駐車場の彼女に恋をした - タテ書き小説ネット

駐車場の彼女に恋をした
栗栄太
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︻小説タイトル︼
駐車場の彼女に恋をした
︻Nコード︼
N7562CC
︻作者名︼
栗栄太
︻あらすじ︼
男子高校生が可愛い年上女性に恋をした。だけど彼女は!?教室
から見える駐車場に毎朝現れる彼女。見ていたってどうなるもので
もないと分かっているのに、淡い思いは日に日に募っていくばかり。
序盤は観察記録風で短いですが、教室を出たあたりから一話が長く
なります。真っ直ぐで優しい高校生に年上彼女がゆっくり落とされ
る爽やかな恋物語です︵不倫ものではありません︶。*本編完結し
ました。後日談は更新します。
1
おい涼。何見てんだよ﹂ 5月某日 プロローグの様に教室から
﹁
窓際の自分の机に頬杖をつき、冷たい朝の風が入ってくる窓から外
んー﹂ を見下ろしていた俺に、政木が尋ねた。
﹁
彼女が風にふかれる髪を片手で押さえた。膝丈のスカートがばたば
可愛い人がいるんだよなー﹂
たとはためく。
﹁
﹁
﹁
なんだよー。見たかったじゃんかよー﹂ もう車に乗った﹂ どれ﹂ 政木が俺の頭の上から外を覗き込んだ。
﹁
がっかりした声で文句を言う政木を無視し、ウインカーを点滅させ
車道に出て行く彼女の車を眺める。
政木、お前に見せるために彼女を見ている訳じゃないんだよ。
彼女を見つけたのは俺だ。
2
5月某日 プロローグの様に教室から︵後書き︶
今時の高校生事情がほとんど分からないので、可笑しなところがあ
るかも知れません。ちょっと前かあるいは日本似の異世界の高校生
なのだと、さらっと流して頂けると有難いです。
見出しは日記風ですが、日記ではないです。涼の心の声です。
3
4.22 彼女発見教室から
気付いたのは、新しい教室に慣れた頃だった。
朝の授業は眠い。まあ弁当の後の授業も眠いから、大体一日中眠い
んだけど。
3階窓際の自分の席から、いつものようにぼんやりと外を眺めてい
ると、隣の敷地の駐車場にゆっくりと入ってくる白の軽自動車が目
に入った。
ださいなあ。何であんなのに乗ってんのかなあ。何の気なしに目で
追っていると、白の軽は既に並んでいる他の車には倣わず、頭から
駐車スペースに突っ込んだ。
出る時面倒じゃないのかなあ。それともバックで駐車する方が面倒
なのかなあ。と、運転経験のない頭でぼんやりと考えていた。
運転席から黒い髪の女の人が出てきた。
裾を細く折ったデニムから足首を覗かせ、上は襟元が少しだけ広め
に開いた、ゆる過ぎないグレーのTシャツを身に着けていた。
肩につく位の黒髪を含めシンプルな色合いの服装対し、かかとの低
いパンプスは鮮やかな朱色だった。
可愛い格好してるな。好みの服装に目を引かれ、その姿を眺めてい
た。
その人が小さな白い車の周りを歩くと、滑らかに髪が揺れ、一層目
が離せなくなった。
好みの格好をした人の車だと思うと、馬鹿にしていた軽もましに見
えてくるから不思議だ。
彼女が車の向こう側に回り助手席のドアを開けた。
遠目だが、彼女のうつむき加減の顔が不細工ではないのが分かった。
4
しっかり顔が見えないかと知らず目を凝らしていると、彼女が助手
席から子供を抱き降ろした。
なんだよ・・・・。
目を引かれた彼女は、隣の幼稚園に通う園児の母親だった。
5
4.23 彼女観察教室から
彼女に気付く朝まで、俺の席から見えるその駐車場が幼稚園のもの
だということさえ知らなかった。
彼女を見つけた次の日の朝、初めて無意識にではなくその場所を見
ていると、数え切れない程の車が狭い駐車スペースに出たり入った
りを繰り返していた。
幼稚園ってバスで行くんじゃなかったっけ。
確かにその後、可愛らしい角の丸い黄色のバスも、沢山の園児を吐
き出した。
あの人の子供、今日はバスなのかな。
それなら彼女は来ないな。
そう思いながらも、白い軽を目で追ってしまう。
今まで軽自動車に関心を持つことなどなかったから彼女の車種は分
からなかったし、分かったところで他の車と見分けがつくとも思え
なかった。
けれど、何台目かの白の軽を目で追っていると、昨日のように駐車
スペースに頭から突っ込んだのがいた。
どん、とまるで胸を内側から殴られたかように心臓が打った。なん
だこれ、心臓ってこんな動き方して大丈夫なの。
運転席のドアを開けた女性は、髪は黒いが、一見すると昨日の彼女
なのかどうか判別がつかなかった。
髪は緩く編まれているようで、水色のトップスにベージュのスキニ
ーパンツ。
違うか?彼女じゃないかも。
いや、彼女かも。
昨日と同じように車の後ろを通って助手席に移動したその人は、や
6
はり彼女だった。
やった!見つけた!見つけたところで正にただ見ることしか出来な
いのだが、何故か動悸がめちゃくちゃ激しくなった。落ち着け俺。
そして、彼女が助手席から小さな手を引いて気付くのだ。
ああ、そうだった。
馬鹿みたいだ。
俺はどうしてこの人を見てるんだろう。
7
5.15 彼女観察について in教室
白の軽を探すのが日課になってしまった。
彼女の車が入ってくるのは大抵、9時前後。
そう気付いてからは、割合簡単に見つけられるようになった。
頭から突っ込む白い軽。ここまで絞れていると、そう難しいことで
はなかった。
しかし、教師に注意されたり友達に話しかけられたり、外を見てい
られない場合も勿論ある。
子供が園を休む日だって勿論あるだろう。
タイミングが悪いと、そんな感じで見つけられないこともあった。
そういう日は、とてもやる気の出ない一日が始まる。
同時に、子供の手を引く彼女を見なくてすんだと、安堵する気持ち
も心のどこかにあるのだ。
8
お前保育園だった?幼稚園だった?﹂ 5.20 頑張って考えて斎藤 in教室
﹁
政木に聞くと窓から見える可愛い人関係だとばれそうなので、噂話
などに無縁の斉藤に尋ねることにした。
こいつなら特に口止めなんてしなくても、他の奴に会話の内容が漏
はあ?﹂ れることもない。
﹁
流石の斉藤も怪訝な顔だ。
幼稚園だったけど﹂ 俺だっていきなり誰かにこんなこと聞かれたら、同じ反応を返す。
﹁
斉藤は怪訝な顔のまま答えた。しつこく追求してこないところもこ
ああそう。あの、幼稚園のバスに乗ってるのは何?なんでバス
いつの良いところだ。
﹁
の子とそうじゃないのがいんの?﹂ 親の希望じゃないの?うちの場合は車が1台しかなくて、それ
なんで彼女は園児が群れで帰って行く時間に見つからんの?
﹁
﹁
いや、そうとは限らないと思うけど。まあやっぱ親の都合じゃ
へえ。じゃあ車があるとこはバス乗んないんだ﹂ を父親が通勤に使ってたから俺がバスだったみたいだけど﹂ ﹁
都合って?﹂
ない?車だけじゃなくて色々﹂
﹁
斉藤が困った顔で俺を見た。俺も困ってる、頑張って考えて斉藤。
俺の気持ちが伝わったのか、斉藤が椅子にもたれ腕を組んで答えを
捻りだし始めた。 9
﹁
うーん。えーと、ああ、下の子が赤ちゃんで、送り迎えが大変
だからバスに乗せてるって人が近所にいるな。大体そんな感じなん
じゃないの?送り迎えが面倒だとか。後は、バス使いたいけど使え
ないってとこもあるかな。バスが家の近くまで来ないとか。うーん。
﹁
母親が仕事してたりするところは、バスが出る時間より遅くま
そうなのか?﹂
後はー、迎えの時間が遅いとことかもバス使えないし﹂
﹁
ふーん。そうなんだ﹂ で残ってるからね﹂
﹁
とすると、彼女が子供を迎えに来る姿を見つけられないのは、他の
﹁
いや、それは知らない。園によるんじゃないの?﹂ 行きは家の車で、帰りはバスとかも有りなの?﹂ 子供達が帰る時間とずれているからなのだろうか。
﹁
うーん。じゃあ、帰りはバスに乗せて迎えに来てない可能性も有り
か。
斉藤は最後まで怪訝な顔を崩さなかったが、何でそんなこと聞くの
さんきゅー斉藤。助かったよ﹂ かとは言わなかった。
﹁
俺は何をやってんだろう。
子持ち人妻の彼女を、わざわざ斉藤に不審がられてまで、更に見よ
うとしてんの?
見てどうすんの?
10
11
5.23 自問 in教室
最初はすごく好みのタイプだと思った。
実際毎日の様に見ていても、いつもそれなりに可愛い格好をしてい
るとは思う。
でも、正直好きな感じばかりという訳でもなかった。
服だけ見てタイプだって言うのも変だけど、まあ、顔も体型も好き
な感じではある。
でもそれも、遠目に見て、何となくそう思うだけ。
乗ってる車はダサいと思っていた白の軽だし、しかも頭から突っ込
むような人だし、他の母親たちが首に提げてる保護者用のものだと
思われるカードも忘れがち。
多少の雨じゃ傘を差さないで走ってるし、子供に荷物を持たせ忘れ
て車に取りに戻ったり、逆に要らなかった荷物を車の中に無造作に
投げ込んだり。
いつもより現れる時間が遅い日も多くて、滅茶苦茶慌てて子供を引
っ張ってるし。
きっといい加減できちんとしてない、俺の嫌いなタイプだ。
しかも極め付けには、子持ち人妻。
それなのに、どうして俺は毎日毎日彼女を探しているんだろう。
12
13
5.23 自問 in教室︵後書き︶
もうちょっと自分の中だけでの葛藤が続きますが、6月に入ると状
況変化します。
14
5.28 やばくないか俺 in教室
子供を迎えに来る彼女を見つけるのは難航した。
というか、未だ見つからず。
多くの園児を乗せたバスが出発して、母親たちが一斉に迎えに来る
時間が14時頃なのは判明していた。
その時間帯に彼女が現れないのもわかっていた。
園バスに乗り込む園児の群れの中に彼女の子供を見つけられたら気
もすむのだが、同じ帽子をかぶり、同じ制服を着た小さい集団から
顔も定かではないただ一人を見つけ出すなど到底無理な話だった。
何度か休み時間も潰してバスが出た後に出入りする車を確認したが、
やはり授業時間内には彼女の姿は現れないようだった。
幼稚園が閉まるまでここで駐車場を眺めていれば2,3日で見つけ
られる気がする。なんせもう授業中ではないのだから。
外を見たりノートをとったり外を見たりノートをとったり、問題を
解いたり外を見たりと、忙しいことをしなくてもいいのだ。
いや、でも、授業が終われば部活が始まる。
連日でなければ部活をサボるくらいなんともないのだが、しかし、
そこまでして彼女を探してどうするのか。
大丈夫か俺。やばくないか俺。
ストーカーじみてきた自覚があるので、何とか視線を駐車場からは
ずし、部室へ向かうため席を立った。
15
16
5.30 何故なんだ俺 in教室
今朝の彼女は、紺の短すぎない女性らしいショートパンツに袖の短
い白いブラウスを身に着けていた。
例年より梅雨入りが早く、教室もむしむしと暑く感じることが多く
なった。
彼女の服も、夏の装いに変わりつつあった。
ウェッジソールのサンダルを引っ掛けている、おそらく素足だろう
日焼けしていない白い脚に目が引き寄せられる。
朝日を映して眩しいほどに白く見える彼女の脚は、通学や体育で日
にさらす機会の多い女子高校生と違い、艶かしく大人の女を感じさ
せた。
上からだし距離があるので定かではないが、彼女と挨拶を交わす他
の母親たちと比較して、彼女は平均的な身長で少しだけ細めの体型
のようだ。
並んだら俺のどの辺なんだろう。相川くらいか、武田くらいか。
足の細さは武田と同じくらいだけど、上半身は武田より薄いかもな。
クラスの女子を眺めながら彼女のことを想像していた。
やばい、変態だ。
ストーカーの上に変態。変態ストーカー高校生。
お前また外見てたろ?﹂
本気でやばい。
﹁
休み時間になり政木が後ろから肩にのしかかってきた。
17
無言で振り払うと、さっさと机をまわり俺の席の前から外をのぞい
﹁
﹁
ええーなんでだよ。電停?バス停?あっちの女子大?あ、どっ
教えるわけないだろ﹂ そんなに可愛いのかよ?いつもどこにいんの?﹂
た。
﹁
かの会社か?﹂ 言われるまま外を眺めてみる。
確かに政木が挙げたものも全部見えるし、他にもコンビニ、でかい
マンション、小さいマンション、飲食店、そして幼稚園。
こっから見える場所だけでも毎日物凄い数の人が行ったり来たり立
ち止まったり働いてたりするんだろう。
しかも彼女のように、毎日大体同じ時間にこの場所に現れるという
さあね﹂ 人間も大勢いるだろうということに気付いた。
﹁
他のどれよりも、彼女の現れる駐車場がこの教室に近いわけだが、
やはり政木の目には入っていない。
何故なんだ俺。女子大生でよかったじゃん。コンビニのバイトのお
姉さんでも。 どうして俺の目は、子持ち人妻いい加減の彼女に釘付けなんだよ。
18
6.3 スルー in教室
その日は突然やってきた。
その日って言うのは、彼女に俺の存在が知られる日だ。
いつものように子供を送って来た彼女を見ていた。
今日は髪を下ろしてる。紺のとろんと滑らかそうな生地のマキシス
カートに白のTシャツ。好い感じだ。可愛い。
そんなことを思っていると、子供の手を引いて車から降ろそうとし
ていた彼女が、ふと顔を上げた。
今まで斜め上からしか見ることのなかった彼女の顔が、真正面に見
えている。
しかも、彼女を見ている俺とがっつり目が合った。。
心臓が飛び出そうにバクバクした。が、彼女はその視線をあっさり
俺からはずした。
無視された。
いや、無視というか気付かない振りをされたというかスルーされた
というか。
落ち着け。俺だって知らない奴と一度目が合ったって、そいつが俺
を見ていたなんて思わない。
たまたま、偶然、その瞬間だけ視線が交わったんだと思ってスルー
するはずだ。
問題は、明日からだ。
毎日見ていると知られるわけにはいかない。それじゃどう考えても
ストーカーだ。気持ち悪がられるに決まってる。
よし、明日からは見ないようにするぞ。そう心に決めた。
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6.15 もはやあれだ in教室
はっきり見えた彼女の顔は、斜め上から見て想像していた顔の80
パーセントくらいの可愛さだった。
不細工ではない。可愛いけど、俺の好みの顔にぴったりって訳でも
なかった。
なのにどうして彼女を探すのが止められないのだろう。
ストーカーにはならないと心に決めたはずなのに。
あれから、窓の外を見ない様に努めているにも関わらず、不意に怪
訝な表情の彼女と目が合って、彼女を見ていた自分に気付く、とい
うことが何度かあった。いや、ほぼ毎日、土日をはさんで10日く
らい続いた。
もはや彼女の顔はあれだ。不審者を見る目だ。
あわてて目を逸らすのだが、余計怪しさが増しているに違いない。
俺の存在に気付いてもらえて嬉しいという気持ちと、あんな目で見
られるくらいなら気付かれぬままこっそりと見ていたかったという
思いで、複雑だった。
21
6.17 バクバク in教室
そしてその日も突然やってきた。
今度は政木のおかげでやってきた。
彼女の観賞時間である1時限目が自習だったのだ。
またもや俺が不審者に成り下がっていたその時、背後から俺の頭上
ああ!もしかしてあの人!?﹂ に政木が現れた気配を感じた。
﹁
政木がそう声を上げた次の瞬間、彼女が笑った!自分の子供に笑い
かけたのでも、他の母親に挨拶したのでもない。
間違いなく俺の方を見て笑ったのだ。
そして、こちらを指差しながら子供に何か声をかけると、今度は子
供と二人でこっちを見て、何と笑顔で手を振った。
可愛かった。子供じゃない、彼女だ。笑った顔は、心臓を止められ
たかと思うくらい可愛かった。
経験したことが無いぐらい心臓がバクバクして、小さく手を上げ返
確かに可愛いな。でも子持ちかー、残念﹂
すのが精一杯だった。
﹁
政木の声にその存在を思い出し頭上を見上げると、奴が孫の船出を
見送るじいさんのように大きく両腕を振っていた。
死ね政木﹂ お前にか。彼女はお前に笑ってんのか。
﹁
ぐえ﹂ すぐそこにあった政木の腹にグーで一撃を見舞った。
﹁
22
勘違いで手まで振ってしまった自分がめちゃくちゃ恥ずかしくて、
思わず彼女の様子を窺った。
彼女は、﹁恥ずかしい勘違いに気付いた俺﹂、に気付いた様で、今
度こそ俺に笑いかけながら、まあちょっと苦笑っぽい感じにも見え
たけど、もう一度小さく手を振って園の方へ向かっていった。
うう。これは政木に感謝すべきなのか。しかし恥ずかしすぎる。悶
いて!﹂ えていると頭に衝撃が走った。
﹁
政木が俺の頭頂部に肘鉄を落としてきたのだ。そして逃げて行った。
ニヤニヤする政木を一睨みし、じんじんする頭を押さえながら外を
見ると、子供を園に置いてきた彼女が運転席のドアに手をかけ乗り
込むところだった。
彼女が車内に身体を移す寸前に一瞬こっちへ視線を向けた。
無意識だったのだろう。一度通り過ぎた視線が、まだ彼女を見てい
た俺に驚いたような表情で戻ってきた。
まずい、と思ったが、そうではなかった。
彼女はいつもの不審な顔を見せることなく、しっかり俺に目を合わ
せにっこりと笑ってくれた。
そして、さっきと同じく力を振り絞って小さく上げられた俺の手を
待つことなく、車に乗り込んだ。
ど、どうしたらいいんだ。喜んでいいのか、がっかりしていいのか
分からない。またもや、無駄に上げた自分の手がむしょうに恥ずか
しかった。
23
24
6.21 政木の所為だな in教室
喜んで良かったようだ。
初めて目が合った日から、彼女は、車から降りると俺を見て笑いか
けてくれる様になった。
授業中だと分かっているのだろう。手を振ってくることはなかった
が、笑ってくれるだけで踊りだしたくなるくらい嬉しかった。
学校に行くのが待ちきれなくて、必要以上に早起きしてしまうほど
おい、楽しそうだなあ涼﹂ だった。
﹁
政木がわざとらしくニヤつきながら寄ってきた。
無視していると、政木は窓の外を眺めながら俺の前の席にこっちを
向いて座った。
残念だが彼女はとっくに居ない。
﹁お前、ご機嫌過ぎだろ。いくら可愛くても人妻だぞ﹂ ﹁お前に関係ないだろ﹂ ムキになっちゃってー。お前が女に興味持つって始めてじゃね
政木は相変わらずニヤけたままだ。
﹁
え?﹂
確かに今まで彼女ほど気になる女子はいなかったけど、政木とは高
なにい?﹂ と俺の鼻を掴もうと手を伸ばしてくるので
そんなのお前が知るわけないだろ、ほっとけよ﹂ 校に入ってから知り合った、まだ1年とちょっとの付き合いだ。
﹁
政木が﹁
お前、1年の時から何人に告白されてると思ってんだよ。2組
叩き落した。
﹁
の佐々木も5組のもえちゃんも能面みたいな面で振りやがってよお。
あんな可愛いのにお前は何考えてんだ。世のモテねえ男子に喧嘩売
25
ってんだな?﹂ 数人の女子に告白されて断ったのは事実だが、少なくとも政木の目
の前ではなかった。
俺が能面みたいな顔をしていようが、こいつが知るわけはない。
大体お前は能面見た事あんのかよ。
鬱陶しいから黙れよと冷たい視線で返したが、政木はニヤニヤした
ついにイケメンに彼女がいない原因が判明したな。人妻好きか
まま続けた。
﹁
よ﹂
無言で奴の脳天にチョップを落とした。 人妻好き。
嫌な言葉だ。
﹃人妻﹄って言う単語が嫌だ。
年上好きと呼ばれるのならまだ我慢できる。
クラスの女子達を見ても何とも思わないので実際そうなのかもしれ
ない。
しかし、人妻は嫌だ。何処の誰が、わざわざ人妻を好きになるんだ。
人妻って、人の妻ってことだぞ。
誰かの妻ってことだ。誰か、俺が知らない男の。どこかの大人の男
が彼女の旦那なんだ。
その男とつくった子供を抱いて。その子供をぎゅっと抱きしめて、
ちゅうちゅうし合って。
初めて彼女の旦那を想像したことと、駐車場で数回見た彼女と幼い
息子のラブラブな様子を思い出したことで、なんか物凄く胸が痛く
なってきた。
政木の所為だな。よし、もう一回殴ってこよう。
26
27
6.25 ぽこん in教室
彼女と視線を交わす夢のような日々はほんの数日で終わりを告げた。
ぽこん。
秋吉。お前最近外ばっかり見てるな﹂ 彼女の車を見送っていた俺の頭が軽い衝撃とともに変な音を立てた。
﹁
まずい。今日の1時限目は担任の授業だった。
いつの間にか俺の真横に、丸めた教科書を手にした宮本が立ってい
た。
他の教師なら注意か嫌味か苦言で済むが、担任に目をつけられると
俺の授業が退屈な所為だろうから、外を見るなとは言わないけ
まずい。
﹁
どな﹂ ﹁
席替えられてやんの﹂ もっと有効な手段がある﹂
宮本がにやりと悪魔の笑みを浮かべた。
﹁
俺はつい先程自分の物となった、元は政木のものだった机に突っ伏
して後悔していた。
まあ、いい機会なんじゃねえの?どうにもならなくなっちまう
しかとしていると、政木が続けた。
﹁
前に止めたほうがいいんじゃね?﹂ 勝手なこと言うなよ。それに、もうすでに手遅れっぽいんだよ。苛
人妻に恋するのは、アイドルに恋するより虚しいぜ﹂ 立ちを込めて睨んだが、政木はポンと俺の肩に手を乗せ言った。
﹁
もう一度机に突っ伏すと、俺のすぐ後ろの席から斉藤の声が聞こえ
28
しかも子持ちなんだね?俺も、漫画の登場人物に恋するくらい
た。
﹁
虚しいことだと思うよ﹂
うるせえ﹂ 何とか二人に聞こえるよう声を絞り出した。
﹁
お前を政木の近くにやると、今度は政木が授業聞かなくなるか
うるさい。もう何も言うな。どうせもう手遅れなんだから。
﹁
らなあ。どうするかな。やっぱり政木とお前がチェンジだな﹂ 宮本の阿呆にそう言われて席を替えられてしまってから、政木が彼
女観賞の特等席についてしまった。
とは言え、政木が俺の様に彼女を探すことはなかった。
当たり前か。俺だって彼女に気付く前は、政木と同じく朝の睡魔と
闘う時間帯だった。
いや、政木は戦ってさえいなかった。お前はそれで大丈夫なのかと
言いたくなるほど寝てばかりだった。
ああ何やってんだ俺。彼女が見られなくなったからって政木を観察
ねえ、政木眺めてて楽しい?﹂ してどうするんだ。
﹁
楽しくない﹂ 後ろから斉藤の声だ。
﹁
雨ばかりの空のように、俺の身体の中も毎日どんより暗く曇ってい
た。
29
30
6.27 期末考査最終日 やっと教室出ます︵前書き︶
観察だけ期間がやっと終わります。
今日から1話が長くなります。
31
6.27 期末考査最終日 やっと教室出ます
期末試験も今日で最終日だ。
宮本に見つかりさえしなければ学期中は確実に彼女のことを見てい
られるはずだった。
未だ席替えに対する後悔は強かったが、試験中に窓の外に気を取ら
れないですむのは有難かった。
姿さえ見られなくなってしまった彼女のことばかり考えたくなくて、
無理やり試験勉強に集中したためか、今回の試験はかなり手応えを
感じた。
はあ。試験がうまく行くより、彼女に独身に戻って欲しい。
政木や斉藤が言う通り、こんなどうにもならない思いは忘れてしま
ったほうが良い。
理性で考えることとは裏腹に、彼女を見られない期間が続くほど、
彼女を思えば思うほど、彼女に対する気持ちが大きくなっていくよ
終わったなー!涼!マックよって帰ろうぜー。斉藤も行こうぜ﹂
うだった。
﹁
政木がバッグを持ったまま大きく伸びをしながら言った。
4月から席が前後ろだったわりに斉藤と政木が話している姿はあま
り見なかったが、俺と政木が入れ替わったついでに2人も仲良くな
ってきているようだ。
政木は俺から奪った窓際の席から、廊下側のこっちの席に毎休み時
間と言っていいほど寄ってくる。
俺部活﹂ どうしてこんなに懐かれてるんだろう俺。
﹁
ええー。試験中ぐらいサボれよ。しかも雨降ってんじゃんかよ
俺がそう言うと、政木はでかい図体で子供のように唇を尖らせた。
﹁
32
う。なあ斉藤﹂ 雨関係ないし、斉藤も将棋行くんだろ?政木は一人でマック行
斉藤を巻き込もうとしている。
﹁
け﹂ 斉藤は中学の頃から、将棋好きの帰宅部が集まる小教室に入り浸っ
ていた。
高校では実際に同好会を立ち上げている。
﹁はあ?嫌だよ、寂しいだろ俺が。斉藤将棋やんの?ついてって良
い?﹂
斉藤は若干引いた顔をしていたが持ち前の博愛精神で受け入れるこ
とにしたようだ。
﹁ああ、良いけど。あんまり大騒ぎしないでよ﹂
斉藤の来るもの拒まず去るもの追わずの性質は、俺の愛するところ
ではあるけれど、政木は拒んどいたほうが今後のためじゃないかな
と思った。 普段は19時までの部活も、試験期間中は16時17時くらいまで
各自勝手にやってって感じになる。
とは言っても俺はいつもとやることたいして変わらないんだけど。
うちの部は、前任の顧問の粋というか適当な計らいにより、大会に
向けて頑張るチームとひたすら泳ぐだけチームに分かれている。
俺は当然ひたすら泳ぐチームだ。
水泳部以外からは通称頑張らないチームと呼ばれるが、実際そうで
はないことは水泳部なら皆が知っている。とにかくひたすら泳ぐ、
レーンが足りない場合は時に筋トレもするが、とにかくひたすら泳
ぐチームが正しい。
おそらく怠惰な前の顧問が、水泳の目的と目標とやる気の方向性に
幅がある部員の足並みを揃えることを諦めたのだろう。
大会や記録を伸ばすことを目標にやる奴らにはできる限り頑張らせ
33
たいし、ただ泳ぐことが好きな俺みたいなのにもせっかくのでかい
プールを使わせてやりたい。でも一緒にするとまとまらない。そん
な感じだろう。
水泳部入部条件は泳ぐやる気があること。頑張らないチームでも、
これは必須だ。続けて2回無断でサボると無条件に退部させられる。
大会直前などはその時の状況によって頑張らないチームだけ休みに
なったり、身体作り中心の内容になったりと水に浸かれなくなった
りするが、それに文句がある奴は頑張るチームに移れって感じだ。
その代わり足並み揃えて頑張れよと。
俺は泳げる時に、自分の勝手に好きなだけ泳げればそれで満足なの
で、今の水泳部のシステムは気に入っている。
そうでなければ部活にははいらず、その辺のプールで放課後泳ごう
と思っていた。
さあ、今日も何もかも忘れてひたすら泳ごう。
徹夜漬けの試験期間が終わり皆疲れているはずだが、やはり泳ぐこ
とが好きな奴ばかりのためほとんどの部員が出てきていた。
沈む恐れがあるほど眠いやつだけが休んだようだ。体調の優れない
時のプールは危険だ。
季節的にようやく校外の屋内プールまで移動せずに校内のプールで
泳げるようになったことも、皆が取り合えず一泳ぎしていくかとい
う気分になる一因でもあるだろう。
やっぱり放課後移動せずにすぐプールに入れるのは、部活動の利点
だな。
楽しい季節がやって来たのだ。夏だ。プールが一番気持ちいい夏だ!
無理やり自分を鼓舞するが、頭の奥には子持ちの人妻が居座り、気
分を上げるはずのプールも結構な雨で暗かった。
徐々に皆帰り始めたが、最後まで泳いでたやつらと一緒にあがった。
34
﹁
じゃあな﹂ 皆に声をかけて、それぞれの帰り道に分かれた。
頼まれたプールの鍵を職員室に戻し、手に持っていた靴を履きなが
ら部室に傘を忘れたのに気付いた。
まあいいか、どうせプールで濡れてんだし。走って帰ろう。
校門を小走りで過ぎながら、いつもの電停に並ぶか、普段使わない
バスに乗るかを考えた。
電停に目をやると、屋根はあるがそれからはみ出るほど人がならん
でる。
路面電車の線路の先に目を向けると、電車はまだ近くには見えず、
かわりに丁度うちの方向に行くバスが赤信号にひっかかっているの
が見えた。
やった。あれに乗ろう。走れば間に合うはずだ。
雨粒を避けるように目を細めバス停へ向い走り出すと、彼女の幼稚
園が見えてきた。
通常の部活終わりの時間には人気の無い園の駐車場に、今日はまだ
車の出入りがあるようだ。
試験中毎日バス使えば彼女に会えたかもなあ、そんなわけ無いか。
と、一瞬でも期待した自分が馬鹿みたいに思えてへこんだその時、
知らず速度を緩めていた俺の視界に白の軽が飛び込んだ。
足が勝手に停止し、心臓が有り得ないほど強く打った。
駐車場から歩道に乗り出し俺の目の前に止まった小さな車の、水滴
傘ないの?﹂ だらけの窓がゆっくりと下がった。
﹁
彼女だった。
35
36
﹁
え?﹂ 傘ないの?﹂ 6.27 傘ないの?
﹁
突然過ぎる彼女の登場に、近すぎる彼女の顔に、生の声に、動揺し
濡れてるよ!ねえ傘ないの?朝の子でしょ?傘あげるから早く
すぎて思考が停止した。
﹁
ほら!﹂ 彼女は全開の窓から打ち込む雨に手を濡らしながら、ビニール傘を
いや、いいです。俺そっからバス乗るから・・・﹂ 俺に差し出していた。
﹁
反射でなんとか返事をしながら、はっと少し先のバス停に視線を向
けると、案の定乗るはずだったバスがぷしゅーと気の抜ける音を立
ああー、もしかしてあれだったの?﹂ て走り出したところだった。
﹁
残念そうな声が聞こえた。
視線を戻すと、傘の半分を窓から出したままバスを目で追う彼女の
横顔が見えた。
ごめん!声かけなきゃ良かったね。ねえ濡れてるって!傘!﹂ 彼女はすぐに俺の方を向いた。
﹁
俺は彼女と目が合っていることに気付いてしまって、再びパニクっ
ていた。
後で考えたら、ここで傘を受け取るのが自然な流れだったのだ。
しかしその時の俺は何も考えられなくなっていたし、追い討ちをか
けるように、彼女の車の後ろに威圧感が半端ない黒光りして馬鹿で
ああ!後ろ待ってる、ねえ傘!﹂ かい高級車が並んだ。
﹁
彼女はなおも俺に傘を受け取らせようとするが、身動きしない俺に
37
とり合えず乗って!後ろ早く!車出せないからほら早く!﹂ 痺れをきらした。
﹁
彼女のあせった声にあせらされて意識とは無関係に身体が動いたん
だろうか。
何故か俺は、彼女の小さな車の後部座席に乗り込んでしまっていた。
彼女は俺がドアを閉めるのと同時に車を発進させ道路に出た。
彼女の車の中は、うちの車とは違う匂いがした。芳香剤とかのきつ
い匂いじゃなくて、雨に濡れた髪からほのかに香るシャンプーの匂
いのような。
後部座席で変態になっていた俺は、彼女の柔らかな声に自分を取り
どうしよ。男子高校生を拉致してしまった。ねえお兄ちゃん、
戻した。
﹁
警察に突き出したりはしないでね﹂ 彼女にお兄ちゃんと呼ばれて慄いた。たしかさっきは朝の子って言
え、いや、そんなことしないけど、俺、スミマセン。車びしょ
われてた。朝の子って。縮めすぎだろ、しかも子。
﹁
びしょだ﹂ おかあしゃんー。ねーねー。だれだっけー?﹂ 片言になったが、なんとか答えられた。
﹁
不意に舌足らずな声が前方から聞こえた。
この前幼稚園に行くときにバイバイしたお兄ちゃんだよ。学校
彼女が助手席にチラリと顔をむける。
﹁
ああしょーねー。しってる。おっきいおにいちゃんとちーしゃ
でお勉強してた、おっきいお兄ちゃん。覚えてる?﹂ ﹁
昨日じゃないけどね。小さいおにいちゃんは椅子に座ってたん
いおにいちゃんいたねえ、きのう﹂
﹁
だよ。あのお兄ちゃんも大きいお兄ちゃんだったんだよ?椅子の小
さいお兄ちゃんが今後ろにいるお兄ちゃんね。でもおっきいお兄ち
38
ゃんでしょ?﹂
すごく難解な説明だ。理解できるんだろうか。 なんでぼくのくるまにのったのー?﹂ 子供は返事をしない。分かったのか分かってないのか不明だ。
﹁
お兄ちゃんが雨でびしょ濡れだったから助けたんだよ。ドクタ
そうだねえ。なんでかなあ。
﹁
ーヘリみたいにね﹂ いきなりドクターヘリ。雨の災害の時に活躍するのは違うヘリじゃ
﹁
しょうしょう。どくたーへりー。僕の車じゃなくてお母さんの
ええー!ぼくのくるまどくたーへりーー!?﹂ ないかと思うけど。
﹁
車だけどね。それに、お母さんのせいでびしょ濡れなんだけどね、
お兄ちゃん﹂ 一部彼女に子供の言葉が伝染している。聞いてるだけで俺もうつり
そうだ。
子供との会話がひと段落したのか、彼女が俺に言ってるとわかるト
ねえお兄ちゃん。家遠いの?そんなに遠くなかったら無駄に濡
ーンで話しかけて来た。
﹁
え﹂ らしちゃったおわびに送るけど﹂ ﹁
遠い?ていうか取り敢えずどっち?こっちでいいの?バスこっ
突然の申し出に俺は再びフリーズした。
﹁
え、いやえっと、こっちで良いですけど、いいです。俺、電車
ち向きだったけど﹂ ﹁
でも帰れるし、バスもしばらく待てばまた来るし、あ、考えなしに
乗っちゃってスイマセン!降ります俺!﹂
ええー。せっかく乗ったんだから、どっかまで送るよ。駅かバ
彼女の車に乗ってしまった間抜けさに今更気付いて焦った。
﹁
ス停か・・・。ああーバス停に送っちゃ意味ないか。バス追いかけ
39
﹁
なーんだ。じゃあ行こう。ねえどっち?あたし道あんまり知ら
いや、そんなには。車なら20分くらいだと思うけど﹂ てるもんね今。ねえ家までどのくらいなの?何分?何時間?﹂
﹁
ないから道案内してね。太朗、お兄ちゃんをお家に運びまーす。お
おーけーい!れっちゅれっちゅごーごー!﹂
ーけい?﹂
﹁
子供が小さいぐーを頭上に突き上げた。
子供は可愛かったけど、間違いなく別の理由で物凄くバクバクして
いた。
ねえ太朗。幼稚園バッグからタオル出してお兄ちゃんに貸して
まじで。俺まじでこの人に送ってもらうの?俺どうしたらいいんだ。
﹁
はーい﹂ あげて。お兄ちゃん風邪ひくから﹂ ﹁
あ!いいです。俺タオル持ってんだった﹂ チャイルドシートに座った子供が頭を下げてごそごそやり出した。
﹁
あそう?太朗いいって。お兄ちゃんタオル持ってきてるんだっ
水着と一緒に袋に突っ込んでいたタオルを慌てて引っ張り出した。
﹁
はーい﹂ て。ありがと﹂ ﹁
子供に向けてありがとうと言う彼女と、素直に返事をする気の良い
ちいさい息子に、少しだけ居たたまれなさを感じた。
40
6.27 傘ないの?︵後書き︶
作中太朗の言葉に、実際子供はこんな喋り方しないよと不自然さを
感じられる方もいらっしゃると思います。が、実在する同年の幼児
をモデルにしていますので、日本の何処かにはこんな喋り方の子供
もおります︵´艸`*︶
願わくばご不快に感じられることが有りません様に。これから太朗
ちょこちょこ登場します。
41
6.27 もう俺駄目だ
しばらく会話が途切れると、彼女とこんなに近い距離にいるという
ことにまた心臓がばくばくしだした。
良かった。俺彼女の真後ろで。例え斜め後ろからだとしても、顔を
﹁
あ、はい。かなりずっと真っ直ぐです。でかい警察署まで。そ
ねえ。まだ真っ直ぐでいいの?﹂ 見ながらじゃきっと緊張しすぎて会話できてない。
﹁
こを左です﹂
はーい﹂
心の中で準備していた答えをなんとか伝えた。
﹁
彼女が息子と同じような調子で俺に返事してめちゃくちゃ可愛かっ
た。いや、顔は見えないけど、とにかく彼女自体が。
﹁あ、そういえば、席替わったの?もしかして最初に手を振ってた
お友達があの席に座ってる?﹂
﹁
外見すぎて先生にみつかったんじゃないの?﹂ あ、はい﹂ 彼女が、思い出したように声を上げた。
﹁
﹁
あははーやっぱり?でもお友達はいっつも寝てるよね。どっち
ああまあ・・・そうです﹂ 面白がる声音の彼女に言い当てられた。
﹁
がましか分かんないね﹂ 彼女はまだあの席を見上げているのだ。またあの特等席を失ったこ
とに対する後悔の念が強まった。
こっちも寝ちゃったー。あんたも寝てばっかりだねえ﹂ 彼女が助手席を覗き込んだ。
﹁
彼女は赤信号で停車したついでにサイドブレーキをひくと、助手席
42
のほうに身を乗り出した。
腕をいっぱいに伸ばしているのか、シートの間から淡い色の柔らか
そうなカットソーが上半身の形に沿うのが見えて、また心臓が鳴っ
シート倒すから引っ張ってくれる?﹂ た。
﹁
はっと顔を上げると、彼女がそんな俺を見て笑った。そしてすぐに
子供に視線を戻した。
言われた様に助手席のシートを軽く引っ張った。子供の頭と一緒に、
子供に覆いかぶさるようにしている彼女の身体も少しだけ俺のほう
に近づいた。
黒い滑らかな髪が、水を含んで重たげに揺れる。
やっぱり彼女の匂いだった、車内に漂っていた良い匂いが、いっそ
ありがと﹂ う強く香った。
﹁
たぶん彼女は、自分の上半身を見て顔を赤くしている俺に気付いて
いた。でも、気にせず笑ってた。
少年よ初心で可愛いなあ、みたいな視線に、年齢の差を感じてショ
ックを受けた。
彼女はいくつなんだろう。
そして俺はそんなことを気にしてどうするつもりなのだろう。
彼女は子持ち人妻だ。
その時ようやく、乱暴に投げ込まれたのだろう彼女の荷物が後部座
席を散らかしていることに気付いた。
もとい、彼女は子持ち人妻いい加減だ。
雨の所為で締め切られた小さな車内、子供はいるが寝てて存在感が
ない。まるで密室に二人きりのようだった。
雨の音が煩くてよかった。息の仕方を忘れてしまったかのように息
苦しい。
43
静かな車内では、俺の整わない呼吸音が彼女に聞こえてしまいそう
で、きっと窒息していたに違いない。
﹁
そう?﹂ そこのコンビニでいいです﹂ ﹁
ありがとうございました。なんかスミマセンでした﹂ 彼女は車を、コンビニの駐車スペースにやっぱり頭から突っ込んだ。
﹁
後部座席から声をかけると、彼女が振り返って俺を覗き込んだ。
近すぎて彼女の目を直視できず視線を下げると、声に合わせて柔ら
いーえー。あたしのせいでバス逃したんだから気にしないで。
かそうに動く唇に目がとらわれた。 ﹁
これあげる。はい﹂
﹁
いーからいーから。100円なんだし。はい﹂ タオル被っていくし大丈夫です﹂ 彼女はさっきのビニール傘をもう一度俺に差し出した。
﹁
短く爪を切った彼女の手から白い傘を受け取った。
服や雰囲気からは子供がいるなんて感じられないけれど、その手を
見ると、家事なんてやってないだろうクラスの女子とは全然違って
いて、母親なんだなと感じた。
相変わらず彼女の顔を直視できず、そのまま頭を下げて外に出た。
彼女の傘を差してドアを閉めてから、車の方に向き直った。 ありがとうございました﹂
彼女が運転席の窓を開けてくれた。 ﹁
最後ぐらいはと、顔が紅潮するのを自覚しつつもきちんと彼女に視
線を合わせて礼を言った。
彼女は俺を見てにっこり微笑むと手を振ってくれた。
﹁じゃあねー。風邪引かないようにねー﹂ 可愛い。年の差は感じるけど、それでもやっぱり可愛かった。
もう俺駄目だ。諦めるとか、忘れるとか、なかったことにするとか、
44
無理。きっと無理。
彼女の車がバックして方向転換するのを見守って、彼女に今度は俺
がぎこちなく手を振った。
彼女は笑顔で手を振り返して車を発進させた。
俺も何とか彼女の車から目を引き剥がして、自分の家の方向に取り
お兄ちゃん待ってー!﹂ 敢えずの一歩を踏み出した。
﹁
彼女が俺を呼んだ。
相変わらず壊れそうな位ばくばくする心臓を持て余しながら振り返
ると、運転席の彼女の奥から彼女と似た可愛らしい作りの小さな顔
起きたー。お兄ちゃんにばいばいするって言ってんのー。ほら
がのぞいていた。
﹁
太朗。ばいばーい﹂
彼女がお手本を見せるように俺に向かってばいばいした。
彼女に続いて同じ様な顔をした子供が俺に向かって小さな手を振っ
ばいばーい!﹂ た。
﹁
二人顔を並べて俺が返事するのを待っている。
なんだこれ。めちゃくちゃ可愛いんだけど、どうしたらいいんだこ
の親子。
ば、ばいばい﹂ 激しく恥ずかしかったけど頑張った。
﹁
一人は満足そうに、もう一人は苦笑して窓が閉まった。
コンビニから家まで、いや家に着いてからも、足元がふわっふわだ
った。
雲の上を歩いてるみたいな新感覚だった。俺にこんな技が可能だっ
たとは、驚きの事実が発覚したな。
45
彼女の傘を部屋に持ち込み、濡れた制服のままベッドに倒れこんだ。
仰向けになり顔を掌で覆うと彼女の顔や声が思い出された。交わし
た言葉を反芻し、悶々とした。
ふと気になって尻のポケットに手をやった。
﹁うあ?マジで?携帯ないじゃん・・・﹂ いや待てよ。彼女の車の中かも。
俺!やった俺!
46
ベッタベタだな﹂ 6.28 ベッタベタだな
﹁
うるせえなあ。お前に話したんじゃないんだよ。俺は斉藤に話
政木に言われた。
﹁
してんの﹂ 胸のうちの興奮を誰かに聞いて欲しくて勿論斉藤を選んだ。政木は
でも雨の日に傘借りて携帯忘れるなんて、確かに漫画とかドラ
盗み聞きだ。
﹁
マみたいだよね﹂ だよなあ?男の方が車で送り届けられてんのが情けねえけどよ﹂
斉藤が言った。
﹁
﹁
あー、そんなこと言っていいのかよ。涼の携帯の履歴ほぼ俺だ
お前ムカつく﹂ 政木がニヤついている。
﹁
ろ。彼女がお前の携帯から俺のにかけてきても替わってやんねーぞ﹂
自宅の番号も家族の番号もそれと分かる名前では登録してない。確
﹁
てめえ﹂ 勝手に待ち合わせして二人でお茶でもしてこよっかなー﹂ かに彼女が履歴から政木にかけてくる可能性はある。
﹁
モジャモジャの髪を掴んで振り回そうと席を立ちかけたが、斉藤の
﹁
え?﹂ 反対じゃない?﹂ 声に動きを止めた。
﹁
君が自分の携帯にかけるのが普通じゃない?そしたら拾った人
俺と政木は斉藤に注目した。
﹁
47
﹁
そりゃ俺の携帯からでも政木のでも良いし、自宅の電話でもい
え?だって俺携帯ないし。どうやってかけるの?﹂
が出てくれるよ。警察の落し物係の人かもしれないけどね﹂ ﹁
いし。お金かかるけど公衆電話でも﹂ 斉藤が律儀に俺の携帯以外の電話をリストアップし始めたので、さ
そうか、俺がかければいいんだな。さんきゅー斉藤。それとち
えぎった。
﹁
ょっと携帯貸してくれる?﹂ いいよ。でも没収されないように気をつけてよ﹂
斉藤はポケットを探りながら言った。
﹁
うちの学校では携帯の使用は休み時間のみ、授業中に電源落とし忘
れてバイブでもならせば週末まで没収だ。
頷いて斉藤の携帯を受け取ると、予鈴がなった。
次の休み時間に彼女に電話する。そう考えただけでばくばくしだし
おい。まだ電話しねえのかよ?﹂ た心臓に、俺電話かけられるのかなと、ちょっと不安になった。
﹁
お前は、毎時間毎時間鬱陶しいんだよ。いちいちこっちまで来
政木がまた俺の席に寄ってきた。
﹁
んなよ﹂ 人が居るとかけにくいんだろ?昼休みのうちに屋上か部室でも
手で追い払う仕草をするが、政木にはまったく効果がない。
﹁
行ってかけて来なよ。政木はついていっちゃ駄目だよ。また秋吉が
電話できなくなるから﹂ ﹁
うん、気が進まないけど、俺もそろそろ携帯使いたいし。頑張
斉藤、お前神様みたいだな。じゃあ政木の相手は頼んだぞ﹂ 斉藤が、早速俺に付いてこようとしていた政木の腕を掴んだ。
﹁
なんだよー。俺を邪魔者扱いすんなよー。傷つくだろー﹂ ってきて﹂ ﹁
48
携帯を掴んでない方の手で斎藤に感謝の念を送り、政木を無視して
席を立った。
殆ど日の光の入らない薄暗い部室で、携帯に打ち込んだ自分の番号
を見つめること数十分。
昼飯も食ってないのに、昼休みが終わりかけている。
タイムリミットが近い。
彼女が電話に出た時用のシミュレーションも、何度となく脳内で繰
り返した。いけ、俺。やるんだ!
目を瞑って、光線がでそうな程の気合を親指に込め通話ボタンを押
した。
毎度おなじみになってきたばくばくの心臓の音が携帯を当てること
で耳に集まり、呼び出し音が聞こえにくい。
しかし朝から今まで緊張し続けた甲斐なく、覚悟していた落し物係
でさえ俺の電話に答えてはくれなかった。
留守電に切り替わり、がっかりして斉藤の携帯を閉じた。
昼休み時間内に2度目をかける気力はなかった。
しばらくギイギイ音をたてる折りたたみ椅子にもたれて放心し、何
とか立ち上がろうと上半身を起こした。
その時、手の中で斉藤の携帯が震え、俺の番号が表示された。
ばくばくの再開だ。落ち着け俺。落し物係のおっさんかもしれない
んだ。とにかく落ち着け。
深呼吸したが、呼吸が震えて全く深呼吸にならなかった。
切れる。とらなくちゃ。
はい﹂ 通話ボタンを再度物凄い気合を込めて押した。
﹁
えっと、携帯拾ってくれた人ですか?俺昨日その携帯落とした
はいってなんだよ。お前がかけたんだろ!お前が携帯探してんだろ!
﹁
49
みたいで・・・﹂
ああ、良かったー。お兄ちゃん?﹂
何とか言葉を続けた。
﹁
彼女だ。
﹁
﹁
学校に持って行けばいい?昨日ぐらいの時間に子供の迎えに行
え?﹂ ごめんねー、昨日気付いたら良かったんだけど。どうしよっか﹂
耳に直に入ってくる彼女の声に脳みそが揺れた。
﹁
﹁
﹁
﹁
りょうかーい。じゃあ後でねー。ばいばーい﹂ あ、はい。大丈夫、だと思います﹂ はーい。じゃあ正門のとこでいい?車入れるかな﹂
え、えっとじゃあ、あの、頼んでもいいですか﹂ くから、それからだったら持っていけるけど﹂ ﹁
ゆっくり落ち着いた話し方と可愛らしい見た目のわりに、さっぱり
した性格のようだ。さくさくと話を進められて電話を切られてしま
った。
もうちょっと話していたかった。
ありがと﹂ でも、夕方会える!やった!
﹁
斉藤に携帯を差し出して言った。
夕方彼女に会うまで借りてた方が安心だが、斉藤も携帯使いたいっ
﹁
ああ、政木には黙ってて。ついてくるから﹂ 連絡ついたの?﹂ て言ってたししょうがない。
﹁
今政木は廊下で奴を尋ねてきた他のクラスの奴らとしゃべっている。
1年の頃から賑やかで人気者だったのだ。なんで俺のとこばっか来
なんか可哀想な気もするけどしょうがないね。ついて行きたが
るんだろう。男女問わず友達はめちゃくちゃ多いはずだ。
﹁
50
るの間違いないからね﹂ ﹁
え?﹂ 政木って意外だったよ﹂ 斉藤が廊下の政木と派手な仲間達を眺めながら続けた。
﹁
いや、将棋ついてきただろう昨日。ああいう人達の仲間だと思
斉藤の言いたいことが分からず聞き返す。
﹁
ああ、確かに。まあなんか違うんだろうな﹂ ってたからさ﹂ ﹁
政木は派手なイケイケ集団の中心に居ても違和感がない奴だが、斉
藤を筆頭とするオタクよりの将棋部にも難なく溶け込んだことが容
易に想像できた。
君に似てるね。まあだからこそ君と仲良しなんだろうね﹂ そう言う奴なのだ。
﹁
似てないし、仲良しってなんだよ。大体俺はあのイケイケ集団
斉藤が気持ちの悪いことを言った。
﹁
とは仲間じゃないし、なりたくない﹂ ああそうだね、君は好んであの人達と関わることはないか。ま
斉藤はくすくす笑いながら答えた。
﹁
はあ?嫌だよ。何だよあっち側って。斉藤のこっち側に入れて
あでも二人とも、周りからみたらあっち側の人だってことだよ﹂
﹁
くれよ。政木はあっちでもいいけどさあ﹂ 情けなく頼むと斉藤が笑った。
斉藤将棋行こうぜー。昨日のメガネと雪辱戦だ﹂ 放課後政木は俺じゃなく斉藤のとこに来た。
﹁
じゃあなー涼!部活頑張れよー﹂ とうきうきで、
俺もメガネだし。あの部屋8割がたメガネなんだから名前覚え
斉藤が嫌そうに言った。
﹁
てよ﹂ そして政木は﹁
51
迷惑そうな顔の斉藤と無理矢理肩を組み行ってしまった。
政木のまとわりつきの被害を斉藤が分かち合ってくれるということ
が決定した瞬間だった。
いやでも、水泳部には流石についてきていなかったから放課後は派
手な仲間たちといたんだろうと思うけど、そんなら放課後政木に付
きまとわれる斉藤は余計な被害を被ってるのか?
被害拡大じゃないか。
52
6.28 ベッタベタだな︵後書き︶
涼と斎藤はガラケーで、政木はスマホかなと思って書いてましたが、
ラインはまだ普及してないですね、多分。
スマホの方が珍しい感じだと思われます。もしくは全員ガラケー時
代。
53
6.28 可愛いねえ
彼女との約束の時間まで1時間ほど。
いつも放課後俺が部活に行くのを邪魔して遅らせる政木を当てにし
て、部には今日休むと伝えてしまったが、当てがはずれた。
まあ政木と暇をつぶしたとしても、待ち合わせをどう誤魔化すかが
難しいのでかえって良かったのかもしれない。
しかし一人で1時間。普段ならなんと言うこともない空いた時間が
彼女のことで頭がパンパンの今は無理そうだった。
良し。やっぱりちょっと泳いでこよう。
泳ぎながらも、彼女になんて話そうかなとか考えてしまったけど、
少しはスッキリした。
頭と身体を手早く拭って、適当に制服を着て部室を出た。
首にかけたスポーツタオルでまだ水が滴っている頭を拭きながら正
門に向かう。
そう言えば敷地内関係者以外立ち入り禁止って書いてあったな。
彼女は関係者か?大丈夫だとは言ったけどどうなんだろう。迷惑か
けたら悪いな。
秋吉。珍しいな、サボりか﹂ というか、俺が幼稚園の駐車場で待てばよかったんじゃないか?
﹁
渡り廊下を横切ろうとすると宮本に捕まった。
サボってない。もう泳いできたし。なあ先生、携帯拾ってくれ
こいつムカつく。俺の唯一の彼女との接点を奪いやがって。
﹁
た人が学校に持ってきてくれるんだけど、勝手に入ってもらってい
いの?﹂ 嫌々返事したついでに、こいつに聞いておくことにした。
54
﹁
泳いできました、だろ。手続き面倒なんだよな、ああじゃあ立
﹁
事務の先生に見つかってみろ。持ってきてくれる人にも迷惑だ
はあ?いいよ。小学生じゃないんだから﹂ ち会ってやるよ﹂
﹁
ろ。かなり面倒なんだよ。お前着替えが適当過ぎだ、シャツ入れて
見つからなきゃいいんだろ?すぐ済むし、いいよやっぱり。じ
ボタン閉めてネクタイしろ﹂
﹁
ゃあ先生さようなら﹂
待て、お前、挨拶だけ丁寧にすればいいってもんじゃないだろ。
頭を下げてさっさと宮本の脇を抜けようとしたが、肩をつかまれた。
﹁
聞いてしまったからには見逃すわけにはいかん、俺も説教されるか
らな。正門入ったすぐのとこに居てもらえ、玄関回って行くから﹂ 宮本はそう言って校舎の中に入っていった。
失敗した。わざわざ聞かなきゃ大丈夫だったんじゃねえの。しかも
せっかく彼女と会えるのに宮本がついてくる。
政木を回避したかと思えば今度は宮本。宮本も斉藤に頼んどけば良
かった。
取り敢えず正門に向かってダッシュした。
正門を入ってすぐの駐車スペースに立って彼女の車を待った。
さっき宮本と会った渡り廊下からは、校舎の中を通ると結構距離が
ある。しかも宮本は教師だから校舎内を走れないし。
彼女が宮本より早く来てくれるといいんだけどな。濡れたタオルを
おーい、お兄ちゃん!﹂ バッグに突っ込みながら思った。
﹁
バッグに向けていた視線を上げると、彼女の車が目の前に止まると
ころだった。
ほら、こんにちはは?﹂ 全開の窓から彼女が俺ににっこりと微笑む。
﹁
55
一瞬俺が言われたのかと思ったが、助手席の子供に言ったようだ。
こんにちは!学校まで届けてもらってありがとうございます!﹂
しかし俺もあせった。俺もまだ挨拶してないし。
﹁
﹁
﹁
はいこんちあ上手。あ、携帯後ろだ、ちょっとごめんね﹂
こんちあー!﹂ いーえー。ほら太朗、お兄ちゃんにこんにちは﹂ 勢い良く頭を下げた。何とか幼稚園児より先に挨拶できた。
﹁
彼女はドアの前から俺をどかすと、ドアを開けて外に出てきた。
うわー彼女が俺の前に立ってる。歩いてる。ちっちぇー。可愛いー。
彼女は平均女子より少しだけ小さめの様だった。さらに頭も小さく
て、すごく痩せてるってわけではないけど骨が細い感じのせいか、
間近で見るととても小さく感じた。
そのスタイルのおかげで遠目には実際より少し背が高いように見え
ていたようだ。 彼女は俺に背を向け、というより尻を向け、後部座席の荷物をがさ
ごそやっている。
ゆるいパンツをはいた小さめだけどむちむちっぽい尻から気合で目
を逸らした。良かったスキニーじゃなくて、一瞬にして真っ直ぐ立
あった。ごめんねー、昨日のうちに気付いてたら朝持ってこら
てない事態に陥るところだった。
﹁
れたんだけどね。職場でバッグ開けたら知らない携帯入っててびっ
くりした﹂ 彼女が俺の顔を見上げて言った。見上げるっていっても俺もそこま
バッグに入ってたんですか?﹂ ででかいわけじゃないからちょっとだけだけど。可愛い。
﹁
俺入れてないよ。絶対に。彼女から携帯を受け取りながら心の中で
あはは。あたしバッグ投げるからね、中身全部飛び出してたん
否定した。
﹁
だよねー。それをまた適当に戻すからその時一緒に入れちゃったみ
56
たい。ごめんね﹂ いや、落とした俺が悪いし。昨日から色々スミマセン。ありが
可愛く謝られて許さないわけはない。ていうか俺が落としたんだし。
﹁
そんな大したことしてないじゃん。園の隣なんだし1分もかか
とうございました﹂ ﹁
ってないよ﹂
高校って懐かしー。久しぶりに入った。皆部活してるねえ、い
彼女がにっこり俺にむけて笑い、遠く校舎の方へ視線を流した。
﹁
いなあ﹂
ここから部活中の奴らは見えないが、運動部の大声もバットがボー
ルを打つ音も吹奏楽部の楽器の音も、確かに学校は部活の雰囲気に
溢れている。 自分らはこの騒音を当たり前だと思っているけど、大人になると懐
かしく思ったりするのかもな。
校舎のほうを向く彼女の横顔を見ながら改めてそんなことを考えて
あれ、お兄ちゃんまた濡れてるじゃん。あ、泳いだの?わープ
いると、ふいに彼女が俺を見た。
﹁
はあ、水泳部なんで﹂ ールー?﹂
﹁
太朗!お兄ちゃんもプールしたんだってー。太朗といっしょだ
彼女が目を大きく開き、可愛く顔を輝かせて車内を覗き込んだ。
﹁
﹁
ねー。幼稚園のプール大好きなのよ。水泳してる男の人って格
ぼくぷーるすきなもん!﹂ ねー﹂ ﹁
好良いよねえ。身体がすごいもんね﹂ 可愛い笑顔で俺の目を見て格好良いとか言われたので、顔が紅潮す
るのを感じた。せっかく今まで大丈夫だったのに。しかも、俺に言
ったんじゃない。世のムキムキ競泳選手全部に向けた格好良いだぞ。
それに俺の身体を見せた訳でもない。俺の身体を彼女が気に入るか
57
も分かんない。赤くなるな俺。
可愛いねえ﹂ 彼女は俺を見て目を細めると、しみじみと言った。
﹁
違う。可愛いのは俺じゃない!俺じゃないのに!
赤い顔のまま脳内で悶絶する俺を見て彼女が何を思ったのかは分か
らない。俺が居た堪れなくて余所を向いてしまったせいだ。
彼女はマッチョが好きなのか?筋トレ頑張ろう。
無駄な決意をしていると、生徒は誰も使用しない正面玄関から宮本
が出てくるのが見えた。あの野郎、せっかくのどきどきの時間に割
どうもー!うちの生徒がお手間とらせてしまって申し訳ありま
り込みやがって。
﹁
せん!﹂
ありがとうございました﹂ 彼女がぺこっと頭を下げた。あんな奴に頭下げることないのに。
﹁
俺も彼女に頭を下げて、車に乗るよう促そうとした。
別れるのは忍びないが、宮本と彼女が話すのは見たくない。
どうも。担任の宮本です。秋吉きちんとお礼言ったか?お前ネ
しかし宮本は走ってやってきた。
﹁
うるさいよ先生。どうもありがとうございました。先生さよう
クタイしろって言っただろ﹂ ﹁
なら﹂ 彼女にもう一度頭を下げ帰りを促しつつ、ついでに宮本を強制退場
あはは。仲良いですね、いいなあ﹂
させようとしたが、彼女が笑い出した。
﹁
宮本がぼけっと彼女の顔を見ている。やばい、可愛い笑い声にやら
三浦?﹂ れたんじゃないだろうな。許さん宮本。
﹁
58
宮本が何か言った。
59
6.28 先生さようなら
﹁
﹁
ごめんなさい。分からないみた、ああああサダオかー!﹂ 俺だよ俺!﹂ 誰?﹂ 彼女が笑みを消し、怪訝な表情で宮本を見た。
﹁
彼女が宮本を指差し軽く仰け反って叫んだ。信じられないが二人は
知り合いだったらしい。
めちゃくちゃ嫌そうにされてるのに宮本は嬉しそうだ。いつもの悪
やっぱりな。お前老けたなあ、最初分からなかったぞ。いや、
魔の笑みではない。子犬のような笑顔が気持ち悪い。
﹁
老けはしたけど前より美人になってるな。何年ぶりだ?高校卒業以
来か?こっち戻ってたのか﹂
あんたは痩せたわねえ、別人みたいじゃん。中身は何にも変わ
宮本のテンションが高い。
﹁
ってないみたいだけど﹂
対する彼女は引き気味だ。宮本太ってたのか、女子に言いふらして
ちょっと待ってろよ。仕事終わったんだろ、飲み行こうぜ。い
やろう。人気がた落ちだな。
﹁
や、やっぱり携帯教えてくれ、後で連絡するから﹂ 嫌よ。あんた、生徒の前でナンパしてないでさっさと仕事戻り
彼女が俺のほうを申し訳なさそうにチラリと見た。
﹁
なさいよ。ごめんねお兄ちゃん。こんなのが担任で大変ね。サダオ
ひでえなあ、ちゃんとやってるよ。三浦だってさっき、いいな
あんた、ちゃんと教員免許持ってんの?﹂
﹁
って言ってただろ?﹂ 宮本ににこにことそう言われた彼女は、思い切り顔をしかめた。
60
﹁
あんただって気付いてなかったから言ったのー。あんたが担任
なんて、絶対嫌よ、あたし﹂
可愛い声と柔らかいしゃべり方にごまかされそうだが、宮本に対す
る彼女は気持ち良いほど辛らつだ。
俺のことはいいから携帯教えろって。場所決めて連絡するから﹂
しかし、当の宮本は全く動じていない。 ﹁
彼女がおもむろにドアの前から身体をずらし、窓から中に向かって
息子の太朗です。太朗、おじちゃんにこんにちはして﹂ 手招きした。 ﹁
こんちあ!﹂
子供が運転席に移ってきて窓から顔を出した。
﹁
小さい子がいるから飲みには行けないわ。10年後なら大丈夫
愕然として子供を凝視する宮本に彼女が続けた。
﹁
かも。いや15年後かな﹂ 宮本撃沈。残念でした。彼女は子持ち人妻なんだよ。彼女が宮本と
親しくする気はないことに安心する反面、なんだか俺も一緒に沈め
﹁
ねーおかーしゃーん。もういくー。おやちゅかうーおみしぇい
三浦、いつ結婚﹂ られた気分だった。
﹁
くー﹂ そうだね。もう行こうかー﹂ 子供が退屈しだしたようだ。
﹁
彼女は息子に声をかけると、宮本じゃなく俺のほうに向き直ってに
じゃあねお兄ちゃん、ばいばい﹂ っこり笑うと小さく手を振った。
﹁
なんか、息子の大きいお友達扱いな気が多分にするが、可愛いし、
宮本の扱いよりはマシなので文句は言うまい。というか笑顔で手を
ばいばい﹂ 振る姿が可愛い過ぎて、心臓がばくばくした。
﹁
61
昨日と同じくぎこちなく手を上げ答えた。彼女の苦笑も昨日と同じ
だ。
車に乗り込む彼女に宮本が何か言いたげだったが、一度開いた口を
無念そうに噤んだ。
じゃあねサダオ、高校生に迷惑かけない様に先生頑張ってね。
何も言えないだろう。人妻だぞ。ざまーみろ宮本サダオ。
﹁
お兄ちゃんばいばい﹂ エンジンをかけた彼女が窓から俺らにそう声をかけ、再度俺に手を
振って、転回の為校内に向かって車を発進させた。
ああ、俺がこんなとこで待ってたせいで、彼女は車を右に寄せてた
んだな。一応矢印書いてあるのに思いっきり逆走してる。車で来る
彼女への配慮が足りず子供っぽいミスをしてしまった自分にがっか
りして、そんな事を物ともせず駐車場内とは言え余裕で表示を無視
する彼女が彼女らしかった。
駐車場内をぐるっとUターンした彼女の車は、向きを変えてもう一
度俺らの前で停止した。
お兄ちゃん!言うの忘れてたー。あたしの携帯探すのにお兄ち
助手席の窓が空いて、子供の顔越しに彼女が俺を見て叫んだ。
﹁
ゃんの携帯勝手に借りちゃった、ごめんねー!﹂ 片手をハンドルから外し、ごめんなさいポーズをとりながら眉を寄
﹁
ありがとー。ばいばーい﹂ 全然いいです﹂ せ、ごめんなさいの顔をしている。可愛い。
﹁
ばいばーい!﹂ 子供も俺を見ている。一応子供の顔を見て手を振ってみた。
﹁
俺に笑顔で手を振る子供もかなり可愛い。しかも嬉しい。やばい顔
がにやけるぞ。
彼女が俺の顔を見て、また笑いながら車を発進させた。
62
結婚してんのかよ・・・﹂
宮本が長いため息を吐いてしゃがみこんだ。
﹁
先生さようなら﹂ 宮本、お前はムカつくけど気持ちは分かる。同情はしてやろう。
﹁
項垂れる宮本を残し、さっさとその場を去った。
63
へえ、宮本先生と同級生だったんだ?﹂ 7.1 発信履歴
﹁
週明け早速、朝一で斉藤に報告中だ。
週末部活以外の時間は殆ど、彼女から受け取った俺の携帯を眺めて
﹁
何で来るって教えてくれなかったんだよー﹂ 詳しくは聞いてないけど、そんな感じだった﹂ は、彼女と交わした言葉や仕草を思い返してのた打ち回っていた。
﹁
﹁
それで?﹂ だから、教えたらついてくるからだって言ってんだろ、何回も﹂
さっきから政木がしつこく文句を言っている。
﹁
宮本が携帯教えろってしつこく言ってたけど、拒否られてたし、
斉藤が政木を流し始めた。
﹁
マージデー!俺見たかった!超見たかった!雑魚宮本見たかっ
めちゃくちゃ雑魚扱いされてた﹂ ﹁
た!﹂
そうなんだ。君たちもだけど、人って見かけじゃ分からないも
政木煩い。
﹁
何だと斉藤。それは俺が実はもてないと言ってるのか?﹂ んだね。宮本先生もててたっぽいのにね﹂ ﹁
違うよ、もててるのは知ってるよ﹂
煩い政木に、斉藤が苦笑しながら答えた。
﹁
ああ、緊張したけど普通にしゃべれた。可愛かった﹂ それで、君はその人と上手く話せたの?宮本先生が登場する前﹂
政木は阿呆面にはてなを浮かべた。
﹁
﹁
斉藤が今度は俺に苦笑した。
64
﹁
﹁
あ、涼、お前携帯番号手に入れたのか?いや待てよ、人妻だっ
そう。良かったね。携帯も無事戻ったんだね﹂ そうだよ人妻だよ。番号聞いたってかけられるわけないだろ﹂
たな。番号聞いても意味ねえか﹂ ﹁
聞けなかった。大体なんて言って聞けばいいんだ。宮本みたいに簡
単に食事に誘うことも出来ないのに。
でも彼女とこれからも繋がる唯一のチャンスだったのに。
お前懲りてねえなあ。諦める気全くねえじゃねえかよ。略奪す
また一切の繋がりが無くなってしまう。 ﹁
るつもりか?﹂
そんな事出来る訳ないだろ。でも今すぐ諦めるのは無理だ。も
政木にはっきり言われて本気でへこんだ。
﹁
う手遅れだった﹂
そう言った俺を、二人が気の毒そうな顔で見た。
居た堪れなくて机に突っ伏した。
部活から戻り、いつものごとく慌ただしく晩飯と風呂を済ませると、
携帯を持ってベッドに寝転んだ。
思わぬハプニングで彼女と接近することが出来た。
しかしもうすでに彼女なしの平常に戻ってしまっている。これから
は彼女と接する機会など皆無だ。
席替えのせいで姿を見ることさえ出来ない。
部活をサボって幼稚園前に立っていれば会うことは出来るだろうが、
何と言い訳するんだ?
部活終わって今帰りなんです。バス停に行く途中で? 今まで会わ
なかったのに急に部活からの帰り道になるのか?どう考えたってス
トーカーだろ。
このまま姿さえ見ることも出来なくなって、この思いもだんだん薄
れるのだろうか。
65
どこにもやり場のないもやもやした気持ちに、胸が締め付けられる
ようだった。
気分を切り替えたくて、何気なく手にしていた携帯を開いた。
これを彼女の車に落としたからもう一度会えたんだよな。またなん
か車の中に落としとけば良かった。馬鹿な考えが浮かぶ。
無意識に親指が押しなれたボタンを操作し、着信履歴の画面が現れ
た。
登録されていない番号が一番上に表示されていた。これは俺が斉藤
の携帯でかけたやつだな。
斉藤の番号登録しとこう。あいつ携帯持ってたんだな。4月に同じ
クラスになった時すぐに聞いとけば良かった。
登録完了し、着信履歴で斉藤の名前が表示されているか確認しよう
とした。
あれ、数字のままだ。でも、これさっきの番号と違う気がする。・・
・・・え、嘘。
心臓がどん、と跳ねた。これは、もしかして。もしかすると。
着信履歴だと思っていたそれは、発信履歴だった。
これ、もしかして、彼女の番号か?ふるえる指で着信履歴を確認す
ると、ちゃんと登録された斉藤の名前があった。
日付と時間を確認する。昨日の午後だ。きっと彼女だ。俺の携帯で
彼女の携帯探したって言ってたじゃん!なんで今まで気付かなかっ
た俺!
仕事中のどんな状況で携帯が行方不明になるのか理解できないが、
彼女の大雑把な性格のおかげで叫びだしたいくらい嬉しかった。
部屋で叫ぶと病院に連れて行かれかねないので、布団に顔を埋めて
唸ることで何とかその衝動を耐えた。
66
67
7.2 うん、俺頑張る in教室
昨夜は浮かれてしまったが、よく考えてみれば、彼女の番号を知っ
ていたところでどうだというんだ。
用もないのに電話出来る間柄ではない。しかも俺は、例え仲良が良
い奴にでも用がなければ電話等かけられない。自分が暇だからと連
それで落ち込んでるの?﹂ 絡してくる政木とは違うのだ。
﹁
斉藤に報告するのがすっかり日課になっている。
ついでに政木も聞いている。俺、人に悩みを話したりとか苦手なは
ずだったのに、恐るべし斉藤。何も聞いてこないのに話したくなる
﹁
何て言ってかけるの?﹂ かけりゃ良いじゃん。せっかく番号分かったんだからよ﹂ オーラが出てる。
﹁
何てって?これ俺の番号なんで登録お願いしマース、でいいん
斉藤が政木に尋ねた。俺も聞きたいよ。
﹁
﹁
俺も無理﹂ 俺はお前とは違うんだよ。そんな電話は出来ん﹂ じゃねえの?﹂ ﹁
斉藤はやはり俺の仲間だった。それに、彼女が俺の携帯から自分の
携帯にかけたんだから、俺の番号はすでに彼女の履歴に残っている。
確かにそうだね﹂ じゃあかけんなよ。どうせ仲良くなったって人妻なんだからよ﹂
政木が呆れた顔をした。
﹁
﹁
斉藤、お前はどっちの仲間なんだ。
68
﹁
このまま会えなくなって終わりかよ﹂
呟いた俺の台詞を聞き取ったらしい地獄耳の政木が、馬鹿にした口
終わらなきゃどうするんだよ。略奪する気はないんだろ?お友
調で言った。。
﹁
達にでもなりたいのかよ﹂
そうだな、俺本当にどうしたいんだろう。
﹁全く望みのない好きな人とお友達ってきつそうだね。俺好きな人
とかいたことないから良く分かんないけど。近くにいると諦めるの
がいっそう難しくなりそうな気はするよ﹂
そういうことだな。諦めたいんならこのまんま離れた方がいい
斉藤が残念そうに言い、政木が同意した。
﹁
んじゃねえの。友達でもいいから側にいたいとか言うんなら止めね
えけどよ。どうせどうにもなれないんだから、青春時代を無駄にす
る覚悟で挑めよ﹂ 俺は頭を抱えた。これ以上彼女と親しくなっても無駄なことは分か
・・・・分かってるけど会いたいんだよ﹂ ってる。彼女と俺がどうなるわけでもない。
﹁
思わず恥ずかしい本音が声に出てしまったが、しばらくどちらも反
なんか可愛そうになってきたよ。そうだ、略奪する気がないな
応してくれなかった。
﹁
ら、彼女が勝手に旦那さんと離婚するか死別するかの可能性にかけ
てみたら?それまでに一番仲良くなってたら、もしかしたら秋吉を
選んでもらえるんじゃない?﹂ お前・・・。死別って・・・。不吉って言うか失礼すぎるだろ、
斉藤の言葉に俺も驚いたが、政木も同じだったようだ。
﹁
旦那に。それにあったとしてもいつの話なんだよ。それこそ涼が人
生を無駄にするだろ﹂ 君、秋吉の人生の心配をしてるんだね。政木って良い奴だね。
斉藤が感心したような顔を政木に向けた。
﹁
69
でも、女の子との関係ばかりが人生じゃないんだから、例え長い片
思いになったって他のことをちゃんとやってたら大丈夫だよ。片思
いが辛過ぎて何も手につかないとかになるんなら、さっさと止めた
方がいいと思うけど﹂ 斉藤が、すでに何も手につかない状態の俺を微妙な目で見ながら言
そうだな。要は涼が人妻を好きなままでちゃんとしてられるか
った。
﹁
ってことだな。学校来なくなったり自殺したくなったりしないなら、
何でお前に許可とらなくちゃいけないんだよ・・・。でも、ま
このまま人妻を好きでいることを許可するぞ﹂
﹁
あそうだな。頑張ろう色々。うん、俺頑張る﹂ 斉藤案を採用しよう、離婚と死別の方。顔を上げて宣言すると二人
﹁
﹁
何だよ、何頑張るか分かってんのかよ﹂ ああ、頑張るみたいだな﹂ 頑張るんだね﹂ がまた微妙な顔をしていた。
﹁
分かってるよ。彼女と仲良くなるんだろ、そして実る可能性が
呆れた様子の二人に尋ねると斉藤が答えた。
﹁
そして、もてるのは今だけかも知れないのに、可愛い子を全部
限りなく低い長い片思いを頑張るんだよね﹂
﹁
・・・・・﹂ 振って寂しい高校生活を送るんだろ﹂ ﹁
とり合えず昼飯食おう。頑張るって決めたら腹減った。
ごそごそカバンを探って昼飯を取り出した俺に、二人が軽くため息
を吐いた。
70
71
ねえ思ったんだけどさ﹂ 7.2 残念 in教室
﹁
自分の席で弁当を食べだした斉藤が、目の前で横を向いて椅子に座
﹁
﹁
おう、その手があったな!﹂ 君、彼女に傘借りたって言ってなかった?﹂ 何?﹂ っている俺に言った。
﹁
え?あれは借りたというか、くれたんだよ。100円だからっ
俺が返事するより早く、パンを口に詰めた政木が答えた。
﹁
そうなの。それじゃあ、傘返すのは口実にならないか。あーで
て﹂ ﹁
も、傘と携帯のお礼したいからって言ったら1回は会えるんじゃな
い?﹂ 1回か・・・。1回だけ会えたってどうなるんだよ﹂
斉藤の言葉に背筋を伸ばして喜びかけたが、次の瞬間がっかりした。
﹁
政木に頭を殴られた。
お前なあ。それをさっき散々確認しただろ。どうにもならなく
睨みつけたが嫌そうな顔で非難された。
﹁
ても会いたいって涼が言うから、斉藤も考えてんだろ﹂ ﹁
いや良いけど。ほんとに政木って良い奴だね。びっくりしたよ﹂
ごめん斉藤﹂ そうだった。
﹁
な、何言ってんだよ!お前は男のくせに素直過ぎなんだよ!普
斉藤が政木を見て笑いながらそう言うと、政木がわたわたしだした。
﹁
通思っても恥ずかしくてそういう事は言えないのが男子高校生だろ
72
!お前実は女子高校生か!﹂ 照れて赤面し、口元を腕で隠すようにしている政木が滅茶苦茶気持
何赤くなってんだよ、気持ち悪いな。あ、そう言えば斎藤。俺
ち悪い。
﹁
の番号携帯に残ってるだろ?俺も斎藤の登録したから、斎藤も登録
しといて﹂
﹁え、ああ、うん。分かった。この前のだね?﹂ ずりいぞ!なんでだよー斉藤。俺聞いたのに教えてくれなかっ
斎藤と会話していると、政木が割り込んできた。
﹁
たじゃんかよう。俺にも番号教えろよー﹂ 君、用もないのにしょっちゅうかけてきそうだから嫌だよ。学
斉藤が笑みを引っ込めて、嫌そうな顔をした。
﹁
校時間外まで君の相手してる暇ないんだよ﹂ 将棋に連れて行った時点で政木のことを受け入れたのかと思ってい
たが、斉藤なりの線引きはしているようだ。
やっぱりいくら良い奴だって言っても政木を全部受け入れるのは鬱
陶しいよな。分かる。
斉藤の優しいけどはっきり自分の言いたいこと言うところも好きだ。
政木、お前も頑張れよ﹂ 政木も斉藤の良さに気付いてメロメロなんだな。
﹁
俺は彼女と仲良くなるから、お前は斉藤を攻略しろよ。
ショックを受けている政木が面白かった。
﹁
え、それは分からないよ。自分で考えてよ。そうだ政木の方が
礼って何すればいいんだ?﹂ ﹁
詳しいよね。女の人にお礼﹂ 礼?傘貰った礼かー。雨の日に傘忘れるだろー。で、女子に1
斉藤が政木に丸投げした。
﹁
73
00円傘貰う、か。政木くん傘忘れたの?これあげる。お、サンキ
ュー助かったよ。うーん、次売店で会った時にジュース奢るくらい
じゃね?﹂
﹁・・・・・・﹂
残念。一人芝居までしといて、全く役に立たなかったね﹂ 彼女と何処の売店で会うんだよ。
﹁
大好きな斉藤にぐさりとやられた政木は、ガタンと椅子を鳴らして
なんだと斉藤このヤロウ!見てろよ。おい加野!知り合いに何
立ち上がった。
﹁
か100円くらいのもんやって礼貰うなら何が良い?﹂
お菓子!﹂ 政木は近くの席に座っていた女子に説明もなくいきなり質問した。
﹁
意外にも即効で答えは返ってきた。
﹁
流石だね。俺には絶対真似出来ないよ。役に立たないとか言っ
ほらな﹂ 政木が得意げな顔で憎たらしく俺らを見下ろした。
﹁
てごめんね﹂ にっこり斉藤に謝られて、微妙に赤くなった政木が口を噤んだ。斉
良いんじゃない?お菓子。子供も食べられそうな安めのにした
藤が確信犯めいてきてるぞ。政木で遊んでるんじゃねえの。
﹁
ら彼女も断らないだろうし﹂ 斉藤に言われて考えてみる。確かにあんまり大げさな礼だと断られ
いいんじゃね?子供用駄菓子詰め合わせと彼女用女子が好きそ
る可能性もあるな。所詮高校生と大人だし。
﹁
うなチョコとかで﹂
﹁
おう!まかせとけ﹂ 政木、選ぶの付き合ってあげたら?得意そうだし﹂
復活した政木も同意した。 ﹁
斉藤に乗せられて政木がその気になっている。今日は政木と買い物
ということになりそうだな。まあ助かるけど。
74
放課後政木と共に菓子は購入した。店からの帰り、政木の助言でビ
﹁
呼び出しても、お前が幼稚園で待ち伏せしてもどっちでも良い
それで、俺どうやってこれ渡すんだ?呼び出すのか?﹂ ニール袋からシンプルな紙袋に移したそれを持ち上げ政木に尋ねた。
﹁
んじゃねえの﹂
幼稚園で待ち伏せか。時間は分かってるから部活休めばそれも可能
だ。でも他の母親の好奇の目にさらされそうだな。
高校生に待ち伏せされてプレゼント渡されるなんて、変な噂になっ
いややっぱり礼するのに呼び出すのは変か。一回電話して駐車
て彼女に迷惑をかけたりしないだろうか。
﹁
場に持っていって良いか聞いてみたらどうだ?﹂
そうだな﹂ 政木が役に立つことを言った。
﹁
会う前に断られないように上手く言えよ。もう用意してるから
確かに確認してからのほうが良さそうだ。
﹁
持って行っていいかって﹂
頑張る﹂
今日最も重要な助言が聞こえた気がする。 ﹁
﹁
いや、いい。自分で言う﹂ 大丈夫かよ。俺が朝窓から言っといてやろうか?﹂ 政木が不審そうな顔をした。
﹁
せっかくの彼女と話せるチャンスを、みすみすお前に譲ってたまる
か。
75
76
7.4 清城高校の秋吉です
それから二晩、電話を片手に固まる事態に陥った。
迷惑がられるんじゃないかとか、何て話せばいいんだとか、ぐだぐ
だ考えてしまう自分が嫌だ。彼女の番号を表示するだけでばくばく
涼ー!いい加減にしろよ。こういうのは早めにやっとかないと
しだす心臓にも情けなくなる。俺こんなにへたれだったんだ。
﹁
気持ち悪いかはともかく、日が経つほど連絡しづらくなるのは
タイミング外して気持ち悪い奴になるだけだぞ﹂ ﹁
確実だよね、ほんのちょっとしたお礼なんだからさ﹂
昨日は呆れたように傍観していた二人が、放課後ついに口を出して
分かってるよ﹂ きた。
﹁
分かってるけど、かけられないんだよ。俺だって毎日家帰ってから
今日中に連絡しねえと、明日の朝俺が彼女に声かけるからな。
携帯とにらめっこで頑張ってんだよ。
﹁
絶対今日電話しろよ﹂
﹁
政木は君を心配してるんだよ。しゃべらないし笑わないしぼん
何でお前がキレてんだよ﹂ 政木がキレ気味だった。
﹁
やりしてるし、授業も聞けてないだろ?ちゃんとやってんのは部活
・・・・﹂ だけじゃないか﹂
﹁
そんなことになると思ったから諦めろって言ったんだよ。やっ
部活中の俺を斉藤は見ていないはずだが、何故か反論できん。 ﹁
77
ぱり酷くなってるだろお前﹂ 酷くなってるとは、俺が酷く悪い状態になってるということか、彼
女に対する気持ちが前より酷くなってるということか。両方だろう
﹁
良かった、頑張ってね。ねえ政木。明日の朝って、もしかして
分かったよ。今日連絡する﹂ な、うん確かに酷くなってる。
﹁
授業中に窓から叫ぶつもり?それはあんまりだから、秋吉の携帯で
電話してあげたら?﹂ 斉藤の提案で、政木が明日必ず彼女に連絡することが非常に現実的
になってしまった。
代理で電話してもらうなんて、子供みたいじゃないか。これは何が
なんでも今日中に彼女に連絡しなくてはならない。
いつも通りバタバタと飯と風呂を済ませ、二階の自分の部屋で正座
した。
部活を休んで頑張ろうかとも思ったが、結局ためらう時間が長引く
だけなので止めた。
もう20時前だ。すぐに電話しなくては、子供は寝る時間だ。太朗
が寝てしまってからでは迷惑になるだろう。
もしかするともう寝ているかもしれない、迷惑がられるんじゃ、と、
言う不安が頭を過るが、政木の顔を思い出したことで何とか振り払
えた。
政木に代理で電話されるのだけは嫌だ。
それがなくたって、今日かけなくても明日も明後日も悩むのは同じ
だ。
後ろ向き思考の闇に陥る前に、超気合で通話ボタンを押した。俺、
この修行で強くなれるかも。
呼び出し音がなるが、どう考えても心臓の音が勝っている。俺の心
78
臓って結構力あるな、と変なことに気をとられていると、呼び出し
はい﹂ 音が止まった。
﹁
あ、今晩は。あの、突然すいません﹂ 彼女の声、だ、と思う。
﹁
声を発しない彼女に、彼女は俺の番号を登録などしていないだろう
清城高校の秋吉です。この間は携帯持ってきてもらってありが
と言うことに気付いた。だって俺、名乗ってさえいないし!
﹁
とうございました﹂ ああ、お兄ちゃん?びっくりしたー。誰かと思ったよ﹂
電話の向こうの空気が和らぐのを感じた。
﹁
﹁
あははーいいよー。どうしたの?﹂
すいません。携帯に番号残ってたんで勝手にかけちゃって﹂
やっぱり不審がられてた。 ﹁
彼女から穏やかに尋ねてくれたので、物凄くどきどきするけど、何
えっと、いろいろお世話になったんで、お礼したくて、あ、っ
とか話せそうだ。
﹁
えーいいのに気にしないで。今時の高校生ってちゃんとしてる
ていってもただのお菓子なんですけど﹂ ﹁
んだねー。なんか気を使わせちゃってごめんね﹂ いや、スミマセン。不純な動機なんです。男子高校生はたぶんいつ
いや、あの、ほんと大したもんじゃないんで。夕方幼稚園の駐
の時代も全くちゃんとしてません。
﹁
車場に持ってっていいですか?﹂ お兄ちゃんが来てくれるの?わざわざごめんね﹂ 反応が怖かったがすぐに返事があった。
﹁
いや、隣なんで﹂ 迷惑がられてはないっぽい声だった。良かった。
﹁
彼女が笑った。
79
﹁
﹁
﹁
いーよー。じゃあ明日駐車場にいるね。17時過ぎ頃だけど大
あ、えっと、明日大丈夫ですか?﹂ そうだったね、近いんだった!いつ?﹂
丈夫?﹂
﹁はい﹂
え、あ、はい﹂ ﹁あ、あと、お兄ちゃんの番号登録しといていい?﹂ ﹁
あ、じゃああたしのも登録しといてー。明日都合悪くなったら
うわあ!やった!
﹁
はい﹂ 連絡してね﹂ ﹁
スミマセン!すでに登録してます!
﹁
は、はい?﹂
あ、そうだ。あのねえお兄ちゃん。お願いがあるんだけどさ﹂ 嬉しさに身もだえしていると、彼女が言った。
﹁
お兄ちゃんが知ってるとは多分気付いてないと思うんだけど、
ななななな何だろう。ばくばくが急激にでかくなった。 ﹁
もし先生に聞かれてもあたしの携帯教えないでくれる?﹂ あ、はい。了解です。何か付きまといそうだったですよね﹂
サダオか!
﹁
変な言葉になってしまった。
ねえ、そんな感じしたよね。と言う訳で宜しくね。えーっと、
彼女が小さく笑った。
﹁
サダオがあたしのことでお兄ちゃんに何か迷惑かけるようだったら
﹁
あはは。そうね。あたしの方が強いわきっと﹂
あ、はい。というか、たぶんじゃないですよね?﹂
連絡してね。たぶんあたしの方が強いから﹂ ﹁
すげえ、話題が宮本なのはあれだけど、彼女と普通に会話してる俺
! 80
宮本先生は同級生なんですか?﹂ 赤くなる顔を気にしなくていいのが随分気が楽だ。すげえぞ電話。
﹁
頑張って聞いてみた。何か話さないと速攻それじゃあねバイバーイ
﹁
﹁
長いよねー。ちなみに保育園も一緒だったらしいけど憶えてな
げ、そんなに・・・?﹂
うん、そうなのよ。小中高いっしょだったの﹂ と言われそうだ。
﹁
いのよね。高校はねえ、中学校の近くに公立高校があったからそこ
に進む子多かったのよ﹂ 宮本先生って確か第一高校ですよね。仲良かったんですか?﹂ 宮本太ってた上に存在感も薄いのか。すげえな。
﹁
彼女も家があの辺ってことかな。第一って言ったらうちの学校と俺
そうそう第一。まあ高校では一度もクラス一緒になってないし、
の家の間くらいだな。近いじゃん!
﹁
そう仲良くもなかったんだけどね。小中で何度か同じクラスだった
そうなんですか﹂
から、ほどほどに友達だったと言うか﹂ ﹁
特に仲良くもなかったってことか。やっぱりな。でも宮本は明らか
うん。ちっちゃくて丸いイメージだったんだけどねー。なんか
に昔好きだったっぽかったよな。 ﹁
悪魔みたいだったんですか?﹂ 形は変わってたね。中身は変わってないみたいだけど﹂
﹁
何ー?あいつ悪魔みたいなの?あはは。いや、悪魔じゃなかっ
彼女が笑った。
﹁
たけど﹂ 彼女は面白そうに笑い続けた。良いな。楽しいなあ。ずっと話して
あ、ごめん!太朗がお風呂あがるみたい。じゃあ、また明日ね﹂
いたい。
﹁
81
﹁
ばいばい。またねー﹂ あ、はい﹂ ﹁
彼女が慌しく電話を切った。そうか、太朗は風呂に入ってたのか。
入れてたのは旦那か。せっかく明日の約束を取り付けて、楽しい会
話をできたのに、後味は最悪だった。
82
電話できたんだろ?なんでそんなにどんよりしてんだよ﹂ 7.8 しゃんしゃい!
﹁
﹁
あほだなーお前。分かってたことだろ﹂ 旦那さんの存在を目の当たりにして落ち込んでるんだって﹂ 政木に怪訝な顔をされた。
﹁
分かってるよ。今はどうにもならないけど、やっぱり諦める方
そうだな政木。だからお前は止めとけって言ってんだよな。
﹁
え?そうなの?まあ、俺もその方が良いような気がする。君、
向で頑張る﹂
﹁
おう。そうしろ。礼したらきっぱり忘れろ﹂ 辛そうだし﹂ ﹁
うう。礼なんて、余計なこと考えるんじゃなかった。
彼女に会える放課後が待ち遠しい。でも、やっぱり親しくなればな
こんにちはー。か、こんばんはか悩む時間だねー﹂
るほど辛さも倍増するのを実感した。
﹁
彼女がにっこり微笑みながら車から降りてきた。今日は膝丈のスカ
ートにシンプルな女っぽいTシャツだ。可愛い。
なるべく目立たないように駐車場の端っこで待っていたが、やはり
幼稚園に制服姿の高校生は異質だった。
一斉降園の時間でなかったことが救いだ。前の通りの通行人はとも
こんにちは﹂ かく、幼稚園の関係者の出入りはほとんどなかった。
﹁
俺も挨拶すると、彼女が近づいてきて俺の顔を覗き込んだ。
また髪濡れてるね。あーもしかして、まだ部活終わる時間じゃ
見られてるのは多分顔じゃなくて髪だったけど、緊張した。
﹁
83
あ、でも大丈夫です。今日学校昼までだったから結構泳いだし。
ないんじゃないの?﹂ ﹁
これ、太朗君と食べてください﹂ 何かごめんねー、わざわざ。部活ま
俺が言って紙袋を差し出すと、彼女は申し訳なさそうに眉を下げて
ありがとうございます。
それを受け取った。
﹁
でサボらせちゃって。この前もそうだったんでしょ?怒られない?﹂
丁寧に小さな頭を下げる姿が可愛くて悶えそうだったが、なんとか
﹁
そうなの?あ、これ太朗大好きなのよー。喜ぶわありがとう!
厳しい部じゃないんで問題ないです﹂ 質問に答えた。
﹁
ちょっと待ってて、太朗連れて来るから﹂
彼女が綺麗な髪を揺らして紙袋を覗き込み、それから可愛い笑顔で
あ、はい﹂
俺を見上げた。
﹁
政木でかしたぞ。お前の甥っ子と太朗の好みが合ったみたいだぞ。
彼女が園の門の中に消えた。けどすぐ出てきた。そして、俺を手招
一緒に入ろう。そこで立ってるの恥ずかしいでしょ﹂ きしている。
﹁
幼稚園に踏み込むのもためらわれたが、確かに恥ずかしいので彼女
あーおっきいおにーちゃーん!﹂ に従った。
﹁
帰り支度をして靴箱の近くに立っていた太朗が、俺を見つけて飛び
跳ねた。
いつも車に座っていたので、太朗の動く全身像を始めて見た。
彼女の子供らしく、顔が小さく体型も細めで、数えられるくらいし
か残っていない室内の他の子達と比べても、可愛らしく活発そうな
84
こんちは﹂ 子供だった。
﹁
太朗に軽く手を振って言うと、太朗が靴を両手にひとつずつ持った
こんちあー!﹂ と飛び跳ねながら廊下を進んできた。
あこら、太朗!靴はきなさい!﹂ まま﹁
﹁
廊下に外壁はなく全体が園庭に繋がっているが、靴は靴箱の近くで
履くことになっているようだ。 お兄ちゃんがくれたよー﹂
太朗が跳ねながら戻って行った。元気だな。
﹁
ありあとー!﹂と叫んだ。凄いな、
彼女が太朗に紙袋の中身を見せると、太朗が物凄く嬉しそうな顔を
して俺を見た。
彼女に促され、俺にむかって﹁
駄菓子。
少し離れた場所で二人を眺めていると、教室の中から彼女に気づい
こんにちはー三浦さん。今日も太朗君は元気いっぱいでしたよ
たおばちゃん先生が出てきた。
﹁
ー。あら?﹂ おばちゃん先生が俺に気付いて首を傾げた。太朗が靴を履き終わり、
俺のほうに跳ねて来る。
おにーちゃーん!よーちえんにあしょびにきたのー?ぷーるし
面白れえなあ小さい子って。脚のばねどうなってんだ?
﹁
え?ああプールか。したよ﹂ たー?﹂ ﹁
彼女は時々こちらを振り返りながらおばちゃん先生と何か話してい
る。俺の説明でもしているんだろう。
彼女の方を窺っていると、不意に何か柔らかいものが手にふれた。
見下ろすと太朗が俺の手を握っていた。
そして一生懸命引っ張っている。なんだこのふにゃふにゃのちっさ
い手は!可愛すぎるだろ!
85
めちゃくちゃ小さくて柔らかい手から与えられる何とも言えない愛
しさは衝撃的で、俺にこんな母性のような感情があったのかと驚か
﹁
何を動かすんだよ。どうしたんだ?﹂ おにーちゃんうごかしてー﹂
された。
﹁
﹁
お兄ちゃーん。太朗、お兄ちゃんにプール見せたいんだって!
ぼくのぷーるきいてー。おいれー﹂
太朗の日本語は難解だ。
﹁
見てやってー﹂ なんだそういうことか。
ぼくのぷーるー﹂ 太朗にひっぱられるまま園舎の奥のほうに向かった。
﹁
なかなか良いな﹂
意外にでかいプールだった。
﹁
太朗は気が済んだのか、しゃがんでその辺の石をひっくり返し始め
た。
彼女のほうを窺うと、まだおばちゃん先生と話中だ。
﹁
ころころぬししゃがしてるんなもん!﹂
なにやってんだ?﹂ 俺も太朗の近くにしゃがみ込んで尋ねた。
﹁
俺は石ひっくり返しマンを見ながら結構長いこと悩んだ。期末の日
・・・・・・だんごむしか!あースッキリした。俺すげえな、
本史の4択くらい悩んだ。そしてついに分かった。
﹁
なあ太朗。俺すげえだろ?だんごむしだろ?おい、太朗ってば﹂
太朗は全く俺の声が耳に入っていない様子で石をひっくり返しまく
ぜんっぜん聞こえてねえな。耳にふたついてんの?お前の日本
っている。 ﹁
語って、古文くらい難しいよな。どうやってしゃべってんだ?﹂
86
﹁
ぼくねえ、にんげん!﹂ 俺の顔を見上げて、全開の笑みで言われた。
確かに!お前は人間だな!俺もだ。お前すげえな、俺を吹き出
思わず吹き出した。可愛すぎだろ。
﹁
させるなんて。太朗お前、としは?﹂ ﹁
ぼく、しゃんしゃい!﹂ 太朗、何歳?﹂ 俺が聞くと太朗がきょとんとした。
﹁
元気に片手を突き出して言ったが、指が4本立っている。まずい、
どっちなんだよ。お前可愛いなあ。計算してやってんのか?﹂
顔がにやける。
﹁
太朗が俺の冗談など理解できるはずないのに、俺を睨んで頬を膨ら
あはは何怒ってんだ?やっぱ計算だったのか?﹂ ませた。
﹁
可愛いだけの怒り顔につい笑いながらふざけると、太朗が唇を尖ら
かわいいなないよ!ぼくおとこのこなもん!かっこいいなもん
せて言った。
﹁
そこか!﹂ !﹂ ﹁
太朗に突っ込みを入れたところで、背後から吹き出す可愛い声が聞
こえた。
うわ!﹂ 振り返ると彼女がいた。何故かおばちゃん先生も。
﹁
驚いて立ちあがった。一体いつからそこに。
だんごむしに悩んでるとこから。かなり面白かった﹂
彼女が笑いを堪えながら俺の考えを読んだ。
﹁
恥ずかしい。太朗と同レベルで会話しているのを聞かれていたなん
太朗くんお兄ちゃんとお友達なのねえ﹂ て。顔が真っ赤になるのを感じた。
﹁
87
﹁
おう、三歳じゃない。絶対﹂
えーおにーちゃんしゃんしゃいじゃないよねえ﹂ おばちゃん先生が太朗に呼びかけた。
﹁
俺を真下から見上げて聞く太朗に小さく答えた。
88
ねえ三浦さん。すごく仲良しじゃない。来てもらったら?せっ
7.8 あれ?俺
﹁
かく知り合ったんだもの、太朗君も喜ぶわよ。彼、力持ちそうだし﹂
いえでも。急だし、お兄ちゃんに迷惑ですから、部活もあるし﹂
何の話だ?
﹁
なんだ?
家族の日って言う行事がね、天候不良で順延してるんです!太
俺の怪訝な顔におばちゃん先生が答えた。
﹁
朗君のおうち、大人の方がお仕事でお母様しか来られないっておっ
しゃるから、せっかく大きなお友達が出来たんだし、お誘いしたら
え?俺ですか?﹂ って言ってたんですよ!﹂
﹁
え!俺!?
そう!すごく小さい運動会みたいな行事なんですけどね。家族
おばちゃんは俺を見て人の良さそうな顔で大きく頷いた。
﹁
とか親戚とか知り合いとか、誰でも一緒に来て下さいってことにな
ってて、力のいるゲームが割と多いんですよ﹂
隣で、いいの気にしないでって感じの顔をして手を振っている彼女
幼稚園の方も出来るかぎりお手伝いしますけど、太朗くんの他
が気になるが、おばちゃんが期待に満ちた目で俺を見てる。
﹁
にも大人の参加が少ないおうちもあるから、手伝えることにも限り
がありますしね。お母様だけで頑張られるのも大変だと思うんです
よねえ。せっかく太朗君と仲良くなってくださってるから、是非来
え?﹂ てくださらない?﹂ ﹁
明日なのよ。部活あるでしょ?﹂ もう一度彼女を見た。困った様に眉を下げていた。
﹁
89
﹁
いや、夏は人数少ない方が喜ばれるから、部活は問題ないんで
すけど﹂ 連絡さえすれば部活は問題ない。
でもどうしたらいいんだ?彼女は俺にどう答えて欲しいんだ?今度
あら良かった!ねえ太朗君!家族の日にお兄ちゃんに肩車して
はおばちゃんを窺う。
﹁
もらったり、高い高いしてもらったりしたいよねえ﹂ 太朗はおばちゃんの言葉に、わくわくしたのが丸分かりの顔をした。
たたぐるまー!﹂ 一体家族の日って何なんだ?しんどそうなイベントだな。
﹁
太朗が今すぐ俺の頭に上る気満々の顔で、短い腕を伸ばしてきた。
太朗今じゃないんだ。お前も、家族の日分かってないな?
太朗の脇に後ろから手を突っ込もうとすると、抵抗して体の正面を
肩車だろ?そっちじゃねえってこら、後ろからなんだって﹂ 俺にむけようとぐるぐる回りはじめた。
﹁
何とか後ろから捕まえた太朗を持ち上げながら、意を決して彼女に
家族の日ってきつそうですね。俺出ます?﹂ 聞いた。
﹁
何かが起こる予感にばくばくだけど、持ち上げられただけできゃー
いいの?﹂ きゃー喜んでいる太朗のおかげでいつもよりはマシだ。
﹁
彼女が目を大きくして驚いた後、可愛い顔をしてそう言った。確認
がおねだりに見える!顔が赤くなるし!
頭の上まで持ち上げた太朗の尻で顔を隠しながら、内心声を出すの
全然いいですよ。太朗可愛いし﹂ あなたも可愛いし!
も必死だ。
﹁
おばちゃんの提案を俺が引き受けたことが、彼女を喜ばせたのかそ
うでないのか酷く気になったが、太朗の肩車が難航して彼女の表情
90
﹁
﹁
だから肩車なら足ひらけって。俺の肩に座るの。頭に掴まって。
いーやーたたぐるまー﹂ おい足ひらけって。肩車するんだろ?違うのか?﹂ を窺うことは出来なかった。
﹁
だーからそれじゃ頭車だろ?足ひらけって﹂ ﹁
﹁
するから足開けってば。いや、全然重くはないんですけど、俺
いーやーたたぐるまー!﹂ ごめんねー重いでしょ。降ろしていいよ﹂ 彼女が後ろで笑い出した。おばちゃんも笑っている。
﹁
重くないの?すごいねえ男の人って﹂ の日本語じゃ通じないみたいです﹂ ﹁
彼女が笑いすぎの証拠である涙を拭きながら俺の正面に回ってきた。
太朗の尻で彼女がまた視界から消えた。
太朗の足が無理やり開かれる。どうやら説明せずに実力行使にでた
ようだ。確かにその方が早い。
持ち上げっぱなしだった太朗の身体を頭上で後ろ側にひき、ようや
く開いた足の間に頭を突っ込んだ。
彼女の顔がめちゃくちゃ近くにあった。
心臓が止まりそうだった。
太朗の膝辺りををまだ掴んだままだった彼女が俺を見上げ、至近距
離で目が合う。死ぬ!やばい俺!
良かったねー太朗!初めてだね肩車﹂ 彼女の視線はすぐに俺の顔を通り過ぎ、更に上に向かった。
﹁
あらー初めてだったの?良かったわねえ太朗君。こういう力技
助かった。太朗のおかげで生きていられた。
﹁
﹁
きゃー!たたぐるまー!﹂
そうですねー。太朗楽しそーう﹂ ばかりはねえ、男性には敵わないのよねえ﹂ ﹁
太朗はめちゃくちゃ興奮していた。
91
﹁
暴れるなって、落ちるから!﹂ 俺は赤面する暇もなく、すぐにまた太朗と格闘することになった。 あれ?俺、何の約束したんだ?
あれ?俺、菓子渡したら彼女のこと諦めるんじゃなかったっけ?
92
7.9 動き易い格好で
動き易い格好で10時までに幼稚園。おばちゃんに言われたのはこ
気が変わったら無理しなくてもいいからね、 と言って
れだけだった。
彼女は、
いた。
来てくれたらすごく嬉しいけど、無理しないで良いよほんとに。
心配だったので、俺が行っても良いのかどうかをもう一度確認した。
﹁
私も始めて参加する行事なのよ。先生のさっきの話聞いたら怖くな
ってきたわ。あたし運動苦手なのよー。しかも家族そろって腰悪く
て、あたしもぎっくり腰経験者なの。太朗持って走るゲームとかあ
﹁
ありがとう!助かる!﹂
やっぱ、絶対行きます﹂ ったらどうしよう﹂
﹁
彼女の真剣な顔に俺が必要とされているのを感じたので、張り切っ
て参加することにした。
当日は彼女以外の家族は来ないと分かっていたのが大きかった。
小学校の頃の遠足前日よりわくわくどきどきして布団に入った。
部活に行く日より余程早起きしてスタンバイしていたら、携帯がな
﹁
おはよー。もうおうち出たー?﹂
はい﹂ った。彼女だ。
﹁
朝から彼女の声を聞けて物凄く嬉しい。俺、どれだけこの人のこと
﹁
ああ、良かったー。今日たぶん園の駐車場いっぱいになるから、
いや、まだです。そろそろ出ようと思ってたとこです﹂ 好きなんだろう。 ﹁
93
少し離れたところに停めるつもりなのよ。待ち合わせしにくいから
え?﹂
一緒に行かない?迎えに行くから﹂ ﹁
この前のコンビニでいいよね?電車とかで来るより車の方が早
彼女が続けた。 ﹁
それはそうですけど、いいんですか?幼稚園と逆方向ですよね、
いでしょ?﹂ ﹁
俺んち﹂ まあ逆だけど、近いからいいのよ。それに太朗のためにわざわ
彼女が笑った気配がした。
﹁
ざ休みの日に出てきてもらうんだもん。20分後くらいでいい?﹂
はい。お願いします﹂
すみません。どちらかと言うと、母親のために行きます、俺。
﹁
服はこれで良いんだよな。ジャージなの俺だけだったらどうしよう。
白地に紺のラインが入ったスポーツ用のTシャツに黒い部活用のジ
ャージを見下ろした。
ジャージっていっても校外のプールまで移動したりするとき恥ずか
しくないような、大丈夫なやつだ。大丈夫だろ。
おはよー。今日はありがとう、宜しくねー。乗って﹂ コンビニの駐車場で自分の服を見下ろしていると、彼女の声がした。
﹁
彼女が朝から可愛い顔で笑ってくれて、俺は満足だ。ばくばくする
のも幸せだ。
この間と同じように運転席の後ろのドアを開けると、後部座席の奥
﹁
おにーちゃんぼくとよーちえんいくんなもんねー﹂
あ太朗だ。おはよ﹂ に太朗が座っていた。
﹁
太朗おはよーは?お兄ちゃん前にいーよ。後ろ狭いでしょ?﹂ いきなりしゃべりだした。
﹁
94
彼女が俺に声をかける。どうしよう、彼女と並ぶのも魅力的だけど、
﹁
いーよー。どーじょー﹂ 後ろでいいです。幼稚園行くよ。太朗、車乗っていい?﹂ たぶん俺緊張しすぎてしゃべれないよな。
﹁
ねー、かたぐるまきょうもするのー?﹂ 小さい友達太朗が機嫌よく俺を迎え入れてくれた。
﹁
え、俺分かんないなあ。でも先生がやるって言ってたからな、
太朗に可愛く尋ねられた。
﹁
たぶんするよ﹂
﹁
お前、肩車言えるようになったな。すごいな一日で﹂ やったーかたぐるまー﹂ 太朗がにこにこした。
﹁
おそるおそる太朗の頭に手を乗せてみる。子供の髪って柔らかいん
ぼくしゅごいれしょー﹂ だなあ。俺の毛とは全く違うな。
﹁
昨日、帰りの車から寝るまで、ずーっと肩車の話ししてたから
彼女が運転席で笑った。
﹁
﹁
﹁
そうか、お母さんが好きなんだな﹂ 俺もお前のお母さんが好
しゅきー。ぼくねえ、おかあしゃんしゅきー﹂ そうなんですか。お前よっぽど肩車好きなんだな﹂ ね太朗。500回くらい肩車って言ったんじゃない?﹂
﹁
今肩車の話でしょ﹂ きなんだよなあ。
﹁
﹁
﹁
﹁
﹁
ぼくてんしゃいなないもん。しゃんしゃいなもん!﹂
肩車の3段活用か?お前天才だな﹂ たたぐるまーかたぐうまー?たたぐうまー?﹂
たたぐるまに戻ったぞ﹂ たたぐるまもしゅきー﹂ 彼女が可笑しそうだ。
﹁
95
噴出す声に前を向くと、ミラー越しに前をむいたまま楽しそうに笑
う彼女が見えて、何だかすごく嬉しかった。 今日だけ幼稚園が借りてくれているという銀行の駐車場に車を停め
て、歩いて幼稚園に向かうらしい。
車から降りた彼女は今日も可愛かった。白シャツに濃いネイビーの
スキニーデニム、そしてカーキのカジュアルなハットをかぶってい
た。
俺、やる気出しすぎですかね?これ﹂ 後ろでひとつにまとめた髪も似合っていた。
﹁
自分のジャージを指し尋ねた。彼女がデニムだったからだ。俺も普
大丈夫、お父さん達は皆そんな感じよ。あたし達は日焼けとか
通の格好で良かったんじゃないの?
﹁
体型とか、色々都合がねー、あるからね﹂
前を見て歩く彼女の横顔が可愛く笑った。体型とかって言われると
ついつい視線が彼女の身体をなぞる。
上半身より下半身が肉感的なタイプのようだ。上半身の細さのわり
お兄ちゃん制服じゃないと感じ変わるね。やっぱり水泳部だけ
に、尻と太ももが色っぽい感じだ。
﹁
あって身体すごそうだし。お兄ちゃんと同じような格好でも、お父
さん達は大概お腹出てるからねー﹂
褒められたってわけでもないのに顔が赤くなる。彼女が帽子のつば
でこっちを見辛そうなのが救いだった。 96
97
7.9 はい、いやでも、
話しながら歩くとか、デートみたいだ。あまりに緊張するので太朗
に助けを求めることにした。
太朗は丁度、車道に駆け出そうとしては彼女に後ろから体操着の背
中部分を鷲掴みにされて軌道を修正されていた。
かなり荒っぽいが、手を繋ぐのを物凄く嫌がるのでしょうがない様
太朗肩車してっていいですか?危ないですかね?﹂ だ。野放しにすると間違いなく一瞬で車にひかれるし。
﹁
彼女に却下された場合にまずいかも知れないので、太朗に聞こえな
いよう小声で彼女に尋ねた。
ありがと!真っ直ぐ歩かないから助かるー。絶対歩かせる方が
彼女はまた嬉しそうに笑ってくれた。
﹁
危ないし﹂
太朗、幼稚園まで肩車するか?﹂
彼女の笑顔にどぎまぎしながら頷いて、太朗の頭を軽く叩いた。
﹁
太朗が後ろにひっくり返るんじゃないかというほど勢い良く俺を見
しゅる!﹂ 上げ、すぐに俺に尻を向けた。
﹁
そして、早く持ち上げろとばかりに、ペンギンみたいに腕をばたば
たさせた。
苦笑しながら驚くほど軽い太朗の身体をひょいと持ち上げると、今
上手いじゃん。昨日のはなんだったんだよ﹂ 日は勝手に足を開いた。
﹁
昨日は時間かかったよねえ﹂ 昨日の100分の1くらいの時間で乗せられたな。
﹁
98
彼女が歩き出した俺の真横から太朗を見上げた。
しまった。太朗を追いかけなくて良くなった彼女が、完全に俺の隣
を歩き出してしまった。物凄く近くなっちゃったぞ!
緊張をなくすために太朗を肩にのせたのに、一層どきどきが酷くな
ったじゃん!
しかしやっぱり太朗のおかげで、すぐに動悸など気にしていられな
﹁
﹁
﹁
太朗!髪の毛は引っ張ったら駄目。お兄ちゃん痛いでしょ。髪
じゃあ、じっとして、ちゃんと頭に掴まってろよ。痛て﹂ いーや!﹂ 暴れるなって。動くなら危ないから降ろすぞ﹂ くなった。
﹁
﹁
﹁
それは髪の毛。頭知ってるでしょ?うーん、おでこ!おでこに
痛て﹂ あたまってなにー?これー?﹂
の毛じゃなくて頭に掴まって、あたま﹂ ﹁
﹁
しょう!しょこー!オッケイ!﹂ おでこーここー?﹂ 掴まって﹂
﹁
太朗昨日、生まれて初めての肩車だったからねー。全然やり方
彼女が身振りを加えて、何とか太朗の手が俺の額に落ち着いた。 ﹁
分かってなくて面白かったよね﹂ 歩き出した彼女が俺を見上げる。今日は動くからかスニーカーを履
いているので、昨日までよりちょっと小さく感じる気がした。
まあでも極めて小さいって言う訳でもない。153とか4とか5だ
ろうなと思う。顔が小さいので近くで見るととても小さい感じがす
ああ、初めてでやり方が分からないからあんなに頑なに足閉め
るのだ。
﹁
だろうねえ。太朗が肩車を知ってたことにまず驚いたんだけど
てたんですか?﹂ ﹁
99
ね。やっぱりどこかで見てるのねえ、テレビかなあ?﹂ ほんとにありがとうねー。太朗すごく楽しそう﹂
三歳で肩車デビューか、そんなもんなのかな。
﹁
彼女が俺の顔を見上げて笑顔で礼を言った後、嬉しそうに太朗を見
確かに楽しそうですね。こんだけ喜んでくれたら俺も嬉しいで
た。
﹁
す﹂ いや彼女が嬉しそうだからってだけではなくて、ほんとに、太朗大
喜びだから。 旦那はやらないんだろうか。家族で腰痛もちって言ってたな。旦那
うち男勢も腰が良くないからねー。抱っこが精一杯なのよね﹂ もなのかな。
﹁
やっぱりそうみたいだ。でも勢って?じいちゃんもってことかな。
何か太朗気の毒だなあ。
父ちゃんの頭の上に持ち上げてもらって飛行機になったり、父ちゃ
んの肩に立って天井にタッチとかやったことないんだろうか。
あんなの小さいうちにしか絶対経験できないのに勿体無いなあ。高
いところ好きそうだし後でやってやろ。
わざわざ聞きたくはないが、俺がここにいる理由でもあるし、話の
﹁
延期が続いたから、あたし以外仕事で都合がつかなくなっちゃ
あの、今日は他の家族の人は?﹂ 流れ的に聞かないと変な感じなので一応尋ねた。
﹁
そうですか。梅雨の行事なら室内にしたほうがよさそうですよ
って﹂ ﹁
ね﹂ 彼女がもう少し何か言いたげな顔をしているように見えたが、旦那
の話は詳しく聞きたくもなかったので気付かない振りをした。
俺って性格悪かったんだなあ。知らなかった。
100
駐車場は彼女の言ったとおり満杯だった。
あんな停め方してたら奥の方の車絶対出られないですよね・・・
駐車場だけではなく園庭も人でいっぱいだった。
﹁
﹂ そうなのよ。出るとき困るの。それでもやっぱり小さい子連れ
呆れた俺に彼女が笑った。
﹁
てると歩きたくないのよねえ﹂
そう言う彼女もわりと大きめの荷物を肩に下げていることに今更気
スミマセン!俺、荷物持てば良かった、気付かなくて﹂ 付いた。
﹁
ばか俺!何で気付かなかったんだ!
あはは何言ってるのよ。一番でっかい荷物持ってくれてるじゃ
後悔して謝る俺を見て、彼女が笑った。
﹁
ん!﹂ 一人だったら、荷物持って太朗抱っこして歩くんだから。今日
彼女が嫌がって抵抗する太朗を俺の頭から抱きとりながら言った。
﹁
はお兄ちゃんのおかげで凄く楽だったよ。この子進むべき方向に進
そりゃ、腰も痛めそうですね。太朗お前、せめて母ちゃんとふ
まないから、結局嫌がって暴れるのを抱えて歩くことになるし﹂ ﹁
たりの時はまっすぐ歩けよ﹂ 太朗はそう言った俺を完全に無視して、園児達が集まっている場所
﹁
聞いてないっすね﹂ 聞いてないね﹂ へと走りだした。
﹁
イベント開始まで少しだけ時間があるようだ。
園庭を見渡すと、中央を空けてその周りを囲むようにたくさんの大
人達がシートを広げて座っていた。
101
老若男女様々で、一番少ない年齢層ではあるが、俺がいても何とか
浮かない感じだった。
やっぱり高校生はほとんどいないね。高校生の兄弟いる子もい
彼女がバッグから出したシートを広げながら言った。
﹁
ああ、それで昨日俺が来るのあんまり乗り気じゃなかったんで
なくはないだろうけど、こういう行事恥ずかしがる年頃だろうしね﹂
﹁
すか?﹂ そんなに大きくない太朗の好みだろうキャラクターのシートに座っ
て、隣をぽんぽんして俺を促す彼女にばくばくしてきた。俺そこに
乗り気じゃないって訳じゃあ。だってこんなに快く来てくれる
座るの?
﹁
なんて思わないじゃない?先生の勢いに押されて断りきれないのか
と思ったし﹂ 不自然じゃない程度に出来る限りはなれて、しかもすぐ動けるよう
﹁
ねー。私の腰が悪いの知ってて心配してくれてたから、こんな
ああ、勢い良かったですよね﹂ 靴は履いたままシートからおろして、彼女の隣に座った。
﹁
ところに元気の良さそうなのがいるじゃない!って思ったんだろう
ねえ、きっと﹂
ぎっくり腰って言ってましたよね?あれって若い人もなるんで
確かに元気なら自信あるな。
﹁
すか?﹂ それは、ぎっくり腰になるなんて若くないって言いたいの?﹂ 子供達を眺めていた彼女が眉を顰めて俺の方を見た。
﹁
違います!年は大体分かります。宮本と同じなんでしょう。若
焦って首を振った。
﹁
いのにぎっくり腰とかなるんだなーって思っただけで﹂ なるんだって、若くても。あたしはこう、無理な体勢から太朗
あっさりと表情を崩した彼女が面白そうに笑った。
﹁
102
を抱っこしようとして、ぎくっとなったんだけどね。お兄ちゃんも
はい、いやでも、どう気を付けていいのか分かんないし。まあ、
あんまり腰に負担かけないように気をつけて﹂ ﹁
気をつけます﹂
腰に負担と言う言葉であほなことに下を連想してしまい、しかも彼
女と凄く近くに隣り合って話している状況に緊張もして、動悸が酷
かった。
いたるところに散らばっていた小さな色とりどりのカラーキャップ
が教師のもとに集まり始めた。
ようやくイベントが始まるみたいだ。
顔が赤くなる前に立ち上がった。
103
7.9 お兄ちゃん見えるの?
最初は参加者全員での準備体操だった。この体操がラジオ体操では
なく、いきなり園児用の可愛い振り付けの体操だったので盛り上が
った。
小学生の姉兄を連れている保護者はイベント参加経験が豊富なのか、
見てあの人!﹂
めちゃくちゃノリノリでやけに上手い大人もいて面白かった。
﹁
不意に彼女の柔らかい手が俺の腕にふれた。いや俺!面白いおっさ
んよりあなたがお尻フリフリのとこ踊ってるの見たいし、しかも触
慣れてますね。あの人もすごいですよ。ほらあの青いTシャツ
らないで!いや、嬉しいけど今困るし!
﹁
の人﹂ 赤くなる顔に気付かれないよう彼女に面白い人を紹介していると、
﹁
はーい﹂ そこの二人ー!しっかり体操してくださーい!﹂ 昨日のおばちゃん先生に見つかった。
﹁
彼女がおばちゃん先生に返事をして、俺に向かってやっちまったね、
みたいな顔をした。可愛い。
それから彼女は前を向いて、真面目に体操という名のダンスを踊る
ことにしたようだ。
後ろのほうに立っていたため前の大人達が邪魔で手本の教師が見え
こっち見えますよ﹂
ず、身体をめちゃくちゃ斜めにして覗き込んでいる。可愛い。
﹁
お兄ちゃん見えるの?﹂
彼女の向こうにまわって、彼女を俺がいた場所にずれるよう促した。
﹁
104
見えます。問題ないです﹂ 見えなくても問題ないんだけど、一応前を見てみた。
﹁
彼女が俺にしっかり目を合わせて、とんでもなく可愛くにっこりし
ありがとー﹂
た。
﹁
駄目だ。これは耐えられん。あっという間に顔が真っ赤になったの
を感じた。
彼女はそんな俺を見て声なく笑うと、前を向いた。
運動が苦手だとか言っていたのでドンくさい動きを予想していたが、
あっという間に振りを憶えた彼女は、面白い人達の仲間入りをはた
せそうなほどノリノリで踊りだした。
面白かったし、めちゃくちゃ可愛くて、にやにやしそうになる顔を
必死で堪えながら盗み見た。
わー太朗君のお母さん上手ー!﹂ 曲は振りを知らない大人のためにリピートされたようだ。
﹁
﹁
﹁
いいですよー。太朗君、お母さんとお兄ちゃんと一緒に体操し
あ、太朗こっち来ちゃだめじゃん﹂ おかーしゃーんじょーじゅー!﹂ おばちゃん先生の声に前の方で踊っていた太朗が走ってきた。
﹁
てねー﹂ あはは!お前後ろ向いて踊るの?全部憶えてるんだな。やっぱ
太朗が俺と彼女に向き合って踊りだした。
﹁
天才か!﹂ 小さい太朗が踊るとお尻プリプリの振りも威力全開だ。虫が踊って
るみたいでかなり可愛い。
短い手足を頑張って動かしている姿が何とも言えない。
ちーがーうー!ぼくしゃんしゃいー!﹂
笑いながら見ていると太朗が叫んだ。
﹁
周りにも俺達のやり取りが聞こえていたようで、軽く笑いがおこる。
105
はあ、久しぶりに身体動かした。汗だくになっちゃった。準備
中々楽しいな幼稚園イベント。
﹁
体操で筋肉痛になりそー﹂ 帽子脱いどくんだったー﹂ 彼女がはあはあ言いながらシートに座り込んだ。
﹁
脱いだ帽子で顔を扇いでいた彼女から、汗で湿ったのか汗と混じっ
運動苦手じゃなかったんですか?かなり上手かったですね﹂ たシャンプーのような匂いが流れてきた。
﹁
無理やりでも会話してないとやばい。青空の下で変態になってしま
あははー。走るのとか球技とかはほんとに苦手なのよ、体育の
う。
﹁
成績も1か2だったし。でもダンスは大丈夫みたい﹂ 彼女が目を細めて笑う。可愛いなあ、体育が1とか、どうやればい
あ、忘れ物多かったんじゃないですか?﹂ いのか理解できないけど、可愛い。
﹁
彼女の後部シートに雪崩れていた荷物を思い出しそう言うと、彼女
あ!そうね。出来ないのに加えて忘れ物もいっぱいしてた。あ
がきょとんとした。
﹁
れ成績に関係あったんだ。ちゃんとしとくんだった・・・﹂ 微妙な顔で遠い目をした彼女も可愛かった。
競技は、一応競技だけど殆どゲームで、運動会とは違って全部が大
人と一緒に参加するものだった。
彼女が出来そうなものは彼女が、無理なものは俺が参加した。
無理の代表は四つん這いで列になった大人の上を園児が次々と走っ
て行くゲーム。
腰痛持ちにはきつそうだった。
106
かたぐるまー﹂ と言って俺の肩に座って、
太朗が参加しない時は、俺と彼女のシートにやってきて待っていた。
待機の間も太朗は﹁
お昼には終わるんだって。ご飯奢るからどっか食べに行こうね﹂
楽しそうだった。
﹁
あ、はい。ありがとうございます﹂ 彼女が横から俺を覗き込んで言った。
﹁
赤くなる顔に気付かれないようあわてて競技の方に顔を向けてから
答えた。
彼女が隣で笑った気配がした。うう、気付かれたんだろうか。
一刻も早く顔色を戻すため、手元にある太朗の足をこちょこちょし
きゃー!﹂ た。
﹁
太朗が笑った。彼女も楽しそうに笑っていた。 最後の競技だけは完全に競争の体だった。
俺の出番だ。競技名は﹃愛しのお荷物﹄ 好きなように子供を持って園庭を1周する速さを競うらしい。
好きなようにってどんなだよ。
最後の最後で保護者に苦行を強いるイベントだ。愛の重さを再確認
抱っこでもおんぶでも、とにかく子供さんの希望に応えてあげ
しろって感じだろうか。
﹁
てくださーい﹂ おい、太朗。何が良い?﹂ 若い教師がマイクで言った。そう言うことか。
﹁
なーにー?﹂ 列の先頭に一緒にしゃがんでいる太朗に聞いた。
﹁
107
﹁
俺が、お前を運んで走るんだってよ。どうやって行きたい?﹂ 太朗はきょとんとしている。
背の小さい順なのか運悪く先頭で、他の組を見せて説明することも
できない。
どうすりゃいいんだと助けを求めて顔をあげると、おばちゃん先生
がこっちを窺っていた。間違いなく太朗の担任なのだろう。
そしておばちゃんは、太朗に隠れて俺にジェスチャーをした。
これですか?﹂
手を広げてぶーん。飛行機か。
﹁
両手を上に挙げスライドさせてみせながら小声で確認すると、おば
ちゃんがぶんぶんと頭をふって頷いた。 ええー、それは俺も機会があればやってやりたいとは思ってたけど、
今?結構距離あるぞ。
園庭を見渡し1周の距離を確認した様子で、俺の考えていることが
分かったのだろう。
君なら出来る!一番若くてムキムキだもの。ほら﹂
今度はおばちゃんが小さいながら声に出して俺に言った。
﹁
おばちゃんに促されて列の後ろに並ぶ大人の顔ぶれを見ると、確か
に俺が一番若い。けど、あれ?これほぼおっさんじゃねえか!若い
のもいるけどほとんど男じゃん!これ彼女が一人で来てたらどうな
ってたんだ?
もしかして家族の日って、父の日のイベントかよ。 おばちゃんが俺を期待の目で見ている。気持ちは分かるんですよ。
はあ、太朗たぶん、やったことないですもんね﹂ 太朗の家族腰痛一家っすからね。
﹁
そうなのよ!疲れたら途中からおんぶでもいいんだから!﹂ おばちゃんが更に目を輝かせた。
﹁
頑張ります﹂ 太朗のためだな。
﹁
108
肩車では難航したが、飛行機はマシだろう。太朗は飛行機になっと
﹁
しゃきーん!﹂ 太朗、しゃきーんって出来るか?こう﹂ くだけだからな。
﹁
﹁よし、俺が、お前を持ち上げて走るから、ずっとしゃきーんって
しとけよ﹂
太朗君、飛行機になるのよ。お兄ちゃんが飛ばせてくれるから
出来るだけ簡単に教えようとしていた俺を、おばちゃんが加勢した。
﹁
﹁
﹁
﹁
﹁
ぼくがんばるー﹂ じゃあ、しゃきーんよ!頑張ってね!﹂ ひこーきやるー!﹂ やるか?﹂ ぼくひこーきー?﹂ ね。飛行機になりたい?﹂
﹁
太朗がにこにこしてぴょんぴょん跳ねた。やる気は満々だ。
109
7.9 いや違うだろ
結果は上々だった。
スタートラインでちょっと出遅れたが、おばちゃんも手伝ってくれ
て太朗は意外にすんなり飛行機になった。
太朗を頭上に持ち上げると園庭の周りがどよめいて笑いも起こった。
当然だな。第1組だし。だが、応援されてやる気が出るタイプの俺
きゃーーーー!﹂ は俄然張り切った。
﹁
太朗の楽しそうな興奮した叫び声も俺のやる気を増幅させた。他の
走者は結構前に行ってしまっていたが、本気で走っている奴はいな
﹁
きゃーーーー!﹂ 太朗行くぞー!﹂ い。
﹁
太朗を持ち上げたままなので大したことはないだろうが、出来る限
頑張ってー!﹂ りの速さで走りだした。
﹁
おばちゃんにも応援された。
俺らの様子に気付いていない、前を走る走者を次々に追い抜くが、
長いと思った距離が全員を追い抜くには短く感じてきた。
疲れて飛行機の体勢を維持できなくなったらしく、太朗の身体から
﹁
いーやー!ぼくひこーきなもーん!﹂ 太朗!おんぶするか?﹂
力が抜けてきた。
﹁
肩と背中にふにゃふにゃの太朗号を乗せ、少し前かがみになってな
んとか飛行機の形を保った。
110
腕の重さがほぼなくなってかなり楽になった。あとひとりー!
しかし幼稚園のグラウンドは無常にも小さかった!距離が足らず俺
と太朗は2位でゴールしたが、かなりの拍手をもらえて俺も嬉しか
﹁
﹁
良かったなー﹂ うん!ひこーきおもしろかったー!﹂ 太朗面白かったか?﹂ った。
﹁
しゃがんだ俺の肩と同じくらいの位置にある、にこにこの太朗の頭
を片手でぎゅうと抱きしめた。
思わずやってしまった行為に我ながら驚いたが、太朗は全く気にし
ておらず、すぐに俺の背中によじ登り始めた。
競技が終わったら列の後ろに並ぶのが当然だろう。太朗に登られな
﹁
え?俺?﹂ 太朗君のお兄ちゃん!きてきて!さきちゃんと走ってー!﹂ がらしゃがんでいた俺をおばちゃんが呼んだ。
﹁
ママしか来てらっしゃらないのよ!手伝って﹂ おばちゃんが早く早くと手招きしている。
﹁
おおーマジかよ!おばちゃんこの競技で使いまわすために俺誘った
んだな。
さきちゃんて子はスタートラインにひとりで立って心細そうにして
いる。
行くしかないじゃんよー。選択権はないのかよ。
まあいいか。走るの嫌いじゃないし、今度は1番になろう!
それから全園児が走り終わるまで、後3回走らされた。
大学生ぐらいの青年と、見るからにスポーツマンの異常に身体がで
かい父親もおばちゃんに目をつけられ、何度か走らされていた。
俺と太朗のせいか、飛行機になる子供も多かったが、俺は回数多く
走らされた分を考慮されたのか、体重の軽そうな子ばかりを宛がわ
111
れたのでなんとかなった。
が、疲れた。計5回、しかも子供を抱えて休む暇なく。グラウンド
小さくて良かった。幼稚園バンザイ!
お婆さん先生の横で待っていた太朗と手を繋いでシートに戻ると、
﹁
はあ、はい、大丈夫です、けど、疲れたー。腕がパンパンだ﹂
お疲れさまー。大変だったね。大丈夫?﹂
彼女が笑って迎えてくれた。
﹁
シートに座ってぐったり息を吐いた俺に、彼女が笑ってタオルを差
あ、ありがとうございます﹂ し出した。
﹁
受け取ったタオルは濡れていて冷たかった。きっと俺のために濡ら
して来てくれたんだろう。もしかしたら太朗用のお絞りだったかも
しれないけど。
はー﹂ 気持ちいい。タオルを顔に乗せて涼んでいると彼女が
ありがたく汗をかいた顔を拭うと、冷たくて気持ちよかった。
﹁
はい﹂ 笑った。
﹁
彼女を見ると、水筒からお茶をついでくれてた。うわーなんかカッ
﹁
おちゃのむー﹂
はい、太朗も﹂ プルみたい。タオルで顔を隠しながら受け取った。
﹁
太朗がちょこんと正座して取っ手のついたコップからお茶を飲んだ。
コップがおでこにささってるし﹂
俺の目に衝撃映像が飛び込んだ。
﹁
太朗が俺のせいでお茶をこぼすといけないので、必死に笑いを堪え
た。
太朗の小さい顔がほとんどコップに隠れている。コップの下から小
112
さい下唇だけが見えていた。
正座で口とおでこにコップの端をさして、ごくごくと必死にお茶を
お前可愛いなあ﹂ 飲む子供は可愛かった。
﹁
﹁
ああすまん、かっこいーです﹂ かわいーなない﹂ 太朗がコップを下ろし俺にふくれっ面を向けた。
﹁
﹁
え?ひこーき?マジで今?お前空気読まなすぎだろ、俺疲れて
ひこーきしゅるー﹂ 太朗が満足げな顔をしたので、また吹き出すのを堪えた。
﹁
ねーねーぼくひこーきしゅるー﹂
んだよ、ちょっと待って﹂
﹁
おまえはー、しょうがねえなあ、ちょっとだぞ﹂
すでに立ち上がって立った飛行機になってスタンバイしている。 ﹁
立ち上がりシートから太朗を持ち上げつつ、人のいない方へ少し離
れる。
きゃーー!﹂ ぶんぶんと左右に振りながら高く上げていくと太朗が興奮した。
﹁
太朗を頭上で振り回すので、彼女に太朗の足の裏からゴミでも落ち
おわ?﹂ ないかとチラリと確認したつもりだった。
﹁
どうしたんですか?気分悪い?大丈夫ですか?﹂ 彼女が両手で持ったタオルに顔を埋め、立てた膝に突っ伏していた。
﹁
おかーしゃん、ねむいのー?﹂
焦って太朗を下ろし彼女の正面に屈んだ。
﹁
何でもないよ。ごめん大丈夫ー﹂
いや違うだろ太朗。たぶん違うぞ。
﹁
彼女はタオルに顔を隠したまま言ったが、声が震えていた。まるで
泣いてるように。何で?
113
どうしていいのか分からずオタオタしていると、閉会の集合がかか
ほらお兄ちゃんと行ってきて﹂ った。
﹁
はーい﹂ 彼女は俺の方を向かず太朗にそう言った。
﹁
彼女の様子が気になりながらも、太朗に手をひかれて立ち上がった。
ごめんねさっき。気にしないでね﹂ 解散の挨拶が終わって戻ると、彼女はいつもの様子に戻っていた。
﹁
大丈夫なんですか?﹂ 気まずそうな恥ずかしそうな笑顔で言われた。
﹁
うん、体調悪い訳じゃないから大丈夫﹂ 詮索してる風にならないよう、努めて素っ気無く聞いた。
﹁
いや、それこそかなり心配ですけど。でも太朗もいるし、しつこく
そうですか﹂ 聞くことも出来ない。
﹁
彼女が俺の顔を見て苦笑した。しぶしぶ感が顔に出ていたのかもし
﹁
え?﹂ お兄ちゃんと太朗が仲良くしてるの見て、嬉しくなっただけよ﹂
れない。
﹁
彼女はすでに太朗を追いかけて駆け出していた。
俺と太朗が仲良くて嬉しくて泣いたってこと?そんなことあるか?
冗談なのか、本当のことなのか、俺には分からなかった。 お兄ちゃんの家から離れるけど、あっち側の公園でいい?テイ
﹁
クアウトだけどおいしいとこが公園の近くにあるの﹂
車に乗ると、そう彼女が言った。
114
﹁
﹁
苦手なものとかない?﹂ あ、俺はどこでも良いです﹂ あー、うーん。あ、ところてん﹂ 太朗がたぶん寝るからと、助手席に座らされた俺は考えた。
﹁
﹁
はあ、食えるけど、苦手です。他は大丈夫です﹂ ところてん食べられないの?﹂ 彼女が吹き出した。
﹁
好き嫌い少ないんだねえ。ところてんは置いてないから大丈夫﹂
彼女がくすくす笑いながら言った。
﹁
相変わらず笑っている。良かった。さっきは泣いてるみたいでどう
しようかと思ったけど、もう本当に大丈夫みたいだ。
彼女が俺の顔を見て微妙な顔になって前を向いた。
しまった。嬉しかったからつい彼女の顔をみながらにやついてしま
った。気持ち悪かったのかもしれない。
ちょっとした沈黙が訪れた。
思えばよくこんなに会話できるようになったもんだ。
車中に二人きり、しかも初めて隣あって座ってるのに。まあ未だに
激しくばくばくはしてるけど。あ、違った二人きりじゃないんだっ
たぞ。
﹁
え?もう寝たの?﹂ おわ、もう寝てる。車出して3分も経ってないのに﹂
思い出して後ろを振り返ると、太朗が口を開けて寝ていた。
﹁
思わず声に出して呟くと、彼女も後ろを振り返った。
いや、待って!俺も後ろ向いてるしまだ。急いで顔を戻そうとする
と、鼻先をかすめそうなほど近くを彼女の顔が通り過ぎた。
うわ、危なかった。事故が発生するところだった。軽危険。軽狭す
ぎ。
115
ばくばくして助手席で固まっていると、すぐに前に向き直った彼女
ほんとに、今日は有難うね。太朗もすごく楽しそうだった。あ
が言った。
﹁
んなに興奮してるの見たの初めてかもしれないわ﹂ ﹁
うん、すごいねえ男の人って。あたしあんなこと出来るなんて
飛行機ですか?﹂ なんだか嬉しいっていうより切なそうな声音だった。
﹁
思ってもみなかったもん﹂ 今度は感慨深げだった。旦那よ。どんだけへなちょこなんだよ。待
﹁
そっかー。うち父親も腰が悪いからねえ。あたしがやって貰っ
子供の頃親父に良くやってもらってたんで﹂
てよ、斉藤タイプなのかも知れないな。太朗も小さいし。
﹁
でも、女の子はそんなやってないかも。高いところ怖い子だと
てないから思いつかなかったのねえきっと﹂ ﹁
嫌だろうし﹂ そうだね﹂ 彼女がちらりと俺を見て微笑んだ。
﹁
116
﹁
﹁
今更だけど、お兄ちゃんお昼から部活出るつもりじゃなかった
え?どうしたんですか?﹂ あ!﹂ 7.9 食べるの早い?
﹁
?ご飯学校の近くじゃなくて大丈夫?﹂
大丈夫です。休むって言ってあるし。人数少ないほうが皆喜ぶ
ああ、なんだ。びっくりした。
﹁
昨日も言ってたね。プール狭いの?﹂ し﹂ ﹁
ああええと、狭くはないんですけど、総体近いからレーンが少
彼女が不思議そうな顔をした。
﹁
なくなってて、あ、うちの部、大会とか頑張るチームとひたすら泳
ぐだけチームに分かれてて﹂ しどろもどろで恥ずかしい。気にすると一層自分が何言ってるのか
えー良いねそれ!あたしもそんな部があったら運動部入ってみ
分からなくなる。
﹁
たかったなあ。お兄ちゃんはひたすらチームなのね?﹂
﹁
へー、それで大会前はレーンが少なくなるんだー。でも良いよ
はい﹂ 伝わってたみたいだ。良かった。
﹁
ね。泳ぐのは好きだけど、人と競うのに意味を感じないって人もい
はい﹂ るもんね、きっと﹂ ﹁
﹁
はい、大丈夫です﹂ じゃあ、今日はゆっくり良いの?﹂ その通りっす。
﹁
彼女が嬉しそうに笑った。
117
﹁
﹁
はい﹂ やった。じゃあ公園で遊びながらご飯食べようね﹂ うう、ごめん﹂ やった!俺がやっただよ。まだ彼女と一緒にいられる!
﹁
﹁
仕事の日に時々買いにくるんだけど、まさか日曜休みとは・・・
日曜に定休日ってすごいですね﹂ 彼女が目指していた店が定休日だったのだ。
﹁
﹁
じゃあ、そっちで﹂ はい﹂ 。よし、お好み焼き好き?﹂
﹁
﹁
﹁
﹁
?はい﹂ 熱いと思うけど頑張って急いで食べてね。ごめんよー﹂
え?はい。たぶん早いですけど﹂ お兄ちゃん、食べるの早い?﹂ 車をもう一度発進させると彼女が申し訳なさそうに言った。
﹁
よく分からなかったが、お願いされたので頷いた。人気店で混んで
んのかな。
店はすぐ近くでお好み焼きはめちゃくちゃうまかった。が、食べ始
こら!太朗座ってて!﹂ めてしばらくすると彼女の言っていたことの意味が分かった。
﹁
ごめん、お兄ちゃん食べてて、外で太朗みてるから﹂ 少量ですぐに腹一杯になった太朗がじっとしていないのだ。
﹁
ほんのしばらくは太朗の襟首を捕まえて食べていた彼女も、太朗が
はい、急いで食います﹂ 彼女の手を振り切り席を離れたところで立ち上がった。
﹁
118
﹁
ありがと。ごめんねー﹂
子連れの外食って大変だな。彼女がテイクアウトを考えていた理由
がよく分かった。 彼女と食事ってことで緊張していた自分が馬鹿みたいに感じた。よ
し、急いで食うぞー。
﹁
いや、うまかったです。ご馳走様でした﹂ ごめんね、ゆっくり出来なくて﹂ 交代して彼女も食べ終わって、店を出た。
﹁
﹁
言われたことないです﹂
お兄ちゃん優しいよねえ﹂
彼女が俺を見て微笑んだ。
﹁
驚いたのを隠してそう答えたが、やっぱり顔が紅潮する。
﹁
それも!言われたことないです﹂ そして、可愛い﹂ 彼女の笑みがにやにやに変わる。
﹁
めちゃくちゃ恥ずかしかったし、子供扱いされているようでちょっ
ねえ、優しいお兄ちゃんにお願いがあるんだけどさー﹂ と悔しかった。
﹁
彼女が上目遣いで両手を合わせ、正真正銘おねだりポーズをした。
な、何ですか?﹂ 驚いて後退ってしまった。
﹁
彼女が店の前に立てられた旗と戯れている太朗をちらっと確認して
太朗にお昼公園で食べるって言っちゃってたじゃない?このま
から、俺に視線を戻した。
﹁
ま帰ると絶対煩いから、公園一緒に寄ってくれたら嬉しいのですけ
ど、駄目?﹂ 口元で手を合わせたまま、俺を見つめてこてんと首を傾けた。
うう、彼女の女っぽい新しい一面を見た気がする。
119
﹁
﹁
ありがとー﹂ ・・・・いい・・・・・です﹂ 彼女が凄く可愛くにっこりした。可愛い。嬉しい。彼女が喜んでく
良かった。ちょっとゆっくり出来るかも﹂ れるのならどんなことでもやってしまいそうだと思った。
﹁
並んで座ったベンチの隣で彼女がふうと息を吐いた。太朗はベンチ
の前の砂場で同じくらいの年の子供達と遊んでいる。というか、そ
お友達いなかったらずっとちょろちょろするからね。ついて回
の子供達のおもちゃで遊ばせてもらっている。
﹁
る方も大変なのよね。すぐ脱走するから近くに張り付いてないと追
いつけないし﹂ 太朗のジュースを買うついでに買ってもらったコーヒーを飲みなが
﹁
ほんとに元気よねえ子供って。太朗は特にだと思うけど。大人
元気ですね﹂ ら、太朗を眺めた。
﹁
げ、まじで?﹂ が3歳児と同じだけ動いてると死んじゃうんだってよ﹂
﹁
どっかで聞いたの。嘘かもね﹂ 驚いて彼女をみた。
﹁
なんだ﹂
彼女はへへへと悪びれず笑っている。
﹁
適当だなあ。彼女が死にそうなほど疲れてるのかと思った。
﹁
言ってません﹂ あ、そう言えば、太朗があの幼稚園に通ってることサダオには﹂
甘いコーヒを飲んでいた彼女が不意に言った。
﹁
彼女が明らかにほっとした顔をした。
120
﹁
﹁
どんだけ付きまとわれてたんですか﹂ 良かったー﹂ 付きまとわれたことはないよ。高校の時、付きまとわれそうな
彼女が何か気まずそうな様子で俺を見た。
﹁
気がして逃げてたのよ。だからもしかしたら、自意識過剰だっただ
いや、絶対付きまとう気満々でしたよ、あいつ。太朗見た後、
けかも、あたしが﹂ ﹁
座り込んでへこんでたし﹂ ﹁
すごいですよね。あんだけ拒否られてんのに全く気にしてない
うわあやっぱり?﹂ 彼女がかなり引いた。めちゃくちゃ嫌そうだ。
﹁
そういうとこが嫌なのー。どれだけ強く言っても全然通じない
のが﹂ ﹁
んだもん。人の気持ちさっぱり分からないのよね、あいつ。先生に
なってないと思います。でも、こっちが何言っても気にしない
なって少しはマシになったのかしら﹂
﹁
から、楽ではあるかな。もっと嫌な教師はいっぱいいるし、宮本が
そうなの?お兄ちゃんあんまり好きじゃなさそうじゃない﹂ 特別嫌いって奴は少ないかも﹂
﹁
彼女が笑いながら言った。
まあ、俺は。でも女子には人気ありますよ﹂ そうっすね。席替えられたし、ライバルなんですよね。
﹁
そうなの?まあ、先生の中じゃ若いもんね。体型も普通になっ
彼女が目を見開いた。
﹁
てたし、スーツのサイズも合ってたし、中身関係なく普通で若いっ
俺もそう思います﹂ てだけでもてるのかもね先生って﹂
﹁
お兄ちゃんさ、これだけ歳が離れてるとしょうがないのかもし
彼女が俺を見て苦笑した。え?俺何か変なこと言ったか?
﹁
121
﹁
サダオと話す時より敬語じゃん。あたし先生でも何でもないん
え?﹂ れないけど、普通にしゃべって良いからね﹂ ﹁
だしさ。太朗と一緒で良いからね﹂ は、はい。いや、流石に太朗と同じようには無理かも﹂ 彼女が俺から視線をずらし、太朗を見ながら言った。
﹁
﹁
いや、それはもっと無理﹂ じゃあ、サダオ﹂ 彼女が横目でちらりと俺を見ながら言った。
﹁
彼女が俺を見たまま目を細めて楽しそうに笑った。
可愛いなあ。
俺がこの人の近くに居られるのは、今日だけだっていうのに。
彼女の笑顔からぎこちなく目を逸らしながら、胸が痛かった。
その後はチョロチョロしだした太朗を追いかけて広い公園内を歩き
回った。
彼女の適当な話を真に受けた訳ではないけど、体力は俺の方がある
に決まっているのでほぼ俺がついて回った。
太朗は本当に元気だった。移動中もぴょんぴょん跳ねてるし。あれ
も全部真似して動いてたら実際死ぬかもなと思った。
﹁
いえ、俺も楽しかったし﹂ 今日は一日中ありがとうね﹂ 俺がコンビニに送り届けられたのは17時頃だった。
﹁
車から降りてくれていた彼女が嬉しそうににっこり笑った。この顔
太朗にもばいばいさせたかったけど、起こさないで良い?﹂ が好きだ。
﹁
良いですよ。すげえ寝てるし、起こすの可哀想﹂ 太朗はここに着く直前またもや寝てしまった。
﹁
122
﹁
そう?﹂
彼女が口を開けてよだれを垂らしている太朗を覗きこんだ。
もうここでお別れか。1日中一緒に居たのに、腹の中がずんと重く
なるほど別れがたかった。
かと言って、次の約束を取り付けることも出来ない。宮本のように
じゃあ、またね﹂
軽く食事に誘うことさえ出来ない自分の歳が悔しかった。
﹁
またはあるんだろうか。まあ別れの挨拶の定番だからな。彼女にそ
はい﹂ の気があるって訳じゃない。期待するな俺。 ﹁
ばいばい﹂ 彼女が運転席に乗り込んだ。
﹁
俺に手を振る彼女の穏やかな笑顔を見て、不覚にも涙が出そうだっ
た。
声を出すことが出来ず、片手をあげることで彼女を見送った。
123
魂胆見え見えなんだよ in教室
濃い1日から一転して、彼女とは何の関わりも接点もない日々が続
いた。
礼を渡してから家族の日までの出来事を説明し、﹁諦めるのを諦め
た﹂と言った俺に、政木と斎藤の二人はもうどうでもいいわと言う
顔をした。
諦めきれないからそうするだけで、実際諦めないからと言って何も
﹁
すごいね。彼女のためなら課外を頑張れるんだね。ちゃんと勉
魂胆見え見えなんだよ。お前ストーカー化すんなよ﹂
出来はしない。そのまま学校は夏休みに突入しようとしていた。
﹁
強しなよ﹂
夏休みの課外授業を受けると二人にばれた日、呆れた様にそう言わ
れた。
勿論親にも、あんたが水泳より勉強だなんて。死ぬんじゃないでし
ょうね。 と言われたが、気にしないことにした。
俺は極めて不純な動機から、夏休みに勉強をすることになった。
うちの学校では夏休み中、希望者は盆と土日と台風の日以外は課外
授業が受けられることになっている。
それを希望するつもりなど微塵も無かったが、彼女の事を考えて悶
々としているうちに気付いてしまった。
課外授業は選択制のため席が自由になる。
1時限目の授業を選択すれば、朝彼女と会えるのではないか。
遠目に顔をあわせて目配せするくらいのことを会うと言えるのかは
怪しいが、一切接点なく過ごすよりどれ程ましだろう。
124
実際その事に気付いた瞬間は、嬉しくてベッドの上を転げまわった。
言葉の裏を読めない宮本から何気なく授業の行われる教室を聞き出
し、園の駐車場が見える、俺のクラスと隣のクラスで行われる1時
限目の2科目を選択した。
丁度隔日で週2日ずつ、計4日。俺の為にあるような時間割と教室
割だった。
彼女を見ることだけは出来る。
落ち着いてみると、わずかな接点を取り戻したことに対する喜びは
勿論あったが、見てどうするんだろうなという虚しさも相変わらず
だった。
教室に1番乗りして席を取っていたにもかかわらず、初日は彼女が
気付いてくれずもどかしい思いをした。
4回目の授業の日、ついに彼女の顔がこっちを向いたので慌てて小
さく手を振った。
彼女が一度通り過ぎた視線を戻し、驚いた顔をした後、嬉しそうに
笑ってくれた。嬉しかった。太朗が大声で俺を呼ぼうとするのを止
めている様子も面白かった。
隣クラスでの授業の日にはやはり気付いてはもらえなかったが、俺
を探しているのか一度学校の方を見上げる姿がすごく嬉しかった。
俺がいない日も、そうやって俺を探してくれているのかもしれない
と思うと何故か切なくもなった。
125
126
あのね、えーっと
今日も課外の後部活に出て、寄り道もせずさっさと帰宅した。
去年はバイトを入れていたため部活帰りにバイトに行く感じだった
が、今年は彼女のことで休み前にバイトを探す余裕もなかったし、
随分ゆっくりした夏休みだ。
不純な動機で受けることを決めた課外授業だったが、バイトをして
いないせいか特に眠くもならず、意外にちゃんと勉強している。
俺、彼女のおかげで成績上がるかも。
今日のように午後の部活の日は特に、帰りを太朗の迎え時間に合わ
せることも難しくはないのだが、未だに出来ないでいた。
気持ち悪く思われるのではという不安と、会えても彼女への思いが
つのるだけだという自制とがあった。
ああでも、しゃべりたいなあ。明日部活の後、偶然っぽく園の前を
通ってみようかな。等と、今まで何度も考えたことをしつこくベッ
ドに転がって考えていた。
バッグの中で携帯が鳴った。俺に電話してくるのは、休み中に限ら
ず政木くらいしかいない。悲しいことに斉藤はかけてこない。まあ
俺も、よっぽどの事がない限り人に電話なんてかけないけど。
何の為に携帯持ってんだろうな、俺。
寝転がったまま無理やり手を伸ばしてバッグを掴み、携帯を取り出
した。
目に入った表示に久々に心臓が止まりそうなほど強く打ち、続いて
127
ばくばく鳴り出した。
はい﹂ 彼女からだった。慌てて通話ボタンを押す。
﹁
ばくばくが煩い。彼女の声がちゃんと聞こえるだろうか。携帯を耳
にあてたまま、通話音量を最大にする。情けなくも指がふるえてい
﹁
今晩は﹂ 今晩は。お兄ちゃん?ええと、太朗の母です﹂ てもどかしかった。
﹁
何を話していいのかまったく頭が働かず、言葉を続けることが出来
今大丈夫?﹂ ない。
﹁
俺の様子がおかしいからか、彼女の声に不安が混じったように思え
﹁
﹁
いえ、大丈夫です﹂ 良かったー。急に電話してごめんね﹂
あ、はい。大丈夫です﹂ た。
﹁
そうは言ったが、やっぱり俺のぎこちなさが伝わったのか彼女の言
えっと、太朗元気ですか?﹂ 葉が途切れた。まずい何か言わなきゃ。
﹁
うん、元気いっぱい。お兄ちゃんに会いたいってー﹂
彼女が微笑んだような気配がした。
﹁
彼女の声がやっと穏やかになった。笑っているに違いない。良かっ
﹁
うん、飛行機やって欲しいって言ってる﹂ あ、そうなんですか?﹂ た。
﹁
現金な奴だな。それは俺に会いたいんじゃなくて、飛行機やってく
ああ、飛行機か。いつでもやりますよ。飛行機でも肩車でも﹂
れる奴なら誰でも良いってことだな太朗。
﹁
128
ほんと?嬉しーい、ありがとう!﹂ 太朗の事で笑っていたら、何気なく凄い事が言えた。
﹁
馴れ馴れしかったよな。鬱陶しがられたらどうしよう、と言う不安
を吹き飛ばすように、彼女の声がトーンを上げた。まじで。しかも
喜んでくれてる!
もしかしてまた会えるのかな。そのための電話だったりするのだろ
うか。それなら太朗でかしたぞ!
あのね、えーっと、今日電話したのはですね﹂ ばくばくする心臓を抑えるよう努めつつ、彼女の言葉を待った。
﹁
﹁
えーっと、お兄ちゃん、勉強とか部活とかで忙しいと思うんだ
はい?﹂ 彼女が変なしゃべり方をして、変なところで言葉を切った。
﹁
けど、あのー﹂
何だろう。何かのお誘いの予感がして心臓が破れそうに痛いんだけ
﹁
﹁
は?﹂ お兄ちゃん、虫、虫大丈夫な人?﹂
はい?﹂
ど、どうしよう。 ﹁
ごめん!突然何かと思うよね﹂ 今なんて言われた?
﹁
いや、大丈夫ですけど、虫ってゴキブリですか?﹂ 虫って言ったよな。2回言ったもんな、間違いない。
﹁
﹁
大丈夫っていうか、好きじゃないですけど何ともないです﹂ え!?ゴキブリも大丈夫なの?﹂
ゴキブリが出たんだろうか?
﹁
お兄ちゃん、頼もしいね!﹂ 何の話なんだろう。ベッドに正座してかちこちに緊張して虫の話?
﹁
ゴキブリの話題で落ち着いてきていた心臓が、その台詞でまた酷く
129
あのですね。・・・実はですね、ゴキブリじゃないんだけど、
鳴りだした。
﹁
お願いがありましてー﹂ ﹁
あのね、幼稚園から宿題が出てて、虫取りなんだけど、あたし
はい﹂ また彼女が言葉を切った。
﹁
虫が非常に駄目で、お兄ちゃんがもし暇な日があったら手伝って欲
しいの、ですけど﹂
﹁
やった!良かったー!﹂
あ、はい。大丈夫です、やります﹂
うっわ!ウソだろ?マジで?やった!また会えるの!?
﹁
マジで会えるの?俺の方がやっただよ!
両手を握って喜びを噛みしめた反動でジャンプしてしまい、ベッド
の上に立ち上がって足を踏み鳴らした。
鳴らないけど、ボスボス言うだけだけど、この叫び出したい喜びの
衝動を逃すには身体を動かすしかなかった。
﹁ありがとう!お兄ちゃんやっぱり優しー。良かったお兄ちゃんに
お願いして!﹂
優しいわけじゃなくてあなたに会いたいだけなんですけど、俺もあ
りがとう!俺に頼んでくれてありがとう!
たった今までしどろもどろだったのに、一転して大喜びの彼女がす
ごく可愛くて、もう一度布団の上でバタバタした。 130
131
そして、可愛い
彼女も俺も予定がない日曜に、虫取りは決行されることになった。
俺は勿論早朝からでも良かったのだが、せっかくの日曜日に朝早く
ちゃ申し訳ないからと言われ、昼前の待ち合わせになった。
一応断ったが、今日も昼飯をご馳走してもらうことになってしまっ
お礼だもん、気にしないで﹂ た。
﹁
コンビニまで迎えに来てくれたことと、昼飯の事で礼を言うと、車
いや、でも。俺、太朗と遊びに来たようなもんだし、お礼って
道に車を出しながら彼女が笑った。
﹁
言われても﹂ 彼女はちらりと俺の顔を見て、もう一度嬉しそうに笑った。可愛い。
きっと、俺が太朗と遊ぶつもりで来ていることが嬉しいのだろう。
いーから、いーから。って言っても、今日はこの間とは違う店
仲良くて嬉しいって前に言ってたし。
﹁
だけど、テイクアウトだし。高いものじゃないからほんと気にしな
いで。もう買ってきちゃったし﹂
﹁
でしょー。美味しいよ﹂
うまそうですね﹂ 確かに彼女の小さい車の中にはうまそうな匂いが充満している。
﹁
彼女は楽しそうだ。太朗は今日も寝ている。コンビニに着いたとき
には爆睡状態だったので、まだ俺の顔を見てすらいない。昼からち
虫って、捕まえて幼稚園に持っていくんですか?﹂ ょろちょろ飛び跳ねる力をためているのだろう。
﹁
132
﹁
﹁
え?じゃあ、やってもやんなくても分からないんじゃ﹂ ううん、一度捕って観察したら逃がしていいんだって﹂ 待て俺!何言ってんだ!それじゃ俺いらねえだろ!いらんことを言
おかーしゃんむしきらい
そうだよねえ。あたしもそう思ってやるつもりなかったんだけ
ってしまったと後悔する俺に、彼女が苦笑した。
﹁
ど、太朗が先生に虫取ったか聞かれて、
ああ、言いそう太朗﹂ なもん!って言ったんだって﹂ ﹁
お母さんが虫嫌ってたら、子供もそうなっちゃうんですよ、頑
彼女が沈んだ調子で続けた。
﹁
張って、って言われちゃって。やらざるを得なくなってしまったの
﹁
うーん。子供の頃は大抵平気だったんだけどね。大人になって
そんなに嫌いなんですか?﹂ よ﹂
﹁
久しぶりに接近したら、もうそれは自分でも驚くほど駄目になって
た。何でだろうね﹂ まあでも、おばちゃんの言い分もどうかと思うけど。太朗虫好
何でだろうな。
﹁
きそうだし﹂
そうよね?・・・でもやるしかないのよ﹂ だんご虫探してたもんな。
﹁
まあ、あのおばちゃん先生がやれって言うなら、諦めてやった方が
そうっすね。頑張りましょう﹂ 早いだろうな。
﹁
﹁
俺だけでやっても、太朗に、おにーちゃんがとったって言われ
え?あたしも?﹂ 彼女がびっくりした顔で俺を見た。
﹁
てすぐばれると思うけど﹂
彼女が悔しそうで情けない顔をした。可愛い。
133
﹁
うう。分かったわよう。・・・・頑張ります﹂ でも、じゃあ、バッタは止めて。あれは駄目。どれも駄目だけ
あまりの可愛さに、にやけそうになる顔を堪えるのに苦労した。
﹁
ど、バッタは勘弁してー﹂
本当に嫌そうな顔と情けない声に我慢できず、結局吹き出してしま
分かりました﹂ った。
﹁
彼女がまじまじと俺を見つめた後、前を向いて黙ってしまった。
笑ったことで気を悪くさせたのかな。どうしよう。
お兄ちゃん、笑うと高校生のぴちぴちの威力がすご過ぎて、直
悩む俺に、こっちを見ない彼女が言った。
﹁
え﹂
視できない﹂
﹁
ぴちぴちの威力って何?なんで不服そうなの?俺はどうしたら良い
うう、お兄ちゃんは悪くない、今のままで良いです﹂ んだ。 ﹁
こっちを見てくれないまま、彼女はそう言った。
あーおにーちゃーん!ひこーきしゅるー!﹂ 高校生の自分を軽く否定された気がして、ちょっとへこんだ。
﹁
この間とは違う公園に着き、彼女が揺り起こすと、俺を目に入れた
お前、いきなりか﹂ 太朗が開口一番叫んだ。
﹁
そう苦笑しながらも、俺を見て喜んでくれているのは嬉しかったの
きゃーーー!﹂ で、靴を履いた太朗を後部座席から直接持ち上げた。
﹁
今日もご機嫌に喜んでくれる。ぶんぶん頭上で振り、すぐに飛行機
の体勢を維持できなくなった太朗をそのまま肩車して、笑う彼女に
134
良かったね、太朗。飛行機と肩車楽しみだったもんねー﹂ ついて歩き始めた。
﹁
ぼくかたぐるましゅきー。たのしみー﹂ 彼女が声をかけると太朗が答えた。
﹁
二人が嬉しそうだったので、俺も嬉しかった。
いきなり虫取りを始めることを彼女が拒否したので、まずは腹ごし
らえということになった。
据え付けられたベンチとテーブルで彼女が広げたうまいランチをた
いらげた。
今日は太朗も、食べたり走ったり、食べたり遊んだりと、勝手な感
じでやっていた。
ちょいちょい遠くまで行ってしまうので、彼女と交代で走って捕獲
ああ、やっぱりこっちの方が楽﹂ に向かった。
﹁
太朗も楽ですよね﹂ この間のお好み焼きのことだろうなと思った。
﹁
じっとしてろって煩く言われないで済むし。
彼女が、でかいカップ入りコーヒーのストローをくわえる俺を見て
うん、そうだよね﹂ にっこり笑った。
﹁
彼女が俺の目を見て笑うその顔こそ、すごい威力で直視出来ないん
だけど、どうしたらいいんだろう。
ご馳走様でした﹂ ストローをくわえたまま、熱の集まる顔を彼女から隠す為俯いた。
﹁
﹁
あ、はい。了解です﹂ いいえー。今日はよろしくお願いします﹂
コーヒーも飲み終わったので、ついでに頭を下げた。
﹁
135
正面で深々と頭を下げ返されたので、ちらりと彼女の顔を見上げ答
えると、彼女はまた俺を見て笑ってた。
今度のはあれだ。少年よ、可愛いな、の顔だ。
恥ずかしさで余計に顔が熱くなった。俺!どれだけ赤面すれば気が
済むんだよ!情けなさ過ぎるだろ!
おーい太朗。虫いるかー﹂ 気を落ち着けるのには太朗を構うに限る。
﹁
﹁
バッタいっぱいいるって﹂ いるー。ばったー、いっぱいー。ちょーちょもー﹂ 少し離れた場所でぴょんぴょんしている太朗に声をかけた。
﹁
そう言いながら彼女を見ると、物凄く渋い顔をしていた。面白くて
可愛くてまた笑ってしまったが、今度は彼女も普通にしていてくれ
た。
と言うかきっと、今彼女の頭は俺の顔のことなんかより虫の事でい
﹁
ちょうちょは?嫌いですか?﹂ いやー、バッタは観察したくない。困った﹂ っぱいだ。溜息を吐いている。
﹁
ちょうちょうも出来ればパスしたいです。ごめん﹂ 彼女が情けない顔で俺を見上げた。可愛いーどうしよう。
﹁
なんか本当に申し訳なさそうな感じだ。ちょっと気の毒になってき
いや、俺に謝らなくても。俺は全然いいですから﹂ たな。
﹁
いいってなんだよ俺!意味分かんないだろ!
しかし彼女は、意味の分からない俺の言葉に嬉しそうに笑ってくれ
ありがと。ほんとにどうやったらこんな優しいお兄ちゃんが出
た。
﹁
来上がるんだろうね。太朗にも是非お兄ちゃんみたいになって欲し
136
い﹂
え。
以前にも言われたことはあるはずだけど、太朗以下云々は本能で耳
を塞いだけど、唐突な真正面からの褒め言葉に心臓が跳ねあがって、
しかも力持ちだし、虫大丈夫だし、身体も顔も良いし、﹂ 声が出なくなった。
﹁
そして、可愛い﹂ 俺は今真っ赤だ。自信がある。
﹁
彼女がおかしそうに笑っている。
・・・・からかわないで下さい﹂ 詰めていた息を吐いた。
﹁
違うよ!からかったんじゃなくてほんとに思ってるんだから。
情けなく不貞腐れてそう言うと、彼女が慌てだした。
﹁
怒らないでよ、お兄ちゃん。今お兄ちゃんを怒らせちゃったら私困
っちゃうー。虫がー。お兄ちゃんごめんよー。機嫌直して助けてよ
ー﹂ その可愛い必死な様子と、虫がー、のとこで可笑しくなって、最終
﹁
おにーちゃーんてんとーむししゃーんいーたー!おかーしゃー
じゃあ頑張りましょう。観察できる虫教えて﹂
的に笑ってしまった。
﹁
ん﹂
てんとう虫は?﹂ 太朗が呼んでいる。彼女を見た。
﹁
いけそうな気がする!てんとう虫にします﹂
彼女が俺の目を見返して、力強く頷いた。
﹁
137
138
やっぱり、凄く胸が痛い
力強くいけそうな気がする!と言ったわりに、俺の想像を遥かに超
えて彼女は虫が駄目だった。
俺の手のひらに乗せたてんとう虫を、太朗がしゃがんで覗き込んだ。
その後ろから、彼女がそうっと顔を出した。
一緒に観察なので、まさに今、てんとう虫談義で盛り上がって欲し
かったのだが、俺の指を上りきったてんとう虫が飛び立った。
瞬間、彼女は小さく叫んで目を瞑り、身をすくめて固まってしまっ
た。びっくりした。てんとう虫が飛んだくらいで、巨大ゴキブリが
自分めがけて飛んできたような反応だった。
彼女の近くでバッタが飛んだ時にはもっと酷い反応だった。声も出
無理そうですね。俺と太朗で済ませるから離れて見てて﹂ ず、青ざめて固まる、みたいな。
﹁
ごめん﹂と項垂れてしまった。
彼女にそう言うと、ほんとに可愛そうになるくらい哀しそうな顔で、
﹁
最初は俺に丸投げしそうな様子だったが、彼女としても、太朗と一
緒に虫観察をしてやりたい気持ちになっていたのだと、その悄然と
した表情から良く分かった。
ひとまず太朗の手に俺が捕まえたてんとう虫を乗せたりして遊び、
飛ぶ奴が苦手なんですか?﹂
課題を済ませた。
﹁
木陰のベンチに並んで腰掛け、ダンゴムシ探し中の太朗を眺めなが
ら、浮かぬ表情の彼女に尋ねた。
139
セミが鳴き始めると滅茶苦茶煩くなるけど、大きな樹が多いと晴れ
た真夏の公園もわりと心地よく過ごせるんだなと思った。
まあ、暑いのは暑い。汗もかく。
彼女が熱中症予防にって、太朗にも俺にも何本もスポーツドリンク
を買い与えてくれたので、一層汗が出る。
帽子をかぶらされた太朗は、何か見つけて座り込むたびに彼女に木
陰にずらされている。
﹁
怖いんだ、嫌なんじゃなくて﹂
うーん、そうなのかな。でも飛ばないのでも怖いのはいる﹂
せめて走ってる時以外は涼んでろってことだろう。
﹁
日光の下ではつばの広い帽子に長そでシャツといった出で立ちで暑
そうだった彼女も、流石に木陰ではふうと息を吐いて帽子を取った。
ぱたぱたと帽子で顔を扇ぐと、汗で湿り気を帯びている様に見える
髪が重たげに揺れた。
この間も思ったけど、俺この匂い駄目だな。
汗とシャンプーの匂いが混ざった様な、甘い汗臭さが何かもう駄目
だ。
皆好きな女の子の汗の匂いでムラムラしたりするんだろうか。もし
かして俺だけ変態? 慌てて太朗に視線を移した。いやいや、今話題は虫だ。汗でも変態
あっついねー。どうかなー。見るもの嫌なんだけど飛んでくる
嗜好でもない。
﹁
と怖いのかも。虫じゃないけどカエルももの凄く怖いし。ああでも、
カタツムリもすっごーく嫌﹂ カタツムリ?あんなの嫌とか好きとかじゃなくてどうでも良く
予想外の生物が出て来て思わず彼女の横顔に視線を戻した。
﹁
ない?ナメクジならともかく﹂ ちょっと怒った感じで俺を睨んだ可愛い彼女と目が合う。
140
﹁
どうでも良くない。どっちもすごく嫌。知らずに踏んじゃった
ら嫌だし。バッタも踏んだら嫌っていうのもある。捕まえると脚が
折れたり取れたりして怖いし。ちょうちょも触ると羽が壊れてすぐ
死んじゃいそうで怖い﹂
でも、ほんとに、子供の頃は大丈夫だったのよ。トカゲもカエ
なるほど。
﹁
ルもミミズもバッタも平気で掴んでたし。でも何故か大人になった
﹁
そうよ。あたしすごかったのよ。なのにこんな情けないことに﹂
ミミズ掴んでたの?わりとすごい女子だったんですね﹂
ら見るもの駄目になってて﹂ ﹁
落ち込む今の彼女と、ミミズを振り回す想像の中の幼い彼女を比べ
どうして笑うの?深刻なのよ。逆上がりも、大人になって出来
て勝手に面白くなった。
﹁
なくなってるのに気付いたときはへこんだけど、それ以上に深刻な
の。太朗が虫捕まえたら、来ないでって大声で怒鳴りつけたくなる
んだから﹂ 逆上がりも出来なくなったんだ?﹂ へこんでる彼女は可哀想だけど、話の内容が可愛くて仕方なかった。
﹁
今大事なのはそこじゃないの!﹂ 笑いながらそう言うと怒られた。
﹁
俺が大丈夫で彼女が大丈夫じゃないことが話題のせいか、年の差を
感じず彼女と対等であるような、むしろ俺の方が年上みたいな初め
ごめん。でも、しょうがないよ。無理して大丈夫になる必要も
ての気分だった。
﹁
ないんじゃない?﹂ そう思う?﹂ 彼女は俺を覗き込み、真意を窺うように確認した。
﹁
141
思う。きっと、近づいたり触ったりしてすぐ傷つくような弱そ
可愛かった。
﹁
うなのが嫌いなんでしょ。嫌いって言うか、傷付けるのが怖いとい
うか傷ついたところを見るのが怖いというか﹂ そう、かもね。確かに、蛇とか頑丈そうなのの方が平気かも﹂
彼女は俺の顔を見たまましばらく考えた。
﹁
蛇大丈夫なんだ。にやにやしてしまったが、辛うじて吹き出すのは
堪えた。 やっぱり可愛いなあこの人。
太朗が戻ってきた。
ぼくじぶんでとったー﹂ 手にてんとう虫をくっつけている。
﹁
得意げだ。彼女はいつ奴が飛び上がるかと無意識のうちにおびえて
やったな太朗。あっち行って飛ばしてきな。指の一番上まで上
いるのだろう。見るのも辛いという感じだ。
﹁
ったら飛ぶぞ﹂ 自分の指を立てて見せると、太朗も真似して指を立て、走って行っ
平気にならなきゃ生きてけない訳じゃないし、太朗が虫好きな
た。
﹁
んだから、飛んできそうだったら太朗に助けてって言えば良いんじ
ゃない?﹂
俺にでも良いけどさ。
﹁捕って遠くに持ってってくれるよ﹂ 太朗を追いかけていた視線を彼女に戻すと、口角を下げ泣きそうに
そうだね。そうしよ﹂ も見える顔をしていてびっくりした。
﹁
すぐに笑顔に戻った彼女が、明るくそう言った。
142
﹁
家でその分寝なくなるから、本当は車の中で寝て欲しくないん
ほんと寝るの早いな﹂ 帰りの車の中で、やはり太朗はすぐに寝た。
﹁
だけどね。寝るな!寝るな!って言いながら運転する訳にもいかな
そうなんだ﹂ いし。車ってすごいのよ。幼児の寝かし付けに﹂
﹁
今日の虫取りのおかげで、使い慣れない丁寧語なしに、自然に彼女
﹁
はい?﹂ まあ返事ぐらいちゃんとしてもいいだろう、実際恐
お兄ちゃんさ﹂ と会話できるようになった気がする。
﹁
﹁
﹁
そうなんだ。夏休みも授業受けてるみたいだから、受験生なの
いや、2年です﹂ 駄目だ。ですます抜けてなかった。
3年生なの?﹂ らく10近く年上なんだから。
﹁
かと思った﹂ ちょっとほっとした感じだった。受験生を虫取りに引っ張り出した
と気にしていたのかもしれない。
そう言えば、旦那どうした。肩車できないうえに、虫も駄目なのか
﹁
へーでも偉いよ。2年生から勉強頑張ってるなんて。頑張らな
選択で朝1時間取ってるだけだから﹂ よ。
﹁
かった大抵の大人が思ってると思うけど、あたしももっと勉強しと
そうなんですか?﹂
けば良かったって思うし﹂ ﹁
うん。まあ勉強と言うより、就職活動に関わること全部かな。
彼女が俺を見て苦笑した。
﹁
もっと頑張れば良かったって。でも有利にするにはやっぱり高校で
勉強頑張るとこからやり直した方がいいもんね﹂ 就職をもっと良いところにしたかったってことだろうか。旦那の稼
143
ぎが悪いのかな。旦那よ、良いとこ有るのか?もしやマッチョなだ
あたしみたいに後で後悔のない様に、なるべく早めにいっぱい
け?前を向いて考え込む俺に彼女が続けた。
﹁
頑張るのだよ、お兄ちゃん﹂
彼女がわざとふざけた調子で俺に笑いかけたが、何だか高校生に対
する決まり文句ってわけじゃなく、本心からそう思ってるんだろう
なって感じだった。
彼女の旦那にだけは負けない稼ぎの仕事につこうと決意した。まあ、
はい、頑張ります﹂
稼ぎどころか何やってる奴かも知らないけどな。 ﹁
俺の好きなこの人が、稼ぎも悪くて虫も駄目で肩車も出来ないよう
な男のものなんだと思うと、やりきれなくて胸が痛かった。
別れ際、動悸と共に悶々と温めていた台詞を、ようやく口に出すこ
あ、太朗が、飛行機とか肩車とかやりたがったら、連絡して下
とが出来た。
﹁
さい。夏休み中は部活終わりが17時くらいのこと多いから、幼稚
園に寄ってもいいし、日曜休みも多いし﹂
自分の顔がどうなっているのか緊張で分からない。引き攣ってなけ
ればいいけど。でも、言えた!
ほんと?﹂ 彼女が運転席の窓から嬉しそうに笑ってくれた。
﹁
はい。太朗めちゃくちゃ興奮するから面白いし﹂ 言えて良か
ああ良かった。言えて良かった。
﹁
えー、そんなこと言って良いの?本当に連絡するよー?﹂ ったけど、我ながらどんな理由だよ!
﹁
彼女がいたずらな表情で俺を見上げた。可愛い。本気なの?大人の
冗談なの?社交辞令?ほんとに、お願いだから連絡して。
144
﹁
どうぞ﹂ おにいちゃーん?ばいばいなのー?﹂ 必死さのあまり、答える声がふるえてしまいそうだった。
﹁
ああまたな。飛行機と肩車したくなったら電話しろよ﹂ 太朗が起きたようだ。浅く息を吐いて、車内の太朗を覗き込んだ。
﹁
太朗が煩く言えば、彼女がしぶしぶでも連絡してくれるかもしれな
ぼくでんわもってないよー﹂ そうだな。お前は確かに電話持
い。
﹁
母ちゃんに言ったらかけてくれるよ﹂
ってないだろうな。
﹁
かーちゃんてなにー?﹂
太朗がきょとんとした。
﹁
﹁
はーい﹂ おかあさんだよ。おかあさんに言って俺に電話して貰えよ﹂
彼女が可愛らしく吹き出した。
﹁
じゃあ、今日もありがとう。またね﹂ こいつも可愛いんだよなあ。にこにこしている太朗に手をふる。
﹁
彼女が遂に、お決まりの別れの言葉を口にした。
また、はいつ来るんだろうか。もしかしたら来ないのかもしれない。
これが最後なのかも知れない。可愛い太朗と、そしてこの人と交わ
はい﹂ す最後の言葉なのかも知れない。
﹁
やっぱり、凄く胸が痛い。
145
146
いや、でも、なんだこれ?
朝から俺に手を振ってくれる彼女を見下ろし、物凄く悲しくなった
りしていたが、意外にも虫取りから1週間も経たないうちに彼女か
らの連絡があった。いや、正確には太朗からだな。
風呂場から部屋に上がる途中、手の中で携帯がふるえた。
彼女の番号を手に入れるまで、鞄の中に放置されバッテリー切れに
なっているのが常だった携帯を、家中持ち歩く癖がついてしまって
いた。
自分の変化が気持ち悪い様だったが、やっぱり風呂にも持って行っ
はい﹂ てて良かった。
﹁
階段の残りを駆けあがって部屋に飛び込み、ばくばくして震える指
で電話をとると、彼女のものではない舌足らずの高い声が聞こえて
こら、今晩は
おにーちゃーん、たたぐるまーしゅるー﹂ 太朗か。残念でも
きた。
﹁
あったけど、思わず笑ってしまう。後ろで彼女が﹁
こんばんあー。たたぐるまー﹂
でしょ﹂ と言っているのが聞こえた。
﹁
﹁こんばんは、にいちゃんだろ?﹂
﹁にーちゃーん!﹂ ごめーん、おにいちゃん今晩は﹂ 声を上げて笑ってしまっていると、声が彼女のものに入れ替わった。
﹁
今晩は﹂ 慌てて笑いを引っ込めた。
﹁
147
﹁
今大丈夫だった?﹂
落ち着いた優しい声で尋ねられ、太朗との会話で落ち着いていた心
﹁
良かった。太朗がお兄ちゃんに電話するって聞かなくて。ごめ
はい、大丈夫です﹂
臓がまた飛び跳ねだした。 ﹁
いや、いいです。俺が言ったんだし。肩車ですか?﹂ んねー﹂ ﹁
そうなの。でも気にしないでー。座ってだったらあたしも出来
彼女が声の調子を困ったような申し訳なさそうなものに変えた。
﹁
るし。取り敢えず電話しないと寝そうになかったからかけさせちゃ
﹁
﹁
おにーちゃーんひこうきしゅるー!﹂
ちょっとだったら大丈夫、あこら太朗ひっぱらないでよ﹂ いや、座ってでも腰には良くないんじゃないんですか?﹂ ったのよ﹂ ﹁
きっと二人で携帯を握って、顔をくっつけ合ってるのだろう。想像
﹁
・・・・言ってるね﹂
飛行機って言ってますね﹂ しただけで二人が可愛くて笑えた。
﹁
・・・・・・・・・・行きましょうか?明日幼稚園﹂ 頑張れ俺! ﹁
良いの?﹂ しばし緊張の沈黙の後、彼女が言った。
﹁
良かった!嫌がられてはないだろう。どちらかと言うとおねだり口
﹁
ありがとー!あたしよりお兄ちゃんが早かったら園に入れても
はい。太朗に言っといて下さい﹂ 調だ。やった!嬉しいぞ!
﹁
らえるよう先生にも言っとくから﹂
彼女の弾んだ声に、俺も一層嬉しくなる。 跳ねる心臓も心地好か
った。
148
﹁
﹁
﹁
﹁
あ、なんか用事ある?﹂ え?でも﹂ そう?でも一応伝えとくね。帰りは送るからね﹂
いや、駐車場で待ってるから良いです﹂ 彼女が慌てたように言った。用事に飛行機が割り込んだと思ったの
﹁
なんだー。じゃあ送るから、そう言うことで、太朗ー。お兄ち
いや、何もないけど、送ってもらうのは悪いかなと思って﹂ かな。
﹁
ゃん明日飛行機やってくれるって!だから早く寝てー﹂
後ろではしゃぐ太朗の声が聞こえた。今、旦那はいないんだろうか。
じゃあ、また明日ね。お兄ちゃん﹂ 旦那は俺がこうやって彼女と連絡とってんのを知ってるんだろうか。
﹁
﹁
うん。おやすみなさい﹂
はい、じゃまた﹂
彼女が電話に戻ってきた。
﹁
彼女の穏やかな声と、日頃他人からは言われ慣れない単語の不意打
ちに、今まで強く打っていた心臓が止まりそうになった。耳元に好
・・・・お、やすみ、なさい﹂ きな人からのおやすみなさいはきついのだと、初めて知った。
﹁
ぎこちない俺の挨拶に、彼女が笑いながら電話を切った。 次の日、太朗は飛行機と肩車を喜んでくれた。おばちゃん先生も俺
を歓迎してくれた。まあ﹃愛しのお荷物﹄の貸しがあるからな。俺
を邪険には出来ないだろう。
また今日もありがとうね、お兄ちゃん﹂ 彼女は嬉しそうに、振り回されてきゃーきゃー笑う太朗を見ていた。
﹁
149
いや、全然良いです。太朗可愛いですから﹂ 太朗はいつものごとく車が走り出すと寝た。 ﹁
彼女がまた嬉しそうに笑った。良かったほんとに太朗が可愛くて。
太朗が可愛くないクソガキだったら、根が正直者の俺は今頃彼女に
俺もありがとうございます。いつも送ってもらって﹂ 嫌われてたかも。
﹁
近いもの。ちょっとうち通り過ぎるだけだし。これが逆方向だ
ぺこっと頭を下げた俺を見て彼女が笑った。
﹁
ちょっとって。倍ぐらいあるんじゃないですか?﹂ ったらこうもいかないけどね﹂ ﹁
いーのいーの。それでも近いもの。太朗も喜ぶし、お兄ちゃん
彼女はにこにこ笑い続けていた。可愛いなあ。
﹁
も家に早く着くし、あ、もしかして送るの迷惑?﹂ いや全然。帰るの楽ですげえ嬉しいです。電車とかだと倍以上
ずっと笑顔だった彼女が、心配そうな表情を見せた。
﹁
時間かかるし、外暑いし﹂
良かった。何かしつこすぎて迷惑がられてるのかと思った﹂ 彼女がほっとした表情に変わった。良かった。
﹁
なんだって!しつこいのは俺の方だろ?子持ち人妻をまだ諦められ
﹁
﹁
はあまあ、そうですね﹂
じゃあ、遠慮してるだけなのね?﹂ そんなことないです﹂
ず会いにきてるんだから。
﹁
確認口調だった彼女がふわっと明るく笑んだ。さっきからずっと、
彼女の横顔から目が離せない。出来るだけこっちを見ないでくれる
じゃあ、今せっかく帰りの時間が合うなら幼稚園おいでよ。送
と嬉しい。 ﹁
ってあげるよー﹂ この申し出には驚いた。夏休み中一緒に帰る約束ってこと?
150
﹁
え?﹂ 用がなくて家に真っ直ぐ帰るんなら送ってあげるよ。夏休み中、
彼女が相変わらず楽しげに笑いながら続けた。
﹁
﹁
お兄ちゃんが一緒に帰ってくれるなら、太朗も飛行機やっても
え、はい﹂いや、でも、なんだこれ? 部活が夕方までのこと多いって言ってたでしょ?﹂ ﹁
らえるし。勿論お兄ちゃんが車で帰りたい日だけで良いから幼稚園
﹁
でしょー。良い事思いついたなああたし﹂ まあ、確かに﹂ そうですけど、でも。なんかそれって。
来てよ。飛行機やったって、電車待つより早く車乗れるよね﹂ ﹁
彼女はご満悦だ。これは、本当に送ってもらいに幼稚園に来ても良
﹁
いーよー。明後日ね﹂ マジで!やったー!
えっとじゃあ、明後日部活17時までなんですけど﹂ いんだろうか。良さそうだよな。
﹁
数日前まではもう終わったと思って諦めていた彼女との逢瀬が、夏
休み中と限られた期間であっても続くと分かって、信じられない位
嬉しかった。
151
はあ?それで一緒に帰ってんのか?﹂ きったねえ! in McD
﹁
朝っぱらから電話して来た政木に暇なら遊ぼうぜと誘われ、昼まで
なんか2日おきくらいで送ってもらってる﹂ の部活を終えた後マックに来ていた。
﹁
お前なあ。略奪しねえとか言っときながら、何か思い切り不倫
政木はでかいコーラを飲みながら呆れた顔をした。
﹁
めいてきてるぞ﹂ きったねえ!﹂ 不倫と言う台詞に、口の中のスプライトを思いっきり噴いた。
﹁
お前が変なこと言うからだろ!﹂良かったコーヒーじゃなくて。
政木が今更自分のポテトを守りながら文句を言った。
﹁
部活用のバッグから引っ張り出した濡れたタオルで、白いシャツに
変なことって。お前思わねえの?﹂ かかった部分を拭いながら言い返すと、政木が眉を寄せた。
﹁
しばらく口を噤んでいたが、確かに自分でも今の状況は変なんじゃ
まあな、でも考えないようにしてる。だって太朗も一緒なんだ
ないかと感じている。
﹁
し、実際違うだろ﹂ でも、この状況を旦那は知ってるのかなとは思う。そして、知った
ふうん、違うのか。まあそれはお前らにしか分かんねえよな。
らどう思うんだろうなとも。
﹁
旦那からどう見えるかはともかく﹂
そうなんだよな。
152
﹁
迷惑かける前に止めた方がいいのかな﹂ お前が迷惑かけるわけじゃねえだろ。話し聞く限り、どれもあ
勘違いした旦那が逆上するかもしれないな。
﹁
っちが誘ってんだろ。お前実は狙われてんじゃねえの?﹂ はあ?誘ってるって?小運動会と虫取りと飛行機がかよ?そん
耳を疑った。
﹁
なら夜に太朗なしで誘って欲しいよ。しかも小運動会はおばちゃん
で、飛行機は太朗に誘われたんだよ﹂
政木に言いながら現状を再確認してがっかりした。夜に彼女に誘わ
ならあっちがその気ってことはなさそうだな。それにしても一
れることはなさそうだな。 ﹁
緒に帰るとか、無頓着すぎだろその女。お前が子供だからって本人
は気にしてねえのかも知れねえけどよ、旦那にとっちゃ高校生は男
だろ。旦那にばれて迷惑かけられるのお前だぞ﹂ 彼女を悪く言っているのでムカつくが、やっぱり政木は斉藤の言う
どうかな。旦那にも俺のこと話してるのかもしれないし。太朗
ように俺の心配をしてくれているだけらしい。
﹁
に大きい友達が出来た、みたいな感じでさ﹂
自分で言っといてへこむなよ。旦那がお前の事気にしないなん
テーブルに両肘をついて項垂れた。 ﹁
て有り得ねえだろ。俺なら絶対に自分の嫁に高校生との逢引は許さ
ねえぞ﹂
俺だって許さないけど、俺らが思ってるより、俺らは子供だと思わ
﹁
お前なあ、もう勝手にしろ。子供の友達やってろ﹂
旦那が高校生ならそうだろうな﹂ れてんだよ。
﹁
お前は何やってんだよ。部活もバイトもやってなくて暇じゃな
ああ勝手にするよ。色々考えても結局会いたくなるんだよ。
﹁
いのか?﹂
153
ふと政木のことが気になって尋ねた。
﹁
﹁
﹁
何言ってんだお前﹂ 家﹂ は?部活も入ってねえのに?どこで﹂ 全然暇じゃねえ。合宿してるし﹂ 政木がポテトを何本もいっぺんに口に入れながら首を振った。
﹁
うち道場なんだよ。夏は合宿っつって代わる代わる泊りで人が
政木が嫌そうな顔で溜息を吐いた。
﹁
来てよお。なんでか俺も一緒に合宿なんだよ。しかも俺だけ休み中
延々だぞ﹂
休み中ずっとじゃねえじゃん、脱走してんなら﹂ あほか。合宿に休みがあるわけねえだろ。脱走してきたんだよ﹂
初耳だな。何の道場なんだよ?今日はどうしたんだ?休みか?﹂
そりゃ知らなかった。
﹁
﹁
﹁
﹁
ふうん。中々大変だな﹂
まあな。たまには生き抜きしねえとな。死んじまうだろ﹂ 政木がぎゃははと笑った。
﹁
初耳だったが、親父か兄貴かに文句を言いながら汗だくになってし
﹁
それは出来ん。直接聞け﹂ そうなんだよ。だから癒しに斉藤の番号教えてくれよ﹂ ごかれている政木は想像できる気がした。 ﹁
﹁
﹁
せめて今斉藤に電話して代わってくれよー。なあ、いいだろー
自分で考えろよ﹂
番号も家も知らねえのにどうやって聞くんだよ﹂ 人の個人情報を勝手に横流しする奴は許せん。俺も絶対教えん。
﹁
?﹂
テーブルにだらしなく身を伏せて俺を見上げるようにしている政木
154
が気持ち悪い。
まあでもちょっと考えてみた。俺の携帯から直接政木が聞くことに
はなるか。
嫌なら斎藤の事だから断るだろうしな。
﹁
ああ、政木がお前と話したいってさ、悪いな。ほら﹂
どうしたの?﹂ 携帯を出して斉藤を呼び出した。割とすぐに斉藤が出た。
﹁
目を輝かせている政木に携帯を渡す。めちゃくちゃ喜んでる。やっ
ぱり気持ち悪い。どれだけ斉藤に癒しを求めてるんだよ。斉藤も迷
さいとーう。久しぶり!なあなあ、夏休みちょっとは遊ぼうぜ
惑極まりないだろ。
﹁
ー。将棋部いつやってんだよ。スケジュール教えてくれよー俺も出
てえよー﹂ 斉藤が電話の向こうで鬱陶しがってるのは目に見えてるけど、将棋
を出されたら斉藤も長くは持つまい。
結局政木は、斉藤のアドレスと将棋部のスケジュールを手に入れて
ご満悦だった。ごめん斉藤。
155
閑話 あっち側かこっち側か in教室︵前書き︶
読んで頂いてありがとうございます。
夏休みに入る前の話です。
156
﹁
は?﹂ おい政木、あっち側の友達が呼んでるぞ﹂
閑話 あっち側かこっち側か in教室
﹁
政木は俺に怪訝な顔を向けたが、すぐに自分を呼んでいる他クラス
政木は能天気さと、イケイケに見えるけど実は天パのもじゃも
の友達数人に気付き教室を出て行った。
﹁
じゃと、スポーツマンもどきのでかい体格のおかげで、あの集団に
溶け込んでるんじゃないのか?﹂ あと、誰に対しても物怖じしない性格もね﹂
斉藤の机に頬杖をついて、廊下の政木集団を眺めながら言った。
﹁
確かに。
ふたりで政木について考察していると、当人が戻ってきた。まあ、
﹁
はあ?俺そんなこと言ったっけ?﹂ 涼、さっきのなんだよ。あっち側って﹂ ほんとはお前の席は遠く離れた窓際なんだけどな。
﹁
何だよ、その顔は斉藤は何のことか分かってんだろ?仲間はず
面倒なので適当にごまかすと、政木が鬱陶しくヒートアップした。
﹁
何でもないんだよ。俺の勘違いの話なんだからさ﹂ れにすんなよなー﹂ ﹁
斉藤が言った。勘違いってことは、俺らは斉藤のこっち側に入った
もっと意味不明な説明すんなよ。言わねえならメガネ返さねえ
んだろうか?
﹁
からな﹂ 政木が斉藤の顔から細めの黒ぶちのメガネを奪い、頭上に掲げた。
あほか。椅子に乗ればとどくだろ﹂ 政木より背の低い斉藤には取り返せないと言いたいのだろう。
﹁
157
俺が言うと、政木は斉藤の隣の席の椅子に登り、ちょっと考えてか
小学生じゃないんだから。メガネないと困るよ、話すから返し
ら机に登った。
﹁
てよ﹂ 席に座ったまま政木を見上げる斉藤が呆れて溜息を吐いていた。
かなりメガネの度が強いのだろう、実際は意外に目が大きく別人の
ような顔になってしまった斉藤は、政木の顔も見えづらいのか政木
う。話すんなら返してやろう﹂ を見上げたまま小さく視線を揺らしていた。
﹁
大した事じゃないよ。さっき来てたみたいな派手な人達をあっ
政木が降りてきて椅子に座った。ほんとにあほだろこいつ。
﹁
ち側って言ってただけだよ﹂ ﹁
﹁
なんだよこっち、あっちって。俺はどっちなんだよ﹂ 俺が言ったんだから当然そうなるね﹂ こっち側は誰なんだよ?お前か?﹂ 政木は怪訝な顔をして、まだ眼鏡をかけていない斉藤を見ていた。
﹁
君がそういうこと気にしてないのはもう分かってるよ。ただち
政木が機嫌悪くなってきた。気に食わなかったらしい。
﹁
ょっと君と仲良くなる前に勘違いしてただけだよ﹂ 斉藤がそう言うと、政木が表情を緩めた。気持ち悪。仲良くなった
勘違いって何だよ?﹂ って言われて明らかに喜んでいる。
﹁
もう返してってば。政木は俺らみたいなオタク、あ、将棋同好
政木はニヤリとして再びわざとらしくメガネを頭上に掲げた。
﹁
会ね、と関わる感じには見えなかったって、前に秋吉に話したこと
があっただけだよ﹂
はあ?斉藤ってオタクなのか?﹂
政木があっけにとられた顔をした。
﹁
政木の言葉を受けて、これまた豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔をし
158
こう言う奴だよな﹂ た斉藤に、耐え切れず噴出してしまった。 ﹁
﹁
お?お前も俺を愛してんのか?﹂ 君が皆に愛される理由が何となく分かったよ﹂
笑っていると、斉藤がげんなりとした。
﹁
はあ。愛してるよ。これからも仲良くしてね﹂
ふざけた政木に斉藤がため息を吐きながら答えた。
﹁
斉藤が政木に陥落してしまった。
そして相変わらずあほな政木が真っ赤になっていた。照れるならそ
オタクって言っても斉藤が好きなのって、将棋とかロボットと
んな質問すんなよ。
﹁
かだろ?程度が違うだけでそんなの誰でも好きじゃん﹂ 誰でも好きかはともかく、僕らみたいにインドアな趣味にのめ
俺が言うと、斉藤が少しだけ不貞腐れた。
﹁
り込む人間をまとめてオタクだって差別する人らもいるんだよ。君
そんなのお前がそっちから勝手に壁作ってんじゃねえの?確か
たちはそうじゃないから分かんないのかもしれないけどさ﹂
﹁
に、田島みたいなところ構わず相手構わず、萌え美少女への愛を語
確かに田島は俺もきつい﹂ るような奴はちょっときついけどよ。お前はそうじゃないんだし﹂ ﹁
俺も政木に同意した。田島とは、同じクラスの男子だ。語るだけな
らまだマシなのだが、自分の趣味を人にも押し付けようとするとこ
一応オタク仲間なのかもしれないから気の毒だけど、俺も田島
ろが迷惑な奴だ。
﹁
はきついよ﹂ あれは好きでやってんだから斉藤が気に病む必要はないんだよ。
斉藤も悲しそうに同意した。
﹁
それにお前はオタクじゃねえ。いや、将棋オタクでロボットオタク
なのかも知れんけど、人をあっち側こっち側仲間分けする必要はね
159
え。どうしても分けたいなら、田島があっち側で、後は全部お前も
俺も涼も将棋部もこっち側だ。いいか﹂
今日は説得力あるね。そうだね、そういう考え方はやめるよ。
斉藤が政木に頷いた。
﹁
自分で自分を差別してるようなものだったんだね﹂
﹁
そうだぞ。お前にその卑屈な考え方は似合わん。何でそんなこ
意外だな。斎藤、そういうの気にしなさそうなのにな﹂ 納得した感の斉藤を見て思った。
﹁
と思ってたんだよ、あほだろ﹂ 俺だって、好きで卑屈になってたんじゃないし。実際人に蔑ま
斉藤が今度こそはっきりとムカついた顔を政木に向けた。
﹁
れた経験があるからこうなったんだけどね。しかも君の仲間にも蔑
なるほど。それなら納得だな﹂ む側の人が居たから、君もあっち側だと思ってたんだよ﹂
﹁
俺が斎藤に同意していると、しばらく何を言われたのか理解が出来
ないようだった政木が椅子と机を盛大にガタガタ言わせながら立ち
何い!?誰だ!?誰に何言われたんだ。ぼこぼこにしてきてや
上がった。
﹁
る!誰だ!?﹂ 斉藤は政木の勢いにすっかり腹立ちを消して、むしろ引いた顔をし
落ち着いてよ。君の友達を減らす気はないよ。もう気にしてな
た。
﹁
俺の気がすまん!﹂
いし﹂ ﹁
それより、メガネ返して﹂ 斉藤が、興奮して立ち上がっていた政木の腕に手をかけて言った。 ﹁
政木は気が抜けたように椅子に腰を降ろすと、斉藤にメガネを渡し
た。
160
﹁
前言撤回だ。お前を差別するようなクソどもがあっち側で、後
は全部こっち側だ﹂ 仏頂面でそう言った政木を、メガネを装着した斉藤が嬉しそうに見
同感﹂ ていた。
﹁
一応俺も意見を表明したが、あれ、こいつら良い感じじゃねえ?俺
をのけ者にして二人で仲良くするつもりか?俺、結構それ困るぞ。
161
閑話 あっち側かこっち側か in教室︵後書き︶
ほぼ毎日だった更新を、しばらく2日に1回にしようと思っていま
す。
毎日楽しみにしてくださってる方がいらっしゃったらすみません。
大体偶数日の夜更新予定です。大体で重ねてすみません。
次回大事件が起きます。これからもよろしく願いします。
162
え!どこ?何?
暑い。俺の部屋にはエアコンがない。
冬はどうってことないが、夏は暑い。明日は日曜で特に予定はない。
﹁
﹁
俺のも!﹂ あ、おかーさんのも買ってきて!﹂ アイス買ってくる﹂ 部活もない。暑い。22時近いけど今すぐ泳ぎたい。暑い。
﹁
階段を下りてリビングに向かって言うと、すかさず両親から返事が
あった。
自分らも食いたいんなら昼間買い物するついでに大量に買っといて
くれよ。
最近連夜コンビニへアイスを買いに行かされている為、靴を履きな
がら心の中で愚痴った。
歩いてもすぐだが暑いので自転車でコンビニに向かっていると、ポ
ケットで携帯が鳴った。
誰だろ?こんな時間にかけてくるのは政木くらいだけど、今日は昼
に会ったしな。斉藤から苦情か?
自転車を止めて携帯を取り出し相手を確認すると、心臓がどくんと
音をたてた。。
彼女だ。
あっちが誘ってんだろ。お前実は狙われてんじゃねえの?﹄
こんな時間の電話は勿論初めてだ。
﹃
昼間の政木の言葉が頭をいっぱいにする。どうしよう。ないとは思
うけど、もしかして夜の誘いだったら。俺どうするんだ。
携帯を凝視して有り得ない程心臓を鳴らしていると、着信音が途切
163
れた。何やってんだ俺!せっかくかかってきたのに切れちゃったじ
ゃん!政木のあほが!余計なこと言いやがって!
携帯をアスファルトに叩き付けたいぐらい後悔していると、すぐに
もう一度着信音が鳴り出した。
嬉しくて飛び上がりそうだったが、そんな事をしてる場合じゃない。
﹁
お兄ちゃん、良かった・・・﹂ はい﹂ 慌てて通話ボタンを押した。
﹁
彼女の様子がおかしかった。いつもと全然違う辛そうな声は聞き取
どうしたんですか?大丈夫?﹂ りにくく、呂律が回ってない感じだった。 ﹁
ああ、ごめん・・・・。大丈夫じゃないの。・・・・・こんな
焦った。何だ?どっかで倒れてるんだろうか。
﹁
﹁
お兄ちゃんちの、近くだと思うの。・・・・いつものコンビニ
え!どこ?何?﹂ 遅くに、ごめん。・・・・・・助けて﹂ ﹁
の、近くの、・・・カラオケの裏のホテル﹂ 逃げたいんだけど、・・・・・飲みすぎて、動けなくって。・・
ホテル!?
﹁
・・・サダオが、今シャワー﹂ 部屋にいんの!?﹂ はあ!?
﹁
﹁
﹁
すぐ行くからカギ閉めてじっとしてて!﹂ ううん、・・・・・1階の、トイレ、まで来てる﹂ どこ!?部屋にいるのか!?﹂ 彼女が黙ってしまい、もどかしくて堪らなかった。
﹁
ホテルの前で自転車を捨て、入り口の分かりにくいエントランスへ
164
駆け込んだ。
人と会わずに出入りできるようになっていたので、誰に咎められる
こともなかった。
携帯で彼女を呼び出しながら女子トイレのマークを見つけ、ためら
うことなく踏み込んだ。
一番手前の個室の中から着信音が聞こえたが、すぐに途切れた。
はい﹂
場所合ってて良かった。ほんと良かった。
﹁
着いたよ。開けて﹂ 彼女が携帯に答えた。
﹁
俺の声が電話からではなく、個室の外から直接聞こえたはずだ。
カギを開ける音がしてドアが開いた。
ごめん・・・・﹂ 青ざめた彼女が蓋を閉めたままの便座に座り込んでいた。
﹁
自分でも良く分からない苛立ちから返事をする気にならず、青い顔
をした彼女を無視して外に出るよう促した。
しかし彼女は立ち上がりはしたものの、歩くのもままならない様子
だった。当たり前だ、歩ければ自分でここから逃げられたはずだ。
彼女の前にしゃがんで背中に乗るように促した。
早くしないと宮本が来るんじゃない?おんぶが嫌なら抱っこす
さっさと乗らない彼女にまた腹が立って、意地悪く言った。
﹁
おんぶが良い、です﹂
るけど?﹂ ﹁
彼女がようやく俺に被さって来た。
ほとんど力が入っていないが、柔らかな彼女の身体は軽かった。
太腿を支えた俺の腕に、薄く滑らかなパンツの生地を通して感じる
どこ行けばいいの﹂
彼女の柔らかさが意外なほどだった。
﹁
外は暗くて暑かったが、異様な緊張と焦りで身体が冷えていたみた
165
いだ。
背中に感じる彼女の体温に、少し苛立ちが落ち着いてきた。
宮本に会うことなく彼女をホテルの外へ連れ出せたことにもかなり
ここから離れたい﹂ 安堵した。
﹁
まあ、そりゃそうだろうけど。既に自転車は諦めてがんがん歩いて
﹁
ううん、・・・・今乗ったら、吐く﹂ タクシー止めようか?﹂ ホテルから離れようとしている。
﹁
彼女が身をすくめたのを感じて、俺が知らずため息を吐いていたこ
ごめん、もうちょっと、離れたら、置いてって。・・・・酔い
とに気付いた。
﹁
醒まして、から、帰る﹂
ようやく落ち着いていたのにその言葉にまた腹が立った。彼女はし
馬鹿じゃないの?そんなんで置いてったらここまで来た意味な
ゃべるのも苦しそうだ、相当気分が悪いのだろう。
﹁
いだろ﹂ 他の男にやられるに決まってるだろ。
それ以上しゃべる気にならず、無言で近くの公園を目指して歩いた。
166
吐いて。そんな状態じゃいつまで経ってもタクシー乗れないよ﹂
何やってんの?
﹁
夜中も電気がついている比較的綺麗な公衆トイレへ彼女を押し込み、
入り口に立った。
変な奴がトイレに入らないか気にしながら、トイレ脇の自販機でお
茶のペットボトルを買う。
心配するまでもなく、くそ暑い公園に人気はなかった。
一人で考え始めると再び腹立ちと呆れと、どうしようもないやりき
れなさに涙が出そうだった。
信じられねえ。気もない男とあんなになるまで飲んで、ホテルに連
れ込まれたあげく、旦那を呼べないからって近所にいる俺かよ。
マジでそうなの?そんな人なの?
個室の中で途切れず水を流す音がする。吐けているのだろう。少し
は気分がよくなるはずだ。しばらく休ませたらさっさとタクシーに
乗せよう。
物音がしなくなり5分を越えた頃、我慢が出来なくなって個室の前
﹁
・・・うん、ごめん、出る﹂ ねえ、起きてる?﹂ に立った。
﹁
まだ辛そうだ。ドアが開いた。彼女の顔に少しだけ血の気が戻って
きていた。
吐くときに邪魔だったのだろう。髪をまとめる余裕もあったようだ。
﹁
・・・つかまって良い?﹂
歩けるの?﹂ 少し乱れた黒い髪が後頭部で適当にくくられていた。
﹁
167
腕を差し出すとうつむいたままもたれかかるように掴まってきた。
ノースリーブからのびる少し汗ばんでしっとりと冷えた白い腕が、
俺の焼けた腕に密着して艶めかしかった。
水道のところまで連れて行くと、彼女は俺から離れ、流しにもたれ
かかるようにして、口をゆすいだ。
しつこく口をゆすぐ彼女を眺めていると、今度は顔を丹念に流し始
何やってんの?まだ酔ってんの?服ビシャビシャじゃん﹂ めた。そして胸元のボタンを2つ開け首筋まで流し出した。
﹁
彼女の手を横から掴んでその作業を無理矢理止めさせると、彼女が
俺がいるの忘れてたろ?何やってんの?風呂じゃないよここ﹂ 我に返ったように濡れた顔をあげた。俺がいるの忘れてたな絶対。
﹁
ごめん、触られたとこ気持ち悪くて、いった﹂
細い手首を掴んだままそう言うと彼女が俯いた。
﹁
思わず彼女の腕を握る手に力が入ってしまった。口と顔と首筋が気
持ち悪いのかよ。そりゃ手で触られたってわけじゃなさそうだな。
はらわたが煮えくり返るってこういうことを言うんだろうな。宮本
と、宮本に触られることを許した彼女に、むちゃくちゃムカついた。
腕を乱暴に放すと、彼女の白いノースリーブシャツのボタンをさら
に2つ開け、襟元を掴み左右に大きく開いた。
幸運なことに彼女は中にぴったりしたキャミソールを着ていた。じ
何?﹂ ゃなきゃ下着が全開で見えていただろう。
﹁
酔っ払っているせいか反応が鈍い。
彼女を無視して片手で彼女の肩を流しのほうに押し、出しっぱなし
だった水道の水をもう片方の掌ですくい、細い首筋に流した。
何度も何度も水をすくい首筋を掌で擦った。
彼女は流しに手をつき、黙って俺のされるがままになっていた。
168
﹁
大丈夫。おかげでだいぶ酔いが醒めた﹂ 寒くない?﹂ 結局俺が彼女をびしょ濡れにしてしまった。
﹁
外灯の届かない暗いベンチに移動しお茶を口に含んだ彼女が、まだ
﹁
ほんとね。馬鹿なことしたわ。あの子生んでから始めてだった
何でそんなになるまで飲んだんだよ﹂ 苦しそうな息を吐きながら言った。
﹁
の、お酒飲むの。それなのにサダオと合流なんて、自分が信じられ
ない﹂
宮本とふたりだったの?﹂
限界量が分からなかったってことだろうか。 ﹁
彼女がぐったりとベンチの背にもたれたまま俺に胡乱な視線を向け
そんな訳ないでしょ。久しぶりに会う遠くに住んでる女友達と
た。
﹁
食事してて、あいつには偶然会ったのよ。ねえあたしが呼んどいて
ほんとそっちが呼んどいてあれだな。アイス買いに出てたから
あれだけど、時間大丈夫?おうちの人心配してるんじゃないの?﹂
﹁
﹁
立ち読みしてると思われてるよ。俺のことは良いから、続き﹂ アイス買うには長くない?﹂ 大丈夫だよ﹂ ﹁
続きって。えっと、でサダオが一緒だったのが、水泳部の顧問
邪険に彼女の心配を流して先を促した。
﹁
﹁
ほら、水泳部っていい感じのシステムになってるって言ってた
はあ?﹂ 気になってってあんた人妻子持ちだろ?
だって言うから、ちょっと気になって﹂ ﹁
じゃない?そういうの考える人なら好きかもなあと思って﹂ ムカつきすぎて逆に頭が冷めてきたようだ。なのに今すぐ噴火しそ
うなほど腹の中が煮えくり返っている。これほど他人にムカついた
のは人生初の経験だ。
169
﹁
残念だったね。あれ作った顧問そいつじゃないし﹂
そうなんだってね。話してて分かった。それで、帰ろうと思っ
冷たい俺の声に、彼女が分かってるというようにうなずいた。
﹁
たら歩けなくなってて、友達は最終に乗らなくちゃいけないし。そ
宮本に介抱させた訳?やっぱ馬鹿じゃないの?﹂ の知らない人に介抱されるよりましかと思って﹂ ﹁
そうね。馬鹿だった。サダオとだったらどんなにべろべろでも
彼女が恨めしそうに俺を見た。
﹁
あんたに自信があったって、宮本にやる気があったらやられる
流されない自信があったんだけど﹂ ﹁
だろ。そんな状態でどうやって抵抗するんだよ。宮本が無理矢理や
ろうって相手を放置してシャワー浴びるような阿呆だったから間に
合ったけど﹂ 返す言葉もありません。反省してます。助けに来てくれて本当
彼女が俺から視線を逸らした。
﹁
反省したって遅いってことになる寸前だっただろ!大体、俺ん
にありがとう﹂ ﹁
ちから遠い場所だったらどうしてたんだよ!俺みたいな都合がいい
奴が各地にいるのかよ!?﹂
彼女の不貞腐れた態度に今まで溜めていた怒りを抑えきれず怒鳴る
﹁
知らねえよ!浮気現場に旦那呼べないから俺呼んだんだろ?今
何言って﹂ と、彼女が驚いた顔をして俺を見た。
﹁
度からは勝手にやってよ!人妻が男漁るのの後始末なんかしたくね
えよ!﹂ 彼女が俺の言葉にめちゃくちゃ傷付いていくのが目に見えるようだ
ったが、とまらなかった。
好きになった人がこんなだらしない人間だったと突きつけられ物凄
く悲しかったのだ。そりゃ最初は見た目だけで好きになったけど、
太朗と一緒にいるとこも他の可愛いとこも大好きだったのに。俺が
170
好きになった彼女を貶められた気がしてやりきれない程ムカついて
いた。
あたし、独身だもん﹂ 彼女が泣きそうな顔で俺を見つめ、ポツリと呟いた。
﹁
そして、膝に顔を埋めて泣き出した。
・・・・・・・・なんて言った?
171
今なんて言った?﹂ お兄ちゃんのせいよ
﹁
急激に冷やされた頭で恐る恐る彼女に尋ねるが、しゃくりあげて泣
ねえ、さっきなんて言った?﹂ いていて返事をしない。
﹁
彼女の前にかがんで伏せた顔を覗き込みながらもう一度尋ねると、
顔を上げ泣き顔で俺を睨んだ彼女が、俺の肩を両手で力一杯突いて
知らん!﹂ 叫んだ。
﹁
知らんって。自分で言ったんだろ。非力だけどめちゃくちゃ怒って
﹁
関係ないでしょ!﹂ まさか独身って言った?﹂ んな。
﹁
今すぐに詳しく聞きたいのに、めちゃくちゃ怒らせてしまってるし、
ごめん。さっき言ったこと取り消す。ごめん﹂ 酒が入ってるからか会話にならない。
﹁
とにかく落ち着いて貰おうと急いで謝ると、彼女がすでにさっきの
行水でびしょ濡れになっているハンドタオルで顔の下半分を隠しな
﹁
﹁
﹁
どれ?えと全部。ごめん、ていうかほんとに独身って言った?﹂
どれを?﹂ ほんと﹂ ホント?﹂ がら眉を寄せて俺を見た。
﹁
望む答えを期待して、心臓が息苦しいほど強く音を立て始めた。 彼女がタオルの上から目だけを出して俺を見ている。返事を待って
じっと見つめた。
何か腹も痛くなってきた。嘘とか言わないで。お願いします。お願
172
いします。
言った﹂
彼女がまた両目を潤ませ、タオルに顔を伏せる間際に小さく呟いた。
﹁
マジで!ああ神様!マジで!超嬉しい!どういうことなんだー!!
訳が分からないような、踊りだしたいような、夢が醒めるのを恐れ
るような、何とも言えない複雑な気分だった。
かなり混乱して興奮していたが、彼女の泣いている姿を見ていると
別れたの?﹂ 徐々に落ち着いてきた。
﹁
﹁
え?太朗は?﹂ 結婚してない﹂ 彼女がしゃくりあげながらかぶりを振った。
﹁
・・・・婚外子なの﹂ 少しためらった後、彼女がタオルを膝におろして答えた。
﹁
﹁
﹁
知らん。カタカナ?英語?漢字?﹂ 知らない?﹂ コンガイシ?﹂ 俺の頭にはてなが浮かんだ。
﹁
彼女がふわっと微笑んだ。怒りが収まったのはいいけど馬鹿にされ
漢字。結婚してない相手との子のこと。太朗の父親とは結婚し
たんじゃないのか?
﹁
なかったの﹂ なんか隠してたみたいになってごめんね。家族の日に言おうか
彼女が気まずそうに目を逸らした。
﹁
いや、ええと、どういうこと?結婚しなかったけど太朗生んだ
と思ったんだけど﹂ ﹁
そう、結婚する約束してたんだけど、妊娠してから振られちゃ
ってこと?﹂ ﹁
173
って﹂ 笑いながら言う彼女がなんだかひどく頼りなく見えた。そして今ま
はあ?何そいつ、信じられねえ。肩車も虫も駄目なへたれで稼
で旦那だと思って想像していた太朗の父親像が最悪の形で固まった。
﹁
ぎも悪い上に最低男かよ。なんでそんなのと付き合ってた訳?﹂
あははー、言ってなかったせいで勘違いが進んでるね。肩車も
彼女が目を見開いた後、面白そうに笑った。なんで?
﹁
虫も大丈夫な頑丈な人で、稼ぎもいいけど、私と結婚しなかっただ
けよ﹂
俺は考えた。でもちょっとやそっと考えたくらいじゃ整理がつかな
頭ぐちゃぐちゃで分からん。後で考える。でも、独身ってこと
かった。
﹁
?﹂
彼女が思い出したように、俺を睨んだ。泣き顔で睨まれても可愛い
だけだけど。
顔を洗って更に泣いたことで、元々濃くもない化粧が落ちてしまっ
そう。だからあたしが男と飲んでたって別に責められることじ
たのかいつもより顔が薄い事に今更気付いた。でも可愛いな。
﹁
ゃない﹂
顔は可愛かったが台詞は可愛くなかった。ムカッときて立ち上がっ
﹁
それは反省してる。もうしない﹂
宮本にやられるような状況を自分で作っといて良く言うよ﹂
た。
﹁
だけど、男はこれからも漁るって言いたいの?﹂ 彼女の憎たらしい不貞腐れた顔と口調に含みを感じた。
﹁
そういう言い方しないでよ。太朗に父親探したっていいでしょ
自分の口から酷く意地の悪い声が出ていた。 ﹁
?独身なんだから﹂ 彼女も完全に俺にムカついている声音だ。喧嘩っぽくなってきたな。
なんで俺この人と喧嘩してんだ?
174
﹁
こんな探し方したってろくなのいないと思うけど﹂ そうだけど!でも、やっと頑張る気になったのに・・・。あた
彼女がぐっと詰まった。自分でもそう思ったんだろう。
﹁
しにずっと独りでいろって言いたいの?﹂ そんなこと言ってない。ごめん﹂ 憎たらしかった彼女が一変して、情けない表情を浮かべた。
﹁
﹁
え?だって、ずっと独りでいろなんて思ってないし。こんなこ
なんで謝るの?﹂ あわてて謝ると、彼女が驚いたような顔をした。
﹁
とは今日初めてだったんだよな。そう言ってたもんな。ごめん。な
んか俺えーっと、結婚してると思ってたから今日色々腹立てて、そ
の整理がまだついてないみたい。だからごめん。いろいろ勘違いで
ひどい事言ったかも。うわ、ほんとにごめん﹂ しゃべりながら青くなって頭を下げた。男漁るとか。浮気とか。後
始末とか。ただフリーの女の人が男と飲んだだけじゃん。しかも太
朗生んで初めて飲んだって言ってたじゃんさっき。まずい。まずい
ぞ俺。暴言はきすぎだろう! そうやってお兄ちゃんがさあ、はあ﹂ 頭をあげると、彼女が俺を見て困ったような顔をしていた。 ﹁
﹁
お兄ちゃんがそうやってあたしに優しくするから、今まで大丈
何?﹂ 彼女が何故かため息をついた。
﹁
夫だったのに駄目になっちゃったんでしょ﹂ 太朗にもほんとに優しいし、太朗もすごく楽しそうだし、あん
何かを俺のせいにされた気がするが、分からない。
﹁
なの見せられたら父親だって欲しくなるわよ﹂ 俺のせいで太朗に父親が欲しくなったのは分かった。飛行機や
これは分かった。
﹁
ったからだろ?その前は?俺のせいで何が駄目になったって?﹂ 175
お兄ちゃんのせいで、男が欲しくなったのよ﹂ 彼女はじとっと俺を見た。
﹁
太朗の父親と別れてから男なしでも全然大丈夫だったのに、駄
え?
﹁
目になったの!こんな良い身体のイケメンが近くに居て、しかも凄
く優しいんだもん、そりゃ男も欲しくなるわよ。あたしのせいじゃ
ない。絶対お兄ちゃんのせいよ﹂ 俺は彼女の前に立ち尽くしたまましばらく固まった。4回くらい彼
女の言葉を頭の中でリピートした。真っ赤になってたと思う。でも
そして、可愛いしさ。もうなんなの?﹂ しかし赤面は彼女に
暗くて見えないはずだ。
﹁
でもよく考えたら、お兄ちゃんみたいな良い男捜したって余っ
ばれていたようだ。
﹁
てるわけないのよね。良い男なんだから。はあ、なんで高校生なの
ー﹂ 彼女のため息交じりの嘆きが胸に突き刺さった。駄目なんだ俺。高
俺のせいで男欲しくなったのに、俺じゃ駄目なの?﹂ 校生だから?
﹁
思わず、口をついて出てしまっていた。
176
俺は?
彼女が俺を見て、何を言われたか分からないという顔をした。
俺が高校生だから駄目なの?それって酷くない?年だけじゃん﹂
一度口から出た言葉は取り返しがつかない。もういいや。
﹁
彼女が焦っていた。暗くて分かりにくいけど、目を泳がせている彼
﹁
関係ないよ。下の側が良いって言ってんだから問題ないだろ?﹂
な、何言ってんの?だって年いくつ離れてると﹂ 女の頬はもしかして赤くなっているんじゃないだろうか。
﹁
関係ないんだよ。それは自信を持って言える。最早俺は彼女を見下
え!問題あるでしょ!だって高校生だよ。あたしなんてもれな
ろし仁王立ちだ。 ﹁
﹁
いいじゃんって、そんな簡単じゃない、と思うん、だけど・・・
いいじゃん。太朗可愛いし﹂ く太朗がついてくるんだから﹂ ﹁
﹂ 彼女が自信なさそうになってきた。所詮酔っ払いだからな。頑張れ
俺。押せばどうにかなるかもしれん。
彼女の前にかがんで、彼女の両足を挟むようにしてベンチに両手を
付いた。
せっかく太朗と俺が仲良くなったのに、また他の奴が太朗と仲
彼女がわずかに怯えた表情を浮かべていた。
﹁
良くなるのを待つわけ?﹂ 俺の腕に両足を囲われた彼女は、ベンチの背の方へ後ずさり始めた。
そうすると、思うけど。好きになった人に、後から太朗は嫌だ
逃がさん。
﹁
177
太朗が嫌だとか言うクソみたいな男を好きになるつもり?﹂
とか言われたらきついし﹂ ﹁
﹁
なんで俺じゃ駄目なのかって言ってんの。俺、太朗が嫌だなん
そんなこと、言ってない。なんでお兄ちゃんが怒ってんのよ﹂ 見上げる俺に、彼女がたじたじで答えた。
﹁
それは分かってるけど。でも、だって、あたしが、えーと﹂ て言わないよ﹂
﹁
﹁
あたしが、うーん、分からない。忘れた。何言いたいか忘れた
あたしが何?﹂ 彼女が視線を泳がせた。
﹁
!ていうか酔っ払ってんのあたしのはずじゃん!これじゃ酔っ払い
何だよそれ。俺酔ってないよ。なんで俺が酔ってることにされ
に口説かれてるみたいだよ﹂ ﹁
てんの?吐いてたのそっちだろ﹂ 分かってる。今日吐いたのはあたしだけど、この場の雰囲気に
彼女が嫌な顔をした。
﹁
のまれてそんなこと言ってんだから酔ってんのとそう変わらないで
しょ﹂ ﹁
そうじゃなきゃ有り得ないもの。暗がりで濡れた女見て、きっ
俺が今だけこんなこと言ってると思ってんだ﹂ 憎たらしい顔で、また腹が立つことを言い始めた。
﹁
と純情なお兄ちゃんがおかしくなってるんだわ﹂ 言いながら自分の言葉に納得したのか、徐々に警戒した顔色に変わ
っていった。
まあ、それでもいいや。ねえ、宮本は気持ち悪かったんだろ。
何かされそうな心の準備はしてくれたらしい。
﹁
俺は?﹂ 彼女の膝に身体を近付けると、彼女が仰け反る様にしてベンチの背
に身体を添わせた。逃げられないのに逃げて行こうとする彼女を腰
178
の横に移した両腕で囲いながら、身体を起こした。
う、何するの?﹂ 動悸が、やばい。頭の中もドクドクいってる。
﹁
一気に近づいた俺の顔を避けて彼女が横を向いた。襟の隙間からさ
っき散々さわった首筋が覗く。
彼女がぎゅっと目を閉じているのを横目に確認しながら、首元に顔
ん!﹂ を近づけた。
﹁
彼女が俺の気配に身をすくめるのを鼻先に感じた。もしかして、宮
本と同じように気持ち悪いんだろうか。必死で耐えてるのかな。
何かそれはそれでいい気味だみたいな、意地の悪い気分になってい
た。つまり、止める気にならなかった。
シャツと首の付け根の間に唇を押し付け、少し吸ってみた。
シャツは冷えてるのに、柔らかく湿った肌はじんわりと暖かかった。
ほとんどお兄ちゃんが濡らしたんでしょ﹂ ﹁シャツかなり濡れてるね。ほんとに寒くないの?﹂ ﹁
彼女が俺から顔を背けたまま、予想外に飄々とした声で答えた。
襟元に顔を突っ込まれて首筋に唇をくっつけられたままなのに、嫌
じゃないんだろうか。
彼女の良い匂いを吸い込む様に、震える息を深く吸ってゆっくり吐
くと、くすぐったかったのか嫌だったのか、彼女が肩を竦めた。
でも、俺を突き放す素振りは一切なかった。
いいの?耐え切れず、舌先で彼女の肌を舐めてしまった。さっきず
ぶ濡れにして洗ったからか何の味もしなかったが、たまらなかった。
小さめの顎の下に向かって少しづつ唇をずらしながら吸って舐めた。
頭がどうにかなりそうだ。なんでとめないんだろうな。ああ、酔っ
﹁
え?﹂ 俺も気持ち悪かった﹂ てるからか。
﹁
179
彼女が身じろぎして顔が少しこっちを向いた。耳たぶの下辺りに唇
をくっ付けていた俺の肌に、彼女のしっとりした頬が触れぞくぞく
した。
宮本にべろべろされたんだろ?俺も気持ち悪かったんだよ﹂ ああもう。本当に今止めないと俺がどうなっても知らないぞ。
﹁
彼女の滑らかな肌から唇を離し、真正面からその顔を見つめて言う
べろべろって。思い出すから止めてよ﹂ と、彼女がげんなりとした。
﹁
凄く普通だった。俺の必死の接近なんか気にもならないのかな。高
校生だもんな。太朗に舐められてるくらいの感じなのかも。こっち
は心臓飛び出しそうなのに。
悔しさと、抗い難い欲求から、もう一度彼女の首筋に唇を押しつけ
たが、彼女は避けなかった。
太朗扱いだとしても、素面の彼女であれば俺にこんな行為を許すと
は思えなかった。
180
指切った
腕をベンチの背もたれに移し、彼女の滑らかな頬に唇を押し付けた。
彼女はそれに合わせて目を閉じたが、唇が離れるとまた目を薄く開
されたんだろ。宮本にもこうやって。どんだけ酔っ払ってんだ
き俺を見た。
﹁
よ。無防備にも程があるよ﹂
彼女の唇以外の至るところに、何度もゆっくりと唇を押し付けた。
流されすぎだろ、さっき高校生は有り得ないって自分で言ってたく
せに。
彼女の顔をもう一度真正面から見つめた。これから俺がしようとし
ていることを、予測はしていないのだろうか。酔ってるとそんなこ
俺が触るのは気持ち悪くないの?﹂ とさえ出来なくなるのだろうか。
﹁
鼻先がふれ合うほど近くまで顔を寄せ確認をするが、彼女は表情の
読めない顔をして俺を見ているばかりで返事をしない。相変わらず
とめる様子もないので、せっかくだから決行することにした。
彼女の少しだけ厚めで色っぽい唇に自分のそれをゆっくり押し付け
た。初めて触れる唇は、さっきまで触れていた他のどの場所より柔
らかく頼りなかった。
しばらく押し付けていたが、一度わずかに離し、自分の唇を少し開
き彼女の柔らかな唇を食む様に軽く吸った。あんなにゆすいでいた
のに、まだほのかにアルコールの匂いがする。
さっきまで吐いてた人間の口に吸いついて有り得ない程興奮してる
自分が信じられない。
俺、やっぱりこの人が好きだ。めちゃくちゃドキドキしてる。頭お
かしくなりそう。
自分の唇にくっ付いてゆっくり剥がれていく濡れた感触がなんとも
181
言えず、何度も繰り返した。
経験もないし舌を入れる勇気はなかった。そこで拒絶されるのも怖
かったし、唇が触れるだけでも凄く気持ち良かった。ただ夢中で彼
女の唇を吸い続けた。これでもかと言うくらいにしつこく続けた。
どのくらい続けていたのか定かではないが、はあ、と息をもらした
彼女に、我に返った。惰性で唇を押しつけ続けながら彼女の顔を見
るとやばいことになっていた。
濡れた唇をわずかに開き、半分伏せた目で自分の唇に吸い付く俺を
陶然と見ていた。そのあまりに色づいた表情は、すでに熱くなって
いた身体に重く響いた。
彼女はすぐに俺が自分の顔を見ていると気付き、俺の顔を押しのけ
もう駄目、これ以上はやばい﹂ るように両腕で目を覆った。
﹁
そう言ったのは俺じゃなかった。彼女が腕の下から、濡れた唇だけ
を妖しく動かして呟いた。
その動きに引き寄せられ、また柔らかく湿った唇に吸い付く。ああ、
う、ん、駄目、だって﹂ どうしてこんなに抗い難いのだろう。
﹁
しゃべる間も彼女の唇を追おうとする俺の口元を、小さな掌が覆っ
ストップ。終わり!﹂ た。
﹁
彼女が上気した色っぽい顔をさらして俺に言った。残念ながら目に
なんで﹂ は正気の色が戻り始めている。
﹁
﹁
﹁
何って!これが!﹂ 何が﹂ なんででも!もう駄目なの﹂ あんなに気持ち良さそうだったのに?
﹁
嫌だよ。もっと続けたい。
182
﹁
もう、お願いだからそんな顔しないで!あたしこういうのすご
く久しぶりなんだから。我慢するにも限界が﹂ ﹁
高校生には言えない!大人の事情があるの!分かってるでしょ、
我慢できなくなるとどうなるの?﹂ 彼女は言いながら、すごく情けない顔になった。
﹁
わざわざ聞かないでよ﹂
俺を睨みつけた彼女が小さくそう叫んで、掌で顔を隠してしまった。
正に子ども扱いされている台詞だが、腹は立たず可愛いだけだった。
高校生の俺に彼女が欲情しているのが丸分かりだったからだろう。
深呼吸をして気分を切り替える努力をした。
顔を覆う彼女の手の甲に一度強く唇を押しつけ、気合を入れて身体
我慢しないで、高校生を食えば良いのに﹂ を離した。
﹁
酔って正気じゃないとしても喜んで食われるのに。
﹁
そっちこそそういうこと言ってると、無理矢理やるからね﹂
だからそういうこと言わないでって。食べたくなるじゃん﹂
彼女が顔を伏せたまま俺を非難した。
﹁
もうなんかほんとにそれでも良いんじゃないかって気分なんだから
ね。 帰ろう!このままじゃあたし犯罪者になっちゃう﹂ 彼女が勢いよく顔を上げた。
﹁
ムラムラしてると思うけど、今から夜の街に繰り出して適当な
タクシーを待つ彼女と並び、横目で見下ろした。
﹁
男引っ掛けたりしないでよ。俺が我慢した意味ないからね﹂ 煩い﹂ 明るい通りに出ていたので彼女が頬を染めたのが分かった。
﹁
183
﹁
﹁
分かってるわよ。せっかくあいつから助けて貰ったんだから、
煩いじゃない。返事﹂ そんなこと絶対しない。お兄ちゃん﹂ ﹁
助けに来てくれて、ほんとにありがとう。凄く、嬉しかった﹂ 何?﹂ 彼女が俺を見上げて、俺を呼んだ。
﹁
真顔だった。
﹁
指きりしてもいい。絶対飲みません﹂ もう次は行かないからね。男と飲むなよ﹂ 本気で言っているのだなと思った。
﹁
そんな約束していいんだろうか。男を探す予定はどうなったのだろ
う。
彼女は今度も真剣な顔をしていたが、俺が小指を差し出すと、それ
を見て可愛く笑った。
彼女の細い指が俺の指に絡むのを動悸と共に何故か冷静な気分で眺
める。何年ぶりだろうな、指きりとか。
嘘ついたら針千本と俺を食わす。指切った﹂ 歌うのではなく静かに言葉を紡いでいく彼女の声にかぶせた。
﹁
﹁
上等﹂ 怖い﹂ 彼女が引いた顔で俺を見上げた。
﹁
怖がらせて言うこと聞かせるもんだろ。指きりって。
184
185
まあそこに座れ in 家︵前書き︶
本話、次話、彼女出てきません。なのに長いです。悪しからず。
こんな話余計なんだよー!と思われたらごめんなさい。閑話気分で
どうぞ。
186
まあそこに座れ in 家
俺は考えていた。昨夜は当然興奮で悶々とし眠れず、朝方まで彼女
の事を考えて、少し寝てから部活に出た。そして部活から戻った今
も、相変わらず彼女の事を考えていた。
何で気付かなかったんだ俺。肩車、父の日、虫、分かりやすい伏線
が何度もあった。
彼女が俺を気軽に車に乗せるのも、誘うのも、今思えば独身だった
からこそなのだろう。
宮本に結婚を否定しなかったのは牽制のため。俺には家族の日に何
か言いたげだった。俺がそれを聞かなかったのだ。
俺の自業自得だな。
あれだけ人妻に恋してしまったと悩んだのだ。早く言ってくれれば
と彼女を責めたい気持ちになるかと思ったが、そうでもなかった。
とにかく彼女に旦那が居ないという事実が嬉しいばかりだった。
とは言え、彼女は高校生の俺を恋人候補としては考えられないよう
だったが。
昨夜は、俺じゃ駄目なのは年のせいだけだろと彼女を責めたが、一
度寝て落ち着くと簡単に分かった。
年じゃない。生活力がないからだ。彼女には太朗がついてくると言
っていた。あれもそう言うことなのだと思う。
昨日多分、嫌がってはいなかった。彼女が子供もいないただの独身
女性なら、俺と恋愛関係になることに障害はないはずだ。あれ、で
も。
このままじゃ彼女が犯罪者になるって言ってたな。どうして彼女が
犯罪者なんだ?
187
いつもは聞き流すばかりの、出会い系なんかで知り合った未成年者
と関係を持って逮捕される奴らのニュースが脳裏に浮かんだ。
もしかして、大人が高校生とそういう行為をするのは犯罪なのだろ
うか。
気になっていても立ってもいられなくなった。
取り敢えず調べてみようと思い立ったが、携帯で検索するのは苛々
するに決まっている。手っ取り早く済ますためにリビングに降りる
と、親父が家族共有のノートパソコンでオンラインゲームをしてい
替わってよ。調べもんがあるんだよ﹂ た。
﹁
ちょっと待て﹂ と言うか自分のでやれよ。何台も持ってんだろ。
﹁
そう言うが、一度やり始めると大抵は母ちゃんが怒鳴り始めるまで
﹁
お前の調べもんがすぐ終わるんならそうすっけど?﹂ いつになるんだよ。一回落ちろよ﹂ 数時間座っている。
﹁
確かに終わらないかもしれないけど、親父のゲームより息子の学業
が優先だろ、と思うが学業の調べ物ではない。
なあ、大人が高校生とやったら犯罪なの?﹂ まあ良いか。調べるもの面倒だし、手近の大人に聞くか。
﹁
親父がゲーム画面を放って俺を見た。やらないでいいんなら交替出
来ただろ。
まあそこに座れ﹂ 俺の視線に気付いた親父が無言でパソコンを畳んだ。
﹁
ローテーブルを前に床に胡坐をかいていた親父の向かいに座れと言
それは何のための調べもんだ。授業か?それともお前か?﹂ われたが、床が嫌だったのでソファにどさりと腰を下ろした。
﹁
親父が珍しく神妙な顔で言った。珍妙だ。
188
﹁
俺だな﹂ ﹁
﹁
﹁
﹁
ああ、ついにこの日が来たか。心配はしてたがまさか高校生の
知らん。10はいかねえくらいじゃねえ?﹂ 大人っていくつだ。何歳上なんだ﹂ 当然だろ。それよりさっさと答えを教えてよ﹂
お前が高校生なんだから、相手が大人な訳だな﹂ 親父が一度がっくりと肩を落とし、それから顔をあげて言った。
﹁
何言ってんだよ?﹂
うちに・・・﹂ ﹁
俺に似ていることを喜ぶべきか、似てしまったことを悲しむべ
呆然と俺を見ていた親父が奇妙な顔で呟いた。
﹁
﹁
お前が年上の女を好きになったからって俺にとやかく言う権利
だから何言ってんの?﹂ きか﹂ ﹁
はないな。でもお前苦労するぞ。せめて3,4歳上くらいの子に出
彼女が若返ればそれでも良いけど﹂ 来ないのか﹂
﹁
出来ないだろ?
まあそりゃそうだよな。で、何処の誰だ﹂
親父が溜息を吐いた。
﹁
﹁関係ないだろ。俺が聞きたいのは犯罪なのかどうかだよ﹂
﹁関係なくねえ。親も認めてて絶対結婚するって決まってるぐらい
の関係じゃなきゃダメなんだよ。親が訴え出りゃ犯罪なんだぞ﹂
﹁え、マジで。 自分に都合の良い様に言ってるだけじゃないのか
?﹂
﹁何の為に刑罰があると思ってんだ。自分で判断できねえお前らを
守る為だろ﹂
呆れた様な親父の顔を眺めながら、しばらく考えて、一応納得した。
騙されてんのかそうじゃないのか、俺が自分で判断できないってこ
189
とだな。
自分で出来てると思ってても信用されないってことか。
やっぱり世の中が高校生は子供だって思ってるってことだな。まあ、
事実そうなんだろう。
﹁まあ、お前はなんかあれだな。おっさんみたいだし、2つ3つし
ふーん。じゃあ、俺が好きになった人なら、父ちゃんと母ちゃ
か変わらん成人に判断能力が劣るかっつったら分かんねえけどな﹂
﹁
﹁
どうすんの?﹂
ああ、うーん?まあ、そうなるかな。いや、どうかな﹂ んが反対じゃなかったら良いってこと?﹂ ﹁
﹁
え、じゃなくて。彼女が父ちゃん達のせいで逮捕されるなんて
え!?﹂ 親父が仰け反った。
﹁
嫌なら我慢しろよ。それが一番だろ?相手にも迷惑かけるぞ﹂
嫌だろ﹂
﹁
親父が俺を説得するような調子になっている。なんかムカつくな。
190
お前、その人とはもう、あの、ほら、そんな感じになってんの
気が早いわねえ in 家
﹁
か?﹂ はっきり言えよ。なってないよ。高校生だからって男の候補に
言いよどむおっさんが気持ち悪い。
﹁
も入れてもらえねえよ﹂ そうだろうな。良し、落とせるにしろ落とせないにしろゆっく
途端に親父がほっとした顔をした。
﹁
りやれ。いや違うな、そう言う問題じゃねえな。落とせない方が良
いのか。そして次はもうちょっと年が近い子にしろ﹂
何でだよ。どんな人か知りもしないくせに、年だけで反対すん
こっちは真剣なのに、軽い調子で次の話をする親父がムカついた。
﹁
のかよ。見損なったよ﹂
俺が親父に言ったことそのまんま言ってやがる。遺伝子ってす
親父が口をあんぐりと開けて愕然とした。
﹁
何?じいちゃんに?あーもしかして父ちゃんと母ちゃん年離れ
げえな・・・﹂ ﹁
てんの?﹂
お前、本気で言ってるのかそれ。俺の息子が2桁の引き算出来
親父がもう一度愕然とした。
﹁
ないやつだったなんて。悪かった涼、気付いてやれなくて。かーさ
ーん!大変だ!涼が頭悪いぞ!﹂
リビングと続いているキッチンで洗い物をしていた母ちゃんが、水
そうなの?良くもないけど悪くもないでしょ?頭打ったの?﹂
を止めてこっちに来た。
﹁
親二人の温度差が激しい。
191
﹁
﹁
はあ!?毎年でかいケーキ食ってるだろ!?﹂ 違うよ。引き算は出来る。年知らねえだけだし﹂ 毎年誕生日が来てんのは知ってるよ。あんな大量のロウソク数
親父が煩い。
﹁
お前、自分のルーツに興味なさすぎだろ﹂
えられるわけねえだろ﹂ ﹁
で、なんの話し合いしてんの?引き算大会してたんじゃないん
呆れた口調の親父に母ちゃんが割り込んできた。
﹁
でしょ?﹂
親父が自分の年を息子が知らなかったことについてまだ言いつのる
俺が年上の子持ち人妻とやって良いかどうか﹂ つもりだと分かっているので、それより早く口を開いた。
﹁
お前そんなこと言ってなかったぞ!年上だって言っただけだろ
母ちゃんが絶句し、親父が吠えた。
﹁
!?人妻が良い訳有るか、ど阿呆!!﹂
﹁
﹁
うるせえなあ、だから、会ってもねえのに子持ちだからってだ
それでも聞いてねえ!子持ちとは聞いてねえ!﹂ あ、間違えた。人妻じゃなかった、子持ちなだけの大人﹂
親父の剣幕を眺めながら、自分が何を言ったかに気付いた。
﹁
けで反対すんのかよ。可愛いんだぞ太朗﹂
﹁
え?ああ、うん。小さい時に父ちゃんによく飛行機やってもら
あんた、もう子供と仲良いの?﹂ 二人が目を見開いた。
﹁
ったろ?あれやってやったらきゃーきゃー言ってめちゃくちゃ興奮
して可愛いんだ。父親が腰悪くてやってもらったことないんだと勘
違いしてたんだけど、父親いなかったんだよなあ。そりゃ肩車も興
奮するはずだよな﹂ 太朗の興奮を思い出してしみじみ言うと、ふたりがクールダウンし
た。
192
﹁
お子さんが小さいうちに離婚なさったの?﹂ いや、結婚してねえんだって。婚約者に妊娠してから振られた
母ちゃんが親父の後ろのソファに腰掛けながら俺に尋ねた。
﹁
﹁
﹁
クソね。良かったわよそんな男と結婚しないで。で、もうあん
だよな。俺もクソだと思う﹂ なんだそりゃ!?最悪だなその男﹂ って言ってた﹂ ﹁
たたちお付き合いしてるの?﹂ 相手にされてねえんだってよ。なのにこいつ、高校生が大人と
今度は俺より早くに、にやついた親父が口を開いた。
﹁
気が早いわねえ。まさか無理矢理やるつもりじゃないでしょう
やるのが犯罪なのか気にしてんだぜ﹂ ﹁
ね。そんなこと考えてんなら改心するまで全裸で屋根から逆さに吊
そんなつもりねえ﹂ し、これから思うとしても全裸逆さ吊り
るすからね﹂ ﹁
まあ、それなら勝手に好きでいる分には問題ないんじゃないの
の刑が怖くて出来ねえ。
﹁
?相手の方に迷惑かけない程度にお子さんと仲良くしてあげなさい。
あ、もしかして、母親に嫌がられてるんじゃないでしょうね?それ
あ?それは駄目だぞ。嫌がられてるのにしつこく近づく奴はス
は駄目よ﹂ ﹁
トーカーだぞ。それこそ犯罪だからな﹂
嫌がられてはないよ。それは確か。たぶん俺が高校生で生活力
ふたりして俺をストーカー扱いかよ。
﹁
がないのが問題なんだろ﹂
﹁
そうねえ。誰か良いお見合い相手探してきてあげようかしら。
確かに大問題だな。子持ちだし尚更だな﹂ 一瞬止まった親父が、大きく頷いた。
﹁
ねえ今度うちにその親子連れて来なさいよ。お子さんいくつなの?﹂
193
俺が好きな人だって言ってるだろ。なんで母ちゃんが他の男紹
なんか聞き捨てならねえ台詞がはさまったぞ。
﹁
介するんだよ。そんなことするなら一生連れてこねえ﹂ 早く大人になれればいいけどねえ。そのママに良い人が出来る
ふたりが俺を微妙な目で見ていた。
﹁
までに間に合うかしら﹂
﹁ どうだかな﹂ 結局、俺と彼女が肉体関係を持った場合、親がどうするのか答えを
聞くのを忘れた。
まあ、あの様子なら大丈夫だろ。
とり合えず合意があれば、彼女は犯罪者にならず、母ちゃんの制裁
を俺が受けるぐらいですむだろう。制裁の内容が、逆さ吊りじゃな
くて拳骨ぐらいであることを祈ろう。
問題は俺に生活力がないってことだ。それがなきゃ受け入れてもら
えない気がする。年齢は月日が経たないことにはどうにもならない
し、その差はいつまで経っても縮まらないが、経済力の方に可能性
を見せるのはどうだろう。
俺が金持ちになりそうな予感がすれば、大人になるまでキープしと
こうかなって気にはなってくれるんじゃないか?
まずは勉強だな。そして、大学入ってもっと勉強して、大企業に入
るか起業するかして金持ちになるんだ。
他のとこは大丈夫なはずだ。優しくてイケメンで良い身体って言っ
てたからな。キスしても嫌がらなかったし。むしろめちゃくちゃ気
持ち良さそうな顔をして、これ以上は我慢できなくなるから駄目だ
って・・・。
取り敢えず悶々として、勉強はしばらく出来そうになかった。
明日から頑張ろう。 194
195
ああ、もう遅い
もう一晩しっかり寝ると、今度は不安が襲ってきた。
彼女が素面じゃないことにつけこんであんなことをしてしまったが、
彼女は酒が抜けた後どう感じたのだろう。
自分が高校生の俺を拒みきれなかったことに対して後悔しているか
もしれない。
もしかして避けられたり、気まずくなったりするんじゃないだろう
か。別れ際は穏やかだったが、あの時点でまだ酒が相当残ってたん
なら、酔いがさめた今嫌われている可能性もある。
すでに先週末、部活終わりが夕方になる今日幼稚園に寄ることを約
束していた。
課外授業はなかったため朝彼女の顔を見ることは出来ず、夕方には
かなり不安が大きくなっていた。
なんとか不安を押し殺し幼稚園の駐車場に向かったが、彼女はいく
ら経っても現れなかった。
まずい泣きそう。駐車場に立ち尽くし、途方にくれていた。
いやでも、俺と何かあったからって、太朗を休ませてまで避けたり
する人じゃないだろ。子供じゃないんだぞ。
あらー!太朗君のお兄ちゃーん!﹂ 頭ではそう思うが、腹が痛かった。
﹁
おばちゃんに見つかってしまった。無人の駐車場に突っ立って待ち
ぼうけの自分がむしょうに恥ずかしかった。
﹁
今日飛行機の日だったの?﹂ こんちは﹂ 園の門の内側から手招きされたので、近づいた。
﹁
おばちゃんが門の向こうから申し訳なさそうに尋ねた。
196
﹁
﹁
いーえー、太朗君は来てたんだけど、今日はお迎えがおばあち
はい。太朗もしかして休みですか?﹂
いえ。あーあったかもしれないけど気付きませんでした﹂ ゃんでちょっと時間が早かったのよ。連絡なかった?﹂ ﹁
一応そういうことにした。確かに約束のある俺には連絡するべきだ
ああでも、今日は無理だったのかもねえ。園にもおばあちゃん
もんな。おばちゃんの彼女対する印象が悪くなるのは好ましくない。
﹁
から連絡があったし。お母様が風邪引いてダウンしてるんですって﹂
﹁
あ、はい。分かりました。有り難うございました﹂ だいぶ待っただろうけど、今日は許してあげてねえ﹂ え?あ、あれか!俺のせいか!
﹁
おばちゃんに頭をさげバス停に向かった。
ああ俺、濡れた彼女にいやらしいことしてる場合じゃなかっただろ。
吐いた後さっさとタクシーに乗せなきゃいけなかったんだ。
原因が自分に有りへこんだが、彼女が現れない理由が分かってそれ
以上にほっとした。
夜、アイスを食いながら課外授業の予習をしていると携帯が鳴った。
彼女のことを考えないためにやっていた予習だったので携帯をとる
のは早かった。携帯が気になってしょうがなかったからだ。
やっぱり彼女からだった。
﹁
あ、おにいちゃん?ごほ、ごほ﹂ はい﹂ 期待と不安に酷く緊張しながら通話ボタンを押した。
﹁
この間の呂律の回らないのとはまた全く違う声で聞き取りにくかっ
大丈夫?﹂ た。酷いかすれ声だ。
﹁
彼女が電話の向こうで咳き込みながら笑った。なんで?
197
﹁
ごめんね、今日連絡しなくて﹂ いや、いいよ。しんどかったんだろ?﹂ 太朗が寝てからかけてきたのかな、時計を見ながら思った。 ﹁
あれ、俺は果たしてこのしゃべり方で良いんだろうか。一昨日の緊
そーなの、先生に聞いたの?ごめんね、熱出ちゃって。お兄ち
急事態で無意識に敬語が抜けていたことに今更気付いた。
﹁
ゃんと約束してたの、忘れてた。待った?﹂
しゃべりながら合間合間で咳き込んでいる。俺の口調に関しては気
にしていないようだ。
それにしても熱が出ていたとは言え、一昨日のことがあったのに俺
いや大丈夫。・・・風邪引いたの俺のせいだろ?﹂ は忘れられてたのか。俺なら熱が50度出てても忘れられないけど。
﹁
せっかく今まで通り話してくれているのに、忘れたことにされたく
・・・そうだね。確かに半分は、お兄ちゃんのせいだね。あた
なくてそう言ってしまった。これで気まずくなったらどうすんだ俺。
﹁
し、ずぶぬれだったからね﹂ 彼女が一昨日のことをなかったことにせず、答えてくれたので嬉し
ごめん﹂ かった。
﹁
﹁笑ってない?あたし、タクシーで寝て、家着いた時びっくりした
んだからね。こんなに濡れてたのかって。あれたぶん、運転手さん
にばれたら怒られてたよ﹂ ちょっと責める調子になった彼女が可愛かったが、台詞の中に確認
何で濡れてたのか覚えてねえの?﹂ ほんとに聞きたいのはそ
したいことがあった。
﹁
﹁
﹁
もう絶対、あいつには触らせん!﹂ だから、思い出して欲し
何が﹂ 覚えてる。大丈夫﹂ れじゃない。その後のことを覚えているのか、だけど。
﹁
198
その後のことは、﹂ いのはそこじゃねえ。宮本じゃなくて俺だ!
﹁
聞きかけたが、彼女は興奮して咳き込んでいて聞こえていない。そ
﹁
﹁
サダオには、お兄ちゃんが知ってるって言わないでよ。お兄ち
何﹂ あ、そういえば、お兄ちゃん﹂ して彼女が続けた。
﹁
﹁
え!?﹂ ああ、もう遅い﹂ ゃんが巻き込まれちゃ大変﹂ ﹁
﹁
﹁
え、ああ、もう今日殴ってきちゃった﹂ 昼寝すぎて寝れない!遅いって何!?﹂ 大丈夫なの?寝れば?﹂ 大きい声を出した拍子に、また咳き込んでいる。
﹁
199
きちゃったじゃない!
朝一番に、車から降りた宮本を殴ってきた。
元からそう他人に腹を立てることもないし、他人を殴るなんて勿論
初めてだった。それに、以前政木が、鍛えてない奴がなんかを殴っ
たら簡単に骨折するって話をしていたのも有って、殴ると言うより
体当たり的だったかも知れないが、宮本は腹を押さえてうずくまっ
はあ!?きちゃったじゃない!駄目じゃん!昨日のうちに止め
て十分痛そうだったし、俺の手も大丈夫だった。
﹁
とけば良かった。どうしよう。お兄ちゃんが、停学﹂ ﹁
寝ないってば!それどころじゃないでしょ!﹂ 怒鳴られたが、
ねえ、ほんとに寝たほうが良いんじゃねえ?﹂ 彼女は咳き込みながら焦り始めた。
﹁
俺を心配してくれているのかと嬉しくなる。にやける顔が我慢でき
ない。
なんで?無理矢理ホテルに連れ込まれたんだから殴っていいだ
もし今、面と向かっていたら、きっと更に怒られている。
﹁
あたしとお兄ちゃんが仲良くしてるって、サダオ知ってるの?﹂
ろ?﹂なんで駄目なの?
﹁
そういやそうだな。携帯拾ってくれただけの人のために殴りかかる
﹁
なんでよ﹂
いや、知らねえと思うけど。まあ、良いんじゃない?﹂
のは不自然かもな。
﹁
俺が停学にならなきゃいいんだろ?俺が弱み握ってんだから、
物凄く怪訝そうな声が聞こえた。相当顔を顰めているはずだ。 ﹁
殴られたこと人に言ったりしないんじゃねえの?誰も見てなかった
200
し﹂ あいつが無理矢理だって自覚してればね。暢気にシャワー浴び
しばらく静かな間が有り、彼女が溜息を吐いて咳き込んだ。
﹁
てたくらいだから、弱みだとも思ってないかも﹂
彼女と合意の上でホテルに入ったと思ってるってことか?あんなに
切羽詰った顔してる人間を目の前にして無理矢理だと自覚出来ない
﹁
気持ちは良く分かるよ。サダオに電話して、お兄ちゃんになん
・・・・阿呆すぎて、俺にはあいつの考えは分かんねえ﹂ なんて有り得ないだろ。馬鹿だとしか思えない。 ﹁
かしたら、レイプされたって訴えるっていっとくわ。無理矢理だっ
たって自覚すれば、反省するような奴だから。まあ、それも理解さ
せるのが大変なんだけど﹂
宮本のこと良く分かってるね﹂ 面倒臭そうな声だったが、なんかムカついた。
﹁
分かる自分が嫌になるわよ﹂
レイプ犯だと偽証してもいいと思われてるのはざまあみろだけど。
﹁
ふと気付いた。 あんなに嫌がっときながら酔っ払って番号交換し
宮本の携帯番号知ってんだ?﹂
てんじゃん。
﹁
知らないわよ。サダオのお父さんの名前はうちの親に聞けば分
思いのほか意地の悪い声が出た。俺!小さすぎだろ器が! ﹁
かるから、自宅の番号調べられる﹂
彼女が呆れた様な声音で否定してくれたが、幼馴染宮本との強固な
ふーん﹂ 縁を感じてやるせなかった。
﹁
じゃあ、えーと、なんかごめんね。またね﹂ 素っ気無い俺の返事を受け、嫌な沈黙が流れた。
﹁
ああ不味い。彼女の声のトーンが低くなったのは、どう考えても俺
201
ねえ﹂ の態度が悪いせいだよな。
﹁
﹁
﹁
寝ない。一日中寝てて、全く眠くないし、熱も下がったし﹂
もう寝るの?﹂ 何?﹂ とり合えず電話を切られないように、彼女を呼んだ。
﹁
じゃあ、もうちょっと話してても良いの?﹂
それなら。意を決して声に出した。
﹁
予定していた優しい声にはならなかった。緊張でさっきみたいな不
え?﹂ 機嫌な声になってしまった。
﹁
もうちょっと話していたい、と頑張って、今度こそ穏やかな声で言
あ!駄目だった!早くサダオに電話しなきゃ。携帯じゃないか
おうと思ったのだが、彼女の慌てた声に遮られた。
﹁
﹁
またねー、ごほごほ﹂
え、ああ﹂ ら、遅くなったらかけられない。じゃあね、お兄ちゃん﹂
﹁
最後は咳の音であっさり電話が切れた。
まあ、こんなもんかな。
今から宮本と話すのかと思うとムカつくけど、それも俺のためだ。
残念だったのは確かだが、嫌われてなかったんだから上々だろ。
そう自分に言い聞かせてはみたが、俺の中で重大事件だった一昨日
のキスが、彼女にとっては些細な事だったんだろうなと、やっぱり
へこんだ。
202
203
あ、じゃああれは?
次の約束をしていなかったことと、朝に彼女を見つけられなかった
ことで、幼稚園に行くタイミングを逃した。
本調子になるまでばあちゃんに送り迎えを頼んだのかもしれないし、
そうじゃ無いかも知れない。
約束してても連絡貰えなかったくらいだ。約束もしてないのに、現
状報告の連絡なんかある訳がない。
そしてそのまま、学校は盆休みに入ってしまった。
お袋情報で、幼稚園にも働く親のための時間外保育制度があったり、
同じ敷地内に保育園が併設されていたりすることもあるのだと知っ
たが、盆は休みなんだろうか。彼女の仕事はどうなんだろう。
なんか会えないなあ。声だけでも聞きたいけど電話していいもんか
な。でも用件がないのになんて言って電話すりゃいいんだ。
太朗が、ひこうきしゅるーってかけてきてくれればいいんだけどな。
連日そんなことを考えていたら、自分が今までかなり受身だったん
だと気付いた。
うーん。どうすりゃいいんだろうな。
太朗と遊びたいって言えば良いのか?でも電話して、わざわざ休み
それは、彼女に会いたいって正直に言えば良いんじゃないの?
の日に呼び出してまで太朗と遊びたいって訳じゃないし。
﹁
子供をだしにしようとするから変な感じになって電話かけづらいん
じゃない?﹂ 世間の盆真っ最中、政木の号令でマックに集っていた。3人とも特
に盆行事に縁がないらしい。暇なのだ。
204
そうか?まあ確かに太朗をだしにするのは嫌だな。でも会いた
斉藤の言葉を反芻した。
﹁
いなんて簡単に言えねえだろ?﹂ そりゃまあそうだけど。問題はなくても簡単には言えねえよ﹂ なんで?彼女独身だったんだし、何も問題なくなったじゃない﹂
斉藤は眼鏡の奥の目を丸くし、きょとんとした。
﹁
﹁
そうなの?それなら俺分かんないや。経験ないもの﹂ ﹁
あっさり投げ出してしまった斉藤がばくばくポテトを食っていた政
﹁
いや、デートしたいって訳じゃない。会ってちょっと話せれば
デートに誘いたいってことだな﹂ 木に視線を向け、それを受けて政木が俺を見た。
﹁
良いだけ﹂
ちょっと?出来れば長く一緒にいて、今より仲良くなって、あ
政木がポテトから手を離し、身体を起こして馬鹿にした顔をした。
﹁
わよくばまたキスしたいんだろ?﹂ ﹁
﹁
じゃあどうやって誘えば良いのか教えろよ。俺だって経験なん
だな﹂ デートしたいんだね﹂ まあ、その通りだな。無視することにした。
﹁
てねえ﹂ ﹁
﹁
ふん、じゃねえだろ。盆休みのデートねえ。もう誘うの遅い気
ふん﹂ 開き直って威張ってんじゃねえよ。教えてください、だろ?﹂ 不貞腐れてそう呟くと、ふたりに呆れた顔を返された。
﹁
もすっけどな。定番は花火大会とか祭りだろうな、やっぱ﹂ へーえ、お祭りとかってそういう時に使うんだ。何が楽しくて
ふーん。
﹁
あんな人ごみにわざわざ行くのかと思ってたよ。下心のイベントな
205
んだね﹂ ﹁
ああ、もれなく付いてくるって言ってた﹂ ああでも、子供付いてくるよな﹂ 斉藤よ。同感だ。
﹁
うーん、じゃあ花火は怖がるかもな。姉ちゃんの子供が大泣き
政木が腕を組んで考え込んだ。
﹁
してた。祭りもあんまり混むやつは子連れじゃ危ねえしな﹂ あ、じゃああれは?﹂ 斉藤がふと気付いたって感じで声を上げた。
﹁
斉藤が知っていたのは、今開催されている、近所の動物園のイベン
トだった。
斉藤がこのことを知っていたのは、期間中にロボットのイベントが
行われるからだった。
子供祭りっていう名前がついているだけあって、子供が喜びそうな
出し物やゲームが準備されているようだった。しかも動物園だし。
最終日には通常の閉園時間を少し延長し、子供用の短めで小規模の
打ち上げ花火が行われるらしい。
ホームページで祭りの詳細を確認していると、親父が覗き込んでき
お、これに行くのか?親子と﹂ た。
﹁
﹁
﹁
ああ、分かってるけど、予定あるかもしれねえし、行きたくな
はあ?明後日までって書いてあるぞ?早く電話しろ﹂ まだ誘ってない﹂ モニターに目を向けたまま答えた。
﹁
いかもしれねえし、すでに誰かとこれに行ってるかも﹂ なんだよ、痛えなあ﹂ 後ろから頭をばんと叩かれた。
﹁
振り返ると親父が呆れた顔で俺を見ていた。
206
﹁
恋してるなあ、へたれ少年よ。とっとと電話しろ。聞いてみな
きゃ何も分からんだろうが。今回行けなきゃ、また次に他のなんか
に誘えば良いだけだろ。あ、俺が子供が好きそうなイベント探して
やるよ。代われ﹂ ほら、さっさと行け。すぐ電話しろよ。肩車もしたことねえ子
親父が勝手にウキウキしだして、俺をパソコンの前から押し出した。
﹁
供が、もしかしたら暇なのに、せっかくのイベント行けずに終わる
かもしれねえぞ﹂
その場にあった俺の携帯まで投げてきて追いやられた。
これはデートの後押しじゃねえな。太朗を遊びに連れて行けってこ
とだな。 まあ、俺もそう思おう。それなら電話できるかも。太朗を動物園に
連れて行く。よし。結局太朗が口実だな。すまん太朗、許してくれ。
207
あ、じゃああれは?︵後書き︶
いつも読んで頂いてありがとうございます。嬉しいです。
また3人でお出かけ予定です。二人の関係にもまた変化が有ります。
7月15日前後や8月初めにお盆を行う地域も有るようですが、現
在一般的と言うことで8月15日前後の話です。
208
そう、いう、つもりではあった
2階の自分の部屋に入って、取り敢えず椅子に座った。暑い。
窓際まで椅子をずらして動悸を落ちつけようとしたが、無理だった
ので諦めた。
手の中の携帯を見下ろししばらく固まっていたが、こうなっては電
話せずに部屋を出ることは出来ない。電話するまで親父が煩いから
だ。
しかも、すでに階下で母ちゃんに話が伝わっている可能性が高い。
ふたりに馬鹿にされるわけだ。
・・・よし、かけよう。
身体中をばくばく言わせたまま、発信ボタンに親指を乗せる。
思えば彼女に電話するたびにこの状態だな。普通に電話出来る日が
いつかは来るのだろうか。
時間をかけてもばくばくが酷くなるばかりだ、早く押せ俺!気合を
親指に集めてボタンを押した。
はい﹂ 5コール目で呼び出し音が消えた。
﹁
あ、﹂ 彼女だ。
﹁
自分が思うよりも緊張していたようで、頭が真っ白になって言葉が
お兄ちゃん?どうしたの?﹂ 続かなかった。どうした俺!自然に話せるようになってただろ?
﹁
﹁
あー何ー?今度はお兄ちゃんに何かあったのかと思ったじゃん﹂
あ、えっと、今晩は﹂ 彼女の声が酷く不審そうだ。やばい気持ち悪がられてる。
﹁
209
彼女がほっとしたように普段の明るい声でそう言って笑った。不審
﹁
そう?今日はどうしたの?﹂
いや、ごめん。何でもない﹂ さは心配のためだったらしい。
﹁
﹁
お盆?親戚の集まりが明日あるよ。今日は仕事だったからお墓
ああ、えっと。盆って忙しい?﹂ そうだった。
﹁
ああ、うちは何にもない。親の実家が遠すぎて墓参りも困難﹂
参り行ってきただけ。お兄ちゃんは?﹂
﹁
そういえばうちの親、墓に入るときどうすんだろうな。骨を俺が運
﹁
まあね。・・・えーと、もしかしたら知ってるかもしれないん
そうなの。じゃあのんびりしたお盆?﹂ ぶのかな? こっちに墓建てんのかな?
﹁
だけど、﹂ ﹁
動物園でさ、イベントやってるんだって。子供用の祭りみたい
うん?何?﹂ また言葉を途切れさせてしまったが、彼女が穏やかに尋ねてくれた。
﹁
な﹂ そう言うと、今度は彼女からの返事が途切れた。あーなんか断り方
忙しいんだったらまた今度なんかあった時に﹂ 誘うよ。と続
とか考えてる感じかな。
﹁
いつまで?明日は無理そうなんだけど、明後日もやってるかな
けようとしたら、彼女が慌ててしゃべりだした。
﹁
?﹂
ああ、明後日最終日だって。明後日は子供向けの打ち上げ花火
え!明後日なら行けるってことか?
﹁
もあるみたいだけど﹂ あー!行きたい!明後日なら行ける!ありがと教えてくれて。
彼女が小さく叫んだ。
﹁
210
太朗と行ってみるねー﹂
太朗がテレビで見て、おまちゅりいきたいって言ってたのよ。
え?あれ?
﹁
でも夜のお祭りは流石に迷子になりそうで怖くって。嬉しいありが
とう。花火も喜ぶと思うー﹂
俺も一緒に行きたいってことが伝わってねえ。一番言いたかったこ
とが。くそう!・・・でもまあ、いっか。今回は親子水入らずで楽
しんだって。親父がなんか次探すって言ってるし。その時までに誘
ああ、太朗喜ぶと良いな﹂ い方ちゃんと考えとこう。
﹁
涼ー。太朗君動物園に誘うんだって?お弁当作ってあげるから、
諦めの境地で返事をしたその時、背後でノックもなくドアが開いた。
﹁
太朗君のママに言っといてー﹂ 母ちゃんが顔だけ出してそう言うと、さっさとドアを閉め階段を降
りて行った。
なんであんなにあれなんだ。電話中だってことに気付けよ。いや気
今のお母さん?﹂ 付いたら電話代われって絶対言うな。良かった、気付かれなくて。
﹁
﹁
お母さんあたし達のこと知ってるの?ていうか、もしかしてこ
ああ、ごめん﹂ 彼女の驚いた声が聞こえて我に返った。
﹁
の電話は、お知らせではなくて、お誘い?﹂ ﹁
もー、ちゃんと言ってよ。分かんないでしょ。照れちゃって可
そう、いう、つもりではあった﹂ 結局彼女に言われてしまった。
﹁
愛いんだから、全く﹂ あーそういや、太朗は?﹂
なんで最後怒り気味なんだろうな。俺がへたれだからか?
﹁
太朗の声も最近聞いてない。おまちゅりって単語が太朗の口から出
211
﹁
﹁
ねえ、お兄ちゃん﹂
そう﹂ もう寝てる。お墓参りで歩いたから疲れちゃって﹂
るのを想像したら笑えた。 ﹁
﹁ うん?﹂
﹁ 一緒に行ってくれるの?﹂ え、ああ、行く﹂ おねだりっぽい口調に心臓がやばかった。
﹁
良かったー。太朗とふたりで外出ってけっこう勇気いるのよー、
彼女が嬉しそうに笑った気配がした。
﹁
ああ、うん。了解﹂ ずっと荷物持って追いかけなくちゃいけないし。手伝ってね﹂
﹁
もう良いや。デートじゃなくて子守りになったけど、彼女の役に立
それと、あの。お弁当だけど、お母さんのお世話になっちゃっ
てる。彼女も嬉しそうだし、会えるんなら何でも良いや。 ﹁
ああ、気にしないでいいよ。太朗に作りたいだけだから絶対。
ていいのかしら﹂
﹁
俺らの分は間違いなく太朗の分の失敗作か残りもんだから﹂ そうなの?じゃあお世話になりますって伝えてくれる?ご挨拶
そういう人間なのだ。彼女がくすくすと笑った。
﹁
には明後日お兄ちゃん迎えに行くとき伺いますって﹂ 挨拶?親に?なんかそれじゃあ、俺たち付き合ってるみたいじゃね
え?デート相手じゃなくて子守要員認定されたことに沈んでいた心
いいよ、わざわざうちまで来なくても。うちの親鬱陶しいよ。
臓が、またどくんどくんと音を立て始めた。
﹁
絶対太朗さわらせろって言うし﹂ お弁当作っていただくんだもの、挨拶は必要よ。良かったー、
また彼女が笑った。
﹁
212
お兄ちゃんの話し聞いたらあんまり緊張しなくてすみそう﹂ ﹁
まあまあ、そう言わずに﹂ 緊張してまで来なくて良いって﹂ そうだよな、弁当の礼だよな。当たり前だろ。
﹁
情けなくも不貞腐れた気持ちが声に出てしまい、あははと笑う彼女
に宥められた。 213
駄目よ︵前書き︶
いつも読んで下さってありがとうございます。
パソコンさわれず更新一日飛んでしまいました。事前にお知らせで
きずすみませんでしたー。
214
いいのに﹂ 駄目よ
﹁
コンビニでとり合えず待ち合わせしたが、彼女が俺の家に案内しろ
﹁
なあ太朗。寄り道せずに早く動物園行きたいよなあ﹂ 駄目よ﹂ と言ったのだ。
﹁
しぶしぶ家の方向を示してから後部座席の太朗にそう尋ねると、太
ぼくおにーちゃんのおかーしゃんにありあとういえるもん!﹂
朗が笑った。
﹁
ほらね﹂ 彼女が俺をちら見した。
﹁
来る前に言い聞かせてきたんだな。得意げな彼女のその顔が憎たら
あれ﹂ しくて可愛い。もう、しょうがないか。
﹁
はーい﹂ 見えてきた自分のうちを指差した。
﹁
彼女が可愛く返事をした。可愛いなあ、この人。
家の前に路駐して、3人で車を降りた。でかい駐車スペースがない
家で良かった。この狭い路地に路駐じゃ大して長居は出来ない。
いつも通り玄関ドアを開いたものの彼女の前で母ちゃんと叫ぶ気に
はーい﹄ と母ちゃんの声がして、太朗が喜
ならず、太朗を持ち上げインターホンを押させた。
インターホンから﹃
んだ。
太朗の笑い声が聞こえたんだろう、母ちゃんが﹃ あら!﹄ と声
あのねえありあとー。あのねえおべんとーねえありあとー!﹂ を上げ俺たちに気付いたようだった。
﹁
215
かわーいー!﹄と言う歓喜の叫びを指差しそう言う
これで良いんじゃねえの?大喜びだよほら。行こう﹂
太朗が上手く挨拶した。横に立った彼女を見る。
﹁
母ちゃんの﹃
﹁
涼!待ちなさい﹄ 駄目よ、ちゃんとご挨拶しなくちゃ﹂ と、彼女とインターホンから同時に待ったがかかった。
﹃
太朗くんとママがみえたわよ!﹂ と叫んで
続いてリビングから走り出てくる足音が響いた。恥ずかしいんだよ。
落ち着けよ。
2階にいる親父に﹁
いるのも丸聞こえだ。
まあ、いらっしゃい。お早うございます。涼がお世話になりま
母ちゃんはすぐに玄関まで来た。家が狭いからだ。
﹁
す﹂ お早うございます。三浦と申します。こちらこそお母様にお弁
彼女に一応会釈したが、早く太朗に構いたいのがばればれだ。
﹁
当までお世話になってしまって、有り難うございます﹂ いーえー。良いのよ大したもんじゃないんだから﹂ 彼女は母ちゃんに比べてとても丁寧に頭を下げた。
﹁
よう涼、いいなあ動物園。楽しみにしてたもんなあ﹂ 母ちゃんが笑いながら手を振っていると親父が出てきた。
﹁
初めまして。三浦と申します。息子の太朗です﹂ 親父がにやにやしながらそう俺に言い、母ちゃんに尻を叩かれた。
﹁
ほら太朗。お兄ちゃんのお父さんとお母さんにおはようは?﹂ 彼女がもう一度親父に頭を下げ、太朗を前に出した。
﹁
太朗が親父と母ちゃんを見上げて、いっちょまえに緊張しているよ
太朗ごあいさつ﹂ うな顔をしていた。
﹁
いいのよー。さっき上手に言えたもんねえ﹂ 彼女が促すが、俺の脚に抱き付いた太朗は断固として声を出さない。
﹁
216
母ちゃんが太朗に言うと、親父が草履の上に降りてきて太朗の前に
兄ちゃんに飛行機やってもらったか?﹂ かがんだ。
﹁
そう言えば今日はまだやってない。太朗が俺の脚に掴まったまま首
ありゃあ、俺が兄ちゃんに教えたんだぞー。俺が飛行機の先生
を振った。
﹁
なんだぞ、すげえだろう﹂ おじちゃんしぇんしぇいなのー?﹂ 太朗が緊張はしながらも可愛らしく首を傾げて口を開いた。
﹁
﹁
ぼくかわいーなないもん、かっこいーなもん﹂ そうだぞー。飛行機の先生だぞー。可愛いなあお前﹂
親父が顔をぐしゃぐしゃにして笑った。
﹁
あはは!いっちょまえに男だな!頼もしいな。あ、かっこいい
太朗が俺の脚を絞めながらも親父に言い返した。
﹁
ってことだぞ。お前かっこいいな﹂ な、可愛いだろ?間違えた、カッコイイだろ?﹂
太朗が満足げに頷いた。
﹁
どう見ても太朗にノックアウトされた様子の緩んだ顔の両親にそう
言うと、ふたりとも無言で何度も頷いた。こんなに可愛いのに、可
愛いって言えないのは面倒だよな、分かる。
その後親父が飛行機をやりたがったが、太朗が拒否して駄目だった。
彼女は恐縮して謝っていたが、知らないおっさんに持ち上げられる
のは誰だって嫌だろう。母ちゃんもそう言っていたし、太朗をおび
えさせた親父をグーで殴っていた。
親ふたりで、太朗と彼女にまた絶対に遊びに来るようにと何度も言
って、昨日のうちに用意していたのだろう、小さい飛行機のおもち
ゃと菓子で太朗を餌付けしようとしていた。
道路でクラクションを鳴らされ、ようやく車に乗り込んだ。良かっ
217
﹁
そんなことないわよ。良かったちゃんと伺って﹂ な、鬱陶しかったろ?﹂ た、いつ玄関出られるかと思った。
﹁
﹁
関係ないよ。めちゃくちゃ気に入られてるぞ。絶対鬱陶しいこ
太朗が緊張してたのが、ちょっと申し訳なかったけど﹂ 彼女は緊張から解放されたように、にこにこしていた。
﹁
とになるからな﹂ 良かった﹂ 彼女がもう一度嬉しそうに笑った。
﹁
太朗は膝の上でさっき貰ったおもちゃを動かし遊んでいた。気に入
太朗ー。今度お兄ちゃんのおうちに行ったときは、お兄ちゃん
ったみたいだな。
﹁
のお父さんに飛行機してもらう?﹂ ﹁
﹁
しゅるー。ひこーきしゅるー﹂ 飛行機の先生﹂ おにーちゃんのおとーしゃんどれー?﹂ え?今度?
﹁
ええ?今あんなに拒否ってたのに?彼女を見ると俺の言いたいこと
こんな子なのよ。いつさっきみたいに人見知りするのか読めな
が分かったようだ。
﹁
ふーん﹂ いのよねえ、次は全然平気だったりするのよ﹂ ﹁
﹁
うん、たぶん大丈夫だと思うよ﹂ じゃあ、いつかは親父も太朗を飛行機出来るかもな﹂ これは、俺んちにまた来るつもりがあるってことか?
﹁
深い意味なんてないんだろうけど、明るく穏やかな声でそう答えて
くれて、ドキドキして、すごく嬉しかった。
218
219
もうしない
動物園でのイベントは盛況で、花火大会や夏祭みたいにぎゅうぎゅ
う詰めではないけど程よく賑わっていて、快適だった。
幼児向けの催しは少なめだったが、その分太朗が好きな動物も見て
まわり、太朗もかなり楽しんでいたようだ。
太朗はペンギンとシロクマが好きだった。
ちょろちょろは相変わらずだが広い園内を長時間歩き回るのは3歳
児にはきついようで、彼女がバギーを持参していた。
しかしそっちはほとんど荷物置きとなり、太朗は俺の上か走ってる
かだった。
俺役に立ってるよな。もし親子ふたりで来てたら、バギーに載って
る分の荷物を彼女が持って、太朗を乗せたバギーを押してまわった
のだろうから。
もしかすると、太朗が走り回るのを、荷物とバギーを抱えて追いか
けたりもするのかもしれない。
幼児連れってほんとに大変だな。彼女の役に立てた充実感で、デー
えっと、花火が19時からだって。10分くらいで終わるみた
トらしいことは何もなかったが満足だった。
﹁
い﹂ 彼女がパンフレットを見ながら言った。太朗は、この期間限定で出
ている祭りっぽい出店で買った焼きそばと箸巻きを食べている。太
﹁
子供用だからねえ。皆すぐ飽きちゃうからだろうね。体験した
10分しかねえの?﹂ 朗の残りを俺が食うつもりだ。
﹁
ってだけで満足なのよ子供って﹂ 220
﹁
﹁
﹁
いーよー。ごちとーたーん﹂ 太朗、もうごちそうさま?お兄ちゃんにあげていい?﹂
ふーん﹂ 彼女は早速椅子から降りようとする太朗にジュースと飛行機をあた
あたしが太朗の残りでいいのに﹂ えると、俺を見て言った。
﹁
これ全部食えんの?﹂ 申し訳なさそうな彼女に首を傾げる。
﹁
・・・食べれないけど、お兄ちゃんが太朗の残りって変でしょ
彼女が眉を寄せ嫌そうな顔をした。太朗はほとんど食っていない。
﹁
いいよ別に﹂ ?﹂ ﹁
そんなにこれ食いたかったの?﹂ 彼女が俺を見てため息を吐いた。
﹁
既に二口ほどでほとんどなくなってしまっていた箸巻きを指したが、
違うわよ。もういいや﹂ 呆れた様に首を振られた。
﹁
何が良いのか分からなかったが、早く食わないと太朗がちょろちょ
早く食べなよ。太朗が行っちゃうよ﹂
ろし始めるので後にすることにした。
﹁
はー、楽しかったねえ﹂ 彼女はようやく自分用の焼きそばのパックから輪ゴムを外した。
﹁
﹁
﹁
﹁
ほんと最後の方、ほとんどの子供が上見てなかったな﹂ すぐ飽きちゃったけどね﹂ 花火興奮してたもんな﹂ たのしかったー。あのねえぼくねえはなびー﹂ 運転席に座りハンドルに手をかけた彼女が、前を向いたまま言った。
﹁
太朗も、俺が買ってやった光る輪っかを転がしてキャーキャー言っ
221
﹁
うん﹂ そうね。あれはあれで面白かったね﹂ ていた。
﹁
﹁
はーい﹂
さあ、帰りますかー﹂ 彼女がふうと息をつくと言った。
﹁
﹁
そうだね、駐車場出るまで持たなかったねえ﹂
今日もまた早かったな、寝るの﹂ 太朗が元気に返事した。
﹁
結構な長さの列に続きのろのろと駐車場内を進んでいるうちに、太
なんか、ごめん﹂ 朗はいつも通り口を開けて夢の中だった。
﹁
﹁
いや、1日歩き回って疲れてるのに、俺運転も代われないから
え?何が?﹂ 彼女が怪訝な顔で俺を見た。
﹁
さ﹂ またそう言うこと言って﹂ 彼女が嫌そうに前を向いた。
﹁
そう言うことがどういう事なのかは分からなかったけど、何やら気
分を悪くさせたのは確実のようだ。
楽しかった一日に水を差したようで胸が痛くなった。黙った俺に彼
ねえ、今日はすっごく助かった。やっぱりひとりじゃ花火まで
女が声のトーンを変えた。
﹁
頑張れなかったと思うし﹂ 確かにひとりで一日中太朗と外にいるのはきつい。俺が役に立った
と感じていたのは勘違いではないようだ。返事をしない俺を窺うよ
今度お礼するから何か考えてて﹂ うに彼女が続けた。
﹁
222
﹁
﹁
﹁
えーと、そうねえ。食べ物とか、うーん、食べ物とか?﹂ 何って?﹂ 好きなのはあなただけど。
えー?じゃあ何が好きなの?﹂ 何でも良いよ﹂ ああ、何か失言したけど今度はあるのか。良かった。
﹁
自分では普通に笑ったつもりだったが、凹んだままのせいか鼻で笑
﹁
何でも良いんだけど、思いつかない。品物あげるのはなんか変
食いもん限定?﹂ った風になってしまった。駄目だろ俺。
﹁
だし﹂ 人間も品物に含まれるのかな。じゃあ、俺が欲しい彼女は
﹁
﹁
うん﹂ あなたの唇が食いたい。もしくはあなたが食いたい。
何?食べたいものある?﹂ やっぱ食いもんでいいや﹂ 貰えないんだろうな。あ。と、思った時には口が開いていた。
﹁
なんて、言える訳ねえだろ!馬鹿な自分と、急激にばくばくしだし
﹁
もう、何なのー?お兄ちゃんどうかした?﹂ やっぱ良いや﹂ た心臓に辟易する。
﹁
﹁
どうもしてなくないでしょ。なんで怒ってんの?﹂ いや、どうもしてない﹂ 彼女が俺の顔を覗き込んだ。
﹁
怒ってない。ごめん。じゃあ﹂
怒ってんじゃないよ、凹んでんの。
﹁
言っちゃ駄目だ、今度がなくなるかもしれない。今日じゃなくてい
うん。何?﹂ いだろ、また今度、ずっと先に言えば良い。
﹁
ばくばくするのに。胸が締め付けられるように痛い。ダブルだとき
食いたいもの﹂ ついな。
﹁
223
﹁
うん?﹂ 丁度赤信号で車が停止した。
ん?﹂ 身体をシートから浮かせて、彼女の柔らかくて細い腕に手をかけた。
﹁
﹁
え?﹂ こっち﹂ 彼女は俺が触れた腕に目をやったが、俺を見ない。
﹁
顔を上げた彼女の唇に、自分の唇を押し付け軽く吸った。
少しだけ顔を離すと、彼女は唖然として固まっていた。チャンスか
な。いつ叩かれるか、突き飛ばされるか、それに、次があるかどう
かも分からないもんな。
もう一度、ほんの少し開いた彼女のしっとりした唇に自分のそれを
合わせた。ぴったりと吸い付くようで何とも言えず気持ち良かった
が、軽く合わせただけの状態が物足りない様な、こっちの興奮が触
れた所から震えとして伝わってしまいそうな、もどかしさに耐え切
れなかった。
彼女が呆然としているのをいいことに、俺に押されながら後退ろう
とする彼女のうなじの辺りを手で支え、その柔らかい唇にさらに強
く唇を押しつけた。
このまま、ぎゅうぎゅうに抱き締めてしまいたい。頭がどうにかな
りそうだった。
後ろの車にクラクションを鳴らされ、はっとして俺を押しやり前を
どういうこと?﹂ むいた彼女が車を発進させた。
﹁
随分長かった沈黙の後、彼女が静かにそう言った。こっちをちらり
とも見ない。
流石に嫌われたのかな。もう次はないかもな。胸が重く痛む。何と
224
食いたいもんくれるって言うから﹂
か低い声を絞り出した。
﹁
﹁
冗談じゃないし﹂
冗談でこういうことしないで﹂ またしばらく無言でいた彼女が、硬い声で言った。
﹁
確認する気にもならないが、雰囲気と声の調子からも彼女は硬い表
そんなに嫌だったんだ?﹂ 情のままだろう。俺の言葉を無視し返事もしない。
﹁
避けようと思えば避けられただろ?自分勝手に彼女を責めたくなる。
こういうことされると、もうお兄ちゃんに会えなくなる﹂ 彼女は俺の問いには答えずに言った。
﹁
彼女の声音の変化に視線を向けると、彼女は前を見つめたまま今に
も泣き出しそうな顔をしているよう見えた。
ごめん、悪かった。もうしない﹂
怒らせるのは構わないが、泣かせるつもりではなかった。
﹁
彼女は唇を噛んで、俺を見ないまま声なく頷いた。 225
思ってないし!
その後しばらくして彼女は普通にしゃべりだした。たった今の出来
じゃあね。今度夕方終わりの日はいつ?﹂ 事をなかったことにするつもりのようだ。大人ってすげえな。
﹁
玄関先で親達に挨拶をした彼女は、見送りに出てきた俺に運転席の
窓から笑顔でそう言った。また送ってもくれるようだ。それが嬉し
ああ、えーと。しばらく昼まで﹂ いことなのかどうか、もう良く分からなかった。
﹁
とっさに嘘が口をついて出た。 たぶん、俺にされたことをなかったこととして無視する彼女を見た
くなかったんだと思う。
いくら彼女が表面的に今まで通りでも、俺にはそう出来る自信はな
かった。
窓の中の彼女が、酷く悲しそうな顔をした気がした。でもそれもほ
んの一瞬のことで実際は勘違いだったのかも知れない。すでに彼女
は自然な笑みを浮かべていた。
﹁そっか。じゃあ、今日はほんとにどうも有り難うね。ばいばい﹂ 自分のせいで次の約束が出来なかったことは分かっている。でもや
っぱり、またね、と言う言葉がなかったことが辛かった。
玄関から直接風呂場に向かいさっさとシャワーを済ませ、ベッドに
転がった。
やっちまったなあ。なんで我慢できなかったんだろう。彼女に口付
けたことを思い出しながら考えた。
素面じゃ受け入れてもらえないって、分かってたはずなのに。
ここからしつこく付きまとえば宮本と同じだ。拒否されていること
226
にも気付けない馬鹿だ。
いやもしかして、俺は既に宮本と同じなんだろうか。宮本もああや
って彼女に口付けてしまったんだろうか。彼女は驚いて固まっては
いたが、最中の拒絶の色は薄かった。というか拒絶してたのか?あ
れ。
あれじゃあ、宮本が無理矢理だと自覚出来なくても責められないと
思う。
現に俺だって、無理矢理やったような気にはなっていない。でも、
あの顔は、きっと傷付けた。
電話が鳴った。心臓が止まりそうな程動揺したが、表示されたのは
﹁
どうだった?今日行ったんだろ動物園。もしかして今お邪魔か
何﹂ 政木だった。
﹁
?﹂ ﹁
だよなー、子連れだもんな。で、どうだったんだよ?﹂ そんな訳ないだろ。もう家だよ﹂ ふざけた調子の政木が言った。
﹁
政木と言い合う気にもならず、丁度考えていた最中だったこともあ
﹁
そうか。残念だったな。お?しようとして拒否られたんじゃね
イベントは良かったけど、帰りにキスしたら拒否られた﹂ って、すんなりと相談めいた言葉が出てきた。
﹁
えの?してから?﹂
﹁ あ?ああ、してから。こういうことするならもう会わないって
言われた﹂
﹁ふーん。してからねえ。逃げようとするのを押さえつけてやった
とか?﹂
そうなんだよな。そうじゃなかったんだよ。もう一度彼女の様子を
思い返しながら答えた。
﹁そんな訳ないだろ。そんな事したら嫌われるの目に見えてるし﹂
227
﹁だよなあ。じゃあ、キス自体は嫌じゃなかった訳か﹂
何が言いたいんだ。
﹁何だよ﹂
﹁いや、下心持ってほしくねえなら、させなきゃいいのになと思っ
ただけ。暴れるとか、ビンタするとか。玉を蹴るとか、色々方法は
あるし。まあそこまでしなくても相手はお前だし、ちょっと嫌がら
れたら止めるだろ?﹂
そうなんだよな。なんで途中からでも避けなかったんだろ。
﹁ま、我慢できなかったのかもな。彼氏もいねえし、可愛い男子高
校生に迫られて、理性が一時どっか行ってたんじゃねえ?﹂
そんな感じに見えないこともなかったな。
﹁理性が働けば受け入れられないってことか﹂
﹁だろうな。なのに迫られたら我慢できないから、こういうことす
るならもう会わないとか言うんじゃねえの?てか会わなきゃいいん
じゃん、お前のこと何とも思ってねえなら。そんな感じになんなか
ったのかよ?﹂
もう会わないって感じか?
﹁いや、もうしないって言ったら、次いつ送るか聞かれた﹂
﹁はあ?何その女。告白されて、いいお友達でいましょうって断る
タイプだな﹂
いや、それは物凄く違和感があるぞ。
﹁それはないな。宮本には本気できつかったから。さっさと向こう
行けみたいな﹂
﹁へえ、それはまた、どっちも自分に寄ってくる鬱陶しい男なのに、
お前と全然扱いが違うな﹂
やっぱり違うよな。自分ではそう思うのに実は宮本と同じだっ
政木がわざとらしく何か含んだ感じだ。
﹁
不安だったのか?﹂ たんじゃないかと思って﹂ ﹁
228
うるせえ﹂ 政木がからかうような声音になった。
﹁
﹁
いや、しばらく時間が合わねえって言った﹂ で、また子供のお友達にもどるわけか﹂ 政木が笑いながら言った。
﹁
﹁
ああ、なんか、俺がしたことをなかったことにして普通にして
お前が?だって嘘だろそれ﹂ 政木が驚いたようだ。
﹁
ふーん、でも、今会うの止めたら、させてくれないなら会わな
るし、そういうの見たくもなかったし﹂ ﹁
は?﹂
い、みたいになるんじゃねえ?﹂ ﹁
だから、キスさせてくれないからあんたはもういいや、ってお
何て言った?
﹁
﹁
興奮すんなよ。俺に言ってもしょうがねえだろ。彼女がそう思
はあ!?思ってないし!﹂ 前が思ってるみたいにとられるんじゃねえのかなって﹂
﹁
うんじゃねえのって言ってんだよ﹂ 何だって?駄目だろ。それは駄目だ。俺がやりたいだけの高校生で、
いやらしいことをしたくて彼女に近づいたみたいじゃん。
違う。やりたいのはやりたいけど、だけじゃない。好きだからやり
たいんだし、もし卒業するまで待てって言われたら、待てる。やり
じゃあな﹂ たいだけじゃない。
﹁
頭が大変なことになり、一方的に電話を切った。
まずいぞ。せっかく宮本よりはましだって話だったのに、俺がやり
たいだけの男になってる。それじゃおそらく彼女を好きなはずの宮
本より最低だ。
229
どうしたらいい?電話か?でも何て言うんだ?俺はやりたいだけじ
ゃない、好きなんだって?彼女の名前を表示した手が止まった。
そんなこと電話で突然言える気がしない。しかもキスするなって言
われたばかりだ。好きだなんて言えば二度と会えない気がする。
しばらく部活が昼までだって言う嘘を訂正して、また時々送っても
らいたいと言えれば良いはずだ。そうだよな。
政木が想像してるだけで、実際彼女が俺のことをそんな風に思って
るって確証もないんだし。よし、明日か明後日幼稚園に行って、日
程が変わったって言うぞ。
2日後、課外授業が再開した。丁度俺の教室だった。
彼女の車を緊張した心地で探す。来た。小さい車の見分けもつくよ
うになり、はじめの頃にくらべとても簡単に彼女を見つけられるよ
うになっていた。
彼女がドアを開ける。窓を見上げ、俺を見つけて微笑むのが常だっ
たのだが、今日は違った。彼女が俺を見なかったのだ。
太朗を降ろすと、さっさと園の中に消えていった。腹の底が冷える
ような心地がして、愕然とした。
祈るように園から駐車場へ戻ってくる彼女を待っていたが、同じこ
とだった。
彼女はチラリともこっちに目を向けず、車に乗り込んで行ってしま
った。
これはきついな。泣きそう俺。
それが、夏休みが終わるまで続いた。
とてもじゃないけど、幼稚園に行くことも出来ず、電話も出来なか
った。
230
231
どうなってんだろうな
部活が終わり、自分の部屋に一人の時など特に、彼女のことを考え
て死にそうに辛くなることがあった。
考えないように努力しても無駄で、何も行動できず凹むだけの情け
ない自分と向き合うのも嫌で、暑いと言い訳してリビングで勉強す
るようになった。
あの親ふたりがいる場所では泣きたい気になどならなくて済むし、
涼しいので実際勉強もはかどった。そしてやっていることが勉強だ
と話しかけられない。
彼女と太朗のことを適当にごまかし続ける俺を、心配げな顔で窺う
ふたりに詮索する隙を与えたくなかった。
おい、なーんで電話でねえんだよ。もしやまだ彼女に連絡出来
それでも夏休みが終わると、政木の詮索からは逃れられなかった。
﹁
てねえのか?﹂ お前なあ。救いがたいヘタレっぷりだな。やりたいだけの男説
黙った俺を見て政木が呆れた。
﹁
もう嫌われてんじゃねえの。見てもくれなくなったし﹂ が彼女の中で確定して本気で嫌われるぞ﹂ ﹁
あーやっぱりな。あのタイミングで時間が合わねえとか不自然
政木のそれ見た事かと言いたげな、しかも憐みを含んだ視線が嫌だ。
﹁
ねえ、でもそれ誤解なんだから訂正したら良いんじゃないの?﹂
すぎだもんな﹂ ﹁
夏休みが明けても日焼けのひとつもしていない斉藤が不思議そうな
そうだよ。だからお前はへたれなんだよ。なんで連絡しねえん
顔をした。政木から大筋は聞いているのだろう。
﹁
232
だ﹂ ﹁
知らんって。自分のことなのに。まあ、でも本人が良いんなら
知らん﹂ そんな簡単にできりゃ悩んでねえよ。
﹁
良いんじゃないの?君も諦めさせたがってたじゃないか﹂
﹁ま、そう言えばそうだな。良かったな、嫌われて。これですっき
り諦めがつくだろ﹂
﹁つく訳ねえだろ。こんな状態で﹂
溜息を吐きながらそう答えると、政木と斉藤が同じ様な呆れ顔で俺
を見ていた。
俺もそう思うよ。なんかしなきゃ何も状況は変わらないと思う
﹁じゃあ連絡取るしかねえだろうが﹂
﹁
けど。そして君には電話するか、幼稚園に行くかしかないよね?﹂
分かってるって言いたげだね。でもさあ、相手はいい歳なんだ
確かに。分かってはいるんだけどな。
﹁
そうだな。お前がウジウジしてる間に、見合いでもして今度は
からさ、そうのんびり凹んでもいられないと思うけどなあ﹂
﹁
意外に、秋吉と離れて寂しくなっちゃって、宮本先生の所に行
本当に人妻になっちまうんだろうな﹂
﹁
まあ宮本と結婚ってことはねえだろうけど、セフレ扱いとかは
っちゃったりしてね﹂
﹁
平気でしそうだな。嫌ってるだけに﹂
電話してくる﹂
二人のいい加減な掛け合いを聞き流せず立ち上がった。
﹁
宮本と彼女が寝るなんて、例え身体だけの関係でも絶対許せねえ。
斉藤に彼女仕事中じゃないの?と止められ、夕方幼稚園に行くこと
にした。
電話をかけたとして、もしとってもらえなかった場合、2度目をか
233
けられる自信がなかったし、直接会いに行く方が確かに俺には良か
ったかもしれない。
彼女が俺を嫌がっているとしても、太朗が居ればそれほど露骨に態
度に表すこともないだろう。
盆休み後は時間いっぱい死ぬほど泳いでいたが、久しぶりに途中で
部活を切り上げた。
正門を出るあたりからすでに心臓の打つ音がマックスに近づいてい
た。
落ち着け俺。今からこんなになってちゃ、彼女が来る頃には死んで
るぞ。
ばくばくと心臓を鳴らしながら突っ立っているのも居たたまれず、
駐車場の端の低いブロック塀に寄りかかるようにして彼女を待った。
まばらな園児の迎えの車が2台帰っていった頃、彼女の車が入って
きた。
白い軽が近づいて来て、運転席から彼女が俺に気付いたことを確認
してから立ち上がった。
俺を見つけた彼女は、困ったような嫌なような嬉しいような哀しい
ような顔をした。つまり、どう思っているのか良く分からなかった。
彼女は俺から視線をはずし、車を白いラインの間に突っ込んでエン
ジンを切った。
こっから無視されたらどうしよう。俺追いかけて声かけられるかな。
無理かもな。
﹁
え、ああ。そう﹂
日焼けしたねーお兄ちゃん。今日は夕方までだったの?﹂
だが、彼女は運転席から降りてくると、笑顔で俺の前に立った。
﹁
本当にいつも通りの可愛い笑顔で、さっきの顔とのギャップに戸惑
太朗連れて来るね。一緒に入る?﹂
う。
﹁
234
﹁
﹁
そう?じゃあ待っててね。すぐ来るから﹂
いや、待ってるよ。おばちゃんに捕まると長いし﹂
彼女は笑いながらそう言って、園の中へ入って行った。
驚くほどに以前通りだった。どうして俺を見なかったのか、時間が
合わないと嘘を吐いた俺に彼女が何を思ったのか、尋ねられる雰囲
気ではなかった。
どうなってんだろうな。
おにーちゃんぷーるはー?﹂
太朗は俺が来たことを喜んでくれた。不思議そうではあったが。
﹁
一頻り飛行機で振り回してから、そのままシートに降ろすと、太朗
が言った。
ああ、部活があるから俺が来ないって聞いてたんだろうな。太朗は
彼女が俺を見ない間も手を振ってくれていた。こいつのおかげでな
んとか課外をサボらずにいられたのだ。無邪気な顔を見ていると無
プールしてきたよ。今日はもう終わった﹂
性に愛しかった。
﹁
太朗の小さい頭をぐりぐりなでながら、彼女の方をチラリと見て付
明日から試験なんだ﹂
け足した。
﹁
これは本当だが、別に言う必要なかっただろ。言い訳がましく聞こ
えたんじゃないかな。
この期におよんで、偶然時間が合ったように見せようとしている自
分に気付いた。
誤解を解くには彼女に会いに来たって言うべきなのに。
受け入れてもらえなくても関係ない、好きだから会いに来てるんだ
って。
しかし微笑んだ彼女は、俺の言葉にほっとしている様にも見えた。
235
﹁
そうなんだー。休み明けの試験かー懐かしいなあ。まあ、もう
受けたくはないけどね﹂
明るく自然な表情でそう言う彼女に、まあ元通りの状態に戻れるの
ならわざわざこの雰囲気を壊さなくても良いのかなと、複雑ながら
﹁
頑張ってよ、高校生﹂
俺も受けたくねえ﹂
も少し気楽になり答えた。
﹁
彼女が俺に笑いかけた。
236
何様だよ
車内に嫌な違和感があった。ああ、タバコの匂いだ。彼女の車に俺
以外の男の気配を感じ、ムカついた。
待て俺。勝手にキスして拒否られたうえに、告白さえしていない。
彼女が他の男を車に乗せていたとしても、俺にムカつく権利はない
ねえ、サダオは大丈夫?﹂
だろ。
﹁
一瞬サダオの心配をしているのかと思ったが、すぐに違うと気付い
ああ、なんか勘違いしてるなあいつ。上手く言ってくれたの?﹂
た。
﹁
宮本はあの後、お前の目が正しかったと俺に謝ってきた。気持ち悪
一応無理矢理だったって言うことは理解したみたいだから、反
かった。
﹁
ふうん。俺のことはなんか言ったの?﹂
省はしてたけど﹂
﹁
うーんそれが、わざわざあたしとお兄ちゃんが仲良くしてるこ
彼女が前を向いたまま眉を寄せ微妙な顔をした。
﹁
と教えてもお兄ちゃんに迷惑かけそうだし、お兄ちゃんがサダオを
殴ったことには触れられなかったのよね。あんたが悪いんだから、
誰かに見られてて非難されても当然なんだからねってはしつこく言
っといたけど﹂
彼女と俺が仲良いっていう言葉で簡単に浮かれてしまう俺は何なん
ふーん。じゃあ俺は正義の味方ってことになってんだな、きっ
だ。無視されてたんだぞ。
﹁
と﹂
237
ああそうなんだ。じゃあ安心だね。良かった﹂
ちらりと俺を見た彼女が面白そうに笑った。
﹁
これもなあ、俺の心配してくれてると思ってたけど、もしかして自
分のせいで人に迷惑かけるのが嫌なだけなのかな。
ほんとによく寝るなあ﹂
ふと静かな背後が気になって振り返ると、やっぱり太朗が寝ていた。
﹁
久しぶりだったのにもう少し話せば良かったな。きっと俺が車を降
ご飯ちょっとしか食べないからね。エネルギー温存してるんじ
りる時もぐっすりだ。結構残念だった。
﹁
ゃない?﹂
﹁
え?﹂
父親は大きいの?﹂
確かに祭りの日も呆れるほどちょっとしか食ってなかった。
﹁
マッチョだって言ってたろ?太朗小さいからさ。母親似?﹂
急な話題転換についていけなかったようで、彼女が怪訝な顔をした。
﹁
小さくはなかったかな。でも背が特別高いって訳でもなくて、
彼女がなるほどというような顔をした。
﹁
ふーん﹂
えーっと、柔道してたけど真ん中くらいの階級で、そんな感じ﹂
﹁
太朗はあたしに似てるのかなあ。大きくなれると良いんだけど
自分で聞いといてかなり面白くなかった。何やってんだ俺。
﹁
﹁
うん、それはあたしに似なくて良かった。男の子運動苦手だと
背はともかく、運動はできそうだよな。走るのも早いし﹂
ねえ﹂
﹁
可愛そうだもんね。もしかしたら球技が出来ないかもしれないけど﹂
まあもし運動できなくても気にすることないんじゃない?俺の
苦く笑う彼女に、斉藤を思い出しながら言った。
﹁
友達にもすごく良い感じの奴がいるよ。運動全般駄目みたいだけど﹂
彼女が返事をしないので何となく横を向くと、さっと俺から視線を
238
良いこと言うね。流石お兄ちゃん﹂
逸らす彼女が見えた。凹む。
﹁
本心なのか、誤魔化しなのか分からなかった。適当な事言ってるの
どんな人だったの父親﹂
かもなと思うと、悲しくて、頭に来た。
﹁
﹁
どっちも﹂
えー、どんな人って何?性格?見た目?﹂
半ば投げやりな気分で尋ねると、彼女が嫌そうに俺を見た。
﹁
ふてぶてしく促すと、視線を前方に戻し軽く溜息を吐いて諦めた顔
うーん、そうねえ。見た目も性格もねえ、真面目?朴訥とした
をした。
﹁
感じで、生真面目で、優しくて、誠実かな﹂
は!?﹂
はあ?
﹁
想像していた男とのあまりの違いにでかい声が出た。慌てて後ろを
確認するが太朗はすやすや寝ていた。
それにしても!優しくて真面目で誠実な奴が、妊娠した婚約者捨て
考えてることは分かる﹂
る訳ねえだろ!
﹁
だから言いたくないのよ。優しすぎるせいでぎりぎりまで我慢
彼女が俺を見てさらに嫌そうに顔を歪めた。
﹁
して、真面目で誠実すぎて、好きじゃなくなったあたしと結婚出来
なかったのよ﹂
俺の反応を非難するような面白くなさそうな声音の彼女に腹が立っ
﹁
庇ってるわけじゃない、事実だもの。そう言う人だったの。馬
なんだよそれ。自分を捨てた男を庇う必要ねえだろ﹂
た。
﹁
鹿正直で﹂
彼女に淡々とした調子でなおも否定され、耐え切れなかった。
239
﹁
馬鹿正直じゃなくて馬鹿だろ。庇ってなくて何なんだよ。信じ
られねえ我慢とか。何様だよ﹂
我慢って何なんだよ!この可愛い人と結婚するのに我慢って何なん
我慢して結婚してやろうと思われてた訳?あんたのこと馬鹿に
だよ!
﹁
するにも程があんだろ!優しくなんかねえよ。自分勝手で情けねえ
からぎりぎりまで言えなかっただけだろ!最低だよ。そんな奴庇う
必要なんか、﹂
彼女を傷付けておいて庇われる男にムカついて罵っていると、前を
向いたまま唇を噛んだ彼女が今にも泣きそうな顔をしていることに
ごめん!俺こそ何様だよな。ごめん、マジでごめん。土下座し
気付き我に返った。
﹁
たい。車停めてくれたら土下座する、ちょっと停めてくれない?﹂
うう、もう止めてよ、本当に。泣くわよ﹂
焦って手を合わせて頼むと、彼女の表情が崩れた。
﹁
抱き締めたくなるような情けない表情でそう言いながら、彼女は笑
真面目なマッチョがタイプな訳?﹂
っていた。
﹁
ちょっとした沈黙の後しつこくそう言った俺に、彼女が今度こそし
﹁
馬鹿の話じゃないよ。タイプの話﹂
まだその話するのー?土下座するって言ってなかった?﹂
っかり普段通りの声で答えた。
﹁
馬鹿呼ばわりなのね。まあ、いっか。タイプねえ、まあ昔はそ
彼女が呆れたように俺を一瞥した。
﹁
んな感じだったけど、今だったらそうだなあ、経済力があって、誠
ふーん﹂
実で、ずっとあたしと太朗を好きな人、とかかな﹂
﹁
だよな。分かっていたことだけど、経済力と言う単語が彼女の口か
240
ら出ると胸が痛かった。
﹁マッチョは入ってないんだ﹂
大した身体じゃないけど、良い身体だって言われて調子に乗ってた
まあ好みだけで言ったら勿論入ってて欲しいけど、今タイプっ
のにタイプに入ってない。
﹁
て聞かれてもねえ。結婚相手と太朗の父親として考えちゃうからね、
子持ちの分際で贅沢も言えないし﹂
﹁
﹁
そう?﹂
いや、道狭いしいいよ。時間かかるだろ?﹂
家まで行く?﹂
そう彼女が言ったところでコンビニが見えた。
﹁
彼女がコンビニの駐車スペースに車を入れた。
しつこいのは分かっていたけど、今聞いておかなきゃ次にこの話題
結婚相手は金持ちが良いの?﹂
を持ち出す勇気がない。次が有るのかも分からない。
﹁
最低限家族が暮らしていける稼ぎがあれば良いけど、あたしが
彼女は少しだけ躊躇う様子を見せてから、でもはっきりと答えた。
﹁
大黒柱なのは絶対嫌。せっかく結婚するなら、早く生活費のプレッ
シャーから解放されたいの﹂
そして、俺の目を見た。さり気なく強調された早くという言葉に、
自分が牽制されたのだと分かった。彼女が面と向かって俺にそれを
ああ、そりゃそうだよな。分かる﹂
伝えようとしていることも。
﹁
政木が言うように、彼女が俺のことを誤解していたのかどうかは分
からなかったが、例えそうだとしても今日俺が会いに来たことで、
俺が彼女に少なからず好意を持っているということはばれてる。と
思う。
そして彼女は、俺がこれ以上彼女に特別な感情を持たないことを望
241
んでる。今日はっきりしたのはそういうことだった。
胸が痛い。友達付き合いは以前通りしてくれるんだろうけど、マジ
で凹む。涙でそう。
でも、どうしようもない。彼女のその当然と言える望みも、俺の彼
女への気持ちも、どうしようもない。
242
ふーん牽制ねえ﹂
煩せえって! in 家 ﹁
まあその気がねえなら、はっきり告白される前に諦めさせた方
斉藤に報告中。
﹁
うーん、しかも未来ある高校生だからね。早く自分のことを諦
が気まずくなんねえもんなあ﹂
﹁
俺、彼女に会う前よりよっぽど勉強してるけどな。今日のテス
めて学業に専念して欲しいのかもね﹂
﹁
トもなんか簡単だったし﹂
﹁
え?全部﹂
どれが?﹂
斉藤と政木が信じられないという顔で俺を見た。
﹁
夏休み中課外も受けたし、今まででは考えられないくらい勉強した
﹁
いらないよ、そのアドバイス。普通勉強から現実逃避するもん
お前らも、現実逃避は勉強にすると成績あがるぞ﹂
からな。当然だ。
﹁
なんだよ﹂
で、成績上がるのは良いことに違いねえけど、彼女はどうすん
まあな。一番辛いのが勉強だったらな。
﹁
諦める?それともお友達で現状維持?﹂
だ?﹂
﹁
昨日色々考えたけど、やっぱり、どうにもならないからってこのま
現状維持で、そして早く金を稼げるよう何か考える。後は、彼
ま一生会えないなんて考えられない。
﹁
おーいきなりやる気出したな。どうしたヘタレ﹂
女が男捜すのを邪魔する﹂
﹁
政木を睨んで、俺の突然の積極性に不思議そうにしている斉藤に向
243
﹁
ああ、なるほどね。ライバルの出現に焦ってるんだね。おそら
彼女の車がタバコ臭かった。誰か乗ってる﹂
けて言った。
﹁
﹁
ふん﹂
彼女に誰乗せたのか聞いてないのか?﹂
くそれも君が1人で勝手にそう思ってるんだろうけど﹂
﹁
﹁
﹁
おい、最近機嫌直ってるけど問題は解決したのか?﹂
ヘタレのまんまだったな﹂
ほらね﹂
斉藤が政木に向かって得意げに言った。
﹁
風呂上がりに涼もうとリビングに入ると、パソコンの前に胡坐をか
関係ないだろ。放っとけよ﹂
いていた親父に言われた。
﹁
無視されてた時よりはマシだけど、機嫌直ってる訳じゃないんだよ。
関係なくねえ。お前らが喧嘩してっと俺が太朗と遊べねえだろ
傷心中なんだよ。
﹁
喧嘩してなくても太朗は連れてこないよ。喧嘩もしてねえし﹂
!﹂
﹁
お、仲直りしたか!坊主飛行機好きだろう!良い公園見つけた
俺の最初の台詞は無視して、親父が目を輝かせた。
﹁
んだよ。連れて行け。そしてうちに寄れ!な!なんなら俺が運転し
はあ?公園なら母親の方が俺らよりよく知ってるだろ。教えな
てってやる﹂
﹁
いや、口コミによると穴場らしいぞ。とにかく電話しろ。これ
くても知ってるよ﹂
﹁
だこれ﹂
親父がパソコンの前から身体をどかして俺にモニターを見せた。
244
母ちゃんまでキッチンから出てきて、また弁当作るから電話しろと、
ああもう!煩せえって!分かったよ。知ってるか知らないか聞
二人でめちゃくちゃ煩くなった。
﹁
くだけ聞いてみるから黙れって!﹂
自室に戻ろうかとも思ったが、親に煩く言われて仕方なく電話した、
というのを嘘だと思われるのは嫌だった。恥ずかしすぎるだろその
嘘。
それにこの勢いのままかけた方が緊張しなくてすみそうだ。
彼女の番号を出して通話ボタンを押す。この作業が1分かからずに
出来るなんて、信じられねえ。
わくわくしている親ふたりを無言で睨みつけていると、彼女が電話
はい﹂
をとった。
﹁
あんなこと言われたばかりなのにかなり鬱陶しがられる気がしてき
﹁
うん、どうしたの?﹂
ごめん。今大丈夫?﹂
た。何で俺のせられて電話しちゃったんだろう。
﹁
﹁
涼!﹂﹁
あー、適当に聞き流して﹂
彼女の声が硬い気がする。俺が何を言い出すのか警戒してるだろう。
﹁
え?何?﹂
おい!﹂
﹁
ああええと、もしかしたら知ってるかもしれないんだけどさ、
彼女が二人の声にわずかにうろたえている。
﹁
親父がしつこくって。なんか太朗が好きそうな公園見つけたから知
ってるか聞いて見ろって言ってる﹂
ああ、そうなのー?有り難うございます﹂
彼女がほっとした様子で言った。
﹁
245
﹁
﹁
幼児向けだ。物凄く浅いから小さい子供しかいないらしいぞ。
そうなの?﹂
えっと。夏場だけ子供向けのプールがあんのかな?﹂
そして彼女は、その公園の事を知らなかった。
﹁
その分混んでなくて遊びやすいらしい。噴水とかあって、﹂
親父がホームページに乗っていない口コミ情報をしゃべりだしたの
ちょっと待て。幼児向けで超浅いんだって﹂
で遮った。
﹁
スピーカーにすると彼女の声まで皆に聞こえてしまうので、ただ単
お?ああ、あんまり混んでなくて、噴水とかがあって、浅いか
に携帯を親父に近づけた。
﹁
ら大人は足元捲くるぐらいで入れるらしい。大人が着替えなくてい
いから楽だろ?あとなあ、これだこれ﹂
親父が画像を表示した。
﹁あー、これは太朗好きそうだな﹂
﹁だろー?飛行機の形の滑り台があるんだよ。こりゃあ男の子は喜
ぶぞ﹂
極浅い馬鹿でかい水溜りみたいなプールに、カラフルなビニールの
飛行機が設置されていた。ちゃちいけど、こんなのがある場所は少
ないだろう。
﹁駅が近いからJRでも一本で行けるぞ。坊主んちそう遠くねえん
だろ?ここの最寄駅から30分くらいだってよ﹂
﹁
うん、すごく詳しく調べて下さってるのね。びっくりしたー﹂
聞こえた?﹂
そこで携帯を耳元に戻した。
﹁
まあ、暇があったら行ってみてよ﹂
ひいたんだろうな。分かる。
﹁
今週末までなんだよ、水遊びできるのが。後は水抜かれてイベ
そう言った俺の真横から親父が携帯にむかってでかい声で言った。
﹁
246
えーそうなんだ!じゃあ今週行かなきゃね。電車ってあんまり
ント会場みたいになるんだと﹂
﹁
使わないんだけど、どれかな?お父様に聞いてみてもらえる?﹂
3才の夏は今だけよー。来年はもう飛行機の滑り台も喜ばない
行くのか?
﹁
かもしれないし、行っといたほうが良いわよー﹂
ああ、行くみたいだよ。父ちゃん電車どこ行きか教えてって﹂
母ちゃんが後ろから小声で言っている。
﹁
二人が満足げににんまりした。
247
なーんでお兄ちゃんはそう︵前書き︶
いつも読んで下さってありがとうございます。
前回間違えて変な所で切ってしまったので、電話での会話が中途半
端に残ってます。
248
なーんでお兄ちゃんはそう
電話を切った後、かあちゃんが弁当の件を伝え忘れたと煩いので自
室に戻ってからもう一度電話をかけた。
さっきの勢いを失わないうちに。緊張し始めてしまうと今日中にか
はい?﹂
けられない時間になっちまう。
﹁
﹁
﹁
母親がまた弁当作るって伝えてくれって煩くて。ほんとに行く
なーに?﹂
ごめん何度も﹂
怪訝そうな彼女の声が聞こえた。鬱陶しげで結構凹んだ。
﹁
え?でも﹂
かはともかく一応。必要ないなら言って﹂
﹁
まあ彼女が言いたいことは分かる。哀しいことに、全く俺が行くっ
ああ、俺が行かなくても関係ないからうちの親。とにかく太朗
て話にはなってなかった。
﹁
に会いたいみたいでさ。どの駅から出るのか聞いてくれって言われ
た﹂
え?﹂
駅まで持って行くつもりだぞ、あいつら。
﹁
彼女がうろたえている。大して知りもしないおっさんおばさんらに
必要ないなら言っとくよ。別に気にする性格じゃないから、思
こんだけしつこくされたら困惑して当然だろう。
﹁
いっきり断っても大丈夫だよ。また懲りずに作戦たてると思うけど。
ごめん、鬱陶しくて﹂
ちょっとした沈黙があった。家族そろってしつこ過ぎて、想像以上
に鬱陶しがられてるのかも知れない。
249
﹁
あーのーですねー﹂
沈黙をどうしようと胸を痛めながら悩んでいると、彼女がこっちを
窺う様な変な言葉を発した。
これは、ばくばくの予感だ。この後にはたぶん、おそらく、可愛い
お兄ちゃん、お願いがー﹂
おねだりが。
﹁
﹁
あーのー、予想はついてると思うんだけど、お兄ちゃんに頼っ
はい﹂
やっぱり!
﹁
てばっかりで良くないって分かってるんだけど、日曜日もし暇だっ
たら一緒に行ってくれないかなーと思いましてー、ですね﹂
予想通りおねだりだったにもかかわらず気分は良くなかった。
俺に必要以上に近づいて欲しくないのにってことか。頼ってもらっ
ああ、良いけど﹂
てんのに凹むな。でも、ここで俺が断れば次は誰を誘うんだろう。
﹁
面白くなさそうな態度が声に出てしまったかもしれないけど、彼女
良かった。ごめんねーいっつもお願いしちゃって。電車乗せる
が息を吐いた。
﹁
の初めてなのよ。初めての場所だし、絶対喜びそうだから連れては
ああ、一人だと大変かもな﹂
行きたいんだけど、不安で﹂
﹁
動物園でのちょろちょろを思い出しながら言った。あれを一人で追
他に頼める人いなくって、いや、違う、一人で頑張るべきなの
いかけながら初めての場所へ遠出はきついだろう。
﹁
よね。でも、一人だと連れて行く気になれないのよねえ、怪我させ
ちゃいそうで怖くって﹂
﹁
そうなのよねー。事故に遭いそうでねえ。色々連れてって楽し
ちょろちょろだもんな﹂
タバコの奴には頼めないんだろうか。
﹁
250
い事経験させてあげなくちゃとは思うんだけど﹂
情けない声を出す彼女は、日頃あまり太朗を連れ出してはいないの
かもしれない。父親がいればこんな悩みはなくてすんだんだろうけ
ぼちぼちで良いんじゃねえの?﹂
どな。
﹁
﹁え?﹂
﹁流石に太朗も大人になるまであんなにピョンピョン走り回ってな
いだろ。今はまだあいつ一瞬でも目を離したら、すぐさま車にひか
れるかとんでもないとこからジャンプするかすんの間違いねえもん。
一人でなんて無理だよ。誰か一緒に行ける時に外で遊ばせときゃ良
いんじゃねえの?﹂
俺誘ってくれればいつでも子守に行くけど。でも、誘われる度にこ
うー、なーんでお兄ちゃんはそう﹂
んな風に本当は俺には頼りたくない感を強調されてもきついかな。
﹁
彼女が可愛い唸り声を発した後変なところで言葉を切った。俺がそ
﹁
うーん、何でもない。日曜日宜しくね﹂
何?﹂
う何なんだ。
﹁
﹁
おにいちゃーんお早う!﹂
うん﹂
俺が何なんだ。気になるだろ!
﹁
彼女と待ち合わせた駅の改札に彼女と太朗が現れた。太朗はバギー
おはよ。おはよ太朗﹂
に乗せられている。
﹁
爽やかで可愛い彼女を見ていられずすぐに太朗の頭に手をのせると、
251
﹁
ぼくのあめー!いっこどーじょー﹂
うん?なんだよ?﹂
太朗が俺の手を握り小さい自分の手を押し付けてきた。
﹁
﹁
﹁
お前嫌いな味俺に押し付けただけかよ。まあいっか、ありがと
あのねえらむねー、ぼくねえらむねきらいなもん﹂
お。サンキュー、お前朝っぱらから気前いいなあ。何味?﹂
飴をくれるらしい。
﹁
うな﹂
彼女がそわそわしているように見える。弁当を持ってきているはず
親父たち今太朗に菓子買いに行ってる。ごめんな、弁当に鬱陶
の俺の両親を気にしているのだろう。
﹁
そんなこと言わないでよ。お弁当作っていただいてほんとに助
しいのがついて来て﹂
﹁
かるんだから。お弁当の準備大変なのよー、あたし料理得意じゃな
いから特に﹂
彼女が笑いながら言う。料理が出来なくても弁当くらいその辺で買
えば良いと思うが、俺は自分が稼いだ金で生きてるわけじゃないの
で黙っておいた。
お早うございます。公園のこと教えていただいて有り難うござ
親父たちが戻ってきた。彼女が頭を下げている。
﹁
いました。太朗にもホームページ見せたら大喜びで﹂
﹁
みたー﹂
まあ良かった!太朗君おはよう。飛行機の滑り台見た?﹂
親父と母ちゃんが笑った。
﹁
﹁
うん、ぼくたのしみー﹂
そう。楽しみねえ﹂
屈みこんだ母ちゃんに向かって太朗が元気に頷いた。
﹁
おばちゃんお弁当作ってきたからねー。今日はお弁当にも飛行
今日は大丈夫な日のようで、母ちゃんがめちゃくちゃ嬉しそうだ。
﹁
252
機はいってるのよー﹂
﹁
そうよー、お昼ご飯の時間におかあさんが良いよって言ったら
えー!おべんとーひこーきー!?﹂
太朗が目を輝かせた。
﹁
はーい﹂
開けてみてね﹂
﹁
いつもの返事が出た。ご機嫌だな太朗。かあちゃん喜んでるぞ。
貢物の菓子と飴を交換したりして一しきり太朗を愛でた母ちゃんが、
ようやく彼女に弁当を渡した。
有り難うございます。またお世話になってしまってすみません。
﹁ほんとに可愛いお子さんねえ。ああそうだ、はいこれお弁当ね﹂
﹁
太朗もまたお兄ちゃんのお母さんのお弁当が食べられるって楽しみ
まあ、気を使わなくってもいいのよ。あたしが無理矢理つくっ
にしてます﹂
﹁
ほんとだよ、無理矢理すぎなんだよ﹂
てるんだから﹂
﹁
ほんとに気は使わなくて良いからね。残しても全然かまわない
口を挟むと、母ちゃんと彼女の両方から睨まれた。
﹁
んだから、どうせ全部涼のお腹に入るんだから、無駄にはならない
有り難うございます﹂
し﹂
﹁
それにしても、電車初めてなんですってね太朗君。大変かもし
彼女が多分緊張してる顔で笑いながら頭を下げた。頭下げすぎだよ。
﹁
ええ、大変そうな予感はしてます。でも、電車に乗るのも凄く
れないわねえ小さいから﹂
﹁
楽しみにしてて。お兄ちゃんも一緒に行ってくれるから心強いです﹂
彼女がにこにこしながらそう言うと、母ちゃんも心配そうな表情を
緩めた。
253
﹁
良かった。主人が考えなしに電車を勧めちゃったから気になっ
ちゃって。ママが良いなら良いわ。子供なんて騒ぐもんですからね、
そんなに気にしないで走らせといたら良いわよ。怪我だけさせない
ように気をつけとけば﹂
そう言って笑った母ちゃんを見て、彼女がすごく嬉しそうにしてい
きゃーー!﹂
た。
﹁
太朗の叫び声と笑い声が駅の構内に響いた。
あなた!ママにやっていいか聞いてからになさいよ!﹂
彼女の方に気を取られている間に太朗が飛行機になっていた。
﹁
ああごめんマジで。気付かなかった﹂
母ちゃんが親父に切れている。
﹁
良いわよー。喜んでるもん﹂
隣に立つ彼女に謝るときょとんとした可愛い顔で見上げられた。
﹁
また彼女が嬉しそうに笑った。俺も嬉しかった。
254
はー﹂
ごめんね
﹁
予想を超えた大変さだったな﹂
彼女がシートの背もたれに寄りかかり、ため息を吐いた。
﹁
ああそう?あたしは予想通りくらいだった。寝てよかったよー。
俺もふうと息を吐いた。
﹁
マジで?予想の範囲内なんだあれ。そりゃ一人で連れて出れね
朝早く起こしといて正解だった﹂
﹁
えよ。俺も止める﹂
﹁
何でもない。お兄ちゃん重くない?ていうか暑くない?﹂
なんで笑ってんの?﹂
彼女が向かいの席に座る俺を見て、微笑んだ。
﹁
﹁
ここに置いて良いよ。お兄ちゃん脚長いから落ちそうになって
確かに、重くはないけどかなり暑い﹂
寝ている太朗を抱いた俺に彼女が言った。
﹁
も止められるでしょ?﹂
2人掛けのシートが向かい合っている席に座っていたので、彼女が
肘置きを上げてから俺の隣に移る。
彼女が座っていた向かい側のシートへ太朗を寝かせた。
﹁ 席空いてて良かったな。寝たら寝たで大変なんだな﹂
重くはないけどずっと抱いてるのは疲れるし、腰が悪いと言う彼女
そうね、あたし電車使わないからその辺考えてなかった。ほん
は尚更きついだろう。
﹁
と良かったよ、お兄ちゃん来てくれて﹂
どっか行きたいとこあったら取り合えず声かけてみてよ。暇だ
しみじみと言われて俺も自然に答えられた。
﹁
255
ったらついてくから。こりゃあ当分大人一人で太朗と遠出は無理だ
ありがとう!ああ、でもお兄ちゃんに頼りっぱなしであたしは
ろ﹂
﹁
大人として自分が情けないわ﹂
一度目を輝かせた彼女がうな垂れた。
こうやってあからさまに嫌がらずに素直に頼ってくれれば、もっと
まあ、行きたくなきゃ行かないでも良いんだし。太朗がどっか
嬉しいのに。
﹁
行きたいって言う時には誘ってみてよ。俺がついてけば太朗が行き
たいとこに行けるんなら喜んで行くし。俺じゃなくても親父でもお
袋でも大喜びで行くと思うけど﹂
少し面白くなくて、太朗を眺めながらそう言うと、彼女が静かに呟
有り難う、嬉しいです﹂
いた。
﹁
ちらりと確認した彼女は、泣きそうにも見える顔で笑っていた。
﹁
違うよ﹂
じゃあなんで泣きそうなの。本当は迷惑?﹂
今なら聞けそうな気がして、さり気なく聞いてみた。
﹁
﹁
そう。じゃあ良いや﹂
嬉しいからだよ﹂
彼女は太朗の方を向いたまま続けた。
﹁
俺もまた太朗に視線を戻して答えた。俺を必要としてくれてるのな
お兄ちゃん、テストどうだったの?﹂
ら、男としてじゃなくても良いや。
﹁
﹁
そうなんだー。良かったねえ﹂
あ?テスト?良かったよ。順位も上がってた﹂
しばらく二人とも太朗を見ていたが、彼女が口を開いた。
﹁
あなたを見るために課外も受けたし、無視されだしてから現実逃避
256
課外も受けてたもんね﹂
に勉強してたからね。とは勿論言えず、頷き返すに留めた。
﹁
うん﹂
そうだけど、無視されてたけど。
﹁
素っ気なくそれだけ答えると、彼女が困ったように口ごもる気配を
﹁
え、何?﹂
ごめんね﹂
感じた。俺が空気悪くしてるぞ、大人になれ俺。忘れた振りだ。
﹁
彼女を見て聞き返した。また泣きそうな困ったような変な笑顔だっ
﹁
ああ、まあ、いや良いけど﹂
あたし感じ悪かったでしょ?ごめん﹂
た。
﹁
いや、良くないだろ。理由を聞け俺。彼女はもう一度微笑んだ。変
ほんとお兄ちゃんてあれだよねー﹂
な顔のままだ。笑いたくなきゃ笑わなきゃいいのに。
﹁
﹁
﹁
ふうん﹂
ううん、何でもない﹂
何?﹂
どれなんだよ。
﹁
﹁
﹁
何で俺、無視されてたの﹂
え?何?﹂
何で﹂
ちょっと沈黙があった。聞ける、今の雰囲気なら聞ける。頑張れ俺。
﹁
彼女の顔は見られなかったけど、何とか言葉にすることができた。
﹁
どんな?﹂
あ、あの、ちょっと勘違いがあったと言うか、ごめんね﹂
答えてくれるんだろうか。
﹁
彼女が困ったような嫌そうな顔をした。やっぱりあれかな、政木の
当たりか。言いたくないのだろう。
257
﹁
どんなってええと、お兄ちゃんがあたしに会いたくないんじゃ
ないかなーとかね﹂
﹁
﹁
ああ確かに、嘘だったんだあれ。部活が昼までだって言うの﹂
え?それは、送ってもらいたくなさそうだったから?﹂
何で﹂
俺が会いたくないと無視されるのか。
﹁
やっぱり。何でそんなこと﹂
彼女が驚いた顔で俺を見て、ちょっと眉を寄せた。
﹁
えー。なんか俺がしたことなかった風にされてたから?ちょっ
今度は俺が質問された。わざと軽めの口調で答えた。
﹁
とそういうの見たくなかっただけ﹂
でも、もういいよ。俺は子供だから無理なんだって分かった。
彼女の反応を窺うと、表情の読めない硬い顔をしていた。
﹁
しつこくしたりしないから普通に友達してよ。こうやって誘ってく
れたんだし、嫌われてはないんだろ?﹂
何かしゃべってよ。無理して笑わなくてもいいけど、無視は俺
彼女はまだ言葉を発しない。
﹁
きついよ。凹むし﹂
え?泣くの?ちょ、ちょっと待って。ごめん、こんな話しなき
彼女が硬い表情を崩した。
﹁
ゃ良かったな。ああ、ごめんって。泣かなくて良いって﹂
彼女の目から一筋こぼれた涙にうろたえた。泣いてる人間の慰め方
なんて知らねえぞ、どうしたらいいんだ!
ごめん。大人気なかった。あたしが悪かったのに、結局心配し
彼女が慌ててバッグからタオルを出して顔を隠した。
﹁
てくれるんだよね。お兄ちゃんが優しいからって、あたしほんと、
どれだけ甘えて﹂
彼女は震える声で自嘲気味にそう言ったが、後は続かなかった。泣
き止もうと努力でもしているのだろう。
258
俺の隣で俯く彼女の頭に、思わず手を乗せてしまっていた。何やっ
てんだ俺!見た目より柔らかい髪の感触に我に返り慌てて手を引っ
ごめん!つい﹂
込めた。
﹁
いいよ、頭なでられるのなんて久しぶり。太朗になったみたい﹂
焦った俺の声に彼女が顔を隠したまま笑った。
﹁
太朗とは違うんだけどな。まあ、いいか。嫌ではないってことだよ
な。
意を決して、もう一度彼女の頭に手を伸ばすと、太朗にするように
止めてよー。頭ぐしゃぐしゃになるじゃん﹂
髪をかき回した。
﹁
彼女がタオルの中でもう一度こもった小さな笑い声を上げた。
無言で彼女の乱れた髪を梳いた。好きな人の髪に触れているという
ことで、痛いほど心臓が鳴って、滅茶苦茶顔も赤かったと思うけど、
彼女はタオルに顔を埋めたままだった。
嬉しいことに、彼女は何も言わず、その後も俺の手を嫌がらなかっ
た。
このまま頭を引き寄せて、抱きしめられるような関係になりたかっ
たんだけどな。そういう事を望むと彼女は離れていくんだろう。髪
を撫でながら、物理的には近づいている彼女との距離が、実際は遠
退いたような気がして切なかった。
目を覚ました太朗の相手をし始めた彼女は、今までのか弱い姿が嘘
のように、元気な母親だった。
太朗に泣き顔を悟られるわけにはいかないので無理しているのだろ
う。
母親って大変だな。辛いときとか哀しいときにも笑わないといけな
いのかな。
259
彼女は座席から降りて走り出そうとする太朗を押さえるのに苦労し
太朗、もうすぐ着くぞ。あれ公園じゃないのか?﹂
ていた。
﹁
窓から外を指差すと太朗が窓側の席によじ登った。
彼女が慌てて太朗の靴を脱がせている。これで駅に入るまでは外を
見ててくれるかな。
太朗の服をがっちり掴んだまま一緒に窓の外を眺めている彼女の後
姿が、頼もしい様で、頼りなくも見えて、やるせなくて酷く愛おし
かった。
260
はー、遊んだねー
太朗は喜んだ。プール好きなだけあって、水の中で最初から最後ま
﹁
﹁
ああ、意外に滑り台よりあっちに興奮してるな﹂
楽しそうね﹂
毎日幼稚園でプールしてるだろうからどうかなと思ったけど﹂
でご機嫌だった。
﹁
太朗はプールのいたる所にある色々な形の噴水に大喜びだった。キ
うん、激しく興奮してるね。来て良かった﹂
ャーキャー言いながら飛び散る水滴を受けようと動き回っている。
﹁
彼女が嬉しそうに笑った。可愛いその顔を見ていると、相変わらず
よし、俺も行ってこよ﹂
赤面してしまいそうな予感がしたので頭を冷やしに行くことにした。
﹁
プールと言うには浅すぎる、言わば異様に広い噴水の中で遊んでい
るようなものだ。大人のふくらはぎ程の深さもない水の中を水着を
着た小さな子供達が這い回っている。
泳いでいるとは言えないその子供達の状況に笑えた。
Tシャツの替えは持ってきたし、一応下だけハーフパンツ型の水着
太朗ー!﹂
に着替えているので、私服のままの他の大人たちに比べ濡れ放題だ。
﹁
噴水の水を受けはしゃぐ太朗を呼ぶと、太朗が俺をみつけ駆けてき
あはは、お前ちっちぇえから大変そうだな﹂
た。しかし、水の抵抗を受けなかなか進まない。
﹁
水上飛行機してやるから、飛行機になってみろ﹂
ざぶざぶとこっちから近づき太朗を捕まえると一度抱えた。
﹁
びしっと飛行機型になった太朗を笑いながら、脇を掴んで水面を滑
らせた。
261
﹁
きゃーーー﹂
太朗が案の定大笑いした。顔に受ける水飛沫も嬉しいようだ。水泳
アクロバット飛行ー﹂
好きになる可能性が非常に高い奴だ。同じ水好きとして嬉しい。
﹁
きゃーーー﹂
太朗を水の上で裏返し、俺の周りをぐるぐる滑らせる。
﹁
着水﹂
太朗の爆笑する顔が上を向いたのでよく見える。面白れえ。
﹁
太朗の身体を掴んでいた手を放し、水流に任せると、太朗が身体を
もういっかーい﹂
曲げながら水の中に尻を着いた。
﹁
待て、目が回った。休憩。あっち行ってみるか﹂
すぐに立ち上がり俺のパンツをひっぱる太朗を見下ろし言った。
﹁
太朗がまだ行っていなかった、比較的年長の子達が遊んでいる大き
目の噴水の方を指差す。一人で行くのは躊躇われていたのだろう、
太朗が俺を見上げて嬉しそうな顔をした。
勢い良く落ちてくる壁のような水にびびって太朗が進まないので、
ほら﹂
先に俺が進んだ。
﹁
水の壁に手を突っ込むと水が割れた。そのまま頭を突っ込む。噴水
に頭を突っ込んでいる大人は俺だけだ。待てよ、俺、引率じゃなく
て、でか過ぎる子供が遊んでると思われてるかもな。
太朗が後ろで笑っている。
いきなり頭かよ!すげえなお前﹂
頭を水から出し促すと、太朗もすぐに笑いながら頭を突っ込んだ。
﹁
慌てて戻ってきて小さい手で顔をこする太朗を見て大笑いした。笑
う俺につられたのか太朗も笑って、もう一度、今度は手で頭を庇い
きゃーーー﹂
ながら水の壁に突入した。
﹁
262
面白れえなあ太朗﹂
そしてまた大笑いしながら飛び出してきた。
﹁
俺も一緒に出たり入ったりすると、太朗がもっと喜んだ。
水着と着替え持ってきて良かった。噴水に顔を突っ込んだので当然
お兄ちゃんも水が好きなことを忘れてた。すっごく面白かった
だが、最終的に全身ずぶ濡れで遊んでしまっていた。
﹁
よ、二人で遊んでるの﹂
俺は彼女に見られていることを忘れてたよ。高校生丸出しで遊んで
しまっていたような気がする。失敗した。
にこにこしている彼女に気まずい視線を向けると、もっと笑われた。
休憩に戻った俺たちは、弁当を食いあげた後、アイスを食った。
水は浅くて身体が冷えるまでもなかったし、昼の暑い日ざしが照り
なあ太朗、まだプールで遊ぶのか?﹂
付けて冷たいアイスがうまかった。
﹁
プールに飽きたら、広い敷地の向こうの方に子供用の遊び場がある
うん﹂
はずだ。ブランコなどがあるらしい。
﹁
いーの?まだここで﹂
太朗は元気に頷いた。
﹁
今年最後だからねー。幼稚園のプールも終わっちゃったし﹂
彼女に尋ねると彼女も笑って頷いた。
﹁
良いんなら良いけどさ。太朗たぶん水泳好きになるよ。全然水
そうだな。まだ暑いけど外プールもそろそろ終わりだな。
﹁
怖くなさそうだし。競泳するかもな﹂
そうね。お兄ちゃんみたいな良い身体になるかもね。目の毒だ
彼女がわざと作ったような無表情で俺の上半身を眺めて言った。
﹁
からTシャツ着て﹂
え?慌てて椅子の背に広げて乾かしていたTシャツをかぶった。焼
263
けてて分からないとは思うけど腹まで赤くなってたかも。俺がわざ
と身体を見せびらかしてる気持ち悪い奴だと思われてたらどうしよ
う。
ゆっくりTシャツから顔を出して彼女の表情を窺うと、面白そうに
あたしもちょっとは入ろうかな﹂
くすくすと笑っていた。良かった。
﹁
俺見てるから入んなくても大丈夫だよ﹂
彼女が日陰の椅子から立ち上がった。
﹁
おそらく俺に太朗をまかせっきりなのが気になるのだろうと思って
太朗見るのはお願いしたい。噴水の下には行けないし。暑いか
そう言うと、笑って首を振った。
﹁
ああ、そうなの?確かに暑そうだな、大人は﹂
ら水に足浸けたいだけ﹂
﹁
周りを見渡すと、噴水プールを囲むように配置されたパラソルの下
や、外通路の屋根の下のベンチに腰掛ける大人達は皆ぐったりとし
そうなのよ。日焼け対策で余計暑いのよ﹂
て暑そうだった。
﹁
そういう彼女は薄手の長袖シャツを羽織って、つばの広いストロー
焼けるの嫌なの?﹂
ハットをかぶっている。
﹁
うーん。黒くなりたくないって訳じゃないんだけど、お兄ちゃ
彼女が複雑そうに俺を見た。
﹁
ふーん﹂
んには分からない事情がね。シワとかしみとか﹂
﹁
大変なんだな、女って。
彼女は俺に答えながらおもむろに屈みこみ、薄いブルーグレーのマ
キシスカートをたくし上げ始めた。
何やってんの!
264
俺は慄いたが、水に入るのだから、洋服が濡れないように準備する
のは当たり前だ。
膝上でスカートの裾を縛る彼女の足を見ないように努めた。
太朗行くか﹂
ここで彼女の足を凝視していたら変態だ。
﹁
はーい﹂
アイスを食べ終わったようだった太朗に声をかけた。
﹁
太朗が椅子から飛び降りた。
彼女の足を見ないという努力は実を結んだとは言えなかったが、太
朗を眺めて楽しそうにしている彼女にばれてはいなかったと思う。
水に濡れた白い足に目を奪われない訳はなかった。
﹁
ああ、結局一日プールだったな﹂
はー、遊んだねー﹂
あれが俺のものになる日は絶対にこないのだろうか。
﹁
15時頃嫌がる太朗をジュースと菓子でつって水からあげると、す
ぐに眠そうにし始めた。
寝るなら電車の中で寝かせようと、彼女とあわただしく帰り支度を
し、駅まで急いだ。
電車が入るまで何とか持ちこたえていた太朗は、一応電車に乗るこ
暑かったー﹂
とに興奮した後で寝入った。
﹁
彼女がおそらく日焼け対策で羽織っていたシャツを脱ぎ始めた。
真横に座っているのでろくに見えはしないが、太朗の方に顔を向け
ていても、視界の端に動く彼女の白い腕がちらちらと入ってきた。
シャツを脱ぎ終わって座席に落ち着いた彼女が、息を吐きながら呟
いた。
265
﹁
﹁
確かに。帰りも追いかけて回るかと思うとぐったりするよな﹂
寝てくれて良かった﹂
そうね。やっぱり太朗に公共交通機関はまだ早かったね。ちょ
二人で、向かいの座席で口を開けて寝こけている太朗を眺める。
﹁
っと遠くても車の方が良いかも。体力もだけどなにより気が楽﹂
そうだよな。引率が疲れてちゃ次どっか連れて行こうって気が
彼女がしみじみと言った。
﹁
失せるもんな﹂
俺18になったらすぐ免許取ろう。俺に今後誘いがかかるかなんて
分からないけど、いざと言う時の為だ。今から小遣い貯めとこう。
彼女と距離をとるため二人の間に肘掛を出していたのだが、そこで
ごめん﹂
不意に腕が触れた。
﹁
反射で大げさに腕を引いてしまい、何気なく振舞うことも出来ない。
彼女は苦笑している。こんな些細なことまで意識している俺を笑っ
ているのだろう。
俺の日焼けした腕と一瞬並び触れた彼女の白くて柔らかい腕は、め
ちゃくちゃ細く見えた。
この頼りない腕が何かに縋りたい時、支えて、守って抱きしめて、
安心させてやれるのが俺だと良いのに。どんなにそうなりたいと切
望して努力しても、やはり高校生の俺では駄目なのだろうか。
266
元気?
やはり彼女には全く会えない日が続いている。
彼女からも太朗からも連絡はなく、特別な感情を持たれたくないと
彼女が考えていると分かっているため、こっちからも何も出来ずに
いた。
会ってしまえば思いが募るのは分かりきっているからだ。ようやく、
それでも会いたいという気持ちを抑えることが出来るようになった。
既にそれだけ彼女への思いが強くなっているということなのかもし
れない。これ以上好きになって、今より辛くなり続ければ、本当に
自分がやばそうだった。
太朗の今年最後のプールに付き合った日から、ひと月以上が過ぎて
いた。
彼女のことを極力考えないように、彼女に選んでもらえる男になる
ための努力をするという生活にも慣れ始めた頃だった。
ベッドに寝転がって親父お勧めの本を読んでいると、枕元に投げ出
していた携帯が鳴った。目に入った表示に飛び起きた。
はい﹂
心臓が驚くほど強く打つ。この感覚も久々だ。
﹁
﹁
ああ、どうしたの?﹂
お兄ちゃん?﹂
少しだけ間があって、彼女の声が俺を呼んだ。
﹁
﹁
﹁
元気よ﹂
ああ、そっちは?﹂
何か久しぶりだねー。元気?﹂
穏やかな声が出るよう努めると、彼女が安心したように話し出した。
﹁
267
太朗が何か言ってんの?﹂
彼女が微笑んだ気配がした。
﹁
俺と近づきたくないはずの彼女が電話してくるのだから、太朗がら
う、そうなのよ﹂
みの用件だろう。
﹁
やはり想像通りだった。連絡があって凄く嬉しいのは確かだけど、
﹁
ええと、お兄ちゃんに頼ってばかりで申し訳ないんだけど﹂
何?﹂
この後の彼女の態度が予想出来る様でやけに冷静だった。
﹁
またこれだ。わざわざこう言われることで、本当は近づきたくない
何?﹂
んだけど、と前置きされているような気分になる。
﹁
面白くなかったけど、気分の悪さが声に出ないよう頑張った。どう
あのね、太朗がプールしたいって言ってて、どこか水泳の教室
であれ彼女からの連絡を喜んでいるのは自分だ。
﹁
に入れようかと思うんだけど、どこがいいのかさっぱりで。お兄ち
ゃんに相談してみようかと思って﹂
そう言う彼女の声はまだ申し訳なさそうな感じだ。そんなこと普通
お兄ちゃんが幼児のクラスに詳しいわけないのは分かってるよ。
に聞いてくれればいいのに。返事をしない俺に彼女が続けた。
﹁
プールの雰囲気とか設備的に危ないとことかあったら教えて欲しい
ああ、まあ、泳いでる時間に小さい子のクラスやってることも
なって﹂
﹁
そうなんだー。知ってるとこだけで良いよ。あたし全く分から
あるけど、でもそんな色んなプール行くわけじゃないから﹂
﹁
ないから﹂
俺が答えたことで彼女が安心して普段の調子を取り戻したようだ。
ああ、でも俺の知ってるとこの幼児のクラスって、退屈そうな
俺の機嫌窺ってどうするんだろうな。
﹁
268
内容の上に並んで順番待ったりしてるけど﹂
太朗には面白くないんじゃないの、と言う意味を理解した彼女が間
無理かもねえ。退屈じゃ列には並んでられないだろうねえ。や
を空けず答えた。
﹁
っぱりまだ習い事は早いかしら﹂
水に入れれば良いんだろ?それとも泳ぎ方を教えたいの?﹂
どうかな。早いって言うか合ってないのかもな。
﹁
あーそれはどっちでも良いかなー?太朗が嫌がることさせるつ
彼女が考えながら言った。
﹁
ふーん﹂
もりはないけど、やる気があるなら泳ぎ方も習って欲しいかな﹂
﹁
思いついたことがあったが、言えば彼女を困らせるような、距離を
取られながら受け入れられても複雑なような気がして言い出せなか
水に入るだけで良いんなら、クラスとかに入らずに一緒に市営
った。
﹁
え?一緒にって、あたし?﹂
プールにでも行けばいいんじゃない?﹂
﹁
彼女は思いもつかなかったって様子だ。水泳に縁がない人はそうな
ああ、俺も良く行ってたけど、わりと新しいからプールも更衣
のかもな。
﹁
室も使いやすいし、多分子供も使いやすいように設計してあるんじ
ゃないかな。小さい子供用のトイレとかがあるのは見たことあるよ
。しかも近くのジムにもっとデカイプールがあるから、そっちに
えーと、私が一緒に泳ぐってこと?﹂
客取られてあんまり混まないんだ﹂
﹁
当然そうだけど。たぶん太朗はただで入れるよ。大人の利用料
彼女はよく理解できないって感じだ。
﹁
へえーそうなの?そう言うプールがあるのも知らなかった。ス
金を1回ずつ払うだけ﹂
﹁
269
イミングクラブかジムみたいなとこしか思い浮かばなくて﹂
﹁
分かんない。知らないのあたしだけかもよ。そうかーでも私、
こっちがへーだよ。そんな感じなんだな。水泳しない人って﹂
彼女は感心していたが、俺もそうだった。
﹁
水の中で太朗の面倒見る自信ないや。多分自分のことで精一杯だし。
スイミングクラブの方調べてもうちょっと考えてみるわ。ありがと
ね﹂
彼女がそう言って用件を終わらせようとする雰囲気を感じ、勝手に
来月からになるけど、俺が見ようか?﹂
口が動いてしまった。
﹁
うわ何言ってんだ俺。受け入れてくれるとしても、本当は俺に頼り
﹁
ああ、まあそれも有るってことで。ええと、夜までやってるか
え?お兄ちゃんが?﹂
たくないんだけどって顔する彼女は見たくないのに。
﹁
らもし市営に連れて行くなら平日の方がいいかも。土日はちょっと
混むから﹂
﹁
え?ああ、それでも良いけど﹂
お兄ちゃんが太朗と泳いでくれるの?﹂
話題転換でごまかそうとしたが、上手く行かなかった。
﹁
わー嬉しい!お願いして良い?﹂
彼女の口調が嬉しそうだったので、そう答えてしまった。
﹁
彼女は俺の不安を余所に屈託なく嬉しそうだった。まあ、それなら
﹁
﹁
お兄ちゃん部活あるでしょ。部活ない日で良いよ。太朗も泳げ
そんなにちょっとで良いの?﹂
月に1回でも二ヶ月に1回とかでもいいから﹂
俺もただただ会えることが嬉しい。
﹁
るってだけで嬉しいだろうし﹂
まあその程度の頻度で考えているのなら俺との距離を心配するまで
もないのだろう。なんだかがっかりした。
270
﹁
﹁
え?そうなの?﹂
いや、もう引退なんだ俺﹂
新入部員が入るまで泳いでもいいのだが、頑張るチームの奴らがひ
たすらチームに回ってくるので人数か増えるのだ。思うように泳げ
平日は学校帰りに市営に寄るつもりだから、幼稚園帰りにでも
なくなるので各々他のプールで泳ぐことを選ぶやつも多い。
﹁
そうなんだー。じゃあお兄ちゃんの部活が終わったら一度連れ
連れてきてくれれば見られるけど﹂
﹁
て行ってみていい?﹂
ああ、いいよ。それでまた太朗が泳ぎたいって言うようなら連
太朗のおかげで何とか続いてる縁だな。そう思いながら答えた。
﹁
れて来たら?﹂
彼女は俺との縁が続いていくことに興味はあるんだろうか。それと
も、太朗が俺で役に立つことを望まなければこのまま縁が切れたと
うんそうする。ありがとう﹂
しても構わないんだろうか。
﹁
俺がしつこく誘ったわけじゃないよな。太朗のために俺に嫌々会う
ってわけじゃないよな?
せっかく彼女と会えることになったのに素直に喜べない。卑屈にな
ってしまう思考をどうにかしたかった。
271
違います︵前書き︶
すいません。更新遅れましたー。
272
違います
市営プールに通い始めてから、いつ連絡が来るだろうと毎日携帯を
気にすることになった。
いつでも良いなどと言わず、ちゃんと日程を決めれば良かった。
更衣室で、制服のポケットから携帯を取り出しながら考えていたが、
何気なく見た携帯の画面には着信履歴が残っていた。
彼女だ。さっき電車の中でも確認したので、そこからプールへの移
動中にかかって来ていたようだ。
ちょうど更衣室には人気がなく、今ならこの場で電話できそうだっ
た。
今日はかけ直すという作業なのでいつもほど緊張もしなくてすみそ
はーい﹂
うだ。
﹁
ワンコールもしないうちに彼女が答えた。心の準備は出来ているは
﹁
うん、したー。あのねー急なんだけど、今日プール行ってるの
電話した?﹂
ずなのに、彼女の声にぎゅっとと心臓が締まる。
﹁
かなーと思って﹂
﹁
お兄ちゃんが良ければ、今日が良いなと思って。明日仕事休み
ああ、今着いたとこ。今日来る?﹂
今日来たいということらしい。
﹁
になったから太朗も幼稚園ないし、慌てなくて良いから﹂
なるほど。俺が平日しか泳いでないから土曜休みの金曜を待ってた
のかな。それなら土曜の夕方にでも呼んでくれれば良かったのに。
やはり、甘えられているようで実は遠慮されているのを感じる。俺
と不用意に近づきたくないと言う気持ちからなのかな。
273
﹁
﹁
﹁
そうだな。じゃあ着いたら中の飲食スペースまで太朗連れてき
うん、15分か20分ぐらいで着くかな﹂
良いよ。まだ幼稚園?﹂
てよ。それまで泳いでる。そこに来たら中から見えるから、急がな
いでゆっくり来ていいよ﹂
了解ー。じゃあ宜しくね﹂
彼女が笑った気配がした。
﹁
さっさと着替えて軽く泳ぐことにした。太朗が来ればもう自分が泳
ぐ余裕はない。太朗を危ない目に合わせないようにしなければなら
ないし。
この間の電話を盗み聞きしていた母ちゃんからも、ママもあんたを
信用して太朗君を預けるんだから、絶対に怪我させたり溺れさせた
りしちゃ駄目よ。1秒も目を離すんじゃないわよ。とめちゃくちゃ
しつこく言われている。
プールに入って10分を過ぎたあたりから、時々顔を上げ、でかい
ガラス張りの壁の向こうにある待合スペースを窺いながらしばらく
泳いだ。
何度目かに顔をあげると、彼女と水着姿になって黄色のスイムキャ
ップをかぶった太朗とがこっちを見ているのに気付いた。
太朗はガラスに顔をくっつけて変な顔になっている。思わず吹き出
しながらゴーグルをはずし、更衣室を通りタオルを片手に待合に向
よう太朗﹂
かった。
﹁
先に振り返った彼女にちょっと手を上げ、未だガラスに張り付いて
いる太朗に声をかけた。
﹁
ああ、ちゃんと俺に掴まってるならおっきい方でも泳げるぞ﹂
おにーちゃんのプールー!おっきーねえ!﹂
太朗が振り返り俺を見て笑った。
﹁
274
やったー!﹂
太朗が飛び跳ねた。
﹁
太朗を見て笑いながら、しぶしぶ彼女に目を向けた。
さっきちらりと見た時、彼女がまた困ったような硬い顔をしていた
ので、自分でも知らぬ間に傷ついていたようだ。
ごめんねー、またお願いしちゃって﹂
俺に近づきたくないなら連絡しなきゃいいのに。
﹁
そう言う彼女は笑ってはいるが困ったような顔のままだった。太朗
の前だと言うのに不覚にもムカついた気分を我慢できず口に出して
何その顔。俺に頼んだの後悔してんの?﹂
しまった。
﹁
不機嫌丸出しの声だったが、意外に彼女は俺の機嫌を取るような調
そうじゃない。さっきまでそうだったかもしれないけど、この
子にはならず、苦い顔になって答えた。
﹁
﹁
何でもないよ。さあ泳いでいらっしゃい。太朗、お兄ちゃんの
はあ?じゃあ何?﹂
顔は違います﹂
﹁
言うこと良く聞くのよ。じゃないとすぐ帰るからね﹂
彼女は質問を適当に流し、邪険に俺を手で追い払う仕草をした。マ
ジで?俺宮本ポジションに降格?
凹みながら、ぴょんぴょん歩く太朗の手を引いてプールに向かった。
太朗はよく泳いだ。アームヘルパーを付け、子供用の浅いプールで
ビート板に乗るようにバタ足の練習した後、大人用のプールに浮か
べても怖がりもしなかった。
足が届かないことに対しても不安はなく、俺に掴まってさえいれば
楽しいばかりのようだった。
いや、試してはいないが、例え放り投げたとしてもきゃっきゃ言っ
ていたと思う。とにかく太朗は確実にスイマーだった。
275
彼女の様子はあまり窺うことが出来なかった。最初にガラスを挟ん
だ彼女のそばで準備体操をさせたときには、太朗を見て俺と同じタ
イミングで吹き出していたが、その後は彼女を気にする余裕もなか
った。
やはり、走ったり跳ねたりするのが普段のスタイルである太朗は、
特にプールサイドが危なかった。まあ、俺はひやひやもしたが、太
朗は終始楽しそうだったので良かった。そう安堵していたのだが、
まだ気を抜くには早かった。
シャワーを浴びさせ待合に直接続くドアから彼女のところに着替え
を取りに行かせると、ガラス越しに何か2人でも揉めているのが見
えた。が、俺が待合に出ようと扉をあけたところにプールバッグを
もった太朗が戻ってきた。
彼女と目が合ったが、心配そうな申し訳なさそうな顔をしていたの
で、俺に太朗の着替えの手伝いまでさせる気はなかったんだろうな
と思った。
また、必要以上に頼りたくないってことか。こんな些細な事くらい
任せてくれりゃあいいのに。こんなことで調子に乗ったり、あんた
に近付いた気になったりしないし。
面白くなくて、何か言いたげな彼女に気付かない振りをして更衣室
に向かった。
276
どうせ
太朗の着替えの手伝いは意外に難なく終わったが、それからが不味
かった。いざ俺が着替えようとすると、太朗が俺の傍から離れ走り
こら!待てって!﹂
出したのだ。
﹁
ほとんど脱げていた水着を足から蹴り飛ばすと、腰にタオルを巻い
ただけの格好で視界から消えた太朗を追いかけた。
更衣室の床も濡れている。あんな勢いで走れば滑るに違いない。胆
の冷える思いで太朗を探すがロッカーで死角だらけの更衣室の中に
太朗!﹂
は見当たらず、待合に飛び出した。
﹁
周りを見渡すとすぐそこで、彼女に捕獲されている太朗の姿が見え
ああ太朗お前、俺が着替えるまで待てよ・・・。びっくりすん
た。
﹁
だろ﹂
泣きもせずにこにこしている太朗を見て、転びはしなかったのだろ
うと判断した。胸を撫で下ろした俺に彼女が申し訳なさそうに言っ
太朗のこの行動も想定内か。卑屈に邪推しないでちゃん
ごめんお兄ちゃん。やっぱりあたしがやれば良かったね﹂
た。
﹁
そうか。
と彼女と話せば良かったのか。
ひとり反省していると、彼女が今日ここで会った時のような、困っ
お兄ちゃん。着替えて来て。心臓に悪いわ﹂
たような顔をしていた。
﹁
は?彼女が気まずげな表情で口にした予想外の台詞の意味が即座に
理解できず、彼女に怪訝な顔をむけていると、その視線が俺の腹辺
277
りをチラ見した。わ!もしかしてタオルの中を想像されてる?
慌てて彼女に背を向け、落ちないようにタオルを掴んで更衣室に戻
った。
俺の身体見てドキドキして心臓に悪い?いや、ないだろ。タオルが
落ちそうで心臓に悪い方だよな。そうだよな。
いや、例え競泳水着の俺を見て意識してたとしても、俺が高校生な
のは変わらない。何も意味なんてない。そう自分に言い聞かせると、
ぬか喜びしそうになっていた気分が一気に下がった。
太朗は丸いテーブルの席について、紙パックのジュースを飲みなが
ら俺を待っていた。いや、太朗はジュースで座らされていただけで、
お兄ちゃん。何か飲むー?﹂
俺を待っていたのは彼女か。
﹁
彼女が俺を見つけて笑顔で言った。さっきまでの変な顔を気配もな
ああ良いよ。持ってるし﹂
い。
﹁
そう?送るからちょっと待っててくれる?﹂
ペットボトルを振りながら言った。
﹁
ああ、はい﹂
彼女が太朗を見ながらそう言った。
﹁
太朗の横の椅子をひいて腰掛けると、彼女とテーブルを挟んで向き
﹁
﹁
こいつやっぱちゃんと習わせた方がいいかもな。オリンピック
勿論。結構ちゃんと練習してたね。びっくりした﹂
太朗見てた?﹂
合う形になった。
﹁
選手とかになれるかもよ﹂
あははーそりゃ良いね。でも、お兄ちゃんも言ってたじゃん。
彼女が楽しそうに笑った。
﹁
278
太朗が順番待ってられると思う?お兄ちゃん一人も待てないのに﹂
ああ、確かに。習い事はもうちょっとしてからだな﹂
さっきの更衣室でのことだろう。
﹁
あれをもし、彼女が着替えさせている時にやられるとどうなるのだ
着替え中の脱走、あたしも母親と温泉に連れてった時にやられ
ろう。
﹁
たことあるのよー﹂
﹁
当然お兄ちゃんと一緒よ﹂
え?どうしたのその時?﹂
俺の思考を読んだような話を始めた彼女が苦笑いした。
﹁
﹁
マジで!?﹂
全裸にタオル1枚で脱衣所から出たわよ﹂
え?一緒って?冗談だろ。
﹁
デカい声をだした俺を若干引いて一瞥してから、彼女が遠い目をし
大きい温泉施設だったから人も多くて、あの時は死ぬほど恥ず
た。
﹁
かしかったわ。でも今よりさらにチョロチョロが酷かったし、すぐ
に捕まえないと建物の外まで必ず飛び出す子だったからね・・・﹂
身体にバスタオルを巻いただけの濡れた彼女が、男性客どものいや
説教が必要だな﹂
らしい視線に晒される場面を想像しムカついてきた。
﹁
太朗に対して初めて腹を立てて呟いた俺の声が聞こえたのか、彼女
説教して通じるなら、さっきお兄ちゃんあんな目に遭ってない
が冷めた目で俺に言った。
﹁
じゃあ大人の着替えが必要なところには絶対行くなよ﹂
からね﹂
﹁
﹁
何で?現に今日走っただろ?また裸で追いかける気?﹂
そんなに心配しないでも、今は大丈夫よ﹂
半目でそう返すと、彼女が俺を見て表情を変え、吹き出した。
﹁
279
コツがあるの。太朗の襟首掴んだまま着替えるのよ﹂
しつこく文句を言う俺に彼女が可愛い笑い声を大きくした。
﹁
呆れた顔を隠せなかったが、その様子を想像して最終的に吹き出し
た。
大変だな、太朗の母親って﹂
やってそう。キレ気味に小さく太朗に怒鳴りながらやってそう。
﹁
でしょー?家族以外ではお兄ちゃんが一番分かってくれてるわ
笑いながらそう言うと、彼女が笑顔のまま嬉しそうに答えた。
﹁
よ﹂
そう。そんな可愛い顔で、俺を有頂天にさせるような言葉を吐いた
って、どうせ太朗の父親候補としては見てくれないんだろ。
また卑屈な考えが浮かび、嬉しいのに、辛くて、素直に喜ぶことな
んて出来なかった。
強張っていく俺の表情を見ながら、せっかく可愛かった彼女の笑顔
が変なあの笑みに変わって行くことが悲しかった。
280
どうせ︵後書き︶
そろそろ終盤です。
281
お礼に夜ご飯一緒にどう?太朗も大丈夫そうな個室があるとこ
ふん
﹁
にするけど。もうお母様ご飯の準備なさってるかしら﹂
ああ礼とか良いよ。せっかく使用料只なのに、スイミングクラ
車に乗り込むと彼女が俺に言った。
﹁
ブより高くつくんじゃねえの?﹂
家で飯準備してると思うし﹂
彼女が困った顔をしたので彼女の言葉に便乗した。
﹁
そう言われれば彼女も折れるしかないだろう。実際は夜家で飯を食
わなくても、それがどんな内容であれ朝飯に回されるだけなので何
も問題なかったのだが、今の時点で親しくなっても所詮俺は彼女の
恋愛対象にはなれないという思いが俺を憂鬱にさせていた。
それに彼女だって本当に俺と飯を食いに行きたいと思っていたなら、
帰り際の今ではなく母ちゃんが飯を作り出す前に、今日会ってすぐ
に確認していたはずだ。
きっと、俺と長く一緒にいることを躊躇っているのだろう。
表面上は平静を取り繕いながら、内心卑屈な考えに囚われている自
じゃあお礼はまた今度﹂
分が情けなくてイラついていた。
﹁
彼女がしつこくそう言うので、余計な言葉をきつい口調で投げつけ
だから礼とか良いって。あんまりしつこく言うとまたキスする
てしまった。
﹁
よ﹂
彼女は前を向いたまま口ごもった。太朗がすでに寝ていたのがせめ
てもの救いだった。
282
車内の空気はかなり重苦しかった。
俺の気持ちを無視する彼女を、このまま無視し返して帰ってしまい
たかったが、そんなことをすれば別れてすぐ猛烈な後悔の念に襲わ
ごめん﹂
れるのは目に見えていた。
﹁
何とか搾り出した低い声が車内に小さく響いた。彼女が前を向いた
ごめん。プールで太朗をみるのは構わないんだ。可愛いし。で
まま返事をしないので仕方なく続けた。
﹁
も、俺を近づけたくないのに無理して飯とか誘ってもらっても嬉し
くない。礼ならこうして送ってもらってるので十分だよ﹂
近づけたくないって何?あたし、お兄ちゃんには太朗と仲良く
彼女は俺を見ない。
﹁
して欲しいと思ってる﹂
俺の言葉が足りなかったせいか、話を逸らそうとしているのか、彼
違うよ、本気で言ってんの?それとも話を逸らそうとしてんの
女が静かな、かすかに震える声でとんちんかんなことを言った。
﹁
?太朗にじゃない。自分にこれ以上近づいて欲しくない、特別な気
持ちを持って欲しくないって思ってるだろ?﹂
思ってるよね。・・・・・・俺無理なんだよ﹂
彼女は唇を噛んで前を見据えていた。
﹁
もう良いか。どうせ俺の気持ちはとっくにばれてるんだし、はっき
り告白したって今更何が変わるわけじゃない。そう思った時丁度彼
何が無理なの?﹂
女に聞かれた。
﹁
彼女の強張った横顔を見ながら、俺が思いを告げることで笑顔にな
ってくれれば良いのになと思った。でも当然それは夢のような話だ
俺、仲良くしながら、好きにならないとか無理なんだ。もう既
った。
﹁
にどうにもならないぐらい好きだし。そっちの望みどおりにするな
283
ら、俺もう、会わない方が良いと思うよ﹂
ああ言っちゃった。自分で言ってどうすんだよ。もう会えねえじゃ
ん。
黙り込む彼女が俺に何かを答えるより早く、俺の携帯が鳴り出した。
表示された母ちゃんの番号に苛立ち、即効で切った。すぐにまた鳴
﹁
良いよ﹂
出たら?﹂
り出した携帯に舌打ちしてもう一度切ると、彼女が静かに言った。
﹁
電話してて﹂
彼女が睨むような顔で俺をちら見した。
﹁
そう言うと、いきなり車の向きを変え、ファミレスの駐車場に車を
突っ込み、こっちを見もせずにドアを開け出て行ってしまった。
思わずでかいため息が出た。謝罪は失敗だ。
﹁
あんたプールでしょ。もしかして今日太朗君来たの?﹂
何?﹂
しつこくかけてくる母ちゃんにムカつきながら、電話を取った。
﹁
﹁
今日ねえ、ウナギとカニとたこ焼きと高級アイスクリーム貰っ
それが何﹂
何で分かったんだよ。
﹁
たのよ。冷凍庫に入りきらないからおすそ分けしようと思って!太
朗君とママうちまで連れてきて!﹂
﹁
なんで!?あんたがヘタレで誘えないんならあたしが誘うから
無理﹂
すげえ勢いで言われた。
﹁
違う。今喧嘩みたいになってるから絶対無理。じゃあな﹂
電話代わって!﹂
﹁
そう言って通話を切ると、電源まで落としバッグに投げ込んだ。
284
彼女は中々戻ってこなかった。幸い太朗はプールで疲れているのか
熟睡していた。
エンジンはかけっ放しでクーラーは効いている。太朗の腹に、横に
あったタオルをかけると静かに車から出た。
車の見える範囲で彼女を探そうと周りを見回すと、すぐ隣のデカイ
車の陰に彼女の頭を見つけた。
ねえ﹂
助手席の死角に居たようだ。
﹁
声をかけると、肩をびくっと揺らし、隣の車の向こうに逃げて行っ
た。泣いてんのかな。
追いかけるフリをして反対に周り彼女の車と隣の車の間の角で待ち
伏せると、案の定彼女が顔を伏せたまま出てきて俺の胸にぶつかっ
何やってんの?逃げ道ばればれだろ﹂
た。
﹁
背を向けようとする彼女の両腕を正面から捕まえると、一層俯こう
泣いてんの?分かってる?ほんとに泣いていいのは振られた俺
とした。
﹁
なんだからね﹂
﹁
﹁
泣き止んでから、戻るつもりだった﹂
分かってるから、俺から逃げてんの?すぐ捕まったけど
うう、分かってる。ごめん﹂
﹂
腕を掴んだままそう言うと、彼女が俯いたまま唸る様に答えた。
﹁
相変わらず顔を伏せたまま、低く抑えた声は震えていて今にも嗚咽
止めてよ、この期に及んでそういう可愛いことすんの。俺無理
が漏れそうだった。思わず腕を離し、彼女の頭を胸に引き寄せた。
﹁
だって言ったろ?せっかく会わないって言ってんのに﹂
彼女は俺から離れようと、俺の胸に当てた手を突っ張ろうとしてい
振られた俺を差し置いて泣いてんだから我慢して。俺のこと可
たが、非力だった。
﹁
285
哀想とか思って泣いてんの?俺、嫌だよそれ﹂
﹁
なんで泣いてんの。俺に申し訳ないって言うのも一緒だからね﹂
違う﹂
彼女が俺の腕の中で緩く首を振った。
﹁
﹁
謝って﹂
じゃあなんなの。俺謝らなくちゃいけないの?﹂
彼女がもう一度首を横に振った。
﹁
﹁
謝って。うう、もう会わないって言ったの謝って。違う、謝ら
へ?﹂
予想外の返答に聞き返してしまった。
﹁
なくて良い。会わない方が良い。好きにならないで。でも謝って﹂
そう言ってまた泣き出してしまった。
分からん。
﹁
はあ?抱きついて泣いてたのそっちだろ﹂
近づいて欲しくないって分かってるんでしょ
﹂
ほんの少しだけ泣いてすぐに復活した彼女は、両手でどんと胸を突
﹁
ふん﹂
き仏頂面で俺から離れた。
﹁
可愛くねえなあ﹂
彼女は鼻息を残して車に乗り込んだ。
﹁
彼女はそう呟きながら助手席に乗り込んだ俺を半目で見ると、もう
一度﹁ふん﹂と言った。
何よ、何で笑ってるの﹂
思わず顔が緩んでしまうが、彼女が俺を横目で睨んだ。
﹁
何でって。可愛いからに決まってるだろ﹂
その顔もつぼにはまった。
﹁
照れてんの?﹂
笑っていると、彼女は無言で前を向いた。
﹁
286
﹁
煩い﹂
不貞腐れた彼女がとても子供っぽく見えて嬉しかった。何かスッキ
リしたような。何がスッキリしたんだろう?
287
ふん︵後書き︶
ここまで読んで頂いてありがとうございます。
16日の更新をお休みします。終盤宣言しておきながらすいません。
18日には続きをアップします。
288
冗談だよ。昼で良い
その後すぐにコンビニに着いたが、そこにはなんと、母ちゃんと親
父が立っていた。というか店内で立ち読みしながら立っていた。
﹁
今晩は﹂
今晩はー、三浦さん。太朗くんは?﹂
気付いて仰け反る俺に彼女が驚いていると、二人が走り出てきた。
﹁
太朗は寝てる﹂
車から降りて丁寧に挨拶を返す彼女に被せて俺が答えた。
﹁
から帰れ、と言おうとすると、太朗が﹁おかあしゃーん﹂と彼女を
呼んだ。
母ちゃんが目を輝かせ、親父は早速太朗におもちゃを献上し始めた。
母ちゃんに彼女が丸め込まれ、何故か親子二人はうちのダイニング
でウナ丼とカニ鍋を食べた。
そして今は食後のデザート中だ。勿論もらい物のアイスだ。
太朗は喜んでリビングで親父とアイスを食っている。
彼女は母ちゃんとダイニングで茶を飲みながら子育て談義中だ。何
なんだこれ。さっき喧嘩してたよなあ。
取り敢えず、アイスを食い終わりさっき親父が渡していたおもちゃ
で遊び始めた太朗と親父チームに加わることにした。
帰り際、母ちゃんがお土産にとたこ焼きを準備しに行った。
太朗にトイレを借りて良いかと彼女が言ったが、親父が﹁うちの便
所は汚ねえからお前が連れて行け﹂と俺に命令した。
あんなことを言ったとばれたら母ちゃんに殴られるのは確実だ。直
前に親父が汚したのかと、内心親父に悪態をつきながらトイレに太
289
朗を連れて行ったが、別に汚れてもいなかった。何がしたいんだ親
父。
親父がコンビニの店長と友人だという新事実により、彼女の車はコ
ンビニに置かせてもらっていた。
言われずとも送るが、3人で自然にドアの外に押し出された。
彼女と両親が別れの挨拶をし、太朗と両親もばいばいとタッチをし
ていた。
完全に真っ暗になってしまっていた夜道を、太朗を抱いて歩き出し
ごめんな。遅くまで﹂
た。
﹁
全然。楽しかったし、もともとお兄ちゃんとご飯行ってから帰
彼女が薄く笑った。
﹁
るつもりだったし。断られたけど﹂
わざとらしく言う彼女は、また微妙な顔をしていた。困った様な、
その顔するから断ったんだよ。なあ太朗、母ちゃん変な顔だよ
悲しい様な、気まずそうな、変な笑みだ。
﹁
な﹂
俺の首に掴まっている太朗にそう言うと、太朗が体を傾け彼女の顔
おかーしゃんへんなかおー﹂
を覗き込んだ。
﹁
お母さん可愛いでしょー?
﹂
面白そうに笑う太朗に、彼女が頬を膨らませた。
﹁
おかーしゃんへんなかおー﹂
太朗がまた笑う。
﹁
これは不味いな。いらんことを教えてしまった。彼女がふくれっ面
のまま俺を睨んでいる。上目遣いで睨まれたって可愛いだけだけど、
太朗がこれから先ずっとこのネタで彼女を笑うと流石に申し訳ない
290
太朗。母ちゃんは変な顔でもいつも可愛いんだぞ。お前の母ち
し、太朗の耳元に小声で言い聞かせた。
﹁
しょうしょう。ぼくのおかーしゃーん、いちばーんかわいーな
ゃんが一番可愛いんだからな﹂
﹁
もん、ねー﹂
めちゃくちゃにっこり同意を求められたので思わず頷いたが、太朗
のでかい声は当然彼女にも思い切り聞こえているはずだ。俺が頷い
たことは彼女には不快だっただろうか。
彼女は前を向いていて表情を読むことは出来なかった。たぶん変な
俺が誰を可愛いと思っても勝手だろ。変な顔でも可愛いけど、
顔をしているのだろう。
﹁
俺が居る所為でその顔なのかと思うときついんだよ﹂
返事を期待した訳ではなかったが、言い訳がましく呟くと、彼女が
確かにあなたが居る所為でこんな顔なんだけど、さっきあなた
急に立ち止まり、俺の顔を真っ直ぐ見上げた。
﹁
が言ったみたいにあなたを哀れんでるわけじゃない。どっちかと言
うと自分が可愛そうだったのよ。でも今はちょっと混乱してて、そ
れでこんな顔なのよ﹂
始めてお兄ちゃんではなくあなたと呼ばれたことに動揺したが、説
﹁
嫌﹂
ごめん。分からない。もうちょっと具体的に言って﹂
明がさっぱり理解できずそれどころじゃない。
﹁
嫌ってなんだよ。ちょっと!俺さっぱり分かんねえよ。良いの
彼女は潔く即答し、また前を向いて歩き出した。
﹁
黙ってて、今考えてるの。太朗としゃべってて。太朗、お兄ち
?俺が分かんないままで。俺付きまとうかもよ。なあ太朗﹂
﹁
ゃんに幼稚園のお話してて。今日何して遊んだの?﹂
俺を見もせずに邪険にあしらわれた。まただ。俺はやはり宮本と同
じ扱いに降格か。
291
﹁
きょうねえ、あっちゃんがねえ。にんじゃのへんしんしたー﹂
普段の就寝時間を過ぎているはずなのに、車内で寝たせいかやけに
元気な太朗が、幼稚園の話を延々聞かせてくれた。
今夜なら根掘り葉掘り彼女の気持ちを追求出来そうな気がしたのに
残念だった。
彼女は俺の方をろくに見もしないでプールと食事の礼を言うと、い
つもの様に笑顔でまたねと手を振ることもなくさっさと帰って行っ
た。彼女が俺の腕の中で泣いた後、近づいたような気がしていた距
離が、また一気に開いたようで辛かった。
﹁
今晩は﹂
はい﹂
次の日の夜、彼女から着信があった。
﹁
﹁
急なんだけど明日、予定ある?﹂
どうしたの?﹂
彼女の声が今まで聞いたことがないほど硬かった。
﹁
何もないけど。どうした?﹂
太朗関連の誘いなどではないようだ。
﹁
これは、もう、駄目なのかも知れないな。
ベッドに仰向けに寝転んだまま、目を瞑って彼女の次の言葉を待っ
ちょっと話があって、どこかでゆっくり話したいんだけど﹂
た。
﹁
期待が持てる様な雰囲気じゃない。いくら俺が高校生で、初めての
恋で、何の経験もない馬鹿でもそれくらい分かる。もう会わないよ
うにしようとか、わざわざそう言う話をしたいんだろうか。無意識
ああ、そうなの。良いよ﹂
に酷く冷たい声が出た。
﹁
292
﹁
ありがとう。じゃあ、明日迎えに行くね。何時頃が良い?﹂
わずかにホッとした調子を滲ませた彼女に対して意地の悪い気持ち
夜﹂
で答えた。
﹁
じゃあ、来週末に良い?﹂
しばらく沈黙した後、彼女がまた凄く硬い声で答えた。
﹁
﹁
分かった﹂
冗談だよ。昼で良い。じゃあ昼飯食った後ね﹂
苦笑しながら彼女を遮った。
﹁
良かった。最後に少しは優しげな声が出せた。彼女がまた泣いてな
きゃ良いな。
電話を切った彼女の、強張った悲しそうな表情が想像できる。こん
な彼女じゃ、勝手に好きでいるのも難しいかな。携帯を床に投げ捨
てて、ぎゅっと閉じた目元を両腕で覆った。とても、哀しかった。
293
ちょっとどうしたの?︵前書き︶
すみません。遅くなりましたー。
294
ちょっとどうしたの?
驚くことに、でも考えてみたら当然のことに、彼女は初めて太朗を
太朗は?﹂
伴っていなかった。一人だったのだ。
﹁
﹁
連れてくれば良かったのに﹂
無理言って家に押し付けてきた﹂
不思議に思って問う俺に運転席の彼女がすこぶる硬い声で言った。
﹁
﹂
だって太朗がいたら気になっちゃって、落ち着いて考えられな
呆れて言う俺に彼女がまた緊張したような横顔で答えた。緊張?
﹁
何を考えるの?﹂
いのよ﹂
﹁
まあいいけど、どこ行くの?
俺が聞くと黙り込んでしまった。
﹁
﹁
いや、別に﹂ あなたと一緒だったらどこでも良かったんだけ
どこか行きたいとこある?﹂
彼女は初めてちらりとだけど俺の方を見た。
﹁
じゃあ取り敢えず出すね﹂
ど、今日で最後なのかもね。そう思うと面白くなくなった。
﹁
彼女はそれから一言もしゃべることなく、一時間近く車を走らせ続
けた。
だんだんと緑の多くなっていく風景を眺めて、こっそり彼女の横顔
を盗み見て、沈黙の車内を最初のうちこそまったりと、それでいて
これからの展開を想像し辛くもなりながら過ごしていたがそろそろ
ねえ、どっか目的があって走ってんの?﹂
耐えられなくなってきた。
﹁
どうも俺の存在を忘れられているような気がして、こちらを見向き
295
もしない彼女に声をかけた。
やっぱり、俺が乗ってんの完全に忘れてたろ。俺乗ってる意味
彼女ははっとして、こっちを振り向いた。
﹁
あんの?﹂
流石に嫌味っぽい言い方になった。こんなに長く忘れられてたらそ
りゃ嫌味のひとつも言いたくなる。
ここどこ﹂
しかし彼女は聞いていなかった。
﹁
愕然とした彼女を見て、俺も愕然とした。なんだって?
﹁
えー。自分で運転してたんだろ?1時間くらい走ったよ﹂
ごめん、考え事してたら、ねえ、どのくらい走ったの?﹂
﹁ なに﹂
﹁
うそー!どこー!ここどこー!?﹂
彼女はうろたえて叫び始めた。
﹁
道なんか誰かその辺の人間を捕まえて聞けばいいんだからと、彼女
そうだね。良かった。一生戻れなくなるかと思った。ところで
を納得させ落ち着かせるために路肩に車を止めさせた。
﹁
本当にここ何処なんだろうね﹂
落ち着きを取り戻した彼女の言葉に周りを見渡すが、なんだかだだ
っ広い山の中の主要道路って感じで遠くに民家はぽつぽつ見えるけ
どっか店でも入らないと道聞く人間に出会えないかもな。適当
ど車以外の姿がなかった。
﹁
に進んでみよう﹂
しばらく行くとコンビニがあった。山の中でもコンビニが溢れてい
る時代でよかった。
コンビニの店員に道を尋ねると地図を出して現在地を説明してくれ
た。
296
彼女は、俺を拾ったコンビニからただひたすら北上してきた様だっ
良かったー。なんとか帰れそう。帰ったら絶対ナビつけよう﹂
た。とにかく帰り道は簡単だった。
﹁
ごめん。呼び出しておいてこんなことしちゃって﹂
それから俺の方を向いて情けない顔をした。
﹁
良いよ別に気にしないで。ドライブしただけだろ﹂
硬い声と表情がハプニングの所為で少しは和らいでいた。
﹁
さっきの店員足湯あるって言ってたじゃん。行ってみようよ﹂
まあ一言も会話のない寂しいドライブだったけどな。
﹁
眉尻を下げ、物凄く変な顔をした彼女が頷いた。
コンビニでもらったすごく観光する場所の少ない観光マップに頼り、
だーれもいないな﹂
足湯を見つけた。
﹁
細長い形の東屋の下に通された澄んだ湯からは湯気が昇っているが、
いないねえ。すごく綺麗だけどねえ﹂
人っ子一人いなかった。
﹁
彼女が見ているのは湯ではなく景色だった。足湯につかりながら山
からの景色が一望できるように設計されているらしい。一望と言っ
ても、山しか見えないが。まあ視界がほぼ緑と空色でいっぱいって
もうちょっとしたら紅葉でお客さんが増えるんだろうねえ、き
いうのは思いの他気持ち良かった。
﹁
っと﹂
なるほど、紅葉か。今まで紅葉など漢字の読み方以外で俺の頭に登
場したことはなかったが、確かにここから紅葉が見られれば絶景だ
そうだな﹂
ろうな。
﹁
足湯入る?タオルはあるよ﹂
彼女が俺を見上げた。
﹁
297
﹁
ああ、せっかく来たから入る﹂
俺が言うと、彼女は車の後部座席に頭を突っ込みタオルを引っ張り
乗せっぱなしで良かったー。あ、太朗のお腹にかけただけだか
だした。
﹁
ら汚くはないと思うよ﹂
こういういい加減なところを見ても、もはや可愛いと感じるだけだ
な。
これから、もう会わないと告げられるのだと覚悟しているはずなの
に、彼女を諦められる気は全くしなかった。どうすりゃいいんだろ
うな。
並んで足湯の淵に腰掛けると、彼女がパンツの裾を捲った素足を湯
あー気持ちいー﹂
に浸けた。
﹁
彼女が思わずと言った風に溜息混じりで呟いた。変なことを想像し
てしまわぬよう、彼女の足から視線を逸らし前方の景色を眺めた。
山しかない。手前にも向こうにも山だ。しかし良い気分だった。
時折涼しい風が吹き抜け、揺れる彼女の髪が視界の隅に入った。木
の枝葉が揺れる音と、鳥の声くらいしか聞こえない静かな場所で風
に吹かれていると、その風が心の中のわだかまりやもどかしさを洗
い流していくようだった。しばらく二人とも無言で景色を眺めてい
た。
おわ!?﹂ 暖まって眠くなってきたな、そう思った時だった。
﹁
不意に隣の彼女の身体が前に傾いだ。
ちょっとどうしたの?﹂
焦って捕まえ引き寄せると、ぐったりと俺の身体にもたれてきた。
﹁
尋ねるが反応がない。俺の膝へ崩れ落ちそうになる彼女の身体を抱
298
マジで?寝てんの?﹂
えなおし、顔を覗き込んだ。一瞬目を疑い、そして安堵した。
﹁
彼女はすやすやと居眠り中だった。まあ、失神とか発作じゃなくて
良かったな。びっくりした。
彼女の身体を抱えなおし無理のない体勢を探す間も、一向に起きる
気配はなかった。
酷い音を立てている俺の胸にピッタリと頬をくっつけて、気持ち良
さそうに寝ている。
まあ、もう、これでいいか。起こさない方がいいよな。運転帰りも
長いし。
背をもたれる壁さえもなく楽とは言えなかったが、自分の後ろにつ
いた腕で俺の胸にもたれかかる彼女を支える形に落ち着いた。
俺は座椅子だ。だから手を回してはならん。手で彼女を触るのはア
ウトだ。
と最初に決意したものの、あのおんぶ以外で自分の身体にこれほど
好きな異性を密着させた経験もなかった俺が、長時間耐えられるは
ずもなかった。
一昨日抱きしめたときは俺の胸と彼女との間に彼女の腕があったし、
彼女はかなり身体を緊張させていたのだろう。
おそるおそる背中に手を回してみると、彼女の身体は驚くほど華奢
でふにゃふにゃで、柔らかくて頼りなかった。まるで子猫を抱きし
めているようだった。
俺の着ているTシャツ1枚と彼女の薄いブラウスごときでは、到底
彼女の身体の感触は遮れず、やはり出ているところが柔らかく自分
の身体に押し付けられ意識せずにはいられなかった。
片手を彼女の背に回したまま、俺の顔のすぐ近くにある彼女の頭を
撫でてみる。髪を触っても身動きすらしない彼女の頭を手のひらで
包みぎゅっと胸に押し付けた。
どうにも止まらず彼女の髪に唇を押し当てた。息を吸い込むと汗と
299
シャンプーの甘い匂いがした。
何やってんだ俺、変態だ。
慌てて両手を自分の後ろに戻し、もう一度彼女に触らない努力を始
めた。
300
起きて
しばらくすると尻が痛くなってきた。身体も彼女を支える為不自然
に捻っているのでそろそろ辛い。湯に浸かりっぱなしで暑くもある。
彼女も固いコンクリートの腰掛に居心地が悪いのか、何度か身動ぎ
し、終には両足を湯から上げ俺を枕に寝そべろうとしていた。
信じられねえ、今から振ろうとしてる男にもたれて爆睡とか。しか
も俺は二度も勝手にキスした前科もちなのに。俺にされたことなど
憶えてもいないと体現されているようでだんだんとムカついてきた。
それに、このまま彼女の顔が俺の腹の方にずり下がっていくととん
ねえ﹂
でもないことになる。
﹁
伸びた横座りの体勢で俺の胸にもたれる彼女を呼んだ。
彼女にこうやって触れられるのも最後だろう。彼女の小さい頭に手
起きて﹂
の平をのっける様に叩いた。
﹁
彼女が俺にもたれたままゆっくりと目を開いた。
俺の胸に頬をぺたりとくっつけたままの彼女は、しばらくぼんやり
と俺のTシャツを眺めていた。
状況が分からないのだろう、未だ寝ぼけたように不思議そうな顔を
している。さっきムカついたばかりだが、彼女の様子が可愛くて面
白くなってきた。
彼女が勢いよく身を起こした。俺の太ももと腹に手を突っ張り、こ
ちらを向いた彼女は目をまん丸に見開いている。思わず吹き出して
よ、よだれついてるよ﹂
しまった。
﹁
笑いを堪えながらそう言うと、彼女があわてて手の甲で唇の端を拭
301
あたし寝てた?﹂
った。
﹁
寝てた。30分以上寝てた﹂
結局耐え切れず、声をあげて笑いながら答えた。
﹁
うそ。信じられない、何で起こしてくれないのよ﹂
彼女が愕然とした。
﹁
俺を睨み非難する彼女は、まだ俺の腹についた手で身体を支えてい
信じられないのはそっちだろ。男を枕にしてどんだけ寝てんだ
る。自分が爆睡していた衝撃でそこまで気が回らないのだろう。
﹁
よ。しかも俺起こしたし﹂
枕って・・・﹂
まあ、起こしたのはたった今だけど。起こしたことには違いない。
﹁
彼女が嫌そうな顔をして俺の身体に視線を落とした。俺が枕で嫌だ
ああ!よだれー!﹂
ったのかよ。そう口にしかけた時、彼女が小さく叫んだ。
﹁
俺の右胸あたりに彼女のよだれの染みが出来ていた。彼女はタオル
を探してきょろきょろし、自分の腹に掛かっていたそれを見つけて
一瞬固まった。すぐに動き出した彼女は、そのタオルで俺の胸を押
ごめーん﹂
さえた。
﹁
先ほど理不尽に俺を責めた可愛げのない声が一転し、非常に情けな
いいよ、すぐ乾くし。それより自分の顔拭いたら﹂
い様子だった。可愛くてしょうがない。
﹁
まだついてる。跡になってるよ﹂
俺がそう言うと、怪訝な表情で俺を見上げた。
﹁
彼女の口元を見ながら言うと、視線で理解した彼女がタオルで口元
をごしごしとこすった。検討違いの部分が赤くなるばかりですでに
ここだよ。子供みたいだな﹂
乾いた白い跡は全く取れる気配がない。
﹁
302
彼女の右頬に指を伸ばし、口元に親指で少しだけ触れた。彼女の頬
はしっとりとして驚くほど柔らかかった。彼女が瞼を少し下げ大人
﹁
・・・お湯いっぱいあるんだったわ。顔洗う﹂
取れない﹂
しくしているので、軽く跡をこすった。
﹁
俯いたままの彼女がそう言って俺の腕を押し離れようとしたが、咄
何言ってんの?足湯だよこれ。さすがに足湯で顔洗うのは駄目
嗟にその腕を掴んでひき止めた。
﹁
だろ﹂
だって、よだれつけて帰れないでしょ。温泉だって皆の足浸か
それはいくらなんでも可愛くない。
﹁
ってるじゃん﹂
浸かってるけど、一応洗った後だろ。気分的に足湯は何か駄目だよ。
彼女が膨れっ面で俺を見ている。ほんと可愛いなあ。足湯で顔洗う
って言ってる女が可愛いなんて、自分が信じられないな俺。
彼女は膨れてはいたが、俺に腕を振りほどこうとはしなかった。そ
の手で彼女を捕獲したまま、反対の手の平でよだれのついていない
何?﹂
頬を支えた。
﹁
彼女が不穏な空気を察して今更身を引こうとするが、腕も頭も固定
されていて叶わない。
そんな緩い抵抗じゃ駄目だよ。俺、子供だけど、男だよ?
自分の顔をゆっくりと彼女の右頬に寄せて、彼女の唇の端からのび
る白い筋を舐めた。
掴んでいた細い腕を緩め親指でそっと撫でてみたが、彼女はぎゅっ
と目を閉じ、動かなくなった。もう一度、小さな顎から口元に向か
って舌先でなぞり、そのまま強張った唇に自分のそれを押し付けた。
このままどうにかしてしまいたい。彼女が今何を思っているかなん
303
て考えずに、もっともっと強く唇を押し付けて、彼女の濡れた口の
中まで感じてみたかった。柔らかい身体をまさぐって、好きなだけ
キスしていたかった。でも、そんな事して、一体何になる。
実際は、もどかしいほど軽く、ぎこちなくふれたままのキスだった。
せっかくくっついていたお互いの唇が剥がれていくのを名残惜しく
思いながら、ゆっくりと顔を離した。
304
起きて︵後書き︶
ここまで読んでくださってありがとうございます。
後4話ほどで完結予定です。
305
とれたよ﹂
違う。間違えた
﹁
そう言って、彼女が片手に握り締めるタオルの端で、彼女の口元を
拭ってやった。
彼女はめちゃくちゃ怒った顔をしてはいたが、やはり抵抗という抵
そんなんだから、宮本にもやられそうになるんだよ﹂
抗はなかった。
﹁
触るのは最後だと肝に銘じたにも関わらずキスまでしてしまった自
分を棚に上げ、呆れと腹立ちから思わずそう呟くと、突如彼女がキ
はあ!?何?﹂
レた。
﹁
つい先ほど怒っていると感じた顔は、彼女のキレ具合でいくと可愛
いものだったらしい。本物に遭遇したことはないが、顔の可愛いヤ
ンキーに睨まれているような気分になった。
でも彼女は彼女だし、例え夜中の公園にたむろす得体の知れないヤ
気のない男に禄に抵抗もしないで触らせてんだろ。そんなんじ
ンキーの一人だとしても別に怖くもない。
﹁
ゃ宮本がやっていいんだって思ったって仕方ねえよ﹂
彼女はキレ顔に悔しそうな、そして傷ついた様な表情もくわえて、
いってえ!﹂
予想外の行動に出た。
﹁
ごめん、あんまりムカつくこと言うからつい。子供じゃないん
信じられないことに、思いっきり俺の脳天に拳骨を落としたのだ。
﹁
だからビンタにするべきだったね﹂
渾身の力で俺を殴ってスッキリしたのか、自分を睨みつける俺に向
306
何考えてんだよ!押さえられたら動けもしねえくらい非力なく
かって憎たらしい顔の彼女が飄々と言い放った。
﹁
せに!男相手にこんな場所でこんなことして、怒らせたら何される
か分かんねえだろ!﹂
この期に及んで危機感の欠如している彼女に腹が立って怒鳴ると、
煩い!分かってる!何されても文句言わないからやってんのよ
再び彼女がキレ顔で怒鳴り返してきた。
﹁
!サダオには死ぬ気で抵抗するし、大体二人でこんなとこには来な
い!﹂
何を言われたのか理解が追いつかないうちに、宮本のところが引っ
﹁
酔ってて動けなかったからよ!知ってるでしょ!?素面だった
二人でホテルにいただろ!﹂
かかった。
﹁
ら他の男には指一本触らせないし、もう飲まないって約束した!﹂
叫び続ける彼女の顔がだんだん赤くなり、何故か可愛かったので、
俺は気を静めて考えた。確かに、阿呆宮本ホテル連れ込み事件の時
彼女は歩けないほど酔ってた。あれで抵抗は無理だな。それで、も
う飲まないって。で、素面の時は他の男には触らせないんなら何も
え?他のって何?なんで俺は触って?あれ?何されても文句言
問題は、ない、って、あれ?
﹁
わないって言った?俺に?﹂
何かこんがらがってきたが、頭を掠めた限りなく有り得ない可能性
に囚われて、心臓が激しく打ち始めた。
彼女を窺うと、俺からすこし距離をとり、相変わらず赤い顔をして
ねえ。良く分からなかった。もう一回言って﹂
怒っている。
﹁
嫌﹂
ゆっくり頼むと、彼女が瞬きをした。
﹁
がっくりした。なんでここで嫌?
307
﹁
何で?﹂
いーやーだ!﹂
彼女は顔をしかめてもう一度言った。
﹁
子供じゃないんだからさ。じゃあちょっと来て﹂
思わずため息が出た。舌打ちじゃなかっただけマシだろう。
﹁
彼女が反射的に立ち上がって逃げようとしたが、予想していた俺は
負けない素早さで立ち上がり難なくそれを捕獲した。
もがく非力な彼女を正面からぎゅうっと抱きしめる。政木が言って
いたように、本気で拒むなら金的が出るタイミングだが、彼女はも
がくことさえ止めて大人しくなった。
・・・ねえ、もしかして、俺から何されても嫌じゃないってこ
これは、やっぱり、もしかしたら。
﹁
と?﹂
早く答えを聞きたくて気が焦るが、望んでいるのと違う答えだった
らと、不安で胃が冷えるような心地がした。
返事をしない彼女の顔を覗き込む様にすると、彼女は無理矢理横を
返事しないならここで押し倒すよ﹂
むいて俺から顔を背けた。可愛い反応に心臓が破れそうだ。
﹁
我ながら子供っぽい脅し文句を吐いてしまったが、すぐに答えてく
れない彼女がもどかしい。ねえ、どっち?俺は嫌じゃないの?視線
嫌じゃない﹂
を逸らしたままの彼女が小さな声で答えた。
﹁
期待で心臓が有り得ないほどばくばくし続けているし、上手く息も
吐けない。俺は大丈夫なんだろうか。
それ、俺だけ?﹂
何されてもって?何されても?押し倒されても!?
﹁
え!うわ!マジで!?ええと、それって、俺以外の男には触ら
彼女がしばらく躊躇った後、腕の中で確実に頷いた。
﹁
308
せないってこと?﹂
間は有ったが、彼女の頭が再び小さく頷いた。歓喜で気がおかしく
なりそうだった。今日でお別れかと思ってたのに!
彼女を抱きしめる腕に力を込め、思わず彼女の髪に顔を突っ込む様
に押しつけた。彼女は肩をすくめたが、嫌がっている風ではなかっ
た。押し返される感じもしなかったし、逆に俺の肩に頬を擦りつけ
嬉しい!俺めちゃくちゃ嬉しい。どうしよう、嬉しすぎて死に
て来た様な気がして凄く興奮した。やった。やった。やったぞ!
﹁
そう﹂
何?どうしたの﹂
彼女が急に腕の中でばたばたしだした。
﹁
今までろくに抵抗しなかったくせに今になって何をやってるんだ。
俺の胸に手を突っ張る彼女の力など何の威力もなかったが、本気で
違う。こんなはずじゃなかった。間違えた﹂
抵抗している様子だったので一応腕を解いた。
﹁
彼女が泣きそうな顔でそう言った。
309
どういうこと。間違えたって﹂
もうそこ諦めてよ
﹁
もう一度足湯の淵に腰を降ろした彼女は、悄然と俯いていた。
言おうと思ってたことと違うことを言っちゃった﹂
もしかして俺が喜んだことを取り消されるのか?今更?
﹁
何。もしかして、俺を好きなのに振るつもりだったの﹂
あからさまに後悔の滲む口調に苛ついた。
﹁
胡坐をかいて向き合う俺を避けるようにしていた彼女が、俺の言葉
す、好きって﹂
にばっと振り向いた。
﹁
違うの?﹂
否定するような困ったような顔にムカついて、更に低い声が出た。
﹁
一瞬言葉に詰まった彼女は、また俺から視線を逸らし前を向いてし
何で?俺が高校生だから?﹂
まった。
﹁
横顔の彼女はぎゅっとへの字の唇を引き結んだまま返事をしない。
きっとそうなのだろう。思わず深いため息が出た。
﹁ねえ、もうそこ諦めてよ。俺他のことは頑張るよ、早く稼げるよ
うになるし﹂
けど、年だけはどう頑張っても早くとることは出来ない。まして、
それに、好きになれてんなら別に年下でも問題ないじゃん。何
追いつくなんてことも有り得ない。
﹁
で俺じゃ駄目なんだよ?﹂
もうこうなったら説得だ。押して落とそう。なんか彼女もぐらぐら
してる気がする。
310
﹁
俺、好きだよ。ずっと好き。太朗と自分をずっと好きな男が良
いって言ってたろ?﹂
稼ぎの件も何とかする。俺、親父の仕事手伝うことにしたんだ。
やっと彼女が俺を見た。困ったような泣きそうな顔だ。
﹁
親父、フリーでwebデザインとかSEとかやってんだけど、高校
卒業したら仕事手伝えるように、親父に頼んでもう勉強してる﹂
事実だ。適当なことを言ってる訳ではない。親父にある程度稼げる
仕事により早く就く方法を相談した結果、随分前から一人では手が
足りなくなっていたらしい親父から打診されたのだ。本気でやるな
ら手伝わせるけど、と言われ親父の適当な適正検査を受けた結果、
本格的に勉強を始めることになった。
良かった、適正無しの判定を下されてなくて。ここでの説得に関わ
るところだった。と言うか、中学まで作業する親父にくっついて色
々やらされていたおかげで基本的な知識は有ることが判明した。上
手く行って興味を持てばやらせようとこっそり親父に企まれていた
らしいが、それが俺にとっても都合の良いことになった。
それでも俺が知ってることなんてたかが知れてる。卒業まで死ぬ気
で勉強して、今手伝ってくれてるバイトさん達並みにやれるように
﹁
え?﹂
聞いた﹂
なっていたならって言う条件付きだ。
﹁
聞いたのよ。一昨日お父さんに﹂
彼女が俺の顔をじっと見たまま、予想外のことを言った。
﹁
彼女が困ったような顔のままでそう言った。予想外すぎて言葉が続
かなかった。いつの間に?あ!あの便所云々の時か!
俺が勝手なことをした親父に対して憤っていると、彼女が何故か今
それで、ちゃんとしなくちゃって思って、色々考えて昨日一昨
にっこり笑った。
﹁
日良く眠れなくて。で、今日寝ちゃった﹂
311
﹁
寝ちゃった。って、可愛い顔で言ってる場合じゃないだろ。考
えてたことの結論は﹂
彼女は俺の問いを無視し、また正面を向いて緑の景色に目を向けて
﹁
はあ?何迷惑って。もしかして太朗のこと迷惑とか言ってんな
あたし、お兄ちゃんに迷惑かけるの嫌なのよ﹂
いた。そして、しばらくしてからしゃべり始めた。
﹁
ら、俺怒るよ?﹂
彼女の後ろ向きな台詞に剣呑な口調になったが、彼女は俺を見ない
違う。お兄ちゃんがそういう人だってことはもう分かってるし。
まま薄く微笑んで続けた。
﹁
きっと太朗はずっと可愛がって貰えるよね。そうじゃなくて、あた
しの所為でお兄ちゃんの将来の道を狭めるのが嫌なの。だからって、
あたしはお兄ちゃんに好きなことして貰いながらひたすら待ってら
れるような健気な性格じゃないし﹂
将来の道を狭める?それは、俺が親父の仕事を手伝おうとしてるこ
後で恨まれても嫌だし。それに、お兄ちゃんの所為であたしも
とか?
﹁
迷惑をこうむりたくない﹂
迷惑かもって思ってたけど、直接言われるとムカつくな﹂
真面目に言われてムカついた。
﹁
でもムカつけるのはさっき俺の腕のなかであんな可愛い姿を見せて
何がどう迷惑なの?高校生の彼氏じゃ周りの目が痛いから?﹂
くれたからこそだ。じゃなきゃ相当凹んでた。
﹁
まあ、確かにそれも大きいけど。高校生じゃなくなっても周り
彼女はようやく俺の方を向いた。笑んではいるが変な顔だ。
﹁
けど何?他は?何が迷惑なの﹂
の目は気になるだろうしね﹂
﹁
付き合い始めたとしてさ、もし、あたしがこれから物凄くお兄
彼女が悲しそうな変な顔のまま、にこっと微笑んだ。
﹁
312
ちゃんを好きになるとするじゃない?それなのに、結局何年後かに
振られるんなら凄く迷惑よ。あたし後がないから、一時の恋じゃな
くて結婚相手を探したいし﹂
呆れた。確かにそれは迷惑だろうが、俺は彼女を数年後に振るつも
りだとは言っていない。それに、仮定の話に聞こえない。
もう既に結構俺を好きなのに、いつか振られるのが嫌で先に俺を振
ろうとしてるんじゃないのか?
﹁そんなの誰と付き合ったって一緒だろ。いや、一緒じゃない、俺
が一番安全だ。俺が振るなんて有り得ない﹂
そんなこと言ったって、信用しようがないし。大体あたしのこ
彼女が胡散臭い目を俺に向けた。全く信用されていないようだ。
﹁
とまだそんなに知らないでしょ。しかも若くて優しくて良い男で、
これからあたしより若くて可愛くて性格も良い女が死ぬほど寄って
くるのよ。あたしが振られないわけないわよ﹂
ネガティブだな。そっちこそ俺のこと知らないだろ。優しくも
また俺から目を逸らしながら彼女が自嘲気味に言った。
﹁
良い男でもないから、女なんか寄って来ないし。勝手に勘違いした
うえに振るなよ﹂
悪かったわねネガティブで。ついでに言うけど、あたし我侭よ。
思い切り睨まれた。
﹁
色々頑張れないし、弱いし、文句も多いし、いい加減で、情けない
し、しかも我侭だし﹂
我侭二回言ってるけど﹂
可愛いなあ。なんでこんなに可愛いんだろう。
﹁
それだけ我侭なのよ!全部知ってて好きって言ってくれるなら
ニヤニヤしながら言うと、彼女がまた俺を睨んだ。
﹁
少しは安心だけど、そうじゃないから!﹂
泣きそうな怒り顔で捲くし立てる彼女の腕を掴み、抵抗されたが無
理矢理引き寄せて抱きしめた。
313
やっぱり抱きしめてしまえば、大人しくなった。
314
大丈夫。そんな感じの人だって思ってるよ。可愛いじゃん、我
駄目になったじゃん!
﹁
侭もっと言ってよ。我侭と文句は結構我慢してたんじゃない?我侭
は可愛いだけだし、まあ文句言われたら喧嘩にはなるかもしれない
けど、喧嘩しても好きだよ﹂
絶対大丈夫。騙されたと思って信用してよ。俺が振られない限
彼女が俺の腕の中で俯いて固まった。
﹁
り大丈夫。今日振られても勝手に好きでいるつもりだったから、気
持ち悪いぐらい大丈夫。俺に慣れて、扱いが宮本並みに邪険になっ
たって好きだよ。ならない方が嬉しいけど﹂
彼女はまだ顔を上げない。でも離れて行く気配もないので腕の力を
緩め、彼女の頭をよしよしするように撫でながら顔を覗き込んで尋
ねえ、まだ信用出来ない?俺、将来を狭められたなんて思って
ねた。
﹁
もみなかったよ。泳ぐ以外にそんなにやりたいことって今までなか
ったし。泳ぐのは一生勝手に泳げるし。今やりたいことって言った
ら、振られない様にどうにかしたいってだけだよ﹂
彼女が何も言わず大人しくしているので、もう一度細い肩をぎゅっ
俺、高校生で駄目なんだったら、とにかく早く稼げるようにな
と抱きしめた。
﹁
ろうと思ったんだ。でも高卒で適当なとこに就職したって、俺を選
んでもらえる様な稼ぎに届かないかも知れないし。だからって大学
行ってたらその間に絶対誰か他の男のとこ行っちゃうだろうし。色
々悩んでたから、親父が俺の計画の役に立つ仕事してるって分かっ
て、思わず親父にハグするぐらい嬉しかったんだ。まあ、ハグした
のは失敗だったけど﹂
315
﹁
ああ、親父が喜んじゃって、一層鬱陶しく・・・﹂
どうして?﹂
彼女が俯いたまま小さく笑った。
﹁
﹁
ああ、そう?あ!そうだよ。良い親だと思うよ!だから俺、自
本当に良いご両親よね﹂
うんざりした調子で言うと、彼女の笑い声が僅かに大きくなった。
﹁
分で言うのもあれだけど、年以外は本当に優良物件だと思うよ。う
ちの親、太朗のことも大好きだしさ。でも、色々口出しするような
ことは絶対ないよ。いや、口出しはするだろうけど、ぼろ糞に否定
してもあいつら全く気にしないし、嫁いびりとかも絶対無い。あっ
たら縁を切る﹂
勢いづいてまくし立てると、俺の胸に額をくっつけたままの彼女が
あははは、待って。もういい!﹂
本格的に笑い出した。
﹁
何、もういいって。嫌だよ。俺を彼氏にするって言うまで離さ
彼女が俺の胸をばしばし叩いて言った。
﹁
ないからな。いや、俺と結婚するって言うまで離さん!﹂
彼女は笑うのを止めて、俺のTシャツを掴んで自分の目元に押し付
どうした?うわ泣いてんの?ああごめん、泣かないでよ。ええ
けた。
﹁
っと、今日は保留で良いけど、前向きに考えて。高校生だから駄目
って言うのを取り消して俺に口説く権利をくれればそれで良いこと
にする。から、泣かないで﹂
ごめんって!﹂
譲歩の甲斐なく、彼女が嗚咽を漏らし始めた。
﹁
どうして良いか分からず、俺のTシャツを掴んだままの彼女の揺れ
る肩と背中を擦った。
細いのに、柔らかくて、酷く頼りなくて、切なくなるくらい愛しか
った。
316
しばらく泣いた彼女は、不意にスッキリした表情で俺の胸からぐち
ごめん、化粧がついちゃった﹂
ゃぐちゃの顔を離した。
﹁
大して悪いとも思っていない調子でTシャツをこすりながらそう呟
くと、片手にタオルを持ったまま、顔も見ずに俺の両肩に手首を置
え?﹂
いた。
﹁
そのまま、腕を滑らせて彼女が身体を寄せてくる。これは、抱きつ
かれる。彼女の腰に腕を回しながらそう思った。
予想通り、彼女は俺の首に腕を回し俺を引き寄せた。彼女の緩い力
に全く抗えなかった。
細い腕でぎゅうっと締め付けられた俺の首に、彼女の柔らかいしっ
とりとした頬がくっ付いている。そして更に、温かい彼女の息がう
なじに掛かった。
うわ、これは。彼女の頼りない身体を腕ごと自分の胸に抱きしめる
のもひどく愛しい気持ちになるが、これは、本当に、心臓に悪い。
動悸が激しすぎて息をするのが困難だった。
彼女が俺の首筋に顔を埋めているということは、必然的に俺の顔も
彼女の首元に接近していた。残念ながら彼女のうなじは髪に隠れて
いたが、甘い匂いのする髪の上からうなじの位置に唇を押し当てた。
身体が震えるほど興奮したが、俺が胡坐をかいていたのと、彼女が
足湯に足を下ろしたままだった事が幸いした。これで全身が余すと
ころなく密着していたら間違いなく俺はおかしくなってる。
首元に感じるぞわぞわする様な吐息と共に、くぐもった彼女の声が
お兄ちゃんといると、凄く甘やかされて、自分がどんどん駄目
した。
﹁
になる気がするのよ﹂
静かな。だが少しだけ俺を責めるような声音だった。
317
﹁
﹁
ないと思ってんの?信じられない﹂
甘やかしてなんか﹂
彼女が顔を浮かせて久しぶりに俺に目を合わせた。あまりの近さに
もともと甘えてて駄目な人間だったのに、太朗が生まれてから、
戸惑うが、彼女はすぐにまた俺の首元に顔を戻した。
﹁
頑張ってたのよ。でも、お兄ちゃんに甘やかされ始めて、もう本当
に駄目よ﹂
淡々としていた口調が、徐々に彼女の言葉どおり甘えているような
駄目なの。もう、誰かに近くにいてもらわないと駄目。こうや
ものになり、それが嬉しかった。
﹁
ってくっ付いて、温かい大きい身体で安心させてくれる人がいない
と駄目、駄目になったじゃん!お兄ちゃんの所為で!﹂
甘かった台詞があっと言う間に腹立たしげなものに変わり、非力な
そんな顔しても可愛いだけだけど﹂
がらも精一杯と思われる力で肩を押され、睨まれた。
﹁
俺が彼女の腰に腕を回しているので、仰け反ったところで大して離
れられない。彼女は俺に顔を見られたくないとでも言うように俯い
﹁
嫌よ。放して﹂
顔見せてよ﹂
た。
﹁
頑なに俺から顔を背ける彼女に溜息が出そうだった。こんなのばっ
﹁
何ででも。とにかく放して﹂
何で?﹂
かりだな。まあ何故か可愛いけど。
﹁
仕方なく彼女を解放した。彼女はすぐに俺から離れ、水道を探すと
言って立ち上がった。
318
319
駄目になったじゃん!︵後書き︶
ここまで読んでくださってありがとうございました。
次話で完結です。
320
最終話 覚悟して
足湯からの死角にトイレがあったらしく、彼女はしばらくして戻っ
てきた。
顔を洗って、化粧も直したのだろう。ぐちゃぐちゃの泣き顔が大分
化粧取れた顔見られるのが恥ずかしかったわけ?﹂
マシになっていた。
﹁
﹁
どうでも良くない。つるっつるの顔見てると嫌になるほど年の
顔はどうでもいいから、もっと抱きついてて欲しかったよ﹂
彼女が唇を引き結び、仁王立ちで俺を睨んだ。
﹁
差を感じるのよ﹂
俺は去年までニキビだらけだったよ。顔なんてどんどん変わる
顔をしかめて言う彼女を宥めようと一歩近づいた。
﹁
んだから気にしてもしょうがないだろ。それに、そんな顔してると
シワ増えるよ﹂
やっぱり、やめる﹂
眉間のシワに指を伸ばして触れようとすると、ぱしと払われた。
﹁
はあ!?ちょっと待って!やめるって何?﹂
彼女は低い声でそう言うと、きびすを返し車に向かった。
﹁
さっさと車に乗り込んでしまった彼女を追いかけ慌てて助手席に乗
り込み、既にセレクターにかかっていた彼女の手を自分の手を重ね
ちょっと待ってって。何をやめるんだよ﹂
る様にして押さえた。
﹁
答えるまで車は出させないと言う思いを込めて、彼女の手を強く握
った。彼女は横目で俺を見て、すぐにまた視線を逸らし口をへの字
・・・だって、やっぱり、あたしだけ先に年取るのなんて嫌だ
にした。
﹁
321
もん。お兄ちゃんが20代30代のいい男の時に、一人でシワシワ
なんてきっと耐えられない﹂
そう言った彼女はハンドルにかけた両腕に顔を突っ伏した。てこと
はやっぱり、一度は俺と付き合うって決めたのに、それをやめたっ
てことだよな?好きだけど駄目。好きだけど嫌。堂々巡りな気がし
だから、そう言うくだらない理由で俺を振らないでよ。こんな
て溜息が出そうだ。
﹁
に好きなのにシワで振られる俺の身にもなれよ﹂
くだらなくないってば!シワだけじゃないのよ。若い子に適う
彼女が顔をこっちに向け、俺を睨んだ。
﹁
ところなんてないんだから。ずっと自分をそんな風に卑下しながら
何で卑下するわけ?比べたって何処が負けてんだよ。誰と比べ
生きていくなんて耐えられないって言ってんの﹂
﹁
てんの?俺と同じ位の年の女?分かってる?俺、太朗の母親してる
ところ見て好きになったんだからね?今だから好きなんだからね。
もし、高校生同士で出会ってたって、好きにはなってないよ﹂
本当?え、いや、待って。それって喜んでいいの?﹂
彼女は身体を起した。
﹁
一瞬嬉しそうな顔をした彼女が、すぐに怪訝な表情になった。あれ、
え?本当だよ。若い女より絶対可愛いよ。他の女と自分を比べ
俺なんか不味いこといってるのか?
﹁
るのは、俺が自分より若い女のとこに行きそうだと思ってるからだ
ろ?絶対ないから信じて﹂
﹁
は?ああ、いや、ええと、それもないと思うよ﹂
若くない他の女のとこに行かれるのはもっとムカつくわよ﹂
彼女は俺の目をまたもや睨みつけた。
﹁
驚いたため、説得力のない答えになってしまった。案の定彼女は呆
れた顔をしていた。
322
﹁
﹁
どういう意味?結論は?俺どうなったの﹂
お兄ちゃんって年上が好きなのね。なんか気が抜けたわ﹂
急に投げやりになった彼女の様子に、情けないことに不安が声に滲
んでしまった。彼女がそんな俺を見て、今日初めて屈託なく可愛く
﹁
はあ!?何で?まだ1年以上あるじゃん!﹂
急に可愛くならないでよ。じゃあ、高校卒業した時答える﹂
笑った。
﹁
まあまあ。だって、あたしやっぱり、まだお兄ちゃんの言うず
大声を出した俺の腕を彼女が自由な方の手でぽんぽんと叩いた。
﹁
っと好きも信じきれないし、お兄ちゃんの早く稼げるようになる計
画も頓挫するかもしれないし。それに何より、あたしの覚悟がつか
しばらくって!長すぎるだろ!﹂
ない。だから、しばらく保留する﹂
﹁
お兄ちゃん若いから1年くらいどうってことないでしょ。あた
焦って言う俺に彼女は悪びれず答えた。
﹁
しの1年の方が貴重なんだからね﹂
愕然とした俺を見て彼女が笑った。可愛いんだけど、めちゃくちゃ
あたし我侭だって言ったでしょ﹂
憎たらしい。
﹁
可愛い。我侭な彼女は可愛いけど、内容が可愛くない。長過ぎだよ
!でも俺が本当に大丈夫か、彼女が見極める時間が欲しいって言う
その間に俺よりマシな男を探すつもりじゃないだろうな?﹂
気持ちは理解できる。
﹁
あー、それはしない。手に入るんなら探すけど、お兄ちゃんよ
我侭な提案をのみたくはないが、嫌々尋ねた。
﹁
り良い男が余ってる訳ないし。探しても無駄だもん﹂
でも、さっき、誰かにくっ付いてないと駄目になったって自分
言ってることは自分勝手だけど、可愛い。悔しい。
﹁
で言ってただろ?我慢出来るの?﹂
323
その点が非常に心配だ。彼女は自分でも言っていたようにきっと我
﹁
嘘言え。我慢できるかどうか自分でも自信ないの丸出しで言わ
我慢する﹂
慢強くない。案の定彼女が気まずそうな顔になった。
﹁
れたって、信用出来るかよ﹂
人肌恋しくさせたのお兄ちゃんでしょ。文句言わないでよ﹂
面白くなくてそう言うと、彼女が頬を膨らませ反論してきた。
﹁
言うに決まってるだろ!人肌って何だよ!俺には抱きつくだけ
はあ?
﹁
で保留しといて、他の男とやる気満々かよ!?﹂
彼女が怒鳴る俺を驚いて見ていたが、あっという間にそれをムカつ
﹁
は?﹂
馬鹿じゃないの?﹂
いた顔に変えた。
﹁
人肌恋しくてあたしが我慢できなくても、お兄ちゃんがいるで
低く淡々とそう言われ、拍子抜けした。
﹁
しょう?嫌なの?あたし、セフレ用に他の男探した方が良いの?﹂
え?嫌なの?嫌なわけない!俺今何を言われた?飛び出しそうな程
心臓を鳴らしながら驚きすぎて固まっていると、彼女が思案気に続
ああ違うね。他の男は嫌なのよね。じゃああたしに、お兄ちゃ
けた。
﹁
んの卒業まで清い生活をして欲しいのね。まあ、お兄ちゃんに答え
を保留してるんだから関係を持っちゃ不味いか。当たり前よね。そ
う言えば高校生だしね。そうね、我慢する。お兄ちゃんの卒業まで
我慢します﹂
待ってよそれって、相手は俺で良いってこと?﹂
え?ちょっと待って。それじゃあ。
﹁
お兄ちゃんも好きだって言ってくれてるのに何で他の男とやら
彼女が半目で俺を見た。
﹁
324
なくちゃいけないのよ。でも、確かに、身体の関係持っちゃったら、
もしお兄ちゃんがあたしを好きじゃなくなった時きついから、やっ
ぱり我慢する﹂
なくならないって言ってるだろ!ていうかきついって何?﹂
何で我慢!?
﹁
あたしそういうことすると一層好きになるから、たぶんしつこ
彼女が嫌そうな顔をした。
﹁
すぎて重たくなって嫌われるし、そうなった時諦められなくてあた
しが辛いでしょ﹂
分かった。じゃあ今からしよう。ホテル行こう。車出して﹂
なんだと!
﹁
聞いてた?今、我慢するって言ったでしょ﹂
ずっと掴んでいた彼女の手を放し促すが、彼女が呆れた顔をした。
﹁
聞いてた!やったら嫌われて辛くなるとか言われてたら何十年
耐え切れず叫んだ。
﹁
待っても出来ねえ!やったら好きになってくれるんだろ!じゃあす
る!今したい!﹂
彼女が可愛く笑って、興奮して再び彼女の腕を掴んでいた俺の手の
可愛いねえお兄ちゃん。あたしも今すぐそうしたいところだけ
甲を、反対の手でぺちぺちと叩いた。
﹁
ど、年長者の責任も有るし我慢する。高校卒業したらしようね﹂
やけにあっさりしていたが、彼女からの思いがけない誘いの言葉に
頭がショートしそうになった。
ショートしよう。爆発して何が悪い。彼女も嫌がってるわけじゃな
い、むしろすぐしたいって言った!もういいじゃん。
彼女に覆いかぶさろうと身を起こしたその瞬間、例によって頭から
駐車スペースに突っ込まれていた車が勢いよくバックを始めた。
傾いた身体を立て直しているうちに、車は駐車場をぐるっと回りそ
のままの勢いで車道に出た。
325
﹁
ちょっと!﹂
今から何かしてきたら事故起こすわよ。頑張って我慢しよう。
非難がましく声をあげた俺に彼女が楽しそうに目を細めた。
﹁
急がなくても大丈夫。お兄ちゃんは若いし、それに﹂
俺に視線を合わせ、凄く可愛い顔で笑った彼女が、宙に浮いていた
あたしもちゃんと、お兄ちゃんが好きだから﹂
俺の手に自分の指を絡めきゅっと握った。
﹁
すぐに前方に逸らされた横顔は、嬉しさと無駄になった興奮の折り
合いがつかず呆然とする俺を無視し、相変わらず、とても楽しそう
だった。柔らかな小さな手も、名残惜しくて引き留めようとする俺
の指からするりと抜け出て、あっさり離れていった。
ああやっぱり、駄目だ俺。
これから先どんな面倒臭いこと言われたって、泣かれたって、いっ
その事嫌われたって、彼女を好きじゃなくなる日が来るなんて思え
ない。
俺に甘やかされて弱くなって、俺に甘えて泣いたり怒ったりして、
俺に好きだって言って楽しそうに笑ってるこんな可愛い人、諦めら
れる訳ない。
俺絶対に、ずっと好きだからね。卒業の時俺を振る理由が存在しな
いぐらい大好きだからね。今に思い知らせてあげるから、覚悟して。
326
お終い
327
最終話 覚悟して︵後書き︶
なんとお付き合い以前ですが、一応くっついたと言うことで終わり
です。今後喧嘩しながらも、ちゃんと結婚して添い遂げます。
とは言え、このまま終わってもなあと言うことで、結婚するまでの
後日談をしばらく不定期でお届けします。
これからもよろしければ読みに来てみてください。
最後まで読んで頂いてありがとうございました︳︵.︳.︶︳
328
﹁
そうだよ。秋吉が卒業までに彼女に飽きてなかったら結婚だね。
上手くいったんだよな?﹂
後日談 欲求不満
﹁
そんなの保障できねえよなあ。結局何も変わってないんじゃね
あ、でも稼げないと結婚できないのか﹂
﹁
そんなことないよ。彼女も秋吉を好きだってことは認めたんだ
えのか?﹂
﹁
から。そこは大進歩だろ?上手くいったんだよきっと﹂
政木と斉藤が俺を放って勝手に話し合っている。
あの足湯の日、彼女は本当に真っ直ぐ俺をコンビニに送り届けた。
﹁
ああ?何もないよ。全く﹂
なあ、好きだって言われてから少しは進展したのかよ?﹂
その後は週1回、太朗のプールとその帰り道でしか会っていない。
﹁
俺にキレんなよ。お前がへたれなんだろ﹂
吐き捨てると政木がわざとらしく溜息を吐いた。
﹁
太朗が一緒なのにどうすりゃいいんだよ。手も触れねえよ﹂
ムカつく政木。
﹁
斉藤に向けて言ったのに、またわざとらしく上を向いて考えていた
思いついたぞ。まず、よう太朗!つって太朗にハグしてちゅう
政木が、ぽんと手を打った。
﹁
するだろ。その後続けて彼女にやれ。そしたら太朗も不思議に思わ
ねえだろ?﹂
欲求不満の秋吉が太朗君にするみたいな爽やかなハグとちゅう
馬鹿なことを言う政木に、斉藤が呆れた顔をする。
﹁
を彼女に出来るとは思えないよ。ムラムラしていやらしいこと始め
329
て、太朗君のトラウマになったらどうするんだよ﹂
ハグはともかく太朗にちゅうなんか出来ねえよ。変態みてえじ
涼しい顔してめちゃくちゃ俺に失礼だな斉藤。
﹁
ゃん﹂
﹁
いいよもう。大人しくしとくよ。そのうち向こうが我慢できな
このまんまでいいのかよ。欲求不満だろ?﹂
男子高校生が男児にちゅうって。気持ち悪いだろ。
﹁
くなってくっ付いてくるのを待つ﹂
早く一人前に稼げるように今のうちに目一杯勉強しとこう。
溜息を吐いて次の授業の教科書を出そうと机に手を突っ込むと、斉
すごいね。きっと今現実逃避で勉強しようとか思ってるんだよ。
藤が俺の頭の中を読んだ。
﹁
欲求不満でもテストはばっちりだよ﹂
残念ながら頑張るのは学校の勉強じゃないからテストの点数は期待
そうだな。本人に問題ないなら欲求不満でも大丈夫だな﹂
できないけどな。
﹁
何回も言うな!﹂
欲求不満って。
﹁
太朗のプールを終え、いつものように送ってもらう車の中で彼女が
お兄ちゃん、欲求不満で他の女の子に手を出す前に自己申告し
言った。
﹁
欲求不満です﹂
てよ?﹂
﹁
そう﹂
不貞腐れて即答した俺を、横目で見た彼女が苦笑した。
﹁
はあ?聞くだけかよ?
330
﹁
申告しても何も貰えないのかよ﹂
申告の意味ないだろ。前を向き黙り込む俺の腕に手をかけ、彼女が
まあまあ、ちょっと待ってて。着いたらね﹂
言った。
﹁
え?何かあるの?彼女を見ていられず、前を向いたままばくばくす
太朗。お兄ちゃんばいばいだから、ぎゅーちゅーたっちしてー﹂
る心臓に耐えた。
﹁
何故かコンビニではなく、路地に車を停めた彼女が、朗らかに後部
座席の太朗に言った。
はーい﹂
辺りはもう真っ暗で、車も人の通りもほとんどない。
﹁
太朗がシートベルトをはずし立ち上がると、シートの間から助手席
に身体を押し込んできた。
ぎゅー、ちゅー﹂
そして俺に抱きついた。
﹁
そう楽しそうに笑いながら、更に俺の頬にぶちゅーと吸い付いて来
た。
﹁うえ、よだれ!﹂
たっちー﹂と言って小さい手
親子はきゃははと大笑いしている。ちゅうされてよだれを付けられ
て笑うのが日常なのかもしれない。
太朗は身体を少し俺から離すと、﹁
を広げた。
つられて俺も手を広げると、ぺちぺちぺちぺちと手を叩きつけてき
たっちたっちたっちたっちー﹂
た。
﹁
笑いながら俺の手を叩き続けている太朗を、彼女があははと笑いな
たっちしすぎー終わりー。はい次はお母さんのばーん﹂
がら止めた。
﹁
331
え!?お母さんの番!?固まる俺に、躊躇う隙を与えず彼女がぎゅ
﹁
きゃははははーー!﹂
ぎゅー﹂
うっと抱きついてきた。
﹁
太朗の頭が俺と彼女の脇辺りに挟まっているので、太朗が大笑いし
ている。俺が彼女の背中に手を回すことさえ忘れているうちに、彼
ちゅー﹂
女によって次のミッションがコールされた。
﹁
うわ!彼女の顔が!彼女が太朗の頭を俺との間に挟んだまま、俺の
唇に自分の唇でくっ付いてきた。俺の首に腕を巻きつけぎゅうっと
絞めながら、柔らかい唇を更に強く押し当ててくる。うう、マジで
!?
ご近所さんに見つかったら大変だから、今日だけだよ。たっち﹂
彼女の顔がゆっくりと離れた。悪びれない表情で笑っている。
﹁
そう言うと、片手の平を俺に向けて開いた。その小さい手に自分の
たっちー﹂
手を重ねた。太朗が俺と彼女の手をさらに小さい両手で挟んでぺち
んと叩いた。﹁
もっとしたいけど。政木と彼女の思考が似てるけど。幸せだ。物凄
く。
332
後日談 腰巻き︵前書き︶
短いです。物足りなかったらごめんなさい
333
後日談 腰巻き
プールの後、待合でペットボトルの炭酸飲料を飲みながら太朗の着
替えが終わるのを待っていた。
女子更衣室の入り口から太朗が飛び出して来た。しばらくして彼女
太朗。濡れてて滑るから走るなっていつも言ってるだろ﹂
もその後を小走りで出てきた。
﹁
太朗を捕まえ持ち上げながら注意すると、余所を向いたまま太朗が
答えた。
﹁はーい﹂
返事は素直なんだよなあ。行動が伴わんけど。
﹁はー、追いかけててあたしが滑っちゃったー﹂
追いついて来た彼女が、情けない顔と声で俺を見あげた。可愛い。
それで太朗より少し出てくるのが遅かったのか。
﹁まじで?大丈夫?﹂
彼女が身体を少し捻って俺の方に尻を向けた。
﹁大丈夫だけど、濡れちゃったよ﹂
ベージュのパンツが濡れて、でかくて濃い染みが出来ていた。
思わず笑うと彼女に可愛く睨まれた。
﹁ごめん。それ恥ずかしいね。えーと、俺なんか持ってるっけ。あ
ー制服じゃあんまりか。これ巻く?﹂
羽織っていたジャージの上を引っ張り尋ねると、彼女がすぐに頷い
た。
脱ぐために太朗を一度下におろすと、早速走って離れて行こうとし
て彼女に捕まった。
﹁お兄ちゃん。早く早く。恥ずかしいんだって﹂
334
もがく太朗の様子を眺めていた俺に、彼女が催促した。お願いに遠
慮がなくなっているのを感じて嬉しい。
﹁ああ、はい﹂
さっさと脱いで手渡すと、彼女が太朗から手を離し、俺のジャージ
を腰に巻いた。
なんか恋人って感じだな。彼女から返事をもらったわけじゃないけ
ど、周りにはそう見えてるかな。
なんてどきどきしている場合ではない。太朗が随分先まで走ってい
ってしまっている。彼女も走り始めた。俺も行こう。
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PDF小説ネット発足にあたって
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駐車場の彼女に恋をした
2014年10月1日01時12分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
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