堀口すみれ子講演会「父が愛した長岡」講演内容 - 長岡市立中央

皆様こんにちは堀口すみれ子です。
(略)
父大學の生誕120年を記念して、大學展を長岡市立中央図書館で開催していただくこ
とになりまして市並びに図書館そして長岡の「堀口大學を語る会」の皆様、又関係各位の
皆様に改めて御礼を申し上げます。
「父が愛した長岡」と演題を頂きましたけれども、父の詩、あるいは訳詩を少し読ませ
ていただきながら、父と娘、娘としての父、父の背景、そして父と長岡をお話させていた
だければと思っております。
私にとっての長岡はとても慕わしい父祖の地と思っておりますが、残念なことに親類が
一人も残っていないんですね。ただ、先程展覧会場で、父と私が幼い頃、上越市に疎開し
ていたことがあるんですけれども、その頃、親戚づきあいをしていてくださっていた方が、
今長岡に住んでらっしゃって、ご遺族の方にお目にかかることができ、つながりができた
と感じてとても嬉しく思っております。
血のつながりのない長岡なんですけれど、私の娘の葉子は自分の本籍を長岡から移そう
としないんですね。娘は、父が10代目で、父の養女になっておりますから、娘が11代
目なんです。その子供がまだ5歳で12代目となるんですが、娘はきっとこの長岡とのつ
ながりを絶やしたくないと思っているんだと思います。そしてまた大學の血を継ぐ、大學
の系譜を続けるものというその自負があるのだと思うんです。娘の葉子にとっては、祖父
にあたる、大學が中学まで暮らした思いでのある長岡の、観光院町913という番地を動
かそうとしないんです。
父大學を語るには、長岡侍だった父の祖父良治右衛門、そして父の父九萬一をお話しな
ければならないんですけれども、父は先祖を敬い父母への恩を終生忘れませんでした。毎
朝お仏壇のお花の水を替えて、お茶をあげ、お灯明を燈して父の一日が始まるんです。
父の名前のことを少々申し上げますと、皆様まさか大学と思ってらっしゃる方はいらっ
しゃらないと思うんですけれども、大學という名は本名です。父の父つまり私の祖父が、
大学生の時に大学の真前で生まれたので、時と場所の二重の意味を記念して大學と名づけ
られたんだそうです。ところが、幼い時にこの立派な名前では、上級生に「小学生のくせ
に大學などとは生意気だ」と言って追いかけられたり、殴られたりして、もてあました名
前だったそうなんです。ある時、自分の父親に「何で大學という名前をつけたんだ」って
尋ねたら、
「名前というものは読み間違えられることのない、そして、相手が一度で覚えて
くれる名前が良い名前なんだから」と説得されたんだそうですけれども、間違えやすいで
すよね、紛らわしい名前ですね。父が40歳の頃、小石川に家を構えて表札をあげたんだ
そうですが、堀口大學と。そこは拓殖大学の通学路だったそうで、毎年新学期の頃になる
と新入生がつくづくとその表札を見上げて、
「東京にはこんな小さな大学もあるんだな」と
感心して通っていったんだそうですが。
父の晩年、時々受験の頃になると、
「堀口大學御中、貴校の入学願書を送られたし」とい
う依頼の手紙が来るんですね。父は面白がって、
「三浦半島のつけねのあたりに、名前も聞
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いたこともないけど、こんな大学があるらしい、とりあえず願書だけでも取り寄せておこ
うという魂胆なんだな、おおよそどこにも引っかかるまいよ」と面白がっておりました。
父が生きていた時も、そうなんですけれども、今からもう15年も前、父がなくなって 10
年は経っていました。ある東北地方の大学の医学部長のお名前で、堀口大學御中という封
書が届きました。私は今でもそうなんですけれども、父宛のダイレクトメールが時々届く
ことがあるんですが、まだ父が生きていてくれるような気がしてわくわくするんですけれ
ども、その時も「何の用でしょう」と思って開けてみました。そしたら、
「当校では教養課
程において英語の教師を一人募集しているので、ついては貴校で心当たりがあったら一人
誰か推薦してほしい」そういう手紙だったんですね。父が生きていたらさぞ面白がっただ
ろうと思って、お仏壇に上げておりんを鳴らして「こんなのが来ました」と報告しました。
「こういう手紙にはまともにお返事したら失礼なのかしらね」と言いながら、一週間か十
日過ぎたでしょうか、お返事もしないままにしておりました。後日同じ医学部長のお名前
で「あれはとんだ間違いでした。クロネコヤマトの手違いでした」とお詫び状が来たんで
すね。ほんとにそういう意味では紛らわしい名前です。父は、自分の父親の九萬一の「名
前は紛らわしくない、一度で覚えられる読み間違えられることのない名前はいい名前だ」
という教えを守って、私に、すみれ子と名づけてくれたんだと思いますが、子供の頃はこ
のすみれ子、私ももてあましていました。子がついてるからなんか字余りなんですね。あ
るとき、やはり上級生に変な名前だとものさしを取り上げられたり、定期券を買う時に、
あからさまに事務の女の人に「変な名前」って言われるんですね。子供っていうのはすご
くそういうことでいたく傷つくものですから、あるとき父に「何で子がついているの、何
ですみれじゃないの」って尋ねたことがあるんです。けれど、
「子っていうのはかわいい子、
いい子という意味なんだよ」というなんかわけのわからないような、つじつまのあわない
ような返事を返されたことがありました。今、私も時々「さくらこさん」とか「かおるこ
さん」と呼ばれることがしょっちゅうございます。私のことだなと思って「はい」とお返
事をさせていただいております。
私は父が53歳の時に生まれました。ですから父の89年の生涯の3分の1しか知らな
いんですね。私が生まれる以前に父は後に名を残すようなことを、ほとんどし終えていた
のかもしれません。人間としても完成していたのだと思います。気がついたときには親子
だったわけで、他の父親を知らないわけですから、どこの家も同じようなものだと思って
おりましたけれども、やはり自分が親になってみると、今更ながらかわいがられ過保護に
育ったんだなと思います。時々「お父様はどんな方でした」と大雑把に尋ねられることが
あるんです。仏教の教えに顔の施しと書いて顔施(がんせ)という教えがあるんだそうで
すけれど、つまり、やさしく慕わしい良い顔、その方のお顔を見ただけでこちらの悩みや
悲しいこととか、そういうことがフワーッと消えてしまうような徳のあるお顔のことなん
だそうですが、父はいつだって晴れやかな良い顔を家族に向けてくれました。嫌な不機嫌
な顔をしていたことはありません。創作上のそれから健康上の人間関係の暮らしの上のい
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ろんな苦労もあったと思いますけれども、いつも私には穏やかな顔を向けてくれました。
それはとても子供にとっては安心なことだったと思います。たぶん世間に対しても顔施の
人だったと思うんです。今、父を本当に直接知っていてくださる方は少ないんですけれど、
ある方は父のことを「寛容で温和にすぎるほど忍耐強い性格」と評されています。寛容で
温和にすぎるほど忍耐強い性格というのは、多分越後のこの風土が育てたのでないかと思
うんです。今、父を直接知っていてくださる方がとても少ないと申しましたけれども、今
日は東京から、晩年の父をとてもよく知っていてくださる、関容子さんが3日前にパリか
ら日本へ帰っていらして、今日ここにおいでになっていらっしゃるんで大変有難く思いま
す。関さんは聞き書きをして『日本の鶯』という父を語る本を書いてくださった方です。
その越後の風土が、寛容で忍耐強い性格穏やかな性格の父を育てたんだと思うんですね。
父は子供だからといっていい加減にしないんですね。どんなに忙しい時もどんなに仕事が
大変な時でもペンを置いて相手をしてくれました。私は父にとって孫みたいなものですし、
女の子でしたから社会に通用する人になって欲しいとかそういう意気込みはまったくない
んですね。こう、生んで、生み落とした、生み出した責任っていうのはまったく感じてな
いようで、機嫌よく私が家にいさえすれば父は安心なんでした。小学生の頃など私は体が
弱かったせいもあるんですが、父は自分の母親譲りの結核の体質を私が受け継いでいると
信じて疑わないんですね。ですから雨が降ったり、風が吹いたりすると、学校にやらせた
がらないんですね。
「こんな雨の中やらせるのかい」って母に言うんです。母は29歳父よ
り若く普通のどちらかといえば、教育ママのほうでした。
「雨が降った、風が吹いたといっ
て学校にやらせない親がどこにいますね」と言って、父は母に叱られてしょんぼりしてし
まうんですけれど、それを見て私もランドセルをしょってすごすごと学校に行きました。
私の高校の修学旅行は、7泊8日の北海道道東の旅でした。修学旅行というのは団体生
活を経験しながら、見聞を広めることに意味があるんだと思うんですけれども、その行く
先々のその日泊まる宿にですね、7泊8日の旅行に3通父の手紙が、私が宿に着くより先
に届いてるんですね。内容はどうってことないんです。アサガオの一番花が咲いたとか、
ママの風邪が治ったから安心しなさいとか、寒かったらお布団を借りなさいとか他愛のな
い事なんです。修学旅行の日程が進むにしたがって、私は自分自身の気持ちがコントロー
ル出来なくなって、仲の良い友達と寝起きをともにして昼間の行動も一緒しているんです
けれど、そのグループの誰とも口を聞けなくなってしまうんですね。最初は友人たちも「ど
うしたの?」
「具合が悪い?」「疲れた?」と気遣ってくれますけれど、だんだんその友達
もそれぞれに旅の疲れが出てきて、私のことなんてかまっていられなくなりました。帰り
の青函連絡船の船底で、私は目を真っ赤に泣き腫らしてもうほんとうに何ていうんでしょ
うね、船酔いも手伝って散々な思いで帰って来たんです。家に戻って父に「旅行はどうだ
ったかい」って尋ねられて、「ちっとも楽しくなかった」って答えましたら、
「そうでしょ
う、君はどこにも行かないのが一番いいんだ」と。父は自分が出した手紙が、楽しくない
私の修学旅行を励まし、慰めたと死ぬまで思っていたと思うんですね。でも、私は親にな
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ってから、自分の子供が小学生になってキャンプに行くことになった時に、私も父がした
ように手紙を出してやろうかと思ったその時、はっと気がついたんですね。あの時の私の
原因不明の不機嫌は、行く先々で手にする父の手紙で重篤なホームシックにかかってしま
ったのだと気がついて、やめました。父は死ぬまで自分が慰めたと思って信じて、そのま
ま幸せに死んで逝ったんだと思います。
父の創作の苦労も生活の苦労も知らずに、私はのんきに育ちました。また、文学少女で
もなく父の作品に興味も示しませんでしたから、ある年になってから父は自分の出版物が
出るたびに、サインをして読んでおくれと私に手渡してくれましたけれども、いいかげん
にその辺にほったらかして、あまり熱心に読みませんでした。それが、それまで空気のよ
うにいて当たり前たっだ父がいなくなったとたんに、「父に触れたい」その気持ちから父の
作品を読み始めました。あー、ほんとに、あのー、父が、こう水を向けてくれた時に読む
ことをして、そして父と話し合いたかったことがたくさんあったのにと悔やまれましたけ
れども、もう遅い…。もうその時は…遅い…遅かったんですね。そして父のものを読んで
年を重ねるごとに、
「何か自分も書きたい、詩を書きたい」そして何かこう…そういう思い
がこう自分の中で育ち始めてあるとき突然に「詩を書きます」と言って詩を書き始めて、
その連載が、もう25年以上続いているんですね。詩を書くことで、詩を共有、父と共有
することで父とつながっていたかったからだと思うんです。詩を思う時、詩を書く時には、
いつも常に、今でもまだ父がなくなってまるまる30年経つんです。常に傍にいてくれる
と思える父なんですけれども、詩を書く時には、なんか遥か遠くに行ってしまったような、
そんな気がしてならないんです。
少し、父の背景をお話し申し上げようと思いますけれども、「鼻を欠いても義理欠くな」
自分が損をしてでも世間の義理を欠くなということなんでしょうが、その儒の精神、長岡
侍だった父の祖父は士分とは名ばかりの長岡藩8代目の足軽、良治右衛門でした。この良
治右衛門という方は、6尺豊かな大男であったそうです。藩中で名高い大食いのチャンピ
オンで、藩対抗の大食い競争では負けたことがなかったんだそうです。この良治右衛門の
息子がつまり私の父の父九萬一ですね、九萬一もまた健啖家だったようです。俳句、狂俳
などを読んだようですけれども、自分の旺盛な食欲をもてあましてか、「胃」という字は田
んぼに月と書きますね、田んぼに月を離して田月(でんげつ)、全身田月、全田月、全身胃
袋そういう俳号を使っておりました。それから、食欲の赴くままではなくて、半分ですま
せよというような半済(はんさい)半分で済ます半済という号も使っておりました。また、
漢詩を読みましたから、漢詩は万里の長城の長城(ちょうじょう)という号を使っており
ました。父はというと、大食いだった覚えはないですが、そうですね、何を食べてもおい
しい胃腸が丈夫だからだ、ご先祖様のお陰だ、胃腸のお陰だとよく申しておりました。飲
んだり食べたり、飲みすぎたり食べ過ぎたりして具合を悪くしたりしている父を見たこと
がございません。良治右衛門は戊辰戦争で官軍の銃撃を受けて慶応4年に25歳で亡くな
るんですね。その時に残されたのが23歳で未亡人になった妻千代で、千代には3歳の九
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萬一とその妹のたつが残されていました。千代には扶持もなく、知行もとりあげられ幼い
子が2人残されましたが、その頃長岡藩に残された婦女子のために、授産場ができるんで
すね。そこで身に着けた糸繰りの仕事を千代はして、九萬一とたつを育てるんですが、夜
も寝ずに、帯をといて寝たことがないほど糸繰りの仕事をして生計を立てていた自分の母
親を見て育った九萬一という人は、非常に勤勉で優秀な人だったようです。記録が残って
いるんですけれども、14歳の時に小学校の訓導助手、17歳の時に文教場主任、18歳
の時に岡野町小学校というところの校長先生なんですね。それで、校長先生で満足しない
んですね、もっと上の学校に行きたいと。
母親の千代にしてみればやれやれというところなんでしょうけれども、司法省法学校に
進みたいといって、司法商法学校を受けるんですけれども、志願者3千人あった中で九萬
一は学力テストでは1番、口頭試問と体力テストは2番だったという記録が残されている
そうです。母子共に血を吐くような努力の結果だと思うんですけれども、この司法省法学
校というのは卒業するまでに8年かかるんですね。この司法省法学校時代に結婚をして私
の父大學が生まれるんです。もう官学でしたから、学費は要らないですし、一度は社会人
になっている人ですから、自分の結婚生活を支え、そして郷里の母にも仕送りするなにが
しかの生活の糧は得ていたのだと思うんです。司法省のその法学校を卒業して、司法省に
入ったものの、九萬一はその罪と罰のその司法省になじめないんですね。嫌で、その年、
公から登用するようになった外交官試験を受けて受かるんですね。4人受かるんですけれ
ど、その中の一人なんです。そしてすぐに朝鮮に赴任するんですね。大學が2歳の時、そ
してその年生まれた大學の妹の花枝と母親の政と共に郷里の長岡に戻って来るんです。そ
して長岡で暮らすんですけれども、3歳で生みの母親政が肺結核で亡くなってしまうんで
すね。その後、父親は外地ですし、父は妹と父方の祖母千代と暮らすことになるんですね。
帯を解いて寝たことがないほど糸繰りの仕事に励んで、自分の息子の九萬一とたつを育て
たというその千代。父からすると祖母に育てられるわけですが、この祖母という人もすご
い人だなあと思うんです。23歳で未亡人になって、やっと二人の子供を育て上げて、そ
してやっと息子が社会人になってくれたと思ったら、また8年間学校に行くことになって、
そして学校を卒業して外交官になったと思ったら外地、そして息子の嫁は二人の子供を残
して死んでしまう。その二人の孫を育てることになるんですけれども、この千代さんを父
はとても尊敬して、この方がいらっしゃるから自分がいるんだ、九萬一があるんだとその
千代さんを偲んで、糸車をある道具屋さんから手に入れてきて、一生涯自分の家の玄関に
糸車を掲げて、家の出入りのたびに千代さんのことを忘れませんでした。祖母千代に育て
られた長岡での3歳から17歳までですが、どんな暮らしだったかと想像しますと、人一
倍多感な父のこと、片親どころか両親がいないのですから、祖母と妹と3人暮らしで、寂
しくも心細くもあったことと思います。暮らし向きは外国からはまあ、困らない程度には
仕送りがあったはずだと思うんですけれども、
「広々とした家につつましく暮らした」と父
は書き残しております。明治27、8年のことで、男の子ですから祖母千代は父をもう一
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家の柱として遇するんですね。2歳でなくなった母親の野辺送りの火付け役は2歳の喪主
の自分だったという「母を焼く」という詩が展示室にも掲げられてありますけれども、も
うすでに2歳、3歳で一家の柱として遇されている間に、自分の境遇を受け入れながら長
岡人の芯の強さを培っていったんではないかと思うんです。まあ、寂しいばかりの子供だ
っただけではなく、
「信濃川で練習した、教えを受けた泳ぎは水府流だったとか。実際に抜
き手をきってそれは素晴らしいものだったよ」と言うんですが、私は見たことがないんで
す。父の泳ぎっていうのは葉山の海岸で、小さい時に一緒によく泳ぎましたけれども、首
だけ水の上から出してこう、水の中で歩くようにしているといつの間にか浮いて進んでい
るんですね。ああそれが水府流かと幼い心に思ったんですけれども、父は寂しいばかりで
はなかったようです。友達と小鳥を捕まえたり、一年中風さえあれば凧を上げたりして、
遊んだそうですが、長岡町立阪之上尋常小学校を卒業すると、県立長岡中学校に進みます。
そこではクラスに松岡譲さんがいらしてその中学校の5年間は一つのクラスでずっとご一
緒だったそうです。うちには表札が2つあるんですけれども、一つ木の方の表札で堀口大
學と書いてあるのが松岡譲先生の揮毫によるものなんです。父は松岡譲さんに刺激された
のかお互いに刺激されあったのか、その辺はよく分かりませんけれども、この中学時代に
もうすでに、文学への傾倒が始まっています。父の父九萬一は外国にいますけれども、息
子の大學を自分と同じく外交官にしたいと思っていました。九萬一という人は非常な教育
パパで、その任地の外国から小学生の息子大學に英語を習いなさいとか、なるべく長い手
紙を自分に書きなさいとか、いろいろ父に言うんですね。長岡中学を卒業すると、祖母と
妹と3人一家を挙げて高等学校受験のために上京します。上京するとまもなく祖母千代は
他界してしまうんです。祖母千代の監視の目もなくなってしまいますから、ますます文学
に傾倒していくんです。そして、18歳の時に与謝野鉄幹、晶子の主催する明星派の短歌
の結社「新詩社」に入社します。ここで生涯の友となる同い年の佐藤春夫さんと知り合う
のです。この二人の友情は佐藤春夫先生が72歳で亡くなられるまで厚く硬いものでした。
今日入り口で、皆様にこれをお配りしたいと思うんです。ちょっと話はそれますが、奈
良の桜井に等彌(とみ)神社というのがございまして、その等彌神社に佐藤春夫先生がご
縁で、父の句碑、歌碑、文学碑が4基あるんですね。昭和38年にこの等彌神社を佐藤春
夫先生が初めてお尋ねになるんですけれども、そのときに「大和にはみささき(陵)多し
草もみぢ」というのをお歌いになるんですね。その10年後にこの句碑が等彌神社に建立
されることになったんですけれども、その時にもう佐藤春夫先生は他界されていらっしゃ
らなかったので、父と母と佐藤春夫先生の未亡人の千代夫人と除幕の式に伺ったんです。
その時に父が読んだ歌があるんですけれども、「さきに来て等彌のおん神おろがみし友に
つゞきてわれも拝む(おろがむ)
」という歌があるんですね。またそれを筆頭に手紙文が一
つそれから「草もみぢ友の声かと虫を聞く」という句碑と、
「鳥見山の等彌のおん神うけ給
へ浪漫のの子が奉る幣」という歌碑と全部で4つの碑が立っていて、毎年8月の第三土曜
日に「大學ゆり祭」というのがあるんですね。葉山の父の家から前宮司の方が百合の種を
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持っていかれて、神社の参道に増やして、一方氏子の皆様のお宅でも増やしたのを鉢植え
にして持ってきてくださって、
「大學ゆり祭」というのをしてくださるんです。今年で24
回目で来年は25回目になるんです。今年も伺ってまいりましたら、
「こういうのが出来ま
したから、長岡はとても近しい感じがいたします、皆様にこれを差し上げてご縁があった
らお尋ねください。そして8月の第三土曜日には「大學ゆり祭」を催行しておりますから
よろしくお伝えください」ということで、今日はこれ(等彌神社のリーフレット)をお持
ちしました。
佐藤春夫先生と父の友情はですね、春夫先生は父と御自分のことを、
「一卵性双生児」と
お書きになってらっしゃいます。父は春夫先生と自分のことを「シャム兄弟」と詠ってお
りますが、この頃二人揃って第一高等学校に受験に失敗するんですね。で、二人揃って慶
應義塾大学文学部予科に入学します。すでにもうその頃から、短歌や詩が新詩社の機関誌
「スバル」や慶應の三田文学に掲載されるようになるんですね。祖母も亡くなってしまい
ましたから親の目の届かないのをよいことに、父は外交官になる勉強をこっちにおいて、
文学への傾倒に益々拍車がかかるんです。その頃父の父九萬一の任地はメキシコでした。
親戚の誰かがメキシコに手紙で注進したんだと思うんですけれども、父が外交官になるべ
く道から外れているということが、九萬一の耳に届いたんですね。九萬一は自分の傍に呼
び寄せて外交官たるべく勉強をさせようと思って、父を呼び寄せるんですね。ある時外務
省からパスポートと船便のキップが父のもとに届いたというんです。父は慶應に一年も行
かずに、19歳の時に横浜からメキシコに向かって出発しました。途中ハワイに船が2日
間だけ停泊したんだそうですけれども、ハワイに着いたとたんに母親譲りの結核が発病し
て、喀血してしまうんですね。ハワイで2か月療養して、遅れてメキシコに行くんですけ
れども、豪雪の長岡育ちの父の目にハワイはどんなに映ったかと想像すると、なんかとて
もワクワクするんです。今のような映像の社会ではありませんから、ハワイの写真すら見
たことがなかったんではないかと思うんです。さぞエキゾチックに映ったのではないかと
思うんです。父はハワイでたくさんの虹を見たと書き記しています。大きいの小さいの二
重の虹、夜の虹さえ見たと記しています。後に「虹」は、父の詩に対する憧れ、追っても
追っても捉え得ないこれでいいのだという到達点のない詩の極致、父にとって詩の理想と
いったものになったと思うんです。父の詩集、翻訳詩集のタイトルには虹の付いてるもの
がとても多いんですね。ほとんど虹が付いているんです。
『月かげの虹』、
『東天の虹』、
『夕
の虹』、
『消えがての虹』、『沖に立つ虹』そして自分の遺稿集を『虹消えず』と決めていま
した。また、終の棲家となった、現在私がそのまま住んでいる家を「虹の屋」と呼び、署
名などの折には「虹の屋主人」と名乗っていました。
「虹の屋」という判子を作って押して、
遊印というんでしょうか、遊んでおりました。今日は「虹の屋」の判子を持ってまいりま
したので、後で係の方に押して頂きます。
ここで虹を詠んだ詩、詩を想う詩をちょっとご紹介しますね。「夕空の虹」、
「虹」、
「詩」
(朗読)
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夕空の虹
歌も
詩も
俳句だとても
夕空の
虹でありたい
西山に
陽の
沈む頃
東天に
咲きも出でたい
七彩の色彩(あいろ)をこめて
高々と
中空に立ち
脚は地に
しかと届いて
虹
虹はそも天の花火よ
高々と夕べの空に
虹はそも天のさとしよ
目をあげて高きを見よと
虹はそも天のあかしよ
美しきもののはかなさ
天と地の恋の思いの
通い路よ かけ橋よ
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なな彩の思いをこめて
けざやかに中空かけて
詩
難儀なところに詩は尋ねたい
ぬきさしならぬ詩が作りたい
たとえば梁も柱もないが
しかも揺るがぬ一軒の家
行と行とが支えになって
言葉と言葉がこだまし合って
果てて果てない詩が作りたい
難儀なところに詩は求めたい
父は翻訳者、詩人とよく称されますけれど、一生詩人でありたかったんですね。一生い
い詩を書きたい、一篇でもいいからいい詩を書き残したいと思っていた父でした。
2か月間ハワイで療養してメキシコの家庭に着きますと、家はというと九萬一は父が7
歳の時にベルギー人の夫人と再婚していました。家庭には異母妹弟も生まれていました。
九萬一以外はみな使用人も含めてフランス語しか話せないんですね。そこで身を入れてフ
ランス語を学ぶんです。家庭の中ではフランス語しか通用しませんし、当時の世界の文学
の震源地はフランスでしたから、フランス語の原書でフランス文学を読みたいと。あっと
いう間にフランス語が上達するようになるんです。今度はフランス語の詩を原書で読むよ
うになると、その詩を日本語に置き換えることで、その原詩が自分の物になったような気
がする、それがとても楽しい作業だった、この上なく楽しい作業だったというんです。メ
キシコに呼び寄せられたのが19歳でそれから34歳までの大正年間のほとんどを、九萬
一の任地で暮らすんですね。途中何度か次の任地が決まるまで、日本に帰ってきたことも
ございましたが、結核を養いながら、スペイン、ブラジル、ルーマニアと各地に暮らすん
です。23歳の時にはスペインでマリー・ローランサンに出会っています。この14年間
の外国暮らしの間に、一度だけ父は25歳の時に、父親の言いつけに従ったんだと思いま
すが、単身で日本に帰ってきて、外交官試験に臨むんです。一次、二次と通るんですけれ
ども、三次試験は結局病気が再発して、試験を受けられなかったのです。当時の明治天皇
の侍医であった入江達吉というお医者様が祖父の友人だったそうで、その方が父を見て「こ
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のような体でもしも外交官にになったとしても、外交官のような激務は務まるまい」とい
うことで、祖父は父を外交官にすることを諦めるんですね。その頃もうすでにフランスの
詩を訳したり、歌集を出したりしていた父ですけれども、九萬一は文学で暮らすことを良
しとしないんですね。息子の為を思ってでしょうけれども、今度は銀行家にしようとする
んですね。ベルギーの国立銀行に日銀委託研究生として勤務させるんです。多分、日本に
帰ったあかつきには日銀に勤められるというような内諾を得ていたんだと思うんです。父
はお金には全く一生興味のない人でしたし、まして人のお金を数えるなんて関心がないっ
ていう事で、怠け者の銀行員ぶりだったということが父の随筆にうかがえるんです。そう
こうしてるうちにひどい病気の再発があるんですね。自分の枕元でもう息も絶え絶えの、
大學が明日死んだらどうやってお骨にして日本に持って帰ろうかと、人を火葬にするとい
う習慣がない国なので、そういう相談をしているのが、自分の耳にはっきりと聞こえたと
(結核患者というのは頭がはっきりしているんだそうで)
、何度もその話を父から聞かされ
ました。そういう相談をしていたぐらい重篤な結核の再発だったんですね。
そこで継母スチナさんの計らいでスイスのダボスの結核療養所に入るんです。このダボ
スの結核療養所というのはとても贅沢なところで、ロシアの大富豪とかアルゼンチンの大
牧場主が召使を何人も連れて何年もいるというようなところだったそうで、トーマス・マ
ンの『魔の山』の舞台にもなったというところです。あるとき、そこの請求書が間違えて
父のところに回ってきてしまって、それを見た父があまりの高額な金額にこんなところで
療養生活をしていられないと逃げ出してきてしまったんだそうです。結局父はダボスで身
に着けた結核療養患者の生活、暮らしを一生守って病気は治るんですね。ですから不治の
病を治してくれたママン、スチナさんのことをたいそうありがたがっていました。
九萬一も外交官もだめ、銀行員もだめと結局あきらめ、文学の道に自分の息子が進むこ
とを認めざるを得なかったと思うんですけれども、父は決して自分の父親に外交官の道に
進みなさい、銀行家になりなさいと導かれたときに正面切って争っていないんですね。そ
れが越後の人のたわむところなのかもしれませんけれども、一応は従うんですが結核が幸
いしてだと思うんです。父の運命はやっぱり文学者としての大學が運命だったのかなと思
うんです。結局結核というものを抱えていましたけれども、文学を志すものとしての環境
はとても恵まれていたと思います。もともと九萬一は、外交官になっていなければ文学者
になっていただろうというくらい文学には造詣が深く、父のよき理解者だったんですね。
ただ、詩や翻訳で生活するのは難しいという親心だったのだと思います。父は自分の父親
九萬一のことを私達家族に話して聞かせる時に、長城先生とか九萬一先生と呼んで、こう
なすったとか、ああおっしゃったとか敬語を使って話すんですね。私や母、家族、周りの
ものにも敬って欲しかったんだと思いますし、また父自身も文学上の師、人生の先輩そし
てまたあるいは人として敬愛していたんだと思います。九萬一に従っての14年間の外国
生活の間に、父は自分の気に入ったこれだと想う詩を日本語に置き換えることをとても喜
びとしておりましたから、そのようにして置き換えた詩、66人の作者の340編の訳詩
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集を出版します。
『月下の一群』これがのちの日本の文学の方向を大きく変えたといわれて
います。森鴎外の『於母影』、上田敏の『海潮音』
、永井荷風の『珊瑚集』とともに日本の
四大訳詩集と呼ばれていますが、やはりその量、質と申し上げたいですけれども、その後
の文学に与えた詩だけではなく、影響は圧倒的です。この『月下の一群』をもって、父の
結核を養いながらの外国生活は成功裏に終わったといえるんじゃないかと思います。九萬
一が外交官を退官して日本に暮らすようになって、大學の『月下の一群』が上梓され、そ
れが高島屋のショウウインドウに飾られているのを継母のスチナさんは毎日のように見る
のが楽しみで、しばらくの間日本橋に通ったんだそうです。
ここで『月下の一群』からアポリネールの「ミラボー橋」をちょっと読ませていただき
ましょう。アポリネールは、父とマリー・ローランサンが出会う以前にアポリネールとマ
リー・ローランサンは恋人同士だったことがあって、そのころしげくマリー・ローランサ
ンのもとにアポリネールはミラボー橋を渡って通って行ったんですね。後になって、その
頃のことを思って「ミラボー橋」という詩が出来たんです。今でもシャンソンで多く歌わ
れて皆さまもご存知かと思いますが、
「ミラボー橋」
(朗読)
ミラボー橋
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
わたしは思い出す
悩みのあとには楽しみが来ると
日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る
手と手をつなぎ 顔と顔を向け合おう
こうしていると
二人の腕の橋の下を
疲れたまなざしの無窮の時が流れる
日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る
流れる水のように恋もまた死んでゆく
恋もまた死んでゆく
命ばかりが長く
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希望ばかりが大きい
日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る
日が去り 月がゆき
過ぎた時も
昔の恋も 二度とまた帰ってこない
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる
日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る
話は少し変わりますけれど、父は「自分には3人の母がいた」とよく言っておりました。
私には2人の子供がおります。もう、2人とも40歳間近になっておりますが、上が娘で
1歳違いの息子がおりますが、息子は小さい時小児喘息でとてもひ弱な子だったんですね、
1歳上の姉の葉子よりは甘ったれで母親っ子でした。その頃、父の家から歩いて3分の所
に住んでいた私達親子は、ほとんど毎晩父の家で食事をする習慣でした。息子の大一郎が
少しコンコンと始まりかけていたある日、今日は早く帰ろうねと咳き込む子供を、私の膝
の上に乗せて、半纏を着せながら熱っぽくむずかる頬に、熱を測るように頬ずりをすると、
子供のほうも甘えた仕草でこたえてきたんですね。それまでみんなに囲まれて機嫌良く晩
酌していた父だったんですけれども、杯を手にしたまま下を向いてしまって、「君達、僕の
前でそんな風にしないでおくれ。僕は…僕は大一郎の歳には母はいなかったんだよ」とも
う涙をぬぐおうともしないで、ぼろぼろとうつむいてしまったんですね。酔いの回った詩
人の魂が娘の私が母親として幼い子供を気遣う様子に、自分の中の母親を呼び起こしたん
だと思うんです。こらえきれなくなってしまったんだと思うんですね。
生みの母親は父が3歳の時に結核で死にました。死んで自分に母親の使い残しの命を与
えてくれた、自分も結核で誰もが30歳まで生きるとは思っていなかった、周りも誰もが
生きると思っていなかった、
「自分の使い残しの命を自分に与えてくれた、そしてまた自分
のフランス語になってくれた」と父はよく言っていました。
それから、17歳まで育ててくれたのが祖母でした。そして、生母譲りの結核を血を分
けた親でも及ばない療養で治してくれたのがベルギー人の継母スチナさん、ママンでした
ね。その3人のどの一人が欠けても、後の父はなかったと思われますが、父の母恋は圧倒
的に生母に偏っているんですね。父に残された母の記憶というのは、父の人生の本当に最
初の記憶なんですね。それが果たして本当の記憶なのかどうか、父が人づてに聞いた話な
のか、それさえも定かではない記憶なのですが、自分には3つの母の記憶があると言うん
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です。蚊帳の中の母と自分、蚊帳の中にひとりぽつんと座っている母の姿、そして長岡の
打ち上げ花火にほの青く浮かび上がる死のひと月前の病室での母の面影、長岡の花火がぱ
っとこう開くと、暗い病室に母の面影がシルエットになって映ると言うんですね。どれも
が死の影が暗く潜んでいるような、父の記憶なんですけれども、みな同じような3つの映
像が残っていましたが、でも音としての記憶がないんですね。後にその音としての記憶が
ないという詩を父は残しているんですけれども、特に父は若い頃、母親譲りの結核で長生
きは出来ないと誰もが思っていました。父にとって母はその命を与えてくれた生命の源で
あると同時に、死の素因でもあったんですね。奇跡的に病み上がった後、具体的記憶のほ
とんどない母と結核という目に見えないものを共有していたことで、自分の中に深く観念
としての母を宿していたんだと思うんです。歳とともに募る生母の思慕への念は抑えよう
がないのでした。本当に晩年になって80歳を過ぎてから、母を思う詩を非常に多く残し
ています。その母を思う詩の中から数編読ませていただきますね。
「以遠の旅」以遠ってい
うのはそのさきの旅です。
「以遠の旅」
、
「母のいた日」
(朗読)
以遠の旅
命の果てのその先の
以遠の旅の行き先は
北か南か地の底か
はたちの母のふところか
母のいた日
母のいた日が重ねたい
終わりに近い今日の日に
初めに近い頃の日が
八十幾年前の日が
母のいた日が重ねたい
温胎の時間。温胎というのは父の造語です。十月十日お母さんが子供をお腹の中に宿し
ている時間ですね。
「温胎の時間」
、
「母の声」
(朗読)
温胎の時間
母よ その貴い時間は
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本当に在ったのですよ!
あなたの心臓と 僕のそれと
ふたつの心臓が
呼び交わし 鼓動し合った
その貴い時間は
母よ 母よ
そのカダンス
その協和音
そのリズム
母よ 母よ
ついにかえらぬか
八十年前の
あの温胎の時間は
母よ
母の声
母よ、
僕は尋ねる、
耳の奥に残るあなたの声を、
あなたが世に在られた最後の日、
幼い僕を呼ばれたであろうこの最後の声を、
三半規管よ、
耳の奥に住む巻貝よ、
母のいまわの、その声を返えせ。
3人の母がいるといっても、想いは生母にいくんですね。そして、その生母を想う時必
ずその背景にあるのは、2歳の時から中学卒業まで過ごした長岡、郷里、長岡なんですね。
「そして今」という詩があるんですけれども、これは昭和54年4月1日の新潟日報に寄
せた父の死の2年前の最晩年の絶唱といわれている、ふるさとを想う詩なんですけれど読
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ませていただきますね。
「そして今」
(朗読)
そして今
そして今、こころに生きる
ふる里の越は北国……。
北国の弥生は四月、そして今
四月になって、梅桜桃李
あとさきのけじめもなしに
時を得て、咲きかおり……。
そして今、遠山なみに霞立ち
蒲原の広野の果ての国つ神
弥彦山、むらさき裾濃
神さびまして鎮もれば……。
そして今、信濃川
雪解水集めて百里
嵩まさり
西ひがし岸べをひたし
滔々濁水はこぶ
逆巻いて
そして今、こころに生きる
ふる里の越の4月は……。
郷里を離れて70年、心に生きるふるさと長岡だったんですね。いろいろな意味で父を
養ったふるさと。父はよく「自分は東京生まれ長岡育ち」と言ってましたけども、本当に
最晩年、死の2年前のこの詩を読むとその言葉が本当だったんだなと実感します。人は生
きてきたように死ぬ、とずっと若い頃に何かで読んだことがあるのを覚えているんですけ
れども、父の死はその通りでした。80歳を過ぎても風邪を引いたこともなく、初孫にも
恵まれ、詩人としては初めてという文化勲章を受章し穏やかな晩年でした。風邪を引いた
こともなく、
「風邪の神と死神とには見放されたよ」と冗談を言っていましたけれども、朝
な夕なの散歩も、小さな温室の鉢植えの手入れも、郵便局などの近いところの用事なども
全て自分でしていた父でしたが、明けて89歳になるという暮れに軽い脳梗塞を起こしま
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した。1月8日の89の誕生日をベッドの中で迎えた父でしたけれども、右手足が麻痺し
てしまって、その機能回復訓練もうまくいって、字も書けるようになっていたんですね。
初めて画板にマジックを持って、何か書いてみましょうと言って書いたのが「いってんく
もひらく」って書いたんですね。頭もしっかりしているなと思って私は安心したんです。
毎日点滴に来てくださるお医者様の先生も「もうここまで来れば大丈夫、春が待たれるね、
大學先生にはなるべく綺麗なものを見せて、綺麗なものを聴かせてあげなさい」っておし
ゃってくださって、誰もが春が来れば父は回復すると思っていたんですけれど、後から思
うと父は自分の死がもうまもなくだと分かっていたんだと思うことがふしぶしあるんです
ね。枕元にいる私や子供をじーっと見ながら、利くようになった自分の利き手で触りなが
ら、
「君達と別れるのは辛いなあ、寂しいなあ」って言うんですね。私は「何を言うの。そ
んなこと言わないの」って言いますけれども、子供などは小学校2年と3年でしたでしょ
うか、もう目を真っ赤にして、泣きたいのをこらえなくてはならないそんな場面が何回も
ありました。
またある時は、とろとろと心地よさそうに眠っていたのに、ふと目を覚ましてお布団を
力なくめくって起き上がろうとするんですね。「さあ行きましょう、汽車に乗り遅れるとい
けないよ、急ぎましょう、さあ急ぎましょう」「どこに行くの?」「長岡さ」って言うんで
すね。「どこにも行かなくていいの、ここはパパの家よ」っと言うと「ああそうだったか」
またとろとろとしていたと思うと、目を覚まして、
「あんな雪の深いところで一人で暮らせ
るかしら、寂しいなあ」って言うんですね。寝てる間にとろとろとしてまどろんでいる間
に、夢でも見ているんでしょうと思っていたんですけれども、父は死の瀬戸際でふるさと
に帰りたかったのか、帰って行ったのか、そういうことが度々ありました。そして、亡く
なる前の晩、誤嚥性の肺炎を起こしていたんですけれども、痰で喉が絡まるくぐもった声
で、右手を私に差し伸べて、
「世話になったね、ありがとう」と言って握手をするんですね。
熱がある手はとても力強くしっかりしていたので、それが最後の言葉になるとは思わなか
ったんです。翌日父の心地悪そうな様子に「どうしたの、具合悪い?」って昼ごろですか
「うん」と大きくうなづいたので、私は病院用のベッドを座敷に入れて、私がその下に休
んで付き添っていたんです。ベッドの上に私が上がって、私の胸に父の背中を持たれかけ
させて、前に足を伸ばさせて抱いたんですね。庭では夜明け方から強い春一番、遅い春一
番が吹いていたんです。春一番が詩人大學を連れ去ったと後に報道されましたけれども、
庭には父がかわいがっていつもえさをやっていた山鳩が降りてきて、芝生の中でこう草の
中をついばんでいるので、
「プップグーが来てますよ、見えますか、来てますよ、見えます
か」って言うと、ゆっくりそちらのほうに目をやって「うん」と大きくうなづきました。
せっかく起きたのだから何か飲ませてもらいましょうと、母にスプーンで白湯を飲ませて
もらって、大きくごくりと音をさせて、ゆっくりやっとの思いで飲み込みました。
父の死はあっという間でした。その熱い背中がずんと重くなって、大きく息をひとつし
て止まりました。
「パパ、パパ」と母が気が狂ったように呼ぶ声にはもう何も答えませんで
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した。私はもうあまりも見事な最後に、何か自分自身がこの世のものでないような映画の
中にでも入ってしまったような、悲しいと言う感覚ではなく、見事な最後にただ呆然とし
てました。あとになって父は母と私のためにその瞬間をずーっと待っていてくれたんだな
って思うんですけれど、それが父がふるさと長岡に帰った瞬間でした。
父はあるとき若いお弟子さんに、父はお弟子さんに苦言を呈することがないんですね、
やさしいばっかりの父なんですね。珍しく「詩人である前に人でありなさい」といってい
るところに私がお茶を持っていって、あまりの父の居住いを正した言い方にはっとして私
も傾聴したことがあるんです。詩はその人の人格、人柄であると言いたかったんだと思う
んです。どんなにその言葉を繕っても、行間にはその人が出る、生活が出るというんだそ
うですが、そのことだけを父の教えとして、常々一人の個人として、一人の女性としての
自分のあり方を、居住いを正していたいなと、いつも詩人である前に人でありなさいと言
う父の言葉を忘れないようにしているんです。
父はあるとき私に「僕は生まれてくるのが早過ぎた、僕の詩は50年早い、50年経っ
たら理解されるよ、君はそれを見届けておくれね」と言ったことを思い出します。そして、
最近そのことが本当に現実になったなと思うんです。
「新春 人間に」という詩があります
が、この詩は産経新聞の昭和46年、1971年今からちょうど40年前ですね、福島第
一原子力発電所が稼働した年です。その年の産経新聞の1月1日号の特別版用に書かれた
詩です。高度経済成長のバブルに浮かれたおとそ気分の元旦に届けられる詩にしては、ず
いぶん厳しい詩なんですけれど、書かずにはいられなかった詩だと思うんです。
「新春 人
間に」
(朗読)
新春 人間に
分かち合え
譲り合え
そして武器を捨てよ
人間よ
君は原子炉に
太陽を飼いならした
君は見た 月の裏側
表側には降り立った
石までも持って帰った
君は科学の手で
神を殺すことが出来た
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おかげで君が頼れるのは
君以外にはなくなった
君はいま立っている
二百万年前の進化の先端
宇宙の断崖に
君はいま立っている
存亡の岐れ目に
原爆をふところに
滅亡の怖れにわななきながら
信じられない自分自身に
おそれわななきながら……
人間よ
分かち合え
譲り合え
そして武器を捨てよ
いまがその決意の時だ
おとそ気分の1月1日元旦に届けられるにしては、厳しい詩だと思うんですが、書かず
にいられない詩だったんだと思います。父にはこの詩のように、時代に迎合しない気骨の
ある詩がたくさんあるんです。この気骨こそが、ふるさと長岡がはぐくんだ、父の生きざ
ま、魂だと思うんです。今日ここに伺う前に長興寺、お寺にお墓参りをしてまいりました
けれども、父の堀口家代々の墓のところに、堀口大學の墓という説明板を教育委員会が建
ててくださってまして、そこに何か詩を選んでくださいって頼まれましたのが、今からそ
うですね25年くらい前でしょうか、その時に選ばせていただいたのがこの「新春
人間
に」です。今始めて何かこの詩が、父を語ってるというか、父の気骨、父の魂を語る、新
しく脚光を浴びている詩のような気がいたします。
今日受付で私が編集させていただいた、父の詩集『しあわせのパン種』というのを置か
せていただきました。皆様に広く読んでいただきたい詩集を父の13回忌の時に編ませて
いただいたんですけれども、詩集ってのはとても一般的でないので、皆様手をお出しにな
らないので、なるべく安上がりに、そしてハンディーにハンドバックの中に入れられるよ
うに作って欲しいとお願いして、発行以来もうずーっとひたひたと愛読され続けていたの
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ですが、この度めでたく増補版というのを今日に合わせて出版していただくことになった
んです。この「新春
人間に」というのと、ふるさとを詠んだ「そして今」というのを2
編加えさせていただいて、また新しく増補版というふうにして、今日に合わせて出版され
ることになりました。長いお時間、なんだかまとまりのない話で、お聞き苦しかったかも
しれません。お付き合いありがとうございました。これで失礼いたします。
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