埋めるように握られ、肩が反射的 に跳ねてしまう。 ﹁ちょ⋮⋮﹂ 続きをする、って本気なの? ﹁ろ、ロンドンは観光よ、様子を見に行くだけよ。私、そう言わな かったっけ? まだ結婚のことはわからないって⋮⋮っきゃあ!﹂ 半ば強引にその場に押し倒され、痛みを感じるより先に青ざめた。 流石にここはまずい。いや、場所よりも彼の手の位置のほうがまず い。 彼はすでに季実子さんから借りたTシャツを捲りあげ、ブラの上 から左胸に触れている。掌全体を使ってゆっくりと、弾力を堪能す るように。 ﹁維紗ちゃんの胸、本当に柔らかい⋮⋮このまま内臓にまで指が届 きそうだ﹂ ﹁聞いてないでしょ、綴くんっ﹂ せば 逃げ出そうとすると、彼は開いた指をきゅっと狭め、その間に先 端を捉えた。 ﹁ひぁうっ﹂ 明らかに昨日とは違う触れ方だった。官能的で、遠慮する様子は 141 一切ない。 これ以上声が漏れないようにと咄嗟に両手で口を覆ったら、これ 幸いと両手首を同時につかまれ、頭上で固定されてしまった。 ﹁な、何して⋮⋮っ﹂ ﹁塞がれるとキスが出来ないから﹂ ぺろり、舌先で上唇を舐められる。途端に口元の感覚が淡くなっ た。 あれだ、歯の治療で麻酔をかけたときみたいな。かわりに瞼を固 く閉じたら、胸元に昨日と同じちりっとした痛みが走った。 ﹁んあっ﹂ ﹁⋮⋮これ、一生消えなくなっちゃえばいいのに﹂ 見れば、鬱血の痕が一ヵ所、夕べより濃くなっている。彼はさら に別の痕を口に含むと、音を立てて強く吸った。 ひとつ、吸い終えたかと思うと次へ、舌で辿ってまた吸い付く。 そのたび、ちゅうっとわざとらしい音を立てられて頭の中が沸騰し そうになる。 ﹁やっ、あぁ﹂ ﹁きれいだ⋮⋮﹂ 必死で下唇を噛み、声を押し殺しながら跳ねる体を抑えようとす る。しかし、どちらにも集中しきれず、だからどちらも徹底出来て いない。もう、どうしよう⋮⋮。 しかしデニムのボタンをぷつっと外された途端、切れかけていた 危機感のスイッチがオンになった。 142 ﹁だっ、だめぇっ﹂ 膝を合わせて、脱がされまいとする。これ以上はダメ。だって恋 人でもないのにこんなの、やっぱりおかしいわよ。 ﹁どうして﹂ ﹁じ、自分が言ったんじゃない、私が、ほ、欲しがるまでは、あれ 以上のことはしないって! 私、べつに欲しがってなんかないしっ﹂ そうかなあ、と彼は悪戯っぽく口角を上げて私の唇をついばむ。 よけきれず、正面から受け止めてしまった。 ﹁でも、嫌そうには見えないけどな。昨日も、今も﹂ ﹁そ、れは﹂ ﹁第一、僕のことがちっとも欲しくないなら、ロンドンを見に行こ うとも思わないはずだけど、違う?﹂ 相変わらずの口達者ぶりに、閉口せざるをえなくなる。そりゃ、 綴くんに触られるのは嫌じゃないし、真剣に考えなきゃと思う程度 にはなってきたけど。 でも。でも︱︱。 するとその一瞬の隙をついて、デニムを一気に抜き取られてしま った。 マネキンの服を着脱させるショップ店員のように、鮮やかな手さ ばきで。 ﹁っや、だめだってば!﹂ 叫んだときすでに遅く、綴くんは私の両足の間に体を割り込ませ ていた。それでいて、何か不都合でも? とか問いたげな顔をして 143 いる。 咄嗟に奥歯を噛み締める。かすかに震えている。 ︵どうしよう、怖い︶ すると彼は私の怯えを見抜いたのか、ふっと笑って頬に優しいキ スをくれた。 ﹁大丈夫、続きと言っても痛いことはしないしこれ以上は脱がさな いから。だから、ほんのちょっとだけ入れさせて﹂ ﹁い、入れ⋮⋮っ? ち、ちょっと、って﹂ ﹁うん、そうだなあ。五ミリくらいは許してくれる? 下着の縁か ら指を入れても﹂ ﹁は!?﹂ 一気に顔を火照らせた私は、またも容易く唇を奪われてしまう。 口腔内をじっくりかき出すような舌の動きに酔っていると、突然 下着の上から足の間をなぞられ、私は眼を見開くしかなかった。前 回同様、まだ、いいとも悪いとも言っていないのに︱︱。 ﹁ン、ん︱︱⋮⋮っ﹂ しかし足をばたつかせても、彼の指先は動きを止めない。そのへ ん一帯をゆっくりと、逆撫でしては戻り、かと思うと布地の端から くすぐるように割り込んできたり。 ﹁だ⋮⋮っめぇ﹂ ﹁その顔、誘ってるみたいだ⋮⋮﹂ ﹁ち、がっ﹂ 何度かぶりを振って訴えても、いっこうに聞き入れてもらえない。 やがて足の間を探りながら彼は、私の胸の先をブラ越しに柔く噛 144 んだ。 ﹁ひぅっ、んん⋮⋮っ!﹂ ビクビクっ、と鮮魚のように腰が跳ねる。すでに何度かフローリ ングに打ち付けられていた背中は、そのたびにあちこちで悲鳴を上 げる。 しかしその痛みと逆行するように、体の奥からは精神をまるごと 呑み込んでしまいそうな、甘い波が押し寄せてきていた。 下着が、私自身の水分を含んで体に張り付く。恥ずかしい。恥ず かしいけれど、もうどうにもならない。 瞼をかたく閉じ、顔を背けることで羞恥に耐えようとする私を見 下ろし、彼は突然体を屈めた。 そうして、布地の上から足の付け根に、唇を、押し当ててきたの だ。 ﹁や、やああっ﹂ 嘘。 ﹁だめっ、い、やぁ⋮⋮っ、﹂ 足を閉じて抵抗したいのに、もはや膝が震えて思う通りには動か せない。下着越しに舌を這わせられると、そこが唾液でじんわりあ たたかくなってくるのがわかった。 ﹁これでもう、どっちのだかわからないよ﹂ ﹁⋮⋮っ、なんで、そんなとこ、躊躇なく舐め⋮⋮っ﹂ ﹁好きな人の体だから全部触りたいんだ。全部にキスしたいんだ。 当然だろ?﹂ 145 そこで綴くんは意外なことに、腕をほどいて私を解放してくれた。 そんなに嫌なら逃げてもいいよ、と。 だからこのときの私は、腰を引くことも、彼の頬を叩くことも出 来たのだ。なのに。 ﹁︱︱っ﹂ 私はあろうことか、最後の力を振り絞って、彼の首にぎゅっとし がみついてしまった。怖さも恥ずかしさも勿論あった。けれど、こ うしたいと思う気持ちのほうが強かった。 そうだ。夕べと同じ。 こうしていれば何だって耐えられる。逆に言えば、この腕の中で なければこんなこと、耐えられないのかもしれない。 ﹁⋮⋮可愛い﹂ 耳元でくすりと笑う気配。と同時に、指の腹で撫でていたソコを、 爪で引っかかれる。 その瞬間だ。もっとめちゃくちゃに弄られたい、という衝動に駆 られたのは。 ﹁綴、くん、⋮⋮っん、っは、いや、ぁ﹂ ︱︱嫌。やめちゃ、嫌。 最後の一回は、これまでとは真逆の意味だった。爪が食い込むた び、﹁や、⋮⋮っや、やぁっ﹂なんだろう、何かが昇ってくる。 小刻みになる息は、苦しくて熱くて、なのにどこか心地いい。ま だ、もっと、もう少し、このまま。 146 ﹁つ、づるく⋮⋮!﹂ 必死になってしがみつくと、彼は何故だかあっさり私の体に触れ るのをやめてしまった。 フローリングに横たえられ、真上から、真剣なまなざしで見下ろ される。 ﹁ねえ、君にとって僕はまだ子供?﹂ ﹁え⋮⋮?﹂ そんなわけ、ない。首を左右に振った私の唇を、彼は情熱的なキ スで塞いだ。角度を変えて、何度も繰り返し。 ﹁⋮⋮なら、もう、見逃してあげる﹂ しかし体のどこかが宙ぶらりんにされているようで、どうにもも どかしくて、私は足先をすりあわせながらそれを受け止めていた。 その後、夕食は例の無農薬野菜のカフェを訪れたけれど、何を食 べたのかは覚えていない。同じく、彼がどんな顔をしてどんなこと を喋っていたのかも、ほとんど記憶に残っていない。 火照るだけ火照った体は、シャワーを浴びても熱が冷めることは なく、就寝してからもたびたび私を苛むのだった。 ︵ドキドキして眠れない⋮⋮これって不整脈? じゃ、ない、よね︶ 147 18、ボヤージュ︵d︶ *** こうしてやってきた出発日当日︱︱。 あらかた支度を整えた私は、腰に手を当て部屋を見渡す。この部 屋とも、しばらくはお別れだ。 ﹁⋮⋮制服、クリーニングに出しそびれちゃったな﹂ 壁にかけられたままのそれを、眺めてぽつり。 まあいいか、帰ってきてから出せば。焦ることはないわ、どうせ 次の出社時には着ないんだし。 イギリス滞在は一週間。その間に、仕事のほうも諦めがつくとい いんだけど。 ﹁さて、行きますか﹂ 機内で過ごしやすいように、と新調した伸縮素材のワンピースを 翻し、部屋を出た。 綴くんとの待ち合わせ場所は、成田空港の第一ターミナル。着い たら連絡しあおうということで、詳しい場所までは決めていない。 最初、荷物を運びにいくよ、と彼は言ってくれていたのだけれど、 聞けばホテルからリムジンバスが出ているとのこと、わざわざ遠回 りなんてしなくていいからと、丁重にお断りした。 148 なんとか自力で東京駅まで移動し、予約していたバスに乗る。 途中、パスポートのチェックが入ると、いよいよだ、と気分が高 まってきた。 海外旅行なんてそれこそ七年ぶり。わくわくして、機内でも眠れ なくなりそうだわ。 こうして空港に辿り着くと、連絡をするまでもなく綴くんに出会 えた。バスが到着する場所で待っていてくれたのだ。 久々の搭乗手続きも、彼がいてくれたからとてもスムーズで、気 付けば出発ロビー。旅慣れているなあ、としみじみ思った。 ﹁これから一週間、よろしくね﹂ ﹁おう。まかせとけって﹂ はにかみながらも張り切って胸を叩くさまが可愛い。 ﹁あ、そうだ。綴くんのご両親にお土産買ってない。そこの免税店 に何かあるかな﹂ ﹁別に気にしなくていいよ。君が一番のお土産じゃないか﹂ ﹁駄目よ。こういうのは最初が肝心なんだから﹂ 言ってから、あれ、これって完全に彼女目線だわと気付く。とな ると、あまり特別なことはしないほうがいいのかな。いや、でも、 お土産くらいは普通よね。 ﹁買ってくる。待ってて﹂ 立ち上がろうとすると、座っていたベンチがガクンと揺れた。背 中合わせになっていた席のすぐ後ろに、乱暴に腰掛けた人物がいた のだ。 傍迷惑な。振り向いてやろうとした途端、その声は聞こえた。 149 ﹁︱︱奇遇だな﹂ 聞き間違いか幻聴だろうと思った。だって、こんなところにその 人が、いるはずはないから。 しかし綴くんの眉間に皺が寄った。私の、背後を見た瞬間に。 ﹁なんで⋮⋮おじさん﹂ その言葉を聞や否や勢い良く振り返った私は、叫ぼうとして咄嗟 には叫べなくなってしまった。情けなくも、口をぱくぱく開閉させ たきり立ち上がれなくなる。 ︵お、及川! どうしてここに及川が︶ 幻!? 触れて確かめようとすると、及川は﹁一昨日は悪かった よ﹂殊勝にも詫びはじめた。 ﹁正直、焦ってたんだ。神野はもっと簡単に落ちると思ってたし、 綴が俺を出し抜くとは思わなかったからな。でも、指輪を突き返さ れてようやく目が覚めた﹂ こっちは今まさに気を失いそうだけど。 ﹁おまえを逃がしたくない。誰にもやりたくない。失いたくないん だ。だから、⋮⋮休みを貰ってきた﹂ え、なんで。まさか。 ﹁俺もロンドンへ行く。その間に、挽回させてくれ﹂ 150 私はもはや開きっきりになった唇から、声なき声で大絶叫。 ︵なんでこうなるのよ︱︱っ!?︶ かくして三つどもえの様相は、遥か彼方イギリスの地にまで持ち 込まれることとなったのだった。 151 Northern Kingdom 19、ロンドン︵a︶ and United in of Great Brita Ireland︱︱私が言うま でもないけれどイギリスは、イングランド、スコットランド、ウェ ールズを含むグレートブリテンと、北アイルランドからなる連合王 国だ。 今回、私達が訪れるのは首都であるロンドン。綴くんが育ったテ ムズ川沿いの地域だ。 コペンハーゲンで乗り継ぎをした私達が、ヒースロー空港に着い たのは現地時間で夜の七時を過ぎた頃だった。 イギリスの入国審査は厳しいことで有名だけれど、綴くんがきっ ちり滞在先などを手配しておいてくれたので、不慣れな私でもどう にか切り抜けることができた。 ﹁ああ、やっと到着だわ!﹂ 十時間を超えるフライトで凝り固まった全身は、伸びをするとく まなく軋む。 ﹁まだ気を抜いちゃ駄目だよ。荷物を受け取ったら次はチューブで 移動だからね﹂とは、トランクを待ちながら綴くん。 ﹁チューブ?﹂ 夏に出てくるバンドしか思いつけずにいると、地下鉄だよ、と及 川が教えてくれた。車体が筒状のため、そんな愛称がついているの だとか。流石に詳しい。 152 というのも、何を隠そう及川は大学時代、イギリスに半年間の留 学をしていた経験があるのだ。ゆえに今回の滞在先もその関係で︱ ︱と、そう単純にはいかなかった。 彼は抜かりなく私と同じホテルを予約していたのだ。律儀に上司 に行き先を告げておいた私が馬鹿だった。 ﹁でも維紗ちゃん、疲れてるみたいだからエクスプレスのほうにし ようか。ちょっと割高になるけど早く着くよ﹂ ﹁うん、そうしてもらえると助かる。けど、結局は揺られなきゃな らないのねぇ﹂ もう乗り物は遠慮したいところなのだけれど。 エコノミーでの移動が続いたせいか耳鳴りがする。エンジン音が まだ聞こえてくる気がするというか。 肩を落とした私を見、綴くんは申し訳なさそうに口の端で笑った。 ﹁もうちょっとだから。頑張ろう?﹂ 優しいなあ、ほんと。 うん、と頷こうとすると、見覚えのあるトランクがコンベアに流 れてきた。駆け寄ろうとした私をとどめ、及川が無言のままそれを 取り上げてくれる。 ﹁あ、ありがと﹂ 今まで以上に調子が狂う。出国してからずっとこの調子で、やけ に親切なんだもの。そこですかさず、綴くんが一言。 ﹁ねえ維紗ちゃん、日本を出た以上、レディーファーストは当然の ことだと思って受けなよ﹂ 153 ﹁⋮⋮わかった﹂ それが対抗意識からなのか、はたまた文化の違いを素直に告げる ものなのかは、しれっとした彼の表情からは判断しかねた。 ︵あーあ、どうなっちゃうんだろ、これから⋮⋮︶ *** ターミナル駅からヒースローエクスプレスで移動することおよそ 二十分、パディントンの駅に降り立った私が真っ先に驚いたのは空 の青さだった。 もう二十一時だというのに雲の輪郭まではっきり見える。これで 夜? 信じられない。 ﹁そういえば綴、おまえ学生だって言ったよな。大学はどこなんだ ?﹂ ホテルまでの道すがら、及川がそんなことを訊いた。綴少年、か ら綴、に呼び方が変わっているのは、きちんとライバルとして認識 した証拠だろうか。 ﹁ケンブリッジだよ﹂ 綴くんが答えた瞬間、及川と私は同時に噴いた。 噴かないでいられるわけがない。だってケンブリッジって確か、 世界最高レベルの大学だ。偏差値なんて想像もしたくないくらい。 衝撃を受ける私の横で、及川はもうひとつ尋ねる。 ﹁カレッジは?﹂ ﹁トリニティ﹂ 154 ﹁⋮⋮やけに頭でっかちだと思ったが、成程﹂ ﹁どういうこと? トリニティって﹂ ﹁あのな神野、簡単に言えばこいつはニュートンと同じレベルで勉 強をしてる人間だ。俺らとは出来が違う﹂ ﹁ええっ﹂ 立ち止まってしまった。ニュートンってことは偉人? 偉人なの ? やけに綴くんが大きく見える。 でも、そうか。彼が家庭教師として富裕層に人気なのは、きちん と肩書きもあるからなのね。納得。 ﹁褒めてくれるのは嬉しいけど、それでさりげなく僕と維紗ちゃん の間に距離を設けようとするの、やめてもらえないかな﹂ しかし綴くんは眉間に不快感を滲ませる。 ﹁そう突っかかるなって。もうそういう悪意ある言動はやめたんだ よ。おまえにも一目置いてる。安心してくれ﹂ ﹁やめた? よく言うよ。ここにこうして一緒にいることがすでに 悪意ある行動じゃないか。安心しろっていうのなら宿泊先を今すぐ 変更してみせてよ﹂ ﹁無茶言うな。そもそも俺が神野と同じホテルにしたのは、神野に 何かあったとき手助け出来るようにだ。下心はわずかしかねえよ﹂ ﹁あるんじゃないか! やっぱり明日から同行する件も承服しかね るね。ひとりで待機していてくれないかな﹂ ﹁それじゃ来た意味がねえだろ﹂ ﹁ほら、それって結局邪魔をしにきたって言ってるようなものだ。 それこそ悪意の塊じゃないか﹂ ああ、始まってしまった。 155 出国してから幾度となく繰り返されてきた言い合いに苦笑しつつ、 私はさりげなく彼らの間に割って入ってトランクを転がす。ホテル はまだなのかしら。 ﹁ね、ねえ、綴くんもホテル、一緒に泊まるの?﹂ ﹁ううん、残念ながら。維紗ちゃんをホテルまで送ったら一旦実家 に戻ろうと思ってるんだ。母さんと父さんに顔を見せないと﹂ ﹁そっか。家族思いなのね、綴くん﹂ うん、と言った彼の顔は、気のせいか一瞬切なげだった。角度に よってそう見えただけなのかな、というごくわずかな程度ではあっ たのだけれど。 直後にホテルに着いたせいもあって流してしまったこの事象を、 私が納得し受け止めるのは三日後のこと。 思えばここに至るまで、私は綴くんの言動を、見ているようでち っとも見切れてはいなかったのだ。 ﹁じゃあまた明日、九時過ぎにはここに来るからね。おやすみ﹂ ﹁ゆっくり休めよ。同じフロアにいるから、困ったらいつでも呼べ﹂ ﹁うん。ふたりとも本当にありがとう。おやすみなさい﹂ 彼らは海外に不慣れな私を心配して、部屋に入るまでずっと一緒 にいてくれた。 確かに、私の英語なんて日本への観光客には通じても、現地人に 理解してもらえるかどうかは怪しいし、チップなんて渡したことも ないから助かった。 まあ、ふたりにとっては互いを牽制する意味もあったのだろうけ ど。 ひとりになってから窓の外を見ると、先程までの青空が嘘のよう 156 に夜の帳が降りきっていた。 引っ張った割にあっけないというか、やけにあっさりした日没だ。 まるで黒インクでもとろりと流し込んだみたいだわ、と思った。 *** ﹁今日の観光コースは? もう決めてあるのか﹂ 翌朝、及川が部屋まで迎えにきてくれて、私達はふたりで朝食を とることになった。 メニューはトーストにベーコンにマッシュルームにヨーグルト、 あとは野菜が少しと調理法を選べる卵料理︱︱いわゆるイングリッ シュブレックファーストというやつだ。味は日本のホテルで食べる ものと大差ない。 ﹁ううん。希望は伝えてあるけど、コースは綴くん任せでまだ聞い てないのよ﹂ ﹁希望? もしかしてダブルデッカーに乗りたいとかビッグベンを 観たいとかいうベタなやつか﹂ なんでわかったの。 スクランブルエッグを口に運びながら﹁うん、まさにそれ﹂私が 頷くと、及川はくくっと肩を揺らして笑った。 ﹁通過儀礼なんだろうな。俺も初めて来たときはその辺、義務みて えにして回ったんだ。先々で日本人旅行者を見かけて興ざめしたが﹂ ﹁その台詞のほうがよっぽど興ざめじゃないのよ。これから行くっ ていうのに、もうっ﹂ ﹁はは、悪い﹂ 157 八時近いというのに、窓の外はまだ薄暗い。ぼんやりとした闇の 中に、整えられた庭がうっすら見える。 ﹁それにしても意外だったな。神野が国際結婚を視野に入れるとは﹂ ﹁国際結婚?﹂ ﹁だろ。それに、綴を選べばゆくゆくはロンドン在住だ。おまえ、 家族と仲もいいし、だからそんなに遠くは行かねえだろうと踏んで たんだが﹂ そういうことになる、のか。彼の日本語が達者なせいか、正直、 そのへんの想像は甘かった。 ︵そうか。もし綴くんと一緒になるとしたら、家族とも友達とも離 ればなれになるんだ⋮⋮︶ やっていけるの? 私、ここでひとりになって。 ﹁本気でぬかったと思う。後悔してるよ、今更だけどな。でも、俺 は俺で神野のために出来るベストのことをするつもりだから﹂ ﹁ベストのこと?﹂ ﹁ああ。ひとまず今日の夜は俺のためにあけておいてくれないか。 二時間だけでいい。ここのバーで少し飲もう﹂ ﹁でも﹂ 綴くんになんて言ったらいいか。すると、彼は﹁悪い、急ぎの電 話だ﹂携帯電話を片手に食堂を出て行ってしまった。 仕事かしらとうっすら思う。そりゃ、私も及川もいないわけだか ら今頃、現場は大混乱だろうけど。 しかしその後、綴くんと合流するまで及川は私の前に姿を見せな かった。だから了承することも、拒否することもできないまま、私 達はまた三人になってしまって︱︱。 ︵駄目だわ、このままじゃ︶ 158 せめて彼らのどちらを選ぶのか、きちんと考えなきゃと思った。 考えて、結論を出さなきゃ。 ふらふらしていたって得することなんかひとつもない。狡い女に なるだけだもの。 159 20、ロンドン︵b︶ とはいえ、それが容易でないことくらい、二十九歳も残り一ヶ月 を切った私には当然身に染みてわかっている。 年収だの資産だのと都合の良い条件ばかりを追った結果、失敗し た先輩を何人も見てきた。逆に、純粋な恋愛感情だけで結婚し、お 金の苦労が尽きないパターンだって同様に。つまり理性だけで選ん でも、感情だけで選んでも、確実な道なんてないということ。 及川を諦めたあと、ここ数年、私が長らく恋から遠ざかっていた のは、そのへんが引っかかっていたからだ。 自分だけの価値観を持てればいいのだろうけど、経験値のなさ故、 自信を持ってこれとは言えない。 だから今、彼らをどうやって比べたらいいのか︱︱何を基準に、 どちらを選んだら良いのか︱︱見当もつかないの。 それとも、比べようとするのが間違えてるの? 考えすぎ? 第一、結婚って結局、 何がどうなったら正解なの? ﹁︱︱維紗ちゃん、まばたき忘れてるよ。もしかしてジェットラグ ?﹂ 淡いブラウンの目で覗き込まれてはっとした。いけない、またや ってしまった。 ホテルを出た私達は、三人でバスに乗りこんだ。念願だったロン ドンバスだ。 160 ﹁あ、ううん、大丈夫。夜はちゃんと眠れたから時差ボケとかは全 然ないのよ﹂ 顔の前で両手を振って否定すると、左隣の及川が心配そうに眉を ひそめた。 ﹁バス、二階席で酔ったとかじゃないのか﹂ ﹁そんなことないわ。楽しいよ。案外、安定感があるのね、ダブル デッカーって﹂ ﹁そりゃそうだ、日常に使う交通手段だぞ。おまえもしかして映画 のワンシーンでも想像してたのか﹂ ﹁うん、ちょっと。ハリー・ポッターとまではいかなくとも、急ブ レーキとかはありうるのかなって﹂ ﹁やだなあ維紗ちゃん、そんなに危ない乗り物なら君を乗せたりし ないよ﹂ ﹁そう? よね﹂ せっかくふたりが案内してくれているのだから、昼間は観光に専 念しなきゃ。 結婚について考えるのは夜にしよう。⋮⋮ああ、だめだ。夜は夜 で及川に誘われてるんだっけ。 o yahoo!の知恵袋で質問してみようかしら、こんなときどう したらいいのか。いや、自慢話だと思われるのが関の山だわ。 ﹁ところでこのバス、どこまで行くの?﹂ ロンドン市街のお洒落な街並を眺めながら問うと、 hillだよ。Tower Londonのすぐ側なんだ﹂ ﹁僕たちが降りるのはTower f 161 ﹁タワー⋮⋮ああ、ロンドン塔ね!﹂ ﹁そう。維紗ちゃん、行きたいって言ってただろ﹂ ﹁うん! すっごく楽しみだわ﹂ ﹁そこからはタワーブリッジも近いし、ついでだから市庁舎も観て 来ようよ﹂ 綴くんはにっこり笑って進行方向を示した。が、対し薄笑いを浮 かべている及川の態度が気になる。 ﹁⋮⋮今、ベタだとか思ってたんでしょ﹂ ﹁いや。出発前からこんなことだろうと想像はついてたし﹂ ﹁じゃあどうして馬鹿にしたような目で見るの﹂ ﹁馬鹿になんかしてねえよ。ニヤニヤしてただけだ﹂ ﹁ニヤニヤ?﹂ ああ、と言って彼は私の頭をわしづかみにする勢いでぐしゃぐし ゃっと撫でた。 ﹁初々しい神野もかわいいなと思ってさ﹂ 心臓が止まるかと思った。だって、か、かわいい、って。 ︵聞き間違いじゃ無いわよね。及川がそんなことを言うなんて︶ 咄嗟に口をつぐんでしまった私を、右側から伸びてきた手が強引 に振り向かせる。 ﹁駄目だろ。そういう顔、他の男に見せたら﹂ 囁いたのは綴くんだった。いつもより若干低く甘い声で、ちゅっ、 と右頬にキスを落としながら。その目は及川を睨むように細められ ているけれど。 162 と、今度は左から腰に腕を回されて﹁そっちは危ないからこっち に来てろ﹂。 ﹁え、ちょ、あの⋮⋮﹂ ﹁維紗ちゃん、僕のことだけ見て﹂ ﹁おい、俺から離れるな神野﹂ 両側から甘い言葉をかけられているにもかかわらず、私は縮み上 がるしかなかった。だってふたりはそろって眼光鋭く、一触即発と いった雰囲気なのだ。 ああもう、本当にどうにかしなきゃ、これ。でないと胃に穴が開 くわ。間違いなく! *** 私の苦悩をよそにロンドンの空はいよいよ青く澄み渡り、建物の 背景を隙間なく埋めてくれる。 そこに幾筋か浮かんだ雲は、フリーハンドで勢い良く引いたライ ンマーカーのあとみたい。ロンドン塔を含め、まるごと切り抜いて 持って帰りたいくらい壮観だった。 個人的には、ロンドン塔が観光のメインその一。世界遺産にも登 録されているということで、約二時間をかけ内外を観て回った。 整然と築き上げられた建物はどれも荘厳で、華美さはないのにこ のうえなく美しい。 家族にも見せてあげようと、出発直前に購入したデジカメで何度 もシャッターを切る。 しかし及川も綴くんも一歩引いた様子で、私がはしゃぐのを見守 っている。おかしいな、と思っていたら去り際にボソリと言われた。 ﹁ここ、処刑場だったんだよね。だから今でもこの一帯、出るって 163 噂があってさ﹂ ﹁そ、それを早く言ってよ!﹂ ﹁見りゃわかるし、ガイドにも書いてあっただろ。気付かなかった のかよ﹂ ﹁うそ﹂ ﹁なのにおまえ、あちこちで記念撮影とか⋮⋮多分写ってるぞ﹂ 何が! ﹁もうやだ、今夜絶対に眠れない⋮⋮﹂ というかトイレに行けない。 ぽつり零すと、ふたりにまたもや両側から抱き寄せられてしまっ た。肩は綴くんに、腰は及川に、だ。 ﹁なら僕が添い寝してあげるよ﹂ ﹁俺の部屋に来ればいい。徹夜なら付き合ってやる﹂ 本当にふたりとも、こんな私のどこがそんなにお気に召したとい うのだろう。道ゆくブロンドの女の子のほうがずっとスタイルもい いし、可愛いし、魅力的なのに。 そんなことで、続けてタワーブリッジで跳ね橋の構造を見学し、 テムズ川を渡りきった頃には十三時過ぎ。綴くんの提案で、少々遅 いランチをとることとなった。 ﹁コッド&チップスにしよう!﹂ ﹁綴くん、本当にそれ好きね﹂ ﹁もちろん。週一で食べないと気が済まないっていうか。日本で言 うところの⋮⋮スシ?﹂ ﹁そんなに頻繁に寿司ばっか食ってる日本人なんて滅多にいねえぞ﹂ 164 ﹁じゃあ肉じゃが﹂ ﹁うーん、それもいないと思うわ、残念ながら﹂ ﹁えー、なんだよ。まあ、確かに日本の食卓ってやけに多彩で多国 籍だし⋮⋮メインがわかりにくいよね﹂ 言われてみればそうだ。懐石なんて食べた日にはどれがメインだ かわからないうちに終わっている気がする。 こうして立ち寄ったのは道沿いの小さなカフェ。ガイドブックに も載っていないような、個人経営のだ。 山盛りのコッド︱︱つまりフィッシュ︱︱&チップスは流石に本 場の美味しさで、私は大満足だった。 ﹁よし、じゃあシティ・ホールへ向かおうか﹂ 店を出て、市庁舎方向へと歩き出す。ここまでは、我ながら順調 に観光が出来ていたと思う。 異変が起きたのは、そこから数メートルほど進んだときだ。 前方から、ツアー客と思しき集団が押し寄せてきていた。顔の作 りからして、アジアからの観光客と思われた。 それで、道を開けようと及川を筆頭に三人が一列に並んだその瞬 間。 ﹁維紗ちゃん、行くよ﹂ 背後から囁かれると同時に、右腕をぐんと引っ張られ、私は立ち どまる間もなく後退する。﹁きゃ!﹂ 前を歩いていた及川が悲鳴に反応して振り返った様子が一瞬だけ 見えて、しかし。 体勢的に、踵を返さざるを得なかった。そして気付いたときすで に私は、それまでとは真逆の方向へと駆けていたのだ。 165 166 21、ロンドン︵c︶ ﹁え!?﹂ 全速力で︱︱というのはきっと私だけで、綴くんは手加減してく れていただろうけど︱︱ツアーの集団を追い越し、人混みの合間を 縫うように進んでいく。 ﹁神野!﹂ 及川が私を呼ぶ声が聞こえたのは、通りの角をドラフト走行よろ しく曲がる直前だった。ぐんっ、と腕を引っ張られて、あれよとい う間に細い路地へと連れ込まれる。 ﹁ちょっ、つ、綴くんっ﹂ なに、何事なの。 さっぱり事態がのみ込めない。足がもつれて、今にも転げそうだ。 なのに立ち止まれないのは、彼が私の手をしっかり握って引いてい るからで︱︱。 ﹁こっちだよ。もうちょっと!﹂ 見たこともない景色が、中世を思わせる街並が、流れるように過 ぎていく。手前に焦点を合わせて、勢い良く滑らせたカメラワーク みたいに。 だから、確かに見えるのは先を行く彼の存外大きな背中とそして、 光を滑らせるほど見事な艶をたたえた、淡い色の髪だけ。 167 チカチカする。頭の中に静電気が起きているかのよう。 こうして久々の全力疾走の末、訳もわからぬまま辿り着いたのは 橋だった。タワーブリッジと同じく、テムズ川に架けられた橋だ。 fair lady”﹂ とはいえ、先程とは違い橋桁はやけに質素だし、観光客なんてほ とんどいない。 ﹁ここ⋮⋮?﹂ ﹁ロンドンブリッジだよ、“My なかなか呼吸が整わない。肺が破裂しそうに、ひりひり痛む。だ けど本当に痛いのは、その奥なのかもしれなかった。 ﹁オイカワには悪いけど、ここだけはどうしても君とふたりきりで 来たかったんだ。七年前から、ずっとそう決めてた﹂ 咄嗟に彼から視線を逸らしたのは、動揺をごまかすためだ。だっ て綴くん、いきいきしているせいかやけに綺麗に見える。 来た道をちらとかえりみたけれど、及川が追ってくる様子はなか った。路地をめちゃくちゃに走ったから、撒いてしまったのだと思 う。 でも、及川ならひとりだって心配はないし、イザとなれば携帯電 話も使えるから大丈夫よね。⋮⋮というのは薄情かしら。 ﹁⋮⋮タワーブリッジとロンドンブリッジって別物なのね?﹂ 川沿いの、少し湿った空気が日本の空気を思い起こさせて、心地 いい。 ﹁うん、混同されやすいけどね。何回も落ちて、ナーサリーライム にもなったのはこっち﹂ 168 fair lady?﹂子供がそうして遊ぶよう それらを交互に指差したあと、彼は無邪気に笑って私を突然つか まえた。﹁My に、背後から二本の腕で。 ﹁ひゃっ、ひ、人が、見て⋮⋮﹂ fair lady”ってつくか ﹁だから君は人目を気にしすぎなんだってば。ねえ維紗ちゃん、あ の童謡、どうして最後に“My 知ってる?﹂ ﹁し、し、しらないわ﹂ せっかく整いかけていた鼓動と呼吸がまた乱れはじめる。 is bro ああ今日、ポニーテールになんてしなければ良かった。綴くんが 喋るたび、息がかかってくすぐったい。 Bridge down︱︱壊れたとか言ってラストに突然“かわいいお ﹁おかしな話だろ? London ken 嬢さん”なんてさ﹂ ﹁う、うん﹂ lady”っ 頷きながらも、本当は会話の内容なんて頭に入ってきてはいなか fair った。いつまでこの格好でいればいいのだろう。 ﹁これはあくまで噂なんだけど、“My ていうのはどうやらこの橋を立てるときに人柱にした女の子のこと をさすらしいんだ﹂ ﹁ひ、人柱?﹂ ﹁そう。で、この遊びも生け贄を選ぶための儀式が始まりだったん じゃないかとか言われてる﹂ ﹁⋮⋮ふうん。日本でも昔話とかでたまに見るけど、イギリスにも 169 そういう習慣があったのね﹂ ﹁そりゃ勿論。この国は歴史的にも国際的にみても、案外残酷だか ら﹂ ほら、と言って彼は対岸を目で示す。 ﹁ミュージアムなんてまさしく略奪の歴史だろ。あとはロンドン塔 然り、さっき通りかかったダンジョン然り﹂ ﹁ダンジョン⋮⋮? そんなのあったっけ﹂ ﹁気付かなかったならそれでいいよ。あそこはカップルが行くとこ ろじゃない﹂ ﹁そういわれると気になるんだけど﹂ ﹁⋮⋮。拷問法とか処刑法とか、いかにも血なまぐさいシーンを蝋 人形で再現して展示してある場所だよ。あと、ジャック・ザ・リッ﹂ ﹁もういい! それ以上は言わなくていいっ﹂ ますますトイレが遠ざかった。ロンドンってば実は恐ろしいスポ ットなのね。身震いした私をさらに強く抱き締め、綴くんは深呼吸 でもするように長く息を吐く。 ﹁もし︱︱もしさ、君が生け贄に選ばれた女の子だとしたら、僕が さらって逃げるよ﹂ ﹁⋮⋮さっきみたいに?﹂ ﹁そう、さっきみたいに。それでどこまでも一緒に行くんだ。国外 へでも、地球の裏へでも﹂ 相変わらず恥ずかしいことを言うなあと思う。歯が浮きそうよ。 でも、何故だろう。 ﹁⋮⋮そうね、綴くんが一緒なら⋮⋮どこへでも行けそう﹂ 170 行けそうだわ。そんな気がする。 ﹁本当?﹂目を輝かせた彼に、茶化して﹁だって六カ国語も喋れる し﹂付け足したら、途端に残念そうな顔をされたけれど。 けれど⋮⋮行けそう、と思ったのは嘘じゃない。これっぽっちも、 嘘なんかじゃなかった。 ﹁あ﹂ するとそのタイミングで、ハンドバッグの中の携帯電話が震えた。 及川かもしれない。言いながら綴くんを上目遣いで見ると﹁いい よ、出なよ﹂少し淋しそうに笑って、私を自由にしてくれた。 ﹁僕に君を束縛する権利はない。そうだろ﹂ ﹁綴くん⋮⋮﹂ それはそうだけど。でも、罪悪感で胸が痛い。 ためらいながらも、私はバッグの中をごそごそ探る。と、手前に 入れておいたオイスターカードが︱︱日本で言うところのSuic aみたいなものなのだけれど︱︱はらりと地に落ちた。 ︵いけない︶ 綴くんがせっかく買ってくれたものなのに。 それを拾おうとしたとき私は、言うなれば完全に油断していた。 イギリスといえば紳士淑女の国、綴くんのように誠実で親切な人間 ばかりがいるものと思っていたのだ。 いや、そもそもここが海外であるという実感こそが薄かったのか もしれない。だから。 私は無防備にもバッグを軽く片手に乗せ、掲げたような格好でし ゃがみこんでしまったのだ。 171 ﹁維紗ちゃんっ、Watch out!︵危ない︶﹂ 鬼気迫る綴くんの声。﹁え?﹂顔を上げたときにはすでに遅かっ た。 一台の自転車が競輪選手かと見紛うほどのスピードで、綴くんと 私の間を過ぎる。途端、風圧とともに左腕に千切られるような痛み が走って︱︱。 ﹁きゃあっ﹂ him!﹂ 跳ね飛ばされる体。その場に尻餅をついたとき、私の手の内から はバッグが消えていた。⋮⋮嘘! ﹁Thief!!︱︱Catch 叫びながら、綴くんは果敢にもひったくりを追い、弾かれたバネ みたいに駆け出す。 有難いし、頼もしいけれど怖かった。痛みすら感じないほど、置 いていかれるのが怖かった。 しかし引き止めようにも声が出ない。唇が、舌が、震えてしまっ て思う通りに動いてくれない。 ﹁つ、つづ⋮⋮﹂ 綴くん、ひとりにしないで。 すると彼は角で一瞬振り返って、やはり英語で私に何かを︱︱ど こかへ行けと︱︱言う。しかし、肝心な部分が聞き取れない。うう ん、もし聞こえていたとしても、理解なんて出来なかったと思う。 私は完全に臆してしまって、運動神経だけでなく思考能力までも が使い物にはならなくなっていた。 172 そのまま、その場にへたりこむこと数分。 どうにか立ち上がって壁際に移動し、うずくまってからは三十分。 綴くんは帰って来ない。居場所もわからない。及川に連絡しよう にも、携帯電話はバッグの中だし番号だって覚えていない。 やがて人々の視線に耐えかねて、私は逃げるようにその場を後に した。じっとしていれば良かったのかもしれないけれど、性格上、 それはできなかった。 せめて及川と別れた場所まで戻ろう。そうすれば及川と会えるか もしれない。そんな、甘い考えがあったことも事実だ。 しかし、景色なんてほとんど見ずに駆け抜けてきた街はまるで迷 路だった。だから来た道どころか、いつのまにか方角さえも見失っ てしまって。 気付けば︱︱。 私はオイスターカードだけを一枚握りしめ、ロンドンの街を彷徨 っていた。簡単に言えば、迷子になってしまったのだ。 本気で、泣き出してしまいたかった。 173 22、ロンドン︵d︶ わかっているのはこのままではいけないということだけで、わか らないのはそれ以外の全部だった。 交番へ行くべきだろうか。でも、交番の場所どころか何を目印に 探したら良いのかもわからない。 ﹁え、エクスキューズミー⋮⋮﹂ 道行く人に何度そう呼びかけただろう。しかし挙動不審なうえに 声が上擦って発音もままならない異邦人を、振り返ってくれる人が いるわけもなかった。 どうしよう。どうしよう、どうしよう。頭を抱えながら途方に暮 れる。ああ、こんなピンチのとき、いつもならどうしていた? 私は下唇を噛み、痛みで我を取り戻そうとする。そうよ、仕事中 には焦ることなんていくらでもあったわ。 落ち着いて維紗、今落ち着かなくていつ落ち着くの。あなたもう すぐ三十でしょ。 目の中に滲んだ涙をぎゅっと押さえて、零れないようにする。そ れから右頬を軽く叩くと、涙が乾く感覚と同時にひとつの言葉が頭 をよぎった。 ︱︱“大丈夫。君は、絶対に大丈夫だよ” 大泣きして、綴くんに縋ったときのことだ。 ︱︱“あんなに頑張ってたんだ。あの努力が、無駄になるわけがな いじゃないか” 174 思い出したら、また泣けそうだった。そうだ、私、七年間も勉強 してきたじゃない。 どんなに仕事で疲れていても、飲み会で遅くなっても、意識が半 分なくても、ずっと続けてきたじゃない。 あの日々を、無駄にしてどうするの。綴くんが信じてくれたのに、 私が信じなくてどうするの。 ﹁大丈夫﹂ きっと大丈夫。 呟いたら、少しの冷静が戻ってきた。ふと、手の中の青いものに 気付いて、視線を落とす。 ︵そうだ、オイスターカード︶ 確か、綴くんはこれを使って、帰りにチューブに乗ろうと言って いた。料金は、滞在期間中困らない程度にチャージしてあるからと。 これでホテルまで帰れるかもしれない。そうしたら、荷物の中に I have a problem︵すみま アドレス帳があるからそれでふたりに連絡が取れる! ﹁︱︱Sorry! せん、困っています︶﹂ the nearest あとはもう、必死だった。迷惑がられるのを覚悟でカフェのウェ Where's station?﹂ lost. イターをつかまえ、駅への行き方を尋ねる。 ﹁I'm subway と、最も近い駅はサザークだと言うので、そこまで歩いてから今 度は駅員に、パディントンまでの経路を教えてもらった。 175 あとは見よう見まねだ。他の乗客がしているのと同じようにホー ムから大股で車両に飛び乗り、ベイカーストリートの駅で一度乗り 換えて。 その間の記憶は、思い出そうとすると霧の中のようで、遠くの物 ほど霞んでいる。いかに自分がいっぱいいっぱいで目の前のものし か見えていなかったのか、わかるというか。 地上に戻って見覚えのある景色を目にしたときは、あまりにほっ として腰が抜けるかと思った。 けれど実際に腰を抜かしてしまったのは、ホテルのロビーで、だ。 そこにはソファーに浅く腰掛け、祈るような格好でうなだれている 人の姿があった。 ﹁つ、綴、くん⋮⋮?﹂ どうしてここに。 呼ぶと、彼はぱっと顔を上げ、瞠目し私の姿を確認した。それか らつんのめるような格好で駆け寄ってき、私を力一杯抱き締めた。 ﹁ごめん! ⋮⋮ごめん、ひとりにして。怖かっただろ﹂ 温かくて優しい匂いを吸い込んだ瞬間、カクリと膝が折れた。腰 と言うより、全身の力が抜けてしまったみたい。 こらえていた涙が、一気に溢れてくる。 ﹁⋮⋮っ、ふ、ぅ、うぁああん﹂ ﹁ごめん。本当にごめん。戻ったときにはもう、君の姿はなくて。 周辺も、交番も、尋ね歩いたけどどこにもいなくて﹂ ﹁う、う⋮⋮ふぇええ、え︱︱﹂ ﹁カフェの店員さんに、君が地下鉄に乗ったって聞いたから⋮⋮あ とは、先回りして待ってた。絶対に、絶対に君なら辿り着けるって 176 信じてた﹂ 大きな掌が私の頬を包み込んで、持ち上げる。心細かった気持ち まで、一緒にすくいあげられる。 帰ってきた。私、ちゃんと帰れたんだわ。歪んだ視界にうつる彼 の顔が、近付いてくるにつれ安堵感も大きくなる。 フロントに人がいるとわかってはいたけれど、無抵抗で、そのキ スを受けた。 間髪を入れず三度押し付けられた唇は、これまでのどんなキスよ りも熱くて︱︱鉄の味⋮⋮? ﹁んっ⋮⋮え⋮⋮?﹂ 血。なんで。 しゃくり上げながら、涙の向こうの彼に目を凝らす。異変はすぐ にみつかった。左頬と、口のきわだ。うっすら青紫に変色して、腫 れているようにも。 ﹁怪我、してる。綴くん、⋮⋮まさか﹂ ﹁ああ、うん、バッグを取り戻すときにちょっとね。ごめん、格好 悪いよな﹂ 彼は気まずそうに目を逸らし、 ﹁あ、でもパスポートも財布も無事だったから安心して﹂ 気を遣ったのか、傷口を隠すように横を向いて笑顔を作ると、慌 ててソファーへ掛け戻る。 そうして手にしたのは薄汚れた私のバッグで、ちぎれた肩ひもを 見るに簡単な立ち回りでなかったことは瞭然だった。 177 ﹁う、そ⋮⋮﹂ 危ない目にあってまで取り返してくれたの? 私のために? ﹁なんて、実は僕が振り回したせいでカメラと携帯電話は壊れちゃ ったから、無事って言い方は本当は正しくないわけだけど︱︱っわ !﹂ たまらなくなってその胸に飛び込んだ。綴くんを一歩、後退させ るくらいの勢いで。 そのまま、背中に腕を回してぎゅうっと抱きつく。抱きつかずに は、いられなかった。 ﹁ありがとう﹂ ありがとう、綴くん。 ﹁どういたしまして。でも、不手際のほうが大きいから感謝される と心が痛むなあ﹂ ﹁ないわ、不手際なんか。あるとしたら、危険な目にあったことく らいよ。⋮⋮もう、こんな危ないことは二度としないで。絶対よ﹂ ﹁責めないんだ? 置いていかれたことに関しては﹂ ﹁責められるわけがない﹂ ないわよ。私は彼の背を、抱えるようにして自分の体に引き付け る。だって、私をここへ辿り着かせてくれたのもやっぱり、綴くん の力だもの。 思い起こしてみれば七年前、勉強を始めるきっかけをくれたのは 彼だった。自分に足りないものを、気付かせてくれたのは彼だった。 178 あの日があったから私は努力をしようと思えた。今日、こうして わずかでもコミュニケーションがとれたのは、異国の地でもひとり で歩けたのは、元を辿れば綴くんと出会ったからだ。 綴くんが私を、成長させてくれたんだ。 ﹁⋮⋮ありがとう﹂ 彼こそ、無事で良かったと思った。命に関わるような酷い怪我で なくて良かった。もし、もし万が一、自分の所為で彼をなくすよう なことがあれば︱︱私。 私、⋮⋮。 ﹁部屋へ行こうか。僕、君にオイカワの電話番号を教えてもらわな きゃ。メモはとってある?﹂ ﹁とってあるけど、いいの? 合流させちゃって﹂ ﹁うん、実はさ、君を捜して街中を駆け回ってたとき、偶然にもば ったり出くわしちゃって。事情を説明して、ホテルで待とうと思う って伝えたら、それなら自分がここに残って君を捜すって言ってく れて﹂ ﹁及川が⋮⋮?﹂ 今も私を捜してるってこと? ﹁役割、逆にしようかとも思ったんだ。だって、あいつより僕のほ うがロンドンの街に慣れてるだろ。でも、ようやく辿り着いた場所 で君が素直に甘えられるのは俺じゃないからって。自分よりおまえ のほうが適任だ、ってさ﹂ 胸が熱くなるのがわかった。熱くて、痛かった。いや、痛かった から、熱く感じたのかもしれない。 179 出国前のあの日、及川の本気が信じられないなんて、どうして言 えたのだろう。 ﹁⋮⋮ありがと。綴くんも、及川も、ありがとう﹂ ﹁それはオイカワに言ってあげて﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ 私、浅はかだった。愚かだったわ。そのことをようやく今、理解 した。 相手の選び方? そんなの、今の自分がわかるはずもなければ、 誰かに答えを教えてもらえるわけもなかったのよ。 言ってみれば、行き先もないのに道順を尋ねるようなものだもの。 思えば私は常に誰かの目を気にして、細い道に迷い込んでいた。 だからいつだって迷子だった。努力の意味さえ、見失っていた。 このままじゃ、どこへもいけないし誰のことも見えない。おろお ろするだけじゃ、ますます間違えた方向へ行くだけだ。 ︵正解は、私が決めなきゃいけなかったのね︶ そうよ、重要なのは経路じゃない。目的地だったんだわ。 誰にも惑わされず、誰に何と言われようと、自分だけの価値観で 行き先をきめる。それが最優先だ。 もう、二度と迷わないように。 180 a 23、ロンドン︵e︶ like please﹂ ﹁I'd w, ﹁Sure!⋮⋮How ?﹂ ﹁One﹂ the your by in table many windo party 翌日、本来なら初日と同じく終日観光の予定だったのだけれど、 私はふたりに断ってひとりで過ごさせてもらうことにした。彼らの 存在に惑わされることなく自分自身を見つめ直す時間が、欲しかっ たから。 朝食の時間を無視してゆっくり起き、珍しく朝風呂に入った。メ イクのついでに長い髪を夜会巻きにしたのは、これが一番私らしく て強くいられるヘアスタイルだと思ったからだ。 それからひとりでホテルを出、ここ、ノッティングヒルまでは徒 歩。道を尋ねるのも、カフェに入るのも、昨日の出来事を乗り越え た今となってはとても容易いことだった。 きっかけひとつ、それだけで世界の感触が変わった気がした。 夕べ、及川からの誘いに対しては⋮⋮延期を申し出て了承しても らった。予定は、明日の夜へとずれこんで、それは綴くんも知って いる。 直前のキャンセルになってしまったことは本当に申し訳ないと思 う。けれど、将来的なことを考えれば今、訳もわからぬままのこの こ出て行って彼らを惑わすほうがよほど申し訳ない。 やっとそう、気付けた。気付けて、良かった。 ﹁⋮⋮開眼した気分だわ﹂ 181 席についてからぽつり零した私を見、ウェイターの女の子が変な 顔をする。慌てて愛想笑いで誤摩化すところは、まだまだ人目を気 にしている証拠なのかもしれないけれど。 ︵私、この先、何がしたいのかしら︶ マーケットで賑わう通りを眺め、ぼんやり考える。正直、将来に ついて真剣に考えたのは大学卒業以来実に七年ぶりのことかもしれ なかった。 思えば︱︱。 学生の頃は目標とか夢とか希望とか、そういった精神性の高いも のこそが尊ばれて然るべきだと思っていた。数値に表せない、崇高 な何かを体の中心に持っていた。そこを軸に、世界が回っているか のようだった。 ⋮⋮何の疑問も持たずに。 そうして社会に出て、大切だと学んだものは協調性に妥協に忍耐。 つまりそれまで信じていたものを諦めることこそが正しくて、そ れが出来ない人間は未熟で⋮⋮足並みを揃えられないはみ出しもの なのだと思うに至ったわけだ。 だから行動を起こすときにも、理由は︱︱軸はいつのまにか自分 の外にあって、それを中心にしなければ回れなくなっていた。 ⋮⋮何の、疑問も持たずに。 だけど今、周囲の顔色をうかがっているばかりでは解決出来ない 問題にぶち当たって、思う。 本当にそれで良かったの? 182 だって、軸が中心からずれていたらどんなに上手に自転したとし ても、転げるのが関の山だ。突然真っ直ぐ進もうとしたって、そり ゃ当然︱︱不可能ってものよ。 愚かさを噛み締めて、苦いコーヒーを飲み干した。 綴くんのことが知りたくて訪れたイギリスだったのに、一番知り たいのは自分のことだなんて⋮⋮滑稽だわ。 運ばれてきたサンドイッチを頬張りながら、回想するのは幼い頃 に思い描いた夢。もちろん受付嬢になろうだなんて考えたことは一 度もなかった。 幼稚園のころは保育士、小学生ではキャビンアテンダント、中学 生で美容師︱︱どれもが子供の夢ランキングの上位を占めているよ うな職業で、あまりにも一般的な思考の子供だったことに苦笑して しまう。 ︵不思議と、芸術家とか小説家とか、奇抜な夢をみたことはないの よね︶ 自分には無理だろうと悟りきっていたこともあるけれど、その実、 孤独さが漂う仕事をしたくなかったんじゃないかと思う。 いざ就職試験を受けようというときにもそうだった。ひとりでデ スクに向かうような業務内容の求人は極力避けていたくらいだから。 つまり私は、人と触れ合うのが好きなのだ。 だから受付という職業は、思うに天職だったわけで。 結局、ここまでポジションにしがみついていたのもあの仕事をこ よなく愛していたからで、私は間違いなく一ツ橋の店頭に立てる自 分に誇りを持っていた、のだろう。 今、もし、願いが叶うのなら受付嬢に戻りたい。 183 それが一番の願いで︱︱夢なんだろうな。 納得して進退を決めるまで、あの制服をまとって店頭に立ってい たい。立って⋮⋮いたかった。 ﹁可能性はもう、百パーセントないけどね﹂ ここは諦めなきゃならないところよね。 そんなことを考えつつ、のんびりブランチを済ませてから向かっ たのはケンジントンガーデン。ガイドブックによると、昔ここは隣 接するハイドパークと共に王室の狩猟場だったのだとか。 青々と茂った芝生と悠然とした湖、鮮やかな花々を眺めつつ、私 はやっぱりぼんやりと考えて︱︱世界はなんて広いんだろう、とか、 当たり前のことに気付いたりしたのだった。 ︵まだまだ浅学寡聞の身、か︶ 答えは、出そうで出ない。真綿をふんわりつかんだような状態で ホテルへ引き返すと、及川と綴くんがロビーで向かい合ってチェス をしていた。 私を心配し待っていてくれたらしい。とはいえあまりにも意外な 組み合わせに、噴き出し笑いは必至だった。 ﹁で、戦況はいかに?﹂ ﹁一勝一敗。今は僕が優勢だけどね。オイカワ、案外強いんだ﹂ ﹁案外ってなんだ、案外って﹂ ﹁あ、ねえ維紗ちゃん、明日の昼食会なんだけど、十一時にここに 迎えにくるのでいいかな。母さんも父さんも維紗ちゃんに逢うの、 すっごく楽しみにしててさ﹂ ﹁うん、いいけど、もっと早く行って料理とか手伝ったほうがいい んじゃない? 私﹂ ﹁何言ってるんだよ。君は主賓だろ。座っているだけでいいんだよ﹂ 184 ﹁俺の存在は無視かこのやろう﹂ 部屋に戻ってからも、彼らの言い合いはふとした瞬間に耳に蘇っ てきて、私の腹筋を鍛えてくれた。 あのふたり、私の存在を抜きにしたら意外と気が合うのかも、な んて。 平和な気分でぐっすり眠った。 よもや翌日の食事会にこそ最大級の波乱が待ち受けているなんて ︱︱それこそ針の先程も、予想せずに。 185 24、エンカウンター︵a︶ ﹁ごめんね、時間ギリギリになっちゃって!﹂ 予定時刻の十一時オンタイム、ロビーでエレベーターを飛び降り た私を待ち構えていたのは綴くん⋮⋮とそして及川だった。 何故ここに。今日は別行動の予定だったはず。 ﹁おまえ、誰のことも待たせるんだな。いい加減に時間の観念って やつを覚えろ﹂ ﹁なんで及川に説教されなきゃいけないのよ﹂ 今日はギリギリだけど遅れてはいないし。 ﹁観念ならそれなりにあるつもりよ。証拠にほら、仕事に遅れたこ となんて一度もないじゃない﹂ 阿呆め、と腕組みをして吐き捨てる彼は昨日とは打って変わって ビジネスライクなスーツ姿だった。 ますます不思議だ。観光に来てまで勤務時と同じ服装をしている なんて。 ﹁むしろ優先すべきはプライベートだと俺は思うね。仕事は遅刻者 自身にもペナルティがかせられるが、この場合迷惑をこうむるのは 相手のみなんだからな﹂ ﹁わかってるわよ。わかってるけど、なんでそれを今、第三者であ る及川に言われなきゃならないの。綴くん本人に、ならわかるけど﹂ ﹁あァ? 俺は過去の被害者だぞ。口を出す権利は十二分にあるね﹂ 186 ﹁ひがっ⋮⋮それじゃ私、犯罪者みたいじゃないのっ﹂ ﹁まあまあ、ふたりとも落ち着いてよ﹂ 綴くんに割り込まれてようやく我にかえった。このタイミングで 及川とやりあってどうする。そしてそれを彼に仲裁されてどうする の。 ロンドン滞在四日目︱︱着いた日を除くと、三日目。 本日は綴くんの家にお邪魔して、お母様お手製のランチをごちそ うになる予定なのだ。もちろん及川抜きで。 これは綴くんのご両親のたっての願いで、日本を出国する前から 日程も決まっていた。 恋人でもなければ婚約者でもない私がご両親にお会いするなんて、 と当初はお断りさせていただいていたのだけれど、﹁友達として紹 介するから﹂という綴くんの言葉を受け、いよいよ首を縦に振らざ るを得なくなった、という経緯がある。 ﹁オイカワと維紗ちゃんって本当に仲がいいんだね。妬けるよ﹂ ホテルを出て通りを歩き出すと、綴くんはそう言って唇をちょっ と尖らせた。可愛い。可愛いけれどその発言は少々いただけない。 ﹁どこをどう切り取ったら仲良く見えるの? あいつ、いつもああ なのよ。いちいち突っかかってくるっていうか﹂ ﹁でも維紗ちゃん、オイカワには遠慮なく文句言ってるだろ。僕に は躊躇うようなこともさ﹂ そう⋮⋮なのだろうか。確かに、私があんなふうに言い合える相 手は職場に二人といないけれど。 187 でも、私本人からすると、綴くんに対してのほうが、言いたいこ とは言えている気がする。歯に衣着せぬ、という意味ではなくて、 弱みとか悩みとか、本当に隠しておきたいことに関しては、特に。 ﹁ふたりを見てると、“馬が合う”ってこんなことなのかなって思 うよ。それだけは、本当に悔しい﹂ かといって一歩も引いてやる気はないけどね、と綴くんは言って 私の手を取った。 ﹁今日は走らないから、繋いで行ってもいいだろ﹂ ﹁う、うん。でも、ご両親の前では駄目だからね。絶対誤解される から﹂ ﹁そう言われるとやりたくなる。君は困った顔が一番セクシーだか ら﹂ 早速反応に困ってしまった。そんな私の頬にすかさずキスをして ﹁ほら、その表情。帰したくなくなるよ﹂。 ﹁また、そういう⋮⋮﹂ ドキッとさせるようなことを。 それに今晩は帰してもらわないと困る。及川との約束、今日こそ は果たさないと。 ﹁⋮⋮あのさ、一昨日から言おうと思ってたんだけど、人前でキス とかするの、やめたほうがいいんじゃないかな﹂ ﹁文化をまるごと否定するようなこと言わないでよ﹂ ﹁あ、そ、そうか。ごめん。でも、あの、東洋人にとってはキスっ て馴染みがなくてね、は、恥ずかしいというか﹂ 188 ﹁だからその顔⋮⋮、⋮⋮ああもう! どうしてそんなに可愛いん だよっ﹂ 注意したばかりだというのに、木陰に連れ込まれて無理矢理唇を 奪われてしまった。 ﹁ッ、だめ、だってば⋮⋮っ、リップ、落ちちゃ⋮⋮﹂ ﹁かまうもんか﹂ *** ﹁うわあ、素敵なお宅!﹂ そびえる一軒家を前に、歓声を上げてしまう。だって淡いブルー の外壁に白いサンデッキよ。まるでおとぎ話だわ。 日本人であれば“そんなことないよ”と謙遜するところを、だろ、 と言って綴くんは自慢げに笑った。 ﹁僕もすごく気に入ってるんだ。寮暮らしになってからも、たびた び帰ってきてる。ここが一番休まるんだよ﹂ ﹁わかる気がする。こんな家なら私もしょっちゅう里帰りしちゃう わ﹂ 途中、膝が折れそうになるほどのキスを受けるというハプニング があったにもかかわらず、葦手家に到着したのはホテルを出てから ほんの十数分後のこと。 一帯は高級住宅街なのか、区画が綺麗に整理されていて統一感が ある。隣接する住宅との距離感も絶妙で、すこぶる暮らしやすそう だ。 うちの実家とは大違いね。きょろきょろと四方八方に視線を振っ 189 ていると、綴くんは ﹁ようこそ、僕が育った自慢の家へ﹂ さらりとそんなことを言って私の手を引いた。 一面の芝生を含め、手入れの行き届いた庭はむせかえるほどの緑 の匂い。ちいさな石膏像なんかも置いてあるし、色とりどりの花は クレヨンをぶちまけたみたいに鮮やかで見事だ。 Isa !﹂ 見蕩れていたら結局その手を放すのを忘れ、玄関先に到着してし まった。 ﹁Welcome, 気付いたのは、待ってましたとばかりに扉が開いてから。 So pleased to me ﹁わ!?﹂慌てて振り払ったのは、やっぱり不自然だったかもしれ ない。 !!﹂ Raymond. you ﹁I'm et ﹁あ、えと︱︱ひゃっ﹂ ハグ、のち両頬にキスという熱烈大歓迎。 レイモンドさんとおっしゃる金髪碧眼のナイスミドル⋮⋮この人、 もしかして綴くんのお父さん? for inviting me t お辞儀をして自己紹介を、なんて本国でのご挨拶を想定していた you 私はすっかり縮み上がってしまった。 ﹁せ、Thank oday﹂ 190 ええと、キス? キスするの? でも、どうやって? 自己紹介 は今すべき? あ、そうだ、お土産。 まごつく私を見、﹁レーイ、日本人にその歓迎のしかたは禁物だ って言ったでしょ﹂英語でフォローを入れてくれたのは黒髪の中年 女性。 ﹁ごめんなさいね。こんにちは、わたしはリサ、綴の母です。維紗 さんよね、話は綴から聞いてるわ﹂ ﹁あ、日本語⋮⋮﹂ ﹁ええ、わたしには日本語でかまわないわ。うちの人にも、片言な ら通じないこともないから安心して﹂ 差し出された手を握りながら、思わず見蕩れてしまった。綺麗な 人。 さすがは綴くんのお母さんだ。ワンレンが凄く似合っていて、ア ジアンビューティーといった感じ。 ﹁さあどうぞ。朝からはりきって準備したのよ。今日は楽しんで行 ってね﹂ ﹁はい、お邪魔しますっ﹂ ﹁維紗ちゃん、靴は脱がなくていいからね﹂ ﹁え、あ、うん﹂ 三人に続いて足を踏み入れたリビングは、使い込んだ木製の家具 が並んでいて、なんともあたたかい雰囲気だった。 彼の人柄のルーツが、透けて見えるみたい。本当に素敵な家⋮⋮ 憧れちゃう。 ﹁それにしても、本当に綴があなたを連れてくる日がくるなんて。 感無量よ﹂ 191 お母様︱︱リサさんがそういうと、お父様︱︱レイさんが椅子を 引いてくれた。﹁息子ならやってくれると思ったよ﹂なんてことを、 英語で言いながら。 テーブルの上に並んでいるのは魚の煮込み料理にサラダ、フルー ツ、そしてあれはコテージパイかしら。いい匂い! ﹁まあ、父さんの子だからね。二度あることは三度あるよ?﹂ 綴くんはちょっといたずらに笑って私の隣に腰を下ろす。どうい う意味だろう。 ﹁そうねえ、血は争えないわね。まさか、あなたまで一ツ橋の受付 嬢に惚れるなんて思わなかったわよ﹂ ﹁あの?﹂ ﹁いやね、実はね、わたしも以前、一ツ橋に勤めてたのよ。それも、 受付にね﹂ ええーっ、という驚きの声は、もしかしたらご近所中に響き渡っ ていたかもしれない。でも、だって、 ﹁信じられない⋮⋮! じゃあリサさん、私の先輩にあたるんです ね﹂ ﹁そういうことになるわね。もう二十年以上も前のことだから、偉 そうなことは言えないけど﹂ ﹁そんなことないです! 基礎を築いてくださった方じゃないです か。どうして教えてくれなかったの、綴くん﹂ それを知っていたらもっと早く来ようって思えたかもしれないの に。 192 ﹁母さんから口止めされてたんだよ。日本では母親を敬いすぎると 嫌われるからって﹂ 母親を好きでいたらいけないなんて不思議な国だよね、とレイさ んが眉をひそめたのが印象的だった。 193 25、エンカウンター︵b︶ それから食事を始めると、レイさんは私のグラスにワインを注ぎ 入れながら ﹁じゃあ、君のことを教えてくれるかな﹂ 何より先にそう言った。もちろん英語で、だ。 ﹁私のこと、ですか﹂ あれ、なんだかお見合いみたいになってきたわ。 違和感を覚えつつも、私はコテージパイを食べようと持ち上げか けていたフォークを留め、簡単な英語で答える。 フルネームに年齢、一ツ橋でのポジションと勤続年数︱︱すでに 綴くんから聞いて知っているだろうなあと思いつつも︱︱リサさん へ話題を振る意味も込めて、業務内容にも簡単に触れてみたりして。 すると、 ﹁そうじゃないよ﹂ レイさんは何故だか少し悲しげに首を振った。 ﹁もっと君らしい話が聞きたいんだ。私達はイサと打ち解けたいん だよ、家族のように﹂ えっ? すでに打ち解け始めている気になっていた私は、まばた きみっつを最後にフリーズ。どういうこと? 194 見兼ねた綴くんが﹁ほら、君はすごく努力家で料理だって上手じ ゃないか﹂助け舟を出してくれなかったら、いつまでもそうして固 まっていたかもしれない。 ああ、そうか、レイさんが聞きたいのは私の外付けのプロフィー ルじゃあなくて、内面の、もっと根本の⋮⋮。 ﹁あ、あのっ、私、﹂ 私は。 ﹁手話が得意なんです。大学生のころ、ボランティアサークルに所 属していて。この特技のおかげで就職もできたようなもので﹂ 言いながら、そうだ、自分にはこれがあったんだと再認識してし まった。 不思議だ。口に出すと、ふんわりしていたものが途端に形を持ち はじめるみたい。 ﹁それは素晴らしいね﹂感心したようにレイさんも頷いてくれる。 ﹁人の役に立つことができるなんて凄いじゃないか。⋮⋮そうか、 手話か⋮⋮﹂ そのとき、彼とリサさんがさりげなく目を合わせたことには、気 付いていたけれど流してしまった。特別気に留めるほどでもないか な、と。 食事は、和やかに進む。 しかし、時間の経過とともに浮き彫りになってきたのは自分の扱 いがすっかり“お嫁さん”と化していること。 195 友達、として紹介する約束じゃ。綴くんを問いただそうにもご両 親との距離が近くてできない。 しばし考えた挙げ句、後片付けが始まったタイミングで﹁ねえ、 お手洗いの場所はどこかしら﹂彼を連れ出そうと図った。 ﹁ああ、こっちよ。来て﹂ けれど、笑顔で案内してくれたのはリサさんで。 ありがとうございますー、と会釈をしながら内心しくじったなあ と舌打ちしてしまった。こんなとき、携帯電話さえ壊れていなけれ ばメールの一通でもこっそり送るのに。 するとリサさんは廊下を先立って歩きながら﹁ねえ﹂肩越しにち ょっと振り向く。そして言った。 ﹁あの⋮⋮ナオのことは、綴から聞いてる?﹂ ﹁え?﹂ ﹁あ、知らないならいいのよ。ごめんなさいね﹂ 瞬間、胸の奥にもやっとしたものが広がったことは︱︱自分でも、 予想外だった。 ︵ナオ、って、誰︶ もしかして、女のひと⋮⋮? しかし、その場で尋ね返しておかなかったのは、我ながら痛恨の ミスだった。 だって、そもそも恋人でもなんでもない自分に、彼の過去を根掘 り葉掘り訊く権利があるのかどうか、なんて考え始めたら言い出せ なくなってしまって。 そんな状態だったから、結局私は、疑問とモヤモヤを抱えたまま 帰宅の時間を迎えることとなってしまったのだ。 196 ﹁イサ、遠いところをありがとう。会えて嬉しかったよ﹂ レイさんはハグをしながら、最後には﹁マタキテネー﹂日本語で 付け足してくれる。本当にあったかくていい人だ。はい、とこちら も日本語で答えた。 ﹁また日本でも会いましょう。息子抜きでもいいわ。帰国の際には 十分気をつけて﹂ ﹁はい。ありがとうございます。お食事、本当に美味しかったです、 ごちそうさまでした﹂ リサさんとも熱いハグをして別れると、私は再び綴くんと並んで ホテルへの道を歩み始めた。 時刻は十八時過ぎ。けれどやはりまだ空は青く、日が暮れる気配 は一向にない。ビッグベンの夜景、いつになったら見られるだろう。 ﹁ふたりとも、いつもああなんだ。何か失礼はなかった?﹂ 大通りに出ると、照れくさそうに綴くんは言った。なんとも新鮮 な表情だ。 ﹁とんでもない! すごく楽しかったわ。いいご両親ね。なんだか 実家を思い出しちゃった﹂ 特に、お母さんのことを。 古風な性格だったけれど、母も割にリサさんと同じく他人の意見 を否定しない、そういう意味ではグローバルな人だったように思う。 友人関係に悩んだときも、仕事でうまくいかなかった日も﹃維紗 は間違えてないわ﹄と常に味方でいてくれたっけ。 そんなことを話したら、綴くんは思いのほか食いついてきて、 197 ﹁もっと聞かせてよ。僕も維紗ちゃんの家族のこと、詳しく知りた い﹂ 私を公園へと誘った。昨日も訪れた、ケンジントンガーデンへだ。 食事の席で母について詳細を語らなかったのは、せっかくの楽し い席をしんみりさせないためだったのだけれど、正解だったかもし れない。 思い出話に耳を傾けはじめると、綴くんはあっという間に涙ぐみ、 目元を押さえてうなだれてしまったから。 ﹁維紗ちゃん、君は強いね⋮⋮﹂ ﹁そんなことないわよ。こんなふうに話せる日がくるまで、それな りに時間がかかったもの﹂ 風化したとはいわない。悲しみが薄れたとも思わない。それでも あるときフッと、前を向いている自分に気付いた。恐らく、そんな ものなのだ。 ﹁綴くんこそ、本当に優しいのね。イギリスにも、自分のために泣 いてくれる人がいるなんて、母が知ったらきっと驚くわ﹂ 答えながらまたもや失敗したなあと私は思う。 ナオさんのこと、ますます訊ける雰囲気じゃあなくなってしまっ た。それともこれは聞かないでおけという天の思し召し? と、彼は顔を上げて﹁優しいわけじゃない﹂。 ﹁想像したら、耐えきれなかったんだ。僕はきっと駄目だよ。ただ でさえ家族はバラバラなのに、これ以上誰かが欠けたら﹂ ﹁バラバラ? あんなに仲がいいのに﹂ 198 ﹁そう思う?﹂ 曖昧な笑顔で返されて、ぎくっとした。え、なに⋮⋮? ﹁維紗ちゃんが辛いことを話してくれたから、僕も話すよ。本当は、 ずっと黙っていようかとも思ったけど﹂ 前方の視界に広がるのは、昨日訪れたときと何ら変わらぬ、のど かで心和む光景。 なのに、何故だか、不穏な感じがして。 なお ﹁僕には五つ年上の兄がいるんだ。猶っていう。母さんが昔、父さ んと出会う前にもうけた子供だよ﹂ 綴くんが重い口調で言ったから、私はゆるりと彼の横顔に焦点を うつした。 ﹁な、ナオ?﹂ お兄さんのことだったの。 ﹁そう。今は日本にいる⋮⋮いや、ずっと日本にいる、が正しいか な﹂ ﹁⋮⋮どうして﹂ ﹁一緒に暮らそうとしたことは何度もあったんだ。でも、一度もう まくいかなかった﹂ 一拍の間を置いて、﹁兄は⋮⋮兄さんには、聴覚に障害があって﹂ 。 えっ、と尋ね返した声は、声にならなかった。彼が、振り向きざ 199 ま、縋るように抱きついてきたから。 ﹁日本式の手話も覚えた。六カ国語も、ある程度喋れるようになっ たよ。他にも、手を付けている言語は山ほどある。だけど﹂ いつも甘美なテノールは、弱々しくも震えている。 ﹁だけど、届かない。どうやっても届かない。僕の言葉は、兄さん に一度も、届いたことがないんだ⋮⋮!﹂ 私はもっと早く気付くべきだったのだろう。深く、考えるべきだ ったのだろう。 彼が、日本にいる間に幾度か出していた小さなサインを︱︱。 200 26、エンカウンター︵c︶ ﹁兄さんは、父さんを家族として認めてくれないんだ。僕のことも、 だけど﹂ そんな言葉を皮切りに、綴くんは自らの半生を語りだした。 自分が日本で生まれ、本当はそのまま日本で暮らす予定だったこ と。それで名前が日本式であること。 けれどお兄さんの猛反発にあって、生後半年で父親︱︱レイさん と共に渡英したこと。だから当初は英語しか喋れなかったこと。 母親︱︱リサさんとは年に数ヶ月だけイギリスで一緒に暮らす間 柄だったこと。 そして小学校六年生のとき、リサさんの誘いで日本での生活を始 めたものの、やはりお兄さんの猛反発にあい、最終的にはリサさん と共に実家を追い出されてしまったことも。 お兄さんは現在、祖母とふたりきりで生活をしているそうだ。綴 くんは帰国のたびに、彼らを尋ねていっているらしい。 そろそろふたりの結婚を認めてやってほしい、と。つまりレイさ んとリサさんは未だに正式な夫婦ではないようで⋮⋮。 ﹁それで綴くんは、日本にいたときホテルを借りていたのね﹂ 変だな、とは思っていたのだ。一ツ橋デパートのほど近くに祖母 の家があるのに、わざわざ別の場所に寝泊まりしているなんて。 ﹁うん。おばあちゃんは僕を孫のひとりとして可愛がってくれてる んだけどね⋮⋮兄さんが﹂ ﹁そんなに酷いの?﹂ 201 ﹁スーツ、汚したって言ったろ。あれ、本当は破いたんだ。背後か ら掴みかかられて、よけ損ねちゃって﹂ 言葉を失ってしまった。そうか、ホテルでクリーニングを頼まな かったのは修理が必要だったからなのか。 ボタン付け程度ならまだしも、縫製となると流石に、高級ホテル でもなければ請け負ってくれないはず。 でもさ、と彼は言って奇石のような瞳を潤ませる。 ﹁本当に酷いのはきっと僕だよ﹂ なんて綺麗な涙だろう。綺麗すぎて、痛々しくて、直視出来なく なる。 ﹁十二のとき、僕は君に逢うまで日本にいるのが苦痛でたまらなか った。友達とも、兄とも馴染めなくて、早くロンドンに帰りたいっ て思ってて⋮⋮﹂ ﹁そんなの当たり前よ。突然生活が変わったら、戸惑って当然じゃ ない﹂ ﹁⋮⋮あの日、維紗ちゃんと出逢った日、僕が花を送ったの覚えて る?﹂ もちろん、と私は頷く。忘れるわけがない。 ﹁あれ、父さんに、だったんだ。メッセージカードには迎えにきて って書こうとしたんだよ﹂ 歪んだ顔を、両手で覆う。﹁僕は兄を見捨てようとしていた﹂懺 悔でもするみたいに。 202 ﹁母さんももう、あの頃は腫れ物に触るみたいになってて、兄に伝 えたいことがあるときは置き手紙を書いてた﹂ ﹁手話は全然してなかったの? それで私に会うまで知らなかった のね?﹂ ﹁全然、じゃなかったと思うけど、僕が目にする機会はほとんどな かったんだ。母さんは維紗ちゃんのようにスムーズな会話ができる ほど手話ができるわけじゃないし、そもそも兄は、僕のことを避け 続けていたし﹂ ﹁綴くん⋮⋮﹂ ﹁当時は日本語の筆記なんてできなかったからさ、僕。母さんのよ うに置き手紙が書けない自分には、兄との意思の疎通なんてできな いものなんだと諦めてて⋮⋮努力も、しなかった﹂ その掌の中に涙が流れたかと思うとたまらなくなって、力ない背 中を私はがむしゃらに抱き寄せた。 綴くん。︱︱綴くん。 ﹁兄さんは被害者なんだ。母さんが僕を身籠りさえしなければ、今 頃親子揃って生活出来ていたかもしれないんだから。僕さえ、この 世に生まれてこなければ﹂ ずっとそんな気持ちで生活していたの? あの、温かさがつまっ た家の中で。 ﹁⋮⋮そんなこと、冗談でもいわないで﹂ 腕に力を込めて、抱き締めて、ぐしゃぐしゃになるまで髪を撫で た。何度繰り返しても、ちっとも足りない気がした。 いつかの及川の言葉が耳に蘇ってくる。“なんであいつ、名字が 日本式なんだ”︱︱。 203 何故あのとき、私は疑問をそのまま放置してしまったのだろう。 気付いてあげられなかったのだろう。 彼はわかってくれたのに。私の裏側にあるものを、見抜いて認め てくれたのに。 誰より深く、理解してくれたのに。なのに。 ﹁︱︱っ⋮⋮﹂ 奥歯を噛んで、零れそうな涙をこらえる。それは、負い目にも似 た後悔だった。 私が泣いたら駄目。今は彼を思いっきり泣かせてあげたい。なの に。 ﹁維紗ちゃんは本当に優しいね。⋮⋮それは、同情?﹂ 彼がそういって顔を上げたときすでに、涙は頬を伝って流れてい た。止まらなかった。 同じことを及川に告白されたとして、私はこれだけの感情を持て るだろうか。⋮⋮いや、答えはノーのような気がする。 だからこそ、気付けなかったことがひたすら悔しくてたまらなか った。 ﹁ちがうわ﹂ 違う。同情なんかじゃない。 かぶりを振って否定すると、私は彼に、そっとキスをした。 一度では足りなくて、繰り返し重ねた。人目なんて、ちっとも気 にならなかった。 駄目だ、と言ってもしたがる彼の気持ちが︱︱わかってしまった 気がした。 204 ︵私、綴くんのことが⋮⋮大事だわ︶ 誰より一番大事だわ。 *** それですっかり告白した気になっていた私は、ホテルへの帰路、 自ら綴くんの手を取った。 しかし彼はというと、無言のまま。一瞬だけ意外そうな顔をした ようにも見えたけれど、以降はほとんど無表情だった。 闇雲に話題をふるのも違う気がして、私は口を閉じたまま、別の ことに考えを巡らせていた。 彼のお兄さんのことや、仕事のこと、それからもし、自分がイギ リスに住むとしたら家族のことはどうすればいいのか、とか、⋮⋮ 結婚式のこととか⋮⋮、少々先走ったことまで。 でも、一番は、なんだか別れがたいな、ということで︱︱なのに。 ﹁じゃあ維紗ちゃん、明日は九時くらいに迎えにくるから﹂ ホテルの前、何事もなかったかのように別れを告げられ、私は内 心首をひねった。 おかしいな。もっと名残りを惜しんだりしないの? 綴くんのことだから部屋に来たいとか、言われると思ったのに。 ﹁あの、綴くん、さっきの話なんだけど﹂ もしかして通じてなかったのかしら。ならばもう一度きちんと言 っておこう、とすると、 205 ﹁わかってるよ。ごめんね、君が優しい人間だと知っていて、狡い 尋ねかたをして﹂ ﹁え?﹂ ﹁あの状況で、同情か、って聞かれてYesと答えられるやつはい ないよ﹂ ようやく彼が冷静な理由を悟って、凍った。 通じていなかったわけじゃない。私が言わんとしたことはちゃん と伝わっている。でも、その上で、否定されているのだと︱︱。 ﹁そんな! 私は別に、本当に同情とかじゃなくて﹂ ﹁もういいんだよ。君の優しさは充分伝わったから﹂ どこがよ。言い返そうとして、やめた。 きっと水掛け論になる。何を言っても、恐らく素直に気持ちを伝 えても、彼は信じてくれない。 ﹁もういいんだ。今日の話はお互いに忘れよう。そのほうがいい。 それで、明日からまた、今まで通り﹂﹁ストップ﹂ 思わず、衝動的に遮ってしまった。たえきれなかった。 ﹁ちょっと待ってて。ここで待ってて。絶対に動かないでよ!﹂ 言葉で通じない相手には行動で示すしかない。これは、仕事上の 鉄則でもある。 私は急ぎロビーに駆け込んだ。フロントに預けてあったルームキ ーを受け取り、元の場所へと速攻で戻る。 ﹁部屋で待ってて﹂ 206 彼の手にそれを握らせたとき、覚悟は決まったと思った。 自分は綴くんを選ぶのだと、もう迷わないと、そう︱︱。 ﹁及川の申し出、いますぐに断ってくる。だから私の部屋で待って て﹂ まさかその及川が最後のカードを隠し持っているなんて、思いも しなかったから。 207 27、エンカウンター︵d︶ ロビーへ戻った私はエレベーターに飛び乗り、待ち合わせ場所の ある六階へと向かった。時間は朝と同じくギリギリだ。 すると扉が開いた途端、垣間見えたのはレストランの中へと吸い 込まれていく、見慣れた背中。 ﹁及川!﹂ ︱︱待って。 考える間もなく呼び止めていた。及川は振り返って、目が合った 途端、上機嫌で右手を上げる。 ﹁おう、神野﹂ 私だけに向けられる、柔和な笑顔。ずきんと胸が痛んだ。 想ってくれていた年月の長さは違えど、彼も私のために海を越え てくれた。だから、というわけではないけれど、一度は疑った想い も今は信じている。 でも、それでも綴くんより強い衝動を彼には持てなかった。これ 以上、考えたところでこの気持ちが変化するとも思えない。 だとしたら、これで最後にしなければ。 ﹁あの、及川、私﹂ 私、及川の気持ちには応えられない。だからごめん。駆け寄って そう言おうとすると、 208 ﹁ちょうど良かった、こっちだ﹂ 腰に手を回されて﹁え﹂一瞬後には店内へと連れ込まれていた。 ﹁ちょ、あの、ちょっと待っ﹂私、話が。 ﹁時間がないんだ。歩きながら話すぞ。実は先方が予定より早く到 着してさ﹂ ﹁せ、先方?﹂ 首を傾げてしまった。どういうこと? ﹁今日、ふたりきりのはずじゃ﹂ ﹁ああ、悪いな。思い通りに事が運ぶかどうかは五分五分だったか ら、おまえには言わないでおいたんだが︱︱実は、一ツ橋の上層部 の人間を呼んだんだ﹂ こちらを見下ろす彼は得意げで。 ﹁じょ、上層部って﹂ なんで。唐突な告白に私は耳を疑う。ちょっと待って。 ﹁うまくいけば異動の件、考え直してもらえるかもしれない﹂ ﹁⋮⋮冗談でしょ。お偉いさんがこんなところまで、呼びつけられ てホイホイ来るわけが﹂ ﹁逆だよ。俺がイギリスにきたのも、本当は︱︱上層部の数人がこ っちに来ていると部長に聞いたからなんだ﹂ 驚きのあまり蹴つまずいた。右足から靴が脱げ落ちる。 そういえば及川、こっちにきてからやけに忙しく電話をしていた 209 し、今日も朝からスーツだった。あれって全部、私のためだったの? と、彼はその場にしゃがみ込み、靴を拾って私の足に被せてくれ る。 ﹁未練、あるんだろ。受付に﹂ 重い鼓動が胸を叩いた。あるに決まっている。戻れるものなら戻 りたいと思っていた。それが、叶うはずのない私の夢だと︱︱。 ﹁おまえが望むなら、俺はいつでも自分の首をかけておまえのポジ ションを守ってやる。だからどこへも行くな﹂ ﹁及、川﹂ ﹁頼むから、俺の側にいてくれよ。一生、ずっと﹂ 願望と情念とが、見事に真逆を向いた瞬間だった。 望んだ未来は及川の手の中にあって、けれど心はもはや、綴くん の元へ行ってしまっていて⋮⋮。 私は何故、これまで気付かなかったのだろう。 目的地を明確に決められたとして︱︱ そこへ至るための正しい経路を、人がただ、機械的に選択しつづ けることなど出来るはずはなかったのに。 210 28、チョイス︵a︶ ︱︱あれはいつのことだっただろう。 ﹃ねえ維紗、あなたが何故、壁にぶつかっているのか⋮⋮わかる?﹄ そう言って、母が私の手を握ってくれたことがあった。恐らく社 会に出てからだったと思うけれど、経緯は全く覚えていない。 ﹃簡単なことよ。それはね︱︱⋮⋮⋮⋮﹄ それでも、触れた手の柔らかさと存外な力強さは、夕日の紅さと 共に脳裏に刻み付いていて、記憶に蘇らせようとするたび、胸にし くしく沁みてくる。 母はあのとき、続けて何て言ったのだった? ﹁柿沼さん、こちらが神野です。売り場でご挨拶をさせて頂いたこ とがあったかもしれませんが﹂ 及川は私を席まで連れて行くと、すでに着席していた老紳士にそ ういって紹介した。 ﹁こ、神野維紗です﹂ 反射的に名乗ったものの、覚悟なんてなにひとつ決まってはいな かった。 及川についていく覚悟も、綴くんを見捨てる覚悟も。 211 ﹁神野、こちらは一ツ橋デパート取締役のひとり、柿沼さんだ﹂ ﹁よろしく。遠目に見たことは何度かあったが、挨拶は初めてだな﹂ 品の良いグレーのスーツをまとった彼は、恐らく渋みのある笑顔 で私を見ている⋮⋮ようなのだけれど、直視する勇気はない。 深い霧の中にぽんと置き去りにされたような気分だ。 受付には戻りたい。七年間積み上げたものを、そうやすやすとは 失えない。 けれど、部屋でひとり私を待ってくれている綴くんを思うと、呵 責に襲われて泣きたくなる。 どちらも選べない。どこへも進めない。 それは、どちらかをあっさりと切り捨てるより利己的な気がして。 ︵結局、女にとっての仕事って何なんだろう︶ こんなふうに悩むときがくるならいっそ、社会進出なんてさせな ければいいのにと思う。 どんなに努力したって、生物的にいつか分かれ道を選択させられ る時が来る。それがかえって残酷なことだと、先人達は気付かなか ったのかしら。 ﹁それで、彼女が今回の人事異動に納得していないというわけだね﹂ 老人はテーブルに肘をついてこちらに少し身を乗り出した。親身 に、というより値踏みをするみたいに。 ﹁いえ、これは俺の︱︱いえ、サービス課全体の意見でして。神野 は一ツ橋にとって他店競合との差異化をはかるうえで、売り場にな くてはならない存在なんです﹂ ﹁ほう、だがしかし、手話などそんなにしょっちゅう必要なものか 212 ね﹂ その言葉にはどこか嘲笑の色が含まれていて、私はさらにいたた まれなくなる⋮⋮わからなくなる。 蔑まれているのは、私の非力さだろうか。それとも︱︱女の身で 仕事にしがみついていることだろうか、と。 ﹃簡単なことよ。それはね﹄ 母の台詞が再び耳に蘇る。それは、なに? ねえお母さん、その 先、何を言ったの? ﹁データを整理してあります。ご覧頂けますか﹂ 彼が鞄からiPadを取り出したから、﹁すみません、ちょっと﹂ 私はたまらず席を立ち、すぐそばにあったお手洗いへと逃げ込んだ。 やけにスタイリッシュな鏡が向かいの壁にかかっている。真っ直 ぐに歩み寄って覗きこむととそこには、惨めな顔の女がひとり。へ とへとになって帰宅した瞬間より、もっと酷い顔だった。 ﹁⋮⋮お母さん、わたし、﹂ じわ、と涙が視界を歪める。私、どうすればいいの。 と、自分の顔に残る母の面影が、滲むように染み出してきて︱︱ ようやく、像を結んだ。 ︵ああ、そうだわ、確か︱︱︶ *** 213 ﹁︱︱接客の仕事って、どこまでが誰のためなのかな﹂ かねてからの疑問をため息と共に零したのは、社会人一年目の冬。 一ツ橋の社員として初めて迎えた、デパートがもっとも賑わう季 節、すなわちクリスマス商戦真っ直中のことだった。 ﹁あら、どうしたの突然難しい話﹂ 和室の隅、洗濯物を畳む母はお気に入りのベージュのエプロン姿。 私が中学生のころ、家庭科の実習で作ったものだ。 もうぼろぼろだから新調しなよと何度促しても、あればかり着て いたっけ。 ﹁難しくなんてないわよ。素直な疑問。こういう仕事に就いてる人 なら、必ず一度は考えると思う﹂ みかんの皮を剥こうとすると、細かな飛沫がキラキラ散った。 ﹁⋮⋮何か嫌なことでもあったの?﹂ 尋ねる声は穏やかで、さりげなくて優しい。 ﹁ちょっとね。館内アナウンス、トチっちゃって﹂ 色んなものを諦める前のこと、私はそのころが社会人として最も 行き詰まっていた。 ﹁そしたらさ、間違えた途端にお客さんがやってきて、今のは誰だ ってわざわざ聞くのよ﹂ ﹁まあ、物好きもいるのね﹂ 214 ﹁そこまでで終われば良かったんだけど、⋮⋮苦情の電話を入れら れちゃって。“神野って女に二度とアナウンスさせるな、聞くに堪 えない”だって﹂ こたつに下半身を突っ込んだまま、仰向けに転げる。 ﹁私にとっては何十回とこなすうちにおきた一度のミスでも、お客 様には一分の一のミスになるわけじゃない。そういう意味では、ア ナウンサーより挽回がきかないのかもしれないわ﹂ ﹁厳しい世界ねえ﹂ ﹁こんなだと思わなかったわよ﹂ なんだかがっかり。 ﹁そりゃ、お客様に喜んでもらえたときは嬉しいよ。やりがいもあ るし。でも、ときどき、⋮⋮﹂ カースト制度を思い出すのよね、と言うと母は手を止めてこっち を見た。 ﹁食パンなら冷蔵庫よ﹂ ﹁いや、トーストじゃなくてね﹂ 奴隷にでもなったかのような気になるのよ。お客様と対峙すると。 ﹁⋮⋮やりがいのある仕事、ってどういうこと? 勤務時間中、人 権を放棄してまでお客様に媚びるのがそれなの? それとも、接客 業に自分自身のやりがいを求めるのが間違ってるの?﹂ それがお客様にとって居心地の良い空間だと思われているなら、 215 この国はなんだか歪んでいる気がする。 矢継ぎ早に吐き出すと、母は眉をハの字にして﹁そんなに難しく 考えなくても。持ち前のサービス精神はどこへ行ったの?﹂ちょっ と笑った。 ﹁だから難しくはないんだってば﹂ ﹁難しいわよ。外で働いたことのないお母さんにとっては、未知の 世界だもの﹂ ﹁⋮⋮あー、私も早く専業主婦になりたいっ﹂ 座布団に突っ伏して、埃っぽい酸素を吸った。咽せそう。 しかしそんなことが言えるのだから、私はまだまだ母の苦労には 気付けていなくて、⋮⋮子供だったのだと思う。 ﹁でも維紗は凄いわよねえ﹂ ﹁どこがよ﹂ ﹁壁にぶつかったことがよ﹂ ﹁⋮⋮どういう意味﹂ 見事に挫折してるって言いたいの? そりゃ、紋兄みたいにうま く世の中に馴染めてはいないけど。ぶうっとむくれると、 ﹁ねえ維紗、あなたが何故、壁にぶつかっているのか⋮⋮わかる?﹂ 突然の質問返し。 母は特に読書家というわけではなかった。にもかかわらず︱︱い や、それゆえに、かな。時々、こちらがドキッとするほど悟りきっ たような台詞を言うことがあった。 だから私は母を一番の相談相手にしていたのだけれど。 216 ﹁わかれば苦労しないわよー。わからないからぶつかったんじゃな い﹂ ﹁あら、簡単なことよ。だからこそ凄いとお母さんは思うんだけど﹂ ﹁簡単でもわからないわ﹂ ﹁そう? 仕方ないわね、じゃあ教えてあげる﹂ 得意げに言って、母は振り返る。その顔を、障子越しの淡い夕日 が照らしていた。 インクの原液みたいなマゼンタと、みかんの皮の色を五分五分で 割ったようなオレンジ。肌色に重なると、鮮やかすぎて目に痛い。 ﹁それはね、きちんと前に進んだからよ。だってほら、立ち止まっ ていたら壁には行き当たらないじゃない?﹂ 同時に、右手をぎゅっと握られた。確かにそうかもしれない、け ど。 ﹁問題の解決には繋がらない気がする⋮⋮﹂ ﹁いいじゃない、解決しなくたって成長は成長よ。昨日と同じこと だけしていたら、人間は成長しないもの。お母さんみたいに﹂ 母はこのとき、この台詞を、どんな気持ちで言ってくれたのだろ う。父とお見合いで結婚したこと、ひいては一生家庭に縛り付けら れていたこと、悔いていたんじゃなかろうか、なんて。 今になって、知りたく思う。 尋ねる術はもうないけれど。 ︵成長⋮⋮か︶ それを促してくれるのは、やはり綴くんのように思う。彼の存在 217 は絶大だ。 でも、こうなった以上、夢を叶えるには及川の手を取らざるを得 なくて。 ︱︱どちらかを、諦めなければならないなんて⋮⋮。 できっこないわよ。 結局、結論の出ぬまま席に戻ると、意外にも柿沼さんの姿は消え ていた。 ﹁⋮⋮悪い。即答は避けられた﹂ 及川はうちひしがれたような顔でワインを傾ける。 前進も、後退もしていない。そんな状況に、安堵して胸を撫で下 ろす自分が世界一の卑怯者に思えた。 ﹁いいよ、もう、そんなにしてくれなくて﹂ ﹁戻りたくないのか、受付﹂ ﹁⋮⋮戻りたい、けど、﹂ ︱︱けど。 いっそ受付には戻れないと言われたほうが、楽なのよ。ごめん。 それ以上何も言えなくなってしまった私を見、察したのか及川は 重い息を吐く。 ﹁そうか。でも、⋮⋮悪いが帰国まで、粘らせてくれ﹂ 彼とはそのまま別れた。肝心なことは何ひとつ決断できない自分 の、何もかもが嫌になる。 人との摩擦に喘いでいるのに、何故だろう。とても孤独に感じて 218 ならなかった。だから。 ﹁おかえり、維紗ちゃん﹂ 部屋へ戻って、笑顔の綴くんが出迎えてくれたとき︱︱私は勢い 良く、その胸に飛び込んでしまったのだった。 ﹁綴くん⋮⋮﹂ どこへも行かないで。せめて今夜は側にいて。 219 29、チョイス︵b︶*** ﹁い、維紗ちゃん?﹂ いつになく狼狽した声がつむじの上に降ってくる。低すぎない、 少年の響きを残した声。好きだわ。 ﹁ねえ、欲しがったら、くれるんでしょ⋮⋮﹂ 私は言って、彼の広い背を掴んだ腕に力を込めた。離したくない。 息を吸い込んだら、いつかはシャンプーだと思っていた香りが、彼 自身の肌から香っているのだと気付いた。 ﹁本気で言ってるの? 帰れって言うなら今だよ﹂ 彼の肩越しに、かすかな夕日が燃えている。 母の顔を、照らしていたのと同じ色。何重にも、胸が熱くなる。 ﹁⋮⋮帰、らないで﹂ 側にいて。その手で私の狡さを断ち切って。 後ろ手をのばし、鍵をつかむ。それがカチッという音を響かせた とき、私の乾いた唇は湿った熱に覆われたのだった。 ﹁ン⋮⋮っ﹂ ブラウスのボタンを外す仕草は少し不慣れで、けれどそれすら愛 おしい。 220 キスをしたまま、一歩、一歩、部屋を奥へと進む。そのたびに服 が一枚ずつ、肌を滑り落ちていく。慎重な足取りは、どこか、バー ジンロードを歩む花嫁みたい。 もつれるようにしてベッドに倒れ込んだときには、もう、お互い、 身に付けているものなど何もなかった。 ﹁好きだよ、維紗ちゃん﹂ ﹁ん、うん⋮⋮﹂ 私も。わたしも、あなたのことが好き。 枕の上で髪をほどきはじめると、無防備な両胸を彼が掴んだ。そ れから、体の輪郭を確かめるように掌でなぞられる。 曲がり角を越えた自分の裸なんて恥ずかしくて本当は見せたくな いけれど︱︱。 ﹁きれいだ。想像よりずっと﹂ 綴くんがそんなことばかり囁くから、隠さずにすべて晒した。 彼はあらためてキスをしながら、これまで下着越しにしか触れた ことのなかった胸の先端に、直接触れてくる。くすぐるように、そ れから転がすように、そしてつまみ上げるように。 やだ、肩、勝手に跳ねる⋮⋮。 ﹁⋮⋮っん、綴くん、どうしていつも胸ばっかり触る、の?﹂ ﹁こんなに手触りのいいもの、触るなっていわれても無理だよ﹂ それ、答えになっていない気がするわ。 けれど聞き直す余裕はなかった。綴くんは私の首筋を甘噛みし、 そこからつうっと舌を滑らせる。そうして左胸を捉えると、周囲を 一周ぐるりと舐めた。ちょうど、アイスクリームのふちを拭うみた 221 いに。 ああ、綴くんの舌、あったかい⋮⋮。 うっとりしていたら、隙をついたようにその先端を吸われた。 ﹁あ⋮⋮っ、ん、っ、ヤ、くすぐった⋮⋮﹂ もがいて、押し返そうとするのに綴くんの体はびくともしない。 当然だ。 彼の肩幅は私の比ではないくらい広いし、胸にもしっかりとした 厚みがあって、十一も年下だなんて思えないくらい男らしい。 スポーツでもやっているのかしら。なんて、想像ができたのは一 瞬だけだった。 ﹁は、っんぁ⋮⋮っ﹂ 継続してねちっこく動く舌が、乳房全体を擦るように撫でる掌が、 私からみるみる平常心を奪っていった。 ﹁キモチイイの? 維紗ちゃん﹂ ﹁っ、うん、⋮⋮ぅん⋮⋮っ﹂ 足の間を滑る、指の動きに熱を煽られる。下着越しに触れられた ときより、何倍も強い刺激があった。感じているのだ、と初めての 自分にもちゃんとわかった。 綴くんの指に、ぬるりとしたものが絡み始める。それを周囲に塗 り広げられたら、羞恥に顔を歪めずにはいられなかった。 恥ずかしい。でも、やめて欲しくない。震えながら自分の太もも を押さえ、必死で両足を広げた。 すると、一点を入念に弄っていた指がわずかに後ろに滑り、硬く 閉じた場所を探し当てた。 222 ﹁いっ⋮⋮﹂ 痛い。 押し広げられるのが、体内に侵入されそうになるのが、はっきり とわかるほど。 ﹁⋮⋮っ、い、痛⋮⋮っ、ぃ﹂ かさぶたの上からメスを入れられているみたいだ。 痛みのあまり後退しかけた私を、彼は無情にも引き摺り戻す。そ してごめん、と言いつつ、腰を押さえつけてきて︱︱。 ﹁他の男のために我慢したことのある痛みなら、僕のためにも耐え て⋮⋮﹂ 指だけでも充分痛かったのに、もっと質量のあるものを押し込ま れそうになって私は奥歯を噛んだ。 痛い、⋮⋮キツい、ううん、苦し⋮⋮。 ﹁ッ、や、⋮⋮ない、⋮⋮っ﹂ ﹁ん⋮⋮?﹂ ﹁我慢したことなんか、ない⋮⋮、こんなこと、綴くんにしか、許 してない⋮⋮っ﹂ ぐっ、ぐっ、と断続的に押し付けられていたソレの動きが止まる。 このとき見た彼の表情を、私はきっと一生忘れないだろう。 ﹁え、本当に? 維紗ちゃん、まさか﹂ ﹁そのまさかよ。⋮⋮初めて、なのよ﹂ 223 ﹁どうしてそれを、早く言って︱︱﹂ 驚いたような、弱ったような、それはいつにも増して色っぽい顔 だった。 ﹁い、言ったら痛くなくなるわけじゃない、でしょ﹂ 本当は恥ずかしくて言えなかったのだけれど。三十にもなって処 女だなんて。 ﹁そりゃそうだけど。でも、他に方法はいくらでもあったよ﹂ 彼が考え直したみたいに身を引いたから、思わず抱き寄せてしま った。 ﹁嫌。やめちゃ、やだ。お願、⋮⋮もう、痛いって言わないから﹂ だからはやく貫いて。綴くんのものにして。私が迷いはじめる前 に。 縋るようにして両足を彼の腰に巻き付け、それをねだった。怖い のに待ちきれなくて、焦れったくて、複雑な気持ち。 でも、好きなの。これだけは嘘じゃない。私、綴くんのことが好 き。それを、証明させて欲しい。 ﹁⋮⋮大丈夫、やめないよ。やめられるわけがないじゃないか﹂ ﹁ほんとう?﹂ ﹁もちろん﹂ オデコに軽いキス、のちに彼は私を組み伏せる。そうしてずるず ると頭の位置を下げると、先程まで押し広げていたソコを、躊躇な 224 くべろりと舐めた。 ﹁ひゃあんっ﹂ な、何!? ﹁や、やめっ、な、何を⋮⋮!﹂ ﹁せっかくだから綺麗なままの君を、もっと堪能したいと思って﹂ ﹁え、やっ、ヤダ、そんなとこ、ひ、開いてみないでぇ⋮⋮っ﹂ ﹁そう言われたら見るだろ。︱︱七年間も待ったんだ。今度は僕が 焦らす番だよ﹂ そんな。 必死の抵抗むなしく、くちゅっ、じゅるっ、とことさら卑猥な音 を立て、秘部をめちゃくちゃに啜られる。 ﹁美味し⋮⋮﹂ ﹁んやあっ、ダメ、ぅああっ、やあっ、や︱︱﹂ それらの音を全てかき消すように、必死で声を上げた。 前回同様、弄られている部分がどんどん膨張していくような感覚 を覚えて、少し、怖くなる。ねえ、これ、なに? 最初は一カ所だけが敏感だったはずなのに、もう、その周辺はど こを触れられても同じようにいい。 ﹁あっん、ぁは⋮⋮はぁっ、っ、や、つづるく⋮⋮私﹂ わたし、ヘン。満タンの水風船にでもなったみたい。引っ掻かれ るたび、破裂しそうになるの。 225 ﹁やめっ、お願⋮⋮っい、いや、怖い﹂ ﹁怖くないよ。大丈夫だから、そのまま、キモチイイことだけ考え て?﹂ ﹁ぅあ⋮⋮ぁふ、んや、やあぁ、めぇっ﹂ なのに綴くんは、さらにソコを強く吸いながら、両手で胸の先端 を摘んでくる。小さなネジでもひねるように、何度も何度も。 そんなに敏感なところばかりを重点的に弄らないで欲しかった。 水風船が膨らんでしまう。どんどん、見る間に。もう限界なのに。 夢中になりすぎて、唇の端から唾液が零れてしまう。彼はそれを すかさず指先で拭い、迷いなく左胸の先へと塗りつける。 ﹁んあっ、ッ、も、そこ、弄っちゃ、や﹂ ﹁そこってどこ? はっきり言って﹂ ﹁い、じわる⋮⋮っああっ、そんなに、強く、吸うのだめ、え⋮⋮ !﹂ 足の付け根の刺激に耐えかねて、咄嗟に彼の髪を掴む。柔らかく てあたたかい、だけじゃなくて、甘いような、不思議な感触。指の 感覚がおかしい。酔っぱらっているときみたい。 と、強張っていた全身からふっと力が抜ける瞬間がきた。弾けた のだ、と思った。 ﹁あ︱︱っ、あ、っくぅ、んあああぁあっ!﹂ ビクンっ、と勝手に跳ねる腰。制御がきかない。全身に、快感の 波が広がって指先までもを支配する。 痙攣する体は恥ずかしいけれどとまらない。見られたくないのに、 とめられない。 どうしよう、気持ちいい⋮⋮︱︱と、次の瞬間。 226 ﹁ん、っきゃ、あぁあっ﹂ お腹の中で、ぐるり動くものを感じ悲鳴をあげた。⋮⋮なに? 恐る恐る、視線を下げてみる。 すると私の足の間には、綴くんの手があって、つまり、中に入っ ているのは彼の︱︱。 ﹁ゆ、び⋮⋮いつの間、に﹂ ﹁気付かなかった? なら、成功だ﹂ しかし不思議と、下腹部で痛むところはどこにもない。うそみた いだ。どんな魔法をつかったの? 朦朧とした頭で想像を巡らせていたら、眠気を押しのけるように 足の間を痺れが走った。親指で、一番敏感な部分をつつかれたのだ。 ﹁ひ、ゃあぁあんっ﹂何これ、ヒリヒリする。染みるみたい。 ﹁まだ終わりじゃないよ。君はもう一度気持ち良くなって。そうし たら今度は、指じゃなくて﹂ 僕が挿れさせてもらうから。 囁きおとして、綴くんは私の胸をペロリと舐める。 ﹁ひぁっ﹂ ﹁あ、ナカ、動いた⋮⋮﹂ ﹁うそ、イヤぁ⋮⋮っ﹂ 弾ける前より、激しくなっている自分の反応が怖い。 また、ああなるの? 怖い、どうしたらいいのかわからない、で も、 227 ﹁ふぁああんっ、んあっ、あんっ﹂ 気持ちいい。他に何もしたくないくらい気持ちがいい︱︱。 *** このあとも私は数時間にも渡って翻弄され、怖いと思いながらも その堰を何度も越えた。しかし次にはくれるといいながら、彼はな かなか挿れてくれない。まるで私を弄ることだけが目的になってし まったみたいに。 何度も意識を失いかけて、何度も﹁バカぁ﹂文句を言った。こた えてはいない様子だったけれど。 ようやく彼のモノになることを許されたのは、なんと明け方のこ と。 奥までしっかり繋がったとき、痛みよりも感動で、涙が零れてし まった。 ﹁⋮⋮っは、はぁっ、⋮⋮綴、くん﹂ 信じられない。私、綴くんと︱︱あのときの男の子と、本当に。 ﹁ご、めん、維紗ちゃん⋮⋮僕、もう、余裕無いかも﹂ 自嘲気味に笑う、その声すら耳にくすぐったくて悶えてしまう。 お腹の奥の圧迫感が愛おしい。嬉しい︱︱嬉しい。 ﹁っ、そんなの、私のほうがない、わ﹂ なかったのよ。再会したあの瞬間から、ずっと。ずっと、本当は 228 翻弄され続けていた。 ﹁そう? でも君は、まばたき一つしても色っぽくて、完璧だ﹂ ﹁そんなこと、な⋮⋮っあ、んあぅっ﹂ ﹁⋮⋮可愛い。僕に繋がれて、感じてる維紗ちゃんが⋮⋮かわいい﹂ ﹁や、っ⋮⋮ゃあんっ! あ、ダメ⋮⋮っ!﹂ そんなに動かないで。そんな目で見ないで。私、また。 揺さぶられるたびに、胸が上下して引きちぎられそうになる。そ れを、押さえつけるように握る彼の手。唇。吐息。視線。 すべてが私を扇情する。ああ、もう、膨らんで、弾ける︱︱。 そうして何度目かのそこに達した直後、彼の熱を薄い皮膜越しに 受け止め、私は恍惚とした状態で眠りに落ちたのだった。 229 Good morning, 30、チョイス︵c︶* ﹁︱︱ darling﹂ 薄暗闇の中、そんな台詞で起こされたから、うっかり勉強の最中 に居眠りでもしてしまったのかと思った。 そうじゃない、と察したのは全身が弾力性のあるものに包まれて いると気付いたからだ。その吸い付くような滑らかさと適度な熱は、 覚醒したての頭を再び眠りに誘う。 うぅん⋮⋮心地いい⋮⋮。 ﹁朝食はルームサービスにする? それともマーケットで何か調達 してこようか﹂ 意識を手放しかけたら、戒めるようにちゅっ、とおでこにキスを されてしまった。ああ、眠いのに。 しぶしぶ瞼を持ち上げる。真っ先に見えたのは泣きぼくろで、途 端に夕べの出来事が脳裏に蘇った。 ︵ああ、私、綴くんと⋮⋮︶ 今度こそ最後まで、したんだっけ。 なんだか嘘みたいだわ、なんて思う反面、ほっとする気持ちもあ る。それは三十間近でようやくバージンを手放したから、とかいう わけではなくて︱︱。 削ぎ落とされた気分、とでも言うのかしら。いつの間にか蓄積し ていた、頑固な雑念みたいなものを洗い流した感じがする。 230 ﹁⋮⋮もう少しこのままでいてもいい?﹂ ﹁いい、というか僕としては望むところだけど、お腹は空かないの﹂ ﹁ううん。ちっとも﹂ 不思議と満腹なのよ。飢えていた愛情、たっぷり与えられた所為 かも?⋮⋮なんて。 ﹁じゃあシャワーでも浴びようか﹂ ﹁それもいい。もうちょっと待って、まだ﹂ 裸のまま、くっついていたい。このすっきりした感覚をもうすこ し味わっていたいの。 ﹁わかった。でも、のんびりする前にひとつ確かめておきたいこと がある﹂ ﹁なあに?﹂ ﹁僕はもう、君を恋人と呼んでもいいの﹂ 真顔で見つめられ、ドキッとしてしまった。そうか、両想いにな ったわけだからそういうことになるのか。 ﹁う、うん﹂ ﹁で?﹂ ﹁で、って?﹂ ﹁僕に何か言うことはないの﹂ ﹁何かって﹂ 聞き返した私を、彼は奇妙な顔でみる。どんな顔をしていても、 やっぱり綺麗だけれど。 231 ﹁私、変なこと言った?﹂ ﹁言ったよ。⋮⋮肝心なことは言わないのに﹂ じゃあ言い方を変える、と彼は言って私の隣で寝返りを打つ。 ﹁僕は君を愛してる。君は?﹂ ﹁ありがと。えと⋮⋮私もよ﹂ ﹁そうじゃなくて、だから︱︱僕はその先が聞きたいんだよ﹂ 催促されて、やっと気付いた。私、そういえばはっきり言ってい なかったっけ。 ﹁あの⋮⋮﹂ 愛してるわ、というのは大袈裟すぎる気がした。発生したばかり の感情には、まだふさわしくないというか。 love you﹂ please﹂ ﹁私も、綴くんのことが好き、よ﹂ ﹁English ﹁え、﹂ ⋮⋮also ええと、それなら。 ﹁I つたない英語ではあったけれど、伝えた瞬間に彼は涙ぐんで私に 覆い被さってきた。 ﹁やった、奇跡だ!﹂ 232 しかし日本語だと言いにくいような台詞も、英語だとすんなり言 えてしまうから不思議だ。 しからば綴くんの発言の大胆さにも、文化とか性格とか以前に言 語の変換の誤差みたいなものが含まれるのかもしれない。 ﹁奇跡だなんて、そんな。だいいち、綴くんに言い寄られて参らな い女子なんてそうそういないんじゃない?﹂ ﹁そうかなあ。維紗ちゃん以外には言い寄ったことがないからわか らないよ﹂ 綴くんは私の上で上体をちょっと起こし、こちらを見下ろしてく る。ついでに、脇のほうから両胸を寄せるようにむにむにと弄られ てしまった。思うに彼、胸フェチだ。 ﹁ぁん、もう。そうやって私のこと、おだてて転がそうとしてない ?﹂ ﹁まさか。どうして信じてくれないんだよ﹂ ﹁だって⋮⋮すっごく慣れてる感じしたもの、夕べ。綴くん、私以 外の女の子とも、こういうこと﹂ したでしょ、と言おうとしてフェードアウトしてしまった。なん だかこれ、既視感のある台詞だわ。 ﹁へえ、妬いてくれるんだ。ああもう、今日は本当に奇跡の連続だ な﹂ ﹁だから奇跡じゃないってば。それ、質問の答えになってないし﹂ ﹁奇跡だよ。嬉しいからしばらく答えは保留にしておく。もうちょ っと妬いていて?﹂ ﹁ン、こら、キスで強制終了させないの﹂ 233 そんなふうに取り留めのない、恋愛ドラマにありがちな会話を繰 り広げていたときだった。ドンドンドン、と打ち破らんばかりの勢 いで扉がノックされたのは。 ﹁神野、ちょっといいか。緊急の電話なんだ、一ツ橋から﹂ 顔を見合わせた私達は、それが及川だとわかった途端に飛び起き て、慌てて散らばっていた衣服を身に着けた。ほぼ同時の反応だっ た。 ﹁はーい! ちょっと待ってっ﹂ 綴くんに、部屋の奥にいるようにお願いして扉を開く。流石にこ の状況を目撃させるのは残酷すぎる気がして。 昨日、はっきり言っておくべきだったな。綴くんのことが好きだ って。 ﹁おまたせ﹂ ﹁悪いな、朝早くから。これ、もう繋がってる。すぐに出てくれ﹂ 顔を合わせるなり、及川はそう言って携帯電話を差し出してきた。 ボタンを三つ止めただけのシャツが、彼の焦りをあらわしている。 何かあったのかしら。素早くそれを受け取って、顔の横にかまえ る。﹁もしもし﹂ ﹃あっ、神野先輩っ﹄ 真っ先に聞こえてきたのはミレちゃんの声だった。ブランクは数 日なのに、酷く懐かしい気がする。 234 ﹁どうしたの? トラブル?﹂ ﹃どうしたもこうしたもないですよ! 大変なんです。革命運動な んですっ﹄ ﹁革命? あの、意味がわからないんだけど﹂ 首を傾げざるを得ない。 ﹃あのですね、先輩の異動の件、どこから漏れたのか館内全域に知 れ渡っちゃって︱︱それで、﹄ それで、どうして革命運動になるのよ。聞き返そうとすると、ミ レちゃんは早口で言った。 ﹃神野先輩を受付に戻せって、みんな、署名運動とか始めちゃった んです﹄ ﹁は⋮⋮?﹂ ﹃それも、首謀者は誰だと思います? マツコさんなんです、“菜 園”の。どうやら噂で聞いたらしいんですよ、紙パックの件のとき、 先輩が上手く立ち回ってくれたこと﹄ 私は息を呑む。マツコさんが首謀? みんなで署名? 私のため に? うそでしょ。 ﹃でなくても皆、怒髪なんです。館内のバランスを保ってくれてい る先輩を外に出すなんて、上層部は何を考えてるんだって﹄ ﹁バランスなんて、私そんな、たいそうなこと﹂ ﹃先輩は自己評価が低すぎですっ﹄ 鼻息も荒く、ミレちゃんは続ける。 235 ﹃あのですね、たいそうな人間じゃなかったら尾関さままで動きま せんからね!﹄ ﹁尾関さま? って、尾関貴金属工業の?﹂ ﹃そうですよっ、午前中にいらして、社長に直接抗議していかれた んです。“神野さんのような秀でた人材をダメにする気なら、ウチ で引き抜かせてもらうわ”って︱︱﹄ 言葉が出て来なかった。なんて勿体ないことを。私。こんな、こ んなことって⋮⋮。 見上げれば、及川もかすかに涙ぐんでいる。 ﹁おかげでさっき、柿沼さんからも正式なメールが届いたんだ。皆 の要望通り、サービス課に神野のためだけの、半永久的なポジショ ンを用意するとのことだった﹂ 俺は何の役にも立たなかったな、と。そして。 ﹁文句を言うヤツもいるが、見てるヤツはちゃんと見てるんだ。自 信を持て。おまえの努力の勝利だ、神野﹂ 戻って来い、と彼は言った。 236 31、リアル︵a︶ ドラマでも映画でも漫画でもなく、現実にこんなことが起こるな んて。それも、自分の身に。 恐れ多くも有難いと思う反面、私は戸惑っていた。 ﹁あの、綴くん、日本に住む気とかないよね⋮⋮?﹂ でなければ、離ればなれになってしまう。 及川を見送ってから駄目もとで尋ねると、彼は悲しそうに首を振 った。 ﹁僕は最初から君に言っていたはずだよ。“ロンドンで暮らそう” って﹂ ﹁それはそうだけど、でも、﹂ ﹁ごめん。だけどわかってほしい。両親を置いて、僕まで日本へ行 ってしまうわけにはいかないんだ﹂ あ⋮⋮。 ベッドに腰掛けたまま、うなだれる綴くんの顔は沈痛で、私はそ れ以上、何を言うことも出来なくなってしまった。だいいち、家族 間のことに、部外者が口を出していいわけもない。 急に︱︱目の前の問題が、仕事か彼か、なんて単純な図式ではも う、なくなってしまった気がした。 ﹁⋮⋮シャワーを浴びておいでよ。話し合いはそれからだ﹂ すると彼は、わざと結論を先延ばしにするようなことをいう。迷 237 ったものの、私は促されるままバスルームへと向かった。 全身から、彼の痕跡を洗い流す。頭の中はこれからのことでいっ ぱいで、他には何も考えられなかった。 だから、気付けなかったのだ。 彼がそのとき、どんな気持ちで何を決断しようとしていたのか︱ ︱。 ﹁ねえ、綴くんも続けて浴びる?﹂ 十五分ほどでシャワーを終えた私は、部屋の奥に向かって呼びか けた。返答はない。 ﹁綴くん?﹂ もしかして寝ているのだろうか。しかし覗き込んだ空間に、彼の 姿は見当たらない。 朝食を調達しにいったのかしら。なんて想像をしながら、着替え を出そうとトランクに手をかけたところで、私は動きを止める。 ﹁⋮⋮?﹂ ベッドのすぐ脇、サイドデスクの上に目が止まったからだ。そこ 君は日本でくらすべきだよ” には見覚えのない、レシートの切れ端が一枚乗っていた。何か、裏 に、殴り書きがされて⋮⋮? “Congratulations. 流れるような、しかししっかりとした筆圧の文字は間違いなく彼 238 のもの。一気に全身から血の気が引いた。 ︵おめでとう、って、なに、これ︶ 突然、日本で暮らすべきだなんてどうして? ついさっきまで奇跡だとか愛しているとか、囁いていたのに。一 緒に話し合おうって言ったのに。 ううん、まさか、これっきりにする気じゃ︱︱。 ﹁綴くん⋮⋮!?﹂ 慌てて衣服を身に着け、私は部屋から飛び出した。当然のことな がら、ホテル内にも通りにもその姿は見当たらない。 真っ先に彼の実家へ行き、帰っていないかと尋ねたけれど答えは ノーだった。 マーケットにも立ち寄ったものの、ここでは人が多すぎて捜すこ ともままならず⋮⋮。 ︵うそでしょ、ねえ、綴くん⋮⋮!︶ それから帰国までの数日、私は彼を捜してほうぼうを走り回った。 観光のときに巡った場所から、大学の近辺までも。 もちろん、自ら姿をくらました人間を、捜すのが容易であるわけ はないとわかってはいた。いたのだけれど、諦めきれなかった。 見兼ねたレイさんやリサさんも協力を申し出てくれて、友人のお 宅などを尋ね歩いてくれた。協力してくれたのは及川も、だ。 しかし携帯電話の着信も拒否されていて、成す術はなかった。 結局、私は綴くんと再び顔を合わせることなく、イギリスを後に することとなったのだ。 *** 239 信じられなかった。 彼の行動があまりにも唐突すぎて、頭がついていかなかった。 一緒に過ごすうちに幻滅されたのかもしれないとか、若い男の子 ゆえに一度関係を持った時点でどうでもよくなったのかもしれない とか、今更想像したって無駄なことばかりが、ぐるぐると脳内を巡 った。 しかしヒースロー空港を離陸しようと、飛行機がゆっくり旋回を 始めたときだ。 ああ、もう、終わってしまったんだな⋮⋮と。 彼には二度と逢えないだろうな⋮⋮、と。 理解して、大粒の涙がこぼれた。 ﹁ふ⋮⋮っ﹂ 好きだったの。好きだったのよ。 なのにどうして迷ったの? どうして私はあのとき、迷わず彼の 手を取れなかったの? 大人だから? 積み上げたものを崩せないから? 他に譲れない ものがあるから? じゃあ私が子供なら、何のしがらみもなく彼の胸に飛び込めたと でもいうのだろうか。ううん、そんなこと、絶対にない。 私はきっといかなるときでも、もっともらしい理由を探して︱︱ それらしいしがらみに縛られて、この柵を越えることを躊躇しただ ろう。 ﹁神野﹂ 離陸の寸前、及川がそっと、私の手を握って言った。 ﹁あいつの気持ちもわかってやれ﹂ 240 かぶりを振ったら、膝の上に涙がパタパタと散った。 ﹁ど、うやって、わかれっていうの﹂ わかるわけがないじゃない。わかりたくもないわよ。 ﹁おまえ、異動が決まった日、綴の前で泣いたんだろ。本人から聞 いた。もう、あんな顔は見たくない、とも言ってたな﹂ ﹁そんな。だからって︱︱﹂ だからって、綴くんが消えたほうが楽だなんて言ってない。そう よ、言ってない。違う。言わ⋮⋮なかったんだわ。 誰よりもあなたが大事だって。一番大事だって、言わなかった。 それどころか、仕事を続けたいがために日本で暮らしてほしいだな んて、勝手なことを申し出た。 煮え切らなかったのは、私自身じゃない。自業自得よ。 ﹁あいつのことが忘れられなくてもいい。それでもいいから、俺と 一緒になってくれないか﹂ 握る手に、ぎゅっと力を込められる。ひたすら首を左右に振って ごめんと詫びたけれど、彼はその手をいつまでも離さなかった。 きっと、このまま身を預ければ楽になれる。何もかもがうまくい く。そうとわかっていても、いや、わかっているからこそ、もう、 及川にもすがれないと思った。 だってそんなの狡すぎる。片方が駄目ならもう片方、なんて。 それから十時間を超えるフライト中、私は浅い眠りと覚醒を繰り 返し、そのたびに現実を思い出し涙を流した。 夢と呼ぶには峻烈すぎる痛みを、抱えての帰国だった。 241 242 32、リアル︵b︶ 自宅に到着したのは日本時間の九時を少々過ぎたころだ。 出発時と何ら変わらぬ1DKのマンションは、どこもかしこもが らんとしている。ずっとひとりで住んできた部屋なのに、やけに孤 独が身に染みた。 ﹁ただいま、今帰宅したよ﹂ 携帯電話は壊れたままなので、固定電話から真っ先に実家へと連 絡を入れる。 ﹃おかえりなさい! どうだった? ロンドン、楽しめた?﹄ 電話口に出たのは季実子さんで、彼女は旅行から帰ったばかりの 私よりずっと興奮していた。 ﹃どんなところを観光したの? 美味しいものとか食べた?﹄ 答えようとすると思い出がまた蘇ってきて、泣きそうになる。⋮ ⋮駄目。ぐっとこらえ、うん、と短く答えた。 ﹃あの⋮⋮及川くんとは⋮⋮その後、大丈夫?﹄ ﹁あ、この間はごめんなさい、せっかくの食卓に。紋兄にも大丈夫 だって伝えてね﹂ 実を言うと、及川とも飛行機を降りたきり、一言も交わさぬまま 気まずく別れたのだけれど⋮⋮素直に打ち明けられるはずはなかっ 243 た。 そうだ。本当のことなんか、なにひとつ言えっこない。 綴くんとのことも︱︱仕事のことも。 ﹁あのね、私、明日からまた出勤なの。だからお土産は今度の休み に持っていくね﹂ ﹃はーい、楽しみに待ってるわね。⋮⋮あ、そうそう、一応伝えて おこうと思うんだけど﹄ 季実子さんは急に声のトーンを落とした。 ﹃おとうさんね、昨日倒れたのよ﹄ ﹁えっ!﹂ ﹃あ、でも大したことはないのよ。血圧の薬を間違えて飲み過ぎち ゃったみたいで、今は元気だから﹄ ﹁そうですか、良かった﹂ ﹃けど⋮⋮紋さんの話だと認知症の始まりかもしれないから、注意 が必要だって﹄ ﹁認知症⋮⋮﹂ そういえばパスポートを取りに行った時、父だけが妙に蚊帳の外 というか、のんびりぼんやりしていたっけ。金庫の暗証番号は覚え ていたみたいだったけれど⋮⋮紋兄がそう言うなら可能性はゼロじ ゃない。 電話を切りながら、やはりここが私の居場所だったのだ、と思っ た。 そうよ、日本には大切な家族がいる。離れられるわけがなかった のよ。 ︵これで良かったのよ⋮⋮︶ ううん、こうでなければいけなかったの。 244 そう自分に言い聞かせ、私はパタリと横になる。いつか綴くんが 朝まで抱き締めていてくれた、ベッドの上で。 荷解きをする気にも、時差ボケを解消する気にもなれなかった。 そうして機内と同様、怠惰に寝たり起きたりを繰り返しながら翌 朝を迎えたのだった。 *** 帰国翌日だというのに早速の早番シフトなのは、朝礼があるから だ。 クリーニングに出しそびれた制服を胸に抱えなおし、満員電車で 両足を踏ん張る。 見知らぬ人々の間で体を圧迫される感覚が懐かしいなんて、おか しいの。 ﹁神野先輩!﹂ ロッカールームで着替えを始めた私の背に、飛び付いて来たのは ミレちゃんだ。振り向けば、その目はたっぷりの涙で潤んでいた。 ﹁良かったぁ、先輩、ホント、良かっ⋮⋮﹂ ﹁やあね、泣くことないでしょ﹂ ﹁だってぇ⋮⋮私、私、あのままだったらどうしようって。まだま だ先輩に教えてもらいたいこと、沢山あるのにって⋮⋮!﹂ 可愛いことを言ってくれる。やっぱり私、帰って来られて良かっ た、のよね。 ﹁ありがと。そうね、まだ私も教えたいこと、いっぱいあるわ。ミ レちゃん以外の新人さんたちにもね﹂ 245 ﹁ひ、ひぇんぴゃあい﹂ ﹁ふふ、鼻水を拭きましょ、鼻水を﹂ ボックスティッシュ片手に彼女をなだめていると、他の社員から も﹁神野さん、おかえり!﹂温かい言葉をいただいてしまった。 朝礼もあることだし、仕事を始める前にみんなにはきちんと御礼 を言わなければ。 それで、気持ちにも区切りをつけるの。ここでずっとやっていく ことを、決意して宣言するの。 そこでおしまい。思い出にするのよ、彼とのことは全部。 ﹃では、全体朝礼を始めます。まずは先週の売り上げ目標達成率か ら発表致します︱︱⋮⋮﹄ 部長の呼び掛けでスタートした朝礼は、気のせいか普段よりも賑 わってみえる。 恒例である接客七大用語の唱和を終えると、私は部長に願い出て マイクを片手にひとり、壇上に残った。 ﹃おはようございます、神野です﹄ いつものように、背筋を伸ばして。 ﹃このたびは、皆様のお力により、こうして受付に戻ってくること ができました。こころより、御礼申し上げます﹄ ありがとうございました、と言って頭を垂れようとしたとき、は からずも、人の海へと視線を泳がせている自分に気付いて目眩を覚 えた。 ︵いやだ。どうして、私︶ 246 私、こんなところでも綴くんの面影を探してる。⋮⋮いるわけ、 ないのに。 言葉に詰まって俯くと、見兼ねてか﹁おかえり、維紗ちゃん!﹂ 魚屋のサブちゃんが掛け声をくれた。彼の側には、得意げに腕組み をするマツコさんの姿もある。 ﹁おかえり!﹂ ﹁待ってたよ!﹂ 歓声の波は波紋のように広がって、どっと大きくなる。 寂しさと感激がぐちゃぐちゃになって込み上げてきて、涙として あふれた。 私︱︱この光景を誰よりもあなたに見せたかった。あなたに、認 めてもらいたかったわ、綴くん。 ﹃あ、りがとう、ございます⋮⋮っ﹄ 皮肉よね。これほど大勢の味方に囲まれているのに、なのに、本 当に逢いたいのはひとりだけだなんて︱︱。 ﹃⋮⋮っ﹄ ああ、何か言わなきゃ。きちんと、過去と決別しなきゃ。せめて 涙を拭こうと、私はポケットに手を突っ込んでハンカチを掴む。 そうしてそれを、引っ張り出したときだった。 カツン、と。 フロアに硬質の光がひとつぶ。 ポケットからこぼれ落ちて、またたいた。 247 ﹁あ⋮⋮﹂ 転がったものの、辛うじて壇上の隅に残ったそれは、チャチな作 りのおもちゃの指輪。 けれどそれは彼の七年間の気持ちのかたまりで、そして、私がな によりも青いと信じたもの。 こんなところに入ってたんだ。 そういえばあの日、及川の目から隠そうと、ここに滑り込ませた 気がする⋮⋮。 どうして忘れていられたのだろう。 恐る恐る指先で拾い上げ、そのまま掲げて蛍光灯にかざした。 古びたプラスチックはやはりダイヤモンドよりも堂々たるたたず まいで、まばゆい閃光を一筋放つ。 遠く、とおくの、雷光に見えた。 壇上でしゃがみ込んだきり、動かなくなった受付嬢の姿は、誰の 目にも不審に映っただろう。 けれどそのとき、私には周囲に配れる気などこれっぽっちも残っ てはいなかった。 両の目には未来だけが見えていた。目指すべき、目的地がやっと 見えた気がしたのだ。 ﹁⋮⋮わた、し⋮⋮﹂ 私、やっぱり。やっぱり、諦めきれない。だって、今でもこんな に青く見える。 何よりも青々として見えるのよ。 カタカタ震える指先で、それをかまえる。わずかな逡巡ののち、 248 ゆっくり、左手の薬指へと挿し入れた。 迷いはある。でも、どうしても、このままでは終われないと思っ た。 ﹃私、は⋮⋮﹄ 両手でマイクを握り、立ち上がったものの、いつものポーズをと る余裕は、もはやない。 今、自分に向けられているのは視線だけじゃあない。期待も、だ。 怖い。こんなに沢山の期待を裏切るのは、とてつもなく怖い。 自信なんてすこしもない。この選択が、間違えていないとも言え ない。 ︵でも、だけど︶ きっと、正しい道なんて誰もが正確には選べないんだと⋮⋮思う。 いくら頭を使ったって、本物と信じた道が突然偽物になることも あるだろうし、もしかしたら道自体がいつかふっと消えてしまうか もしれない。 目的地がすぐそこに見えているのに、辿り着けないことだってあ るかもしれない。 けれど私は、この先で、 自分の居場所がどこより青いと言える私になりたい。 例えばこの手の指輪のように、掴んだ未来がチャチな偽物だった としたって︱︱。 “これが私の本物なのよ”と、 胸を張って言える自分でいたい。 それが、目指すべき最終目標だわ。 249 わたしがなりたい、私だわ。 ﹃っ、こんなの、お⋮⋮恐れ多いとおもってます。受付嬢のくせに、 英語も下手な落ちこぼれなのに⋮⋮﹄ 決意して口を開いたのに、飛び出したのは自分でもグダグダな物 言いだった。 そんなことないよ!とフォローの声が聞こえたから、苦笑してか ぶりを振った。大丈夫、自覚はしてるのよ。 ﹃でも、こうしてみなさんの力をもらえた⋮⋮たくさんの善意を、 いただくことができた。これが私の、いちばんの財産です⋮⋮自信、 です﹄ 喉が、涙に詰まって痛い。だけど、言わなくちゃ。 ﹃⋮⋮この力を、ここで学んだことを、わたしの全部を、かけて、 ⋮⋮手を、さしのべたいひとがいます﹄ 逢いたい。好きなの。それだけじゃなくて、私、綴くんと肩を並 べて未来を見たいと思う。 力になれたらいい。彼が抱えているすべてのものを、共に背負っ ていきたい。 お兄さんとのことも、この特技を生かしていつかきっと役に立ち たい。 ﹃みなさんには、いいつくせないほど感謝しています。なのに、こ んな⋮⋮わがままを言っていることは、承知しています。⋮⋮だけ ど、だから﹄ 250 だから。 ﹃私はこの場所に、いえ、後輩達に、最後の一年をかけて自分のす べてを置いていきます﹄ 言った途端、部長が焦った顔で駆け寄ってくる。 ﹁こ、神野くん、あのときに言った一年というのはだね﹂ いえ、自分で決めたことですから︱︱と、小さく答えて再びみん なに向き直った。視界の隅には、泣き崩れるミレちゃんが見えてい る。脳裏を、家族の顔がよぎる。私はそれを、強いまばたきひとつ でふっきる。 ごめんお父さん、紋兄、季実子さん、みんな。 ﹃これだけは、命をかけて取り組みます。ご恩は、それをもってお 返しします。約束します。それで⋮⋮そこまでで、勇退とさせてく ださい⋮⋮っ﹄ これが、誰の期待を裏切っても譲れない、自分だけの道だ。 言い切ったら、割れんばかりの拍手がわき起こって、私はまたも 号泣してしまった。 飾らない自分を、ようやく、人前にさらけ出せた気がした。 ︱︱綴くん、私、ロンドンへ行くわ。 社会人としての責任を果たして、英語ももっと勉強して、あなた にふさわしい人間になって、逢いにいくわ。 251 そのときあなたがもう、私のことを好きでなくてもいい。それで も、後悔だけはしない。 今度は、私にあなたをつかまえさせて。 次のプロポーズは、私に言わせて。 252 33、ストーリーブック・エンディング︵a︶ いつかと同じ︱︱。 底が見えるような薄っぺらい夜が、ひと掃けの朝日で取り払われ て、新しい一日がまたはじまる。 車窓を流れるビル群は、セル画を重ねたみたいにあからさまな遠 近感だ。一番後ろの一枚は淡いグレーの単一色で、スモッグだか熱 気だか塵だかに、ぼんやり姿を歪めている。 それもまた良きかな、と思う最近の私はきっと、風流を愛す平安 貴族には向いていない。⋮⋮まあ、なれっこ無いけど。 だって、セル画なら数枚めくるだけでいい。この風景の数ミリ向 こうに、ロンドンがあることになるのだ。 ﹁おはようございます、課長!﹂ 社員用通路を抜けると、エレベーターを待つ列に見慣れた背中を みつけた。 ﹁おう神野、今日も早いな﹂ ﹁はいっ。冬はどうだかわかりませんけど、夏の間はやっぱり、涼 しい朝方にいろいろ済ませちゃおうと思って﹂ ﹁ふうん。あ、今日か、例の手話研修会の記念すべき第一回目は﹂ ﹁そうですよ、時間内は私が先生ですからね﹂ 課長︱︱及川との関係はあれから、プロポーズ前の状態に戻った。 元の、上司と部下へ。 例の朝礼の一件以来、何度か﹃考え直せ﹄と言って私を引き止め 253 ようとしていた彼だけれど、つい一週間ほど前、事実上の敗北宣言 をしたのだった。 ﹃七年間も側にいて、出遅れた俺が馬鹿だった﹄ というのが、そのときの台詞。頷いて、そうね、と笑顔で答えて おいた。 ﹃無駄な時間を過ごしちまったな。あいつを出し抜くチャンスなら、 腐るほどあっただろうに﹄ タチの悪い捨て台詞だ。こちらこそあの頃の想いは何だったのか、 なんのためにあったのか、虚しく思う。 でも、そうね。恋って結局、年月の重さよりタイミングが重要な のかもね。 ﹁おはようございます、先輩! これっ﹂ その後、事務室に移動してレジュメを印刷していると、ミレちゃ んが馬鹿でかいプレゼントボックスを持って現れた。出勤直後なの か、私服姿で。 ﹁え、なにこれ﹂ ﹁お誕生日おめでとうございます! ですよっ﹂ ﹁は﹂ そうか、今日、誕生日。私はぽかんと口をあけたあと、ちいさく 苦笑する。ああ、なっちゃったのか、三十路⋮⋮。 ﹁ありがと。開けてもいい?﹂ 254 ﹁あ、やめたほうがいいです。だってランジェリーセットとセクシ ーエプロンですもん﹂ ﹁ランジェ⋮⋮、あのね、使う予定がないわよ。ていうかセクシー エプロンって何﹂ ﹁マッパに一枚着るヤツですよ。裾がフレアでミニスカ仕様なんで す。捲りやすさも抜群です﹂ ﹁職場で真顔で言うことじゃ﹂ 慌ててその口を塞いでやると、彼女はいたずらっ子みたいに笑っ て、私の腰に抱きついてくる。 ﹁先輩、大好きですっ。退社するまでに、いっぱいいっぱい思い出 作らせてくださいね﹂ ﹁ふふ、こちらこそ。また飲みに行きましょ﹂ ミレちゃんはこのとおり、あの日から私にべったりだ。彼女に関 してはこれで、結果オーライだったと思うのだけれど⋮⋮。 問題はフミさん︱︱浅葱さんのほうで。 ロンドンへ出発する前から、彼女とは少々ぎくしゃくしていたけ れど、要はそれを、一ヶ月経った今でも引き摺っているというわけ なのだ。 理由もわからぬまま。 仕事上の会話だけならきちんと成り立つから、業務に支障はない のだけれど。けど、だからこそ、対処に困るというか。 どうしたものかしら。 *** ﹁︱︱はい。紳士服売り場でしたら三階でございます。右手の通路、 つきあたりを左に入って頂きますとエレベーターがございますので、 255 ご利用下さいませ﹂ 開店から一時間後、カウンターでの業務は平常通り、平和そのも の。 お客様をご案内して、内側では内職をして。ちなみに今日の内職 は朝に印刷しておいたレジュメのホチキスどめだ。 実は本日、閉店後に私主催の手話講習会が行われることになって いる。 少しでも一ツ橋に貢献してから退職できたら⋮⋮というのが、私 の今の願いだったりする。 ﹁維紗ちゃーん!﹂ と、呼ぶ声に顔を上げた私は、正面入り口からかけてくる見慣れ た顔に目を見開いた。 ﹁き、季実子さんっ﹂ どうしてここに。 ﹁うふふ、今日ね、紋さんがお休みを取っておとうさんを病院に連 れて行ったのよ。その帰り﹂ ﹁え、病院? もう行って来たの﹂ ﹁うん。お父さんがここのお寿司、食べたいって言うから寄ったん だけどね。わー、やっぱりその制服、似合うわね﹂ 見れば、父と紋兄も季実子さんの背後からやってくる。授業参観 みたいだ。このうえなく恥ずかしい。 ﹁おう維紗、寿司が食えるのって何階だっけ﹂ 256 ﹁よ、四階でございます⋮⋮﹂ ﹁照れるなよ。もう、あと十ヶ月強なんだろ、ここに勤めていられ るのも﹂ 紋兄は笑顔だ。例の決意を告げたときと同じ。あのときも家族は 全員笑顔だった。 けれど私の胸では羞恥と呵責が混ざりあって、ますますいたたま れなくなる。 父の認知症に関しては、お医者様いわく自然のことで、今はまだ 深刻というわけではないらしいのだけれど。 でも、だからといって見捨てて行っていいわけはないもの。私の、 身勝手な想いのためだけに。 ﹁維紗ぁ﹂ と、息子夫婦をかき分けて父が目前に立った。 ﹁おまえに、お願いがあるんだが﹂ 言うと同時に、ゴトリとカウンターの上に風呂敷包みが置かれる。 なんだこれ、と思っていたら、そこから出てきたのはなんと母の 位牌。思わず目をぱちくりしてしまった。 ﹁え、お父さん、これ﹂ どういうこと? ﹁頼む、維紗。母さんにイギリスを見せてやってくれ﹂ ﹁へ⋮⋮﹂ ﹁利律には我慢をさせるばかりで、海外旅行になんて一度もつれて 257 いってやれなかった。だから維紗、おまえが﹂ 母さんを楽しませてやってくれ。頼む。 そう言われた途端、泣き崩れそうになってしまった。見捨てる、 という感覚から、ふっと解放された気がして。 たのむ、って、それ、わざと言ってくれてるんでしょ、お父さん。 ﹁やだ、おとうさんってば、診察中も何を大事に抱えているのかと 思ったら⋮⋮おかあさんだったのね﹂ 季実子さんの両目も、気のせいかうっすら潤んでいる。 この人たちで良かったなあ、と思った。私の家族が、彼らで。 ﹁うん、頑張る。ありがとう﹂ ありがとう。行かなければならない理由を、与えてくれて。 大事なお母さんを、預けてくれて⋮⋮。 258 34、ストーリーブック・エンディング︵b︶ 家族を上階へ見送り、背後を顧みると、ミレちゃんがまたもや涙 目で鼻をすすっていた。 ﹁い、いいご家族ですね⋮⋮ぐすっ﹂ ﹁そうね。私もそう思う﹂ ﹁げ、原点を見た気がします。先輩が、どうしてそういう性格なの か⋮⋮うっ、うぅ﹂ ﹁ありがと。でもここ、売り場だからね。鼻水は拭こうね﹂ 小さい子供であれば拭ってあげたいところなのだけれど、流石に そこまではしてやれない。そもそもここ、売り場だし。 ひとまずカウンターの下にあったボックスティッシュを持たせ、 バックヤードへと一旦退かせる。 ﹁メイクも直してきなさいね﹂ ﹁は、はいぃ﹂ と、はからずも私はフミさんと売り場でふたりきりになってしま った。お客様の姿も少ないし、これはもしかしなくてもチャンス、 なのだろう。 ﹁あー、えーと﹂ 私は目を泳がせながら口を開く。 ﹁今日の講習会、浅葱さんも出席してくれるのよね?﹂ 259 ﹁はい。勉強は好きですから﹂ ﹁そ、そう。それはよかった﹂ ああ、こんなことが話したいわけじゃないのに。脳内でセルフビ ンタを見舞う、そして食らう。 しっかりしなさい維紗、あなた先輩でしょ。ちゃんと話さなきゃ。 ﹁︱︱あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?﹂ 思い切って切り出したら、やけに早口になってしまった。落ち着 け、落ち着け私。 ﹁なんですか﹂ ﹁浅葱さん、私に対して怒ってない? 一ヶ月くらい前からやけに 不機嫌っていうか、﹂ ﹁はい。怒ってますよ﹂ お、怒ってるんだ、やっぱり。咄嗟にごめんと詫びてしまった。 ﹁先輩が謝るべきは私ではなくて、彼に、だと思いますけど﹂ ﹁彼?﹂ 復唱した途端、ぱちんと脳内で記憶が弾けた。あの日の︱︱フミ さんが不機嫌になった日の︱︱出来事が。 確か、私は及川と手を繋いでランチへ出かけていった。それを目 撃されたのが発端だった、気がする。となると、彼、って及川のこ とよね。 ああ、ミレちゃんも言っていたじゃない。このままじゃ浅葱先輩 が可哀想です、って。 260 ﹁フミさん、まさか﹂ まさか、及川のこと。 ﹁そうですよ。そのまさかです。私、葦手くんのことが好きなんで す﹂ ︱︱は? ﹁あ、あしで、って、え? 綴くん? 及川じゃなくて?﹂ ﹁どうして及川課長の名前が出てくるんです。先輩、それ、真面目 に言ってますか﹂ ﹁もちろん! だってフミさん、私が及川と手を繋いでたのが気に 入らなかったんじゃ﹂ うろたえていると、じろり白眼視されてしまった。すごい迫力だ。 この迫力でいつもミレちゃんを叱ってたのか⋮⋮将来有望だわ。 ﹁そんなの、気に入らないに決まってるじゃないですか。だって私 は︱︱入社以来ずっと、葦手くんが先輩を想ってるの、見守ってき たんですから﹂ ﹁え、う、うそでしょ﹂ ﹁変に思いませんでした? 彼がやけに先輩について詳しいこと。 あの情報を流したの、私です﹂ きっぱり言われて、絶叫しそうになる。 “おねえさんは神野維紗さんだよね。AB型でもうすぐ三十歳で、 身長は百六十八センチ、特技は手話と点字。他にも色々知ってるけ ど言ったほうがいい?” あれだ! そうよ、あのときはどうして知ってるの、って疑問に 261 思ったのに! ﹁私、入社したての頃にここで葦手くんに声をかけられたんです。 先輩のことを教えて欲しい、って﹂ 彼女の横で、私は情けなく唇を半開きにしていた。 まさかの事態だ、こんなの。ミレちゃんが綴くんのことを知らな いようだったから、てっきりフミさんもそうだと︱︱。 ﹁最初は不審者かと思って警戒しました。けど、彼、私が応対に困 っていたら助けてくれて﹂ どこかで聞いた話だと思う。そういえば私も、あの一件で彼を自 宅にまで上げちゃったんだっけ。 ﹁それで、帰り際にメアドを教えてくれたから、私﹂ 途切れた台詞の続きにくるのは、うっかり返信してしまった、に 違いない。 しっかり者のフミさんがまさか、と思う反面、相手が綴くんなら 仕方ないかなとも思う。 あれだけの美形に“お願い”されて断れる女子はそうそういない わ。現に、私だって相当くらくらしたし。 ﹁それからはメールと電話で連絡を取る仲でした。私はずっと好き でしたけど、彼にとって私は、単なる友人だったと思います﹂ フミさんはぼそぼそ言いながらも売り場に向かってしゃんと背を 伸ばし立っている。真面目な子だ。真面目すぎるくらい。 262 ﹁別にそれで良かったんです。私が先輩に勝てるわけはないし、葦 手くんさえ幸せになれば、私は、このままでも﹂ それゆえ、一途に思ってきたのだと思う。想像すると、こっちの ほうが切なくなる。 ﹁だけど、だからこそ、先輩が及川課長にふらふらするの、許せな くて﹂ ﹁フミさん⋮⋮﹂ ﹁葦手くんがようやく伝えた想いを無下にするようなこと、してほ しくなくて﹂ ちっとも気付かなかった。こんなこと⋮⋮。 ﹁なのに、どうしてですか。どうしてこのうえ一年も彼を待たせよ うとするんです﹂ ﹁それは﹂ ﹁葦手くんに聞くかぎりでは連絡も取り合ってないみたいだし、こ んなの、訳が分かりません。一体、何を考えてるんですか先輩﹂ ︵︱︱!︶ その言葉を聞いた途端、私はフミさんの腕を掴んでいた。ほとん ど無意識だった。 ﹁連絡、取れるのね!?﹂ ﹁は、え? と、とれますけど﹂ 綴くんが行方をくらましてから一ヶ月、私は何度も彼に連絡を試 みていた。 しかし、いかなる手段をもってしても叶わなかった。どうやら彼 263 は携帯電話も、メールアドレスも替えてしまったようなのだ。 レイさんとリサさんは知っているそうなのだけれど、息子にかた く口止めをされているから、と言って頑なに教えてくれない。 こうなったらもう、現地へ行って探すしかないと思っていた。そ れしか、方法はないと︱︱。 ﹁お願い、教えて。綴くんの連絡先!﹂ ああ、なんて僥倖だろう。 申し訳ないとは思いつつも、私は彼女から聞き出した電話番号の メモを片手にバックヤードへと飛び込んだ。 メイク直しをして戻ってきたミレちゃんと、入れ違いだった。 ﹁え、せ、先輩!?﹂ ﹁ごめん、お先に二番、いただきますっ﹂ ﹁ちょ、まだ十一時ですよ!﹂ 264 35、ストーリーブック・エンディング︵c︶ 電波状況の良い場所を探して、私はバックヤードを駆け回る。 しかしどこへ行っても安定した電波なんて得られず、ついには最 上階にまで辿り着いてしまった。 もどかしさのあまり切歯したところで、目に飛び込んできたのが “非常用階段”の文字。 ︵そういえばあそこ、入社以来一度も出たことがなかったっけ︶ 厚い扉をよいしょと引いたら、温い風が吹き付けてきて、直後、 視界が一気に開けた。 ﹁うわ、すご⋮⋮パノラマ!﹂ 半畳ほどの小さな踊り場から、眼下に臨むはデパート裏手の繁華 街だ。その向こうには、ビルの山々も。 遠く、グレーにうっすら見えるのはあれ、東京タワーかしら。こ んな穴場スポットがあったなんて、七年間気付かなかったな。 私は一帯を眺めながら深呼吸をひとつ。そして意を決し、彼への 電話を掛けはじめたのだった。 ﹃⋮⋮Hello?﹄ 長いコール音のあと、聞こえてきたのは訝しげな声。若干遠いけ れど間違いなく綴くんのものだ。懐かしい。じわっと涙がうかぶ。 ﹁もしもし、私、維紗です﹂ ﹃え、い、維紗ちゃん⋮⋮どうして﹄ ﹁番号、フミさんにきいたの。お願い、切らないで最後まで聞いて 265 !﹂ 一息でそれを言うと、返答を待たず言葉を繋げた。 ﹁私、仕事、辞めることにしたの。もう決めたの。辞表も出したの。 一年後にはそっちに行く。だから﹂ だから、お願い。 ﹁わ、わたっ、︱︱私と結婚して!﹂ 早口だったせいか豪快に噛んでしまった。頭上では、ごうんごう んと巨大な室外機が回っている。 返答は、ない。そうよね、今更だもの。でも。 ﹁⋮⋮あのとき煮え切らなかったこと、後悔、してるわ﹂ これが最後なら、伝えておきたいことが他にもある。 ﹁ひとりになってから、いろいろ考えてわかったことがあるの。私、 夢を追いたいとか言いながら、結局、“堅実”にしがみつこうとし てたのね﹂ 一ツ橋で積み上げたものをなくしたら、自分が自分でなくなって しまうような気がして怖かった。 ﹁だけど⋮⋮レイさんに言わせれば私の七年間って、外付けでしか なかった。これまで、頑張らなきゃ頑張らなきゃって何もかもを重 荷みたいに思ってたけど、それってきちんと、物事を体内で消化で きていない証拠だったのよね﹂ 266 経歴としての努力だった。本当の意味で、私は私の努力を自分の 身にはできていなかった。 全部、ショッピングバッグのように両手からぶら下げていただけ だった。重かったわけだ。 ﹁いまならなんとなくわかる。きっと︱︱堅実に生きるって、壁に ぶつかるのを回避することとは、やっぱり違うんだわ﹂ 私はこれからも何かにぶち当たって、悩み苦しんだりするだろう。 けれど、それが成長することと同義の行為なら、していきたいと 思うの。 ﹁綴くん、いつか言ったよね。語学のスクール、開くのが夢だって。 ⋮⋮私、それ、一緒にやりたいって言ったら、都合、良すぎるかな﹂ 人が好きで、人とふれあうのが好きで、そしてなによりあなたを 好きな私には、これが一番の適職かもしれない︱︱と、いうのが最 終結論なのだけれど、どうかな? 言い切ると、電話の向こうでごわごわと音がした。寝返りを打っ たような︱︱ため息をついたような。 ﹃⋮⋮どうして君は、そうなんだよ﹄ 掠れた声は、独り言のような口調もあいまってすこぶる聞き取り にくい。 ﹁えと、綴くん?﹂ ごめんなさい、よく聞こえないの。尋ねようとしたところで、耳 267 に飛び込んできたのは早口の英語だった。 ﹃君はいつもそうだ。普通の人間がのんびり歩く平坦な道にも、ど こかからかわざわざハードルを持ってきて、必死になって飛びなが ら進んでて﹄ かろうじて脳内で日本語に変換してみたものの、意味がさっぱり わからない。 ハードルって、え、なに? ﹃そうやって他人よりずっと苦労して辿り着いたゴールだったじゃ ないか。やっと、やっと得た勲章だったんだろ。それを、どうして﹄ 勲章って⋮⋮ああ、一ツ橋での新しいポジションのことか。そん なふうに考えてくれてたのね、綴くん。だからあの日、消えたのね? ﹁︱︱どうして、って聞きたいのは私のほうだわ﹂ 私は携帯電話を握り直す。 ﹁どうして⋮⋮どうやって、三百円のプラスチックを、こんなにす ごいものに変えられたの?﹂ あの指輪は、あれからずっとポケットに入れている。壊さないよ うに、ケースにしまって、だけれど。 ﹁これ以上価値のあるものなんて、私にはない。それこそ、どんな 勲章と引き換えにしたって、誰にも譲れない﹂ 譲れないのよ、あなたのことも。 268 ﹁⋮⋮綴くん以外、考えられないの。わたし、﹂ ︱︱私ね。 ああ、この気持ちを、これ以上、どう伝えたらいいだろう。好き ? さびしかった? そんな言葉じゃ、圧倒的に足りない。 昂ってしまって、出どころのみつからないそれは、涙といっしょ にあふれてくる。どうしたら、わかってもらえるの? ﹁⋮⋮っ、⋮⋮﹂ 三十になったというのに、節目の日なのに、私は情けなくも嗚咽 して号泣してしまった。 ﹃い、維紗ちゃん、なんで泣くんだよ﹄ うろたえる声まで恋しいなんて、くやしい。くやしいわ。 すると彼は少しの間のあと、ふうっと息を吐いて、言った。 ﹃側にいたら抱き締めて、押し倒して、めちゃくちゃにして、何も かもわからなくしてやるのに﹄ どういう意味だろう。でも、どんな意味だったとしても、私、 ﹁⋮⋮、私も、⋮⋮されたい⋮⋮。綴くんになら、なんだって﹂ どんなことだって、いっぱいされたいわ。言ったら、ぐっと言葉 を呑み込む気配がした。 ﹃そうやってすぐ煽るのやめろって⋮⋮﹄ 269 珍しく弱り切った口調とともに、綴くんは頭をガリガリと掻く。 ⋮⋮音がする。 ﹃せっかく諦めたのに。諦めようと、してたのに⋮⋮君の涙なんて もう、見たくなかったから、なのに﹄ ﹁綴、くん﹂ ﹃こんなことを言われて、一年も待てるわけがないだろ!﹄ ︵あ⋮⋮︶ 私こそ。逢いたい⋮⋮逢って、好きって言いたい。直接、結婚し てって言いたい。するとそれを見抜いたかのように、 ﹃︱︱クリスマスには日本へいく。そのとき、仕切り直しをしよう﹄ 言って綴くんは少し笑った。 ﹃それで、年越しは一緒に過ごすんだ﹄ ﹁ほ、ほんと、に?﹂ ねえ、それって、つまりそういうことだよね? ﹃うん。今度は君の家族に、僕を紹介して。恋人だ、って﹄ ﹁恋人⋮⋮いいの? なってくれるの?﹂ ﹃もちろん。そのときはどんなに嫌がったって宣言してやる﹄ ﹁まさか。いやがるなんてありえないわよ﹂ ﹃ならいいけど、そうなったら二度と引き返せなくなるよ。でもも う遠慮なんか⋮⋮手加減なんか、一切してやれないからな﹄ 270 ﹁うん﹂ ﹃クリスマスまでにしっかり覚悟、決めておいて﹄ ﹁⋮⋮うんっ!﹂ 望むところよ。 通話を終え、ポケットの中の未来を握りしめながら、私は階段を 軽やかに駆け下りる。 is falling down, down, down. falling 頭の中では、やはりいつかのナーサリーライムが行進曲よろしく Bridge 高らかに鳴っていた。 ♪London down, is falling Falling lady. Bridge fair London My 彼に言わせれば、それは“Broken” だけど私にとっては、やっぱり“Falling”こそがしっく りくるの。 当然だ。だって、落ちてしまったのだから。 他ならぬ、私が︱︱あなたとの、恋に。 <一部完> *次話より、二部となります。 271 is evil under or sun, is the there i you mind till never seek none, one, remedy be a every 1、コンティニュー︵a︶ For There there noe, If be it, there find If t. ︵この世のどんな悪いことにも 解決法はあるかないかのどちらかだ もしあるのなら見つけるまで探すこと もしないのなら気にしないこと︶ 幼い頃に読んだマザーグースの本を見つけたのは、真夜中にふと 思い立って部屋の大掃除なんて厄介なことをうっかり始めてしまっ たときだった。 たまたま開いたそのページに、私の目は釘付けになった。 ﹁“解決法はあるかないかのどちらか”⋮⋮か﹂ 違いないと思う。まさしく真理というやつだ。 そして今の私を客観的にみるなら、きっと一番下の一文こそがふ さわしいのだろう。自分でもわかっている。 なのに、こうも諦めきれないのは性分なのか︱︱彼のことだから、 272 なのか。 どちらにせよ、私は傍観者の立場を逸してしまった。だからもは や、逃げ出すわけにもいかないのよね。 ︵ああもう、なんて鈍感だったんだろう、私⋮⋮︶ 両手で抱えた頭を、よぎるのは昼間の出来事。 “良かった。復帰なされたのですね。実は、私も署名に参加させて 頂いたのですよ” 手渡された手紙に、したためられていたのは流水のように美しい 文字だった。 彼とはいつも手話での会話だったから、こんなに達筆だなんて夢 にも思わなかった。 “もう、いなくなってしまっては嫌ですよ” 名前も知らぬまま、応対していた。大切なお客様のひとり、だっ た。 “これからもそこにいてください。私は、あなたを” その関係は、変わることなんてないと︱︱。 “あなたをずっと見ていました。葦手猶” 1、 関わってはならないこと、というのがこの世には少なからず存在 273 する。 それは裏社会に首を突っ込むなとかいう大それた話でも、厄介な 人間には近付くなとかいう忠告みたいな話でもない。 ⋮⋮まあ、それも確かに関わってはならないひとつの例なのだけ れど、私が今言わんとしていることとは若干違う。 身の程をわきまえる、とでも表現したらいいかな。招かれざる客 にはなるな、というか。 とにかく、そういった類いのデリケートな問題だと思っていたの だ。 結婚を決めたとはいえ、まだ赤の他人である自分が軽い気持ちで 首を突っ込むべきではない、と思っていたのだ。 彼と、彼のお兄さんとの問題に関しては。 *** ﹁︱︱ええ、大変申し訳ないのですが、わたくしどもでは介入でき ないのです。被害届はご本人に出して頂くしか⋮⋮﹂ 九月に入って最初の日曜日、二番︵つまりランチ休憩︶へ入ろう としていた私の足を止めたのは、血相を変えたひとりの女性だった。 二十代半ばと思しきそのお客様は、お車で来店なさり、ショッピ ングをしている最中に車上荒らしの被害に遭ってしまったらしい。 恋人からプレゼントしてもらったアクセサリーも盗まれたものの ひとつだそうで、訴える声はあまりにも切実だった。 しかしこれは︱︱実を言うと、デパート側にとっても、とても難 しい問題だったりする。 警察に通報をし、被害届を出すのは被害者であるお客様自身でな ければならないからだ。そればっかりは、どんなにお手伝いをして 差し上げたくてもできない。 274 ﹁で、でも、わたし、じゃあ、どうすれば﹂ けれど、かたかた震えながら涙を零すお客様を前にすると、無力 を痛感して悲しくなる。 ﹁お電話でしたら、事務所のものをお貸し致します。通報の間も、 もちろんお側におりますから﹂ 私はお客様の肩を抱き、ミレちゃんに目で合図を送った。カウン ターをお願いします、と。そうして、社員用通路に彼女をご案内し たのだった。 もちろんカウンターにも外線はある。あるのだけれど、いかんせ ん目立つ。お客様にとっては話しにくいことこの上ないだろうし、 せめて静かな環境に身を置いて、落ち着いて頂きたいから。 ﹁どうしてわたしがこんな目に⋮⋮高い車じゃないのに、鍵だって、 ちゃんとかけたのに⋮⋮!﹂ ﹁ええ﹂ ﹁ひ、一ツ橋って、車上荒らしの犯人とか、放置してるんですかっ﹂ ﹁いえ、そんなことは﹂ ﹁じゃあどうしてっ﹂ しゃくりあげて訴える彼女の背を、ゆっくりさすりながらエレベ ーターへと乗せる。 縋り付きながら睨む、という冷静であれば決してしないような反 発の仕方をされ、私は困惑しつつも﹃仕方ないことだ﹄と自分に言 い聞かせた。 ショックを受けたとき、人間は大概こうなる。珍しいことじゃあ ない。 むしろ、それだけショックが大きかった証拠なのよね。このとき 275 ばかりは、どんなふうになぐさめても届かないのが悲しい現実。 だから私にできるのは、受け止めることだけ。 ﹁⋮⋮こちらです、どうぞ﹂ 普段の笑顔を封印し、静かに事務室へと案内させていただいた。 彼女の口から感謝の言葉が聞かれたのは、これから三日後のこと だった。 276 2、コンティニュー︵b︶ ︵まずい、時間ギリギリ!︶ 仕事から帰宅すると、私は玄関でハイヒールを乱雑に脱ぎ捨て、 お決まりのコースで洗面所へと駆け込む。 いつもなら、ここでメイクを落としきってしまうのがマイルール なのだけれど、今日は油取り紙で押さえたあと、その上にパウダー を塗り直した。マスカラにリップグロス、それからチークもだ。 時刻は二十時五十分。約束の時間まで、あと十分しかない。 ︵ああもう、どうしてこんな日に限って閉店間際に落とし物なんて ⋮⋮︶ 本日は遅番。でも、残業なんて基本的にはないから、定時で帰れ る予定だったのだ。閉店五分前、お客様が売り場に携帯電話を忘れ たと駆け込んでくるまでは。 結局、閉店後まで店内を探すはめになった。しかし悔しいことに、 たまにあるのよね、こういう閉店間際のドタバタって。 おかげでいつもの電車も逃すし、すっかり遅くなってしまった。 仕方ないので髪はスプレーで適当にごまかし、新調したばかりの キャメル色のワンピースにスポンと着替える。滑り込んだのはノー トパソコンの前だ。 そう、今日はここでバーチャルデートなのだ。 ﹁よし、準備万端﹂ カメラとヘッドセットを準備して、スカイプに繋ぐ。どきどきし 277 すぎて、マウスを握る手が滑ってしまう。 もう十回はこうしているのに、やっぱり緊張しちゃう。 と、画面にあらわれた彼の表情は、まぶしすぎるくらいの満面の 笑みだった。 ﹃おかえり、維紗ちゃん﹄ 細められた目の横で、泣きぼくろがちょっと持ち上がる。いつも 以上に色っぽい︱︱気がする。 ﹁た、ただいま﹂ 毎回、覚悟してのぞむのに必ず見蕩れてしまうなんてくやしい。 くやしいけど、嬉しい。 三日ぶりだわ、顔を合わせるの。 ﹃今日の仕事はどうだった?﹄ ﹁順調よ。フミさんとのわだかまりもすっかりとけたし、手話講習 会の参加者も増えてきたし﹂ ﹃そう、それはよかった。充実してるみたいだね﹄ ﹁うん、おかげさまで﹂ 頷いた私の頭に手を伸ばし、彼は優しい笑顔のままで、”いいこ いいこ”の仕草をしてくれる。 画面の向こうのことだし、手なんて届くはずもないのに、ドキッ として身動きがとれなくなった。体温、一瞬、感じた気がして。 ﹃僕はやっぱり、頑張る君が好きだな﹄ ﹁あ⋮⋮﹂ ﹃こら、ここは“私も好き”とか言う場面だろ﹄ 278 ﹁あ、そ、そっか。えと、わ、わた︱︱痛ッ﹂ こんなときに舌を噛める自分は結構器用だと思う。 ﹃⋮⋮っク、あはは、維紗ちゃん、君、からかうとホンットかわい ⋮⋮っ﹄ 豪快に笑い転げた挙げ句、彼はお腹を抱えて画面から姿を消す。 思わず覗き込んでしまった。見えっこないのに。 ﹁か、からかったの?﹂ ﹃あはは、いや、僕の“好き”はいつも本気だよ?﹄ ﹁本気に聞こえないわ﹂ ﹃あははは! 君、声、裏返って⋮⋮っ﹄ ﹁誰の所為だと思ってるのよ!﹂ テレビ電話って精神衛生上よろしくない気がする。なんて、私は 自分の不慣れを媒体のせいにする。 だってこうしていると、どんどん欲求不満になってしまうんだも の。舌くらい噛むわよ。 そりゃ、このほうが割安だし、顔が見られるのは本当に嬉しいけ ど、⋮⋮見えるからこそ、というか。 先月の携帯電話の請求書なんて、開いた瞬間にひっくり返ったわ。 なんたって四万よ、四万。通話料だけで。ありえない。 ﹃あ、ところでDVDは借りてきた?﹄ 画面の向こうで、起き上がった彼が手にしていたのは“シザーハ ンズ”だった。私も、手元のそれを顔の前に掲げる。 279 ﹁もちろん!﹂ ﹃じゃ、映画鑑賞会としようか。せーの、で再生ボタンを押すんだ﹄ ﹁うん、ちょっと待って。デッキの準備するから﹂ 今日のこのデートは綴くんのアイデアだ。 同じ時間、同じ映画を、“一緒に”観る。そうすることで、離れ ていても経験を共有することができる、ということらしい。ちょっ と新鮮。 ﹃ねえ、これ、ラブストーリーなんだよね?﹄ ﹁そうよ。厳密に言うとラブファンタジーかな。やけにカラフルな 画面が、主人公のモノクロ感と対比されて、そこが何とも物悲しく ていいのよー﹂ ﹃ふうん。名作だとは聞いてたけど、観るのは初めてだな﹄ この映画を推したのは私だ。実はジョニー・デップ、大好きなの よね。 うっとりしながら予告編VTRを流していたら、白い目で見られ てしまった。 ﹃維紗ちゃん、泣くなよ。僕、涙を拭いてやりたくても届かないん だから﹄ ﹁うーん、難しい注文だわ。努力はするけど⋮⋮﹂ ﹃まあ、無理をすることはないけどさ。でも僕、君の泣き顔を見た らきっと悶えるよ。逢いたくて、抱き締めたくて﹄ ﹁そ、う⋮⋮?﹂ 気恥ずかしくて対処に困る。でもやっぱり嬉しくて、私はテーブ ルの下でもじもじしてしまう。 こっちこそ逢いたい、抱き締められたい、って言ったら困らせち 280 ゃうかな。 ﹁あ、予告編、終わったかも﹂ ﹃よし、準備はいい? 押すよ。せーの、﹄ ﹁はいっ、︱︱あ、始まった。じゃ、見終わったらまた、ここでね﹂ 手を振って通話を切ると、私は映画を観ながら傍らのポップコー ンをつまみ、オレンジジュースに口を付けた。 こんなにカロリーの高いもの、自分なら絶対に買わない。勧めら れたって、よほどのことがなければ食べないと思う。もう二十一時 過ぎなのだし。 でも、これを選んだのは他ならぬ綴くんだから、いい。今、同じ 地球の上で同じように、同じものを食べているという事実がうれし い。 ︵あ、だけどこれ、バター醤油味だ︶ イギリスにもバター醤油味のポップコーンってあるのかしら。な いわよね。となると、違う味、食べてるんだ⋮⋮。急激に後悔が込 み上げてくる。ああ、塩味にしておけば良かった。 けど、それを言ったらオレンジジュースも国内メーカーのものじ ゃないほうが良かったかも。 そういえばイギリスって今、ランチの時間じゃなかった? 十三 時くらいだったっけ。 何を食べたのかな、ランチ。寮で暮らしてる、って言ってたけど、 学食みたいなのってあるの? ︵いろいろ、気になるなあ⋮⋮︶ テレビに大写しになるジョニー・デップは、ゴシックなメイクな 281 がらいい男だ。大ファンだ。 なのに私は結局最後まで綴くんのことばかり考えて、映画に集中 することができなかった。 泣かずには済んだし、それで彼にはまたもや“いいこいいこ”を してもらえたけれど、ちょっと当惑してしまったりして。 だって、こんなにひとりの人に夢中になったこと、いままでなか ったもの。 恋は初めてじゃあないけれど、初恋のときより、戸惑っている自 分がいる。 ︵好きすぎて、どうしよう︶ どうしたらいいの。 三十を過ぎて訪れた本気の恋に、私はもう、どっぷり浸って溺死 しそうだった︱︱。 282 3、コンティニュー︵c︶ デートの余韻でなかなか寝付けなかった私は、欲求不満を確信し つつ新しい朝を迎えた。 立派なクマが両目の下にふたつ。ひどい顔だ。 それらを塗り込めるように厚塗りメイクをし、気を取り直して満 員電車に飛び乗り︱︱、しかし考えるのはやはり彼のことだった。 ︵はあ、逢いたいな。綴くんに、逢って⋮⋮︶ 耳元で、息がかかるくらい間近で、好きだよって言われたい。淀 みのないネイティブの英語で、甘すぎる言葉を延々とささやかれた い。 焦れったいくらい軽いキスも、とろけそうな深いキスも、手加減 なんてせずにたくさんして欲しい。 それから力のかぎり抱き締めてほしいし、髪だって優しく撫でら れたいし、それ以上のこともいろいろされたい︱︱なんて、本人に はもちろん言えないけれど。 恥ずかしいし。色惚けっぽいし。 ︵せめて誰かに相談できればすっきりするのかしら︶ でも、苦手なのよね、そういうの。弱みを見せると言うか、自ら 他人に寄りかかろうとするのって。 自分の弱さを再確認して、ますます落ち込みが深くなる気がする んだもの。 だけどこのままじゃ私、悶死しそう⋮⋮そもそも久々の恋が遠距 離だなんてハードルが高すぎるのよ⋮⋮。 283 そんなことをぶつぶつ呟きながら出勤すると、ロッカーに入るな りミレちゃんに捕まってしまった。 ﹁先輩、どうやったら豊乳になれますか﹂ しかも第一声がそれだ。何事かと思った。 ﹁⋮⋮朝から何を言っちゃってるのこの子は﹂ そのうえ真横から胸を観察され、私はたじろぐ。やめてほしい。 ものすごく着替えにくい。 ﹁いいなあ、Dカップ。私なんてAですよAっ。いまどき小学生の ほうがよほど立派なもの、持ってますって﹂ なのにミレちゃんは今にも私の胸に顔を埋めんばかりの勢いで迫 ってくる。 ﹁どうやったら先輩みたいになれます? 制服の上からだとすっご くスレンダーに見えるのに⋮⋮着やせするって得ですよね﹂ ﹁それ褒めてないわよ。脱いだらすごいんです、って一昔前のCM じゃないんだから﹂ ﹁褒めてますってば。ねえ、豊乳になるコツ、あったら教えてくだ さいよ。貧乳からしたら切実な問題なんですから﹂ コツって︱︱そんなのないし。私は後ずさりしつつ、すばやく制 服を身に着けた。 ﹁あ、あのね、豊乳豊乳って一体どうしたのよ。胸なんて脂肪よ脂 肪。細身のほうが余計なところにまで贅肉がまわらなくていいじゃ 284 ない﹂ ﹁よくないです。私、本気でこのままじゃまずいんですっ﹂ ﹁まずいって⋮⋮何が﹂ 問いながら、背中のファスナーを上げて、帽子をかぶる。 九月に入って、制服は秋仕様のものへと変わった。とはいえ、色 合いはデパートのコーポレートカラーであるベリーピンクとブラッ クの組み合わせで、それだけは全シーズン、基本的にかわらないの だけれど。 ﹁⋮⋮だって、全敗なんです﹂ ﹁は?﹂ ﹁このところ、合コン全戦全敗なんですっ。一番最近キスした相手 も人工くんだし、私、このままじゃ女としてお終いです!﹂ 人工くん、というのはもしかしなくても二週間ほど前に行われた 救命実習で、人工呼吸を練習した人形のことだろう。 一ツ橋では夏と冬の二回、消防を呼んで本格的な防災訓練を行っ ている。人工呼吸のみならず、AEDや消火器の使い方などもしっ かり教わった。 しかし⋮⋮ミレちゃんってば、合コン全敗の理由を何故胸のサイ ズに見出したかな。苦笑してしまった。 ﹁実はですね、狙った男性にですね、二回連続で巨乳が好きって言 われたんです。で、三度目にはペチン﹂ ﹁ペチン?﹂ ﹁そう、ペチンです。会話が盛り上がってきたとき、手の甲で胸元 にツッコミを入れられて。ペチンって音がしたのも衝撃でしたけど、 もっとショックだったのは⋮⋮その男性、“胸だと思わなかった” って⋮⋮﹂ 285 “なんでやねん”のツッコミポーズをとったまま、うなだれる彼 女の姿にはまさしく哀愁が漂っている。モデルさんのように可愛い 顔が台無しだ。 それにしても悪いのに当たったというかなんというか。同情せざ るを得ないわね。 ﹁あのね、胸のサイズだけで相手を決める男なんて信用ならないわ よ。ちゃんと自分の裏側まで見抜いて、まるごと受け止めてくれる 人と恋愛しなきゃ﹂ なんて、偉そうなことが言えるほど、私は恋愛慣れしていないの だけれど。実のところは。 ﹁私もね、昔は早く恋人をみつけなきゃって焦って、合コンの女王 みたいになってた頃があったわ。全然うまくいかなかったけど﹂ ﹁先輩にもそんなときがあったんですか﹂ ﹁まあね。ミレちゃんが入社する少し前くらいまではそうだったわ。 服もメイクも完璧にして、セッティングから会計処理まで調子良く 請け負って⋮⋮なのに、全敗﹂ ﹁そ、それはひどい﹂ ﹁でしょ。だけどあの頃の私を振り返ってみると、自分が男だった としても彼女にはしたくないって思うわ﹂ ギラギラしてたし。結婚が全てだと思ってたし。 その上、周囲に合わせようと無理してたしね。お調子者を装う癖 も、つい最近まで抜けなかったくらいだもの。 だけど綴くんはそんな私を包括して好きだと言ってくれた。 本当の私を見抜いて、私が本当はどんな人間なのか、今後どうな りたいと思っているのか、教えてくれた。 286 だから私も、全力でそれに応えたいと思う。自分に持てる力の全 てを、彼のために使いたいと思う。 ﹁今ならわかるわ。自分から与えられるものが何もない状態で、相 手に全部を求めたって、うまくいきっこないのよ﹂ ﹁自分、から⋮⋮﹂ ﹁そう。だって搾り取るだけじゃ不公平じゃない﹂ ハッとした様子でミレちゃんが顔を上げたから、その肩をポンと 叩いて私はロッカーの出口を指差した。 ﹁行きましょ。急いで開店準備しなきゃ﹂ ﹁は、はい! あ、でも、あのっ、ひとつだけ聞いてもいいですか﹂ ﹁なあに? 歩きながらで良かったらだけど﹂ ごみごみして薄暗い社員用通路を足早に歩き出すと、ミレちゃん はせわしない足音を響かせながらついてきて、言った。 ﹁先輩は今、いい恋をしてるんですね﹂ ﹁もちろん﹂ ﹁私にも出来るかなぁ、貧乳のまままでも、素敵な恋⋮⋮﹂ ﹁できるわよ。ミレちゃんは素直で頑張り屋だもの。胸のサイズよ り、そういうところを伸ばしたほうが絶対にいいわ﹂ ﹁がんばりや、ですか? 私﹂ ﹁ええ。だってほら、手話講座を皆勤賞なの、ミレちゃんだけじゃ ない。⋮⋮ねえ、真面目な自分、恥じちゃ駄目よ﹂ 若いときには難しいかもしれないけどね。泥臭く頑張る自分を認 めてあげるのって。 でもきっと、三十の峠を越えればわかるわ。誰かに認めてもらえ 287 れば︱︱実感するわ。 何が自分にとっての、一番の武器なのか。 言いながら振り返った私はそこに、決意の眼差しと強い笑顔を見 たのだった。 ﹁はいっ、これからも頑張りますっ!﹂ やっぱりいい子だわ、この子。なんとしても幸せになってもらい たいな。心から、そう思う。 288 4、コンティニュー︵d︶ そんなことで始まった週末の業務は、車上荒らしという大きなト ラブルのあった先週末と比べ、とても平和に過ぎていった。 週半ばから続く秋の長雨のせいかもしれない。駅からの客足は伸 びず、正直、正面受付は閑散としていた。 かわりに増えたのが、お車でのご来店者だ。だから十一時を過ぎ た頃には、東口受付からのヘルプ要請が舞い込むこととなったのだ けれど。︵東口には駐車場との連絡通路があるのだ︶ ちなみに一ツ橋の受付は合計三カ所、それぞれに二人ないし三人 のスタッフが配置されている。 私はひとまず遅番のフミさんを待ち、彼女が出勤してきたところ で、ミレちゃんを東口へと向かわせたのだった。 ﹁よう、神野﹂ そうして休憩室でランチをとりはじめた私の前を、我が物顔で陣 取ったのは及川課長。 しまった、タイミングを間違えた。心中、ため息。十二時ぴった りといえばはちあわせは免れなかったのに。 ﹁なんだ、今日も弁当か。おまえ、案外頑張るな﹂ こちらの気まずさを知ってかしらでか、彼は意外そうな顔で私の 手元を覗き込んでくる。そんなに間近に迫らないで︱︱とは、言い たくて言えなかった。 289 ﹁頑張ってるわけじゃないです。私、料理は昔から好きなので﹂ ﹁おまえが料理好き? 想像できねえ。見栄はってるんじゃねえの﹂ まあ、言われると思ってたけど。 そういうところが綴くんとの一番の差で、最も大きな敗因だった のだと、気付いているのかいないのか。 ﹁ほうっておいてください。少しでも節約したいんです。ロンドン へ向けていろいろと入り用なんだから﹂ ﹁ああ、そうか﹂ そうだったな、と言って菓子パンを頬張る課長は若干淋しげだ。 少しの罪悪感が、私に視線を逸らさせる。 ﹁向こうは物価も高いしな。というかおまえ、あっちでどうやって 生活するんだ。綴はまだ当分の間、学生なんだろ﹂ ﹁うん、一応今、彼のアルバイトのつてで日本語の家庭教師のクチ を探してもらってるの。正式に決めるのは現地へ行ってからなんで すけど﹂ ﹁へえ、抜け目ないな、綴のヤツ﹂ ﹁頼れるとか言ってもらえます? まったく、いつまでたっても口 が減らないんだから﹂ 実は︱︱私の言葉に敬語があったりなかったりするのは、迷って いるから、だったりする。 といっても、彼を男性としてみているとか、まだ過去の恋を振り 切れていないとかではなくて。 仕事上、上司と部下には戻れている。それは間違いない。 問題は、プライベートの⋮⋮破綻してしまった友情のほうだ。 彼の気持ちを知っていて、今更友人に戻ろうとはいえない。けれ 290 ど、お互いに忌憚なくものを言い合えるのはやはり及川しかいない 気がして⋮⋮ときどき、淋しくなる。 強がってはいたけれど、その実、私は彼のあけすけな性格に救わ れていたのだろう。 男女の友情って、難しいな。 もう、以前のようには戻れないのかな。 ﹁神野くんは居るか!﹂ すると、休憩室の入り口から呼ぶ声が聞こえた。振り返って、見 つけたのは部長の姿。 ﹁あ、はい、ここに﹂ ﹁ああ、悪い、ちょっといいか﹂ ﹁え、今ですか﹂ まだご飯、食べきってないんだけど。うろたえる私に、部長は焦 った様子で手招きをする。 ﹁急ぎなんだ。休憩はあとに。及川課長も一緒に来てくれ﹂ 課長も? 非常事態なんだな、と直感せずにはいられなかった。 これまでにも何度かあったのだ。課長と︱︱つまり上司とセット での呼び出しって。 そのたび、部長の口から語られるのは深刻な内容だった。それは そうだ。私ひとりに話せば済む内容なら、上司を同席させる必要は ない。 291 ︵ものすごく嫌な予感がする︶ こうして、食べかけのお弁当を片手に、部長に連れられてやって きたのは会議室。 そのドアが開いた瞬間、私は中に居た意外な人物と目が合って、 驚きのあまり声を上げた。 ﹁み、ミレちゃん!?﹂ ﹁せんぱぁい⋮⋮!﹂ どういうこと。ミレちゃんならつい一時間ほど前に東口受付へと ヘルプ要員に出したはずなのに。 ﹁わたし、私っ⋮⋮やめたくないです⋮⋮っ﹂ 涙に濡れた顔で、しゃくり上げながら抱きつかれる。困惑せずに はいられなかった。やめる、ってどうして。 ﹁何があったんですか﹂ 部長を振り返りながら、私は小声で問う。まさかとは思うけど、 私に来た異動の話がミレちゃんにも? ううん、それはないはず。あの話は異例だったし、ミレちゃんに はまだ、外商に行って使えるほどの人脈はないもの。 ﹁⋮⋮東口でトラブルがあってね﹂ ﹁トラブル?﹂ ﹁ああ。先週末、車上荒らしがあっただろう。あのときのお客様が ︱︱奇しくも、再び狙われたんだ﹂ 292 また? と聞き返してしまいたくなった。ありえないでしょ。 だってそんな、二週連続で車上荒らしの被害にあうなんて稀すぎ る。偶然だったら出来すぎてる。 ﹁それでどうしてミレちゃんが辞めるなんて話に﹂ ﹁お客様が激怒しておられるんだよ。被害に気付いて、東口受付に 飛び込んだ瞬間、夏目くんが⋮⋮笑顔で応対したと。人を馬鹿にす るような受付嬢はクビにしろと、事務所のほうに直談判に来られて いる﹂ ﹁馬鹿に⋮⋮って、それはお客様の勘違いでは。声をかけられて笑 顔を向けないスタッフはいませんよ。たったそれだけのことで、ク ビ、ですか﹂ 問うたのは及川だ。私は現場の人間として、このときばかりは何 を言うことも出来なかった。 恐らくお客様は、その一瞬にとても嫌な気分をなさったのだ。ま だ事情をうかがう前のこと、ミレちゃんに落ち度はない。ないけれ ど︱︱。 お客様が嫌な思いをされた、ならそれは紛れもなくミスなのだ。 理不尽な話。 ﹁お客様はまだ事務所に?﹂ ﹁ああ。だが、ひとりじゃあない﹂ ﹁ひとりじゃない? 集団で陳情にいらしてるってことですか﹂ ﹁いや、そうじゃなくてな。男性のお客様がひとり、その女性客を なだめようとして下さってるんだ﹂ なだめる? ということは。 ﹁お身内の方がご一緒なんですね。恋人とか?﹂ 293 ﹁それがどちらでもないみたいでね。通りがかりに、車上荒らしを 発見して追いかけてくれた方らしい。つまり目撃者だな﹂ ﹁へえ、勇敢な方もいらっしゃるんですね﹂ 奇特というか。私はほうっと溜息を漏らしてしまった。 ちゃんと味方になってくださるかたもいるのね。ちょっぴり救わ れた気分だわ。 私達は日々、自分を殺してお客様をたてているから、時々わから なくなったりもするのだ。 自分の主義主張が、どこまで認められて良いものなのか。それ、 全部、肯定してもらったみたいで嬉しい。 なんて思いながらミレちゃんにハンカチを差し出していると、部 長は私と課長を交互に見、言った。 ﹁その男性というのがだな、手話と筆談で会話をなさるのだよ﹂ ﹁手話で⋮⋮?﹂ なるほど、それで、か。 自分がまず真っ先に呼ばれた理由を、私はようやく悟ったのだっ た。 294 5、コンティニュー︵e︶ ﹁あんた、先週の⋮⋮! わたしが被害に遭ってるの、放っておく からこういうことになったのよッ﹂ 隣接する事務所に入るや否や、飛んできたのは罵声だった。 甲高く、凶器のようなその声に、私は縮み上がって出入り口に立 はな ち尽くす。 放ったのは被害者の女性だ。 ほう ︵放っておいた、って、私が? まさか。付き添って事務所までお 連れしたし、あのあと、きちんとお礼の電話だって下さったはずな のに︱︱︶ しかし反論しようにも、被害者の女性の興奮は激しく、火に油を 注ぎかねないと思うとできない。 すると彼女はそんな私の態度すら腹に据えかねた様子で、座って いたソファーから跳ねるように立ち上がると、掴み掛かってきた。 ﹁責任取りなさいよ! 全部あんたのせいよ、クビにしてやるっ﹂ 鬼の形相で。トラブルには慣れている私だけれど、それでも本気 で怖かった。 ソファーの隣にいた男性が、すばやく彼女の肩を押さえてくれな かったら、私は恐怖のあまりしゃがみ込んでいたと思う。 ﹁落ち着いてください、お客様﹂ 295 及川課長も、さりげなく私の前にたちはだかって庇ってくれる。 ⋮⋮あれ? けれど私は一瞬垣間見た光景に覚えのある人影があった気がして、 課長の肩越しに恐る恐る、向こうを覗き込む。 と、女性を制止している︱︱目撃者の男性と思しき人物と︱︱ば っちり目が合った。 ︵あ︶ にこり、僅かに口元だけで微笑まれて私は目を見開く。 そこにいたのは正面受付で頻繁に応対し、そのたび手話で親しく お話をさせていただく男性だったからだ。 品のいい濃いグレーのスーツと、きっちり結んだブルーのネクタ イが細身の長身によく似合っている。 首はすらりと長いし、短髪は爽やかだし、切れ長の瞳はやや冷た い印象を与えるものの、幅広の口元が愛嬌をもってそれを打ち消し ていて、正直、涼しげな美形だ。 及川課長は若干甘さのある外見をしているから、二人を同時に見 るとコントラストがすごい。 赤と青、みたいな。もちろん赤が課長だ。だってあちらの彼は課 長にない爽やかさを持っているもの。 最初、売り場で応対したときは⋮⋮彼が聴覚障害を持っていて私 が一番スムーズにご案内できるのだと知った時は⋮⋮役得だ!と影 でガッツポーズをしたものだった。 その後も月に一度ほどのペースでご来店くださっているのだけれ ど、混み合っていないときを見計らって声を掛けてくれるし、会話 の内容もいつもスマートだし、ものすごくデキるサラリーマンとい った感じなのだ。 ︵彼が間に入ってくれていたのね︶ 296 こんなに心強いことはない。 それでようやく普段の落ち着きを取り戻した私は、複雑な気持ち に蓋をして被害者の女性と向き合った。 ︱︱私に足りない部分がありましたなら、お詫び申し上げます。 ︱︱後輩の夏目に関しましては、私のほうからよく言い聞かせてお きますのでご容赦いただけないでしょうか。 と。 部長も防犯体勢を強化すると言ってくれ、そのおかげか、事態は 徐々に沈静化への道筋をたどりはじめた。⋮⋮はずだった。 ﹁すみません、私、お客様にもう一度、どうしてもお詫びしたくて ⋮⋮﹂ ミレちゃんが、ひょっこりその場に現れるまでは。 どうしてここに。会議室で待っててね、って言っておいたのに。 私は青ざめる。招かれざる客とはこのことだ。 これでは、お客様の神経を逆撫でしてしまう。 ﹁お詫び、ですって? あのときは大したことも言わなかったくせ に、今更⋮⋮!﹂ 予想通り、女性はミレちゃんにとびかかる。このときばかりはな みなみならぬ瞬発力で、誰も止めには入れなかった。 だから、あぶない、と思ったときすでにミレちゃんは髪を掴まれ、 制服の胸元を︱︱。 胸元を、ビリリと大きく引き裂かれていたのだ。まさに一瞬の出 来事だった。 297 ﹁きゃあっ﹂ ﹁ミレちゃん!﹂ 夏目さん、と呼ぶ余裕はなかった。破られた布の向こうから、ピ ンク色の下着が露になる。 私は瞬時にミレちゃんを両腕で抱き寄せた。同時に、及川課長が お客様を取り押さえる。 ﹁これ以上はおやめください、警備員を呼びますよ!﹂ しかし彼女は押さえつけられてもなおばたつき、しばしの乱闘騒 ぎとなってしまった。 こんなことは初めてだ。私が、受付嬢になって以来。 もはや茫然とするしかなくて、震えるミレちゃんを両手で抱き締 めていた。 目撃者の男性がやってきて、自らのジャケットをさりげなくミレ ちゃんの肩に掛けてくれたのはそのときだ。 大丈夫? と手話で尋ねられたから、私はそれをそのままミレち ゃんに伝えた。 ﹁だ、だいじょうぶ、です⋮⋮ありがと、ございます﹂ カタカタ奥歯を鳴らしながら彼を見上げたミレちゃんは、ほんの 少しの間、まばたきを忘れていた、ように見えた。 ぽうっとした様子で、まるで憧れの何かに見蕩れるように。 どうしちゃったのかしら。疑問に思えど鈍感な私がその視線の意 味に、すぐに気付けるわけもなく。 さらに、直後の出来事があまりにも衝撃的だったから、あっとい う間に忘れてしまったり︱︱したのだけれど。 298 *** ︽神野さん、ですよね︾ 彼が手話でそう尋ねてきたのは、乱闘騒ぎがどうにか落ち着きを 見せたころだった。 その手の指は細くやや節がはっていて、ものすごく綺麗だ。 ﹁はい﹂ 今、私の胸元に名札はない。休憩中だから外しているのだ。とな ると、彼はきちんと私の名を覚えていてくれた、のだろう。 ︵これはかなり嬉しいかも︶ ミレちゃんを抱いたまま頷くと、目の前に水色の封筒が差し出さ れた。なんだろう。首を傾げながら、受け取る。 ︽逢えて良かった。今日はあなたに、これを渡しに来たんです︾ 彼はそう言って口角を上げた。切れ長の目が、少し細くなる。微 笑み返そうとした私はしかし、ぴたりと動作を止めた。 何気なく裏返した封筒、そこに記されている名前が、視界の隅に うつったから。 うそでしょ。我が目を疑い、すぐに何度も読み返した。 だって。 猶” ナオ⋮⋮この人、綴くんの、お兄さん!? ︱︱“葦手 アシデ 299 5、コンティニュー︵e︶︵後書き︶ *このあと、ミレちゃん視点の番外編をはさみます。 300 ︻カクメイ マーメイド・1︼side 夏目未怜 閉める、のが、私は何故だかとても苦手。 幼い頃からずっとだ。物心がついたばかりの頃から︱︱今に至る まで、ずっと。 閉め忘れが原因で頂戴したお小言は、両手両足の指をいっぺんに 使ったって到底数えきれない。 最初はオモチャの収納箱だった、かな。 あるいは落書き帳だったか、クレヨンの箱だったか⋮⋮思い出そ うとすると記憶は余計にあやふやになるから、はっきりと断言はで きないけれど。 とにかくそんな感じの、子供らしいものだったことは確か。 みれい ﹁どうしてきちんと閉められないの、未怜は﹂ 問いただされたって、わからないものはわからない。 どんなに頑張って後片付けをしても、私は必ず最後の﹃閉める﹄ を忘れてしまう。 そうして、そこまでの全てを台無しにする。 それは自分が一番悔しいし、腹立たしく感じている。だから私は いつだって、詫びもせずただ黙っていた。 ランドセルの蓋をとめずにお辞儀をして、中身をぶちまけたのも 一度や二度のことじゃあない。 そのせいで折れてばかりだった鉛筆の芯。軸の先でぐらぐら揺れ る感触を、私の指先はいまも覚えている。 お風呂に入れば脱衣所のドアは数センチ開いている︵らしい︶し、 出たら出たで、今度は蓋が斜めで閉め切れていない︵らしい︶し。 301 これには父や母のみならず、三つ年下の妹からも叱られていたっ け。 れいり ﹁いい加減にしてよ未怜。なんでもかんでもやりっぱなしにして、 後始末をさせられるあたしの身にもなってよね!﹂ ﹁未怜って⋮⋮たまにはちゃんとお姉ちゃんって呼んでよね、怜李﹂ ﹁だったら姉らしく振る舞ってみてよ、一度くらいは﹂ ぐうの音も出なかった。これは中二の頃の会話だけれど、私は未 だに妹から姉扱いをしてもらえていない。 ⋮⋮仕方のないこと、なのだろうけど。 だって私は姉だなんて肩書きばかりで、どちらかといえば妹気質 なのだ。 身長も156センチと小さめで、バストサイズもAの65と小学 生以下。顔だって、メイクで大人っぽく見せているけれど、すっぴ んは女子高生だと友達には揶揄される。 けれど、何より致命的なのは、人に寄り掛かることに罪悪感を覚 えなくなってしまった精神のほう。 どこかを閉め忘れても、必ず家族がフォローしてくれる。学校で は友達が、バイト先では先輩が、私に代わって閉めてくれる。 それが、当たり前になっていた。 むしろ甘え上手な自分に⋮⋮酔っていたのかもしれない。 隙があったほうが男性を振り向かせるのにも適していたし、だか ら無理に自立した女になるより利口に生きられているんだ、って得 意にさえ思っていた。 つまり、自分で自分に始末をつける、というのがどんなことなの か。 私はずっと知らなかった。知らないフリをして二十四年間、生き 302 てきたんだ。 それを教えてくれたのは、大好きな神野先輩と、そして⋮⋮。 私は今、あなたへの気持ちを胸にしまえていますか? 夏目未怜 マーメイド︼ きちんと、蓋が、できていますか︱︱? ︻カクメイ side 1、 週も明けたばかりの月曜日は、残暑にもかかわらず爽やかな日没 を迎えていた。 昼間、通り雨があったおかげかもしれない。 滞りなく勤務時間を終えた私が更衣室に戻ると、直後に飛び込ん できた樹が声をひそめて言った。 ﹁ね、未怜、合コン行かない? 相手、弁護士なんだけど。今、突 たつき 然欠員が出ちゃってさ﹂ のわき 樹︱︱野分樹は一ツ橋デパート同期入社の受付嬢。 彼女の担当場所は東口だから売り場では滅多に顔を合わせないけ れど、同い年でお互いミーハーだから最高に気の合う友人だ。 ﹁行くっ﹂ 私は樹の手を掴み返して即答する。 行かないわけがない。というか、突然欠席をする人の気が知れな 303 い。だって弁護士だよ? わくわくしながら、ロッカーの奥より取り出したるはとっておき の白いシャツワンピ。こんなこともあろうかと、一週間前に仕込ん でおいた代物だ。 ︵今日こそは素敵な彼氏を捕まえたいっ︶ 前の彼氏と別れてからすでにもう半年経つし。 というのはさておいたとしても、私は合コンみたいに大勢でワイ ワイ騒ぐのが大好き。 その間は、物事を深く考えずに済むから。この先の不安とか、全 部忘れていられるから。 ﹁そういえば未怜、神野さんってその後どう?﹂ 派手な花柄のワンピースに両足を突っ込んで、樹が聞く。 ﹁先輩? 元気だよ。あ、今日プリン奢ってもらった。地下のとろ とろカスタードプリン。美味しかったー﹂ ﹁いや、そういうことじゃなくてさ。先週の大演説から社内で話題 の“手を差し伸べたい人”とは結局どうなったのかなって﹂ ﹁うーん、それ、実は私も詳しくは知らないんだよね。先輩、ノロ ケ話とか社内でほとんどしないし﹂ 後ろでひとつに結わえていたロングヘアは、ほどいてみたらしっ かりゴムの跡がついている。 巻いてごまかす手もないわけじゃあないけれど、あえてシュシュ で結び直して、清楚に仕上げることにした。 だって弁護士だもん。 ﹁えー、未怜なら何かつかんでると踏んでたのに。あたし、ショッ プの子に情報収集ならまかせとけって胸張っちゃったよ﹂ 304 ﹁情報って⋮⋮私の神野先輩をミーハーな目で見るの禁止!﹂ うーっ、と私が唸ったら、樹は両手を顔の横にまいったとばかり に挙げて、苦笑。 ﹁未怜の“神野先輩信仰”は相変わらずだわね﹂ そんなことないもん。先輩のことは前よりずっと尊敬してるもん。 言い返したら、呆れ顔で笑われたけれど。 でもいいんだ。誰が認めてくれなくたって、私は神野先輩のこと が大好き。最高に尊敬してるの。 だって先輩は︱︱綺麗に閉められる、人だから。 *** あれはそう、確か、一ツ橋に入社して一週間ほど経った頃のこと。 私は正面受付への配属が決まったものの、まだ売り場には立たせ てもらえず、バックヤードでの研修の真っ最中だった。 ﹁ラジカセの使い方はわかる?﹂ ﹁はい、一応﹂ ﹁なら良かった。ちょっとアナログだけど、このマイクを使って自 分のアナウンスをテープに吹き込んでね。で、聴いて、ダメなとこ ろを見つけて、直すの。その繰り返しよ﹂ ひとけのない会議室に押し込められ、手渡されたのはいかにも一 昔前といったふうのラジカセとマイク。 案内してくれたのはもちろん神野先輩だ。 久々に手にした化石のような媒体︱︱生のカセットテープを握り しめ、私は青ざめる。 305 ﹁えっ、アナウンスの練習、ひとりでやるんですか? こんなに広 いところで﹂ ﹁そうよ。誰かと一緒だと音が混じっちゃうし、集中できないでし ょ﹂ それはそうかもしれないけど。 でも、は、恥ずかしい。圧倒的に恥ずかしい。樹が一緒にいてく れたほうが断然やりやすいのに。 ﹁野分さんも隣の会議室で同じことをやってるわ。ちょっと照れる かもしれないけど、すぐに慣れるから。私たちも通ってきた道だも の。大丈夫﹂ 私の考えを見透かしたみたいに、神野先輩は言って笑顔で帽子を かぶり直した。 つばの広い、ベリーピンクの帽子。黒いリボンでグルリと装飾さ れていてとても上品だ。 ﹁一時間したらチェックしにくるから、それまでにしっかり仕上げ ておいてね﹂ 神野先輩はにっこり笑って、部屋を出て行く。あまりにも綺麗に 背筋が伸びていたから、後ろ姿に見蕩れてしまった。 カッコイイ。私もあんなふうになりたい。そのためには、まず練 習あるのみだよね。 ﹁⋮⋮うー、あー、“ご来店のお客様に⋮⋮”、や、やっぱり恥ず かしいよぉ⋮⋮﹂ 306 あの時期は何もかもが新鮮だった。 楽しいことばかりではなかったけれど、それでもやっぱり、大半 のことは楽しくて。 樹はつらいとよく愚痴っていたけれど、私には不満なんてこれっ ぽっちもなかった。 うーん、それは今でもたいして変わらないかも。こんなにしっく りくる職場、他にはないと断言できるもん。 だって、デパートというのは、たくさんの人間が行き交う場所。 毎日必ず扉を開いて、人々を絶え間なく受け入れる場所。 つまりここは営業時間中、決して閉じない︱︱“閉じる必要のな い箱”なのだ。 居心地が良くないわけがない。 ﹁お車でお越しのお客様に、およびだいを⋮⋮わーん、およびだい って何よ、お呼び出し、でしょー﹂ しかし舌っ足らずの私にとってアナウンスだけは妙に高いハード ルだった。 ﹁夏目さん、そろそろ仕上がった?﹂ 神野先輩が戻ってきたのは、ぴったり六十分後。ズレは一分もな い。 ﹁先輩ーっ、私、噛みすぎて舌がちぎれそうです﹂ ﹁あはは、私もしょっちゅう噛んでるわよ。こないだなんて“お車 ”って言おうとして“おきゅるま”って言っちゃってねぇ﹂ ﹁おきゅるま!?﹂ 失礼かと思いながらも爆笑してしまった。先輩は仕事ができるの 307 に笑いも取れるのが凄いと思う。 すると再びのノック音、のち、扉から及川課長が顔を覗かせた。 ﹁なんだ、この部屋も使用中か﹂ 瞬間、先輩は表情を変えてパッと振り返る。 ﹁か、課長!﹂ あれ? と思った。だって、いつもソツのない神野先輩に、その 動揺ぶりは若干不自然な感じがして。 ﹁ここ、まだ使うか? 隣も使用中だし、出来たらどっちか借りた いんだが﹂ ﹁あ、すぐ空けます。もう終わるので。あと五分だけいいですか﹂ ﹁おう。じゃあ撤収したら一報くれ﹂ ﹁︱︱了解です﹂ 応えて笑顔になった先輩は、先程の動揺が嘘のように背筋がピン と伸びていた。 ︵なんだ、見間違いだったんだ︶ この時はそう思って、気に留めるほどのものでもないからと直後 には忘れてしまったのだけれど。 でも︱︱。 それから二週間ほど経って、初めて飲み会に参加させてもらった とき、私はまたも同じような光景に出くわして、胸を痛めることに なる。 ﹁なんだ、神野はまだ男のひとりもつかまえられないのか﹂ ﹁ええまあ、私にふさわしい男性があらわれないだけのことですし 308 ?﹂ ﹁なにを。入社以来ずっとおひとりさまのくせして偉そうな口をき くなよ﹂ ﹁やだ、知ってたなら合コンをセッティングするくらいのこと、し てくださいよ!﹂ ﹁断る﹂ 及川課長に散々なことを言われながらも、神野先輩がすばやく返 すコメントはやっぱり面白い。 頭の回転が速い人だなあ、なんて軽く考えていた私はお酒の力も 手伝って、皆と一緒に彼女を笑うことに、罪悪感なんて少しも持っ ていなかった。 でも、及川課長が﹁あ、悪い、電話﹂﹁もしや同棲中の彼女から ッスか﹂﹁おう﹂席を外した瞬間︱︱。 浅くため息を吐き、視線を落とした神野先輩を見、我に返ったの だった。 あまりにも切なげな顔をしていたから。 ほんの数秒の出来事だったけれど、私の胸はずきんと痛んで、同 時に、察せずにはいられなかった。 ︵神野先輩、及川課長のことが好きなのかも︶ なのに、どんなに酷いことを言われても、皆に笑われても笑顔で 対処して⋮⋮。 自分がこんなふうに扱われたら、泣き出すなり怒るなりして、場 の雰囲気を壊してしまうに違いないのに。 ああ、そうか、先輩はきっと“閉めるのが上手な人”なんだ。 どんなに揺さぶられても、たとえ中身が溢れ出しそうになったと しても、すぐさま気持ちに蓋をして、自分を立て直せる人なんだ。 309 と、思った。 以来、同じような場面に出くわすたび、私の耳にはパチリという 音が聞こえた。 先輩が、本心に蓋をする音。 本音を、胸の奥に閉じ込める音。 パチリ、パチリ、パチリ︱︱、二年間、幾度となく耳にしてきた 音。 だから彼女が先週、朝礼の後に皆の前で本音をぶちまけたのは、 正直、意外だった。 “⋮⋮この力を、ここで学んだことを、わたしの全部を、かけて、 ⋮⋮手を、さしのべたいひとがいます” 思い出すと、鼻の奥がつんとする。涙でぐしゃぐしゃの顔だった けれど、先輩、今までで一番きれいだった。 それだけ大事な人を見つけたってことなんだよね。もう、蓋も出 来ないくらい“好き”でいっぱいになっちゃったってことなんだよ ね。 すごくうらやましい。うらやましいし⋮⋮良かったな、って思う んだ。 これまで辛抱強く耐えてきた先輩だから、誰より幸せになってく れなきゃ、困るもん。 せめて安心して引退してもらえるよう、私は、先輩が残そうとし ているモノを、少しでも多く身につけようと思う。 *** ﹁︱︱れい、未怜ってば、コラっ!﹂ 310 ﹁うあっ﹂ 突然顔の横で手を叩かれ、過去の回想はたちまち姿を消す。 目の前にはロココな装飾が施された鏡が三枚。つまり化粧室なの だけれど、もちろん会社内の、じゃあない。 フランス料理店の、だ。 ︵そうだ、合コン︶ 顔合わせが済んだと思ったら、早々に樹に呼ばれて、お手洗いに 連れ込まれちゃったんだっけ。神野先輩のこと、思い出してる場合 じゃないや。 ﹁聞いてなかったでしょ。今、すっごく大事なこと言ったのに﹂ ﹁⋮⋮申し訳ございませんがもう一度お聞かせ願えますか﹂ ﹁業務用のテンプレ謝罪すなっ﹂ 頭を下げたら、そこにチョップを食らってしまった。 もうっ、とむくれて鏡に向き直る樹は、いつもながら見事な巻き 髪だ。女子メンバー五人の中で、樹が最も目立っていると思う。 派手さで。 ﹁左から三番目の新堂さん、あたしキープだからね﹂ ﹁しんどう⋮⋮ああ、弁護士事務所経営の三十五歳ね。顔は中の中 だけど全身アルマーニ。趣味はサーフィンで、鍵を持っていたとこ ろから察するにマイカー所有﹂ ﹁ご明察﹂ 出会い頭に身辺チェックをしてしまうのは、刑事ドラマの見過ぎ とかじゃあなくて、職業柄。 ﹁でも、あの人かなり俺様っぽい雰囲気だよ﹂ 311 ﹁そう! そこがいいのよぉ﹂ ﹁本当に? 危なくない? だって⋮⋮新堂さん、樹の胸の谷間ば っかり見てたよ?﹂ カラダを許したら最後、ポイッと捨てられるパターンじゃない。 心配で言ったのに、彼女は余計なお世話とばかりに眉をひそめた。 ﹁見られたくないなら最初から谷間なんて出さないわよ。未怜は上 手に甘えてオトコをつかまえるタイプでしょ。あたしはこうして、 色気で惑わせるタイプなの﹂ ﹁色気﹂ ﹁そ、色気﹂ まあ、樹が最初からそのつもりだったなら別にかまわないけど。 リップグロスを塗り直しながら、さりげなく我が貧乳をさする。 人に見られるほど立派なモノを持っていない人間が、口を挟む問 題ではなかったってことかな。 ﹁で、未怜は?﹂ ﹁私? そうだなあ、一番右の渋谷さんなんて好みかも。細面で優 しげな、二十八歳若手のホープ﹂ ﹁ええ? 爽やかすぎない? ホンット、未怜はああいうビオレの CMに出てそうなオトコが好きだよね﹂ ﹁ビオレ⋮⋮﹂ 変な例え。でも、言い得てるかも。 ﹁なんでだろうね。私、なぜだか清潔感のある人に目がいっちゃう んだよね﹂ ﹁ふうん。清潔感よりセクシーさだな、あたしは﹂ 312 狙いが被らなくていいけどね、と樹が言って振り返ったから、私 は化粧室の出入り口のドアを押し開けた。 よし、今日こそは彼氏をつくるぞ! なんて意気込んでいたこと もあって、体勢は前のめり。 そうして勢いをつけて店内へ飛び出した途端だった。﹁ふひゃっ﹂ 白っぽい、弾力のあるものに顔から追突してしまったのは。 ﹁うわっ、すみません!﹂ 樹がそう後ろから慌てて声をかけてくれたことで、対象が人間だ ったのだと悟る。 ﹁ご、ごめんなさ︱︱﹂ しかし、一歩引いて詫びながら視線を上げた私は、そこに見知っ た顔をみつけ思わず目を剥いた。 程よく尖ったアゴのライン。幅広の唇。切れ長の涼しげな目元。 ﹁あ⋮⋮!﹂ この人、たまに先輩が手話で対応してる人だ! いつもご来店なさるときは黒っぽいスーツだけれど、今は真っ白 な︱︱コックコートに身を包んでいる。 ということは、ここのシェフ? この人、料理人だったの? 意 外すぎる。 ぽかんとしている私を見下ろし、彼は申し訳なさそうに一礼する。 そして颯爽と背を向けると、バックヤードへと吸い込まれるように して消えてしまった。 313 ﹁やけに見目麗しいシェフだったわね。未怜、ああいうの好みでし ょ﹂ ﹁いや、そんなことは﹂ あるけど。 でも、先輩ならともかく私には無理だよ︱︱と、このときの自分 は思っていた。 だって、習いはじめたものの手話は予想していたより難しくて、 ペラペラ話せるようになるのは夢のまた夢、という感じだもん。 恋にはならないよ。 そう、思っていた。 *** それから続けざまに三度ほど、私は樹に誘われて合コンに参加し た。けれど、いずれも惨敗。 狙った相手に、好きな芸能人の名を挙げてもらったら巨乳のアイ ドルだった、とか、私との会話の真っ最中にも樹の胸をチラチラ見 ていたり、とか、アプローチする以前の問題で。 挙げ句、ちょっとした弾みで触れられた胸に﹃胸だと思わなかっ た﹄というコメントを頂戴したものだから、完全に凹みきってしま った。 どうせオトコはみんな、肉感的なオンナが好きなんだ。なんて、 彼氏ができない理由を体型の所為にしたりして。でも。 ﹁このところ、合コン全戦全敗なんですっ。一番最近キスした相手 も人工くんだし、私、このままじゃカラッカラに枯れちゃう!﹂ それを相談すると、神野先輩ははっきり言った。 314 ﹁あのね、胸のサイズだけで相手を決める男なんて信用ならないわ よ。ちゃんと自分の裏側まで見抜いて、まるごと受け止めてくれる 人と恋愛しなきゃ﹂ 理想論だろう、とはじめは思った。でなきゃ、年輩者による上か ら目線の教訓ってやつだ。 だって、これまでの経験から私は、男性が自立した女より甘え上 手な女に弱いことを知っている。 同じように、胸の小さい女より大きい女のほうがより多くの男性 の目を引くのは間違いない。 でなきゃ、樹だってあんなにセクシーな服を着たりしないもん。 要するに、表面上のものに騙されやすい生き物なんだ、人間って やつは。 だけど先輩は、悟りきった口調で続けて言う。 ﹁自分から与えられるものが何もない状態で、相手に全部を求めた って、うまくいきっこなかったのよ﹂ ﹁自分、から⋮⋮﹂ ﹁そう。だって搾り取るだけじゃ不公平じゃない﹂ これには、少なからず衝撃を受けた。 相手に与えられるもの? そんなのあるわけがない。甘えること で注意を引くくらいしか、私に能はないもの。 ︵もしかして、そういうところ、見抜かれてた⋮⋮とか⋮⋮?︶ 立ち尽くしていると、先輩はにっこり、艶やかに笑って私の肩を 叩いてくれた。 ﹁行きましょ。急いで開店準備しなきゃ﹂ 315 その笑顔は自信に満ちていて、やっぱり敵わないなあ、と思う。 先輩、最近なんだか柔らかく、魅力的になった気がする。 少し前までは隙がなくて、綺麗なのにどこか三枚目で、それゆえ 女性としての需要は低くて︱︱もったいない人だと思ってた。もし 男性なら、ものすごくモテる部類に入るのに、って。 しかしこうなると、そんな先輩を射止めた“綴くん”とやらはよ ほど利口な人だということになる。 だって彼は、表面上のものに一切惑わされていない。 そうだなあ、私自身も、次の恋では相手にとってそんな存在にな れたらいいな。 与えられるものはまだ何もないけれど、せめて本質を見抜いて、 認めてあげられる人間になれたらいいな。 そうしたら、私にも。 ﹁私にも出来るかなぁ、貧乳のまままでも、素敵な恋⋮⋮﹂ ぽつり零したら、先輩は﹁できるわよ﹂と力強く断言してくれた けれど、私は正直、半信半疑だった。 この日の昼、例の事件が起こるまでは。 *** ﹁アンタ、今、笑ったわね。お客様のこと、馬鹿にしてもいいと思 ってんの!?﹂ ﹁え?﹂ ﹁受付嬢の分際でとぼけるんじゃないわよ! クビにしてやるから ⋮⋮!﹂ その一瞬は、何が起こったのかわからなかった。 激昂したお客様に飛びかかられて、私はカウンターの内側へと仰 316 向けに倒れ込む。 あまりにも突然のことで受け身を取る間もなく、腰と肘を床に強 打してしまった。 え、なんで。どうして私、お客様に攻撃されなきゃならないの。 さっぱりわからない。 わからないまでも、首を絞められては必死で抵抗するしかなかっ た。 ﹁︱︱ッ、お、客さ⋮⋮っ﹂ ﹁未怜!﹂ 樹が涙目で庇ってくれようとする。けれど息苦しさはちっともか わらない。 もがきながら、思った。私、本当に何かした? さっぱり覚えが ないよ。 お客様が声を掛けてくださったから、笑顔で振り向いただけ。そ れだけだったのに。 ﹁や、め⋮⋮っ﹂ と、涙で霞みはじめた視界に、デジャヴのような光景が映り込む。 どこかで見上げたことのある、男性の顔。なぜだか彼は無言のま ま、必死に私のことを助けようとしている。 こんな社員、いたっけ? 誰? 不思議に思った直後、浅い記憶 が蘇った。 ︵あ、そうだ、この人、手話の人。合コンで行ったフランス料理店 の、シェフの人⋮⋮どうしてここに?︶ しかしそれ以上深く考えている余裕はなかった。お客様がより強 い力で、私の襟元を押さえつけてきたからだ。 シェフは焦った様子で女性客を押さえようとする。しかし喉の締 317 め付けはいっこうに緩まず、苦しすぎて幾度か咽せた。眼球の奥が 痛み、あふれた涙がこめかみを伝う。 もう、ダメ。抗えず、私は意識を手放そうとする。これ以上の苦 痛に、耐え切れる気がしなかった。 その瞬間だ。体がふわっと宙に浮いたのは。 途端に肺が膨らんで、私は激しく咳き込んでしまう。大きな腕が ギュッと抱き締めて、なだめてくれる。 あったかい。あったかくて、すごく、安心する⋮⋮。 ﹁⋮⋮ッあ⋮⋮﹂ 助かった⋮⋮? 意識がはっきりしたとき、私の目前にあったのは例のシェフの顔 だった。こちらを見下ろす彼は、険しい表情だ。 大丈夫です、と、か細く言いながら、抱きかかえられていること に気付いて、焦った。 慌てて体を引こうとするけれど、膝が震えていてできない。 ﹁あ、ありがと、ございま⋮⋮っげほっ、ごほ﹂ 彼は咽せ込む私を案じて、会議室までそのまま抱えて行ってくれ た。 さらにその足で女性客の説得に加わってくれたことは、数十分後、 部長と神野先輩たちの会話から、知った。 車上荒らしの事件があったことも、自分が何故あんな目に遭った のかも。 ﹁お客様が激怒しておられるんだよ。被害に気付いて、東口受付に 飛び込んだ瞬間、夏目くんが⋮⋮笑顔で応対したと。人を馬鹿にす るような受付嬢はクビにしろと、事務所のほうに直談判に来られて 318 いる﹂ ﹁馬鹿に⋮⋮って、それはお客様の勘違いでは。声をかけられて笑 顔を向けないスタッフはいませんよ。たったそれだけのことで、ク ビ、ですか﹂ 腑に落ちない様子で、及川課長は眉根をよせる。 ﹁お客様はまだ事務所に?﹂ ﹁ああ。だが、ひとりじゃあない﹂ ﹁ひとりじゃない? 集団で陳情にいらしてるってことですか﹂ ﹁いや、そうじゃなくてな。男性のお客様がひとり、あの女性客を なだめようとして下さってるんだ﹂ 彼だ、と直感的に思った。庇ってくれただけじゃなかったんだ。 どうしてそこまでしてくれるんだろう。わからない。わからない けれど、有難くて、恐れ多いや⋮⋮。 *** ﹁ミレちゃん、あなたはここで待ってて。あとのことは私達が何と かするから﹂ 先輩は去り際、そう言って私の頭を撫でてくれた。部長や課長に 混じって、女性客を説得してくれるとのことだった。 彼女ならベテランだし、お客様の扱いにも慣れているから自分よ りずっとうまく立ち回ってくれるはずだ。 そう思っていたのに、ひとりになるなり不安が込み上げてきて、 気が気ではなくなった。だってクビにだけはなりたくない。この仕 事は天職だもん。 考えれば考えるほど、時間が過ぎれば過ぎるほど、不安は増して 319 いく。 ︵解雇⋮⋮され、ないよね⋮⋮?︶ 脳裏をよぎるのは、私が辞めたあと、この制服をお直しして新た に着る誰かの姿。それから、“単なるお客様”になって一ツ橋を訪 れる自分の姿。 考えただけで胸が破れそうだった。 辞めたくない。まだ、ここで働いていたい。このポジションを、 誰にも譲りたくない。 辞めなくて済むのなら⋮⋮頭を下げて詫びたっていい。 そこまで思い詰めたら、もう冷静さなんて一切保てなかった。い てもたってもいられず、私は衝動的に部屋を飛び出した。 こうして︱︱。 こうして私は開いてしまったのだ。 先輩が、きれいに閉めた、ドアを。 ﹁すみません、私、お客様にもう一度、どうしてもお詫びしたくて ⋮⋮﹂ そういって事務室に入ったとき、場の空気は一気に張りつめた。 加えて、素早く振り返った神野先輩の表情は剣呑そのもの。 自分がいかに愚かな行動に走ってしまったのか、ひとめで気付い た。気付いたときにはしかし、遅かった。 ﹁お詫び、ですって? あのときは大したことも言わなかったくせ に、今更⋮⋮!﹂ 怒鳴りながら私の制服の胸元を掴み、引っ張る力は女性とは思え ないほど強い。肩口の縫い目が、みしっ、と音を立てた。 320 恐らく、売り場での攻防ですでに綻びができていたのだと思う。 そこはあまりにもあっけなく、場違いなほど小気味良い音を立て て、一気に裂けたのだ。 ﹁きゃあっ﹂ ﹁ミレちゃん!﹂ 胸元がはだけて、ブラが露出してしまう。先輩はそんな私を、抱 き寄せて護ってくれた。 ﹁これ以上はおやめください、警備員を呼びますよ!﹂ 及川課長も、そういって素早くお客様を取り押さえてくれる。 自分の愚かさ加減に、ふるえが止まらなかった。 私、なんで来ちゃったんだろう。待ってろって言われてたのに⋮ ⋮。 *** どれだけ、そうして先輩にしがみついていただろう。 突然背中が淡いぬくもりに包まれたから、私はびっくりして体を 硬くした。また怖い目に遭うかもしれないと思って。 ﹁ミレちゃん、大丈夫? って、そちらの方が﹂ しかし、先輩はそんなことを言って、私の斜め後ろを視線で示す。 え? 肩越しに振り返ろうとしたら、体がグレーのジャケットに包まれ ていることに気付いた。あのシェフが着ていたものだ。 そうか、掛けてくれたんだ⋮⋮。 321 ﹁だ、だいじょうぶ、です⋮⋮ありがと、ございます﹂ 有難くて、目頭がジンとする。なんて優しい人なんだろう。 しかし、恐る恐る顔を上げた私はそこに、意外な表情を見た。 シェフはまるで照れているかのようにほんのり頬をあかくして、 私のはだけた胸元から気まずそうに視線を外していたのだ。 意外だった。意外すぎて︱︱思わず、まばたきを忘れて見入って しまった。 自分の素肌をまえに、そんな反応をされたのは生まれて初めての ことだった。 ︻カクメイマーメイド・2へつづく︼ 322 ︻カクメイ マーメイド・1︼side 夏目未怜︵後書き︶ *次回より、また維紗視点に戻ります。以降、未怜視点との交互で 進みます。 323 6、ディスタンス︵a︶ “こんにちは。 こうして手紙を書くのは初めてですね。 戸惑う気持ちもありますが、どうしても伝えたいことがあったので 筆をとりました。 まずは、良かった。復帰なされたのですね。 実は、私も署名に参加させて頂いたのですよ。とはいえ、恩を売り たいわけではありません。 どちらかというと、自分のためです。私は誰のためでもなく私のた めだけに、あなたに戻ってきていただきたかった。 どうしても、もう一度逢いたかった。 もう、いなくなってしまっては嫌ですよ。これからもどうかそこに いてください。 私は、あなたをずっと見ていました。 あなたが好きです。初めてお話させて頂いたときから好きでした。 一度だけでかまいません、営業時間外に逢っていただけませんか。 葦手猶” 帰宅後、彼からの手紙を開封した私は、座卓の前で頭を抱えた。 ﹁⋮⋮ど、うしよう﹂ もしかしなくても、これは恋文、よね。好き、って書いてあるし。 いや、そもそも異性がわざわざ手渡しにきた手紙に、世間話なん て書いてあるわけがない。なのにどうして、簡単に受けとってしま 324 ったのだろう。友人からメールをもらったときと、同じような感覚 でいた自分が恨めしい。 でも、あの瞬間は、差出人の名ばかりが気になって他のことを考 える余裕は一切なかった。 葦手猶︱︱それは、綴くんが以前教えてくれたお兄さんの名前だ ったから。 “あの、弟さんがいらっしゃいますよね。綴くん、ていう。私、実 は彼との結婚を考えていて⋮⋮” なんて台詞が、実は喉まで出かかっていた。それを寸でのところ で呑み込んだのは、彼らの事情が複雑だからだ。 ︵ああ、でも、その判断だけは正しかったな︶ ほんの少しだけ、私は胸を撫で下ろす。 母親であるリサさん同様、私まで綴くんの元に︱︱イギリスに行 く予定だなんて、猶さんが知ったらますますの兄弟仲悪化は避けら れないもの。 ﹁ハア⋮⋮﹂ 綴くんにも口止めしておかなきゃ。まだ、私との結婚のことはお 兄さんには伏せておいて、って。 それで、その間に猶さんにはきちっとお断りする旨を伝えよう。 ああ、でも、綴くんにはどう理由をつけて口止めすればいいの。 お兄さんに告白された、だなんてとても言えないし。 ︵かといって、ずっと隠しておくわけにもいかないのよね⋮⋮︶ だって、例え現時点で双方を上手に騙せたとしたって、家族にな ればいつかは私も身内として猶さんと顔をあわせるときが来る。 自分を振った女が、よりによって弟と結婚したのだと、彼が知る ときは必ず来る。 325 それから綴くんが、お兄さんの気持ちを知ったとしたら、どう思 うか︱︱。 ︵板挟み、ってこういうことをいうのかしら︶ 考えすぎたのか、胃のあたりがチクチク痛む。胃薬、あったっけ ⋮⋮。 せっかく準備した夕飯を食べる気はすっかり失せてしまって、私 は全ての器にラップをかけると、手当り次第に冷蔵庫へつっ込んだ。 冷凍ものと冷蔵ものを、分ける気力もなかった。 *** それから四日の間、私の緊張をよそに、猶さんが一ツ橋にやって くることはなかった。 できることなら一刻も早くごめんなさいと告げたかった。でも、 あの手紙には住所はおろかメールアドレスさえも記されていなかっ たから、私は文字通り待つこと以外できなかったのだ。 そんな状態の中、綴くんと一週間ぶりの電話をするのは、正直ほ んの少しだけ、気が引けた。 ﹃⋮⋮維紗ちゃん、やつれただろ。何かあった?﹄ 画面越しに対面するなり第一声、彼がそう言ってしかめっ面をし たから、私はぎくりとして視線を泳がせた。 ﹁ど、どうしてわかるの﹂ ﹃見くびってもらっちゃ困るよ。僕、君が前髪を三ミリ切ったって 気付く自信があるけど﹄ それはすごい。 実はここ四日、食事が喉を通らず、体重が1キロほど落ちたのよ 326 ね。 そう、1キロ。誤差の範囲内だと思ってたのに。 ﹃体調、悪いの? 風邪でも引いたとか?﹄ ﹁ううん、そんなことは。⋮⋮ええと、最近トラブルとかあったか ら、それかな﹂ なんでもない、と言いたいのはやまやまだったけれど、あえて半 分だけ事実を明かすことにした。他の誰を騙せても、彼だけは騙し 通せる気がしなかった。 ﹃トラブル?﹄ ﹁うん。実は一ツ橋の周辺に車上荒らしが出没してて。被害に遭わ れたお客様が激怒して、ミレちゃんの制服を破っちゃったりとかも したし、散々だったっていうか⋮⋮﹂ 本当は︱︱本当に私を悩ませていたのは、猶さんからの手紙だっ たのだけれど。 ﹃ふうん。お客さんが、ね﹄ 綴くんは僅かに目を細めて、手元の缶ジュースを傾ける。 ﹃日本の接客はへりくだりすぎるからなあ。そりゃ、相手もつけあ がるよ﹄ ﹁やっぱりそう思う!?﹂ 身を乗り出してしまった。だって、私も常々そう思っていたから。 “勤務時間中、人権を放棄してまでお客様に媚びるのがそれなの? それとも、接客業に自分自身のやりがいを求めるのが間違ってる 327 の?” お母さんとも、そんなことを話した記憶がある。この疑問に、答 えはまだ出せていないのだけれど。 ﹃日本の接客がスタンダードだと思ってたら、海外で買い物はでき ないよ﹄ ﹁そうかしら、そんなに?﹂ そうだよ、と言って綴くんは口角を上げる。 ﹃国によっては、スタッフにも対等に接しないと相手にしてもらえ なかったりするし﹄ ﹁対等かあ、その発想はなかったわね﹂ ﹃だろ。というか、日本はサービス業に従事する者にはとくに優し くない国だと思う﹄ ﹁優しくない?﹂ ﹃うん。まず賃金が伴ってない。例えば日本のカフェって、年輩の ウェイターをあまりみないだろ。でも、EUのほうにはたくさんい るんだ。みんな誇りを持って、一か所に長く勤めてる。それでちゃ んと生活できるからね﹄ ﹁へえ! 確かに、日本のカフェの店員って若い女の子が多いわ。 それも、正社員っていうよりバイトの﹂ 目をしばたたいてしまった。綴くん、旅慣れてる上によく分析し てるなあ。 ﹃EUにはそういう、労働者を護る制度がちゃんとあるんだよ。バ スの運転手だって、一定時間走ったら、決められた休憩時間をはさ まないと警察に捕まるし﹄ ﹁警察に? それはちょっと厳しすぎるんじゃ⋮⋮﹂ 328 ﹃まさか、妥当だよ。そういうところ、なあなあにしてるから日本 の景気はいつまでたっても回復しないんだ。本気でどうにかしたい なら、労働者の権利をきちんとするところから始めるべきなんじゃ ないかな﹄ ぽかんとしたまま、私は返答を忘れてしまう。まさか、学生の身 である彼にそれを指摘されるとは思わなかった。 綴くん、やっぱり頭、いいんだな。 外見だけじゃなくて中身も伴っていて、気遣いもできて優しくて ⋮⋮これでモテないわけはないよね。 本当に私で良かったのかしら。なんて、うっかり思考がガーター に落ちそうになって、私は慌てて口を開いた。 ﹁ねえ、そういうのってやっぱり学校でも勉強してるの?﹂ 文学っぽいことを専攻しているという話はチラリと聞いたけれど、 詳しくは知らないのよね。 ﹃⋮⋮別に。なんだっていいだろ﹄ しかし何故だか彼は突然不機嫌そうな顔になり、頬杖をついた。 あれ? ﹁どうしたの。学校で何かあった?﹂ ﹃違うって。⋮⋮もう、デート中に学校学校言うなよ﹄ 後頭部を、わしゃわしゃっと掻くのは苛立ったときの彼の癖だ。 ﹃そりゃ、僕は社会人の君からしたら子供かもしれないけどさ﹄ 329 そうか、そういうことか。悪いかな、と思いつつも少々口元を緩 ませてしまった。 ﹁ごめん、子供扱いしたわけじゃないの﹂ ﹃⋮⋮わかってる。わかってても嫌なんだ。焦るんだよ。君に早く 追いつきたくて。できることなら一日で一年分成長したいくらいだ﹄ 胸がきゅんとして、悶えそうになる。ああもう、どうしてそんな に一途に想ってくれるの? ﹁私、年齢なんて関係なく、綴くんのこと、頼もしく思ってるわよ ?﹂ ﹃ならどうして真っ先に仕事のトラブルのこと、相談してくれなか ったんだよ﹄ ﹁したじゃない﹂ ﹃僕が催促したからだろ﹄ それはそうだけど。 完全に虫の居所が悪くなってしまった彼を前に、私は内心苦笑す る。学校のこと、これからは禁句にしよう。 もう一度ごめんと詫びておこうと思ったら、いじけた口調で付け 加えられた。 ﹃きちんと話せよ。困ったときは、時差なんか気にせず電話しろよ。 ちゃんと頼ってくれよ。僕は維紗ちゃんになら、毎日夜中に叩き起 こされたって文句なんかないんだ﹄ まっすぐに見つめられ、息が止まりそうになる。 ﹁綴くん⋮⋮﹂ 330 彼は最近、少しだけ口調から少年っぽさが抜けた気がする。男ら しくなった、というか。 意識してやっているのか、それとも無意識なのかはわからないけ れど︱︱そのたび私がドキドキしていることには、気付いていない だろうな。 君のために大人になっていくんだ、って言われているみたいなん だもの、こういう変化って。 それを目の当たりにできるのは、年下と付き合った女の特権かし ら。 ﹁うん。ありがと。大好き﹂ カメラを見つめて、そう返した。 こんなとき、テレビ電話はちょっともどかしい。画面を見ている と、視線は決して交わらないから。 相手に合わせようと思ったらカメラを見るしかないし、そうする と、自分は相手の顔が見られないし。 どうやったって、同時には見つめあえないんだもの。 ﹃僕も。世界で一番、君を愛してる﹄ やっぱり、実際に逢って話したいな。今すぐにでも、その腕の中 に飛んでいきたい。 クリスマスまで、なんて、遠すぎるわよ⋮⋮。 331 7、ディスタンス︵b︶ 翌日以降、綴くんはそれまでにも増してマメにメールをくれるよ うになった。 ︱︱困ったことはない? ︱︱ちゃんとご飯は食べた? ︱︱いつでも君を想ってるからね。 自分がどれだけ大事にされているのか、再確認するみたいでメー ルを開くたびニヤけてしまう。もちろん、余計な心配をかけてしま ったなあと申し訳なく思う気持ちもあるのだけれど。 たまには弱音を吐くのも悪くないものだな、なんて。 そうして約一週間かけて私の表情筋がすっかり緩んだ頃だ。 猶さんが、一ツ橋に現れたのは。 ﹁あ⋮⋮い、いらっしゃいませ!﹂ いつかはこんな日が来るとわかっていたはずなのに︱︱だから対 応はいくつも想定していたはずなのに、頭の中が真っ白になって、 咄嗟には挨拶以外、なにもできなかった。 ﹃こんにちは。今、少しお話させてもらってもいいですか﹄ 彼が気遣ってそんなニュアンスのことを言ってくれたから、私は 辛うじて﹃はい﹄と答えた。もちろん手話での会話だ。 ﹃先日は大変でしたね。怖かったでしょう﹄ 332 ﹃いえ、助けていただきましたから﹄ 猶さんは不思議な人だ。 私からみると配慮の行き届いたスマートな人格者でしかないのに、 綴くんの話では激昂してスーツを破ったとか、かたくなに母親の再 婚を認めないとか⋮⋮真逆のイメージなんだもの。 ﹃お渡しした手紙、読んでいただけましたか﹄ ﹃はい。ありがとうございました﹄ いや、ここはごめんなさいと返しておくべきだったかしら。言っ てからちょっと焦ってしまう。 困惑しつつ視線を泳がせていると、ミレちゃんが右隣から横目で チラチラこちらをうかがっていることに気付いた。 気持ちはわかる。本日の猶さんはグレーのクレリックシャツにタ イトなパンツで、舞台俳優のような雰囲気なのだ。 ミレちゃんも会話に混ざってもらったほうがいいかしら。この間 のお礼、言いたいのかもしれないわ。 すると猶さんはにっこり口角を上げて、言った。 ﹃夜、仕事が終わってから逢えませんか。そのときに、返事を聞か せて下さい﹄ え。 唐突な申し出に私は動作を止める。逢う、って、もちろんふたり きりで、よね。 どうしよう。ここで了承してしまったら、余計な期待を持たせて しまうことになる? いや、でも。 ぐるぐる考えて逡巡したものの、私は数秒後、決意を持って頷い た。 333 ふたりきりで会うのは後ろめたいけれど、ゆっくり話ができるの なら、そのほうがいい。 いつまでも隠しておくわけにはいかないんだもの。いい機会だわ、 きちんと向き合わなきゃ。 ﹃では、十八時四十分に東口で待っていていただけますか﹄ こうして私は一日の業務を終えると、駆け足でロッカーへ向かい、 素早く私服に着替えた。 デートを意識したワンピースではなく、イレギュラーな出張に備 えて常備している膝丈スカートとシャツへ、だ。 若干の堅苦しさは否めないけれど、恋人のお兄さんに会うと考え れば、これが一番ふさわしい。 ﹁じゃ、お先に失礼するわね﹂ 同じく早番であがろうとしていたミレちゃんにそう告げて、足早 に社員用通路をゆく。 待ち合わせ場所である東口は立体駐車場の向こうだから、ここか らだと一ツ橋の建物をぐるりと回り込まなければならない。 約束の時間まであと五分だ。急がなきゃ。 そうして、手荷物チェックをする守衛さんの横を抜けたときだっ た。 ﹁︱︱維紗ちゃん﹂ 耳慣れた声がどこからか聞こえて来て、私は眉をひそめる。 気のせい、というより電話かな、と思った。間違えて通話ボタン を押してしまったのだろう、と。だって、こんなところに⋮⋮日本 に今、彼がいるわけはないから。 334 しかし。 ﹁維紗ちゃん、こっちだよ。後ろ﹂ バッグをごそごそし始めた途端そんなふうに呼びかけられ、まさ かと思う。信じがたい気持ちで恐る恐る顔を上げ、それから声のし た方角をかえりみ︱︱ 瞬間、私は両目をひん剥いて二十センチほど飛び退いた。 ﹁ちょっ、なっ、な⋮⋮﹂ なんで。 なんで綴くんがここにいるの!? ﹁君のことが心配でさ。いても立ってもいられなくなって、来ちゃ った﹂ 悪戯っぽい笑みを浮かべ、長身の彼は体をちょっと屈める。間近 に迫ったその髪からは、ふわとシャンプーの香りがした。 五感のうち三つ、耳と目と鼻で確認してしまっては、もう、幻覚 と決めつけることもできなくなる。うそ、嘘、どうして。 家路を急ぐ人混みの中、大胆にもチュッと音を立ててキスを落と され、私は凍り付いた。 ﹁びっくりした?﹂ しないわけがない。 ついでに嬉しくないわけもない。だってずっと逢いたかった。逢 いたくてたまらなかった。クリスマスまで待てない、なんて思った りもした、けれど。 335 けれど、このタイミングは、ちょっと。 ︵ど、どうしよう⋮⋮!︶ 336 ︻カクメイ ︻カクメイ マーメイド・2︼side 夏目未怜 マーメイド︼ side 2、 夏目未怜 破れた制服は、先輩の手によってデパート内の衣類リフォームコ ーナーへ持ち込まれ、その日のうちに修復を終えて戻ってきた。 何事もなかったかのように、もとどおりの形になって。 なのに私は数日経っても、その制服に袖を通す気には、どうして もなれなかった。 なにをしていても上の空で、何にも集中できない。こんなことな ら私自身、制服と一緒に縫ってもらえばよかったと思う。 だって胸のあたり、破れたまま、綻んでいる感じがする⋮⋮。 ﹁大丈夫? 顔色が良くないわよ。先に二番、とる?﹂ ぼんやりしていた私を、神野先輩は毎日気遣ってくれた。栄養ド リンクを買ってきてくれたり、休憩時間を先にしてくれたり、まる でお母さんみたいに。 そのたびに私は﹁ありがとうございます﹂とお礼を言いながら、 本当に言いたい言葉を呑み込んでしまっていた。 ︱︱あの日、彼から受け取っていた封筒、何だったんですか。 337 さらっと尋ねてしまえばいいのに、先輩の答え次第ではものすご く痛い目をみるような気がして、できなかった。 そうして迎えた、三日後の昼のことだ。 先に休憩を終えた私は、先輩と交代しようとカウンターへ通じる 社員通用口のドアを開けた。 そのときだった。正面入り口のすぐ側にたたずむ、彼の姿をみつ けたのは。 ︵あのときのシェフ!︶ いつも通り細身のスーツを身に着けたその人は、ただ真っ直ぐに、 ひとりの女性︱︱神野先輩をみつめている。 いっぽう、複数のお客様への対応に追われる彼女は、彼の存在に はちっとも気付かない。映画やドラマのなかの、最も切ないワンシ ーンを目の当たりにしているみたいで、扉を三十センチほど開いた まま、動けなくなってしまった。 すると、私の視線に気付いたのか、彼がパッとこちらに目線を移 した。目が合って、決まり悪そうな顔で、小さく会釈をされる。 ﹁あ、い、いらっしゃいませ!﹂ 慌ててお辞儀を返した私は、神野先輩に彼の存在を教えようとし たものの、すぐにとどまった。 彼が、かすかにかぶりを振って、立てた人差し指を唇の前に置い たから。 内緒にして欲しい、とでも言いたげに。 細められた涼しげな目には、ひっそりとした淋しさが宿っている ようで、たまらなくなる。 彼がそこから姿を消した後も、思い返しては胸に詰まった。 けれどその理由を、考えるのは怖い気がした。怖くて、できなか った。 338 *** ﹁ミレちゃん、お願いがあるの。一生のお願いなの!﹂ 先輩がそう言って私に縋り付いてきたのは、それから一週間ほど が経過した頃だ。 ただでさえ狭い社員通用口は、早番シフトで仕事を終えたスタッ フ達でごったがいしている。 つい今し方ロッカーを﹁お先に失礼するわね﹂なんて言って颯爽 と出て行った彼女のかわりように、私は驚いて目をぱちくりしてし まった。 ﹁ど、どうしたんですか、神野先輩。目がマジですよ﹂ ﹁マジも何もマジじゃないと思いたいんだけどマジの中のマジなの よ!﹂ なにを言っているのかわからない。 ﹁それにしても珍しいですね、先輩が私に頼みごとなんて﹂ ﹁ごめん、これだけは誰にも迷惑をかけずに自分でなんとかしよう と思ってたのよ、でも、もうどうにもならないっていうか、はちあ わせしないうちに、い、移動、しないと⋮⋮っ﹂ ﹁落ち着いて下さいよ。ひとまず、こっち﹂ 腕を引っ張って、柱の影に移動させる。 ﹁安心してください。いつも助けてくれる先輩の頼みですもん、私 にできることならなんでもしますから﹂ いつもと立場が逆だ。私がポンと肩を叩くと、彼女は涙声で﹁ミ 339 レちゃん⋮⋮﹂と言って抱きついてきた。 ﹁あのね、猶さんのことなの⋮⋮﹂ ﹁ナオさん?﹂ ﹁あ、ええと、葦手猶さん︱︱今日、昼間にいらした、手話でお話 しされる男性のこと、覚えてる?﹂ 覚えてるもなにも、忘れられずにいたところだ。 そうか、あの人、ナオっていうんだ。ナオ⋮⋮直? どんな漢字 を書くんだろう。 ﹁その方とね、実はこのあと、かくかくしかじかで落ち合う予定に なってたの。でも、か、かくかくしかじかで﹂ ﹁⋮⋮ダイハツですか?﹂ ﹁違うわよっ。とにかくのっぴきならない事情で行けなくなっちゃ ったの。だからお願い、猶さんに、日を改めて連絡しますからって 伝えて、メアド聞いて欲しいの!﹂ ﹁え!?﹂ ﹁お願い。私、申し訳ないけど急ぐから、これで。あとで埋め合わ せは必ずするわ、本当にごめん、待ち合わせ場所は東口、今まさに 約束の時間よ。あとはお願いね!﹂ 店内アナウンスで鍛えた滑舌の良さで言い切ると、先輩は素早く 方向転換をし、通路を駆け戻っていった。呼び止める間もなかった。 ︵め、メアドって、私が、あの人に⋮⋮!?︶ 完全にテンパってしまった。どうやって聞けばいい? いや、そ の前に︱︱服装だ。 今日は帰宅するだけだと思っていたから、私は今、カジュアルな ロールアップジーンズをはいている。トップスはお気に入りの水玉 シフォンブラウスだけど、でも。 340 男性とふたりきりで初めて会うのにデニムだなんて、そんなヘマ、 今までやらかしたことはないよ。 あたふたしながら逡巡したものの、私は数秒後、半泣き状態で外 に飛び出した。 格好は気になるけれど、それよりもまず彼を⋮⋮ナオさんを待た せるわけにはいかないと思った。 ﹁あのっ、あ、アシデ、ナオさんですよね?﹂ 息を切らして辿り着いた東口、大きな背中にそう呼びかけたけれ ど振り向く様子はない。 ︵あ、そうだ、耳︶ 私ははっとしてバッグから手帳を取り出すと、そこに用件を書き 込み、彼の前に回り込んだ。 ﹁こ、こんばんは!﹂ なるべく口の開閉を大袈裟にして言ったのは、目で見てわかるよ うに、だ。 と、読み取れたのか、彼が私の手帳を覗き込んだ。瞬間、清潔感 のある匂いが鼻をかすめる。 ︵わ、こんなに近付いたの、レストランでぶつかったとき以来だ︶ 戸惑いながら視線を逸らすと、丸まった背中で、グレーのシャツ の後ろ身ごろがピンと張っているのが目に入った。 しっかりした筋肉がそこにある証拠だ。シェフって皆、こんなに いいカラダ、してるのかな⋮⋮。 なんてことを考えていると、彼は胸ポケットから銀色のボールペ ンを取り出し、私の手帳にさらさらとメールアドレスを書いてくれ た。 それから、にっこり口角を上げ﹃ありがとう﹄と﹃さようなら﹄ 341 を手話で伝えてくれる。先輩の手話講座で教えてもらったばかりの 挨拶だ。 けれど私はそれを、同じように返しはしなかった。さようなら、 とは言えなかった。 だって、彼が、以前と同じように悲しい目をしていたから。目だ けは、笑えていなかったから。 ﹁あの、良かったら、このあと一緒にお食事でもしませんかっ﹂ 思わずその腕を掴んで、言ってしまった。こんな淋しい顔のまま、 帰したくはなかった。 すると彼からの返答は、頷く動作がひとつ。それと、照れたよう なかすかな笑顔も。 なんだか嬉しくなって、その手を衝動的に掴んだ。ちょっとだけ 強引に、ひっぱりながら歩き出す。 ﹁行きましょ。私、美味しいお店ならたくさん知ってるんです!﹂ 神野先輩の身に訪れた﹃のっぴきならない事情﹄に、心から感謝 してしまった。 *** ﹃えっ、猶さんって私と同い年!?﹄ テーブルの中央に置かれた猶さん持参のスケッチブックに、私は 会話を書き入れる。 ﹃意外ですか﹄ ﹃もちろんです! 背も高いし、落ち着いてるし、てっきり年上だ 342 と⋮⋮あっ、でも、老けてるって意味じゃないですよ﹄ そこまで書いて、取り分けた海藻サラダを一気に平らげた。 やってきているのは一ツ橋デパートの裏手にある創作和食レスト ラン。 彼がフランス料理店で働いていることを考慮し、あえて洋食を置 いていない店にしてみたのだけれど。 ﹃じゃあ、同年齢ということで敬語はなしにしよう。で、いいかな ?﹄ 反対側から書かれたその文字に、私は高揚しながらこくこくと二 度頷く。そんなに親しくしてもいいの? 嬉しい! ﹃うん! あ、そうだ、この間猶さんのお店で食べたディナーコー ス、すっごくおいしかった﹄ ﹃えっ、ウチの店? 来てくれてた? いつ?﹄ ⋮⋮覚えてないんだ。ぶつかったのに。 わかった途端、直前までの浮かれた気分が地に着いた気がした。 ううん、でもあの日は合コンだったし、忘れてくれていたほうが 有難いかも。ガツガツした女だと思われたら嫌だし。 ﹃ひみつ。ねえ、コースってその日によってメニューちがう? メ インの煮込み料理、また食べたいんだけどいつ行ってもあるかな﹄ ﹃ああ、仔羊のコンフィ? それなら目玉だから、仕入れさえ滞ら なければランチの時間にも食べられるよ﹄ ﹃ホント!? 絶対行く! あとね、クレームブリュレが絶品だっ たの。表面はカリカリで中はとろっと冷たくて、甘すぎなくて⋮⋮ あれは毎食デザートについてきても飽きないと思う。というか、あ 343 のお店、めちゃくちゃ美味しいのに料金が良心的すぎるよ。チップ 払いたかったもん!﹄ 真剣になってペンを走らせる私の手元を見つめ、彼はおかしそう に喉の奥をならす。そうして、前歯を隠すように口元を押さえて顔 を背けた。 え、あ、笑った⋮⋮! ﹃ごめん。そんなことを言われたのは初めてで﹄ ﹃そんなこと?﹄ ﹃商売しているとわかると﹁割引して﹂ってせがまれるのが常でし ょう﹄ そう、かな。そう言えば私も、社割で化粧品を買っといて、って 友達に頼まれたりするっけ。 ﹃でも、だって本当にそう思ったから⋮⋮。ほら、日本ってチップ の習慣ないでしょ? だからたまにちょっともどかしいの﹄ ﹃へえ、未怜さんはもしや、海外育ち?﹄ 名前を書かれて、かあっと顔が熱くなった。漢字って、書くのに 時間がかかるから余計に心臓に悪い。 ゆっくり呼ばれているみたい。 ﹃うん、と言っても中学から高校までの六年間だけ。父が商社マン だったから、アメリカとかイタリアとか、あちこち移り住んだりし たの﹄ ﹃そうか。大変だったんだね﹄ しんみりしたような彼の表情に、こちらこそ意外だ、と思った。 344 これまでは自分が帰国子女であることを打ち明けると、いいな、 羨ましいな、カッコいいな、なんて言われるのがオチだったのに。 ﹃ちょっとね。でも楽しかったよ。親しい友人はできなかったけど、 妹がいてくれたし﹄ 当たり前のことだけれど、言葉が違うと、どうしても打ち解ける までに時間がかかる。 そして、ようやく本音を言えるようになってきた頃、私は決まっ て新天地へと向かわねばならなかったから。 たくさんの人に囲まれていたし、いつだって誰かに寄り掛かって いたけれど︱︱その実、あの時期を一言で表現するなら﹃孤独﹄そ れ以外にない。 ﹃そう?﹄ ﹃うん。必死になって覚えた言葉、今は仕事にも役立ってるし、プ ラスのほうが大きいから﹄ だから別にかまわないんだけどね。 スケッチブックから視線を上げると、猶さんは少し暗い表情で宙 をみつめていた。 ﹁猶さん?﹂ あれ、私、何かまずいこと言っちゃったかな。 視線の先に回り込んで手を振ってみる。と、彼はハッとして顔を 上げ、取り繕うように笑った。 ﹃ごめん、考え事してて﹄ 345 考えていたのは先輩のこと? なんて、聞けない。怖くて、何故 だか苦しくて。 ﹃カッコ悪いところばかり見せてるね、未怜さんには﹄ ﹃そんなことない!﹄ そんなこと、絶対にない。私はかぶりを振って否定する。猶さん をカッコ悪いなんて思ったこと、一度もない。 あの日︱︱助けてくれた日からずっと彼は私にとっての⋮⋮ヒー ローだ。 事務室でジャケットを肩にかけてもらったとき、どれだけホッと したかしれないのに。 ﹃猶さんがカッコ悪かったら、世界中の男の人、みんなカッコ悪い ことになるよ﹄ ﹃そんなふうに言ってくれるのは未怜さんだけだよ。でも、みっと もないのは自分でちゃんとわかってる﹄ 静かなため息。それを耳にして、私はまた息苦しくなる。 ﹃フラれたらもう未練がましく通ったりしないから。それまで見苦 しいかもしれないけど許して?﹄ え⋮⋮。 ︵フラれる、って︶ 途端、頭の中をいつかの映像がよぎって、身動ぎもできなくなっ てしまった。 もしかして、あの手紙⋮⋮猶さんが先輩に渡した手紙。 ︵ラブレター、だった?︶ じゃあ、猶さんは、先輩のことを︱︱。 346 途端に彼の顔を直視することができなくなってしまって、私はう つむいたままボールペンを握り直しスケッチブックに向かった。 ﹃ねえ、ここ、おススメは食後のデザートなんだよ﹄ 話題をかえたのはわざとらしかったかもしれない。でも、先輩の ように自分の気持ちに蓋をして上手に流すなんて出来なかった。 ﹃和洋織り交ぜた創作スイーツなんだ。片っ端から全部オーダーし よ?﹄ ﹃全部、って五種類もあるよ。食べ切れるのか?﹄ ﹃わからない⋮⋮けど、頑張っちゃう。だって、きっと参考になる と思うの﹄ ﹃参考?﹄ ﹃うん。猶さんのお仕事の参考に。っていうのはおこがましいかな﹄ 筆談で良かった。だって私、今喋ったら声、ふるえる。目を合わ せたら、涙、零してしまう。 ﹃ありがとう。未怜さんは本当に良い子だね﹄ そんなことを言わないで。余計に、惨めになるから。 *** sir?n シレーヌ︶”でシェフの見習いをしていると petite その日、わかったことは数えるほど。 プティット 彼があのフランス料理店︱︱“La e︵ラ いうことや、一ツ橋デパートの近くに住まいがあることなど。 逆に、わからないことのほうがどんどん増殖してしまって、私は 347 困惑した。 ︱︱何故、先輩とふたりで逢う約束をしていたの? ︱︱振られたらもう一ツ橋に来ない、って本気なの? ︱︱私、どうしてこんなに彼のことばかり気にしてしまうの︱︱? ﹁先輩、猶さんのこと⋮⋮どう思ってるんですか﹂ ついに尋ねてしまったのは、猶さんとの食事からわずか半日後。 頼まれていた彼のメールアドレスを手渡したときだった。恐怖もあ ったけれど、もう、限界だった。 ﹁先輩には﹃綴くん﹄がいるんですよね。なのにどうして猶さんと 約束してたんですか。⋮⋮心変わり、したってことですか?﹂ ううん、尋ねるというより責める意味合いの方が強かったかもし れない。先輩は悲しげにかぶりを振り、ちがうわと言った。 ﹁じゃあどうして﹂ ﹁⋮⋮その様子だと、告白されたことはもう知ってるのね﹂ わかっていたはずなのに、ガンッ、と横っ面を殴られたような衝 撃があった。 やっぱり。やっぱり猶さんは、先輩のことを。 ﹁どうするつもりですか⋮⋮?﹂ ﹁断るわ。そうするしかないもの﹂ ﹁断る、って、振っちゃうってことですよね﹂ ﹁ええ。もともと、そのために昨日、ふたりで会うことを了承した のよ﹂ 348 そうだったのか。 当然納得できる返答だし、そうでなきゃいけないと思う。なのに、 何故なの? 強い反発みたいなものを、胸の奥に感じる。 ﹁でも⋮⋮振ったら、猶さんはもう、一ツ橋に来れなくなっちゃい ますよね﹂ ﹁そうね、来づらくはなると思うけど⋮⋮十ヶ月もすれば解消する はずだわ。私が辞めれば、猶さんもこれまで通り︱︱﹂ ﹁じゅ、十ヶ月も⋮⋮!?﹂ 逢えない。想像するだけで、息が止まってしまいそうだった。 ﹁⋮⋮そんなの無理です! 私、わたしっ⋮⋮﹂ ﹁ミレちゃん? どうしたの。言ってることが最初と違⋮⋮﹂ ﹁だって、だって、わたし﹂ 私︱︱。 わけもなく苦しくなるの。あの、淋しそうな目を思い出すと。 どうして? 私、猶さんを想うと怖いくらい心を掻き乱されてし まう。 ﹁先輩、お願いです、もうすこしだけ、待って﹂ ﹁え?﹂ ﹁猶さんを振るの、待ってください⋮⋮!﹂ 口が勝手に蓋を開け、そう言っているみたいだった。自分で自分 を制御できなかった。 ﹁ちょ、ちょっと待ってミレちゃん、そんなこと言われても、私だ って﹂ 349 ﹁お願いします。一週間だけでいいですから。だから﹂ 私に時間をください。 泣きそうになりながらそう懇願する私の前、先輩は重いため息を ひとつ、吐いた。 350 8、リスク︵a︶ ミレちゃんに猶さんのことをお願いし、社員通用口へ駆け戻ると、 笑顔の綴くんが真正面に待ち構えていた。 ﹁お疲れさま。忘れ物は見つかった?﹂ ﹁あ、うん。ま、待たせちゃってごめんね﹂ 忘れ物というのはもちろん嘘だ。ミレちゃんに猶さんのことを頼 みにいくために、咄嗟についた嘘。私は心の中で両手を合わせ懺悔 する。本当にごめんね、綴くん。 ﹁そ、そうだ綴くん、お腹すいてない? よかったらうちでご飯食 べてって。リクエストなら何でもきくから﹂ 平静を装いつつも、さりげなく駅への道を進みはじめたのは一刻 もはやくここから遠ざかるため。 外食なんて危険なことは出来ない。何としても自宅へ戻らなきゃ。 しかし彼は私の腰に腕を回し、上手に方向転換をさせてしまう。 ﹁お腹は減ってるし、維紗ちゃんの部屋に行きたいのはやまやまだ fair lady﹂ けど、それは用事が済んでから﹂ ﹁え﹂ ﹁行こう、My はい!? 声にならない声を発した私を、綴くんは沿道に止まっていた黒塗 りのタクシーへと強引に連れ込む。 351 あれよという間の出来事だった。 タクシーは先につかまえて待たせていたらしく、すでに行き先も 告げてあったようだった。それは乗り込むや否や迷わず大通りへと 向かう。 ︵なに、何が起きてるの︶ 事態が呑み込めず後部座席で固まっていたのは十五分程度だった と思う。 辿り着いたのは六本木だ。ショッピングモールや高級ホテルを含 む複合施設を仰ぎ、私はますます首を傾げる。 買い物? いまから? というか、どうしてわざわざこんな、物 価の高いところに︱︱。 ﹁こっち。予約の時間まで一時間しかない。急いで﹂ ﹁ちょっ、まっ、よ、予約ってなにっ﹂ 質問は無視で、彼は私の手を掴んだままずんずん施設の奥へと進 んで行く。 以前もこんなことがあったな、なんて思っても、感慨とかそんな ものを噛み締めている余裕はなかった。 エレベーターを降りる。そこには三階まで吹き抜けの開放的なフ ロアと、繊細ながら大振りなシャンデリアがあって、焦らずにはい られなかった。 ﹁綴くんっ、こっち、高級ホテルの区域だってば⋮⋮!﹂ ﹁いいんだよ。目的地はここなんだから。あ、母さん!﹂ 恐縮と混乱で腰が引けていた私は、彼の言葉で反射的に背筋を伸 ばした。か、母さんって︱︱。 ﹁維紗さん、お久しぶり!﹂ 352 ﹁リサさん!?﹂ 呼んだ途端に、駆け寄ってきた彼女に力いっぱい抱き締められる。 華奢なのに力強い腕は、母のものによく似ていて、驚いているは ずなのに、ほっとしてしまう。 ﹁リサさん、どうしてここに⋮⋮﹂ ﹁ごめんなさいね。私、どうしてもあなたに直接会って謝りたくて。 それで、綴にくっついて来ちゃったのよ﹂ ﹁謝る、って﹂ ﹁綴の連絡先、あなたが聞きたがっているとき︱︱教えてあげられ なくて本当にごめんなさい﹂ ああ、そのことか。親なら子供の頼みを優先させるのが当然だろ うし、すでに過ぎたこと、気にしてなどいなかったのに。 ﹁⋮⋮なんのことでしたっけ。私、三歩歩くと忘れるタチなので﹂ ﹁維紗さん﹂ ﹁というかもう、こんなきらびやかなところにいると我も忘れそう です﹂ おどけて言って抱き締め返すと、リサさんの肩越しに、綴くんが 笑っているのが見えた。泣き出す一歩手前のような、優しい目で。 *** それですっかり用事が済んだ気になって油断していた私は、リサ さんに手を引かれて客室に連れ込まれ、再び凍り付いた。 ﹁メイクはそのままいけそうねぇ。問題は着替えだけど、私のもの 353 でサイズは合うかしら。数枚用意してあるから、合いそうなやつを 着て﹂ ﹁え、ええ? 着替えって、あの﹂ ﹁ほら急いで、時間がないわ﹂ どういうことですか。問う間も与えられず、洗面所に押し込まれ てしまった。 ひとりきりになったそこは、自宅アパートの寝室より広いうえに 総大理石造りで、磨きたてのダイヤモンドみたいにあちこちがピカ ピカ光っている。 目がくらむとはこのことだ。 しばし茫然としていた私は、数秒後、ふと壁に目を遣って、そこ にかけられた三枚の服に気付いた。 ﹁イブニングドレス⋮⋮?﹂ いや、丈が短いからカクテルドレスと言ったほうが正しいかな。 赤と黒と、それからブルー。どれも控えめな艶があって、無駄な 装飾はないのに凝った作りはこのうえなくエレガントだ。 ︵着替えろ、ってこれに?︶ 躊躇いながらもブルーのそれを真っ先に手に取ったのは、フレア な他二枚と違いシンプルなAラインで、最も大人っぽい印象だった から。 恐る恐る袖を通すと、胸元には美しいドレープができ、普段より 体のラインが綺麗に見える気がした。 ﹁あの、リサさん、これ﹂ その格好で脱衣所を出た途端、﹁まあ、似合うわ!﹂興奮した様 子のリサさんに腕を掴まれる。 354 ﹁良かった、サイズもぴったりね。さ、こっちに座って。シンプル なドレスだから、髪はハーフアップにしましょ﹂ ﹁ちょ、ちょっと待ってください、私、本気で事態が呑み込めない んですけど﹂ 当惑する私を強引にドレッサーの前の椅子に座らせ、彼女は優し く微笑んだ。 ﹁これはこの間のお詫びと、そして一ツ橋デパート受付嬢の先輩と しての助言の一環﹂ ﹁助言⋮⋮?﹂ ﹁ええ。維紗さんが仕事のことで悩んでるみたいだ、って綴から聞 いたわ﹂ え、それってもしかして、この間電話で話した︱︱どこまでへり くだればいいのかっていう、アレ? いつの間にリサさんにまで伝達されていたの? ﹁私も同じようなこと、悩んだ経験があるの。だから、きっと力に なれると思って﹂ ﹁リサさんも、ですか﹂ ﹁ええ。私のときはレイが⋮⋮うちの人がね、こんなふうにドレス コードのある高級ホテルに招待してくれて﹂ そこで彼女がホットカーラーを持つ手を止めたのは、私がびくっ としたからだと思う。 だってドレスコードって。だから着替える必要があったの? そ んな場所、未だかつて足を踏み入れたことなどない。 355 ﹁ど、ど、どうすればっ⋮⋮私、マナーなんて接客する側のことし か﹂ ﹁緊張することは無いわ。綴がうまくエスコートしてくれるはずだ から大丈夫よ﹂ ﹁で、でででも、わたし、庶民の中の庶民ですし﹂ ﹁そうやって、いつまでも同等のものと自分を比べていたらダメ。 うんと上にあるものとの差が、あなたを成長させるのよ﹂ え⋮⋮。 ﹁維紗さんは姿勢が綺麗だし、勘がいいから絶対に大丈夫。堂々と してなさい﹂ 丁寧にチークとルージュを施し、リサさんは私の背中をぽん、と 叩く。見れば、鏡の中にはこれまで見たこともないくらいエレガン トな自分がいた。 ﹁⋮⋮これ、私ですか、うそみたい﹂ 毛先だけゆるく巻かれた髪は、上半分だけ軽く結わえてあって、 そこに小さな薔薇のコサージュが添えられている。 胸と耳で揺れてきらめくスワロフスキーのアクセサリーは、幼い 頃に夢見たお姫様のティアラにも遜色ない。 きれい⋮⋮。 ﹁ふふ。綴が見蕩れて鼻の下を伸ばすさまが想像できるわね。さ、 いってらっしゃい﹂ ﹁えっ、リサさんは﹂ ﹁私の役目はここまで。あとは自分の力で、大事なものを掴んでく るのよ。あ、もちろん楽しむことも忘れずにね﹂ 356 彼女がそう言った直後だ。 ノックの音と共に、﹁維紗ちゃん、準備はいい?﹂扉の向こうか ら、呼ぶ声が聞こえたのは。 ﹁はーい! おまたせ、綴﹂ それまで同様、リサさんはドアをあけるなり強引に私を廊下へ押 し出す。 瞬間、目に飛び込んできたのはハイブランドのプロモーションで 見るような、上品で精悍なイメージの青年だった。 若干余裕のあるダークスーツに、白黒の縞模様のタイ、そして後 頭部へと軽く撫で付けられた髪。 それらは彼のハーフらしいはっきりとした顔かたちと、すらりと した長身を際立たせていて、悲鳴を上げたくなるほど素敵だった。 ﹁最高に綺麗だ。母さんのドレス、よく似合ってる。君は何を着て も似合うね﹂ ﹁そんなこと⋮⋮、綴くんこそ、いつも以上にす、素敵で⋮⋮どこ を見ていいか、わからないわ﹂ 別人みたい。いつものふんわりした綴くんも素敵だけれど、この 研ぎすまされた雰囲気には、心の底まで全部さらわれそう⋮⋮。 ﹁ほら、そこで二人の世界を作っていないで、早く行きなさい﹂ どぎまぎしていると、リサさんに促されてしまった。もう一度お 礼を言って、エレベーターホールへと歩き出す。 ふわふわして、足元が覚束ないのは絨毯が柔らかすぎる所為なの か、彼の腕が腰に回されているからなのか︱︱。 357 とにかくのぼせている状態だったから、移動の間のことはほとん ど覚えていない。 気付けば私は最上階のレストランにいて、窓際の席で彼と向き合 い座っていた。 ﹁びっくりした?﹂ ﹁し、しないわけがないわよ。綴くん、どうしていつも行動が突然 なの?﹂ ﹁突然? そうかなあ。結構のんびりだったよ﹂ 少年っぽく八重歯を覗かせて笑う顔はいつも通りで、ちょっとだ けほっとしてしまう。 ﹁特に、君を想いながら十時間以上も空の上にいるのは拷問だった。 狂うかと思ったよ﹂ 思わず目を逸らしてしまった。また、そうやって恥ずかしげもな く⋮⋮。 そのタイミングですぐ横に前菜を持ったウエイターが立ったから、 モジモジせずにはいられなかった。 ﹁維紗ちゃんは明日も仕事?﹂ ﹁う、うん。でも、遅番だから朝はゆっくりでも大丈夫⋮⋮﹂ ︱︱ってやだ、何を口走ってるの私。こんなの、泊まっていきます って言ってるようなものじゃない。 熱くなった頬を押さえると、その手を取られ、テーブルの上で握 られてしまった。 ﹁そう。じゃあ、遠慮なく連れ込むことにする﹂ 358 囁く淡い声に、顔が上げられなくなる。 ﹁あの、でも、リサさん、は﹂ ﹁別室だから気にしなくていいよ。それに、母さんには母さんの予 定があるみたいだし﹂ ﹁予定?﹂ ﹁うん、僕は詳しく知らないけどね。⋮⋮維紗ちゃん、俯いていな いでちゃんと顔を見せて﹂ 伸びてきた手にあごをクッと持ち上げられ、ますます赤面してし まった。 ﹁や⋮⋮私、今、緊張と照れでぜったい変な顔をしてる﹂ ﹁してないよ。照れた顔も可愛い。世界一可愛い。ずっと、毎日、 逢いたかった﹂ 余裕のない自分が情けない。年上なのに、社会人なのに、学生の 彼に、簡単に振り回されてしまう自分が。 情けなくて、嬉しい。 ﹁私も。私も、ずっと、ずっと逢いたかった。飛んで行きたいって、 思ってた⋮⋮﹂ ああ、もうダメ。感極まって泣きそう。だって、触れてる。私、 本物の綴くんに触れてる。あったかい⋮⋮。 堪えきれず熱くなった目頭をナプキンで押さえると、 ﹁抱き締めてやれないときに泣くな、って何度も言ったのに﹂ 359 呆れたように、けれど優しく、口説くような声色で囁かれてしま った。 ﹁だから放っておけないんだ。維紗ちゃんのこと﹂ 360 9、リスク︵b︶*** 食事は和やかに進んだ。 ﹁うん、やっぱり日本のレストランは何を食べても繊細な味で、ハ ズレがなくていいな﹂ メイン料理であるフォアグラのポアレを口にして、綴くんは満足 そうに頷く。 日本食が繊細? いや、それは国家基準ではなくて、ここが高級 ホテルだからじゃ︱︱とは、心の中でのツッコミだ。 ﹁ホント、美味しい。私、フランス料理ってもっと難解な味のイメ ージがあったわ﹂ ﹁難解かあ、うまいこと言うね﹂ ﹁そうかな。ねえ、綴くんはこういうところ、よく来るの? リサ さんが、綴に任せておけば大丈夫よ、なんて言ってたけど﹂ 実を言うと、マナーは全て綴くんの真似だったりする。わかって いるのか、彼はさりげなく行動でそれを示してくれる。おかげでメ イン料理を前にした今、私は少しリラックスできていた。 ﹁うん、家族の記念日にはよく利用するよ。でも⋮⋮本当に行きた い店には、まだ行けてない﹂ ﹁本当に行きたい店? 遠いの?﹂ ﹁ううん、そうじゃなくて。実はさ、僕の兄さんはフランス料理店 に勤めてる、いわゆるシェフってやつなんだ﹂ ﹁え﹂ 361 猶さんが? いつもスーツで現れるから、てっきりデスクワーク の人だと思っていたのに。 ﹁凄いわ。でも、行けていないってどうして﹂ ﹁何度か、近くまでは行ったんだ。けど、せっかくの兄さんの居場 所、僕が踏み荒らすのは申し訳ないなとか思っちゃって﹂ 門前払いになるかもしれないしさ、と弱々しく笑う顔が哀しい。 ﹁いつか、兄さんの料理を家族みんなで食べられたらいいなって、 夢見てはいるんだけど﹂ ﹁そう⋮⋮﹂ そうなるといいわね、とは軽々しく言えなかった。そうならなか ったときのことを思うと、胸の奥がずんと重くなる。 猶さんの手紙のこと、打ち明けたほうがいいのかな。でも。でも これは、まだ私の問題だし⋮⋮解決する前に相談するのは、対応を 決め兼ねているみたいで駄目だ。 ますます兄弟仲を悪化させるようなことになったらまずい。 ﹁ごめん、こんな話して。維紗ちゃん、暗い顔はしないで﹂ ﹁そんな、謝ることじゃ﹂ 俯きかけていた顔を上げたその瞬間、私は目の前に広がる店内の 様子に何故だかはっとした。 ︵あ、れ⋮⋮?︶ 理由は、はっきりとはわからない。ただ、なんとなく不思議な違 和感を持った。感じるものがあったのだ。 周囲の全てがさりげないというか、媚びていないというか。うま 362 く表現はできないけれど、そんなふうに思えて。 リラックスできるのに、背筋が伸びる雰囲気︱︱とでもいうのか な。 そういえば、これまで綴くんとの談笑の間に、何度か食事が運ば れてきたけれど、ほとんど気にはならなかった。 接客が低姿勢だったということはない。そっけないわけでもない。 なのに、なんだろう、これ。 一ツ橋デパートと、何がちがうの⋮⋮? *** 食事中も移動中も紳士的だった綴くんは、客室に戻った途端、急 いた動作で私の腕を引いた。 ﹁僕が以前言ったこと、覚えてる?﹂ 絡めとるように抱き寄せられ、心臓が跳ねる。間近にあるのは熱 のこもった視線と、色っぽい泣きぼくろだ。頭が痺れて、見つめ返 すことしかできなくなる。 ﹁覚えていないならもう一度言っておく。⋮⋮﹃もう、手加減なん てしてやれない﹄︱︱﹂ 言葉が先か、ベッドへ沈められたのが先かは、わからない。 斜めに唇を甘噛みされ、それから堰を切ったように深いキスを与 えられる。ずっとずっと、欲しかった熱と感触。角度を変えて何度 も繰り返されるそれに、身をよじりながら必死で応えた。 ﹁ん⋮⋮っ﹂ 363 熱い。触れているところだけじゃなくて、体の芯から指の先まで 全てが熱い。 感極まっているのか、緊張しているのか、涙が滲んでくる。両腕 はすっかり感覚が薄くなり、わずかに震えている。それでもどうに か彼の首にしがみつき、背を浮かせた。そこに滑り込んできた掌が、 ドレスのファスナーを強引に下ろす。 ﹁⋮⋮、綴く、ん、ネックレスと、ピアスも外さないと⋮⋮っ﹂ ﹁わかってる﹂ わかってる、と言いながら彼の動作は焦ったそうで、もう待てな いと言われたようで、骨盤の奥が緩く痺れた。 本当は、こちらこそ一秒も待てない。 仕事帰りだし、シャワーを浴びるべきだと冷静な自分が戒めよう とするのに。なのに。 脊髄を支配されているようで、彼を欲する衝動に抗えない。 ﹁維紗ちゃん、⋮⋮僕と結婚したいって、あれ、今更撤回とか許さ ないからな﹂ スーツをぞんざいに脱ぎ捨てながら、綴くんはそう言って真剣な 目をする。子供と大人が同居した、端正な顔立ち。 どちらにもなりきれていない、その危うさがあまりにも愛おしく て、胸につまった。彼の左手をたぐり寄せ、自分の頬に押し当てる。 ﹁撤回なんてできない。こんなに、大事なのに⋮⋮﹂ 目を閉じて、その温かさとそして、この上なく優しい匂いに酔う。 ほんの少しの汗と、整髪料と、彼自身が日々積み重ねた、生活の 香り。 364 いつか、この手と同じものを持ち、同じものに触れ、同じものを 同じように慈しみ、育てる日が︱︱来るのだろうか。 想像しただけで、幸せすぎて心臓が止まってしまいそう。 ﹁結婚して、綴くん。ずっと、一生、私の側にいて﹂ 言った途端、再び荒っぽいキスに口を塞がれた。肩から腕、そし て腰の輪郭を撫でる手が、強すぎて少し痛い。 彼の唇は私の顎と喉を伝って、胸の頂へと到達する。それを吸う 力も前回よりずっとキツくて、思わず下唇を噛んだ。 ﹁⋮⋮ン、⋮⋮っ﹂ 痛いのに痺れる感じがして、本当に痛いのかどうか判別がつかな い。と、耳元で、ビッ、と避妊具の袋を破る音がする。 ﹁力抜いて﹂ ﹁ん、え、⋮⋮っア、ぁああ、っ!﹂ 両足を広げられ、気付いたときには貫かれていた。あまりにも突 然のことで、呼吸を忘れてしまう。 初めてのとき、あれだけ焦らされたのが嘘みたいだ。 ﹁狭⋮⋮、いさちゃ⋮⋮、もっと緩めて﹂ ﹁アっ、あ、あ、ヤ、できな⋮⋮っ﹂ ﹁︱︱っ、じゃあ、このまま奥までいくけど、いいね⋮⋮?﹂ すでに奥まで満たされているのに、さらにグッと最奥を抉られ、 高い声を漏らしてしまう。 内壁が限界まで押し広げられる。異物感より、充足感のほうがず 365 っと強い。引っかかりがなかったといえば嘘になるけれど、痛いわ けでは決してなくて、せり上がってくるのは強い快感だけだ。 ﹁んぁあっ⋮⋮﹂ 前回もこんなに奥まで突かれていた? わからない。わからなく ても、もういい。 ﹁あ、っあ、んあ⋮⋮っ﹂ 綴くん、綴くん。 その名を呼びたいのに、言葉にならない。目尻を涙が伝ってこぼ れる。声を上げて泣いてしまいたいくらい、好き。 ﹁僕が見ていない間に、どんどん綺麗になってくの、勘弁してくれ よ⋮⋮﹂ 腰を浮かされ、ナカを隅々まで容赦なくかき混ぜられる。奥だけ でなく、内壁の半ばにある敏感な部分をぐいぐい擦られ、意識が飛 びそうになった。また、例の﹃怖い感じ﹄が膨れ上がってくる。 ﹁ヤ、あ、ふあっ、あ、嫌、イヤぁ﹂ 嫌、こわい。おかしくなる⋮⋮! 夢中になって彼の首にしがみつくと、ビクン、と内側が強い痙攣 を始めた。あっという間に目の前が真っ白になって、全身から力が 抜けていく。 ﹁⋮⋮っは、ぁ、は⋮⋮﹂ 366 続く快感のなかで震えながら息を吐く私を、彼は動きを止めて愛 おしそうに見下ろしている。それから呼吸が整うのを待って、再び 動き出した。ぐったりとしてしまった体は、彼の動きに反応して勝 手に腰を跳ね上げる。 もう、自分の体じゃないみたい。朦朧としているのに、快感だけ はちっとも鈍くならない。 ﹁好きだよ、維紗ちゃん。何十回抱いても、きっと足りない⋮⋮﹂ その後、私はやっぱりなかなか離してもらえず、真夜中までめち ゃくちゃに翻弄された。 眠りに落ちる寸前、他にはなにもいらないと本気で思った。 綴くん以外、なにも。 367 10、リスク︵c︶** 明くる日の朝、私達は例の総大理石のバスルームの湯船に一緒に 浸かっていた。 ﹁維紗ちゃん、こっちへおいでよ﹂ 澄んだお湯の表面を軽く掻いて、綴くんは手招きをする。 ﹁⋮⋮や、無理﹂ ﹁せっかくこんなに広い湯船なのに、隅っこで丸まってたら勿体な いだろ﹂ そんなことを言われても。 羞恥のあまり両膝を抱え、私は箱の隅に残ったキャラメルみたい になる。だって。 ﹁こ、ここベッドルームより明るいんだもの。絶対幻滅される。私、 三十を超えてからウエストの辺り、すっかり緩んでるし︱︱きゃあ っ﹂ ﹁ゴチャゴチャ言ってないで来いって﹂ 肩を強引に引っ張られ、もがいたものの、あっけなく彼に背を預 ける格好で抱きとめられた。と、脇の下をくぐってきた手が当たり 前のように乳房を掴む。 むにむに、感触を楽しむみたいに揉み込まれて吐息を漏らしてし まう。 368 ﹁あん、やっ、こら、っ﹂ ﹁じっとして。洗ってあげるから﹂ ﹁ど、こが洗っ⋮⋮ッ、ぁんっ!﹂ ﹁ほら、この辺、僕の唾液でぬるぬるしてる﹂ 先端を撫でる、彼の指が肌の上でぬるりと滑る。そうか、これ、 夕べ綴くんが舐めたあと⋮⋮。想像すると、頭の芯が痺れてくる。 そういえば綴くんの舌、すごくいやらしい動き、してた。 くすぐったいのに、すごく、気持ちよかった⋮⋮。 うっかりそのまま身を委ねてしまった私は次の瞬間、ナカにまで 指の侵入を許してしまった。 ﹁⋮⋮あ⋮⋮! ふぁ、⋮⋮っ、ダメ⋮⋮ッ﹂ ﹁でも、ここも洗っておかないと。たくさん舐めたからね﹂ ﹁ひぁ、あ、つ、お湯、あつ、いぃ﹂ ソコの入り口をわざとらしく押し広げて、綴くんは私のナカをお 湯でいっぱいにする。一気に、奥まで、注ぎ込むみたいに。 いや、と首を振って意地悪な手を振り払おうとしたけれどびくと もしなかった。 ﹁や、ヤ、やめてぇ、っ﹂ あつい。同じ温度なのに、ナカだけやけに熱く感じる。 ﹁ん、ん⋮⋮っ﹂ ﹁こうしたほうが奥まで綺麗になるよ?﹂ ﹁ぅ、あン、っ!﹂ 一気に深々と差し込まれる、二本の指。それは跳ねるように動い 369 て、そのたび、熱い液体をソコに出入りさせる。 ﹁アっ、あ、ぁんっ、ならない、綺麗に、なんてならない⋮⋮っ!﹂ ﹁どうして。⋮⋮ああそっか、濡れちゃうんだ﹂ 嬉しそうに笑って唇を奪う無邪気な彼がちょっぴり憎い。太もも を寄せて、その手の動きをやんわりとめた。 ﹁ン⋮⋮、も、ホントにダメ。これ以上弄られると、仕事、行けな くなっちゃう⋮⋮から﹂ ﹁最後までしてからいけばいいだろ⋮⋮﹂ ﹁ダメよ、時間、そんなにないし。するならちゃんと、ゆっくり、 たくさんしてほしい、し﹂ 我ながら大胆なことを言ってしまった。 モジモジしていると、わかった、と綴くんは残念そうに言って、 私の肩に顎をコトリ、乗せた。ナカから、あっけなく抜き取られる 指がほんの少し、寂しい。 ﹁一緒に入るなんて言うから、てっきり朝から誘われてるのかと思 ったのに﹂ ﹁それは、⋮⋮心配だった、から⋮⋮シャワーを浴びてる間に、ま た綴くんが消えちゃったらどうしよう、って﹂ もちろん、杞憂であると信じてはいるけれど。でも、不安感は理 性で消し去れるほど小さくはなくて。 言って俯くと、耳たぶにチュ、とキスをされた。 ﹁ごめん。君がそんなに苦しむなんて予想外だった。反省してる。 もうしないよ﹂ 370 ﹁ううん、私こそ﹂ 私こそ、あのときのことは反省している。 学生である彼に︱︱社会での判断基準がまだあやふやな彼に、出 世が絡んだ生々しい話をするべきじゃなかった。 ﹁今日は遅番だったっけ。迎えに行こうか﹂ ﹁え、う、ううん。私が来るわ。夕飯も休憩時間中に済ませておけ ばスムーズでしょ﹂ 焦ってしまった。綴くんに今、一ツ橋付近へ出没されるのはまず い。 昨日、約束をふいにしたばかりだし、猶さんがやってくる可能性 は高いと思う。はちあわせ、されたら困る。 ﹁うーん、でも僕、今日から別のホテルに移るんだ﹂ ﹁え、どうして﹂ ﹁ここ、母さんがとってくれた君へのプレゼントみたいなものでさ、 僕にはまだ、こんなに高いホテルの連泊代金を自分で支払えるほど の財力はないから﹂ ﹁そっか⋮⋮そうよね。リサさんにはあとできちんとお礼をしなき ゃ。あ、じゃあ今日から泊まるホテルの住所、教えて? 訪ねてい くから﹂ 首だけでちょっと振り返ると、今度はこめかみに唇を押し当てら れた。朝からキス、何回しただろう。数えきれない。 ﹁それなら僕が行ったほうが絶対に早いって。夕飯も一緒に食べて、 デートして、維紗ちゃんちにも寄りたいし﹂ 371 それとも何か都合の悪いことでもあるの? と尋ねられたら半笑 いでごまかすしかなかった。ええありますとも。 ﹁あ、じゃ、じゃあ、先にうちで待ってて、っていうのはダメ?﹂ ﹁うち、って維紗ちゃんち?﹂ ﹁そう。鍵、渡しておくから上がっててもらえないかな﹂ 駄目かな。ちらと横目で窺うと、彼は瞳を輝かせて私を見つめ返 した。 ﹁それ、いいね! なら僕に夕飯の支度をさせてよ﹂ ﹁ホント? いいの?﹂ ﹁うん。だって新婚さんみたいじゃないか﹂ 興奮して頬を紅潮させる綴くんに、再び脳内で懺悔。ごめんね、 嘘をついて本当にごめんね。 今日こそはっきりさせるから。きちんと猶さんとのことにけじめ を付けてくるから。そうしたら全て打ち明けるから、許してね。 *** しかし︱︱。 こうして決意を新たに出勤した私を、待ち構えていたのは新たな 波乱だった。 ﹁先輩、猶さんのこと⋮⋮どう思ってるんですか﹂ 尋ねたのは、同じく遅番で出勤してきたミレちゃんだ。その手は 遠慮がちに、例の猶さんのメールアドレスを差し出している。 372 ﹁先輩には﹃綴くん﹄がいるんですよね。なのにどうして猶さんと 約束してたんですか。⋮⋮心変わり、したってことですか?﹂ ﹁ちがうわ﹂ 困惑しつつかぶりを振った。どういうことだろう。また、前回の ようにフミさんを心配しているとか? ﹁じゃあどうして﹂ でも、それにしては暗い顔。もしかして猶さんと、何か話したの だろうか。 ﹁⋮⋮その様子だと、告白されたことはもう知ってるのね﹂ ﹁どうするつもりですか⋮⋮?﹂ ﹁断るわ。そうするしかないもの﹂ ﹁断る、って、振っちゃうってことですよね﹂ ﹁ええ。もともと、そのために昨日、ふたりで会うことを了承した のよ﹂ 探り探り、こちらの状況を明かした。この様子だと、綴くんと猶 さんが兄弟であることはまだ知らない⋮⋮わね。 しかし、ミレちゃんの表情には、みるみる影がさしていく。 ﹁でも⋮⋮振ったら、猶さんはもう、一ツ橋に来れなくなっちゃい ますよね﹂ ﹁そうね、来づらくはなると思うけど⋮⋮十ヶ月もすれば解消する はずだわ。私が辞めれば、猶さんもこれまで通り︱︱﹂ ﹁じゅ、十ヶ月も⋮⋮!?﹂ 取り乱した態度からは、彼女がすっかり猶さんに感情移入してい 373 ることがうかがえる。 ﹁⋮⋮そんなの無理です! 私、わたしっ⋮⋮﹂ ﹁ミレちゃん? どうしたの。言ってることが最初と違⋮⋮﹂ ﹁だって、だって、わたし﹂ 本当にどうしちゃったの。一体、夕べ、何があったの。 ﹁先輩、お願いです、もうすこしだけ、待って﹂ ﹁え?﹂ ﹁猶さんを振るの、待ってください⋮⋮!﹂ 突然の申し出に、私は青ざめる。 ﹁ちょ、ちょっと待ってミレちゃん、そんなこと言われても、私だ って﹂ 私にだって都合がある。 綴くんが国外にいるときならまだしも、今は日本にいるのだ。そ のうえ、ここからほど近い場所に滞在している。 断ってからならまだしも、あやふやにしたまま放置して、彼に勘 付かれるようなことがあったら︱︱。 逆の立場だとしたら、私はきっとすごく傷つく。自分がいるのに、 どうして迷ったの、って。 ﹁お願いします。一週間だけでいいですから。だから、私に時間を ください﹂ しかしそう言って、ミレちゃんは私の手を掴んだ。両目には、溢 れんばかりの涙が浮かんでいる。 374 ふいに、例の事件のときの光景が、脳裏に蘇ってそこに重なる。 彼女が猶さんに向けていた、羨望のような眼差しが。 ︵もしかしてミレちゃん、猶さんのこと⋮⋮︶ いかに恋愛オンチの私と言えど、勘付かないわけがなかった。 喉元まで出かかった反論を、呑み込まざるを得なくなる。愛しい 人と突如、予期せず離ればなれになる辛さを、私は、知っているか ら。 ﹁わかったわ。でも、一週間は長過ぎる。せめて⋮⋮二日間だけに して﹂ ﹁二日!? 短すぎます。その間に、猶さんが訪ねて来なかったり したら、私﹂ ﹁それは一週間だろうか一日だろうが二日だろうが、同じく言える ことでしょう﹂ 言って、その手にメモ紙を返した。受け取ったばかりの、猶さん のメールアドレスだ。これで連絡をとりなさい、という意味だった。 二日、だなんて酷なことを言っていると思う。でも、綴くんの滞 在期間だってあと四日間しかない。半分で、ギリギリの譲歩だ。 その間に、最悪の事態がおこりませんように。祈るような気持ち で、私はロッカーを後にしたのだった。 375 ︻カクメイ ︻カクメイ マーメイド・3︼side 夏目未怜 マーメイド︼ side 3、 夏目未怜 タイムリミットは、あと二日。時間に換算すると、たったの四十 二時間ぽっち。某洋モノのドラマのようにカウントダウンをするま でもない、わずかな時間。 手の中に残されたメモ用紙︱︱猶さんのメールアドレスを握りし めたまま、私は売り場へと向かう。足取りは、当然重い。 これは先輩のために貰ったものだ。だから私が勝手に使っていい ものじゃあない。そう思って、写しを残さずにいたのに⋮⋮どうし て返して寄越したんですか、先輩。 ﹁おはようございます﹂ こうして社員通用口の扉を開いた途端、私はいつかと同じように ビクリと体を硬くした。踏み出すことも、後ずさることもできなか った。目の前、二メートルほど先に神野先輩と猶さんの姿があった から。 ︵来てたんだ、猶さん︶ なにやら楽しげに手話で語り合うふたりを、直視できずに顔を伏 せる。 376 ﹁あ、おはよう夏目さん﹂ と、そこにやってきたのは段ボールを抱えたもうひとりの先輩︱ ︱浅葱先輩だった。 ﹁今日はこれのチェックね。三時には課長が警察署に持っていくら しいから、急いで﹂ ﹁は、はいっ﹂ 箱の中身はというと、お客様の落とし物、いわゆる拾得物だ。こ れを書き出して一覧表にしておくのも、私達の仕事だったりする。 やることがあるのは有難い。集中していれば嫌なことは忘れてい られる。すばやく彼らと距離を置き、隅の小さなデスクに向かう。 ﹁神野先輩、ほんっとに罪な人よね﹂ するとバインダーを取り出したところで浅葱先輩がこそっと言っ た。 ﹁ああやって手話をしてると、動作が丁寧なせいか、すごくきれい なんだもの。とてつもない劣等感を覚えるわ﹂ 確かに。私は口元だけで笑い返した。 ﹁⋮⋮そうですね。自分の無力、痛感しちゃいます﹂ 背後で響く、手を打ち付ける音は、まるでふたりが笑いあう声の よう。 用紙に必要事項を記入しながら、私、人魚姫みたいだ、と思った。 だって、今、まるで声を無くした気分。 377 会いたくて、会っていたくて必死になって、期限付きで猶予を手 に入れたはずだったのに、こんな疎外感を味わう羽目になるなんて ⋮⋮予想もしていなかった。 ﹁そういえば夏目さん、この間のお客様の話、聞いた?﹂ ﹁どのお客様ですか?﹂ ﹁あなたに飛びかかってきた例の女性のこと。なにやら自宅のほう も、空き巣の被害にあったとかって﹂ 浅葱先輩がそこまで言ったときだった。私の顔とバインダーの間 に、大きな掌がにゅっと現れたのは。 何事かと面をあげれば、目の前に立っているのは︱︱笑顔の猶さ ん。 ﹁え、な、なんで⋮⋮﹂ 神野先輩と話していたはずじゃ。戸惑う私に、彼は封筒を差し出 してくる。以前、先輩に手渡されたものと全く同じ封筒だ。 何? なに、これ? もたつく私に、彼は、開けて、と促すような動作をする。 恐る恐る受け取って開くと、中から出てきたのは、二枚の便せん だった。 ﹃昨夜はありがとう。何か失礼はなかった? とても良いレストラ ンに案内してもらえて、本当に助かったよ。実は、新しいメニュー を考えて来いと、店長にずっと言われていて。でも、ようやく良い アイデアが浮かびそうです。未怜さんのお陰です﹄ やっぱりいい人だな、猶さん。文面から人柄が伝わってくる。 378 ﹃そこで、未怜さんにはそのメニューの試食を、厚かましくもお願 いしたいと考えていて⋮⋮。急だけど、今晩、時間をもらえません か﹄ ﹁え⋮⋮っ﹂ 声が漏れてしまった。だって、今晩、って。先輩じゃなくて、ど うして私? わたわたしながら二枚目を捲ると、そこには、丁寧な解説入りの 地図が描かれていた。 一ツ橋デパートから、猶さんの自宅への。 *** 浮き足立っていたせいか、時間が経過するのはあっという間だっ た。 閉店作業を済ませ社員通用口を出たときには、当たり前だけれど 周囲は暗闇。セピア色の空にぽっかり浮かんだ月は、ビルの角に三 分の一だけ切り取られ、サーブ途中のレモンケーキみたいになって いる。 だいぶ日が短くなったなあ。半袖ワンピースにしたことを後悔し つつ、肩をすくめて地図を広げた。 ﹁えーと、最初の信号を左折、っと﹂ やがて見えてきたのは、街灯に照らされた白い壁の洋風二階建て 住宅だ。オレンジ色の瓦が、昭和三十年代くらいの程よいレトロさ を醸し出していて、かわいい。 チャイムを押すと、音が鳴った気配はなかったものの、すぐに猶 さんが姿を現した。 379 ﹁あ、あのっ、こんばんは、︱︱これっ﹂ 持参したフラワーアレンジメントを差し出しつつ、卒倒しそうに なる。 だって、Vネックの黒いTシャツに細身のブラックデニムだなん て、こんなにラフな服装は初めて見る。 腰から下には長いサロンエプロンを巻いているのだけど、それが また︱︱痺れるほどカッコいいのだ。 すると猶さんはにっこり笑って、ありがとう、あがって、と独特 の滑舌で言った。 ﹁あ⋮⋮は、はいっ﹂ 喋るんだ。猶さんの声、初めて聞いちゃった。 外見に似合わずぶっきらぼうで、低くて、⋮⋮あまり聞き取りや すいとはいえないけれど、でも。 でも︱︱驚くほど甘い、気がした。そう感じる自分に、何より驚 いた。 ﹁うわあ、美味しそう!﹂ 広々とした八畳のダイニングキッチン、食卓にはすでに所狭しと お皿が並んでいる。 どれも盛りつけまでしっかり凝っていて、彩りもきれいで、見渡 してうっとりしてしまう。 ﹁あの⋮⋮﹂ けれど私はそこに必要なものが欠けている気がして、ちょこっと 首を傾げる。 380 ﹁あの、ご家族は﹂ 一応、和菓子も買ってきたんだけど、ご在宅じゃない、のかな。 すると彼は私に着席を促し、向かい合って座ってからメモ帳にさ らさらとペンを走らせた。 ﹃家族は祖母がひとり。ちなみにもう寝ました︵笑︶﹄ ﹁え⋮⋮﹂ 括弧笑い、なんて付け足さないで欲しかった。とてもじゃないけ れど、私には笑えない。 猶さん、おばあさんと二人暮らしなの? ご両親は? ご兄弟は ? ⋮⋮いない、の? ﹃とりあえず、お好きなものからどうぞ。メニューならお皿の横に 添えておいたから、嫌いなものがあったら言って﹄ ﹁う、うん。ありがと、いただきます﹂ 食事を始めてからも、妙な静寂が耳について、気になってたまら なかった。 ﹃お仕事、いつもお疲れさま。立ち仕事は疲れるでしょう﹄ けれど彼はそう言って、私のほうを気遣ってくれる。 ﹃ううん、楽しいから全然平気なの。猶さんこそシェフのお仕事、 体力使うでしょ? 肩幅とかすっごくしっかりしてるし、最初、ス ポーツでもしてる人かと思った﹄ ﹃スポーツ、はしてないけど、日々鍛えてはいるかな。腕力くらい 381 は人より持ってないと、自分、﹄ こんなだから、と書いて耳を指差す動作に、戸惑う。 猶さんは気付いていないんだ。それで、私がどれだけ劣等感を覚 えるのか。 先輩と自分を比べて、どれだけ無力を痛感するか。 ﹃あ、これ、すごく美味しい。コンソメゼリーもきれいで、私、こ ういうの好き﹄ 料理をぱくぱく頬張って、溢れそうになる気持ちに必死で蓋をし た。ダメ、駄目。でも、私︱︱。 ﹃ありがとう。未怜さんは肉料理が好きだね﹄ ﹃バレた? 私、野菜より断然お肉派なの﹄ ﹃そう。最近は女性客も、肉料理を注文する方が増えたって店長が 言ってたよ﹄ 今だけは、先輩のことを考えないで。想わないで。私のことを、 見て。うっかりそう言ってしまいそうになる。 ︵どうしてこんなに不安定な気持ちになるの⋮⋮︶ すると突然、リビングのドアが開いた。ガチャリ、音と共に初老 の︱︱私にはそう見えた︱︱寝間着姿の女性がそこに姿を現す。 ﹁あ、こ、こんばんは、お邪魔しています!﹂ 猶さんのおばあさんに違いない。即座に席を立ってお辞儀をした。 もしかして起こしちゃった? ﹁すみません、騒がしかったですよね。遅くにお邪魔してしまって、 382 私⋮⋮早めに帰りますので﹂ どうぞお休み下さい、と言おうとした私の手に、おばあさんは何 故だかふわりと大判のタオルを乗せる。バスタオルだ。 ﹁猶がこんな時間に女の子を連れてくるなんて⋮⋮何年ぶりだろう ねえ、まあ、それにしても可愛らしい、礼儀正しいお嬢さんで﹂ ﹁え、あの、これ﹂ ﹁お風呂は廊下の突き当たりを左だから。どうぞごゆっくりしてい ってくださいねえ﹂ お、お風呂、って。顔がかあっと熱くなる。しかし、反論したの は猶さんのほうが先だ。 うろたえた顔で私を指差した後、両手をせわしなく動かし、おば あさんに訴えているのは︱︱恐らく、この子は恋人じゃない、とか そんなところ。 そんなに力強く否定しなくてもいいのに。 ﹁照れることないよ、猶。お嬢さん、猶のこと、末永くよろしくお 願いします﹂ しかしおばあさんは猶さんの訴えなど意に介さずといった体で、 笑顔で部屋を出て行ってしまう。 どうしよう、気まずくて、目も合わせられない。 バスタオルが⋮⋮重い。 ﹃ごめん、気にしないで。と、言っても無理かもしれないけど﹄ 猶さんの字が、どことなく乱れているのが緊張に拍車をかける。 けれど、 383 ﹃非常識⋮⋮だったね。こんな時間に女の子を家に上げるなんて。 すっかり料理のことしか頭になくて。もう二度とこんなことは﹄ しない、と書かれそうだったから、バスタオルを置き、椅子に腰 を下ろしてボールペンを掴んだ。 ﹃私が来たくて来たんだよ。招待してもらえて、本当に嬉しかった。 だから、これからも呼んでもらえるなら、いつだって来るよ。夜だ って、夜中だって﹄ ﹃いや、でも、私も一応男なので﹄ ﹃知ってる﹄ 知ってるよ。猶さんの男らしいところなら、沢山。きっと先輩よ り、私のほうがずっと知ってる。 ﹃だったらやめたほうが。未怜さん、彼氏に誤解でもされたらまず いでしょう﹄ ﹁彼氏なんていない!﹂ 文字にする余裕がなくて、無我夢中で叫んだ。 ﹁いないもん。猶さん以上に素敵だって思える人、他にいないもん っ!﹂ 叫んでから︱︱気付いた。 ﹁⋮⋮っあ⋮⋮﹂ 私ってば、なんてこと。両手で口に蓋をするも、すでに零れてし 384 まった言葉は戻ってこない。 いや、でも、唇の動きを読まれてさえいなければきっと大丈夫、 な、はず。 目線を泳がせながらうかがうと、いつか、事務室で目にしたのと 同じ、ほんのり上気した彼の顔がそこにあった。大いに狼狽してい る⋮⋮ようだった。 ︵通じてた、かも⋮⋮︶ 背中に冷や汗を感じながら、その後は無言で料理を平らげた。何 を言っても、言い訳にしかならない気がした。 *** それから、お言葉に甘えてお風呂に入ったり︱︱はもちろんして いない。 お礼代わりに食器を洗って片付けて、失礼させていただくことに したのは二十一時過ぎ。 玄関でさようならと言ったのに、猶さんは当たり前のように着い てきて車道側を歩いてくれる。 住宅街にぽつりぽつりとともる街灯は、足元に困らない程度に明 るいだけだ。何度か彼に話しかけたけれど、唇の動きが読みにくい のか、毎回聞き直されてしまった。 ﹁ごちそうさまでした。どれも、本当に美味しかった﹂ 駅についてから改めて頭を下げた私に、彼は紙袋を差し出してく る。中身はケーキ箱だ。いつの間に。 あれだけごちそうになった上におみやげなんてもらえない。慌て て断ろうとしたけれど、強引に持ち手を握らされてしまった。 見送られて、手を振って、改札をくぐる。 名残惜しくて、数歩行ったところで振り返った。しかし彼はもう、 385 背を向けて歩き出していた。 人混みと暗闇が、相乗してその姿を消して行く。 胸が締め付けられるような思いで、しばらくそこに立ち尽くして いた。だから電車に乗り込んだのは、そうして無為に数本をやりす ごしたあと。 シートに座り、膝の上に紙袋を乗せたら、ほんのり甘いバニラの 匂いがした。猶さんの、残り香みたいに。 そっと箱の蓋をずらしてみると、陶器の器がちらと見えた。 ︵クレームブリュレだ⋮⋮︶ 昨日、私が美味しいと絶賛したもの。それも、家族分、四つ。 思わず唇を押さえた。喉の奥がぐっと狭くなって、視界がみるみ る歪んでしまう。 伝わっていたんだ、と思った。 夕べ、私が話したこと、全部。 伝えたくて伝えきれなくて、もどかしさとばかり同居していた昔 を︱︱何故だか、思い出してしまう。 “そうか。大変だったんだね” ああ、違う。言葉にしていないこともだ。彼だけがわかってくれ た。汲んでくれた。そんなことが今更、沁みるように嬉しかった。 大変? それはあなたのほうだったはずでしょう。 ﹁⋮⋮っ、ぅ⋮⋮﹂ 人目を気にする余裕もなくて、私は降車駅に着くまで声を上げて 386 わんわん泣いた。 小さくなって人混みに掻き消されてしまった背中を、瞼の裏に何 度蘇らせたかわからない。 そのたび、引き返したい衝動に駆られた。かけらのようなそれで も、痛いくらい恋しいと思った。 私⋮⋮私、好きなんだ。 猶さんのことが、好き。 神野先輩に敵うはずがないとわかってはいるけれど、それでも︱ ︱好き。 *** 自宅に辿り着くと、家族に泣き顔を見られないようにこそこそと クレームブリュレを冷蔵庫に仕舞い、部屋に飛び込んだ。 メイクも落とさずに、携帯電話だけを握りしめてベッドに潜る。 そこで、無心になって猶さんへのメールを打った。打たずにはい られなかった。 内容は、ごちそうになった料理一品ずつへの感想だ。何でもいい から、少しでもいいから、彼の努力を汲んであげたいと思った。猶 さんが、私にそうしてくれたように。 そして、できることなら笑っていて欲しい。先輩に振られること になっても、もう、一ツ橋には来てくれなくなっても。 彼には笑顔でいて欲しい。そのために私は、なにができるだろう。 考えながら、思い切って送信ボタンを押した。 返信が届いたのは、三時間も後になってからだ。記されていたの は“ありがとう”と、そして意味深な言葉。 387 “未怜さんといると、平常心が保てなくて困ります” どういうこと? すぐに聞き返したけれど、おやすみの一言では ぐらかされてしまった。 *** 翌日の正面受付は、早番が私と神野先輩、そして遅番が浅葱先輩 というフルメンバーでのシフト。 対して東口は欠員が一名出て人手が足りないらしく、私は例のご とく、ヘルプ要員として駆り出されることになった。 ﹁未怜ーっ、久しぶり!﹂ 数日ぶりに顔を合わせた樹は、いつになく上機嫌だ。 聞けば、例の合コンで知り合った弁護士の男性と昨日から付き合 い始めたとのこと。あまりのノロケぶりに、少々悔しくなる。 ﹁おめでと。ゴールイン、あるといいね﹂ ﹁ありがと。あたしもそれを切に願ってる。で、未怜のほうは? あのときの男とは連絡とってんの?﹂ ﹁私? ううん、私は特に⋮⋮あ、でも、好きな人はできたよ﹂ 周囲にお客様はいないけれど、売り場ゆえに声をひそめて答える。 ﹁いつの間に。どこで出会った人よ?﹂ ﹁ええと、この間私がここでお客様に襲われかけたとき、助けてく れた人なんだけど、覚えてる?﹂ ﹁もちろん! 見るからに未怜好みのオトコだったし。え、でもあ 388 の人、耳が聞こえないんじゃないの? 大丈夫なの?﹂ ムッとしてしまった。大丈夫、って⋮⋮ちょっと嫌な聞きかただ と思う。 ﹁べつに。猶さんは猶さんの言葉、ちゃんと伝えてくれるし、私の 言いたいこともわかってくれるもん﹂ ﹁怒るなって。まあ確かに、言葉が通じるイコール意思疎通が可能、 ってわけじゃないけどさあ﹂ 樹はいまいち納得のいかない顔で後れ毛を弄る。納得がいかない のはこっちだ。 ﹁そういえばさ、その︱︱未怜に飛びかかったお客さまのことだけ どさ、後日談、聞いた?﹂ ﹁あ、うん、一応。自宅も空き巣に入られたとかって﹂ ﹁そうそう。車上荒らしと同一犯のセンで調べが進んでるみたい。 個人的には、それでヘンに逆恨みされなきゃいいなってちょっと心 配﹂ ﹁逆恨みって﹂ ﹁あのお客様が最初に車上狙いの被害に遭ったのって一ツ橋でしょ。 “一ツ橋さえしっかりしててくれれば”って恨みに思うかもしれな いじゃん﹂ ﹁ああ、うん﹂ そういうことか。確かに、あの人ならありうる。もう一度くらい、 怒鳴り込まれるかも。気をつけなきゃ。 ﹁それにしても⋮⋮変だよね﹂ ﹁何が﹂ 389 ﹁同一犯だとしたら、普通、一度荒らした車をもう一度荒らすかな﹂ これは私の、かねてからの疑問だった。神野先輩の受け売りでも あるけれど。 ﹁そう? 恋人から貰ったアクセサリーだっけ、そういう高価なも のが初回に収穫できたから、味を占めて二度目も狙ったんじゃない の﹂ ﹁だから変なんだよ。樹なら、車上荒らしにあったばかりで、また 高価なものを車の中に乗せておける?﹂ ﹁⋮⋮それは﹂ 無理だわ、と樹が言って訝しげな顔を見せたとき、外からサイレ ンが聞こえてきた。正午を告げる音だ。 樹は朝から晩までの通しシフトだけれど、私は早番なので先に二 番をとらせてもらうことにした。 スタッフでにぎわう休憩室、母手製のお弁当を広げたところで携 帯電話がブルブル震える。 ﹁あ⋮⋮!﹂ メールだ。猶さんからの。 “昨日はありがとう。もらった感想を参考にして作り直した料理、 朝方に店長に試食してもらったんだ。そうしたら来週からメニュー に加えるって” うそ、すごい! “おめでとう!! すっごく嬉しい。始まったら絶対に食べに行く 390 ね!” “未怜さんのおかげです。本当にありがとう。店長には、独立も近 いなって言ってもらえて⋮⋮自分の店を出すのは長年の夢だから、 信じられないくらい嬉しいよ” “独立なんて素敵。猶さんなら絶対、絶対できるよ。私、一番のお 客さんになるね。予約っ” “もちろん、未怜さんにはこちらからお願いして来て頂かないと” 文字だけを見ていても、彼の舞い上がっている様子が伝わってく る。私まで嬉しい。すると、 ﹁ミレちゃん、前、いいかな﹂ 社食のトレーを手にした先輩が、テーブルを挟んだ向こう側に立 った。 ﹁あ、は、はいっ﹂ 返事をして携帯電話を閉じる。売り場以外では、会いたかったよ うな、会いたくなかったような、複雑な気分だった。 391 11、ホープ︵a︶ ﹁猶さんのメールアドレス、受け取ってもいいかな。できれば今日、 退社後にでも訪ねていって、きちんと話をしたいと思ってるんだけ ど﹂ そう切り出すと、ミレちゃんは泣き出しそうな顔で黒目を泳がせ 俯いた。 昼の休憩時間を迎えたばかりの休憩室はまだひとけもまばらだ。 併設の社員食堂には、徐々に列が出来はじめているけれど。 ﹁今日、ですか? どうしても⋮⋮?﹂ ﹁昨日とあわせて二日、というには短いかもしれないけど、待った つもりよ﹂ ﹁あ、あの、明日にしてもらうわけにはいきませんか。猶さん、さ っき凄くいいことがあって、だから今日のところは﹂ ﹁ごめんね。申し訳ないけど、私にもこれ以上待てない事情がある のよ。本当に、ごめんなさい﹂ 断腸の思いでそう言った。ミレちゃんの気持ちはわかる、でも︱ ︱。 夕べ、仕事を終えて部屋に帰った私は、約束通り綴くんと彼手製 の夕食にあたたかく迎えられた。 彼は終始笑顔で私の体を気遣い、お風呂の準備までしてくれたし、 さりげなく英会話の練習にも付き合ってくれた。 そのたびに、後ろめたさが募った。ひとつ優しくされるたび、ひ とつ冷たいものを背負わされていくようで苦しくて。 今朝も﹃頑張れ﹄と激励し私を送り出してくれた、あの素直さを 392 思うと⋮⋮もう、我慢の限界だった。 ﹁わかり、ました⋮⋮﹂ か細い声で言って、メモを差し出すミレちゃんの手は震えている。 できることなら待ってあげたい、けれど。 ﹁ありがとう、ごめんね。辛い役どころにさせちゃったわね﹂ いえ、と彼女は口角だけを上げる。 ﹁⋮⋮私も最初はまさか、好きになっちゃうなんて思ってもみなか ったですし﹂ やっぱり好きなんだ、猶さんのこと。 ﹁馬鹿だなあって自覚はしてます。手話なんてほとんどわからない し、先輩に敵うはずがないのに﹂ ﹁ミレちゃん⋮⋮﹂ ﹁でも、それでも好きなんです。ただ、好きなんです﹂ 耳のことはどう思っているのか、尋ねようとしたけれど、やめた。 好きになるだけなら、そこはさほど問題にはならない。 ﹁せめて⋮⋮失恋したときくらいはせめて、力になれたらって思い ます。けど、その方法も、カラオケとかパーティーとか、猶さんの 迷惑になりそうなことくらいしか思いつかなくて﹂ 手付けずのお弁当に、ぽたりと大粒の涙が落ちる。ふと見れば、 ミレちゃんは静かに泣いていた。悲痛、というよりはどこか焦燥の 393 滲む表情で。 ﹁私、ずっと甘えてばっかりだったから。見たくないものは見なき ゃいいやって⋮⋮忘れていればいいやって﹂ ﹁そんなことないわ。ミレちゃん、何にでも一生懸命で、私そうい うところ、すごく好きよ﹂ ﹁ありがとうございます⋮⋮でも、でも、このままじゃ、猶さんの 役には立てない⋮⋮﹂ 比較的まともな味であるはずの社食のカレーは塩を抜いたかのよ be none, never min うに無味だ。咀嚼をしながら、考えていたのは先日目にしたマザー there グースの一節。 it” ︱︱“If d それを何度も繰り返し自分に言い聞かせ、売り場へ戻る直前、猶 さんへのメールを打った。 本日、二十時にはお店にうかがいます、と。 *** 綴くんには今朝、用事があるから帰りは遅くなる、と告げて家を 出てきた。 彼は昨日に引き続き、本日も夕飯を作って待っていてくれるとの こと。明日は私の仕事もお休みだから、そのままふたりでのんびり 過ごす予定になっている。 けれどそのまえに、帰宅したらすぐにでも全てを明かさなきゃと 思う。 猶さんが実はずっと、私の大切なお客様だったこと。告白された けれど、きちんと断ったよって︱︱。 394 ﹁いらっしゃいませ!﹂ ミレちゃんに描いてもらった地図を頼りに辿り着いたフランス料 理店、扉を開くとひとりの女性が笑顔で出迎えてくれた。 前髪まで潔く真ん中で分けたボブが爽やかだ。私と同年代だと思 う。ウェイトレスだろうか。 ﹁おひとりさまですか?﹂ ﹁いえ、私、猶さんと⋮⋮葦手猶さんと約束をしている者ですが﹂ 言うと、ああ、と彼女は相槌ひとつ。承知している様子で店の奥 の個室に案内してくれた。 歩きながら、内装を見渡してきょろきょろしてしまう。アールヌ ーボー風、とでもいうのかな。こじんまりとした店舗ながら、随所 に施された装飾が、全体に独特の雰囲気を与えていて、とても優雅 だ。 店内で待っていてほしい、というのは猶さんからの申し出だった。 私としては、彼の職場内で彼を振ることになるわけだから、当然気 が引けた。 それで、店の外に出てきてもらえないかとお願いもしてみたのだ petite sir?ne”︱︱人魚姫、か。席につ けれど、混雑時にはその余裕がないから、と断られてしまって。 “La いてから、紙ナプキンに印刷された水色のロゴをなぞり、ため息を はく。悲恋の物語ね。 ああ、綴くんのこと、どう切り出したらいいの⋮⋮。 ﹁失礼しますー、コーヒーで良かったかしら﹂ すると、扉が開いて先程の女性が姿を現した。手に持った円形の トレーには、コーヒーをふたつとミルク、それからシュガーポット 395 がバランス良く乗せられている。 ﹁ありがとうございます。おかまいなく﹂ なつみ ﹁いいえー、お代はいいからね。あ、私はここのオーナーの家内で、 菜摘といいます﹂ ﹁は、初めまして。神野と申します﹂ 彼女は聖母のように微笑みつつ、私の前にそれらを並べる。 ﹁お会いできて嬉しいわ。噂はずっと猶くんから聞いてたから﹂ ﹁噂?﹂ ﹁そう。高卒でウチに勤めはじめて半年後くらいからかな。一ツ橋 デパートに理想の人がいるんだ、って言い出して⋮⋮懐かしいな﹂ ずんと胸の辺りが重くなった。そうだ、綴くんほどじゃないけど、 彼だって長らく私を想ってくれていた。ここ一、二年の片思いじゃ ないんだ。 ﹁確か、手話が得意なのよね?﹂ ﹁はい﹂ ﹁猶くんね、当初から自分の店を持つのが夢だったの。そのときあ なたが隣にいてくれたら、きっと全てがうまくいくって、そう言っ てたわ﹂ ﹁そう、ですか﹂ 声がどんどん沈んでしまう。私、兄弟間の軋轢を酷くするだけじ ゃなくて、夢まで潰してしまうのかな、猶さんの⋮⋮。 と、菜摘さんの背後から背の高い人物が顔を覗かせた。真剣な顔 つきで寄越されたお辞儀に、ドキッとする。 猶さん。 396 ﹁じゃあ、人手が足りないときは呼ぶから、それまでごゆっくり﹂ 菜摘さんが出て行くと同時に、彼は手話で﹃こんばんは﹄と挨拶 をし、私の前に腰を下ろした。 しばしの沈黙があった。手話としての沈黙、だからすなわち、ど ちらも微動だにしなかったということだ。 コーヒーカップから立ちのぼる湯気がどんどん弱々しくなる。腕 時計の秒針だけが、カチカチと妙に力強い音をたてていた。 ︵このままじゃ駄目だ︶ 私は意を決して、人差し指と親指の腹をつけ、額の前に持ってい く。そうしてそれを振り下ろすと同時に手を開き、空を切った。 ︱︱“ごめんなさい” 続けて、“手紙”と“ありがとう”の動作も。 猶さんの気持ちは、戸惑ったけれどもちろん嬉しかった。自分が 夢にかかせない人だと思われていたことも、光栄を通り越して恐縮 なくらい。けれど。 ﹁好きな人が、⋮⋮付き合っている人がいます﹂ 言いながら、“今”、“付き合う”、“男”の手話をする。 私には今、綴くんがいる。彼とのことは、例え誰を傷つけること になろうと、⋮⋮かえられない。 すると数秒ののち、猶さんは口角を上げて自らの胸を掌でポンポ ンと叩いた。 ︱︱“わかりました” 397 潔い返答だった。どこかでこうなることを、予想していたかのよ うな。最初から、諦めていたかのような。 狭い個室にはまたもや気まずい沈黙が流れる。駄目だ、と思った。 綴くんのこと、ちゃんと言わなきゃ。 両手を中途半端に泳がせてためらった私は、決意して再び“男” つづる” の動作をする。それから“名前”という単語と︱︱残りは指文字だ。 “あしで 私が付き合っている男性は葦手綴くん、あなたの弟です、と。 猶さんの反応は驚くほど早かった。顔面を蒼白にして目を見開い たさまは、一言であらわすなら絶望、それ以外にない。 続けて会話をしようとした私を視界の隅にやり、彼はふらりと席 を立ってしまう。 ﹁な︱︱猶さんっ﹂ 呼び止めたけれど、当然のことながら立ち止まってはくれなかっ た。 ﹁猶さん、ごめんなさい。私⋮⋮私には、兄弟のことに口を出す権 利はありませんけど、でも﹂ ﹃でも﹄︱︱届かない言葉の続きに何を込めようとしたのかは、自 分でもわからない。 喉まで出かかったその感情は、猶さんが部屋のドアを閉めたと同 時にずしんと胸の奥に戻される。水を含んだかのように重い空気の なか、私はひとり取り残されて。 全てが終わったことを、理解するまでに要した時間は数分だった と思う。 398 感覚のない手でバッグを探って、財布を出した。コーヒー代とし てテーブルに千円札を置き、菜摘さんに気付かれぬよう、静かに店 を出る。 出たところで振り返って、深々と礼をした。 間違えたことはしていない。そう思いたいのに、罪悪感に押しつ ぶされて心臓が止まってしまいそう。 まだ、もう少し黙ったままでいれば良かったのかな。そうだ、こ んなショック、一度に与えるなんて、私。 泣き出しそうな気持ちで店に背を向け、歩き出す。とにかく帰ら なきゃ、綴くんが待ってる。 すると数メートル先、街灯の下に、うなだれてしゃがみ込む人の 姿が見えた。 ギクリ、というよりヒヤリとして足を止める。だってそれは、今 朝私を笑顔で送り出してくれた人と、あまりに酷似していて︱︱。 ﹁⋮⋮維紗ちゃん﹂ 顔をもたげた彼に呼ばれて、確信して、青ざめる。 ﹁つ、綴く⋮⋮﹂ どうしてこんなところに。 399 12、ホープ︵b︶ ﹁ごめん、僕、昨日これを君の部屋で見つけて。兄さんの名前が書 いてあったから、つい﹂ 差し出されたのは、いつか猶さんに貰った手紙。そうだ、迂闊だ った。これがある部屋に、彼をひとりにするなんて。 鍵をかけて仕舞っておいたならまだ、彼を責めることもできる。 けれど、ベッドサイドの引き出しに無防備に入れておいただけでは ︱︱非は、完全に私にある。 ﹁今日、遅くなる理由、はっきりとは教えてくれなかったから⋮⋮ もしかしたらって思ったんだ。あとをつけるような真似、してごめ ん﹂ ﹁わ、私のほうこそ、ごめんなさい。早く言わなきゃって、ずっと 思ってて、だけど﹂ なんて言い訳がましいのだろう。けれど焦るばかりで、唇はます ます空回りしてしまう。 ﹁だけど、ちゃんと断ってからでないと、だってこれは私の、私が 解決しなきゃならない、問題で⋮⋮っ﹂ ああ、もう、なにを言っているのか。すると、 ﹁︱︱わかってる﹂ 立ち上がりざまに、彼はこちらへ向かって両腕を伸ばした。 400 頬くらい叩かれるだろうと予想し、私は体を硬くする。しかし待 っていたのは優しい抱擁。ぎゅっと抱き締められた途端、緊張は一 瞬にして掻き消えた。 ﹁そういうのは、君の性格を考えればわかるから﹂ 耳元で響くのは、少年じみた淡い声だ。どうしてそんなに優しい の? 耐えていた涙が、ついにあふれて頬を伝った。 ﹁僕達兄弟の関係のせいで、余計に辛い思いをさせたね。ごめん﹂ 綴くん。 ﹁⋮⋮ぅ⋮⋮っ﹂ ﹁ごめん。︱︱ありがとう﹂ ﹁ふぇ、⋮⋮えぇ⋮⋮っ﹂ ねえ綴くん、私、どうすれば良かったのかな⋮⋮? *** 救いは、彼が私の気持ちをきちんと汲んでくれたことだった。 こんなふうに全てを受け入れてくれるとは思ってもみなかったか ら、安堵するより先に感動して、広い胸でひとしきり泣いた。 最初から相談すべきだったのかもしれない。たったひとりの味方 の存在が、これほど大きいものだったなんて思いもしなかった。 しかし彼は私だけでなく、兄の心情まで理解しようとしていて︱ ︱それだけは少し、怖かった。 ﹁もし兄さんが先に、君に気持ちを伝えていたら⋮⋮それを僕が知 401 っていたら、どうしたかな﹂ ﹁どうした、って⋮⋮﹂ ﹁今も片思い、してたかな、って﹂ そんなに弱気なこと、嘘でも言わないで欲しい。心許なくて、た まらなくなる。 それで、アパートまでの帰り道、会話が途切れるたび握った手に 力を込めた。どこかへ飛んでいってしまいそうな彼の意識を、ここ に留めておきたい一心だった。 しかし、握り返してもらってホッとしたのも束の間。 その夜、綴くんが私の肌に触れてくることはなかった。寄り添っ て横になったのに、抱き寄せられることすらなかった。 不安が膨れ上がってきて、内から睡眠を妨害する。何度も、何度 も夢に見たのは、猶さんを呼び止めようとする場面だ。 その度に飛び起きる私を、彼は優しく宥めてくれた。髪を梳いて、 頭を撫でて。けれどその手はどこか遠慮がちで⋮⋮かえって泣きた い気持ちが募った。 ︵自分ばかり幸せになれないとか、言わないよね⋮⋮︶ またどこかへ行ってしまったりはしないよね? 過去の恐怖が、 みるみる蘇って視界の闇を濃くする。 なのに空だけは順調に明るくなって、新しい一日に私達を放り出 すのだ。 ﹁ランチ、どうしようか﹂ 翌朝、寝不足の顔で綴くんが言ったから、私は寝転んだまま無理 をして少し笑った。 ﹁まだ朝食も食べてないのにランチの相談?﹂ ﹁そう。だって先の予定を決めておけば、そこまでの予定消化時間 402 が逆算できるだろ﹂ ﹁建設的ね。綴くんらしいわ﹂ 言って、寄り添って、こちらからキスをする。離れないで、と言 うかわりに。 ﹁サンドイッチはどう? 野菜たっぷりで美味しいお店があるの﹂ ﹁維紗ちゃんは野菜ばっかりだね。ヘルシーなのはいいけど、その ままじゃウサギになっちゃうよ﹂ ﹁ウサギ? そんなこと初めて言われたわ。紋兄にはよく、猿みた いだって言われて⋮⋮﹂ いけない。口を滑らせて、すぐに後悔した。兄の話題なんて、私。 案の定、綴くんは敏感に顔色を曇らせる。 ﹁あ、ねえ、じゃあ綴くんの好きなフィッシュ&チップスにしよう ? 早めに買い物に行ってきて、一緒に作るの﹂ ﹁ああ、うん、それいいね﹂ 私の焦りを察してか、そう言った彼は少し微笑んでいた。 ﹁じゃあ朝食は僕が準備するから、君は僕のために綺麗になるとい いよ﹂ 冗談っぽい台詞と共に、軽いキスをひとつくれる。彼からの接触 は昨夜ベッドに入って以来、初めてのことだ。 ︵綴くんがキス、してくれた⋮⋮︶ 良かった。乾いた唇は、重なった瞬間より離れる瞬間に、私の心 を深くさらった。 その後、メイクをしながら何度キッチンへ走っていって、その背 403 に縋ろうと思ったか知れない。どこにもいかないよね、私と結婚す るよね、って。 そうして︱︱不安なまま、迎えた三時間後だ。 追い討ちをかけるように、最悪の事態が起こったのは。 そのとき私達はスーパーから戻って、食材を冷蔵庫に仕舞ってい るところだった。タラの切り身とジャガイモ、そしてクレソンとト マト⋮⋮。 と、牛乳を袋から引っ張りだした瞬間に、携帯電話がバッグの中 で震えた。こんな時間に連絡なんて、珍しい。 もしかして猶さんからのメール? 昨日のこと、あれから何か考 えてくれたとか。 そう予想し確認したサブディスプレイには“及川課長”の文字が 流れていて、私は眉をひそめた。仕事? ﹁もしもし、私今日、休みだから﹂ 連絡ならミレちゃんかフミさんに。そう言いかけた声尻に重ね、 叫ばれる台詞。 ﹃今どこだ!? 神野、可能ならすぐに出勤しろ!﹄ ﹁え、ちょっ、何を突然﹂ 出勤だなんて。 反論しながら、妙に気になったのはノイズだ。ガサガサ、ガサガ サと。それに、売り場だろうか、子供だか女性だかの、絶叫も⋮⋮? ﹃緊急事態なんだ。おまえの力がいる﹄ ﹁い、いきなりそんなことを言われても﹂ 404 ﹃ごちゃごちゃ言ってる間に、向かえるならこっちへ向かってくれ ! 実は﹄ 火事なんだ、と及川は鬼気迫る声で言った。 ﹁は⋮⋮?﹂ ﹃こないだの車上荒らしの件の女が来て︱︱火を、つけやがったん だよッ!﹄ 冗談でしょ。 405 ︻カクメイ ︻カクメイ マーメイド・4︼side 夏目未怜 マーメイド︼ side 4、 ﹁何やってるんだろ⋮⋮﹂ 夏目未怜 瀟洒な住宅街の一角で、私は暗闇にため息を吐き出してぽつり。 見上げているのはオレンジ屋根の昭和レトロな一戸建てだ。 道路沿いの街灯に北側の壁面だけがぼんやり浮かび上がった様は、 若干ハロウィンの雰囲気︱︱なのだけれど、不気味なわけでは決し てなくて、やっぱりかわいい。 ︵ああ、来ちゃった、猶さんの家︶ 今日は仕事で遅くなるとメールで聞いていたし、慰める方法もま だ、なにひとつ思いついていないのに⋮⋮本当に何をやってるんだ か。 けれど、いてもたってもいられなかった。彼の勤務先へ訪ねてい く神野先輩の背中を見たら、体が勝手に動いていた。 ﹁待ち伏せなんて、ストーカーみたいだよ﹂ でも、せめて帰ってくるところだけは見届けたいな。でなきゃ心 配で、きっと今日は眠れない。すると、 406 ﹁こう毎日押しかけて来られたって話すことは何もないよ。とっと とイギリスへ帰っちまいな!﹂ 怒声とともに玄関ドアが開き、もつれあうような二つの影が足元 に映し出された。 続けてバタバタッ、とせわしない音が響く。振り返ると、猶さん のおばあさんが門扉の格子の間から見えた。 ﹁お母さんっ⋮⋮!﹂ そう叫びながら玄関ポーチに掃き出されたのは、髪の長い女性だ。 疑問に目をしばたたいていると、彼女はつんのめるような格好で門 扉の外までやって来︱︱。 ﹁あ⋮⋮﹂ 束の間、目が合った。 目鼻立ちのはっきりした、東洋風の美人だった。年齢は恐らく私 の母と同じくらいだろう。けれど圧倒的に若々しい印象なのは、き っと背すじがピンと伸びているからだ。 どこかで見たことがあるような。誰⋮⋮? ﹁あんたに母親面をされるのは御免だって何度も言ったはずだよ。 いいかげんに学習したらどうだいッ﹂ ピシャリと言ったおばあさんは、昨日の温厚な老女と同じ人とは 思えない迫力だ。憤然と、逆さ箒まで立てている。 ︵こ、こわ⋮⋮︶ すると美人さんは私をご近所さんか何かだと思ったのだろう。決 まり悪そうに一礼してから去っていった。 407 なんとなく、その背を見送ってしまう。と、﹁あれ? ああ、お 嬢さん、猶の﹂突然嗄れた声で呼びかけられて飛び上がった。 ﹁どうしたんだい、こんな時間に﹂ ﹁あっ、おばあさま、こっ、こんばんは!﹂ ﹁猶ならまだ仕事だよ。そう聞いてないかい﹂ ﹁は、はい、聞いてます。けど、あの﹂ ︱︱逢いたくて。 告げると、老婆は切なげに、けれどどこか満足そうに笑って玄関 を指差したのだった。 ﹁なら、上がって待つといいよ﹂ ﹁え、でも﹂ ﹁大丈夫、お嬢さんのことは追い出したりしないから安心しておあ がり﹂ *** 本当にいいのかな。帰宅した猶さんに嫌な顔をされたらどうしよ う。 不安な気持ちはあったけれど、おばあさんの先の迫力を思うと頑 なな態度も出来ず、リビングまでついていった。 猶さんがいない猶さんの自宅はどこか冷たくて、彼がそこにいた ときよりさらに落ち着かない。 ﹁さっきはみっともないところを見せて悪かったね﹂ おばあさんがそう言って差し出したのは、マグカップに入った紅 茶。そう、煎茶とかじゃなくて紅茶だ。意外。 408 ﹁あ、ありがとうございます。私のほうこそ、こんな時間に押し掛 けてしまって、ご迷惑でしたよね﹂ ﹁何を言うんだい。昨夜だって泊まっていけば良かったのに、帰っ ちまってがっかりだったよ。猶だって︱︱お嬢さんを駅に送ってき たあとは、獲物を逃した猫みたいにしゅんとしてたんだから﹂ ﹁えっ、ほ、本当ですか﹂ ﹁うん、まあ、半分くらいは﹂ 半分か。呵々と笑うおばあさんを前に、少々落胆。 ﹁なんというか、あれは落ち込んでいるというより、上の空だった んだろうね。猶、今朝もまだポーッとしたままだったよ﹂ ﹁ぽーっと⋮⋮?﹂ ﹁そうだよ。そのくせ饒舌でさ、お嬢さんが︱︱未怜ちゃんって言 ったっけ、どれだけ自分の料理について考えてくれてるのか、滔々 と語るんだよ﹂ 語るのはもちろん手で、だろう。考えたらちょっとくすぐったか った。 私のいないところで、私のことを話す猶さん⋮⋮見てみたいな。 ﹁こっちのほうが恥ずかしくなるよ、まったく。でも、嬉しいよう な寂しいような、複雑な気分だね、母親としては﹂ ﹁母親?﹂ ﹁あからさまに変な顔をするんじゃないよ。もちろん私が産んだわ けじゃないさ。気分的には、ってことだ。なんたってあの子は生ま れた直後からここで、私が育ててきたんだからね﹂ 育ててきた? じゃあ、ずっと二人暮らしだったってこと? 尋 409 ねようか迷う私に苦い顔で笑って、おばあさんは言った。 ﹁さっき追い出したのが、猶の産みの母親だよ。見ただろ? で、 情けないことにあの子は私の娘でもある﹂ さっき、って、もしかしてあの美人。そうか。一瞬見覚えがある ような気がしたのは、猶さんに似ていたからだ。 ﹁お母様、ご健在なんですね。でも、それならどうして一緒に暮ら さないんですか。お父様は? お母様と一緒にいらっしゃるってこ とですか﹂ ﹁猶から何も聞いてないかい﹂ 首を左右に小さく振る。聞いていない︱︱知りたい。 おばあさんは少し迷った様子だったけれど、すぐに口を開いた。 ﹁猶の父親はさ、猶にそっくりのいい男だったんだ。でも、⋮⋮体 のほうはあまり強くなかった。うちの娘と結婚してからもなんだか んだ入退院を繰り返してさ、結局は、猶が産まれる前に﹂ 途切れる言葉。ごまかすように口元を覆う仕草。否が応でもピン ときた。 亡くなった、んだ、猶さんのお父さん。けど、それならどうして 母親まで離れて暮らす必要が? ﹁⋮⋮それで、娘に遺されたのは腹の子と、治療費のための借金だ ったのさ。だから出産を終えてからすぐに、一度は辞めた仕事にも 復帰したんだが﹂ ほら、そこの︱︱とおばあさんは左手で斜め上をさす。 410 ﹁一ツ橋デパート。受付に勤めてたんだよ、あの子は﹂ ﹁ほ、本当ですか!?﹂ 私もなんです、と言う隙は与えてもらえなかった。 ﹁もともと翻訳家志望で英語だけは熱心に勉強してたからね。不幸 はあったけど、復帰してからもカウンターに立ってるときのあの子 はイキイキしてたんだ﹂ 古いのか、蛍光灯の光が頼りなく揺れる。 ﹁⋮⋮猶の耳に障害があるとわかってからは⋮⋮だいぶ苦労してる みたいだったがね。店先で、どうやって笑ったらいいのかわからな い、って、よくぼやいてたから﹂ ドキッと︱︱した。 ﹁助けてやりたいのはやまやまだったよ。とはいえ私もこの通り夫 には先立たれた身、出来ることなんてほとんどなかった⋮⋮という のは、言い訳でしかないんだろうねえ﹂ ﹁い、いえ、そんなことは﹂ ﹁あの子には寄りかかる場所がなかった。だから誰かに、縋りたく、 なっちまったんだろう﹂ おばあさんは言ってテーブルの上の両手を弱々しく握りあわせる。 ﹁猶が三つになろうとしていた頃だったかね。リサの⋮⋮娘の様子 が常に上の空というか、ポーッとしだしたのは﹂ 411 さっきも似たような表現を聞いたような気がする。 ﹁けど、仕事や家事の手を抜いたりはしなかったから、別になんだ ってかまわないと思ってたんだよ。最初はさ﹂ ﹁最初は、ですか﹂ ﹁そうだよ。あのままなら良かったんだ。単にポーッとしているだ けなら、こっちだって見て見ぬフリもできたんだよ。だが、あの子 は間違えた。絶対に、間違えてはならない順番をね﹂ ﹁間違えてはならない順番?﹂ 尋ね返して、私はごくりと唾を飲んだ。いかにも深刻な空気だっ た。 ﹁ああ。要するに身籠っちまったんだよ﹂ ﹁みごっ⋮⋮あ、赤ちゃんができたってことですか!? 誰のっ﹂ ﹁そりゃもちろん、ポーッとする原因となった男のだよ。どうやら、 辛い時期を長く支え続けてくれた人らしいんだがね﹂ ポーッと⋮⋮って、そうか、恋のことだったんだ。 ﹁お母さん、それで猶さんを捨てて出て行っちゃった、んですね。 酷い⋮⋮!﹂ ﹁違うよ。そんなに単純な話じゃないんだから﹂ 先走るんじゃないよ、とおばあさんは私を小突くような仕草をす る。 ﹁あの子は再婚したいと言ったんだ。新しい旦那と一緒に、腹の子 も猶も育てていきたいとね。⋮⋮男の母国である、イギリスで、だ が﹂ 412 イギリス? 神野先輩の顔が真っ先に浮かんだ。先輩も結婚する ために渡英するって言ってたっけ。 ﹁私はもちろん反対したよ。肝心の猶が嫌がってたからね。けれど あの子はいっこうに諦めなくて︱︱結局、その男とは籍を入れずに 子供を産んだ。男の子だったよ﹂ ﹁男の子⋮⋮猶さん、弟がいるんですね﹂ ﹁ああ。私がこの家に上げることを拒否したものだから、イギリス で男がひとりで育ててたけどね。リサは、殊勝にも猶のために日本 に残ったんだが﹂ ﹁お母様は日本に? ならどうして今、ご自宅にいらっしゃらない んです﹂ 言い切ったあと、まずいことを聞いたかな、と思った。だって、 おばあさんが顔を曇らせたから。 ﹁私が追い出したんだよ﹂ ﹁え?﹂ ﹁イギリスに行っちまえって、もう二度と帰ってくるなって、さっ きみたいに追い出したのさ﹂ なんで。私は眉根を寄せた。 ﹁我慢ならなかったんだよ。再婚して、夫婦ふたりで息子たちを育 てるべきだなんて、いつまでもそんな夢みたいなことを考えている 娘の甘さがね﹂ 言葉の端々に、刺みたいなものを感じる。 413 ﹁そりゃ、子供には親が必要だよ。でもそれは往々にして︱︱大人 が大人になってから考えた理屈であって、子供自身の主張でも理屈 でもない﹂ それはそうかもしれない、けど。そもそも子供が自分の将来につ いてそこまで見通してものを言えるかな。 ﹁片親だって立派に育ってる子供はたくさんいるよ。だろ? そん な大義名分をぶら下げたところで、あの子の場合、再婚は自分のた めってのが本音だろうよ﹂ おばあさんは言って、諦めたようなため息をついた。 ﹁そう、でしょうか﹂ ﹁そりゃそうだろうよ。証拠に、リサは最終的に新しい家族と暮ら すことを選んだじゃないか。猶は︱︱猶は、そのときの不満をまだ 全部吐き出せずにいる﹂ ﹁猶さん、が⋮⋮?﹂ ﹁ああ。だがこの先は本人に聞くべきだよ。とにかく私は、いっぺ ん見放した以上、もうあの子が猶にかかわるのはやめるべきだと思 うんだ﹂ 昨夜見た彼の後ろ姿が、瞼の裏に浮かんでくるようだった。 猶さんはどんなことを日々感じて、どんなことを考えながら生き て来たんだろう。想像しただけで胸が詰まる。 私なら、私が母親なら、絶対にその手を離したりなんかしないの に。 *** 414 もう寝るから、とおばあさんがリビングを出て行ったあとも、私 は椅子に腰掛けたまま動けなかった。 ︵猶さん、お母さんのこと、恨んでるのかな⋮⋮︶ そんなことをぼんやり想像して、ため息をはく。すると背後でガ タリと何かが動いた。ほぼ同時に、蝶番の軋む音も。 見れば、扉の向こうから猶さん、その人が姿を現すところだった。 ﹁あ、お、お邪魔してます!﹂ 慌てて席を立ち、お辞儀をする。 ﹁ごめんなさい、勝手に上がり込んだりして。すぐに帰るから⋮⋮﹂ 口を大きく開閉して、身ぶり手振りをしながら言った。彼は斜め がけにしていたバッグを床に放り出し、青ざめた顔でテーブルに駆 け寄ってくる。そうして、メモ帳とボールペンを齧りつくような格 好でつかんだ。 ﹃どうしてここにいるんだ?﹄ ごもっともな質問だ。 私はもう一本のボールペンをとり﹃おばあさんに招き入れてもら った﹄と書こうとした。しかし書ききらないうちに、紙からはじき 出されてしまって。 ﹃神野さんに頼まれた? かわいそうな彼をなぐさめてやってくれ とでも言われた? 最初から君は全部知っていて、それで私の側に いたのか﹄ 怒濤のような羅列。誤解されているのだと気付き、焦った。 415 ﹁ち、違う﹂ そうじゃない。確かに、猶さんが振られるであろうことは知って いたけれど、先輩に頼まれて側にいたわけじゃない。必死で首を振 ったけれど、彼はこちらを見なかった。 ﹃となると、君の行動は同情ですらなかったわけだ。義務感? メ ールも、発言も、ぜんぶ﹄ ﹁だから違うってば。私は、私が、猶さんにそうしたかったから﹂ ﹃みんなそうだ。私を前にすると、皆、哀れむことが義務みたいに なる。母だって、弟だって。しまいには、おまえの手前自分は幸せ になれない、なんて不条理なことを簡単に口にする﹄ ペン先がめり込むほどの筆圧に、怒鳴られているような錯覚を覚 える。 ﹃何故私に遠慮する? 何故、私を理由にして、幸せになれないな んて言うんだ。それは間接的に、私を不幸と決めつける行為じゃな いか。違うか?﹄ 答えられなかった。 ﹃そのうえあいつらは、不幸な人間を気遣わなければならない自分 こそが不幸だ、みたいな顔をする。のんきなものだ。そんなの、ど うせ優越感に浸りたいだけのくせに﹄ ﹁な、猶さ⋮⋮﹂ ﹃私にも幸福な瞬間くらいはある。誰にだってある。なのにどうし て、はなから不幸だと決めつけられなければならない? 差がある からか。その差には、不幸と呼ぶに価する絶対的な何かが含まれて 416 いるとでもいうのか。それとも、なにもかもを持っていれば幸せな のか。そうだな、弟は確かに完璧なんだろう﹄ ﹁猶さん、もうやめて!﹂ わかったから。だから。 自らに鞭を打つような言葉が悲しくて、思わずその手を掴んで制 止した。けれど。 ﹃振られることはわかっていたから、納得はできたんだ。でも、君 だけは。君だけは違うと思ったのに。なのに﹄ 彼は私に掴まれたまま、唸り、乱暴に殴り書いた。 ﹃どうして。理解できない。何故、私は、君のことが、こんなにも﹄ え? しかし深く考える間はなかった。 ﹁︱︱きゃ⋮⋮!﹂ 悲鳴が先だったか、肩に痛みが走ったのが先だったのか︱︱。 強い力で右手を引っ張られ、抵抗するポーズもろくにとれぬまま、 フローリングの上へ崩れ落ちる。 そうやってうつ伏せに倒れ込んだ私を、彼は強引に仰向けに転が し、そして叫んだ。 ﹁︱︱⋮⋮!﹂ 何を言っているのかは、まるきりわからなかった。 ﹁な、猶、さ﹂ 417 数珠つなぎの言葉は咆哮のようで、伝わってくるのはただひとつ、 何かを訴えたいということだけ。 押さえつけられた肩より、胸の奥のほうが痛かった。 彼が口にした﹃差﹄を、乗り越えた気になっていた︱︱気になら ないと思い込もうとしていた自分の、浅はかさを暴かれた気分で。 ︵理解できない。怖い。わからないって、こんな、こんなこと⋮⋮︶ こちらを睨みつつも、縋ろうとしているみたいな目がたまらなか った。 ああ、顔が、近い。さらに、みるまに、近くなる。 心臓がとまってしまいそう。息がかかるほど彼が間近に迫ってか ら、私はぎゅっと目を閉じた。 ﹁⋮⋮ン⋮⋮っ﹂ 押し付けるようにして無理矢理重ねられる唇。ふとももを、荒々 しく掴む手が痛い。 けれどねじ込まれた舌は乱暴な割に優しくて、そう感じた途端、 目尻から、涙がこぼれた。 猶さんのことは、好きだ。きっと、このまま抱かれたって後悔は ない。 これで彼の苦痛を少しでも和らげることが出来るなら、なおさら 本望だ。そのために私はここに来たのだし。 でも。 首筋を伝っていく乾いた唇の感触に、身を捩りながら思う。猶さ んはこれで本当にいいの? だって。 “私を前にすると、皆、哀れむことが義務みたいになる。母だって、 418 弟だって” 彼は母親と弟に強い反感を持っている。特に、弟に対しては明確 なコンプレックスも抱いている。 それなのに。 “あの子は間違えた。絶対に、間違えてはならない順番をね” 万が一、彼がいま、私と関係を持ったことで、母親と同じ轍を踏 むようなことがあったら。 母親が、弟を身籠ったときと同じような光景を、目の当たりにす るようなことがあったら。 ︵もっと、ずっと大きなショックを受けるんじゃないの⋮⋮?︶ すると、どこかで嗅いだことのある匂いが鼻孔をかすめた。ふと 視線を落とすと、肩を押さえつけている節の張った指が目に入る。 日曜日のキッチンのような、優しい香り。ああ、コンソメだ、こ れ。きっと仕事中に染み付いたものだろう。 となると、甲に残された傷跡は、もしかして火傷のあとかな。 乱暴な両手はつまり、そうしていても彼の努力を証明するに足る 姿で。 あまりの切なさに、私は一瞬息を止めた。 ﹁⋮⋮ねえ、猶さん﹂ 覚悟を決めて、私が指を掛けたのは自らのブラウスのボタン。も ちろん、とめるためじゃあ、ない。 ﹁猶さんになら、私、なにをされたっていいよ﹂ 419 それをひとつずつ外しながら、開きながら、私は心に“蓋”をぎ ゅっと閉じるのだ。 ﹁だけど、こんな貧相な体、触ったって面白くないと思うよ?﹂ 言って、彼の手を私の小さな胸に触れさせる。 あのときのことを思い出してくれたらと思った。同じ手で、私を 庇ってくれた時のことを。 ハッとした顔で猶さんは拘束の腕を緩める。我に返ったみたいだ った。 本当は、いっそこのまま抱かれてしまいたい。こんなこと、もう 二度とない。きっと後悔する。わかってる。それでも。 それでも、できないよ。 ﹁⋮⋮私がここに来たのはね、先輩に頼まれたからじゃないの。こ れまで言ったことも、ぜんぶ、嘘なんてひとつもなかった﹂ 猶さんは眉をひそめて、私の目を見返した。意思の疎通ができな かったときの仕草だ。 それはそうだろう。だって唇、震えて、ちっとも上手に動いてく れない。 馬鹿だな、私。 伝わるとか伝わらないとか、そんな入り口のモヤモヤに引っかか って。先輩と自分を比べるだけ比べて、それだけで。 本当に、ばかだよ。 ﹁わたし、猶さんのこと⋮⋮﹂ 好きだよ。大好きだよ。言いたくて、喉までせり上がってきたそ 420 の言葉を、必死で呑み込んだ。 今の自分がそれを口に出すのは、この上なく卑怯な気がして。 こんなときに使える手話のひとつも覚えようとしてこなかった︱ ︱覚える努力を怠っていた、私では。 ﹁⋮⋮っ、ごめん、なさい⋮⋮﹂ 彼の体の下からどうにか這い出し、震える手でバッグを掴む。辛 々猶さんの家を飛び出すと、駅までは振り返らずに駆けた。 喉の奥がひゅうひゅう鳴って、倒れそうなほど苦しかったのに、 帰宅するまで涙をこぼさずにいられたのは、奇跡だと思う。 *** 翌日、私は普段より帽子を深く被った状態でカウンターに立った。 もちろん、泣きはらした目を隠すためだ。 仕事だとわかっていても笑える気がしなくて、情けないことにず っと俯いていた。 職務怠慢だと罵られても仕方がない。そんな態度が︱︱発見を遅 らせたのだ。 招かれざる客の、到来を。 ﹁ちょっとッ、アンタこないだの女よね!﹂ はっとして顔を上げた私の前に、立っていたのは例の、車上荒ら しの被害者である女性だった。 あのとき破かれた制服の、継ぎ目あたりが急激に寒くなる。 ﹁い、いらっしゃいませ﹂ ﹁いらっしゃいませじゃないわよ。アンタの所為よ。アンタがあた 421 しにいいかげんな応対ばっかりするから、だから﹂ 日本語なのに、何を言われているのかまるでわからない。 ﹁お、お客様﹂ うろたえる私を鋭く睨み、彼女が持ち上げたのは小さなポリタン クだった。それはいかにも重量のある音を立て、カウンターの上に 雑に置かれる。 途端、鼻を突くような刺激臭がした。 ﹁アンタさえいなければ、あのとき車上荒らしにネックレスを盗ま れなければ、アイツだってきっと別れようなんて言わなかった。空 き巣に入られることもなかったし、アイツとの思い出だって最低限 残せたはずなの。だからあたしが振られたのは、アンタの所為なの よッ﹂ 激しい罵声の嵐に、私はもう、一歩も動けなくて。タンクの蓋を ひねる手を、止めることも出来なかった。 ﹁責任をとりなさいッ!﹂ ばしゃっ、と足元に振りまかれる液体の飛沫を浴び、凍り付く。 浅葱先輩を呼ばなきゃ。ううん、その前に警備だ。でも、内線機 まで手が伸ばせない。 混乱と恐怖で、膝ががくがくと震えだす。 と、手前のバッグ売り場にいたお客様が、こちらを見て︱︱ある いは臭いで気付かれたのかもしれないけれど︱︱甲高い悲鳴を上げ た。 ざわめきは、見る間に店舗スタッフにまで広がっていく。一部の 422 スタッフは機転を利かせてお客様を庇い、誘導しようとしはじめる。 しかし、彼らを威嚇するように女性がポリタンクを振り回すもの だから、それもままならない様子で。 神野先輩、助けて、神野先輩。 口の中で唱えて、唇を噛んだ。 何を言ってるの。先輩が助けに来てくれるはずがないじゃない。 だって休みなんだよ。 この場を、先輩がおさめてくれるわけがない。おさめられるのは、 先輩じゃあない。 今、ここにいるのは私。私しかいない。 だからこれは、私の役割なんだ。 ﹁︱︱ん、っ!﹂ しっかりしなきゃ。両足をフロアに踏ん張って、気持ちを奮い立 たせる。 そうして私はカウンターを、下から一撃、膝で蹴り上げた。制服 の裾ぎりぎり、太もものあたりに、丸いものがぶつかった気配がす る。 緊急ブザーだ。 次の瞬間、警報機が唸りを上げ、正面入り口頭上のパトランプが 灯った。 束の間の安堵感。これで警備員も駆けつけるだろうし、全館に緊 急避難指示が出せたことになる。 女性はうろたえて、周囲を見渡していた。その隙を見、私は考え る。つい先日、避難訓練をしたときのことを、照らし合わせながら。 423 どうすればいい? 私は次に、何をすべきだろう。 424 13、ビリーブ︵a︶ ﹁しゅ、出勤するって、どういうことだよ﹂ ﹁緊急事態なの。帰ったらちゃんと説明するから、お願い、今は許 して。︱︱行ってくる!﹂ クリーニングに出すためたまたま持ち帰ってあった制服に袖を通 し、私は自宅アパートを飛び出した。 しかし慌ただしく着替えながらの、つまり片手間の弁明などで綴 くんに納得してもらえたわけはない。 彼はあろうことか裸足のまま、アパートの敷地の外まで私を追っ てきた。 ﹁待て、ってば!﹂ ﹁ごめん、行かせて⋮⋮!﹂ 掴まれた腕を振り払って通りすがりのタクシーに乗り込むと﹁一 ツ橋デパートまで!﹂早口で伝えた。 及川課長によると︱︱。 出火前の迅速な緊急避難指示により、館内のお客様は全員無事に 避難を終えているらしい。 しかし一ツ橋デパートの建物は今も燃焼を続けているらしく、消 火を終えるのがいつになるのかは、未だ見通しがつかない状況なの だとか。 最も厄介なのは、避難を終えたお客様の間に、外からやってきた 野次馬が入り込み、往来で混乱を引き起こしていることだという。 そんな緊急時に、私になにができるっていうの⋮⋮? 不安のあまり、私は膝の上の両手を握りしめる。先程、綴くんに 425 掴まれた手首がやけに熱かった。 ︵嫌われちゃった、かな⋮⋮︶ 嫌われるようなことなんて、これ以上したくなかったのにな。せ っかくの再会に仕事仕事でなかなか逢える時間も作れなかったし、 遠距離だし、歳の差もあるし。 綴くんは年下であることを引け目に思っているようで、だからな るべく、彼の前では大人らしい発言も控えてきたのに。 ︱︱ううん、違うな。 実際は⋮⋮そうすることでその差から目を逸らしていたかったの は、きっと私のほうだ。 だって社会人には、社会人としての責任がある。こんなふうにプ ライベートを浸食してくるほどの、責任が。 それを学生である彼にどこまで理解してもらえるのか⋮⋮どこま で、理解してくれとお願いしても良いものか、わからなくて。 ︵引け目に感じてるのは、こっちのほうよ︶ 理解したくない、と突っ撥ねられるのも怖いけれど、それよりも っと怖いのは、物わかりの良い綴くんにこのまま寄りかかり続ける こと。年下の彼に、今後も我慢を強いていくことだ。 嫌われない自信なんてこれっぽっちもない。 ︱︱できることなら、私、綴くんと同じ歳に生まれたかったな。 同じ年、同じ国で生まれて、同じ地域に住んで、同じ学校に通っ て、それで普通の恋がしたかった。 遠距離でも、歳の差でもない恋。 したかったよ。 426 *** ﹁神野ッ、こっちだ!﹂ 人波をかき分けてようやく現場に辿り着くと、及川課長が︻関係 者以外立ち入り禁止︼の、ロープの内側へと招き入れてくれた。 渋滞のため、信号ふたつ向こうから駆けてきた私は、肩で息をし ながらロープをくぐる。近くで見れば及川は私よりずっと汗だくで、 必死の形相だった。 ﹁及川⋮⋮大丈夫なの﹂ ﹁あ? 俺は別に。そんなにヤワじゃねえよ。そっちこそ、休日に 呼び出して悪かったな﹂ ﹁ううん、緊急事態だもの。ところで現状は?﹂ ﹁ああ、さっそくだが役割を頼めるか﹂ あちらこちらから呼応するようにクラクションの音が鳴り響いて いる。 車道の乗用車からは、年輩の男性が顔を出して迷惑そうにこちら をうかがっているのが見えた。 ﹁今、ここにいる四名の受付スタッフを束ねて、具合の悪いお客様 がいないか、ひとりずつ確認してもらいたいんだ。できるな﹂ ﹁ちょ、ちょっと待って。四人って︱︱﹂ 足りないでしょうよ。早速の指示に、私は顔を顰める。 だって、通常なら受付嬢は最低で五名が館内にいるはずだ。正面 受付が最低二名、東口と西口が合わせて最低三名、合計で五名の計 算だ。 427 ﹁ひとりは動けない。今、緊急搬送されたところなんだ﹂ ﹁緊急って、誰が。何かあったの?﹂ 及川は少し躊躇した様子で、間を置いてから言った。 ﹁⋮⋮夏目だ。火傷を負ったんだ。右足の、脛から太ももあたりを﹂ ﹁しゅ、出火する前に全員が避難したんじゃなかったの!?﹂ ﹁犯人をひきつけておくために、逃げなかったみたいなんだよ﹂ ﹁ひきつける、って、ミレちゃん、まさか犯人と一緒にいたってこ と?﹂ ﹁ああ。俺が様子を見に行ったとき、夏目は犯人とふたりきりで売 り場にいて、俺にも逃げろと言ったんだ﹂ パトカーのランプがくるくる回って、慌ただしく行き交う人々の 輪郭を、非現実的なものにしている。 ﹁夏目は︱︱自分がお客様と同じ方向に逃げたら、犯人がきっと追 いかけてくる、それでお客様を危険な目に遭わせるようなことがあ ったらいけない、と判断してそこに残ったらしいんだ﹂ ﹁犯人はミレちゃんを狙ってたの?﹂ ﹁そこまではわからない。これから取り調べの過程ではっきりして くると思う﹂ ﹁ミレちゃんの容態は⋮⋮﹂ ﹁命には別状はないはずだ。火をつけられた瞬間に、俺がバックヤ ードに引きずり込んだからな﹂ そんなことになっていたなんて。 ミレちゃんの心情を思うと、胸が潰れそうだった。 彼女は私の後輩の中でも一番遅刻が多くて、敬語もときどき間違 428 えるくらい危なっかしくて、けれど誰より頑張り屋で、一生懸命な ところがすごくかわいい子だ。 どれだけ心細かっただろう。たったひとりで、そんな、重大な決 断︱︱。 ﹁神野先輩っ﹂ 視界が歪みはじめたとき、斜め後ろから呼ぶ声がした。視線をや れば、ミレちゃんの親友である野分さんが立っている。 ﹁こ、神野先輩、未怜は。未怜は、大丈夫なんですか﹂ 真っ赤な目と震えた声は、狼狽をそっくりそのまま伝える。そん な彼女を前にすると、こちらには冷静が戻ってくるから不思議だっ た。 ﹁大丈夫よ。だから安心してお客様への対応にあたりましょう﹂ ﹁で、でも﹂ しかし野分さんは両手で私の腕を、縋るみたいに掴んでくる。 見れば、他の受付スタッフたちはその背後で棒立ちになっていた。 誰ひとりとしてその目にはお客様のことなどうつっていない。 ﹁あのね、みんなの気持ちはわかるわ。でも、お客様のほうがずっ と心細いのよ﹂ ﹁ですが先輩、私⋮⋮わたし、お客様に、なんて言って声を掛けた ら﹂ いつもはしっかり者のフミさんでさえ、我を失っている。まずい なと思った。 429 及川が匙を投げるはずだ。かといってこの状況、私まで他の誰か に丸投げするわけにはいかない。躊躇している暇も︱︱ない。 ﹁⋮⋮落ち着きなさいっ!﹂ 気付いたとき、私はもう彼女たちに向かって声を荒げていた。 ﹁自分たちの姿をよく見なさい。なぜ私達だけ、こんなに目立つ制 服を着ているのかわからないの﹂ 続けていつになく厳しい叱責ができたのは、その場が騒がしかっ たことも理由のひとつだと思う。 ﹁ただのアイコンだと思っているならすぐに脱ぎなさい。これはね、 困ったときはこの人を頼ればいい、って、年代も言葉の壁も超えて、 どんなお客様にもそう思っていただけるようになのよ!﹂ 例えば日本語が読めなくても、一目で私達を見分けていただける ように。いつだって、安心を提供できるように。 だから私たちはこの制服を着ている以上、頼られるのが義務なの だ。 言い切ると、野分さんは涙を一粒だけ零して、しかしそれを手の 甲で拭きながら顔を上げた。 ﹁先日の訓練を思い出して、冷静になりなさい﹂ ﹁⋮⋮は、はい﹂ ﹁お客様が今日覚えた不安感は明日になったらもう消せないのよ。 どうすればいいのか、わかるわね﹂ ﹁はい!﹂ 430 彼女らの姿勢が普段通りぴしっと伸びたのを見、私は細かな指示 を出す。肝はもう、しっかり座っていた。 普段怒鳴ったりしない私が怒鳴ったせいか、その後のみんなの働 きはいつも以上にスムーズだった。 そうして、事態が沈静化に向かって流れ出したときだ。背後から 突然二の腕を掴まれたのは。 私の心臓は飛び上がった。また何か、非常事態が起きたのかと思 って。 しかしそのまま強引に引っ張られ、はずみをつけて振り返る格好 になった途端、目を見開らかずにはいられなかった。 その手の主が、猶さん︱︱綴くんのお兄さんだったから。 ﹁どうしてこんなところに⋮⋮﹂ もしかして、自宅から騒動が見えたとか? 驚きのあまり固まる私の前で、彼は焦ったふうに手話をする。 ﹃未怜さんはどこですか﹄ 尋ねられて、ビクッとしてしまった。ミレちゃん、ミレちゃんは。 ﹃ここにはいません﹄ ﹃今日はお休みなのですか﹄ ﹃いえ、出勤していました﹄ どうしよう、どこまで言っていいものかしら。 ﹃どこにいるのですか。怪我はしていませんか。心配で﹄ 彼がそう訴えかけた、次の瞬間だ。 431 ﹁︱︱維紗ちゃん!﹂ 突如割り込んで来た人物に抱き寄せられ、私は再び凍る。焦る間 もなかった。ただ、凍り付くしかできなかった。 だって。だってまさか、⋮⋮まさか。 ﹁維紗ちゃん、⋮⋮良かった﹂ ﹁つ、綴、く⋮⋮﹂ 綴くんが、どうしてここに。 彼の肩越し、困惑顔の猶さんが見える。 頭が真っ白になる、とはよく言うけれど、まさにそんな精神状態 だった。 432 14、ビリーブ︵b︶ ﹁置いていかれる人間の気持ち、やっとわかった気がする﹂ 綴くんは英語で呟き落として、私の頭を胸に抱える。 置いていかれた人間、って、イギリスでの私のこと? それとも、 リサさんに置いていかれた、という意味での猶さんのこと⋮⋮? ﹁でも、それでも譲れないってことも、わかった﹂ 本当に何を言っているのだろう。 疑問と困惑に眉をひそめていると、彼は堪えきれないといった仕 草で私のほお骨あたりに音を立ててキスをした。それから腕をとき、 猶さんをゆるりと振り返る。 ﹁⋮⋮兄さん﹂ 私の視界を遮るように立っているのは、わざとだろうか、偶然だ ろうか。 ﹁今まで、兄さんには何を取り上げられたってかまわないって言っ てきたよね﹂ たどたどしい手話は、それでもきちんと正しい単語を繋いでいく。 ﹁維紗ちゃんのことも、本当に兄さんを大切に思うなら僕は、身を 引くべきなのかもしれない﹂ 433 私はその後ろ姿を、ただじっとみつめていた。 ﹁兄さんが先に告白をしていたら、とか、想像してみたよ。だけど、 僕はもう、維紗ちゃんのいない生活なんて考えられない。考えられ ないんだ﹂ ごめん、と言って頭を下げた綴くんの姿が、ぼんやり歪む。 ﹁他に何を失っても、彼女だけは譲れない。絶対に渡せない。誰に もやらない⋮⋮!﹂ 自分はなんて酷い女だろう。だって、猶さんが傷つくとわかって いる台詞に、こんなに感動してる。 ︵譲らない、って、言ってくれた⋮⋮︶ 昨夜の不安が、嘘みたいに消えていく。 これ以上そこにいたら綴くんに抱きついてしまいそうで︱︱泣い てしまいそうで、私は踵を返し、仕事に戻った。 彼らがつかみ合いの喧嘩にならないか、とかいう不安は多少あっ たけれど、信用もしていたから。 普段から、他にお客様がいれば私に声もかけてこない猶さんのこ とだ。これだけ大勢の人の前で乱闘騒ぎはおこさないだろうと。 数分後に振り返ると、彼らの姿はもうそこになかった。 綴くんだけがひとり、静かにロープの外へ出て行くのが見えたか ら、連れ立って場所を移動したというわけではなさそうだった。 事態の収拾を待って自宅に帰ったとき、綴くんは怪我ひとつなく 穏やかに私を迎えてくれた。 彼によると、猶さんは︱︱。 綴くんのことも私のことも眼中にない様子で、及川にミレちゃん 434 のことを尋ねると、直後にあの場を走り去ったという。 ﹁ごめんな、維紗ちゃん﹂ その晩、ベッドに入ると、彼は私の髪を梳きながら暗闇の中で言 った。 ﹁もう二度と、突然いなくなったりなんかしないから﹂ ホッとする。どうしよう、もう、この体温がすっかり当たり前に なってしまった気がする。 ﹁私こそ。今日はいきなり飛び出していってごめんね﹂ ﹁ううん、自分の身勝手さを身をもって勉強できたから、逆にあり がたかったよ。ところで﹂ その指が、私のパジャマのボタンにかかる。 ﹁寝不足になる気はある?﹂ 答える前にキスが降ってきて、私は彼の腕の中へと、呑み込まれ ていった。 435 ︻カクメイ ︻カクメイ マーメイド・5︼side 夏目未怜 マーメイド︼ side 5、 夏目未怜 病院へ運ばれるまでの出来事は、比較的はっきり覚えている。気 が張っていたのかもしれない。 私はポリタンクをかまえた例の女性と、正面から睨み合いながら も、視界の隅でお客様の避難を見守っていた。 とにかく他の誰にも危険が及んではならないと、ただそれだけで 私はそこに留まっていた。きっと神野先輩がこの場にいたとしても、 こうするに違いない。 犯人の背後には警備員が二名。けれど女に放火するぞと凄まれ、 事態は膠着状態に陥った。 とはいえ、私の背後にはバックヤードへと続く扉がある。イザと なればそこへ飛び込めると踏んでいた。 だからそこから及川課長が飛び出してきたときは、本当に驚いた。 だって、まさか課長がまだ館内にいるなんて思いもしなくて。 しかし驚いたのは︱︱私だけじゃあなかった。 彼女は課長に睨まれて、窮地を悟ったようだった。手元のライタ ーに火をつけて、こちらにかざしてくる。 436 私は課長に逃げてと言った。このままじゃ、本当に火事になる。 しかし課長は﹁夏目も一緒でなければ駄目だ﹂ときいてくれない。 瞬間、女の背後で警備員が動いた。それを私が目で追ってしまっ たのが、最大のミスだった。 焦った女はそこで、それまで躊躇していた一線をついに越えてし まったのだ。 床に放たれる、ライターの火。 その小さな火が炎へと姿を変えるのは一瞬だった。ごおっ、と空 気を脅かす音とともに、熱気が一帯を包む。 ふと見れば、私の足にも炎が昇ってきていた。 課長が素早く私をバックヤードに引っ張り込んで、体についた火 を消してくれなかったら、全身が火だるまになっていたと思う。 そこから課長は私を救急隊の所まで抱えていくと、病院まで付き 添うと言ってくれた。 ﹁大丈夫です。私なら、ひとりでも。だから課長はお客様について いて差し上げてください﹂ 本当は痛みのあまり縋ってしまいたかったし、心細かったけれど、 救急車の扉が閉められた途端、それは達成感にかわった。 ︵私、少しはできたのかな。蓋。すこしは、お客様の役に、たてた のかな︶ それから、病院でどんな処置をされたのかは、あまり覚えていな い。火傷の程度は二度だとか、言われたような気もするけれど確か じゃあない。 ショック症状を起こすかもしれないから今日はこのまま入院だと、 437 ベッドを与えられて横になった。 痛みはあったけれど、鎮痛剤のおかげか、意識はすぐに遠のいた。 猶さんの笑顔を瞼の裏に描きながら、少しだけ、眠った。 *** ﹁ん⋮⋮?﹂ なんだろう、病院独特の薬品臭さに混じって、日曜日の匂いがす る。日曜日の、キッチンの匂いが。 コンソメ⋮⋮? ってことは、もしかしてもうご飯の時間? 慣れない病院のベッドの上、食い意地が先行してうっすら目を開 けると、 ﹁未怜!﹂ 呼ぶ声が、斜め上から降ってきた。そちらに視線を遣り、見慣れ た顔に苦笑する。 ﹁⋮⋮なんだ、怜李﹂ そこにいたのは三つ年下の妹。ごはんではなかった。 私の落胆を受け、彼女は真っ赤な目でこっちをじっと睨む。 ﹁目覚めた途端﹃なんだ﹄はないでしょうよ。かわいい妹に﹂ ﹁だって、お腹空いた⋮⋮っていうか怜李、妹の自覚、あったんだ﹂ ﹁うるっさい!﹂ ばか未怜、と文句を言う声は涙に濡れていた。 438 ﹁阿呆。Stupid。愚か者。Con!﹂ 言語が混じっているのは、きっと混乱している証拠だ。同じだけ 同じ国を巡ってきたからわかる。 ﹁なんでこんな、こんなひどい怪我とかしてんのよぉ⋮⋮っ﹂ 心配してくれたのかな、もしかして。 ﹁なんでって、そりゃ、仕事だもん⋮⋮﹂ ﹁仕事に命かけてどうすんの!? ニュースでさっき観たけど、館 内に最後まで残ってた受付嬢って未怜のことでしょ。ねえ、馬鹿で しょ!?﹂ ちょっと言いすぎだと思う。かまわないけど。 ﹁もうそんなことまでわかってるんだ。日本のメディアは優秀だね え⋮⋮﹂ ﹁悠長に感心してる場合じゃないよ。パパ、未怜の怪我を見て、一 ツ橋に怒鳴り込みに行っちゃったんだからね﹂ ﹁嘘﹂ 私は掛け布団ごとがばっと飛び起きた。止めにいかなきゃ。しか し足の痛みに怯んでうずくまる。 ﹁いった⋮⋮!﹂ 神経を直に引っ張られているみたい。激痛のあまり、くらりとす る。こんなに痛いの、初めてだ。 439 ﹁ほら、動けないならちゃんと寝てなよ、未怜﹂ ﹁ね、寝てる場合じゃないよ! お、お父さん、私、止めなきゃ﹂ ﹁安心しなって。お父さんならお母さんが引き止めにいったから。 多分、そろそろ戻ってくると思う﹂ ﹁な、⋮⋮﹂ なら最初からそう言ってくれればいいのに。 支えを失ったロングブーツみたいに、私はふたたびベッドに体を 横たえる。心臓が止まるかと思った。 ﹁お母さんね、甘えん坊の未怜がひとりで館内に残ったこと、よほ どの決意だったんじゃないかって言ってたんだ﹂ ﹁お母さんが⋮⋮?﹂ だからそうだって言ってるじゃん、と怜李は言って唇を尖らせる。 ﹁だからこそ、ここで親がしゃしゃり出てったらいけないって。き っとお父さんのことも、ちゃんと説得してくれたと思うよ﹂ 足の痛みは酷いけれど、それよりもっと、胸がじんとした。 ﹁それを先に言おうよ⋮⋮﹂ ﹁仕返しだよ﹂ ﹁なにそれ﹂ ﹁だって未怜、今まで何でもあたしにベラベラ喋ってた癖にさ、最 近静かだと思ったら、めっちゃイケてる彼氏とかつくってるし。ほ んとムカつくし﹂ ﹁は⋮⋮?﹂ 彼氏って、誰が。 440 私が眉をひそめると、怜李は不本意そうな顔でベッドサイドのロ ッカーを指差す。そこには、見覚えのあるメモ帳の切れはしが無造 作に乗せてあった。 ﹁これ⋮⋮﹂ 猶さんの。どうしてここに。手に取って表に返すと、微かなコン ソメの香り。 そこにびっしりと記された文字は、怜李の声のように小さくふる えている。 ﹃未怜さんへ 無事で良かった。 君を傷つけた私がこんなことを心配するのはおかしいかもしれな いけれど、ほっとして力が抜けました。火傷、酷くないことを祈り ます。 昨日は本当にごめん。無我夢中で駆けつけたけれど、顔を合わせ る勇気はないので、寝ているうちに帰ります。﹄ 帰る、って、猶さん、ここにいたんだ。この匂い、夢じゃなかっ たんだ⋮⋮! ﹃君が勇気をふりしぼったこと、上司の方から聞きました。ますま す合わせる顔がないな。﹄ 怜李がぶつぶつ言っているけれど、何を言っているのかはわから ない。 ﹃本当は、ものすごく伝えたい言葉があります。けれど、今はまだ、 説得力のかけらもないからやめておく。﹄ 441 彼が綴った文字を辿りながら、私はやはり涙をこらえていた。 ﹃私も勇気を出すよ。君には敵わないかもしれないけれど。そうだ な、年内には前倒しで独立をする。ここに宣言するよ。﹄ 一文字でも、見逃したくなくて。猶さん。猶さん、文字だけでも こんなに恋しい。 ﹃自分の店を持って、堂々と君を迎えにいく。そのとき、大切なこ とを伝えるから待っていてほしい。﹄ 迎えに⋮⋮って、ねえ、どういう意味? 続く彼の名前を読んだ 途端、嗚咽があふれた。 ﹁⋮⋮っ、ふ、ぇええ⋮⋮ええ﹂ 猶さんが閉めた蓋の中、何が入っているのか、透けて見えてしま って。 ﹁ちょっ、未怜!? 突然泣かないでよっ、まさかフラれた!?﹂ ﹁ちがう、たぶん、逆ぅ⋮⋮うううぅ﹂ そうだよね、猶さん。そう思ってもいいんだよね、私。 大泣きをはじめたところで、父と母がやってきて、何事かとうろ たえていたけれど止まらなかった。 五分ほど泣いて、泣きやんだ後には怜李におつかいを頼んだ。手 話の本を買ってきて、と。 彼がいつやってきても良いように。そのとき私からも、大事な言 葉を伝えられるように。 442 それから︱︱。 数日後、自宅療養に移った私を、早速訪ねてくれたのは神野先輩 だった。 彼女によると一ツ橋デパートは改修までの間、一ヶ月間の休館に なるそうだ。 仕事中に怪我を負った私には何やら補償があるらしいということ で、その書類も持ってきてくれていた。 ﹁火傷は大丈夫? まだ痛む⋮⋮わよね﹂ ﹁いえ、大丈夫です。でもあの、この火傷のことで私、先輩に相談 があって﹂ ﹁相談?﹂ ﹁はい。私、受付嬢、辞めようと思っていて。出来たら店頭から事 務所へ、移らせてもらいたいんです﹂ 実を言うと、私の火傷治療は一ヶ月なんて短期では終わりそうに なくて、さらにいえば足に痕が残ってしまうとのことだった。 ある程度はきれいになるらしいのだけれど、それでも元のように は戻らないのだとか。 ミニスカートを着なければならない仕事は、もう、出来ないと思 う。 そんな経緯を話すと、先輩は沈痛そうに俯いてしまった。 ﹁そう⋮⋮﹂ ﹁や、あの、そんな顔しないでください。私、落ち込んでるわけじ ゃないので﹂ そこで取り出したるは、猶さんからの例のメモ。それと、入院中 443 にこっそりやりとりしたメールも。 ﹁私、事務の仕事も覚えておきたいんです。猶さんと、猶さんのお 店のために﹂ いつか、彼の店を共に切り盛りしていく日のために。 そのために、受付だけでなく事務員の仕事も経験しておきたいの だ。今からでは大したことは覚えられないかもしれないけど、それ でも。 先輩はメモを読み終え、私の携帯電話を覗き込むと、いつの間に、 と呟いた。 表示されているのは、昨夜﹃おやすみ﹄をやりとりしたメールだ。 ﹁ミレちゃんと猶さん、うまくいってたのね。良かった⋮⋮﹂ ﹁ふふ、報告が遅くなってすみません。猶さんのスケジュール通り に事が運べば、私のほうが先に退社しちゃうかもしれませんよ﹂ ﹁ええ? 困るわ。ミレちゃん、一番熱心に手話、勉強してくれて たのに﹂ ﹁あ、でも手話は私、勉強続けたいと思ってるんです。後輩じゃな くなっても、教えてもらえますか?﹂ ﹁私が?﹂ ﹁はい。先輩には、手話もだけど他にもいろんなこと、これからも 教えてもらえたらって思ってて﹂ だって尊敬してるんだもん。 先輩は妙な顔をして、うーんと唸る。そして言った。 ﹁未来のお義姉さんの頼みとあっては断れないわね﹂ ﹁オネエサンって誰のことです?﹂ ﹁⋮⋮まだ知らなかったのね。あのね、実は私の婚約者、猶さんの 444 ︱︱﹂ 弟なのよ。 その言葉に、私が絶叫したことは言うまでもない。 *** 先輩はその後、これからの猶さんたち兄弟について、少し話して から帰って行った。 今はどうにもならないかもしれないけれど、いつかは私達が距離 を縮めるのに一役かってあげられたらいいな、というのが共通認識 だ。とはいえ。 私は確信犯でひとつ、先輩に黙っておいたことがある。 実はあの火事以降、猶さんは弟さんについて、ぽつりぽつり語っ てくれるようになったのだ。 何かあったのかなあ、と想像したりはするけれど、はっきり尋ね たことはない。 そのうち、理由を聞けたら先輩にも教えてあげたいな、なんて。 ︱︱私と猶さんは毎日、メールで語り合う。 今日食べたチョコレートがすごく美味しかったとか、君に似合い そうな帽子を見つけたよ、とか、何気ないことばかりを延々と。 しかし本当に大事なことは、あえてお互い、伝えないでいる。 この気持ちも。日々、積み重ねている努力も。踏み出そうとして いる一歩のことも。 そうして再会したとき、彼をどれだけびっくりさせられるか、考 えるのも楽しくて。 445 ﹁Knowledge よねっ﹂ is power.⋮⋮知識は力なり、だ いつか彼の地で聞いた、ことわざを呟いて私は窓を閉めた。最近 めっきり夜風が冷たくなった。 机の上では、手話のテキストがノートと一緒に広げられている。 今日のノルマはあと三ページ、終わったら猶さんに、またメール を打とう。 いつか、彼の隣に立てる日まで、毎日。 明日は、今日以上の私になれたらいい。 伸びをして、カーテンを引く。と︱︱、 マーメイド・完︼ 階下から﹁お姉ちゃーん、お茶入ったよー!﹂妹が、私を呼んだ。 ︻カクメイ *未怜サイドは完結ですが、維紗サイドは続きます⋮ 446 15、ホスピタリティ︵a︶ 翌朝、目を覚ました私の視界に、最初に飛び込んで来たのは綴く んの丸めた背中だった。狭い我が家のキッチンで、なにやら慌ただ しく動くそれは、開いたドアの隙間でとても目立って見えた。 ここ数日、見慣れた光景だ。 ﹁⋮⋮おはよう、綴くん﹂ 呼びかけると、彼は大型犬のように嬉々として振り返り、ぱたぱ morning、維紗ちゃん! でもまだ寝てていい たベッドまで戻ってくる。 ﹁Good よ、寝不足だろ﹂ ﹁ううん、大丈夫。起きて準備しないと、綴くんのこと、空港まで 送れなくなっちゃうし﹂ そうなのだ。今日は彼がイギリスに帰国する日。 リサさんと共に夕方の飛行機に乗るそうで、昼には空港で落ち合 う約束をしている。 一緒に食事をしましょう、と誘われたのだけれど、今度は私が奢 る番よね。 ﹁はあ、あっという間だったよなぁ﹂ 綴くんはため息をついて、私を抱き起こしながらキスをする。ち ゅ、という軽いキスには、応えかたも随分慣れた。 447 ﹁そうね。ごめんね、私が仕事ばっかりだったから、あまり一緒に いられなかったよね﹂ ﹁謝るなよ。仕事は維紗ちゃんの所為じゃないだろ。それに僕は君 が働く姿、存分に眺められたから結構満足してるんだ﹂ ﹁え、眺め⋮⋮もしかして一ツ橋、来てた? いつ?﹂ 青ざめてしまった。まさか猶さんとの会話、見られていたのだろ うか。 ﹁教えない。日本に来てこっそり君を眺めるの、僕の習慣みたいな ものだから、内緒にしておいたほうがこれからも都合がいいんだ﹂ ﹁これからって⋮⋮で、でも、来てたなら教えてくれれば、私、休 憩時間とか﹂ ﹁呼ぼうとは思ったんだ。でも僕のものになった君を影から見てる ってのも、結構優越感というか﹂ ﹁そ、そう⋮⋮?﹂ 猶さんとのこと、見られてはいなかったのかな。どっちなんだろ。 ﹁君は僕のもの。そうだろ﹂ 間近で見つめあったあと首筋にもキスをされ、私は身をよじった。 ﹁こら、だめ、コンロ、火がついてるんじゃ﹂ ﹁消してきた。⋮⋮いいだろ、ちょっとだけ﹂ ﹁ちょ、ちょっとで済んだためしがないじゃないっ﹂ ﹁分かってるなら話は早いや﹂ ひょいっ、と抱え上げられて、次の瞬間、ベッドに腰掛けた彼の 膝に、跨がる格好で抱き締められてしまった。 448 ﹁や、やだ、こんなの、恥ずかし⋮⋮!﹂ 昨夜、寝落ちたときのまま、つまり裸で私はジタバタする。明る い! 明るいのに、足、広げすぎ⋮⋮! ﹁抵抗すると落ちるよ? 後頭部、床に強打したら痛いよ?﹂ ﹁ん、やーっ、や、ダメだってば、どっちもだめぇ﹂ ﹁たまにはこうやって維紗ちゃんから誘ってみせてよ﹂ ﹁む、無理ぃっ、⋮⋮!﹂ 指先でつうっと腰を撫でられ、全身に鳥肌が立った。 綴くんはちょうど目の前にある私の胸に顔をうずめて、感触を楽 しむように目を閉じる。柔らかな前髪が、羽毛のように肌をくすぐ るのがたまらない。 ﹁まあ、君から誘われたりしたら僕は、完全にストッパーが外れる だろうけど﹂ そんなもの、まだあったのね。 ﹁な⋮⋮なら、絶対誘えないわ、⋮⋮ただでさえ、私、毎回いっぱ いいっぱいなのに﹂ ﹁そう? まあ、そのうち慣れると思うよ。あ、そういえば維紗ち ゃん、僕にならどんなことでもされたいって言ってなかった?﹂ 言っ⋮⋮たような気がする。すると、 ﹁︱︱きゃあっ、ちょ、何!?﹂ 449 いきなりうつ伏せの格好でベッドに押し倒され、背中にのしっ、 と乗られてしまった。肩甲骨のあたりに音を立ててキスをされ、指 先に力が入らなくなる。 ﹁⋮⋮あ、⋮⋮っは⋮⋮﹂ 背中から、わき、ウエスト、そしてヒップへと下っていく生暖か い感触。時々ちりっと感じる痛みには、すぐに恍惚としてくる。 ﹁背中もきれいなんだね、君は﹂ そう言いながら、彼が触れているのは私のお尻だ。乳房にそうす るように優しく揉まれたら、あっという間に火がついた。 ﹁や、⋮⋮イヤ、くすぐった、い⋮⋮っ﹂ ﹁⋮⋮どうしていつも、イヤとかダメとか言うんだよ。本当に嫌な らやめるけど、どうなの﹂ ﹁ん、っ⋮⋮や、じゃな⋮⋮﹂ ﹁それだけ? ほら、素直に言いなよ。イイならイイって﹂ そんな。 涙目でちらと振り返った私を見下ろし、彼は笑った。 ﹁言えよ。これは命令。なんだってされたいんだろ?﹂ ︱︱意地悪。 文句を言うかわりに彼を抱き寄せると、一度胸にギュッと閉じ込 めてから、不器用なキスを見舞った。 *** 450 その腕から解放されたのは約一時間後のことだ。宣言通り、いつ もの彼に比べれば“ちょっとだけ”の抱擁になった。 恥ずかしいことをさんざん言わされて、私にとっては長い一時間 だったのだけど。 ﹁じゃ、まだ早いけど出発しようか!﹂ しかも朝食を食べ終えた途端に、彼はそんなことを言い出す。 ﹁え、もう!? 待って、メイクが﹂ ﹁薄化粧で充分きれいなのに。︱︱よし、タイムリミットは十五分 後だ。いいね﹂ ﹁ええっ、女子の身支度に十五分は短すぎるわよ!﹂ 反論すれど綴くんは聞く耳を持たず、デニムにニット、その上に ジャケットを羽織って一分少々で身支度をしてしまう。 髪なんて手櫛で数秒だ。素早い。というか、それだけでそんなに 見目麗しく仕上がるなんて狡い。 ﹁やだ、待って、うそでしょ﹂ しまいには焦る私を尻目に、洗濯機を回して、食器を洗いはじめ た。 どちらも要領はもう心得たみたいで、危なげないのだけれど、だ からこそ余計にこっちは焦る。 ﹁僕のパジャマ、次に来るまで置いといてくれる? 今、一緒に洗 濯してるから﹂ ﹁う、うん。うわ、イヤーっ、アイラインはみ出した!﹂ 451 ﹁落ち着いて、維紗ちゃん。まだ五分もあるからね﹂ ﹁日本語違うっ。五分には﹃も﹄じゃなくて﹃しか﹄ってつけるの よ!﹂ ﹁それは言語じゃなくて主観の問題じゃないかな﹂ 結局アパートをでたのは三十分後、十時を五分ほど過ぎた頃だっ た。 ﹁ねえ綴くん、やっぱりちょっと早すぎない?﹂ もっときちんと髪までセットしてお見送りしたかったのに。不満 に眉をひそめていると、 ﹁寄りたいところが二か所あってさ﹂ 綴くんはそんなことを言ってタクシーをつかまえ、運転手に方向 を指示した。空港へのバス乗り場とは間逆だ。 ﹁二か所? どことどこ?﹂ 促されるまま、後部座席に乗り込みながら問う。ドアが閉まり、 タクシーは滑るように走り出した。 ﹁ひとつ目は初日に食事をしたホテル。君、何か掴めそうで掴めな いって顔してたから、復習﹂ ﹁え⋮⋮﹂ そうだ、そういえば。 リサさんが“助言”として経験させてくれた、ドレスコードのあ る高級ホテルの接客︱︱そこから自分の仕事にいかせること、私、 452 まだ、何も見つけていない。 ﹁しょ、食事するの? 綴くん、デニムで大丈夫なの﹂ ﹁まあ、話を聞くくらいならただの通行人にも可能だと思うよ﹂ 453 16、ホスピタリティ︵b︶ どういうこと? 訳もわからぬうちにタクシーはホテルの正面入り口に停車してし まい、私は綴くんに押し出されるようにして、絢爛なエントランス に降り立った。 入館しなくても大丈夫、なんて言っていた彼は、ドアマンと二∼ me!﹂ 三言葉を交わした後、突然私の手を引いてロビーへと踏み入ってい く。 ﹁Excuse そうして、英語で話しかけたのはコンシェルジュカウンターの男 性スタッフだった。 ﹁いかがなさいましたか﹂ ﹁ちょっと聞きたいことがあるんだけどいいかな。あ、質問がある のは僕じゃなくて、僕のパートナーなんだけど﹂ ﹁はい、どのようなご用件でしょう﹂ 男性は動揺したそぶりなど一切みせず、流暢な英語で答えてにっ こり笑う。流石の対応だ。むしろ、突然他言語での会話が始まって しまって、焦ったのは私のほう。 ﹁え、綴くん、私っ⋮⋮﹂ 英語で話さなきゃ駄目? チラと見ると、綴くんは﹁喋りやすい ほうでどうぞ﹂と肩をすくめた。 454 数秒の無言。彼と会話をしていると、たまにこんな場面に出くわ す。話したいことは自分の口からはっきりと。無言のうちに、そう 促される。 和をもって尊しとなす、ムラ社会の日本人としてはときどきドッ キリする。 ﹁あ、あの、先日こちらでディナーを頂いたんですけど、あの、す ごく美味しかったです﹂ ああ、味の感想を述べてどうするの。 ﹁ありがとうございます、料理長にそう伝えます﹂ 日本語で返されて、すこしだけホッとした。 ﹁それで、あの⋮⋮おうかがいしたいのは、接客のことなんです。 食事中も、それ以外のときも、なんだか不思議な感じがして﹂ ﹁と、申されますと﹂ ﹁格式のあるホテルですし、背筋は伸びるんです。でも、背伸びし なきゃならない雰囲気でもなくて、すごく、等身大でいられるって いうか﹂ ありがとうございます、と答えて彼は再び歯を見せる。 ﹁マニュアルがないからでしょうか﹂ ﹁えっ?﹂ ﹁当方、接客のマニュアルなどは特に渡されないのです。すべてが、 スタッフ個人の裁量なのです﹂ そんな。じゃあどうやって参考にしたら。絶句した私に、彼は続 455 けて言う。 ﹁ただ、疑問に思ったことは話し合うことにしています。特に多く 話題とされるのは“どこまでお客様にしてさしあげても良いのか” という疑問でしょうか﹂ ﹁あ⋮⋮!﹂ それが聞きたいのだ。目を見開いた私の真意を、彼は悟ったよう だった。 ﹁答えは、未熟故、私にもまだはっきりとはわかりません。そうい うと、上司にはこう言われます。接客の是非に疑問を抱くのは、ま だまだ﹃してやっている﹄という姿勢である証拠なのだと﹂ かあっ、と顔全体が熱くなる。思わず目を伏せて、ショルダーバ ッグの取っ手を握った。 ﹃してやっている﹄︱︱。 私、そんなふうに思ってた? ﹁そ、そう、ですか、⋮⋮ありがとう、ございました、っ﹂ 私は綴くんの手を引くと、カウンターから一歩後ずさって頭を下 げた。逃げるようにして、その場を後にする。 恥ずかしいと思った。強烈に。 七年間もカウンターに立っていて、私、何をやっていたんだろう ︱︱。 ﹁維紗ちゃん、そんなに焦らなくても大丈夫だよ。この格好でも入 館していいってドアマンの人、言ってたし﹂ 456 綴くんは平気な声でそう言うけれど、彼の顔を直視するのも躊躇 われるほど、私は自分を恥じていた。 “どこまでへりくだったらいいのか”、ですって? なんでそんなこと、何年も疑問に思っていられたのだろう。こん な私が部下を叱るなんてとんでもない。偉そうなことを言う資格、 一切ないじゃない。 ﹁維紗ちゃん?﹂ ホテルのエントランスを出、大通りに面した並木道まで辿り着い たところで、綴くんに足を止められた。隠す暇もなく、顔を覗き込 まれる。 ﹁大丈夫? 目、真っ赤だ﹂ ﹁や、見ないで⋮⋮っ﹂ 突き放そうとした両手は簡単に封じられ、気付いたときには広い 腕の中にいた。 ﹁わかった。でも、僕が見られないものを、他の誰かに晒すのは駄 目だ﹂ 同じ洗剤で洗ったのに、どうして綴くんの服からは綴くんの匂い しかしないんだろう。じんわりと、涙が滲んでくる。 ﹁⋮⋮っ、綴くんはわかってたの? 私の疑問の、答え⋮⋮﹂ ﹁ううん、残念ながら。知ってたら、もっとうまくやったよ﹂ ﹁⋮⋮そう。でも、きっと、リサさんは知ってたよね﹂ だろうね、と淡い声がつむじに染みる。 457 ﹁最初に君のことを相談したとき、母さん、どうしようかしばらく 考え込んでたから﹂ ﹁そっか⋮⋮﹂ そういえば、リサさんもレイさんに、似たようなことをしてもら ったと言っていた。今の私と同じような気持ち、味わったのだろう か。 ﹁⋮⋮ごめん、ありがと。もう平気﹂ 離れがたいぬくもりから体を剥がす。私、やっぱり、もっとちゃ んと今の仕事と向き合わなきゃ。 このところ、綴くんのことばかり考えて、うわのそらだったこと もあった。そういうの、だめだ。 このまま退職したら、後で絶対に後悔する。 ﹁本当に?﹂ 私の考えを見越したように、彼は訝しげな声で問う。 ﹁平気そうには見えない。君はいつだって、本当に肝心なことは自 分一人で飛び越えようとするから﹂ ﹁ほ、本当に平気よ﹂ それにこれは、私が乗り越えなきゃならないことだし。 すると綴くんはムッとした顔で私の腰に手を回し、強引に方向を 転換させた。 ﹁︱︱行き先、変える。本当は婚約指輪を注文しに行こうと思って 458 たけど、そんなものじゃ拘束力が足りない﹂ ﹁え? え﹂ ﹁タクシーを拾うから、君は運転手に実家の住所を言うんだ。いい ね﹂ ﹁は!?﹂ 459 17、ホスピタリティ︵c︶ ﹁お邪魔します!﹂ 綴くんが澄んだ声を張り上げると、季実子さんが何事かと狼狽し た顔で飛び出してきた。 実家の玄関をこんなに居辛いと思ったのは初めてだ。 急に尋ねて来られたって、火事の影響で臨時休暇となった私と違 い、紋兄は仕事だろうし、季実子さんだって暇じゃないし、そもそ も父が家にいるかどうかもわからない。 そう言って聞かせたのに、綴くんは聞く耳を持たなかった。 ﹁お父さんはご在宅ですか﹂ ﹁え? お父さんのお知り合いの方? 維紗ちゃん、どういうこと﹂ ﹁あ、あの、これは﹂ ﹁僕は彼女の恋人です。彼女のお父さんに面会させていただけませ んか。お話があります﹂ 綴くんの勢いに圧され、季実子さんはわたわたしながらスリッパ を引っ張りだす。 ﹁ええと、い、居間に居ります。廊下のすぐ左です﹂ ﹁ありがとうございます、お義姉さん﹂ ﹁おねえ⋮⋮!?﹂ 異国の美形に微笑まれ真っ赤になる彼女を可愛いと微笑ましく感 じつつも、いっそ門前払いしてくれたら良かったのに、とちょっぴ り恨みに思う。 460 ああ、どうしよう。 ﹁い、維紗ちゃん、彼、もしかして噂の英国人の彼氏⋮⋮?﹂ ﹁う、うん。ご、ごめんなさい、突然で。今日、帰国の予定だった んだけど、どうしても来るって聞かなくて﹂ ﹁お話、ってことは結婚のことよね﹂ ﹁う、うん、たぶん﹂ そんなことをコソコソ話しながら遅れて居間に到着した私は、父 に土下座する綴くんの背中を見た。 ﹁葦手綴と申します。娘さんを︱︱維紗さんを、僕に下さい。必ず 幸せにします。お義父さんがこれまで大切に育ててこられたように、 それ以上に、命をかけて大切にすると誓います。お願いします!﹂ どこでこんな日本流の挨拶、覚えてきたのだろう。堂々として迷 いもないし、完璧だ。 感心と同時に感動してしまった。 私、つい半年ほど前にはまだ、自分が男の人にこんなことを言っ てもらえるとは思ってもみなかったな⋮⋮。 じんわり滲んだ涙を、人差し指で拭う。父には以前、イギリスに 行ってあちらで結婚をする、という話をしてあるから、まず問題な いだろう。しかし。 ﹁葦手くんと言ったか。君、えらく若いように見えるがいくつかね﹂ ﹁もうすぐ十九になります﹂ ﹁⋮⋮失礼だが、定職にはついているのか﹂ ﹁いえ、まだ。学生です。大学に通っています﹂ 途端、皺だらけの父の眉間に、よりいっそう深い皺が刻まれる。 461 季実子さんはお茶を汲みに台所へ行ってしまって、私は廊下で一 人、居間に踏み込んでも良いものか、躊躇していた。 ﹁それで、どうやって維紗を養うというのかね。学生の身で結婚は 早すぎはしないか。それとも、そうせねばならない理由でも、君は つくったというのか﹂ 綴くんひとりを糾弾するような言葉に、慌ててしまう。理由、っ てお父さん、なにか誤解してる。 ﹁あのねお父さん、私、別に妊娠してるとかじゃないのよ。それに 綴くん、すごく割の良いアルバイトをしてて、私より収入、いいく らいで⋮⋮﹂ ﹁おまえは黙っていなさい﹂ これほどぴしゃりと諌められたのは子供のとき以来で、父の本気 を感じ、もはや黙り込むしかなかった。 ﹁どうなんだ? 葦手くん﹂ ﹁彼女のいう通りです。隠していることはなにもありません。貯金 も、いざというとき生活に困らない程度にはあります。ですが、お 義父さんが不安になるのも、ごもっともだと⋮⋮思います。所詮は 学生ですから﹂ ﹁なら帰りたまえ﹂ ﹁お、お父さん⋮⋮!?﹂ なんてことを。 頭を下げたままの綴くんの横に駆け寄って、私はようやく父を正 面に見た。 462 ﹁突然何を言ってるの? これまで全然反対しなかったのに。お母 さんの位牌だってくれたでしょ。イギリスに連れて行ってやってく れって﹂ ﹁彼が学生とは聞いていない﹂ ﹁そ、それは、そうだけど。でも、収入はあるし、私だって働くわ。 生活には、ふたりで責任を持って⋮⋮﹂ ﹁それこそ子供でも出来たらどうする﹂ ぐっ、と答えに詰まってしまった。慣れない土地で出産するのを 想像しただけで、通常より困難が伴うことは目に見えている。 ﹁おまえは考えが甘いんだ。結婚は幻想じゃない。現実なんだ﹂ ﹁そんなのわかってるわ!﹂ ﹁わかっていない! ⋮⋮わかっていないからこそ、わかっている だなんて軽々しく言えるんだ﹂ お茶を運んで来た季実子さんが、それを持ってふたたび廊下を引 き返していく気配がした。 ﹁維紗、例えば結婚したその日に彼が病気で倒れたとしたらどうす る。どうやってイギリスで彼を支えていくのか、考えたことはある か﹂ ﹁それは﹂ ﹁おまえたちは一時の感情で盛り上がっているだけだ。冷静になれ ば、その苦労を思い知る。思い知ってからでは︱︱遅いんだ﹂ 重みのある父の言葉。言い返せずにいると、綴くんが頭を持ち上 げながら、言った。 ﹁お義父さんのお考えは承知しました。けれど、僕の維紗さんへの 463 気持ちは変わりません。彼女と結婚したい。彼女以外、考えられな いんです﹂ ﹁⋮⋮帰りたまえ﹂ ﹁今日のところはそうさせていただきます。日を改めて、また伺わ せてください﹂ ﹁断る。二度と敷居をまたがないでくれ﹂ ﹁お父さん、どうしてそんな酷いこと⋮⋮!﹂ ﹁いいんだ、維紗ちゃん﹂ 泣き出しそうな私の手を握り、柔らかく微笑んでから、彼は父へ と迷いのない視線を向ける。 ﹁お許しを頂けるまで、何度でも参ります。お義父さんが安心して 僕に娘さんを預けようと思ってくださるまで、諦めませんから﹂ 予想外の困難との、邂逅だった。 464 18、エピローグ︵a︶ 綴くんが帰国してからの私は火事の事後処理に追われ、一ツ橋デ パートが通常営業しているときのシフトより、ずっと忙しく、慌た だしかった。 余計なことを、考えている余裕など一切ないくらい。 最も骨が折れたのは、カウンターの内部にあった品物リストの復 旧だ。 リストはどこの売り場にどんな物が置いてあるのか、逆引きでき る索引のファイルで、お客様に尋ねられた時、素早くご案内するた めのもの。受付業務の必需品だ。 パソコンに残っていたデータは古く、各売り場で保管しているも のも書き加えた部分がそれぞれ違っていて、精査するのに悪戦苦闘 してしまった。 加え、私には火傷を負ってしまった後輩︱︱ミレちゃんを見舞う という重大任務が課せられていた。補修工事中の一ツ橋に設置され た仮の本部を拠点に、彼女の家を訪ねる日々。 ランチなんて食べている時間はほとんどなくて、一ヶ月で四キロ ちかく痩せた。 救いだったのはミレちゃんが怪我の割に元気だったことだ。つい でに言えば猶さんとの仲も順調らしく、私は少しだけ彼女を羨まし いと感じてしまった。 あれ以来、綴くんと話すのは決まっていつも夜中で、私はひとり ぼっちの部屋の中、なんとなくいつも不安で、口癖のように聞いて しまう。 ﹁私達、本当に結婚できるのかな?﹂ 465 綴くんを選ぶと決めた日、家族を全員振り切ってでもイギリスに 永住しようなんて考えていたのが嘘みたい。 父に許しを貰えなかった。それだけで全人類に全てを否定された 気分。 二人の仲も、綴くんのことも、綴くんを選んだ自分のことも。 ︵どうすればいいっていうの⋮⋮︶ しかし私が弱音を吐くと綴くんは決まって﹁大丈夫だよ﹂と宥め てくれる。笑顔で、根気よく、私よりずっと大人の顔をして。 彼の優しさにはもちろん救われたけれど、そのたび自分の不甲斐 なさを実感してしまって、苦しかった。 それで、というわけではないけれど、もともと二人のことなのに 全てを綴くんに任せきりでいるのは違う気がして、単独で父を説得 しに行ったりもした。 どうにか彼との結婚を認めてもらおうと、私は何度も、様々なア プローチから父の説得を試みた。 成果は上がらなかったけれど。 秋が終わり、冬が来て、約束のクリスマスを前にしても。 *** ﹁維紗ちゃん、ちょっといいかしら。買い出しに付き合ってもらっ ても﹂ 466 その日、やはり実家を訪ねていた私は、季実子さんから外出の誘 いを受けた。天地を逆にして雪を降らせたかのような、真っ白で冷 たい空の日だった。 季実子さんによると、お正月に使うもの︱︱おせち料理の食材な どを調達しに行きたいのに、紋兄が忙しくて車を出せないとのこと。 子供達は父に預けるから、買い物のほうは私に手伝って欲しいと いうことだった。 ﹁うん、行く行く﹂ 父と一緒にこの場に残されても会話に困るし、最終的には言い争 いに発展することがこれまでの経験からわかっていたので、私は快 諾し、コートを羽織って家の外に出た。 季実子さんはすでにもこもこのダウンを着込んで、門の外にいた。 ﹁今日こそ降るかしらね、初雪。うちの子達、もう二、三日前から そわそわしてて﹂ ﹁どうでしょうね。うーん、降ったら降ったで興奮しそうだけど、 私はやっぱり寒くて挫けるかな﹂ ﹁私も﹂ 季実子さんは駅へ向けて歩き出しながらふふっと笑って、その続 きのように﹁ねえ﹂。 ﹁維紗ちゃん、私ね、今流行りのつぶやきってやつ、してみようと おもうの﹂ ﹁は?﹂ Twitterのことだろうか。しかしパソコンはおろか携帯電 話の操作もままならない機械オンチの季実子さんがつぶやきって⋮ 467 ⋮誰かにそそのかされたのかな。ママ友の影響? なんて思っていると、﹁じゃあつぶやきます。これはつぶやきだ から、特定の誰かに向けたものじゃないのよ﹂彼女は横目で私をい たずらっぽく見、突如語り出した。 ﹁最近、義理の妹が父親に結婚を反対されていて、すごく大変そう。 でも、旦那さんに﹃どうにかできないの?﹄って相談したら、馬鹿 だなあと呆れられました﹂ ﹁き、季実子さん?﹂ なに、これ、どう反応したらいいの。 ﹁旦那さんが言うには、お父さんは老人会に出かけるたび、娘さん に外国人の恋人が出来たことを自慢して、さらに国際結婚について も詳しい人に尋ねていたそうです﹂ ﹁お父さんが⋮⋮?﹂ どうして、と尋ねたけれど、一人でつぶやいている季実子さんは 答えない。 ﹁何を考えているのかなあと思いながら先日、掃除をしていたら私、 お父さんの部屋で見つけちゃいました﹂ 少し、間を置いて。 ﹁パスポート。しかも、最近作ったばかりの﹂ ﹁き、季実子さん、それって﹂ ﹁私、お父さんにそれとなく聞いてみました。﹃お父さん、飛行機 嫌いじゃなかったの?﹄お父さんは困った顔で﹃娘の花嫁姿を見逃 したらかあさんに申し訳ない﹄と﹃まだ維紗には言うな﹄なんて言 468 って、そっぽを向いてしまいました﹂ 私は俯いた。白い息が、唇からあふれる。 ﹁そこで思い出したのは、私の両親に、紋さんがご挨拶に来てくれ た時のこと。私達、長い付き合いだったのに、父は紋さんにその日 だけそっけなくて、理不尽に思っていたら母が教えてくれたこと﹂ そうして季実子さんは、私に向かって微笑んだ。 ﹁⋮⋮﹃反対して当然でしょ。だってこれはお父さんが娘の彼氏を 試せる、最後のチャンスなのよ﹄﹂ 469 19、エピローグ︵b︶ 思わず立ち止まってしまった。むしろ、動けなかった。視界が滲 んで、前が見えなくて。 綴くんの意味深な笑みがそこにぼんやりと蘇ってくる。彼は、最 初からわかっていたのだろうか。 だからあんなふうに、根拠も示さず、大丈夫だよって言ってくれ ていたのだろうか。 ﹁ね、維紗ちゃん。クリスマスは大きなケーキ、作ろうか。綴くん も食べることになるかもしれないものね﹂ ﹁季⋮⋮実子さん、私、わたし﹂ ﹁ほら、泣かないの。これからいっぱい荷物持つんだから、元気に 行かなきゃ﹂ なんて言ったくせに季実子さんは涙ぐんでいて、人目をはばから ず、私を抱き締めてくれた。力強いけれど華奢な温もり。安心する。 かじかんだ指で触れた彼女の細さを、優しさを、私はこれからどこ へ行っても懐かしく思い出すだろう。 ﹁⋮⋮大晦日は、お義母さん直伝の伊達巻き、レシピを教えるから。 それからお雑煮も。ちゃんと、覚えて、イギリスでも作ってね﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ ﹁おせちもひとりぶん多く作っておきましょ。大晦日は忙しくなる わ﹂ ﹁うん﹂ 私達はちょっと笑って涙を拭いて、それからゆっくり買い物へ向 470 かった。途中、カフェや雑貨屋さんで道草を食いながら。そういえ ば何年か前、母ともこんなふうに歩いたなあ、と私はふいに記憶を 蘇らせたりして。 母が亡くなってから、季実子さんは私にとって、義姉というより 母に近い存在だったのかもしれない。そう、悟った。 Christmas!﹂ 綴くんが日本に到着したのは翌日、クリスマスイブの夕方だった。 *** ﹁維紗ちゃん、Merry 空港で出迎えた私に両手を広げて駆け寄ってくる彼は、相変わら ず大型犬みたいだ。無邪気で可愛らしいけれど色っぽくて強引で。 ほんのりブラウンの細い髪が照明にさらさら透ける。見蕩れてい たら大胆にもキス、それから両腕で力一杯抱き締められた。 ﹁逢いたかった。死ぬほど逢いたかった﹂ ﹁⋮⋮私も﹂ 周囲の視線を思うと顔が上げられない。しかし俯く私の顎を持ち 上げ、綴くんはもう一度キスをする。両頬にも、音を立てて。 恥ずかしいのに、彼の匂いを感じたらホッとして力が抜けてしま った。 不思議だ。綴くんとの付き合いはまだ浅いのに、私は彼の側にい ると﹃帰ってきた﹄感じがする。 側にいることが、一番自然な気がする。 ﹁お土産、たくさん買ってきたよ。君の家族にもね。あ、母さんと 父さんからも預かってるし﹂ 471 バス乗り場へ向かう綴くんの機嫌は上々だ。旅慣れた傷だらけの トランクを、転がす動作も軽い。 ﹁受け取ってもらえるかしら。お父さん、まだ態度は頑なよ﹂ ﹁承知の上だよ。でも、諦めないから。︱︱というより、むしろい いほうだと思うな。僕のgrandmaなんてさ、箒を振り回すか らね﹂ ﹁ほ、箒。振り回すって、レイさんに?﹂ Ya、と綴くんは答えて苦々しい顔で笑う。前回もそうだったけ れど、日本に到着したばかりの彼の言葉にはちょくちょく英語が混 じる。 耳に心地いいと思うのはやっぱり恋心の所為? ﹁もちろん母さんにもね。grandmaは容赦ないんだ。⋮⋮こ んなことを言うのはなんだけどさ、僕、父さんと母さんの手前、維 紗ちゃんのお父さんにも、反対されて良かったなって思うんだよね え﹂ ﹁そうかなあ。そういうもの?﹂ ﹁そういうものだよ。それにほら、愛は乗り越えることで強くなる からね!﹂ ﹁前向きね、綴くん﹂ ﹁当然﹂ 綴くんは笑顔でそう言って私の手を握り、私は、恋した人が彼で 良かったと心の底から思った。 この人となら、一生、何があっても必ず乗り越えていける。 そんな気がする。 472 *** 翌日から例の説得活動を開始するのかと思いきや、綴くんはその 日のうちに我が家を訪ねたいという。 クリスマスイブ、イコール恋人らしいデートをする日、だと思っ ていた私は当然戸惑った。だって、付き合い出してから初めてのク リスマスなのだ。 一生に一度しかないスペシャルなイベントだ。 プレゼントだって用意してきたし、都内を案内してあげようと思 って、ミレちゃんから夜景の綺麗な穴場スポットも教えてもらった のに。 ﹁あ、明日出直そうよ。だって年明けまでいるんでしょ﹂ ﹁いるけどさ、一回でも多く頭を下げて誠意をみせておきたいんだ。 一日も早く家族だって認めてもらいたいからね﹂ ﹁でも、クリスマスイブ⋮⋮﹂ ﹁それはお義父さんに追い出されてからでも間に合うよ﹂ 頑としてきかない。結局、ホテルに荷物を預けに寄って、その足 で神野家へ向かう羽目になってしまった。 綴くん、もしかしたら父に似ているのかも。頑固なところ。 しかし、やってきた神野家では予想外の出来事が待ち受けていた。 ﹁︱︱そこへ座れ﹂ 父が、将棋盤を用意して縁側にいたのだ。息が白くなるほど寒い のに。 敷居を跨ぐな、と言った手前、それ以上奥へは導き入れたくなか ったのかもしれない、というのは私の推測。 綴くんは言われるまま盤の反対側に座り、﹁あの、お義父さ⋮⋮﹂ 473 本題に入ろうとしたようなのだけれど、 ﹁将棋を指したことはあるかね﹂ 父の低い声にあっけなく封じられてしまった。これがこのたびの 父の作戦なのだろう、とようやく悟った。 きっと父は綴くんに﹃娘さんをください﹄とは言わせないつもり なのだ。頭を下げさせないつもりなのだ。 そうして何かを︱︱見極めようとしているのだ。 ﹁いえ、すみません、将棋はまったく。チェスなら得意ですが﹂ ﹁そうか。なら、ひととおり説明する﹂ ﹁はい、よろしくお願いします!﹂ 長々としたルールの説明を聞く綴くんの顔は真剣で、本来の目的 を忘れてしまったようにも見える。 居間からそわそわと見守っていたら、季実子さんがお茶を持って きて隣に座った。 ﹁一生懸命ね。綴くんも、お父さんも﹂ ﹁ホント。結婚の話というより、将棋に。あれ、私そっちのけじゃ ないかな﹂ ﹁あら、そんなことないわよ。お義父さんったらね、今朝、教育テ レビで英会話の⋮⋮﹂季実子さんが言いかけたところで、 ﹁季実子さん、黙っていてくれないか﹂ 父が、エホン、と古典的な咳払い付きで遮った。私達は顔を見合 わせて、肩をすくめ、結局黙る。 将棋の説明は、父の個人的解釈を交え長々と続く。途中、熱がこ もりすぎて声をはりあげてしまうほどに。 474 私は半分くらいきいたところで脳内ギブアップ、理解するまでに は至らなかったのだけれど、 ﹁どうだ、できるか﹂ ﹁はい、やってみます﹂ 綴くんは大きく頷いて、ニットの袖口を捲った。流石に私とは脳 味噌の出来が違う。 475 20、エピローグ︵c︶ その後、私は季実子さんに誘われ、夕食の支度をはじめた。チキ ンを焼いたり、クリスマスケーキをデコレーションしたり。 ふと気付いたときには日暮れ、長い夜が幕を開けていた。 窓越しに見れば、縁側の父と綴くんは互いに肩をすくめ、青白い 顔をしている。もはや我慢比べの様相だ。 慌てて毛布を持っていったら、案の定、邪魔をするなと父に追い 返されてしまった。 一時間半が経過しても、彼らは同じ格好のまま、盤を睨んでいる。 食事の準備もできてしまったし、手持ち無沙汰で私はテレビをつ けたり消したり、新聞を捲ったり閉じたり、何にも集中出来ない。 季実子さんが言うには子供達︱︱私にとっての甥っ子と姪っ子︱ ︱は子供会のクリスマスイベントに行っているらしく、仕事帰りの 紋兄に拾われてそろそろ帰宅するのでは、とのこと。 どうなるの? どうすればいいの? 心配になってふたたび縁側 へ覗きに行くと、 ﹁参りました。お義父さん、強いですね﹂ 綴くんが父に向かって頭を下げるところだった。 ﹁当たり前だ。なにしろ私はプロを破ったという友人を負かしたこ とがあるからな﹂ それは自慢になるのかどうか。私は呆れつつも、﹁お疲れさま﹂ 内心、落胆してしまった。綴くん、負けちゃったのか。 こんな弱い男に娘はやれん、だから出て行けと言われるのが関の 476 山だろうな。いいとこ、強くなって出直せ、だ。 しかし、父は満足そうに笑うと、客間の向こう、仏壇のある部屋 を示して、言ったのだ。 ﹁葦手くん、線香をあげてきたまえ﹂ えっ。私は綴くんと目を見合わせる。お線香? 今、お父さん、 お線香って言った? ﹁何をボケッとしてる。早く行きなさい﹂ ﹁あ、は、はい﹂ ﹁おい維紗、おまえは行かなくていい。︱︱季実子さん! 悪いが 彼を仏間に案内してやってくれ﹂ 何が起こったのか、わからなかった。どうして仏間になんて。今、 綴くん、お父さんに負けたんだよね? 立ったまま彼らが仏間へ消えていくのを見送っていると、﹁維紗﹂ 背後から、小さな声で呼ばれた。 ﹁維紗、そこに座りなさい﹂ ﹁あっ、う、うん﹂ 何を言われるのだろう。もしかして、これを最後に逢うなとか? 怖々、綴くんが座っていたあたりに腰を下ろす。座布団のないそ の場所は、板に直接彼の体温が残っている。 ﹁彼は、若すぎるうえに素直すぎるな。おまえと比べたら、世間知 らずでまだまだ地に足がついていない﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ 477 頷きながら、膝の上で両手をぎゅっと握り合わせた。 ﹁それは痛感してる﹂ ﹁そうか﹂ ﹁本音を言うと、不安だらけなの。年齢差があることも、彼が学生 だってことも、結婚することも、海外へ行くことも。家族と離れて やっていけるのかとか、彼がこれから別の若い子に目移りしちゃっ たらどうしようとかも﹂ 季実子さんの言葉を信じるなら、今、私だって父に試されている のかもしれない。だとしたら伝えなきゃ。私の決意、わかってもら わなきゃ。 ﹁でも⋮⋮私、三十年生きてきて、こんなにいっぺんにいろんなこ とを悩んだの、初めてなの。いつもゴチャゴチャ考えてた気がする けど、ここまで深く、人生とか将来とかについて、考えたことはな くて﹂ けれど、これ以上何を言ったらいいだろう。 好きだからとか側にいたいからとか、彼を信じてるとか、そんな 月並みな言葉ならこれまでに言い尽くした。どれも、説得力なんて ほとんどないということはわかっている。きっと自分が父だとして も、甘い、と言うに違いない。 ﹁わ、私、⋮⋮﹂ 盤上に目がいく。綴くんの、努力の跡がそこに見える。無駄にし たくない。なのに。 ﹁私、綴くんに出会って、初めて自分のことが、少しわかった気が 478 したの﹂ 声が震える。うまいことが言えない。 ﹁だって、綴くんにあうまで、楽しいことも、嬉しいことも、不安 なことも、心配事も、こんなに具体的じゃなかった﹂ もう、何をどうしたらいいのかわからない。情けない。歯痒くて、 奥歯を噛んだ。綴くんはこんなに寒い中、頑張ってくれたのに。 すると父は長く息を吐いて、ぽつりと言ったのだ。 ﹁彼は、人を騙すような男じゃあないな。それだけは、わかった﹂ ﹁えっ⋮⋮?﹂ ﹁教えた通り、素直に指した。寒さに文句も言わず、じっと黙って そこにいた﹂ 思わず顔を上げる。父が、笑っている。 ﹁ふたりとも、夕飯を一緒に食べて行くといい﹂ 何を言われているのかわからなかった。ふたり、って、私と綴く ん? 夕飯、って、ここで? 皆と? 前回は敷居さえ跨ぐなと言 っていたのに、なんで突然。 ﹁お父さん、あの﹂ ﹁勘違いするな。結婚を認めたわけじゃない﹂ ﹁でも、ご飯って、いいの?﹂ 戸惑う私の元に、綴くんと季実子さんが戻ってくる。父は再び﹁ せっかくだから食べて行きなさい﹂と言って、腰をさすりながら立 479 ち上がった。 ﹁お義父さん、大丈夫ですか﹂ 居間へと向かう父に、季実子さんが寄り添う。神経痛が、とか寒 くてかなわん、とかぶつぶつ言う声は、直後にテレビの音で掻き消 された。 私と綴くんは縁側で顔を見合わせたまま、茫然としてしまう。 ﹁維紗ちゃん、お義父さん、今、なにを﹂ ﹁私にもよくわからないの。ただ、夕飯を食べて行けって︱︱﹂ 言ったのよね。私が夢を見ていたのでなければ。チラと居間を見 る。父は知らん顔でテレビ鑑賞に興じている。 本当にどうしよう。 すると、玄関がガラリと開いて﹁ただいまーっ﹂﹁ただいま!﹂ ﹁帰ったぞ、季実子ー﹂元気な声が続けざまに響いた。 甥っ子と姪っ子と、そして紋兄だ。彼らは運動会のように先を競 って廊下を駆けてき、襖を開けるなり固まった。視線は居間を通り 越し、縁側の私達二人に向けられている。 ﹁あ、え、ええと﹂ お帰りと言うべきか、綴くんの紹介をすべきかでまごついている と、子供達二人はおそるおそる近付いてきて、じいっと綴くんを見 上げた。 珍しいものを見る目だ。無理もないけれど。綴くんの容姿はきれ いとかカッコイイとかいう以前に、完全なる異国の人のそれなのだ から。 人混みではよく見かけるだろうけど、突然自宅にいたら︱︱びっ 480 くりして当然だ。 ﹁あのね、この人は、﹂ ﹁⋮⋮サンタさん?﹂ 妹である姪っ子のほうが先にそう言った。兄である甥っ子も、同 じように言って首を傾げる。紋兄はまだ目を丸くしている。 ﹁こーら、お客様をじろじろ見たら駄目っていつも言ってるでしょ。 その人はサンタさんじゃなくて、維紗ちゃんの彼氏﹂ コップを並べながら、季実子さんが諌める。父はまだ、テレビに 見入っている。 ﹁カレシ? 維紗ちゃんの?﹂ ﹁ええ。これから旦那さんになる人なのよ。ふたりともちゃんとご 挨拶して﹂ ﹁えーっ﹂ 旦那さん。季実子さんははっきりそう言ったのに、父はそれを否 定しなかった。 ﹁ほら、紋さんも上着くらい脱がなきゃ﹂ ﹁あ、ああ、そうだな、挨拶は、な、ないすとうみーちゅー、でい いのか﹂ ﹁初めまして、葦手綴と申します。日本語で大丈夫ですよ、お義兄 さん﹂ ﹁お、おお⋮⋮、凄い、淀みのない日本語だな。俺は維紗の兄、紋 といいます。役所勤めの公務員です﹂ ﹁ご立派ですね。よろしくお願いします﹂ 481 紋兄と綴くんが握手をすると、子供達も緊張がとけたようで、口 々に自己紹介をはじめた。 綴くんはしゃがみ込んで、彼らと目線をあわせ﹁よろしくね﹂に こやかに挨拶してくれる。信じられない光景だ。 ﹁⋮⋮よかったわね﹂ 季実子さんに囁かれ、私は涙目で頷く。﹁うん﹂ ﹁あのね、お義父さんだけどね、英語を覚えようと頭を使っている のがいいらしくて、最近、前ほどものを忘れないのよ。すごいでし ょ﹂ ﹁えっ﹂ ﹁そうねえ、今夜は皆で綴くんに英語を教えてもらうっていうのは どうかしら﹂ その言葉通り英会話のレクチャーがあったわけではないけれど、 その夜は結局、終電を過ぎてしまった。みんなで、綴くんに根掘り 葉掘り聞きすぎたのだと思う。 子供達が寝る、というタイミングでタクシーを呼び、彼のホテル へと向かった。 イブは終わってしまっていたけど、夜景の見える部屋でメリーク リスマスと言ってプレゼントを渡した。 電池の入っていない腕時計。わざわざ、お店で外してもらってき た。 無事に籍を入れられたら︱︱その日に動き出す予定。 482 ﹁維紗ちゃんはロマンチストだね﹂ ﹁綴くんほどじゃないわ﹂ かわりに、彼から差し出されたものは、本物のダイヤモンドが輝 く婚約指輪だった。 最初に貰ったプラスチックの指輪より、それは何倍も、何十倍も きれいに見えた。 483 21、エピローグ︵d︶ それから︱︱。 年明け早々、退職願を提出したミレちゃんは春がくると同時に一 ツ橋を去った。予想通り、先を越されてしまったわけだ。退職も、 結婚も。 旦那さまである猶さんは、彼女にとって最後の出勤日、出迎えの ために店頭へやってきたのだけれど、そのときも相変わらず細身の スーツ姿で、デキるサラリーマンといったふうだったから、ちょっ と笑ってしまった。 やっぱり、綴くんと猶さん、どこか似てるのよね。 だって、好きな人に逢いにくるのに、スーツ。確か、綴くんもそ のチョイスだった。 育った環境は違うけれど血の繋がった兄弟、わだかまりが取り去 れる日も、きっと近いなって。 お二人から連名で手紙が届いたのは、それから二ヶ月後のこと。 梅雨があけるかあけないか、というころだ。 内容はもちろん、結婚披露パーティーへの招待状。場所はという と、彼らが経営するフレンチレストランだった。すぐさま出席にマ ルをして送り返したことはいうまでもない。 当日は初夏の爽やかな気候で、ささやかなパーティーは私の涙腺 を緩ませ続けた。綴くんやレイさん、リサさんにも見せてあげよう とデジカメで写真を撮りまくったことは、ここだけの秘密。 ミレちゃんは﹁先輩の結婚式の二次会もここでやりましょう!﹂ と言ってくれたけれど、どうなるだろう? 484 そんなことで一年の半分は急流のように過ぎてしまったわけだけ れど、本当に大変だったのはこれからだ。 私は自分が退職したあとの業務に支障が出ないよう、引き継ぎや その他周辺の資料を作成しつつ引っ越しの準備に追われた。 一人暮らしの部屋は場所が限られているはずなのに、どんどん荷 物が増えていくのはどうしてだろう。 手伝いにきてくれた季実子さんも呆れるほどで、最低限のものだ け持っていって、あとは必要に応じて実家から送るわと言ってくれ た。 彼に再会した夏、結婚を決めた秋を懐かしむ間もなく時は過ぎた。 me !﹂ やがて新しい冬を迎え、私は空港でひとり、待つ。︱︱新郎の到 着を。 ﹁Excuse I buy a bus corner. OK ?﹂ left at ticket そわそわしながら到着ロビーをうろついていると、ブロンドの髪 can の女性に呼び止められた。 ﹁Where ?﹂ バスのチケット? next ﹁ええと、そこを左折したところです。Turn the オーバージェスチャーでご案内をし、彼女を見送ったところで、 ポンと肩を叩く柔らかな体温。 485 振り返ると、ダウンジャケットを着込んだ綴くんが笑顔で立って いた。いつの間に。 ﹁Excellent. 君はどんどん発音が良くなるね。僕の指 導の成果だと思っていいのかな﹂ ﹁綴くん! 見てたの?﹂ ﹁うんまあ。焦って駆け寄ることもないだろ、今回ばっかりは。な んたって束の間の逢瀬じゃないんだから﹂ ﹁⋮⋮意地が悪いわ﹂ ﹁その意地悪な男に、君は五日後、連れ去られるわけだけど?﹂ その通りだ。 日本で挙式と披露宴を済ませて、私は彼の母国へ“帰る”ことに なっている。リサさんとレイさんは明日、遅れて日本入りする予定 だ。 もうっ、と唇を尖らせたら、軽いキスでさらわれてしまった。 ﹁食事を先にする? それともホテルにチェックインする? ああ でも、二人きりになったら外出する気はなくなっちゃいそうだな﹂ ﹁焦らないんじゃなかったのー﹂ ﹁それとこれとは別。よし、まずは君を堪能しよう。決めた﹂ ﹁ええ? あの、私、お昼もまだなんだけど﹂ ﹁買っていって部屋で食べればいいよ。余裕があればだけど﹂ or under remedy evil a is sun, there the いたずらに笑って先を行く彼を、私は追いかけて行って手を繋ぐ。 is every もう二度と離さないように、強く、強く。 For There noe, 486 If there be be it, there find If t. one, i you mind till never seek none, you my whole life﹂ この先、何が待ち受けているかなんてわからないけれど、あなた とならきっと大丈夫。 love あるはずのない答えだって、きっと見つかるわ。 ﹁⋮⋮I'll 生涯愛してる。囁いた私の手をぎゅっと握り返す大きな手。 冬の太陽はやけに低くて、私は目を細めながら、それでも彼の隣 を歩いた。 <fin.> ⇒新婚編が、ちょこっと続きます。 487 Parsley, Sage, Rosemary and Thyme・1︵ *綴視点からの、新婚編です。視点が変わりますのでご注意下さい ませ。 488 Parsley, ﹁維紗ちゃん﹂ Sage, Rosemary and Thyme・1︵ 僕は二階に向かって呼びかける。出来うるかぎり紳士的に、穏や かに、真心につとめて。ちなみにこれで十回目だ。返答は未だない。 ﹁維ー紗ちゃん﹂ 十一回目。これが犬なら近所から苦情が来るね。いつまで餌をや らないつもりだい、って。 だけど僕は生憎、犬じゃあなければ猫でもないしネズミでもない。 そもそもウチのアパートはペット禁止だ。 ﹁僕の可愛い維紗ちゃん﹂ 無言は続く。こんなときは静かに淡々と自己主張を続ける壁のア ンティーク時計さえも憎くなるものなんだな。ひとつ利口になった。 父さんもよく言ってる。日々に無駄なことなんてないんだって。 とはいえもうお手上げだ。僕は無言の廊下に両手をあげて降参を 表現する。君の頑固さには負けたよ。 しかし、寝室に閉じこもりきりの彼女がそれを知りうる術はない。 エスパーでも無い限りね。ああもう。 ﹁そろそろ機嫌を直して。クリスマス市へ行こう。もう一週間も前 からの約束だよ﹂ 目覚まし時計は鳴ったかい? わざとらしく英語で尋ねかけたら、 489 ボソボソと小鳥が鳴くような声が聞こえてきた。 ﹁⋮⋮嫌。一人で行って﹂ 完全にご機嫌斜めだ。身に覚えはある。僕自身でなく、友人のラ リーもといローレンスに対してだけど。 あの野郎、次に会ったら前触れもなくアッパーカットで沈めてや る。 ﹁愛する君をひとり残して市なんて行けるわけがないじゃないか﹂ ﹁なら行かなきゃいいでしょ﹂ ﹁それでどうやってクリスマスを過ごすのさ。僕は嫌だよ、パーテ ィーに招かれて悉く手ぶらとか﹂ ﹁⋮⋮しらないっ﹂ 維紗ちゃんのいじけた声は最高に可愛いけれど事態は深刻だ。僕 は階段を昇り、寝室のドアをノックする。 ﹁開けて?﹂ ﹁イヤ﹂ 実を言うと、昨夜からこの部屋は無菌室⋮⋮というのはもちろん 冗談で、僕は単なる締め出しを食らった身。リビングのソファーは 氷のように冷たくて、一晩中震えが止まらなかった。 冬場に妻を怒らせてはいけない。教訓だ。 ﹁ラリーが言ってたこと、まだ気にしてるの?﹂ ﹁まだ、って何﹂ ﹁ごめん、言い方が悪かったよ。でも、あれは誤解なんだ。断じて 真実じゃあ⋮⋮﹂ 490 ﹁誤解されるようなことはしてたんでしょ。でなきゃ、結婚の噂な んてたたないもの﹂ うー、と維紗ちゃんは唸って枕にうつ伏せた⋮⋮気配がした。か すかにすすり泣く声が聞こえてきて、僕は胸が潰れそうになる。 そうだ。昨日我が家に遊びにきたラリーが放った一言﹃ハイスク ール時代、カトーはスーザンと結婚するものだと思ってたよ﹄、こ れが彼女の機嫌を損ねてしまった。 あの野郎、次の次に会った時はカウンターで一撃だ。 そしてカトーというのは僕のあだ名。何故だかいつの間にか名付 けられて、仲間内ではそう呼ばれている。由来は多分日本人の血が 混じっているからとか、そんなところだろう。あだ名なんてひどく いい加減なものなんだ。 ﹁⋮⋮確かに、学生時代スーと仲が良かったことは認めるよ。でも それは友情であって恋じゃあない。彼女は頭が良かったから、僕は いつも刺激を受けていたんだ。それだけだ﹂ 僕は必死で呼びかける。誤解だ。結婚する前も今も、僕はもう十 年以上も君に恋をしてる。こうしている間もね。 ﹁どうせ私は綴くんほど頭、よくないわ。そのスーザンさんと違っ て、綴くんと同じ大学には行けないわよ。刺激も与えられなくてご めんなさいね﹂ ﹁そういうことを言ってるんじゃない。君は充分刺激的だよ。そし て誰より魅力的だ﹂ ﹁うそつき。過去の付き合いについてどうこう言う権利はないって わかってるけど、だけど、七年間君だけを見てたなんて言って口説 いておきながら、突然こんなの⋮⋮っ、ショック、受けないわけが ないわよ⋮⋮!﹂ 491 ﹁嘘じゃないよ。僕は本当に⋮⋮、ああ、どうしたら信じてくれる の﹂ 本当にどうしたらいいんだ。 結婚四年目、初めての夫婦喧嘩に僕は困惑するばかりだった。 492 Parsley, Sage, Rosemary and そもそも維紗ちゃんの自信のなさは度を超している。 Thyme・2︵ あんなに可愛くてセクシーで気遣いもできて料理だってうまいの に、何故だかいつも﹁至らない﹂と自分を卑下する。さらなる努力 を惜しまないくせに、﹁まだまだ﹂だと言ってはばからない。 私、完璧よ! と胸を張って自慢してもいいのに。きっと、君の 生活を知っている人間なら誰もブーイングなんかしないよ。 事実、完璧なんだから。 僕がいま展開している語学スクールの基礎を三年かけて築いてく れたのは彼女だし、どんなに忙しくても家事を僕に分担させない根 性は見上げたものだと思う。 合間をぬって母さんに料理を教わりに行っていることも、父さん に経営の話を聞きに行っていることも、僕は知っている。 イギリス中を探したってあんなに優秀な妻はふたりといないよ。 これだけは断言出来る。 と、以前母さんに話をしたら、日本人はみんなそうなのよ、なん てことを言っていたけど、正直、維紗ちゃんは母さんより何倍もよ く働くんだ。 いつもベッドに入るのは僕よりあとだし。なのに朝、起きるのは 僕より一時間も早いし。 ランチなんて、たまに立ったままキッチンで食べている。最初に 見たときは彼女、もしかしたら回遊魚の生まれ変わりなんじゃない かって思ったね。 とにかく、ああいうのを妻のカガミって言うんだ。そんな彼女を 妻に出来た僕は宇宙一の幸せ者だ。 考えていたら維紗ちゃんの顔がどうしても見たくなって、僕は寝 室のドアノブに手をかけた。 493 この部屋に鍵はない。それは昨夜ももちろん承知していたけど。 ⋮⋮今朝になれば許してもらえるかも、だからそっとしておこう、 なんて狡い考えだったね。 ﹁維紗ちゃん、入るよ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁近くに行ってもかまわない?﹂ 返答はない。僕はそうっとベッドに近付き、縁に腰を下ろす。そ うして、うつ伏せている彼女の髪を撫でた。 ﹁最近、結い上げた姿を見ないな。⋮⋮忙しいから? だとしたら 僕の責任だね﹂ ﹁⋮⋮そんなこと﹂ ﹁でも、今、君が泣いているのは僕の所為だ。ごめん。もう言い逃 れはしないよ﹂ 維紗ちゃんは僅かに顔を上げて、真っ赤な目でちらと僕をみる。 ﹁⋮⋮私こそ⋮⋮意地、張ってごめんなさい﹂ ﹁君は何も悪くないよ。そうだろ﹂ ﹁でも﹂ でも、と繰り返し言って彼女はまた枕に突っ伏す。﹁私⋮⋮﹂華 奢な肩が切なくて、僕はそこに覆い被さるようにして彼女を抱き締 めた。 ﹁好きだよ、維紗ちゃん。僕には君だけ﹂ 出会った瞬間からね。 494 実を言うと僕があの日︱︱とても落ち込んでいたあの日、維紗ち ゃんに声を掛けたのは母さんの一言があったからだった。 困ったことがあったら受付へ行くのよ、って。 母さんはもともとあそこの受付嬢だったから、彼女達が語学に堪 能で親切だということを知っていたのだと思う。 僕はそれを、﹁デパート内で困ったことがあったら﹂ではなく﹁ 日本で生活していて困ったことがあったら﹂なのだと取り違えてい た。 それで︱︱打ちのめされた僕が、声を掛けたのが維紗ちゃんだっ たというわけ。 とはいえ最初は失敗したなあと思ったんだ。だって維紗ちゃんの 英語はメチャクチャだったし、案内された場所に探していたものは なかったし。 けれど維紗ちゃんは魔法のような言葉で壁を飛び越える瞬間を見 せてくれた。幼い僕に勇気をくれた。 ﹁あのね、綴くん⋮⋮﹂ 最初からこうしておけばよかったな。細い背中にキスをしながら ﹁うん?﹂答えた僕に、彼女は言う。 ﹁私、綴くんと初めて出会った日に帰りたいわ﹂ なんだ、突然。 ﹁どうして。まさか結婚の約束、しないつもり? それとも僕と出 会いたくなかった?﹂ ﹁そうじゃない。そうじゃ、なくて⋮⋮﹂ もそもそと枕で涙を拭ったあと、彼女はためらいがちに寝返りを 495 打って仰向けになる。そうして泣き濡れた顔を誤魔化すように、僕 の首にしがみついた。 ﹁⋮⋮言いたいの。私、間違いなくあなたと結婚するって﹂ ﹁維紗ちゃん⋮⋮﹂ ﹁迎えに来てくれるなら、何年でもここで待ってるって⋮⋮だから、 だからね﹂ ﹁だから?﹂ ﹁⋮⋮それまで、私以外の女のひと、見ちゃダメって⋮⋮ダメって、 言いたい⋮⋮﹂ 鼻声でそんなことを囁かれて、平常心を保てる男がいるだろうか。 少なくとも僕は無理だ。そんなに人間、できちゃいない。 彼女の腕を強引に振り払い、僕はその唇を素早く奪う。 離れていたのは一晩だけ、それも、僕らを隔てていたのは薄い扉 一枚なのに、もう何年もこうしていなかった気になる。 冷えた唇を隙間なくぴったり重ねたら、涙の味がした。維紗ちゃ んが、僕を想って流した涙の味。 それさえ愉悦の材料になる僕は、極悪人だろうか。幸せだと言っ たら君は怒るかな。 ﹁⋮⋮そんなの、約束するまでもないじゃないか﹂ 額と、鼻筋、こめかみ、生え際に連ねるようなキスをする。僕で 彼女を埋めていく。隅々まで、隙間なく。 同じシャンプーを使っているはずなのに、維紗ちゃんからはいつ も甘い匂いがする。 僕はそのたびたまらなくなるんだ。この匂い、他の男も釣ってな いだろうなって。 496 ﹁本当に? 本っ当に、本気で言ってる?﹂ ﹁本当に本当。そうだなあ、それなら今度、ラリーと一緒にスーも ウチに招こう。そうすれば誤解はとけると思うよ﹂ ﹁⋮⋮どうして﹂ ﹁あのさ、ここだけの話、スーはラリーが好きだったんだよ。三つ の頃からね﹂ えっ、と言って維紗ちゃんは僕を見る。腫れた瞼も可愛いなんて 罪だね。 今では不思議だ。何故あの頃、僕は見ているだけで満足だなんて 思えたのだろう。それも、七年も。 ﹁ラリーには今年中に回し蹴りくらいは入れておきたいし、そうだ な、父さんたちとのクリスマスパーティーは二十四日だから、二十 三日にウチで会食でもしよう。いいかな?﹂ ﹁う、うん。いいけど⋮⋮﹂ ﹁よし、そうと決まったら準備だ。クリスマス市へ行くよ、維紗ち ゃん。急いで準備して﹂ 497 Parsley, Sage, Rosemary and Thyme・3︵ クリスマス市といえば本場はドイツだ。僕らが向かったのはテム ズ川沿いで本場の雰囲気が楽しめる“ケルン・クリスマスマーケッ ト”。 彼女とは結婚して以来毎年訪れている馴染みの市で、最寄り駅の ウォータールーまでは地下鉄を乗り継いで行った。これも、毎年の 恒例だ。 ﹁あ、綴くん、グリューワイン! 私、あれ大好き。飲みながらま わりましょ?﹂ ﹁うん、いいね。僕はホットチョコレートにしようかな﹂ ﹁あー、そっちもいいな。どうしようかな。ねえ、アルコールと甘 いの、どっちがカロリー高いと思う?﹂ ﹁君はそういうの気にしすぎ。デートのときくらい、好きなものを 美味しくとったらいいじゃないか﹂ ﹁そう? じゃあウィンナーも食べようっと。ワイン、買ってくる から待ってて!﹂ 電車に乗ってからも俯きがちだった維紗ちゃんは、市の賑わいを 前にしてあっという間にご機嫌になる。 さっきまでべそべそ泣いていたのは誰かなあ? なんて耳元で言 って苛めてやろうと思ったけど、寸前で呑み込んだ。 困った顔の維紗ちゃんはとてもセクシーだ。思い出すだけであの 表情は僕の本能に火をつける。 あんなの、他の男には見せたくないし、それに︱︱今はまだ笑顔 を見ていたいから。 498 ﹁おまたせーっ﹂ ワインを片手に戻って来た維紗ちゃんに、僕はウィンナーを差し 出す。 買ってから気づいたけど、ウィンナーとホットチョコレートの組 み合わせはないね。まあいい、これも経験だ。来年は気をつけよう。 彼女はありがとうと律儀に言ってウィンナーを受け取ると、ちょ こっと首を傾げた。 ﹁ねえ、私、家族のパーティーには和食を持っていくって約束して るんだけど、ちらし寿司とかでいいかしら﹂ 僕は思わず歓声を上げてしまう。 ﹁スシ! それは楽しみだ。僕、維紗ちゃんの作る花柄の巻き寿司、 大好きなんだ。納豆巻きだけはいただけないけど﹂ ﹁花柄⋮⋮そっか、そうね、巻き寿司の断面をクリスマスツリーと かにしたら可愛いかも。帰ったら早速試作しなきゃ。ありがと綴く ん、いいヒントをくれて﹂ ﹁どういたしまして。⋮⋮君は本当に働きものだね。感心する﹂ 時々、僕にレディーファーストの隙を与えないところ、あれは感 心しないけど。僕はちょっとだけ苦い気持ちで彼女の腰に手を回し、 露店の脇を歩き出す。 毎年のことながら、このシーズンのロンドンはロマンチックでデ ートには最適だ。 少し先に見えるのはあれ、メリーゴーランドかな。子供達とその 両親で賑わっている。僕も小さい頃は父さんにお願いして乗ったも のだったっけ。懐かしいや。 499 ﹁お義父さんとお義母さんには何をプレゼントする? ドイツのお 菓子は去年持っていったし、手袋とかマフラーはありきたりだわ﹂ オーナメントにツリー、それからクッキーの露店を通り過ぎつつ 彼女は言う。 ﹁一度、日本へ戻る機会があれば良かったんだけど⋮⋮こっちでは 何を用意してもあまり目新しくないのよね﹂ ﹁巻き寿司があれば充分じゃないか﹂ ﹁そういうわけにもいかないわよ。毎年、あんなに立派な料理と飾 り付けでもてなしてもらうんだもの﹂ 言って、直後、﹁あ、かわいい﹂と維紗ちゃんが気づいたように 立ち止まったのはランプのお店。星や三日月の形の。 確かに可愛い。 でも、つま先立ちをして店を覗き込む維紗ちゃんはもっと可愛い。 ポニーテールの後れ毛も可愛い。世界一可愛い。そんな彼女はなん と僕の奥さんだ。 近くにヤドリギはないかな、と不埒なことを考えていたら、振り 返った彼女に怪訝そうな顔で睨まれた。 ﹁ねえ綴くん、ちゃんと考えてる?﹂ ﹁考えてる考えてる﹂ 君のことを、だけど。 ゴメン、正直、他のことは考えていませんでした。 出会ってから十二年? 十三年? かな、それだけ経つのに、一 時たりと忘れさせてくれない君は凄いよ、維紗ちゃん。 そうして再び人混みの中を歩き出した僕は、前方に見覚えのある 後頭部を発見した。 500 少々癖のある、うねったブロンドヘア。加えて、本人に自覚症状 のないふらふらした動き。あれは︱︱。 ﹁ラリー?﹂ 眉をひそめながらその名を口にすると、疑わしき人物より先に維 紗ちゃんが﹁えっ﹂驚いたような反応を寄越した。 ﹁ラリーさん? いるの?﹂ ﹁うん。あれは間違いなくラリーだ﹂ 幼馴染みである僕が見間違えるわけはない。 市の中央を行く落ち着きのない動きを前に、耳には切ない啜り泣 きの声が蘇ってくる。 あの野郎、僕らの良好な夫婦関係にいっときでもヒビを入れやが って、翌日にクリスマス市でのうのうと買い物か。 仕舞っておいたはずの怒りが昇ってくるのを感じて、僕は手に持 っていたホットチョコレートのカップを維紗ちゃんに押し付けた。 ﹁⋮⋮ごめん。ちょっとこれ、持ってて﹂ ﹁え、ちょ、綴くんっ﹂ 呼ぶ声が聞こえたときには駆け出していた。 彼女を置き去りにするなんて心が痛むけれど、今はあの極悪人を 放置しておくほうが問題だ。むしろ僕の気がすまない。 人混みを掻き分け掻き分け、僕はミッション・インポッシブル気 取りの機敏な動きでヤツの背に迫る。 そうして、周囲の人を巻き添えにしないよう、タイミングを見計 らい︱︱ラリーが露店の一角で立ち止まったところで、不意打ちの 一撃を脇腹に見舞った。 501 ﹁ぐっ!⋮⋮か、カトー!? どうしたんだお前、湧いて出たのか っ﹂ 顔をしかめ、彼は僕を振り返る。湧いた、って? ﹁もちろん、お前を退治するためなら僕はどこからでも湧くさ﹂ 後頭部に致命傷を負わせなかったのはせめてものナサケってやつ だ。ジャパニーズカルチャー、こいつには言っても通じないだろう けど。 ﹁このやろう鈍器はあるか、差し出せ、もう一撃くれてやる﹂ 僕はヤツの首を腕で締めながら囁き落とした。恋人にいうように、 優しくだ。 ﹁あだっ、いだだだ、すでに一撃どころじゃなく食らわせてるじゃ ないかぐはっ、なんなんだよっ﹂ ﹁身に覚えがないとか言うなよ。言ったら鳥頭確定だ。クリスマス のローストチキンにしてやろう。家族でロースト・ラリーを囲んで パーティーだ、うわあ楽しいな﹂ ﹁んぐぐぐぐ、わか、わからんっ、降参!﹂ ﹁降参が早いんだよっ。この口でよくも﹃カトーはスーと結婚する と思ってた﹄とか余計なことを言ってくれたな!﹂ ちなみにここまで、スラング含みの英語でのやりとりだ。視界の 隅に、維紗ちゃんが焦った顔で駆け寄ってくるのが見えた。 この際、通行人たちの、好奇の視線は感じないことにする。 502 ﹁おかげで僕は初めての夫婦喧嘩を経験させてもらったよ。ラリー、 幼馴染みの君とは初めての経験を共有してばかりだよね。自転車、 スイミング、ああ、懐かしいな﹂ ﹁ぐ⋮⋮こ、降参、だってば⋮⋮﹂ ﹁綴くん、何してるの!? やめてぇ﹂ ﹁止めないで維紗ちゃん、こいつには積年の恨みがあるんだ!﹂ 僕はラリーの腰にがしがし膝蹴りを入れる。そうだ、学生時代に もよく、こいつのウッカリにはとばっちりをうけて痛い目を見てい たっけ。 良い機会だ、思い知らせてやる。 するとコトン、左足の甲に衝撃があった。何かが落ちた? ラリ ーの手から? 不審に思ってチラと見ると、そこにはなんと、ハリー・ウィンス トンの紙袋。 ﹁ラリー⋮⋮?﹂ この︱︱学生時代からさっぱりモテなかった冴えないラリーが宝 飾品店で買い物だって? あまりにもミスマッチな組み合わせに、僕は呆気にとられて拘束 の手を緩めた。 503 Parsley, Sage, Rosemary and Thyme・4︵ ラリーは糸の切れた操り人形のように、ドッと重い音を立ててコ ンクリートに膝を付く。それから激しく咽せ込みつつ、必死の形相 でこちらに腕を伸ばした。 掴んだのは、ハリーウィンストンの紙袋だ。命の次に大事だとで も言いたげな目をしていたから、思わず息を呑んでしまった。 こんな顔をする奴だったかな、って。 ﹁げほっ、⋮⋮なんだよっ、俺が指輪を買ったら、おかしいか⋮⋮ っ﹂ ﹁そういうわけじゃないけどさ。え、指輪? それ、中身は指輪な のか﹂ ﹁ああそうだよ、ピカピカ光る炭素がドンとのったやつだ!﹂ 光る炭素。それってまさか。 ﹁⋮⋮ダイヤモンド? 指輪にダイヤモンドって⋮⋮プロポーズで もするつもりなのか、ラリー﹂ ﹁そうさ。俺だって一生に一度くらいは玉砕覚悟でキヨミズからダ イブしたりするんだっ﹂ キヨミズ。よく知ってたなあ、と僕は感心する。意外だ。しかし 誰に結婚を申し込むつもりなんだ? ラリーを想うスーの顔が瞼の裏にチラついて茫然としていると、 ﹁大丈夫ですか? 綴くんが乱暴して、本当にごめんなさい﹂ 504 維紗ちゃんが申し訳なさそうにラリーに駆け寄り、彼を助け起こ そうとした。心まで綺麗だなんて、うちの奥さんは真に非の打ち所 がないね。 とはいえ今、公衆の面前で女性に手を差し伸べられるラリーの立 場は無いに等しい。日本で言うところの、男の沽券に関わる、って やつだ。僕は仕方なく維紗ちゃんを制止し、ラリーに右手を貸して やった。 ﹁で、誰のために飛び降りるつもりなんだい、キヨミズ﹂ 引っ張り起こしながら尋ねれば、 ﹁⋮⋮スーだよ﹂ 意外な答えが返ってきたから、僕はその手を離しそうになってし まった。 ﹁嘘だろ。君、彼女にはずっと興味ないって⋮⋮﹂ スーだけは恋愛対象にはならないって言っていたじゃないか。そ れも、十歳のころから。 ﹁ああ、おまえにはそう言ってた。だって俺は物心がついた頃から スーはカトーと結婚するものなんだって思ってたんだからな﹂ 悔しくて言えるわけがないだろう、とラリーは苛立った口調で言 う。突然腹を立てられても困るのだけど。 逆に、スーの片思いを応援し続けてきた身としては、おまえほど 鈍感な動物はいないぞ、と諭してやりたくなる。 505 ﹁おまえがイサさんと結婚してくれて、おまえがスーを選ばなくて、 俺がどれだけ安心したかわかるか!﹂ ﹁じゃあ君、昨日、あんなことをポロッと言ったのは﹂ ﹁口が滑ってつい本音を零しちゃったんだよっ﹂ 零しちゃった、って、ああもう、そういうことか??。 ﹁⋮⋮なら、クリスマス市でふらふらするのはもうやめて、スーの ところに行きなよ﹂ ﹁でもさ、俺、ふられたら最後、今年のクリスマスは楽しめそうに ないから、先に満喫しておこうと﹂ ﹁根性のないこと言うなよ、男だろ! 僕だって維紗ちゃんにプロ ポーズするときは怖かったよ﹂ ﹁カトーでも? 怖かった、のか﹂ ﹁当たり前じゃないか。人をなんだと思ってるんだよ﹂ ラリーのみならず、維紗ちゃんまでもが驚いた顔をして僕を見上 げる。そんなに意外かなあ。 ﹁でも、言わずにはいられなかった。他の男に攫われたらって考え たら、居ても立っても居られなかったんだ﹂ 僕がそう言うと、ラリーは自分の胸に手を当て眉をひそめた。目 が泳いでいる。迷っている、みたいだ。 ﹁スーが、他の男に﹂ ﹁そうだ。こうしている間にも、可愛い彼女は他の男にそれを迫ら れているかもしれない﹂ ﹁それは??﹂ 506 困る、と言ったラリーの目には決意が宿っていた。直後に無言で 駆け出した彼を、僕は維紗ちゃんと寄り添って見送る。 頑張れよ、と心の中でエールを送りつつ。 *** 僕らが住まうアパート??イギリスでいうところのフラット?? は通常より天井が少し高いヤツで、高さのぶん、家賃が少々かさむ 仕様となっている。部屋はキッチンにリビングダイニングとバスル ーム、ふたつのベッドルーム︵片方は書斎にしてる︶があって、そ こに家具もついていたから当然と言えば当然だ。 維紗ちゃんは当初﹁節約しなきゃダメよ﹂と渋っていたのだけど、 大家さんが日本贔屓で特別安く貸してくれ、晴れて入居がかなった のだった。 僕はずっとここに住むのが夢だったんだ。もちろん、維紗ちゃん と。 ﹁綴くんでも怖かったのね、プロポーズ﹂ 荷物を抱えて帰宅すると、僕らは真っ先にキッチンへ向かった。 購入した食材を仕舞うためだ。廊下の途中で彼女がそんなことを零 すから、僕は苦笑してしまった。 ﹁維紗ちゃんまでそれを言う?﹂ ﹁だって。綴くんほど素敵だったら、フラれる心配なんてしなくて もよさそうじゃない﹂ ﹁僕の申し出を一度断った君がよく言うよ。七年分の想いが散るか もしれない恐怖はなかなかのものだったよ。なんたって、僕は君と の結婚を前提に人生設計をしてたんだから﹂ 507 人参を冷蔵庫にしまいながら、そう? と答える維紗ちゃんはも はや若干他人事の様相。主婦の仕事を始めるといつもこうだ。今朝 はあんなにヤキモチを妬いて、僕に泣きついていたくせに⋮⋮なん だよ、もう。 心が狭い僕は彼女に背後から忍び寄り、細い腰に腕をまわした。 普段なら許せるけど、なんだか今日は気に食わない。 ﹁維ー紗ーちゃん﹂ ﹁こーら、邪魔しないの。キッチンが片付かないでしょ﹂ ﹁あとでいいよ。僕は君のキスが今すぐ欲しい﹂ ﹁ちょっと待って。片付けたら、すぐに⋮⋮んっ﹂ このままだと夜まで逃げ切られてしまいそうだったから、僕は彼 女を強引に振り向かせて唇を奪った。待てだって? 残念ながらも う一秒だって待てない。本当は、市へ行く前から触れたくてたまら なかったんだ。 冷蔵庫に押さえ付けて深く舌を差し込んだら、ワインの味が微か にした。 ﹁ちょ、⋮⋮綴、く、野菜が⋮⋮﹂ ﹁他のことは全部忘れて、僕のことだけ見て﹂ 彼女の身体を抱え上げ、キッチンカウンターの上に乗せる。﹁え、 あの﹂一旦逃げる体制になった維紗ちゃんは、何度か続けてキスを 与えると大人しくなった。 目がとろんとしている。そんなに良かった? というのは、もう 少し虐めてから聞こう。 ﹁維紗ちゃん、足、広げて﹂ 508 僕は彼女のニットに左手を突っ込み、下着の上から膨らみを掴み つつ囁き落とす。 ﹁ん⋮⋮する、の?﹂ ﹁わざわざ言わないといけない? ほら、足、ちゃんと開いて僕に 見せて﹂ ﹁あ、⋮⋮う、ん﹂ ﹁返事は﹃はい﹄だって教えただろ。もっと大胆に、だよ。それじ ゃ指が挿れられないだろ﹂ ﹁⋮⋮っはい⋮⋮﹂ 右手はすでに彼女のスカートの中だ。催促するように足の付け根 を探ったら、維紗ちゃんはカウンターの縁でおずおずと、長い足を M字に開いた。 ﹁⋮⋮そう、よく出来ました﹂ 真っ赤になった顔が僕の欲望に火を付ける。 普段、羞恥心の強い彼女が感じている時だけ従順になるのは、僕 がそう仕込んだからだ。僕が好きならいうことをきいて?、と、何 度も繰り返すうちに回路が出来たみたいだった。 優越感に浸りながら、彼女の足の間に顔を埋める。薄い布の上か ら舌を這わせたら、切ない声が漏れ聞こえてきた。 ﹁あ⋮⋮っ、綴くん⋮⋮っ﹂ ここに触れるたび、思い出す。初めてここに触れた男は⋮⋮初め て繋がった男は、他ならぬこの僕なのだと。維紗ちゃんはこの通り 魅力的だし、十一も歳上だから男性経験はあってしかるべきだと思 っていた。まさか自分がそれを手に入れられるなんて、思ってもみ 509 なかったんだ。 ﹁あ、っあ、下着⋮⋮っ﹂ ﹁脱ぐ? それともこのままされたい?﹂ ﹁⋮⋮っ、脱、がせて⋮⋮﹂ リクエストに応えて、僕は彼女の足から下着を剥ぎ取る。スカー トもコートも着ているのに下着だけつけていないなんて卑猥だね。 それからニットをたくし上げ、ブラからは両のバストをこぼれさせ た。 初めてこの胸に触れたときは驚いた。制服姿を見る限りではもっ と細身に思えたし、正直、女性の体がこんなに柔らかいなんて思わ なかったから。 ﹁んっ⋮⋮あ、あ⋮⋮っ﹂ 両胸を揉みしだきながら、僕は再び身体を屈める。舌で直接触れ たソコは、僕の行為に応えてきちんと濡れていた。 ﹁かわいい、維紗ちゃん⋮⋮僕のことが、好き?﹂ ﹁あっ⋮⋮、っん、はい、⋮⋮っ﹂ すき、と彼女は震える声で言う。こちらを見下ろす視線には、熱 がこもっていていつも以上に色っぽい。誘う時の目だ。僕にしか、 見せない顔だ。 考えたらたまらなくなって、僕は彼女を抱き寄せると自身をぐっ と押し当てた。 ﹁ごめん、指で慣らす余裕、ないや﹂ ﹁え⋮⋮? っ、ああぁあっ!﹂ 510 ﹁っ、維紗ちゃん、ナカ、熱⋮⋮、痛くなかった?﹂ ﹁あ、っん⋮⋮、平、気だか、ら⋮⋮このまま続き、して⋮⋮っ﹂ 顔を歪めて、喘ぎながらしがみついてくる彼女が可愛い。かわい い。どうしてこんなに可愛いんだ。 担ぎ上げて、めちゃくちゃに突いた。絡みついてくるナカは怖い くらい狭くて、壊してしまわないか、少しだけ心配になる。 ﹁んあぁっ、あ、⋮⋮⋮っいい、よぉ、綴く⋮⋮っ﹂ ﹁良かった。奥、届いてるの、わかる⋮⋮?﹂ ﹁ん、わかっ⋮⋮わか、る、⋮⋮っ﹂ 入った時から窮屈なのに、ソコは彼女が震えるたびにいっそう締 め付けを強くする。それでも動かずにいられないのは、僕の我慢が 足りないからだろうか。 ﹁あ、んぁあっ、わ、たしにも、させて⋮⋮っ、私も、動きたい⋮ ⋮っ﹂ 悶える彼女を、僕はカウンターに下ろして組み伏せる。いつも、 彼女が僕のために料理をしてくれている場所に。 ﹁駄目。今日は、初めてのときみたいに、僕にすべてを任せて﹂ 突く度に、豊かな胸が揺れて僕を誘う。反射的にそれを掴むと、 今度は掌の柔い感触が神経を麻痺させる。 全身全部気持ち良いなんて、狡いよ、維紗ちゃん。 ﹁やぁあ、っ⋮⋮ダメ、ゆっくりいっぱい動くの、だめぇっ﹂ ﹁⋮⋮君はこれ、本当に弱いよね﹂ 511 知っててやってるんだよ。 僕は彼女のナカを泳ぐように、ゆったりとねちっこくかき混ぜる。 かと思うと、時々、動きを止めて彼女が達しようとするのを阻止す る。 ﹁あ、っや、いや、いやぁっ﹂ ﹁かわい⋮⋮君をこんなふうに出来るのは、後にも先にも僕だけだ。 そうだろ﹂ 胸の先端を両方弾きながら問うと、悲鳴のような返答があった。 ﹁ゃあぁんっ、はい、っ、⋮⋮綴くんだけ、だからぁ、っ﹂ ﹁だから? ここに、出されたい?﹂ ﹁ん、っうん、ほ、欲しい、っ、欲しいよぉ﹂ ﹁⋮⋮わかった﹂ 僕は彼女の両肩を押さえつけ、抜き挿しの速度をはやめる。彼女 のほうからねだってくれてよかった。本当は、僕のほうが我慢の限 界だった。 ﹁あ、きちゃう、も⋮⋮っ、私、ダメ、綴く﹂ ﹁もうイけそう?﹂ ﹁んっ、お願⋮⋮、一緒がいい、一緒に、きて、ぇっ﹂ 腰をくねらせて僕を欲しがるさまはこの上なくセクシーだ。何度 満たしてもきっと足りない。 ﹁イったらすぐ、二度目、するよ?﹂ ﹁う、っん⋮⋮っ、して、⋮⋮っああ!﹂ 512 鼻にかかった嬌声を聞きながら、僕は彼女の腰を引き寄せ、挿入 を深くする。キツい、そのうえ、吸い付いてくるみたいだ。 ﹁あ、あ、綴く、きて、きてぇっ﹂ ビクン、と維紗ちゃんは腰を跳ね上げる。﹁あぁああ⋮⋮っんっ !﹂ナカが収縮を始めたのがわかったから、僕は彼女が欲するまま に、溜めていたものをそこに注ぎ込んだ。 ﹁⋮⋮っ﹂ 快感は一瞬、後に広がるのは幸福感だ。彼女を本当に手に入れた のだと、実感して泣きたくなる。 ずっとずっと、君だけを見てた。 自分の成長を待つことしか出来なかった七年間、あの歯痒さが、 もどかしさが、苛立ちが、昇華されていくような気がする。 ﹁愛してるよ、維紗ちゃん。僕には、⋮⋮君だけ﹂ ﹁ん⋮⋮私も⋮⋮私にも、綴くんだけ﹂ ﹁もう少し、動くよ⋮⋮﹂ ﹁あ、ん⋮⋮っ、あぁっ、ダメ、溢れちゃ⋮⋮っ﹂ 彼女は焦って、繋がった部分を押さえようとするけれど、僕はそ の手を拘束して、抜き挿しを繰り返した。僕が与えたものが、彼女 のナカで混じる。もっと、もっとメチャクチャに混ぜてやりたい。 ﹁は、っぁあっ、はあっ、あ、ダメ、だってばぁっ﹂ ﹁二度目、してってさっきは言ってたクセに。僕は君がイった後の ナカ、好きだよ。敏感で﹂ 513 ﹁んあっ、ああっ﹂ 荒い息を吐いて、ダメと言いながらも結局応えてくれる彼女が愛 しくて、苦しいくらい愛おしくて、カウンターに伏せる格好で抱き 締めた。 ﹁好きだよ、維紗ちゃん⋮⋮っ﹂ 囁きながら、二度目の放出をする。君だけは一生、どこにもやら ない。例え僕が先に死のうと、誰とも再婚なんかさせたくない??、 というのは身勝手なエゴかな。 寝落ちてしまいそうになっている彼女を抱え上げ、僕はその唇を キスで塞いだ。何度も、何度も角度を変えて舌を絡めあう。 行為後のキスは恒例だ。僕をナカへ挿れたまま、僕の気が済むま で唇を堪能させる。これが当たり前なのだと、彼女にはそう覚えさ せた。 ベッドへ移動したのは三十分後、カウンターでもう一度彼女を喘 がせてからだった。 そうだな、くれぐれも君に忘れないでいて欲しいのは??、 僕は今二十三で、性欲が衰えるのはまだまだ先の未来なんだって こと。 514 Parsley, Sage, Rosemary and Thyme・5︵ 寝室のベッドで目覚めると、周囲はたっぷりの暗闇に満ちていた。 すっかり寝過ごしてしまった。カーテンを引き忘れた窓は、漆で塗 り固めたみたいに真っ黒だ。 この様子だと夕食の時刻もとうに過ぎてるな。 僕は隣で眠りこけている可愛い奥さんの額にキスをひとつ落とし、 バスローブを羽織る。 向かったのはバスルームだ。蛇口をひねり、温度を確かめながら バスタブにお湯を溜めていく。 普段はシャワーで済ませてしまう我が家だけれど、彼女に無理を させたときは別だ。しっかり労をねぎらって、また次回の無茶にも 備えてもらわなきゃ。 ﹁維紗ちゃん、お風呂の準備できたよ。一緒に入ろう﹂ ﹁⋮⋮んー⋮⋮﹂ ﹁君の好きな柚子の入浴剤を入れたんだ。未怜義姉さんが送ってく れたやつ。さあ起きて﹂ 未怜義姉さん、というのは僕の実の兄さんの奥さんの名前。彼女 は維紗ちゃんの元後輩で、つまり一ツ橋デパートの受付嬢だった過 去がある。兄さんは未だに僕と口をきいてくれないけれど、なんだ か親近感を覚えて嬉しかった。 それに、維紗ちゃんが義姉さんと連絡を密にしていてくれるのは 有難い。兄さんの様子も、考えていることもある程度は教えてもら えるから、僕らは本当に助かってるんだ。 ﹁維紗ちゃん?﹂ 515 もしや二度寝に突入かい? 寝息が聞こえるよ。 しかたないなあ、と呟き漏らし、僕はベッドの端に腰を降ろす。 目覚めのキスをあげよう。 ちゅ、と音を立てて唇をついばむと、維紗ちゃんの眉間にはなん と、深い皺が寄った。いかにも鬱陶しそうな表情に、僕は衝撃を受 けて固まった。 ﹁愛する旦那さんに対してする顔じゃあないよ、それ⋮⋮﹂ 酷いじゃないか。むっとしながら、その皺をグイグイ伸ばしてや る。 ﹁もっと良さそうな顔をしてくれないかな、抱かれてるときみたい にさ﹂ ﹁⋮⋮もお、眠いぃ﹂ ﹁こら、布団を被るなって。お風呂、入らないと冷めるよ﹂ あれだけ大量のお湯、使わずに捨てたら持ったいないよ。エコじ ゃないよ。言う僕の手を逃れ、彼女はモゾモゾ、モグラみたいにシ ーツに潜っていってしまう。 ﹁維紗ちゃん、起きないとお仕置きだよ?﹂ ﹁ん⋮⋮どんな⋮⋮?﹂ ﹁そうだなあ、例えば??こんな﹂ 僕はベッドから掛け布団のみならず、シーツまでもをいっぺんに はぎ取った。 次いで、驚愕のあまり声を失っている維紗ちゃんを仰向けに押さ え付け、馬乗りになる。行為のあと、そのまま眠ってしまったから 516 彼女はもちろん一糸まとわぬ姿。 華奢な両腕を頭上で拘束すると、僕は晒された胸の先端に歯を立 てた。 ﹁やっ⋮⋮!﹂ ﹁イヤ? ならもっとしないといけないね、お仕置きなんだし﹂ 掌から零れそうになる乳房を、右手でゆったり捏ねて舌を這わせ る。柔らかすぎて指が食い込んでしまいそうだと思う。どうして女 の人って、こんなにどこもかしこも柔らかいんだろう。 ﹁や、ご、ごめんなさ、ぁんっ、ダメ、⋮⋮起きる、おきるからぁ っ﹂ 色づいた部分を吸い上げると、彼女は身をよじりながら、ようや く降参の白旗を揚げた。 ﹁本当に? そんなことを言って、離したらまた布団に包まるつも りだろ﹂ ﹁ううん! 起きる。本当に起きるわ﹂ ﹁怪しいなあ。僕に抱かれたあとは君、寝るのが定番だし﹂ それでも朝はきちんと起きて朝食を作ってくれるのが君の凄いと ころだけど。 ﹁起きるから、放してぇ﹂ ﹁放してください、だろ。言い直せよ﹂ 少し意地悪に言ったのは、彼女を素直にさせるためだ。白い太も もを撫で、閉じた両足の間を探る。散々僕を酔わせたソコはまだた 517 っぷりと濡れている。 それだけで煽られてしまう僕は相当まいってるね。 ﹁っあ⋮⋮だ、ダメ⋮⋮!﹂ 訴えを無視して中指を割りいれると、第二関節まですんなり収ま った。 ﹁ダメ、って言う割にココ、大変なことになってるよ﹂ 潤滑なだけでなく、内壁は物欲しそうに僕の指を締め付けてくる。 感じてる、のかな。 ﹁んあっ⋮⋮ちが、違うも、私じゃなくて、それ全部、綴くんだも ⋮⋮っ﹂ ﹁うん? 僕、今日はずっとゴムしてたけど﹂ ﹁うそ! 絶対嘘、だって私、いっぱい⋮⋮っああ!﹂ いっぱい? 何が言いたかったのだろう。最後まで言わせたかっ た気もする。先走って損をしたかも。 ともあれそこですっかり火がついてしまった僕は、調子に乗って 彼女を抱き上げた。 ﹁きゃあっ、何⋮⋮!﹂ ﹁バスルームへ行こう。じっくり洗ってあげる﹂ ﹁つ、綴くんっ!?﹂ 叫ぶ声は聞こえていないふりで、階段を駆け下りる。そうしてバ スルームのドアを膝で押し開くと、僕は彼女を抱えたまま??バス ローブを着たまま、バスタブへダイブした。 518 ﹁な、な⋮⋮﹂ ﹁さあ、どこから洗ってほしい?﹂ すっかり真ん丸になった両目が猫みたいで可愛い。ようやくお目 覚めかな。僕は彼女を背中から抱き締め、お湯の中で胸の感触を楽 しんだ後、まずは、と自分の顔を洗った。さっぱりだ。 それから水を吸ってすっかり重くなったバスローブを脱ぎ、脱衣 所のほうへ放る。なんだかお湯が減っちゃったなあ、と思いつつ前 髪をかきあげると、維紗ちゃんが真っ赤な顔をして恨めしそうに僕 を見上げていた。 ﹁もうっ。綴くん、いちいち強引だし、突然すぎ﹂ ﹁そう?﹂ ﹁そうよ。なのに、何をしててもカッコイイなんて、ズルい⋮⋮﹂ それはこっちの台詞だよ。 君は何度、僕に可愛いと言わせたら気が済むの? ああ、やっぱ りまだまだ抱き足りないな。 ﹁維紗ちゃん、おいで﹂ 僕は彼女を再び抱き上げ、バスタブのふちに座らせると、ボディ ーソープで全身をくまなく洗った。純粋に洗っただけだ、と言いた いけれど、少々性的な意地悪が混じったことは否定しない。 そりゃ、強引にもなるよ。 維紗ちゃんは困った顔が一番セクシーだし、なんだかんだ言って 結局、最後は僕に甘いんだから。 519 Parsley, Sage, Rosemary *ここから維紗サイドになります。ご注意下さい。 and Thyme・6︵ 520 Parsley, Sage, ﹁またやってしまった⋮⋮﹂ Rosemary and Thyme・6︵ 山と化した海苔巻きを前に、私は両頬に手を当ててムンクの叫び よろしく虚脱状態になる。 どうして私、集中するとまわりのことをすっかり忘れてしまうん だろう。 夫婦ふたりで太い海苔巻きを十本って⋮⋮絶対に食べきれない。 二日かかっても食べきれない。 あ、そういえば結婚一ヶ月目に旦那さま︱︱綴くんから教えても らったことなのだけど、あのムンクの絵、叫んでいるのは自然のほ うで、人物は耳を塞いでいるんだって。 となると私、今、厳密にいえば叫びのポーズではないのかも。そ れはもうどうだっていいけど。 ﹁冷蔵庫に入れたらご飯が硬くなっちゃうし、そもそも具に生もの を使っちゃってるから、日持ちしない、よね﹂ ぼそぼそ呟くは日本語でなく英語。もう三十五だからかな、最近、 独り言が増えてきた。由々しき事態よね、これ。 気付けば白髪もチラホラ見られるようになってきたし、出産適齢 期なんて若干︵かなり、というのは認めたくない⋮⋮︶過ぎてるし。 体は年輪を重ねていくのに、中身は成長していないなんて、私、本 気でマズい! ますます青ざめ始めたら、階段の先のドアが、前触れもなくがち ゃっと開いた。 521 ﹁ねえ維紗ちゃん、食事の支度、手伝おうか?﹂ ﹁キャー!?﹂ 顔を覗かせたのは綴くんだ。悲鳴を上げながら、咄嗟にカウンタ ーの上の海苔巻きを背に隠した。 ﹁⋮⋮なにやってるの﹂ けれど私のタイミングが遅かったのか、彼の勘がいいのか、完全 にお見通しの顔でため息をつかれる。 ﹁どうして隠すんだよ、どうせいずれはバレるのに。海苔巻き、ま た作りすぎたんだろ﹂ ﹁だ、だって⋮⋮なかなか断面が綺麗なクリスマスツリーの柄にな らなくて、私﹂ 研究に余念なく、結果、出来損ないばかりが積み上がったと。ち なみにまだ、一度も成功していなかったりする。 ﹁ごめんなさいぃ﹂ 肩をすぼめて詫びたら、階段を下りてきた綴くんに頭をぽんぽん と叩かれた。 ﹁そんなに萎縮しなくても、誰も責めてないから﹂ ﹁⋮⋮本当?﹂ ﹁本当本当。やけに遅いから、こんなことじゃないかと思ってた。 早めに止めに入らなかった僕の責任だよ﹂ やさしい。綴くんはいつだってこんなふうに優しくて、私は年上 522 のくせにいつも彼の掌の上にいる。 甘すぎるくらい、甘い、結婚生活⋮⋮。もう四年も一緒にいるな んて嘘みたい。 ﹁でも、この失敗作、どうしよう。クリスマスディナーの練習だか ら、お義父さんとお義母さんのところには持っていけないし﹂ ﹁近所に配ればいいだろ。今までと同じように﹂ ﹁また!? 私、ご近所さんから失敗作製造メーカーだと思われて る、絶対⋮⋮﹂ なんたって、ここ4年の間に同様のお裾分けをした経験、両手の 指では数えきれない。流石に自分でも引く。 ﹁周囲の目なんか気にしてたら何もできないよ。それより今は、こ れを無駄にしないほうが優先。だろ?﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ ﹁ほら、包んで。僕、配ってくるから﹂ ﹁はい⋮⋮﹂ やっぱり綴くんには敵わないな。 しっかりものの奥さんになりたかったのに、どうしてこう、肝心 なところでしくじるかな、私。 それにしても、綴くんほど人心掌握術に長けた人はなかなかいな いと思う。 考えてみれば私は再会したあの日からあっという間に心を持って いかれてしまったし、それは影で密偵と化していた浅葱さんにもあ てはまる。 ここ最近では、語学教室の繁盛ぶりがそうだ。 私が地味に開いていた日本語教室は、彼が大学を卒業して本格的 523 に加わったあたりから、満員御礼で予約待ちの状況にある。 他言語の教室を増やしたにもかかわらず、だ。 生徒は8割が女性で、ほとんどが、ううん、多分全員が綴くん目 当て。 彼はその容姿だけでなく、側にいると振り向いてもらいたくなる、 何かを持っているように思う。 私だって、伴侶の座を得ながらも、彼にいつでもこっちを向いて いて欲しくて、だから、ついつい勝手を許してしまう。 昨日も、いろいろと雑務のノルマがあったのに、結局朝まで彼の 腕の中。 ﹁はぁ⋮⋮﹂ 散々愛されたことを思い出して熱っぽい息を吐くと、どうしたの、 とカウンターの向こうから尋ねられてしまった。いけない、ぼうっ としてた。 ﹁ううん、なんでもない。はいこれ、出来たよ﹂ カットして、紙パックに詰めた海苔巻きを、エコバッグに入れて 差し出す。しめて八本分、これで片付いた、かな? ﹁よし、じゃあ近所を当たってくるよ。ついでにスーパーでフルー ツでも買って来ようか﹂ ﹁ううん、果物ならまだ、生徒さんにいただいたバナナがあるから、 こっちを食べないと﹂ ﹁そっか、わかった。みんな、本当に親切で助かるよねえ。ウチ、 最近果物買ってないだろ﹂ ﹁そうね、言われてみれば﹂ 524 貰ってばかりだ。これもひとえに綴くんの魅力がそうさせている のだと思うけど。 ﹁じゃ、行ってくるよ﹂ 玄関で私にちゅっとキスをして、こういう出勤方法も新鮮だなあ と呟いて、彼は大量の紙パックを手に小走りで出て行った。 うん、新鮮。見送りながら思う。でも、ちょっと寂しいかな。毎 朝見送らなきゃならないなんて。 遠距離恋愛をしていた頃の自分、どうしてあんなに辛抱強くいら れたんだろう。何ヶ月も離ればなれとか、もはや考えられない。 今はもっともっと、綴くんの側にいたい。毎日、綴くんと一緒に 過ごしていたい。キスの出来る距離にいたい。 そうしてこの先、彼を、もっとちゃんと支えていけたら。 ﹁⋮⋮って、説得力ないなぁ﹂ 残った海苔巻きに包丁を入れつつ、私はまたも吐息する。 とりあえず、料理に夢中になりすぎるところから改めよう。そう しよう。 綴くんが帰宅したのは一時間後、持って出た紙パックは見事に、 ひとつ残らずはけていた。 525 Parsley, Sage, Rosemary and Thyme・7︵ 綴くんの元に一本の電話がかかってきたのは、翌日になってから のこと。相手はラリーさんで、例のプロポーズに成功した、という 喜びの報告だった。 歓喜の声はボリュームが大きすぎて、ソファで隣に座っていた私 の耳にもはっきりと聞き取れたほど。 ﹃やった、やったよ! おい、信じられるか。スーが俺のパートナ ーになるんだ。この、俺の! おまえじゃなくて︱︱俺のだ!﹄ ﹁おめでとう、というべきか、この期に及ぶ鈍感さを率直に指摘し てやるべきか、僕は今本気で迷ってるよ⋮⋮﹂ ﹃ははは、何とでも言ってくれ。俺は今、誰に何を言われても鷹揚 にかまえていられる自信がある。だが君、その前に聞かなくていい のか﹄ ﹁何をだよ﹂ ﹃一昨日プロポーズに行った俺が、今日まで報告の電話を入れなか った理由をだよ﹄ 綴くんは耳から五センチ離した位置に携帯電話をぶら下げている。 ものすごく苦そうな顔で。 ﹁⋮⋮浮かれすぎて転ぶなよ﹂ ﹃おお、よし、よくぞ聞いてくれた友よ﹄ ﹁聞いてないよ﹂ ﹃実はだな、スーが俺を離してくれなかったんだ! プロポーズの 直後から、今夜は一緒にいたいって懇願され⋮⋮﹄ 526 私にはそこまでしか聞き取れなかった。綴くんが携帯電話を伏せ てクッションの上に乗せたからだ。 ﹁維紗ちゃん、今の聞こえた? よね﹂ 呆れたように肩をすくめて尋ねる彼は、もう通話に戻る気などな さそうだ。容赦ないなあ。同様のポーズをとって、イエスと答えた。 ﹁良かったわね、ラリーさん、うまくいって﹂ ﹁僕にしたらようやく、って感じだけど。でも、幼馴染みふたりが くっつくのはやっぱり嬉しいし、感慨深いな﹂ ﹁あ、じゃあふたりを招く予定だった二十三日のクリスマスパーテ ィー、お祝いにしようか﹂ 食事の内容は予定通りに、ケーキに婚約おめでとうとでも書こう。 いいねそれ、と綴くんは表情を柔らかくする。そうして、ソファ に転がって私の膝に頭を乗せた。 ﹁⋮⋮しかし、ラリーのお陰で懐かしいことを思い出したよ﹂ ﹁懐かしいこと?﹂ ﹁君にプロポーズをしたときのこと。僕、ものすごく強引だっただ ろ﹂ ﹁ふふ、自覚してたのね﹂ 櫛通りの良さそうな髪を撫でながら言うと、彼は喉の奥で小さく 笑った。 ﹁何日か前にも話したけどさ、あれは自信満々だったわけじゃなく て、余裕がなかっただけなんだ﹂ ﹁そうは見えなかったわ。勝ち誇った顔、してたもの﹂ 527 賭けに。だから結婚して当然とでも言いたげだった。 その態度にグイグイ押されて参ってしまった私には、文句なんて 言う資格はないけれど。 ﹁まさか。どうにか理由をつけて、利用できそうな事は何だって利 用して、君を連れ帰ろうと必死だったよ﹂ 初めて聞く本音。瞼を閉じて、彼は続ける。 ﹁あのとき、君がどうしても嫌だって言ったらどうしてたかな、僕﹂ ﹁どうしてたと思う?﹂ ﹁わからない。もしかしたら、無理矢理モノにしてたかもね﹂ ﹁無理矢理、って⋮⋮綴くんはそんなこと、する人じゃないわ﹂ 実際、最後は私のプライベートを優先して、私の前から消えてし まったし。だから優しすぎるところを不安に思ったこともあったっ け。 すると垂らしていた髪をツンと引っ張られ、同時に、透き通った 瞳が私を射抜くように見上げた。 ﹁そう? 僕は自信を持ってそう言いきれないけど﹂ どきりとして動作を止めた私に、上体を起こしながらの不意打ち のキス。そして彼は得意げに口角を上げる。 ﹁なんて、嫌われる心配が無くなった今だから言えることかもしれ ないよね﹂ ﹁え﹂ ﹁だろ? 自信過剰、ってわけじゃないと思うけど、違う?﹂ 528 そんなこと、間近で問わないで欲しい。 綴くんは結婚前から綺麗だったけれど、最近ますます磨きがかか って、色っぽく⋮⋮艶っぽくなった気がする。 それだけ大人になった、ってことなのかな。︱︱あ、でも、ラリ ーさんに飛びかかったときにはやっぱり少年っぽさが抜けていない なあって思ったっけ。 続けざまに重ねられる唇の熱さに酔いつつ、目を閉じる。 綴くんのキスは狡い。至極情熱的に攻めてくるクセに、どこか私 の出方を伺っていて、徹底的に攻め切ってはくれない。 だから焦れったくて、たまらなくなって、気付けばこちらからね だっている。キスだけじゃ足りないと、思わされてしまう。 すると、降ろした瞼の内側で平衡感覚がふいに狂った。左耳から やわらかいものに受け止められて、自然と開眼する。 私はいつの間にか綴くんに押し倒される格好でソファの上に横た わっていた。 ﹁つ、綴くん⋮⋮?﹂ ﹁そんなに弱り切った目で見るなって。襲いたくなるだろ。今日は 何もしないよ。ただ抱き締めるだけ﹂ ﹁だきしめる?﹂ ﹁そう、こうやって、ぎゅーっと﹂ プレスするように上から体重をかけられて、もがいてしまう。 ﹁く、苦し、肺、潰れ⋮⋮っ﹂ 潰れる。むしろ潰れている! 抱きしめられるのは嬉しいし、彼の重みは心地いいけれど、息が 出来ない。 529 ﹁か弱いなあ、維紗ちゃんは。そういうところも可愛くて好きだけ ど﹂ そんなに悠長なことを言っている場合じゃあない。冗談抜きで酸 素が足りない。なのに綴くんはどこか恍惚とした顔で私をぎゅっぎ ゅと抱き締め続ける。 ﹁っは、息、できな、はあっ、は﹂ ﹁こういう浅い呼吸、感じてるときによくするよね﹂ ﹁⋮⋮っ、も、無理、︱︱し﹂ ︱︱しにそう。 かぶりを振って訴えると、ようやく呼吸が楽になった。見れば綴 くんは、いつも私を組み敷くときの体勢に戻っている。 そこでやっと気付いた。そっか、私、いつも手加減されてたんだ、 って。 ﹁あのさ、維紗ちゃん﹂ 息を整えていると、長い指が胸の前の毛束をすくった。 ﹁髪、また、アップにした姿が見たいな。受付嬢だったときの﹂ ﹁夜会巻き⋮⋮? うん、私もたまにはしてみようと思うんだけど、 実はあれ、できなくなっちゃって﹂ ﹁できないって? まさかやり方を日本に置いてきちゃったとかじ ゃないだろ﹂ ﹁そうじゃないけど﹂ うまいこと言うなあ。ちょっと笑ってしまった。 530 ﹁こっちに来て、シャンプーとか水とかが変わったら、徐々に髪質 が変化したみたいで、うまく結えないのよ﹂ だから数年前から、なんとなく垂らしたままのストレートヘアで いる。たまにポニーテールにはしてみるけれど、それ以上どうにも 弄れないのが現状だった。 ﹁そうなの? 忙しいとか、僕に手間がかかるから、とかじゃなく て﹂ ﹁全然。綴くんのことは別に手間なんて感じてないし﹂ ﹁そっか。良かった。僕が苦労をかけているせいかと思ってたよ﹂ ほっとしたように眉尻を下げる彼を、たまらなくなって抱き締め た。 ﹁苦労なんてそれこそ、ちっとも感じてないわ﹂ やっぱり優しいんだ。綴くん。 結婚して良かったな︱︱。 531 Parsley, Sage, Rosemary Christmas!!﹂ and Thyme・8︵ こうして迎えた十二月二十三日、私と綴くんは玄関で揃って訪問 客を出迎えた。 ﹁︱︱Merry この時期、招いたり招かれたりは恒例なのだけれど、パーティー と聞けば毎回特別に心が躍る。こういう習慣、日本にいた頃、私の まわりではあまりなかったから余計かもしれない。 結婚前、綴くんの実家を訪ねたことを思い出して、自分もあんな ふうになれているのかなあ、と想像するとくすぐったかった。 ﹁カップル成立おめでとう、スー﹂ 綴くんはサンタルックで陽気に歌うラリーさんを完全無視、スー ザンさんと軽いハグをする。 彼女は褐色の肌が美しい、彫りの深い美人だった。綴くんと同じ、 才知のある目をしている。 確かに綴くんと彼女、傍目にはお似合いに見えるかもしれない。 ラリーさんがなかなか告白できずにいた理由がわかる。私がその立 場だったとして、やはり躊躇すると思う。 ﹁ありがとう。ふたりのおかげだって聞いたわ。本当に感謝してる。 ︱︱あなたがイサね、会えて嬉しい!﹂ ﹁初めまして。どうぞ上がって、ゆっくりしていってくださいね。 ラリーさんも﹂ 532 輪の外にいた彼は、私と目が合うと﹃Merry Christ mas﹄と書かれた紙の三角帽子を自慢げに取り出した。鼻眼鏡も だ。本人は得意げだけれど、どう反応したら良いのかわからない。 ⋮⋮子供なら喜ぶだろうけど、大人しかいないパーティーにそのセ レクトはどうだろう⋮⋮。 綴くんはものすごく嫌な顔をして、全身で彼を締め出そうとした。 ﹁即刻家へ帰れ。おまえひとりの存在でクリスマスがサバトのよう に禍々しい集いになる!﹂ ﹁嫉妬するなよカトー。いくら俺達が出来立てほやほやアップルパ イのように熱い恋人同士だからって﹂ ﹁君はその熱で脳まで煮たようだね﹂ ﹁いや、もともとこのイカレた頭だ﹂ ﹁わかってるなら改善しろよっ﹂ 相変わらずの関係だ。でも、ラリーさんと一緒にいるときの綴く んは年相応に見えて可愛い。 まだまだ少年なんだな⋮⋮って、あれ? 私、オバサン化してる ? まずいなぁ。すると、 ﹁あれ、ウチに迎えにきたときも被ってたのよ。自宅からずっと被 ってきたんですって。変な人よねぇ﹂ スーザンさんが顔を近づけてきてこそっと言った。思わず笑って しまった。 ﹁楽しい人ですよね、ラリーさん﹂ ﹁でしょ。一緒にいると退屈しないの。私もカトー⋮⋮ツヅルも、 ラリーにはずっと救われてきたのよ﹂ 533 聞けば、彼女も片親に育てられたとのこと、綴くんとどこか近い 雰囲気なのは、その所為かもしれないと思った。 幼い頃から、ふたりは何を話し何を共有してきたのだろう。興味 はあるけれど、それは今日話すことではないよね。 ﹁どうぞ、奥へ。今日はたっぷり日本食、食べていってくださいね !﹂ これまでは語学スクールの処理に追われてなかなか友人を作る余 裕なんてなかったけれど⋮⋮ふたりとはぜひ仲良くなっていきたい な。綴くん抜きでも、会ったりできるくらい。 それからリビングへ移動すると、私達は円形のテーブルを囲んで 着席し、食事をしながら歓談を楽しんだ。 ﹁ねえイサ、私の友人に日本びいきの子がいるの。今度会ってくれ ない?﹂ ﹁えっ、本当!? もちろん!﹂ ﹁ちょっと待ってスー、それ、男じゃないよね﹂ ﹁なに妬いてんだよカトー、束縛のキツい男は嫌われるぞ。やめと けやめとけ﹂ ﹁あら、私が男友達と約束があるって言ったら、泣きそうな顔で行 かないでって言ったのはどこの誰かしら﹂ ﹁ばっ、暴露するなよスー。それは俺とおまえの秘密だろ!﹂ ﹁都合のいい秘密ね﹂ 前日から準備した日本料理はどれも好評で、それは良かったのだ けど、こうして英語圏の方に囲まれると、私は身の置き所がないと いうか⋮⋮ちょっとしたアウェー感が拭えない。 早口になったり、食べながら会話をされたり、それが二重三重に なったりすると、もう完全に聞き取れないのだ。 534 突然ブラインドを引かれた気分で、ぼかんとしてしまう。毎回、 綴くんに助けを求めてもいられないし。 こんなときに思うのは、日本の英語教育の、ヒアリングの容易さ。 こちらへ来てから、ひしひし実感している。あれ、あまり実践に役 立つものではないと思うのよね。 でもそれを、自分が教える立場としてどう攻略していったらいい のかはまだ掴めていなかったりして︱︱。 綴くんに言わせれば、﹃楽しければ越えちゃう壁だよ﹄とのこと だけど、どうしたものかなあ。 ﹁ごちそうさま、イサ。今度はうちに遊びにきてね﹂ ﹁え、あ﹂ ぼんやり考えていると、時間はまたたく間に過ぎて、気付けばお 開きの時間を迎えていた。 慌てて玄関までふたりを見送りにいき、ハグをして別れる。なん だか悪いことをしちゃったな、上の空で。 申し訳ない気持ちで手を振って、お辞儀をして扉を閉めて、ほっ と肩から力を抜くと、 ﹁維紗ちゃん﹂ 長い腕が後ろから伸びてきて、私をギュッと閉じ込めた。 ﹁楽しかったね。君のおかげだよ、ありがとう﹂ ﹁綴くん⋮⋮。でも私、ぼけっとしちゃって、ごめんなさい﹂ ﹁何を言ってるんだよ。君は今日も完璧だった。ご褒美を進呈しな きゃ﹂ ﹁そんな、大袈裟よ﹂ 535 それに、綴くんのアフターフォローこそ毎回完璧だ。私が当たり 前にしたことでも、きちんと評価をしてくれる。 紋兄ならこんなこと、季実子さんに言ったりしないだろうなあ、 なんて思っていると、突然目の前に小箱が差し出された。 ﹁メリークリスマス、維紗ちゃん。ちょっと早いけど、これは僕か ら君にだ﹂ ﹁あ⋮⋮﹂ ﹁大袈裟だなんて言うなよ。もう返品はしないからな﹂ プレゼント、私に? よくよく見てみれば小箱は駅前のアンティークショップのもの。 休日はいつも一緒にいたし、仕事中だって側にいたのに、いつの間 に調達してきたのだろう。 びっくりしつつもそれを受け取り、ありがとう、とお礼を言った ところで私は数センチ跳ね上がった。 ︱︱まずい、私、綴くんへのプレゼント、用意してない! さあっと血の気が引いていく。いや、彼へのサプライズがまるっ きりない、ってわけじゃあない。 でも、それはミレちゃんとの共同企画だし、家族全体へのプレゼ ントというかイベントというか⋮⋮まだ秘密、なんだけど。 一緒に過ごす記念日はこれまで何度だってあったのに、どうして 忘れちゃったんだろ。やっぱり老化現象だ。私、歳なんだ⋮⋮。 ﹁ご、ごめん、私、プレゼントの準備、すっかり忘れちゃって⋮⋮ っ﹂ 本当にごめんなさい。明日までには準備するから。そう言った私 536 に、綴くんはやはり優しい微笑みをくれる。 ﹁いいよ、別に見返りが欲しくてやってるわけじゃないし﹂ と、ここまで喋って、はたと気付いたように顎を撫で、黒目を泳 がせた。 ﹁︱︱と、言おうと思ったけど、やっぱりやめようかなあ﹂ え、何か欲しいものでもあった? 尋ね返そうとすると、ふいに 視界に影がさした。 振り返らされて、壁際に追いつめられて、狭い玄関でキス。重ね た唇からは、私が作ったクリスマスプティングの味がする⋮⋮甘い ⋮⋮。 ︵幸せって、こういうことを言うのかな︶ 愛されている実感だけではなくて、自分が彼の生活を支えている という、自負みたいな。 毎日、私が作ったものを食べて彼が生きている。そう思えること が幸せ。 ﹁ねえ維紗ちゃん﹂ わざとらしく耳の奥に落とし込まれる淡い声。脳の奥が、じんと 痺れる。 いつまでも大人になりきれない、少年のような声は毎回私の思考 を一瞬でだめにする。 ﹁プレゼント、ねだってもいい?﹂ ﹁ん、⋮⋮な、に⋮⋮?﹂ ﹁僕のわがままを、なんでもひとつ聞くこと﹂ 537 それ、いつもと変わらない気が。 反論しようとすると、うなじに息をかけられて、びく、と肩が勝 手に震えた。と、鳥肌、が⋮⋮。 ﹁︱︱答えは?﹂ ﹁⋮⋮っ、で、も﹂ ﹁﹃はい﹄だろ。それ以外は聞かない﹂ 甘い支配が私を自由を絡めとる。こんなの、拒否できるわけがな い。だから私は今日も、彼の思い通りに動かされてしまう︱︱。 ﹁は、⋮⋮はい⋮⋮﹂ 返答して頷くと、綴くんは私を抱き上げて寝室へと運んでいった。 ベッドの上にそっと寝かされて、耳元に柔らかい声が降ってくる。 ﹁じゃあ、キスして。キスで僕を誘ってみせて﹂ ﹁キス、で?﹂ ﹁そう。そういうの、もうだいぶ覚えたはずだろ﹂ 覚えた、って⋮⋮確かに、結婚したばかりの頃からすれば、上達 したかもしれないけれど。でも、誘う、って具体的にどうしたらい いの? まごつく私の目前にずいと迫って、綴くんは催促をするように瞼 を伏せる。カールのきいた、長い睫毛。間近にするのは何度目だろ う。 ︵キス⋮⋮キス、しなきゃ︶ どきどきしながら体を少し上にずらして、顎を持ち上げる。彼の 瞼にそっと唇を押し当てたら、細い睫毛の先が羽毛のように口先を 538 くすぐった。唇って、皮膚の中でもどうしてこんなに特別敏感なん だろう。 ﹁⋮⋮ん、っ﹂ 額にも、恐る恐るキス。眉間にも、頬にも。こ、こういうので、 大丈夫なのかな。だ、だめ、だよね。 覚悟を決めて鼻筋を滑り降り、鼻先でちゅ、と音を立てる。彼か らは何もされない、というのがものすごく恥ずかしい。 トクトク跳ねる心臓に静まれと言い聞かせて、すこし、顎を引い た。彼の上唇が下唇にちょんと当たって、ピク、と肩が反応してし まう。 まだ、きちんとしたキスではないのに、彼の息が、自分の息と混 じり合うだけで、鼓動まで重なってしまいそうな気がする。 駄目だ、次に何をしたら良いのか、考えなきゃと思うのに⋮⋮わ からなくなる。 ﹁⋮⋮っ﹂ 瞼を開けたまま、鼻先を合わせた。キスをするのにこんなに緊張 するの、久々かも。息を止めて、正面から向き合って、少しずつ口 先を触れさせる。びっくりするくらい柔らかくて、温かい。その熱 に酔いながら、押し当てるだけのキスを何度かした。 それでも綴くんは受け身のまま、微動だにしない。 まだ、誘惑は出来ていない、みたい? 私はもう充分クラクラし てるのに。 おずおずと彼の頬を両手で包み込み、もう少し深いキスをしよう とする。そこでふと、彼の容貌に見惚れてしまった。何度見ても綺 麗だな、綴くん。年をとってもこうなのかな⋮⋮。 レイさんを思い浮かべて将来の彼を想像しつつ、まずは綴くんが 539 いつもしてくれる、ついばむようなキスをした。 ︵⋮⋮クセになりそう⋮⋮︶ ううん、もう、とっくになってる。 ﹁ふ⋮⋮っ﹂ 舌先が、自然と彼の唇を割り始める。勝手に彼の中を侵し始める。 もう、止められない。角度を変えて歯列をなぞり、やや強引にそこ に押し入った。舌をゆったり絡め合わせて、導きだそうと試みる。 私の中も、探って欲しい⋮⋮。 と、前歯で舌先を甘噛みされて、指先が震えた。少しずつ、角度 を変えて、食べられてしまいそうになる。 ︵あ、ダメ︶ 戸惑っていると、舌はさらに彼の奥へと引きずりこまれた。吸わ れて、混ぜ合わされて、味覚がどんどん麻痺していく。 ﹁ん、う﹂ 甘い、しか、感じなくなっていく。 急激に広がる快感に、私は瞼をギュッと閉じる。これ以上のキス なんて、焦れったくてもうダメ。全身が、酷くもどかしい。キスだ けじゃ嫌︱︱。 ギブアップを申し出ようとすると、舌を押し戻されると同時に、 口の中へ彼の熱を受け入れていた。 ぐるりと歯の裏側を探られて、震えたところで、ふ、と解放され る。 ﹁⋮⋮っは﹂ ﹁よくできました。続きは、僕に全部委ねていて﹂ ﹁⋮⋮んっ、は⋮⋮い⋮⋮﹂ 540 きっと、一生、こうして綴くんの言いなりになってしまうんだろ うな。 そんなことを考えながら、彼が求めるままに自分を差し出し、私 はやがてその腕の中で意識を手放したのだった。 541 Parsley, Sage, Rosemary ﹁メリークリスマス、お義母さん、お義父さん!﹂ and Thyme・9︵ クリスマス当日は家族で過ごす日︱︱これは葦手家の決まり事、 というより国民全体の共通認識なのかもしれないと思う最近。 恋人と過ごすもの、との日本の考え方はちょっと特殊だよね、と レイさんが以前呟いていたのを聞いたことがある。 ﹁イサ! メリークリスマス。今年も皆で過ごせて嬉しいわ﹂ ﹁私もです。これ、手料理とお土産なんですけど、どうぞ﹂ ﹁まあ、凄い! レイ見て、このお寿司、ツリーの柄よ!﹂ ﹁ふふ、頑張っちゃいました﹂ 出来はばっちりですから食べて! とはまだ、恥ずかしくて言え ないのが悲しいところ。 これでも謙遜する癖、意識的に直しているつもりなのだけど⋮⋮ 綴くんに言わせればまだまだ、らしい。ホームパーティーへの手土 産も、律儀すぎるんだとか。 でも、手ぶらはやっぱり気が引けるし。 うーん、文化の違いって難しい。 ﹁もう四回? 五回? かしら。イサとこうしてクリスマスパーテ ィーをするのも﹂ ﹁ええと、こっちにいなかったこともあるので、四回目だと思いま す。毎年楽しみなんです、クリスマス﹂ ﹁そう? そう言って貰えると、私も腕の振るい甲斐があるわー﹂ 542 リサさんはオーブンから焼きたてのチキンを引っ張り出して得意 顔になる。私はそれを受けて、歓声と拍手を。 まるごと一羽、内側に具を入れてグリルしたチキンは一見グロテ スクだけどものすごく美味しいのだ。 ﹁綴ー、これテーブルに置いて頂戴。レイはシャンパンの栓を抜い て﹂ ﹁うわ、母さん今年も一羽退治したのか﹂ ﹁その言い方はやめなさい。やめないとあなたのことも退治するわ よ﹂ ﹁僕はかまわないけど維紗ちゃんが泣くからやめてあげて﹂ テンポの良いやりとりに思わず噴き出してしまう。綴くんの頭の 回転の速さ、お母さん譲りなのかも。私ももう少し、うまい返しが 出来るようになりたいな。 と、隣にやってきたレイさんが、参ったねと言わんばかりに肩を すくめた。 ﹁イサはあれ、どう思う?﹂ ﹁相変わらずだなあって。楽しくていいですよね、おかあさんと綴 くん﹂ ﹁だな。ふたりとも健康で何よりだよ、うん﹂ 初めてこの家に招かれたときは戸惑ったりもしたけれど、今はレ イさんとも打ちとけて、良い家族になれていると思う。同じ界隈に 住んでいることもあり、私達は綴くん抜きでも互いの住まいを行っ たり来たりしている仲。 だから。 彼らとの関係がきちんと築けたと自負している今だから、実行に 移したことがある。 543 ︵そろそろかな︶ 壁の時計をさりげなく見上げる。六時半、約束の時間だ。遅れる という連絡はもらっていないから、きっともうすぐ到着するはず。 すると予想通り、玄関のチャイムがタイミングよく鳴った。︱︱ 来た! ﹁あら、サンタクロースかしら。綴、出てもらえる?﹂ 廊下の方角を覗いてそう言ったリサさんは、宅急便か何かを想定 している顔。慌てて、一緒に出ましょうと声をかけた。ここは三人 揃って出てもらわなければ困る。 ﹁レイさんも。綴くんも、皆で出よう?﹂ ﹁うん? 何かのドッキリ企画かい、イサ﹂ ﹁そのようなものです﹂ ドッキリ、はすると思う。いい意味で。そわつく三人後ろに従え、 私は廊下の先を行く。玄関を開けながら、ウェルカム、と言いたい のは我慢だ。 だってそれを言うのは私ではなく、彼ら三人であってほしいから。 ﹁メリークリスマス、おとうさん、おかあさん! 息子さんをお届 けに参りましたっ﹂ 響いたのは明るい声。そこにいたのはもこもこのダウンコートを 着込んだミレちゃんと、そして。 決まり悪そうに小さくお辞儀をする、長身の男性の姿。 544 ﹁う、うそだろ⋮⋮!?﹂ するとレイさんやリサさんより先に綴くんが動いた。 私を押しのけて玄関をふらと出、その人物の腕を左右から掴む。 恐る恐る、といった仕草で。 ﹁本当に⋮⋮兄さん、どうして﹂ そう、私とミレちゃんが準備したサプライズプレゼントこそ、猶 さんその人だったのだ。 狼狽しきった綴くんに、ミレちゃんはうふふと笑ったあと猶さん の背に手を添え、そっと玄関内に押し込んだ。 ﹁綴くん、お久しぶり。実は私達、新婚旅行なの。お店が軌道に乗 るまでは、ってずっと我慢してたから、やっとなんだ﹂ と、それもまた実は作戦の一部だったりする。 ミレちゃんは猶さんの夢のために、結婚式も披露宴も諦め、ひた すら彼を支え続けてきた経緯がある。 甲斐あってか、最近猶さんが経営するフランス料理店は二店舗目 もオープンし、ようやく余裕が出てきたそうだ。 そこで、新婚旅行でイギリスへ行きたい、せっかくだから賑やか なクリスマスに行きたい、ついでだから先輩にも会いたいっ︱︱と のおねだりを実行したのだった。 猶さんもおばあさんも、普段一生懸命でワガママ一つ言ってこな かった可愛いお嫁さんのおねだりには逆らえなかったそうだ。ふた りとも、しぶしぶ了承してくれたらしい。 ﹁あのっ、わたし、未怜といいます。おかあさんにも、おとうさん にも、お会いするの初めてですよね﹂ 545 ミレちゃんは私の背後で戸惑っていた夫婦にも駆け寄り、流暢な 英語で挨拶をする。そうしてその輪に、さりげなく猶さんを引き入 れた。 感極まってしまったのか、レイさんは口元を覆った後、涙目でが ばっと猶さんに抱きつく。抱きつかれて狼狽える彼は、初めてここ へ来たときの私みたい。 ﹁⋮⋮維紗ちゃん、君﹂ 泣き崩れるリサさん、彼女を抱き締めてフォローするミレちゃん を遠目に、言ったのは綴くんだ。 ﹁君、どうやって、こんな奇跡﹂ ﹁私じゃないわ。ほとんどがミレちゃんの手柄よ。これは謙遜じゃ なくて、事実︱︱ぅきゃっ﹂ 台詞の途中で大胆に抱き寄せられて、驚きのあまり硬直してしま った。綴くんは力一杯私を抱き締め、掠れた声でありがとうと言う。 ﹁ありがとう、維紗ちゃん。こんなにうれしいクリスマス、初めて だ⋮⋮﹂ ﹁うん。私もよ、綴くん﹂ 結婚前から、いつかは役に立てたらと思っていた。家族をひとつ にするために、力になれたらって。 結局、すっかりミレちゃんに持っていかれちゃったけど。私、結 局スケジュールを調整してチケットを手配するくらいしか出来なか ったのよね。 複雑な気持ちで彼の背に腕を回したら、 546 ﹁先輩ーっ! 夫婦でらぶらぶするのは帰宅してからです! 今は 家族団らんの時間ですよっ﹂ 甲高い声でそう叫ばれてしまった。らぶらぶ、って⋮⋮ミレちゃ ん、かわってない。かわってないけど、なんだかちょっとやかまし さが増した? ﹁もうっ、私はもう先輩じゃなくて義妹よ!﹂ ﹁先輩をイモウトなんて思えませんっ。姉ならいいなあって思った りはしますけど﹂ ﹁じゃあ旦那さん、交換する?﹂ ﹁ぜ、絶対にだめですっ⋮⋮!﹂ うん、私も絶対にダメ、だけどね。 *** ミレちゃんと猶さんは二時間ほどパーティーに参加して、タクシ ーでホテルへと帰っていった。あとは夫婦の時間ですよ、なんて言 い残して。 ホテルはなんとリッツ、こつこつ蓄えたへそくりを宿泊代にあて るのだとか。羨ましい。 ともあれ充分に近況は報告し合えたし、家族の親交を深めること は出来たと思う。明日は市内観光に、リサさんが付き合うそうだ。 本当は私も一緒に行きたかったけど、遠慮。 親子水入らず、邪魔したら申し訳ないもの。 ﹁なんだか意外だったな﹂ 547 自宅への帰路、私がぽつりと漏らすと、綴くんも大きく頷いて同 意した。 ﹁僕も。だって兄さん、必死で父さんに話を振ろうとするなんて。 てっきり毛嫌いしてると思ってたのに﹂ ﹁そうね﹂ 私が言いたかったのはそのことではないのだけど︱︱、うん、そ れも意外だったな。まさか、猶さんがレイさんを庇うなんて。 と、いうのも、もともとあの家では英語での会話が日常。そこへ きて日本式の手話が唯一のコミュニケーション手段である猶さんは、 当初、輪の中に入りにくいだろうと思われていた。 けれど、猶さんの話を聞きたがったリサさんと綴くんが堰を切っ たように手話で話し出したものだから、結果的にレイさんが孤立し てしまったのだ。 そんなレイさんに身振り手振りで必死に会話を振ろうとする猶さ んを見、私もミレちゃんもびっくりしてしまった。 ﹁優しい人だよね、お兄さん。本当はすごく。ミレちゃんもよく言 ってるけど﹂ 放っておけなかったんだろうなあ。ひとりだけ取り残されてショ ンボリしていたレイさんのこと。 ﹁だろうね。だからいくら誘っても兄さんは日本を離れなかったの かな、って最近は思う﹂ ﹁どういうこと?﹂ ﹁おばあちゃんをさ、ひとりにはできなかったんだろうなって﹂ ああ、確かにそうかも。私は納得してあいづちを打ちながら、彼 548 の腕に掴まった。 ﹁お義母さんも、お義父さんも、綴くんも優しい人だもの。きっと すぐに本当の家族になれるわ﹂ ﹁そうだね。僕に言わせれば、君が一番優しいけど﹂ ﹁そ、⋮⋮そう、かな﹂ こうもいちいち持ち上げられると、反応に困ってしまう。綴くん、 私を甘やかしすぎよ、本当に。 ﹁あ、で、でも、本当に意外だったのはミレちゃんが安定期に入っ ていたことよね。まさかそっちまで先を越されちゃうなんて﹂ 電話ではそんな話、一切していなかったのに。 はは、と綴くんは笑って、私の手に手を添える。 ﹁兄さんの慌てぶりも凄かったね。義姉さん、ここまで誰にも言わ ずにいたなんて肝が座ってる﹂ ﹁根性の問題じゃないわよ。反対されるから、とはいえひとりで辛 い時期を乗り切るなんて⋮⋮せめて私には相談してくれても良かっ たのに﹂ レストランの手伝いもあっただろうし、並みの苦労ではなかった はず。 けれどミレちゃんはあっけらかんと笑っていて、不安はないの? と尋ねた私に﹁猶さんもこの子も私が幸せにしますから心配ない ですよぉ﹂とよくわからない返答をくれたのだった。 ﹁あーあ、私、そろそろお医者様に診てもらわないといけないかし ら⋮⋮﹂ 549 ﹁うん? どこか調子でも悪いの、維紗ちゃん﹂ ﹁悪いかどうかもわからないわ。でも、結婚して四年経つし、行か なきゃとは思ってたのよね、婦人科﹂ 慌ただしい日々の中で、ついつい後回しにしてしまっていたけれ ど︱︱なんだかお尻に火がついた気分。年齢的にも、本腰入れない といけない時期よね。 はあ、とため息をついた私を抱き寄せて、綴くんは﹁そうだね﹂ と微笑む。 ﹁君がそうしたいと思うなら、僕も一緒に頑張るよ﹂ ﹁ありがとう。あんなに頑張ってくれてるのに、なんだかごめんね﹂ ﹁謝るなよ。夫婦はふたりでひとつ、どちらかだけに責任のある事 柄なんて絶対にないんだ﹂ きっぱりと言い切られて、涙が滲んだ。優しすぎるよ、綴くん。 私、ちゃんと気付いてるわ。実家で子供の話が出そうになると、 さりげなく会話の筋を逸らしてくれていること。 生理のたびに、私が好きなケーキを買ってきてくれていること。 ﹁維紗ちゃんの欠点は何でも頑張りすぎるところだ。僕は、例え頑 張らなくても君が好きだからね﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ ﹁と、言っても君はきっと頑張るね。だから僕は、君が頑張りすぎ ないようにいつでも側にいる。何をするにも、それを絶対に忘れな いで﹂ ﹁うん⋮⋮っ﹂ やっぱり、夫婦っていいな。迷惑をかけても、かけられても、そ れでも夫婦でいたい。 550 彼の肩口で密かに涙を拭いながら、私は小さく頷いたのだった。 551 Parsley, Sage, Rosemary and Thyme︵新婚 *ここから最終章、猶編になります。視点が変わりますのでご注意 下さい。 552 Parsley, Sage, 妻は何かといい加減な人だ。 Rosemary and Thyme︵新婚 と、言ってしまうと文句のように聞こえるかもしれないが、いい 加減、の﹁いい﹂は漢字に直すと﹁良い﹂で、当然褒め言葉として 受け取ってもらいたい。 嬉しいことは盛大に喜び、悪いことは深く考えない。普通は逆だ ろうと私なんかは思うのだが、彼女はそれで飄々と生きている。 毎日が実に楽しげだ。 ﹃ねえねえ猶さん、今日、クレームブリュレひとつ残ったよね? やった、食べてもいい?﹄ ﹃いいけど⋮⋮それ、喜ぶべきことではないだろう﹄ 私達の会話は手話が六割、唇の動きと表情が四割で成り立ってい る。だから私が訳すのは、四割私の主観ありき、だと思ってほしい。 とはいえ妻はよく喋る上に思ったことがありありと顔に浮かぶタ イプなので、行き違いがおきたことはほとんどない。 ﹃えー、だって嬉しいもん、久々の猶さんのブリュレ。先週はずっ と売り切れだったし、売れ残った時でないと食べられないし﹄ 商売なんだから仕方ないだろう。反論しかけた私を置いて、妻は キッチンへ駆けていく。冷蔵庫が、開いて閉じたのがカウンター越 しに見えた。 売れ残りは出来立ての商品と混ぜないよう、毎日自宅へ持ち帰っ ているのだ。 553 現在時刻は二十三時、店を閉めて自宅へ戻ると、どうしてもこの 時間になってしまう。他の家族は寝静まった後だ。 ﹃でもさ、ちょっとピンチだよね、お店﹄ リビングテーブルに戻ってきた妻は、私の前にコーヒーを差し出 してから言う。 ︱︱ちょっとピンチ。それは正しい使い方だろうか。少々疑問には 思ったが、私はひとつ頷いた。 店の経営に危機が訪れているのはまず間違いない。 夢だったフランス料理店を始めてからもうすぐ五年、ようやく軌 道に乗りはじめたところなのだが、脅威は突然やってきた。 出来るらしいのだ。徒歩数分の距離に、大手チェーンのファミリ ーレストランが。 しばらくは客足を持っていかれるだろう、と同じ界隈の寿司屋の 主人も言っていた。 ﹃でもね、ちょこっとだけだと思うんだよね﹄ ﹃なにが﹄ ﹃だからピンチが。だってウチの客層はファミリーというよりカッ プルとかOLさんでしょ。だから逆に増えるんじゃないかなあ、お 客さん﹄ ﹃増えるってことはないだろう﹄ ﹃そうかなあ。例えばだよ、ファミレスに行ってみたけど入れなか った、って人が流れて来ないとも限らないじゃない﹄ それはおこぼれを貰っているようで嫌だ。が、妻のこの底抜けの プラス思考に私は日々救われている。 恐らく、出会った日から、ずっと。 554 知っての通り、私には弟がいる。 父親違いの、半分だけ血の繋がった弟が。 しかし正直、兄弟であるという実感は薄い。 弟︱︱綴はイギリスの血が入っているせいか、彫りが深く美しい 容姿をしている。初めて対面した時は、兄弟かどうかというより、 同じ生き物なのかどうかを疑ったくらいだ。 そのうえ、弟は頭の回転が驚くほど早く、幼くして既に二カ国語 を操った。性格も人懐っこく純真で、心優しい。 非の打ち所のない弟を前に、私は︱︱やり直したかったのだろう、 と、思わざるをえなかった。 母は、私の存在を含めて、結婚そのものをやり直したかったのだ ろうと。 だとしたら完璧だ。あの弟を手に入れられたのなら、満足してい るはずだ。しないわけがない。 自分は試作品で、あれが完成品なのだ。 母と、その恋人には何度か同居をしないかと誘われたが、悉く拒 否した。自分の居場所が、弟の近くにあるとは思えなかった。 別にそれで良かった。強がりじゃあない。私には祖母がいたし、 友人にも恵まれていたし、お陰で特別不幸だと思うこともなかった し、実際、幸せだった。 私が最も忌み嫌っていたのは、不幸扱いされることと同情される ことだ。 母が、弟が、そんな素振りを見せるたび、私は反発した。自分を、 より良い方向へ﹃改善﹄しようとする彼らは酷く厄介だった。 555 このままでいいのに。放っておいてくれれば、それで。 だが妻は⋮⋮未怜は最初から、私をどうこうしようとは考えてい なかった気がする。 ﹃猶さんの言葉は、私にとっては外国語のひとつと同じなんだよね。 まあ、一年もあれば習得してみせます。神野先輩より上手になって みせますのでっ﹄ 結婚を申し込みに行った日、彼女が私に言った台詞がそれだ。 驚いた。以前、客とのトラブルがおきたとき、私に庇われて震え ていた女の子とは思えなかったし︱︱ あからさまに対抗意識を燃やす姿を見せられて、気付かされた思 いがして。 私は誰とも比べられたくはなかった。私には私の世界があって、 その中でそれなりに幸せだった。 私は私として歩んでいければそれでよかった。それを誰かに認め てもらいたかった。 誰かに? いや、きっと、⋮⋮母に。 私は、母にこそ、自分の現状をまるごと認めてもらいたかった、 のかもしれない、と。 惚れ直した、とも言うのだろうな、プロポーズ当日に。 広げた新聞の端からチラと見れば、未怜は満面の笑みでスプーン を口に運んでいた。 ︵あなたは凄い人だよ︶ 直接、そうと伝える機会はなかなかないけれど。 新聞を畳んでノートを引っ張り出すと、妻はスプーンをくわえた 556 まま、興味深そうに覗き込んできた。 ﹃なにそれ。育児日記?﹄ ﹃いや。新しいレシピのメモ。育児日記は未怜がつけてるだろ﹄ ﹃うん。見る?﹄ ﹃そのうちね﹄ えーっ、と妻は唇を尖らせて叫んだようだった。 ここだけの話、半年ほど前から彼女がWeb上ではじめた育児日 記︱︱要するにブログだが︱︱の中身なら、すでに何度か覗いた。 文章の半分が絵文字で、それこそ外国語か⋮⋮でなければ宇宙語 かと思った。あれでいいのか、日記。 特に多用されているのはなにやらキラめいているマークだ。しか もそういう文に限って内容は私のことだったりする。 “旦那さまがベビちゃんをお風呂にいれてくれました︵ハートマー ク︶︵にっこりマーク︶︵キラキラマーク︶︵キラキラマーク︶︵ キラキラマーク︶” それだけの文章を、果たしてそんなに煌めかせる必要があるのか どうか。 当たり前のことじゃないのか。しかも何故﹃旦那さま﹄の部分だ け文字がピンク色なんだ。 テストにでも出るのか。謎だ。妻は謎だらけだ。 ﹃あ、鴨だー。私、鴨肉大好き。鴨のコンフィ、おなかいっぱい食 べたい﹄ ﹃店のメニューだからね、あなたの好みじゃなくて﹄ 私はノートを捲る。記してあるのはコース料理が三種類。ここ数 557 週間、考え尽くして決めたものだ。 ファミレスに対抗したわけではないが、大人向けのメニューで構 成されている。 ﹃わかってるよぅ。でもほら、試食の時は心置きなく食べられるし、 猶さん、私専属のシェフみたいになるのがいいんだよね。あー、試 作が楽しみだなあ﹄ ﹃⋮⋮鴨は却下しようかな﹄ ﹃ええー!?﹄ 冗談だよ。 心の中だけで言って笑ったら、彼女はますますむくれた。多分、 猶さんの意地悪、とか言っている。 単純で、わかりやすい割に謎が多くて、それでも妻は可愛い。と てもかわいい。 558 Parsley, Sage, Rosemary and Thyme︵新婚 本当は妻の喜ぶ顔が見たくてこの鴨のメニューを盛り込んだのだ、 ということはそれこそ公私混同甚だしいので黙っておこうと思う。 ﹃そろそろ寝なさい。明日も早いよ﹄ 私が寝室を指さしてそう促すと、未怜はしぶしぶといった様子で 頷いて私のコーヒーカップを持ち上げた。おかわりをいれてくれる らしい。有難いことだ。 間違いなく、この家で最も慌ただしいのは彼女だ。 朝から晩まで店で働き、私のサポートをしつつ、合間に自宅へ戻 り幼い息子の世話をする。 育児については祖母がいてくれるので多少の負担軽減にはなって いるようだが、祖母ももう歳だ。行き届かない部分もある。 私はこの通り、殆どの時間を店で過ごしているし、滅多なことで は彼女の役割をかわってやれない。 ときどき歯痒くも思うが、だからこそ、自分は自分にできること で彼女の努力に報いなければと思う。 ﹃おやすみ﹄ テーブルにコーヒーを置いて、未怜は私に軽いキスをする。毎日 の恒例だ。 そうしておやすみの挨拶を返そうとしたところで、ふと、思い出 した。 ﹃そういえば未怜、今年のクリスマスはどうする?﹄ 559 考えてみれば、もう来月なのだ。月日が経つのは早い。 去年は新婚旅行と称してイギリスを訪れたのだが、今年は息子も いるし、競合店もオープンするし、難しいだろう。 とはいえ、日々これだけ尽力してくれている彼女に、何もしない というのも申し訳ない。 ﹃日帰りで温泉にでもいこうか﹄ 私がそう提案すると、彼女は目をぱちぱち開閉させて、 ﹃あれ、言ってなかったっけ?﹄ ﹃何を﹄ ﹃クリスマス、イギリスの皆が訪ねてくるの。お義父さんとお義母 さんは出産のときに来てくれたけど、先輩と綴くんはまだでしょ。 だから、甥っ子の顔を見に来るって﹄ ﹃聞いてない﹄ 一切聞かされていない。 何故そういう肝心なことを黙っているんだ。眉をひそめて叱ると、 未怜は肩をすくめて忘れてた、と言った。 確信犯だ、この仕草のときは。 ﹃でね、みんな、猶さんの料理も食べたいんだって。だから四名様、 コース料理予約ね﹄ ﹃食べに⋮⋮来るのか﹄ ﹃駄目?﹄ ﹃駄目ってことはないが⋮⋮﹄ 複雑な気分だ。 560 よもや、手料理を彼らに披露する日がやってこようとは。 すると私がよほど不満そうな顔に見えたのだろう。妻は私の首に 両腕を絡ませ、額にひとつキスをくれた。 ﹃ごめんね。勝手に話、進めちゃって。反対されると思ったから⋮ ⋮つい﹄ わざとやっているのかもしれない、が、それでもクラリとさせら れてしまう自分がいる。 ﹃別に、怒ってはいない。もう反対もしないよ﹄ 抵抗がないと言えば嘘になるが、未怜が喜ぶのならかまわないと 思う。⋮⋮というのは言い訳だろうか、それとも私が甘いのだろう か。 それに、出産にあたっても母に世話になったばかりだし、今更、 だろう。 ﹃本当? 良かったあ。私、いつかは猶さんの料理、みんなに食べ てもらいたいと思ってたんだ﹄ ほっとした様子の彼女を抱き上げ、膝の上に座らせる。結婚前よ り少々柔らかくなった感じがする。 妊娠中に太っちゃったの、早くダイエットしなきゃ、と本人は言 うが、私は正直このくらいの手触りが好みだ。 ﹃まあ、手料理を持っては行けないからね、イギリスにまで﹄ ﹃だよねえ。あっちで作るっていう手もあるだろうけど、やっぱり 猶さんはお店の厨房に立ってるときが一番素敵だもん﹄ 561 見せたかったんだよねー、と未怜は猫のように私の胸に顔をすり 寄せる。 よしよし、と撫でながら長い息を吐いてしまった。 ﹃⋮⋮呆れてるの?﹄ ﹃違う。安心したんだ﹄ ﹃安心?﹄ ﹃こうしていると、疲れが取れる気がする﹄ 本当はそれだけではなかったのだが。 未怜はいつだって私のことを自慢げに話すから、安心するのだ。 自分は自分の世界さえあれば幸せ︱︱なんて考えは愚かな思い違い だったのではないかと思える。 今はもう、彼女も、彼女の世界も、家族も、家族の世界も全てが 自分の中にあって、全てを手放せないと思う。 ﹃それで、クリスマスは接客しているだけで終わりでいいの?﹄ ﹃飲食店経営者が聖夜に働かなくてどうするの。去年はスタッフさ んにお願いしたけど、毎年ってわけにもいかないでしょ﹄ ﹃⋮⋮たまにはもっともなことも言うんだな﹄ ﹃もーっ、たまには、って何よう﹄ 562 Parsley, Sage, Rosemary フグのように膨れた頬が私を誘う。 and Thyme︵新婚 たまらずそこに口付けたら、彼女は恥ずかしそうにパッと顔を赤 らめて、上目遣いでこちらを見上げた。 ﹃あの⋮⋮猶さん、今日、一緒に寝てもいい⋮⋮? 忙しいなら、 猶さんが来るまで待ってるから﹄ 珍しく、唇の動きだけで訴えてくる。甘えるような口調に感じる、 のは都合のいい解釈だろうか。 ﹃寝るのはいつも一緒のベッドだろう?﹄ ﹃そうじゃなくて︱︱﹄ そうじゃなくて、と二度も口ごもる理由はわかっていたが、わざ と聞き直した。 ﹃どういう意味?﹄ ﹃き、今日、あの子も珍しく静かだし、あの、泣いてもおばあちゃ んが見てくれるって言うし⋮⋮だから﹄ ﹃だから?﹄ ﹃⋮⋮だから、⋮⋮っ、いじわる⋮⋮﹄ 涙ぐんだ目が可愛い。私は彼女を抱えたまま立ち上がると、階段 をのぼり寝室へと向かった。ご希望どおり、可愛がらせてもらおう か。 563 祖母が建て、最近私が改築したこの二階建て建築は、一階を祖母 の生活スペースと共用設備、そして二階が夫婦の生活スペースとな っている。 子供部屋もあるが、ほとんど機能してはいない。使われるのは息 子が夜泣きをしたときくらいだ。親子川の字で眠っている私達だが、 息子が泣き出すと妻は私を気遣って、そちらに連れて行ってあやし てくれる。 ﹃祖母にけしかけられた? もうひとり孫が欲しいって﹄ 尋ねてからパジャマのボタンを外すと、ボディシャンプーと混じ って母親らしい匂いがした。柔らかくて、優しい匂いだ。 好きだ。 ﹃ううん。⋮⋮私が、お願い、したの﹄ そのへんは恥ずかしいからあまり深くツッコまないで、と未怜は 顔を覆う。 邪魔なその手を顔の左右で押さえつけ、唇を奪った。 本当は︱︱。 本当は、彼女に自分の子供を産ませるつもりはなかった。 と、言うと、他にあてがあったのかと言われそうだが、そうでは ない。 私は遺伝を怖れるがあまり、子孫など残せないと思い込んでいた のだ。 それは、結婚する以前にも打ち明けて理解してもらっていたこと で、だから未怜も同様の未来を望んでくれているものと思っていた。 564 一年半ほど前、彼女が﹃そろそろいいよね﹄と言い出すまでは。 最初は、何が﹃そろそろいい﹄のかわからなかった。当然だ。彼 女の親御さんでさえ、それには難色を示していたし。 だが彼女は引き下がらなかった。それどころか、何をどうやって 説得したのか、気付けば祖母まで彼女の味方になっていた。 おまえも男ならとっとと肚を括りな︱︱、と祖母にどやされたと きは本気で家を出ようかと思った。祖母は豪傑なのだ。 家庭内不和は1ヶ月にも及んだ。といっても、私がひとり、頑な にそれを拒否していただけなのだが。 すると、業を煮やした妻は家にあった避妊具全てにハサミを入れ るという強行に打って出た。どうしても欲しい!と。 そこで堪忍袋の緒が切れた私は、力任せに彼女を押し倒し︱︱感 情的になるとつい言葉より行動のほうが早くなってしまう点は短所 だと自覚しているが︱︱ 抱いてしまったのだった。 そのときに授かったのが息子だ。 思えば妻は一枚どころか、私より数枚うわてだった。 *** 翌朝、アラームのバイブレーションより早く私の眠りを妨げてく れたのは妻だった。 祖母は二階まで階段をのぼっては来れないし、別室にいる乳幼児 が私の上によじのぼるわけもなく、匂いからもなんとなく妻だとわ かった。 襟元を乱暴に掴んで、私の体を前後に揺する腕。いくらなんでも 565 無茶苦茶すぎる。ムチウチにさせる気か。 何事かと瞼を開けば、﹃猶さんっ、聞いて!﹄爛々とした目がす ぐ目の前にあった。 なんだ、何を期待している目だ、それは。 ﹃あのね、今、先輩から連絡が来てね﹄ うんうん、と頷きながら私は彼女を抱えるようにして体を起こす。 深い眠りの最中に覚醒させられたせいか、目眩がする。対し、妻 は相変わらず朝から元気そのものだ。感心する。 ﹃クリスマス、来られないんだって!﹄ ﹃え?﹄ ﹃だからね、先輩と綴くんのふたりが、クリスマスに来日できない んだって﹄ それでどうしてそんなに嬉々としているのか。 事態が呑み込めず茫然としていると、彼女は喜色満面といった顔 で、﹃いるんだって﹄と続けた。 ﹃赤ちゃん。おなかにいるんだって! やっと、やっと授かったん だって。どうしよう、自分のときみたいに嬉しい⋮⋮!﹄ 聞けば、義妹は妊娠中だと言うことがつい先程判明し、まだ安定 期には入っていないので、長旅は避けたいとのこと。 両親も、高齢で初産の嫁を気遣って、来日を取りやめるらしい。 そうしたほうがいい、と私も思う。 年齢とか経験を除外したとしても、異国の地という圧倒的なハン デがある。やはり夫婦だけでは心細いに違いない。 まあ、あの弟ならひとりでも万全の体勢を整えるだろうが。 566 ﹃それはおめでたいね。私からも何か、連絡をいれたほうがいいか な﹄ 妻の笑顔を前に、私の両手は無意識のうちに動く。 義妹︱︱維紗さんに対しては、以前憧れていたせいか、なんとな く複雑な思いがあったのだが︱︱あった、と思っていたのだが、⋮ ⋮案外そうでもなかったのかもしれない。 ﹃お祝いとか︱︱は、産まれてから、か?﹄ ﹃うん。今はまだデリケートな時期だから、もう少ししてからのほ うがいいかも﹄ ﹃そうか。しかしそうなると、次に家族が揃うのはイギリス、にな るのか﹄ ﹃だろうねえ。来年にはうちの子もそれなりに安心して飛行機に乗 せられるだろうし。うふふ、となると運命のふたりはロンドンで初 体面ってことに⋮⋮きゃー、素敵!﹄ ﹃う、運命のふたり?﹄ 何の話だ。 ﹃そう。ずっと考えてたんだけど、例えばね、先輩の家に娘さんが 出来たとするでしょ。うちの息子とロマンチックな恋に落ちたりし ないかなーって﹄ ﹃⋮⋮いとこ同士はまずくないか﹄ ﹃結婚はできると思ったけど。ああ、猶さん似の息子と、綴くんと 先輩似のお嬢さんの恋⋮⋮想像しただけで心拍数があがるう﹄ まだ性別もわかっていないのに、ここまで興奮できる妻の妄想力 には脱帽だ。 567 私はしばし彼女の夢物語に耳ならぬ目を傾けていたが、ふと思い ついてその手を遮った。 ﹃未怜﹄ ぽかんとした様子でこちらを見る目。その瞼にそっとキスをして、 私は彼女に両手で囁く。 ﹃今年のクリスマスはふたりで過ごそう﹄ ﹃え﹄ ﹃店が終わった後、久しぶりにデートをしないか﹄ 568 Parsley, Sage, ﹁ありがとうございましたー!﹂ Rosemary and Thyme︵新婚 クリスマス当日、最後の客を見送った妻は、手書きの︵妻作であ る︶立て看板を手に店内へ戻ってきた。 手際よく食器を片付け、掃除を始める様子がカウンター越しに見 える。 当初は配膳の腕もさっぱりで、お客様に迷惑をかけないか内心は らはらしていたのだが、いつの間にか誰より素早く、誰より的確に 動くようになっていた。 いや、いつの間にか、で片付けるのは妻の努力に失礼か。休日に も夜中まで自宅で練習していたのを私は知っている。 ︱︱感謝しなければ。 私はタイミングを見計らい、他のスタッフ達に﹃もう上がってい いよ﹄とこっそり告げた。 ﹃未怜、ここに座って﹄ 隅に寄せたばかりのテーブルと椅子を出してきて、そう促すと彼 女は不思議そうに首を傾げた。 ﹃え、なに?﹄ ﹃いいから﹄ デートは申し込んだが、この時間で開いている店は少ない。 569 今日はここで、彼女には私からのもてなしを受けてほしいと思う。 ささやかだが、クリスマスプレゼントだ。 お望みどおり、今晩はあなたの専属シェフになるよ、と、言って やりたいが照れ臭いので黙っておく。 夫婦と言うのはつくづく難しい。 独身時代にはもう少しマメに愛情表現も出来たのだが⋮⋮、と、 思うのだが⋮⋮。 日常、側にいすぎて、あらゆることが当たり前になりすぎていて、 なかなかそれを感謝する機会はない。 私がもし弟のように外国育ちであれば、照れもなく言えたのだろ うか。 今度、⋮⋮コツを聞いてみようか。 ﹃どうぞ﹄ オードブルを差し出すと、妻は一瞬戸惑った様子だったが、恐る 恐るフォークとナイフを手に持った。 ﹃食べてもいいの?﹄ 不思議そうに見上げる目が可愛い。 ﹃食べていけないものなら出さないよ﹄ ﹃でも、猶さんは﹄ ﹃私の分もちゃんと用意してある。メイン料理を出したら向かいに 座るから、先に食べなさい﹄ ここは気遣われたら困るところだ。 570 まだ何かしら言いたげにしている妻に背を向け、厨房へと戻る。 サラダを準備しながら客席を覗くと、彼女は前菜を頬張るところ だった。 マナー的に言えばアレは完全にNGだろう。 大口を開けすぎだ。が、あんなふうに幸せそうな顔で次々平らげ られると正直、気持ちがいい。 初めて一緒に食事をした時からああだったんだよな、と懐かしく 思う。 ﹃わ、サラダとスープもつくの? もしかしてフルコース?﹄ ﹃一応。未怜ならコースを二往復くらい軽いだろう﹄ ﹃二往復も出てくるの!?﹄ ﹃いや、冗談だが。⋮⋮なんでも本気にするなよ﹄ その後、魚料理と肉料理を続けざまに運んで、私は彼女の前に座 った。 不思議な気分だ。客席に揃って座るのは初めてかもしれない。 ﹃鴨! 鴨うれしいっ。やっぱり美味しいぃ﹄ ﹃未怜は面白いよな。そうやって容赦なく平らげておいて、本物の 鴨を見ると﹃可愛い、抱っこしたい﹄とか言うんだ﹄ ﹃う⋮⋮それは、きょ、教育だもん。我が子が、可愛い鴨を見て美 味しそうって言う子になったら猶さんだって困るでしょ﹄ ﹃平和そうに可愛いがっておいて、食事のときになるとあっさり食 うのもどうかと﹄ ﹃そんなこと言ったら何も食べられなくなるじゃないのーっ﹄ 叫んで︵恐らく︶、妻はフォークとナイフをピタリと止めた。 苛めすぎたか? 571 ﹃⋮⋮いい子で寝てるかな。ぐずってないかなぁ⋮⋮﹄ すると彼女の唇がわずかにそう動いたから、私は鴨肉を口に放り 込んでから手を動かした。 ﹃心配?﹄ ﹃心配じゃないことなんてないよ。猶さんもそうでしょ﹄ ﹃もちろん。だが未怜、疲れてないか。育児と仕事の両立、辛くな いか?﹄ 問いに答えようとして一瞬留まった彼女の目は、僅かに潤んでい た。辛くないわけはない。 ﹃スタッフを増やして、おまえは育児に専念してもいいんだよ﹄ 産休すらまともに取っていなかったし。とれない事情もあるのだ が。 ﹃手話の出来るスタッフ、探すほうが大変だもん。それに、私にと ってはこのお店も大事な子供だし、どっちも放っておけないし﹄ 結局、どれも私のワガママでしていることだから、と言った彼女 は穏やかに笑ってくれる。 そんなに気を遣わなくていいのに。 ﹃⋮⋮もっと私を困らせたっていいんだ。そんなに、良い妻でいよ うとしなくたって﹄ 時にはもう無理だ、と言ってくれてかまわないんだ。 ぽろり、零した言葉に﹃本当?﹄妻の目が光って、私は瞬時に青 572 ざめる。しまった、このタイミングは。 ﹃じゃあ、困らせちゃお。今度ロンドンに行ったときはホテルじゃ なくて先輩のお家に泊まってもいい? よねっ﹄ ﹃そ、それは﹄ ﹃先輩の家、お義父さんとお義母さんの家にも近いから、夜中まで 家族団らんできるよー﹄ したくない。 私はうなだれて鴨を一口ほおばる。思えば前回のロンドン行きの 話も、こんなタイミングで切り出されたのだった。 ときどき、妻にはしてやられる。 *** そんなことで食事を終え、帰路についたときには午前様。銀杏の ような月が、ビルの隙間から顔を覗かせていた。 キンと冷えた空気。白い息が、発光しているみたいに路地裏の闇 に浮かび上がる。 寒さだけでなく、家族に逢いたい気持ちが私の歩調を早めた。 祖母と息子、ふたりには明日、クリスマスと称して自宅でなにか ふるまおうと思う。 ﹃そういえば、ねえ、うちの妹、来年結婚するんだって。メールで いきなり告白されてびっくりしちゃった﹄ ﹃へえ、あっちもこっちもおめでたい話ばかりだな﹄ ﹃でしょ。そのうち、親族をうちの店にいっぱい集めて、みんなで わいわいやりたいな。きっと多言語飛び交って楽しいパーティーに なるよ﹄ 573 それだけの人数、果たしてあの小さな店舗に収まるだろうか。怪 しいとは思ったが、私は大きく頷いた。 そうだな、きっと楽しい。 ﹃最近ね、私、家族連れでもフランス料理は美味しく食べられるも のなんだってみんなに知ってもらいたいなって思うの﹄ 未怜は街灯の下でそんなことを言う。 ﹃みんな?﹄ ﹃そう。私、育児で行き詰まっちゃったとき、時間に追われてると き、猶さんの料理を食べるとそれだけで元気になれるから﹄ 健気すぎる言葉に、鼻の奥がツンとした。 ﹃フランス料理って全部にちゃんと、食べる人への気遣いがこもっ てるでしょ? サラダで肉料理にそなえたりとか、途中、ソルベで 口の中をリセットしたりとか﹄ ﹃ああ﹄ ﹃そういうの、ひとつずつゆっくり食べながら、誰かにちゃんと思 い遣られてるんだって、ひとりじゃないんだって、慌ただしいママ さんたちが感じてくれたらいいなー、って。そういうお店になれた らいいなって思うの﹄ うちはどちらかと言うとカップル向けの、静かな空間がウリなの だが、妻の希望は否定できない気がした。 誰も、はっきりそうとは言わないが、最近はファミレスにお客を 持っていかれている。 そろそろ、何か思い切った対策が必要な頃かもしれない。 すると、 574 ﹃あーっ! 私、いいこと思いついた!﹄ 妻は目を見開いて私の腕を掴んだ。突然で、肝が縮んだ。 ﹃キッズルームを造るの、どうだろう!?﹄ ﹃きっず⋮⋮?﹄ ﹃そう。お店を大まかに半分に分けてね、片方をカップル向けに、 もう片方を防音壁にして子供連れで入れるようにするの﹄ どんなだ。えらく大規模な改装が必要そうじゃないか。 ﹃安っぽくならないか?﹄ ﹃外国製の木のオモチャを置いたりしたら逆にオシャレになると思 う。そう、先輩に手配してもらって︱︱駄目かな﹄ 唐突すぎて返答を躊躇した私は、それでも数秒後にやれやれと頷 いた。 ﹃明日、スタッフ達と検討してみよう﹄ ﹃本当!?﹄ ﹃本当本当。未怜の意見は、時々正しいからな﹄ ﹃⋮⋮ときどき、は余計だよぅ﹄ 唇を尖らせた彼女の、手を握って門扉を開ける。眠る家族を起こ さぬよう、静かに︱︱しずかに。 と、玄関で靴を脱いでからもしやと振り返れば、妻が締めたドア の、鍵は開いたままだった。 ︱︱妻は何かといい加減な人だ。 575 嬉しいことは盛大に喜び、悪いことは深く考えない。そうやって、 飄々と生きている⋮⋮ように見える。 だが、表面に出さないだけで実は何事も真剣に取り組んでいるこ とを、私は誰よりわかっている。 だからここぞというときほど、私は彼女を信じているし頼りにし ている。 ︵後始末がしっかりできるようになればもっと良いのだが︶ 心の中でそう呟いて、私は玄関の鍵を閉めた。 576 Parsley, <おわり> Sage, Rosemary and Thyme︵新婚 *ロンドンブリッジの恋人、ここで完結です。最後までお読み下さ ってありがとうございました! Holic﹄です。 次の連載はアートディレクター︵45︶×若奥様︵26︶のふわ あま結婚話﹃Sugar 先程ブックオープンしましたので、よろしければお付き合い下さ いませ! 2012.5.14 斉河燈 577 PDF小説ネット発足にあたって http://novel18.syosetu.com/n6358t/ ロンドンブリッジの恋人 2013年11月4日01時02分発行 ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。 たんのう 公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、 など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ 行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版 小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流 ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、 PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。 578
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