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ISSN 1349−2160
福井県文書館研究紀要
第 4 号
福井県文書館講演
泰澄と白山信仰
本郷 真紹
1
戦国大名朝倉氏知行制の展開
松浦 義則
17
木谷藤右衛門家と福井藩関係文書
長山 直治
31
―桜井市兵衛家の資料群から―
柳沢芙美子
49
福井藩家中絵図(山内秋郎家文書)を照合する
吉田 健
57
論 文
資料紹介
若狭浦方の手習資料
平成19年3月
福井県文書館
泰澄と白山信仰
福井県文書館講演
泰澄と白山信仰
本郷 真紹*
はじめに
1.『泰澄和尚伝記』の伝える泰澄の生涯
2.『泰澄和尚伝記』の特色
3.古代北陸文化の地域特性
はじめに
今、ご紹介いただきました本郷でございます。1982年に私が京都大学大学院に進学しました折、恩
師の岸俊男教授が福井県史の古代部門を担当しておいでになりました。その頃ちょうど福井県史の資
料編編さんの準備作業が進んでおりまして、福井関係、越前・若狭関係の資料を丹念に拾っていくと
いう作業を行っていました。この時、福井県史として特色のあるものにしたいということで設けられ
た『泰澄和尚伝記』の諸本の異同をつきあわす作業を私がさせていただきました。
資料編が発刊され、続いて通史編が出るということになりました。残念ながら資料編が出されたそ
の時には岸俊雄先生はお亡くなりになっていましたが、そのあとを京都府立大学の門脇禎二先生が古
代部会の部会長を継がれまして、資料編を編さんさせていただいた経緯から、引き続き泰澄と白山の
ことについて調べて認めよという命を請けたわけでございます。それで、通史編の方も泰澄と白山信
仰という一節を担当させていただくようになりました。
直接その件がきっかけになったというわけではございませんが、たまたま1992年から4年間富山大
学の人文学部で教鞭を執らせていただくことになりました。その意味ではいろいろな形でこの北陸に
関わらせていただいて、自分なりに新しく勉強させていただくことができたというふうに思っており
ます。
96年に立命館の方に移りまして、しばらくして、ちょうど福井県史でお手伝いさせていただいたこ
とがきっかけとなって、1999年の正月から1年間、ご当地の福井新聞で「泰澄に問う現代」という連
載を、合計91回にわたってさせていただきました。その連載は、毎週(週2回の時もありましたが)
大体1600字ほどのコラムを載せていただきましたので、以前県史の編さん作業の時には気が付かなか
ったことや、それに付随するようなことを自分なりに改めて勉強させていただきました。その時の連
載記事をもとに『白山信仰の源流』という本を出させていただくことになりました。ですから最初に
関わらせていただいてからだと23・4年の間、白山関係のことについて、いろいろと考えさせていた
*立命館大学文学部教授
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福井県文書館研究紀要4 2007.
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だいたという、そういう経緯がございます。
私は元々専門が考古ではなく文献史学です。ですから先程申しましたように『泰澄和尚伝記』をベ
ースにしながら、そこから読みとれるものは何か、そういう課題で始めました。実は先行研究をひも
といてみますと、この『泰澄和尚伝記』というのはそれまで重視されていないようで、泰澄というお
坊さんが実在したかどうかということについても確証はもてない。唯一宮内庁の所蔵する古写経のな
かに泰澄という署名のあるものがあると。それぐらいしか奈良時代の痕跡はありません。しかも、こ
の泰澄の署名が本当に越前の白山を開いた泰澄のものであるかどうかというと、確証はない。したが
って、いろいろ説はありますが、先行研究の総括をいたしますと、どちらかというと泰澄の実在論に
関しては、懐疑的なむきの方が強かったように思います。
泰澄という個人の伝承については、確かに後世付け加わった部分がある。物理的に考えてもおかし
いと。これはまあ、高僧の伝記にはよくある話ですが、100俵もの米が本当に空を飛ぶのか、あるい
は都との間を瞬く間に行って帰ったりできるのかとか、そういう霊験譚はよくある話です。しかし、
だからといって『泰澄和尚伝記』そのものを荒唐無稽な作り話であるという、最初からそのように卑
下して捉える見方にはどうも賛同できない。といいますのは、綿密に『泰澄和尚伝記』の中身を読ん
でみますと、今日まで我々が信頼するに足ると評価している、例えば奈良時代の正史であります『続
日本紀』などでは、到底窺えない内容が含まれているのです。
950年前後に成立したという『泰澄和尚伝記』の奥書を信じるとするならば、泰澄の生きた時代か
らしますと、200年近くたって認められたことになるのですが、そこには何がしかの、今日我々が目
にすることのできない原資料に基づいて書かれた部分が大きかったのではないか。紙に書かれた資料
ではなくても、独自の伝承に基づいて作られた経緯があったのではないかと。そういう点に注目する
ことによって、今まで見えてこなかった歴史の一面が見られるようになるのではないかというように、
改めて『泰澄和尚伝記』の重要性を実感して、別の角度から『泰澄和尚伝記』の伝えるものを調べさ
せていただいたというようなことでございます。
考えてみますと、歴史上の人物といいましても、いろいろと疑わしい部分が大きくて、今少し触れ
ました奈良時代を扱った正史である『続日本紀』以降の国史になりますと、ある程度客観性をもった
叙述になっていると言えますが、『古事記』や『日本書紀』などは、かなり造作された部分が大きい。
ちょうど今、卒業論文の口頭諮問の時期に当たっておりますが、『日本書紀』をまともに取り扱っ
てそれを根拠に立てている論をつぶすのはいとも簡単なんですね。他に史料がなくて、否定する根拠
もないのだから使ってもいいんじゃないかと、そういう姿勢は絶対文献史学ではだめだということで
すね。やはり、石橋を叩いても渡らないぐらいの慎重な姿勢で史料を扱わねばならない。他に否定し
去ることができないからすべてを信頼するというのは絶対だめだと。可能性としては考えられても、
それが事実だという論理に認めてしまうとえらいことになる。
最近私が関心を持って調べました例で言いますと、少し本題からはずれますけども、聖徳太子に対
して書かれている内容というのは80%疑わしいですね。どう考えたって聖徳太子が冠位十二階を制定
したり、十七条憲法をつくったり、仏教の興隆を認めたりするようなことはあり得ない。もし、聖徳
太子なる人物がそういうことをやったとするならば、もともと聖徳太子は天皇の跡を継ぐ資格はなか
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泰澄と白山信仰
った。というのは、天皇というのは今でもそうですけれども、祭主ですから、一番大事な仕事という
のは、日本古来の八百万の神々を祀るということです。
今日の我々は千二百数十年続いた神仏併祀の時代を経ていますから、別に仏と神が一体化していて
も、同じ家の中で仏壇と神棚があっても何の違和感もない。しかし、聖徳太子が生きた時代は、まだ
そこまで仏教に対する理解がなされてなかったし、受容もなされてなかった。そんな時代に、次の天
皇になるべき人物が「篤く三宝を敬え」などと言えるのかということです。そういうところから、聖
徳太子といった日本の国家的英雄の人物像についても、やはりもう一度慎重な姿勢で検証しなければ
ならない。このように思っております。
史料を批判的に読み解き、そこから導かれる人物像なり歴史像というものを構築していくことは大
変な作業ですけども、さしあたり今日は泰澄と白山信仰について、私が『泰澄和尚伝記』の分析をベ
ースに考えてみたことを若干ご紹介申し上げて、まさにご当地の文化ですから、今後白山の問題を考
えていただくひとつの素材としていただければというふうに思っております。
1.『泰澄和尚伝記』の伝える泰澄の生涯
お手元にレジュメを準備させていただきましたので、そちらの方をご覧頂きたいと思います。おそ
らくご当地の皆さん方は基本的な泰澄の生涯についての知識というのは十分持ち合わせておられると
思いますけども、論の関係で少しそれを確認しておきたいと思います。
(1)泰澄大師は越の大徳または神融禅師ともいって、越前国の三神安角を父、伊野氏の女性を母
として、天武天皇の白鳳22年(682)6月11日に生まれました。麻生津というのは現在でもその地名が
ありますけれども、福井市の、産所が訛ったんではないかといわれる三十八社町というところですね。
(2)幼い頃から一般の児童とは異なり、泥で仏像を造ったりしていた。『泰澄和尚伝記』には子ど
もたちが外で騒いでいてもそれに耳を貸そうともせず、ひたすら泥を捏ねて仏像を造っていたという
んですから、今流に言うとちょっと問題児ということになるんでしょうね(笑)。そういう若干奇行
癖のようなところがあったわけですけど、その泰澄のもとに、持統7年(693)に道照(道昭)とい
うお坊さんがこの地を訪れて、泰澄が神童であることを見抜いたというんですね。
道照というのは実在の人物でありまして、入唐して有名な玄奘三蔵の門下に入り、非常にかわいが
られて三蔵が訳したばかりの経典を多数持ち帰ったといわれます。法相宗を日本に将来した僧とされ
るこの道照という人は、当代きっての仏教の中心施設であった元興寺の東南に禅院という施設を造っ
て、そこで住まいしたといわれます。
この元興寺というのは飛鳥寺のことで、7世紀においては一番の仏教の学問所であった。舒明天皇
勅願の百済寺が大官大寺から大安寺と改められ、このお寺や天武天皇発願の薬師寺など、勅願によっ
て造られた寺がありましたが、伝統的に国家随一の寺としてあがめられていたのは元興寺(飛鳥寺)
でありました。天武天皇が諸々の寺々に対する経済援助の打ち切りを宣言した時にも、元興寺だけは
国家から特別の扶持を与えるということを約束しているぐらいのお寺であります。
道照は一方で、いろんなところを廻って仏法を説いて歩く、あるいはそのことを自らの修行とした
という記録も残っております。ですが、越前の国に道照がやってきたという記録はなくて、年代的な
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ことから申しますとかなり高齢になってからですので、その可能性はあまり高くはありません。しか
し、こういった日本仏教史上非常に有名な、大きな足跡を残したお坊さんが越前にやってきて、泰澄
が神童であると見抜いた。頭の上に光輪がのっている、それは凡人の目には見えないけども、道照の
目には見えたということですね。両親に対してこの子は特別だから大事にせよということを言い残し
て帰ったと、『泰澄和尚伝記』には出ています。
(3)泰澄が14歳の時に、十一面観音の夢告を受けます。西の方に来なさいと言われ、越知峰の坂
本の岩屋というところに通った。後年この峰に籠もって修行に励んだということなんですね。兄がそ
の後を付けていったところ、その岩屋に入った。父母に報告するために急いで帰ったら、いつの間に
か泰澄がさきに帰っていた。これもまた奇瑞のひとつとしてよく言われる話です。
(4)その間、大宝2年(702)に伴安麻呂が勅使として遣わされたとされます。『泰澄和尚伝記』
には伴安麻呂と出てきますが、平安の初期から大伴氏が伴氏に代わりますから、正確に申しますと、
大宝2年段階で伴氏という氏はないんですね。大伴氏のことであります。この伴安麻呂すなわち大伴
安麻呂という人物は、有名な大伴家持のおじいさんです。大伴家持のお父さんはこれも有名な万葉歌
人の大伴旅人ですけれど、そのお父さんが大伴安麻呂という人ですね。確かにこの人は、大宝2年段
階で官人であったということが確認されますから、そういった意味では歴史的な事実とそぐわない、
別に間違ってはいません。その人が勅使として遣わされて、泰澄をもって鎮護国家の法師に任じたと
いうふうに書いてあります。
鎮護国家の法師というのを、どういうふうに受け取るべきかというのはいろいろと解釈はできます。
日本古来の律令国家というのは基本的に個別人身支配といいまして、一人一人を戸籍あるいは計帳と
いうような文書に記録して、それに基づいて班田収授という、一定の口分田を班給し、死んだらそれ
を収公するというようなことを行い、またこれに基づいて、租・庸・調・雑徭という様々な税を課す
るという仕組みをもっています。そういった意味では今日の我々の戸籍や税の原簿と変わらないシス
テムをとっていたということですね。
したがいまして、個々人の年令や性別、特徴を正確に国家の方で把握しなければなりません。です
から、戸籍は6年に1回作られる。計帳という税の徴収原簿は毎年作られていた。こういうのを個別
人身支配という言い方をします。
その意味合いで言いますと、特権的な階級にあたるお坊さんという存在も国家が正確に把握してお
く必要があった。正式に国家の側で得度が認められますと、その人はもちろん戸籍や計帳から抜かれ
て、僧尼名籍と言われる、お坊さんと尼さんを別に記録する原簿に載せられることになった。ですか
ら、それから以降租・庸・調・雑徭というような一般の農民が賦課されるような税の徴収対象には含
まれませんよ、ということになるわけです。
お坊さんの立場からすると免税を受けるということですね。その僧尼名籍というのは基本的に所属
するお寺ごとに作られますから、そのお寺に何人のお坊さんがいるというのをこの僧尼名籍を通じて
国家の側は把握し、お坊さんの生活に必要な物資を支援する。こういうようなシステムを取るんです
ね。
したがいまして、古代において得度するということは、免税特権を受けるということを意味します。
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泰澄と白山信仰
逆に言うと、誰しもがお坊さんになると国家の方は非常に困るんですね。ですから、国家は僧尼の身
分というものに対しては、極めて厳格にこれを統制しにかかった。優婆塞・優婆夷と呼ばれる、得度
を目指して修行している人々が、国家の官許を経ますと、沙弥・沙弥尼という正式の出家者になる。
ここから授戒を経て、比丘と比丘尼という身分になる。これが一般的なんです。
いずれにしましても、国家の側にとって、自らの希望に応じて出家を許していたのでは、一般の国
民は統治していけないということになります。したがって厳格な得度の制度というのを設けた。持統
10年に施行された年分度者の制度というのがありまして、得度を許されるのは毎年国ごとに10人。1
年間でせいぜい500人ぐらいの新しい坊さん尼さんしか生まれないということになるわけです。農民
にとっては苛酷な収奪から逃れることができるということで、お坊さんになることを望む人が多かっ
たんですけども、この年分度者の枠にはいるというのは大変なことでした。したがって、国家の許可
を得ずに勝手に自分でお坊さんの身なりをして、出家者だと称して生活する者もあった。あるいは乞
食(こつじき)といって村々を廻って物乞いをする人もいた。そういう行為を私度といいます。これ
は今日流に言えば無免許運転と同じです。だから当然のことながら、取り締まりの対象になったとい
うことなんですね。
しかし奈良時代の諸々の資料をみてみますと、私度のお坊さんや尼さんというのは、自由に活動し
ていた。そのことをもってして、国家の仏教統制なんていうのは有名無実で、最初から国家はそんな
ことは望んでなかった、仏教というのは大切なものだったんだというような主張もあります。それは
間違いであって、法の原則というものと、それがどれだけ厳格に取り締まられたかというのは別問題
であって、あまり厳格に取り締まられてなかった、取り締まられてない例が見受けられるからといっ
て、法そのものが最初から有名無実だった、国家は形だけのものだったんだと決めつけるのは乱暴な
議論です。
お坊さん・尼さんになったらすべての税が免除されるということからすると、国家の方が最初から
出家したい者は出家を許していくというような姿勢をとるわけがない。今日と違って情報管理に物理
的な制約がある当時の段階においては、農民が収奪から逃れようとほかの地へ逃げたら、それを把握
するのは難しい。把握したら浮浪人ということでその地で浮浪人帳に登録して税を取ろうとした。と
ころが一方で逃亡とよばれる人は、どこへ行ったかも分からない。実態と法の建前の乖離は、いつの
時代でもやむを得ない部分があって、それでもって法の基本的なスタンスそのものを否定するという
のはやっぱりおかしい。
何が申したいかというと、おそらく泰澄をもって鎮護国家の法師に任命したというのは、この時点
で泰澄が正式の度縁をもらった、つまり得度したということを言いたいんだろうと思うんですね。だ
から、それまでの泰澄の行動、越知峰に籠もって修行したというのは、身分的には優婆塞としてやっ
ているわけで、これは俗人である。もっとも、国家の側から勅使が下されたというのは多少誇張であ
ると思いますけれども、度縁をもらったことによって結局彼は正式のお坊さんとして所遇されること
になったということであろうと。
(5)そしてこの702年に能登島という島から小沙弥が訪れて、やがて泰澄の身の回りの世話をする
ようになり、臥行者とよばれるようになった。この臥行者は北海の行船から米を徴収し和尚に供して
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いたということなんですね。
残念ながら今越知峰に登りますと、日本海は見えません。ですから、今の越知山が越知峰として間
違いないとするならば、あそこのてっぺんから舟を見張ってそこから米を徴収するということは不可
能ですね。だから、ちょっとこの辺のところは現実から離れたところがあります。越知峰が別のとこ
ろにあるとしたらまた別ですよ。しかし、こういうこともすべて荒唐無稽な作り話だとばかりは言え
ない部分があって、実は日本海の沿岸地域で、公海がすぐ見渡せるような山にお寺が造られた例とい
うのは多いんですね。
そのお寺から下を見てみると、沖合を航行する舟はすぐ見える。どこまで遡るか、平安まで、奈良
までいくかどうかというのは微妙なところですけども、中世あたりになって、ある程度各地域の勢力
が独立採算的に自らの生活を営むようになってまいりますと、海を航行するのもその地域に住む人に
とってみたらひとつの権利として、今の漁業権と同じようなもので、認められるようになる。そこを
通る舟とかあるいは湊に立ち寄って食料や水などの供給を受ける舟から津料という通行税を取るんで
すよ。お寺はそういうことをやってたんではないかと。そう考えてみると、後世の実態を反映したも
のであろうと思いますが、越知峰からというのはさておき、ある山のてっぺんに住んでおるお坊さん
が、日常的にすぐ麓のところの海を航行する舟から米のお布施を受けて、それを自らの生活の糧とし
ていたということは、あり得る話なんです。
(6)ところが、和銅5年(712)に出羽国から中央の朝廷に納める米を運搬してやってきた舟の船
頭の神部浄定という人物が、ここに積んでいるお米はすべて朝廷に納めるべき米なので1粒たりとい
えどもお布施にすることはできない、と断ったわけですね。徴収の役割を担っていた臥行者が非常に
怒った。失礼だということで怒った途端に、その舟に載っていた米俵はすべて空を飛んで越知の峰に
来襲したという。
この米俵が空を飛ぶなんていう話も、あちこちに同じような話が残っています。一番有名なのは皆
さんもよくご存じの信貴山縁起に描かれた米が空を飛ぶ話がありますし、同じように宗教的な施設で
言いますと、播磨の法華山一乗寺という法道仙人ゆかりの寺に、米俵が空を飛ぶという説話が残って
おります。
これも確証はないんですけれども、なぜ米俵が空を飛ぶかというと、山の高いところに宗教的な施
設があって、山の上にお布施の米を引っ張り上げるのに、今でいうところのケーブルのような、綱を
引っ張って谷と谷を渡すような運搬の道具を多分使っていたんではないかと思う。日本ではこういう
ものを描いた絵巻物はないんですけど、中国では残ってるんですね。だから麓のところに出張事務所
みたいなものがあって、そこで航海する舟から一定の米のお布施を受けますと、おそらくはそのよう
なケーブルに積んで山のてっぺんの本寺まで、運んでいた。そうしたらロープでつるされた米がずー
っと上げられてますから、下から見てる人にとっては、まるで米俵が飛んでいくんやなというかたち
で見ていたと。そういうようなことが、モチーフになってるんじゃないかと考えられます。
その舟の米は1俵残らずすべて越知峰に来襲した。そこで、あわてて神部浄定は泰澄に対して済ま
ないことをしたと謝ります。泰澄は、これは臥行者がやったことで、謝るんだったら臥行者に謝れと。
そこで臥行者に謝ったところ、1俵だけ残してあとは返してやると。返してやると言っても越知峰の
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泰澄と白山信仰
上に99俵どうやって積み直すのかというと、瞬く間に99俵が飛んで舟の上にまた積み重なっていった
といいます。神変不思議な出来事に感銘した神部浄定は、その米を予定通り朝廷に納めた後、出羽国
へ戻らずに泰澄に弟子入りして、浄定行者と呼ばれるようになったということです。
(7)次に、泰澄が霊亀2年(716)に再び夢の中に非常に気高い女性が現れて私の元へ来なさいと
お告げを受けた、ということで養老元年(717)に母親のゆかりの地である白山の麓の大野隈苔川東
伊野原というところに来宿した。伊野という地名は現在でも残っております。泰澄のお母さんの伊野
氏というのは、そこの女性だったのでしょう。『泰澄和尚伝記』には苔川と出てきますけれども、こ
れはおそらく九頭竜川のことと思います。苔川は、本来は筥川であった可能性がある。九頭竜川は筥
川という別名を持っておりまして、「筥の渡」という渡し場が現在でも残っています。比較的伊野原
から近いところですから、九頭竜川の近くの東伊野原にやってきたということで間違いないと言うこ
とですね。
ところが、そこで再び夢告を受け、ここはお母さんがおまえを産み落とした産褥の地である。自分
は違うところにいるからこっちに来なさいと言われ、泰澄はその東の林泉、これが現在の平泉寺白山
神社のあるところですね。そこに今でも泰澄が夢告を受けてやってきて、神が現れたとする泉が残っ
ております。
(8)その平泉寺白山神社の林泉で、白山神の化身である貴女が名乗りをあげ、自分は妙理大権現
という、と告げます。この平泉寺白山神社は、やがて越前の馬場、中宮と言われます。ちょうど越前
側の白山への登り口になるこの地域に泰澄がやってきたという伝承が出ているわけですね。
(9)さらにそこから、泰澄が白山天嶺の禅定、つまり霊山の頂上に登りますと、緑碧池があり、
そこの側で、最初九頭竜王が現れます。泰澄が本体ではなかろう、本身を現せというふうに言ったと
ころ、いよいよ御本尊の十一面観音が現れてきたということです。
(10)泰澄はさらに左孤峰で聖観音の現身である小白山別山大行事、右孤峰で阿弥陀の現身の大己
貴を感得して、これが白山三所権現を構成するということになります。以降泰澄はこの峰に住するこ
とになったということです。
これが白山入山の経緯として『泰澄和尚伝記』の中に描かれていますが、非常に興味深いのは、も
ともと白山神は女性の形をもって現れた。そして、最初伊弉諾尊であると名乗ります。ところがそれ
は仮の姿であって、実際には妙理大権現と名乗ったということですから、本体は仏教の菩薩であると
言っておる。
この権現というのは、神仏習合した後に現れるひとつの神格でありまして、神様は神様なんですけ
ど、例えば家康なども自分のことを東照大権現だというふうに言っています。権現の権というのは、
仮ということなんですね。現は現れるですから、権現という言葉は仮に現れるということなんです。
例えば、大納言に準ずる位として権大納言というのがある。権大納言というのは大納言より下です。
となると、仮の姿ではなく本体って何なんだ、それが仏なんだ、それが菩薩なんだよ、という理屈に
なります。
だから妙理大権現であるということを神自身が語ったという時点で、自分の本体は別にあると言っ
ているわけなんですね。もっとも、これは『泰澄和尚伝記』の中では養老年間の話ということですが、
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福井県文書館研究紀要4 2007.
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養老年間にはどういう資料をひもといてみても、権現という観念があったことは確かめられません。
おそらくは平安時代になってからの観念が影響されたんだろうと思います。
では、そういう可能性というのは全くないのか。泰澄は一体何を見たのか、ということになります。
実はこの北陸という地域の特性を考えれば、養老年間に神様が仏様の仮の姿であるというようなこと
を訴える可能性、要するに、中央でも他の地域でも認識されていない独特の神と仏の関係というのが
北陸地域では形成されていた可能性があるということを申し上げたい。つまり、神仏習合がひとつの
帰結点とするならば、それをいち早く体現したような信仰があったという北陸地域の存在した可能性
はあるということです。これはまた後で詳しく申し上げます。
(11)ここから養老6年(722)に浄定行者とともに都に赴いて元正天皇の病の治療にあたった。そ
の効あって、護持僧として禅師の位を授けられ、諱を神融禅師と号したということなんです。
この護持僧というのは、実はこの時代にはありません。平安時代になって出てきます。天皇や崇貴
な人々の身辺の加護にあたるようなお坊さんのことを護持僧という。しかし、奈良時代に同じような
役割を帯びたお坊さんというのはいたわけであって、大抵の場合、そういう人は一般的に看病禅師と
いう言い方をします。
この禅師というのは白山禅定の禅とも通じるんですけども、今禅師というと禅宗のお坊さんのこと
を言います。古代において禅師というのは、基本的に山林修行僧のことです。山林修行を積み、呪力
を得た人のことを禅師と言う。泰澄は紛れもなくこの禅師なんですね。
共通して言えるのは、それだけ長年の間難行苦行を山林で修したお坊さんというのは、共通して卓
脱した治療能力を身につけています。病気を治す能力です。実はここに元正天皇の看病に従事したと
書いてあるように、朝廷の高貴な人々にとって、お坊さんのさまざまな能力の中でも、実は治療能力
が一番意味があるんです。この能力を有する人を高僧と認識する。教学的に非常に高度な解釈能力を
もっているお坊さんがいても、それがどれだけ優れているかということは、一般の人々にはわかりま
せん。天皇たりといえども、いくらお経の解説をされても、評価することが難しいわけです。ところ
が、例外なくどんな人々でもこの僧はすごい僧だと思うのは、自分の病気を治してもらった時です。
お坊さんが高貴な人々から重視されるのは、大抵この治療能力によるんですね。
奈良時代に高僧として伝記などに名を残すお坊さんのうち、病気を治す能力を片鱗も窺われないと
いうのは、私の調べた範囲では1∼2割しかいない。皆さんご存じの奈良時代の高僧で言いますと苦
難の末に日本に渡来し、授戒の作法を伝え、また唐招提寺の開基となった鑑真の卒伝が『続日本紀』
の中に収められています。その伝記を読みますと、鑑真というのは失明して目も見えなかったのに、
ひとたび匂いを嗅いだらそれがどんな薬かすぐに見分けたとあります。これは授戒と何の関係もあり
ません。このことが『続日本紀』という国家の正史の記録に残っているわけです。ということは、鑑
真が渡来した意義は、確かに授戒の作法を伝えたことも大事なことだったけれども、薬物を嗅ぎ分け
るというこの力にものすごく高い評価をしていたということを現しているわけです。
この鑑真以外にも、東大寺を造るのに一番功績のあった良弁、良弁と親交のあった慈訓という興福
寺のお坊さん。かれらはすべて僧綱として国家の仏教行政に中心的な役割を担った人ですけども、す
べて聖武天皇の病気の時に大きな功績を残したということを理由に、僧綱の位を上げられている。良
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泰澄と白山信仰
弁は東大寺の造営に尽力したから大僧都になったのではなくて、聖武天皇の看病に従事したから大僧
都になったと。こう書いてあるわけですね。
そういった点からしても、やはり天皇にとってみると、自らの病を治してもらうということが一番
大きな僧侶から受ける功徳ということになる。したがって、それにうまく成功した坊さんというは大
体高い評価を受けて、高い位を授けられ、高僧として伝記を残すようになる。泰澄は、もちろん直接
中央に赴いて元正天皇の治療に当たったなんてことは中央の記録にはございません。しかしながら、
泰澄が越知峰や白山で艱難辛苦の修行を積んだということをもってすれば、当時の観念からすると禅
師たるにふさわしい。それだけの治療能力を兼ね備えておるということで、元正天皇の病の治療に当
たらされ、こういう伝が形成されたと考えられます。
泰澄という個人に限ったことではありませんけれども、天皇の病気というのは国家の一大事ですか
ら、その時にはかなり広範囲に勅使が遣わされ、名望のあった、つまり治療能力にたけているという
噂の高いお坊さんを呼んできて、看病の任に当たらせたという例は史料に窺われます。
ですから、泰澄であったかどうかは別にしても、おそらく越前のそういう修行僧がこの地域で非常
に高名となり、その噂が中央にまで及んでいたとするならば、勅使が派遣されて中央に呼び出され、
天皇の看病に従事させられたという可能性は十分にあります。そういう意味では、これも荒唐無稽な
ものとして否定し去ることはできない、ということです。
(12)神亀2年(725)7月には白山妙理大権現に参詣した行基と会い、行基の質問に答えて種々の
現瑞などを語り、極楽での再会を誓った。この行基というのも、非常に有名なお坊さんであちこち遊
行したといわれます。行基集団というのは畿内を中心に大々的な社会福祉事業を展開していたという
ことでありますけども、行基が越前にやってきたという記録は中央には残っておりませんし、『行基
年譜』などを見ましても、そんなことは書いてありません。ですから、このあたりのところも後世の
付加だということになるんでしょう。ただ、行基に関する伝承というのは結構広範囲に広がっており
まして、越前・若狭などにも行基ゆかりの寺とか行基ゆかりの仏像というのはたくさんありますから、
そういう風潮のなかで、このような行基と泰澄が直接面談したというような話が形成されたと思いま
す。
行基ではないにしても、中央の志あるお坊さんが地方にやってきて、その地方の有名なお坊さんと
交流するということは、他の例でも認められますので、僧侶同士の交流は頻繁に行われていたと考え
ていいと思います。そのようなところから、泰澄と行基というような1対1の関係が形成されたと考
えられます。
(13)ついで天平8年(736)に泰澄は都に出て玄
の経典となる十一面経を玄
に会い、白山の本地仏である十一面観音の根拠
から授けられたとあります。私が『泰澄和尚伝記』解読の作業をしてい
るなかで一番興味を持ったのはこの部分であります。というのは、玄
というお坊さんは、天平7年
(735)に、入唐学問を修して帰ってくる。これは実在の有名なお坊さんです。玄
『続日本紀』に載っておる玄
の卒伝によりますと、玄
は僧正になります。
は唐の皇帝、楊貴妃とのロマンスで知られ
る玄宗皇帝の厚い信任を受けて、内道場という唐の宮廷内の仏教施設に安置され、そこで紫の袈裟を
賜ったということです。
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福井県文書館研究紀要4 2007.
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それほど皇帝の信任を得たお坊さんでありましたので、帰国するに際して皇帝から、当時の中国に
実在した全ての仏教関係の経論を授けられた。ご承知の通り、仏教の経典というのはインドから中央
アジア地域を通って中国に伝えられる。中国でそれこそ玄奘三蔵を始めとする大規模な訳経事業が展
開されるんですね。三蔵はまだ新しい方で、もっと前の鳩摩羅什は200年ほど前から、お経の翻訳を
やっていた。その翻訳された経典がだんだん蓄積されてまいります。唐の開元という年間に、皇帝が
命令して、中国本土の中にあるすべてのお経を調べさせたところ、それが5千数百巻あったというん
です。巻物にして5千数百。『開元釈教録』という当時の文献目録にその名前が残っています。
その総数が5千数百巻あった。玄
は唐の皇帝から5000余巻の巻物をもらってそれを日本に持って
帰ってきたというのですから、おそらく、当時の中国に実在したお経の全てをもらったんだろうと。
これだけでも大きな業績ですが、当時の実力者であった聖武天皇の皇后の光明皇后をパトロンとし
て、写経事業が展開されました。彼女の皇后宮が所在した現在の奈良の法華寺というお寺の一角に隅
院というお寺が設けられ、玄
はそこに安置されます。
実は十一面観音に関するお経というのはたくさんあります。一番観音信仰で有名な、今でもよく各
宗派で読まれる観音関係の経典というのは、俗に言うところの観音経です。ところが、この観音経と
いうのはいわば通称でありまして、正確には独立した経典としての観世音菩薩経という経典はないん
です。正確に申しますと、法華経の観世音菩薩普門品という一節なんです。そこだけとくに観音のこ
とについて書かれているということで、観音信仰が高まってきますと、読まれることが多かったので、
これが独立した観音経として扱われた。日本の正史などにも観音経として出てくるんですね。
しかしですね、玄
が持って帰ってきたお経のなかで、これとは別個に十一面観世音神呪経という
密教関係の経典があるんです。同じ観世音菩薩に関する経典と言いましても、先程紹介しました法華
経の観世音菩薩普門品とは違う。平安時代になりますと、寺で行われる仏事というのは昼の御読経・
夜の悔過といって、昼の間にお経を読んで夜になると悔過をする。この繰り返しで大体仏事が構成さ
れるようになる。で、この悔過の経典の一つとなるのが、十一面観世音神呪経です。
で、何を申し上げたいかというと、実はこの十一面観世音神呪経というのは、諸々の資料からして、
まず玄
が初めて日本に伝えたということは間違いないんです。しかも玄
自身、唐におけるこの経
典に精通していた可能性が高い。中国ではかなり密教が盛んになっておりますから。玄
は、この経
典を根本として、悔過を日本の朝廷に勧めたと考えられる。
なぜそういうことが言えるのかというと、玄
のパトロンとなった光明皇后が、自分の息子である
基王の菩提を弔うために建てさせた金鐘山房という祠がありました。これが東大寺の前身です。現在
の東大寺の東の方に、金鐘山房という東大寺の前身となる施設があった。今お話ししている天平8年
の時点では、東大寺はできておりません。大仏造立ももちろん行われておりませんから、その以前の
話ですけど、そのころに光明皇后の肝いりで始められたというのが、今日なお「お水取り」という俗
称で続けられている東大寺二月堂の十一面観音悔過なんですね。
「お水取り」というのは夜に始まります。始まるときに大松明が上がります。実は仏事はそこから
始まるんです。あの堂のなかで。
何をするかというと、自身の人間一般の罪汚れを全て告白して、十一面観音にその許しを請うわけ
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泰澄と白山信仰
です。許しを請うことを前提に今度は祈願をするという、これを一定期間のお籠もりの間やるのが二
月堂のお水取り、十一面観音悔過です。その行法というのは、東大寺の実忠というお坊さんが始めた
というんですけども、それを始めさせたのは光明皇后である可能性が強い。
だから、玄
が持って帰ってきた十一面観音神呪経、また玄
がおそらく伝えた十一面観音悔過の
知識というものが、今東大寺二月堂のお水取りにつながるんですね。
面白いと思うのは、泰澄がその十一面観音悔過を玄
から授けられたと書いてあるでしょう。これ
は実は『続日本紀』のどこをひもといても、わからないのですよ。だから、『泰澄和尚伝記』は、『続
日本紀』の記事に尾鰭背鰭をつけてできたというふうに解釈している研究者もいたのですが、そんな
こと絶対できません。これは、玄
が持って帰ってきた十一面観音神呪経に基づく密教的な信仰とい
うものがベースになって、それまでの日本にはなかった新しい十一面観音の信仰、それも密教的とい
うことですからやがては神仏の混淆を導いてくるような、そういうものができたという下知識、正確
な知識がなければこの一節は入らないんですよ。私が『泰澄和尚伝記』なんていうのは荒唐無稽と言
って最初から卑下したらいけないというのは、そういうことなんです。
今皆さんにお話しさせていただいたことを論文に書いてちゃんと実証されたのは、既に亡くなられ
ました東大寺の堀池春峰という先生です。この堀池先生が論文に書かれたのは20年ぐらい前の話です。
考えてみたら、『泰澄和尚伝記』の成立年代よりずっと前の段階から、そんなことは分かってたとい
うことでしょう。それがずっと忘れ去られていたというか、見逃されていたというのか。だから、
『泰澄和尚伝記』はそういう意味では非常に重要な示唆を行うと考えられます。
(14)翌天平9年に天然痘が大流行して藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂という当時の朝廷の首班
を全て葬り去ってしまった。その時にも泰澄は天然痘の鎮撫のために勅を受けてこの十一面法を行っ
た。その効あって大和尚の位を賜り、諱を泰澄と号します。これも、泰澄自身が本当にそれを行った
のか、その功績を朝廷から顕彰されてわざわざ諱までもらったのかどうかということについては、他
の資料がないから確証を得ることができませんけれども、少なくとも時期的な観点からすると矛盾は
ないということです。
(15)その後天平宝字2年(758)、これはもう晩年ですが、泰澄は白山を下りまして、越知峰の大
谷仙窟、かつて自分が白山入山前に修行に励んだところに蟄居して、ここを入定の地と定めた。自分
の死に場所はここだというふうに定めたけれども、この間神護景雲元年(767)には一万基の三重木
塔を勧進造立して、勅使吉備真備に付けて奉った。この三重の木塔も有名で、現在でも法隆寺などに
たくさん残っております。百万塔陀羅尼と呼ばれますが、時期的には全く矛盾はしません。吉備真備
というのは当時の右大臣ですから、この人がいたということも間違いないんです。ただ、わざわざ右
大臣の吉備真備が泰澄からもらうためにやってくるのかというと、その辺はかなり疑わしいところが
あり、後世そういった知識から付け加えられたということは否定できません。
(16)この年の3月18日に泰澄は予言どおり結跏趺坐し、大日の定印を結んで86歳で遷化します。
その遺骨は石の柩に入れて大師房というところに葬られました。大谷寺に今でも泰澄の墓だというも
のがあります。これは元弘年間、14世紀の前半に造られた供養塔で、重要文化財に指定されておりま
すけれども、長年それは石の棺だという風な伝えもあったということです。
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2.『泰澄和尚伝記』の特色
奥書によりますと、『泰澄和尚伝記』は、(2)にありますが、天徳元年(957)に、三善清行の子
の浄蔵、この浄蔵というのは実在の人物で、天台宗の非常に有名なお坊さんですが、浄蔵貴所の口授
した内容を、その門人で大谷寺を開いた者が記したものだと言われております。本当にこの年に作ら
れたのかどうかというのはわからないですけれども、現存する写本は正中2年、南北朝より少し前の
1325年に書写された金沢文庫本、有名な神奈川県の称名寺の『泰澄和尚伝記』が一番古い古写本だと
いうことになっておる。
ここに書かれている内容で、すでに紹介しました以外で漏れているところだけ見ていきます。泰澄
生誕の地・麻生津ですが、現在の福井市三十八社町に、真言宗の泰澄寺があります。ここは、『倭名
類聚抄』という平安時代に書かれた書籍によると、越前国丹生郡朝津郷に相当します。古代、ここに
北陸道の朝津駅というのがおかれていたと。つまり、ここは日野川水系と、北陸道という陸上の道と
のちょうど交差路にあたる交通の要衝であったと。泰澄のお父さんの三神安角という人物はここで船
頭をやっていたという伝承もあります。そういうところには、おそらく泰澄という人物を介して白山
信仰と水運が密接な関係があったと考えられます。神部浄定というのも船頭であった。これが出羽国
から米を運びにやってきて、米俵をとばすというような奇瑞にあって感銘して泰澄の弟子になったと
いったところからも、白山が実は河川を航行する、あるいは海上を航行する舟と密接な関係があった
ことを、おそらくは示してるんだろうと。
まさしく白山というのはランドマークに他なりません。航海してくる人々にとって、大きな目印に
なる、そういう存在であったところから、後々になっても白山は陸上の農耕民と同時に海民、海に生
きる人々の信仰の対象ともなった。そのあたりが反映されているんだろうというふうに考えられます。
道照につきましては、先程申しましたので省略します。泰澄が初期と晩年に籠もったといわれる越
知山ですけども、今の越知山が『泰澄和尚伝記』にいう越知峰として認めてよいとするならば、今の
越知山というのは大体海抜613メートルの山。実はこの600メートルクラスの山というのは、全国的に
見ましても、当時の山林寺院が設けられるのにもっとも標準的な高さの場所なんです。現在各地で奈
良時代あるいはそれよりやや遡るのではないかといわれる時期に至るまでの山林寺院の痕跡が見つか
っております。山林寺院というのは、我々が寺院という言葉で想像する立派な伽藍を備えた寺院では
なくて、お坊さんが修行生活をおくるために営んだ庵のようなものです。
今でこそ立派になっておりますが、天台宗を開いた最澄が最初に建てた比叡山寺というのも元々は
比叡山の山中に彼が営んだ庵がきっかけです。だんだんそれが拡張されて、今のような比叡山延暦寺
になりました。
奈良時代のお坊さんについては、かつて大きな僧侶観の誤りがありました。平安時代になって最澄
や空海という名だたるお坊さんが出てきて、彼らが体系的な密教を持ち込み、密教の宗派をうち立て
た。それによって山林で修行するお坊さんの数が増えて、いわゆる密教的な修行というものが広がっ
たと、こう解釈されていた。それでは最澄や空海が出てくるまではどうだったのかというと、平城京
を見ればわかるように、東大寺や興福寺、大安寺といった大規模な伽藍の中にお坊さんは閉じこもり、
ひたすら仏教の教義を勉強していた。奈良仏教というのはイコール学問仏教だった。平安時代になっ
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泰澄と白山信仰
てから修行仏教になったと、こう受け取られていたんですね。
これはしかし大きな誤りです。平安仏教というのは、奈良仏教がこれを導いたという点を見逃して
はいけない。なぜ最澄が比叡山の山中に庵を営んだのかというと、べつに彼が若き頃から天台宗に目
覚めてその教えに基づいて設けたというのでは決してありません。最澄というのは、元々は近江国の
国分寺のお坊さんです。瀬田川流域にあった国分寺で彼は生活していたんですけど、おそらく一定期
間修行のために比叡の山中に入った。ちょうどその麓に彼の出所である三津首の本拠があったという
こともあるんですけど、それで結局比叡山の山中に庵を結んだんですね。そこから始まる。
つまり、奈良時代のお坊さんというのは、1年の大半自分の所属するお寺の中で教学研鑽の生活を
営んでいたんではなくて、月の半ばは今言ったような生活を送っているけれども、残りの後半は必ず
山の中へ入って修行していた。所属寺院と山林とを往来する生活をしていた。やがてそういう二重生
活の中から、山林修行をむしろ主とするようになったというだけの話であって、奈良時代から山林修
行の風潮がなかったということでは決してない。
改めてそういう視点で5、600メートル級の山の頂上、これは明らかに人工的に切り開かれたと思わ
れるところを実際発掘してみますと、たくさんその痕跡が見つかるということになるわけです。これ
が山林寺院といわれるものです。
泰澄の場合、その山林寺院に早くから居住して、修行の生活を送っていたとするならば、それは、
最澄や空海の先駆となるような働きをしたお坊さんであるということになるわけです。最近有名な梅
原猛先生が、泰澄は最澄・空海の先駆であるということを強調されています。
次に、能登島出身の小沙弥(臥行者)というのが出てきます。その能登島町に、有名な須曽蝦夷穴
古墳というのがあります。これは日本でも珍しい三角隅送り技法という独特の造り方の石室をもった
古墳で、これは類例からして明らかに高句麗式の古墳である。だから、能登島には、おそらく早い段
階から高句麗文化の影響が及んでいたんだろうと考えられています。
実はこの対岸の七尾の石動山というところにも、越知山とよく似た山林寺院が所在しました。しか
も、一説によると、この石動山は泰澄が開いたと伝えられます。
貴女(伊弉册尊)から九頭竜王、さらに十一面観音という変化が意味するものは、元々は恐れの対
象となった竜の形をした神様から農業神(或いは渡来神)である女性へ、さらにその本地である仏、
つまり神の性格の変遷を現しているんではないかということなんですね。
神様というのは、元々は自然に対する畏敬の念から始まったものですから、山の神様というのは、
山の恐ろしさから始まっています。だから、山というのは、時として形を変える。水源であって我々
の生活の源であると同時に、ひとつ間違えば、例えば大きな嵐もそこからやってくる。大きな洪水も
そこからやってくる。山の神が怒ると、我々の生活に大きな支障を来すという、こういう観念が抱か
れた。だから、神様をなだめなければいけないというので、結局神に対する祭りが行われたわけです
ね。日本の祭りの原点というのはみなそうです。だから人間的な観念で受け止められますから、今で
も祭りというのは、お酒を飲んでわいわい騒ぐのがいいのです。
神に対する祭りでは神に対する全てが捧げものですから、お酒でも、魚でも全てを神に捧げますよ
ね。御神酒をそこで飲み交わすというのは、神と杯を取り交わす、つまり、皆さんがお仕事で行われ
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福井県文書館研究紀要4 2007.
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る宴会の接待と同じなんです。接待って何のためにするのかといえば、接待された者が機嫌良くして、
次の契約を頼む、そのためにやるわけでしょ。これが祭りです。
だから、僕はよく言うんですけれども、仏に対する祭りと神に対する祭りというのは違うんですね。
仏に対する祭りというのは、仏さんとどんちゃん騒ぎをするのではないと。だから、今も慣例的にや
っていますが、仏壇に酒を供えるなんていうのは、本来は言語道断です。お父さんが好きやったから
といって、生ものを供えている。仏教では、殺生は戒律に触れることになりますから、そういうこと
をするべきではない。
神様に対する捧げ物は、神様に差し上げるのですから、全部神様のほうに向けます。玉串奉奠で榊
を捧げるときでも、榊を神様に向けるでしょ。仏壇というのは、そこに置かれた全てが仏の徳をたた
える物ですから、本来仏に供える捧げ物なんてひとつもない。だから、花だってみなきれいな方はこ
っちを向いています。仏の徳を現すものとして置いているからこっちを向いている。神様の場合は全
部神さんにあげるから向こうを向ける。この違いがあるわけです。今、それがごっちゃになってると
いうことですね。
ところが、神様にも、次第に仏教の性格が入ってきます。正確に申しますと、神罰というのはあっ
ても仏罰というのはないんです。仏教の経典のいかなるところをひもといても、仏罰を規定した部分
というのはないんです。仏さんが自分の意志に基づいて、こいつは懲らしめてやろうと思って罰を下
したとしたら、それは仏でなくなる。我が入りますから。こいつをかわいがって、こいつがかわいく
ないと言ったら、これで仏の我が入りますから、そのような如来は悟りの境地には達しておりません。
だから仏というのは、哀れむことはあっても、自分の好みに応じて御利益を与えたり、あるいは罰を
与えたりすることができないのです。定義からいうと。神様はできます。この白山でも神はイザナミ
の神であるように、山の神様というのは共通して女の神様。女の神様は嫉妬深いから、山にトンネル
を掘ったり、山に橋を架けたりするときに、開通式に絶対女性は立ち会わせてはいけない。どうして
か、神様が嫉妬するからと、こうなってたわけですよ。
ところが、元々そういう性格であった神様が、後に神仏混合の時代を経ますと、性格が変わってし
まうんです。荒ぶる神でなくなってしまう。全部温厚な神になってしまうんですよね。そういう荒ぶ
る神、人々の全てから恐れられた存在から、だんだんと恵みをもたらす神へというふうに変わってき
たというモチーフが、『泰澄和尚伝記』の中に現れているんではないかと。九頭竜王が出てきたとい
うのは、かつての神様の姿を現しているんではないかと、これが言いたいことなんですね。
山の神というのは、女神ですけれども、十一面観音がその本体というのは納得できます。十一面観
音というのは、観音像のなかでも最も女性的な形で現れされる仏像ですよね。本当になまめかしい様
態で示される。しかも、十一面観音の顔はその時その時に応じて変わると。11の面を持っているとい
う、この観音変化(へんげ)というのは、季節によって顔を変える山にはぴったりのイメージなんで
す。
白山でも、私は何度も福井に寄せていただいていますが、季節によって全然顔が違いますよね、遠
くから見た場合。どす黒く光ってる時もあれば、真っ白な時もある。同じ山が何でそういうふうに容
貌を変えるのか。この容貌を変えるということは、観音変化とイメージ的にぴったり合う。そういう
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泰澄と白山信仰
ところから、おそらく十一面観音というのが最もふさわしい存在として受け止められたんだろうとい
うことなんです。
3.古代北陸文化の地域特性
最後に確認させていただきたいのは、レジュメの最後の部分です。古代北陸文化の地域的特性、こ
れだけをお話しさせていただいて、終わらせていただきたいと思います。
古代においては日本海沿岸地域こそが表日本です。今、表日本というと太平洋側のことを言います
けれど、昔からずっとそうであったと受け止めるのは間違っています。日本の文化は全て日本海沿岸
地域から入ってきた。太平洋沿岸地域が表日本になったのはせいぜい19世紀以降のことです。日本は
すべてそのことをまず忘れてはならない。だから、環日本海とか東アジア地域の文化の総合的な分析
というのが大事になってくるのです。
その中でもとりわけ地理的に大陸との接点を持ちやすかったのは、この北陸地域です。大体偏西風
と海流の影響で朝鮮半島の東側、あるいは付け根の部分から舟をこぎ出すと、若狭湾から能登半島に
かけての地域にたどり着く可能性が一番高いんです。したがって文献資料などに残っている記録とは
別に、おそらくは多くの海民の渡来が古代には起こっていたんだろうと。
そのことは、延喜式の神名帳という十世紀の頭に作られた全国の有名な神社一覧表みたいなものが
現存しますが、その中に北陸三県の富山・福井・石川、こういうところの神社に明らかに渡来系の神
様だと考えられる神社がたくさん出てくるわけですよ。これはもともと日本に土着の神としてあった
ものではなくて、おそらく渡来人のもってきた、彼らの在地の神々を祀ったのが受け継がれて伝わっ
たものだろうというふうに考えられる。
敦賀という地名も、朝鮮半島からやってきた人物の名前がもとになった可能性が高いと私も思って
おります。そういった点からすると、この地域はまさしく、大和以上に先進的な文化地域であったと
考えられます。
信仰面でいいますと、日本よりもいち早く朝鮮半島諸国あるいは中国の王朝は仏教を受け入れてい
ます。ただ受け入れるといっても、ご承知の通り仏教は多神教ですから、すぐにその地域の信仰と融
合してしまうんですね。排他的ではない。正確に言うと、一神教であるキリスト教だって、入ってき
た時に、在地の神々と融合している。
日本の場合、あるいはアジアの場合は多神教ですから、仏教の体制の中に在地の神々がどんどん融
合してくる。日本の神々もまた、そういう形で仏教的な色彩をもった神と融合してこの地域では位置
づけられたわけです。
泰澄が生存したといわれている養老年間に、初めて神が自ら仏教に対する信仰を訴えたという資料
が残っておるのが気比神社です。その次の古い例が若狭彦神社です。同じように、奈良時代から神宮
寺という神社の境内にお寺があったというのが確かめられるのが、織田町の劔御子神社です。それか
ら石川県の気多神社です。集中してこの北陸地域、なかでもとくにこの福井にそういった痕跡が多く
見受けられるわけです。
福井・石川というと別のようですけど、能登・加賀というのは当時越前の一部でありましたから、
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そういう意味では、コシの国・地域にこういう特色ある宗教文化が形成されました。実は、この地域
の独特の、神仏混交した信仰の形態というものが、中央に対して大きな影響を与える。本来仏教なん
て絶対崇拝してはいけなかった天皇がなぜ天平年間になって、ああいう大規模な国分寺の造立とか、
東大寺の大仏の造立みたいな事業をやることができたのかというと、その時におそらく自らの仏教信
仰を正当化するために、この地域の文化を受け入れたことによるのではないかと思います。
ですから、気比神社の例とか若狭彦神社の例で重要なのは、なぜ中央の資料に記されたかというこ
とです。地元の資料に伝わっているのだったら、地域の人がそれをそう言っていたからということで
すみます。そうじゃない。中央で記された『藤氏家伝』に気比神の仏教に帰依したいという記録が留
められたということは、これは紛れもなく中央でそのような認識を受けたからに相違ありません。そ
れがおそらくは聖武天皇の一連の仏教興隆事業を保証した。天皇が仏教を信仰したとしてもおかしな
ことはない。どうしておかしくないのかというと、もともと仏や神なんて一体化したものなんですよ
と。仏典をご覧なさい。護法善神という神様たくさん出て来るじゃないですか。これは仏の法を聞い
て喜ぶ神様なんですよと。仏典の中に確かに護法善神はたくさん出てきます。
もちろん、インドの神であり、中央アジアの神々なんですけれども、日本の神様もそれと同じ。こ
ういう位置付けを与えられたことによって日本の神々に対する祭りの総帥であった天皇が仏教を信仰
することに何らためらうことはないという正当な論理が与えられるわけです。それで結局聖武天皇は
出家し、出家した孝謙上皇は即位してまた天皇になると、こういうふうな宗教的にみると異常じゃな
いかという事態が出てきたというのは、じつはそういう地盤があったからと私は考えています。
したがって気比神社とか能登の気多神社とかに朝廷は破格の待遇を与える。朝廷の祖先神である伊
勢の天照大神とそれに準ずるような高い待遇を与えているというのは、結局はそういうふうな恩があ
ったということなんですね。したがっておそらく、仏教の影響によって従来の、先程申し上げました、
荒ぶる神の位置付けが変わってくると。こういった事柄もその先蹤を北陸地域の例に求めたんだとす
るならば、たしかにこの『泰澄和尚伝記』というのがひとつの中央の新たな文化の動向を導いた、越
前における信仰の実態を反映したものだと受け取って何ら間違いはない。だからひとつひとつの事実
が史実かどうかということを問題にすれば、確かに後世付け加えられた部分とか、荒唐無稽だといわ
れる話もあるかもしれませんが、今申しましたように、本筋はおそらく中央での神仏関係にいち早く
その模範例というか、先駆となる、天皇にとって助け船となるような論理と先例を提供したというの
を、この『泰澄和尚伝記』は如実に語っているのではないかというのが私の考えなんです。
そういった思いで再びこの『泰澄和尚伝記』をひもといてみると、非常に面白くなりますので、一
応原文をあげてもよかったんですけれど、資料として『泰澄和尚伝記』の全部の訳を配付させていた
だきましたので、これを見ていただいて、お時間のある時にゆかりの地を訪れていただければ、とい
うふうに思っております。大変時間を超過しまして申し訳ございませんでした。これで終わらせてい
ただきます。ありがとうございました(拍手)。
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戦国大名朝倉氏知行制の展開
論 文
戦国大名朝倉氏知行制の展開
松浦 義則*
はじめに
1.朝倉氏の跡職給与
2.給恩地売買の禁止
3.百姓得分地の売買と「御判の地」
4.「作職進退」
5.知行法の変質
結びに代えて
はじめに
本稿は越前の戦国大名朝倉氏の知行制を検討することにより、戦国大名としての朝倉氏の特質を明
らかにしてみたいとの意図を持つ。
知行制といえばかつては戦国大名研究の中心的課題であり、例えば毛利氏を例に池享氏は「重層的
領有体系」論を主張した。それは、通常の年貢支配権を認められた上級領有権のもとに名主職や名職
などの支配権を認められた下級領有権が重層的に存在するというものである1)。その当時は戦国期村
落の土豪、小領主、地主などと表現されるものの性格をめぐって研究が盛んであったから、戦国大名
が彼ら土豪層をどのように知行制に組み込んでいったかが議論された。この研究の中で、東国の戦国
大名が家臣に与えた知行分には何らかの検地をおこなって把握した加地子得分(内得・内徳)が含ま
れているとの主張がなされ、論争となった2)。その論争は勝俣鎮夫氏の概説における貫高制論となっ
て一応の終結を見ているが 3)、その後戦国・織豊期の検地論に論点の一部が発展させられたものの4)、
知行制に関する関心は退いていったとしてよかろう。そうしたなかで、知行制を改めて取り上げるの
であるから、まず朝倉氏の知行制に関する研究史を振り返るとともに、本稿での分析の枠組みを提示
しておきたい。
朝倉氏の知行制について河村昭一氏は、職の分化により給人や寺社の間に重層的な収取関係が成立
しており、朝倉氏はそれらの得分を安堵することにより、全体として名を中心とする荘園制的秩序を
維持する役割を果たしていたとされる5)。朝倉氏が重層的得分を安堵により保証していたという点に
ついては神田千里氏も同様である6)。両氏の論考は朝倉氏の知行制を正面から取り上げたものではな
いが、朝倉氏知行制はこうした重層的構造を持っていることが一つの特徴であることを知ることがで
*福井大学教育地域科学部教授
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福井県文書館研究紀要4 2007.
3
きる。
そのほかに、未公刊ではあるが長谷川美穂氏に「戦国大名朝倉氏の権力編成と所領安堵」という修
士論文があり7)、「跡職」や朝倉氏による「新寄進」の意義、安堵の類型論、目録安堵地の変化などが
論じられている。朝倉氏は給恩地売買を認めていなかったが、永禄11年(1568)の目録安堵状よりそ
れを認めるようになることを指摘されたのは長谷川氏のこの論考である。この点は本稿も継承するが、
長谷川氏のその他の論点はこの論考の公刊を期待して、本稿では論点から除いている。
分析の枠組みとしては、拙稿「戦国大名若狭武田氏の買得地安堵」を受けて、土地をめぐる契約、
補任、安堵、没収などの行動を基礎づけている法秩序を荘園法、普通法、(朝倉氏)知行法に区分し
て捉えたいと思う8)。荘園法とはたとえば領家がある人に名主職を補任したり安堵する根拠となるも
のであり、普通法とは売買や譲与のようにどのような法秩序に属していても一般的に承認されている
法的秩序である。これに対して(朝倉氏)知行法とは荘園法秩序(内得分の存在)や普通法(売買)
を踏まえながらも、朝倉氏知行制のなかで独自の性格をもつ法秩序であり、これにもさまざまなもの
が含まれるが(例えば女性に受封資格を認めるか否か)、以下では主として知行地と認定されること
により生じる特別の権限を中心として考えてみたい。
このような枠組みを設定すると、朝倉氏の特別法である知行法が荘園法や普通法を破っていくこと
の内に戦国大名権力の自立(権力集中)を読み取ることが可能になってくる。しかしその方向だけで
はなく、朝倉氏知行法も末期にはそのままでは維持しがたくなり、その実質を失っていく。そうした
複雑な動向を十分に解明できるとは思われないが、できる限りの検討を試みたい。
1.朝倉氏の跡職給与
朝倉氏の「知行法」を検討するためには、何よりも家臣に宛てた知行宛行状を問題にする。寺社へ
の安堵状や寄進状はさしあたりは家臣知行制の補助史料として位置付けたい。
孝景(英林)時代の史料としてはわずかに文明4年(1472)の敦賀郡の例が知られるのみである。
それは敦賀郡の郡司とみられる朝倉景冬が某(気比社社家平松氏か)に宛てたもので、
気比社領内大谷跡大谷浦舛米・横浜夏堂保等事、任霜月七日之御奉書旨、各半済宛可有御知行者也、
とされている9)。景冬に知行地引き渡しを命じた「御奉書」とは他の例から見て孝景の奉書と見てよ
いから、これは孝景の知行宛行状の内容を示すものとして扱うことができる。これは守護代甲斐氏の
一族と推察される大谷氏の跡を与えたものであるが、この例から朝倉氏の知行宛行が誰々「跡」を単
位として行われたことを知ることができる。
次に氏景の時代には、文明13年(1481)に鳥居五郎左衛門尉に宛てて、
溝江郷内永正寺領事、為御公領可有知行之状如件、
と記した宛行状がある10)。ここでは跡とは称されていないが、特定の知行者の知行分を単位として継
承することは跡とおなじである。さらに氏景は文明14年に慈視院光玖に対し、
藤嶋下郷八塚内堺跡事、可被渡付中村弥次郎之状如件、
と命じており(鳥居文書)、ここでも「堺跡」が中村氏に与えられている。これら孝景・氏景時代の
知行宛行状より、朝倉氏の知行宛行は基本的に跡を給与するものであったと判断されるので、これを
18
戦国大名朝倉氏知行制の展開
「跡職給与」と称することにする。跡職給与に関しては『朝倉宗滴話記』のなかによく知られた次の
記事がある。
英林様御扶持候やうは、そんちゃう誰々が跡々に御扶持候と御知行被下候、(中略)貫数定り御扶
持候へば、侍の高下相見へ候て無曲候、
英林(孝景)は「跡」を単位として知行を与えたのであり、貫高制のように数量化して知行を与え
るのは家臣をランク付けするようでおもしろくないとされている。
この跡職給与はおそらく朝倉氏が戦国大名となる以前から採ってきた方式であろうが、給与の対象
となる跡職の内容を規定していないから、新知行者の支配は以前の支配を継承することが基本であっ
たろう。しかしこの跡職の内の土地が売却されている場合にはどうなるのかが問題となってくる。こ
の点についての朝倉氏の方針を示したものが、次に掲げる文亀3年(1503)12月晦日の2通の知行宛
行状である(A鳥居文書。B「松雲公採集遺編類纂」137巻、三輪文書(『福井県史』資料編2所収))。
A.(鳥居余一左衛門尉宛)北庄内中村又四郎跡并沽却散在地等事〈但除先安堵状〉、有限本役致其
沙汰、於余分者、可有知行状如件、(〈
〉内は割注。以下同じ)
B.(三輪藤兵衛尉宛)服庄内上坂跡并所々沽却散在地等事〈但除先安堵状〉、有限本役致其沙汰、
可有知行状如件、
この宛行状はこの年の4月の敦賀郡司朝倉景豊の反乱後の知行地の再編成に関連して発給されたも
ので、すでに「朝倉氏の知行制の一つの画期」を示すものとして注目されている11)。この二点の宛行
状は知行制の観点からすると次の点が注目される。まず(1)跡職給与であることは変わらないが、
(2)本来跡職に含まれていた地で現在「沽却散在地」となっている所も知行の対象とされている、
(3)しかしその「沽却散在地」に関し、これ以前に買得が安堵状で保証されている地は除く、(4)
知行地の本役を負担し、「余分」(内得分)を知行することについて、新たな統一的規定が見られる。
このうち新たに問題となっているのは「沽却散在地」の取り扱いであったことは明白である。沽却
散在地とはこの二つの事例の場合、跡職に含まれる土地のうち、売却されて現在は跡職を離れている
地を指すものと判断される12)。朝倉氏はこうした「沽却散在地」について、朝倉氏の買得地安堵状の
ある土地を除き、没収して新知行人が支配することを認めたものである。それはどのような論理に基
づくものかを節を改めて論じてみたい。
2.給恩地売買の禁止
朝倉氏の方針を示すものとして先に掲げたA(北庄内中村又四郎跡)・B(服庄内上坂跡)をもと
支配していた中村又四郎や上坂は朝倉氏家臣の可能性が強く、これらの跡職は朝倉氏給人の給恩地で
あった可能性が強い。したがって、まずは給人が給恩地を売却して「沽却散在地」となった場合を想
定してみたい。給人が給恩地を売却した事例を示すことができないので、寺社の例を挙げると13)、永
禄元年(1558)に勧行寺が「退転」したので「彼寺領分沽却散在地等集之」て知行せよと豊原寺大染
院に命じられている例があり(小林正直氏所蔵文書、『福井県史』資料編2所収)、沽却したのは勧行
寺と見てよかろう。
こうした給恩地で「沽却散在地」となった地を取り戻して新給人が知行しうる理由は、朝倉氏が家
19
福井県文書館研究紀要4 2007.
3
臣や寺社に与えた目録安堵状を検討すると比較的容易に理解できる。越前の寺社が本領・寄進地とな
らんで買得地を目録に記して守護の安堵を求めることは永享2年(1430)に敦賀郡西福寺領について
知ることができる(西福寺文書89号)14)。朝倉氏もそれを継承していたことは、文明11年(1479)2
月に孝景が織田寺玉蔵坊に宛てた文書に(劔神社文書9号)、
織田庄内田数壱町壱段小地利分〈目録坪付別紙在之、封裏訖〉、任買得当知行之旨、不可有相違之
状如件、
とあるように、買得分目録が提出され、それを孝景が安堵している例から知ることができる。残念な
がらその買得地目録は伝えられていないが、明応3年(1494)5月よりその買得地目録とそれを安堵
する朝倉氏の裏封(裏書・裏花押)が見られるようになる。以下こうした形式の文書を目録安堵状と
称すことにし、表にそれを示した。目録安堵を願う寺社は目録の末尾にこの目録に記載した耕地には
不正はないという誓約文言を記しているが、表からわかるように明応9年(1500)に後々までの標準
となる文言が記されるようになる。その部分は、
右在所、或不知行、或公事未落居之在所并御給恩之地書加申候由、及御沙汰候者、可有御勘落者也、
仍状如件、
とあって(三田村士郎家文書4号)、安堵を申請している耕地には不知行地、裁判で係争となってい
る地、朝倉氏よりの給恩地は書き加えていないこと、もしこうした耕地を加えている場合には没収さ
れたいことを述べている。これにより、給恩地の売買は安堵の対象とならず、没収されることがわか
る。戦国大名のうち「今川氏仮名目録」(13条)や 「六角氏式目」(10条)は給恩地の売買を原則と
して禁止しているが、朝倉氏においても同様であったと思われる。ただし、給恩地とは本来は本領や
預り地と区別される知行地なのであるが、朝倉氏のもとでは史料が欠けているため、給恩地の概念を
精密化することができない。さしあたり、朝倉氏より知行宛行状および目録安堵状によって寺社・家
臣に認められた土地を給恩地と捉えておきたい。
このように少なくとも明応9年以後は給恩地の売買は不当であるという朝倉氏知行法が形成されて
おり、それを適用して文亀3年の知行宛行状においては給恩地である跡職が売買されて「沽却散在地」
となっている場合には取り戻すことにされたのである。そうすると文亀3年の場合、「先安堵状」が
ある場合には取り戻しの対象から除かれていることはいかに理解すべきであろうか。この問題を考え
るため、数代の朝倉氏よりの知行宛行状を伝えている唯一の例である家臣鳥居氏の文亀3年以後の事
例を次に引用する(鳥居文書)。
C.〔天文18年(1549)12月19日、鳥居余一左衛門尉宛朝倉延景(義景)知行宛行状〕
志比庄内渡辺八郎左衛門親子跡、所々沽却散在之地等事、本役如先々令沙汰、可知行之状如件、
D.〔弘治3年(1557)10月5日、鳥居余一左衛門尉宛朝倉義景知行宛行状〕
六条保良専・良如、同子助俊・与次郎跡、所々持分沽却散在地等之事、諸役如先々令其沙汰、
可知行之状如件、
これらの文書より、その後の知行宛行状も先の文亀3年の例を原則としているが、「但除先安堵状」
の但書きがなくなるというただ一点のみが変化している。これは単純に考えれば、文亀3年以後のあ
る段階から、朝倉氏は知行法に従い買得給恩地を安堵することはしなくなったことを意味する。
20
表 朝倉氏目録安堵状一覧
年 代
安堵申請地
所 領
誓約文言
安堵者
典 拠
21
明応3(1494)5
洞雲寺領
本寺領分・玉岩新寄進分、石・銭高表示
不知行・公事未落居
貞景紙継目裏花押
洞雲寺6号
明応4(1495)12.24
永平寺領
霊供田、田数
不知行・公事未落居
貞景紙継目裏花押
永平寺11号
明応9(1500)8
随心軒領
買得当知行地、田数
不知行・公事未落居・給恩地
貞景裏書
三田村4号
文亀1(1501)6.23
洞春院領
買得相伝寄附地、田数
不知行・公事未落居・給恩地
貞景安堵状
藤木2・3号
文亀3(1503)9.10
西福寺領
寺納173.393石
不知行・公事未落居・給恩地
貞景継目裏判安堵状
西福寺149号
永正1(1504)12.25
宝慶寺領
寺納分178.85石、銭4貫文
不知行・公事未落居
貞景紙継目裏花押
宝慶寺4号
永正4(1507)2.16
金前寺領
寺納分9.23石、銭540文
不知行・公事未落居・闕所
郡司教景裏判
金前寺(敦古)
永正6(1509)11.18
栖閑院領
寺領・山林・敷地
−
郡司教景裏書
西福寺164号
永正7(1510)7.3
清観院領
寺納分64.86石
−
郡司教景裏判
西福寺166号
永正10(1513)9.7
春
買得田地、石・銭高表示
不知行・公事未落居
郡司教景裏書
西福寺177号
永正12(1515)5.11
慶芳
買得田、7.7石
不知行・公事未落居・給恩地
郡司教景裏判
西福寺181号
大永3(1523)11.16
横根寺領
田地惣目録、石・銭高表示
不知行・公事未落居・給恩地
大永7(1527)3.11
洞雲寺隔庵領
仮屋地子銭4550文・7.75石
新寄進として安堵希望
郡司景高紙継目裏花押
洞雲寺7号
大永7(1527)3.11
洞雲寺領
寄進地目録24.85石(本役除)
新寄進として安堵希望
郡司景高紙継目裏花押
洞雲寺8号
享禄2(1529)5
大谷寺領
神領・坊領 石・銭高表示
不知行・公事未落居・給恩地
孝景裏書
越知神社40号
享禄3(1530)2.27
崇聖寺領
敷地・寄進地
郡司景高裏署名判
洞雲寺10号
享禄3(1530)11.4
府中真照寺領
寄進・買得地 2カ所御給恩地
不知行・公事未落居・給恩地
孝景裏書
享禄5(1532)6
比田刀祢領
買得目録
不知行・公事未落居・給恩地
郡司景紀裏書
天文8(1539)10.1
平泉寺賢聖院
院領・加増分494.185石、銭45287文
不知行・公事未落居
天文20(1551)10.8
洞雲寺領
寄進地目録 石表示
新寄進、不知行・公事未落居
弘治2(1556)2
崇聖寺領
寄進地、石・銭高表示
新寄進、不知行・公事未落居
永禄1(1558)6.5
善妙寺領
164.66石、銭22419文
他人地・公事未落居
郡司景紀裏書
善妙寺12号
永禄9(1566)4
智法院領
当知行地、15.66石・銭630文 含給恩地
不知行・公事未落居・給恩地
義景裏判
劔神社52号
永禄10(1567)11
立神吉藤
買得地目録 石表示
不知行・公事未落居
永禄11(1568)9.6
高村存秀
買得地目録 石・銭高表示
不知行・公事未落居・給恩地
義景裏書☆
白山神社13号
元亀2(1571)12.18
西泉坊領
寄進地・買得地 石・銭高表示
不知行・公事未落居・(給恩地)
義景裏書☆
中道院2号
元亀3(1572)6.6
岩本連満
所々買得田畠山林竹木 田積
不知行・公事未落居・給恩地
義景裏書☆
木下喜蔵
元亀4(1573)3.23
西福寺領
新寄進6.025石・寮舎分23.197石
不知行・公事未落居・給恩地
義景裏書☆
西福寺233号
元亀4(1573)4.13
木津宗久
買得地目録9.3石
不知行・公事未落居・給恩地
義景裏書
木津靖1号
−
青山五平2号
「府中寺社御除地」
−
義景裏書
中山(敦古)
白山神社2号
洞雲寺14号
−
−
洞雲寺16号
山本重信10号
戦国大名朝倉氏知行制の展開
注 ☆は安堵申請地に給恩地が含まれているが、朝倉氏が新恩地として認める旨の文言が記されていることを示す。(敦古)は『敦賀郡古文書』。
−
福井県文書館研究紀要4 2007.
3
朝倉氏は知行者が給恩地を売却すること自体を不当とし、新知行人に沽却散在地の取り戻しを認め
た。すなわち、土地得分の売買は一般的には売買法によって認められるとしても、それが給恩地であ
る場合には売買は無効であるとするのである。すなわち朝倉氏の給恩地には朝倉氏知行法が適用され、
普通法を破るのである。
3.百姓得分地の売買と「御判の地」
これまで先給人の給恩地売買を問題としてきたが、新給人に与えられる跡職が常に以前から朝倉氏
の給恩地となっていたとは限らない。先に引用したAの中村又四郎跡、Bの服庄内上坂跡が給恩地で
なくいわば百姓地である可能性が(低いながらも)あり、そして右にDとして引用した「六条保良
専・良如、同子助俊・与次郎跡」はむしろ百姓得分地と見るべきであろう。ここで百姓得分地という
のは、朝倉氏より給与や安堵を受けた給恩地ではない、得分のある土地(後述する「百姓自名」など)
を指すことにし、その持主の身分が寺庵・給人・百姓のいずれであっても構わないものとする。
右のDの事例から朝倉氏は百姓得分地であっても、給地として宛行うときにはその「沽却散在地」
も没収しうることになっていた。こうしたことが可能となるためには、「沽却散在地」没収を問題と
する前に、朝倉氏が百姓得分地を給地として家臣に与えることができるのはどのような場合かを考え
なければならない。具体的にいうならば、朝倉氏といえどもこうした百姓得分地を理由なく没収して
知行地として家臣に与えることはできなかったはずである。したがって、朝倉氏が百姓得分地の「沽
却散在地」を没収しうる場合は、百姓得分地が朝倉氏によって闕所とされた場合(公方闕所)という
ことになる。引用したDの場合、六条保良専以下が犯罪や敵対によって闕所とされ、鳥居氏に宛行わ
れたものとみられ、闕所処分を受けると売却地も没収されるのは広く見られるところである15)。また
河村氏が指摘されているように、戦国期越前では名主や名代が百姓得分地を売却して本役や内得分の
納入ができなくなって「未進」や「逐電」、あるいは「上表」する場合が多く、そうした場合には朝
倉氏はその「沽却散在地」を没収して元のように負担をするように百姓に命じている16)。この場合に
「沽却散在地」が没収されるのは本役や内得の未進や逐電が罪科と見なされているためであって、売
買それ自体は好ましいことではないにせよ、罪科とは見なされていない。
朝倉氏支配下における給恩地=知行法の対象、百姓得分地=普通法の対象という区別が存在するこ
とを原則としながらも、一つの土地の上で両者が重なった時には問題が生じてくる。この問題を考え
る手がかりになるのが、次の事例である。大永7年(1527)に三国湊の滝谷寺が買得した田地につい
てこの地の国人領主である堀江景実は、
湊本田方之内田地五段、湊之百姓六郎太郎かたより御買得由蒙仰候、拙者知行分御判之内候条、雖
可相押申候、貴寺之御事者、別而御祈念憑存候間、不是非候、…但湊双方江本役等如先々御沙汰肝
要候、
と述べている(滝谷寺文書17号)。滝谷寺が湊の百姓より買得した5段の地は堀江景実が朝倉氏より
知行地として保証された「御判の内」(給恩地)であるので、本来ならば没収しうる地であるが、滝
谷寺との特別の関係により没収はしないとしている。問題は百姓六郎太郎と滝谷寺とのあいだで売買
された得分の内容である。六郎太郎が堀江氏の「給恩分」を売却しうる権利を持っていたとは考えら
22
戦国大名朝倉氏知行制の展開
れず、また滝谷寺がこの買得地の安堵を堀江氏に求めていることからみて、この地が堀江氏の「給恩
地」であることは承知の上のことなので、堀江氏の「給恩分」を買得することはまずあり得ない。し
たがってこの売買は堀江氏の「給恩分」を侵害するとは想定されていなかった六郎太郎の百姓得分地
の売買であったと判断される。しかしそのような場合でも、「御判の地」であれば売買地を没収しう
るとの主張がなされ得たのである。そうした事例はほかにも存在するであろうか。
福井県文書館に寄贈され、最近公開された山内秋郎家文書の次の永正17年(1520)の事例も17)、こ
うした「御判の地」の論理を示すものと思われる。
(前欠・中略)
参段 国年名之内、有坪境書ハ□券之面ニ在之、樫津ノ田中左衛門・祝六郎次郎・道願掃部沽却
大 徳長名之内 有坪境書ハ売券ノ面在之、
朝日納道孫太郎沽却
弐段 檜物田□末 弐石公方へ参御散田 末宗ノ助三郎・窪ノ後家沽却
壱段半 公事免 有坪河原田□□□ 宇野隼人沽却
(中略)
右此目録之上ニ書□□申候田今田之分、於以後孝景様之御判形之由、被及聞召候者可被召者也、仍
如件、
広部将監
永正拾七年五月□ 守徳(花押)
この文書には表題と宛名が欠けているが、この地の土豪である広部守徳が買得した土地を目録に書
き上げたものとみられる。問題は末尾の文言であるが、「於以後孝景様之御判形之由、被及聞召候者」
と仮定形になっているので、以後においてこの地が朝倉孝景よりこの文書の宛名の人に「御判形」で
安堵された場合には、「可被召候者也」となること、すなわちこれらの土地を召し上げられてもよい
ことを約束した文書であると解釈できる18)。引用文中の宇野隼人のように朝倉氏の給恩分の沽却の可
能性のある場合もあるが、多くは農民の得分を買得したものであり、特に織田寺寺僧と見られる人か
らの買得はない。したがってこれは給恩分の買得には相当せず、百姓得分地の買得であり、この文書
の宛名の人がこれらの土地を召上げることができるのは孝景の「御判形」の地になった場合と考える
ほかない。後の享禄元年(1528)11月に孝景は織田剣神社領について「近年不納之地今度遂糺明、書
加寺社総目録封裏、為新寄進令寄附訖、…神領除諸役、作職已下同検断等如先規可為寺社之進退」と
の判物を与え、神領の内近年不納の地は糺明して寺社目録に書き加えて安堵し、作職と検断について
の進退権も認めている(劔神社文書29号)。その「寺社総目録」の「平等不動堂金之御前散在之地被
仰付候分」の内に、
壱斗 不動灯明料 すみや谷 広部将監方雖買徳候勘落
とあり、広部将監が買得した地が「散在の地」として勘落(没収)されている(同30号)。さらに
「近年不納の地」を糺明して朝倉氏より「御寄進地」として「返付」された土地の内に、
弐段 内徳壱石五斗 土器田 広部将監方ヨリ勘落
とあって広部将監の内徳が没収されている。
このようにみると「御判」の地になると、百姓の内得分の売買であっても没収しうるという主張は
23
福井県文書館研究紀要4 2007.
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それなりの現実性を帯びていた。次の事例もこのような理解の上で解釈すべきものと思う。永正11年
(1514)11月に孝景は家臣の斎藤与五郎に対し、
庄堺之四郎左衛門跡、子春裏判目録仁入筆之条悉可落之、小磯部村内正賢跡・山干飯内糠口村水落
左衛門太郎父子跡・同所戸部村次郎兵衛同弟兵衛四郎跡・末野内行木名加谷名、各沽却散在地等事、
有限本役被致其沙汰、可有知行者也、
と述べている(「松雲公採集遺編類纂」137巻、斎藤文書)。この文書は斎藤氏が子春(氏景)に提出
して裏判によって安堵された目録に四郎左衛門跡が記載されているのでその売却地は悉く没収し19)、
そのほかの斎藤氏知行地の跡や名についても沽却散在地の取り戻しが認められたものである。これら
の地は百姓たちが、斎藤氏に断りもなく売却していた土地であったと判断されるのである。
以上から、朝倉氏の「御判の地」となると普通法における正当な売買をも破りうる強力な朝倉氏知
行法上の存在になりうることを指摘しうると思う20)。
4.「作職進退」
「御判の地」は朝倉氏知行法上の存在であるとしても、その経済的側面は本役米や内得という荘園
法のありかたを継承しているのであるから、「御判の地」が持つ権限もまた荘園法の概念によって表
現されることになる。「御判の地」の権限をすべて明らかにすることはできないが、「作職進退」がそ
の権限に属するという主張が見られるので検討の対象としたい。史料的に家臣の場合で検討すること
は不可能なので、以下は寺社の例を挙げる。
永正18年(1521)に敦賀郡西福寺と気比社の松田氏が木崎郷の名分半済における名代の逐電によっ
て生じた問題で相論となり、郡司の朝倉教景が裁決しているが、名代に関しては、
就名代逐電者、跡職山林竹木并沽却田地等、何茂縦雖有先一行、既文亀三年之目録仁名分名付被書
載上者、除公方闕所、悉寺家可為進退之状如件、
と述べている(西福寺文書195号)。この西福寺領はすでに朝倉氏の目録安堵を受けている地であるか
ら、名を預かっていた名代が逐電したときには、公方闕所を除きその名代の跡職・山林竹木・沽却田
地などが西福寺の支配に置かれるとされている。その後、追訴が出されたので7月に教景はもう一度
裁決の結果を西福寺に伝えているが、右に引用した部分に対応する箇所では、
一、 金山郷内関衛門名田之外、預り田畠之事、既文亀三年当寺惣目録天沢御裏判之上者、作職共
可有御進退之状如件、
となっている(同196号)。目録安堵地であるから、「作職共進退」であるとされている。ここでの教
景の論理は「御判の地」=「作職進退」=沽却地取り戻しということになる。
作職進退について他の例を挙げると、織田神社は享禄元年(1528)に孝景より寺社領を安堵された
ときに「作職已下」の支配権が認められており(劔神社文書29号)、翌年には大谷寺が寺領の年貢未
進の輩に対して「作職改易」を願って認められている(越知神社文書40号)。作職進退と沽却地取り
戻しの関連をよく示す史料が山内秋郎家の新出文書のなかに存在する。永禄元年(1558)5月に織田
寺玉蔵坊はもと織田寺より玉蔵坊領であった田地三カ所(分米3石)・畠一所(地子銭300文)の
「作職」を安堵され、この作職地からの納入分は織田寺からの下行分として与えられることとされて
24
戦国大名朝倉氏知行制の展開
いるが、その証文の末尾には、
万一此田地いか様之方へも沽却、又ハ一作売なと候者、其方へ不及案内作職別人ニ可申付候、仍永
代作職不可有相違之状如件、
と記されており、玉蔵坊がこの地を売買したならば一方的に作職を他人に与えるとされている21)。こ
れが「作職進退」の内容を示すものと思われ、それは年貢納入者が作職を持つことを否定するのでな
く、売却することを禁止し、売却した場合には没収して他人に与えうるという権利であった。
このように「御判の地」は「作職進退」であるという朝倉氏知行法を確認することができると思わ
れるが、じつはこの法は朝倉氏知行制のなかで、大きな矛盾を抱えていた。そもそも「作職進退」が
強力な権限であるとすれば、百姓得分地の売買はいつでも没収されうる危険度の高いものとなり、売
買自体が萎縮していくはずである。しかし現実はそうではなく表に示されているように百姓得分地の
売買は盛んであり、それを前提として朝倉氏の知行制は拡大しているのである。したがって「御判の
地」が「作職進退」権を持つというのは、朝倉氏の判断による特別の保護を示し、一般的には作職は
それなりに安定した権利であったことをむしろ前提に考えるべきであろう。
そのことを具体的な例について検討しておきたい。永禄5年(1562)に朝倉氏は織田剣社領内の
「作職中」に対し、神領を「作せしめ」ているにもかかわらず「年々無沙汰」であることを「曲事」
とし、年内にきっと「究済」すべきことを命じ、なお難渋すれば「御成敗」を加えるとしている(劔
神社文書49号)。ここでは、「御判の地」は「作職」を否定する権限を有するかどうかというようなこ
とが問題とされているのではなく、年貢未納が「曲事」という犯罪であるから「御成敗」を加えると
されているのである。
これに対し、朝倉氏末期の元亀2年(1571)5月には神領平等村の「百姓作得分」について「沽却
散在之地」を織田寺社に寄進するという朝倉氏の「御一行」が出されたので、「瓦屋之源珍分・宗玉
庵分・道場之道一分」の指出の提出を命じ、今後の「作得」売買を禁止する旨を一乗谷奉行人が平等
村百姓中に命じている(同53号)。これによると織田寺社の「作職進退」が実現したのであるが、同
日付の平等村の庵室分百姓中宛て同奉行人の命令では、同じ趣旨を述べた後に、
庵室分之儀、早々指出調之、去永禄八年以来拘持年貢諸済物、急度可令寺社納、…
と述べているのが注目される(同54号)。庵室分百姓中は去る永禄8年(1565)以来拘持ってきた庵
室分の年貢諸済物を織田寺社に納入せよとあるので、これらの「百姓作得分」については源珍以下の
庵室と織田寺社との間で永禄8年以来相論の対象となっていたことがわかる。寺社が「百姓作得分」
を否定しようとしても、庵室たちはそれに抵抗して永禄8年以来6年間も抵抗していたのであり、朝
倉氏としても6年間寺社・庵室両方の収取権の停止(いわゆる「中途にする」)を命じて、判断を保
留していた。「作職進退」は寺社がそれを主張すればすぐに実現するようなものではなく、最後は朝
倉氏の権力に依存して、強引に自己の主張を通したものと思われる。その意味で織田寺社領のこの事
例は反面で「作職進退」の実現が容易でなかったことも示している。
今立郡水落町の朝倉氏代官小嶋景増は水落神明社神主が地子銭を負担している又三郎の野畠を改易
しようとしていることを非難して、又三郎の権利を擁護している(瓜生守邦家文書19号)。また天文
18年(1549)には給人と見られる加藤二郎衛門尉と彼のもとで作職をもつ貞友の五郎衛門が相論とな
25
福井県文書館研究紀要4 2007.
3
ったが、年貢は加藤が知行し、作職は五郎衛門が持つという朝倉氏一乗谷奉行人の「御意」により無
事落着しており、朝倉氏が百姓の作職に一定の保護を加えている(大滝神社文書12号)。
朝倉氏知行制が「作職進退」を認めて、家臣知行地の保護や安定化を図ろうとすることは、百姓得
分地の売買とその目録安堵に立脚する朝倉氏知行制の拡大と矛盾するのである。
5.知行法の変質
右に見たように、「作職進退」の容認と百姓得分買得地の目録安堵は矛盾するが、この矛盾は個別
に朝倉氏の権力の判断として処理されざるを得なかった。そうなれば朝倉氏知行法はその自律性を失
って行くことになる。そうした状況を敦賀郡司教景の事例で確認しておきたい。
「御判の地」は朝倉氏から強い保護を受けるべきであるという論理を押し詰めると、「御判の地」
における百姓得分売却地は、たとえその買得者が朝倉氏より安堵状を得ていたとしても無効であると
いう主張になる。先に引用した敦賀郡司教景の永正18年(1521)の主張がそうであって、名代逐電の
跡に関し「何茂縦雖有先一行、既文亀三年之目録仁名分名付被書載上者、除公方闕所、悉寺家可為進
退」と朝倉氏の買得地安堵状があったとしても、その地は没収しうるとするのである(西福寺文書
195号)。
しかし、その翌年の大永2年(1522)に関の道場右衛門が松田与六より預かっていた名田を西福寺
を始めとする人々が買得したことから紛争となった。紛争は、名田を預かっていた道場右衛門が名田
を売り失ったことなどを理由に誅伐されたのち、松田より「彼本役不足之条、買得衆可成弁之由」と
の要求がなされたことによって生じた。すなわち、道場右衛門は買得者が本役負担を免れるいわゆる
「名抜き」形式で名田を西福寺などに売却していたので、松田は本役分確保のために買得衆に本役負
担を求めたのである(同201号)。実はこの名田は前年に「関衛門名田」として松田氏の強い権限が認
められていたところなので(同196号)、買得者西福寺などが抵抗すると、西福寺領の名代逐電跡につ
いて教景が西福寺に認めていたように名代の跡職をすべて没収するということが十分に予測される地
なのである。そこで教景は、こうした問題処理について経験の深い府中両人に意見を求めたが、府中
両人が提示した解決策は次のようなものであった(同201号)。
弁者惣名を買得衆へ渡之、本役不足分入立候例証数有事候、殊彼衛門御成敗已前買得衆 御一行被
給之由候、旁以可為其分之由、松田方雑掌高田八郎右衛門尉□□も申候、
府中両人の奨める解決策は、松田が要求しているように、この名田全体を買得衆に渡し、買得衆が
本役を負担する例は数多く見られるところであり、特にこの場合には彼の衛門が成敗される以前に買
得衆に朝倉氏の安堵状が出されているので、なおさらこのようにされるのがよいというものであった。
この府中両人の文書案に教景は裏封を加え、これを支持している。
前年に西福寺領名田を売り尽くした名代跡の処置については朝倉氏安堵状をも無視すべしとした教
景が、逆に西福寺が買得者となった場合は買得者の利益を守る裁決を下しているのは、先に述べた朝
倉氏の売買地に関する矛盾を示すものである。法に基づいて理非を争うというかたちでは処理し得な
くなり、現実についての行政上の判断によって処置されるようになるのである。
朝倉氏の現実的行政上の判断を示す事例として、次の大野郡崇聖寺宛の一乗谷奉行人連署状を取り
26
戦国大名朝倉氏知行制の展開
上げてみよう(洞雲寺文書12号)。
当寺々領内寄進并買徳分事、雖給恩之地相交、売主跡於無相違者、可有領知之、次百姓自名等之儀
者、依無科至不及御闕所者、不可有別儀候之条、本役致其沙汰、任当知行旨、先可被寺務由、被仰
出候、恐々謹言、
天文九 (魚住)
十二月五日 景栄(花押)
(朝倉)
景伝(花押)
崇聖寺
この文書を理解するためには、既に佐藤圭氏が指摘されているように22)、この天文9年(1540)は
この崇聖寺の寺領のある大野郡では郡司景高の当主孝景への離反が明確となり、景高が没落した年で
あることに注意しておく必要がある。景高の離反を受けて大野郡を中心に景高やその被官の土地が没
収されたので、その余波を恐れる崇聖寺が寄進地・買得地についての朝倉氏の方針を問い合わせたの
に対し、一乗谷より回答したのがこの文書である。崇聖寺の寄進・買得地は「給恩の地」と「百姓自
名」(百姓得分地)の二種類からなっていた。後者の「百姓自名」については、売却者・寄進者が朝
倉氏により闕所処分とされた場合(すなわち「公方闕所」処分)を除き、崇聖寺に知行を認めたもの
で、これは目録安堵を行ってきた朝倉氏の従来の論理を確認したものである。
前者の「給恩の地」については、売却者・寄進者の跡職に問題がないならば、知行してよいとされ
ており、給恩地の売買を認めないとした、朝倉氏の原則は適用されていない。朝倉氏がこの段階で給
恩地の売買を認めるように原則を転換させたのかというとそうではなく、表より明らかなように、朝
倉氏への買得地目録安堵の文書では依然として「給恩地」売買地が含まれていないとの誓約文言が記
されている。したがって朝倉氏は知行法において給恩地売買を認めたわけではないが、大野郡司景高
没落後の大野郡内の行政的処置において給恩地売買を認めたのである。ここでも、法より行政判断が
重んじられるようになったのである。
給恩地売買に関しては、享禄3年(1530)の府中真照寺買得地の目録安堵において朝倉孝景は2か
所の「御給恩地」買得地を寺領として安堵している23)。また天文19年(1550)に富田吉順は南条郡池
上保の延国名・源良名の本役を年々無沙汰したので、この二名の田畠山林と抜地を三輪弥七に渡し、
三輪に本役・小成物の負担を依頼している(『松雲公採集遺編類纂』三輪文書)。この名田畠は吉順の
祖父が崇禅寺より買得したものであったが、そのとき崇禅寺は「崇禅寺被給候 御一行御目録」を吉
順の祖父に引き渡しており、給恩地の買得であった。これを吉順は朝倉氏より安堵されており、三輪
氏に引き渡す際に「拙者 御一行之内候間可御心安候」と述べており、三輪氏には朝倉氏の安堵状が
出されている。この例からすれば、給恩地の売買や持ち主の移動について、さほど深刻に考えられて
いるようには見えない。
給恩地を先給人が売却していた場合、朝倉氏より先給人跡職を新たに宛行われた新給人はその売却
地を取り戻して知行しうることはすでに述べたが、給人跡職を相続したばあいでも売却給恩地の取り
戻しが認められる例がみられる。大永4年(1524)に孝景が吉田郡藤嶋荘上郷下司の中村利久に「中
27
福井県文書館研究紀要4 2007.
3
村増智坊以来知行分、沽却散在年貢諸済物」の「収納」を認めているのは、「平泉寺臨時之御神事児
之流鏑馬入用」に宛てるための例外的措置だと理解することができるかもしれない(白山神社文書1
号)。しかし天文20年(1551)8月に朝倉延景(義景)が織田寺玉蔵坊に沽却散在地を取り戻して
「新寄進」として保証している例(劔神社文書35号)、永禄6年(1563)11月に義景が平泉寺賢聖院の
沽却散在地を取り返して「新寄進」として知行させている例(白山神社文書8号)は両寺院が朝倉氏
の「祈願所」であることから認められた特権と判断される。この両寺への「新寄進」の文書による限
り、給恩地を売却した両寺の責任は不問に付されており、給恩地売買禁止という知行法の規定は「祈
願所」という特権を前に無視されている。
こうして享禄年間にはまだ例外的であった給恩地売買の容認は天文年間には広く見られるようにな
り、永禄年間には給恩地売買禁止は名目化しつつあった。そして最初に述べたように、永禄11年
(1568)9月の目録安堵より朝倉氏は給恩地であっても買得地を安堵するようになり(表参照)、実質
的に容認するようになる。ただしそのときの文言は、
此目録任奥書之旨、封裏訖、給恩之地堅雖令停止、為新恩可寺務者也、
というものであって(白山神社文書13号)、給恩地の買得は堅く禁止しているところであるが、特別
に認めるという恩着せがましいものとなっている。したがって法としての給恩地売買禁止は撤回され
てはいないのだが、実質的には変質していたのである。先に知行法の「作職進退」がその自律性を失
ったと述べたが、永禄末年には朝倉氏知行法の根幹をなしていた給恩地売買禁止もその実効力を失っ
ていた。
結びにかえて
本稿は朝倉氏知行法を想定して論を進めてきたのだが、永禄末年にはその知行法はその法としての
体系制を欠くものとなっていた。そうした状況を招いたのは、要するに戦国期越前においては土地に
関する得分権売買が盛んに行われており、それに対して朝倉氏が一貫した政策を持ち得なかったから
である。
朝倉氏知行法の形成とその変質について、最後に不十分ながら図式を描いてみよう。朝倉氏の知行
制としては、15世紀後半においても戦国大名化する以前からのやり方と推定される跡職給与が行われ
ていた。しかし給与された跡職について、先給人が給恩地得分を売却している場合があった。跡職維
持の立場からするとこれは好ましいことではなかったが、朝倉氏もこの給恩地売買を安堵する場合が
あり(「除先安堵状」)、対応は一定していなかった。文亀3年(1503)末に敦賀郡司景豊の反乱に関
連して知行を再編成する必要が生じたとき、給恩地売買については以前に安堵したものは認めるが、
それ以外の「沽却散在地」は新給人が取り戻して支配できるという原則を定めた。その原則はすでに
明応9年(1500)に確認される給恩地売買禁止を知行法に取り込んだものであった。これにより安堵
状のある給恩地売買は認めるというこれまでのやり方は以後原則として見られなくなる。
給恩地の売買とちがって百姓得分地の売買は、売却者が闕所処分を受けて没収される場合を除き認
められていた。しかし、朝倉氏の給与あるいは安堵した「御判の地」という朝倉氏知行法上の概念は
次第に荘園法や普通法を破るようになり、「御判の地」において売買された百姓得分地は没収しうる
28
戦国大名朝倉氏知行制の展開
という観念が発達し、朝倉氏もそれを認めて「御判の地」の「作職進退」を給人に認めるようになる。
こうして朝倉氏知行法では、「御判の地」においては「作職進退」が認められる場合があるというこ
とになった。
しかし、朝倉氏の知行制は給人や寺庵が百姓得分地を買得したものを買得目録に記して安堵を申請
し、朝倉氏がそれを目録安堵するというかたちで拡大していくという構造をもっていたから、「御判
の地」の「作職進退」には制約があった。したがって「御判の地」の百姓買得地を否定する主張と、
それを認める主張が同一人物においてすらなされるようになり、知行法としての自律性が損なわれた。
そのなかで、「公方闕所」となった百姓得分売却地は没収するという原則が確立していったが、その
ほかは朝倉氏権力の政治的判断が知行地をめぐる紛争において比重を占めるようになっていった。
「作職進退」についての準拠すべき法が曖昧になったことにより朝倉氏の裁決も停滞し、朝倉氏末期
の織田荘の「百姓作得分」をめぐる紛争は6年間も続いていた。
そして永禄11年(1568)には知行法の基礎をなしていた給恩地売買禁止も放棄される。こうして、
明応9年(1500)あるいは文亀3年(1503)に確認される朝倉氏知行法は変質していった。しかしそ
れは同時に新しい知行制に向けての模索の時期でもあった。表の元亀3年(1572)の岩本連満と翌年
の木津宗久の目録安堵状は織田信長との決戦を前に、村落の小領主層の買得地を安堵することにより
彼らの総動員を図ったものである24)。これまで「御判の地」のもとで存在を脅かされることのあった
百姓得分地が大規模に朝倉氏知行制のなかに取り込まれていったことがわかる。百姓得分地を大規模
に給地化していくことは、いうまでもなく農村の剰余得分を軍事的に総動員することである。そのた
めには、買得地目録による申告制でなく、何らかの検地による百姓得分地の全体的把握という課題に
取り組まざるを得なくなるだろう。しかし、それが新しい体制として構築される前に朝倉氏は滅亡を
迎える。
注
1)池享「戦国大名の領有編制」1978年、同氏『大名領国制の研究』1995年、校倉書房、所収。
2)この点に関してはさしあたり拙稿「戦国期研究の動向」
『歴史評論』523号、1993年を参照されたい。
3)勝俣鎮夫「一五−一六世紀の日本」『日本通史』10、中世4、所収、1994年、岩波書店。
4)池上裕子『戦国時代社会構造の研究』第4部「石高と検地」1999年、校倉書房。木越隆三『織豊期検地と石高の
研究』2000年、桂書房。
5)河村昭一「戦国大名朝倉氏の領国支配と名体制」『史学研究』123号、1974年。戦国大名論集4『中部大名の研究』
(1983年、吉川弘文館)に再録。
6)神田千里「越前朝倉氏の在地支配の特質」
『史学雑誌』89−1、1980年。前注掲載書に再録。
7)2004年度、福井大学大学院教育学研究科修士論文。未公刊(非公開ではない)。
8)拙稿「戦国大名若狭武田氏の買得地安堵」『福井大学教育学部紀要』第Ⅲ部、社会科学、第40号、1990年。この論
考では、次のように述べた。普通法上の存在である買得地はその地の領主から補任状をうるという荘園法上の確
認行為によって安定する。ここで「普通法」というのはハンス・ティーメ「普通法の概念」(久保正幡監訳『ヨー
ロッパ法の歴史と理念』所収、1978年。岩波書店、22頁)にいう「同一国家の国民全体に共通な法」をさす。し
かし戦国大名武田氏のもとでは、普通法と荘園法に基づく安堵だけでは、武田氏の闕所処分権に基づく没収に対
抗できなかった。そこで武田氏の買得地安堵状が求められ、その安堵状には当該売買地を武田氏の「新寄進」「給
分」として位置付け直すという論理が含まれているので、闕所処分を免れることができた。こうした武田氏の安
堵状は普通法とも荘園法とも異なる「敢えて言えば大名法の論理に従っていたのである」(拙稿、12頁)。この論
考では「大名法の論理」という表現にとどまっているが、それを朝倉氏を扱う本稿では「知行法」と明確化した
29
福井県文書館研究紀要4 2007.
3
い。ただし、家臣の史料が著しく乏しい朝倉氏の史料状況では「知行法」の全体を明らかにすることは困難である。
9)平松文書1号、『敦賀市史』史料編第2巻所収。
10)福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館所蔵鳥居文書。以下本文では鳥居文書と称する。
11)佐藤圭、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館古文書調査資料Ⅰ『朝倉氏五代の発給文書』2004年、69頁。ただし画
期的である点についての詳しい説明はない。
12)「沽却散在地」について河村氏前掲論文は「各方面へ売却された土地」と理解している(161頁)。これに対し神田
千里氏は元亀3年(1572)に知行地を没収された新開源七が「名々知行之旨帯証文訴訟之通、高橋新介披露之処、
無別儀条任目録之旨、沽却散在之地等集之、為新恩可知行」ことが認められた例(片岡五郎兵衛家文書2号)を
引き、「沽却散在之地」は新開氏の提出した「目録」に従って集められた土地であって、売却地ではないとする
(同氏前掲論文216頁)。神田氏の解釈では「沽却」の意味が考慮されていない。また、この史料の「目録」とは他
の多くの例からして(例えば、『福井県史』資料編8所収、西福寺文書195号)、朝倉氏が知行地であることを安堵
した「目録」であって、沽却散在地となる以前の状態に戻す根拠となるものである。河村氏は「散在」を「各方
面」と理解されたが、天文16年(1547)に西福寺の寺領を他人に売り渡した責任者を処罰する問題について「彼
田地従当寺散在之最初依不分明、売之役者不及糺明」と述べている例があり、これによれば「散在」とはもとの
持ち主から離れることを意味する(同、西福寺文書222号)。
13)「給恩地」が朝倉氏より給与あるいは安堵された家臣の知行地を指すことは疑いないが、寺社に給与あるいは安堵
された土地も「給恩地」と称されたかどうかは、一応確かめておく必要がある。享禄3年(1530)に府中真照寺
は買得地を記して朝倉氏の安堵を求めているが、その中の「寺屋敷壱所、…売主小島□左衛門」と「壱段、れい
かん寺領之内、…売主貞純」について「已上縦此弐ケ所ハ雖為御給恩之地、新寄進ニ被下者、忝存候」と述べて
いる(「府中寺社御除地」所収文書、佐藤氏前掲『朝倉氏五代の発給文書』に47号として収載)。この「御給恩地」
とされている2か所のうち、小島氏の売却寺屋敷は家臣知行地の可能性が強いが、「れいかん寺領」内の「貞純」
売却地は寺社の知行地であったと見てよい。
14)以下、『福井県史』資料編の3−9所収の県内文書の所在地などについては周知のことなので、以下では資料編の
巻数を記すことを省略し、文書番号のみを示す。
15)前掲拙稿「戦国大名武田氏の買得地安堵」がこの点に言及している。
16)河村氏前掲論文。
17)松原信之「山内秋郎家の新出中世文書」『福井県文書館研究紀要』3号、2006年、所収の山内秋郎家文書4号。
18)この文言を、「将来孝景の御判を頂いて知行していただきたい」との意味に解しようとする場合には「於以後孝景
様之御判形之由、被及聞召候而」という文言でならなければならない。
19)この文書の「悉く落とすべし」について佐藤圭氏は、斎藤氏が朝倉氏景の裏判目録に加筆してごまかしたのでこ
の地を朝倉氏が没収することと理解されている(佐藤圭編、前掲『朝倉氏五代の発給文書』、79頁)。しかしこの
文書は全体として斎藤氏の要求を孝景が叶えた文書として理解する必要がある。
20)百姓得分地売却禁止令として出雲鰐淵寺領の事例がある。天文12年(1543)6月に尼子晴久は鰐淵寺の掟として
「諸寺領百姓等、下地他所之仁不可立沽却・質限之事」と命じ、百姓が他所の人に沽却や質入れすることを禁止し
ている(曽根研三編『鰐淵寺文書の研究』153号)。これは尼子氏による寺領保護令ではあっても、尼子氏知行法
の適用と見ることは難しい。それに対して、「氏景の裏判目録に入筆されているので悉く没収」とする朝倉氏の場
合は知行法の適用と考えてよいと思われる。
21)前掲、山内秋郎家文書8号。
22)佐藤氏前掲『朝倉氏五代の発給文書』119頁。
23)前掲、「府中寺社御除地」所収文書。
24)岩本連満・木津宗久の目録安堵状はいずれも現地に伝えられており、彼らはいわゆる小領主層に属し、兵農分離
のなかで農の道を選んだのであろう。
〔付記〕本稿のもとになったのは「朝倉氏の知行制と沽却散在地」(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館第15回企画展
『古文書が語る朝倉氏の歴史』2006年7月刊への特別寄稿。47−50頁)という小文であり、また2006年8月5
日の記念講演「戦国大名朝倉氏の特質」である。お世話になった一乗谷朝倉氏資料館の佐藤圭氏にお礼申し上
げる。
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木谷藤右衛門家と福井藩関係文書
木谷藤右衛門家と福井藩関係文書
長山 直治*
はじめに
1.木谷藤右衛門家文書の所蔵と研究状況
2.『木谷藤右衛門家文書目録』の構成
3.木谷藤右衛門家の概略
4.福井藩への調達と福井藩関係文書
おわりに
はじめに
2006年3月に、石川県内灘町教育委員会から『木谷藤右衛門家文書目録』1)が刊行された。木谷藤右
衛門家は、近世中・後期における加賀藩最大の豪商であり、その文書は、内灘町教育委員会所蔵分以
外にも数か所で所蔵されているが、同教育委員会所蔵分が最も多い。これまで内灘町教育委員会所蔵
木谷藤右衛門家文書についてはその全容が明らかでなく、今回の目録作成によって初めて福井藩に関
わる文書が最も多いことが明らかになった。そこで、同文書における福井藩関係文書の概要について
紹介したいと思うが、以下、1.木谷藤右衛門家に関わる文書全体の所蔵状況と同文書の研究状況、
2.今回刊行された『木谷藤右衛門家文書目録』の概要、3.木谷藤右衛門家の略史、4.福井藩へ
の調達と福井藩関係文書の概要、に分けて記述する。
本稿は、2006年2月12日に開催された福井県史研究会で報告した内容をもとに、大幅に加筆、補正
したものである。
1.木谷藤右衛門家文書の所蔵と研究状況
内灘町教育委員会所蔵の木谷藤右衛門家文書は、金沢市粟崎町の故角島一治氏から寄贈されたもの
で、角島氏の父の代に、同文書を管理していた木谷藤右衛門家の分家木谷吉次郎氏から譲られたとい
う。その点数は、今回、目録に収録した点数では4336点であるが、後述の、上多扇園(津太郎)氏が
整理したときの点数は5753点とされている2)ので、約1400点ほどの差があり、その違いは不明である。
内灘町教育委員会所蔵の木谷藤右衛門家文書以外に、同家の文書は4か所で所蔵されていることが
確認でき3)、まず、角島氏と同様に木谷吉次郎氏から譲られ伝来されているものに、酒本正博氏所蔵
文書がある。内容は、葬儀・結婚・出生など冠婚葬祭関係の長帳類などが約90点、祝儀音物の目録類
が約70点あり、時期は天明7年(1787)から大正10年(1921)に及ぶ。
木谷吉次郎氏が管理した以外に、木谷藤右衛門本家に伝えられた文書である、木谷哲郎家文書があ
*元金沢市史専門委員
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福井県文書館研究紀要4 2007.
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り、14点を数える。そのうち注目されるのは、明治末、木谷本家の手代であった木谷政次郎がまとめ
た「累世記録・天」「累世記録・地」「代々法名記録」「別家記録」「亦別家記録」「手代人名録」の記
録類で、木谷家の家系・各代の経歴、一族の系譜などを知るには便利である。このうち、「累世記録」
は木谷本家の公私の記録で、初代から13代まで、大正9年(1920)までの記載がある。これまでの木
谷藤右衛門家の研究は、多くは同書に依拠している。また、記録類以外に近世文書も4点所蔵されて
いる。
郷土史家によって収集された文書としては、番匠益栄氏所蔵の約200点と、石川県立歴史博物館所
蔵木谷文書の16点がある。前者は、文化年間から大正年間にわたり、仕切書類が多いが、特徴のある
文書では、木谷家の船頭であった下出屋 (下藤) 善八家関係の文書が36点あり、他に音物帳・香典
帳・婚礼一巻など家政関係の帳冊も18点ある。後者は副田公平(松園)氏の収集になるもので、16点
あり、調達金などの請取書、願書、書状類が多い。
これらのうち、内灘町教育委員会所蔵分を除く、酒本正博・木谷哲郎・番匠益栄各氏所蔵分、およ
び石川県立歴史博物館所蔵分については、金沢市史における史料収集に際してマイクロフィルムに撮
影し、写真帳が作成されている。
木谷藤右衛門家の研究としては、清水隆久氏の研究がある。『加賀百万石の豪商木谷藤右衛門』4)
『木谷吉次郎翁―その生涯と史的背景―』5)は木谷家の歴史を概観したもので、主に「累世記録」を典
拠としている。また、「加賀の海商、木谷家一門の系譜について」6)は天保10年(1839)の「先祖由緒
帳并一類附帳」、および「累世記録」「別家記録」「手代人名録」を紹介したものである。「木谷藤右衛
門家と富山藩―軽尻馬のサービス―」7)「木谷藤右衛門家の富山藩融資について」8)「木谷藤右衛門家の難
船史料について―安永四年の浦証文―」9)「加賀藩における天明事件と豪商木屋藤右衛門家」10)は、木谷
藤右衛門家文書を使用してそれぞれのテーマに言及しているが、その利用は限定的である。なかには
「木谷藤右衛門家の富山藩融資について」で引用されている「富山様御先売之儀ニ付願書控」「富山様
御取替銀御催促御願罷出候諸事控」などのように、今回、作成した目録では確認できなかった文書に
も言及されている。
11)
12)
木谷藤右衛門家文書の旧蔵者角島一治氏は『わがまち粟崎』
『河北潟・大野川―その変遷と風物―』
『北長家騒記の研究』13)で、所蔵文書を紹介している。その内容は、主に天明6年(1786)の入牢・家
財闕所事件に関わるもので、「北長家騒記」とはこの事件をテーマにした江戸時代の実録物である。
木谷藤右衛門は明治になると銀行業に進出し、明治16年(1883)に北陸銀行が設立されると頭取を
務めたのであるが、同行は松方財政のデフレの影響を受け、同19年に倒産すると同家は破産に追い込
まれ、経済的な影響力を失った。北村魚泡洞(三郎)『石川県銀行誌』14)は北陸銀行の設立と、破綻の
過程を明らかにしている。
北西弘編『木谷藤右衛門家文書』15)は、内灘町教育委員会所蔵の木谷藤右衛門家文書1070点(そのう
ちの文書番号1066∼1068は木谷哲郎家文書)を収録したものであるが、同氏は『北前船資料展―近世諸大
名と豪商たち―』16)も監修しており、このうちには39点を収録している。
ほかに木谷藤右衛門家関係の文書集としては、『金沢市史』資料編8近世六があり、110点を収録し
ている。同書では、北西弘編『木谷藤右衛門家文書』が編纂中であったため、重複を避けるため、角
32
木谷藤右衛門家と福井藩関係文書
島一治氏所蔵文書からの収録は15点に止め、木谷哲郎家文書の「累世記録」や、酒本正博・番匠益栄
氏所蔵文書、金沢市立玉川図書館加越能文庫の諸史料、県外史料では「弘前藩庁日記」や福井県立図
書館松平文庫の諸史料などを収録している。
拙稿「近世前・中期における木谷藤右衛門家の活動について」17)「木谷藤右衛門家における勘太郎の
家督相続について」18)では、従来の研究がややもすれば「累世記録」に依拠していて、同史料に対す
る十分な史料批判が行われていないことの反省から、前者では、「累世記録」では触れられていない
初・中期の活動を「弘前藩庁日記」などを使用することで明らかにし、後者では、「累世記録」では
家督から除かれている6代藤右衛門の子勘太郎が、福井・弘前藩の記録では家督相続していたことが
確認できることを指摘している。また、『金沢市史』の通史編19)でも木谷家の概要に触れている。
なお、木谷藤右衛門家文書の紹介では、2006年に福井市立郷土歴史博物館「福井藩と豪商」20)展にお
いても10点が展示されている。
表1 木谷藤右衛門家文書分類一覧
2.『木谷藤右衛門家文書目録』の構成
分 類 項 目
内灘町教育委員会所蔵(角島一治氏旧蔵)木谷藤右衛
門家文書を最初に整理したのは、上多扇園氏で、その
結果を『木谷家文書目録』21)として刊行している。こ
の整理では、多くは数点を一括してまとめて整理し、
第1類から第9類に分類しているが、一般的な商取引
と諸藩への調達が明確に区別されておらず、諸藩への
調達についてもどこの藩に関わるのか明確でなく、使
用するには不便である22)。そこで今回の整理では、そ
れを解体し、表1のような分類によって整理し直した。
点数
11
一 支配
二 家・船・奉公人・土地
197
(家)
(92)
(船)
(12)
(奉公人)
(15)
(土地)
(78)
三 加賀藩調達関係
417
四 福井藩調達関係
1,867
(年紀・干支のあるもの)
(628)
(勝手役)
(629)
(御奉行)
(176)
(府中本多家)
(23)
(家老)
(34)
(中老・用人・勘定吟味役・積り方役など) (50)
それぞれの項目の内容は次の通りである。
(取次町人)
「一 支配」では、加賀藩内で布達された一般的な
法令・侍帳・御用留(断簡)などを収録した。
(92)
(贈与目録)
(186)
五 諸藩調達関係
「二 家・船・奉公人・土地」のうち、家に関して
は家督相続や家族などに関わる文書を収録したが、家
督相続の祝詞状などは、商人関係のみをこの項に収録
し、各藩からのものは該当する藩で収録した。家族の
書状や商取引以外の書状もこの項で収録した。
「三 加賀藩調達関係」では、加賀藩と木谷家との
関わりを示す文書を収録した。材木取引や銀子調達、
藩からの役儀の任命など、その内容は多岐にわたる。
加賀藩と木谷家との関わりは、天明6年(1786)8月
の6代藤右衛門・隠居貞悦の入牢・家財闕所事件を境
に2期に区分できる。それ故、年紀不明で、天明6年
33
(49)
(役職・年紀・干支未詳)
619
A 富山藩
(220)
B 大聖寺藩
(70)
C 丸岡藩
(16)
D 弘前藩
(111)
E 秋田藩
(10)
F 本荘藩
(29)
G 出羽矢島(生駒領)
(9)
H 庄内藩
(4)
I 新庄藩
(6)
J 所属藩未詳・その他
(144)
六 加賀藩士への貸付(交際を含む)
七 商取引・貸借
171
537
A 仕切・目録など
(299)
B 借用証文・受取状など
(238)
517
八 近代
合 計
4,336
福井県文書館研究紀要4 2007.
3
以前と推定される文書は、この事件の前にまとめて置いた。
「四 福井藩調達関係」は、点数が1867点を数え、各分類中では最も多い。そこで、福井藩関係に
ついては、年紀・干支があるものについてまず、年代順に並べ、干支のみで年代が判明しないものに
ついては、その後に干支の順で配列した。次に年紀のない文書については、差出人などの役職に従っ
て配列することとし、点数が多い順に勝手役・御奉行としてまとめた。この両役については在任期間
が判明するから、(
)内に在任期間を推定して配列した。残りの文書については、府中本多家と家
老について立項し、その他の役職については、中老・用人・勘定吟味役・積り方役などの中に含めた。
福井藩との交渉の際には、商人として多田金五右衛門・藤屋欽左衛門・天井次郎兵衛・天井次郎右衛
門などの名が見え、かれらが木谷家との間を取り次いでいたと考えられるので、取次町人の項を立て
た。役職者・取次町人の記載がなく、年紀・干支未詳の文書については、役職・年紀・干支未詳とし
て並べた。その他、福井藩から暑中見舞、寒中見舞・歳末祝儀、その他毎年、贈答品が送られてきて
いるが、それらを贈与目録としてまとめ、参考として贈られた品物と贈られた人物名を記載した。こ
れらの文書は本来、勝手役などの書状に添えられたものと推定されるが、本紙の書状と分離されてい
たため、このようにまとめた。
「五 諸藩調達関係」については、点数の多い加賀藩・福井藩以外の諸藩との取引・調達関係文書
を、北陸の諸藩・東北の諸藩の順に配列した。富山藩関係では、同藩が借銀返済を滞ったことから淡
路屋太郎兵衛・酢屋利兵衛が幕府へ訴えたが、この事件に関わる文書が文化3年(1806)から見られ、
年紀のない書状類が多く、公訴一件として文化初期にまとめて配置した。諸藩調達関係については、
主に藩士名によって所属藩を判別したが、調査に限界があり、所属藩を判別できなかった文書があり、
それらは所属藩未詳・その他とした。
「六 加賀藩士への貸付(交際を含む)」では、加賀藩士の借用証文を中心に収載したが、なかには
年寄横山家による粟崎遊猟に関わる文書なども含まれている。
「七 商取引・貸借」では、商人との間の取引・貸借関係の文書を収録したが、Aは仕切書類、B
は借用証文類に区分した。商人・船頭からの書状は、商取引に関わるものとして主にAで収録した。
「八 近代」では、文書に特徴があり、その大部分が京阪神方面へ旅行した際の手紙・電報・領収
書、山代温泉など入湯の際の領収書、ならびに家族の入院の際の領収書類である。年代順に収録した
が、年紀の記載のない文書について、旅行先から推定して挿入したものもある。しかし、その他につ
いては文書のまとまりに従って配列したため、月日の順の通りになっていない。
3.木谷藤右衛門家の概略
木谷藤右衛門家の登場
木谷藤右衛門家は、加賀国石川郡粟崎村(現金沢市粟崎町)に居住し、屋号は木屋を称した。安永6
年(1777)成立と推定される「当家由緒并代々相続人御用方相勤申扣」23)によれば、先祖は西国の武
士で、兵乱のため粟崎村に移り住んだという。そして、2代目が四郎兵衛を名乗った以外は、代々、
藤右衛門を称し、2代目の寛文年中より村肝煎を務め、藩の薪御用、および作事方材木御用も務めた
とする。
34
木谷藤右衛門家と福井藩関係文書
加賀藩では、寛文7年(1667)
10月に藩の材木を運ぶため、加越
能三か国の300石積み以上の船の
調査を行っていて24)、それによれ
ば、粟崎村(橋粟ケ崎村)では2人
の船持ちが各1艘所持している
が、船主は藤右衛門、あるいは四
郎兵衛ではない。木谷家はこの時
期、大型の廻船を所持していなか
ったと推定される。また、次に述
べる向粟崎村も2人の船持ちが各
1艘を所持、大野村は記載がない。
一方、宮腰は15人の船持ちが合計
25艘の船を所持しているから、寛
文期には大野・粟崎・向粟崎村に
おける海運は低調で、宮腰の圧倒
的に優位な状況にあったと考えら
れる。
一方、木谷家が藩の薪御用を勤
めていたとすれば、寛文期から元
禄期にかけて薪木船の入船をめぐ
る宮腰と大野・粟崎・向粟崎村と
の争論が注目される。大野・粟
崎・向粟崎村は河北潟から流れて
日本海に注ぐ大野川沿いの村々
で、この大野川は以前、日本海へ
直接注がず、宮腰の背後を流れ、
犀川に注いでいたと考えられてい
る。犀川河口の宮腰は、大野村な
どに対して金沢の外港として金沢
向け諸荷物の独占的な輸送権を主
張するのであるが、このような地
理的状況が背景にあったようであ
図 木谷藤右衛門家系図
る。ところが、元和年間に金沢と
宮腰を結ぶために、直線的な宮腰往来が設けられると、大野川が障害となり、日本海に直接注ぐよう
に流路が改修された。これによって大野・粟崎・向粟崎村は大野川を通じて直接外海と繋がるように
35
福井県文書館研究紀要4 2007.
3
なり、大野川を遡上し、河北潟を経て浅野川を遡り、金沢へ達する水運が開かれるようになった。こ
のようにして開かれた水運で活躍したのが、能登から金沢へ燃料用の薪木を運ぶ船であったと考えら
れ、これらの船の大野・粟崎・向粟崎村への着船数が増大してくると、その規制を求めて宮腰から訴
えが起こされるようになった。しかし、宮腰側が金沢向けの諸荷物の独占的な輸送権を主張して一時、
規制することに成功しても、宮腰から馬借などによって金沢へ運ぶより、大野川から河北潟を経て、
浅野川を遡上して運ぶ方が有利であったから、その規制は守られず、争論が繰り返されたのであった。
由緒の通りに木谷家が藩の薪御用を務めていたとすれば、そのような宮腰との争論の中から次第に成
長してきたことが考えられる。
このような争論の中で、享保2年(1717)8月に粟崎村組合頭の藤右衛門が上方から船で鉄荷物な
どを運び、粟崎村から金沢へ売り捌こうとしたとして、宮腰の馬借達から訴えられ、争論が再燃する
事件が起きている25)。この時の藤右衛門船が木谷家の船と考えられ、木谷家が海運に関わっているこ
とが確認できる初見である。多分、宮腰の馬借達から粟崎着の差し止めを求めて訴えられたことから
考えて、同家が海運に乗り出して間もなくのことであったと推定される。この訴えは、翌3年5月に
宮腰側の主張が退けられ、馬借肝煎・組合頭、町肝煎・問屋らが入牢とされ、さらに町年寄中山甚八
郎などが役儀取揚げなどの処分を受けている。宮腰側の独占的な輸送権の主張について根拠がないと
されたわけであるが、これによって木谷家は勿論、大野・向粟崎村の廻船は、宮腰の掣肘を受けるこ
となく活動できるようになり、この地域の海運は大きく発展したと考えられる。近世中・後期に活躍
する向粟崎村の嶋崎徳兵衛や大野村の丸屋伝四郎は、享保期にその活動が確認できるのである26)。
木谷家の船は、享保2年には上方から鉄荷物などを運んでいるのであるが、「弘前藩庁日記」によ
れば、享保10年8月に南部から檜・杉材を積んだ8人乗り藤右衛門船が津軽深浦沖で難船し、翌年正
月に弁財船を仕立てるため、弘前藩に材木の切り出しを願い出て船を仕立て、同7月に同藩に米1625
俵の積み出しを願い出て許可されている27)。この時は、船主・船頭とも藤右衛門とされているから、
自らが直船頭として材木商売のため航海していることが分かる。この時期、同10年4月13日には但馬
今子浦に木屋藤右衛門の、5人乗りの久兵衛船が入津しており28)、また、佐渡真更川に翌11年5月8
日に5人乗りの藤右衛門船、同29日には4人乗りの藤右衛門船が入津していることが確認できる29)か
ら、木谷家は船主自らが船頭を勤めるとともに、複数の廻船を所有し、日本海を東西に航行していた
ことが判明する。
前述の加賀藩による寛文7年10月の加越能三か国の300石以上の廻船調査によれば、船の石数に比
較して乗組員の数が多いから、船は日本海側に多い北国船やハガセ船であったと推定される。一方、
加賀藩は大坂廻米の輸送において、貞享3年(1686)から元禄6年(1693)にかけて加越能の地船の
保護政策を採っていて、廻米総額の3分の1を地船に、残り3分の2を上方船に積ませていた30)。し
かし、弁財船であったと推定される上方船に対して、地船の難船破損率は高かったことから、藩は大
坂廻米を積ませる地船に対しては弁財船の採用を義務付けるなど規制を強化した。このような規制強
化は地船における弁財船の導入のきっかけになったと考えられ、享保期の越中高岡における材木積み
船の大半は弁財船であったことが知られている31)。
木谷家はこのような加賀藩における海運をめぐる状況の変化の中から、宮腰との争論をバネに、旧
36
木谷藤右衛門家と福井藩関係文書
来の北国船・ハガセ船に代わる弁財船の船主として登場してきたのであった。
木谷藤右衛門家の経営
木谷家は屋号の通り、材木取引を主要な業務としており、その仕入先が津軽・南部であったと推定
される。木谷家は加賀藩の作事方材木御用を務めていて、元文5年(1740)正月に御用材木の積み廻
しを願い出ている32)が、その中で、去年中に津軽・南部の山元に先納金仕入れを行っているので、江
戸・大坂へも一番船で御用を勤めることができると述べている。山元に先納金を渡し、材木を仕入れ
ることが行われていたのであるが、宝暦2年(1752)6月に木谷家が先納仕入れした材木を弘前藩が
買い上げようとしたとき、国元から派遣されていた木屋藤助は、国元から注文の材木は「杣取并土場
(違ヵ)
着之儀迄追々本国藤右衛門方 江通達仕候儀、今更間遣候 而者至 而迷惑仕」33)としていて、材木の伐採
(「杣取」)から積み出し湊への運搬(「土場着」)までが先納仕入れの対象であった。また、この一件では
「右藤右衛門儀者数十年来御国表江手代共差下し山師共ニ仕入取組」ともあるから、木谷家の先納仕
入れは数十年来の実績があったのである。
このように確保された材木は、木谷家所有の船などによって運ばれたのであるが、木谷藤右衛門家
文書には、明和期における宮腰の唐仁屋孫兵衛から木谷藤右衛門宛の材木売仕切類が24点残されてい
て、その状況が判明する。それによれば、例えば明和5年(1768)には4月25日から9月7日までの
間、吉之丞・豊右衛門・北屋吉郎兵衛・虎屋仁左衛門・藤四郎・半左衛門・金蔵の船の着船が確認で
き、そのうち吉之丞は、4月25日着船の一番船、5月18日着船の二番船、7月13日着船の三番船、9
月7日着船の四番船の四回の航海が確認できる。この吉之丞は、前年の明和4年5月19日には「木屋
藤右衛門船船頭吉之丞」の8人乗りが石見温泉津に入湊していることが確認できる34)から、木谷家の
船頭として日本海を東西に航行していたのであった。
木谷家は津軽・南部における材木の先納仕入れのほかに、明和・安永期には弘前藩の尾太鉱山から
産出された鉛の買い付けを行っていることが知られており35)、さらに、北陸・東北諸藩の払い米を取
り扱うことによって、急速に成長していったと考えられる。
北前船の船主達は、松前へ進出した近江商人の荷所船の船頭達が、安永・天明期に独立して独自に
海運に乗り出すようになって成長してきたとの見解もあるが、木谷家の場合、南部・津軽との材木取
引を通じて成長してきた、荷所船の船頭達と異なるタイプの船主であり、多様な北前船主像を想定す
ることが可能である。
加賀藩および諸藩への調達
「累世記録」や由緒帳などによれば、4代藤右衛門は、寛保3年(1743)に加賀藩の大坂廻米1万
9000石の船裁許を命じられて2、3年務め、さらに算用場為替方等御かね御用を務めたという。また、
宝暦4年10月には、同3月の10代藩主重教の家督相続に際して藩財政に寄与することがあったようで、
5人扶持を受け、同9年4月の金沢大火による金沢城焼失に際しても材木を献納したことにより、藩
から褒状を受けている。この金沢大火に際しては、金沢城再建の材木を受注していることが確認でき
る36)から、金沢城の再建や金沢町の復興に際して、長年の先納金仕入れで培った信用を背景に、大量
の材木を供給し、大きく飛躍していったと考えられる。
5代藤右衛門は家督を相続して明和2年3月に先代の通り5人扶持を認められて以降、加賀藩の財
37
福井県文書館研究紀要4 2007.
3
政に貢献することが大きかったようで、次第に扶持高を増やしていった。すなわち、同8年2月に5
人扶持を加増されて10人扶持となり、安永2年(1773)10月には郡奉行直支配とされ、十村同様に御
目見が許された。また、翌3年12月には所持船の櫂役御免の特権が認められ、同4年閏12月には10人
扶持を扶持高に引き直し、無組御扶持人十村並とされた。十村は郡奉行・改作奉行の指揮を受けて農
村支配・農政・年貢収納に関わる役職で、農民身分としては最高の格式に位置付けられていた。十村
には十数か村から数十か村を単位として支配する組持ち十村と、担当の組を持たず、組持ち十村を指
導する無組の十村があった。郡方に居住する木谷家は郡奉行の支配を受けていて、農民身分としては
最高の無組御扶持人十村に準ずる地位が与えられたのであった。さらに、同6年12月には扶持高を27
石加えて50石とされ、同9年12月には十村の分役として2500石の収納代官を命じられ、同10(天明元)
年3月にはさらに扶持高30石を加え、知行高は80石となった。当時、加賀藩では、大坂での借財が累
積し、その返済が滞って大坂蔵元との関係が悪化していたから、銀子調達は国元に依存しなければな
らなくなったが、そのような中で、木谷家は藩の要請に積極的に応じていったことが、このような昇
進の背景にあったと考えられる。
一方、加賀藩以外に対しても調達に応じていて、弘前藩については、宝暦11年に巡見上使入用のた
め、大坂町人今宮屋平兵衛とともに3000両を調達し37)、明和期になると、同藩の払い米を大量に引き
受け、やがて蔵元も務めるようになった。安永4年9月には知行100石が与えられている38)が、これ
は蔵元を勤めていることと、同藩が幕府から甲斐での川普請の御手伝いを命じられた際、4000両の上
納に応じたことによるものであった。また、福井藩に対しては後述のように、明和4年に7000両の調
達に応じたことが最初であったようで、その後、安永2年5月に200石の知行を受け、さらに、同9
年12月には100石が加増され、知行高は300石となった。この時期、この両藩の他に、大聖寺・丸岡・
本荘・新庄藩などとも取引があったことが、木谷藤右衛門家文書によって確認できる。
5代藤右衛門は天明3年(1783)3月に病身を理由に隠居して貞悦と名乗り、子の孫三郎が6代藤
右衛門となって80石を相続し、貞悦には別に10人扶持が与えられた。6代は翌4年6月に父の功績が
抜群であったことから、今津甚右衛門同格、算用場奉行直支配とされ、苗字も許されたことから、粟
崎の姓を願い出、同7月に許された。今津甚右衛門は加賀藩領近江今津の代官で、十村には許されな
かった帯刀が許され、十村には玄関先で通りがけしか許されなかった御目見も室内で許された。この
時期、粟崎姓が許されていたから、天明4年7月から同6年8月の間は粟崎藤右衛門の名で記載され
ることがある。
天明6年の入牢・家財闕所事件
天明3年の浅間山大噴火から始まった大凶作は、窮乏していた加賀藩の財政にも大きな影響を与え
た。当時、隠居していた前藩主重教は、財政窮乏に危機感を懐き、財政については自ら主導すること
を宣言し、同5年8月から御改法と呼ばれる藩政改革に乗り出した(天明の御改法39))。この改革で
は、収入不足を補うため、同年9月に領内の富裕な商人達に5116貫目の御用銀が命じられたが、その
うち、藤右衛門には3500貫目の上納が命じられた。この巨額の負担に対して木谷家も危機感を持った
ようで、翌10月には2年前に認められた帯刀を商い方に差し支えるとして辞退を申し出ている。また、
翌6年2月には隠居貞悦の名で、御用銀の上納は困難であるとして、安永中期以降、藩へ貸し付けな
38
木谷藤右衛門家と福井藩関係文書
がら返済が滞っている約5540貫
目の返済を求めている40)。そし
て、命じられた御用銀は、同6
年6月になっても命じられた銀
高の半分以下の1640貫目余しか
納めていなかった。それ故、木
表2 天明6年10月 諸大名・問屋への貸付残高
取 引 先
加賀藩(前田)
大聖寺藩(〃)
福井藩(松平)
直後の28日には藤右衛門と隠居
貞悦は捕らえられ、家財闕所・
30,000〃 年賦金
3,000〃 天明5年改先納金
越前丸岡藩(有馬)
津軽弘前藩(津軽)
8,000〃 安永5年頃前々先納金勘定不足
7,000〃 〃6年頃迄前々先納金等勘定不足
20,000俵 〃7年春中先納買米等滞米
〃黒石藩(〃)
2,200両 天明4年12月先納金勘定不足
出羽本庄藩(六郷)
8,000〃 安永2∼9年頃迄先納金勘定不足
4,700〃 天明3年頃迄先納金
〃矢嶋生駒監物
6,000〃 安永2年頃先納金勘定不足
越後村上藩(内藤)
3,000〃 〃元年11月先納金
責任を問われ、8月21日に逮
捕・入牢を命じられたが、その
400〃 〃3・4年頃迄前々御用達銀等
1,500両 天明3年御用達金
革を主導した富田彦左衛門・池
田忠左衛門は財政運営を誤った
5,538貫目 天明6年2月迄貸付残高
800〃 安永2・3年頃先納銀等
ところが、同6年6月に重教
が没して改革が挫折すると、改
摘 要
1,640.7〃 〃5年9月3,500貫目調達銀のうち翌年5月迄上納分
富山藩(〃)
谷家は天明の御改法に対しては
消極的であったと考えられる。
金・銀・米高
(大名)
7,000俵 〃元年11月先納金等代米
73,400両 銀4,404貫目(1両を60目で換算)
8,378.7貫目
金高合計
銀高〃
27,000俵 銀594貫目(1俵を4斗、1石を55匁で換算)
米高〃
銀高換算合計(A)
13,376.7貫目
(諸国問屋)
入牢とされた。罪状は、商い方
加賀藩領内
150貫目 天明4・5年売懸・取替銀等
440石 〃 〃
について不筋の取り組みがあ
越前吉崎見谷屋長右衛門
100両 〃3年取替銀
り、京都町人井川善助へも取り
越後今町美濃屋善兵衛
500〃 安永2年頃先納滞金
入り、かれこれ不届きがあった
〃柏崎間瀬仁助
1,500俵 〃9年12月買米代金不渡
〃寺泊本間源左衛門
1,460両 天明4年売物代等滞金
というものであった41)。井川善
出羽秋田畠半四郎
33貫目 〃4年11月頃買受米不渡
助とはこの改革で蔵元に復帰し
〃能代越後屋孫左衛門
1,000両 〃元年12月頃先納滞金
津軽弘前竹屋幸助
た善六の父のことであるが、こ
〃 〃宮崎屋庄兵衛
れだけでは処分理由は明確でな
松前塩越屋作右衛門
100〃 〃2年12月取替金
20貫目 安永9年頃取替金
390貫文 天明4年夏頃売物代滞銭
江戸西宮甚左衛門
1,000両 〃4年頃売物代滞金
く、また、木谷家による米買い
金高合計
4,160両 銀249.6貫目
占めの噂があったことも確かで
銀高〃
203貫目
銭高〃
390貫文 銀5.85貫目(4貫文を60目で換算)
あるが、寛政3年(1791)に藤
右衛門が出牢した際に当分、藤
右衛門には調達を申し付けない
よう家中に触れた藩主治脩の親
1,040石 銀57.2貫目
米高〃
銀高換算合計(B)
(A)+(B)
515.65貫目
13,892.35〃
注(1)出典は『金沢市史』396∼398頁、角島一治『北長家騒記の研究』262∼268頁による。
ただし、加賀藩の分は『金沢市史』442∼448頁による。
(2)丸岡藩の分は7,000∼8,000両とあるが、8,000両を採用した。
翰には、「故貞悦分限を取失、
且彼是不埒之所行ハ勿論其身不心得之事ニハ候へとも、上より之扱方ニもより可申候」42)と述べられ
ていて、天明の御改法に対する不満をかわす政治的な意味もあったと考えられる。
ところで、この藤右衛門・貞悦の入牢中の同6年10月には、留守を預かっていた親類・一族などか
ら、諸藩や各地の商人への貸付残高が書き上げられている。この書上に、加賀藩への調達残高を別の
史料によって算出して作成したものが、表2である。これによって、加賀藩以外に、富山・大聖寺・
39
福井県文書館研究紀要4 2007.
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福井・丸岡・弘前・黒石・本庄(本荘)・矢嶋・村上の各藩に対して先納金や御用金などの貸付があ
り、また、商人では、越前吉崎、越後今町・柏崎・寺泊、出羽秋田・能代、津軽弘前、蝦夷地松前、
江戸の商人への貸付があったことが判明する。これらの諸藩・諸商人への貸付額は、銀に換算して約
6200貫目になる。これに加賀藩への貸付の未返済銀の約5540貫目と御用銀の上納額1640貫目を加えれ
ば、1万3900貫目ほどになる。また、「累世記録」によれば同6年の持ち船数は、200石以上で大坂廻
船が23艘、近廻りの船は6艘とされており43)、これが絶頂期の木谷家の勢力であった。
木谷藤右衛門家の再興
入牢とされた隠居貞悦は翌7年9月に牢死したが、藤右衛門は、5年目の寛政3年3月に許されて
出牢した。しかし、藤右衛門は入牢中に健康を害したためか、同9年閏7月に34歳で没し、庶子の勘
太郎は幼かったため、別家藤蔵の嫡子藤助が養子となり、7代藤右衛門を相続した。
入牢によって闕所とされた家財は、藤右衛門が出牢した際に返還されたと考えられ、それを元に再
建を図ることになったが、「累世記録」によれば、寛政12年の持ち船は22艘とされていて44)、その勢
力は急速に回復したようである。そのため、加賀藩に対する調達銀の負担でも、領内最大の豪商とし
ての地位を保っている。例えば、享和2年(1802)に藩は約3300貫目の調達銀を領内に命じたが、藤
右衛門は300貫目を負担していて第1位であった45)。第2位は140貫目を負担した向粟崎の嶋崎徳兵衛
であるが、同家は4代藤右衛門の子が嶋崎家の4代を相続し、その後も互に娘を嫁がせていて姻戚関
係にあった。この他に木谷家の分家木屋勘七(藤助の実家)が40貫目、勘太郎が7貫目を負担していて、
木谷一族で500貫目近くを負担している。さらに、木谷藤右衛門家文書によれば、文化5年(1808)
正月に金沢城二の丸が焼失した際の再建のための献納でも、藤右衛門は300貫目を負担し、勘太郎も
2貫250目を負担していることが分かる。
「累世記録」では、7代藤右衛門は、文化12年8月に病身のため長男孫三郎に家督を譲り、隠居し
て孫六を名乗ったとされている。また、天保10年(1839)7月に加賀藩の改作奉行に提出された「先
祖由緒并一類附帳」46)でも家督相続は同様に記載されていている。しかし、「先祖由緒并一類附帳」の
記載をみると、7代藤右衛門の業績についての記載はごくわずかで、前後の世代の記載と比較して不
自然である。一方、福井藩の記録によれば、文化7年6月に勘太郎が相続して藤右衛門を称したとし、
同12年11月に養父藤右衛門が病身になり、孫三郎が相続したとする。また、勘太郎に家督を譲った孫
六は、同藩から同7年6月に5人扶持を与えられたとする47)。一方、弘前藩でも、文化8年3月に藤
右衛門は病身になり、弟勘太郎に家督を譲ったとする48)。これらの記事によって、実際は文化7年に
7代藤右衛門から6代の庶子勘太郎に家督が譲られたと考えられ、後年に何らかの事情で、勘太郎の
家督相続は歴代から除かれたのであろう。
ところで、7代藤右衛門は「累世記録」では、「中興ノ英主」と讃えられているのであるが、それ
は隠居後も木谷家の経営を主導し続けていたことによるのであろう。例えば、文化12年に8代の家督
を譲られた長男孫三郎は、まだ10歳で、隠居孫六が後見を務めたと考えられ、さらに、8代が天保11
年に35歳で死ぬと、その子孫三郎が16歳で家督を相続するが、9代の時も後見を務めたと考えられる。
孫六は天保15(弘化元)5月に貞幹と名乗りを替え、嘉永2年(1849)に71歳で没している。
8代藤右衛門が家督相続した文化末頃は、富山藩への貸付が滞り、経営は苦しかったようである。
40
木谷藤右衛門家と福井藩関係文書
そして、結局、富山藩からは同14年になって520貫目余の滞納銀の代わりに、毎年会釈米100俵と20人
扶持を支給することを申し渡され、貸付の返済は行われなかった49)。そのためもあってか、木谷家は
同年から家政の整理に乗り出していて、住居を移して元屋敷を畳み、家事向きの節約を図り、諸大名
に対しても10年間の調達御用の用捨を申し出ている50)。
そのような中で、文政後期になると、苦しいながらも加賀藩の調達に応じていて、文政9年(1826)
6月に藩が領内の町・村に約7000貫目の調達を命じた際、木谷家は450貫目の負担が命じられ、その
代わり、11月には渡海船1艘と米1800石の代銀150貫目が与えられ、船の櫂役が免除されている。た
だ、この御用銀の負担に対しては、木谷家の破産を恐れる粟崎村民達は同村の橋の上で喰われなくな
ると高声を上げたという51)。また、天保元年にも額は未詳であるが、御用銀に応じていて、この時は
難渋を理由に、毎年400石ずつ10年間の拝領を願い出て聞き届けられる。さらに、同4年からは銀札
引替のために設けられた札尻御用も務めている。このような貢献により、同7年11月に扶持高50石を
与えられ、郡方年寄列に任命された52)。天明6年8月に入牢を命じられて役儀を除かれて以後、50年
振りの十村役への復帰であった。この時の郡方年寄列の名称は、同10年正月には十村名の復活によっ
て、石川郡御扶持人十村列と改められた。なお、向粟崎の嶋崎徳兵衛も同7年11月に10人扶持が与え
られ、郡方年寄列とされている。
幕末・明治初期の木谷藤右衛門家
加賀藩領内では天保後期以降、宮腰の銭屋五兵衛が藩の御手船裁許となって急速に成長してきたが、
藩への調達銀高では木谷家の優位は動かなかった。すなわち、天保15(弘化元)年に江戸城本丸が焼
失し、加賀藩はその再建のため8万両の上納を命じられたことから、領内の豪商達に調達銀を命じた
が、その際の負担額の第1位が木谷藤右衛門の300貫目、第2位が嶋崎徳兵衛の250貫目、第3位が銭
屋五兵衛の200貫目(うち50貫目は喜太郎分)であった53)。また、この調達銀が返済され、改めて嘉永元
年(1848)に同様に調達銀を命じられた際も、第1位の藤右衛門と第2位の徳兵衛は前回と同額、第
3位の銭屋五兵衛は喜太郎の名義で230貫目を負担していて54)、やはり順位に変動はなかった。
その後、木谷家は嘉永6年に米使節ペリー提督が来航したことにより、海防の強化が迫られると、
翌7年5月に加賀藩へ野戦筒10挺と銑鉄200貫目余を献上している。また、金子調達においても文久
元年(1861)に6500両、同3年に1万5000両を負担している55)。そして、同3年12月にはこれらの功
績によって10石加増され、扶持高は60石となった56)。なお、木谷家とともに活動していた嶋崎徳兵衛
は、嘉永5年2月に居村など小前の者どもを労ったとして10人扶持から30石に加増され57)、さらに文
久3年12月に10石加増されて40石とされている58)。
一方、幕末期、諸藩との関係では弘前藩と福井藩との関係が深かった。弘前藩では、木谷家は冬買
いと称し、収納された年貢米を暮れのうちに買い付けていたが、天保4年の凶作に際しては、同藩か
らの依頼により、藤右衛門をはじめ、分家の次助・同藤作・銭屋喜太郎・丸屋伝右衛門・同伝四郎が
協力し、九州表から1万6000石余の米を買い付け、翌年に送り届け、同5年にこれらの買い付けに活
躍したそれぞれの船頭が生涯、水主役免除が認められている59)。また、文久3年8月には弘前藩が京
都守衛を命じられ、その手当てに出費が見込まれたことから、木谷藤右衛門・分家次助・輪島屋与三
兵衛に対し、冬買いの先納金の増額が求められている60)。
41
福井県文書館研究紀要4 2007.
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明治に入ると、木谷家はその資力を背景に地域経済の主導的役割を果たした。同2年(1869)に加
賀藩が為替会社を設立すると、嶋崎徳兵衛・木谷次助・藤井能三(越中伏木能登屋三右衛門)とともに
惣棟取に任命され、為替会社とともに設立された商法会社でも主導的役割を果たしている。廃藩の後
も、明治10年に金沢第十二国立銀行が創設されると、副頭取になり、同16年に金沢為替会社が改組し
て北陸銀行が設立されるとその頭取を務めた。しかし、北陸銀行が松方財政のデフレの影響を受け、
同19年に倒産すると破産に追い込まれ、経済的な影響力を失った。
4.福井藩への調達と福井藩関係文書
木谷藤右衛門家と福井藩の関係は、松平文庫の諸史料によってその一端を窺うことができるのであ
るが、木谷藤右衛門家文書によってさらにその具体的な状況を明らかにすることができる。そこで、
以下、その概要について紹介しておこう。
福井藩と木谷家の関わりが最初に窺える史料は、「野尻氏家譜別録」61)に見える次の記事であろう。
右滞坂之内木谷藤右衛門方手代今宮屋平兵衛と申者、加州罷下ニ付面談致候様ニと森田藤屋金左
衛門忰治右衛門罷登、於京都一両日滞留致、平兵衛へ初テ掛合、夫
三郎右衛門・庄左衛門方へ
申遣、於御当地両人種々懸合
明和3年(1766)3月の福井城下の火災のため、家老の意向を受け、美濃屋喜左衛門が大坂で調達
を行ったのであるが、それに関わる記事である。これによって大坂在住の木谷藤右衛門の手代今宮屋
平兵衛が加賀へ向かうため、途中の京都で藤屋金左衛門の忰治右衛門が初めて掛け合い、さらに福井
において新屋三郎右衛門・極印屋庄左衛門が種々掛け合ったことが分かる。この時は交渉だけで終わ
ったようで、実際に藤右衛門が調達に応じたのは、翌4年に7000両を引き受けたことが最初で、「野
尻氏家譜別録」に「同年加州粟ケ崎木谷藤右衛門方へ新屋三郎右衛門・我等両人罷越、初テ爾談之上
御出入ニ相成、金高七千両迄御用立可申段互ニ書附取為替罷帰、其後追々七千両調達相済」62)とある。
さらに、同書には「同二月廿五日木谷藤右衛門大坂へ罷登候節、我等方へ引請仲ケ間三人出合終日饗
応、新借三千両相頼候処弐千両相談出来相調、此節藤右衛門へ初而被下物品々有之」63)とあり、同5
年2月にも2000両の調達に応じていることが分かる。同5年3・4月には領内に1万5000両の御用金
(才覚金)を布達したことから、藩内で最大の一揆が起きており、当時、窮迫していた福井藩は新たな
調達先として、急速に成長してきた木谷家に眼を付けたのであろう。
このような調達の結果、木谷家は、安永2年(1773)5月には「御才覚御用向出精相勤」として
200石の知行を受け、さらに、同9年12月には「年来御用御頼之処、是迄段々出精別而格別実意之趣
共上ニも御満足思召候」として100石が加増され、知行高は300石となった64)。同8年12月11日に布達
された家老から御奉行共へ勝手向き難渋についての申渡によれば、「別而一両年至而之御指支、今年
之儀者誠ニ被成方無之」との状況の中で、「盆前
最早手段も無之処、粟ケ崎木谷藤右衛門方調達金
訳能相調、其余御蔵米過分ニ引明、無謂危キ工面之筋取扱ニ而」65)とあって、当時、木谷家の調達に
よってかろうじて財政が運営されていた様子が窺える。
前述のように、木谷藤右衛門・隠居貞悦が天明6年(1786)8月に加賀藩から入牢処分を受けた際、
親戚・一族から諸藩への調達残高が書き上げられているのであるが、表2のように福井藩の分は、
42
木谷藤右衛門家と福井藩関係文書
「御年賦金」が3万両ばかり、天明5年改めの、未返済の「先納金」が3000両ばかりとされていて、
総額は約3万3000両であった。木谷藤右衛門家文書には、天明期の借用証文が、①天明元年12月付の
3000両、10年賦返済66)、②同5年6月付の1万両、5年賦返済67)、③同5年12月付、1000両68)、④同
5年12月付、7000両69)、の4点確認でき、3万3000両の調達の内訳の一部が判明し、天明5年分の借
金が多かったことが分かる。なお、②の証文は、勝手役・勘定吟味役・御目付・御奉行・金津奉行な
どが署名を連ね、家老・中老が裏書きしていて、この時期の借用証文の形式を窺うことができる。
寛政・文化期には、通常は参勤交代の路用金3000両を負担していたが、臨時の調達にも応じていた
ようである。文化7年(1810)正月の書上70)によれば、調達残高は1万6500両であったが、その内訳
は、①文化6年春に家老中から格別の依頼によって調達した1万両の残金が7000両、②同4年春に狛
斎宮の格別の依頼によって調達した3000両の残金が500両、③御払米引当てにて調達した3000両と享
和2年(1802)春上屋敷普請のため調達した3000両の、合計6000両は、文化元年に元金の支払いは延
期し利足のみ支払っていて、そのまま借金として残っていた。これに、④同7年3月に路用金3000両
を調達することになっていて、その総額は1万6500両となる。このうち、同年中に返済を予定してい
たのは、①のうち4000両、②の残金500両、④の3000両で、また、①から④の利足992両の支払いも見
込まれていた。さらに、古米800俵が毎年渡されていたが、このうち300俵は以前に返済を断った代償
として払われた分、500俵は③の支払い延期とされた分の代償であった。この800俵は、後掲の弘化3
年(1846)の「御借財元寄帳」には「三万八千弐両、天明六年改元、此方江古米八百俵ツヽ被成御渡
定」71)とも書かれているから、天明期の借財が棚上げされた分であった。この時期は、一時、返済を
棚上げにした分もあったが、新借分については比較的順調に返済は進められていたと考えられよう。
しかし、文化末になると、福井藩からの借財返済が滞るようになり、木谷家の経営を圧迫したよう
である。すなわち、文化13年9月には夏の出水や閏8月4日の大洪水などのため無類の損毛になった
として、路用調達金の返済延期の依頼があり72)、同年12月には凶作などで差し支え、公金をはじめ江
戸・大坂などの借財はすべて返済を断ったとして、年内は返済延期の了簡あるよう依頼があった73)。
また、翌14年12月には旧借財3900両分の無利足20年賦返済などにより返済額の圧縮が図られる74)。前
述のようにこの時期、木谷家では元屋敷を畳み、家事向きの節約を図り、諸大名に対して10年間の調
達御用の用捨を申し出ていて、福井藩に対しても、文政2年(1819)正月に本宅を取り払い、小家を
建て逼塞同様であるので、調達御用も10年間用捨して欲しいと願い出ている75)。
その後、調達残高は天保4年(1833)分が判明するが76)、その額は2万8124両で、内訳は、①古調
達の1万5124両を70年賦とした分、②辰年(天保3)調達の7000両、③辰年別段調達返済3000両、④
路用調達返済3000両であった。この調達残高は、その後も同7年4月には1万5000両77)、翌8年11月
には7500両の新調達78)が確認できるから、増え続けたようである。
弘化3年の「御借財元寄帳」によれば、「加州粟ケ崎金主新古調達」は10万6611両2歩2朱とされ
ている。その内訳は、①当座借りの9000両(月8朱利付)、②天明6年に毎年、古米800俵を渡すことで
棚上げされた3万8002両、③天保13年までの調達残高5万9609両2歩2朱3分4厘であった。この
「加州粟ケ崎金主」というのは、粟崎村の木谷藤右衛門家ばかりではなく、木谷家とは姻戚関係にあ
った向粟崎村の嶋崎徳兵衛家も含むのであろう。嶋崎徳兵衛は天保4年には調達残高は1万5889両で
43
福井県文書館研究紀要4 2007.
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あるから79)、前掲の木谷藤右衛門の2万8124両、および天保4年以降の新たな調達を加えて、弘化3
年の③の5万9609両余となったと考えられる。この時期の福井藩の借財総額は90万5380両余であるか
ら、木谷・嶋崎両家はその約12パーセントを占めていて、福井藩の最大の債権者であったとされてい
る80)。
この弘化3年の③の5万9609両余については、「天保十三寅年改元」「利足少々ツヽ御遣被成」とあ
るから、天保13年に返済の元入れは棚上げされ、利足のみが少しずつ渡されたようである。さらに嘉
永元年(1848)9月には借財の200年賦返済が提案され、木谷家ではそれに強く反発している81)。こ
の200年賦返済は、実施されたかどうか確認できないが、多分、翌2年から5ケ年の返済延引で決着
したようである。
藩財政の窮乏の中で、何度も仕法替えが行われ、返済が棚上げされているのであるが、それにも関
わらず調達が続けられていて、幕末、欧米列強の開国要求が現実化し、政局が流動化すると、木谷家
へしばしば巨額の調達が要請され、また、返済延引が求められている。嘉永4年6月には、藩札の元
方が不手繰りであるとして調達が要請され、同6年までの年割りで1万5000両が上納されている82)。
同6年には、これまでの約定では同2年から5ケ年間、御趣法中は差引を延引し翌年からは年限済み
になるはずであであったが、夏に相州浦賀に異国船が渡来し、その警固のために大身・小身・足軽・
荒子にいたるまで急出府を命じられ、また、同じ夏に城下での出火により大手門・九十九橋なども焼
失したとして、翌年より利足金の10ケ年支払い猶予が要請されている83)。ところが、翌7(安政元)
年には春に異国船再来し、また、6月に昨年に引き続いての城下の大火により、勝手向き趣法が総崩
れになったとして、同年より7ケ年間、元利共返済猶予が依頼されている 84)。さらに、安政2年
(1855)11月には江戸での大地震により上屋敷などが罹災したとして3000両の調達が依頼され85)、同
4年6月にも御住居様(松栄院)の凶事につき調達が依頼され86)、3000両の上納では不足であると申
し入れがなされている87)。
特に藩主松平慶永(春嶽)が幕末の政情の中で活発に活動すると、調達依頼は相次いだ。安政5年
7月に慶永は、大老井伊直弼が日米修好通商条約の調印を強行したことに抗議したことによって隠
居・急度慎みを命じられ、同時に福井藩には神奈川・横浜辺の警衛を命じられた。この際、木谷家に
対しては、代替えなどのために臨時に費用が必要であり、また、横浜・神奈川の警衛御用のため、莫
大な出費になるとして月割りの調達依頼が行われ88)、翌6年正月には横浜警衛や、同所に交易湊を開
くために陣屋を建てる必要などから、嶋崎家と合わせて1万両の調達が依頼されている89)。このよう
な相次ぐ調達のため、福井藩では備蓄用の金銀も放出したようで、文久元年(1861)3月には古二朱
金を入れ替えることによって5000両を調達し90)、さらに家伝の印子・銀判を差し入れて1000両を調達
している91)。「累世記録」によれば、この時の印子・銀判は、木谷家が印子2個、銀判13個、嶋崎家
が印子3個、銀判12個を取り分け、両家合わせて1000両を上納している92)。
その後、文久2年4月に慶永が謹慎を許され、幕府の政事総裁職に就任して活動を再開すると、5
月22日に元御奉行で、当時、寺社町奉行であった長谷部甚平から木谷藤右衛門宛に直接、6000両の調
達が依頼されている93)。このなかで長谷部甚平は、最初に「御隠居中将殿御事、先年来之御慎之廉皆
悉御赦免之上、追々格別之御懇命被仰出、一家中之大慶、面目無此上、誠以難有仕合」と述べて慶永
44
木谷藤右衛門家と福井藩関係文書
の赦免と活動が再開されることを喜び、次に「江戸表急々無拠不時之雑費指添、此節追々之増運送金
申来、殊之外混雑」と書き、不時入用が増大してその手当ての必要なことを訴え、5月から6月まで
の間に調達を承知してくれるよう要請している。そして、慶永が赦免されたことにより、家老はじめ
重役たちが次々と出府するなかで、長谷部自身も翌23日に急出府を命じられていることにも触れ、緊
急に必要なものであることを訴えている。しかし、これに対しては、5月29日付で木谷家から「当地
金支之義有之、甚手元不融通至極」と調達を断ってきた94)ため、6月3日付で勝手役連名で再度、調
達の依頼がなされ、6月中か7月中旬になっても融通してくれるよう訴えている95)。この結果、半高
の3000両が調達されたようである96)が、さらに同10月には、翌年春に将軍の上洛に供奉して慶永が上
洛し、当主茂昭もその前に上洛して慶永を待ち受けることになったため、1万両の調達が依頼されて
いる97)。これも長谷部甚平が依頼状を書いていて、その意義を「天下御大切之御奉公、何卒天晴御無
(比)
難ニ御勤被遊候様、兼而之御家柄、天下之御為筋、是非々々非類之御助勢御頼入度」と訴えている。
これに対して、木谷家は7000両の調達を引き受けると回答したが、12月になって勝手役から、俄に正
月上旬に上洛することになったとして、正月出金の3500両を年内に、2月中出金分を正月に繰り上げ
て出金してくれるよう依頼している98)。慶永は翌3年2月に江戸より海路入京、翌3月に政事総裁職
辞職を願い出て帰国するのであるが、同6月には京都の模様によっては慶永・茂昭が多数の人数を召
し連れ上洛する模様であるとして、1万両の調達が依頼されている99)。この福井藩による挙藩上洛は
中止されるが、元治元年(1864)4月には9000両が上納されていることが確認できる100)から、幕末に
おける慶永の政治活動資金の一部は木谷家によって支えられていた様子が具体的に判明するのであ
る。
明治2年(1869)における木谷家の調達残高は6万1913両2歩と永5匁9厘3毛、嶋崎家のそれは
3万9071両1歩3朱と永2匁3厘7毛とされている101)。また、「累世記録」によれば、同4年におけ
る調達残高は7万7752両3朱と20匁1分3厘とあり、一方、加賀藩に対しては、3万2680貫文とされ
ている102)。これらの調達残高の根拠は改めて検討しなければならないが、調達残高からみても、残さ
れている文書の点数の多さからみても、木谷家にとっては諸藩との関わりでは、加賀藩より福井藩の
方が比重が高かったと考えられる。
以上が木谷家と福井藩の関係の概要であるが、木谷藤右衛門家文書をみると、木谷家に対する調達
依頼は、勝手役が実務を担当していて、御奉行は幕末の長谷部甚平などを除けば、儀礼的な挨拶状が
多いことが分かる。また、商人として多田金五右衛門・藤屋欽左衛門・天井次郎右衛門などの名が確
認でき、かれらが福井藩と木谷家の仲介をしていたことが判明する。また、府中本多家に対しても貸
付が行われており、勝手役の藩士などへも資金融通が行われている。実務的な書状・差引書のほかに、
年始・年末の挨拶や暑中・寒中の見舞、されらに伴う贈答品の送り状があり、大名家と豪商の交際の
様子が窺える。年紀未詳の文書も多く、検討すべき課題も多いが、木谷藤右衛門家文書は福井藩財政
を考察する上で、多くの情報を提供してくれるであろう。
おわりに
木谷藤右衛門家文書は、これまで全体像が明らかにされていなかったこともあり、その研究はわず
45
福井県文書館研究紀要4 2007.
3
かしか行われていない。加賀藩との関係も天明6年の入牢・家財闕所事件を除いては進んでおらず、
諸藩との関係も清水隆久氏が富山藩について触れている以外は、最も点数が多い福井藩を含めて、そ
の研究はほとんど行われていない。また、その商業活動についても「累世記録」に記載されている持
ち船数が紹介される以外、具体的な商取引の状況についても明らかにされていない。
本稿においては木谷家と福井藩との関係について、同文書の目録を作成した際に一読した知識をも
とに、同文書の紹介を兼ねて素描を試みたが、福井藩史について乏しい知識しかないため、年代比定
などについて誤りも多いと思われる。今後、木谷藤右衛門家文書の研究が進められ、そのような誤り
の訂正とともに、福井藩側の史料と合わせて、その活動の全体像を明らかにする研究が期待される。
注
1)『木谷藤右衛門家文書目録』
(内灘町教育委員会、2006)
2)上多扇園『木谷家文書目録』
(石川県図書館協会、1961)
3)この所蔵状況の概略については、
『金沢市史』資料編8近世六(金沢市、1997)の史料所蔵者別解題を参照のこと。
4)清水隆久『加賀百万石の豪商木谷藤右衛門』
(私家版、1969)
5)同『木谷吉次郎翁―その生涯と史的背景―』
(故木谷吉次郎翁顕彰会、1970)
6)同「加賀の海商、木谷家一門の系譜について」
(『日本海事史の諸問題・海運編』文献出版、1995)
7)同「木谷藤右衛門家と富山藩―軽尻馬のサービス―」
(『石川郷土史学会々誌』2、1969)
8)同「木谷藤右衛門家の富山藩融資について」
(『富山史壇』50・51合併、1971)
9)同「木谷藤右衛門家の難船史料について―安永四年の浦証文―」
(『石川郷土史学会々誌』5、1972)
10)同「加賀藩における天明事件と豪商木屋藤右衛門家」(『豊田武博士古稀記念日本近世の政治と社会』吉川弘文館、
1980)
11)角島一治『わがまち粟崎』(私家版、1989)
12)同『河北潟・大野川―その変遷と風物―』(私家版、1991)
13)同『北長家騒記の研究』(私家版、1996)
14)北村魚泡洞『石川県銀行誌』(北国出版社、1980)
15)北西弘『木谷藤右衛門家文書』(石川県内灘町、1999)
16)同監修『北前船資料展―近世諸大名と豪商たち―』
(内灘町歴史民俗資料館、1992)
17)拙稿「近世前・中期における木谷藤右衛門家の活動について」
(『市史かなざわ』4、1998)
18)同「木谷藤右衛門家における勘太郎の家督相続について」
(『石川郷土史学会々誌』37、2004)
19)『金沢市史』通史編2近世(金沢市、2005)557∼566頁
20)『福井藩と豪商』(福井市立郷土歴史博物館、2006)
21)前掲『木谷家文書目録』
22)この上多氏の整理の状況については、角島一治氏から内灘町に同文書が寄贈されたのちに、2000年に寄贈された
ままの状態で写真帳が作成されていて復元できる(写真帳66冊は内灘町立図書館で公開されている)
。また、北西
弘編『木谷藤右衛門家文書』は、この分類の順で配列されていて、その様子が窺える。
23)前掲『金沢市史』資料編8近世六(以下、『金沢市史』と略記)435∼437頁
24)『金沢市史』31∼35頁
25)中山家文書「粟崎村藤右衛門義上方より鉄荷物粟崎へ着け金沢江遣候義ニ付宮腰馬持共訴訟一件」金沢市立玉川
図書館マイクロフィルム
26)新潟県佐渡市土屋三十郎家文書「諸廻船入津留帳」
、佐藤利夫「佐渡商人の旅日記と加賀船」
(
『金沢市史』会報2)
。
27)『金沢市史』411頁
28)『兵庫県史』史料編近世4(兵庫県、1995)531頁
29)前掲「諸廻船入津留帳」
30)拙稿「寛文・宝永間、加賀藩廻米高と地船・上方船別破損高について」
(『石川郷土史学会々誌』31、1998)
31)高瀬保『加賀藩海運史の研究』(雄山閣、1979)126頁
46
木谷藤右衛門家と福井藩関係文書
32)前掲『木谷藤右衛門家文書』266・267頁、
『金沢市史』411・412頁
33)『金沢市史』417頁
34)大阪府堺市畠清次氏所蔵「諸国客船往来扣帳」
35)『金沢市史』423∼425頁
36)前掲『木谷藤右衛門家文書』269・270頁、『金沢市史』420・421頁
37)『金沢市史』419頁
38)『金沢市史』433頁
39)拙稿「天明の御改法について」(『石川郷土史学会々誌』30、1997)
40)『金沢市史』442∼446頁
41)『金沢市史』449頁
42)『金沢市史』457頁
43)『金沢市史』394・395頁
44)『金沢市史』400・401頁
45)金沢市立玉川図書館加越能文庫「郡方旧記」
46)前掲「木谷藤右衛門家における勘太郎の家督相続について」および『木谷藤右衛門家文書目録』に所収。
47)『金沢市史』426・427頁
48)『金沢市史』472頁
49)『木谷藤右衛門家文書』685頁、『金沢市史』473頁
50)『金沢市史』402頁、474頁
51)『加賀藩史料』13編683頁
52)『木谷藤右衛門家文書』739・791頁
53)『金沢市史』678∼681頁
54)若林喜三郎編『年々留―銭屋五兵衛日記―』(法政大学出版局、1984)207・208頁
55)『金沢市史』497∼500頁
56)『木谷藤右衛門家文書』792頁
57)富山県立図書館伊東文書「伊東御用留」
58)『金沢市史』501頁
59)『金沢市史』477・478、662・663、666・667頁
60)『金沢市史』500・501頁
61)「野尻家記録」(美濃屋文書(福井県文書館所蔵複製資料)
、『福井市史』では「野尻氏家譜別録」とする)
62)『福井市史』資料編8近世六(福井市、2004)912頁
63)前掲『福井市史』資料編8近世六914頁
64)福井県立図書館寄託松平文庫(以下、松平文庫と略記)「諸役人并町在御扶持人姓名」11、『金沢市史』426頁。福
井藩からの知行高については、天保11年の9代の代替えに際し「諸役人并町在御扶持人姓名」では300石とされて
いるが(『市史』426頁)、木谷藤右衛門家文書では350石(目録番号244、『木谷藤右衛門家文書』766頁)とあるか
ら、遅くとも8代藤右衛門の時に50石の加増があったと考えなければならない。その後、嘉永6年の10代の代替
えに際しては知行高350石と10人扶持が安堵されているから(目録番号373、『木谷藤右衛門家文書』687頁)、9代
藤右衛門の時に10人扶持が加えられたことになる。明治3年閏10月の拝領米高の書上によれば、木谷藤十郎(10
代藤右衛門)は知行高合計350石と10人扶持相当の米を受け取っている(目録番号549、『木谷藤右衛門家文書』
240頁)。
65)松平文庫「領地会計紙幣等ノ部」70
66)木谷藤右衛門家文書目録番号四福井藩調達関係(以下、目録番号と略記)3、前掲『木谷藤右衛門家文書』276頁
67)目録番号15、前掲『北前船資料展』19頁
68)目録番号16、
『木谷藤右衛門家文書』277・278頁
69)目録番号17、
『木谷藤右衛門家文書』278頁
70)松平文庫「会計之部」のうち「江戸御国大坂当時御取扱在之御借金」
、『市史』471・472頁
71)松平文庫「御借財御返済方心積大概」のうち「御借財元寄帳」。この古米800俵の分については「寛政年中迄調達
金三万八千弐両之方」とも記載されている(目録番号607、前掲『木谷藤右衛門家文書』459・460頁)。
47
福井県文書館研究紀要4 2007.
3
72)目録番号115
73)目録番号117
74)目録番号145、
『木谷藤右衛門家文書』554頁
75)目録番号151
76)松平文庫「会計之部」のうち「天保四巳年壱ケ年御本払指引凡積」
、『金沢市史』477頁
77)目録番号237、
『木谷藤右衛門家文書』619・620頁
78)目録番号241、
『木谷藤右衛門家文書』558・559頁
79)『金沢市史』477頁
80)『福井県史』通史編4近世二(福井県、1996)84・85頁
81)目録番号305、『木谷藤右衛門家文書』198・199頁。福井藩では文政7(申)年12月に借財を200年賦としたことが
知られているが(『福井市史』資料編5近世三、365∼369頁)、申9月付のこの文書を嘉永元年とした理由は、文
中に貞幹が病中とあり、隠居孫六が貞幹を名乗るのは天保15年5月以降のこと(『市史』427頁)、また、宛先であ
る野坂清兵衛は嘉永元年8月28日に粟崎に出張し交渉に当たっていること(目録番号300など)による。
82)目録番号335
83)目録番号387、
『木谷藤右衛門家文書』482・483頁
84)目録番号397
85)目録番号411、
『木谷藤右衛門家文書』547頁
86)目録番号427
87)目録銀号433、『木谷藤右衛門家文書』176頁
88)目録番号445
89)目録番号461
90)目録番号482
91)目録番号483、
『木谷藤右衛門家文書』761頁
92)『金沢市史』406頁
93)目録番号495
94)目録番号497
95)目録番号499
96)目録番号512
97)目録番号502
98)目録番号四福井藩関係・勝手役412。『木谷藤右衛門家文書目録』では、年未詳として勝手役の項に分類されてい
るが、前掲『福井藩と豪商』では文久2年と年代比定がなされている。
99)目録番号513
100)目録番号518
101)松平文庫「会計之部」のうち「司計局要書」、『金沢市史』503・504頁
102)『金沢市史』407頁
48
若狭浦方の手習資料
資料紹介
若狭浦方の手習資料
―桜井市兵衛家の資料群から―
柳沢芙美子*
はじめに
1.枝浦の生業−製塩・油桐
2.手習の手本と学習内容
3.蔵書の来歴と俳諧・留書
はじめに
福井県文書館では、このほど若狭町世久見の桜井市兵衛家(資料群番号N0055)から1,076点1)の資
料群の寄贈を受けた。桜井家については、福井県史編さんの際に「若州三方郡之内世久見浦御検地帳
(世久見浦検地帳写)」(資料番号00001)1点を調査・撮影し、三方郡内の太閤検地帳のなかで浦方の
ものとしてはほとんど唯一のものとして『福井県史』資料編8(1989年)に収載されている。
寄贈された資料群のなかでもっとも豊富に残されているのは、俳諧句集を含む蔵書類や留書などの
文化的な資料である。300冊をこえる蔵書には江戸初期からのものが含まれ、刷りが鮮明で状態の良
しきみ
好なものが多い。また18世紀中頃に食見から京都の点者へ送った句集を含む俳諧(雑俳)句集約70冊
に加え、同じ頃を中心に残された聞書・留書(ほとんどが一紙)約70点、さらに折り跡があったり、
学習者が明記されたりしている寛政期以降の手習の手本約20点などがある。
当館の調査・収集の方針として、文書資料を中心とする資料群であれば、蔵書類も一連のものとし
て扱い、あわせて保存・整理してきている。蔵書類は資料群のなかで管理することで、その来歴や購
入者・使用者、使用のあり様が明らかになってくる場合が少なくない。
手習に用いられた教科書である、いわゆる「往来物」においては、これまでに7,000種類におよぶ
膨大な書物が収集され、分類と研究が蓄積されてきた2)。しかしながら、
『福井県史』の調査の多くは、
出版物としての往来物やその写本としての手習手本までおよんでおらず、『福井県教育史』において
もほとんど紙幅が割かれていない。これに対して、長野県・山形県・岩手県などの比較的密度の濃い
調査に依拠し、地域独自の往来物の編纂と出版の動向を検討する研究が進められている3)。
ここでは、こうした往来物研究の成果によりながら、手習の場で用いられる際に手本に盛り込まれ
た地域的な情報や、使用された年代、手本からわかる個々の学習者の学習内容とその課程に着目して、
桜井家の手習資料の概要を紹介していきたい。
*福井県文書館主任
49
福井県文書館研究紀要4 2007.
3
1.枝浦の生業−製塩・油桐
まず桜井家の位置する食見について概観しておこう。食見は、若狭湾に臨む常神半島の西側に位置
し、小浜藩領の世久見浦の枝村であった。本村の世久見浦は、石高が「正保郷帳」で田方56石・畑方
24石であわせて80石余、「天保郷帳」で100石余であり、漁業とともに油桐(ころび)の栽培や製塩を
行っていた。時代は下るが、1914年(大正3)で70戸(農業30、漁業36、漁業その他兼業3、その他
1)、453人(男242、女211)であった4)。
食見の人々は漁業権をもたず、江戸時代初頭から製塩業に従事していた。塩焼きに必要な木材をえ
るため、本村の世久見浦に山手米(銀)を納めて入山してきたが、それらの伐採や山境をめぐって寛
永期以降、本村との間でたびたび争論が起こっていた(松宮太郎太夫家文書N0058-00003-002)。
1806年(文化3)には、庄屋を別にたてることが認められ、「食見浦庄屋市兵衛」の名で借用証文
(00048)が残されている。さらに09年から11年にかけて、食見として村惣船を拵えたいとする願書や
油桐に関連した「油納屋」修繕のための願書が同じく「食見浦庄屋」の名であいついで出されている
(00049∼00054)。12年には、種々の不都合から年貢の通分け、すなわち分村を藩の郡方・郷方役所へ
願い出たが、庄屋の二人制は認められたものの完全な独立は結局許されなかった。こうした争論に関
する願書やその裁許状は、食見が枝村であったこともあり、大半が写しとして残されている。『福井
県史』通史編3・45)や世久見の松宮太郎太夫家(N0058)や渡辺市左衛門家(N0062)の資料群をあ
わせて参照いただきたい。
なお、桜井家の資料群には1683年(天和3)から85年(貞享2)の宗門改帳(「吉利支丹帳」)3点
が含まれている(00004・00145・00146)。その家数や檀那寺からいずれも食見のものと考えられ、こ
れによれば食見は家数24∼25軒、人数は151∼154人であり、すべて浄土真宗立徳寺の檀家であった。
7人から12人については、奉公先・出稼先が記されており、敦賀1名を除いていずれも小浜であった。
市兵衛は、1665年(寛文5)6月の「わり申山之覚」(00205)によれば、この頃には11人ほどの食
見塩師の筆頭にあり、食見全体の山手銀年間100匁のうち13匁9分を負担していた。請取状や覚から
「紙屋」6)の屋号で油桐畑も所持して油桐の販売にもかかわっていたことがわかる。
また、1717年(享保2)から63年(宝暦13)にかけて若狭馬借の元締めであった小浜町の窪田手間
助から「食見村庄屋」あての馬喰銭米の請取状26点(00074∼00099)がある。いずれも年間1斗1升
6合を2年づつまとめて納入されていた。窪田手間助は、小浜の町人であり、藩から馬借の支配と登
り荷に課せられた運送税である沓代の徴収を任され、見返りとして馬借から馬喰銭の徴収が認められ
ていた7)。この請取状からこのころ市兵衛を含む食見の人々が荷物の運送にもかかわっていたことが
わかる(窪田手間助の請取状はほかに1808年(文化5)単年のものが1点ある)。
明治期以降では、桜井兼吉(1863年生まれ)が明治20年代なかばから大正期はじめまで食見区長を
勤めており、また第4回内国勧業博覧会(95年)や第2回水産博覧会(97年)に関係した書類や褒状
から、明治30年代に入るまで製塩業にも熱心に取り組んでいた。
このように製塩や油桐など家業の概要がある程度わかるものの、まとまった帳簿類は残されていな
いため、残念ながら経営状態を一定の期間まとめて知りうる資料は少ない。
50
若狭浦方の手習資料
2.手習の手本と学習内容
手習のために用いられた往来物は、多くの場合師匠が書き写
した「手本」として1枚ずつ与えられ、それらは、ある節目で
一冊にまとめられることもあった。こうした「手本」は、使用
された時代や地域、学習者の家業などがわかる場合には、当時
必要とされあるいは期待された識字能力や学習内容を知りうる
点で興味深い。
桜井家の手習手本20冊(表)のうち17冊は、1795年(寛政7)
から1874年(明治7)までの約80年間にわたり、すくなくとも
7人の学習者によってそれぞれ使用されたことがわかるもので
ある。その多くが当初4行あるいは6行に書かれたものを折っ
て手本として使用し、その後1冊にまとめたものであり、表紙
や用紙の端に書かれた名前からおもな学習者がわかる。内容に
写真1 00720『商売往来』
(表紙)
立ち入る前に、既存の資料からわかる世久見・食見の手習をめぐる状況を確認しておこう。
小浜城下については、『拾椎雑話』8)(1764年)に掲載された家職調から17世紀半ばの手習塾の存在が
わかる9)。1640年(寛永17)の小浜の家職調(寺社を加えた町人数10,350人、家職調総数2,214人)で
「手習子取」2人があげられ、83年(天和3)の家職調では(町人数1,0491人、家職調総数1,760人)
「手習子取」は5人となっている。ここでの「手習子取」は、調査の性格からほぼ専業的に手習を教
えた者とみていいだろう。これが『日本教育史資料』による1870年(明治3)から72年にかけての調
査では、城下の私塾は9か所、生徒総数788人(男558人、女230人)、寺子屋は7か所、生徒総数179
人(男129人、女50人)に増加していた10)。
これに対して世久見・食見については、手習師匠の存在を知りうる資料がほとんどみあたらない。
『日本教育史資料』には三方郡の記述11)はなく、近隣では田烏に僧侶・医師を師匠とした寺子屋1か
所(1871年調査)があったが、桜井家の家人への聞き取りでは海岸部に逼る山が険しく、食見から田
烏まで子どもが通うことはかなり難しいとのことであった。一方、同『資料』には内外海半島の泊・
堅海・仏谷浦にも小規模ではあるが、僧侶を師匠とする寺子屋4か所(1870年調査)が報告されてお
り、あるいは職業的な師匠ではないものの食見か世久見に手習を教える人物がいたと考えてもいいか
もしれない。聞き取りでは、兼吉氏の子息政吉氏の話として、食見の立徳寺の住職真渓氏が手習を教
えていたとのことであった。これは時期的に幕末から明治初年の事柄と考えられ、学制時の1874年
(明治7)に寺院を借用して食見に開校した典知小学校12)か、あるいはその前身にあたる手習塾の存
在が推測される。
さて、表にもどってみると(1)00720∼00724(政吉)、(2)00725(善吉)、(3)00726∼00727(仙
太郎)、(4)00728∼00730(市之助)、(5)00731(常蔵)、(6)00736・00732(定吉)、(7)00733∼
00735(兼吉)は、それぞれ同一人物が学習したと思われるものである。
(1)00720∼00724の政吉の手本は5冊で、約5年間の長期にわたる。「いろは」や数字などのもっ
とも初期の段階が残されていないことを考えると、実際の就学期間はもう少し長かったと考えられる。
51
福井県文書館研究紀要4 2007.
3
表 桜井家の手習御手本
文書番号
00720
コマ数
35
年 月 日
表 題
1795年(寛政7)
.12
備 考
商売往来
桜井政吉、6折
00721
7
98年(
10).仲春上旬
証文御手本(後欠)
紙屋政吉、6折
(1) 00722
18
98年(
10).2.16
御手本
桜井政吉、6折
00724
16
1800年(
12).2.5
教訓書手本
桜井政吉
00723
10
00年(
12).11.
邑名手本
紙屋政吉、6折
00738
17
10年(文化7)
.
(御手本)
(2) 00725
30
12年(文化9)
.12.14
商売往来
善吉、6折
00726
18
25年(文政8).春
商売往来
仙太郎
00727
23
27年(
10).3.
御手本
桜井仙太郎
00729
34
29年(文政12)
.9.
御手本
大鳥(鼠屋)市之助、4折から6折
(4) 00728
38
30年(
13).2.
御手本
桜井市兵衛・市之助、6折
00730
34
32年(天保3).1.
御手本
桜井市之助、一部4、6折、8折
(5) 00731
35
45年(弘化2)
.1.
商売往来
桜井常蔵
00736
31
53年(嘉永6)
世話千字文
桜井定吉
00732
34
54年(
消息千字文
桜井定吉
桜井市之助・市兵衛の名もあり
(3)
(6)
7)
00735
9
74年(明治7).2.
文章手本
桜井兼吉
(7) 00734
15
74年(
7)
.4.
御手本
桜井兼吉
00733
20
74年(
7)
.
御手本
紙屋兼吉
00737
21
(未詳)
商売往来
6折
00739
33
(未詳)
(御手本)
00721は「反り手形事」「質入銀子借用手形」「田地本物買手形之事」「預り申銀子之事」の一般的な
証文類の文例であるが、00722の「御手本」(写真2)には、和漢朗詠集の漢詩・和歌の一節や時候の
あいさつ文とともに、次のような地域的な題材が複数取り上げられている。
a. 小川浦大網に鯨掛り生捕候由ニ而、御城下表
見物ニ群り候事、如何様珎敷事ニ御座候
b. 先達而遣し申候塩代、爰元払方之間ニ合候様御工面被成被越可被下頼上候
c. 政吉、祇園会見物ニ御出浜被遊候ハヽ下拙も御供仕度奉存候間、為御知奉希候、恐々
最初のaの小川浦は近隣の浦であり、鯨が生捕りにされた際に小浜城下からも見物人が集まって賑
わったことを題材にしている。b
は製塩業、cは小浜の祇園会を取
り上げたものである。身近な出来
事や行事をもり込んだ独自の教材
となっている。こうした日用文の
後、00723で「佐田村、大田村、
山上、坂尻、佐柿」に始まる三方
郡の村名、遠敷郡の村名を学んで
いた。
なお、00720∼00722の用紙の右
端や左端には、前回までに終了し
た部分の文言、学習者の名前が記
写真2 00722「御手本」
52
若狭浦方の手習資料
入されており、00722には学習者の手と思われる字で俳句が落書きがみられた。
山寺の日ぐらしきいて門しめるかな
(3)00726の『商売往来』は、商品名の途中で終わっており、後半の商人生活の心得の部分は入っ
ていない。00727は「預り申銀子之事」「反り手形事」「売渡申家屋敷事」などの証文類の例文である。
(4)市之助の手本は3冊であるが、詳細にみるとその就学期間は約7年間ともっとも長期にわた
っていた。00729は、20冊の手本のなかで唯一「いろは」から残されているものである。「いろは」の
次に数字と「千万億斗升合勺才」を習った後で「市之介、いろはあかり、うれしく存知候、以上」と
喜びの言葉が書かれており微笑ましい。続いて「名頭之事」「四季」「方角」「十二支」「親戚字尽」
「相場之事」などを習っていた。
1枚毎に用紙の右端か左端に、前回までに終了した部分、学習者の名前が記入されており、日付が
入れられているものもある。これらは師匠によって書かれた場合と学習者自らが書いた場合とがあっ
た。その日付をみると、文政12年9月の表紙のこの手本は、文政10年11月1日から開始されていた。
このことから入門の最も初期の段階ではこの1冊の手本がおわるまでに1年11か月の期間がかかって
いた。また、この手本の裏表紙には「多胡門人 大鳥市之助」とあり、わずかに師匠についてわかる
情報である。「多胡」は師匠の姓かもしれない。
00728は、「組屋、桑村、窪田、長井」などの小浜の商家・職業名(「屋号之事」)から始まり、続い
て大飯郡・遠敷郡・下中郡・上中郡・三方郡の村名が列記された村尽である。「屋号之事」や村尽の
内容、市之助が別性(大鳥、鼠屋)を名乗っていたことから、市之助は、幼少時には小浜城下やその
近隣に居住し、その地域の手習塾で学んだ場合もあるかもしれない。
00730は、「新春之御慶不可有休期候」で始まる20点ほどの時候の挨拶状、カタカナ、和漢朗詠集や
論語などの一節である。表紙は1832年(天保3)1月から始まっているが、中には漢詩で書初めに用
いられたと思われる手本に日付が記されており、最後に綴じられている蘇軾の漢詩の一節「春宵一刻
価千金」は35年正月の日付となっている。このことから、市之助の就学期間は約7年13)にわたってい
たことになる。一部に以下のような廻船関係の挨拶文を含んでいるが、金銀請取覚1点以外に商用の
文例はない。
明後日讃州へ御下之由、海路御苦労奉存候、打続天気克候へは船中無故障御着岸可被成候、早々御左右待入候、
恐々謹言
(6)00732・00736の定吉の手本には2冊とも折り跡はなく、00736の裏表紙の裏には「桜井氏之応
需、耳時嘉永六癸丑年季冬書之」とある。
(7)00733∼00735の兼吉の手本3冊は、いずれも1874年(明治7)年のもので、00733・00734は楷
書で書かれた方角、形、色、「天文」などから「地理」「居処」「人倫」などにかかわる単語集である。
00735は、時候の挨拶文3点である。同じ74年9月付けで三方湖西岸田井村の温知小学校の下等小学
第8級の卒業証書(00557)が残されており、これらは学制下この小学校で学んだものと思われる。
このようにみてくると、大枠としては、石川謙が『岩手県教育史資料』をもとに明らかにした「い
ろは」、数字、名頭・名尽(漢字・単語)、日用文章、地理関係・産業関係の教材と進んでいく一般的
な学習課程に沿う内容となっている14)。ただ石川においては『商業往来』のような産業関係は、地理
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福井県文書館研究紀要4 2007.
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関係の教材と並ぶ比較的後の段階のものになっているのに対し、桜井家の場合(1)や(3)のように
日用文章より前で取り上げられている。
これらの手本は、独自にその地域の往来物を編纂するまでにはいたっていない15)が、上述したよう
に鯨が生捕りにされたという身近な出来事や生業に即した例文、村尽が盛り込まれた独自な内容とな
っている。それとともに少なくとも18世紀末から19世紀半ばまでこの海浜の地域で『商売往来』が共
通の教材として取り上げられていた意味を考えてみる必要があるだろう。海辺の村ではあるが、漁業
権を持たない食見では早くから塩や油桐を生産し、それらの売買にかかわっており、桜井家はその庄
屋層に位置した。研究の蓄積が少なく一般化することは難しいが、そうした複合的な生業のあり方、
食見の地域性から「もっとも早く(近世前期)から発生し、多種にわたり多様なかたちで編纂され、
しかもひろく普及した」16)とされる『商売往来』が選択された17)とみることができよう。
なお、算術関係の学習の記録はみあたらず、『算法指南車』(新編塵劫記首書増補改、1764年、1795
年再版)が1点所蔵されている。
3.蔵書の来歴と俳諧・留書
桜井家の300冊をこえる蔵書群のうち、一部に来歴がわかるものがあり、それら受入時期とほぼ同
時期に俳諧(雑俳)の句集が多数残されている。時期的には、上述の手本が始まる寛政期からさらに
数十年ほど遡るが、手習をめぐる地域的・文化的な背景を考えるうえで参考になると思われるので簡
略に紹介したい。
現在にも残る『字府』などの辞書類、『古文後集』『蒙求首書』18)などの漢学書、『御伝絵解』『歎異
抄私記』などの浄土真宗の宗教書は、1747年(延享4)に摂津の僧の借財を肩代わりして引き受けた
ものである(00341・00343・00345・000347・000349)。しかし、桜井家ではそれ以前の24年(享保9)頃
から『新智恵海』(上銀三匁)、『伊呂波韻』(壱匁壱分、01016)などを購入し、冊数や値段の控が残
されている(00340)。その後も1758年(宝暦8)頃まで簡単な控(00348)が残っており、
『伊勢物語』
(01076)、『俳諧重宝摺火うち』(00714)、『女用花鳥文章』(00923)、『太閤記』『万宝鄙事記』(00896
∼00899)などを購入している。
こうした蔵書の購入記録が残された時期と、俳諧(雑俳)の句集がまとまって残されている享保期
の中頃から明和期とはほぼ重なっており、「致常」(井軒)の号で若州食見から年頭に投句した句集
(00679∼00682)を残した人物がこれらの書物を購入したものと推測される。また年代は記されてい
ないが、「食見金鳥堂」「食見桜井」「食見江梅軒」の名称で「寸松堂林石」「一陽堂和汐」などの在京
の点者に取り次ぎ、添削してもらった句集は16点を数える。
そして、おそらく同じ人物によると考えられる聞書・留書が1737年(元文2)から1768年(明和5)
頃にかけて残されており、その関心は塩・米相場から京や伏見・大阪・松江城下の様子、法話、気象
や地震、歯痛や打撲などの民間療法など多岐に及んでいた。俳諧への関心を背景に次のような京の町
人の落首や、近隣末野村の寺をめぐる事件19)を題材にした狂歌を書き留めている。
「宝暦二壬申年五月
(酒井忠用)
(所司代)
酒井修理大夫京都諸司代ニ御成被成候、当国ノ殿様也、さぬきの頭
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若狭浦方の手習資料
京ノ町人落首 (松平資訓、豊後守)
よいさかい 京にこごとを いハさぬき ぶんごしぼりの 跡ハじやうだい
能登鯖や 若狭さハらの しほめよく 越前うにの味ハしらねど
(土屋正方、越前守)
能登越前ハ町奉行ノ名也 」
(00300)
「きりぎりす なくや末野の 草村に あハれ(いかに)はかなき 事の有らん
北の戸に 閉る悪事の 釘付ハ 千里もひゝく かな槌の音ト
さりともと おもふ法義も 虫の音も よハる末のゝ 秋のくれかな
宝暦三年癸酉年冬 」
(00303)
なお、新聞資料では『若州』の1917年(大正6)12月から19年8月まで28日分があり、いずれもこ
れまでに確認されていなかった新出のものである。
〔付記〕本 稿 の 作 成 に あ た り 、 先 行 研 究 に つ い て 八 鍬 友 広 氏 に 御 教 示 い た だ い た 。 ま た 往 来 物 デ ー タ ベ ー ス
(http://cgi2.bekkoame.ne.jp/cgi-bin/user/u109732/blocker/sgate.cgi)を参照した。
注
1)このうち959点を撮影し、目録は当館Webサイトの「目録データベース」の「古文書」から検索できる。否撮影資
料は義太夫や能、宗教関係などの古書類117点である。
2)梅村佳代『近世民衆の手習いと往来物』2002年。序章「近世民衆教育史研究の現状と文字学習文化」では研究史
が端的にまとめられている。
3)八鍬友広「地方往来物編纂動向に関する研究」[1][2]『新潟大学教育学部紀要』第39巻第1号∼第2号、往来
物に描かれた日本海域の地域認識を検討しようとする視点からは同「往来物のなかの日本海域」『日本海域歴史大
系』第5巻、2006年がある。
4)西田村役場編『三方郡西田村是』1914年。
5)『福井県史』通史編3第三章第四節四、通史編4第二章第四節四、第四章第三節四参照。
6)資料的にはほとんど裏づけられないが、聞き取りから紙漉きを行っていた時期もあったという。
7)『小浜市史』通史編上巻、850頁。『福井県史』通史編4、257∼258頁。
8)これは『小浜市史』通史編上巻、911∼912頁で記述されている家職調で、『拾椎雑話・若狭考』福井県郷土誌懇談
会、67∼75頁。
9)八鍬友広「地域としての『都市』と手習塾」(『地方教育史研究』第24号、2003年)では、「公的文書のなかに手習
師の存在を確認し得る最古の史料のひとつ」として1670年(寛文10)の奈良の家職調から「手習師二人 手習塾
一人 手習子取一人」があげられている。
10)前掲『小浜市史』912∼914頁。
11)『福井県教育百年史』では、各学校に調査した結果として、三方郡では久々子浦2か所、新庄1か所、三方町内で
1か所があげられている。ほかには白屋村で寺子屋があったことがわかる(
『福井県史』通史編4)
。
12)『日本帝国文部省年報』第2、1874年。
13)研究蓄積の多い上野国勢多郡原之郷村の手習塾九十九塾を分析した高橋敏は、3代伝次平の62人の筆子のうち
「最も多く学んだ」事例として、新宅(分家)の2男である船津伊八の事例を挙げ、終了時の14歳から推測して7
年間の就学期間をみている(同『近世村落生活文化史序説』1990年)。市之助の就学期間は、ほぼこれに匹敵する
長さであるが、学習課程の大枠は変わらないものの、伊八の方が「東海道往来」「五人組ケ条」「百姓往来」など
を含みより豊富である。梅村佳代の研究では、伊勢国多気郡馬之上村潮田寺寺子屋(1844∼60年)42人では、平
均3.79年、最長が8年であった。志摩国鳥羽町の栗原寺寺子屋(1854∼88年)167人では4年以下が8割、最長が
8年であった(梅村佳代『日本近世民衆教育史研究』1991年)を占めていた。
14)石川謙『寺子屋』 226∼233頁。
15)注3)の八鍬論文では、手本のうち「『いろは』『方角』『干支』『手紙短文』などごく基礎的な共通性の高い文字
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教材」は独自に編纂されたとはいいにくい、として対象外とし、「『御条目』や『村名』などといったその地域独
自の教材」が含まれている場合、「多数の教材を含んでおりきわめて総合的である場合には、それを師匠が独自に
編纂した教材」としている。この指標では00728は後者にあたり、00722も後者に含めていいかもしれない。
16)石川謙編『日本教科書大系 往来編』12巻 産業(一) 105頁。
17)注13)の赤城山麓に位置する原之郷村では、畑作と養蚕・製糸業を主としており、中・上級段階で取り上げられ
た教材は『百姓往来』6に対して『商売往来』43と『商売往来』が多かった(高橋前掲書)
。
18)『袖珍略韻』と『蒙求』について享保年間からの書物買置の控にもでてくるので、どちらで入手したものかははっ
きりしない。
19)1753年(宝永3)末野村宝重寺の僧が、「北戸集」という著作が不法であるとして西本願寺から改易の処分を受け
た(00223・00305・00320)
。
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福井藩家中絵図(山内秋郎家文書)を照合する
福井藩家中絵図
(山内秋郎家文書)
を照合する
吉田 健*
福井藩家中絵図1)については、すでに当館紀要第2・3号でその内容の一部を紹介したが、ここで
は同絵図中に掲載されている各家臣について、同時代の家臣名列2)、および屋敷居住の変遷を示した
資料3)と照合し、その結果を屋敷地に地番を設定して屋敷地番図(図2)と五十音別家中名列(表)
にまとめて示した。
安政年間作成の同絵図とその約50年前の城下図4)を比較し、両図間で家名に変化のない屋敷地を塗
りつぶしてみると、塗り残される屋敷地が意外に多いのに驚く(図1)。このように家臣の屋敷替え
がかなり頻繁に行われていることから、照合作業は予想以上に困難で、結局作業を完了することがで
きなかったことを先にお断りしておく。なお、地番の設定にあたっては、桁数が多くなることを避け、
福井藩家中絵図の区分に随い各区に①∼⑩の番号を付し(図1参照)、各区ごとに連番で示した。
図1 屋敷地区分図
*福井県文書館文書専門員
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図2 屋敷地番図
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福井藩家中絵図(山内秋郎家文書)を照合する
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福井県文書館研究紀要 第4号
平成19年3月30日 発行
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BULLETIN OF
FUKUI PREFECTURAL ARCHIVES
No.4
March 2007
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17
31
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49
57
07.03.11398