「生活を通して自治を認識するとき地域は動き出す」 -「人間の壁」から「地域が動き出すとき」へ- 南里 悦史 1「豊かさ」の中で拡大される『人間の壁』の日本人意識 昨今の教育施策をみていると50数年前の『人間の壁』 (石川達三)の小説を何かにつけ思い出す。 これは小説といっても当時の佐賀県の教員が、増え続けた子どもの教育環境を守る闘いを描いた実 際の出来事である。この小説の舞台は私の故郷でもあり、私自身も小学校高学年だったと思っている。 この小説は、戦後の混乱時の国家予算をどうするか、農家に牛馬頭税を掛けるか、子どもの増加で 劣悪化する教育環境の教育予算を増やすかの選択がひっ迫していたとき、当時の K 文相が佐賀県庁 を訪れることに対して、佐賀県の教師が座り込みをかけ陳情しようとする闘いと父母・地域との葛 藤が描がかれた物語であった。それは K 文相に対して教師の組合員を3日間で3-3-4割に分け 県庁への動員をストライキ態勢で陳情を実施しようとするものであったが、子どもの親たちは座り 込みに行く教師たちに行かないで子どもの授業をしてくれと、子どもの教育環境を守る教師の闘い を切り崩していったことが「人間の壁」と位置づけられたのであった。 事実、担任の先生がストライキに行く朝、私たちに「今日は、皆さんと一緒に勉強出来ません。 その理由を今説明しても皆さんには判ってもらえないでしょう。しかし、皆さんが大きくなったら きっと、何故、今日皆さんと一緒に勉強出来なかったか、を判ってくれると思います。」と話されて、 朝礼を終わって出かけられたことが思い出される。当時、学級委員長だったので、一日中自習と言 うことが大変だったということぐらいしか意識になかったが、何故『人間の壁』なのかは、教育を 学び始めて、この本を読み、初めてあの時の担任の先生の言葉が蘇り、意味が理解できたのだった。 当時、教師が子どものために劣悪なベニヤ張りの教室環境を良くしてほしいと言うことと「授業を して欲しい」ということのどちらに大義が立つだろうか、何故、親と教師が手を結べなかったのか。 しかし、それ以来、教育を学び続けて、『壁』が無くなったと認識したことはないし、「豊かさ」が 広がる中で、子どもを守る輪が大きくなるどころか、親も教師も個々に分散、孤立化してしまって いるとさえ感じられる。それは『壁』が崩れ民主化したのではなく、子どもの教育の何を守るのか が見失われてきている要因に繋がっている。 特に、最近の教育施策は、「学力向上」という目標に標榜されて、子どもの「ゆとり」や個々の多 様性や生活力の向上が軽んじられて、しかも、学力問題は個々の自己責任が強調され、競争原理が 教育現場に持ち込まれてしまう傾向にある。競争の結果、非行、不登校やいじめの要因は、親と教 師の責任となっている。「学力低下」が子どもの教育の重要な課題であるために、「低学力」や「問 題行動」に対しては、国が教育の再生をかけて対応するという。これはまさに国が教育の大義を「学 力向上」と位置づけ、その大義のために親たちを統治する新しい「壁」を再生しようすることにな らないのか。「なぜ国が『家庭教育』」(朝日新聞 07.5.28)なのか、なぜ教育三法の改訂にみられる ようにしくみや制度として教師の管理・評価、養成・研修への権限拡大へと教育統治がすすんでし まうのか。 それだけではない、高度情報社会による国民の生活価値へのマスコミや情報の浸透は、物事の本 質を変質にしてしまう情報表現であったり(『にほん語観察ノート』井上ひさしを参照)、「文章表現 から主語を隠し」て「文章の意味をあいまいにする」(朝日新聞 07.4.17「定義集」大江健三郎)た めに、「誰が、何を、何のために」という責任意識や、権力支配に対する主権者意識が希薄化させる 風潮が無意識の中で広がっている。子どもの教育に対する『壁』が国の社会のしくみと情報管理に よって国民の分断と構築が続けられていることを、教育自治の認識をつくる生活の現実を通してど のようにとらえるかが主権在民を大切と感じる視点として深刻に求められている。 2 「地域が動き出す」ことの意義 主権在民の意識はふつう人がふつうの生活の歴史をとおして考えていくことである。ふつうの生 活とは今日あまり意識されないこととして受け取られるが、歴史的にはふつうの生活をすることが いかに大変で、大切だったかが民衆史の中では語られてきた。私の教育学は「人間の壁」の直接体 験が教育学を学ぶ大切な視点となってきたが、特に戦前の教化思想や通俗教育、精神作興などの統 治思想は民衆がふつうの生活を営む心の深奥に位置付いていたことの対抗軸として、地域の自治や 学習活動・実践を求め、参加し、調査分析することであった。それは教育の統治の基盤である地域 共同体の崩壊が、共同体が無くなることでなく、その人間的つながりが民主的自治の形としてどの ように変わりうるかと言うことを考えていた。特にどのような契機と力によって「壁」が絆に変わ っていくのかをとらえることはできないかと考えていた。 その実際は、先ず福岡県柳川市の「掘り割り浄化運動」で、まさに「地域が動き出す」(『明日へ の生涯学習と地域づくり』南里悦史参照)ことであった。地域共同体は半封建的な地域支配と地縁・ 血縁関係を重視した人間関係によって動かされるが、柳川の掘り割り浄化は、掘り割りを暗渠にす るという方針に立ち向かって、地域住民と膝をつき合わせて話し合った故広松伝さんの想いが実を 結んだ運動であった。1年半の間地域の人と昔の生活、水と人々のつながりについて語り、思いの 丈が繋がったとき地域の人は行政に頼らず、自らの力で浄化活動に立ち上がったのであった。無関 心で、依存心に固まっていた意識が、歴史を振り返り、次世代と地域に責任を持つことの意味が呼 び起こされたとき「地域が動き出す」時であった。広松さんは「取り組み前は少しの水であふれ、 大量の蚊を発生させて悪臭を放ち、景観を損なっていた堀が、浚渫を終えて水が流れ始めるとすば らしい空間によみがえり、町が生き返った」と述べ、 「川のことで住民の中に入っていったわけだが、 (略)一番やかましく言った人たちほど、こちらの気持ちが分かってしまうと、後でどんどん協力し てくれた。」「行政マンが机上で、中央のマニアルだけでやっていると地域に合わず、みんな画一的 になってしまって、地域のよさがなくなってしまう。土地や自然や川、景観などにかかわる場合は、 とくにそうである。」「行政マンが住民と一緒になって取り組んだ施策は個性的で、総合的になる。 その行為は民主的である。」(南里・前掲書)と提唱する。 こうした活動での感動は、その後、宮崎県綾町の郷田実さんとお会いした時も同じだった。照葉 樹林の思想と住民の生活が「結の心」で結ばれ、7年間もかけて守り続ける運動を支えてくれた活 動は住民にとっては苦しいけども大切であったことの話は信頼に守られ続けた誇りを強く感じた。 また、町長を交代させ、自分たちで街作りの決まりをつくり、杉の木で公共の施設をつくり、街作 りを行ってきた小国町の活動では「2割3割反対は当たり前、それが次の学習課題となる。鯛ばか りの水族館を見ておもしろいですか」と、住民が皆なで作り出した信念を見せてもらった。「地域が 動き出す」ことは、「壁」を壊す論理だけでは動かない。勇ましいだけでは終わってわびしさが残る し、楽しいだけでは物足りなさを感じるだけであり、みんなの役割と意義と存在を共有できた地域が、 行き残り続けている。それはふつうの事のはずだったと思うことは少なくない。 ESD・環境史研究 目次 「生活を通して自治を意識するとき地域は動き出す」 -「人間の壁」から「地域が動き出すとき」へ- 南里 悦史 (1) 社区教育展開に関する二つの中国教育部公式文書 千野 陽一 (4) 2000 年代の日本における環境史研究の成果と動向 -その1- 高橋 美貴 (11) 卒論における環境教育の研究 -信州大学教育学部渡辺隆一研究室の卒論を基に- 渡辺 隆一 (17) 環境教育の射程(3) 朝岡 幸彦 (23) 環境教育の方法(その1) 現代自然体験学習の源流としての自然保護教育実践における ESD 的視点の検討 ~ 1970 年代のナチュラリスト運動に着目して~ 降旗 信一 ( 30) 青年の自立支援における地域通貨の関係構築の可能性と課題 -コミュニティー・ベーカリー&ファーム(食と農の連結)の実践をとおして- 野村 卓 (41) 地域文化の持続可能性と人の主体化とのかかわり -大分県下郷地区における新規就農者の地域活動を事例に- 手島 育 (52) 環境教育の国際的枠組 櫃本 真美代(59) 東京教育大学野外研究同好会の自然保護教育実践をふり返る 伊東 静一 (69) 東京都高尾地域の自然保護運動 又井 裕子 (78) 地域における自然体験学習を通したおとなの学び -大宮のもり子どもネイチャーゲーム教室からみる一考察- 娜仁其木格 (85) 持続可能な開発反対運動に内在する「環境教育者」の必要性 楠野 晋一 (90) -川辺川ダム問題における開発反対運動を事例に- 社会のための教育における NPO の役割と課題 - NPO 法人 ECOPLUS を事例として- 須賀 貴子 (98) 祭りに関わる互酬性にみる人間性の回復の可能性 - 府中くらやみ祭りの調査を通して- 敦賀 英輔 (105) まちづくりにおける共生・協同の可能性と課題 -大分県中津市下郷地区を事例にして- 萩原 捷 (113) 女性問題学習から国際平和へのプロセス 秋山 典子(122) 社区教育展開に関する二つの中国教育部公式文書 千野 陽一 訳・解説 人数が置かれている事実からも明確である(教 〈解説〉 1980 年代から経済発展区域中心に展開さ 育部職業教育・成人教育局『関于 2003 年社 れ始めた新しいタイプの教育…社区教育につ 区教育実験区工作状況調査的函』03.12)。ま いては、「地域住民が精神生活充実のために提 た、(2) では具体的な IT 技術を駆使した教育・ 起する自発的な生涯学習要求から生みだされ 訓練方法の導入が強調され、労働力陶冶と深 たものであり、行政はその援助・奨励によって、 くかかわる社区学院等の教育訓練施設の整備 基礎組織としての地域と行政が共同で推進す が強調されている。さらに、(2) では社区教育 る下から上への大衆的な教育活動で」「その根 の農村社区教育活動への新たな踏みだしに初 本において、地域住民の自主的な学習権が保 めて言及され注目される。 障されなければならない」と主張されていた いずれにしても、中国的特色とも言える「上 (呉遵民執筆・千野訳「中国社区教育の理論と から下へ」という国家的統制をともなった社 実践」、呉他編著『現代社区教育の展望』上海 区教育の性格変化を二つの公式文書から読み 教育出版社、2003)。 とることは難しくない。若い世代、知識人、 ここでとりあげる二つの公式文書は、国策 一部の労働者農民における個の尊重・権利意 化以後の中国における社区教育の目標・内容・ 識の高まりとからめて、本来、自由・民主を 方法等の深化を示すものである。(1)(2) の文 ふまえた住民参画により展開されるべき社区 書を通じて総体的に施設ネット・教育資源開 教育の今後が注目される。なお、括弧内の数 発と発掘・経費・職員体制・点検評価制度等 字等は訳者の補注である。 の整備が進む反面、「下から上への大衆的な教 育活動」の性格は弱まってきている。また、 文書 (2) では達成目標として教育訓練者数・ (1) 全国社区教育実験工作経験交流会 議要録(2001.12.10) 教育訓練率等の数値が具体的に求められてい 『21 世紀に向けた教育振興アクションプラ る。 ン』(教育部 1998.12.24)が提起した「社区 一方、社区教育に地区経済発展と住民生活の 教育実験を展開し、次第に生涯教育体系を樹 質向上を求める社区建設の有力な手段として 立・完成させ、全人民の素養を高めるように の位置づけが一層明確にされ、(1) 同様、社区 努める」という任務を着実に果たし、社区教 教育が成人教育の新たな発展方向として捉え 育実験工作を押し進め、全国社区教育実験工 られ、国家政策となった「全民学習」の学習 作の展開を促進するために、教育部は 2001 型組織づくりと生涯教育システムの建設・完 年 11 月 7 日から 9 日に北京で全国社区教育 成の有力な道筋として注視されている。また、 実験工作経験交流会議を開催したが、これは 教育・訓練内容に全市民対象の多様性が強調 教育部が初めて開催した全国会議である。 この会議には、教育部関連部局・直属単位 されているが、重点は正規の学校教育が担い きれない労働力陶冶に一層収斂されている。 の責任者、各省・自治区・直轄市・計画単列 このことは、教育部の 2003 年全国社区教育 市(ほぼ日本の政令指定都市に相当)教育行 実験区工作状況調査が求める報告項目のトッ 政部門の社区教育責任者、28 全国社区教育実 プに再就業訓練・出稼ぎ農民訓練・現職訓練 験区政府の教育行政部門責任者、さらに専門 家・学者が参加した。教育部の王湛副部長が 会議はまた、社区教育が多様な教育資源の 「社区教育実験工作を積極的に展開し、社区教 充分な活用・開発による社区メンバー全体の 育工作の新たな発展に努力しよう」と題して 素養と生活の質向上を目的に一定区域内の地 工作報告を行い、全国社区教育実験工作を総 区経済建設・社会発展を担う教育活動である 括し、社区教育実験工作が直面している情況 ことを確認した。同時に大中都市の都市部あ と社区教育実験工作展開がもつ重要な意義を るいは県レベルの市単位における社区教育実 示した。さらに、今後一定期間推進する社区 験工作は、一定規模の教育資源の利用・開発 教育実験工作の指導思想・目標・任務および と比較的高レベルの教育に関する統一的な計 政策的措置を示した。徐錫安北京市委員会常 画・指導と比較的多数の部門や団体の社区教 任委員・市教育委員会主任および民生部・中 育参加も可能なことを示した。比較的広範囲 央文明処の社区教育関連責任者が出席し、発 な教育・訓練ネットの整備と学習型組織創造 言した。 により、社区メンバーの基本的学習要求を満 会議は各地における社区教育実験工作の経 足させるのに好都合でもあった。社区教育は 験と成果を交流し、北京・上海・江蘇等の省(直 「全員・全コース・全体」という特色を持つ地 轄市)教育委員会(教育庁)および北京市朝 域教育で、各種の正規教育と密接な連携と合 陽区・天津市河西区・太原市杏花嶺区・上海 理的分業により各種教育との調整を進め、当 市閘北区・蘇州市金閶区・済南市歴下区・廈 面は各種教育の拡大・補充に重点を置くもの 門市鼓浪嶼区・成都市青羊区等の社区教育実 である。社区教育は、社会の底辺にまで広が 験区が展開方法と経験を紹介した。会議出席 る新たな教育を開拓し、社区住民、とくに学 の代表は北京市朝陽区の社区教育実験工作を 校や離職し多くの社区成員の教育・訓練要求 考察し高く評価した。教育部職業教育・成人 を満足させ、我が国教育システムの弱点を有 教育局責任者が会議を総括し、特に重点的な 効に補うものである。さらに社区教育は、社 把握を要するいくつかの問題を指摘し、会議 区住民工作の求めと社区住民の生活要求に応 の精神の徹底的実現を求めた。 えた新たな教育サービスを開拓し、多様化す まず会議は、江沢民同志の重要思想「三つ る社区住民の学習要求を満足させるものであ の 代 表 」 論(00)・ 党 第 15 期 6 中 総(00) る。当面、社区教育を成人教育の新たな発展 の精神を導きとし、社区教育活動展開以来、 方向として、正規の教育が取り込めず解決で とりわけ教育部による 00 年 4 月の社区教育 きない教育・訓練に重点を置き、成人教育の 実験区確定によって、社区教育が長足の発展 新らたな地平を切り開く努力が要求される。 と有益な経験を手にしたことを承認した。さ 会議は、社区教育が江沢民同志の重要思想 らに会議は、社区教育の誕生と進展は先進的 「三つの代表」論を実践に移し、社区建設と生 生産力発展による社会成員全体の素養向上、 涯教育システム建設・学習化社会実現の全面 先進的文化の発展、中国的特色を持つ社会主 的推進にどのような重要な機能を持つかを深 義文化建設という切実な要求の反映であるこ く分析した。その上で、新情勢のもとで、社 とを明らかにした。また、同時に衣食住問題 区教育の重要な意義をさらに深く認識し、社 の基本的解決に応えることを反映し、小康社 区教育工作展開への自覚と自主性を高めるべ 会(いくらかゆとりのある社会)建設開始の きだとした。会議は、 「第 10 次 5 ヵ年計画」 (01. 新段階で、国民大衆が自らの素養と生活の質、 全人代採択)期間の社区教育実験工作推進に、 さらに社区水準向上という切実な要求を反映 鄧小平理論と江沢民同志の重要思想「三つの したものであることも明らかにした。 代表」論および党第 15 期 6 中総の精神を導 きとし、社区建設という総目標を中心に、実 には、各実験区がすべて 30 ~ 40%の職場と 験を通して豊かな内容と多様な方法による教 家庭を学習型組織とすることは充分可能であ 育・訓練活動を展開し、社区住民の多様な教 る。区(市・県)の社区教育センター・社区 育要求を満足させることを確認した。その際、 教育学院を先頭に、街道(郷鎮)・居民委員会 学習型組織創造の活動展開と社区教育ネット (村)の社区教育学校・活動センターを中核に、 の整備、社区の多様な教育資源の有効な整備 社区学習型組織を基礎とする社区教育ネット による社区教育の質量とその効果の向上、社 とシステムを作りあげる。 区教育の健全な発展に有用な社区教育管理モ ③社区教育資源の充分な活用・開発と創造。 デルと運営メカニズムの初歩的形成が必要と 社区内に存在する多様な教育資源の充分な活 なる。また、全国社区教育実験区をさらに拡 用、教育資源共有・享有の最大限実現によっ 大し、基本的には各省(自治区・直轄市)お てその効果をさらに高め、その機能をさらに よび計画単列市に実験区を設けなければなら 大きくする。社区教育の新たなサービス領域 ない。2005 年には、多くの実験区を社区教 に対し教育資源を開発し、社区教育の質と効 育模範区にし、直轄市・計画単列市・省都都 果を向上する。企業・事業所の教育機能をさ 市および一部の経済発展地区で生涯教育シス らに社会に開放する。社区内教育資源の利用 テムの構築・学習化都市創建に努め、社区教 促進の新たな道を探る。現代情報技術を充分 育を全国に広げなければならない。 に利用し、しだいに現代遠隔教育ネットを整 会議は、次の 4 点を今後一時期の社区教育 備する。開発された教育資源利用に際しては、 実験工作推進の主要任務とした。 政府の統一的計画と調整を強める。 ①異なったタイプの人々への広汎な教育・ ④社区教育管理体制と運営メカニズムの構 訓練の展開。社区教育を成人教育の新発展の 築。「政府が計画的に指導し、教育部が主管し、 場と捉え、現職訓練・再就業訓練、高齢者の 関連部門が力を合わせ、地域が積極的に支持 社会文化活動、ハンディのある人々の生活能 し、社区が自主的に活動し、大衆が広く参加 力向上、流入者の都市社会生活適応訓練を着 する」という社区教育管理モデルを引き続き 実に展開する。乳幼児教育、児童・生徒の校 追求し、完全なものにする。実験区政府は社 外素養教育を充分に実施し、社区住民総体の 区教育を政府の重要な活動に繰り入れ、社区 科学・文化・思想道徳・社会生活面における 教育活動を精神文明建設先進社区および社区 教育・訓練活動を展開する。さらに街道・居 建設模範単位建設工作と結合させ、社区教育 民委員会による優れた社区教育学校・市民学 実験工作を労働者・青年・女性団体等とさら 校および活動センター建設により深く留意す に密接に連携させ、相互に協力し工作を促進 る。社区における高等教育展開には既存の教 する。社区教育要員形成に際しては、ボラン 育資源の充分な活用・開発が必要で、そのた ティアを加え、その働きを充分発揮させなけ めのサービス活動を正しくやり遂げる。 ればならないし、そのことを特に重視しなけ ②学習型組織の幅広い創立。学習型組織に ればならない。「政府、社会、企業体・事業所、 は学習型企業・職場・団体・街道・居民委員会・ 個人がそれぞれ若干の拠出を行う」という方 隣組・家庭等も包含される。学習型組織創造 法で社区教育の財政問題を解決する。 の重点は、社区内の組織・職場・家庭・個人 会議では、次の要求が各レベル教育行政部 が社区教育を始め参加する積極性を動員し組 門に提起された。①社区教育実験工作指導の 織することにあり、学習を彼らの内在的要求 さらなる強化。②当該政府による社区教育発 と自覚的行動に高めることにある。05 年まで 展計画策定とその実施への援助。③関連部門 との連携・協調による活動の積極的展開。④ 確信を強めた。会議開催は、新世紀初頭にお 社区教育工作政策の研究策定とその実施促進。 ける社区教育工作の一層深い展開と生涯教育 ⑤社区教育実験各項目に関する工作の指導・ システムの構築・学習化社会建設への大きな 評価・点検の組織化。⑥社区教育展開の理論 推進力となったに違いない。 研究と担当人員の養成。⑦実験工作に必要な 理論の提供と人材支援。⑧農村・都市・企業 における総合的教育改革の継続的推進と結合 (2) 教育部『社区教育に関する若干の意 見』(2004 年 12 月 1 日) した社区教育実験の展開。⑨条件のある都市・ 一、小康社会の全面的建設、生涯教育シス 農村における率先的な社区教育発展の積極的 テム構築と学習型社会創造という高みから社 推進。⑩先駆的な生涯教育システム構築と学 区教育工作展開の重要性を充分に認識し、推 習化社会建設。 進に対する積極的責任感・緊迫感を強める。 会議はまた、教育部に全国社区教育実験工 近年来、我が国社区教育実験工作の範囲は 作において実施すべき主要措置の強化・指導 不断に拡大し、内容は不断に新分野を切り開 に関して次の問題を提起した。 ①社区教育実 き、工作は著しく進展している。99 年に国務 験工作の計画的配置による全国社区教育実験 院の批准を得た教育部『21 世紀に向けた教 区の確定②教育部社区教育工作連合会議制度 育振興アクションプラン』(教育部 98.12.24) の確立③社区教育実験工作の評価・総括・宣 による “社区教育実験工作を展開し、逐次生 伝の組織化④社区教育の理論研究と要員養成 涯教育システムを構築・完成し、全人民の素 工作の強化。 養向上に努力する” という要求提起以来、教 会議では、堅持すべき次の問題が提起され 育部は積極的に社区教育実験工作を推進して た。各レベル教育行政部門の「三つの代表」論・ き た。01 年 11 月、 教 育 部 は 全 国 社 区 教 育 党第 15 期 6 中総の精神の真剣な学習。因習 実験工作経験交流会議を開催し、社区教育実 にとらわれず「実事求是」の思想路線に立ち 験工作の目標・任務・政策的措置を明らかに 時代に適した発想の発展・進化による工作の し、28 ヵ所の全国社区教育実験区を確定した。 不断の刷新。土地の実情に合った施策展開に 03 年には、全国社区教育実験区を 61 ヵ所に よる社区教育水準の向上、社区教育規模の拡 広げ、実験区は各省(自治区・直轄市)と計 大。第 10 次 5 カ年計画期間中における生涯教 画単列市を基本的に覆うようになった。多く 育システム構築・学習化社会建設への突破口 の省レベル・市レベルの教育行政部門もまた、 の切り開きと 2010 年までの生涯教育システ それぞれ一連の省レベル・市レベルの社区教 ム構築・学習化社会建設目標の基本的達成、 育実験区を確定した。こうして各地で全国社 “21 世紀中国は皆学の国である” という目標 区教育実験工作経験交流会議の精神を真剣に 到達への努力。 貫きながら、社区教育実験工作推進の積極的 会議参加の代表は会議の主題は明確であり、 施策が展開された。現在、各実験区は社区教 内容も豊かで経験から学ぶことができ、視野 育管理システムと運営機構の確立と社区教育 が開け思考方法の幅が広がり、多くの収穫を 資源を有効に整備した社区教育・訓練ネット 得ることができた。また、社区教育実験工作 を初歩的に形成した。さらに、多くの学習型 展開の重要性を踏み込んで認識し、現在展開 家庭・学習型企業等の学習型組織を創造して 中の社区教育実験工作における一連の重要問 いる。様々な社区教育・訓練活動が広く深く 題と今後一定期間における社区実験工作の方 展開され、社区住民の学習参加率は極めて高 向・目標・任務を明確にし、社区教育発展に くなり、社区住民の絶えず増大する学習要求 を比較的満足させ、住民の総合的素養と社区 の学習要求に見合った社区教育管理システム・ 建設水準向上に大きく貢献している。実践が 運営機構および教育・訓練モデルを徐々に作 証明したように、社区教育の誕生と発展は、 りあげ、社区住民総体の素養と生活の質向上 社会全員の総合的素養向上という切迫した要 とともに地域経済と社会の発展を促進する。 求に応える先進的生産力の発展にかない、先 社区教育を社区建設の重要内容でありその基 進的文化発展による中国的特色を持つ社会主 礎工作として捉え、社区建設各項工作に浸透 義文化建設という差し迫った要求に適合し、 させる。社区教育を通して生涯教育システム 全面的な小康社会建設のプロセスで示された の構築と完成をさらに進め、生涯学習の公的 人民大衆の自らの素養と生活の質向上という 足場を形成し、学習型社会建設工作を確実に 切実な要求に符合するものであった。また、 展開する。 それは社区の安定・発展を促進し、教育の社 2. 社区教育工作展開の原則。社区建設に関 会的サービスの道・内容を大きく広げただけ する全体目標と緊密に関係させ、社区建設に でなく、生涯教育システム構築と学習型社会 おける各方面の工作と密接に意思疎通を図り 建設のプロセスを前進させるすぐれた力と 連携しあいながら社区教育・訓練活動組織を なった。 実施し、一体となって協力しあう。また、社 党 第 16 回 大 会(02) は 生 涯 教 育 シ ス テ 区内現存の多様な教育文化資源の統一的・計 ムの構築と全民学習・生涯学習の学習型社 画的配置を強化し、充分な活用とともに新た 会形成という目標を提起し、「中共中央・国 な発掘により、多様な教育資源を社区住民の 務院の一歩進んだ人材工作強化に関する決 教育・訓練活動展開に開放し、社区学校およ 定」(03.12.26)と国務院の批准をえた教育 び学習型組織の建設を強める。正規の学校中 部『2003 - 2007 教育振興アクションプラン』 心の古い伝統に縛られず「大教育」「大訓練」 (04.2.10)は社区教育の発展と人間の全面的 という考え方を確立し、社区住民の内容豊か 発達に対しさらに高い要求を提起した。社区 で生気に満ちた多様な教育・訓練活動展開に 教育実験工作は大きく発展したとはいえ、現 「全員・全コース・全体」を特色とする教育サー 在まだ、学習型社会建設の要求からはかなり ビスを提供し、社区建設と社区住民の要求を 大きく離れている。各地の教育行政部門は社 満足させる。グループごとの指導と段階ごと 区教育工作の一層の前進を小康社会の全面的 の実施により積極的で着実に社区教育を広く 建設と全民学習・生涯学習の学習型社会形成 深く推進し、社区教育発展を学習型市街中心 の重要な行動として捉え、認識を高め、社区 地づくり、学習型都市と学習型社会づくりの 教育工作を見事に遂行する責任感と緊迫感を 重要な手段と政策的措置とする。 強め、工作に力を増し、全国社区教育工作を 3. 社区教育工作推進の目標。社区教育実験 新たな発展段階に押し上げる努力を払わなけ 範囲の一層の拡大。2007 年までに全国社区 ればならない。 教育実験区を各省(自治区・直轄市)に拡大し、 二、社区教育工作における指導的思想・原則・ 各省レベル・市レベル実験区の範囲をさらに 目標の一層の明確化。 広げ、高度な発展水準に達した省・市レベル 1. 社区教育工作の指導的思想。社区教育工 の社区教育験区と社区教育を万遍なく展開す 作の一層の推進のために、党第 16 回大会の る一群の都市を形成する。一定の全国社区教 精神と重要思想である「三つの代表論」およ 育模範区を創建し、学習型都市建設の着実な び科学的発展観を導きとし、社区に根付き依 基礎を築く。経済と教育が比較的発達した東 拠したサービスを展開する。社区建設と住民 部地区は社区教育を農村地区に広げ、初歩的 な経験を得る。中部・西部では比較的条件の 練課程と教育内容を決定し、カリキュラムと ある農村地区で実験を展開する。 教材作成工作を強め、訓練の適切性と有効性 2007 年までに全国社区教育実験区は比較 を高め、積極的に新たな訓練方法を創造し、 的高水準に達し、全国社区教育工作に中核的・ 徐々に社区住民の教育・訓練率を毎年 5%ず 模範的働きをする。経済が比較的発達した東 つ上回るように努める。こうして、学習能力・ 部地区では全国社区教育実験区の教育資源を 学習要求を持つ社区住民の「人々皆学」とい 基本的にすべて社区住民に開放し、住民の多 う目標を次第に実現していく。 様な教育方式による教育・訓練活動の幅広い 2. 「学習型組織」創造活動の進んだ展開。 展開を可能にし、社区住民の年間にわたる教 「学習型組織」創造を現段階における社区教育 育・訓練率を 80%以上にし、地方的特色を持 工作の重要内容として的確に把握する。社区 つ社区教育管理システムと運営機構を基本的 内の異なるタイプの人々の実際状況に応じて、 に形成し、社区教育機構・職員体制・必要経 それぞれの学習型組織に対する基本的要求と 費の保障条件を整備する。中西部地区では全 基準を定め、積極的に学習型企業・学習型機 国社区教育実験区の教育資源の 60%以上を 関団体・学習型街道・学習型居民委員会・学 社区住民に開放し、重点的に教育・訓練活動 習型隣組・学習型家庭等の学習型組織を創設 を展開し、社区住民の教育・訓練率を次第に し、促進工作に積極的評価を加え、学習型組 50%以上とし、地方的特色を持つ社区教育管 織の社区内各組織における占有率を年々高め、 理システムと運営機構を初歩的に形成し、一 2007 年には 3 分の 1 以上にする。 定の社区教育機構・職員・必要経費等の保障 3. 多様な教育資源の充分な利用・発掘・開 条件を整える。各省(自治区・直轄市)はす 発による社区教育・訓練ネットの形成。社区 べて生涯教育計画とすり合わせた社区教育計 の現存教育資源を利用し、縦横に組み合わせ 画を策定し、多様な教育・訓練資源を合理的 ながら享有し、現存教育資源にさらにその力 に整備し、比較的整備された社区教育工作推 を発揮させる。各種の学校・教育訓練機関と 進の政策的措置を実行するとともに工作に対 各種文化体育施設を組織して計画的に社区に する監督・評価制度を制定し、社区住民に対 開放し、多様な方式の社区教育・訓練活動を する生涯学習資源の土台を形成する。 積極的に展開する。特に、社区内普通小中学 三,社区教育工作推進の主要任務。 校・各種職業学校・成人学校に委託し住民に 1. 多様なレベル・内容・方式にわたる教育・ 対する教育・訓練活動展開サービスを配慮し、 訓練活動の精力的展開。教育・訓練の展開は 社区教育発展の優れた力とする。現有教育資 社区教育の基本工作である。回数多く、広い 源の調整・利用を基礎に、区(県)社区教育 幅を持ち社区住民が等しく歓迎する各種短期 学院・社区教育センターを先頭に、街道(郷鎮) 訓練活動に終始重点を置き、在職者の現場訓 社区教育学校を中核に、居民委員会(村)の 練・失業者の再就職訓練・高齢者の社会文化 社区教育拠点を基礎とする社区教育網を形成、 活動・ハンディを持つ人々の生活技能向上訓 社区住民の多様な教育要求を満足させる。積 練・都市流入者の社区生活適応訓練等様々な 極的に条件を創造し、TV・ラヂオの教育 CD 人々の学習要求を満足させる。また、社区内 利用・衛星 TV の教育番組視聴・コンピューター の乳幼児教育・児童生徒の校外素養教育に積 の教育ネットの充分な活用等の手段を利用し、 極的に取り組み、未成年の徳育工作を強化す 条件のある街道(郷鎮)の現代遠隔教育展開 る。社区建設中心の工作と社区住民の学習要 を可能にし、社区住民による「全民学習、生 求をしっかり根底に据えながら、関連する訓 涯学習」の基盤づくりを開始する。 四、実行可能な措置採用による社区教育工 3. 社区教育の必要経費支出の保障。政府の 作の順調な展開の保障。 援助と市場メカニズムの相乗作用を充分に発 1. 社区教育工作に対する指導強化と社区教 揮し、政府、社会、企業体・事業所、個人が 育管理システム・運営機構の順を追った完成。 それぞれ若干の経費を捻出するという方法に 各地で社区建設の重要内容として地方経済社 より政府支出を主に多様な方面から拠出する 会発展計画に社区教育工作を繰り入れ、関連 社区教育の経費保障機構をつくる。各地は社 部門責任者が参加する社区教育工作指導機構 区教育必要経費を保障し、経常的支出項目に を樹立し、各関連部門の責任と分担を明確に 繰り入れる。国・省レベルの社区教育実験区 し、「党の統一的指導、教育部門の主管、関連 では社区常住人口1人少なくとも1元を基準 部門の協力、社会の積極的支持、社区の自主 に社区教育経費を支出する。経済発達地区で 的活動、大衆の幅広い参加」という管理シス はこの基準を踏まえ、経費支出を上乗せする。 テム・運営機構を形成し、それに応じた管理 社区内各種の企業は職員・労働者の労賃総額 機構・職員・必要経費をととのえ、地区社区 の 1.5%から 2.5%を職員・労働者の訓練に当 教育を引続き健全に発展させる。社区教育工 てる規定を確実に設け、現職訓練を積極的に 作指導機構の事務局は教育行政部門に置く。 展開する。学習者個人の利益となる部分が比 各地教育行政部門は、社区教育の展開を社区 較的高い訓練では、国の関連規定にしたがっ 建設・生涯教育システム構築・学習型社会形 て経費を徴収する。 成の重要内容と政策として捉え、地方教育計 4. 実験工作の点検・評価と諮問。社区教育 画に織込み、点検評価の対象として精力的に 実験工作の点検・評価工作を計画的に展開す 実施し、不断に社区教育工作を推進する。 る。教育部は管理人員・専門家を組織し全国 2. 社区教育要員体制建設の強化。各地教育 社区教育実験区に対して何回かに分けた点検・ 行政部門は社区教育要員体制を確立し、一定 評価を実施し、優れた成果を上げた実験区に の専任職員を根幹に社区教育の要求に適応で は高い評価をあたえ表彰する。省(自治区・ きる兼任職員およびボランティアを主体にし 直轄市)もまた、地方社区教育実験区の点検・ た管理体制と教育要員体制を樹立する。専任 評価を行い、定期的点検・評価制度と表彰制 職員の確保は主に現有教育行政管理職員・教 度を形成する。広く社区教育管理人員と専門 師の中からの統一的配置により解決し、街道 家を招集し、社区教育専門家諮問委員会を成 では専任職員が社区教育工作を分担しあう。 立させ、実験区社区教育の実験的指導工作に 兼任職員は社区教育工作の実際的要求に応じ 参加してもらう。 て決定する。社区内の教師、専門家、各機関 5. 社区教育の宣伝と理論研究工作の強化。 と企業の要員、大学・中学・専門学校在学生 多様なマスメディアを充分活用して、社区教 の積極性を充分に発揮させ、表彰・奨励制度 育工作の宣伝を強め、各地の社区教育発展の を創造し、彼らを社区教育活動の重要な力と 経験と進め方を総括・普及し、社区教育の発 する。社区教育関係教師の待遇問題を解決し、 展に資する優れた環境を醸成する。社区教育 職務・職名・給与・研修等に関してはその他 の理論研究・実践研究を強め、海外の社区教 の教育工作者と同一にする努力をする。社区 育展開における有用な経験・方法を参考にし 教育工作者の職務規定を制定し、その養成課 ながら注意深く学び、徐々に中国的特色を持 程を開発し、条件のある大学に委託して社区 つ社区教育を形成していく。(2004 年 12 月 1 教育工作者養成センターを設け、社区教育工 日) 作者養成工作を新たな水準に高める。 10 2000 年代の日本における環境史研究の成果と動向 -その1- 高橋 美貴 第 1 章 はじめに ら影響を与えていくであろう)と思われる研 私は、一昨年・昨年とつづけて、1980 年 究成果として、まず注目したいのは、2004 代から 90 年代にかけて本格化した環境史研 年に明石書房から出版された石山徳子氏の『米 究の動向を、日本と米国とを事例にして整理 国先住民族と核廃棄物 環境正義をめぐる闘 する作業を試みた。もちろん、それはたいへ 争』という本である。この本は、核廃棄施設 ん大ざっぱなもので、とりあげるべき成果も という「迷惑施設」の設置をめぐって、 「適切、 いまだ残されたままである。それらについて もしくは不適切と考えられるような、場所や は、いずれ改めて整理する作業が必要になっ 地域性が作られていく歴史的な流れを検証」 てくると考えている。 しようとしたものである。 ところで、以上のような作業を経たうえで、 よく知られているように、核廃棄施設や軍 改めて日本の環境史研究の動向を眺めている 施設などに代表される「危険」な施設や「迷惑」 と、2000 年代に入ってから、そこに「新し な施設の所在地が、明らかに特定の地域に偏 い流れ」が生み出されつつあるのではないか っていること(明らかな「地域性」を持つこと) と感じられる。2000 年代に入ってから、こ は、よく知られている。それは米国も同様で、 の数年間のうちに、とくに 30 代の若手研究 核廃棄施設など同国の核関連施設は、有色人 者たちによって次々と環境史に関わる本が出 種コミュニティの所在地と重ね合わせるよう 版されている。さきほど述べた「新しい流れ」 にして、設置されてきた。もちろん、それは とは、これらの研究によって生み出されつつ 偶然などではなく、そのような地域に核関連 ある。 施設が選択的に設置されてきた歴史がある。 これらの研究動向は必ずしも狭義の歴史学 石山氏の本は、このような環境的に不正義 に限定されたものではないため、それらの研 な状況が、どのようにして生み出されてきた 究動向を体系的に整理することは私の能力で のかを、米国ユタ州トゥエラ郡スカルバレイ は難しいというのが正直なところである。そ ゴシュートインディアン居留地を事例として こで、論点ごとの整理をいったんあきらめ、 明らかにしようとした。その際、石山氏がこ 著作ごとに近年の研究成果の内容や論点を概 だわったのは、そのような環境的不正義を生 観することで、そこから「新しい流れ」の具 み出した政治的・経済的な構造を歴史的に明 体的な中身を紹介することを試みてみたいと らかにすること(「その背景にある歴史的・政 考えている。そうすることで、2000 年代に 治経済的な背景を探りながら、なぜこうした 入ってからの環境史研究の動向を、不十分な 不平等なパターンが生まれてきたのか」を明 がらもイメージするための足がかりを得たい、 らかにすること)で、その分析手法はポリテ というのが本稿の目的である。 ィカル・エコロジーと呼ばれる方法論的な立 場に立つものであった。 第2章 石山徳子『米国先住民族と核廃 棄物環境正義をめぐる闘争』から 石山氏によれば、ポリティカル・エコロジ 2000 年代に入ってから環境史研究の方向 造分析とを組み合わせた概念で、1980 年代 性に大きな影響を与えた(あるいは、これか に発展途上国の環境破壊を研究対象としてき ーとは、エコロジー問題の分析と政治経済構 11 た地理学や人類学によって提起されたものだ 私たちに迫ってくる。 とされている。環境的な不正義は、各段階の 「皆さんは、我々インディアンが貧乏で哀れ 政治や経済に規定されながら歴史的に形成さ で、我々指導者たちは欲深くて独裁的、そし れたもので、その解決のためには、なぜその て部族の健康と安全をないがしろにしている ような不正義が生み出されたのか、その理由 と信じるのか。我々が先祖からの故郷であり、 と必然性を政治的・経済的に突き詰め、それ 残された唯一のものである土地を、意識的に を通して問題解決の糸口を見出そうとする立 汚染しようとすると、そう信じるのか。我々 場がポリティカル・エコロジーだといえる。 がだまされて、自分たちがイニシアティブを ただ、この方法論的な立場に立ったときの難 とることなく、さらに専門家のアドバイスを しさは、そのような不正義を生み出した政治・ 得ることもなく、企業による核廃棄物処分に 経済構造(ポリティクス)やその経過(歴史)が、 関与しようとしていると思うのか。我々が毎 思いのほか複雑だということである。その構 年何十万ドルの収入をあげている旅行産業を 図は、強大な国家権力が弱小の部族政府に迷 犠牲にすると思うのか。我々の部族メンバー 惑施設を押しつけた、といった単純な図式で は、狼の穴にヒツジのように黙って入ってい はとうてい割り切ることなどできない。そこ くのか。報道の自由と政治的に正しい表現(P には、部族政府はもちろん、郡政府・州政府・ C)が重んじられる今の時代に、脅迫されて 連邦政府・地域産業・環境運動・科学者など 自らの意思を表明できないでいるとでもいう の多様なアクターが絡まり合うことで、迷惑 のか。そのようなことがあるわけがない。」 (石 施設の設置という「結果」が生み出されてく 山前掲書 62 ~ 63 頁) るわけである。その過程では、とうぜんのこ こうして石山氏の著書では、丹念なフィー とですが、部族内部の意志でさえ、けっして ルドワークと資料分析とに基づいて、インデ 一枚岩ではなく、しかもその意志が時ととも ィアン部族が自らこのような核関連施設を受 に変容していく。 け入れる決断をする過程が克明に追跡される そこで石山氏がとった方法は、「最終的な核 ことになる。そのような作業によって、しば 廃棄物受け入れという事実のみに焦点をあて しば私たちが陥りがちな、環境主義に基づい るのではなく、こうした結論に至るまでの過 た短絡的な図式的理解は吹き飛んでしまう。 程と、そこにおける参加型民主主義について 石山氏の著書のもつインパクトのひとつは、 考えること」であった。そこでは、「人種差別 まさにここにあるように思われる。石山氏は、 的な白人社会と、貧困にあえぐゴシュート部 このような自らの方法論的なスタンスを、「地 族といった、二項対立的な枠組み」のもとで、 域自立性とポリティカル・エコロジーの概念 彼らを軍拡や核産業の犠牲になっている無力 を取り入れた過程型正義理論」と表現された。 な部族、声も力もない被害者、悪玉としての そして、そのような方法論的な立場のもと、 部族政府などと図式的に描くことは拒否され 環境的不正義を生み出した背景やメカニズム る。とともに、そのような図式を描く環境団 を見事に描き出した。 体や環境運動などが、部族や部族政府の尊厳 この本は、地理学を専門とする著者によっ と自治権とをいかに傷つけてきたかを指摘す て執筆されたものですので、これを環境史研 る。 究の成果のひとつとして位置づけることは、 このような環境団体や環境運動などが提示 あるいは異論のあるところかもしれません。 する図式的理解に対して、部族政府が示した ただ、「過程型正義理論」という言葉に象徴的 次のような批判は、強いインパクトをもって なように、その試みは、環境的な不正義とい 12 う「結果」だけではなく、それを生み出す「過 をつくりだす際、アメリカ先住民について、 程」に注目するという点で、まさに環境史研 彼らのおかれた政治的および歴史的な背景が、 究の試みとして位置づけられるように思われ 特別に考慮されるべき」、「先住民族は、『環境 る。少なくとも、今後の環境史研究の方向性 保護派』などとまつり上げられながら、実は に少なからざる影響を与えていくことは間違 絶えず環境破壊の前線に立たされてきたこと いない。本稿で、石山氏の著書を 2000 年代 を忘れてはならない」といった鎌田氏の指摘 に生み出された環境史研究の新たな潮流のひ は、さきに紹介した石山氏の指摘とも重なる とつとして位置づけたのも、そのような理由 ものである。石山氏の研究と合わせて環境史 による。 研究のあり方に示唆を与えるものでもあるよ なお、石山氏の著書が出版された二年後 うに感じられる。 の 2006 年、同じくアメリカ先住民と核廃棄 物の問題を取り扱った、鎌田遵氏の『「辺境」 動』という著作が御茶の水書房から出版され 第3章 佐藤仁『稀少資源のポリティク ス タイ農村にみる開発と環境のはざ ま』から た。この著作は、メスカレロアパッチ族の核 以上のようなポリティカル・エコロジー 廃棄物の誘致運動と、コロラド川沿岸の部族 という概念を用いた研究成果には、同じく による反対運動という、対照的な二つの事例 2000 年代に入ってから刊行された著作がい を追うなかで、現代のアメリカ先住民が置か まひとつある。それが、佐藤仁氏の『稀少資 れている現実を考え、米国の辺境に生きる先 源のポリティクス タイ農村にみる開発と環 住民にとっての経済開発や公共政策のあり方 境のはざま』(東大出版会、2002 年)である。 を検討したものである。鎌田氏は自らの試み 佐藤氏の研究も、ポリティカル・エコロジー を、「核廃棄物施設の建設という巨大なビジネ を分析概念のひとつとして用いながら、タイ スに、独自の哲学と戦略とをもって挑んだ人 の森林と開発の問題にせまっている。もちろ たちの歴史を追う」ことで、「現代の米国社会 ん、そこで取りあげられている問題は多岐に を辺境から見直す作業」を行うことだと位置 わたりますが、その柱のひとつは、タイ政府 づけています。この本のなかで鎌田氏は、先 による森林の保護・保全政策が社会にどのよ 住民研究の視点を、単純に先住民寄りの発言 うに作用してきたのか、という問題である。 をすることでも贔屓することでもなく、まし タイをはじめとする東南アジアや南アジアの てや美化することでもないと指摘したうえで、 森林は、19 世紀後半から 20 世紀にかけて急 「彼らのおかれた状況や歴史的背景を理解し、 速に減少してきた。佐藤氏は、いったい、な 社会的な弱者が直面する諸問題に、多角的に ぜそのようなことが起こったのか・その背景 取り組む足がかりとすること」だと述べてい はなにか、という問いに、そのポリティクス る。鎌田氏の研究は、米国先住民研究(「先住 を読み解くことで答えようとしている。 民のための社会正義を追求し…、彼らが辿っ こうして佐藤氏は、グローバル化した環境 てきた道のりと、それゆえにある現在の立場 主義が森林行政の現場で環境的な不正義を生 を尊重するための学問」)として著述されたも み出しているという事実を明らかにしている。 のである。そこでは、ポリティカル・エコロ たとえば、森林保護を名目にして、それまで ジーという分析概念も用いられていませんし、 森林に頼って生きてきた人びとが森林から追 環境史という言葉も用いてはいませんが、「環 い払われ、逆に国家や企業による森林の囲い 境保護を目標に、他のマイノリティとの運動 込みが行われていること、その一方で外貨獲 の抵抗 核廃棄物とアメリカ先住民の社会運 13 得を目的とした森林伐採と木材移出が森林資 れてしまう。…結局、慣行的な森林利用を継 源の減少を引き起こしていること、このよう 続したがる住民は、フォレスターにとっては な状況のなかで、タイ政府は自然保護第一主 森林管理の邪魔者でしかなかった。」(40 ~ 義の NGO(ダークグリーン)を利用して森林 41 頁)、佐藤氏の研究はそのような枠組みを 囲い込み政策を推進するという状況さえ存在 構造的かつ歴史的に描き出しており、十分な すること、などの事実が次つぎと浮かび上が 説得力とインパクトとをもっている。 ってくる。さらに驚かされるのは、東南アジ 佐藤氏の表現によれば、同氏の研究の出発 アにおける森林破壊の原因をめぐる言説がも 点となったのは、「人類の希少な共通財産」と った政治性である。東南アジアで森林破壊が なった熱帯林を保護しようとする行為が「そ 引き起こされた原因は、タイ政府と企業とが れまで森から日常的な生活資源を得ていた地 連携して進める森林伐採と、それに引き続い 域の人々の生活」を圧迫しているという実態、 て行われる貧民層の非伝統的な焼畑農業(土 「手厚く保護されつつある豊かな森と、その周 地の獲得をめざした耕地開墾)によるもので 辺でつつましく暮らしている貧しい人々との あることが分かっている。にもかかわらず、 鮮やかな対照」という現実であった。それを その原因が、森林地域で長らく生活してきた 出発点として、なぜ「長らく、しかも一定の 地域に住む人びとの伝統的な焼畑農業の責任 節度をもって利用してきた資源」を当該地域 だという、まことしやかな言説が流布され、 の人びとは生活を切り詰めてまで「保護」す それが地域住民を森林から追い出すための論 ることを強いられているのか、その過程で森 理として政治的に利用された。このことは、 林面積が半減したタイにおいて森林局の予算 井上真氏の研究(『コモンズの思想を求めて と職員が急増しているのはなぜか、数千人の カリマンタンの森で考える』岩波書店・2004 貧しい農民たちが政府による森林政策の見直 年など)などによっても、繰り返し指摘され しを求めて国会議事堂前に座り込みを続けた ていることではありますのでよく知られた事 のはなぜか、といった問題を読み解いていく。 実であるかもしれないが(「インドネシアに限 佐藤氏はこうして、「最も基礎的なレベルで生 らず、熱帯諸国では 1970 年代の熱帯雨林消 活水準の向上が望まれている後発地域」に対 失の原因を地域住民による焼畑農業に押しつ してさえも「自然環境をいたわること」が強 ける論調が目立った。森を壊すのは無知な地 要されるようになった時代状況の意味を問い 域住民である。だから、森林行政官や林業会 直そうとした。 社のスタッフ、および科学者など教育を受け そのうえで、佐藤氏は、「シンプリフィケー た『専門家』が森林を統治…すべきである。 ション」という言葉を用いて、このような状 そのためには、地域住民を締め出して森林を 況や構造を分析・表現している。佐藤氏は、 囲い込むことが必要である。したがって、近 この言葉を用いることで、①自然を「自然環境」 代的な森林管理技術を導入し、地域の人々を として手つかずのまま隔離し、保存する空間 教育することが問題解決に役立つのである、 と開発する空間とを物理的に区別して考えよ という理屈である。…熱帯諸国のフォレスタ うとするプリザベーション型の環境保全思想 ーたちは、まじめに森林を管理(=伐採や保 が、「それまでローカルの論理で地域に応じて 護など)しようとすればするほど地域の住民 用いられてきた空間や資源」を、中央権力が「読 と対立した。というのは、熱帯の森林地域に みやすく」制御しやすいように配置しなおし、 住む人々にとって、森林の利用は死活問題で 政府の定める単位と規則に応じて規格化する あったからだ。…人々は難民状態に追い込ま ことに貢献してしまうこと、②自然環境保全 14 というグローバル化した価値観のもと環境破 が生み出されたのか」を冷徹かつ構造的な分 壊の原因として貧困や人口増加だけを問題視 析眼をもって捉えて、そこから解決に向けて するような一方的な見方が「聞こえのよい『環 の可能性や糸口を考えようとするポリティカ 境保全』の背後にある政治性」を見事に覆い ル・エコロジーという方法論的な立場は、環 隠してしまうことを指摘している。佐藤氏は、 境史研究が学問的な深化を遂げるうえで不可 このような規格化を「シンプリフィケーショ 欠なものであるように感じられる。それは、 ン」と呼んで、19 世紀から 20 世紀のタイに これ以前まで(1980 ~ 90 年代)の日本の環 おける森林資源と土地とをめぐる多様な集団 境史研究が、しばしば過去を環境的に美化す の利害関係やその推移の分析を通して、「シン る傾向をもっていたことと関係している(こ プリフィケーションの歪み」を浮かび上がら のような指摘はすでに、民俗学の菅豊氏や歴 せたわけである。 史地理学の佐野静代氏などによっても行われ ています)。そこでは、過去に存在した伝統的 第 4 章 おわりに な社会や文明、そしてそこに生きる人びとを、 本稿では、2000 年代に生み出された新た 自然と共生していた「自然にやさしい」社会 な環境史研究の動向として、ポリティカル・ や人びととして描き出すことで、それを破壊 エコロジーという分析概念を用いた著作を二 した近代化の過程や現代社会を相対化しよう つ紹介してきた。もちろん、これらの著作は、 という方法論的な視点がしばしば用いられて 歴史的な分析に踏み込んではいるものの、環 きた。たしかに、日本における環境史研究の 境史研究そのものを主題に据えたものではな 出発点において、それらの研究は相応のイン いので、これらを新たな環境史研究の動向と パクトをもって受けとめられ、いまなお研究 して整理することは必ずしも正しくないかも 史的な意義と影響力とを保つものも少なくあ しれない。しかも、佐藤仁氏によれば、ポリ りませんが、しかし、そのような視点が環境 ティカル・エコロジーという分析概念をもち 史研究の学問的な深化をさまたげていること いた研究にも、①個別事例研究の乱発に止ま も否定できない。そこでは、 「過去」や「伝統」 って体系的な分析枠組みが整っていないこと、 が環境的に美化されて描かれ、近代化や現代 ②資源への法・制度的なアクセス条件に固執 を批判的に捉えるための道具として位置づけ するあまり、実際の資源利用がどのような変 られるために、「過去」や「伝統」の実態に迫 数に作用されているのかを明らかにできてい ろうとする態度が生まれにくくなるからであ ないこと、③とくに社会・政治的要因を重視 る。最悪の場合、実態とはかけはなれた、あ しすぎる傾向があるために生態システムの側 るいはそのような社会を生み出した政治・経 の条件変化を軽視していること、④資本主義 済的な必然性を無視した「過去」や「伝統」 の負のインパクトをあまりに一般化して論じ が描き出されつづけることになる。ポリティ る傾向があること、などといった問題点のあ カル・エコロジーという方法論的な立場が日 ることが指摘されています。佐藤氏の著作は、 本の環境史研究にとって意味を持つと考える このような批判点の克服をも意図したもので のは、このような傾向を克服するうえで有効 あるわけである。 だと考えられるからでる。 ただ、ポリティカル・エコロジーという概 今回は、2000 年代になって登場した新た 念とそれを用いた分析手法が、今後の環境史 な環境史研究の動向として、二冊の本を取り 研究に大きな影響を与えていくことは間違い あげて紹介をしてきた。もちろん、日本にお ないように思われる。「なぜ、そのような状況 ける環境史研究の新たな胎動を感じさせる研 15 究は、これだけにとどまらない。これについ ては、「2000 年代の日本における環境史研究 の成果と動向ーその2ー」として、稿を改め て論じてみたいと思っている。 16 環境教育の射程(3) 環境教育の方法(その1) 朝岡幸彦 も、いずれにせよ専門家が知識を専有してい 第 4 章 環境教育における形成 て、これを市民に「啓蒙」「啓発」しなければ 1 「形成」と「教育」 ならないという発想には限界があると理解し 環境問題に限らず高度の技術やシステムか たい。 ら成り立つ問題は、一部の専門家のみが「正 しい解決方法」を知っていて、一般市民や子 ここで、環境教育の方法を構想するための どもにはその方策を知らせて協力してもらう もっとも基本的な概念として、「形成」に注 だけでよいと考えられがちである。「啓蒙」 「啓 目したい。かつて教育学者・宮原誠一は社会 発」などの概念で語られるこうした教育観は、 的生活における人間の「形成 (Formung)」の 高学歴社会となった日本において、二重の意 過程には、①社会的環境、②自然的環境、③ 味で克服されなければならないといえる。 個人の生得的性質、④教育の4つの力が働い まず第1に、環境問題の正確な分析と正し ていると指摘した 1)。そのうえで、(前三つ い解決方策をほんとうに専門家が知っている の力の)「自然生長的な形成の過程を望まし のか、という問いである。環境問題のスケー い方向にむかって目的意識的に統御しようと ルが大きくなり、問題が複雑化し、その技術 するいとなみ」を(第4の力である)「教育 を裏づける専門性のレベルが高くなればなる (Bildung)」と名づけている。人間の社会には ほど、問題状況の理解と対処法はより試行錯 「形成力」と呼ぶべき「人を育てる力」があり、 誤的で暫定的なものにならざるをえない。専 良い意味でも悪い意味でも子どもが大人にな 門家でも間違う可能性があること、どのよう る過程で社会の形成力の大きな影響を受けて な技術も完璧ではないこと、多様な視点と専 いるといえる。 たとえば、広田照幸は「しつけ」について 門性による評価や見直しが絶えず求められて いることを強く意識する必要があるといえる。 も「意図的なしつけ」と「無意図的な人間形 第2に、将来世代に大きな影響を与える環 成機能」とが関与していると述べている 2)。 境問題の解決方法を一部の専門家だけで事実 ただし、ここでいう「しつけ」とは基本的生 上決めてよいのか、という問いである。環境 活習慣や礼儀作法、公衆道徳などを習得する 問題が社会構造に深く根ざした問題であり、 狭義の「しつけ」だけではなく、 「望ましい(と 地球全体に与える影響が大きくなっている状 される)人間をつくろうとする、子どもに対 況のもとで、どのように問題の原因と構造を する外部からの作用全体」にあたる広義の「し 理解し、どのような解決方策を選択するのか つけ」を指しているため、<労働のしつけ> が、将来の人類社会のあり方そのものを決定 <村のしつけ>を含む広範な内容と方法を含 しかねない。私たちが基本的な人権の保障を んでいる。その意味で、たとえば<村のしつ 前提とした民主的な社会をめざす以上、社会 け>には①「分際」という名の差別や抑圧が の未来のあり方にかかわる基本的な決定はす 組み込まれ、②意識的な配慮をともなわない べての市民の討議に委ねるという考え方は否 がゆえに望ましくない結果を生むことがあり、 定されるべきではない。すなわち、テクノロ ③イエやムラからはみだした子どもたちに何 ジーの視点からも、デモクラシーの視点から の配慮もなされず、④ローカル・ルールで社 17 会全体には通用しない、などの問題や限界が づいて検定が行われている教科書に規定され あり、子どもの発達や成長にとって必ずしも ている。その意味では、理科(物理、化学、 よいものばかりとはいえなものであった。と 生物、地学)、社会科(地歴、公民)などのよ はいえ、「しつけ・教育という意図的なものが うに独立した教科として環境科を設定し、教 重視されるあまり、無意図的な人間形成機能 科書として体系化されることもかんがえられ に信頼が置かれなくなっている」「親や教師か た。しかしながら、環境教育は「従来から特 らは学べないものを子どもたちが周囲の環境 別な教科等をもうけることは行わず、各教科、 から学んでいっているのも事実である」など 道徳、特別活動等の中で、また、それらの関 の理由から、「プラスの意味の人間形成機能を 連を図って、学校全体の教育活動を通して」 再評価してみる必要がある」と指摘している。 取り組むことが文科省によって再三確認され ただし、<村のしつけ>にみられるように ている。また、環境に関わる領域には地球温 社会がもつ「形成」機能には既存の社会や大 暖化問題、ゴミ問題、食糧問題、資源・エネ 人のルールを所与のものとするばかりか、世 ルギー問題、河川問題、飲用水問題など多く 間の悪習(よからぬこと)を子どもに教える の課題があるため環境問題を総体として各教 ことにもなりかねないという問題がある。「形 科に位置づけることもむずかしい。むしろ、 成」を望ましい方向に意識的に統御しようと 環境教育が学校教育におけるシャドー・カリ することが「教育」である以上、こうした矛 キュラム(ガイドライン)のようなものを積 盾を克服するには「形成」か「教育」かの二 極的に提起し、各教科と道徳、特別活動、総 者択一が迫られることになる。学校教育は、 合的な学習の時間のそれぞれの分野で環境問 あえて社会や組織がもつ形成機能を分離し(ま 題が系統的に取り上げられ易い条件をつくっ たは学校教育に従属させることで)、意図的な ていくことが重要であるといえる。 統御の過程としての教育機能を高度に組織化 そのひとつの大きな手がかりとして 10 数 しようとしてものであるといえる。子どもや 年ぶりに改訂された『環境教育指導資料(小 大人に対する意図的な統御の過程である教育 学校編)』(文部科学省/国立教育政策研究所 は、社会的装置としての学校においてその機 教育課程研究センター、2007 年)3) を取り 能を十分に発揮することができる。定型教育 上げることができる。1970 年代に公害教育 (formal-education) としての教師(教える側) として学校教育現場に導入された環境教育 と生徒(教えられる側)との関係は、教師が は、何度かの紆余曲折を経て、文部省『環境 ほぼ独占的に教育内容と教育方法とを特定し 教 育 指 資 料 料 』(1991 年 / 中 学・ 高 等 学 校 て計画的にすすめる(カリキュラム化)とい 編、1992 年/小学校編、1995 年/事例編) う意味で、もっとも整備された統御システム として、ひとつの指針が与えられることにな であるといえる。環境教育における意図的な る。その後、環境教育政策に関連するものに 統御のあり方をさぐるために、環境教育指導 限定しても、日本環境教育学会の設立(1990 資料(2007 年版)の特徴を以下にみる。 年)、こどもエコクラブ事業の開始(環境庁/ 1995 年)、第 15 期中教審第 1 次答申(環境 2 環境教育指導資料(2007 年版)にみる環 問題と教育、環境教育の改善・充実/ 1996 境教育の方法 年)、「環境と社会:持続可能性に向けて教育 日本の学校教育における教育内容の多くは、 とパブリック・アウェアネス」国際会議(テ 文部科学省の諮問機関である中央教育審議会 サロニキ会議/ 1997 年)、「総合的な学習の (中教審)が答申する学習指導要領とそれに基 時間」の設置(幼稚園教育要領、小学校学習 18 指導要領及び中学校学習指導要領告示/文部 れらの関連を図って、学校全体の教育活動を 省/ 1998 年)、中央環境審議会答申「これか 通して」取り組むことが確認されており、中 らの環境教育・環境学習ー持続可能な社会を 央教育審議会第 1 次答申(1996 年)で提示 めざしてー」 (環境庁/ 1999 年)、学校教育法・ された「環境から学ぶ」「環境について学ぶ」 社会教育法の改正(「体験的な学習」 「社会奉仕・ 「環境のために学ぶ」という方針等に沿った取 自然体験活動」の明記/ 2001 年)、環境の保 り組みを具体化するための「ねらい」が設定 全のための意欲の増進及び環境教育の推進に され、「重視する態度と能力」が「環境をとら 関する法律の制定(2003 年)、国連・持続可 える視点」と関連づけられていることである。 能な開発のための教育の 10 年(DESD) の開 まさに環境教育は、環境という視点から社会・ 始(2005 年~ 2014 年)、教育基本法の改正 生活問題に主体的・積極的に向き合い、行動 (2006 年)など、大きな枠組みの変化がみら する市民としての態度と能力を、子どもたち れる。こうした状況の変化を受けて、環境教 に育てるための教科の枠を越えた総合的な教 育指導資料の大幅な改訂が行われたのである。 育実践として位置づけられている。 環境教育指導資料(2007 年版)は、①環 こうした基本的な考え方は、次の「小学校 境教育と環境保全(持続可能な社会を構築す における環境教育の指導上の留意事項」でさ るための考え方や取り組みについての総合的 らに具体化されている。「環境教育の指導の方 な解説)、②小学校における環境教育(小学校 針」では、「小学校段階では、あらゆる事物・ で環境教育を進めていくための基本的な考え 現象に対して豊かに感受する時期でもあるの 方や指導展開)、③環境教育に関する実践事例、 で、活動や体験を重視し、自然や社会の中で の三部で構成されている。とりわけ、第二章 体験を通じて、児童が様々な事物・現象に気 「小学校における環境教育」で記述されている 付いたり、その大切さ等を感じとったり、身 ことが学校教育における環境教育実践を位置 近な問題から環境と自分との関係を考えたり づけるうえで重要なものとなるため、少し詳 することを通し、自分なりに問題を見付けて、 しく特徴を紹介する。まず、「小学校における 自然や社会を大切にしようとする心をもち、 環境教育の基本的な考え方」として、①「生 よりよい環境づくりのために配慮した行動を きる力」の育成と環境教育、②小学校におけ とることができる態度を身につけさせるよう る環境教育のねらい(環境に対する豊かな感 指導を工夫することが大切」であり、「その過 受性の育成/環境に関する見方や考え方の育 程において、人間の活動と環境とのかかわり 成/環境に働きかける実践力の育成)、③環境 について総合的に理解できるように配慮する 教育で重視する能力と態度(課題を発見する とともに、児童の発達に応じて、身近な問題 力/計画を立てる力/推論する力/情報を活 がより広い地域につながっているものである 用する力/合意を形成しようとする態度/公 ことや、様々な問題が相互に深くかかわって 正に判断しようとする態度/主体的に参加し、 いること等を理解するなど、環境問題を総合 自ら実践しようとする態度)、④環境をとらえ 的に把握できるようにすることが大切である」 る視点(循環/多様性/生態系/共生/有限 とされている。 性/保全)、が述べられている。 さらに、こうした方針に基づいて「学校と ここで重要なことは、「生きる力」の育成を しての体制づくり」「校種間の連携で進める環 切り口に「学校教育における環境教育は、従 境教育」「家庭や地域社会等との連携で進める 来から特別な教科等をもうけることは行わず、 環境教育」「学校の施設等を活用して進める環 各教科、道徳、特別活動等の中で、また、そ 境教育」(エコスクール/学校ビオトープ/学 19 校プールの活用/生ごみ堆肥化装置等の活用 論めいた内容を指導しないように配慮するこ / ISO14001、学校 ISO)が提起されている とが大切である」、④「児童の発達や教科の目 ものの、小学校段階としての特性を踏まえて 標、内容等を踏まえ、いたずらに高度な内容 (最後に)「豊かな体験活動の推進」が位置づ や細部には深入りしないようにする配慮も必 けられていることに注目する必要がある。そ 要である」とされている。 こでは、「小学校段階においては、体験活動が そのうえで、①児童の発達への配慮(低学 学びの土台・出発点となり、問題解決を促進し、 年/中学年/高学年)、②指導計画の作成(留 知の総合化を確かなものにしていくことが多 意事項:環境教育のねらいを設定すること/ いため、体験活動は、児童の学びと成長の過 身に付けさせたい力を明確にすること/児童 程全体において重要なものといえる」とした の実態を踏まえること/地域の実情を踏まえ うえで、「学校内外を通じて児童の多様な体験 ること/児童が主体的に活動に取り組むこと 活動を充実させることを、一層重視する必要」 ができるようにすること/各教科等における があり、「学年等に応じ、すべての児童が豊か 学習指導との関連を図ること/家庭、地域と な体験活動の機会を得られるようにすること の連携に留意すること/児童の安全確保に留 が重要である」とされている。そのために『体 意すること)、③指導方法の工夫改善(体験的 験活動事例集ー豊かな体験活動推進のために な活動の取り入れ、問題解決に向けた行動へ ー』(文科省/ 2002 年)が引用され、体験活 の導入など)、④教材の開発と工夫(身近な問 動の意義(①現実の世界や生活などへの興味・ 題を取り上げる/環境教育の視点から教材と 関心、意欲の向上、②問題発見や問題解決能 しての価値を考える/活動や体験を重視する 力の育成、③思考や理解の基盤づくり、④教 /野外学習を重視する/映像や新聞等の様々 科等の「知」の総合化と実践化、⑤自己との な資料を活用する/インターネットを利用す 出会いと成就感や自尊感情の獲得、⑥社会性 る)が述べられている。 や共に生きる力の育成、⑦豊かな人間性や価 しかしながら、環境教育の指導計画を作成 値観の形成、⑧基礎的な体力や心身の健康の するうえでもっとも基本的な事柄は、「環境教 保持増進)や体験活動を計画するに当たって 育における評価」である。その留意点として、 の配慮事項(①ねらいに沿った体験活動を工 ①「児童の学習の評価を通して、児童が自分 夫すること、②児童の成長の過程や実態を踏 の学習の成果を振り返るようにするとともに、 まえること、③地域の実情を踏まえること、 評価を指導の改善に生かすことが必要である」 ④まとまった時間を確保すること、⑤各教科 こと、②「基本的には、その活動が位置付け 等における学習指導との関連を図ること)が られ実施されている各教科等の目標やねらい 確認されている。 等を踏まえて行われる」こと、③「学校とし こうした指導方針を受けて作成される指導 ての環境教育のねらいに照らし合わせ、各教 計画には、①「環境の悪化の印象付けだけに 科等に位置付けられた環境教育の全体を通し 終わるとか、環境改善の余地がなく自らは何 た児童の成長の姿をとらえる」こと、④「評 もできないといった思いに児童を追いやるこ 価の結果によって後の指導を改善し、さらに とのないよう配慮することが大切である」、② 新しい指導の成果を再度評価するという指導 「特定の情報に偏ったり、環境問題にかかわる と評価の一体化を図る」こと、などが指摘さ 因果関係を短絡的に求めたりしないよう、十 れている。 分に留意する必要がある」、③「環境にかかわ る事象の観察、調査に当たっては、事前に結 20 ロジーとデモクラシーの問題へのひとつの回 2 環境教育における「形成」の意味 答ともなる「参画」概念が、この「学び」を 環境教育を教科として独立させず、学校全 支える可能性をもつことに気づく。すなわち、 体の教育活動を通して取り組むということの 意味をどのように理解すべきであろうか。環 「参画」という方法を「教育」の過程に位置づ 境教育指導資料にみられるように、「環境」を けることである。ロジャー・ハートは、子ど キーワードとして「教育」の系統化・体系化 もの参画を8段の「参画のはしご」によって をはかることは不可能ではない。学問的な歴 表現している 5)。子どもや若者たちが積極的 史がまだ浅いとはいえ、環境学及び環境科学 に社会参加していくためには、参加の量だけ の領域での研究成果の蓄積はめざましく、教 ではなく質が重要であることは言うまでもな 科を支える知の体系として不十分であるとは い。①操り参画(大人が意識的に自分の言い 言い切れない。しかし、あえて環境教育を教 たいことを子どもに言わせるもの)、②お飾り 科とはせずに「教育」することの積極的な意 参画(子どもたちが何らかの主張を掲げた T 味を考えるならば、環境教育で身につけるべ シャツを着ているが、その主張をほとんど理 き「態度や能力」として環境問題の解決に向 解しておらず、その行事を組織することに少 けた強い実践性が求められているからだとい しも関わっていない)、③形だけの参画(子ど える。すなわち、中教審第 1 次答申(1996 年) もたちに意見を言わせることには熱心だが、 で提示された「環境から学ぶ」「環境について それを実行することについては注意深くも自 学ぶ」という2つの視点と、「環境のために学 己批判的にも考えたことがない)、④子どもは ぶ」という視点との間には大きなちがいがあ 仕事を割り当てられるが情報も与えられてい り、環境に関する知の体系を学ぶことにとど る(社会的動員)、⑤子どもが大人から意見を まらず環境を1つの「問題」として受けとめ 求められ情報を与えられる、⑥大人がしかけ て積極的に解決していくことが求められてい 子どもと一緒に決定する、⑦子どもが主体的 るのである。 に取りかかり子どもが指揮する、⑧子どもが 主体的に取りかかり大人と一緒に決定する。 学習者に対して課題の解決に向けた実践を 求めることは、それぞれの学問がもつ知の体 この 8 段のはしごのうち、ハートが最初の 3 系を学ぶことにとどまらない、現実的で柔軟 段を「非参画」、後の 5 段を「本物の参画の な「学び」を前提にしなければならない。こ モデル」とよんでいることや、子どもだけの の「学び」を実現するためには「自然生長的 実践(⑦)よりも子どもと大人の共同の意思 な形成の過程」として「教育」と区別された 決定(⑧)を上位に置いていることなど、考 3つの「形成」過程に再び注目することが求 えさせられるものがある。社会奉仕体験活動 められる。具体的には、 「農業の教育的価値 4)」 や自然体験活動がほんとうの意味での子ども に関連して提起されている「農村的自然のも の社会参加を促すものになりうるのか、ここ つ教育力」や「農業の教育力」などの概念が、 に社会や国家に代表される大人が求める身勝 狭義の「教育」の枠を越えた「形成」に依拠 手な社会参加のあり方では決して「本物の参 したものであると考えられる。「形成」の領域 画」を生みださない理由がある。まさに、子 ですすむ「学び」を完全に統御することはむ どもの自治を尊重し、対等な立場で関わりあ ずかしい。しかし、この「学び」を支えるも える機会をつくることが社会参加の鍵を握っ のとして、いくつかの概念を設定して、環境 ていることがわかる。 そして、 「参画」とならんで重要な概念が「体 教育との関係を検討することは可能である。 験」である。さきに環境教育指導資料で提示 ここで、現代の環境問題が直面するテクノ 21 された小学校における環境教育の指導方針に おいて、体験活動が注目されていることをみ た。とりわけ、子どもや青年の発達と学習に おいて、(自然)体験が大きな意味をもってい ることをリチャード・ルーブらの著作 6) から も読みとることができる。さらに、自然体験 学習の可能性について環境教育の立場から踏 み込んだ議論 7) も展開されているが、その検 討は次稿に譲る。 【注】 1)宮原誠一、教育の本質、1949 年(初出)。 これに関連して、五十嵐顕(教育の本質にお ける矛盾について、教育、1976 年)、佐藤一 子他(宮原誠一教育論の現代的継承をめぐる 諸問題、東京大学大学院教育学研究科紀要第 37 号、1997 年)などを手がかりに「形成」 論や「再分肢」論に関する議論を深める必要 があるが、紙幅の都合により別稿に譲る。 2)広田照幸、日本人のしつけは衰退したか、 講談社現代新書、1999 年 3)文部科学省 / 国立教育政策研究所教育課 程研究センター、環境教育指導資料 ( 小学校 編 )、2007 年 4)朝岡幸彦・菊池陽子・野村卓編著、食農 で教育再生、農文協、2007 年 5)ロジャー・ハート、子どもの参画、萌文社、 2000 年 6)リチャード・ルーブ、あなたの子どもに は自然が足りない、早川書房、2006 年 7)降旗信一・朝岡幸彦編著、自然体験学習論、 高文堂、2006 年(社・日本ネイチャーゲー ム協会が委託販売) 22 卒論における環境教育の研究 信州大学教育学部渡辺隆一研究室の卒論を基に 渡辺 隆一 第 1 章 はじめに てその授業が担われている。従って、複数の 環境教育は非常に幅広い領域をもっており、 分野を兼任する教員は、複数分野の学生を卒 それが研究を深めるうえでの課題でもある。 論指導することとなる。著者は現在「野外教 しかし、研究の事例を集めその傾向と進展と 育」と 「 環境教育 」 の2分野を担当しており、 を考察することは全ての科学において、おそ 研究室には両分野の学生がいる。野外教育分 らく共通することであろう。環境教育の実践 野の学生でも環境教育を卒論に取り組むこと もその研究も始まったばかりであり、どこで もあり、ここでは分野の区別なく、渡辺研究 どのような実践・調査・研究が行われている 室の卒論を素材に紹介を行いたい。 かは環境教育学会大会や学会誌など以外にな かなか学ぶ機会は少ない。 第 3 章 渡辺隆一研究室の卒論の概要 信州大学教育学部の学校教育教員養成課程 環境にかかわる卒論の一覧を附表にした。 に は、1999 年 に 環 境 教 育 分 野 が 設 け ら れ、 全 31 編のうち、環境問題を扱ったもの 6 編、 すでに4回の卒業生を送り出している。彼ら 野外関係は 6 編、自然関係は 7 編、教科書の の卒論は環境教育の研究としては極めて初歩 環境に関わるもの 3 編で残り 9 編は広い意味 的なものではあるが、多様な関心、対象、手 での環境教育を扱っている。以下にその代表 法をもっており環境教育の一事例としても貴 的な卒論を紹介する。 重である。ここでは、著者の研究室学生の卒 論を中心として、その目的・方法・結果につ 1 環境教育の実践事例を調査し、分析した いて簡単に紹介し、その意義について注釈を もの 「『長野県における環境教育の実践事例の分析 加えたい。こうした環境教育にかかわる卒論 とその変遷』三室知沙 2003」 の全国的な交流を進めることは、大学教育に おける環境教育研究の独自の実践でもあり、 かつその向上にも大きく役立つのではないだ 目 的 ろうか。 長野県における環境教育の実態とその時代 的変遷を、毎年開催されている長野県教育研 第二章 信州大学教育学部における環 境教育の概要 究集会の「環境・公害と教育分科会」での実 教育学部における分野は、多様な教育のニー る副読本「環境教育」第 1 集から 12 集の両 ズに対応するため、従来の国社数理などの免 者から分析し、長野県の環境教育の実態を全 許科目のほかに、環境教育・国際理解教育・ 国の環境教育と比較,検討する。 践報告と,信濃教育会が継続的に発行してい 野外教育・心理臨床などが新たに設けられ、 現在 19 の分野がある。学生はいずれかの分 資 料 野に所属し、2 年から卒業までのカリキュラ ①長野県教育研究集会:長野県教育研究集 ム群を学修する。環境教育分野には、2 年に 会の環境教育に関わる分科会は 1971 年から なると学年 280 名のうち約 10 名ほどが希望 始 ま り 今 に 至 っ て い る。1971 年 か ら 2002 によって所属し、現在は兼任教員 14 名によっ 年までの 32 年間の環境教育事例は,全てで 23 306 例であった。②信濃教育会:信濃教育会 一番多かった。児童・生徒にとって身近な存 は長野県内の学校で行なわれた環境教育の事 在であるし,常に接しているものであること 例を集めて『環境教育』を編集,現在まで 12 が最大の理由だろう。「ゴミ・リサイクル」の 冊発行している。全 12 冊での実践事例の総 割合は,県教研・信教ともに最近になって増 数は 155 例である。 加しつつあることがわかる。⑥目標(信教のみ: すべての事例(155)で「関心」を目標に設 方 法 定していた。「態度」はほとんどの事例(140) ①内容の区分:ⅰ校種 4 区分、ⅱ教科 14 において目標に設定され,「関心」とともに重 区分、ⅲ形態 6 区分、ⅳ期間 6 区分、ⅴ場所 視されていることがわかる。しかし,「評価能 6 区分、ⅵ題材 7 区分、ⅶ目標「ベオグラー 力」を目標に設定することは難しいのか,2% ド憲章」の6区分、児童・生徒の参加度合い: ととても少なかった。⑦児童・生徒の参加度 a.能動的参加型 b.中間型 c.受動的 合い(信教のみ):1期では「受動的参加型」 参加型の 3 区分、②時代区分:事例数や時代 が 61%と,半数以上を占めていたが,それ以 がほぼ同じになるように,県教研と信教を以 降では, 「能動的参加型」の割合の方が多くなっ 下の 6 期と 5 期とに時代区分した。 た。児童・生徒が,積極的に授業に参加でき 県教研 信教 るような形態をとろうとしていることが読み 第一期 1971 ー 1973 1972-1974 取れる。⑧実施事例パターン:略 第二期 1974-1979 1977-1980 第三期 1980-1985 1983-1986 考 察 第四期 1986-1991 1990-1993 全国の実践事例との比較: 1994 年に文 第五期 1992-1997 1996-2000 部省に報告された各県での環境教育実践の 第六期 1998-2002 200 事例を分析した「環教教育実践報告の分 析~1994年版~」(田北篤史 2000)の結 結 果 果を全国の実践として、長野県の同年代の5 ①教科:県教研・信教ともに,「学活」の割 期の事例とを比較した。 合が群を抜いて多かった。これらは教科外の ①教 科:全国,信教,県教研ともに,同 活動であり,環境教育は,まだ教科に根付い じような割合である。②タイプ:全国では「学 ていない。② タイプ: 「体験活動」は,増 習知識」が多く,長野県は比較的体験的な活 加傾向にある。「学習知識」は,1970 年前半 動が多い。③実施期間:全国の結果は正反対 は 35%と多く実践されていたが,それ以降 で「1日」・「数時間」と短期間の実践が多く, 徐々に減少し,1991 年以降ほんの少しであ 半数以上を占めていた。④活動場所:全国・ るが,増加しつつある。これは,1991 年発 長野県ともに一番多いのは「教室」での実践 行の「環境教育指導資料集」が影響している であった。⑤題材:全国,長野県ともに「自然・ と考えられる。③実施期間:県教研・信教と 生物」が一番多く,全体的にほぼ同じような もに同じ傾向で,多い順に「1年以上」 ・ 「月」 ・ 割合であった。 「学期」・「週」・「数時間」・「1日」であった。 長野県の実践は,年間をかけて行ない、「学 長期間の事例は,1970 年頃に比べ,増加し 習知識」よりも「体験活動」タイプの方が多 てきている。④活動場所:一番多いのは「教室」 いことがわかった。 で,次いで「学校敷地内」であった。⑤題材: 本卒論は、32 年分の大量の資料収集とそこ 県教研・信教ともに「自然・生物」の割合が における 461 の実践事例の読込みによって、 24 長野県における環境教育実践の概要とその時 エネルギー消費については、塗料と木材が 代変遷を実証したものである。他県でも同様 飛びぬけて大きい。また、大気・水圏への負 の調査を行うことで長野県との比較を行って 荷も塗料が最も大きくなっている。従って、 みたい。こうした環境教育の実践は各地の教 使用する塗料は環境負荷の少ない製品へと変 育研究集会などで多数発表されているであろ 換される必要があるといえる。 うがそれらを体系的に収集、分析するのはか 教材を製作する上で、作る行程だけをとり なりな労力を要するであろうが今後の環境教 あげるのではなく、ライフサイクルの各段階 育研究の基礎資料としてはぜひ必要であろう。 を見据えたものづくりが展開される必要があ る。リサイクルから廃棄段階などの製品完成 後の行方を明確にする消費者教育的な授業の 2 教科書の環境に関わる研究 「『技術科教科書の製作教材における環境配 展開も必要となっていくだろう。さらには、 慮』」水津和雄 2003 各国での資源調達段階での環境負荷も知る必 要が出てくると思われる。技術の進展だけで 目 的 なく、技術の将来を見据えた「地球に優しい 中学校の技術科において「ものづくり ( 製 ものづくり」について考え、実践する技術科 作教材 )」は中心的な教材である。しかし、学 の授業展開が望まれる。 校現場でのものづくり授業は、必ずしも環境 本卒論は、教科書におけるものづくり教材 配慮がなされているとはいえない。そこで、 を題材に、全ての教育活動にも必要とされる 製作教材である「マルチラックの製作」を例に、 環境配慮を素材の環境負荷という面から数量 その各部品などの環境への影響を定量的に調 的に示したものである。環境教育においては、 べるとともに、教材としての環境配慮を考察 一般的に「ものを大切に」だけではなく、数 する。 量的に環境負荷を示して環境配慮へと導く科 学的な手法はあらゆる教育現場においても有 方 法 効な手法であると思われる。 代表的な製作教材である「マルチラック」 の素材は、木材・金属 ( アルミ・黄銅 )・化学 3 自然の調査に関わる研究 製品 ( 塗料・接着剤 )・プラスチックの 4 要素 「『長野市の小中学校における環境計測につい である。これら各要素毎にその製作にかかわ て』秦千暁 2003」 る、エネルギー消費・大気圏排出物・水圏排 出物の環境負荷を、Environmenntal load data 目 的 for 4000 social stocks を用いて算出する。 環境計測とは、器具や装置を使って自然環 境を測ることで、環境教育上、とても重要で 結 果 ある。なぜならば、実際に計ることにより学 製作教材の各部品の量、およびその環境負 習者の興味・関心を高めることができ、抽象 荷量は表のようである。 的になりがちな環境教育とは違った効果が期 マルチラックの環境負荷量 エネルギー(J) CO2(g) Sox(g) Nox(g) BOD(g) COD(g) 木材 2016cm3 1527495 121.720 0.490311 0.108719 0.727443 0.453995 合板 142.56cm3 2265 0.193 0.000606 0.000185 0.002670 0.001986 黄銅 33.6g 1439 0.098 0.006721 0.000122 0.000302 0.000215 Al 48.6g 4469 0.322 0.001857 0.000382 0.000796 0.000381 接着剤 7g 220 0.034 0.000047 0.000020 0.000329 0.000339 塗料 58g 18211420 279.444 0.387266 0.166576 2.722752 2.808708 計 19747308 401.811 0.886808 0.276004 3.454292 3.265624 25 待できるからである(環境教育指導事典・国 おられ、環境計測をもとにした生涯教育とし 土社 1996)。長野市では「次代を担う子ども ての環境教育が実践されていたと評価できる。 たちに、自然環境の観測体験をとおして環境 ③問題点:環境計測の結果に対する評価や活 問題への関心と理解を深めてもらうこと」(長 用は各学校に任され教師の力量に因るところ 野市環境白書)を目的として、長野市内の小 が大きく、科学や環境に疎い先生には負担が 中学校に環境計測の依頼をし、水質の環境計 大きい。この点が参加校が年々減少している 測が実施され、計測データは毎年市役所に提 一因になっていると考えられる。また、5年 出されている。そこで、これらの環境計測を 分の水質環境計測の資料があるのにこれらが 各学校がどのように取り組んでいるか、その 活用されず市民に還元されていないのは残念 教育効果はどうなのか、また問題点等を明ら である。環境計測をした結果の解析と評価、 かにすることを目的とした。 活用の方法が確立されていないことには早急 な対応が求められる。 方 法 環境計測から環境観への転換法が明確では 長野市の環境教育の取り組み、そして長野 ないことも大きな問題である。環境計測は環 市簡易環境測定の目的、実践等を文献と聞き 境教育としての導入、自然への気づきという 取りによって調べた。各学校の取り組みにつ 面から解説がなされているが、環境観へのもっ いては、平成 15 年度に環境計測を行った 9 ていき方には言及していない。より明確で誰 学校のうち 5 校の先生と子どもに話を聞き、 にでも行える方法を確立する必要がある。環 環境計測の実際をまとめた。 境計測をやることで満足して終わってはいけ ない。 結 果:略 本卒論は、環境教育として学校で多く行わ れている環境調査の実際を調査し、それなり 考 察 の効果をあげていることが確認された。しか ①行政の意図と実際の取り組み:学習者側 し、調査でありながらその科学的意味や広域 の環境計測は、長野市が提示する「観測体験 での調査をまとめ教材化するなどが行われて をとおして環境問題への関心と理解を深めて いない課題も明らかになった。また、環境計 もらう」というねらいや「日常生活が環境に 測から環境観への展開がなされていないのも 与えている影響に気づき、暮らし方を変える 大きな問題である。こうした課題への具体的 ( 長野市環境学習プラン )」に沿ったものと 提案を実地に行う必要があるだろう。 なっていることが教師・子どもの聞き取りな どから確認できた。②教育効果:環境計測は 4 学校に関わる研究 子どもたちに身の回りの自然環境に興味を待 2007:長野市における学校ビオトープの現状 たせ、それに対する理解を得させることがで とネットワークの可能性について:野村祐輝 きていた。子どもたちはさらに自らの生活を はじめに 省み、これからは環境にやさしい行動をとる 長野市内の学校ビオトープは学校での活用 という考えに至り、それを実行することもで にとどまらず、地域の緑地としても重要であ きていた。実際に指導を行っていた先生方も、 ると考え、新たな地域の緑化ネットワークと 子どもたちのよりよい環境意識形成のために しての可能性を探るために本研究を行った。 は日々の教育活動、家庭教育、子ども自身の ①長野市の学校ビオトープの現状:長野市 生活体験が重要であるということに気付いて 内の 6 つの小学校の学校ビオトープ又はそれ 26 に相当する池などの現状を調査した。 距離にして、720m という近隣にある芹田小 ・各学校のビオトープの調査結果:略 学校と南部小学校とその中間地点にある栗田 ・池の形態と生物相の関係: コンクリー 総合センターに調査協力をお願いし、その 3 トの池でも土の池でも種類数には違いがみ 地点間でトンボが行き来をしているのかを調 られなかった。小さなコンクリートでも古 査することにした。 い池では多くの生物が観察されていたこと によるだろう。 調査方法 ・学校ビオトープの周りの植物: 長野市 ビオトープに飛来しているトンボを捕獲し、 の小学校では 49 種類もの多様な樹木が植 芹田小学校では黒色で、南部小学校では赤色 栽され、市内の豊かな樹木園ともいえる。 でマークをし、それぞれの学校と栗田総合セ ビオトープの大きさや種類数と植栽種類数 ンターで採取をし、トンボの羽にマークがつ の関係は特に見出せなかった。 いているかの確認を行った。 ②全国の学校ビオトープの現状と課題 (コ ンクール優秀校にみる学校ビオトープ):(財) 結果 日本生態系協会が主催する学校ビオトープ 今回、8日間、トンボのマーク調査を行い、 コンクールの報告書を参考に全国の学校ビオ 芹田小学校では計 14 匹採取したが、マーク トープの現状を調べた。 のあったものは 0 匹であった。南部小学校で ・学校ビオトープの作成段階における関わ は計 15 匹採取したが、マークのあったもの りにおいて、地域や行政、専門家の関わり は 0 匹であった。栗田総合センターでは、38 が学校や子どもに比べると極めて少なかっ 匹採取し、前日に同センターでマークしたも た。ビオトープの優秀校ですら、学校だけ のを 1 匹確認することができた。 での活用方法がほとんどであり、「地域の生 今回採取されたアカトンボ類は移動性が高 物相を豊かにする」という本来のビオトー い種類なので再捕獲できなかったと考えられ プの役割としてはまだまだ地域に開かれて た。 はいないというのが現状だ。 子どもたちはトンボを捕まえたり、マーク ・誘致したい生物類については、すべての することに高い興味を示してくれた。20 分の 学校で昆虫類を誘致したいと考えており、 短い休み時間に大勢の子どもたちが集まって 中でも、トンボやチョウ、ホタルなどが人 くれ、あまり取れない日でも飽きずに連日来 気である。目的をもって誘致することによ た。ただ、虫を捕るのではなく、隣の学校に り、子どもたちのビオトープに対する関心 飛んで行くかもしれない、隣の学校から飛ん も大きくなる。地域に生息する生物を学校 でくるかもしれないという大きな期待感も子 に実際に誘致することができれば、学校ビ どもたちにあったのではないかと思われる。 オトープを地域に開かれたものとして意識 こうした子どもたちの姿をみると、ただ学校 したり、活用することが期待できるのでは の施設というだけのビオトープより、近隣や ないだろうか。 地域の山々にも生き物の中継場所としてつな ③学校ビオトープ間のネットワークの可能 がる可能性をもっているのだという意味をこ 性の調査 (トンボ調査):近隣の小学校間で そ子どもたちへの教育面からも重視する必要 生物の行き来を確認することができれば、ビ があるのではないかと感じた。 ④松本市立清 オトープのネットワーク化を地域に期待でき 水小学校のビオトープの視察:略 るのではないかと考えた。そこで、地図上の ⑤総合考察(まとめと提案) : 調査の結果、 27 以下のようなことが分かった。 いったことも少なくなるであろう。学校ビ ・学校ビオトープの作成・管理・活用は学 オトープを有効に管理・活用するためには、 校や子どもが中心で、地域や専門家、行政 学校内のみならず、他の学校と管理や活用 の関わりが少なかった。 の仕方などについてのネットワークを作る ・誘致したい生物など、目的をもって学校 ことがぜひとも必要である。 ビオトープを作成、改良していくことが大 ・全国の学校ビオトープの現状調査からも、 切である。 作成段階・管理段階・活用において、学校 ・初めて担当になりどういった目的・経緯 や子どもに比べると地域や専門家、行政の でいつ作られたかわからない、使い方が分 関わりが少ないことが分かった。本来の学 からない、ビオトープの管理の仕方が分か 校ビオトープの定義である「すでに学校の らない、などの声が多い。 敷地内や学校のまわりにある豊かな自然環 ・素晴らしいビオトープがあるにもかかわ 境の他、それらを復元したり、新しく創造 らず、あまり活用されていない場合があっ したりすることによって生まれた自然環境」 た。 とするためには、学校ビオトープを地域の ・管理が難しいという問題や学校ビオトー 緑に繋げ、地域との関係をより密接なもの プのことについて文章化されていない学校 にすることが必要である。そのことで、そ が多く、いつできて、どんな植物が植えら の活用や可能性をより大きく広げることが れているのかがわからないという状況で できるのではないかと考える。 あった。 ・今回の調査では、学校ビオトープ間での ・緑を増やしたいが落ち葉や鳥の飛来によ トンボの飛来を確認することができなかっ る騒音などの関係で、困っている学校があっ たが、子どもたちはトンボ調査には関心が た。 非常に高く一定の効果はあると思われた。 ・2,3 年で教員の移動があり、そのたびに 学校間のビオトープがネットワークの関係 担当が変わってしまう。 にあるという可能性を意識してもらうこと ・子どもたちはトンボなどの昆虫などを採 だけでも教育効果はあったのではないかと ることに関心が高かった。 考える。トンボ調査をとおして子どもたち ・ビオトープコンクールの優秀校である松 が地域や近隣の小学校との学校ビオトープ 本市立清水小学校では管理・活用について、 のネットワークの可能性を意識することに 学校だけでなく、専門家に相談したり、掃 より、地域との繋がりが大きくなるのでは 除を PTA に協力を依頼したり、地域への自 ないか。そのことが、教師や学校間のネッ 然観察会を行ったりして、地域に開かれた、 トワーク形成の大きな鍵であり、学校ビオ 活用をしていることが分かった。 トープを地域全体の財産、資産としてゆく 以上の結果から、以下のような提案を行い 上でも重要であると考える。 たい。 学校ビオトープの実地調査をとおして、そ ・長野市の学校ビオトープの現状調査から の優れた実践も本来の「地域を豊かにする」 は、学校間、教師間の情報のネットワーク という目的を失い、学校単独で活用すること が必要である。ビオトープの目的や管理・ で多くの問題が生じていることが明らかに 活用の仕方について文書化することで、教 なった。さらに、その解決の一手法としてト 師がより有効にビオトープを活用でき、教 ンボ調査を提案し、試行している。さらに、 員の転任や移動によって活用が止まると 手法や問題点を深める必要があるだろう。 28 第 4 章 おわりに けるブナ林の保全と利用」 約 10 年にわたり学生の卒論指導に関わっ 2004 環境 てきたが、学生の関心と意欲・力量に合わせ 境教育で用いられた動植物教材の研究」 てテーマ設定を行い、調査を共同し、分析の 2004 環境 相談に乗るのは著者の卒業分野であった生物 トアイランド現象と土地利用の関わり」 学とは全く異なった指導法が必要である。し 2004 環境 かし、こうした環境教育の指導の中で多様な おける環境計測について」 環境教育の理念や学校現場などでの実態を体 2005 野外 験できたのは貴重であった。本研究室におけ 野外教育への応用」 る卒論研究だけでも環境教育は実に多様な展 2005 環境 開をみせてくれた。それだけ幅広い領域と関 人体へ及ぼす影響:家庭科教育教材を考える」 連しているということである。今後はこれま 2005 環境 での調査研究を年々継続することで環境教育 タイル地球温暖化」 研究としてより深めてゆかなければいけない 2005 環境 と考えている。 ンを用いた自然体験・環境意識の分析方法」 2005 環境 武藤麻由「長野県における環 丹羽聖 「長野市におけるヒー 秦千暁 「長野市の小中学校に 加藤充 「ブナ林の季節変化と 山本亜有子「現在の住環境の 山口早紀「世代別のライフス 渋田見志保里 「 タ イ ム ラ イ 川崎真悠子「自然観察絵本の 卒論一覧 ( 発表年・所属・氏名・タイトル ) 製作とその分析」 1999 野外 2005 環境 山岸洋子「幼稚園における自 大久保明紀子 「 温 暖 化 が 志 然体験について」 賀高原の植物季節変化に及ぼす影響」 2000 野外 2005 環境 木下昌行「長野県における野 吉原達也「レッキングルート 外活動施設の社会的認知度」 の開発における環境教育について」 2001 野外 2006 野外 石井智弘「小学校国語に見る マインドの変化に関するアンケート」 環境教育」 2001 野外 小山拓 「環境知識によるエコ 2006 野外 常井健司「新聞資料から見た 久保敦史「野外教育の定義に 環境問題について」 関する一考察」 2001 野外 2006 環境 田北篤史「環教教育実践報告 河合吉図「雑魚川・魚野川流 の分析・1994 年版」 域における在来イワナ保全のための形態調査」 2001 野外 2006 環境 堀部美帆「現代用語辞典に見 藤田江身「自然体験と環境意 る環境問題用語の変遷」 識・意欲の関係」 2002 野外 2006 環境 和田吉正「登山におけるし尿 の環境教育」 処理問題」 2003 野外 安藤寿秀「長野市における川 2007 野外 栗田しのぶ「環境白書に見る 秋山哲 「長野県のスキー場に 環境教育の変遷」 おける夏期営業の現状と展開」 2003 環境 2007 野外 水津和雅「技術科教科書の製 山岸大輝「北海道のスキー場 作教材における教育配慮」 における夏期営業の現状と展開」 2003 環境 2007 環境 三室知沙「長野県における環 境教育の実践事例の分析とその変遷」 教育意識」 2003 環境 2007 環境 松崎健太「焼却処分場からの 加藤千尋「大学 1 年生の環境 野村祐輝 長野市 降下物の周辺植物への影響について」 における学校ビオトープの現状とネットワー 2004 野外 クの可能性について 須永優 「北海道黒松内町にお 29 現代自然体験学習の源流としての自然保護教育実践における ESD 的視点の検討 ~ 1970 年代のナチュラリスト運動に着目して~ 降旗 信一 第 1 章 はじめに~問題の設定と検討の 方法~ のような取り組みがあり、その成果と課題は 本稿で論じるのは、今日の自然体験学習実 誤の中に今日の我々が学ぶべき内実があるの 践の源流である 1970 年代から 80 年代の自然 ではないかとの問題意識のもと、今日の自然 保護教育実践についてである。環境教育の五 体験学習実践と歴史的思想的なつながりを有 つの潮流(朝岡、2005)の一つである自然保護・ していると考えられる 1970 年代~ 80 年代 野外教育系環境教育は、改正教育基本法(2006 前半にかけてのナチュラリスト運動の記録を 年)において「生命を尊び、自然を大切にし、 手がかりに、上記の視点に関する検証を行う。 環境保全に寄与する態度を養うこと」という 検証の対象とした一次資料は表 1 に示すとお 項目が挿入されたこと、2001 年の社会教育 りである。 何だったのだろうか。かつての実践の試行錯 法・学校教育改正において「社会奉仕体験活 動、自然体験活動その他体験活動」の充実や 奨励が盛り込まれたこと、「環境保全のための 第 2 章 自然保護教育実践史におけるナ チュラリスト運動の位置 意欲の増進及び環境教育の推進に関する法律」 1自然保護教育実践史における先駆的実践 (2003 年)において「自然体験活動」の重要 環境教育の源流の一つである自然保護教育・ 性が明記されたことなどの法的制度的な措置 自然保護教育実践は、広く世に自然保護の必 を背景に 1990 年代後半以降から、自然体験 要性を訴えていく教育であり、体験よりも調 を通した学習実践である自然体験学習実践と 査や観察を重視するといった実践のスタイル して各地で展開されている。一方、2005 年 において今日の自然体験学習とは異なるもの から始まった「国連持続可能な開発のための の環境的行動をとる主体を目指すという点で 教育の十年」などを契機に、環境教育の概念 の共通性も有している(又井、2006)。1957 が、「環境の中の(環境についての、環境のた 年に文部大臣に対して自然保護教育に関する めの)教育」から、環境のみならず経済や社 陳情を行った日本自然保護協会が、自然を守 会も射程に入れた「持続可能な開発のための る行動をとる人を育てる自然観察指導員の養 教育」(ESD)へと広がる中、自然体験学習に 成事業を開始したのは 1978 年だが、自然保 ついても従来の感性的受動的体験から、現実 護運動を進める際の手法として野外観察をと 社会の生産様式や経済構造のあり方までも射 り入れようとの動きは 1950 年代~ 60 年代 程にいれる新しい学びのあり方として捉えな にかけて各地で展開されていた。その代表的 おす必要が生じている(降旗、2006)。 な動きとしては、金田平・柴田敏隆らが中心 本稿ではこのような ESD 的な視点が、1970 となって 1950 年代半ばから展開された三浦 年代~ 80 年代の自然保護教育実践の中でど 半島自然保護の会(金田・柴田、1977)、品 こまで意識されてきたかという点に着目する。 田穣らにより設立され 1957 年から約 20 年 この時代の自然保護教育実践の中にこうした 間にわたって活動を展開した東京教育大学野 意識が醸成されていたとすれば、そこにはど 外研究同好会(品田、1978)、東京湾新浜埋 30 表1.本研究に使用した文献資料(一次資料) 刊行時期 資料番号 タイトル 種別 概要 会報・ニュースレター 日本ナチュラリスト協会会報(多くは子ども向け記事) 001~069 1976.2.15‑1986.7.1 ナチュラリスト(1号‑69号) 会報・ニュースレター 横浜支部、横浜ナチュラリストクラブ会報 071‑123 1982.11‑1992.5 かもめだより(95号) 会報・ニュースレター 和泉多摩川支部、和泉多摩川ナチュラリストクラブ会報 125‑141 1985.11‑1988.7 ぞうきばやし(5号~) 142‑151 1989.12‑1993.1 のなかのなかま(準備号~8号) 会報・ニュースレター 野中ナチュラリストの家会報 会報・ニュースレター 北多摩支部、北多摩ナチュラリストクラブ会報 152‑166 1983.11.8‑1986.5.19 てくてくしんぶん 会報・ニュースレター 高島平支部、高島平ナチュラリストクラブ会報 167‑168 1985.6‑1986 たけのこしんぶん(第46号) 会報・ニュースレター 京葉支部、京葉ナチュラリストクラブ会報 352‑437 1979‑1992.3.6 水平線(1号~最終85号) 会報・ニュースレター 1985.2.1 リーダー通信 当時の各NCの活動状況を報告 225 会報・ニュースレター 朝日町ナチュラリストクラブ・朝日鉱泉ナチュラリストの家会報 521‑554 1987‑1998 朝日連峰山だより43号まで 555‑572 1987‑1998 カモシカだより7号から30号まで 会報・ニュースレター カモシカ調査グループの会報 シェアリングネイチャー1号から14号 会報・ニュースレター シェアリングネイチャーグループ会報 573‑587 1987‑1990 1973.12‑1976.1 ナチュラリストだより1号~17号 会報・ニュースレター 日本ナチュラリスト協会発足時の指導員向けニュースレター 588‑605 会報・ニュースレター 日本ナチュラリスト協会発足時の事務局通信 606‑610 1974.4‑1975.11 NATURALIST 会報・ニュースレター 日本ナチュラリスト協会事務局通信 611‑621 1974‑1980 事務局だより 京葉支部、京葉ナチュラリストクラブ活動報告 438‑490 1979‑1992.3.6 京葉ナチュラリストクラブ活動報告 活動報告 一つ沢ナチュラリストの家不動産売買契約書原本その他 279‑351 1980‑1985 会計報告、教材、契約書など 活動報告 和泉多摩川ナチュラリストクラブ活動報告 活動報告 1992 1990年度と1991年度の活動報告 169 シニアクラブ、後山、一つ沢、EECS、多摩川、戸倉 活動報告 1974‑1989 各地のナチュラリスト村運動の報告書など 622‑694 会員名簿、後山、救急資料、観察会規程 活動報告 695‑767 1974‑1992 自然観察会の運営資料など 高島平ナチュラリストクラブの1985年度活動計画書と報告書 170 1986 1985年度自然観察会記録集 活動報告 1978‑1985 尾瀬戸倉自然教室指導者用資料 指導者資料 尾瀬戸倉自然教室用の指導者マニュアルや資料 171‑190 1979‑1980 長岡自然教室指導者 指導者資料 長岡自然教室用の指導者マニュアルや資料 191‑192 1975‑1986 野中自然教室指導者 指導者資料 野中自然教室用の指導者マニュアルや資料 193‑224 491‑520 1987 入笠山自然教室活動報告 指導者資料 入笠山自然教室ノートなど 議事録・会議記録 菅平自然教室、中高生対策の検討 226‑229 1984‑1985 菅平自然教室 野中ナチュラリストの家に関する取り決め 議事録・会議記録 230‑232 1984 議事録・会議記録 1987年3月の事務所閉鎖にいたる会議記録 233‑278 1984.9‑1987.3 運営委員会議事録 入会・行事パンフレット 1980~1987まで使用された入会案内 1980 日本ナチュラリスト協会とは 070 1993 もういちど「はじめの一歩」 会員への手紙 横浜ナチュラリストクラブ活動停止について 124 768‑840 1974‑1987 記事、他団体会報 関連資料 新聞記事や事務局に届いた会報など これらの資料は日本ナチュラリスト協会の事務局が閉鎖された1987年3月の時点で事務局に保管されていた800点を超える一 次資料であり、1987年当時の事務局責任者であった木村陽子氏より2001年に筆者が預かったものである。なお構成団体に 関する1987年以降の資料も含まれている。 31 め立て反対運動から 1968 年に生まれた「自 の活動というよりはむしろ市民が生態調査に 然観察会」(小川、1992)などがあげられる。 参加しながら野生動物の保護問題を考える自 ナチュラリスト運動はこうした先駆的な自 然保護教育実践として展開されたという点で 然保護教育実践の動きに影響を受けつつ、当 ある。一般の市民には縁遠いと考えられがち 時の若手社会人や学生たちが中心となり新 な野生動物の調査を市民向けナチュラリスト しい自然保護教育運動のあり方の模索とし 講座として展開した点が特徴的であったとい て 1973 年に設立され、その後日本ナチュラ える。さらに五点目は、この運動が「新しい リスト協会として 15 年間以上にわたって展 自然保護教育の方法論」の開発を重視してい 開された一連の実践である。日本ナチュラリ た点である。「連想語法」「マクロからミクロ スト協会は 1987 年に本部事務局を閉鎖した へのアプローチ」「ストランド法」など 1970 が一部の構成団体の活動は今日なお継続して 年代から積極的に新しい方法論や評価法の開 いる。日本の自然保護教育実践史における日 発を行った。1986 年にネイチャーゲームを 本ナチュラリスト協会の位置づけについての 日本に導入したのもその一環といえる。関連 定説はまだないが、少なくとも以下の六点に するが六点目として、日本ナチュラリスト協 おいてこの運動の位置づけを特徴づけること 会は原書の Sharing Nature with Children とい ができる。一点目は、この団体は東京教育大 う題名を「ネイチャーゲーム」と翻訳したネ 学野外研究同好会の出身者であり日本自然保 イチャーゲーム運動の名づけ親であり(降旗、 護協会の若手職員であった木内正敏を中心に 2001)、今日の日本ネイチャーゲーム協会の 発足している点である。すなわちこの運動は 組織作りに多くの影響を与えているなど今日 源流を東京教育大学野外研究同好会(野外 の自然体験学習実践との思想的方法論的な接 研)とし、その後、日本自然保護協会におい 点を有している点も特徴といえる。 て全国的に展開された自然観察指導員養成講 座やネイチャーセンター運動などとの理念的 2 ナチュラリスト運動のめざしたものとそ なつながりを有していると考えられる。二点 の変遷 目は、この団体が 1975 年に一般市民対象の 「ナチュラリスト」という言葉は自然保護教 指導者養成講座を実施した団体の一つ(小 育が目指す理想の人間像を示す言葉として、 川、1976)であり、自然保護教育の指導者養 1973 年 9 月にこの運動の創設メンバーたち 成において先駆的団体であったという点であ の議論の中で生まれた概念である。「ナチュラ る。三点目は、この団体はナチュラリストエ リスト」について木内正敏は次のように述べ リアという構想をもっていたという点である。 ている。 1990 年代に山形県朝日町を舞台に日本のエ 「自然保護の要請に答えられるナチュラリ コミュージアム運動の先駆的実践を展開した ストになるためには 1 つ 1 つの自然について 西澤信雄が日本ナチュラリスト協会の創設メ の理解を深めるとともに、日常的なさまざま ンバーの一人としてこの構想に参加していた な環境要素についてトータルな環境認識を得 ことを考えるとこのナチュラリストエリア構 る努力が必要でしょう。私達の環境はすべて 想 は 日 本 に お け る ESD 実 践( 阿 部、2006) の要素-太陽、水、土壌、空気、生物などが の一つとされるエコミュージアム運動の源流 網の目のように結び合い複雑な組み立てを (あるいはそのうちの1つ)であった可能性が もっています。この全体的な環境の成り立ち ある。四点目は、この団体において取り組ま を少しでも多く考察することができるように れたニホンカモシカ調査活動は、研究者中心 なるならば、今私たちがかかえている環境問 32 題や人類の進歩について、新しい考えや行動 ラリスト協会の基本理念の1つに、「職業とし が提起され、より創造的な世界を望むことが ての確立」というプロフェッショナリズム(職 可能になるでしょう。そのためにナチュラリ 業意識)があったといえる。 ストは専門の科学者になることではなく、今 までの研究や環境問題から何が環境の理解に 表2.日本ナチュラリスト協会の目的と事業 役立ち、いかに上手に人々に伝えるかという 野外教育活動および研究広報活動を通じて、『自然を愛し、 自然に学び、身近な自然環境のあり方について考えることの 目的 できるナチュラリスト』を育成し、もって自然保護教育の推 進に寄与するとともに、地域の自然環境の保全に貢献するこ と (1)児童、生徒、一般を対象とする自然観察会、自然教室等 の実施。 (2)自然観察会、自然教室の指導にあたる指導者の養成 (3)自然観察会、自然教室の普及に必要な刊行物の発行およ び催物の開催 (4)自然保護教育および自然環境の保全と回復に関する調 事業 査、研究。 (5)自然保護教育の場となるナチュラリスト村の建設、運 営。 (6)自然保護教育および自然環境の保全と回復を目的とする 他団体への協力 (7)その他の前条の目的を達するための事業。 手法を身につけることも大切です。」(木内、 1974) 英語のナチュラリスト(Naturalist)とは、 一般的には「博物学者(特に動植物を戸外で 観察・研究する人)や自然主義者」(研究社カ レッズライトハウス英和事典)といった意味 がある。日本ナチュラリスト協会が目指した のは、単なる自然の愛好家を育てるのではな く、「自然保護の要請に答えられる」ナチュラ リストの養成だった。より具体的にいえば、 それは身近な自然の観察を通して身のまわり の環境について発見したり疑問を持つととも に、自然を自分のからだの一部分として大切 にできる子どもを育てる事であった。日本ナ チュラリスト協会の設立は、産業開発、工業 化によって引き起こされる自然破壊を食い止 日本ナチュラリスト協会規約(1980年12月20日改正)より このようにして 1973 年に設立された日本 めるために、いわゆる「反対闘争」的な自然 保護運動だけでは不十分との認識を踏まえ、 ナチュラリスト協会は、子どもを対象とした 自然観察を通してより積極的に社会のあり方 自然保護教育活動として注目され、会員とな や人間の行動様式を考える子どもを育てよう る子どもたちが年々増加した結果、1980 年 という自然保護運動の新しい挑戦だった。木 には会員数 577 名、年間予算 600 万円強の 内は日本ナチュラリスト協会が自然保護教育 団体となった。中心メンバーの間では今後の の手法研究に力を入れた理由について、「チャ 成長に伴う公益法人(社団法人)化の議論が リティ(寄付)の精神的基盤のぜい弱な日本 交わされ、規約も整備された(表 2)。この勢 社会の中では、市民運動や自然保護運動は拠 いでさらなる成長を期待し、翌年の 1981 年 点をもつことすら難しい。足下の問題として には大幅な事業収入増を見込んだ、夏の自然 普遍的な地域づくりの事務所をつくるために 教室事業の参加者が思うように集まらず、会 は『食べていける』基盤をつくる事は非常に 員数、年間予算ともに前年度を下回る結果と 重要な課題だった。当時、自然観察会は自然 なった。この下降線の流れは 1980 年をピー 保護団体の仕事の1つでしかなかった。地域 クにその後も変わらず、収支の悪化とともに の人たちのよりどころとなるような仕組みを 資金繰りも苦しくなり、専従職員の雇用が困 つくるため、その自然観察会を仕事として確 難になった。翌年 1982 年には本部事務局を 立するためのノウハウを確立したいと考え 縮小し、その後は各地域での活動を中心とし た。 」と述べている(木内、2001)。日本ナチュ た緩やかな連合体へと次第に移行し、1987 33 年 3 月末には本部事務局を閉鎖している。順 い活動をしていこうと、この年(1973 年)9 調に発展しているように見えた日本ナチュラ 月日本ナチュラリスト協会を設立した。この リスト協会が 1980 年を機に急速に縮小拡散 協会の活動を中心的に支えたのは、木内正敏 の方向に向いだした原因は自然教室の参加者 の呼びかけに応え自然教室に参加した若手社 が集まらなかったという事以外にも地域分散 会人や学生たちであった。 型の組織化を進めたことによる本部組織の空 このように日本ナチュラリスト協会は、自 洞化が起きていたことなどが考えられる。 然教育の先駆的実践を行っていた東京教育大 学野外研究同好会の出身者が日本自然保護協 3 日本ナチュラリスト協会の設立の経緯 会の職員という立場であった 1973 年に発足 日本ナチュラリスト協会の創設者・会長で させたという経緯をたどっている。この動き ある木内正敏は東京教育大学野外研究同好会 を日本自然保護協会の活動として内部化する の出身である。1969 年に日本自然保護協会 可能性はなかったのだろうかという点につい の常勤職員となった木内は、1970 年 5 月に て、当時、木内正敏とともに日本自然保護協 自然保護運動が一般市民に対して門戸を開い 会に勤務しながら、日本ナチュラリスト協会 た初の集会とされる「自然環境を取戻す都民 の事務局役も引き受けていた木村陽子は次の 集 会 」 や 1972 年 5 月 に ア メ リ カ の ア ー ス ように述べている。 デー運動に呼応して、子どもたちに豊かな環 「(当時の)日本自然保護協会の自然観察会 境を残そうと和泉多摩川の河原に若者たちが 的活動は日本各地で行われていましたが、高 集まった「アースデー」の催しを日本野鳥の 齢化しておりサロン的にもなってしまい、自 会の若手職員であった市田則孝らとともに企 然破壊のひどい所へ出かけていってもなんと 画した。それまでの自然保護運動では、この なく“視察的”雰囲気で終わってしまい、当 ような行動を呼びかけてもせいぜい 50 人程 時全国的に大変活発化していた各地の自然保 度しか集まらなかったが、このデモ行進には 護運動との隔たりが大変大きく感じられまし 200 人を越す人々が参加した。大学時代から た。このような観点から、協会の会議でも若 自然教育に携わっていた木内は、地域で自然 手から(木内氏も私も若手でした)もっと内 教育活動を展開する事の必要性を感じており、 容を変えたらという提言をしてはいたので 当時の美濃部都政の支持勢力であった政党中 すが、なにしろ上に偉い方がたくさんいる 心ではなく市民中心の勢力であり、ノンポリ し、力関係で弱く、結局納得いかないままで (政治的には無党派的)であるものの社会的な 私達の主張が通らなかったのです。」(木村、 意識をもち、市民としての社会的危機感を有 1983) する若者たちの受け皿として自然教育の活動 このコメントから、日本ナチュラリスト協 と人材育成の場を用意しようと考えた。木内 会は、当時の日本自然保護協会の活動範囲を らは 1973 年 5 月に自然を大切にできる子ど 超えた新しい広がりと可能性を求めて出発し もたちを育てようと「自然保護教育研究会」 た組織であることがうかがえる。その内実に を発足させ、同年 7 月には自然に接する機会 ついて次章で検討する。 の少なくなった子どもたちを信州の農村に連 れて様々な宿泊型の体験活動をさせる第一回 上諏訪自然教室を開いた。この自然教室に集 まった若者たちが、自然観察会・自然保護運動・ ナチュラリストエリア(村)づくりなど幅広 34 第 3 章 自然保護教育の方法論をめぐる 日本ナチュラリスト協会の実践 同好会から受けた影響は小さくないはずだが、 1自然観察の方法論をめぐる研究活動の変遷 のようなものであっただろうか。会報創刊号 自然保護教育の目的や方法については今日 の中で木内は次のように述べている。 なお整理の途上段階にある。戦前の日本の自 「子どもたちにとって美しく豊かな自然が 然保護は天然記念物のような文化財の保護が 必要であることはいうまでもないことです 中心であったが、戦後の高度経済成長期に入 が、といって山だの海だの勝手に与えたとこ り人々の生活の周辺の自然の破壊が進んだこ ろで、あたかも植民地のようにあつかわれボ とにともない身近な自然の保護の重要性が議 ロボロになるのが落ちではないでしょうか。 彼らの目指した自然保護教育のあり方とはど 論されてきた。具体的な保護のあり方をめぐっ (中略)今子どもたちにとって大切なことは自 て は Nature Protection, Nature Preservation, 然が与えられることではない。いままで自然 Nature Conservation など様々な捉え方がある と人間がどのように接してきたのか、何を考 といった議論が 1960 年代から行われており え、何を感じてきたのか、大人が、親が、子 (矢野、1965)、今日の野生生物の移入種管理 どもと自然の間に立って話していくことこそ のあり方をめぐる論争にもつながっていると がまず必要なのではないでしょうか。」(木内、 考えられる。一方、自然保護教育の方法につ 1976) いても 1960 年代に、採集の是非やあり方論 この言葉からは、彼らの考える自然保護教 (内藤、1963)(藤田、1963)、自然科学的な 育が単に自然の中で遊ぶだけの自然教育とは 知識・認識を深めるフィールド調査の重要性 異なること、子どもを対象とする教育活動 (木内、1965)、社会開発・観光開発の問題と であっても、その主体は大人であることが の結びつきの重要性(宮崎、1965)など様々 読み取れる。自然保護教育の目的について な議論がなされていた。こうした議論が数多 は、1956 年の国際自然保護連合の IUPN か く展開されていた東京教育大学野外研究同好 ら IUCN への名称変更など、Protection (無 会は、東京教育大学の閉鎖とともにその歴史 秩序な破壊や収奪行為からの防御)から の幕を閉じたが、1975 年 5 月の最後の学園 Conservation (自然の持続的な利用)へとい 祭では「自然教育を考える」というシンポジ う世界的な流れがあり、彼らもこの流れにそっ ウムが開催され、三浦半島自然保護の会、多 て自然保護をとらえていたと考えられる。一 摩川の自然を守る会、山水会(東京杉並の自 方、その方法について創刊当事の会報の中で 然観察グループ)とともに日本ナチュラリス 木内は「環境の変化を考え、生態的な理解を ト協会も参加して「自然保護教育の第一歩と 得るための評価法」として自然観察会の方法 して自然に親しむことの重要性」「自然教育の 論について論じている。こうした指導方法へ 方法の改善」「子どもたちが自由に遊べる緑の のこだわりがその後、様々な自然保護教育の 公園の増設」などについて提言を採択してい 方法の開発へとつながったといえる(表 2)。 る(中山、1978)。このシンポジウムは、自 な お 1975 年 に 青 柳 昌 宏 を 中 心 に 行 わ れ た 然保護教育の先駆者であった東京教育大学野 自然保護教育の評価の研究会であった EECS 外研究同好会から、この教育運動の後継者と (Ecological Education Curriculum Study) 研 なることを期待された市民団体への理念の引 究会にも江川文英、庄山守といった日本ナチュ 継ぎの場であったとみることができよう。 ラリスト協会の創設メンバーが参加している (庄山、1984)。 会長であった木内正敏を含め日本ナチュラリ スト協会の創設者たちが東京教育大野外研究 35 2 農村の暮らしを重視する自然保護村とし スト協会と後山地区との間で「自然保護村宣 てのナチュラリストエリア構想 言」が調印された。この宣言式には、日本ナチュ 一方、同じ会報創刊号では木内の周りに集 ラリスト協会から木内を初めとする 17 名が、 まった若手社会人の一人であった西澤信雄が、 後山地区から区長、PTA 会長、婦人会長、青 日本ナチュラリスト協会の新しい事業として 年団長らが、そして当時この両者の仲立ちを 「 ナチュラリストエリア構想 」 について次の した諏訪の自然と文化の会会長の青木正博が ように述べている。 同席した。この「自然保護村宣言」は後山で 「ナチュラリストエリアとはどんな場にすれ の調印式以降、和歌山や山形など各地のナチュ ばよいだろう。まず自然を保護する場所でな ラリスト村開設時に行われた。翌 1975 年に ければならない。平凡な自然ともいい。貴重 は西澤信雄らが山形県朝日町においてナチュ な自然でもいい。すこしでも自然の雄大さが ラリストの家を開設し、その後 30 年以上に 感じられる場所だったらいいだろう。それに わたり、朝日町エコミュージアム研究会を発 生活する場所が必要だろう。田畑を作っても 足させるなど地域づくり運動を進めている。 いい。山や海の幸を求めてもいい。昔から伝 わる手工芸をしてみてもいいだろう。生活を 自 然 保 護 村 宣 言 通して自然が感じられる場所ならいいのだ。 貴重な自然が続々と失われていく今日、諏訪市後山地区と日本ナチュラリスト協会は後山の生活と自然が大 さらに他の人々に自然を教えたり、理解して 切なものであることを認識し、自然教室を開催するにあたり、お互いの理解を深め、自然教室が末永く続け もらう場所が必要だろう。自然史博物館や自 られる事を希望し次のように宣言します。 然観察路、自然教室を作っておけばなおいい 私達は後山の生活と自然からより多くのことを学ぶために協力しあいます。 だろう。(中略)ナチュラリストエリアとは結 私達は後山の貴重な自然を大切にするよう努力しあいます。 局人間と自然のつながりを大切にし、もう一 昭和49年7 月24日 長野県諏訪市湖南後山区 度本当の意味での人間中心の考え方が生活や 区長 遠藤福重 活動の中に見出せる場所であるべきだと思う。 東京都渋谷区千駄ヶ谷3-9-4 そしてそれは現代の自然欠如の社会に対する 日本ナチュラリスト協会 代表 木内正敏 印 自然保護からのアピールの場になるだろう。 」 (西澤、1976) 【初の自然保護村宣言調印文書】 ナチュラリスト村とは、自然観察の基地や 成人向け講習会など様々なナチュラリスト活 動の拠点として建設・維持される「ナチュラ 表4.日本ナチュラリスト協会のナチュラリスト村 拠点の名称 所在地 活動時期 後山ナチュラリストの家 長野県諏訪市 1974年~1987年頃 朝日鉱泉ナチュラリストの家 山形県朝日町(朝日鉱泉) 1975年~現在 リストの家」を中心とした地域コミュニティ 活動であり、廃校や廃屋を利用する形で以下 のナチュラリスト村が建設された。前述の西 澤の言葉から見えてくるのは、日本ナチュラ 一ツ沢ナチュラリストの家 山形県朝日町(一ツ沢地区) 1974年~1993年頃 リスト協会の自然保護教育が 「 暮らし 」「地域」 野中ナチュラリストの家 和歌山県紀伊郡田辺町 1975年~1992年 志考苑ナチュラリストの家 宮城県宮城町 1980年~現在 泉沢ナチュラリストの家 東京都檜原村 1983年~現在 ナチュラリストエリアの中核施設の中には1987年以降、建物の老朽化や道路計画のために取り 壊されたものもあるが、当事のメンバーの手で建て直しや移転して今日なお維持管理されてい る施設もある。 を重視している点である。この構想のもと日 本ナチュラリスト協会は全国でナチュラリス トエリア(村)を開設した(表 3)。 ナチュラリストエリア構想の第一号地と なったのは長野県諏訪市の後山(うしろやま) 地区である。1974 年 7 月、日本ナチュラリ 36 表3.日本ナチュラリスト協会が取り組んだ自然保護教育(子ども対象)の手法 主な時期 問題意識 名称 方法 結果 自然保護への関心を深めるため、環境の変 連想語法(連想法ともいう)とは、一定時間 この調査を小学校2年生から中学生まで行い、学年 化を考え、生態的な理解を育てるよう力を を問わず集計した結果、10回近くから参加者の連 入れてきたが指導を進めるうちに、子ども 「春」などあるキーワードから連想される単語 想語の伸びは急激に減少し、自然への関心が頭う たちが何をどれだけ受け入れたのか、本当 をなるべく沢山記入し、その数の変化を分析す ちになることが示された。この原因は、指導の内 にそう思っているのかという疑問が生じ、 る評価方法。自然観察会の参加回数によって、 容が限定されていたり、子どもの成長に合う指導 自分たちの観察会がどれだけの成果をもた 子どもたちの連想語数がどのように変化するか がされていなかったり、また指導者の力量が不足 連想語法 らすものか、子どもたちの成長をトータル をみる。連想法により抽出される語は単に暗記 しているなどの原因も考えられたが、「自然への に把握する方法を模索した。 された知識ではなく、経験や関心の度合によっ 関心」については、子ども自身の主体的な欲求が て変化するので直接評価できない問題の理解力 なければ高まらないのではないか、指導をすれば や関心力を測定する方法として用いられてい するほど子どもたちの主体性の芽を圧しつぶして る。 いる結果になっているのではないかと考えられ た。 子どもの主体性を重視した方法はないかと この手法は、子どもたちの自主性・創造性を尊 この手法は子どもたちの興味関心に合わせて臨機 の問題意識からイギリスで1967年の英国中 重し、個別学習をめざす点で新教育の流れに立 応変の対応が求められるという点で指導者の力量 央教育審議会のプラウデン報告書によって つものである。 子どもたちは、自然の現象を が従来以上に問われる方法であった。そのため実 推奨されたオープンスクールの考え方に基 見て不思議だと思う事から出発し、自ら自然の 際の自然観察会の現場では、「結局、放任主義で オープン教育 づく教育手法を導入した。 中から問題を発見する。指導者は子どもが自ら はないか」「自由に放っておいても何もしないで 1973~ システム 立てたテーマで観察を続けていけるように支援 はないか」といった批判も出た。「教える観察 1977年 を行うという教育手法であった。 会」から「子どもたちの主体性を尊重した観察 会」という理念は実践の場では様々な困難に直面 した。 森を観察する時に、いきなり森の中に入って、 ひとつひとつの生きものを観察するのではな マクロからミ く、森を外側からマクロに観察し、少しずつ中 クロへのアプ へ入っていって小さな生き物にも目を向けてい ローチ くという方法で、1974年に日本ナチュラリスト こうした手法は自然を細部にこだわらず全体とし 観察会とは世界をいかに見るかのプロセス 協会により初めて試みられた。 て、あるいは個々の要素としてではなくシステム を学ぶ場であるとの問題意識を具体的な手 全体としてみるという点で有効な方法であり、自 ストランド 法として展開しようとした。 北米の国立公園局の環境教育プログラムとして 然観察の手法の中で広く取り入れられるように ウォーク 実施されていたもので、自然を「多様性と類似 なっていった。 性」「様式(パターン)」「相互作用と相互依 存」「連続と変化」「適応と進化」という5つ の糸のつながり(ストランド)からとらえよう とした。 「観察チーム」「探検チーム」「原始人チー 子どもたちはのびのび活動するようになり、夏休 ム」の3チームの中から子どもが選び、科学的 みの合宿でも、まきわり、風呂焚きなどの体験が な認識の方法以外に、未知のフィールドを探検 重視された。一定の成果は得られたものの、自然 したり、河原のススキでの家作り、土器を焼い 観察会では、子どもたちが電車で一時間以上もか て煮炊きをする生活体験など、子どもたちの日 けて集まらなければならず、子どもたちにとって 常的な興味関心に目を向けようというアプロー 自分自身の生活とつながっていないのではないか チがとられた。 との課題も残った。 1977~ 三チーム制 1979年 様々な自然保護教育の方法論づくりの試行 錯誤が行われてきたが、これらの実践が子 どもの日常から離れてしまっているのでは との問題意識から、より子どもの日常に目 を向けようとした。 1979年 地域観察会 ~ 1982年3月には和泉多摩川、高島平、北多摩、埼 玉、横浜、京葉の各ナチュラリストクラブとして 和泉多摩川、武蔵野、北多摩、六郷、横浜、京 身近な自然を見ていくために、観察会を地 独立する方向となり、活動内容も農業に取り組む 葉の6つの地域別自然観察会に分け会報でも、 域に根づいたものにしたいと普段の生活の クラブや地域の自然保護を呼びかけるクラブなど それまでの野山や川での自然観察の話題中心の 中でも子どもがもっと自然に接する機会を 多様化した。一方で、本部の役割が縮小し、組織 紙面構成から、衣食住やゴミ問題などの生活に 増やしたい。 としての一体化が困難になった。(個別の活動と 関する話題を多く取り上げるようになった。 しては1987年以降も継続しているグループがあ る) 1986年 ネイチャー ~ ゲーム 今までの観察会では、「感じる」というこ とは捉えどころがなくて計画化できるもの ではないと考えられてきた。大切なことだ との認識はあったがどうアプローチしてよ いかわからず模索していた。 「ネイチャーゲーム」(柏書房)を翻訳出版 リーダーたちの評価も高く、その後の継続発展も し、著者のJ.コーネルの来日ワークショップを 期待されたが、日本ナチュラリスト協会としての 実施。各地のナチュラリストクラブでも試験的 一体的活動としては発展せず、一部のグループが に導入された。 活動を引き継いだ。 37 3 ホンカモシカ調査活動を通した自然保護 た 「 カモシカだより」には、毎回の調査の成 教育の展開 果報告とともにこの調査に参加して初めてカ 「自然観察会」「ナチュラリストエリア」と モシカと出会った若者や大人たちの声が多数 並んで日本ナチュラリスト協会が力を入れた 記されている。このように生態調査や観察を 活動が 「 ニホンカモシカの生態調査 」 だった。 通して得られた科学的なデータに基づき野生 初代事務局長の工藤父母道は会報「ナチュラ 動物と人との共存のあり方を考えるという方 リスト」 (No.2)で子どもを読者と想定して次 法も日本ナチュラリスト協会が重視した自然 のように述べている。 保護教育の特徴であったといえる。 「法律でとってはいけないと決められてい るはずのカモシカの密りょうが今年もまた各 地でおきています。そのうえ、植林や農作物 を食い荒らすのでとってしまえなどという声 も聞かれます。カモシカはほんとうにふえす ぎて害獣になったのでしょうか。そうではあ りません。山おくの森林がどんどん切られて すみかを追われたからなのです。人間がかっ てにその住みかをうばったうえ、じゃまもの を殺せというのはまちがっていないでしょう か。カモシカ保護基金では①森林を全部切ら ないで自然の林を残すように②とりあえず防 護柵を造って入らないようにする③カモシカ のことをもっとよく調べ、ひ害を防ぐ研究を 進める、という運動をしています。カモシカ だけでなく、クマ、シカ、サルなどの野生動 「ニホンカモシカ調査グループによる生態調査 物が安心してくらせるということは、私たち の記録 カモシカだより No.24 より」 の生活かんきょうがそれだけ豊かであるとい うことでもあります。また野生動物にも豊か な環境で暮らす権利があるはずです。」(工藤、 1976) 第 4 章 ナチュラリスト運動における ESD 的視点 工藤の呼びかけの中にある「カモシカのこ 自然保護教育や公害教育が環境教育の源流 とをもっとよく調べる」という実践がニホン であるとする見方は、環境教育の出発点が カモシカの生態調査である。この活動は特別 1972 年の国連人間環境会議(ストックホル 天然記念物に指定されているニホンカモシカ ム会議)であるとする見方に基づいており、 を継続的に観察し、その生態の解明を行う調 持続可能な開発のための教育(ESD)もまた 査であった。この調査は 1976 年と 1977 年 その出発点を国連人間環境会議とする主張が に文化庁委嘱事業として実施されたニホンカ ある(小栗、2005)。この議論は、環境問題 モシカに関する調査を引き継ぐ形で、毎年、 が純粋に科学の問題ではなく政治的、社会的、 春と秋の 2 シーズンに山形県の朝日鉱泉ナ 経済的問題に帰することがストックホルム会 チュラリストの家を拠点にして成人の参加者 議に至る議論の中に見出されることを根拠と を中心に展開された。1984 年から刊行され している。「先進工業国と途上国の対立」に基 38 づき展開されたストックホルム会議の議論と スト」という明確な人間像を掲げた実践であっ 日本国内の自然保護教育実践の中で展開され た。この理想の人間像をめざして「日常的な た議論とを同じ次元で扱うことには慎重を要 さまざまな環境要素についてトータルな環境 するものの、ストックホルム会議とほぼ同時 認識を得る」ことを目標に様々な学習の内容 期の 1970 年代前半に日本で自然保護のため が構想された。だが持続可能な社会の創造の の教育を目指した若者たちには、破壊されつ ための学習論としてみた場合、その学習内容 つある目前の自然の背景に政治、社会、経済 は生物学や生態学といった当事の自然科学の の問題が一定程度、意識化されていたとみる 研究蓄積を中心に組み立てられたものであり、 ことができる。しかし、このことだけで彼ら 経済学や社会学や教育学といった社会科学的 の中に ESD の視点があったと結論付けること 視点がやや弱かったといわざるを得ない。こ にはやや無理があろう。ESD としての実践評 の団体の創設メンバーたちが主に自然科学系 価を行う際、1)その実践においてどのよう の大学や学部の出身であったことも一因とい な持続可能な世界へのビジョン(世界観や価 えるが、このことが組織論や運動論としての 値観)が描き出されているか、2)そのビジョ 脆弱さにつながり 1980 年代に入ってからの ンに向かうための教育が目指す人間像 ( 身に 組織力低下の遠因となったとも考えられる。 つけるべき能力や学習内容 ) はどのようなも 今日の ESD 実践においても、自らの実践を社 のか、3)目指すべき人間像に至るアプロー 会科学的な視点から理論化させる努力は重要 チ(学習方法)はどうか、といった点からの といえるであろう。 検討が必要と考えられる。 第三にナチュラリスト運動は多様な学習方 この観点に立てば、第一にナチュラリスト 法論の開発に取り組んできた。表 3 に示した 運動は「日本列島改造論」に象徴される「持 ようにそれぞれの開発プロセスにおいて成果 続不可能な開発」のピークであった 1970 年 と課題があり、いずれも今日の実践にそのま 代に「自然の持続的な利用」「本当の意味での ま導入すればよいというものではない。だが 人間中心の考え方や生活」といった社会のビ 自分たちの求める理想に向かって絶えず課題 ジョンを掲げそれを子どもたちにも示した実 を見出し実践とその評価を繰り返しながら前 践であった。「先進工業国と途上国の対立」と 進するという姿勢こそ、今日の ESD 実践が いった世界の現実に対するビジョンにどこま 受け継ぐべきもっとも重要な点といえるであ で彼らの意識が及んでいたかは不明だが子ど ろう。また今日の自然体験学習において主要 もたちの身近な生活の中に実践を展開させて な方法となっている自然体験学習アクティビ いこうとする地域自然観察会やナチュラリス ティが、こうした自然保護教育の方法論をめ トエリア構想などは、今日の ESD の実践にお ぐる開発プロセスの一つとして生まれたとい いても学ぶべき多くの内容を含んだものとい う歴史的事実を今日の指導者・実践者たちは える。彼らのこだわりの一つであった「普遍 十分に認識すべきといえる。同時に今日の自 的な地域づくりのために自然保護教育をボラ 然体験学習アクティビティもまた持続可能な ンティアではなく職業として確立させること」 社会の担い手となる人々の学習のあり方をめ についても今日の ESD 実践が抱える課題と視 ぐる方法論上の検討対象であることを忘れて 座を共有できるものといえるであろう。自然 はならない。今日の自然体験学習運動が ESD と共生する市民社会の創造に向けた新たな職 の視点において 1970 年代の自然保護教育実 業の確立という点において。 践から引き継ぐべきものは少なくないといえ 第二にナチュラリスト運動は「ナチュラリ よう。 39 【注】 研究同好会 , 東京 1)朝岡幸彦 ,2005, 環境教育とは何か~目的・ 14)藤田正道 ,1963, 採集論批判 ( 昭和 38 年 概念・評価 , 新しい環境教育の実践(朝岡幸 12 月たんぽう ) , 自然保護教育のこころみ - 野 彦編),pp.11-31, 高文堂出版社 , 東京 外研 20 年の足跡 -,pp.39-40, 東京教育大学野 降旗信一 ,2006, 自然体験学習とは何か , 自然 外研究同好会 , 東京 体験学習論(降旗信一・朝岡幸彦編),pp.15-40., 15)木内正敏 1965, 総合調査(昭和 40 年1 高文堂出版社 , 東京 月たんぽう), 自然保護教育のこころみ - 野外 2)又井裕子 ,2006, 自然保護教育実践・多摩 研 20 年の足跡 -,pp.25-26, 東京教育大学野外 川の自然体験学習 , 自然体験学習論(降旗信一・ 研究同好会 , 東京 朝岡幸彦編),pp.124-130, 高文堂出版社 , 東 16)宮崎宣光 ,1965,自然保護教育の不在(昭 京 和 40 年 9 月たんぽう), 自然保護教育のここ 3)金田平・柴田敏隆 ,1977, 野外観察の手引 ろみ - 野外研 20 年の足跡 -,pp.44-45, 東京教 き ,pp.337, 東洋館出版社 , 東京 育大学野外研究同好会 , 東京 4)品田譲 ,1978, 私と野外研 , 自然保護教育 17) 中 山 章 ,1978, 最 後 の 野 外 研 ス ピ リ ッ のこころみ - 野外研 20 年の足跡 -,p.XV, 東京 ツァー , 自然保護教育のこころみ - 野外研 20 教育大学野外研究同好会 , 東京 年の足跡 -,pp.146-147, 東京教育大学野外研究 5)小川潔 ,1992 野外観察会のあゆみと方向性、 同好会 , 東京 環境教育事典(環境教育事典編集委員会 [ 本 18)木内正敏 ,1976, ナチュラリストのめざす 谷勲・小原秀雄・宮本憲一・小川潔・川口啓 もの , ナチュラリスト ,No.1,p.2 明・黒田弘行・林智・山岡寛人 ] 編)pp.604 19)庄山守 ,1984, ナチュラリストおもいで話 , - 610 労働旬報社、東京 ナチュラリスト ,No.64,P.7 6)小川潔 ,1976, 自然保護教育 - 現状と問題 20)西澤信雄 ,1976, ナチュラリストエリアに 点 -,pp.60, 財団法人環境文化研究所 , 東京 ついて その1, ナチュラリスト ,No.1,p.3 7)阿部治 ,2006,ESD の総合的研究のめざす 21)工藤父母道 ,1976, がんばれ!カモシカく もの , 農村文化運動 ,No.182,pp.3-17 ん , ナチュラリスト ,No.2,p.2 8)降旗信一 ,2001, ネイチャーゲームでひろ 22)小栗有子 ,2005, 持続可能な開発のための がる環境教育 , 中央法規出版 ,pp.199, 東京 教育構想と環境教育~ ESD 論 , 新しい環境教 9)木内正敏 ,1974, 環境における糸のつなが 育の実践(朝岡幸彦編),pp.140-171, 高文堂 り , 自然保護 147, p.22 出版社 , 東京 10)木内正敏 ,2001,2001.10.12 の木内正敏 氏へのインタビューによる。 11)木村陽子 ,1983, ナチュラリストおもいで 話 , ナチュラリスト ,No.61,p.13 12)矢野亮 ,1965,「自然保護」の1つの考え 方(昭和 40 年 6 月たんぽう), 自然保護教育 のこころみ - 野外研 20 年の足跡 -,pp.42-43, 東京教育大学野外研究同好会 , 東京 13) 内 藤 栄 樹 ,1963, 採 集 論 ( 昭 和 38 年 11 月たんぽう ) , 自然保護教育のこころみ - 野外 研 20 年の足跡 -,pp.38-39, 東京教育大学野外 40 青年の自立支援における地域通貨の関係構築の可能性と課題 -コミュニティー・ベーカリー&ファーム(食と農の連結)の実践をとおして- 野村 卓 第1章 はじめに みか農場」のこれまでの実践過程について整 近年では、市民団体や行政を中心として地 理を行い、青年の関係構築過程を明らかにす 域通貨を活用した地域づくり、まちづくりの る。そして地域通貨の信用・信頼概念との整 実践が展開されてきた。これは社会教育の領 合性について検討を行う。 域においても例外ではなく、地域通貨制度と 第二に、グローバル化が進み、マイノリテ 地域づくりの可能性について生涯学習の観点 ィとしてのこれら青少年が自立していく過程 から様々な検討が行われてきた。関上氏によ で、地域通貨や運営主体(市民団体)が内在 れば、地域通貨は国民通貨(NC)がもつ経済 させている関係構築疎外について検討をおこ 的な信用概念のみならず、社会的・文化的な なう。 信頼概念を有し、人間関係の再構築をとおし た地域づくりの可能性を持っているとしてい や引きこもりといった現代の青少年が抱えて 第2章 NPO 文化学習協同ネットワーク の青少年の自立支援と信頼関係の構築 過程 いる課題に対して、どのような可能性を持っ 1 NPO の目的と不登校・引きこもりの青少 ているか、検討を行うことにする。 年に対する支援の枠組み る。そこで、ここではこの信頼概念が不登校 NPO 文化学習協同ネットワークは 1970 年 対象の地域通貨は M 市の「seeds(M-seeds)」 や「ニローネ」であり、対象団体は NPO 文 代初め、三鷹文化学習センターを母体とした 化学習協同ネットワークを母体としたコミュ 補習塾としてスタートした。この学習センタ ニティー・ベーカリー「風のすみか」やコミ ーは教育産業の学習塾ではない「地域塾」と ュニティー・ファーム「すみか農場」におけ して利用者である子どもたちの父母の運動参 る M 市や S 市(市町村合併以前は T 町、現在 加で塾の運営を行い、営利目的の進学塾のよ は S 市である)での実践である。またこれま うな知識詰め込み技術教育ではなく、子ども でに NPO 文化学習協同ネットワークの実践 たちの主体的な自らの育ちを形成することを は、社会教育の領域においても青少年の居場 目 的に 設 立 され た(『 カンパネルラ Vol. 1』 所論や自立支援等の研究や評価が行われてき ふきのとう書房 1999)。 た。社会教育学会では、第 51 回研究大会(同 この NPO に不登校や引きこもりの子どもた 志社大学)シンポジウムにおいて、NPO 代表 ちを対象としたフリースペースコスモが設置 の佐藤氏よりコミュニティー・ベーカリーの されている。フリースペースコスモに通う子 実践報告が行われ、注目を集めた。 どもたちの心情は以下のとおりである。 よって、ここでは2つの視点に基づいて地 「もはやどこにも自分の居場所がないと 域通貨の持つ信頼概念が関係構築機能と青少 年自立支援の可能性について検討を試みたい。 いう見捨てられ感に苦しみ、また周囲の このため、以下の視点に注目する。 期待に応えられなくなってしまったと自 第一に、コミュニティー・ベーカリー「風 己への罪悪感を深めている子どもたちの のすみか」とコニュニティー・ファーム「す やり場のない感情と、他者を信頼できる 41 ようになりたい、自分に自信を持ちたい のリハビリテーション機能、協同におけるソ という再生への願いが激しく渦巻いてい ーシャルスキル機能、社会参加に基づくキャ る」 (フリースペースコスモ資料「“居場所” リア形成機能を位置づけている(「不登校児の における学びの保障について」) ための農業体験プログラム報告集」2001 年)。 これらは農業体験による自然観の涵養や自 このようにフリースペースコスモに通う子 然に関する感性を磨くということにとどまら どもたちは、自己を含めた人間不信の中で、 ず、図1に示したように仲間との人間関係の 精神的にも、身体的にも硬く殻に閉じこもっ 構築や課題を協同で乗り越えていくためのチ て生活を送っている。ここに登録している子 ャレンジ精神の向上を自覚化していく過程と どもたちは 20 名を超えるが、定期的に通う して捉えることができる。しかし、農業体験 子どもたちは 10 名前後である。この子ども に伴う社会参加は自立の過程において限界を たちに対して 2 ~ 3 名のスタッフが日常生活 もっている。参画への道に制限があるためで を見守り、共に活動するという支援を行って あるが、これによって青年期になると体験を いる。ここではスタッフはどのようなわがま 渡り歩く「体験放浪」が見受けられるように まであっても受け入れ、信頼関係を構築する なる。このため青年の社会的、経済的自立の ことから始める。子どもの居場所づくりであ ために食や農の領域における参画の模索がな り、これによって自身を許し、他者を受け入 されることになる。 れるようになっていく。フリースペースコス この中で、神奈川県 T 町に「ニローネ緑の モにおける居場所づくりには以下が意識され 学校」と M 市に「風のすみか」が設置され、 ている。 青年の社会参画が模索されることになる。こ れには、一度不登校や引きこもりになった青 ①����������������� ほっとして安らげる空間・・・応答関 年に対する社会の理解不足や対応の未整備が 係に満ちた安心空間 挙げられる。就職不採用をとおした社会参加 ②���������������� 人と人の関係性が開かれている空間 への困難さとともに、NPO で立ち直った青年 ③�������������� 自分探しの学びの生まれる空間 が採用されても、人間関係で以前より傷つき、 (フリースペースコスモ資料「不登校の子ど かえって人間としての信頼回復をより困難に もたちの居場所から見えてきた学び」) する事態もあり、これらを回避しながら青年 の就業機会を創出することでもあった。 2 青少年の自立に向けた野外体験・農業体 験の展開過程 図1 農業体験における都市・農村交流と 不登校・引きこもりになった小学生から中 青少年の自立の課題 学生にかけての少年は、スタッフとの信頼関 係を構築することによって生きる力を取り戻 す。すると外部(社会)にむけた様々な活動 へと意識が開かれていく。これが 1999 年か ら始まる冒険旅行や農業体験へとつながって いくことになる。 特に農業体験は長野県 M 町や神奈川県 T 町 において展開され、現在に到っている。佐藤 洋作は農業体験の教育的機能について、身体 42 第3章 地域通貨の展開過程 に当たり、支援者(賛同者)に債権(すみか債) 1 地域通貨「ニローネ」の導入とコミュニ を発行したことによって、この支援者が製パ ティー・ファーム&ベーカリーの展開 ンにおける契約者(消費者)にもなり、生産 2002 年より神奈川県 T 町 N 地区の有志農 -加工-消費が一貫的で、有機的なつながり 家と東京農工大学、NPO が連携し、長期的 をもって展開できるようになった。 これら「すみか農場」「風のすみか」には、 で地域に根ざした都市・農村交流を行えるよ うな実践を展開することになった。これは長 専任スタッフを配置し、青年の自立を体系的 野県 M 町で実践されてきた青少年のための に支援できるように整える体制整備でもあっ 農業体験の場としてだけではなく、1999 年 た。 に NPO 法人化したことに伴い、大人たちの生 このような中、地域通貨「ニローネ」廃止 涯学習の機会を模索していたことも一因とし 後 は 地 域 通 貨「M-seeds」 に「 す み か 農 場 」 て挙げられる。そこでは各種農作業体験の他 が加入、その後、加入対象を「風のすみか」 に、収穫物の大豆や小麦を使った豆腐づくり に切り替え、地域通貨の流通を継続させた。 や味噌づくりが行われるようになった。2003 このようにこれまでの NPO の地域通貨の 年には NPO の各種企画やニローネ緑の学校 取組を見てみると、地域通貨「ニローネ」導 への参加者に対して地域通貨ニローネが発行 入時から青少年を中心とした農業体験の場に されるようになった。この地域通貨は小切手 おける信頼促進という要素だけでなく、大人 (Bond)方式を採用し、T 町 N 地区で実践さ も含めた生涯学習の場として、大人と青少年 れる各種農業体験活動や地域の交流会(里山 の総体的な人間関係の回復を目指すようにな 交流の集い)においても利用された。このよ っていった。しかし、目標及び NPO 活動にお うに、基本的には NPO を中心に青少年のみ ける位置づけが定まっていながらも地域通貨 ならず、大人も含めた人間関係を深めるため 「ニローネ」が、なぜ流通停止になったのかは 検討を要する。 に農業体験の場と共に地域通貨が導入された。 これが 2004 年から、より定期的に体験活動 これには中心的な役割を担っていた人物が の場を確保するためにコミュニティー・ファ 他の職業選択をし、NPO から去ったことが理 ームである「ニローネ緑の学校(すみか農場)」 由の一つに上げられよう。そもそも地域通貨 が始動した。ただし、地域通貨ニローネは、 を主眼とした NPO や市民団体であれば、趣旨 1年あまりで廃止となってしまった。これは に賛同し、導入を検討して行く以上、地域通 結果としてではあるが、地域通貨の特質であ 貨の流通停止=団体活動の停止もしくは解散 る1年の減価貨幣の要素を持ったともいえる。 となろう。しかしここでは、地域通貨導入は 2004 年 9 月にはコミュニティー・ベーカ 他の目的によって、信頼関係構築を行ってお リー「風のすみか」が設置された。加工・販 り、地域通貨はこれら関係構築の補填や発展 売部門での就業機会の場を創出したことで「す を期待して導入しているのであり、そこでは みか農場」の体験農場で生産された小麦やこ 地域通貨を意図的に介在させる担当者の確保 れまで NPO が関係を構築してきた長野県 M が重要な用件になることを示している。 しかし、NPO 団体の多くは経常的な経営的、 町の農家や茨城県の農家から生産された麦類 を使用して各種パンを製造する体制が整えら 人材的困難を抱えている。地域通貨専属の担 れた。これによって食と農を結び付けた自給 当者を配置する余裕は期待できず、地域通貨 生産と加工の体系が組まれたことになる。更 の機能を十分発揮できない可能性は大きい。 に、コミュニティー・ベーカリーを設置する そして、NPO の人材流動の高さも地域通貨の 43 流通継続を困難にする要因となる。 基本的には「すみか農場」やその他の関連 結果として、地域通貨「ニローネ」は NPO 企画に参加するには、参加費が必要となる。 を中心とした青少年と大人の信頼関係構築に しかし、ボランティア的要素が強く、参加費 その機能が期待されたわけだが、担当者の異 分の経済的な交換価値を実感するのは困難で 動時に全体の流通量を把握できずに流通が停 ある。そこはエコマネー的な価値概念を強く 止してしまい、NPO が本部を置く M 市にお 意識することによって成り立っていたといえ いてここでの青少年は地域に入りこみ、これ る。 に基づいて、青少年の参加・参画の場を広げ この地域通貨「ニローネ」が1年余りで流 るまでには到らなかったということができる。 通を停止したことによって、東京都 M 市の こ れ ら は、NPO で は「 す み か 農 場 」 が 地域通貨「M-Seeds」に参加するようになる。 NEET 対策を包摂して 2005 年 10 月から「若 すると地域通貨「M-Seeds」の運営主体の考 者自立塾」として訓練機能を充実する体制を え方によって、そこでの信頼関係再構築で概 整備する中で、「風のすみか」を中心に M 市 念共有をしながらも、NPO 関係者(特に青少 において地元の地域通貨である M-seeds に参 年)の地域通貨に対する認識が変わらざるを 加するようになっていく。 得なくなる。 このような中で「風のすみか」「すみか農 特に地域通貨「M-Seeds」は発足当初は通 場」共に多くの研修生を抱えることになった。 帳型、補完紙幣型を併用していたが、2002 そこでは青少年自立における人間としての信 年に小切手型を導入した。これを 2003 年に 頼回復機能を NPO 内での訓練だけでなく、地 アンケートを実施し、そこからリニューアル 域に広げていくことが求められ、地域に参加・ することになった。市内に4箇所の取次所(ス 参画しながら地域づくりを行っていくために テーション)を設置し、それぞれ担当者も配 地域通貨の持つ可能性を再評価することを迫 置して発展を図った。しかし、そもそもこの るのである。 地域通貨「M-Seeds」は S 氏が中心となって、 企画・運営を担ってきた。しかし、それが参 図2 NPO における地域通貨導入の流れ 加者から独断と判断され、対外的にも S 氏が 誤った地域通貨の情報を流しているとして、 2 地域通貨 Seeds への参加と課題 話し合いの末、S 氏は代表を降り、その後集 NPO における地域通貨の実践過程をコミュ 団管理体制としての合議制になった。「風のす ニティー・ファーム&ベーカリーの実践を元 みか」「すみか農場」は、このような状況の中 に整理すると図3のようになろう。地域通貨 で地域通貨「M-Seeds」へ参加することにな 「ニローネ」は、先にも述べたように NPO と った。地域通貨「M-Seeds」としては運営主 大学・地域との連携模索を契機に、青少年に 体内での信頼関係が十分に構築されていない 限らず、大人も共に学ぶ場(共同学習)の創 ところでの参入ということになり、これらが 出を目指したものであり、長野県 M 町の長期 一見的な参加者の排除の原因の一つと考えら 農業体験だけでなく、神奈川県 T 町 N 地区の れる。しかし、地域通貨の持つ減価機能を代 有志農家と共に、作り上げたものであった。 表者であった「S 氏が勝手に言っていること」 地域通貨「ニローネ」は、 「すみか農場」へ と述べてみたり、地域通貨の「流通量には興 の参加者を中心に特定の青少年と大人の信頼 味がない」と述べてみたりと、地域通貨と人 を構築するために活用される内部的通貨とい が有機的につながっていくことにやや視野の うことができる。 狭さを感じずにはいられない。 44 このような状況の中で、外部の運営主体で 新たな人々の参入も保障されていた。これに ある地域通貨に参入していくことによって、 は引きこもりや不登校の課題を抱える親子関 地域通貨の可能性が変質していくことになる。 係さえも包摂するものであった。 実際の場面としては NPO を中心とした内 しかし、地域通貨「M-seeds」への参加は、 部的通貨である「ニローネ」から M 市におい 特殊な課題を抱える青少年に対して、人間関 て地域につながる外部的通貨「M-Seeds」を 係の構築を十分に配慮することなく、理念だ 通して関係性の幅が飛躍的に拡大することに けに参加してしまった経緯が見て取れる。 なる。しかし、地域通貨の使用価値までが増 若者自立塾として「風のすみか」 「すみか農 大したかといえば、話はそう簡単ではない。 場」の研修に参加する青少年の中には、自宅 結果を先に述べれば、これによって青少 からの道のりの人とのすれ違いでさえ過剰な 年の人間関係構築に効果を上げているかとい 緊張を感じる者もおり、研修が進まない者も えば、評価は厳しくなる。そもそも地域通 いるのである。これでは地域通貨「M-seeds」 貨「ニローネ」でさえも1年程度であり、内 参加の店があっても、そもそも M 市内の商店 部的通貨としても十分機能することなく、地 街の人々と交流できず、地域で関係を構築す 域通貨が転換し、地域に拡大していったので るのは夢のまた夢であろう。 ある。実際では、NPO 関係者からも地域通貨 となれば、関係を構築するための地域通貨 「M-seeds」は割引クーポン的な位置づけとし が、その普及啓発される運動(実践)の中で、 て捉えられており、「風のすみか」における毎 普遍化しつつも、それを担うのは能動的で目 月の売上の中に占める地域通貨量は 0.317% 覚めた市民にしか活用されないということに に留まっている(2005 年現在)。地域通貨「ニ なりかねない。今回対象となっている青少年 ローネ」時よりも地域通貨「M-seeds」の企 の中には自分自身を取り戻す過程において、 画は多く、地域とつながる実践を展開してい 能動的な行動をとれるものもいるだろう。し るにもかかわらず、である。 かし、能動的な行動を取れず、対人関係に課 これには地域通貨「M-seeds」の運営主体が、 題を持っている青少年は、地域通貨の可能性 安易な参加を求めず、継続的な興味・関心の を実感する以前にすり落ちていってしまうこ ある人を中心に企画の案内を送り、地域通貨 とになろう。となれば、信頼関係や信用関係 の一見的な人には極力発行しないという徹底 そのものの関係からもすり落ちることになろ 振りに要因の一端を垣間見ることができよう。 う。 図3 NPO における地域通貨をとおした信頼構築の実践 NPO の青少年には M 市内の農家への援農 活動を行っている者もおり、身近に農業体験 ①地域通貨「ニローネ」 ができ、地域で信頼関係を構築する機会が保 神奈川県 T 町 障されているにもかかわらず、地域通貨を通 N 地区有志農家 ②地域通貨「M-seeds」 東京都 M 市 M-seeds した関係の発展がはっきりしない。地域通貨 各種行事 「M-seeds」の参加者自体は 100 名程度であ NPO ① り、地域づくりの徒に着いたばかりといえる すみか農場 が、特定の信頼関係の構築に固執するがあま ② 風のすみか 参加商店 (若者自立塾) M 市農家 り、他のものを疎外する傾向が垣間見られる。 地域通貨「ニローネ」の導入時には特定の (援農) 信頼関係を基盤にした人々の参加が前提とさ NPO 内の信頼関係 れながらも、大学や農村との連携によって、 特定の人間関係 45 M 市内の信頼関係 不特定の人間関係 これらの内容はこれまで地域通貨の導入や 第4章 社会的弱者を取り込む地域通 貨が抱える概念の課題 運営・評価において、一般的・普遍的視点や 今回の対象となる青少年は社会的弱者と呼 概念とともに、運営主体の態度を含めて対蹠 的なものとなる可能性を持っている。 ばれる存在であるが、これらは社会の中で適 応する主体であろうと、変容させていく主体 特に引きこもりや不登校という非社会的な であろうと、現代のグローバル化する資本主 課題をもつ青少年は目覚めさせられるために 義経済社会の存在を無視して語ることはでき 訓練を受けているわけではなく、自分らしく ない。 生きるためにコミュニティー・ベーカリー& ファームで訓練を受けているのであり、地域 そこでは A・ネグリや M・ハートが唱える と係わるのである。 「帝国」における「マルチチュード」の視点に 注目する必要があろう。ネグリはグローバル となれば、特定の人間集団への組み込みを 化する社会の対抗軸として「能動的な社会的 設定している地域通貨への参加は、青少年を 行為体」「活動する多数多様性」としての「マ 単なる訓練場所としての NPO や地域、その補 ルチチュード」を設定している。そこでは多 填機能としての地域通貨という捉えに収束さ 種多様な連帯が必要であると説いている。し せてしまいかねない可能性をもっている。 地域通貨「M-seeds」の運営主体は地域づ かし、上村忠男氏はこれら議論をヨーロッパ くりを念頭に、開かれた活動を自負している 中心主義的な限界があると指摘している。 結局は、能動的で活動的な主体という「目 が、参加できない状況に対する配慮が低いと 覚めた市民」によってグローバル化に対抗す いわざるを得ず、これらがかえってグローバ る。これは 60 年代、70 年代の社会教育にお ル化の流れを推進するヨーロッパ中心主義の ける運動論、学習論にとって親和的であり、 流れの中でのマルチチュードの議論に乗って 未だに継承されているところではあるが、こ いることを自覚する必要があろう。そして、 れら能動的、活動的に振舞うことのできない そこでは引きこもりや不登校の青少年を特殊 主体は、「マルチチュード」の概念そのものか 扱いしてしまう可能性が高く、地域通貨を通 らこぼれ落ちてしまう。 常の市民生活を送れる人々に対してのみ機能 そこで G・C・スピヴァックは国際的な分 を発揮するという方向に収束させてしまいか 業体制の中で安価な労働力の提供者として搾 ねない。社会的弱者として青少年を疎外しな 取・疎外されている女性労働者である「サバ い配慮が地域通貨の運営主体と導入主体に求 ルタン」に注目して、地域固有の主体の連携 められることになろう。 によってグローバル化に対抗していくことを その上で、関上氏が唱える地域通貨の信用 提起している。スピヴァックは彼女たちの存 -信頼概念の位置づけと概念整理が求められ 在を主体として捉えるために、それらを評価 よう。 するわれわれ自身の特権(教育を受けるとい 5 青少年の自立と地域通貨の可能性 う特権)そのものを捨て去ることを提起して 今回の地域通貨の事例を、これまで社会教 いる。それが「un-learn(学び捨て)」であるが、 育学会を中心に議論されてきた地域通貨制度 そこではプライマリー・ヘルス・ケア的な係 と生涯学習における蓄積をとおして信頼概念 わりが指導者や支援者に求められ、そこで捉 を整理すると以下のようになろう。 えられる主体者の学習の内容・方法・評価の これまで市場主義経済の進展に伴い、社会 手法が「オープンプラン・フィールドワーク」 や家庭において人々が関係を分断され、合理 として問われることになる。 化、効率化の名の下で社会が分節化されてき 46 た。この中で社会教育の領域において貨幣概 青少年の自立支援をすれば、青少年が傷つい 念を元に、信用概念から信頼概念の構築に向 てきた根本的な状況を捉えることなく、非社 けた地域通貨やエコマネーの意義と課題につ 会的な行動に戻してしまいかねない。よっ いて検討が行われてきた。そこに青少年自立 て、いきなり経済的自立支援ではなく、信頼 支援の実践を位置づけてみると、そもそもこ 関係を保持しながらその延長に信用関係が構 れらの実践は青少年の生きる力を取り戻すた 築できる機会が必要となる。このような中で めに信頼に基づいて人間関係を取り戻す取り 地域通貨「M-seeds」が位置づけられ、現状 組みであった。このことは特定の人間関係と に対して何が課題であるかをしっかり把握す いえども、信用関係からのスタートではなく、 る必要がある。よって、具体的事例がないの エコマネー的な信頼関係の位置からスタート で仮説の域をでないが、所得向上に基づく経 することになる。 済的自立を目指す青少年が出てくる可能性も そもそも不登校や引きこもりの青少年は反 あるし、生活向上に基づく社会的自立を目指 社会的行動をとっているわけではなく、非社 す青少年が出てくる可能性もある。現実的に 会的行動をとっている存在であって、その意 は双方に進展できずに、NPO を中心とした人 味では信用に基づいた関係を保持していない 間関係の中を放浪してしまう事例が多くなる 場合も多々あり、社会的な行動としての信頼 だろう。しかし、青少年の自立問題に留まら 関係の構築が青少年の自立では重要な要件と ず NEET 問題は年齢層が上がり、壮年層に持 なる。よって、地域通貨「ニローネ」は信頼 ち上がることが指摘されている。30 ~ 40 代 関係構築を促進するためにボランティア的要 の NEET を如何に社会参加させるかが今後の 素を強く保持し、NPO 関係者を中心に循環し 問題になりつつある。就労の機会の確保につ ていたことになる。この姿勢は現在の風のす いては青少年以上に困難であり、地域で排除 みかや若者塾の研修生にも引き継がれており、 せずに社会参加の機会の保障が求められよう。 研修生はアルバイトではなく無償であり、研 青 少 年 自 立 や NEET に 対 応 す る 様 々 な NPO 修生に限らず、研修生の親や風のすみかの活 が自立や社会参加の枠組みを提起する活動を 動に賛同する人が無償で支援を行っている。 展開することになろうが、地域通貨はこれら よって NPO においては地域通貨「M-seeds」 NPO 活動を連結し、情報交換する機能さえ持 を外部向けに利用するということだけではな ち合わせている。 く、地域通貨ニローネ的な利用の方向と風の このためには、繰り返すが、地域通貨実践 すみか、若者塾の研修生等に対しても、内部 の NPO は地域の社会的弱者が参加してくると 循環を促進する位置づけを改めて確認する必 き、彼ら任せとはしない支援の枠組みを保障 要があろう。 することが今後求められるようになってこよ このような過程を経て、社会的、経済的な う。団体自体で対応が難しければ、社会的弱 自立のために信用領域へ青少年自身の参加を 者を対象とする NPO との連携をまず模索する 促進させる必要があるわけであるが、NPO の 必要がある。 活動だけでは体験を放浪することが散見され すでにそれら機能を発揮させながら活動を ており、自立には地域の関わりが重要である。 展開している団体も数多く存在していると思 社会的にも、NPO 的にも、信頼関係内で生活 われる。しかし、多くの地域通貨の実践は、 していける状況が確立できれば問題はないが、 実験的で、試行錯誤を明記する団体が多く、 現実的にはありえない。かといって所得の獲 地域特性を考慮した模索が今後も継続すると 得を目指した単なる職業訓練に主眼をおいた 考えられる。このため、地域通貨の理念に純 47 化し、地域性の配慮にかける実践や、逆に 図示したものであり、今後の青少年の学習と 理念が風化し、人間関係を模索しながらもサ 地域通貨の役割を検討する端緒とするもので ークル活動的で、気の合った者の参加しか見 ある。 定めていない実践も散見される。地域通貨の NPO 内の権力闘争的な事態によって活動内容 図4 青少年の自立と地域通貨の役割(信頼 が大きく転換してきている事例もある。 概念から) 地域通貨が社会的な課題を扱う以上、地域 の人間関係構築に関する問題から逃れられな 【注】 い。 1)朝岡幸彦「グローバリゼーションのもと また、地域の社会的弱者の問題だけでなく、 での環境教育・持続可能な開発のための教育 興味を示さない、零れ落ちている多くの市民 (ESD)」『教育学研究』第 72 巻第4号、2005 をどのように巻き込んでいくのかということ 年 も地域通貨は問われることになる。これには 2)上村忠男「グローバリズムを超えるために」 社会教育において運動論、学習論をとおした 『日本社会教育学会紀要』第 41 号、2005 年 多くの蓄積が参考となろう。 3)内山節『自然・労働・協同社会の理論』農 しかし、そのような市民が学習を積み上げて 山漁村文化協会、1989 年 いくことによって、それが地域づくりと直結 4)NPO 文化学習協同ネットワーク編『風の しているのかということになると、70 年代以 すみかにようこそ』ふきのとう書房、2005 降の運動論の衰退と市民社会成熟の評価論、 年 そして市民の資格社会適応や学習の私事化の 5)加藤敏春『エコマネー』日本経済評論社、 進展の中で、公的社会教育機関は指定管理者 2000 年 制度導入の中で厳しい評価に直面していると 6)門脇厚司『子どもの社会力』岩波書店、 いわざるを得ない。 1999 年 改めて、これまでの運動論、学習論の評価 7)玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中 の問い直しと共に、個々の市民がそれぞれの 央 公 論 新 社、2005 年 課題をとおした学習を通じて地域づくりに係 8)玄田有史・曲沼美恵著『ニート』幻冬社、 わっていく評価のあり方が問われることにな 2004 ろう。そこでの評価方法は社会教育の学び捨 9)桜井正喜『農業体験における教育的意義 てと共に、プライマリーヘルス・ケア的なか の実証的研究』東京農工大学大学院修士論文 かわり方をとおして問われることになろう。 、2004 年 それを踏まえた地域通貨の可能性が論じられ 10)佐藤洋作『カンパネルラ Vol. 1』ふきの る必要があろう。 と う 書 房、1999 年 そこでは、地域や青少年が抱える固有性(ロ 11)白川一郎『日本のニート・世界のフリー ーカル性)を公-共-私の権利概念の中で「学 ター』中央公論新社、2005 年 び捨て」、そして振り返りの共同学習を通じて 12)関上哲「グローバリゼーションと地域通 実践活動を「拾い学ぶ」中での評価が問われ 貨学習論《その1》」『環境教育・青少年教育 よう。 研 究 』 第 3 号、2004 年 その上で、図4に示す信頼概念は一般化さ 13)野村卓『食と農の教育力の理論と実践に れた地域通貨概念の中で、固有性を有した青 関する研究』東京農工大学大学院博士論文 少年の実践を検討するためのきっかけとして 、2006 年 48 14)本田由紀・内藤朝雄・後藤和智『「ニート」 って言うな!』光文社、2006 年 15������������������� )������������������ 三浦展『下流社会』光文社、2005 年 16)宮本みち子『若者が《社会的弱者》に転 落する』洋泉社、2002 年 17)本橋哲也『ポストコロニアリズム』岩波 新書、2005 年 18)山田定市『農と食の経済と協同』日本経 済評論社、1999 年 19)A・ネグリ、M・ハート(水嶋一憲訳)『< 帝国>』以文社、2003 年 20)G・C・スピヴァック『ある学問の死』み すず書房、2004 年 21)G・C・スピヴァック『サバルタンは語る ことができるか』みすず書房、1998 年 49 図 1 農業体験における都市・農村交流と青少年の自立課題 農村部 都市部 青少年 農業理解 不登校・引きこもり 外 の世界へ 農 業 体 験 学 習 意 識・身体の回復 農業振興 体 験の場の確保 協同の回復 地域の一部 参 加の機会 による実践 実践の継続 の制限 信 頼の回復 の展開 交流における 地域住民の 参画の課題を 体験放浪 一部、回復の 周縁化 模索 飽き、マンネリ ドロップアウト 図2 NPO における地域通貨導入の流れ 2001 長野県 M 町 2002 神奈川県 T 町 長期農業体験 地元・NPO・大学連携 都市・農村交流 大人の学びの場 風のすみか設立準備 2003 地 域通貨ニローネ導入 コミュニティー・ベーカリー (Bond 方式) 2004 コ ミ ュ ニ テ ィー ・ フ ァ ーム 2004 すみか農場(ニローネ緑の学校) 風のすみか 地域通貨ニローネ廃止 青年の社会参加 M 市地域通貨 seeds 参加 就業機会の創出 2005 2005 地域通貨 seeds 参加切替 食と農の連結 若者自立塾 生産-加工-消費の一体化 若者自立塾 NEET 対策(厚生労働省) 研修生受入 農 領域での青年の社会参加 就 業機会の創出 各 種訓練機会の創出 50 研修生受入 図4 青 少年の自立と地域通貨の役割(信頼概念から) N 社 会 公 参 C 信 用 LETS EcoMoney 信用・信頼 信 頼 経済的自立志向 社会的自立志向(NPO 参加等) M-seeds 加 地域の大人との信頼関係 援農や地域の商店街企画への参加 特定の大人との信頼関係 地域通貨ニローネ 風のすみか すみか農場 復活の可能性? NPO 私 信用 信 頼 注)関上「貨幣における信用と信頼」を元に作成 51 地域文化の持続可能性と人の主体化とのかかわり -大分県下郷地区における新規就農者の地域活動を事例に- 手島 育 第1章 はじめに 地域文化の持続性ついて考察する。 環境教育では、生物資源としての自然をい そして、持続可能な地域社会を考えた時、 かに保全するか、あるいはいかに開発するか このような生活と生産の両面から地域を自ら といった、自然に対する人間としてのありよ の手でつくりあげるプロセス、すなわち人の うが問われてきた。さらに近年は ESD 概念に 主体化がそこに欠かせない要因であることを も見られるように、経済の量的「成長」では 検証する。 なく、生活の質の問い直しを行なう「発展」 という言葉がもちいられるようになる。これ 第2章 方法 は人間が、自己がもつ潜在的な能力を発揮し、 下郷地区に新規就農者として入った T さん 自信を深め、尊厳の守られた満足のいく生活 夫妻の活動を事例に挙げる。ここでは、入植 を送ることができることを可能にしていくプ のきっかけとなった下郷農協の沿革とともに、 ロセスである 1)。 聞き取りで明らかになった 2 人の生い立ち、 環境教育の目的を、このような人間(人格) 農に対する思いを述べる。有畜農業を目的と の発達としてみたとき、地域をつくりあげる して入植した T さんだが、農業の傍ら、地域 主体としての人間が求められる。ここでの人 活動にも取り組んできた。外部出身者の T さ 間は単に自然環境を保護・保全するという義 ん夫妻が、地域住民としてどのような取り組 務を与えられる存在だけではなく、自己をと みを行なったのか、そしてその意義を述べる。 りまく社会環境を意識し、その中で自らの生 活や地域を変革していく存在である。環境教 1「地域づくり教育論」にみる主体の形成 育が一人一人の生活実感・生活実践に内在し その際、宮崎隆志による「協同性の発展論 ているのならば、そこでは人間が主体となっ 理」の、学習主体に関する理論に照らし合わせ、 た地域づくりによって地域文化の新たな創造 人の主体形成と地域の持続性の関連として説 とも結びついてゆくのではないだろうか。 明する。 本稿では地域や生活における主体的な人間 宮崎は日本の社会教育研究における「地域 の表現がそこでの文化を生み出し,持続させ づくり教育論」の蓄積に注目し、「協働する主 ていく契機であるという仮説にもとづく一考 体としての相互承認が自治的コミュニティを 察として、大分県中津市(旧耶馬溪町)の下 形成する」とした 2)。 郷農協の理念に共感した新規就農者が繰り広 そして学習主体をそれまでの矛盾を含んだ げる地域活動や地域文化の伝承過程に注目す 自己を対象化し、自覚的に自己を形成する経 る。新規就農者という外からの新しい風が、 験を通して形成されるものであるとし、その もともとある農協の理念と取り組みと融合し、 形成作用の矛盾がどのように対象化されるの 地域農業を持続させると同時に、どのような かを、以下のように整理した協同性の発展論 活動によって地域にねざしていったかを検討 理の中にみる。 し、その活動のトータルとして生み出される 52 1 私益・私権の侵害-資本の正当化論理(市 究も、民俗を総体として研究したものは皆無 民的自由)を根拠にした異議申し立て であり、燈火の変遷、婚姻の変化、屋敷神の 2「共通の敵」への対抗運動 association 変遷というように、いずれも単一事象につい -自立的な私的所有からなる協同共通の目 ての変遷、あるいはその原型を説くのみであ 標設定とその実現のための社会的意思-協 る。そして諸事象の複合としての変化、さら 同労働Ⅰ:cooperation Ⅰ には変化の要因や条件については、常識的あ 3 運動(協同労働)の成果の評価 るいは通俗的な説明以上の何も提出されてい 4 協同労働Ⅱ(第二循環):cooperation Ⅱ ない。」その結果、このように明示された「変遷」 5 共同(所有):community -協同する主 は「個別的な事象のどれにも当てはまらない 体としての相互承認 抽象的なもの」となり、「現在ある地点で、あ る民俗事象を担っている人々にとっては、そ 環境教育概念が持続可能性と不可分のもの のような『変遷』はほとんど意味をなさない」 ととらえられたとき、人々の生活あるいはそ ものとなっている 4)。 の基盤としての地域の持続性(地域づくり) すなわち、民俗学は民俗事象を保持し、伝 が重要な課題となる。地域はいうまでもなく、 承している担い手の存在を忘れていたのであ そこにくらす人々の生活や歴史が積み重なり る。福田はこのように述べたうえで、民俗学 形成されている。本稿では、コミュニティの 発展のためには特定の民俗事象を特定の地点 再建過程、自治の確立過程、そして地域づく の人々が保持伝承していることの条件、理由、 りの必要条件として、共通の目標を通して他 意味を歴史的に明らかにすることを挙げた。 者と結びつくことでなされる個の主体形成を 伝承の担い手、主体としての人間の存在を重 重要視する宮崎理論を仮説とし、個の動きに 視する必要性が述べられている。 注目しながら、地域づくりの可能性を加味し しかしそのすぐ後で、この「担い手」「人々」 た事例検討を行なう。 は「社会組織」という概念におきかえられ、 福田はこれを伝承母体とよんでいる 5)。この 2 文化の「伝承」と「持続性」をつなぐも 段階で担い手である個は、村落を基盤とした の 社会組織に集約され、民俗の伝承過程の中で 本稿では地域の持続性(地域づくり)とい 見えなくなってしまう。高桑守史は「伝承母 う幅広く多義的な概念について、ひとまず「地 体という用語には、これまで人を捨象して集 域文化の伝承」に近づけて論じる。このよう 団表象としての地域を指示する用いられ方が な課題は主に民俗学や人類学などで盛んに議 多かった」と福田の限界をふまえ、「民俗を生 論され、研究が積み重ねられてきた。筆者は 成し、保持管理し、変革する主体としての人間、 これらの蓄積をふまえ、先述した「主体形成」 およびその集団をより強調することにおいて」 と絡めて議論するうえで補わなければならな 伝承主体という用語を個々の信仰的・心意的 い視点を明らかにする。 な記述を中心にしたライフヒストリー研究を 福田アジオは「文化の時間的な移動を意味 通して提唱した 6)。 する概念」が伝承であるとし 3)、この伝承性 福田と高桑は「変遷」、「変革」というよう を無限に存在する社会事象を総称する民俗の に伝承の中に時間的な可変性をも含ませてい 属性の一つとしたうえで、以下のように民俗 る。このように、伝承論として文化を可変的 学の方法を指摘する。「全国的に資料を集積 に捉えた議論に、ボブズボウムとレンジャー して類型化と比較をしているごく限られた研 によって編まれた『伝統の発明』(邦題『創ら 53 れた伝統』)がある。彼らは「『伝統』とは長 に関わる研究では、文化そのものの様相、そ い年月を経たものと思われ、そう言われてい れらの伝承過程における変容などが重視され るものであるが、その実、往々にしてごく最 てきた。そしてなぜ地域の文化が伝承される 近成立したり、また時には捏造されたりした のかという問題を担い手の側から究明する視 ものである 」と無条件に前近代にその起源 点、すなわち「人々にとっての伝承・地域文化」 を持つとされた従来の「伝統」概念に再検討 というように、そこにくらす人々の主体化や を迫った。そして産業革命以降の創りだされ 意味づけとしておさえることはあまりなされ た伝統についての全般的な観察から、次のよ てこなかった。その結果、伝統的なものは守 うな三つの型を提示する。 るべき・維持するべき、という根拠の不明瞭 7) な一般認識が生じ、継承者の不在がそこでの ①集団、つまり本当の、ないし人工的共同体 地域文化に関する不可避的な末路とされるの の社会的結合、帰属意識を確立するか象徴す である。以上のことから本稿では「なぜ人々 るもの、②権威の制度ないし地位、権威の関 は地域の中で文化を伝承するのか」というよ 係を確立するか正統化するもの、③社会化、 うに、担い手の側から問い、地域文化とその つまり信仰や価値体系や行為の因襲性などを 伝承過程を地域の持続性や人の主体性の問題 説諭するのを主な目的とするもの として考えていく。 「創りだされた伝統」といっているものの、 第3章 下郷地域の場合 ここでは、伝統は国家や社会から価値や信仰 1 下郷農協・鎌城地区の沿革 を付与されるといった「社会化」に注目され、 大分県北部の中津市(旧・耶馬溪町)にあ 語りの権威性の問題が突出している。個々人 る下郷農協は、組合員数 507 名、328 農家の は文化の担い手としてではなく、その全般的 農協である。大分県には山がちの地形が多い な社会化の中で「同一の価値を刻みつけ」ら が、ここ耶馬渓は中津市中心部からも隣接す れる存在ととらえられている。そしてまた、 る日田市からも車で 1 時間ほどかかり、とく 政治的に発明された(多少なりとも意識的に に山深い場所である。 構築される)伝統と文化的に創造された(経 こうした地域にある下郷農協は、地主や地 験の中で無意識的に培われる)伝統との違い 元有力者による地域支配に反対して 1948 年 が不明瞭ともなっている。「あらゆる伝統は創 に「農民が自分たちで運営する農業のための 造される」と言うとき、問われるべきは「誰 農協」として設立された。当初は米と木炭な によって、どのような意味において、どのよ どを主に取り扱いながら、組合員が作った農 うに」創造されるかということである。伝統 産物を買い上げたり、加工事業に取り組んだ が意識的な表象と無意識的な経験との間で創 りしていた。そしてまた、有機農産物の産直 造され続けるとしたら、その関係性に注目し を通じて農村の生産者と都市の消費者を結び つつ個々の事例を注意深く検証することが、 つける取り組みを行なってきたことで全国的 新たな「伝統の創造」論の構築に向けてまず に知られている。 必要とされる 8)。ここでもやはり、主体であ 下郷農協の理念は、この産直運動にみるこ る人々の生活実感や実践自体の詳細な検討が とができる。産直とは直接消費者の家庭に生 不可欠である。 産物を届けるというシステムであり、下郷農 また、これまで地域において伝承されてき 協は北九州・福岡・久留米に産直販売組織の た生活様式、伝統、年中行事など様々な文化 主力をおいていた。基本的には「資本(流通 54 業者)にモノを売らない」「地域でモノを作っ ように、当時の入植者は都市にくらし、農に て地域で販売する」という考えによっている。 憧れるなか下郷農協の理念・思想に惹かれ、 産直へのこだわりを、農協の参事は次のよう 農を志す就農希望者がほとんどであった。現 に語る。「やっぱり、失礼な言い方かもしれま 在鎌城地区は、このような全国から集まった せんが店舗展開していくというのは有象無象 新規就農者をふくめ、30 軒ほどで成り立って でしてね。運動にはならないですからね。日 いる。 本の農業の良いものを子どもたちの時代につ なげていこうということになりませんし」「産 2 T さん夫妻の入植 直事業は日本の農業を守る・農家の収益を守 次に、聞き取りの対象とした T さん夫妻(K る・地域を守る、そして地域の環境を守ると さん(夫)65 歳、Nさん(妻)62 歳につい かいった役割を担っているのです。でもそこ て述べる。Kさんはもともと福岡でサラリー からできるものを店舗に流しておったのでは、 マンとして勤め、Nさんと 2 人の子どもと共 田園の風景を守るとか、田んぼを守るとか、 に公団アパートに暮らしていた。高校卒業後、 農業を守るとか、林業を守るとかということ 八幡製鉄や石油化学製品の専門商社に勤める にはなかなかなりません。8)」このような理念 中で、漠然と社会に対する疑問を感じ、自分 は同時に、有畜運動にもつながっている。 が一番いい、人間に一番大切なものは何かを また、ここの酪農の中心は、戦後長野県の 考えるようになった。「お医者さんは病人おら 伊那地方からきた若者を中心とする 25 名が んかったらいらんでしょ。弁護士は悪い人お 山林を切り開き、開拓されてきた鎌城(かま らんかったらいらん。一番主体的に生きるの ぎ)地区である。土地総面積のうち 89%が山 は何かというと、農業。生きるためには食べ 林原野という山深い下郷地域でも、最も奥まっ 物を作る。今、農薬だとかたくさん使うけれ た「鎌城山」を中心とするこの辺りは、車で ども、農薬なんか使わなければ社会に害を及 急斜面をのぼってようやくたどり着くことが ぼすことは全くないわけだしね。これ以上の できる。もともとは広葉樹林におおわれた高 ものはないなと。12)」と、意識は農業に向き 台で木炭の原木や採草地として位置づけられ 始める。 ていたに過ぎず、表土が少ないやせ地で、耕 一方Nさんは当時「自然食普及会」に入会 地としての価値はないと考えられていたとこ し、消費者として下郷農協の無農薬野菜をとっ ろだった 。 ていた。この頃、公害が社会問題として大き 1952 年、戦後の食糧難解決と、耕地のな く取り上げられると共に、有機野菜がクロー い復員者や農家の次、三男対策のため、国は ズアップされていた。子どもたちの代まで自 全国に展開した開拓地の一つとして鎌城地区 然を残すには、このような有機農業をしなく を指定し、25 人の入植者を送り込んできた。 てはいけないのではないか。興味と使命感が 10) 一体となり、Nさんの中にあった。 「鎌城開拓」とよばれるこのような入植者た ちは、経営的に成り立つ酪農を営み、農協側 このような農に対するそれぞれの思いがあ も牛乳の生産・販売を行なうようになった 11)。 り、 「退職後に田舎に移って農業でもできれば」 その後時を経て 1978 年、再び入植者が鎌城 とよく話していたという。そんな中偶然訪れ 地区に入り始める。この頃、戦後の開拓でも た下郷農協で売り出している土地があること 手がつけられなかった鎌城の土地を、下郷農 を聞いた。案内してもらうと見晴らしのいい 協が買い取って開墾し、入植者を募集してい 台地が広がり、Nさんは家に帰ってからもそ たのである。後述する T さん夫妻にみられる の景色が頭から離れなかった。当時 37 歳だっ 55 たKさんも、体力的にも気持ちの上でも仕事 類の未来はないのではなかろうかと思われま をやめて農業をすることに何ら抵抗はなかっ す。利己主義が生み出す『便利さは最善なり』 た。 という考え方が少しずつ人間の心を犯し、人 1978(昭和 51)年、Tさん夫妻は鎌城に 間関係を複雑にしていき、山深い鎌城にも入っ 入植を決心し、翌々年に平飼いで養鶏を始め てきているのではなかろうか、というそれと る。しかし実際に入ってみると土の下がすぐ ない思いが部落誌『かまぎ』発刊の動機であ 岩盤で、農業をやるにはとても厳しいところ りました。15)」 だと気づく。Tさん夫妻は農業未経験者だっ たので、このような現実の厳しさを実際入植 「かまぎ」発行当時はちょうど後継者にお嫁 してみて痛感したという。それでも彼らにとっ さんが来始めた頃だったが、世代間の交流が ては生きる上で農業をしたいという気持ち、 なかった。N さんはこの頃、婦人会長に就い 産直の下郷農協に対する魅力があったので、 ていたのだが、二ヶ月に 1 度公民館清掃のた 生活面で大変なことは多々あったものの現在 め集まる中で「昨日、うちの(嫁)がおらん までやってきた。 かったけど、どこ行きよったんやろうかー」 という姑が、他の家の人から「昨日は若妻会 3 地域での活動① 地域新聞「かまぎ」 よ」と教えてもらうという光景をしばしば目 入植したTさん夫妻の生活は、農業へのシ の当たりにしてきた。家の中では全く会話が フトだけに留まらない。鎌城集落民としてさ ないのかな、ということをNさんは危惧した。 まざまな地域活動にも取り組んできた。福岡 「かまぎ」のような便りがあれば、それが解消 に暮らしていた頃、Kさんは会社と家の往復 されるのではないかと思ったのだった。「そう で、地域の行事等に参加することはなかった いった姑側の掘り起こしもしたいし、若い人 が、鎌城では集落の役職が歳の順にまわって たちの生活も紹介したい。そういう相互の理 くる 。その中の一つ、自治公民館長に就い 解が新聞によって深まればと思った」という。 たときに地域新聞「かまぎ」を発行した。発 また、戦後の入植者に当時のことを振り返っ 行のきっかけをKさんは以下のように述べて た原稿を依頼し、そういったコーナーを設け いる。 たこともあった。 「鎌城台に開拓の鍬が入れられて 34 年。苦 「短い鎌城開拓の歴史ではありますが、その 楽を共にしてきた世代から、次の世代へ引き 一コマ一コマは鮮明さを欠いてきているので 継がれようとしている今、私達は、老人会・ はないかと思われます。この財産は、自分た 壮年グループ・婦人会・新婦人の会・後継者、 ちのためだけではなく、次の世代の人達のた 若妻会・小中学生・保育園児が何を考え、何 めにも残しておきたいものです。そこで、入 をやっているかをどれだけ知っているでしょ 植当時を偲ぶ会でも開き、楽しみながら、事 うか。(略)お互いの理解を深めるために、 「か 柄の一つ一つを確認し、この誌上に連載して まぎ」を発行することに致しました。思い出・ いったらどうかと思います。16)」 提案・エッセイ・ホンネ・タテマエ、何でも 「私達は生活に根ざした神の文化を次代へ伝 お寄せください。 」 え、そして引き継ぎ、広めていかなければ、 「現代社会は、人間が目先の、ものを追求し、 都市に巻き込まれ、おぼれてしまうでしょう。 それを生きがいと思い込み、自分が生きるた 何でもいい、現在の生活を、思いを吐き出し めであれば何をしても許されるという利己主 てください。必ずそれは次代の力となり、引 義に侵された社会であります。そこには、人 き継がれていくでしょう。17)」 13) 14) 56 原稿を依頼すると、それまで自分を語った Oさんも心配になってか、わずかな時間をつ ことのない人、文章を書いたことのない人が くって見にきてくれました。口説く若い衆、 自らのくらしのことや入植当時のことなどを それをじっと見守るOさん。心温まる光景で 寄せてくれた。なかでも集団で結婚して入植 した。やっと念願の鎌城の口説き手が一本立 してきた奥さんたちの投稿が盛んだった。長 ち出来るようになりました。初盆のIさんの 野にいる時小学校までしか出ておらず、ろく おじいちゃん、Tさんも満足して帰っていか にものも書いたことのない彼女たちが書いて れたことでしょう。19)」 いる。K さんは、一生懸命書いてあったその 現在は集落内の人たちのみで行なえるよう 文章にとても驚いたという。 になり、毎年お盆の恒例行事として定着して 地域の住民の相互理解、地域の自分たちの いる。 歴史の掘り起こしという2つの機能を「かま 新規入植者で成り立っている鎌城集落の特 ぎ」は果たしていたといえる。 徴と歴史において、人々が共通したよりどこ ろを求め、集落での暮らしを生きやすいもの 4 地域での活動② 集落の祭としての「盆 にしていこうとした時、盆踊りという地域の 踊り」 伝統がその人たちの暮らしの中に取り入れら 下郷地区には集落ごとに数多くの盆踊り歌 れ、継続されていた。 (口説き)と盆踊りの習慣が伝わっている。そ の形態は伝統的な姿をしっかりと留めており 第 4 章 考察 興味深い。毎年、集落の人々が新盆を迎える これまで、新規就農者として外部から入植 家をまわって盆踊りをしていくのである。T したTさんの入植のきっかけと地域活動をみ さんは、異なる出身者で成り立っている鎌城 てきた。Tさん夫妻は、自らの生活に対する 集落の人たちと、何かここの集落の行事をつ 疑問(矛盾を含んだ自己)により下郷農協の くり、自分たちもそれを通してこの土地にな 理念に深く共感する。そして下郷に入植し、 じもうと考えるようになった。集落内の人々 農業を営んできた。農業という生活様式から は、それぞれの故郷でやっていたことを取り だけでTさん夫妻をみると、「それまでの矛盾 入れたり、運動会やソフトボール大会などを を含んだ自己を対象化し、自覚的に自己を形 催したりして交流をはかっていた。そのよう 成する、個としての学習主体」であったにす な中 T さんたちは、地域に伝わるこの盆踊り ぎない。 に注目する。近くの集落の人に来てもらい、 そこで同時に、地域の中でどのような活動 盆の口説きと踊りを教えてもらった。このこ をしてきたかというように、視点を地域の中 とは「かまぎ」でも取り上げられている。 での学習主体と捉え直してみる。本稿でみて 「鎌城では宗教的行事としての盆踊りという きた2つの地域活動では、「相互理解」が共 よりは、異郷の人達が、この土地になじみ、 通目的となっていた。Tさんは集落内におい 定着したいとの思いで耶馬溪の盆踊りを部落 て状況を同じくして入植した人々、先人との の行事として取り組んできた。 」 交流の中で、個としての農的生活に留まるこ 「盆を前に『口説き』の練習を 3 回やりま となく共同体・自治的コミュニティを形成し した。Oさん(他の集落からの講師)が当日 ていたのだった。そこで注目すべきなのは、 こられないので、鎌城の口説き手が中心になっ 戦後入植者の歴史や地域の盆踊りなど外から てやらなければならなくなり、教える方と習 入った自分たちの地域づくりの中で、もとも う方双方が大変な熱の入れようでした。------ と地域に存在していた文化を取り入れている 18) 57 ということである。そのような脈々と受けつ 研究』未来社、1994 がれてきた生活文化、それを掘り起こすプロ 7)エリック・ボブズボウム、エレンス・レ セスがTさんの主体化と自治的コミュニティ ンジャー編、前川啓治・梶原景昭他訳『創ら の形成において大きな位置を占めていること れた伝統』紀伊国屋書店、1994 p.9 が明らかになった。 8) Inoue,Akihiro,” Academism いわゆる「ヨソモノ」としての外部の者が and the politics of culture in the 地域にくらそうとしたとき、そこに根ざす歴 Pacific” ,Anthropologocal Forum,10(2) 史や文化は彼ら自身の生活要求によって意味 pp.157 - 177 2000 づけられ、その存在が維持されていく。地域 9) 2006 年 12 月 1 日 に おこなったインタ 文化の持続性を主体(担い手)の側から検討 ビューによる。 したとき、「まったく新たな目的のために、古 10)奥登・矢吹紀人『新下郷農協物語』シー い材料を用いて」構築される地域文化、「現存 アンドシー出版、1996 p.46 する慣習的、伝承的慣行は新たな民族的な目 11)これが、先に述べた都市の消費者が求め 的にしたがって修正され、儀礼化され、制度 る農産物を直接に届ける「産直」のきっかけ 化される 20)」という創造と伝承が、人々にとっ となった。 ての地域文化の意味づけの変容をとおして重 12) 2006 年 12 月 2 日におこなったインタ なり合うプロセスが明らかになる。そこで重 ビューによる。 要なのは、伝統や地域に個が埋没することな 13)役職は区長・副区長・公民館長・道路委員・ く、いかに今生きる自らの実感に基づいて、 会計がある。部落の常会は月に一度開かれる。 すなわち主体的に対峙していくかということ 14)「かまぎ」第 1 号、1986 である。そうしたときに、地域社会・地域文 15)「かまぎ」第 12 号、1986 化の持続性の本質が見えてくるのではないだ 16)「かまぎ」第 4 号、1986 ろうか。今後、人の主体形成と地域文化の持 17)「かまぎ」第 18 号、1987 続性の関係・バランスのありようを探ってい 18)「かまぎ」第 48 号、1994 きたい。 19)「かまぎ」第 12 号、1986 20) エリック・ボブズボウム、エレンス・レ ンジャー編、前掲書、pp.15 - 16 【注】 1)今村光章編『持続可能性に向けての環境 教育』昭和堂、2005 p.56。 2)宮崎隆志「協働の社会教育」 『社会教育研究』 北海道大学大学院教育学研究科、2003 p.8。 3)福田アジオ『日本村落の民俗的構造』弘 文堂、1982 4)同上、p.4 5)「民俗とは超世代的に存在している社会組 織が構成員に対し一定の規制力を持って保持 させている事象と定義できる。このような社 会組織を伝承母体と呼べば、民俗とは必ず伝 承母体を持つということになる。」同上、p.6 6)高桑守史『日本漁民社会論考-民俗学的 58 環境教育の国際的枠組み 櫃本 真美代 第 1 章 はじめに 第1章 環境教育の歴史 2002 年の持続可能な開発に関する世界首 1 環境教育発展期 脳会議(ヨハネスブルク・サミット)で提起 -ストックホルムからリオへ- され、その年の国連総会で採択された「国連 国際的環境教育の発展段階は、主に 3 つに 持続可能な開発のための教育の 10 年(United 分けられる。ここではまず簡単に、環境教育 Nations Decade of Education for Sustainable の起源である 1972 年の国連人間環境会議(ス Development: DESD)」が、2005 年に始まった。 トックホルム会議)から、その転換となる「持 持続可能な開発のための教育(Education 続可能な開発」概念を一気に広めた 1992 年 for Sustainable Development:ESD)は環境教 の国連環境開発会議(地球サミット)までの、 育と出自は同じでありながら、環境教育が先 ユネスコの環境教育構想を整理したい。 に理論と実践を積み上げ、その蓄積が ESD に 1972 年 の ス ト ッ ク ホ ル ム 会 議 に 始 ま っ 流れ込んだとしている 。これが、ESD が環 た環境教育は、1975 年の環境教育専門家ワ 境教育の進化した形であるとみなされるゆえ ークショップ(ベオグラード会議)をへて、 んである。 1977 年の環境教育政府間会議(トビリシ会 1) 現在、環境教育に限らず、全ての既存の教 議)でその骨格が定められた。このトビリシ 育が、持続可能な未来のために変革を迫られ 宣言と勧告は、後の地球サミットの行動計画 ている。一向に良くならない、あるいは悪化 である「アジェンダ 21」第 36 章の基本原則 している地球社会問題を教育を通して解決し とされたことは、注目すべき点である。 ていこうというものであり、既存の教育では 一方、ユネスコの環境教育構想の始まり 成しえなかった未来の地球社会を考えた教育 は、ストックホルム会議においてその創設が に変えていこうとするものである。そのため 決まった国連環境計画(UNEP)との実施に には、各教育が学際的に行われる必要がある。 よる国際環境教育プログラム(International しかし、それは各教育の独自性があるからこ Environment Education Programme:IEEP) そ生きてくるのである。 (1975 年~ 1995 年)である。この IEEP は、 環境教育は、1997 年のテサロニキ会議以 トビリシ会議をはじめ環境教育地域会議など 降、その概念は広がってきた。あるいは、歴 の開催、60 カ国以上での教員の訓練、1976 史的に見れば、原点に戻ったとも言える。し 年の環境教育情報誌である「Connect」の創刊、 かし、概念が広がったため、その独自性は失 43 文書からなる「環境教育プログラムシリー われつつある。ESD と出自は同じでありなが ズ」などの教材や教師教育資料の出版など、 ら、独自に発展してきた環境教育はどこに向 環境教育の理論と実践を積み上げ、常にリー かうのか、そして持続可能な未来を考えた環 ドしてきたといえる。 境教育とは何か。ESD と環境教育のそれぞれ では、トビリシ会議で定められた環境教育 に大きな役割を持ってきたユネスコ(国連教 の原則とはいかなるものだったのか、IEEP を 育科学文化機関)の 1990 年代以降の動向か 通して述べていきたい。 ら主に、環境教育の国際的枠組みを整理した トビリシ会議では、環境教育の「役割・目 い。 標・指導原理・国際基準」(表 1)が定められ、 59 表 2 環境教育の目標と目標段階 目標 社会的な集団や個人に対して、その目標段階 に「気づき、知識、態度、技能、参加」(表 2) ・都市と地方における、経済的、社会的、政治的、そし 生態学的相互依存の明確な気づきやそれについての関 心を育成する。 ・環境の保護や改善に必要とされる、知識、価値観、態度、 参加、能力を獲得するために全ての人々に機会を与え る。 ・環境に向けて一体となって、個人、集団、社会の新し い行動パターンを形成する。 をおいた。これが、環境教育の原点である。 しかし、この時点で環境教育の扱う分野が、 自然的、人工的、生態学的、科学技術的、政治的、 経済的、社会的、法律的、文化歴史的、美学 的、道徳的など総体的に環境を捉えていたこ 目標段階 気づき:社会的な集団や個人が、総体としての環境と 関連問題に対して気づきや感性を獲得する のに役に立つ。 知 識:社会的な集団や個人が、環境や関連問題にお ける様々な経験を手に入れ、基礎的な理解 を獲得するのに役に立つ。 態 度:社会的な集団や個人が、環境に関する一連の 価値観や感情と環境の改善や保護に活動的 に参加するための動機を獲得するのに役に 立つ。 技 能:社会的な集団や個人が、環境問題を認識し、 解決するための能力を獲得するのに役に立 つ。 参 加:社会的な集団や個人が、環境問題の解決に向 けた仕組みの全ての段階で活発に関与する 機会を与える。 とはあまり知られていないのではないだろう か。環境問題とは、生物学的、文化的、経済 物理学的、社会的相互関係を超えて複雑な性 質を持って現れたものであり、人とその周り の環境との間にある複雑で動的な相互関係を 個人から全社会にわたって認識させなければ ならないとしている。そして、その過程とし ての環境教育は、学校と学校以外の全ての段 階で、生涯にわたっておこなわれるべきもの Connect, Vol. Ⅲ , no.1, January 1978, p.3. 出展:Hungerford and Peyton 19944) であるとしている。つまり、国際的な環境教 育の枠組みとは、総体的に環境を捉え、実際 問題の解決に集中すべく①問題解決型アプロ このように環境教育とは、学際的アプロー ーチ、②学際的な機能、③幅広い教育の統合、 ④動的な生涯学習を備えていたことになる 2)。 チ、問題解決・意思決定から行動の認識や変 表 1 環境教育の指導原理 環境教育とは; 環境教育を行ってきたのである。 化をねらいとしており、IEEP もそれを掲げて しかし、1987 年に 1 つの転換期が訪れる。 ・環境を、自然と人工、科学技術と社会(経済、政治、文化・ 歴史、道徳、美)など総体的に考えるべきである。 ・学校就学前から始まり、全てのフォーマル・ノンフォ ーマルの段階を通して続ける、生涯学習である。 ・学際的なアプローチは、各教科の固有の内容を利用し、 ホリスティック・均等的な物の見方を養う。 ・他の地理的な区域の環境状態を見抜くため、地域、国家、 地方、国際的な観点から考察する。 ・環境問題の防止と解決に向けて、現在そして潜在的な 環境状況と国際協力に焦点をあてる。 ・開発と成長の計画では、明白に環境的側面を考慮する。 ・環境的感性、知識、問題解決能力、明確な価値観を全 ての年代に関連づける。特に早い年代で、学習者自身 のコミュニティに環境的感性を強調する。 ・環境問題の兆候や本当の原因を学習者が発見するのに 役に立つ。 ・環境問題の複雑さゆえに、批判的思考の発展や問題解 決能力を強調する。 ・実践活動や直接の経験を十分に重視し、環境について あるいは環境から、教え学ぶために、多様な学習環境 と広範囲な教育アプローチを使う。 それが、環境と開発に関する世界委員会の報 告書(ブルントラント報告書)として 1987 年に発行された「Our Common Future(邦題 “地球の未来を守るために”)」であり、その中 で提起された「持続可能な開発」概念である。 この「持続可能な開発」は環境と開発を一体 として捉え、そして経済成長の名の下におけ る開発が、人間が直面している環境問題のほ とんどを引き起こし、持続不可能な開発を行 っているという認識の下に生まれたといえる。 つまり、環境教育とは、環境問題として現れ た様々な開発から生まれた歪をその主体であ Connect, Vol. Ⅲ , no.1, January 1978, p.3. 出展:Hungerford and Peyton 19943) る人間に再認識させ、転換をもたらし、「持続 可能な開発」を目的とした総体的な教育とし て考えられるようになる。 このことは、地球環境概念についての根本 60 的な変化をもたらしただけでなく、環境問題 として知られる、国際的イニシアチブ「持 の改善や解決に向けた市民の「環境的行動」 続 可 能 な 未 来 の た め の 教 育(Education for というものの変化をももたらした。ハンガー Sustainable Future:EfSF)」 を 開 始 し た。 こ フォード 5)は、「環境的行動」を市民がとるに の EPD は、「持続可能な開発」に関した教育・ は環境問題の認識、つまり学習者がいかに自 情報・大衆の意識についての全ての国連の会 分の問題として認識するかであり、環境問題 議の提案にユネスコが対応するための主要機 への解決は学習者の自己啓発にあるとした。 構であった。 以上のことから、環境教育とは、従来と同 一方、これまで環境教育の発展に大きく貢 じように学習者の問題解決・意思決定能力に 献してきた IEEP が、EfSF にとって代わるか 重点を置いたまま、「持続可能な開発」概念に のように、1995 年に終了した。このことは、 よって生活様式を再認識することとし、特に 環境教育構想から EfSF あるいは ESD 構想へ 人間生活の質と環境の質の保護へと、環境問 とシフトしたことを意味している。そして、 題がシフトしていったと考えられる。 この移行の要因となったのは「持続可能な開 発」概念の再認識である。「持続可能な開発」 2 環境教育模索期 概念、特に「開発(Development)」の解釈を -リオからテサロニキへ- 今までの経済成長のための「開発」ではなく ブルントラント報告書の発行から 5 年後、 より人間社会の「発展」として捉え、経済成 リオデジャネイロで地球サミットが開かれた。 長による人間の生活の質を高める一方で、環 このサミットで「持続可能な開発」が脚光を 境を犠牲にしないためには「持続可能な開発」 浴び、一段と広まっていく。一方、環境教育 しかないとし、 「経済」「社会」「環境」の 3 つ 史にとっても画期的な出来事が起こる。それ の領域にまたがっているものを「持続可能な は、地球サミットの行動計画である「アジェ 開発」としたのである(図 1)6)。 ンダ 21」が採択され、その第 36 章に、環境 教育の目的・方法「教育・訓練・意識啓発」 Economy が明記されたことである。このことは、いか Sustainable Development に環境問題が深刻になってきたのか、つまり 人間の生活を脅かし始めたのかを語っている。 既に述べたように、この「アジェンダ 21」の 基本原則となったのは、1977 年のトビリシ Environment 会議の環境教育の原則である。即ち、環境教 Society 育の目的は、人間の生活の質と環境の質の均 図 1 「持続可能な開発」概念(出展:朝岡 衡をいかに達成するかあるいは維持するため 2005、p.152)7) に個人あるいは社会に向けて環境的知識や能 力、参加を促すこととされた。 ここでユネスコは「アジェンダ 21」第 36 この概念をさらに転換させたのが 1997 年 章の実務担当として持続可能性のための教育 の環境と社会に関する国際会議(テサロニキ とパブリック・アウェアネス(大衆の意識) 会議)である。 に 関 し て 責 任 を ま か さ れ た。 そ こ で 1994 年、学際的な反省や行動に刺激を与えるとし た EPD( 環 境・ 人 口・ 開 発 ) プ ロ ジ ェ ク ト 61 えてよいだろう。 3 環境教育転換期 一方この会議では、環境教育のこれまでの -テサロニキからヨハネスブルクへ- リオから 5 年後の 1997 年 12 月、「アジェ 歴史、特に 20 年間にも及んだ IEEP の実績を ンダ 21」第 36 章の実務担当であるユネスコ 賞賛しながらも、環境教育から学んだ教訓を 主導のもと、テサロニキ会議が行われた。こ ESD の広い概念を発展するための貴重な洞察 の会議は、持続可能性のための教育と大衆の 力を与えるとし、これまでの環境教育を批判 意識のための役割を強調するだけでなく、こ 的に捉えている。この会議で採択されたテサ の文脈の中で環境教育がなす重要な貢献とい ロニキ宣言では、環境教育のこれまでの実践 うものを考慮し、この目的のために行動を呼 を持続可能性のための教育として扱うに値す びかけるよう計画されたものである 8)。ここ ることから、環境教育を「環境と持続可能性 で準備された文章(EfSF -協調行動のための のための教育」と表現しても構わないとした 学際的な構想- 9))からは、狭義の環境教育 11) 。 したがって、この時を境に人間を含む自然 から広義の環境教育への変革、さらには ESD 構想への移行が伺える。では、EfSF とは何か。 生態系や人間生活と環境を扱ってきた狭義の それをまず押さえておく必要があろう。 環境教育は、持続可能性概念に含まれる人口、 ユネスコをはじめ国際社会においては、一 貧困、民主主義、人権、平和、開発なども含 般的に教育を通して持続可能な未来のために めた総体的な環境としての広義の環境教育と 要求される価値観や行動やライフスタイルを して考えられるようになった。しかし、これ 育む必要があると信じられている。つまり までの国際的な環境教育の歴史を見れば、ト EfSF とは、私たちの未来を脅かしている問題 ビリシ会議ですでに環境を総体的に捉えてい を解くための、探求の中心に教育をおいたの たことがわかっている。つまり、この会議では、 である。そして、全ての形式、全ての段階で 環境教育の蓄積を賞賛しつつ、それを批判し、 目的としてだけでなく、「持続可能な開発」を 本来目的としていた環境教育への原点へと無 達成するために要求される変化をもたらす最 意識に軌道修正したことになる。それはただ も力のある道具の 1 つとして見られている。 単なる原点へと逆戻りしたのではない。これ 経済、環境、社会全体の公正な持続的な未来 までの蓄積・教訓を踏まえ、新たなる EfSF、 を考慮する意思決定の方法を学び、そのよう EfS、あるいは ESD 概念を組み込んだ新しい な未来に向けた思考能力を発達させるのが教 環境教育へと生まれ変わったといえる。 育の重要な課題である。そのような教育は、 ホリスティック、学際的である事が求められ ジェンダー教育 る。さらに、全ての人をエンパワーメントす 開発教育 平和教育 るためには、これまでの教育システム、政策、 ESDの エッセンス 実践の再方向づけが求められ、私達の未来を 脅かしている問題を解決するために、文化的 人権教育 多分化共生教育 あるいは地域的に適した意思決定・行動・方 法が求められている 10)。 福祉教育 この EfSF という概念は、1992 年の地球サ 環境教育 〇〇教育 ミットを出発点とし、持続可能性のための教 育(Education for Sustainability: EfS)、 あ る 図 2 ESD(出展:ESD - J 2004、p.5)13) いは後の ESD と同じ意味として扱われると考 62 そ の 後、ESD が 大 き く 取 り 上 げ ら れ る き 己との相互関係から、他人との相互関係、さ っかけとなったのは、2002 のヨハネスブル らには、生態学や経済学を含む共有された “生 ク・ サ ミ ッ ト で あ り、2005 年 か ら は DESD 活の家”、つまり “世界に存在している” とし が始まっている。ESD 概念は「持続可能な開 ての相互関係とするものである 14)。 発」の構成要素である「経済」「社会」「環境」 このような相互関係を認識することは、自 の 3 つの領域をまたぎながら、地域社会を軸 分の周りにある状況を批判的に読み取り、そ にこの領域の複雑な相互関係を捉えるための れを乗り越え自らを変革しようとする探究そ 「知識」、その中で生きるための「技能」、そ のものであり、そのような自律性や自覚を育 して目指す方向性を与える「価値観」と「展 てる教育がまさに環境教育になる。 望」の習得に力点が置かれ、より学際的な教 授法と学びの過程が求められている 12)。ESD 2 科学系環境教育 は、まさに、始まったばかりで、議論がされ ユネスコにおける環境教育計画は、主に、 ている最中であるが、これまでの既存の教育 教育部門と科学部門が担ってきたが、環境と と ESD との関係は次のように表すことが出来 は科学技術教育の部分には必須であり、科学 る(図 2)。 技術教育は環境、健康そして開発に関連した 具体的社会的問題に働きかけるとしている。 科学とは、問題解決に向けての思考力の発 第2章 今後の環境教育の展望 展を導くとされる。物事を目的と手段の関係 1 人文・社会系環境教育 これまでの経過を整理すると国際的な環境 で捉え、問題を技術的・工学的に処理する科 教育の枠組みは、トビリシで定められた総体 学技術的合理性が現代社会にさまざまな問題 的な「環境」とは違い、実践では狭められた「環 を生じたとされているが 15)、この統計的・統 境」を扱ってきた。また、社会変革を促すよ 制的な合理的アプローチこそが高次の思考力 う個人の態度や生活スタイルの変化に焦点を (higher-order thinking skills)、つまり、 「判断・ あててきたが、個人の意識変革だけで環境問 分析・統合」を必要とし、省察的思考を含み、 題を解決するには限界があった。つまり、問 文脈に敏感で、自己モニタリングを含む思考 題を引き起こす社会を変革しなければならな を導くとする力であり、批判的思考ともいえ いのである。したがって、社会変革を促すた る力を導くとされる 16)。知識や情報を判断・ めに、社会・政治・経済の根本的な変革と生 分析し、問題の解決を導く思考力を養うのだ。 活スタイルの変革にむけたより現実的な行動 社会や文化的な要求から科学は発展してき 力が必要となり、それが ESD として現れたと たが、その科学知識をどう使い、そしてどう 見られる。 いう結果を社会や文化に導くかを思考する能 環境問題は様々な相互関係によって生じて 力や道徳観を科学は導く。このような思考の いると認識され、「環境」概念は広がりはじめ 過程は、持続可能性を目指した判断と行動に た。その捉え方は一様ではなく、どれか 1 つ 結びつくといえる。しかし、これまでのよう を限定して環境教育とすることは難しくなっ に科学と社会や文化をいかにつなげるかが大 ている。そのことから、環境教育とは「〇〇 きな課題であるが、環境教育は人間が引き起 教育」という教育の形ではなく、個人や社会 こす環境問題を取り扱うため、人間を媒介に の開発の本質にある相互関係に焦点をあてた 必然的に科学と社会や文化をつなげる可能性 基礎教育の基本的な特徴であるとする。この をもっていると言える。 相互関係とは、自己認識を形成するための自 63 3 学際的・ホリスティックアプローチ 以上のように、環境教育には 2 つの系統が また、シュタイナーがギリシャの教育は「身 考えられる。しかしながら、ESD がそうであ 体・魂・精神」を包括したホリスティックな るように、環境教育もどちらかを中心におい 教育であったと述べているように、ホリステ たとしても、学際的なアプローチが求められ ィックアプローチは、地域に根ざした思考・ るだろう。それには、2 つのモデルが考えら 心情・技能の調和の取れた教育を行うことが れる(図 3)。単一の教育として環境教育を行 人間形成につながると考えられる 18)。言い換 う場合に、他分野を統合して行う統合的モデ えれば、環境教育に置き換えるならば、思考 ルと、他分野に環境教育を投入する多専門的 =知識・心情=価値観・技能=体験をバラン モデルの 2 つである。 スよく行う事が、環境問題解決のための人間 形成につながるのではないだろうか。つまり、 「アジェンダ 21」第 36 章の ESD の主な目 的や EfSF にもあるように、既存の教育の再方 知識のみ、あるいは体験型学習のみの環境教 向付けが必要とされている。環境教育に学際 育は、環境問題解決のための人間形成には不 的アプローチが可能ならば、他分野の教育に 十分であるといえる。 以上 3 つの視点から導きだされる共通点は、 環境教育を取り入れることも十分考えられる どれも人間に基本をおいているということだ。 はずである。 人文・社会系が個人という人間を中心に環 境を見るアプローチならば、科学系は科学を 職業教育 生活科学 中心に個人という人間を見るアプローチであ 物理学 る。「環境」という言葉は、他の教育のように、 環境教育 地球科学 明確に何を対象としているのかがわからない。 数学 それは、人間と人間、人間と社会、人間と自 社会科学 然というように、様々な「環境」が考えられ 人文科学 コミュニケー るからだ。しかし、人間と環境の関係性をど ション う認識し、環境問題解決のためにどこに導く のかを学ぶのが環境教育なのではないだろう A.総合的モデル か。結局、環境教育は、この2つの関係性の 悪化によって生じた環境問題解決のための人 職業教育 地球科学 間形成を目的としているといえる。 物理学 生活科学 第3章 ESD と環境教育 数学 環境教育 1 開発と教育 社会科学 ここまで、環境教育の歴史と今後の展望に 人文科学 コミュニケー ついて整理してきた。それを踏まえたうえで、 ション ESD と環境教育についてさらに検討していき たい。 B.多専門的(投入)モデル ESD や環境教育は、環境問題や持続不可能 図 3 総 合 的 モ デ ル と 多 専 門 的( 投 入 ) モ 性を引き起こした開発のあり方を問う教育で デ ル( 出 展:Hungerford and Peyton あるといえる。一方、開発分野における教育 1994 ) の役割も経済成長優先から、より人間中心の 17) 64 開発に 90 年代以降シフトしてきている。人 自立的な発展も視野に入れる必要がある。こ 間開発の指標(寿命・教育・生活水準)の一 こに、ESD を「持続可能な社会」や「持続可 つに教育をあげ、開発を担う人間自身の発達 能な地域づくり」と意訳する傾向がある。また、 に焦点をあてている教育とは、まさに ESD や 環境教育にとっては、地域づくり教育として 環境教育なのではないだろうか。 の新しい試である。 また、すでに述べたように、ESD の出現は、 環境教育も持続可能な未来、あるいは「持続 2 ESD と環境教育 可能な開発」を視野に入れなければならない 2004 年の ESD の国際的実施計画案には、 ことを示している。この「持続可能な開発」 「ESD は、環境教育に同一視されるべきもので とは、開発論からみると 1970 年代後半に論 はない」とし、環境教育が人類の自然環境と じ始められた「もう一つの発展」の系譜に位 の関係や自然環境を保全しその資源を守る方 置づけられ、①基本的ニーズを充足②内発的 法について焦点をあてているのに対し、ESD ③自立的④エコロジー的に健全⑤経済社会構 は環境教育に社会・文化的要素と社会・政治 造の変化を必要とするとしている 的課題の文脈において幅を広げたものである 。 19) 同様に、発展途上国の開発には、ユネスコ としている 22)。さらに、ESD とは持続可能性 を中心として「内発的発展」が研究されてきた。 という価値観や原理を基本としている。それ これは、経済至上主義の開発から、地域や文 は、「経済」「社会」「環境」の 3 つがバラン 化を維持しながら経済的・文化的・社会的に スよく持続可能になるには、世界中の人、将 発展していくというものであり、開発に対抗 来世代、地球を尊重するべきだとし、 「経済」 「社 して「もう一つの発展」とも言われる。これは、 会」「環境」が基盤とする文化、その文化を育 人間的な発達を中心にしているが、個人だけ む地域を考慮しなければならないとする。 でなく地域や社会を単位に考え、生活におけ ESD は持続可能性をキーワードに先進国と る自律性や創造性の過程を通して、人間的な 発展途上国の区別なく行われ、地域によって 社会のあり方を探求するものである。「内発的 多様な ESD が考えられるとしている。しかし 発展」は資本主義経済のパラダイム転換を必 ながら、「持続可能な開発」という同じ目的と 要とし、より人間の発達に焦点をあてている しながらも、何をもって持続可能性とするの のが特徴である。 かは、地域間(先進国と途上国)、階層間(富 そして、内発的発展と教育について江原裕 者と貧者)、学問間など各立場によって異なり、 美は、「教育が目的としている人間の全人的発 それがこの言葉のもつ便利さの一方、曖昧さ 達や地域の発展、文化の保持などは、内発的 を残しているといわざるを得ない。 発想を含んでいる。」20) とし、内発的発展は しかし、すでに述べたように、人間個々人 豊かな人間性を育てる教育によって育まれる の環境である人間・社会・自然の関係性を認 とし開発分野ではしばしば見過ごされている 識し、そこに生じている環境問題を解決する 「教育は社会の仕組みや文化と密接に結びつい のが環境教育であるならば、ESD も環境教育 て成り立っている」 21) ことを核に内発的発展 もその対象は同じであるといえる。特に、学 を議論している。 際的なアプローチが求められている今日、何 以上のことから、ESD や環境教育は「持続 を対象として行うかを明確にすることは困難 可能な開発」と同様、「内発的発展」や「もう であろう。しかし、対象は同じでも、ESD が 一つの発展」のための教育として、人間の発 「持続可能な開発」のための価値観や展望を導 達だけでなく、地域や文化に依拠した内発的・ く学びであるとするならば、環境教育はあく 65 まで環境問題の解決にこだわり、環境問題解 表 3 環境教育の「環境面」と「教育面」と 決のための価値観や展望を導く学びであるこ 学びのプロセス とは確かである。つまり、ESD が常に開発を 気づき 持続していく長期的、かつ時代に左右される 流動的な学びであるのに対し、環境教育は今 ある環境問題、あるいは近い将来起こりえる 環境問題の阻止、といった短期的、かつ固定 的な学びであるといえるのではないだろうか。 知識 3 環境教育の独自性 の目的はトビリシから一貫して「環境問題の 個人の意識変容から社会変革へと導くことで 態度 解決」にある。つまり、環境問題の解決のため、 環境教育 個人の意識変革 これまで度々述べてきたように、環境教育 ある。しかし、これまでの環境教育は、個人 の意識変容・行動が強調され、社会変革につ 技能 ながらず、持続可能性の達成という点からみ れば不十分であった 23)。また、「環境」につ いては議論されてきたが、「教育」については あまり議論されてこなかったのではないだろ 参加 うか。つまり、環境についての知識や環境問 題の解決については議論してきたが、教育の 目的である人格の形成、つまり人間が生きて 環境教育とは、環境問題解決のために、人 間と人間、人間と社会、人間と自然の関係性 具体的行動 なかったように思える。 社会変革 ESD あるいは 持続可能な開 発のための環 境教育 いくための理念の獲得については語られてこ 環境面 環境問題を認識・判 断する。 教育面 環境問題を生じてい る関係性を認識す る。 環境面 環境問題についての 学習や経験から分 析・理解を得る。 教育面 環境と自分との関係 性を読み取る。批判 的思考。 環境面 省察的思考。自己モ ニタリング。 教育面 環境問題解決に向け た自己変革の探求。 環境面 環境問題解決のため の技術や方法を獲得 する。 教育面 環境問題解決のため の確固たる信念。 環境問題解決のため の人間形成。 ⇒環境的行動。個人 から集団、あるいは 地域。 「経済」 「社会」 「環境」 の持続性を視野に入 れた環境問題解決の ために、社会に働き かける。 ⇒政治的行動。地域 から社会、国家。 を認識し、そして自分を認識し、発達させて いくものであると既に述べた。つまり、環境 問題解決のための人格の形成であり、環境問 ここで、より具体的な行動として政治的行 題の解決のために確固たる信念をもって生き 動をあげた理由は、人間と人間の社会的状況 ていく、人間の形成を含むことに集約される。 の転換を必要とするのに、その多くが政治的 そして、それが個人から社会へとつながるこ プロセスによってなされるとしているからで とが今必要とされている。以下に、環境教育 ある 24)。 の「環境面」と「教育面」の要素と学びのプ 以上のことから、もう一度 ESD と環境教育 ロセスの関係をトビリシの目標段階に沿って を整理してみると、3つあげられる。第 1 に、 表してみた(表 3)。 ESD や環境教育はともに、開発のあり方を問 う教育であるといえる。第 2 に、ESD は常に 未来に向けた「持続可能な開発」を意識し、 長期的かつ時代に合わせた流動的な教育であ 66 るのに対し、環境教育は過去や現在に生じた 的な学びとしての社会教育や生涯学習におけ 環境問題の解決、あるいはこれから生じるだ る環境教育の位置づけも必要なのではないだ ろう環境問題の阻止に向けて現在どうあるべ ろうか。 きかを考えた、短期的かつ固定的な教育であ さらに、持続可能な開発が広まるよりも前 るといえる。第 3 に、ESD がより社会変革を に、内発的発展として行われてきた地域実践 展望しているのに対し、環境教育は社会変革 に目を向けてみる必要があるだろう。つまり、 を促すための個人の意識変容に焦点を当てて 学校のような明確なカリキュラムを有するも いるといえる。 のではないが、生活を通して学ぶ地域実践を どう環境教育として捉えるのかという視点が 必要である。 第 4 章 おわりに アジア太平洋地域におけるユネスコによる 環境教育の原点はトビリシにある。しかし、 地域会議を始め、日本環境教育学会における 各国の文化によってその発展の仕方が異なる アジア太平洋地域における環境教育と ESD の だけでなく、「環境」をどう捉えるかによって 会議・ワークショップが行われるなど、日本 多様な形態として現れるだろう。今後も、国 国内だけでなくアジア太平洋地域として環境 際会議やネットワークを通じて環境教育の議 教育・ESD の議論が盛んになりつつある。し 論が行われることは、日本の環境教育にとっ かし、先進国と途上国、都市と農村、富裕者 ても刺激的であり、有意義な議論になるだろ と貧困者などの違いにより、開発のあり方や う。 何を持続可能性とするのかは異なり、今後も 議論していく必要があるだろう。また、ESD 【注】 は教育といいながらもその出自は政治経済の 1)朝岡幸彦編、2005、新しい環境教育の実 場からである。内発的発展にしろ、そこに教 践「子どもとおとなのための環境教育」シリ 育があるのは確かだが、経済開発を出発とし ーズ1」、高文堂出版社、p.148 ている。したがって、教育の国際的枠組みを 2)Taylor, J. L., Guide on Simulation and 考えるのであれば、ユネスコの学習権宣言に Gaming for Environmental Education, Unesco- 始まり、「万人における教育(Education for UNEP IEEP, Environmental Education Series All: EFA)」など、包括的な国際的な教育戦略 2, 1983 を視野に入れる必要があるように感じる。 3)Hungerford, H. R. and Peyton, R. B., さらに、学校教育における環境教育は、日 Procedures for Developing an Environmental 本でも知識詰め込み型が批判されているよう Education Curriculum (Revised), Unesco- に途上国でも同じ事がいえる。国際的に教育 UNEP IEEP, Environmental Education Series 改革が行われ既存の教育の再方向付けが途上 22, 1994 国でも行われているが、政治や社会背景から 4)同上 日本より難しい立場にさらされている。学校 5)同上 教育における環境教育は、人間形成というよ 6)朝岡幸彦編、前掲書、p.152 り、 「環境を知る」という側面が大きい。また、 7)同上 学校教育の枠組みだけで捉える傾向が多いが、 8)UNESCO, Educating for a Sustanble Future: 既に述べたように、学校教育だけでなく社会 A Transdisciplinary Vision for Concerted 教育、生涯学習として環境教育は行われるべ Action, EPD-97/CONF.401/CLD.1, 1997 きだとしている。よって、市民や住民の主体 9)同上 67 10)UNESCO, Teaching and Learning for A Sustainable Future, 2002 11)阿部治・市川智史・佐藤真久・野村康・ 高橋正弘、1999、「環境と社会に関する国際 会議:持続可能性のための教育とパブリック・ アウェアネス」におけるテサロニキ宣言、環 境教育、Vol.8、No.2、pp.77 - 74 12)朝岡幸彦編、前掲書、p.158 13)ESD-J、2004、「国連持続可能な開発の ための教育の 10 年」への助走、ESD-J、191p 14)UNESCO, Connect, Vol.XXVII, No. 1-2, 2002 15)日本社会教育学会編、2004、講座 現 代社会教育の理論Ⅲ 成人の学習と生涯学習 の組織化、東洋館出版社、295p 16)道田泰司、2001、批判的思考の諸概念 -人はそれを何だと考えているか?-、琉球 大学教育学部紀要、59、pp.109 - 127 17)注 3)と同じ 18)今井重孝、2003、第5章 新しい教育 開発の可能性、内発的発展と教育 人間主体 の社会変革と NGO の地平(江原裕美編)、新 評論、pp.413 - 438 19)田中治彦、2006、ESD の枠組みとは何か、 農村文化運動 No.182、農文協、p.21 20)江原裕美、2001、第1章 開発と教育 の歴史と課題-アメリカ「開発教育」の足跡 をめぐって、研究の意味、開発と教育 国際 協力と子供たちの未来(江原裕美編)、新評論、 p.35 - 100 21)江原裕美、2003、第1章 21 世紀にお ける教育の発展 人間解放を目指して、内発 的発展と教育 人間主体の社会変革と NGO の 地平(江原裕美編)、新評論、pp.25 - 63 22)ESD-J、2006、ESD10 年の国際実施計画 案 日本語仮訳 http://www.esd-j.org/documents/ DESD_J_Draft2.pdf 23)朝岡幸彦編、前掲書、p.153 24)同上 68 東京教育大学野外研究同好会の自然保護教育実践をふり返る 伊東 静一 第 1 章 はじめに など、野外研の関係者が発刊した資料を中心 朝岡幸彦は、今日までの日本の環境教育が に分析することとする。 たどってきた流れをふり返り、「社会的公正を 重視する公害教育と自然環境の保全を重視す る自然保護教育 1)」という二つの源流を指摘 第1章 東京教育大学野外研究同好会 (「野外研」)の発足と会の主旨 し、自然体験学習などの潮流を経て、リオデ 野外研は 1956(昭和 31)年4月に東京教 ジャネイロでの地球環境サミット以降、グロ 育大理学部生物学科のクラス担任になった印 ーバルな視点から持続可能な開発のための教 東弘玄教授が、クラスの昼食会において、自 育(以後「ESD」と表記する)を位置づけよ 然科学を学ぶには「フィールドワーク」が必 うという動きが顕著になってきたと言われて 要だと説いた話に品田穣などが共鳴し、数回 いるとした。 の準備会を経て 1957(昭和 32)年3月に設 私自身の体験では、「学習を意識していない 立した団体で、東京教育大学が筑波移転に伴 自然体験」から「生態学的な気づき後の自然 い廃校になった 1978(昭和 53)年まで継続 保護」実践を経験し、「自然と人間の関係を考 した。 える学習」を経て、今日の持続可能な開発の 野外研の目的は「自然に興味をもつ人がお ための教育に関心が至っている。しかし、自 互いに勉強しながら、日本の自然を美しいま 然保護教育の目的や概念、方法などを分析し、 まに守ることにある」としている。また、2 自然保護教育と自然体験学習は何がどのよう 年目の「山の自然科学教室」用に配布された につながっているのか。あるいは、どのよう 資料の中に、「趣意」として野外研の設立目的 な自然保護活動の中身から自然体験学習が生 を「自然を守り、愛し、理解し、更に、人と まれてきたのかといった、教育の目的や方法 の関係をあらためて追求しましょうという目 といった部分での継続があるのか否かについ 的で生まれた」と記述されている。 て戦後から今日までの「環境教育」を検討す 野外研の主な活動は「山の自然科学教室(以 る必要を感じていた。 後「科教」と記す)」「高尾自然教室」「尾瀬ヶ 本論では、東京教育大野外研究同好会(以 原における自然回復調査」等であるが、これ 後「野外研」と表記する)における学校教育 らの活動の中で自然保護教育を多角的に取り 以外での自然教育・自然保護教育活動の記録 組み、今日の環境教育への流れにつながって から、自然教育と自然保護教育の違い、野外 いると思われる “萌芽” を見いだせる。 研の自然保護教育実践から自然体験学習が生 まれてきたとされるが、今日の環境教育とど 第2章 特徴的な実践 のようにつながっているのか否かなどを明ら 1 北アルプスでの「山の自然科学教室(科 かにしたい。 教)」 なお、研究方法としては、「自然保護教育の 山の自然科学教室の始まりは、品田穣が当 こころみ —野外研 20 年の足跡—野外教育 時の自然教育園次長鶴田総一郎に「…既往の 研究同好会 1978 年」「つりふね小屋ノート 学術的な体系に基づいた自然のみかたでなく、 1968.8.24 〜1983.5.31」 「機関誌『たんぽう』」 もう一度素朴な人間の立場にもどして、極め 69 て自由なありのままの眼で自然を見、自然に たもので、内容的には出発のための準備、所 接してみることで、かえって自然の本質を体 持品メモ欄、観察と採集の態度と道具などが 験を通じて、間違いなくつかむことができる 前書きとして書かれ、本文では観察の目当て のではないか 2)」と訴えたことから始まって を日時・場所別に行動予定にあうように設定 いる。この背景には、野外研発足と同時に、 されていて、その他に北アルプス八方尾根周 品田が中心に活動していた地質学専攻グルー 辺の湖や博物館、動植物の紹介といった構成 プの中で、中学生を対象とした自然探求のた であったとのことである。 めの研究会を開きたいという気運が盛り上が この観察手帳の考え方・作り方は、後述す っていた。 る高尾山での自然教室にも流用されるが、学 鶴田の助言もあり、大町市立山岳博物館と 生が下見調査情報を元に作成していた。 接触し、北アルプス八方尾根周辺で、夏休み 科教開始から4回(4年経過)が終了した に東京の中学生を対象とした「山の自然科学 段階で、早くも中止論が野外研の総会で決定 教室」として実施することになった。 される寸前であった。その理由は、始めた当 2年目の科教の時に配布された趣意として、 時の学生が卒業などでいなくなったこと、中 科教の目的を「単なる自然観察ではなくやが 学生相手に理科教育の実習をしようとしてい て大人になる子どもたちに、自然との関係に るわけではない、中学生に教えるよりまず自 おいて人間を考えるという謙虚な思想の種を 分たちが学ぶべきではないか、野外研は科教 まく。いいかえれば、自然の場での人間のあ を実施するだけのサークルになってしまう等 り方を考える様に仕向ける、ということもそ というものであった。 の大きな目的なのです。3)」と記述している。 5回目が終了した段階で、学生のリーダー この段階では、5年 10 年と活動を続ける だった長島秀幸が、科教は中学生に教育する ことによって、参加した子どもたちが成長し、 機会と考えるよりも野外研のメンバーが諸活 社会を変えていく原動力となるよう自然保護 動によって得た観察知識や態度を確かめる実 思想の形成に取り組む意欲が見える。 践の場と考えたらどうか、と記録を残してい 科 教 は 1957( 昭 和 32) 年 か ら 始 ま り、 る。さらには、経済的な部分以外は問題ない 1966(昭和 41)年に松代地震で第 10 回科 ので続けてほしいと記述し、第6・7回と継 教が中止されるまで毎年継続して実施された。 続となった。 科教の概要は、東京の中学生約 200 名に対 この科教も、10 回目を準備していた 1966 し、指導者は東京教育大、国立自然教育園、 (昭和 41)年6月ごろに頻発していた松代地 大町の山岳博物館等から専門の先生が 10 数 震のため中止に至る。それ以降も予算や実施 名、中学校の先生が 10 数名、さらに野外研 主体などの観点などから検討し、野外研とし の学生が 40 余名、つまり中学生3〜4名に ては実施をめざしていたが、結果的に終了し 指導者1人という充実した態勢で実施してき てしまった。 たこと、さらに学生がかなり主体的にこの行 1960 年 代 は、 全 国 総 合 開 発 計 画( 全 総 ) 事を企画運営してきたこと等、当時としては が始まり日本列島各地で開発が進んだ。その かなりユニークな活動であったといえる。 ために各地で公害だけではなく、自然破壊が 科教の特徴は、学生が積極的に関わってい 問題となっていた。そのような社会的背景の たことと、「観察手帳(フィールドノート)」 中で、科教に限らず野外研の活動に参加した の作成と利用にあったのではないだろうか。 学生の中から、多くの研究者や環境教育実践 観察手帳は B 6判 52 ページに表紙がつい 者が排出され、教育実践を行った側である学 70 生にとっては、後の職業選択に重要な示唆を 体感させ、その感受性をもって自然のすばら 与える体験となったと評価してよいだろう。 しさ教える社会教育としてとらえるのかであ った。4)」 2 高尾自然教室(1964 年 4 月~ 1975 年1 この議論が生まれてきた背景は、自然教室 月まで) に参加した子どもたちが、高尾山の自然の中 第7回の山の自然科学教室(科教)が終了 で何をしていいのかわからないという現実を した頃から、科教は準備から実施まで大変な 体験した学生の大きなショックからで、自然 時間を要すること、期間は年1回4~5日と 教室は理科教育を目的としているのか?高尾 制約されていることなどから、野外研が求め の自然を通して子どもたちの想像力を発揮さ ている自然愛護思想の普及は充分に行われが せるその場ではないのか?という議論が徐々 たいという感じが強くなった。また、科教参 に広まっていた。 加の中学生に対してもその後のアフターケア 従来の自然教室観は、「学校教育内における を行わなければ、本当のナチュラリストは育 つめ込み理科教育否定」の考えに立ち、同じ たないのではないだろうかという議論があり、 く理科教育には違いないが「観察を主体とし そこで、もっと身近な自然を使って「ミニ山 た実物教育を行う」といったものであった。 の自然科学教室」を実施して、より幅広く自 一言でいえば「学校理科教育の補足」という 然を愛し大切にする子どもや大人を育てる活 性格の強いものであった。 動をしようという試みが計画された。 しかし、当時の都市の生活環境の中に自然 この試みは「自然教室」と呼ばれ、1964 と呼べるようなものは皆無であり、そのよう (昭和 39)年4月から 1975(昭和 50)年1 な社会的条件の中で生活している子ども達に 月まで実施された。1964(昭和 39)年当時、 対して、知識として動植物の名前を教え自然 自然観察会そのものは一般的ではなく、実施 の現象を解説することはもちろん大切な事で している民間団体はほとんどなかったこと、 あるかも知れないが、野外研としては知識の しかも中学生を対象とした事業と考えると、 伝授以前に自然との接触のない子ども達を自 大変先駆的な取り組みだったといえる。 然体験的に学ばせることのほうが先決ではな 初年度は 1964(昭和 39)年4月、6月、9月、 いか、との結論に達した。この議論があって、 11 月の予定で、第1回自然教室は5月 10 日 自然の中での遊び、自然を伴った遊びを重視 梅の木平において約 100 名の中学生の参加で するという流れが形作られていった。 実施された。 そのような流れをもって、1970(昭和 45) 第3回以降は、野外研の OB である矢野亮 年春以降自然教室は大きな方向転換を行った。 が高尾自然科学博物館に就職していたことも 自然観察の意味づけを(特に低学年に対して あり、博物館主催で野外研が実施機関という は)見るという静的なものだけでなく体全体 形態に変わり、名実ともにしっかりとした高 で感ずる、人間が持っている五感を総動員し 尾自然教室ができあがった。 て感ずることが必要なのだという意識が強く し か し、 高 尾 で の 自 然 教 室 も 5 年 目 の なっていった。 1969(昭和 44)年には、野外研内部に高尾 その結果、1970(昭和 45)年夏以降の自 自然教室への疑問が出てくる。その疑問の中 然教室は、全体行動から班編制のグループ行 心的課題は「自然教室を学校教育の延長とし 動に移り、1972(昭和 47)年頃からは観察 て捉えるのか(理科教育の野外版として見る 手帳がほとんど使われなくなり、「観察」から のか)、それとも子ども達に高尾という自然を 「子どもに自然を体験させる」という方向が決 71 定的となった。 然体験の機会と場をあたえること、自然のな 1974(昭和 49)年 10 月の第 31 回自然教 かでの体を使った遊びが主要テーマとなった 室が雨天の中で実施されたが、その後の様々 ことは、現在の自然体験学習の萌芽であった な検討の後、高尾自然教室は第 32 回(1975 ともいえる。 年1月)の自然教室をもって終了するという また、高尾での自然教室の位置づけを、自 結論になった。 然を楽しむための技術的な単なる自然体験を 最も大きな理由は、東京教育大の廃校にと 志向したのではなく、自然体験からの気づき もなう野外研メンバーの減少にある。数十名 を自らの人格形成に至る重要な体験に位置づ の子どもを班別行動するためには 30 名程度 けようとしていたかどうかは判然としないが、 の学生が必要であったが、教育大の廃校に伴 少なくとも高尾山の自然を体全体で感じるこ う野外研の人員減は、この計画を不可能とし とで自然の中の一存在としての自分を実感し、 た。 一人の人間として自然に向かい合う行動指標 以上が「自然保護教育のこころみ —野外 を作る機会となり、将来の自然保護運動を担 研 20 年の足跡—野外教育研究同好会」に記 う人格の形成に結びつくと考えていたようだ。 されていた高尾自然教室のまとめであるが、 この段階では自然体験などの機会のない都 野外研と主催する高尾自然科学博物館側では、 会の子どもの社会的な状況を分析した結果、 自然教室に対する考え方のギャップが生まれ 自然保護に至る人格形成のために自然体験が ていた。 重要な要素であるとの判断をしていたことが 1974(昭和 49)年に学生が記録していた わかる。 「記録ノート」には、博物館側は「理科教育を 自然教室の方針として組み入れてほしい」と 3 尾瀬ヶ原における自然回復調査 し、学生側は「知識教育をすべて否定するわ 1967(昭和 42)年から 10 年間にわたって、 けではないが、それはあくまでも二次的なも 毎年7月中旬~8月上旬に尾瀬ヶ原裸地の自 の。自然教室は、子どものためオンリーでは 然回復調査として行われたものである。野外 ないはず。自分達の自由にやれる点が前提条 研 OB の品田穣が文化庁に就職していたこと 件」と答え、それに対して博物館側が「自然 もあり、品田穣の意向が反映したと考えられ 教室は教育活動。公立機関である以上、教育 る。 的側面のある事をある程度認めさせ得る形式 調査方法については、「調査は、尾瀬ヶ原の が必要」と、やりとりが記録されている。 中野裸地化している箇所に、播種・移植を実 博物館という教育機関が実施する教育の事 施した所や周囲の様子などを考慮して、最終 業という枠組みの中では、ある程度の規模は 的には9箇所に2m×2mの調査区を設け、 保って広く都民に参加の機会を与えなければ 毎年同じ時期に植生の様子を記録するという ならないこと、理科教育中心の内容から自然 方法で調査を開始した 5)」と記されてはいる 体験を中心とした自然教室については、当時 が、学術的なレベルや技術的な正確さは満足 の博物館が主催する事業目的とは異なるもの のいく調査であったとは言い切れない面があ となっていたことも野外研の進め方とギャッ るとしている。それは、調査に参加したメン プが拡大したと思われる。 バーが必ずしも植物の専門的な知識を持って この高尾山での取り組みは、最初は理科教 いる者だけではなかった点、調査の技術や方 育の補完を目指して始められたものであるが、 法の面での助言や指導が外部から少なかった 自然接触のない都会の子どもたちに対して自 点、野外研としてはこの調査を主要な活動の 72 目標とはしていなかった点などからである。 1970( 昭 和 45) 年 11 月 の「 第 15 回 自 な お、 調 査 結 果 に つ い て は 1977( 昭 和 然教室ノート」の中に、富岡英道が「理科教 52)年3月に「尾瀬ヶ原における裸地の自然 育における目的とは、端的に言うならば、児 回復調査報告書」として、群馬県の援助を得 童の自主性を育て、それをもって彼ら自らの て刊行されている。 創造力を育てることである。すなわち自然等 調査開始5年目(1971 年)に尾瀬の特別 の様々な事象に際して自らの積極的な探求に 保護区の境界付近にまでのびてきた自動車道 よって、自らの方法によりそれらを解決して 路工事に対し平野長靖らを中心とした反対運 ゆく力を養うことである。それ故に、理科教 動 6) が始まり、その後本格的な市民運動に発 育は幼少のころから行わなければならない 8)」 展した。調査に関わっていた学生の中にはそ と記述している。 の後の運動にも深く関わっていく者もいた。 さらには、「自然教室は理科教育が目的では 尾瀬ヶ原の自然回復調査に参加した学生は、 ない」と野外研の立場を明記しているが、自 「自然のしくみや自然の美しさ、自然を探求 然教室で目指していたものが理科教育でなく することの喜びを教えてくれたことに加えて、 自然教育だとすれば、その自然教育とはいっ 尾瀬は自然の保護運動との関連として社会的 たい何なのかが問われる。 な問題をも考えさせてくれた。自然公園の利 自然教育とは、一般的には自然を知ること 用、制度の問題や地域開発、山岳観光道路の が目的とされ、自然保護教育の前提として位 問題、そして自然環境を守ることの意義…こ 置づけられる。そのため、図鑑や写真などを れらを尾瀬の具体的な事例を通して考える最 利用する代償経験が導入され、伝統的には「知 高の機会として、この調査や作業があった 7)」 識として動植物の名前を教え、自然の現象を と記した。野外研の活動としてこの自然回復 解説する」というように説明されている。 調査は、自然を調べ、自然を学ぶという面と それでは、野外研では「自然保護教育」と 自然の存在や自然を守る運動が社会的にどん はどのように定義していたのだろうか。 な意味があるのか問う面、これら二つの面を 野外研は学生の同好会であり、メンバーは 持った具体的な活動であったといえるが、技 ほぼ4年で変わること、同じメンバーであっ 術や能力の面など野外研が総力を結集して実 ても関心領域などが異なることから、同じ自 践した科教や高尾山の自然教室ほどの取り組 然保護教育思想が続くということは考えにく みにはなっていなかった。 い。あるいは、野外研創設当初(昭和 30 年 代初頭)の社会的背景、1960 年代後半の公 第3章 野外研の目指していたもの 害問題、また、東京教育大廃校問題への対応 1 理科教育と自然教室、そして自然保護教 の時期など、学生を取り巻く状況が一律では 育 ないことなどから、その時々の学生が野外研 記述のとおり、野外研が高尾山で自然教室 の機関誌の中で持論を展開し、野外研の統一 を始める際、学校理科教育の補完という性格 した自然保護思想と呼べるものはないと言っ を強くもっていた。ただ、自然教室の回数を てもよいであろう。 重ねるうちに、学生の中には「理科教育」は、 そうした中で、自然保護・自然保護教育の 当時の都会で自然に接触する機会の少ない子 考え方が端的に著されている部分を次に記述 どもたちに本当に自然を愛する、自然を守る する。 心を育てることができるのかという疑問が生 「自然界の相互関係の法則つまり生態学の まれていた。 法則を充分に理解している人は極めて少な 73 く、国民の間には生命軽視の道徳論や感情的 な自然観が浸透しており、又、学校におい 第4章 野外研思想史が今日につなが る視点 ても採集本位の自然物軽視の考え方が強く、 1 社会教育としての科学教室と自然教室 Conservation の考え方は全く普及していない。 3章で野外研の主要な教育実践をみてきた 現在最も必要なことは自然に対する知識・認 が、科教と自然教室で明らかなように、学校 識をひろめ、その上に立って Conservation の 教育(中学校や教育委員会)とは連携をして 思想を行き渡らせることである。やはり、次 いたが、活動の実践場所や主体は学校教育以 代を担う子ども達にこういった考え方を持た 外の社会教育そのものである。 せることが最も有効だと考えられている。そ 当時の学校教育で行われている定型的な理 れには自然に親しみ、自然を直接に観察して、 科教育内では、野外研が考える自然を守り、 実際の自然界の相互関係を認識させることを 愛し、理解し、さらに、人との関係をあらた 通して、自然愛護の考え方を身につけさせる めて追求する人間性を実現するには、不足す ことが一番大切なことなのである」(「たんぽ るものが多く感じられた。 う」1965 年6月号) その結果、自然と人との関係を広く経済、 「自然を愛する心は自然保護に通じるが、自 社会を含めて考えることのできる人間性を獲 然保護は自然を好きになることで達成できる 得するためには、自然を体で感じる活動を基 ものではなく、自然保護の必要性や社会開発 礎にした、ナチュラリストとしての学びを行 と自然保護、観光開発の行き過ぎ等の問題と い広げることだとして、様々な教育実践を行 の結びを考えることなしに、自然保護教育は っている。 できない。山へ連れて行くことが自然保護教 しかし、学生が主体となって、大町市山の 育にはならない。 博物館職員との綿密な打ち合わせ、東京のい 実際には、自然と接する機会を持つこと、 くつかの中学校に呼びかけ、200 人規模での 次にその機会を重ねる過程で何らかの働きか 北アルプスでの教育実践、その他、高尾山で けをすることが重要。しかし、現在の野外研 の自然教室など、教育委員会や学校へ直接働 活動における自然保護は押しつけ的であり、 きかけなどを含め、今から考えても大変意義 あまりに表面的であり、Conservation 的自然 のある社会教育実践であったといえる。 保護観とはことなるのではないか」(「たんぽ 野外研の教育実践は、自然と人間との関係 う」1965 年9月号) を考え行動できる人格を形成するという学習 このように、自然に対する知識・認識をひ 課題を設定していたが、子ども達が育つ各地 ろめ、その上に立って Conservation の思想を 域の生活課題とは直接的な関係性になりきれ 行き渡らせることに対し、一方では自然保護 なかったのは、学生ゆえに構成メンバーの共 教育は社会開発と自然保護といった人間の営 通基盤である学校という視点からの実践であ み抜きに考えることはできないとし、自然と ったため、生活拠点としての社会教育実践に 接する機会の中で、子どもたちになんらかの 拡大しなかった。 働きかけが重要と述べている。この何らかの しかしながら、野外研の学生の中に千葉県 働きかけとは、実際の野外では限られている 市川市の新浜の干潟保護運動に参加すること だろう。それが自然体験という手法であるか、 によって、社会との関係を考え発言している 具体的なカリキュラムであるかは記述されて 事例も見られる。野外研に参加する学生の活 いない。 動が、その後小川潔らがすすめる自然観察会 活動との連携や尾瀬の自動車道路反対運動な 74 ど、社会との関連の中での活動に展開してい 自然保護はなぜ必要か、なぜ我々は自然保 くものもあり、野外研の活動は確かに社会教 護の必要性を叫ぼうとするのか、あるいは、 育実践の側面の色彩を持っていたといえるだ 自然保護運動に身を投じて良いのか等々、「自 ろう。 然保護」を学ぼうとした時代。野外研の機関 紙「たんぽう」で、野外研が目指すべき「自 然保護教育」の内容についてかなり本格的な 2 野外研の自然保護思想の変遷 野外研の発足から一貫して野外研の思想と 論議をしたことが分かる。 行動を支えてきたものは、自然は守らなけれ 1963(昭和 38)年5月には、野外研が日 ばならないという意識であった。野外研に参 本自然保護協会に加入し、1964(昭和 39) 加している学生が、その時々で自然保護思想 年国立公園大会の自然保護集団に会員2名を について議論しているが、その思想的発展を 送っている。自然保護のために何かをしよう 3つの時代区分に分けて検討してみる。 と意識し出したころである。 第 1 期「消極的自然保護の時代」(1959 年〜 市川慧と藤田正道が「たんぽう」昭和 39 1964 年頃まで) 年5月号において、自然保護を単なる感情的 自然を大切にしよう、自然を愛そう、そし なものに終わらせない為に、人間と自然との て自らが自然の破壊者に手を貸さないように 関係を現実問題としているとの考え方を明ら しよう、といったやや消極的な考え方といえ かにし、会員からの批判を希望していると問 る。 題提起した。 「各中学校あてルールの指導を要請するな そのことについて、矢野亮は「自然保護」 り、各新聞の読者欄を通じて一般の人に認識 の一つの考え方として以下のように記してい してらうなり、考えて見ればいくつかの方法 る。 があると思う。こういったPR活動が野外研 自然保護を「生態学の発達によって自然界 で行われることを提案しようと思う」(「たん の相互関係を支配している法則が次第に明ら ぽう」1962 年2月号) かにされつつある。自然界の相互関係を支配 内藤栄樹が昆虫採集をしている人間だから している法則の範囲内で手を加えるなら人間 ゆえに採集するんだという論理を展開してい 生活に利用し得る。又、この法則を充分認識 るが、それに対して翌 12 月号で藤田正道は することなしに自然に手を加える事は非常に 生命の尊厳という視点から無益な殺生をとが 危険であり、必要な場合にも手を加えるのは め、さらに目的意識のない採集について強い 慎重にしなければならない。このような見地 批判をしている。また、採集行為そのものに か ら 考 え る 自 然 保 護 を Nature Conservation ついて、生物に接する喜びが採集行為をしな と い う。 … そ し て、 こ の Conservation の 理 いと成り立たないのかと疑問を呈し、ほとん 論的基礎となる生態学が研究対象とする一本 どが採集者の自己満足ではないかと指摘して の草、一種類の動物、集団の生物を保存、維 いる。(「たんぽう」1963 年 11 月号) 持する時に重要な役割を果たすのが、Nature この時期には、自然保護を論として議論す Protection であり、Nature Preservation であ るというより、具体的な活動を展開するため る」(「たんぽう」昭和 40 年6月号) の議論をしている時期といえる。 上記の矢野の見解について、宮崎宣光は下 記のように記している。 第 2 期「 意 識 し 出 し た 自 然 保 護 論 の 時 代 」 「では、Conservation 的な考え方とはどん (1963 ~ 1970 年頃まで) なものであろうか。…正しい判断での自然管 75 理という事なのではないだろうか。広い意味 成したが、後に一本化された(三瓶山国立公 での自然保護と言いながら、やはり Nature 園大会)。 Preservation 的な見かたに偏っていると言わ 設立当時、野外研は東京農大と並んで学生 ねばならない」としている。(「たんぽう」昭 連盟の中核であり、設立に至るまでの準備、 和 40 年7月号) 設立後の活動組織の拡大に多くの人間を投入 矢 野 の 示 し た Nature Conservation と した。後に、自然保護・環境問題のキャンペ Nature Preservation の考え方に対し、宮崎は ーンの統一行動を実施するようになった。 自然保護を特定の地域やもの(国立公園地域 この時期には、東京教育大の廃校阻止へ向 の自然、天然記念物)を保護するための自然 けた学生運動も盛んであり、他大学との対応 愛護の考え方と、現実問題として発生してい も忙しく、この段階では自然保護思想という る公害や日本各地での自然破壊を社会的な関 ものはほとんど語られなくなっている。 連から位置付けて考える大局的自然保護とも いうべきレベルで分けて考えるべきで、特に 生命への視野と子ども達への教育とのつなが 第5章 野外研の自然保護教育実践か ら持続可能な開発のための教育 りを見通せるものが、真の自然保護の意味で 野外研が残した「自然保護教育のこころみ はないかとしている。 —野外研 20 年の足跡— 野外教育研究同好 その他にも、千葉県市川市の新浜(干潟埋 会、1978 年」などから、都会に生活する中 め立て)反対運動に参加していた荻野豊は、 「自 学生を対象とした北アルプスでの科教、高尾 然教室を開いて次世代の自然保護観養成にあ 山での自然教室、その他野外研の自然保護教 たることも十分に意義有ることだとは思うが、 育実践を見てきた。 新浜問題は今日の問題なのだ。新浜がつぶさ 野外研を始めた当時は、社会的存在として れるのを黙ってみておきながら、小学生に自 の人間が自然との関係を考え、自然を保護す 然を保護しなくてはいけませんよ、などとは る行動ができる人格を形成するという教育目 どうしても言えない」と理論と実践の乖離を 標を設定し、自然教育・自然保護教育実践を 指摘していた。 してきた。 しかし、1960 年の全国総合開発計画の閣 第3期 日本学生自然保護連盟の設立(1968 議決定以降、宅地開発と都市への人口集中に 年6月ころ) より自然を失った都会での子どもの生活実態 発端は、新浜問題で自然保護に関する社会 の変化等を考慮し、自然体験学習への実験的 団体を作ろうということであったが、後の「自 な取り組みがされてきたことは判明した。 然観察会」メンバーで、当時の東京大学生物 野外研の活動は社会との接点を持った活動 研有志の小川潔・浜口哲一らは、野外研主催 であったとはいえ、基本的には東京教育大と の会合で、日本学生自然保護連盟の提案を受 いう大学の中での活動であり、野外研を構成 け、社会人を含む市民を念頭においていない する学生も原則的には4年でメンバーが代わ ので、参加を見合わせた。当時、野外研の仲 ってしまうという条件下での活動であり、も 間がほしかったのだろうと、小川は見ている。 っとも大きな理由として考えられる、東京教 結果として学生がリーダーシップをとり、 育大学の廃校という枠組みを乗り越えること 数度の話し合いの末、学生の連合体を作るこ はできなかった。 とになった(裏磐梯国立公園大会)。当初、関 いずれにしても、野外研の自然保護教育実 東地区と北海道地区でそれぞれ学生連盟を結 践は中途半端なまま廃校とともに消えていっ 76 たが、時代に先駆けた「実験」だったといえ るのではないか。 野外研の自然保護教育実践の蓄積・流れが、 今日の持続可能な開発のための教育へ直線的 につながっているのかどうかは、野外研 OB たちが様々な場で活動・実践したことを再評 価する中で明らかになる部分はあるだろう。 【注】 1)朝岡幸彦「環境教育」概念の変容と五つ の潮流 「新しい環境教育の実践」朝���� 岡幸彦編 高文堂 2005 年 P22 2������������������� )鶴田総一郎 山の自然科学教室創設の頃 「自然保護教育のこころみ」—野外研 20 年の 足跡—野外教育研究同好会 1978 年 P4 3)第2回科教事前打ち合わせノートより(執 筆者不詳)「自然保護教育のこころみ」—野外 研 20 年の足跡—野外教育研究同好会 1978 年 P7 4)林幹人 高尾自然教室への疑問「自然保 護教育のこころみ」—野外研 20 年の足跡— 野外教育研究同好会 1978 年 P116 5������������������� )喜多野正治 尾瀬ヶ原における裸地回復 調査「自然保護教育のこころみ」—野外研 20 年の足跡—野外教育研究同好会 1978 年 P138 6)�������������������� 平野長靖 「尾瀬に死す」 新潮社 1974 年 P218 〜 219 7)������������������ 喜多野正治 尾瀬ヶ原における裸地回復 調査「自然保護教育のこころみ」—野外研 20 年の足跡—野外教育研究同好会 1978 年 P138 〜139 8)������������������ 富岡英道 自然教室の存在理由を考えよ う「自然保護教育のこころみ」—野外研 20 年の足跡—野外教育研究同好会 1978 年 P123 77 東京都高尾地域の自然保護運動 又井 裕子 り込まれ、その具体的計画として圏央道のア 第1章 自然保護運動の教育的機能 ウトラインも描かれようとしていた。1969 東京都八王子市の高尾山周辺地域において、 圏央道(首都圏中央連絡道路)建設反対をめ 年に「新全国総合開発計画」( 二全総、新全総 ) ぐる自然保護運動が20年来続いてきた。運 が策定・公表され、開発志向はいっそう明確 動はいわゆる「高尾山天狗裁判」と呼ばれ、 になった。1976 年に国土庁が「第三次首都 圏央道建設差止め訴訟という形で地域住民を 圏計画」をまとめ、「東京環状道路」を「首都 中心とする自然保護団体によって進められて 圏中央連絡道路」と改称した。この改称の背 きた。昨 2006 年夏に土地収用が決定され、 景には、環状道路に首都圏における各都市間 事実上圏央道が開通してしまう流れになった。 の連絡道路としての色彩を強める目的があっ しかし、それでも建設には問題が多すぎると た。これを受けて、1978 年には東京多摩地 して、住民たちの生活の場である高尾山およ 区の各市町村がまちづくり構想や基本計画を びその周辺地域を守ろうという固い決意のも まとめ、開発に向かって動き出した。さらに、 とに自然保護運動は継続されている。 1981 年には、多摩地区選出の衆議院議員が 高尾の自然を生活の場として認識するまで 中心となり八王子市など 10 市町村による圏 にいたった自然保護運動には、自己学習と自 央道促進協議会を発足させ、翌年には東京都 然保護団体内部での相互学習を通して、高尾 が長期計画として広域幹線道路に「圏央道」 の地域住民としての主体形成をうながす自己 を位置づけるなど、行政内では着々と圏央道 教育機能が存在するのではないかと考えた。 づくりの準備が進められていた。 この場合、自分の生活の場を守るということ このような行政内での経緯を経て、1984 が契機となり、高尾がどのような場所である 年 4 月に初めて新聞紙上で圏央道建設計画が のか、そこにどのような自然があるのか、そ 住民に明らかにされた。紙面には高尾山にト の地域を守るためにはどうしたらいいのかと ンネルを掘削することも発表されていた。そ いう学習が継続している。この事実を踏まえ して同年夏、八王子市議会全員協議会で圏央 て高尾地域における自然保護運動の全容を明 道計画案 (95 年完成 ) が正式に発表され、そ らかにし、この自然保護運動の意義について こにはインターチェンジ2箇所の建設が計画 考えてみたい。 されていた。さらに、10 月からは建設省と市 町村合同で計画路線範囲内に在住する住民へ 第2章 圏央道計画発表と高尾 の説明会が始まり、立退き対象世帯は約 360 1960 年、池田勇人内閣のもと第一次全国 にのぼることが明らかになったのである。ま 総合開発計画、いわゆる一全総がつくられた。 た、道路建設だけではなく、企業誘致などの この計画は戦後の経済復興を果たし、さらに 大規模開発も抱き合わせて計画されていた。 は高度経済成長を遂げていく日本を支えた力 さらにこの頃から建設省(現 : 国土交通省) のひとつともなった、資本の論理による総合 によって裏高尾における環境影響調査 ( 環境 的国土開発を内容とする「全国総合開発計画」 アセスメント ) がはじめられている。 の第一次プランである。この一全総に高速自 建設省からの計画発表を受け、八王子市南 動車道のネットワークで全国を結ぶ構想が盛 浅川町・裏高尾町の住民による反対運動が開 78 始され、同年末には摺指・荒井地区住民によっ れ以後この集会は「天狗集会」と呼ばれ、現 て「裏高尾圏央道反対同盟」が結成された。 在まで毎年夏に開催されるようになり、89 年 また牛沼地区においても「牛沼地区圏央道反 以降は 3000 人規模の集会となった。 対同盟」が発足した。1985 年には八王子自 1988 年に「高尾山の自然をまもる市民の会」 然友の会・多摩川水系自然保護団体協議会・ が八王子市をはじめ首都圏や全国の市民団体 三多摩勤労者登山連盟の自然保護 3 団体が主 および個人によって結成され、幅広い自然保 催者となり、シンポジウム「高尾山の自然を 護運動が展開されていくこととなった。当時、 考える集い」が高尾山のふもとで開催され、 この会の代表となった山田和也氏は同年はじ 一般市民を含む約 200 名が参加した。ここで めの八王子市長選挙に出馬し、市民の憩いの は高尾山周辺、とくに圏央道がトンネルから 場である高尾山にトンネルを貫通させる圏央 出る裏高尾町にて、接地逆転層という現象が 道反対を選挙スローガンに掲げ、45% もの得 起こることが圏央道建設反対運動ののっぴき 票率を得たが文字通り僅差で敗れた。この事 ならない論拠として紹介された。このことが、 実は、八王子市民がなんらかの形で圏央道問 住民らによる自主環境アセスメント実施の発 題に大きな関心を寄せていたことを示すもの 端となったのである。同年中頃に「高尾山自 である。 然保護実行委員会」や「圏央道反対同盟連絡 反対の声が続くなか、1989 年に東京都は東 会」が結成され、反対運動が活発化していった。 京都分に関する圏央道を都市計画決定し、建 なかでも注目すべきことは、前年秋からの建 設省は圏央道関係地域で測量・地質調査、地 設省による環境アセスメント調査開始という 元説明会を実施しはじめた。とくに住民の反 事実に加え、接地逆転層現象の発生という危 対が強い裏高尾地区においても建設省は住民 険性が明らかになったことを契機に、裏高尾 説明会を強行したが、そこでは裏高尾圏央道 ジャンクション予定地において住民による自 反対同盟に結集する住民関係者は排除され、 主的な環境アセスメント調査 ( 以下、自主ア 地権者約 60 人のうち 4 人に対して説明がな セスと略す ) が開始されたことである。この されただけだった。このため住民が強く抗議 自主アセスは、多くの学者の協力を受けなが し、結局説明会は成立せず流会になるという ら裏高尾住民 150 名総出で、主として裏高尾 騒動も起こった。そのような状況下にもかか における気象観測や大気汚染および騒音調査 わらず、年末には建設省によって八王子市下 を 1 年間実施された。この活動にもとづいて、 恩方町の圏央道八王子北インターチェンジ予 1986 年に裏高尾圏央道反対同盟が自主アセ 定地で杭打ち式が強行された。建設省の姿勢 スの中間報告を発表したが、その数ヵ月後に は強硬であると判断した地元では、同じ頃、 は東京都から、国道 20 号線から埼玉県境ま 圏央道予定地にナショナルトラストを行なお での圏央道に関する環境アセス案が発表され、 うという運動が発展し、「高尾山自然体験学習 その説明会が行なわれた。これを受けて、高 林の会」が結成された。この会は、裏高尾町 尾山自然保護実行委員会は都のアセス案に対 の圏央道予定地の土地所有者の賛同をえて借 し 3000 通の意見書を提出しただけでなく、 地権を登記する形で 1992 年から約 2500 本 計画撤回の要請署名 13 万 2000 名分を都に の梅林、雑木林を購入して立木トラスト運動 提出した。さらに翌年、裏高尾反対同盟は結 を展開した。一方、1992 年には建設省は都 成 3 周年を契機として 1000 名が参加する集 市計画法に基づいて 4 回にわたる住民説明会 会を圏央道ジャンクション建設予定地内の梅 を終了し、事業者による用地買収を開始した。 林で開催し、八王子市内をデモ行進した。こ 2 年後の 1994 年には、高まる反対の声にも 79 かかわらず、建設省は裏高尾地区における圏 第 3 章 高尾山天狗裁判のはじまり 央道予定地の路線測量と地質調査を強行し、 2000 年、建設省は土地収用法に基づく事業 ボーリング調査なども実施した。これに対し 認定を告示し、事実上土地が強制収用される て翌年、圏央道に反対する市民が集い、圏央 こととなる。これが契機となり、これ以上圏 道予定地の土地を購入して工事を阻止する土 央道工事の進展を認めるわけにはいかないと 地トラスト運動の強化のために「地権者の会・ いう考えのもと、反対運動に結集してきた自 むさゝび党」を結成し、八王子市南浅川町の 然保護団体や賛同する市民らを原告として、 予定地内の 2 箇所を購入してトンネル貫通反 圏央道工事差止めを求める民事訴訟と圏央道 対の拠点とした。 工事 ( 東京都八王子市下恩方町北浅川橋橋梁 1994 年のボーリング調査以降、八王子城址 工事部分~同市南浅川町 IC 工事部分 ) 事業認 内を流れる滝が枯渇するようになったことが 定取り消しを求める行政裁判、あわせて、い 住民によって発見され、また 1996 年には市 わゆる高尾山天狗裁判が同年起こされた。被 民有志によって、圏央道八王子城址トンネル 告は国および日本道路公団の圏央道新設工事 北口坑口付近で絶滅の恐れがある危急種とし やそれに伴う付帯工事を行なう者とし、原告 てその保護が義務付けられているオオタカの は「高尾山自然保護実行委員会」「高尾山の自 営巣が発見された。これらの事実を受け同年 然を守る市民の会」 「高尾自然体験学習林の会」 に裏高尾反対同盟をはじめ複数の自然保護団 「国史跡八王子城とオオタカを守る会」「地権 体は、八王子市内の建設省相武国道事務所に 者の会・むさゝび党」「高尾・浅川の自然を守 対し圏央道工事の中止とオオタカに関する調 る会」「東京都勤労者山岳連盟」の 7 団体で 査を要求している。しかしこの間、青梅 IC ~ ある。さらに原告には高尾山、ムササビ、ブナ、 鶴ヶ島 JC 間の圏央道埼玉県部分が開通し、他 八王子城址、オオタカなどの自然物も含まれ 地域での工事は進んでいった。1998 年に建 ている。 設省がオオタカの営巣確認で八王子城址トン この裁判でまず注目すべき点は、高尾山に ネル ( 仮称 ) の工事手法の見直しを表明した 生息する動植物や付近に存在する城址、さら ものの、その半年後には北浅川橋、八王子城 には高尾山自体が原告として設定され、それ 址トンネル工事が開始された。 らを守ろうと運動する人間が自然物原告の代 1998 年夏に毎年恒例となっている圏央道反 弁をするという、いわゆる自然の権利を訴え、 対 14 周年 3000 人集会が開催され、この集 それをどう認めるのかが争点のひとつになっ 会で高尾山宣言が採択され、地元住民にとっ ていたことである。また、圏央道建設という ての高尾山の重要さなどが訴えられた。ま 公共事業と、土地の収用により現在の生活の た、高尾山にトンネルを掘らせない 100 万人 場を奪われる住民たちの土地所有権・土地利 署名の運動も始まった。なお、八王子城址の 用権・立木所有権・人格権・環境権・景観権 保護運動は、従来は歴史研究者らが民間業者 とをはかりにかけ、これら住民の権利を侵害 の開発による史跡の破壊から定石を守る運動 しても圏央道建設がそれに見合う事業である であったが、これまでの経緯をふまえ、2000 のか否かという、公共事業の公共性が問われ 年 1 月の「国史跡八王子城とオオタカを守る ていることも注目すべき点である。したがっ 会」の結成によって城跡とオオタカを守る運 て、これら 2 つの争点がこの高尾山天狗裁判 動に発展し、運動を一層活発化させた。 の特徴であるといえる。 この天狗裁判は住民勝訴から上級審における 不当判決などを経ていまだに続き、決着のつ 80 かない状況である。しかし、この裁判を通し 山自然保護実行委員会、高尾山自然体験学習 て原告の住民たちは弁護士との学習会を重ね 林の会代表の吉山寛である。高校教諭であっ るなかでさらに、気象条件や滝涸れなどにつ た彼は植物に詳しく、のちに高尾山天狗裁判 いて有識者にも協力を要請しながら調査をつ 原告団長にもなった。彼は、いわば高尾での づけている。なお、自然物の代理訴訟、いわ 建設反対運動、自然保護運動の立役者といえ ゆる自然の権利訴訟の形をとった原告の 5 自 る。彼は、呼びかけで集まった裏高尾住民 然物については、2001 年に原告に適格性が 150 名と、日本科学者会議の研究者をも交え 欠けるとして訴えを却下された。原告団はさ て共同で調査と評価・判定作業を実施してい らに控訴したものの、これもまた却下された。 た。このことによって、国のアセス手法の不 完全・不備が浮き彫りになり、裏高尾での接 第 4 章 圏央道建設反対を掲げた住民に よる自然保護のとりくみ 地逆転層の発生やトンネル掘削による地下水 既述のように、1985 年 1 月には、八王子 ントの欠陥に対する自主アセス側の指摘は多 自然友の会・多摩川水系自然保護団体協議会・ 岐にわたった。東京都アセス審議会はこれら 三多摩勤労者登山連盟の自然保護三団体によ を無視できず、環境影響評価書に対して異例 る「高尾山の自然を考える集い」が行われて とも言える 57 項目にわたる問題点を指摘せ いた。その際、圏央道反対運動の正当性を示 ざるを得なかった。ここでは逆転層の発見の す強力な論拠として逆転層現象が紹介され、 ほかにも、騒音調査の結果、静かな山間の谷 これが住民による自主環境アセスメント実施 である裏高尾町は圏央道ができれば環境基準 の発端となった。この運動は高尾山自然保護 を超える騒音地域となることも判明した。さ 実行委員会などが中心となって、自主アセス らに、かつて中央自動車道建設の際に排出さ を進めていくスタッフが裏高尾、浅川で募ら れた 100 万立法メートルの残土は裏高尾の谷 れ、のちに有識者などを含み、メンバーの構 に捨てられ、小仏トンネルの残土が積み上げ 成が広げられていった。 られてできた人工の山などが裏高尾の谷の景 への影響などを見過ごした、建設省アセスメ この逆転層は本来、風によりかき混ぜられ 観を一変させてしまったことも再認識された。 消えるのだが、山の影となって日があたらな 当該地域の地形の複雑さを考慮すると、行政 い場所は一日中この現象が起きたままの場合 が行なったような単純な手法で推計できるも がある。八王子城址をくぐったトンネルが外 のではない、という細かな考察まで住民の手 に出てくる裏高尾は立地的にまさにこの逆転 によって導き出されたのである。数値等の予 層が起こりやすい場所となっており、この逆 測に関しては、この自主アセスによって、換 転層ができると大気が循環しなくなり、そこ 気塔からの影響を含めない場合でもジャンク に汚れた空気がなだれ込んできた場合、この ション南東側の住宅に環境基準を超える濃度 汚れた空気が循環せず高濃度の大気汚染が発 が予測された。さらに、換気塔から排出され 生してしまうことが懸念されている。この強 る窒素酸化物を考慮した場合には環境基準を 制的にトンネルから排気され汚染された空気 超過するとみられる地域が相当数の住居にま は谷間に押し込まれ、この高尾の自然を一気 でおよび、ジャンクションに近い住居におい に破壊してしまうことになる。このようなこ ても年平均 0.04 ~ 0.05ppm を超える高濃度 とが、85 年からの自主アセスによって明らか となるおそれがあることもわかった。また、 になったのである。 換気塔から排出された排ガスにより、ジャン この自主アセスの中心になった一人が高尾 クションから 1km もはなれた地域において環 81 境基準を超える可能性があることもわかった。 てきた。それは、共同で借地する高尾山型ナ 1986 年 4 月、裏高尾圏央道反対同盟はこ ショナルトラスト、立木トラストとしての梅 れらの自主アセスの結果にもとづいて中間報 の里トラストおよび猪ノ鼻山雑木林トラスト 告を発表した。その年の 9 月に、東京都は、 として、具体的に展開されている。会で借り 国道20号線から埼玉県境までの圏央道に関 ている土地も、立木トラストとして所有する する環境アセス案を発表し、その説明会を行っ 土地もすべて裏高尾町内の民有林で、いずれ た。しかし、八王子・秋川・羽村・青梅など も圏央道建設予定地となっている。そこでは、 関係地域における東京都の説明会では、東京 「道路建設反対」などの札がかけられていたり、 都は住民からの自主アセスにもとづく鋭い質 所有者の名前が木に記されていた。 問に答えられなかったという。これを受けて 高尾山は 559 メートルと標高こそ低いが、 11 月に高尾山自然保護実行委員会は、東京都 約 1300 種にのぼる植物だけでなく、約 5000 のアセス案に対し 3000 通の意見書を提出し、 種の昆虫、100 種を超える野鳥などの生物の 計画撤回の要請署名 132,000 名分を都に提出 宝庫であり、昔から生物学研究を目指す人た した。しかし、批判などが住民からあいつぐ ちの絶好のフィールドになってきた。ここに なか、1988 年 12 月に建設省は圏央道に関す 道路が建設されれば、車の排ガスによる大気 る環境アセスを発表し、1989 年 3 月、圏央 汚染、振動公害、光害などで生き物に与える 道に関する東京都分の埼玉県境の青梅市から 影響は大きい。騒音で鳥がよりつかなくなれ 高尾山南麓の国道 20 号までの間 22.5 ㎞に関 ば、植物の種がばらまかれなくなり植生の衰 する都市計画決定を行なった。以後、住民総 退をもたらす。また、トンネル掘削で水脈が 出の大規模な自主アセス調査は行なわれてい 切れ、森林が危機に瀕する恐れもある。この ないが、原告団を中心として今もなお環境や ような理由住民側は、前出の自主環境アセス 健康などへの影響調査が引きつづき行なわれ メントを実施し建設反対を訴えたが、国側は ている。 計画の遂行を主張しつづけている。そこで、 ところで、高尾の自然保護運動の中身はふ なにか有効な反対運動がないかと模索してい たつある。ひとつは、いままで述べてきた大 るとき、知り合いの弁護士から立木に所有権 規模な自主環境アセスメント運動である。も を主張すれば、その木が生えている土地は自 うひとつは以下に述べる立木トラスト運動で 由にできないという「立木トラスト」を教え ある。そこでは、自主アセスだけでは高尾を られ、立木トラストの運動が始まった。 守れないという認識が発端になったことと、 しかし 2005 年、高尾山トンネル工事を始 土地のトラストだけではなく、木の所有権を めるため、国によって高尾山南側のトラスト トラストとしたことが特徴的である。 地などの土地収用のための事業認定の手続き この動きは、先にふれた吉山寛が同じく代 が始まった。中央道北側のジャンクション予 表を務める高尾自然体験学習林の会が、1989 定地にあった裏高尾の立木トラスト地などは 年から裏高尾町の地主の協力をえて圏央道計 結局強制収用され、土地と立木の所有権はす 画予定地内の土地に借地権を設定し、賛同者 べて(特殊法人)日本道路公団に移った。中 共同の借地権として登記するトラスト運動を 央道南側で高尾山北側、高尾山南側の南浅川 はじめたことを発端としている。1992 年か インターチェンジ予定地(アクセス道路であ ら約 2000 本の梅林、雑木林、スギ林を購入 る八王子南道路予定地を含む)でも立木トラ し、賛同者に販売し、その所有権をもって会 ストのほか、 「地権者の会・むさゝび党」によっ 員とする、立木トラスト運動として展開され ても土地トラストが行われ、住民は工事の執 82 行に対抗していたが、これらのトラストに対 た、現実的に圏央道の工事が完遂されてきた しても土地収用事業認定のための手続きが開 ことによって、以前は運動にも興味を示さな 始された。この国の強行策によって自然保護 かった人が気にするようになり、逆に毎日圏 運動としての立木トラスト運動は実質的に終 央道を見ることによってたいして気にならな 焉を迎えたが、このトラスト運動を展開した くなる人も出てきているという。さらに、こ 住民の奮闘の歴史と、高尾の自然をみつめ直 れ以上反対運動によって生活に波風を立てな すはりつめた学習は、今もなお輝きを放って いでほしいという声もあったという。だから いる。 こそ、自然保護団体として精力的に学習をす すめ、積極的に運動を組織していくことが求 められたという面もあったと思われる。 第 5 章 自然保護団体としての学び 毎年の集会や、行政など圏央道事業者との 第 6 章 高尾の自然保護運動の意義 やりとりのなかで、高尾山の自然はどのよう をもつのか、その自然は住民にとってどのよ 高尾における自然保護運動は、圏央道の工 うに意味があるものなのかということを住民 事計画がもちあがったことから、当初はこれ は十分に学習していることを理解したうえで、 に反対するための一種の手立てとして活発に 説明せざるをえない。その過程で、住民の間に、 なり、その後住民の学習の積み重ねにより生 自然そのものを生活の一部とみなしながら高 活の場の一部を守るという深みをもつ自然保 尾地域で生活する者としての主体的な認識が 護運動へと発展・定着していった。このよう 形成されていった。またその認識は天狗裁判 に住民の反対運動と自然保護運動とが一体で によってさらに深まり広まっていった。原告 あるところが特徴的である。また、高尾にお の主張においてもそのことが如実に示されて ける自然保護は、尾瀬や白神山地のように、 いる。 そこを訪れる人や有識者が自然環境の状態を しかし、そこに行き着くまでには、専門家 客観的に判断し、外からの力として保護を推 や弁護士らと連携しつつ、いくつかの自然保 し進めていったのではない。そうではなくて、 護団体が窓口にもなり、学習に裏付けされた 高尾の運動は、高尾の自然と共に暮らしてい 住民の声を反映させていく努力の積み重ねが る当事者たちが主体的に自然保護運動を立ち 必要であった。住民一人ひとりの力では圏央 上げ、外部の人びとや団体の力をとりこみな 道工事という開発の力に対抗しきれず、また がらその輪を広げ、進めてきたものである。 対抗するための学習もままならない。しかし、 自主アセスをはじめとし、高尾の自然につい 団体組織としてすぐれた学習の機会を設け、 て住民みずから知識を深め、その自然環境が そこで個人としても、地域住民としても相互 どのように固有なものであるかを捉えかえし、 に学びあうことができたからこそ、立木トラ 地域住民の生活にとってその持つ意味につい ストなどの自然保護運動を展開でき、さまざ てリアルな学習を積み重ね、地域の総体を生 まな集会を成功させ、高尾山天狗裁判まで起 活の場の一部として認識するようになったこ こすことができたといってよい。 とから、この運動は、自己教育運動としての しかし、継続して地元住民が一致団結して 性格を強くもつようになった。この運動をと 進めていくことは難しかったようだ。裏高尾 おして、高尾山天狗訴訟において自然物が原 町内においても、建設反対の動きとともに自 告となる自然の権利訴訟が展開されたことや、 然保護運動が進んでいくうちに、口には出さ 立木を所有する形でのトラスト運動が展開さ れなかったが対立が生まれてきたという。ま れたことももちろん特徴的であるが、この運 83 動が自己教育運動としての性格をもつ自然保 9) 辰濃和男『高尾山にトンネルは似合わない』 護運動であるということを、ここではとくに (岩波ブックレット)岩波書店、2002 年。 意義づけておきたい。 山村 恒年編『自然の権利 法はどこまで自然 高尾地域における自然保護運動は、圏央道 を守れるのか』信山社出版、1996 年。 建設計画がもちあがったことによって活発に 横山十四男『たまびとの、市民運動から「環 なった。しかし、発端であった圏央道ができ 境史観」へ』百水社、2004 年。 てしまうことになったから運動が下火になる 米澤邦昌『高尾の森から』山と渓谷社、1997 とか終わるというのではなく、自己教育運動 年。 としての性格をそなえたこの運動は、現に今 10) 高尾山自然保護集会実行委員会編『圏央 もひきつづき展開されている。また、今後と 道と東京の自然の危機(集会資料)』同実行委 も高尾固有の自然を守る運動として普遍的に 員会、1985 年 行なわれていくだろう。その継続によって、 高尾における自然保護運動は、圏央道建設反 対の道具としてではなく、地域住民にとって 必然性があり、生活を守り維持していくのと 同様に重要であるということをいっそう明確 に示すことができる。その意味からいっても、 圏央道工事の行く末にかかわらず、未来をみ すえた地域住民の手による自然保護運動の展 開は重要な課題であるといえる。 【注】 1) 佐藤一子『NPO の教育力』東京大学出版会、 2004 年。 2) 鈴 木 敏 正『 教 育 学 を ひ ら く 』 青 木 書 店、 2003 年。 3) 鈴 木 敏 正『 自 己 教 育 の 論 理 』 筑 波 書 房、 1992 年。 4) カレン・E・ワトキンス、ビクトリア・J・マー シック(神田良他訳)『「学習する組織」をつ くる』日本能率協会マネジメントセンター、 1995 年。 5) パトリシア・クラントン『おとなの学びを 拓く』鳳書房、2005 年。 6) 日本社会教育学会編『成人の学習』東洋館 出版社、2004 年。 7) 酒井喜久子『命の山、高尾山』朝日ソノラマ、 1994 年。 8) 酒井喜久子『圏央道土地収用と闘った 20 年』 太陽出版、2004 年。 84 地域における自然体験学習を通したおとなの学び ―大宮のもり子どもネイチャーゲーム教室からみる一考察― 娜仁其木格 的な学習の時間や体験学習を奨励する国主導 第 1 章 はじめに の教育課程改革と一体となって、2002 年度 地域住民や子どもにとって、身近なところ で取り組みが可能な地域における自然体験学 から学校五日制が導入、開始された。同時に、 習は「持続可能な地域社会の未来」を展望し、 学校外における「子ども居場所推進事業」「放 その実現に向け「人―(人と自然の共生体と 課後地域こどもプラン推進事業」などの事業 しての)地域」の関係性 1) 構築の場として、 が文部科学省を中心に国の政策として展開さ いま、地域の自然・文化・人々を射程に入れ れている。そこでは、地域や子どもたちの抱 ながらひろく展開されようとしてきている。 える問題に対して放課後や週末に安全に、ま 地域における自然体験学習は、子どもの成長・ た安心して多様な体験活動ができる「子ども 発達の道筋を豊かに発展させていくことを主 の居場所づくり」がこころみられている。さて、 眼に、かつての自然のなかの集団遊びにつつ 地域の教育力の再生、回復というこの事業の みこまれていた豊かで多面的な教育価値に着 本来の趣旨を実現するためには、地域におい 眼した地域の教育力の再生・回復を 2) 今日的 て教育実践を支える多様な主体を形成する力、 な社会状況のなかで実現しようとする教育実 すなわち「おとなの学び」に着目する必要が 践のひとつといえる。 ある。 本研究では、このような「おとなの学び」 戦後日本において、地域社会の教育に関心 がよせられた時期は、1940 年代後半から 50 の視点から、「子どもの居場所づくり」の一環 年代初頭にかけて展開された地域教育計画 として行われている地域の自然体験学習実践 策定のこころみ 3) の時期と高度経済成長期の に注目しつつ、その実際を分析し克服すべき 1960 年代後半から 70 年代にかけてうきぼり 課題を探る。 にされた子どもの心と体の危機に抗して、農 村地域もつつみこんで各地で繰りひろげられ 第 2 章 研究方法 た地域教育運動の広範な展開の時期という、 1 調査対象 ふたつの時期であった。こられの時期をかい 本研究の調査対象としては、地域子ども教 くぐるなかで、学校をこえて地域社会に根ざ 室推進事業 東京都杉並区立大宮小学校「子ど す教育実践の可能性が探求され、「地域の教育 も居場所づくり」をとりあげる。まず、この 力」という概念が提起されてきた。こうした 事業の概要にふれておく。 歴史的な歩みを経た現代は、教育・子育てを 「子ども居場所推進事業」は平成 16 から めぐるその後のあらたな困難をひきおこす社 18(2004-6)年度の 3 年間にわたり、全国 1 会状況のもとで、あらためて地域の教育力に 万箇所以上で実施されたが、自治体を通して 対する関心が多彩な形で高まっている戦後第 補助金が交付されるケースのほかに、青少年 三の時期ととらえられる 4)。 団体が国から補助金を受けて実施するケース があった。 この時期の特徴として、学歴偏重社会の弊 害を是正するという考え方にたって、「生きる 杉並区では前者のケースとして、平成 18 年 力の育成」にむけて教育内容を削減し、総合 度は 16 箇所の小学校において、「子どもの居 85 場所づくり」事業が実施された。しかし、こ <表1>大宮のもり子どもネイチャーゲーム れとは別に自然体験活動推進協議会(CONE) 教室参加者数 と日本ネイチャーゲーム協会(JNGA)の連携 平 日(10 回)週 末(11 回)合 計(21 回) によって、直接実施されたのがこの「大宮の もり子どもネイチャーゲーム教室」である。 子ども 人数 5 2 73 125 平均 5.20 6.64 6.0 日本ネイチャーゲーム協会は全国 50 箇所 でこのような事業を実施したが、「大宮のもり 子どもネイチャーゲーム教室」は地域におけ 大人 人数 58 平均 5.27 る自然体験学習実践を自然体験活動団体と地 域住民、公立小学校、地元の神社、都立公園、 教育委員会、研究者など多様な実施主体間の パートナシップ(協働)によって進めていこ (d) 行事の内容 うとする研究事業として実施され注目される。 通常、ネイチャーゲームを中心に 2 ~ 3 アク 本事業は未来の日本を創る「心豊かでたく ティビティを行う。 ましい子ども」を社会全体で育むためという 「特別企画」 意欲的な目標をかかげている。杉並区では、 7 月 2 日は、大宮八幡宮の「乞巧殿」を鑑賞 子どもの居場所づくり杉並実行委員会の指導 1 月 21 日は、大宮小学校家庭科室で調理実習 性を支えにしながら事業を実施し、地域の教 2 月 24 日は、「みんなで歩こう会」に参加 育力を結集し、放課後や週末のスポーツ・文 化活動など様々な体験・遊びを通じて、地域 2 調査方法 との交流活動を促進することを目指し、子ど 「大宮のもり子どもネイチャーゲーム教室」 もとおとなを中心にした地域コミュニティづ に関わる多様な主体であるおとな、さらには くりを目標にしている。 子どもの意識の変化を把握するため、参与観 察、アンケート、ヒアリング調査を実施した。 (a)実施運営体制 この教室では、実践を支える役割を(ァ)プ 地域住民有志、自然体験活動実践研究会(事 ログラム指導を担当する指導者チーム、(ィ) 務局 東京農工大学環境教育研究室)、 会場の使用許可手続きや会計を担当する事務 日本ネイチャーゲーム協会(2006 年 11 月「大 局チーム(ゥ)募集チラシの作成配布や当日 宮のもり自然教室実行委員会」設立) の受付などを担当する運営チーム(ェ)実践 (b)開催状況 へ評価と助言を行う研究者チームの 4 つの役 2006 年 4 月 29 日、第 1 回開催。5 月 1 回、 割として分担した。調査者は、参与観察を有 6月以降は月 2 回開催を目安に実施し、全 21 効に進めるために、この 4 つのうち研究者チー 回開催。 ムはもとより、他のチームとも積極的な関わ (c) 平成 18 年度の事業実施結果 りをもつことに努めた。質問形式のアンケー 平成 18 年度は月 2 回(平日 10 回、週末 11 回) トは、毎回の行事の終了後に意識の変化を中 合計 21 回の事業を実施した。(<表1>) 心に実施した。ヒアリングは、数回にわたる スタッフの全体ミーティングによっただけで なく、実践に関った各関係者に対しても多面 的にその協力をえた。 86 第 3 章 調査に見る体験活動を通した子 ども・おとなの意識・行動の変容 3 ヒアリング結果 子ども・おとなの意識・行動の変容をたしか そこには、指導者・研究者・教育委員会担 めるために、以下、アンケートに記述された 当者・神社関係者から、次のような意見がよ 主な内容を示す。 せられ、前向きの評価とともに、今後の発展 1 子どもの変容 のために留意すべきいくつかの問題点も指摘 保護者のアンケートから見る変容 されていて注目される。 ・友達との遊び方のバリエーションが広がっ 指導者チームのスタッフの声 ているようです。(MT さん) ・自然に出て遊ぶことの大切さを感じてもらっ ・昆虫図鑑でやたら調べたり、採集したがる。 ているよう。 土さえあればほじくる。(S さん) ・子どもと思い切り遊ぶことを楽しんでいる ・家・公園で家族だけで遊ぶよりも活き活き よう。しかしまだ「子どもの付き添いで来た」 していました。(FA さん) という感覚の保護者が多いように感じる。 ・特に変化は分かりませんが、いつも参加す ・運営面での協力など、できることからはじ るのを楽しみにしています。(MY さん ) めていることは評価できる。今後、この状 ・集団生活が少しずつできるようになればと 態を継続し、「スタッフにおまかせ」状態に 思います。(KT さん) ならないことが重要だと感じる。 ・興味がある点は集中していましたが、人の 運営者チームに参加した地域住民の声 話をきちっと聞くところがまだまだです。長 ・「出られる範囲で出て、できる範囲で協力す い目でみたいと思います。(TA さん) るという形でよければ…」と、仕事を持っ ・目が輝いていた。集中力が身についていた。 ている保護者が多く、運営に積極的に関わ 料理がこんなに好きであることをわかりまし る余裕はあまりないように感じられる。 た。(NA さん) 事務局チームに参加した大学院生の声 これらの回答からは、目に見えて感じられ ・一年の流れを「こうしよう」「こうすればこ るほどの大きな変化はあまりないように見え うなる」という仮説をたてないできてしまっ る。しかし、「変化」と聞かれたときに「自然 た。「子どもと自然のつながり」というので との関係性」よりも「集団の中での行動」や「成 あれば、それに即した評価の方法があった 長」に注目する保護者が多いようであり、子 のではないか。(MT さん) どもの成長・発達にかけるおとなの期待の大 研究者チームの助言評価会議で出た意見 きさがそれなりにうかがうことができるので ・「子どもの変化」という意味では評価は難し はないか。 い。(FU さん) ・今回のまとめに書いた程度の評価はできて 2 保護者アンケートから見る地域・保護者の も、地域の自然と子どもたちの関係がどう 変化 発展していくのかがみえない。 ・自然の中で活動するよさを味わっている。 (木 ・活動に関して、「ネイチャーゲームが楽しい の声を聞くなども良かった)(NA さん) から」 「リーダーに会えるから」 「遊べるから」 ・よりリフレッシュになる。(MY さん ) とかいろいろ考えられる。 ・自然とふれあう遊びはいままであまり経験 教育委員会の担当者の声 がなかったので、今日参加してみて楽しさに ・地域において「子どもの居場所」事業は子 きがつきました。(MY さん ) どもと大人の地域コミュニティであります 87 ので継続的に運営できることが望ましい、 びである「自己教育主体形成」(5)の学習に 継続的に運営できている団体に対して、優 きわめて大きな意味を持っているといえる。 先的に支援する。 大宮八幡宮の担当者の声 第 5 章 おわりに ・地元の子どもたちに地域の文化を知っても 「大宮のもり子どもネイチャーゲーム教室」 らい、理解させるため、できる範囲のこと に関わる多様な主体間のパートナシップ(協 であれば是非協力します。 働)をいっそう豊かにしていくため、定期的 に打ち合わせを実施し、地域に住むおとなの 存在意義と新たな人材の発掘を推進する必要 第 4 章 実践における課題と新たな発展 今研究では、かつての地域のおとな・親・ がある。 子ども・指導者が一体になっての集団遊びの 調査方法に関していえば、アンケート実施 組織化が現在大きく変容してきていて、おと 調査とヒアリング調査の対象者数を増やす形 な、親が参加しない委託形が多くなり、子ど で量的調査を行い、その結果を踏まえて質的 もたちの集団は小グループ化し、野外にいて 分析をすること。 も興味の範囲が自分を中心に狭い範囲にとど 活動に参加している親たちとともに、事業 まっていることが、あらためて明らかになっ の総体に関してより開かれた意見の交換の場 た。人間関係の多様性、活動の多様性を広け (ふりかえる会)を組織することが求められる。 るためにはおとなの介在は不可欠である。学 地域の自然に関する情報をさらに正しくとら 習の主体、活動対象である子どもの実態と変 えなければならず、「大宮のもり」の自然につ 化を踏まえながら、様子に対して、 「心がける」、 いていっそう掘り下げた自然観察会を行い、 「心にとめる」というように、心を使って子ど 「もり」のうちに秘められた教育力をたしかな もを見守るおとなの自然体験活動への参加を 形で把握することが必要である。 通して、おとなが自分自身の変化に気づくこ とはもっとも重要ではないかと思われる。 このような地域や子どもたちの抱える問題 【注】 に対して、放課後や週末に安全で安心なネイ 1)降旗信一『新しい環境教育の実践』 (共著) チャーゲームや自然体験活動を通して自然と 2005 年、高文堂出版社。 遊び、自然から学ぶことのできる「地域子ど 2)この時点で、千野陽一は自然の遊びの内包 もネイチャーゲーム教室」は、子どもの成長・ する教育的価値を、次のように捉えていた。 「子 発達をよりいっそう促すため、きわめて重要 どもたちは異年齢集団によって行う自然の遊 な意義を持つ。それだけではない。この「子 びの中で、してはいけないこと、しなければ ども居場所」事業に関わること(活動に参加 ならないことのけじめを自然に学びとってき すること)を通して、地域の人々がおとな(親) た。仲間同士の協力の大切さ、すばらしさを 同士の信頼関係をつくりあげてゆく。このお 知りながら、社会性をいつの間にか身につけ 互いの信頼関係を基盤として、参加者が自ら ていったものであった。また、体を鍛え、手 参加・体験して共同でなにかを学びあったり 先の器用さを養い、ものごとに対するみずみ 創りだしたりする学びと創造というこの学習 ずしい感覚的な認識、理性的な認識を自らの 形態は、地域に暮らす人びとが自らに必要な ものにしていったものであった」 (千野陽一『よ ものを新たに協同して創造していく過程でも みがえる子供たちー地域に根ざす教育』1981 ある。こうした学習過程はおとな(親)の学 年、家の光協会)。 88 3)「本郷プラン」とも呼ばれたこの時期におけ ・子どもの居場所づくり杉並実行委員会事務 る大田堯の地域教育計画はよく知られている 局―地域子ども教室 推進事業『子どもの居場 だけでなく、他の地域教育計画づくりにも大 所づくり』2006 年 きな影響を及ぼしている。太田の地域計画論 については、次の文献を参照されたい。大田 堯『地域社会と教育』1949 年、金子書房、同『地 域教育計画』1949 年、福村書店。のちに大 田は、地域教育計画論の問題点と当時におけ る限界性について自らふれていく(大田堯「地 域の教育計画」、『岩波講座 教育』第 4 卷、 1952 年、岩波書店)。 4)佐藤一子『子どもが育つ地域社会―学校 五日制と大人・子どもの共同』2002 年、東 京大学出版会。そこでは、とりわけ「Ⅱ章 地域の教育力をどうとらえなおすか」及び「Ⅲ 章 地域社会における子どもの居場所づくり」 が参考になる。 5)大人の学習過程における主体的な力量を形 成することにあたって、自己教育活動過程の 最終段階として、「①…地域住民が自らの自己 教育・活動を総括し、これから何のため何を どのように学習・教育していくのかを計画す る ‘自己教育主体の形成’ の学習である。②自 己教育とは学習者自身の日常的な生活や意識 を反省的に捉え見直す ‘自己意識化の学習’ で ある。」朝岡幸彦編著『新しい環境教育の実践』 (「こどもとおとなのための環境教育」シリー ズ1)2005 年、高文堂出版社。 ・千野陽一著『よみがえる子供たちー地域に 根ざす教育』1976 年、家の光協会 ・佐藤一子編著『子どもが育つ地域社会―学 校 五 日 制 と 大 人・ 子 ど も の 共 同 』2002 年、 東京大学出版会 ・朝岡幸彦編著『新しい環境教育の実践』(「こ どもとおとなのための環境教育」シリーズ1) 2005 年、高文堂出版社 ・降旗信一・朝岡幸彦編著『自然体験学習論』 (「こどもとおとなのための環境教育」シリー ズ1)2006 年、高文堂出版社 89 開発反対運動に内在する「環境教育者」の必要性 -川辺川ダム問題における開発反対運動を事例にー 楠野 晋一 第 1 章 はじめに 開発計画(旧全総)、1969 年の第二次全国総 今日の環境教育は、1997 年のテサロニキ 合開発計画(新全総)、1977 年の第三次全国 宣言において「持続可能という概念は、環境 総合開発計画、1987 年の第四次全国総合開 だけでなく、貧困、健康、食料の確保、民主 発計画という経緯をたどる。特に、ここでは 主義、人権、平和をも含む」とし「環境教育 特定地域総合開発計画から新全総の地域開発 を持続可能性のための教育としてもかまわな についてみる。 い」との提起や、2003 年の国連による「持 1950 年の特定地域総合開発計画は、戦後 続可能な開発のための教育(ESD)」を受けて 復興における食糧増産とエネルギー確保の資 1) 「概念の拡張 」がなされたことにより、新た 源開発であった。それは、多目的ダムを中心 な展開が求められている。 とする電源開発、農産物増産、治山治水など 環境教育において「持続可能な開発」がど の河川総合開発となってあらわれた。旧全総 のようなものであるかを考えた時に、日本に は、拠点開発方式と呼ばれ、拠点都市に主要 おいては戦後の経済成長優先の全国総合開発 産業となる素材供給型重化学工場を建設し、 計画推進下の開発反対運動における環境教育・ その経済的効果を周辺地域に期待し、住民福 学習で開発の問題が取り上げられてきたよう 祉を向上させようとするものであった。また、 に思われる。そのため、ここでは開発反対運 新全総は、青森県のむつ小川原と九州大隈半 動において取り組まれた環境教育・学習に注 島の志布志湾岸の開発計画に見るように、そ 目する。そこでは、どのように学習が展開さ れまでに比べて国土管理のネットワークづく れたのであろうか。本小論では、開発反対運 りに基づいた中央主導型の巨大プロジェクト 動に内在する環境教育・学習が展開する要因 であった。 以上のような開発は、宮本によれば「地方 を学習の重要性を意識し、援助・組織する役 自治体の産業基盤の公共投資を集中させるが、 割に求め、その必要性について考察する。 工場の誘致に失敗し、利益をその地域にもた 第 2 章 開発反対運動に内在する環境教 育・学習 らすことはなく、自治体を財政危機に直面さ 1����������� 地域開発問題とはなにか 開発、エネルギー基地誘致に再び動き、さら せる。そのため自治体は補助金の陳情、観光 「持続可能な開発」が求められているとする なる自治体の危機を迎えることとなる 2)」。ま と、それはどのような開発であろうか。戦後 た、 「誘致された場合でも、公害被害の発生や、 日本の地域開発に注目すると、宮本憲一『環 地場産業との関連不足による地元の経済基盤 境と開発』(1992)や国民教育研究所『地域 のゆがみにより、結局自治体の危機 3) をもた 開発と教育の論理』(1985)にまとめられて らした」と述べている。このような地域開発 いる。それらに学びつつ地域開発について概 では、生産された利潤は東京など中央の本社 観する。 に集約され、その地域での産業は活性化すさ 地域開発は、1950 年の特定地域総合開発 れない。宮本はこれを外から入ってくる大企 計画にはじまり、1962 年の第一次全国総合 業や公共事業が地域の開発をおこなうので「外 90 来型開発方式 4)」ととらえた。 かにされた 10)。 すなわち、日本でおこなわれてきた「高度 また、新全総下における研究では、むつ小 経済成長下の開発の推進は生産第一主義であ 川原や志布志湾の開発問題にみるように住民 って地域に住む人間が軽視されてきた 5)」も が自らの手によって 60 年代の環境教育・学 のであった。そのため、「開発それ自体は本来 習を深化させ、地域開発に大きな影響を与え 住民の要求と住民の主体的な意思によって実 るものとなった 11)。 現すべきものであったはずである 6)」「生活の 残念ながら、80 年代以降は開発反対運動の 場 」をふまえた地域開発とはならなかった。 後退にともない、そこでの住民による環境教 7) では、「外来型開発」としてではなく「生活 育・学習は継承されず、衰退していく。 の場」から考える地域開発をその地域に暮ら し か し、90 年 代 に 入 る と、1995 年 の 阪 す住民はどのように考えたのであろうか。次 神淡路大震災を契機とするボランティア活動 節では、「外来型開発」にたいする開発反対運 の活発化や 1998 年の NPO 法成立や国際的 動に内在する環境教育・学習についての検討 な NGO 活動の影響による日本国内の NPO・ からそのありようを探る。 NGO などの活動の活発化の影響をうけ開発反 対運動はその姿をかえ新たな展開をみせる。 2 開発反対運動における環境教育の歴史的 なかでも、1996 年に日本で初めて住民投票 検討 をおこなった巻町原発建設問題の事例からは、 前節でみたように戦後日本の地域開発は、 これまでの公害教育の開発反対運動に内在す 「外来型開発」であったと考えることができる。 る環境教育・学習の蓄積を継承し、深化させ これに対し地域住民は、自分たちの生活を守 たものをみることができる。 るために開発反対運動をおこなった。その中 では、住民自身による環境教育・学習が取り 第 2 章 環境教育・学習を組織する「環 境教育者」 組まれていた。 開発反対運動における環境教育・学習に関 1 沼津・三島コンビナート建設問題の場合 する研究は、旧全総下の 60 年代における四 前章でみたように、開発反対運動における 日市市の研究、水俣研究や三島・沼津コンビ 環境教育・学習では、住民自身によってカリ ナート問題に関する研究、70 年代の新全総下 キュラムが創り出され、相互教育のための教 の地域住民運動や、90 年代の巻町の原発建設 材が作成されていた。では、このようなカリ 計画問題などがあげられる。 キュラムを住民自身がつくるためには、学習 四日市のコンビナート問題における研究は の重要性を意識して、学習を援助・組織する 教師たちによるカリキュラムや教材づくりに 役割の存在が必要であった。以下では開発計 より「公害の現実と真実 」をあきらかにし、 画を地域の住民の手によって阻止した沼津・ 水俣研究においては住民学習が住民の「人権」 三島コンビナート建設問題と巻原発開発反対 を目覚めさせるうえで大きな役割を果たした 運動の事例を取り上げて、その学習を援助・ ことが明らかにされた 。また、三島・沼津 組織する役割の必要性について考える。 8) 9) コンビナートにおける研究では、視察学習、 沼津・三島コンビナート建設問題について 風向調査、海流調査など住民による主体的・ 考えた場合に、宮原 12) は「この反対運動は、 集団的な学習活動の展開を通して、予想され 中央・地方の権力によって支持された大資本 るコンビナート被害を明らかにし、公害を予 の地方進出計画を住民の団結によって食い止 防的に阻止する大きな力となったことが明ら め、廃棄させることに成功した画期的なもの 91 である」とし、「公害発生の有無をめぐる調査 油化学、発電工学、水理学、気象学、医学、 と調査のたたかい」と開発反対運動を評価し 経済学など多方面に及び」、住民は「開発に関 ている。また、ここに「科学的真実を住民み する知的なレベルを大いに上げた」としてい ずからが追究する」学習運動があり、その中 る。また、このことは講師たちも同じである 心部にいた高校教師の存在に注目している。 と述べている。 教師は「教会、寺院、神社、公民館、洋裁学 さらに、環境教育の提言の一つで「教育者 校の教室、民家などを会場にして、5 ~ 6 人 は被教育者の地域の自然環境はもちろん風土 の集まりから数十人の集まりにいたるまで、 性にも十分通じていることが重要である。こ 数百回の学習会に」参加した。この高校教師は、 れを避けたり無視したりすれば、教育効果は 「気象学、工業化学とくに石油、工業地質とく 不徹底になるばかりではく、大きな過ちを生 に水資源、燃料の専門家」であり、「それぞれ ずるであろう」と教育者の学習者にたいする が専門家の立場から科学的に測定しうること 深い理解の重要性を述べている。 がらの資料について解説することだけをやっ また、藤岡 15) は沼津・三島について「住民 た」としている。 の生活と権利の要求を系統的・総合的に組織 また、福島達夫 13) は教師の役割について「日 化し、民衆にとって学習は必要不可欠であり、 本の環境行政の誕生をもたらした住民運動を 住民運動ほど学習にささえられてきた民衆運 ささえたのは、とくに高校教師の科学的力量 動は例を見ない」とみている。そして「単に であった」と評価している。教師が「地域住 政治・経済的側面の権利要求につての権利的 民の科学要求に応える」ことで、「地域の住民 側面や意識化だけにとどまらず、主権者とし は教師の科学に導かれ、科学を身につけた」 ての地域住民意識を育てる教育運動となって、 としている。また、「教師たちは、環境を調査 政治主体形成の意義を担いはじめ」、「住民運 した教師だけではなく、市民の短歌やレコー 動は必然に学習の契機を内にふくんでおり、 ド・コンサートの解説をするなど、さまざま 学習の独自の価値と役割を不可欠のものとし な地域の文化運動に参加する教師がたくさん ている」とまとめている。 いた」ことから、教師が日頃から地域の住民 また、開発反対運動における学習過程を、 と交流をもっていたことがわかる。これは、 藤岡は「①公害・開発の諸現象が無数に集め 単に教師が専門的な知識を教授したり住民の られ、学習の教材となる。②現象は、視聴覚 学習の要求に応えたりするだけではなく、日 的に分類整理され、典型化される(スライド、 頃の地域住民とのコミュニケーションが大切 写真、グラフ、図示など)。③教材は専門家に であることがわかる。さらに教師たちは、「同 よって解説され、他の諸地域の諸現象と対照 じ高校の先生たちと学習したり、医師や研究 させられる。④他地域へでかけ、現地と交流し、 者や工場の技術者に会って教えてもらったり、 帰ってよりいっそう深い調査データの集積が 自分で実際に調べたり」している。 はじめられる。(既存公害の再発見)⑤他地域 また、西岡 14) は学習において「大集会に発 との交流などによって学習の必要が自覚され、 展するまえには、小規模学習会が数百回も各 学習プロジェクトが、自然・社会・運動の三 地でひらかれ」、「住民がお互いに知恵を出し つの科学の総合的探求を必要とするものであ 合いながら行なった住民学習会」であり、「学 ることが発見される。⑥地域住民とってもっ 習会の講師になったのが、医師、ジャーナリ とも身近な政治組織である自治体の役割を問 スト、議員、そして私たち教師だった」とし い直す学習の必要が自覚される」としている。 ている。学習会において、住民の学習は「石 92 ていたのである 17)。さらに、ここでは一人の 2 巻町原発建設計画問題の場合 巻町では、1996 年に日本ではじめての住 カリスマ的な存在が学習を援助したのではな 民投票がおこなわれた。そこでは、これまで く、多様な存在が学習を援助したのだと考え の開発反対運動に内在する環境教育・学習を ることができる。 巻町の開発反対運動における環境教育・学 引き継いだものであった。 1996 年に日本初の住民投票が巻町の原発 習を城取卓馬 19) は「原発学習として、公害教 建設計画問題についておこなわれた。きっか 育の延長線上としての学習であり、公害教育 けは、94 年の「巻原発・住民投票を実行する会」 を批判的に再編成し、地域の課題にたいして の誕生である。この会の動きと他の原発反対 アンチテーゼをなげかけるものである」とま 6 団体が団結し、「住民投票で巻原発を止める とめている。そのうえで、住民は「客観的に 連絡会」が結成された。これらの動きは、95 認識がなされ、環境問題としての原発問題を 年に「巻原発住民投票条例」を可決・成立させ、 知る学びと地域問題について地域を知る学び 96 年には「実行する会」から町長がうまれる。 の主体的統一がなされ、他者に働きかける主 これにより、96 年 8 月 4 日に住民投票が開 体性」を獲得していくとまとめている。 催され、住民は原発を建設しないことを自ら 以上のように、沼津・三島コンビナート問 の意思として表明した。 題における開発反対運動おいては教師が、巻 この開発反対運動を鈴木賢次 16) は、「住民 町の開発反対運動においては多様な専門家が が自ら考え、自分たちの行動を展開していく 学習を援助・組織する役割をはたしたと考え ことが大切」であるとし、それは「参加した ることができるであろう。そこで、以下では 住民がそれぞれ自分の思いをマイクを握って 川辺川ダム問題の開発反対運動における環境 話し、住民として住民にはなしかける」こと 教育・学習を援助・組織する役割について考 や、主婦や看護婦(士)たちが中心となり自 察する。 分たちの問題としている。そして、住民だれ でもが参加しやすいということを運動の中に みることができるとしている。これはまさに、 第3章 川辺川ダム計画にたいする開 発反対運動と住民の学習 巻町の開発反対運動において住民同士の学習 1 川辺川ダム問題と開発反対運動の展開段階 がおこなわれていたと考えることができる。 川辺川ダムの開発反対運動を筆者は、4 つ このような巻町の学習においては、沼津・ の時期に区分し整理することをこころみる。 三島コンビナート問題でみたように教師がそ 第 1 期は、1960 年代半ば~ 70 年代におけ の役割を担っていたのにたいし、「町に生活 る五木村の開発反対運動の高揚と衰退の時期 する工業技術、福祉、まちづくりの研究者や である。1966 年に川辺川ダム建設計画が公 専門家が住民の学びを援助していたのである 告されると、建設予定地である五木村の住民 17) 」。そして、「地域に暮らす専門家の学習援 はダム計画への反対運動を起こした。反対運 助を支えとして、原発問題と地域問題を統一 動の中心になったのは五木村の村議会である。 的にとらえる学習実践の積み重ねが重要であ 議会は川辺川ダム計画発表段階で反対決議を る 18)」となっている。 表明し、計画公告時には村をあげて裁判に立 ち上がった。 つまり、開発反対運動における住民の学習 しかし、ダム建設による雇用の産出や補償 を援助・組織する者は、教師だけではなく、 巻町に暮らす工業技術、福祉・まちづくりの 金への期待により開発反対運動の統一が困難 研究者や専門家が住民の学びを援助・組織し になっていたことや他の自治体の推進表明に 93 よって五木村は孤立し、運動はしだに衰退し 住民団体は、農家、漁業者、弁護士との連 ていった。また、1979 年 3 月 27 日の熊本地 携をはかり、大きなネットワークを形成する 方裁判所の判決は、「ダムが出来ても直ちに水 にいたる。住民団体は他県との交流、連帯を 没するわけではなく土地を強制収容された段 持った。諫早湾干拓問題や長良川河口堰、水 階で法律上争う手段がある」とし、ダム計画 俣の問題に取り組んでいる住民団体との交流 自体の差し止めを認めなかった。こうした中 は、全国的な連携へと発展した。 で、五木村のダム開発反対運動は条件闘争に 1996 年には、原告農家 886 人が農水省を 変わり、運動の中心は球磨川下流域に移って 相手に利水訴訟を熊本地裁に提訴した。しか いった。 し、2000 年 9 月に熊本地裁は利水事業への 第 2 期は、1980 年代における開発反対運 3 分の 2 以上の同意があったとし、農家の訴 動の停滞期である。1980 年代は球磨川流域 えを退ける結果になった。 最大の都市である人吉市でダム計画への反対 第 4 期 は 2001 年 ~ 2007 年 現 在 で あ る。 運動が起きた。川辺川ダムは球磨川下りなど この時期、住民団体の運動の高揚を背景に に支障をきたすとして人吉市議会を中心に、 2001 年 12 月に「住民討論集会」が発足する。 人吉市において観光業・商業者が計画見直し 「住民討論集会」は、熊本県を仲介とした開 を求める運動を起こし、全市的な署名運動が 発側・住民側双方の合意形成と住民の学習の 行われた。 場として、2003 年まで 9 回開催されていた。 しかし、ダム推進派の「川辺川ダム建設促 この集会の展開過程は以下のように整理でき 進協議会」が建設業界の強い支持のもと強硬 る。 に推進の立場をとったため、運動は困難に直 第 1 回~第 3 回住民討論集会においては、 面した。また、観光や農業といった主要な基 議題が治水問題に焦点化されたことをめぐっ 幹産業が、高齢化・過疎化などの問題を抱え て、住民側は利水、内水域及び海水域の環境、 ていたため、開発側の雇用機会の創出・消費 地域振興等の総合的議論を主張した。また「基 拡大などの宣伝はダム建設(派)を後押しした。 本高水流量」の算出方法をめぐって対立する 開発反対運動は困難を極め、開発反対運動は など議論が混乱し、討論の成立そのものが困 10 年間停滞を余儀なくされる。 難に直面した。第 4 回~第 8 回住民討論集会 第 3 期は 1990 年~ 2000 年までの開発反 においては、討論を通じて住民側が強く要求 対運動の展開期である。1990 年代になると した情報開示が徐々に実現し、公表されたデ ダム建設の下流への影響が明らかになるにつ ータに沿って議論を深めることが可能となっ れて 1993 年 12 月に「清流球磨川・川辺川 た。第 9 回の住民討論集会においては、開発 を未来に手渡す会」の発足を契機に多くの開 側住民の双方が、これまでの議論の蓄積をふ 発・環境運動の団体が相次いで結成された。 まえ森林保水力に関して共同検証を実施する 1996 年には八代市を中心とした住民団体で にいたった。この段階において、本来あるべ ある「美しい球磨川を守る市民の会」、熊本市 き住民参加に基づく公共事業における意思決 を中心とした全県的な組織である「子守唄の 定のあり方とその実現可能性が示唆されるに 里・五木を育む清流川辺川を守る県民の会」 至っている。 が発足した。球磨川流域を中心に 50 以上も また、住民運動は利水訴訟において、2001 の住民団体が結成された。これらの住民団体 年に川辺川利水訴訟の活動として住民団体が は相互に連携し、ダム計画に対抗する重要な 「アタック 2001」という人吉・球磨川の受益 役割を果たした。 農家の聞き取りを行い、国の主張する同意取 94 得数の検証を行った。この聞き取りにより、 の連携により、広範な学習ネットワークが形 住民団体は国側が示す同意書の中に亡くなっ 成されるようになった。 た受益者を人数に入れたものだけでなく、他 第 4 に、2001 年からはじまった「住民討 の者が代筆したものが発見され、同意取得の 論集会」は、公共事業における合意形成の場 問題点を発見した。これにより、用・排水と である。ここでは 2001 ~ 2003 まで 9 回開 区画整理の 2 つの事業は、受益者の 3 分の 2 催されている。そこでは、以下のような展開 の同意が必要であるという要件を満たしてい 過程を見せる。(図③挿入) ない違法性を明らかにした。この事実は判決 はじめに、論点混乱期(第 1 回~第 3 回) に大きく影響し、その後、2003 年 5 月 31 日 が考えられる。「住民討論集会」は、川辺川研 に福岡高裁判決では原告農民側が逆転勝訴し、 究会の治水に関する代替案報告をきっかけと 国の敗訴が確定した。 して開催される。当初は、議論において感情 近年では、この判決をうけ農水省が新利水 的になり集会が成り立たない状況になる一面 計画を立ち上げ、2006 年から河川整備基本 や、双方の主張がかみ合わない並行状態が続 方針策定検討小委員会が開催される。しかし、 いた。このため議論が次回の討論集会に持ち 同年にはダム計画受益地の相良村が川辺川ダ 込まれるということがたびたびみられた。し ム以外の治水を宣言する。また、12 月には相 かし、会を重ねるにつれて論点が治水に絞ら 良村で「この川にはダムは似合わない」2300 れ議論が進展を見せるようになる。 人住民集会が開催された。 次に、論点共有期(第 4 回~第 8 回)が考 えられる。4 回~ 8 回では、「治水」、「環境」 2 川辺川ダム問題における環境教育・学習の をテーマとし、徐々に議論が展開されていく。 展開 住民は、国交省に対してデータ開示を要求し、 ここでは、以上のような川辺川ダム問題の 開示されたデータにより住民側の主張を理論 開発反対運動における環境教育・学習の展開 化していく。更なるデータ開示を求めていく 過程を考察する。 ことにより、反対側と推進側の論点の共有が 第 1 に、1960 年代半ば、川辺川ダム建設 なされ、議論が深化したと考えられる。 計画策定当初からの五木村におけるダム反対 最後に、総括・共同検証期(第 9 回)が考 運動と 1980 年代の人吉市での住民運動が停 えられる。9 回目は、「治水」・「環境」の議論 滞している時期に共通して見られる特徴とし の総括がおこなわれた。「基本高水流量」を定 て、環境学習が個別・非系統的に展開されて める上で重要な要素となる「森林の保水力」 いったことが挙げられる。 について、開発側と住民の双方が共同検証を 第 2 に、1993 年、住民によって「清流球 実施するにいたる。この段階では、本来ある 磨川・川辺川を未来に手渡す会」、「地元住民 べき住民参加に基づく公共事業における意思 の会」、「流域の会」がつくられた。これらの 決定のあり方とその実現への可能性が見出さ 組織は住民・農家・弁護士とともに学習活動 れている。 を行い、相互の連携を進展させていったこと 以上のような「住民討論集会」では、①住 が考えられる。 民同士での学習、②「住民討論集会」での学 第 3 に、1996 年以降、住民の環境運動は 習がおこなわれたと考えられる。 全県的な展開をみせるようになった。「子守唄 住民同士での学習では、「住民討論集会」に の里・五木村を育む清流川辺川を守る県民の 向けて「治水班」、「環境班」という研究会が 会」が発足する。また、福岡、東京や諌早と もうけられた。そこでは、専門家、利水訴訟 95 原告団、各住民団体の方々が集まり、データ 年からの利水訴訟をとおして、農家と川辺川 の分析や理論構築がなされる。 ダム問題について皆で考え合い、互いの情報 「住民討論集会」では、住民と開発側の議論 を交換し、交流をはかっていく。 における住民の学習過程がみてとれる。そこ また、人吉より下流の八代に在住の T 氏は、 では、住民がデータ開示を請求し、開発側の 自然観察会の参加を通じて川辺川の環境に興 理論について批判的検討をおこない、公開さ 味をもち、自然環境の調査をする。しかし、 れたデータや現地調査をもとにさらなる住民 この時は川辺川の自然環境ついての調査にと の論理を形成しているのである。これにより、 どまっている。 住民討論集会の議論はおおきな発展をとげた。 T 氏は、自然環境の調査をおこなうなかで また、以上の住民の学習の深化は、住民自身 本格的に川辺川ダム問題と関連した自然環境 による川辺川・球磨川水系における総合治水 の調査をおこなう。T 氏は観察会を通して、 プランの作成にも発展している。 川辺川の水生昆虫、クマタカ、アユの調査を おこなっていく。それも、調査は調査対象の 個体を認識するというレベルではなく、個体 3 学習を援助・組織する地域住民 1990 年代以降住民の環境教育・学習が発 の営み、餌場、住みか、子育てなどの総合的 展する時期において、環境教育・学習の重要 な調査のレベルでおこなった。例えば、T 氏 性を意識し、学習を援助・組織する地域住民 はクマタカの調査を 97 年から 99 年までおこ の K 氏と T 氏に注目し考察する。 なう。この調査は、初め自然保護協会の人に 人吉市に昔から住む K 氏は、川とともに生 調査方法を学んだ後、調査グループを立ち上 活することによって、川とどのように生活す げて調査を進めていく。99 年には市民初の報 るかについて経験を通して学ぶ。この生活経 告書を創りだす。また、アユの調査においても、 験を通しての学びは、洪水時の増水量の変化 球磨川流域と川辺川流域のアユの総合的な調 にたいする予測や、川を遊び場とすることや、 査をおこなった。 川を交通機関のひとつと考えることが上げら このように、K 氏、T 氏ともに住民同士の れる。 学習の中で専門的な力量が形成され、それに しかし、1960 年に球磨川の上流に市房ダ よって地域と環境問題を認識する環境教育の ムが建設されるとダムによる洪水時の川の急 重要性を意識する。これについて、ここでは 激な増水や河川の自然環境の急激な悪化に直 2001 年から県が仲立ちとなり、住民と行政 面する。この時期からこれまで生活の経験を が川辺川ダム問題について議論した「住民討 通した学びが通用しなくなる。これにたいし、 論集会」について注目しながらみていく。 K 氏は問題の所在をダムの影響によるものだ 2001 年に住民側から川辺川ダム建設計画 と考えるようになる。 にたいする代替案がきっかとなり、同年「住 人吉在住の K 氏は、1993 年に「手渡す会」 民討論集会」が開催される。この集会において、 が発足されると、新聞記者などの資料をもと 住民は自ら研究者と協同して研究会をつくる。 に会のメンバー同士でダム問題について学習 その研究会は、「住民討論集会」に対応して、 をする。これにより、ダム問題に対する自分 治水について考える「治水班」と環境につい の考えを深めていく。また、他の住民にも川 て考える「環境班」を設立する。 辺川ダム問題を知ってもらうために新聞記者 T 氏と K 氏もこの「治水班」、「環境班」に の資料をもとに「再考川辺川ダム」という独 参加し、研究者とともに「住民討論集会」に 自の資料をつくり出す。その後、K 氏は 1996 むけて研究し、集会のために資料をつくる。 96 そこでは、まず研究者が専門的な資料を作成 187 し、住民が集会にむけて分かり易い資料につ 3)同上p 187 くりかえていく。また、 「住民討論集会」では、 4)同上p 192 行政側からの情報公開を要求し、公開された 5)国民教育研究所『地域開発と教育の論理』 データをくわしく分析し、次の集会に住民の 大明堂 1985 p 11 理論を前回より深化させ発表する。また、行 6)同上 p11 政側の言い分を批判的に検討する。 7)同上p 11 このように T 氏と K 氏は、「住民討論集会」 8)福島達夫『環境教育の成立と発展』国土 にむけての研究会をつくり、参加する研究者 社 1993 p 29 と他の住民とともに学習を深化させる。また、 9)同上 そこで作成された資料は、ダム反対の住民の 10)同上 例えば、文化際において「コンビ 学習を深化させるだけでなく、ダム推進派の ナート関係の予定地の風景と生産の様子を克 人々やダム問題に関心がない人々にダム問題 明に撮影」した資料や、手づくりの牛ビンに について学習する契機をあたえた。さらに、T よる海流調査の成果報告や、「コンビナート計 氏は、現地の住民、科学者、弁護士、政治家 画の紹介、排気ガス、工業用水、排水などの をつなぎ、学習を援助・組織する役割もはた 解説資料」を展示した。「この文化祭に地域の すことがみてとれる。 人が多く訪れ見学」し、「住民と教師が結びつ いた」としている。 第 4 章 まとめ 11)国民教育研究所『地域開発と教育の論理』 開発反対運動に内在する環境教育・学習に 大明堂 1985 p 11 おいては、学習を援助・組織する役割が必要 12) 宮 原 誠 一『 青 年 期 の 教 育 』 岩 波 新 書 であり、それは学習の援助・支援者としての 1966 教師や専門家の役割であった。しかし、川辺 13)福島達夫『環境教育の成立と発展』国土 川ダム建設問題おいては、地域住民が住民運 社 1993 動の中で学習者から専門性を獲得し、環境教 14)福島要一『環境教育の理論と実践』あゆ 育の重要性を認識して、学習を援助・組織し み出版 1985 ていく役割をはたす。学習を意識して援助・ 15)藤岡貞彦『社会教育実践と民衆意識』、 組織する役割は、教師や地域に暮らす専門家 国民教育研究所『地域開発と教育の論理』大 だけでなく、地域に暮らす住民にもみること 明堂 ができる。このように開発反対運動における 16)鈴木賢次「月刊社会教育」1996 10 � 月 住民の学習には、これを援助・組織する者の 号 必要性が考えられる。ここでは、この役割を 17)城取卓馬「原発立地過程における住民の もつ者を「環境教育者」となづけたい。今後は、 原発学習に関する研究~新潟県巻町を事例に」 「環境教育者」の独自性を追及することを課題 2002 p 253 としたい。 18)同上p 253 19)城取卓馬「原発立地過程における住民の 【注】 原発学習に関する研究~新潟県巻町を事例に」 1)朝岡幸彦編『新しい環境教育の実践』高 2002 文堂出版社 2005 p 14 2)宮本憲一『環境と開発』岩波新書 1992 p 97 持続可能な社会のための教育における NPO の役割と課題 - NPO 法人 ECOPLUS を事例として- 須賀 貴子 第 1 章 はじめに 第 2 章�������������� 持続可能な開発のための教育 現在の複雑化した「環境問題」は、途上国 1����������� 持続可能な開発の概念 の主張 1) のように経済・社会・政治といった 「持続可能な開発」の言葉の起源は 1980 年 人間の諸活動と深く結びついていると考えら の『世界自然保護戦略』(IUCN)と言われて れ、従来の自然体験学習や自然科学的な環境 いる 4)。ここでは、主に生態学的な持続可能 教育だけでは解決できないと考えられている。 性が求められていたとともに、発展途上国の そこで筆者は、現在の環境問題を解決に導く 貧困、開発、環境が相互に関係し合い、環境 視点のひとつとして、より幅広い視野と多角 問題が社会的・政治的・経済的要因と切り離 的な視点で環境問題に取り組む「持続可能な せないことということが明らかとなった。そ 開発のための教育」に注目した。 の後、1987 年の環境と開発に関する世界委 「国連持続可能な開発のための教育の 10 年」 員会でのブルントラント報告書において、持 (UNDESD)が日本政府と NGO によって国連 続可能な開発とは「現在の世代の要求を満た 環境開発サミット(ヨハネスブルグサミット、 しつつ、将来の世代の要求をも満たす開発 5)」 2002)において提案 2) され、2005 年から始 と定義し、世代間公正であるとした。5 年後 まり、環境教育はじめ学校教育・社会教育の の 1992 年の地球サミット(リオサミット) 現場では今、持続可能な開発のための教育あ では、途上国の指摘によって開発において排 るいは持続可能な社会のための教育が注目を 除されがちな貧困者も含めた開発が必要であ 浴びている。しかし、「持続可能な開発のため るとされた 6)。 の教育」の展開には複雑な政治的、歴史的経 持続可能な開発の概念は 2 つのアプローチ 緯を持つことから、結果的に「地域の課題を がある。一つは「持続可能な経済成長」、もう 地域住民で見つけ取り組む」という本来のあ 一つは「持続可能な人間開発」である。前者は、 り方が見えにくいという指摘もある。 現在の開発の発展上に持続可能な開発がある 筆者は学校という公的な場以外での地域の と考え、一方後者は、開発を行う人間に注目し、 学習者の担い手となる NPO に注目し、本研究 根本から見直すというアプローチ方法である。 において持続可能な社会を目指すために NPO この両者の対立を超えさせるものが持続可能 の課題と意義を見出したい。 な開発である 7)。この考えの前提となってい 本研究を行うにあたって、まず先行研究と るのは、持続可能な開発を「結果」とするの しての書物・論文等の検討、持続可能な社会 ではなく、あくまでも「過程」とみなす考え づくりを目指す NPO でインターン として内 方である。持続可能な開発を過程と捉えたと 部から活動に関わり調査を行った。調査は、 き、はじめて「持続可能な社会」というもの 実際の活動に参加しながらの参与観察に加え、 が目的・ゴールとして見えてくるだろう。 3) スタッフへのインタビューやディスカッショ 持続可能な社会を目指し、持続可能な開発 ン、報告書の分析を行った。 を行っていくために有効的な取り組みは、地 域の課題を地域の人たちと共に学び行動する ことと考え、そのため持続可能性を目指すた 98 めにも地域を学ぶ学習が必要であると考えら 第 3 章�������������� NPO 法人 ECOPLUS れる。 筆者は 2006 年 8 月から 2007 年 3 月まで NPO 法人 ECOPLUS(以下、ECOPLUS とする) 2�������������� 持続可能な社会のための教育 において、インターンとして内部から関わり、 今 ま で 見 て き た よ う に、「 持 続 可 能 な 開 持続可能な社会を目指す NPO の事業について 発」の起源は 1980 年の「世界自然保護戦略」 研究を行った。 (IUCN)にあるが、「持続可能な開発」の概念 ECOPLUS は 2003 年 6 月に設立されたエコ は 1972 年のスットクホルム会議を始めとし、 クラブとワールドスクールネットワークの二 国際社会の場を経て誕生し、世界に広まった。 部門から成り立つ特定非営利活動法人である。 そして、持続可能な開発のための教育(以下、 主な活動は東京都と新潟県の 2 箇所で行われ、 ESD とする)の出発地点はアジェンダ 21(リ 代表者は高野孝子氏である。 オサミット、1992)であり、それは第 36 章 事業目的は、NPO 法人の定款 10) によれば「持 「教育・意識啓発・研修の促進」において ESD 続可能な市民社会の建設に寄与すること」で に取り掛かるための 3 つの目的を示した。1 あり、各種教育プログラムの提供、日本国内 つめは基礎教育の改善、2 つめは持続可能な だけでなく世界各地の環境教育団体等の活動 開発に取り組むための既存の教育を新しく方 支援、子どもたちの活動の奨励を行っている。 向づけること、3 つめは民衆の理解、気づき、 また、環境や教育関連の幅広い情報を総合的 研修を高めることである 。これらの目的の に提供している。 8) 基盤にあるのは「地域に根ざし、文化に適切 また、2006 年 4 月、東京都港区にある環 であること 9)」であり、したがって、ESD と 境施設「エコプラザ」の企画・運営事業を受 は、地域の抱える課題や地域が大事にする価 託した。エコプラザは旧鞆絵小学校の 1 階部 値観に注目し、その地域にあった教育である。 分を利用して開かれている。主な活動は、エ そのため、ESD の概念はいかようにも変化で コプラザでの展示や講演会、ワークショップ きる概念であり、社会の変化とともに常に変 があり、そのほかにもエコツアーなど野外プ 化・発展していくものといえるであろう。また、 ログラムも行われている。これらの企画は、 活動の取り組みは各々の地域単位で足元から 港区在住、在学、在勤の人たちを対象に行わ 行うことが有効であるが、「持続可能な開発」 れている。自治体と共同で継続的な事業を行 や ESD の概念が国際的な歴史背景を持つため、 うのは ECOPLUS にとって初めての試みであ 足元だけでなく国際社会にも視野を広げて考 り 11)、また、2006 年度の ECOPLUS の事業の えていくことが必要ではないだろうか。 大きな柱となっている。 ESD は「持続可能な開発のための教育」や 「持続可能な未来のための教育」など様々な解 1������������� ECOPLUS の事業内容 釈がなされているが、筆者は「持続可能な開発」 エコクラブについて 12) を「持続可能な社会」のための過程として捉え、 エコクラブは 1992 年 4 月 20 日に高野孝 本稿では ESD を「持続可能な社会のための教 子によって設立された。同年夏にエコクラブ 育」と解釈することにする。また、本稿にお の代表的なプログラムの 1 つである「ヤップ いて、ESD は教育そのものを指し、各々の地 島プロジェクト」が開始された。同年の秋に 域で行われている具体的な活動を ESD 活動と は国内のエコツアー「とびっきり自然の旅」 する。 が始まった。 豊かな自然の中でのキャンプや伝統的な暮 99 らしを行っている地域でのキャンプを通して、 地球規模の視点から社会を考えられる人材の テーマである「人・自然・異文化」を学び、 育 成 を す る。 持続可能な生活・地域づくりの「働きかけを 自ら行う人材を育成」を目的とし、子どもの 2 子ども知恵図鑑 みならず幅広い年齢層を対象に活動を行って 次に、このような数ある事業の中で、筆者 いる。 自身がインターン活動でもっとも関わった事 主なプログラムは「ヤップ島プロジェクト」、 「とびっきりの旅」、「国内キャンプ」、「封筒再 業であり、様々な教育や活動が交差している 「子ども知恵図鑑」(以下、知恵図鑑とする) 利用紙の普及」である 13)。 を取り上げ、ECOPLS による ESD 活動につい ワールドスクールネットワーク(以下、 WSN とする)について て検討する。 知恵図鑑は、インターネット上で各国、各 14) WSN の歴史は以下の通りである 15)。 地域の子どもたちが各々の環境活動を報告・ 1992 年 米国でワールドスクールの 発表する場である。日本は新潟、栃木、東京、 プログラムがスタート 徳島、沖縄など、海外は、イスラエル、パレ 1994 年������������ ワールドスクールジャパン スチナ、ケニア、韓国、コスタリカなどが参 実行委員会が発足 加している。活動のジャンルは、「植えよう! 1994-95 年������������ 国際北極プロジェクト実施 1996-98 年������������ ミクロネシアプロジェクト 育てよう ! プロジェクト」、 「世界カレンダー」、 「食べものと農業」、「ゴミとリサイクル」等の 実施 全 10 ジャンルある 18)。 1999 年������������ 団体の名称をワールドスク 知恵図鑑の特徴はインターネット上の活動、 ールネットワークに改称 世界各地域の子どもたちの活動の発表の場、 未来への知恵めぐりプロジ 地域とグローバルな視点をつなぐ活動、英語 ェクト開始 と日本語の 2 ヶ国語で行われていることの 4 WSN の主な活動は「子ども知恵図鑑」「国 つがあげられる。 際シンポジウム」等である 16)。 子どもたちはまず各々の地域の環境や文化 インターネットを通して、日本国内のみな に関する活動を行う。活動を通して学んだ知 らず、世界の子どもたちと自分たちの環境に 識や知恵、地域の課題などをインターネット 対しての活動などの情報交換の場を提供して 上に書き込み、写真を貼り付け発表する。 いる。また、インターネットだけでなく、年 2006 年度、筆者が担当した「世界カレン 度末に行われる WSN 国際シンポジウムによ ダー 19)」を例に上げて説明すれば、子どもた って、普段インターネット上だけでやり取り ちはまず自分たちの国の祝日の行事や地域の している仲間と直接顔を合わせ、実際にワー 伝統行事に出かけ、その様子を写真に撮り、 クショップを行うことで環境問題を考える事 それらに関する情報を調べ、写真と共にイン も行っている。 ターネット上に書き込み報告する。 WSN の目標は 3 つである 。1つめは、世 その発表に対して、他の地域の子どもたち 界の子どもたちがお互いの文化や国際社会に から質問や感想、それに関する自分たちの地 ついて共通理解を深める。2 つめは、異なる 域の伝統的な知恵や環境に関する取り組みを 世代、地域、生活文化の交流による、国際社 紹介し、やり取りが行われている。各地域か 会を念頭においた人材育成と地域の活性化を ら集まったそれらの知恵や知識、環境に対す 実現すること。3 つめは、地域に根ざしながら、 る活動により、多分化理解や環境を守ってい 17) 100 くひとつの大きな「図鑑」となる。子どもた 場であると考えられる。そしてこれらを通し ちはまず住んでいる地域での視点を持ち、そ て ECOPLUS のプログラムの参加者、またそ して世界にまで視野を広げて環境や文化の学 れらに関わるボランティアの社会や環境に対 習を行っている。子どもたちの発表は英語と する価値観、今までの生活における価値観の 日本語の 2 ヶ国語でおこなわれ、スタッフ、 見直しと考えられる。 ボランティアスタッフ、インターンによって 特徴をひとつづつみていくことにする。1 翻訳され発信されている。日本語の子どもた つめの特徴である、参加者自身に気づかせる ちは日本語で発言し、ボランティアらが翻訳 は、ECOPLUS から参加者や子どもたちに地 しウェブ上に流し、同様に海外からの子ども 域の固有の文化や知恵、課題を提示するので の書き込みは日本語に翻訳され、ウェブに流 はなく、参加者自らに気づかせたり、問題意 されることで、お互いの発表を伝えることが 識を持たせたりするように促している。例え できる。海外の子どもたちの発言は、子ども ば、 筆 者 が 2006 年 11 月 25 日 ~ 26 日 に たち自身または各地域の指導者によって母国 新潟県南魚沼市栃窪集落でのプログラムに参 語から英語に翻訳され発信されている。この 加した時に、参加者と栃窪集落の住民と共に ようにして、英語と日本語の 2 ヶ国語で活動 集落を散策し、集落の知恵や文化を学んだ。 についてのやり取りが行われている。 ECOPLUS から敢えてそれらを提示したので 知恵図鑑づくりにおける ESD 的といえる活 はなく、ただ地域の人々と共に散策したこと 動の最大の特徴は、子どもたちが地域に出て によって自らの発見があった。2 つめは「生 行き、地域の知恵や知識、課題に自ら注目し きる」というテーマが各々の活動に存在して 情報の収集活動を行うことである。ESD の特 いると考えられる。地域でどう生きていくか、 徴でもある “地域” を基盤とする活動として 地域にあった生き方を各プログラムで地域に みても、知恵図鑑は ESD 活動のひとつと考え 根ざした教育として行っている。3 つめのイ られる。また、環境教育の一分野だけを扱っ ンターネットの活用は、知恵図鑑でのやり取 ているのではなく、多文化理解や国際交流と りからも見られるように、インターネットを いった複数の分野が相互に関連して行われて 通して各々の活動の報告、これによって活動 いる点においても、教育実践として見ること の発展を促進することができる。また、ウェ ができ、さらに、「地域に関連した ESD に伴 ブページにおいて環境教育だけでなく様々な って現れる変化は、実践者が持っている成功 教育の情報やプログラムの提供や紹介も行っ 例や失敗例を共有し交換しあうことで、実践 ている。さらに、各プログラムを通して、ロ 者の手によって促進され、高められることに ーカルな視点とグローバルな視点の両方の視 なるだろう 20)」とあるように、子どもたちは 点を持ちさらにそれらを身につけることによ 自らの活動をインターネット上で発表し、活 って、地域での活動が地域内でとどまらずに、 動がさらに発展するようにお互いの情報を共 世界へ発信され、多文化理解や他地域の課題 有し、意見のやり取りを行っている。 にも注目し学ぶことができる。また実際に、 年に一度行われる国際シンポジウムでは、海 外の子どもたちと一緒にワークショップを行 3�������������������� ECOPLUS における ESD 活動の特徴 ECOPLUS の ESD 活動の特徴は、①参加者 うことによって、その場には両方の視点が存 自身に気づかせる、②「生きる」というテーマ、 在する。また、ECOPLUS の事業はボランティ ③インターネットの活用、④ローカルな視点 アや様々な教育分野の専門家とのつながりや とグローバルな視点、⑤つながりや出会いの 出会いの場にもなっている。ECOPLUS はプロ 101 グラムの提供だけでなく、各事業に見られる 都千代田区神田はオフィス街で、住民よりも これらの特徴を通して、ECOPLUS に関わる 通勤者の方が多い地域である。こういう地域 ボランティアや各プログラムの参加者の社会 で文化の伝承をどう考えるかは難しい問題だ や環境に対する価値観、今までの生活におけ が、事務局自体も事務局のある地域とのかか る価値観の見直しを目指していると考えられ、 わりを模索し、様々な点で持続可能な地域づ ECOPLUS の事業が ESD を担っているといえ くりを目指すことも必要だと考える。 るだろう。 第 3 章�������������� 求められている NPO の役割 以上のような課題を抱えているが、NPO に 4����������������� NPO として ECOPLUS の課題 以上、見てきたように ECOPLUS の活動が 期待されていることも多い。参加型の教育の ESD 活動であり、持続可能な社会の構築に寄 場、学習する組織、公共機関や市場、地域と 与ししていることと考えられるが、インター の連携が今、NPO に求められている力である ンの活動を通して ECOPLUS の課題も見えて 23) きた。 。 特に「学習する組織」としての NPO は、 「単 1 つめは、研修が十分に行えないことであ に学習・教育活動を全体的に付随する機能的 る。正規職員の人数不足 と NPO に見られ な一面として推進しているのではなく、より る経営 22) が原因と考えられる。2 つめの課題 目的意識的に位置づけている」組織であると は、職員内の情報共有が少ないことである。 佐藤一子は指摘している 24)。ECOPLUS におい 主な活動場所が東京都と新潟県の 2 箇所にわ ても、子どもたちや参加者に学習する場をた かれているため、プログラム等の事前準備の だ提供しているわけではなく、ECOPLUS が大 情報共有が不足していると考えられる。3 つ 事にしている価値観や多様な教育方法で目的 めは、インターン同士、インターンとスタッ 意識を持って事業を行っている。また、佐藤 フとのミッションの共有が不足している。原 は「NPO は事業の実施過程で集団として知や 因は普段の仕事の量の多さによってインター 技術・経験の共有化をはかり、個のレベルか ン同士、また職員との打ち合わせができなか らプロジェクトごとのチームへ、そして NPO ったことにあるだろう。ミッション共有が不 全体、さらには対象とする地域社会へのレベ 足していたために、インターンで行っている ルへと学習活動を多元化・高次化し、それに 企画がどこに向かっているかを見失い、その よって事業の適正化・持続化をはかっていく」 企画によってどう参加者が変化してほしいの と述べ、さらに、「それをつうじてミッション かがあいまいになってしまうということもあ 自体が社会的に共有化され、担い手が相互に り、NPO で大切とされているミッションに関 育ちあうという循環性をもった地域社会にお わる全ての人と共有しなければ、持続可能な ける『学習する組織』となる 25)」������ と NPO が社 社会を創造していくことは困難であると考え 会に与える力と持続可能な社会における NPO られる。4 つめの課題として、参加者の広が の役割を指摘している。 21) りが狭い。ECOPLUS の事業の中には常連の また、ECOPLUS の活動からも伺えたように、 参加者が一定数いるものの、新規の参加者の ESD に取り組む NPO の役割は、人と人とのつ 開拓が進んでいないように思われた。つまり、 ながりやそこから生まれる学びや価値観を大 参加者の広がりが狭いため、ECOPLUS の活動 切にし、本来人間が大切にするべきものを補 が多くの人に広がることは期待し難いと考え うことを通して、持続可能な社会作りに貢献 られる。また、ECOPLUS の事務局のある東京 することと考えられる。 102 でいくことではなかろうか。また、その相互 第 4 章 ���� おわりに の関係が持続可能な社会の第一歩なのかもし 今後、持続可能な社会に向けて NPO がより れない。 ESD 活動を深めていくために必要な視点を 4 つ指摘をしておく。①地域とのつながりを持 【注】 つこと、②多様な教育・活動との連携を行う 1) 国際自然保護連合(IUCN)、John Fein and こと、③ NPO 同士が連携し補い合うこと、④ Daniell Tilbury 持続可能性に向けたグローバ 参加者の団体や活動の選択も重要である、の ル な 挑 戦 小 栗 有 子・ 降 旗 信 一 監 訳『 教 育 4 点である。 と持続可能性 グローバルな挑戦に応えて』 ECOPLUS の課題からも見られたように、持 2003 年、レスティー、p.17 続可能な地域や社会を目指すためには、どの 2) 朝岡幸彦編著『新しい環境教育の実践』高 地域においても持続可能な社会の構築を目指 文堂出版社、2005 年、p.14 し、地域の教育の担い手となる NPO が様々な 3) 正規職員が普段行っている仕事を実際に体 視点から地域とつながりを持ち、地域住民と 験する。報告書やニュースレター作り、野外 ともに地域の知恵や技を学び、またその地域 活動のスタッフ等。 における課題を見つけ解決していくことが必 4) 小栗有子「持続可能な開発のための教育構 要であると考えられる。2 つめの指摘の多様 想と環境教育~ ESD 論」朝岡幸彦編著 前掲書 な教育・活動との連携を行うこととは、1 つ p.149 の教育分野だけ取り上げ活動を行うのではな 5) 国際自然保護連合(IUCN)、小栗有子・降 く、たとえば、環境教育と福祉、環境教育と 旗信一監訳 前掲書、p.17 平和教育といったように複数の教育分野を連 6) 同上 携しながら行っていくことがより有効ではな 7) 小栗有子「持続可能な開発のための教育構 かろうか。そのためにも、NPO 同士の連携が 想と環境教育 ~ESD 論」 朝岡幸彦編著前掲書 必要であると考える。持続可能な地域の創造 p.160 を目指して、その地域が抱えている問題を見 8) 国際自然保護連合(IUCN)、Charles つけ、個別の課題に関わる NPO が、それぞれ Hopkins nad Rosalyn Mackeon 「持続可能な 自らが不足している個別の課題を補いながら 開発のための教育:国際的な視点から」 小栗 活動していくことが、地域の課題を解決して 有子・降旗信一監訳『教育と持続可能性 グ いく早道なのかもしれない。また、NPO だけ ローバルな挑戦に応えて』前掲書、p.29 が連携し補いながら活動していくことが ESD 9) 小栗有子「持続可能な開発のための教育構 活動を行う有効な方法ではなく、NPO に関わ 想と環境教育 ~ESD 論」 朝岡幸彦編著 前掲書 る参加者自身も主体性・自主性を持ち、活動 P.156 を行っていくことが必要である。各個人が、 10) ECOPLUS ウェブページ 各々の活動に足りていない教育の分野や活動 11) 会報 8 号 p2 - 5 を見極め、1 つの団体に関わるだけではなく、 12) エコクラブ,2004,エコクラブの概要 複数の団体に積極的に関わっていくことが、 http://www.ecoclub.org/showart.php?lang=ja &genre=5&aid=172 「�������������������� 持続可能な社会作り」に向けて市民ができる ことではないだろうか。 13) エコクラブ,2004,エコクラブの概要 持続可能な社会を目指すために必要なこと http://www.ecoclub.org/showart.php?lang=ja は、個々人、各団体が各々に活動していくの &genre=5&aid=172 ではなく、お互いに支えあい共に活動し学ん 2006 年 9 月 12 日 閲覧 103 14) ワールドスクールネットワーク, 2004 15) 国際自然保護連合(IUCN)、John Fein and Daniell Tilbury 持続可能性に向けたグローバ ルな生理する。小栗有子・降旗信一監 2001 年度ワールドスクールネットワーク国際シン ポジウム報告書より 16) ワールドスクールネットワーク, 2004 17)『国際研修フォーラム「世界の仲間と語 り合う持続可能な社会作り」報告書』特定非 営利法人 ECOPLUS,2004,p.78 18) 子ども知恵図鑑 ウェブページ http://chie. wschool.net/chie15/top.php?lang=ja 2007 年 6 月 29 日閲覧 19)「世界カレンダー」とは、世界各地域の祝 日や伝統的な行事、また四季折々の風景を紹 介し、他地域の文化や自然を理解することが 目的である。 20) 国際自然保護連合(IUCN)、小栗有子・降 旗信一監訳 前掲書 p.35 21) 正規職員の人数は 3 名。そのうち 1 名は 港区環境教育施設「エコプラザ」に駐在して いるため実質 2 名で事業を行っている。2006 年度の ECOPLUS の事業は少なくとも 8 つあ り、それに加え、エコプラザのイベントが毎 月のように行われていた。 22) 今田忠,2000,「NPO 経営の面白さ・難 しさ」 今田忠編 『NPO 起業・経営・ネット ワーキング』 (株)中央法規,pp. 49-78 NPO の主な収入源は会費、寄付金、事業収 益、助成金、補助金から成り立っており、 ECOPLUS の 2005 年度の会費収入は 870000 円である。そのため一般企業のように敢えて 研修期間や研修のための費用を支出すること は容易ではないであろう。 23) 佐藤一子編『NPO の教育力 生涯学習と市 民的公共性』東京大学出版会 2004、pp.1-18 24) 同上、p.6 25) 同上、p.8 104 祭りに関わる互酬性にみる人間性の回復の可能性 ―府中くらやみ祭りの調査を通して― 敦賀 英輔 第 1 章 本稿の目的 第 2 章 現代資本主義社会の分析 高度経済成長期以来、日本は経済的には大 1 交換様式という概念について 変豊かになり、先進工業国の仲間入りを果た 柄谷行人は、資本主義的な社会構成体を「資 した。だれもが経済の成長、所得の増大によ 本=ネーション=国家」という3つの接合体 って自分たちが幸せになるのだと信じて邁進 としてとらえ、それを考える上でマルクスを してきた。たしかに、物質的には豊かになり、 参照している。マルクスは人間をまず、自然 私たちの暮らしは数十年前のものとは比べ物 との関係において見るという観点をとり、人 にならないほど豊かになった。しかしその一 間が自然に働きかけて財を作り出す「生産」 方で、今日社会問題として現れている、凶悪 を重視し、人間と人間の生産関係を「生産様式」 犯罪の増加と若年化、自殺者、うつ病などの と呼んだ。しかしここで、柄谷は「生産様式」 精神病患者、学級崩壊に代表されるような子 という表現を用いると、交換や分配が二次的 供の発達の問題等が増加している。物質的に なものとしてとらえられてしまうことを指摘 は豊かになった私たちは本当に幸福なのだろ し、「交換様式」と呼ぶことを提唱している。 うか。私たちの内面は、そのような「豊かさ」 柄谷は「交換様式」として以下の 4 つに大別 の中でむしろ蝕まれてきているのではないだ しまとめている。1 つは 「 互酬 」 で、これは ろうか。 共同体の中にある贈与と返礼という一見交換 本稿ではこのような矛盾について考えるう のようには見えない交換としてとらえられて えで、柄谷行人が「世界共和国へ」1) で提唱 いる。2 つ目は「再分配」で、共同体と共同 した「交換様式」の理論に注目する。そして 体の間でなされる交換とし、継続的に略奪す 坂元忠芳が「講義 現代教育学の理論」 で るため「再分配」として公共事業、福祉、安 提起した「人間関係の物象化と発達疎外」と 全の確保を行うこと、としている。3 つ目は「商 照らし合わせ、資本主義社会が人間に与える 品交換」で、これは貨幣と商品の交換である。 影響を明らかにする。その上で、そのような さらに柄谷は 4 つ目の交換様式として交換様 資本主義の矛盾を克服する機能を持つ「互酬 式 X を挙げている。これは現実には存在しな 性」に注目する。それらを踏まえ、地域内で いが、常に理念としてあり続ける交換様式で の互酬性があらわになる「祭り」に焦点をあ ある、としている。 て、昔から地域の人々が主体的に祭りを執り このように見てみると、資本主義社会はさ 行ってきた東京都府中市の「くらやみ祭り」 まざまな交換様式の中でも「商品交換」が圧 2) 3) を事例に、祭の果たす人間性の回復について 倒的に支配的な社会であると言える。 考察する。調査は 2007 年 5 月 3 日から 5 月 6 日までの 4 日間、聞き取りを中心に府中市 2 非人間化へのプロセス 本町の青年会 4) のメンバーに対し行った。 ここで問題になるのが、商品交換の過程で 生じる資本主義社会の非人間化のプロセスと その定着である。 資本主義的生産により、商品生産における 105 労働の社会的性格に根本的に変化が生じ、人 浸透によって解体されますが、べつのかたち 間の労働が生産物と同等な価値対象となり、 で回復されるといってよいのです。それがネ 物として交換の対象になる。このことにより、 ーションです。ネーションは、互酬的な関係 社会関係、生産関係が人と人の関係から、物 をベースにした『創造の共同体』です。それは、 と物の関係に置き換わってしまう。すなわち、 資本制がもたらす階級的な対立や諸矛盾をこ 現代資本主義社会においては、人間の肉体的・ えた想像的な共同性をもたらします。5)」と述 精神的諸力をも商品化し、人間そのものが物 べている。 質的形態をとらざるを得ない。こうして、人 このように、社会システムとして非人間化 間の人格の「物質化」が進み、定着していく が進んでしまう現代資本主義社会において、 のである。 失われた人間性を回復しうる「互酬」という 以上、柄谷と坂元の論理をまとめると、現 交換様式は大きな可能性を持ちうるといえる。 代資本主義社会では「商品交換」により、人 間の労働は商品として交換される。すなわち、 人間とその労働力が物として交換の対象とな 第 3 章 都市の祭りとしてのくらやみ祭 り ってしまうのだ。それによって人間同士の関 それでは現代において「互酬」的な関係性 係は物象化され、一人ひとりの人格も物質化 を創造し、人間性を回復させるものはなんな が進んでいく。今日のさまざまな人間の内面 のか。私は人間性の回復という点で、祭りに の問題も、このように人があたかもモノのよ 注目してみたい。そこでこの章では、都市に うに扱われてしまう現代資本主義社会特有の おける祭りの成り立ちと、筆者がフィールド 社会構造がひとつの要因であると考えられる。 としてとりあげたくらやみ祭りの概要につい て述べる。 3 今日における「互酬」の可能性 先にあげた論理によると、現代資本主義社 1 都市の祭りの成立 会における非人間化のプロセスは、柄谷のい 祭りの性質について述べるならば、まずは う「商品交換」によって進行することになる。 祭りの中で祀られる神々の成り立ちから見て しかし、 「交換様式」は先にあげたように、 「商 いかなくてはならない。松平は「祭りと文化」 品交換」だけではない。本稿では「人間性の 6) 回復」を図る可能性を、「互酬」という「交換 めの村落共同体の神々の成り立ちから見てい 様式」に見ていく。 った。松平の分類によると、村落共同体での 「互酬」とは、共同体の内部などで贈与と返 神々は 4 つに分けられる。第 1 の型は「土間 礼によって成り立つ交換様式である。交換の の神」で、自然神が家々の土間に守護神とし 際に貨幣などを媒介し、それによって人格が て祀られているものだ。第 2 の型は地蔵、稲 物質化する「商品交換」とは対照的に、 「互酬」 荷のような祠の神々である。村落の信心者が では人は互いに人格を持った人として接し、 ささやかな祈りをささげる庶民の神である。 人格を認め合った上で交換が成立する。 「互酬」 この2つの型は私的な神々であるということ では人はあくまで人としてとらえられ、人間 ができる。それらは村落の共同を担うことは 性を保障し、回復するシステムであるといえ ない。これに対し、第 3 の型は村落の共同体 る。柄谷も「世界共和国へ―資本=ネーショ の神で、共同体内の結合原理として公的に祀 ン=国家を超えて」の中で「資本主義的な社 られる。しかし、これら村落のなかの神々と 会構成体において、農業共同体は商品経済の はまったく異質な、もっと権威と威光を兼ね 106 の中で、祭りの原型をまず中世末、近世初 備えた第 4 の神々が別に存在する。皇室や国 ければならないことに気が付くのである。ま の神のように、「外」なる霊験あらたかな神が た同時に、村落の共同体にあった神々が、町 そうである。江戸時代に入ると、この種の神々 にはいないことにも気が付くのである。 への信仰が庶民にもいきわたり、全国的に信 最初都市生活者が共同体の神として思い浮 者集団が形成された。 かべたものはやはり村の共同体のそれであろ また、江戸時代後期になると、商品経済の う。しかし、都市にはそれぞれ異なった村落 発達により都市が発展する。松平は都市にお に出自をもつ人々がいる。これらをひとつに ける生活集団からなる社会を「町内(まちう まとめて町内の神を考えることは現実的に不 ち)」としている。町内における特徴を挙げて 可能であろう。また、村落での神は農耕に豊 いくと、村落社会の性質と重複するものがあ 穣をもたらす神である。それに対応するもの る。なぜなら、日本の場合、西洋とは異なり を町内に求めるならそれは商売繁昌である。 村と都市が分断されているわけではなかった。 さらに、町内には、町内社会を災害、流行り 都市が発展しても、都市と村の境界はあいま 病などから守る神も必要とされた。市での商 いで、村から都市へ生産物を売りに行くこと 売繁昌を祈ったり、人間の力ではどうするこ はもちろん、農繁期には都市から村へ手伝い とも出来ない災害、病などから守るよう祈る が行くようなこともあった。村から都市へは 神とは、先の分類で言うと第 4 の型の、外な もちろん、都市から村、という人の流れがあ る霊験あらたかな神である。都市生活者たち ったし、第一都市生活者は 1、2 代前は農村 は、このようにして自分たちが共通して崇拝 で暮らしていた元村落民であった。よって、 する神を「外」なる神々としたのである。 都市の社会といえども、その根底には常に村 このように、町内はその原型を村落社会に 落の社会が意識され形成されていたのだ。し 持ちつつも、村落とは異なる性質も併せ持つ かし、それでも都市の社会と村落の社会とは 社会であり、そこで祀られる神々も、村落の 性格がことなっていた点はあった。まず、町 中で祀られていた神々とは異なるのだ。祀ら 内は共同行為が貫徹しにくい社会である、と れる神々が違うということは、町内の祭りは、 いうことが言える。それは、町内が村落社会 必然的に村落の祭りとは異なる性質を持つの とは異なり、多くの異なる職業をもつ家の集 である。 団なので、生産の共同にもとづく社会にはな らないからである。 2 都市の祭りに内在する「互酬性」 都市にははじめ神はいなかった。都市と村 このように都市の中で成立していった祭り での人の行き来が頻繁だったことは触れたが、 には、どのような特徴があったのだろうか。 都市に住むようになっても、多くの人々は自 ここでも松平の「祭りと文化」を取り上げる。 分が帰っていく先は村の共同体である、と考 松平は都市の祭りの特徴として3つ挙げて えていた。よってこの段階では都市に、おな いる。1 つ目は、祭りは「聖」なるものを媒 じ町の町民同士で共通して崇拝するような神 介にし、「俗」との逆転を図る場である、とい はまだ必要なかったともいえる。しかし、現 うことだ。町内が祭りの中に町内の一体感を 実には、月日と共に迎え入れてくれる村はな 求めたとき、町内は村落の祭りとは異なる祭 くなっていく。都市生活者の 2 代目、3 代目 りを模索し始めた。村落の祭りにおいては、 にいたっては、自分の故郷ではないため、よ そこで祭られているのはその土地を守る土地 そ者意識は強かっただろう。そこで、自分た の神であり、生活の中での接点は多くある。 ちの町の中で、自分たちの生活を作り上げな 村落の祭りはこのような自分たちを守る神と 107 の間になされる「内」なる祭りなのだ。しかし、 2 くらやみ祭りの歴史 都市においてはそのような都市民と神との接 くらやみ祭りは府中市大国魂神社の例大祭 8 ) 点はない。町内の神は「外」なる神々だった である。大国魂神社は、第十二代景行天皇 41 からである。都市で行われる祭りは、「外」な 年(111)5 月 5 日、大国魂大神(おおくに る神を祀るものであり、そこでの心的高揚と たまのおおかみ)の託宣に依って 創立された。 それに伴う一体感を求めることは難しい。そ その後は出雲臣天穂日命(のおみあめのほひ のため、都市の祭りは豪華に飾り立てられる のみこと)の後裔(こうえい)9) が初めて 武 ようになり、きらびやかで盛大な祭りが生ま 蔵国造に任ぜられ当社に奉仕してから、代々 れていった。 の国造 10) が奉仕して その祭務を掌られたとい また 2 点目として、松平は祭りを「見るもの」 われる。 の存在を挙げている。町内の神々は、もとも 645 年の大化の改新の折に、武蔵国の国府 が社有地の中に置かれ、社が国衙 12) の斎場 と日ごろ近づくことのできない遠方に祭られ 11) ていた神である。だから、元は旅人が道すが とし、国司が奉仕して、国内の祭務を総轄す ら参詣していく方が先であり、町内の共同の る所になった。府中に国府が置かれたのは、 祭りとして発展したのは後の方である。よっ 東山道武蔵路と多摩川が交差する交通の要所 て町内の祭りになっても、見知らぬ人々を受 だったためである。くらやみ祭りがいつごろ け入れ、出会いを通じて日常の生活秩序から から始まったのか、国府の祭礼が始まる時期 の解放を求めたのだ。このように、見るもの、 が定かではないために確かなことはわかって 見せるものが一体となり熱狂的な興奮を引き いない。記録に残っている最後の国府関連神 起こす。町内の祭りはこのような祭りの在り 社の祭礼としては、1091 年に加賀国府の「府 方を経験し、新しい文化のカタチを会得して 南社」の神輿が渡御した、というものである。 いった。 武蔵総社としての伝統を伝える大国魂神社も 3 点目の特徴として挙げられることは、都 この時期に武蔵総社としての確立を見て、総 市の祭りはそのカタチを変えていく過程で次 社の祭礼も始まった可能性があったと見られ 第に神を離れ、世俗的なイベントとしての性 ている。 格を強めていくことだ。松平は、折口の「祭 くらやみ祭りは中世で地域に根ざしていっ 礼三部構成説(祭りが神祭り―直会(なおらい) たと見ることができる。くらやみ祭りに関連 と、宴会(うたげ)の 3 部構成であるとする する記述では、『市場之祭文写(いちばのさい 説)に着目し 、このような祭礼構成が分化・ もんうつし)』の 1361 年、1415 年について 発展を繰り返す過程で、宴会の性格が強めら の記述で、 「武州六所大明神も 5 月ゑの市を立 れ、祭りが世俗化していくことを指摘してい てたまふ」とあるのが最も古い記述だとされ る。そうすることにより、都市の祭りは神事 ている。これは五月会の市を六所の神が主催 から独立したイベントの構造となっていくの した、という表現で、商工業に携わる都市民 である。 が参加して祭礼を支えていた光景を思い浮か 町内の祭りはこのように、村落の祭りとは べることができる。この時代、神を祀る祭り 異なる性格を有する、ということが言える。 と神が立てる市は密接な関係があったとされ、 町内は村落と異なり、共同が貫徹しにくい性 この五月会がくらやみ祭りの前身だったと見 質を持つが、それを克服するために、祭りを られている。また、この時期は鎌倉幕府が立ち、 中心とする共同をつくりあげていったのであ 鎌倉に近い武蔵国府の政治的・軍事的重要度 る。 が高まった時期でもある。このことが少なか 7) 108 らず府中の経済的発展につながったともされ 四カ町 13) に委託されるようになる。三之宮、 ており、前述の『市場之祭文写』に五月会が 二之は八幡宿、一之宮、御本社は番場、御霊 登場することと、府中の経済的発展は無関係 宮、四之宮は本町、五之宮、六之宮は新宿に ではないだろう。 それぞれゆだねられた。しかし、結果的には このように、鎌倉時代から室町時代におい このような財政難への対応は祭りの新しい可 ては、府中は国府の所在地として、武蔵国の 能性を広げたことになったのである。1860 中心としての一定の地位を保っていた。しか 年代になって祭りの主導権を握るようになっ し、国府などの古い支配体制が否定されるよ た町内は、それぞれが独自に祭礼の運用をし、 うになった戦国時代になると、その地位は失 町内の結束をさらに高めていく。講中組織を われることとなる。おそらく、この時代はく 形成しながら、太鼓などの道具を華麗なもの らやみ祭りのにぎわいも一時的に衰退してい へと新調していき、1900 年代初頭には、く たのではないかと推測される。 らやみ祭りは神事中心ではなく祝祭 14 ) 中心の 江戸時代になると幕府が江戸におかれ、く 豪快な祭りへと変化していったのである。ま らやみ祭りは大都市江戸近郊の祭りとなり、 たこのころになると、町内組織のみではなく、 さらに発展していくことになる。徳川幕府が それとは別に青年会が組織され一定の役割を 武蔵総社に破格の神領 500 石を与えるなど 得ている。 し、手厚く保護したことも、くらやみ祭りの このように、明治を迎え、大正、昭和を経 発展に大きく寄与する。さらにこの時代、府 ていくと、祭りは太鼓、神輿の新調によって 中は甲州街道の 4 番目の宿場町に位置づけら どんどん華麗になっていった。昭和 9 年にく れ、そのため戦国時代で一時は衰退した街も らやみ祭りを大国魂神社の官幣社昇格 50 周 再び活気づいた。また、江戸時代は民衆文化 年記念の記念祭とし、盛大に行ったことも、 が花開いた時代でもある。神社主体の神事を 太鼓、神輿、山車の新調を促すことになった。 宿場町の住民が参加して盛りたてる現在に通 暗闇祭りで使われる今日のような巨大な太鼓 じる祭りの構造は、この時代から始まったと も、この時期に合わせて新造された御霊宮太 いえる。さらに、祭りは、それまでは限られ 鼓がさきがけになった。また、祭礼組織に注 た地域の信者(氏子)を中心とした神事であり、 目してみると、講中や青年会など現代に通じ 部外者が関わることはなかった。しかし、こ る祭礼組織が生まれる時期であるということ の時代、神社など名所・旧跡を訪ね歩く江戸 も言える。よって、今日におけるくらやみ祭 市民も増えたことから、都市の祭りにおいて りの屋台骨が形成されたのはこの時期だとい は、祭りを行う神社、氏子、町民だけではなく、 っても過言ではないだろう。この後、2 度の 見物人という新たな参加者を得たことになる。 大戦を迎えるが、この時代に形成されたもの このことによって祭りはより華やかに、洗練 が戦後も残り、さらに祭りを発展させていき、 されたものになっていった。 今日まで続いている。 明治維新を迎えると、くらやみ祭りも大き な時代の転換期を迎えることになる。まず、 第 4 章 「くらやみ祭り」に関わる人々 江戸時代において、大国魂神社は徳川幕府か ここでは、実際にくらやみ祭りに関わる人々 ら手厚く保護され、神領 500 石の待遇をうけ の聞き取り内容を考察していきたい。本町は ていたが、それが廃止され経済的な問題と向 前述したように府中四カ町のひとつで、くら き合わなくてはならなくなった。この神領の やみ祭りが住民主体に移行する明治以前から 廃止によって神社が管理していた神輿が府中 祭りを盛り立ててきた伝統ある町である。 109 交流がもてる。その町ごとの秋祭りがあって、 1 M さん(男性、38 歳) M さんは青年会の元会長で、いまは OB と そこでまた関係が深まる。」「本町はお囃子が いう位置づけで本町青年会に貢献している。 盛んだから人がたくさん入ってくる。歴史と お祭りに関わる様になったのは小学校三年生 伝統のある町だから結束も固い。町を歩いて のころ。以来 29 年間ずっと活動を続けている。 いて知った顔に良く会う。それが防犯にも役 参加してまもなくはお囃子の「調べ」という 立ってるんじゃないかな。」と、M さん同様 太鼓の演奏に力を入れ、10 代のころには「調 祭りがつくる人と人のつながりについて述べ べ」では右に出るものはいない、と言われる ていて、それが防犯にも役立っている側面も ほどの腕前だった。「調べ」とは、左右に音の うかがわせてくれた。 微妙に違う太鼓を 2 つ並べ、それぞれを「頭(か しら)」、 「尻(しり)」と呼ぶ。M さんは「尻」 3 I さん(女性・年齢不明) I さんは、大祭委員をしている親の勧めで、 のほうの叩き手で、「頭」の方は、同級生で家 小学校三年生からお祭りと関わっている。女 も隣同士の T さんとでコンビを組んでいた。 性もだんだん関われるようになってきた。で そんな M さんに「くらやみ祭り」について 聞いてみると、「男のロマンだね。府中には祭 もやっぱり男性は男性。危ないこともあるし、 り馬鹿が多い。6 日が終わればもう来年の祭 伝統的な部分もある。神輿が通る前、道を竹 りの話をしてる。普通、一年は大晦日で終わ の棒で叩いて邪を払うササラという儀式は、 って正月から始まるけど、うちらは祭りで始 去年からやるようになった。」と述べていた。 まって祭りで終わる。祭りの一週間前なんか 昔は、男性主体で祭りが行われ、女性は祭り は興奮して眠れなくなる。祭りで頭がいっぱ の裏方に徹していたが、時代の変化とともに、 い。」と、話してくれた。その横で話を聞いて 徐々に女性と祭りの関わり方も変化してきた いたMさんの友人も「5 月になると空の色が ということがうかがえる。また、I さんもイン 変わるんだよ。いつもの空なんだけど、青さ タビューの中で「年齢の違う人たちと交流が が違って見える。」と付け加えた。 あるのがいい。」ということを述べており、青 年会内の子供の世話の話などにも触れていた。 また、M さんは、「お祭りを運営する組織 の中で、年功序列はあるけど、違う年齢層の 人たちと付き合えることがいいところでもあ 4 O さん(男性、44 歳) る。」とも話していた。 O さんは青年 OB として、主にお囃子の指 導を中心に関わっている。青年会会長も 20 2 N さん(36 歳、男性) 年ほど前に経験している。O さんは本町青年 N さんは今年の 5 月まで本町青年会の副会 会の歴史について、「40 年位前に、府中青年 長を務めていた。先祖をたどれば、大国魂神 連合というものができた。当時、町内同士の 社ができたころから代々府中に住んでおり、 争いが激しく、警察などからも注意されたり 現在は 1860 年に創業した酒屋を継いでいる。 した。そこで、町内同士の顔がわかれば争い N さん府中の町の移り変わりについて、「町 も少なくなるんではないか、ということで作 はどんどん新しくなっている。でも伝統的な られた。今では 22 団体から 24 団体が加入し ものもちゃんと残っている。そこに住んでい ており、地域同士の同窓会のようにもなって る人が暮らしよければいいんじゃないかな。」 いる。そこでしか顔を合わせないような人も と話していた。 いるから。また、他の地域と交流が持てるの と同時に、いい意味で競い合い、祭りをいい さらに、「祭りをしていると他の町の人とも 110 ものにしよう、という気にもなる。」と述べて は難しいようである。それだけに、Kさんも「も いた。 どかしい」という表現で青年会への気持ちを 「ケンカ祭り」とも称されていたくらやみ祭 表していた。また、子供はそのようなことも りを安全なものにするために、今まで対立し なく、一生懸命参加しているようである。筆 ていた青年会同士が肩を並べ、祭りをいいも 者がKさんにインタビューしている間にお囃 のにするよう努力してきた過程がうかがえる。 子での踊りを済ませ、Kさんの元に戻ってお また、お囃子のことについては「もちろん 囃子で踊った話を嬉々として始める姿が見ら 自己満足的な意味もある。でも、普段から積 れた。 み上げられた親交がないと一体感や連帯感は 生まれない。いい演奏ができればやっている 以上、本町青年会に関わる 5 人の方のイン ほうも楽しいし、見ている人だって楽しいは タビューを紹介した。インタビューからくら ず。」と話してくれた。さらにお囃子に関して やみ祭における互酬性について考察する。 は「本町のお囃子は府中囃子で一番古い。そ いずれの対象者もお祭りに関わることのメ れだけの伝統があるし、他の町内の二番煎じ リットとして、町内はもちろん、本町以外の じゃない。」とも言っていた。誇りをもって奏 町内とのつながりが持てることを挙げていた でられるお囃子が、町内の結束のための機能 これは、人々が祭をつくりあげる中で人と人 を果たしているのである。 との関係をもち、それによって人間性を回復 させようとしている姿としてみることができ る。 5 Kさん(女性、40 歳) Kさんは府中に住んで 10 年しか経ってい また、話の中で、お囃子に関しても多くの ない、新住民の方の一人である。お子さんが 人が語ってくれた。「くらやみ祭り」における 三人いて、三人とも子ども会に入ってお囃子 お囃子は明治期に入ってから行われるように の踊りを習っている。本町青年会に入った理 なったので、神輿渡御などに比べると歴史は 由として、「朝囃子で山車が来た時に、うちの 浅いことになる。しかし、お囃子は年間を通 近くの公園でおばさんたちが豚汁を作って配 して町内の結束を強める働きをもつ、という るんです。そういうおばさんになりたくて。 ことが言える。年間を通し、お祭りやイベン でもなかなか入れずにいたところを、近所の トなど、様々な機会で本町のお囃子は演奏さ 人との立ち話で入るきっかけを得たんです。」 れる。そのたびに町が一体となってお囃子の さらに「昔からの人たちがほとんどで、な 調べ奏でることによってさらに結束が生まれ かなか参加できるような雰囲気ではないんで るのだ。また、本町のお囃子に誇りを持つ人 すよね。子供はそういうのがないから素直に も多い。ここから、地域に対する帰属意識が 入れるけど。だから、お祭りのときに本町の うまれ、人と人だけでなく人と地域をつなげ 半纏を着て、後ろの方で山車についていくだ ることにもなっているといえるだろう。祭に けかな。」とも話していた。他の青年会の方に 対する愛情や誇りが地域への帰属意識を生み 話を聞いても、新住民を排除するようなつも 出し、さらに本町という地域が自分の居場所 りはなく、むしろ積極的に参加して欲しい、 となっているのだ。 というようなことを言っているのだが、新住 人と人のつながり、人と地域のつながり。 民の方から見れば、昔からの住民との間に、 この2点が互酬という交換様式を軸としたく どうしても壁を感じてしまうようだ。参加し らやみ祭における人間性の回復であるといえ たくても、なかなか中に入って活動すること る。 111 第 5 章 まとめ 3) 東京都府中市の中心に位置する「大国魂神 1 章でまとめた現代資本主義社会における 社」の例大祭で、毎年 5 月 3 日から 6 日の朝 非人間化のプロセスと、「互酬」の可能性につ にかけて行われ、5 日の神輿渡御の際、町の いての理論に、3 章で挙げた聞き取り調査を 明かりをすべて消して真っ暗闇の中で行われ 照らし合わせ、考察することで本稿のまとめ ていたためこのように呼ばれる。 としたい。 4) 本町にはお祭りに関わる組織として、中学 現代資本主義社会においては 4 つの交換様 生までの子供を集めた「子ども会」、高校生か 式のうち、「商品交換」が支配的であり、その ら 30 歳台までが加入する「青年会」、40 歳 ことによって人と人の関係が「物象化」され、 台から長老までが加入する「町会」とがある。 それが人間の人格の「物質化」にもつながっ 筆者が今回調査に入った青年会は 3 つのグル ていく、ということはすでに述べた。筆者は ープの中でも実働部隊的な役割を果たしてい それを受け、贈与と返礼からなる「互酬」と る。 いう交換様式に、人間性を回復しうる可能性 5)『世界共和国へ―資本=ネーション=国家 を見出した。これらのことを聞き取りに照ら を超えて』p38 し合わせると、祭りのメリットとして本町の 6) 松平誠『祭りの文化 都市が作る生活文化 中や他の町内との関係性を挙げることは、現 のかたち』有斐閣選書、1983 年。 代資本主義社会の中で進む非人間化のプロセ 7) 折口信夫『折口信夫全集三巻』中央公論社、 スによって失われた人間性を回復しようとす 1955 年。 る取り組みなのではないだろうか。 8) 例祭(れいさい)とは、神社で毎年行われ る祭祀のうち、最も重要とされるもののこと。 生活に必要な賃金を得るために自分の労働 力を売ることは「商品交換」の概念に当たる。 9) 子孫。後胤 ( こういん )。 そこでは、業種により多少の違いはあるだろ 10) 国造(くに の みやつこ・こくそう)は、 うが、自分を労働力として売り賃金を得ると 律令制が導入される以前のヤマト王権の職種・ いう点において人間が物質的形態をとらざる 姓(かばね)の一つである を得ない。祭りで人が集まり、人々が互酬で 11) 国府(こくふ)は、日本の奈良時代から つながっていくということは、資本主義社会 平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設 によって失われた人間性を、人と人の関係性 が置かれた場所や都市を指す の中で回復していく、というようにとれない 12) 国衙(こくが)は、日本の律令制におい だろうか。 て国司が地方政治を遂行した役所が置かれて 本稿のはじめに著者は現代における人間の いた区画を指す用語。 内面の変化とそれに起因しているであろう社 13) 江戸時代、宿場町としてにぎわった時の 会問題について挙げた。祭りによる人間性の 中心部。本町、馬場、新宿、八幡町の 4 つの町。 回復はそれを解決する糸口を与えてくれるの 14) 松平誠は「祭りの文化」のなかで、祭り ではないか。 の中に「祭儀」と「祝祭」が内在する、とと らえている。「祭儀」とは神職者中心で営まれ、 形式、伝統を重んじ厳粛な神事として「とら 【注】 1) 柄谷行人著『世界共和国へ―資本=ネーシ えているが、「祝祭」はそれとは対照的で、町 ョン=国家を超えて』岩波書店、2006 年。 方が神を喜ばせ、賑わいをつくるために山車 2) 坂元忠芳編纂『講座 現代教育学の理論 (1)』 や練り物を出し、お囃子などで賑やかす、い 青木書店、1982 年。 わゆる「付け祭」である。 112 まちづくりにおける共生・協同の可能性と課題 ―大分県中津市下郷地区を事例にして― 萩原 捷 第1章 はじめに 第2章 研究概要 われわれの地域社会は、戦後一貫した経済 1 研究の目的 成長優先の開発により共生・協同のしくみを 本研究の目的は、中山間過疎の農村地域の 失ってきた。今日、グローバルな市場経済競 生活社会における共生・協同をなす主体形成 争主義と財政問題を動因とする地方分権政策 の可能性に限定して考察する。 のもとで地域住民は主体的にまちづくりへ参 その際、「協同」を「(持続可能な)地域づ 画することが求められている。 くりのための協同と主体形成」(1999、山田 特に、地域社会における生活環境の保全・ 定市)に示される「西欧市民社会の民主主義 改善へのさまざまな住民欲求の拾い出しは、 の一つの動きとして地域社会における多彩な 画一的行政サービスから落ちこぼれ、競争的 社会活動と住民自治に関わる活動。勤労市民 市場経済からも見放されてしまう性格が強い の<生活世界>における民主主義的力量の内 ものであり、地域住民の主体的なまちづくり 実を示すと同時に経済活動に裏打ちされた住 には共生・協同が不可欠である。 民自治 4)」に依拠して考察する。 既に、地域住民による主体的なまちづくり 前述の真野のまちづくりの検証では、「まち 実践と協同の成果を挙げてきた神戸市の真野 づくりとは『地域資源と人びとの循環系』の 地区を研究対象とし「持続可能な社会のため 構築であり、地域住民の協同の実践に拠る」 の教育 ( ESD )」の視座から地域住民の主体 とした。更に「協同は地域住民の個々人が持 的な行動が協同を契機に構築されてきたこと つ多様な価値観を相互に理解し認め合う主体 を検証し、協同の形成に関わる主体の学習と の協調の行動である」と規定し、その「持続 発展の課題の析出を試みた 1)。 可能な協同の契機」として「多様な価値観を 「真野のまちづくり」と時期を同じくして 『つなぐ力』と遍く住民の欲求を拾い出し、地 戦後の農地改革を始点に困難な農業環境条件 域の課題として価値観を共有し、協調の行動 を有畜複合・家族経営規模の農業で克服し、 「産 を実践するための『重層的なしくみ』の構築 直」によって農産物を流通資本に託すことな と連携が求められる」とした。本稿では、グ く消費者と直接に交流するなど自主・自立の ローバルな競争的市場経済主義のもと過疎化 地域づくりを成し遂げてきた、大分県中津市 の進む農村においても「地域の多彩な社会活 の「下郷農協 」とその生産者や地域住民の 動と経済活動に裏打ちされた地域住民の共生・ 運動の沿革に注目して地域生活協同の実践の 協同による自立と主体的な自治は保障される」 成果と課題を多角的な視座・視点から共同調 のかを検証する。 2) 査 する機会を得た。 3) 今日の過度な競争的市場経済社会において 2 研究方法 中山間過疎地域の地域づくりと「共生・協同」 研究方法としては、真野のまちづくりの検 の再生成こそ喫緊の課題と思われる。 証方法と同様に 「 持続可能な発展のための教 育 (ESD)」 の視座で下郷農協の指導者や外部か ら下郷に移り住み農協の外側に身を置きつつ 113 下郷の生活文化活動に関わる住民、及び産直 4 下郷農協の産直事業 の消費者側に在って下郷を見つめ続けてきた 下郷農協と地区の農業協同を劇的に発展さ 責任者のインタビューから考察した。 せた 「 産直事業 」 の誕生は、戦後間もなく唯 一の換金商品であった薪炭を北九州市のまち 3 対象地区の概要 5) の炭屋さんに売り歩いたことに始まる。その 下郷地区は、大分県北部の周防灘に面する 後、入植酪農家の牛乳を炭の販路を活用し、 中津市の中心から山国川沿いを内陸へ 27 ㌔ 多くの下郷出身労働者の協力と支持を得て戸 程逆上った耶馬渓町の中ほどに位置し、四つ 別直販する新たな流通の仕組みが創られた。 の支流沿いのわずかな農地以外は奇岩の渓谷 都市部には農村出身の労働者が多く、農村 と山林の地である。山林面積は 4000 ㌶を超 の野菜や卵・味噌・醤油ある時は河原の漬物 すが耕地面積は 250 ㌶に過ぎなかった。 石まで、消費者の要望される農産物を直接消 その後の開拓耕作地ともども耕地としては 費者に届けることが産直事業の基礎となり、 土壌表層土が薄く痩せた地形・気候条件下に その売上高が下郷農協の経営基盤を築き「食 あり、酪農の導入と有畜農業による土壌作り 品を資本の具にしない」原則が確立した。 が求められた。 産直事業は、1960 年代の高度経済成長期 1946 年 10 月の農地解放により約 90 ㌶が に地方都市の急成長と団塊世代の成長等と共 小作農民に解放されたが、戦前からの旧地主 に 事 業 化 さ れ 発 展 し た。1970 年 頃 か ら は、 層への抵抗運動として農民組合が結成された。 各地の消費者グループの求めに応じて消費者 当時、山林地主と旧農地地主の対抗関係に加 生活協同組合の設立を支援して「戸別直配」 えて地主層と新自作農の対抗関係が熾烈を極 から「班直配」や「緑のハコ 7)」方式の採用 めたという。 な ど 変 遷 し つ つ 展 開 し た。1990 年 代 以 降、 1948 年 5 月自作農が新しい農業経営を協 バブル経済崩壊に伴う企業の雇用縮小や都市 同して行なう農民主体の「下郷農業協同組合」 労働者社会の雇用形態の不安定化と結婚適齢 が設立された。発足時は下郷地区の農地の約 期の高齢化や自然出生率の低減から消費都市 三分の一の 90 ㌶、関係耕作者 360 人のうち の需要急減が産直事業を直撃し、急速に衰退 参加できた組合員は 108 名と旧地主層の圧力 を余儀なくされた。 を受けた。 現在は小倉区徳力団地における産直ショッ 2 ヵ月後の同年 7 月旧地主層による「下郷 プのような「拠点直配方式」に切り替えられ、 第一農協」が組合員数 200 余名で設立され、 消費者グループの協力で再配されるしくみに 新自作農と旧地主層の二つの農業協同組合の よって産直はかろうじて維持されるものの、 対抗関係が激化する。その後下郷第一農協は 消費者一人ひとりと下郷農協の各生産者との 市町村合併時にJA中津に吸収合併され、そ 直接の関係は縁遠くなった。 の過程で多くの組合員が下郷農協に転じた。 産直事業の衰退とは裏腹に、下郷農協は大 現在の下郷地区 ( 下郷農協の対象地域 ) の 手量販店に請われてインショップ出店し産地 人口は 1,783 人、世帯数 632 戸、下郷農協の 直送・直販の事業シェアーが急拡大すること 組合員数は 507 名、農地 205 ㌶、準組合員 となり、下郷農協と組合員の経済的基盤を支 は 454 名と 19 団体となっている 6)。 えるまでに至ったが、自ら食品を既成の流通 (資本)のしくみに委ねかねない問題を内在し ており不特定多数の消費者と生産者との距離 を縮められずにいる。 114 は物々交換で周防灘の塩を得て農家が持って 5 考察の制約 下郷の有畜複合・自給自足・家族経営規模 いた大豆の活用により味噌・醤油を生産した。 の農業実践と開拓入植農家の受け入れ・融合、 当時、貴重な食材であった味噌・醤油等を周 産地加工事業による地区内雇用と家族経営農 縁の都市労働者へ換金に売り歩き、農協の経 業の支援、食の安全・安心の産直事業を通じ 営と組合員の生活を経済的に下支えした。 た消費者との直接交流、あるいは地区住民の さらには、国の食糧増産と復員者受け入れ 共生・協同の福祉事業、生活文化運動や農協 施策としての開拓地指定を受け、下郷農協で 祭り等、その沿革には多様なしくみと変遷が は劣悪な農地の土壌改良と総合的な地域農業 含まれ全てを把握するのは容易ではない。 生産体制確立のため、1950 年代初めと 1978 他方、農業をとり巻く規制改革等推進政策 年に他県から酪農志望の入植者を迎えて 「 有 と農業の完全自由化(FTA)のもとで農業・ 畜複合・家族経営規模の農業経営 」 を営農指 農協改革という名の小規模農業・農協潰しの 導し、新自作農業者と入植者の融合と協同に 圧力下にあり、下郷のみならず零細な中山間 よる「有畜総合の農業体制づくり」が図られた。 地農村の農業者の生産活動や生活も多大な影 入植者には農協共済から事業資金の貸し出し 響を受けており、本稿に整理・把握される事 がなされたが、その返済が滞って破綻しない 象には極めて過渡的な事柄が含まれる。 よう農協幹部が手分けして月々険しい道を分 け入って訪問指導したという 9)。 第3章 下郷農協・地域・消費者協同 通常、農協は共販業務に関しては組合員か 1 農協と組合員の協同 らの委託販売とし手数料業務化しているため、 下郷は、今日でこそ奇岩のそそり立つ景勝 生産者側の利益のためというよりは市場と資 地として交通の利便な観光地とされているが、 本に従う傾向が強いといわれる。下郷農協は 農業生産環境としての地形的土壌・気候的条 1953 年には換金作物として野菜中心への移 件は劣悪で、耕作可能面積の制約から歴史的 行を消費者から学びとり、家族経営規模の農 に生産力の低い貧農過疎のムラだったといわ 業の振興と農産物を資本の具としない産直販 ざるを得ない。戦後の農地解放による小作人 売システムにつなげ、人参一本・ニラ一束で の自作農化とそれに伴う旧地主勢力との対抗 も引き受ける生産者側に立った農協運営に徹 関係の熾烈化の中、農民組合に結集して協同 し、今日では高齢者の農業を支えている。 せざるを得なかった下郷の農民は小作の時に 直近では、2005 年国と県の 「 県下一農協 」 は成しえなかった長期に渡る有機土壌づくり 政策に組合員と農協は一致して反対し、過疎 を成し遂げ、自給自足の生産から商品作物の の農村と小規模農協の切り捨て策に協同して 生産ができるようになった。 対抗する決議がなされた。下郷農協の組合員 は「私に何が出来るのか 10)」を合言葉に地域 農民組合に結集した 2 年後の下郷農業協同 農業協同体へ共闘する意思の確認が図られた。 組合の設立に際し、旧地主層による巻き返し 的な下郷第一農協の設立と旧小作人への参画 強制という圧力をかけられたが、 「自分達の 2 農協と地域住民の協同 農業を協同して育み自給自足の農業を獲得す 下郷の地域には地区ごとの「寄り合い ( 常 る」下郷農協の発足が対抗の支えとなったと 会 )」や「婦人会」など各種生活文化活動が組 いう 。折しも、高度経済成長時代に先立つ 織されると共に 「 有機野菜研究会 」 や 「 養豚 特需景気で北九州市など工業都市の復興期に 組合 」 など 「 生産者組合 」 が並存する。地域 下郷の農民は農閑期の炭焼きを増産し、農協 の住民は個々に複数の組織に参画して地域の 8) 115 生活協同をなすだけでなく、下郷農協も寄り 庭内のニーズに対しデイケアーサービスセン 合い等に参加して情報交換や地域の欲求の拾 ター・ふれあいの場・診療所など順次設立し、 い出しの場とされてきた。 事業として地域の生活を支援する。 北九州市の都会に育ち下郷の農家へ 11 年 下郷農協は参加組合員のみならず地域の住 前に嫁入りしたY・Kさんは「下郷の人は、学 民とも協同のしくみを形成し、行政サービス 校で習った民主主義とは違って誰も他人の意 の不足を事業化して取り込むことで、営農指 見を否定も反対もしないの。皆自由に自分の 導・共同購入・共同販売・与信共済の「総合 意見を言い合って理解しちゃっている」「どう 農業協同組合」から多彩な社会活動と住民自 して一つに決まっていくのか判らなかった。 治を自立してなす「総合地域生活 協同組合」 でも、あそこの家のお父さんはどういう考え としてのしくみに昇華したと考えられる。 4 4 4 4 か、その息子は違う意見だということは良く 分かった」という。将に、農協と地域住民の 3 酪農入植者と在郷農業者との協同 自己確認と相互承認の過程を生み出す、時空 初期入植者達は戦後の国の開拓施策とも相 システムであり主体生成システムと考えられ まって遠く長野県を中心に各地から転入して る。 きたことと、その後の入植者も有畜・酪農業 毎年、秋に開催される農協祭は 1957 年に 生じた暗い弾圧事件 に人生を賭けて入ってきたこともあり、事業 の中、組合員の元気を の発展・安定と共に出身地への郷愁を抱きつ 引き出すために農協で開かれた余興会に始ま つ下郷を終の棲家とする決意が下郷の地域社 るが、今では中津市一番の参加者数と賑わい 会への融合を積極的にさせる動機だったよう を誇るといわれる。参加者は下郷の住民だけ だ。入植者達は互いのふるさとの民謡を教え ではなく、近在の市町村や遠く博多・北九州・ あい、手作りのガリ版刷りコミュニテイ誌に 関西からの人びとも参加するという。まちの それぞれの想いを順番に書き綴ってお互いを 人びとはそれぞれが所属する活動組織の催事 知りあったという。さらに、入植者達の地区 に自らの思いと役割で参加して活動し、だれ の寄り合いでは在郷の農家の人を高台の開拓 からも指示されることはない。 地に招いては 「 口説き 12)」 を伝承され、在郷 11) 各活動組織と農協はそれぞれの前 ( 例 ) 年 農民の人たちとは互いの盆踊りを踊って輪を の実績としきたりで互いを侵すこともなく整 一つにしていった。入植者と在郷農民との融 然とそれぞれの催事が相互に承認され実施さ 合の原点が生活文化の共有にあった。 れる。農協は、主催者事務の責任を負うだけ 入植者の酪農が果たした役割は、生産性向 であって、農協自身も一参加者として催事を 上という名の資本による 「 金肥 」 全盛期に有 重視している。そこには、責任と義務のため 畜堆肥の土壌つくりに寄与しただけでなく、 の垂直的な権限組織社会には無い、誰もが水 肥育牛・豚や牛乳など酪農品の処理・加工場 平的に存在して互いを見つめ合いつつ尊重し を農協が設備投資して在郷農業者の嫁達や次 て協調の行動をとる。地域住民の協同をなす 男三男の雇用の場を提供した。その付加価値 主体性形成がなされている証しであろう。 の高い酪農加工品により蔬菜中心だった産直 下郷農協は農民主体の農協として地域の寄 事業の拡大に寄与し、その後の米や農産物の り合いや各生産者組合から得た要求に基づき、 自由化による零細農業者への打撃を最小限に 惣菜加工センターや食肉・牛乳処理工場を設 食い止め、地域経済を下支えしたのである。 立経営して農家と地域住民に雇用の場を創出 し、又地区の就農家族に負担となっている家 116 4 産直による農協と消費者の協同 5 産直による生産者組合員と消費者組合員 1960 年鎌城台地の開拓者 13) による酪農の の協同 定着化により農協が処理した牛乳を地元に直 下郷農協が生産者・地域住民・消費者と協 販を始めたことがその後の下郷農協の進路を 同の発展の礎としてきた 「 産直事業 」 は、そ 変えたという。その昔、下郷の農家の次男達 の誕生の沿革にみられるとおり下郷からの都 働き手が職と生活を求めて村から出た先が門 市労働者の人脈を大事にして一つひとつの要 司港・八幡・小倉の人足・郵便・鉄道や鉄鋼・ 望に応えることから事業化されたもので、「 炭鉱などのある北九州市で、その伝手を頼っ 産直 」 とは消費者の要望を 「 直反映 」 するこ て下郷農協が薪炭を売り歩き次いで 「 労農牛 とと同意であった。それは、農村からのモノ 乳 」 を拡販した際、都市労働者の求めるまま の交流をとおして農村から都会にやってきた 自給用の野菜や味噌・醤油などを届けたこと 都市労働者から農業生産者へ心の交流に発展 がその後の 「 産直 」 事業の契機となったこと したという 17)。 は既述したが、そこには「農山村から出ざる 他方、生産者組合員にとって産直事業のし を得なかった都市労働者の故郷や農山村に対 くみは下郷農協の有畜・家族経営規模の農業 する郷愁・想いや食べ物を作っている見えな 協同を進めるうえで最も合目的的だったとい いひとへの信頼の一体感があった 」という。 える。即ち、単位耕作面積の小さな下郷地区 高度経済成長時代以降、国の農政に従う多 では大型機械農業が採りえず、野菜生産は家 くの農協が産地ブランド化・特定作物のみの 族経営規模の農業に適合していたとされるだ 大量生産を押し進め市場に委ねる立場を取り けではなく、米の流通と決済のしくみに比し 続けてきた。Y組合長は「これは農業生産を て比較的生産のための投資額を抑制しながら 流通と販売を優先した市場メカニズムに従う 換金性の高い農業を可能にしたといえる。 14) 発想といわざるを得ない。なによりも地域の 家族経営規模の野菜生産は消費者の動向を 農業生産環境に応じた持続可能な農業の発展 見定めつつ多品種生産し易く、規模の小さな を無視したもの 」と言い、産直消費者のN 生産者組合でも通年多様な農産物を消費者に さんは「食の安全・安心や自然の風味などの 届けることが可能となり、さらには生産者の 期待を約束するものではなく、消費者の価格 立場を優先する下郷農協が買取り制を実施し 選択優先の思考をつくりだした 」と指摘す 続けていることから、今日では高齢者の自給 る。 自足農業のわずかな剰余でも農協で換金でき 15) 16) 下郷農協は、大分県内はもとより九州各地 る喜びをもたらしている。このことは、経済 から下関や遠く四国・関西など産直を求める に裏打ちされた協同のしくみが成り立ってい 各地の消費生活協同組合の組織化を支援し、 るともいえよう。 下郷農協は組合員の協力を得て現地見学会を 「 産直は事業としてだけ考えたらダメ、事 定期に行なうことで各地の消費者と対話とは 業として合わなくても農家のために合うよう 交流を積み上げていった。有機野菜研究会の に農民運動として進めてきた 18)」 ことが下郷 Yさんは、各地の消費者グループの学習会に 農協の成果そのものといえよう。そのうえで、 招かれては農と食の話から料理法までいろい 経済成長と物の豊かさを享受する社会への進 ろ話しする。「私、結構引っ張りダコよ」と屈 展とともに顕在化した 「『食品公害』は、食 託無く披露する。 の工業化・大量生産化の帰結であって、下郷 の『産直』商品に対する消費者の期待は急速 に高まった 19)」 とする産直消費者の食の安全・ 117 安心の要求と合致し、生産者と消費者の協同 事業化を余儀なくされた。下郷の協同の契機 の利益が双方にもたらされたといえる。 を担ってきた産直事業の危機は生産者・消費 しかし、過去、産直で急速に拡販された下 者の協同の希薄につながる問題を表出する。 郷の 「 労農牛乳 」 に対して 「 百姓が汚れた手 産直の消費者運動を続けてきたNさんは「下 でビン詰めする不衛生な牛乳 」 と中傷する風 郷の人ばかりでなく、産地の人たちは都市の 聞 が流されたことがある。産直の消費者協 団地が抱えている問題に無頓着です。都市で 同組合の主婦等はその真偽を確かめるため現 モノをさばきたいなら都市のことをもっと知 地見学会を申し出て下郷の有畜農場から加工 らなくてはダメ。産直が伸びなくなったから 処理施設の全てを見聞きし、衛生状態だけで といって昔の一番良い時に縋ろうとしても所 なく有畜運動の実態を確認した。この現地見 詮出来ないことです」「農業農村問題で産地が 学会は下郷の生産者も消費者の生の声を皆で 大きく変わらざるを得ない事情にあるなら、 共有すると同時に、消費者も生産現場と生産 都市の住民の生活や消費者運動も大きく変わ 者の苦労を学習する機会となり現在も「産地 っています。北九州市のような都市でも若者 見学会」として定例実施され交流と対話が続 がより大都会に出て行って過疎と高齢者社会 けられている。 になりつつあります。近々団塊の世代が続々 20) と定年を迎え、地域社会に戻ってきても生涯 競争に勝つことしか考えてこなかった人びと 第4章 考察 下郷地区での協同の展開過程では多くの課 が地域での奉仕の労働と協同にどこまで参加 題も見出された。 順応できるのか疑問に思う。消費者運動では、 その一つは、生産者と消費者、換言すれば 40 代のリーダーが出てこない現実にどう対処 農村と都会の協同のしくみに成り立っていた するかでしょう。21)」と言い切る。 食の安全・安心運動としての産直事業は、そ この問題を考察するにあたり、山田定市の の基盤としてきた協同のしくみを社会変革に 「地域づくりにおける地域産業の発展は経済 奪われ、その主体性が希薄になってきたと思 的条件の根幹をなす課題であり地域産業は地 われることである。 域的分業を基軸に発展するが、その地域的分 下郷農協の産直事業が高度経済成長期に必 業は地域経済の不均等発展と住民の貧困を深 然的に仕組まれてきたのは、団塊の世代が成 化させる」と指摘し「持続可能な発展の地域 長期にあって地方都市でも世帯人数や地域の づくりは地域産業の持続的発展だけではなく、 人口も上昇期にあったことが背景として考え 個人(地域住民)・地域集団等の生活の持続的 られる。しかし、同時にあらゆるものが工業 な営みが基底に置かれなければならない」「持 化・大量生産化され使い捨てのモノの充足に 続可能な発展の地域づくりは地域社会システ 人びとが浸るなかで食さえもが工業生産化さ ムの構築をめざす実践である 22)」とする提言 れ、いわゆる油症事件など食品公害が社会問 は重みを増す。 題となった。今日でも食の安全をないがしろ したがって、従来の生産者と消費者の交流 にした事件が繰り返される。 による協同の姿は、農村と都市のそれぞれが そのような食をめぐる社会構造の転換期に 拠って立つ規範枠組みを所与のものとする範 あって、下郷の産直事業は消費者市民の食の 囲では、相手方の抱える事情や食の安全・安 安全・安心への期待は高まるものの、消費者 心を学習することにはなっても、それぞれの の高齢化・核家族化による消費量の絶対的目 社会の枠組みを改善することにつながる協同 減りと活動家の後継者不在などから年々赤字 の契機には程遠いといわざるを得ない。 118 第二の課題は、下郷農協のポスト産直体制 の労働力付け替えにはじまり、その後の公共 づくりと地域農業改革に関わって本稿の仮設 投資による財政出動の効率化を目的とする市 を検証するうえで注目しなければならない提 町村合併や農業農村問題と農産物自由化政策 起 23) がある。 のための農業協同組合の集約合併等、下郷で 宮崎隆志は教育の改革・再定義を求める現 は地域経済の持続的発展を危うくされ続けて 代社会の本質的問題として以下のように指摘 きたといえるのではないか。日本の各地には する。「第一に社会編成の主体としての資本の 下郷に類する中山間過疎地域が多く存在する。 私的性格と社会的性格の矛盾、即ち・・・。 それを補ってきたのが、産直事業による自 第二に市民社会と国家の関係変化、即ち戦後 立した地域経済力であり、地区住民による生 日本における資本の蓄積は社会資本投資を媒 活文化全般にわたる協同と消費者との交流で 介にした国家介入に基づくものであり、国家 はなかったのか。さらには「資本と国の支配 の正当性は企業内福祉を中心とする日本型の のための新たな国民的同意を求める必要から 福祉体制によって担保されていた。今、資本 『消費者市民』の概念」が提起されているが、 の多国籍化を契機にして従来型の正当性は維 食の安全・安心を担保するため「食を資本の 持され得ず、市民社会と国家を統一する代替 具にはしない」とする下郷の理念に基づき、 的な論理の確立が迫られている」。そのうえで 下郷の生産者と地域住民は下郷農協の運営の 「資本と国の支配への新たな ( 国民的 ) 同意を もとで企業市民と消費者市民とのパートナー 調達することが現代的な課題である。その際 シップの原始版を試行してきたのではないだ に、期待される新たな市民像が『消費者市民』 ろうか。 で、消費者市民と企業市民とのパートナーシ にもかかわらず既にその試行が破綻をきた ップにより資本は社会的責任を果たし得る。 しており、下郷では産直事業の展開過程に生 又、国も消費者市民の自立を支援することで 成され築かれてきた生産者市民と消費者市民 承認される」という。 との交流と協同を地方分権の社会のしくみに まさに、われわれの地域社会は資本の多国 位置づけられる「新たな協同」のあり方とし 籍化と一切の市場競争主義下におかれ、地域 て見直す必要に迫られていると考える。 社会と国= < 公 > の関係変化に翻弄されてい 第三の課題は、前二つの課題から導き出さ る。信じて疑わなかった企業内福祉を中心と れるものである。即ち、求められる「新たな する日本型福祉体制の担保さえも危うい状況 協同の主体」は<公>の財政出動や日本型福 下にあり、地域社会と < 公 > を統一する代替 祉政策に依存することなく、地方分権下で求 の論理と制度的しくみの確立が迫られている められる地域自治のあるべき姿という視点か とする指摘は、当を得たものと考える。それは、 ら<公>と<私>の中間的存在として求めら 下郷の産直消費者を代表する北九州市の都市 れていると考える。 労働者社会についてもいえるのではないか。 山田定市の提示する「持続的発展の地域づ しかし、下郷地区の住民と農協はその生い くりに求められる地域社会システムの構築に 立ちに始まる沿革から考察するに日本型福祉 は『労働・生産と生活の統一的視点に立つ時、 体制の恩恵に浴していたのだろうか。さらに 課題は地域産業の持続的な発展にととどまら は、農業には劣悪な地形的土壌・気候条件の ず、人間的でより豊な生活に求められる教育・ 克服の過程で必要な < 公 > からの社会資本蓄 学習・福祉・健康・医療など広く文化・芸術 積を得られてきたのだろうか。 を含めて包括する地域文化などの重層的構造 むしろ高度経済成長期の農山村から都市へ についての幅広い認識』を必要とする」を考 119 慮した時の主体的存在であると考える。 地方分権社会でのまちづくりの推進母体とな 前章に要約する下郷の協同の沿革と現況に っていくことであろう。地域住民の協同は、 みられるとおり、下郷農協が主導してきた産 けっして競争的市場主義社会の格差問題等派 直事業はその消費者社会が構造的に衰退し、 生的に生じる諸問題への個別的補完システム 福祉医療サービス事業も福祉保健制度の改定 ではないと考える。 による負担増で圧縮せざるを得ない状態にあ 今後の課題として、「地域住民の共生・協同 るという。他方、地区住民は産直事業に伴う による主体的な自治」を保証するまちづくり 消費者交流や農協祭り等の協同を通じた生活 の「新たな主体的集団」の構築の意義とその 文化全般にわたる持続的な営みのための多様 形成要件の考察が求められる。 なしくみを活用した自立の活動が進められて 今、下郷地区では多くの農業の担い手が「未 いるといえる。 だまだ 70、未だ 80」と高齢化しており、後 したがって、今後の下郷の持続可能な発展 継者が不在である。高齢者の休耕は即耕作地 の地域づくりに求められる「地域社会システ 放棄につながる問題であり、農業問題以前に ムの構築」の条件として、従来のしくみに加 農村存続の問題である。このような中山間過 えて地域住民の再結集組織が主導し、農協が 疎の農村は全国に多く存在することから、喫 協調の行動をとり、<公>が支援するような 緊 の 社 会 問 題 と な っ て い る。 新たなパートナーシップが主体的存在のあり 方ではないだろうか。このようなパートナー 【注】 シップは、真野のまちづくりでもその重層的 1) 拙稿「ESD・環境史研究」(2005、♯ 5) 構造の中にみられ、現在進められる福祉のま 参照 ちづくりでは「ふれあいまちづくり協議会」 2)「 下郷農業協同組合 」( 大分県中津市耶馬 がソフトプランを主導し、「まちづくり推進協 渓町大島所在、代表理事組合長 横山 金也、 議会」がハードプランの計画を進め、それら 1948 年設立 ) を<公>=市・県・国が法制や資金面で支援 3)下郷共同調査 し成果を挙げており、新たな主体の姿を示唆 # 1 回 2006 年 12 月実施、朝岡・山田・野村・ するものがあるのではないだろうか。 手島・敦賀・萩原、 # 2 回 2007 年 3 月実施、 朝岡・手島・敦賀・ 第5章 おわりに 萩原 以上の考察から本稿に仮設する「地域の多 4) 「 農と食の経済と協同 」(1999、 山田定市 ) 彩な社会活動と経済に裏打ちされた地域住民 5 )「 下郷農協のあゆみと産直品 」(2005、下 の共生・協同による自立と主体的な自治」は「新 郷農業協同組合 ) 及び 「 新下郷農協 」(1995、 たな主体の構築」の課題に置換される。「新た 奥 登他 ) より な主体」は地方分権社会と新自由主義という 6 ) 中津市インターネット掲示板より 名の競争的市場経済主義社会において<公> 7 ) 産直商品の一つ、予約価格に応じた有機野 と<私>の中間に存在するものとして確立さ 菜等が定期的にセットで届けられるしくみ。 れることが求められていると考える。 8 ) 「 新下郷農協物語 」(1995、奥 登他 ) より さらに、広く市民は自らの主体性と自立し 9 ) 下郷農業協同組合 代表理事組合長 横山 た行動をもって、「新たな主体的集団」に参画 金也氏インタビューより し協同することが求められる。この「新たな 10) 横山金也氏インタビューより、’ 05 年農協 主体的集団」こそが、経済的裏打ちを持って 合併問題の臨時総会における「年度事業計画 120 の大幅な圧縮と農協・職員・組合員の三者痛 み分け案」審議中の言葉として 11) 新下郷物語p 40 ~ 42、1951 年釜城台 地の共有林の一部特権地主による不法過伐採 訴訟に関わった下郷農協幹部・組合員のGH Qによる不法逮捕事件 12) 木遣り・盆踊りなどの民謡、地域の叙事 的な長編物語の単純な節回しの歌。伝承。 13) 下郷鎌城地区、1952 年長野県からの入植 者(7人)による酪農開拓地、 14) 小倉区徳力団地 下郷農協産直ショップ 代表 能見聡子氏インタビューより 15) 横山金也氏インタビューより 16) 能見聡子氏インタビューより 17) 下郷農協玉麻参事(当時)発言記録より 当時、産直品を定期に届けていた農協職員に 徳力団地の消費者から流行後れとなっただけ の古着の提供があり、農協は地域住民に公平 に分けたという。 18) 前記 「 新下郷農協物語 」p77、横山組合長 19) 能見聡子氏インタビューより 20)1965 年 21) 能見聡子氏インタビューより 22)「 農と食の経済と協同、14 章 」(1999、 山田定市) 23)「 協同の社会教育 」(2003、 宮崎 隆志 ) 121 女性問題学習から国際平和へのプロセス 秋山 典子 第1章 はじめに ないか」と私は提案した。この話し合い(分 公民館での学びは、学習者自身に大きな生 科会)形式の提案には、「みんなが、楽しいも き方の変化をもたらす。筆者自身も 36 才こ のでなければ参加しない。」「そんなことをす ろから始めた「婦人 ( 女性 ) 問題の学び」、 「戦 るから、公民館は敷居が高いと言われる」な 争の歴史の学び」、「人権の学び」によって変 ど反対の声があったが、つどい実行委員会の 化した一人である。ここでは、変化した自身 中で何度も意見を交わし、ついにその提案が を振り返りながら、どのように学習が継続発 通った。 展してきたか、更に女性問題学習から平和学 そして、待望の「女が学ぶこと」というタ 習へ、そして現在大いに関心をもち活動する イトルで、一つの分科会を設定した。私たち に至った「国際平和」との関係を明らかにし 市民の主導で、「女」ということを敢えて取上 たいと思う。 げ学ぼうとするのは、福生の公民館学習にお しかし、あらかじめ断っておけば、これら いて初めてのことであった。 は決して私一人の力で学び取ったものではな 分科会では、第1に「子どもの成長に大き く、仲間との相互の学びであり、またそこに く関わる母親自身が、人として・市民として はいつも一人の公民館職員(故加藤有孝氏) 学びたい時、公民館をどのように活用するの の学習支援があった。学びに人権の視点を据 か。また公民館は、どのような役割を担うの え、社会科学的且つ系統的に学ぶことの大切 か」、第2に「女、妻、母の三つの側面を持っ さを実感した。 た女たちが、各々のどのような状況にあるの か。その中で社会参加しようとする時にどん 第2章 婦人たちの取り組み思いを形 に学びをつくる な問題にぶつかるのか」という二つの柱を設 1「女のつどい」のはじまり(1983 年) 記録集を見返してみると、この「女が学ぶ これから、振り返ろうとする 1980 年代は、 こと」の分科会には、20 代から 60 代までの 婦人が持つ内的な課題や婦人を取り巻く社会 女性が参加し、おおよそ 60 人の女性たちが 的状況の解決の学習を「婦人問題」と呼んで 代わるがわる、何故サークル活動に参加して いた。 いるかを一人ひとりが事例発表している。そ 1983(昭和 58 年)年 7 月、福生市公民館 れは、一見取りとめの無い様にもみえるが、 の第二回「公民館のつどい」において、その それ程の発言があったということを思い出さ つどいの形式を前年の形から少し変えてみよ れる。 うと試みたのが「女のつどい」の始まりであっ それらの事例の中に見えてくる女性の置か た。「年に一回、市の公民館3館が集まる催し れている状況は年代によって異った。このた なのだから、ワイワイガヤガヤと言葉を通し め女性の抱える問題の見え方が全く違ってお て交流してみよう。そうすれば、『公民館って り、それらを同じ根っこの問題と認識するに どんなところ』あるいは、『私たちの足元にあ は、もっと時間を要すると実感した。開催前、 る課題について』もう少し共有できるのでは 参加者の年齢に幅があり、経験に基づいた良 け、そのまま分散会テーマとした。 122 い討論を期待したが、現実はそれ程甘いもの 動そのものもが、私たちの学びの力をさらに ではなかった。 付けていくことなのだと実感した。 例えば、子どもを負ぶって参加している 記録を作る作業は、単なる作業を意味する 20・30 代の女性たちは、「子どもの世話とテ のではなく、作業を通してして他者の発言と レビに向き合う孤独な毎日から抜け出すこと」 自分の発言を自ずと振り返り、そこから次な が最大の課題であったが、60 代女性の参加者 る課題を引きだす作業にもなる。 は、そんな彼女らを見て「なんと贅沢なこと を。子宝に恵まれていながら、不服を言うとは。 3 学習の場で、戸惑う仲間たち「若い母親 昔は教育勅語があり、女たちはしゃんとして が学習することは、贅沢なのだろうか」(女の いた。」と、叱責した。 つどい、パート II、1983 年 9 月実施) そして公民館活動への参加動機については、 出来上がった記録集を手にしてページをめ 「これまで、舅に仕え家庭円満に力を尽くして くりながら、「このままにして置けないね。」 きた。或は、今までは、家庭のためにじっと という声が、2・3人の人から確認し合うよう 耐え家庭内の義務を果たした上で、この年に に出された。 なって公民館で楽しくやっているのだ」と発 つまり、婦人が抱えている問題は世代によっ 言している。その発言の勢いは、若いお母さ て異なるものとされ、世代間の問題意識の んたちを萎縮させた。そして、決定的だった ギャップを埋めることが出来ないまま終わっ のは、60 代の女性の一人が「こんな可愛い子 た分科会を何とかしようという思いだった。 がいながら、何でこんな所に出てくるの、か 世代によって見えている現象や問題の側面 わいそうに。子どもが小さい内は家にいるも が違っていても、婦人・女性として内面に意識・ のよ」と 20 代の母親に言い残して、会場を 無意識に抱えている問題や、暮し中で直面す 出て行ったことでだった。 る外的問題の根っこは同じであるということ 当然のことながら、若い母親は憤懣やる方 を、見えるかたちにできなかったという反省 ない顔で、「どうして。何故、若い母親が学習 であった。 することがそんなに贅沢なことなの」と言っ 私は思いを共有する 6 人と世話人となり「女 たのだった。このつどいを企画した者として のつどい パートⅡ」の準備を始めた。「同じ 「このままではすまされない、この率直な問い 女でありながら、世代間ギャップは何処から かけに応え、世代間の溝を何とかしなくては」 来るのだろうか」と話し合い、「各世代の女た と思った。 ちが、歴史的事実に目を向け、或は現実的実 態を社会科学的に見ることができれば、互い 2 自らの手で「記録」する の状況をもう少しは想像しできるのではない つどい終了後、私たち市民の手によって記 か。」ということになった。 録集を作ったが、これも福生市の公民館では そして、過日の「女のつどい」の分科会席 初めてのことだった。ワープロもパソコンも 上で浴びた言葉への率直な疑問を、そのまま ない時代ですから、分担した証として、ペー テーマに「若い母親が学習することは、贅沢 ジによって書き手が異なり、字体が異なった。 なのだろうか」とした。そして、この度は社 編集作業の中で、作り方の不備に気付き、人 会科学的に学ぶために、公民館の女性職員に と手をつなぎ知恵を出し合い工夫することを 「ライフサイクルの変化」について報告をお願 学んだ。自らの手で学習集会を開き、その後 いした。 自らの手で記録集をまとめるという一連の行 ライフサイクルの報告を聞き、「ああ、そう 123 なのだ」とうなずく一方で、 「だからといって、 ていこう」と結論を出し、「学びの決定」に主 私たち ( 女 ) が、学びたいと思うことは贅沢 体的に取り組む意思が明らかになった。 なことではない」と、言い切ることができず テーマ決定は繰り返し話し合った。「女の自 揺れる発言をしている人がいた。 立」「世代間のギャップ」など、もっと話を また、20 代の母親たちを見ると、このよう 深めたい。「学ぶと言っても、私たちは何を学 な話し合いの場で、生活や自らの内面を話す んだら良いのか」「女もやっぱり、経済的自立 ことへの戸惑いが窺えた。 がなければ」「一体何を学ぶのか。『保育が必 公民館という学びの場に立って、新しい活 要』と声を出していく裏付けになる学びとは 動や人との出会いに、どうしようかという様 何か?」などなど。ところが、流れは「女の 子伺いのような状況が見て取れた。 自立」を目指すことと、公民館で学習サーク 初めて、このつどいに参加した F さんは、 ル活動をすることとは、相反する現象である 次のように感想を述べている。「みんなの意 かのような、強烈な言葉が飛び交い始めた。 見を聞くだけに終わってしまった。とても多 つまり、 「経済的自立こそがまず第一である。 くの課題を突きつけられた。『子どもは 3 歳 公民館での学習・活動は、専業主婦であるこ になるまでは、母親は外に出て学ぶ必要はな とを肯定することに他ならない」と専業主婦 い』と A さんの発言を聴くとうなずき、また 批判にも似てきた。私は、「経済的自立のみを B さんが、『社会の動きの 3 年は大きい。子ど 女の自立とせず、いま一度基本的に人間とし もが2・3人いれば、9 年も家に閉じこもって ての自立とは、どういくことか考えてみよう」 いることになる。母親は多くの人とかかわり、 と提案し、やっと落ち着いた。(しかし、この 視野を広げていくことが必要』と言えば、そ 意見の対立はその後 1985 年頃に、ピークと れにもうなずき、どっち着かずの自分を不甲 なる。そのことは、また後に触れる。) 斐なく感じました」と。 事例発表者には、これからパートタイマー また、ある参加者は、「本当に学びたいと の職を得て働き出そうとする K さん、そして 思っている私たちが、子どもを安心して預け、 もう一人は、今まで働き続けてきたが、今回 子ども達も成長できる場を設けて欲しい。そ 仕事を辞める決意をした Y さんをお願いした。 ういう姿勢を強く出していくことが必要であ Kさんは、「男だけが働き、お金を得て家族 ると思う。そして、政治の流れ、社会の動き、 を養う。しかも長時間労働の夫は、自分らし 経済の動き、そして子どもの教育などなど、 く生きられない。妻も夫も共に働き、自分た もっと学んでいきたい」と述べた。 ちの楽しみの時間を共に大切に生きたい。公 民館活動はおもしろいが、甘さを感じる」と 4 割れた意見―分裂の危機 「人間としての 述べ、またYさんは、「結婚の時も、一児、二 自立」(女のつどいパート III - 1984 年 2 児の出産の時も、仕事をやめようとは思わな 月実施) かったが、今何故やめようと思ったか。それ 世話人として、1 回、2 回と女のつどいの は 30 歳になったら、何か今までとは違うこ 企画実施してきたが、準備・実施、その後の とをしてみたいと思ってきた。しかし現実は 記録集の編集・発行など少しずつ世話人の肩 仕事と子どもの世話や家事におわれ、本もろ を重くした。しかし、準備会として呼びかけ くに読めない。和裁もしたい。点字も学びた ると 6 名が再び集まり、誰もが「学習を続け い。仕事の忙しさに精神的ゆとりはなくなり、 る意味がある。私たちが準備して呼びかけれ 保育園を嫌がる子どもにイライラする自分に、 ば、集まりは開ける。自分たちの学びをつくっ 大きな疑問を感じた。おばあちゃんが息子に 124 対して過剰な自信を持つことへの不快感など、 儀なくされているのが現実だ」と、子どもを 焦りや不満の気持ちが大きくなり、仕事をや 抱えて生きる女性の鋭い告発であったように めようと決意した」というものであった。 思えた。 ここでは、「家事労働は無価値か。賃金を得 また、一方で印象的だったのは、「働くこと る仕事のみを労働を言うのか。また、地域で イコール賃金を得ると言う風潮の中で、社会 の活動はどう捉えたら良いのか。主婦ができ を広く見据えた時、賃金を得ることだけが人 るプロの仕事とはなにか」など、熱い討論と 間としての自立になるのかという疑問が、さ なった。ともすれば、自分と同じ意見や考え らに膨らんだ。男社会の仕組みに入った女た に片寄りがちな女性たちですが、わざわざ異 ちが、働き方によっては現実の経済社会のひ なる事例を提起したことで、二人の意思決定 ずみの片棒を担ぐことになり、女の地位を自 に主体性を見てとり、その上で自分はどのよ ら下げることになる。そして、そのひずみの うに考えるかという学習であった。 ある社会で子どもも障害者も生きることにな る」というものであった。ここでも、「働く」 5 「女が働く意味を問う―自立へのあしが という一つの行動を様々な側面からみていく かり―」 (公民館のつどい第2分科会として ということにはなったが、頭の中での議論と 1984 年 7 月実施) いう点も否めない。 「人としての自立とは」を討論した前回では 様々な意見が出ましたが、共通していること 6 専業主婦批判・パートタイマー批判と女 は、「女も、働くことは大切である。その働き 性の連帯 を通して、他が見えてくるプロとしての働き 引き続き「女のつどい」の世話人であった を大切にしたい」ということだった。それを 私も、当時は専業主婦の一人でした。準備会 受けて、1984 年の公民館のつどいでは、「女 の中で度々専業主婦批判とパートタイマー批 が働く意味を問う―自立への足がかり―」を 判が会のメンバーを二分する険悪な状態を引 テーマに分科会を設け、更なる討論を深めよ き起こした。私は、別件で学習会の講師を依 うと決めた。 頼した金城清子氏(当時、東京家政大学・弁 事例発表は、働き始めた K さんと地域の子 護士)に宛て、その悩みを手紙に書いたこと どもを対象に遊ぶ会の活動をしている N さん を覚えている。金城氏は、「女子教育もんだい であった。 季刊 = 秋」No.25 の特集、「国連婦人の 10 ここでも様々に意見が提起されたわけだが、 年と日本女性のこれから」の「女性の連帯」 その中でも「経済的自立とか、精神的自立と という項目で、次のようにのべている。「女性 か言う前に、現実の社会の仕組みがどうなっ が働くことについて、女性の間でさえコンセ ているかを踏まえた上で、パート労働が自立 ンサスが成立しているわけではありません。- になるかどうか考えてほしい。パート労働は 中略 - 働くことは、女性が自立して生きてい 資本家の労働力搾取そのもの。人間として経 くための条件であること、- 中略 - そして女 済的に生きていかれる状況であるならば、女 性が働くことによって社会参加していくこと も子どもを抱えて自立できるはずではないか。 が平和な、より良い社会を形成していくため それが、本当の意味で当たり前の社会ではな の基盤の一つであることを踏まえて、この点 いのか。私にとって、自立とは、自活すること。 についての女性の間でコンセンサスを形成し 自分の生活は自分で責任を果たすこと。女の ていくとが望まれます」と。 自立となると、それは自発的というより、余 その上で、私が出した手紙を全文引用して 125 いる。ここでは一部を紹介する。「主婦の存在 か知ろう」ということで、差別撤廃条約をテー そのものが社会悪と言う声を耳にしながら、 マとした。あわせて、 「女の社会学、男の家庭学」 無償の活動に力を注ぐ自分に言い難いジレン 金森トシエ著の一部抜粋も読むことになった。 マを感じます。『働いていない女は一人前では 記録集を読み返すと、私は感動ともとれる ない』とさえ言う同性と共に、差別をのりこ 発言をしてる。「男女平等とか差別をなくすこ える学習や活動を続けています。 - 中略 - とが、これほどの大きな視野(国際的視野) 今、『女性はこうでなければ、人間じゃない』 につながっていることに驚いた。これまでは、 と責めるよりも、女性がそれぞれおかれてい 自身の周囲の事象のみで判断し、女性の権利 る現状をよく見つめ、お互いがその現状を知っ を保障するという点でしか捉えていなかった た上で、そこに差別の現実があれば、どうし 気がする。ところが、差別撤廃条約前文では、 て乗り越えるのが良いのか、とにかく知恵の 女性への差別があらゆる差別へとつながり、 有るものが出し合い、少しでも乗り越える努 ひいては国と国との内政干渉や植民的な発想 力や連帯ができることが一番大切と思うので にもつながる。さらには国際平和の危機にも す。 - 中略 - 女性同士が責めたりけなした つながる。差別撤廃条約の前文に記されてい りするよりも、お互いの立場での努力に対し る思想は、女性に対する差別の撤廃から平和 て、もっと積極的な励ましが必要」というのが、 への道とつながるのだと知って、驚きをもっ 私の考えであった。 て読んだ」と第一印象を述べている。 差別や現状の改善を本当に望むならば、そ また、「いのちの大切さには、弱い者も強い こに女性の連帯が必要であると考えた。同じ 者も含まれる。いのちの尊厳とは、弱い者と 女性とはいえ、それぞれ居る環境が異なれば、 強い者の生命を量りにかけることなく根底に その環境や条件の中で経験すること、突き当 あるもの。女は出産直後から身を持って体験 たる障害は当然異なる。それゆえにそれら異 していると言えるが、その生命を扱い育てる なる経験を持ち寄り、より豊な経験として共 ことを男も経験することで、生命の尊厳を身 有すること、より賢く課題解決をする知恵を 近に体験をすることになるのではないか。そ 共有することが、大きな力になると考えてい して、その延長線上にある平和の思想へとつ る。 ながるのではないか」と発言している。この 表現は幼稚に聞こえると思うが、私の中では、 7 「婦人に対するあらゆる形態の差別撤廃条 今もその考えは変わっていない。 約」から学ぶ 条約から国際的視野にふれる 「女だけが育児をするのは不公平だから」と (女のつどい、1985 年 2 月実施) か、「女だけに任せず、男も当然分担しよう」 これまで女のつどいを続けてきた私たちの という平等主張を否定するものではないが、 目は、暮らしの足元にのみ向けられていたが、 それとは少視点を変えて、女も男も小さな生 女性問題や女性を取り巻く状況を国際的に見 命を育てる体験によって、生命がどれほどデ てみるなど、考えもしなかった。 リケートなものか、どれほどかけがえのない しかし、この年「婦人に対するあらゆる形 ものか、身を持って体感できるのではないか 態の差別撤廃条約」( 以後、「差別撤廃条約」 と考えた。 と言う ) なるものがあることを公民館職員(加 差別は強い者と弱い者という権力構造に支 藤氏)から知らされた。なんだかよく判らな えられている。権力が支配する世界では、戦 いまま、「とにかくその前文を読んでみよう。 争や紛争が絶えない情況を生み出し、破壊と 世界的には女性問題がどのように捉えている 略奪や搾取を繰り返す。どの人の生命も尊重 126 されるとは、つまり一番弱い人が大切にされ、 また最貧困国の人の生命が守られることを意 第3章 「人権」を基礎においた公民館 講座~私には、無関係だった被差別部落の問 味する。人として生きるための食糧の確保、 題から見えたこと~ 平和で安心して暮らせる生活環境の確保、働 一連の女性問題の学びがおもしろいほど く環境の確保は当然のこととなる。 次々と発展していき、新たな側面を私に見せ てくれたことは、いままで記述した通りであ 8 くらしの中の婦人問題-国連婦人の 10 年 る。そんな折に、加藤職員から示された複線 は私たちにどんな関係があるの?-(公民館 的学習の課題は、女性の歴史と被差別部落を のつどい分科会として 1985 年 7 月実施) 取り上げた人権について学ぶことであった。 この分科会では、国際的な動きが私たちの 私が時折口にした「女性がイキイキ活動で 身近な暮しとどのような関係があるか、私た きる社会が一番」という言葉に対して、挑発 ちの自治体ではどのような動きがあるのかを するように、加藤職員は「戦争中にも、イキ 探ろうというものであった。今では理由を覚 イキと活躍していた女性たちがいるよ」と言っ えていないのですが、私はこの分科会に欠席 た。戦争においては「女性は犠牲者」とばっ をしている。この頃から、国政の動きと連動 かり思い込んでいた私は耳をうたがった。そ して、ある政党の地域婦人部が活動し始め、 れは、総力戦体制下の女性たち、国防婦人会 メンバーに加わったことを記憶している。 の女性たち、銃後の女たちを指していた。「女 女つどいやの婦人問題講座で学習した私た 性たちがどのように戦争を迎え、戦争を生き ち 19 名が、婦人問題連絡会を結成し、1985 たか学ぶ必要がある」という加藤職員の思惑 年 9 月 19 日に「福生市の婦人問題を解決す 通り、私は戦前・戦中・戦後の女性たちの歴 るための行動計画の策定」の要望書を福生市 史を学ぶことになった。 長に宛て提出した。これは、先に述べた政党 講座の後半では、戦争の証人として三人の 婦人からの刺激を受け、政策的に自治体に何 女性が講座に招かれた。鳥海しげ子氏、福永 らかの働きかけをするという新しい転機に 笑子氏、清水文恵氏から、戦争中の彼女らの なったことは確かである。 意識と生活、そして敗戦時の焦燥感とその後 しかしこの頃から、権利の主張、ウィメン の生き方を聞きいた。 「ただただお国のために、 ズリブ的な考え方が強くなり、専業主婦の女 言われることに忠実に従い、良妻賢母を誇り 性たちの欠席が目立ち始めた。この点では残 として生きてきた」という三人が、敗戦の事 念ではあるが、先に述べた連帯には行き着か 実を受け入れることに苦悩しながら自らの意 なかった結果でもあった。この流れは、後に 識を転換したというものであった。 「女性フォーラム」、「男と女のフォーラム」の 「言われるままに生きるの止め、生き方を変 準備会というように名前を変えて引き継がれ えよう。自らの目で社会や政治に関心をもち、 たが、名前の変化は内容や形式の変化を伴い、 自ら考え決定しよう。そのためには学びが必 その頃から私の関わりは浅くなった。その理 要。学びもなく何の判断も出来ない。女性が 由を正直に一つ挙げるならば、「女性の権利拡 学ぶことは、社会を変える力になると信じて 大」に重きを置くようになったことがある。 戦後を生きてきた」と、その生き方に大きな 私の記憶では、予算を獲得してフォーラムと 変革を見た。 いう名称を掲げてからは、どちらかと言うと イキイキ活躍すること自体が素晴らしく価 いわゆる著名な先生を招き、講演会をすると 値のあることではなく、何に対して、何を目 いう形式に変わってきた。 的にイキイキと活動するか、何を学ぼうとす 127 るかが問われることなのだと、この時初めて 重みが、刻印された。搾取のない社会、平和 私は認識できたように思う。そして、私は「歴 な社会、そしてそれは自分の国だけではなく、 史を学ぶ」のではなく、「歴史に学ぶ」体験を 国際社会にも目を向けることになっていく。 したことにも気づいた。 学びを単に頭の中の蓄積物とせずに、学びを また、それまでは「被差別部落」という言 実践したいという時期がやってきた。私の場 葉は自身の認識には存在せず、関心を持つこ 合は 53 歳という年齢が(遅すぎる感もある ともなったが、被差別部落を取上げた人権の が)、私にとっての行動を起す時期であった。 学びでは、講師川村善二郎氏〔歴史学研究者〕 2000 年、初めて関心を持ったドイツ国際平 から与えられた西光万吉氏著の資料や水平社 和村に、ボランティアの受け入れを行ってい 宣言にも目を通し、講座では毎回レポートを るかどうか、私の年齢でも可能であるかなど 提出した。「差別にはそれぞれ個別の歴史があ 手紙を出した。ボランテァ受け入れに何の条 り、その差別の歴史を学ばなければ、差別が 件もないが、見学をして自分の目で確かめ、 どれほどの痛みと屈辱を与え、人権を踏みにっ 判断して欲しいという返事がきた。ドイツ国 じてきたか判らないだろう。」という言葉の意 際平和村は、中東での六日間戦争とベトナム 味の重さが、少しずつながらも受け取れた。 戦争が激化する 1967 年に、市民によって設 差別は権力構造の中で、搾取と弾圧の手段と 立された活動団体〔NPO/NGO 団体〕である。 してまかり通ってきた。しかし、差別に苦し 設立当初は、ベトナムからの子ども達だった む被差別部落の人々の中にも女性差別がある が、その後も世界各地で起きた戦争や紛争で ことを知り、二重に差別が存在することを知 傷ついた子どもたちをドイツまで連れてきて り、衝撃を受けたのも事実であった。 治療し、治ったら母国へ帰すという活動を続 重い課題から目を背けたい思いに駆られな けている。 がらも、「水平者宣言」やその他の資料から読 何故遠い日本からわざわざ見学なのだろう み取ったことは、差別撤廃条約の前文精神と かという不安をもったまま、同年 9 月に見学 同じものであった。どんな環境下にある人も、 のため渡独した。平和な生活に慣れきってい 人が本当に一人の人として認められて生きる た私にとって、ドイツ国際平和村で出会った ことが、全ての基本であり、それなくして平 子どもたち現状は衝撃以外のなにものでもな 等な安心感、幸福感をもちえ得ないと明確に かった。子どもたちが負った深い傷、欠損し 認識できた。 た身体、治療のための体に付けた痛々しい医 歴史に学ぶこと人権の学びは、先に述べた 療器具、子どもたちの荒々しさ、泣き叫ぶ声に、 「複線的学習」ではなく、むしろ女性問題にとっ 私の体の中に大きな怒りがこみ上げたのを記 て要の学習だと気づいた。「人権の意識を網の 憶している。何故この子どもたちが苦しみを 目のように張り巡らし、社会の出来事を見る。」 背負わされるのか、一体誰の仕業なのかと。 ことの重要性を学び取りった。 その後 2002 年には 5 ヶ月間、ドイツ国際 平和村にボランティア参加し、子どもたちの 第 4 章 学びから時を経て、国際平和活 動へ 生活介助をした。そこで私が目撃した事実は、 多くのことを学んだ後働き始め、公民館の 戦や紛争の犠牲となった多くの子どもたちが 講座にどっぷりと浸かる時間は次第になく いるということであった。生きる権利を奪わ なっていった。しかし、ここまで述べてきた れかかった子どもたちが、怪我と障がいを克 学習経過から、私の意識下には明確に人権の 服して必死に生きようとする姿に、打ちのめ 遠くはなれた国々で相変わらず起きている内 128 された。 ている問題やひずみを丹念に可視化する作業 大人たちのエゴイズムの犠牲者、搾取と略 であり、これは後に女性問題以外の様々な問 奪の犠牲者となった子どもたちを、同じ人間 題を読み取る力にもつながるものと考えられ として支援する人々、国際社会の大人として る。②学習者自ら記録を作成するとは、自ら 医療支援する人々に、同時に接することになっ の学びの歴史を記すことであり同時にそこか た。たとえ、遠く離れた国々で起きているこ ら更なる課題を抽出することであった。この とでも、今やグローバルな市場経済下にある 作業は学習という範囲に留まらず、我々の生 国際社会においては、「私たちと無縁」とは言 きる社会そのもの歴史に関与する意識を育て い切れない事態である。その事態を明確に意 るものとなった。③女性の立つ位置によって 識し、一人の人間として、一人の市民として、 直面する外的・社会的差別の見え方が違うこ 子ども達がおかれている危機的状況に積極的 とに気づき、それらの気づきを共有化する努 に関わろうとしている人々である。自己流で 力をし、④それゆえに連帯することの重要性 はあるが、彼等を『国際市民』と呼びたいと を認識した。この考え方は、それぞれの国情 考える。Globalize された社会に生きていなが の違いや国益の違いを超えて、確保されるべ ら、彼等の意識と行動は Internationalize され き基本的な人の権利に立ち返るという考えに たものである。子どもたちの現実を自らの問 変換してきたと考えられる。⑤学習者の足元 題として捉え、同じ時を生きるパートナーと から始まった学びを、他国の女性たちの位置 して積極的に関わる (commit) というのが、 『国 にも注目し、国際的な視野で女性問題を捉え 際市民』の定義づけである。間接的搾取や国 返し、⑥すべての女性・すべての人にとって、 家間差別に加担しているかもしれないほど複 生きる上での基本となる人権を保障すること 雑な社会で、我々は生きているからこそ、国 の重要性に気づき、自身も一人の国際社会の 際市民の一人という意識をもち、是非見習い 構成員であることを自覚させられた。⑦自ら たいと思った。 の生きざまを通して「歴史に学ぶ」ことを伝 えてくれたさ三人の女性に感謝すると共に深 第 5 章 終りに く感銘を受けた。戦争とは、人々の極々普通 これまで述べてきたように女性問題の一連 の生活を破壊し、自由と幸福になる権利を根 の学びは、「歴史に学ぶ」ことへと繋がり、後 こそぎ奪い取る事態であること、平和こそが、 には「人権の学び」へと変遷してきた。一つ 人が人として尊ばれる社会を実現するための ひとつの段階を踏みながら、学びの深まりや 基礎 (base) であると確認をさせられた。これ 発展を具体的に体験してきたわけだが、そこ らすべての学びが、⑧国際社会に生きる構成 には先に紹介した加藤職員の見えない社会教 員として、一人の市民(People)としての認 育的仕掛けが用意されていたと思われる。 識を持ち、発言し、行動すること、そして『国 学習者の学びの内容に見合った資料の提供 際市民』との連帯をささやかでも目指したい と助言、学習者に新たな発見をもたらす人と というところに至るプロセスである。これは、 の出会いの設定、学習者にとって適切な時期 今後も継続していく自身の課題 (challenge) で の新たな課題提起、専門的助言者を巻き込ん あると考える。 だ学びの場の設定があった。 筆者が体験した学びとそのプロセスは、次 のようにまとめることが出来る。 ①女性が自らの内面(意識・無意識)に抱え 129
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