上京 史蹟と文化 第43号(PDF形式, 5.11MB) - 京都市

43
2012 VOL.
美
び
かた
徳岡神泉
美術史家
加 藤 類 子
幾分ゆとりも感じていたことと思われますが、
題材や主題に細心の注意を払う
幽玄の美を求めて
この六月に発売された記念切手シートなのでご記憶の方もあろうと思います
が、東京国立近代美術館六十周年・京都国立近代美術館開館五十周年記念と銘
生来の性格から、
テーマと決めた牡丹の花を求めて、
ほうぼうを歩きました。
京都
す。
前年の第七回帝展に〈蓮池〉
を出品して特選となった神泉は画壇に認められ、
打って、近代日本の画家による日本画、油彩画九点が選ばれました。その中の
の周辺には、
昔も今も牡丹の名園が多くあります。
気に入った花がなかなか見つ
晩春の情趣がこの作品のモティーフであることがわかります。
善光寺の後苑に咲いていた牡丹は、神泉の期待を裏切らないものでした。そ
の歓びを、神泉は次のように語っています。
大丈夫だろうと、
押っ取り刀で出掛けて行ったのは、
言うまでもありません。
こうえん う ご
一点に、京都国立近代美術館所蔵の〈後苑雨後〉も選ばれました。
この作品は昭和二年(一九二七)に制作され、第八回帝国美術院展(帝展)
に出品されました。大正十二年
(一九二三)
九月に関東一円を襲った大震災以降、
からず、
短い牡丹の季も過ぎ去ろうとしていました。
そんな折、
ある人が信濃の善
社会の変動も相まって、美術界に流行した長閑な農村趣味や社会の底辺に苦し
牡丹を描きたいと思い京都でいろいろ写生してみましたが、どうももの
たりないところがあってうまく出来ませんでした。たまたま教えてくれる
えんてい
光寺にいい牡丹があると教えてくれました。
季節の歩みの遅い信州のこと、
まだ
む人々への関心は次第に退潮して、伝統的な大和絵や、中国南宋時代の宮廷画
人があって信濃の善光寺にいい牡丹があると聞き、行ってみました。枝ぶ
づくろ
雨の上がったばかりの苑庭の朝のひとときです。もう、盛りを過ぎて花弁を
は
ど ばと
散らし始めた白い一株の牡丹、その花壇の端に羽繕いをする一羽の土鳩など、
院のスタイルであった院体花鳥画を研究し、その世界を自らのスタイルに取り
りが古朴単純で純白の花は気品があり、華やかでないところが気に入り描
の どか
入れようとする画家が主流となってゆきました。時代は第二次世界大戦へと崩
きあげたものです。
「華やかでないところが気に入った」とは、後の神泉を彷彿させる言葉ですが、
こ ぼく
れ込んでゆく動乱の時代となりましたが、絵画、ことに日本画はむしろ、動か
ら静へと作調を移していったのです。
二十年代半ばのこととなります。
京都市立美術工芸学校、同絵画専門学校で学んだ神泉は、江戸中期の円山応
挙以来の写生画の伝統を、その伝統を継ぐ多くの実技の先生たちによって、ま
神泉の芸術が高く評価されるのは、さらに二十数年後の、太平洋戦争後の昭和
神泉はこの作品の少し前、平安時代の密教仏画の世界と院体花鳥画の世界を
け し
同時に追求したような小品〈芥子〉
(大正十三年)を描いていますが、そこに
はすでに、この時代の新しい動向が反映していたと言うべきでしょう。
は昭和二年の第八回帝展に出品された作品で
先にも述べましたが、〈後苑雨後〉
─2─
|
自分にはそれが単的で一切雑物を排除した一画面として目に
うつった。ただそれのみを、心の眼で見ている気持で見つめ、
葉とか茎とか部分的な形を忘れて、深遠の彼岸に到達した境地
を追求しようとした作品です。
じゃっ
と、この作品について作者自身は語りますが、これ以降、自作
こう
を語る神泉の言葉は、
「心の眼」
、
「彼岸に輝く 寂 光」
「宇宙のあら
てんけい
ゆるものの凝縮」など、内観性の強いものになってゆきます。
〈池〉もそうですが、この時期の神泉の作品の多くは、添景など
を極度に排除して、対象そのものを深く凝視するだけではなく、
対象の内部の奥底から輝き出してくるもの、その境地を捉えよう
と、きわめて凝縮度の高いものになっています。このような神泉
の作風は、昭和三十年代の評論界では、能の幽玄美に通ずるもの
いん えい らい さん
風も味方に加えて、それぞれ独自の表現を確立していったのです。
約を受けながらも、困難な時期を乗り越えて、また、戦後の新しい海外からの
教えを十全に吸収した神泉ら若い画家たちは、さまざまな試行錯誤や時代の制
州留学帰りの美学・美術史の教授たちから、教えを受けたのです。先生たちの
畑に捨てられた蕪を眺めても、夕日に照らされた薄のひと株を見ても、朽ちて
のようなものの存在に敏感な少年だったに相違はありませんが、長じて画家を
高い樹々の梢に、しばしば超自然的な何かの存在を感じていたと言います。そ
周辺は、市中とはいえ現在よりも寂しいところで、少年時代の神泉は、離宮の
徳岡神泉は離宮二条城に近い上京区(現・中京区)神泉苑町に明治二十九年
(一八九六)年に生まれ、少年時代をそこで過ごしていますが、当時の二条城
4 4 4 4 4
すすき
志してからも、この感覚は変らぬばかりか、さらに磨き上げられたのでしょう。
たど
─3─
として、
〝ユーゲニズム〟と呼ばれました。
谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を引くまでもなく、日本の文化は陰
翳に富み、そこに美を見出してきました。特に京の町は、他の大
都市よりもはるかに陰翳に富んでいます。周囲を山に囲まれ、市
昭 和 二 十 年 代 後 半 の 神 泉 の 作 風 を、 最 も 典 型 的 に 表 し て い る の は、 昭 和
二十八年、第八回日展に出品された〈池〉ではないでしょうか。京都の寺院の
ゆく落葉にさえも、神泉は宇宙の姿をそこに感じ取ったのです。想えば、
〈後
中にも神社や寺院、離宮などの点在する環境も、その一因でしょう。
池などによく見られる、青い藻が一面に繁茂した水面。その水の中から若い蓮
苑雨後〉の透き通るような白の牡丹は、単に描くべき題材として探し求めた花
た一方、西洋の近代美術の新しい理念である個性の尊重・発露を熱烈に説く欧
の葉が二、三茎伸びて葉を開く。まだ涼気の残る夏の朝の光景です。ただ三枚
ではなく、誘われるように辿り着いた神泉の牡丹ではなかったでしょうか。
こずえ
の蓮の葉と黄緑に濁った水。それだけの作品です。
後苑雨後 徳岡神泉 1927(昭和2)年 京都国立近代美術館蔵
口
神
かと。荒神口通
どんな神様なの
などには、女官が清荒神に代参し
の宮中の記録『お湯殿の上の日記』
の西端に「日本
ます。
て御札を受けた記事が度々見られ
法成寺址
おう
最初清三宝大荒
神尊」と彫られ
きよし
た石標が見えま
こう じん
す。 こ こ が 清
荒神三宝尊を
末、光仁天皇の御代に摂津勝尾山
が貼られております。奈良時代の
て信仰され、今も台所にその御札
るのです。荒神は火伏せの神とし
もこれに由来す
九体の阿弥陀仏を安置し、多くの
大な寺です。阿弥陀堂には金色の
に創建した、阿弥陀信仰による壮
四年(一〇二〇)に土御門殿の東
堂関白といわれた藤原道長が寛仁
ろに「従是東北 法成寺址」の石
ほう
じ
標が立っています。法成寺は、御
き清荒神の向かい側、京都府立鴨
沂高等学校の北運動場の塀のとこ
に祀られた八面八臂の恐ろしい形
堂塔が建ち並んでいました。道長
祀 る「 護 浄 院 」
相をした三宝荒神が始まりで、室
は 万 寿 四 年( 一 〇 二 七 )、 阿 弥 陀
じょう
町時代の初め、後小松天皇の勅命
如来の指と結んだ五色の糸によっ
で、通り名や橋
によって京都へ移され、のち慶長
五年(一六〇〇)に現在の
ながれ
地へ移されました。天台宗
づくり
延暦寺派の寺院ですが、流
造風の本殿の前には石鳥居
があって神仏習合の名残り
日
××
火○○
木 ××
水○○
土○ ×
金○○
診察時間 午前9時∼12時
午後4時半∼7時半
月○○
祝休診
午前
午後
通
こう じん ぐち どおり
荒
初めて「荒神口通」とか「荒神
橋」という地名を聞くと驚かれる
─4─
上京の史蹟 その 25
を止めています。室町時代
清荒神護浄院
よ う で す。「 荒 れ た 神 」 な ん て、
おおじ こうじ
法成寺址
荒神口通の東端は荒神橋を渡っ
て白川街道へとつながります。こ
荒 神 橋
のです。
されることがあればと期待するも
とができません。北運動場を発掘
したが、今なおその全貌を知るこ
工事の際には古瓦などが出土しま
高校の体育館や屋内プールの建設
は完全に廃墟と化しました。鴨沂
き残していますが、南北朝時代に
ことを兼好法師が『徒然草』に書
その後、火災や地震によって荒
廃しながらも九体仏は残っていた
て極楽往生しました。
は 通 る こ と が で き ま せ ん で し た。
庶民の通行は許されますが、荷車
なったのです。ただし、平常時も
へ避難されるために御公儀橋と
災害に際し天皇が聖護院の仮皇居
して架橋されます。これは御所の
慶応三年(一八六七)に荒神橋
は石の橋脚に擬宝珠付の永久橋と
ています。
荒神橋では今も南側に車道が残っ
り る 車 道 が 設 け ら れ て い ま し た。
渡れませんから、その脇に川へ下
が常でした。そのため荷車は橋を
簡素な木橋で、水害に流されるの
のその他の橋は中州に架けられた
という公の橋の場合でした。鴨川
宝珠が用いられるのは、御公儀橋
銅製の擬宝珠が置かれました。擬
の 親 柱 に は 堂 々 と「 荒 神 橋 」「 く
いるのです。橋の両端の大きな石
の後、歩道を拡幅して今に至って
なく、コンクリートでつなぎ、そ
されましたが、架け替えることも
年代にこの部分が台風の洪水で流
した。その後二十年余、昭和三十
クリートを木で接いだ珍妙な橋で
い、それを応急修理として木橋で
し
の道の西端は豊臣秀吉が築いた御
そのため、荷車は川を渡ったので
わうじんばし」の文字が今にその
ぼ
土 居 の 口 で、 七 口 の 一 つ で し た。
す。 明 治 初 年 の 荒 神 橋 の 写 真 が
格式を伝えています。
ぎ
今の荒神橋は大正三年に架けられ
残っていますが、そこには擬宝珠
ひ
ご こう ぎ ばし
た古い橋ですが、その歴史もつぎ
付の立派な橋の下に牛が牽く荷車
今の荒神橋は昭和十年六月の鴨
川大水害で中央部が流されてしま
が写っています。
くるまみち
はぎだらけです。
もともと鴨川には永久橋は少な
く、東海道につながる三条と五条
の橋だけは石の橋脚で、欄干には
つ
つなぎました。横から見るとコン
白川街道
荒神口は街道の出入口として大
● 表 紙 の 題 字 吉 川 蕉 仙 先 生
─5─
荒神橋
きな役割を果たしていました。鴨
体 が ど っ し り と 座 っ て お り ま す。
が刻んだ道標があり、ここから白
秀麗な文字を白川の石工権左衛門
川街道は今出川通を斜めに横切
その脇に嘉永二年(一八四九)の
本目の道が、うねうねと曲がりな
り、北白川の集落を抜けて、比叡
川を渡り、川端通を北へ行くと二
が ら 北 東 の 方 向 へ と 向 か い ま す。
山と大文字山の鞍部を大津へと抜
立命館址
●
西三本木通
● 山紫水明處
(出雲路敬直)
が見つかっています。
た。今も学舎の工事中に道の痕跡
敷ができるに至って廃絶しまし
は文久二年(一八六二)に尾州屋
街道は歩いても退屈しないように
荒神口車道
東三本木通
鴨 川
卍
けるのです。京大構内の白川街道
車道
仙洞御所
文 鴨沂高校
●
法成寺址
卍 護浄院
● 法務局
直線でないのが普通で、典型的な
姿を今に伝えています。近衛通や
東一条通は近代の都市計画によっ
が ごえ
て設けられた道ですから直線に
なっています。
し
河原町通
荒神橋
新烏丸通
寺町通
─6─
白川街道は志賀越とか坂本越と
もいい、東山を越えることから山
中越の名でも呼ばれます。東北の
方向に延びた白川街道は、東大路
と 東 一 条 の 交 点 に 出 ま す。 こ の
東北角に鉄枠で保護された痛々
し い 道 標 が あ り ま す。 宝 永 六 年
(一七〇九)に沢村道範が立てた
もので、後記する北白川の道標と
ともに京都市の指定登録文化財に
なっています。ここから東は京都
大学の構内となり、白川街道は消
えてしまいます。今出川通の北白
川バス停のところで吉田山の北麓
と接しますが、そこには石仏の巨
丸太町橋
丸太町通
koujinguchi dori
東 三 本 木 のこと
末には料亭吉田屋(旅館大和屋)、
上 井 筒、 大 岩、 月 波 楼 な ど 六、七
軒がありました。幾松と桂小五郎
の逸話のほか、新撰組の近藤勇と
駒 野 と、 ま た 大 政 奉 還 の 立 役 者、
す。それぞれの人の、この通りの
す。なお、竹村俊則『昭和京都名
と親しくなった逸話もあるようで
区民からの投稿
情緒あるかつての町並みと、そし
所図会(五)洛中』によると、「大
後藤象二郎も〝いろ〟という女性
東三本木通、いつかものの本を
見ていたらこの通りに縁のある話
て東側の景色での生き様を思って
和屋」は「清輝楼」の後身であって、
髙木 清
が 少 な か ら ず 目 に と ま り ま し た。
みるのも悪くないのかも知れませ
その南の湯浅邸(現在のディアス
さんぼん ぎ
こんなにいろいろな話のある通り
ん。
テージ上京鴨川)が「吉田屋」の
も珍しいと思います。それも歴史
的に意味のある人、そして話がで
いただきました。
ことのみを私なりにまとめさせて
ておりました。いつかは賴山陽の
そういえば、私はかつて学生の
頃、この通りに御厄介をおかけし
皇居拡張に際し、替地としてこの
た。その一丁目から三丁目が、宝
を三本木何丁目と呼んでいまし
木、元は東洞院出水から夷川まで
上京区丸太町橋西入上ルで、東
よりが東三本木、西よりが西三本
吉田屋は中之町東側にあった料
亭で、幕末の頃、勤皇の志士の密
とあります。
に「大和屋」となったとも伝える
屋「あずまや」となり、昭和二年
址で、「清輝楼」はのちに席貸「茨
それだけでは足りないとばかり
に、今回、東三本木全体について
所に上之町、中之町、南之町とし
会によく利用されました。慶応三
東三本木通のいわれ
私の気づいたところを、ここにま
て定められました。従って元は新
年(一八六七)六月二十三日には、
す。
とめてみました。いま東三本木通
三本木といっていたようです。
坂本龍馬と中岡慎太郎、西郷隆盛、
吉田屋など
木屋」となり、大正年間には洋食
を通りますと静寂な通りです。し
大久保利通、後藤象二郎も出席し
永五年(一七〇八)に大火があり、
かし、こうして振り向いてみます
明治三年からぶ九ぎ年までは遊宴の
地といわれ、舞妓の人も多く、幕
と歴史的にも趣きのある通りで
─7─
から門跡、公家、京屋敷、御所役
か。宝永五年(一七〇八)に御所
川宮の屋敷があったのでしょう
との表示からすると、その南に中
せんが、その北に山階宮があった
れは私の勉強不足でよく分かりま
『 幕 末 維 新 地 図 』 に は 三 本 木 通
に「岡中川屋敷」とあります。こ
ました。
は鴨川の河原に抜ける通路があり
ここで成立しました。また地下に
政奉還を建白することに同意)が
た薩摩・土佐両藩の「薩土盟約」(大
ます。
歳で亡くなり、神光院に墓があり
(一八七五)十二月十日に八十五
が な 」 の 辞 世 を 残 し、 明 治 八 年
の花の上に曇らぬ月を見るよしも
所 ) に 住 み、「 願 わ く は の ち の 蓮
護院、最後は神光院(西賀茂の茶
た。知恩院山内の庵から岡崎、聖
の文人画家富岡鉄斎を育てまし
能で、勤皇の志士と交友し、幕末
詩・ 陶 器( 蓮 月 焼 )、 舞、 碁 に 堪
出家して蓮月と名乗ります。書・
た後も子を失い、三十三歳の秋に
( 一 八 〇 八 ) に 稿 成 り、 詩 作 に 専
外 史 』 の 構 想 を 練 り、 文 化 五 年
れ 戻 さ れ 軟 禁、 そ の 間 に『 日 本
の時に広島藩を脱藩しますが連
政 十 三 年( 一 八 〇 一 ) 二 十 一 歳
三十六峯外史とも号しました。寛
に 生 ま れ、 広 島 へ 転 居、 名 は 襄、
大阪江戸堀で父春水、母梅颸の間
年(一七八〇)十二月二十七日に
う 人 も あ り ま す。 山 陽 は 安 永 九
す。他面では放蕩、奇行の人とい
尊皇思想に影響を与えた人物で
賴山陽は、江戸時代の末期の儒
学者・歴史家・漢詩人で、幕末の
ら も、 山 紫 水 明 處 で『 日 本 外 史 』
(一八三二)に胸の病を患いなが
明處の建物を建てます。天保三年
す。文政十一年、水西荘・山紫水
地 を 購 入 し、 家 を 建 て て 移 り ま
年(一八二一)に東三本木通の敷
山紫水明處と名付けます。文政五
床敷の水西荘と転々とし、ここを
押小路上ル、木屋町二条下ルの川
下 ル の 川 床 敷( 二 年 間 )、 両 替 町
上ル、二条高倉東入、木屋町二条
文化八年に京へ出て塾を開きま
す。新町丸太町上ル、車屋町御池
念します。
人が新三本木に転居したことから
笛と踊の名手であった二代
まいた
くまつ
目幾松が東三本木で働いていまし
ばい く
すると、上の私の推測もあながち
た。幾松は天保十四年(一八四三)
に生まれ、幕末の志士桂小五郎(木
のぼる
間違っていないと思います。
戸孝允)と親しくし、やがて夫婦
はちす
寛政三年(一七九一)には東三
本木通で大田垣蓮月尼が生まれて
と な り ま す。( 幾 松 は 小 五 郎 の 十
しなの
みや
います。父は伊賀上野の城主藤堂
歳下)幾松は幾度も小五郎の危難
賴山陽と山紫水明處
山紫水明處には賴山陽が住んで
いました。
─8─
やま
金七郎、母はつややかな女性でし
を助けました。
のぶ
たが、蓮月(誠)は父や母と呼べ
みつひさ
ませんでした。そこで養父となっ
たのは知恩院の寺侍、大田垣光古
です。結婚はしたが、四人(三人
ともいう)の子や夫を失ったりし
山紫水明處入口
ます。天井は阿家形の葭張りです。
からなり、鴨川沿いに縁側があり
次の間及び半坪強の板の間の水屋
おり、室は四畳半の主室と二畳の
入母屋造で、軒先を棧瓦で葺いて
建てました。その建物は葛屋葺の
山紫水明處の建物は文政十一年
(一八二八)、山陽四十九歳の時に
川で筆を洗ったと伝えます。
ぐ側を流れており、山陽はその鴨
ました。当時は鴨川が水西荘のす
處には没するまでの十一年間住み
白我也」と記しており、山紫水明
に入り、ここより東の眺めを「関
紫水明處」といいます。山陽は気
荘」といい、その内の離家を「山
鴨川の西岸にある東三本木丸太
町上ルの家屋敷を総称して「水西
の夏の景色を述べた句からです。
した句と、杜甫の詩「残夜水明樓」
の指定を受け、財団法人賴山陽旧
りました。大正十一年に国の史跡
葺き替え、一文字の形の現況とな
頃に山陽の孫の賴三潔氏が屋根を
瓦でした。その後、明治四十五年
二畳の上の屋根があって軒先は棧
ある入母屋となり、これと直角に
山陽が建てた当時の山紫水明處
の屋根は四畳半の上が東西の棟の
地となっています。
新しく建物を建て現在は借家の敷
水 西 荘 は 明 治 中 頃 に 取 り 壊 さ れ、
一 九 八 平 方 メ ー ト ル( 六 六 坪 )、
坪)ですが、山紫水明處の敷地は
敷地は水西荘の主屋を含める
と 八 八 一 平 方 メ ー ト ル( 二 六 七
されています。
たもので山陽当時のものでないと
踞があり、水屋に茶室式の流しも
涼風が入ります。中庭に簡単な蹲
つく
縁側から見る鴨川の流れ、東山の
跡保存会が管理しています。
がわら
よし
ふ
ありますが、これは後に改造され
お
─9─
ばい
当時のベストセラーとして幕末の
風景はいかばかりであったか。床
あ じろ ど
お
くず や ぶき
を 仕 上 げ、『 日 本 政 記 』 の 筆 を と
尊皇思想に影響を与えました。
脇は三段に分かれ、その内の下部
り井」は深さ二
敷 地 内 の「 降
メートル、この井戸は山陽の頃は
さん
ります。(『通議』と合わせ「歴史
の西戸を開けて網代戸を開ける
なかったといわれますが、今ほど
いり も や
書 三 部 作 」)『 日 本 外 史 』( 武 家 の
山 紫 水 明 處 」 の 出 典 は、 唐 の
「
おうぼつ
とうおうかく
王勃が『騰王閣』の序に「煙光凝
と、中庭の樹や石や降り井も見え、
がた
歴史を説き、儒教の名分論から独
ツテ而暮山紫」の春の夕暮れを叙
あずま や
自の尊皇思想を展開したもの)は
山紫水明處
立命館は清輝楼を仮校舎として
明 治 三 十 三 年( 一 九 〇 〇 )、 夜 間
乱 )、 主 治 医 の 小 石 元 瑞 な ど が お
もらい、京都にも来て山陽に会い、
流れていました。丸太町橋は中州
授業で開校しました。その跡地に
求婚しますが、父蘭斎に拒絶され
山陽は細香を嵐山などに案内しま
まで架かり、中州を少し歩いて再
は記念碑が立てられています。草
深くはないにしても水をたたえて
す。山陽没後も山陽の家族との交
び橋がありました。川を挟んで対
創には日本の「世界のなかの一員」
立命館草創の地ほか
際があり、山陽を語るときに無視
岸には梁川星巌が「鴨沂小隠」を
りました。
山 陽 は 二 十 歳 で 淳 子( 十 五 歳 )
を娶りますが後に離婚したようで
できない漢詩人であり女性の弟子
構えていました。
ます。しかし、細香はその後も山
す。 文 化 十 二 年( 一 八 一 五 ) に
です。山陽と細香は二十年間に八
いたこと、山陽も何らかに使って
三 十 六 歳 で 梨 影( 十 八 歳 ) と 結
度の逢瀬があったといい、詩集に
山陽の好物は一日三合くらい飲
ん だ と い う 酒 と 煎 茶 で、文 人 ら と
陽を思い続け、漢詩の添削をして
婚、 子 は 長 男 成 一、二 男 辰 蔵 は 夭
『湘夢遺稿』、山陽と細香の思いの
酒 飯 を 味 わ い、茶 を 飲 み、作 詩、作
いたと思いたいものです。
逝、三男支峰、四男三樹三郎、長
漢詩も残されています。生涯独身
画、揮毫を楽しんでいたようです。
山紫水明處から東の眺めの鴨川
の対岸には柳があり、すぐそこを
女お陽の五人でした。妻梨影は近
で七十五歳で没、大垣に祖孫の家
山陽の交友
江国蒲生郡西大路の機屋喜兵衛の
が、また禅桂寺に父子の墓があり
墓は遺言により東山長楽寺本堂
の山(長楽山)に、賴山陽の墓碑
び とう じ
うん ぴん
が立ち、妻梨影、子三樹三郎の墓
おう き
娘で、山陽の主治医小石元瑞のお
ます。
もあります。
がん
もく
志賀直哉(一八八三〜一九七一)
の『暗夜行路』には、主人公の時
ます。
を説く中川小十郎の力が大とされ
手伝いに入りましたが、そこで山
った主な人々に
山陽と交友のとあ
う
は、 門 人 村 瀬 藤 城、 江 戸 で の 師
え
陽が知り一度で好意を抱き、小石
の 尾 藤 二 洲、 国 文 学 者 の 梁 川 星
なお、四男賴三樹三郎は文政八
年(一八二五)に東三本木に生ま
り
元瑞を仮親として結婚、良妻賢母、
巌( 一 七 八 九 〜 一 八 五 八 )、 そ の
れ、幕末の尊攘派志士、儒者とし
ま さいこう
しょう む
そのことで表彰され「近江の女性
妻の漢詩人の梁川紅蘭(一八〇四
て、 梁 川 星 巌、 梅 田 雲 浜 と 親 交
え
べい
き ごう
の鑑」といわれました。安政二年
〜 一 八 七 九 )、 陶 芸 家 の 青 木 木
を 結 び、 開 港 条 約 勅 許、 将 軍 継
かせ や
(一八五五)五十九歳で没します。
米( 一 七 六 九 〜 一 八 三 三 )、 南
嗣 問 題 で 幕 政 を 批 判、 安 政 六 年
ちく でん
じょう
もう一人、江馬細香(一七八七
〜一八六一)という女性がおりま
画 家 の 田 能 村 竹 田( 一 七 七 七 〜
(一八五九)に安政の大獄で処刑
やな がわ せい
した。細香は美濃国大垣の医師で
一 八 三 五 )、 陽 明 学 者 の 大 塩 平 八
されます。
しゅう
詩人の江馬蘭斎の子で詩人でし
郎(一七九二〜一八三七、大塩の
かがみ
た。文化十一年頃、山陽が細香に
─ 10 ─
負った心にゆとりをしみ込ませた
の峰…自然との調和が悲劇を背
吉田山。そしてさらに、遠く比叡
「 … 鴨 川 を へ だ て て 窓 か ら は 見
はるかす東山、近くに黒谷、左に
ごしたといいます。
路 実 篤 ら が 泊 ま り ま し た。) で 過
い、与謝野晶子、上田敏、武者小
紫水明處の少し北にあったとい
畔 の 東 三 本 木 通 の 宿「 信 楽 」( 山
任謙作が初めて京都に着き、鴨川
た。
て知られまし
流好書をもっ
名があり、風
山陽と並ぶ詩
保年間の京都
み、安政・天
東三本木に住
一八五六)も
(一七八〇〜
の中島棕隠
そう いん
のだ。…直子との出会いはそんな
野 梅( 楳 )
れい竹 内 栖 鳳 の 師 匠 の 幸
嶺(一八四四〜一八九五)が、東
に「信楽」が利用されたといいます。
ことで、直哉ら白樺派同人の会合
直哉が松江の仮遇から南禅寺北
の坊に移ったのは大正三年九月の
れ」の詩で知られますが、京都府
まふことなか
従軍の弟を思
一九四二)は
(一八七八〜
─ 11 ─
において、賴
ところだ…。」
歌人・詩人
の与謝野晶子
三本木の吉田屋に住んでいたこと
立第一高女の在学中の妹に会うた
い「君死にた
があったようです。梅嶺は新町四
めにしばしば京都を訪ねましたが、
東三本木、
そこ
たった一筋の通り、
にこんなにも沢山の歴史やお話が
こう の ばい
条下ルに生まれ、幕末に十六歳で
その時宿舎にしていたのが信楽旅
あります。
その東三本木が上京区に
おしまいに
画塾を開設、上村松園も彼の画風
館でした。
江 戸 後 期 の 漢 詩 人、 狂 詩 作 者
あることが嬉しい。
に学んだといいます。
立命館の記念碑(吉田屋の旧姿)
T he R ei z ei Fa m i ly a nd Kyoto Imper ia l Pa la c e
︵其の二︶
冷泉貴実子
公益財団法人冷泉家時雨亭文庫
常務理事
戸時代、第一の政治家は江戸幕府
天皇は祭政一致の古代、祭りを
して国を治める政治家だった。江
そこに住む人々は、どんな生活
をしていたのであろう。
家が軒を連ねる公家町があった。
入りの商工人の家と、御所関係の
家、さらにはそれに仕える家、出
公家のうち家格の高い家から低い
江戸時代、上京には御所を中心
にして五摂家を配し、その周辺に
というのが理由だ。
れど、結局昔からやっていたから、
どとその起源は色々あるだろうけ
か、いやいや唐の都長安では、な
や平安時代の何天皇の頃よりと
から、祖父も行っていたから、い
らしていたから。父も行っていた
していたのか。理由はない。昔か
祭政の祭だけが御所に残り、そ
れを行い続けていた。何故それを
年中行事をする人。それが私の
見解だ。
で女が陰。
陽 は 太 陽 で、
陰は月。男が陽
はもちろん、陽。
る。めでたき方
いう哲学であ
のものになると
わされて、一つ
なものを陰とす
陰。だから奇数が重なる一月一日
は正月(一月七日を数える説もあ
る )。 三 月 三 日 は 桃 の 節 句、 五 月
五 日 端 午 の 節 句。 七 月 七 日 七 夕、
九月九日重陽の節句とめでたい日
が続く。
そういう日を中心として、御所
では様々な行事が展開した。祭祀
が行われ、和歌会が開かれ、雅楽
が演奏された。それはまさに、こ
の時代の文化であり、上方文化の
─ 12 ─
陽とし、消極的
の将軍で、地方には大名という政
数字にも陰陽
があった。奇数
が陽で偶数が
る。陰と陽が合
治家がいた。では天皇は何をして
この国には陰陽道の思想があっ
た。 積 極 的 な 性 格 を 持 つ も の を
いたのか。
現代の蹴鞠(白峯神宮)
を行うこと
佐 役。 行 事
公家衆は補
行事の中
心 は 天 皇。
う。
故実とい
それを有職
事 で あ る。
からの約束
い、 遠 い 昔
知る由のな
が あ っ た。 そ の 起 源 は 最 早 誰 も
ら、足の出し方まで、色々の約束
よって冠が異り、階段の昇り方か
位によって袍の色が異り、行事に
今私達は、家元というと茶道や
華道を思い出すが、その始まりは
になったのである。
こうして家業をもつ公家は、家元
士 や 町 人 が 学 ぶ も の に も な っ た。
置にあった故、それはやがて、武
という風に。御所の文化が高い位
ため、山科家へ衣紋を学びに行く
公家衆は互いに家業を教え、ま
た習った。例えば、明日の行事の
和歌等々。
修寺家は儒学、飛鳥井家は蹴鞠と
は宮中祭祀の家。三条家は笛、勧
う装束着用方法を司る家。白川家
えば山科家や高倉家は、衣紋とい
そのうちに公家の家々は専門が
分かれて行く。家業の成立だ。例
公家衆政策でもあった。
門家である。それは徳川幕府の対
式をとり行った。
宮中に数日間隔で出仕し、夜勤
も行う。決まった節会には、有職
た。
のようなより上級の公家に仕え
来として従え、また自らは、摂家
と呼ばれるより下級の公家衆を家
公家は京の近郊に、幕府に認め
られた所領を持ち、何人かの家司
国への文化発信が行われていた。
大商人まで。通信教育によって全
国に門人を持った。将軍から大名、
井家などと共に司ると同時に、全
て成立した。宮中の和歌会を飛鳥
そこで冷泉家はもち論、藤原俊
成、定家を祖に持つ和歌の家とし
れば容易に理解できる。
団十郎を先祖に持つ市川家と考え
核であった。
そこから流れ出た文化が、武士
に入れば武士風に変化し、寺に入
が仕事であ
公家の家業である。
こ
ことな
れば寺風に、町では町衆風に変っ
り、 そ の や
庄 屋 な ど で 育 て ら れ、 長 じ て は、
御所の行事はすべて、伝統に立
脚 し た や り 方 が あ っ た。 例 え ば、
て行った。それはまさに全国のあ
り方に精通
では何故、その家にその家業が
定着したかというと、結局は先祖
男子も他家の養子や僧侶とするの
ことな
こがれの中心文化だった。
するのが公
にその業に秀でた人がいたことに
が普通だった。
ゆう そく
家の任務で
よる。
家庭には、正室の外、家女房も
いた。子供は、長男以外は領地の
─ 13 ─
じつ
あ っ た。 有
千利休を先祖に持つ千家、名優
故実に従い参仕し、相変らずの儀
職故実の専
今も続く冷泉家の和歌会
上京茶会
上京
茶会
恒 例の﹁上 京 茶 会﹂
が五月
場に、
表 千 家の懸 釜で開 催さ
六日、
大徳寺塔頭芳春院を会
れました。
作り上げました。
金閣・銀閣・飛雲閣と並び
京の四閣と称されている﹁呑湖
閣︵どんこかく︶﹂
を眺めなが
ら の 本 席 と、枯 山 水 の 石 庭
─ 14 ─
高い苔玉を作る「アレンジメント講習会」が3月10
(電話441−5040)
小さな多肉植物を使い,インテリアとしても人気の
お問合わせください。
に座っていた だ く 副 席の二席
づくり推進担当までお気軽に
アレンジメント講習会
方は、区役所地域力推進室まち
﹁花 岸 庭﹂
を 眺めながら 床 几
この活動に興味があり、継続して水やりなどの手入れをしていただける
映える緑の中、贅 沢な時 間を
庁者の目を楽しませています。
区役所にお越しの際は、
これらの花々にも
苔玉
目を向けてみてください。
でお 茶 を 味 わい、雨 上がりに
過ごしていただきました。
上京区憲法月間
﹁映画のつどい﹂
5月の憲法月間にあわせ、同志社大学寒梅
館において、映画﹃ふたたび﹄
﹃アントキノイノ
今回も、日本語字幕と音声ガイドによる場
チ﹄
が上映されました。
面ごとの説明がついた﹁ユニバーサル上映﹂を行
含め、みなさんがともに映画を楽しむことがで
い、視覚や聴覚に障害のある方やご高齢の方も
きました。
会場には一部・二部あわせて約960名の方
が来場され、家族の絆や命の尊厳の大切さにつ
いて理解を深めていただく機会となりました。
活動
日頃から熱心に手入れを続けているボランティアの皆さんの手によって、
ウサギやクマなどの形に剪定されたゴールドクレストも,愛らしい姿で来
区役所玄関前の草花がきれいに咲き誇り,庁舎に彩りを添えています。
日に上京区役所において開催されました。
講師に NPO 法人フラワーアーティスト育成協会
サイズの可愛らしい苔玉を、和気あいあいと楽しく
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11:30∼14:00
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●グローバル地域文化学部(2013年4月開設)
同志社大学 企画部 広報室 広報課
北野幼稚園
創 立 以 来 七 十 六 年に
和や か な 家 庭 的 な
わたって、
雰 囲 気に包 ま れつつ
就 学 前 教 育の
本 流 をめざして、
学校法人
保 育 を 続 けて
参 り ま した 。
幼 児 た ちは
楽 しい遊びを 通 して、
人 生に必 要 な 生 き る
力のすべてを 手にし ま す 。
「上京・史蹟と文化」は上京区役所地域力推進室まちづくり推進担当で販売致しております。(TEL441│5040)
また、上京区役所のホームページで御覧いただけます。
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左京区南禅寺門前 電話 0 7 5 ─7 6 1 ─2 3 1 1
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表紙/京都御所建礼門 小谷一之 撮影
上京・史蹟と文化 第四十三号
平成二十四年八月十五日 発行
上京区民ふれあい事業実行委員会 編集・主管 上京区文化振興会・上京区役所 印刷 和光印刷株式会社
43
2012 VOL.