史跡佐渡金山 事前学習資料 金山の仕事 しごと 金山は、どんな仕事をする場所なのでしょう。 ぶったい こうせき 金は、もともと金色に光る物体として金山の中にあるのではなく、最初は「鉱石」という こうせき 石の中に、目に見えないほどの小さな粒として含まれています。金山では、この「鉱石」か そうぞう かがや せいさん しごと ら、みなさんが想像するようなキラキラと 輝 く金を生産するための仕事をしています。 こうせき ほ あな こうどう この「鉱石」を取るために、かたい岩山をけずって掘られた穴を「坑道」といいます。佐 ほ こうどう 渡金山で掘られた坑道の長さは、全部合わせると約400キロメートルにもなり、これは佐 きょり 渡から東京までとほぼ同じくらいの距離になります。このことからも、佐渡金山にどれだけ たくさんの金があったかがわかると思います。 金山で働く人たち こうどう しごと こうどう こうせき では、江戸時代には、坑道の中でどんな仕事をしていたのでしょう。坑道の中には、鉱石 ほ しごと か きんざん え ま き を掘る人のほかにもたくさんの仕事をする人たちがいました。江戸時代に描かれた金山絵巻 しごと の絵を見ながら、金山での仕事のようすを見てみましょう。 こうせき ほ しごと 1.鉱石を掘る仕事 こうせき ほ しごと かな だいく 江戸時代、鉱石を掘る仕事をする人を「金ほり大工」とい かな だいく いました。金ほり大工は、 「たがね」とよばれる先のとがった てつ ぼう うえだ 鉄の棒を「上田ばし」というペンチのようなものではさみ、 かな う いわ それを「つち」という金づちのようなもので打って岩をけず こうせき ほ かな だいく しごと り、鉱石を掘りました。金ほり大工は二人か三人一組で仕事を こうたいせい こうどう きゅうけい し、4時間ごとの交替制だったので、坑道の中で 休 憩 したり、 しょくじ しごと しごと 食事をしたりする時間もとれました。この仕事は、ほかの仕事 ぎじゅつ しごと あつか きゅうりょう とちがい技術のいる仕事だったので大切に 扱 われ、給 料 もたくさんもらえたといいます。 1 史跡佐渡金山 ほ こうせき もの はこ 事前学習資料 しごと 2.掘った鉱石や物を運ぶ仕事 かな だいく ほ こうせき こうどう はこ 金 ほり大工 が掘 った鉱石 を坑道 の外へ運 ぶ仕事を よ する人たちを「ほりこ」と呼びました。ほりこは、 「か ふくろ こうせき せなか ます」という「わら」でできた 袋 に鉱石をつめて、背中 はこ こども だいじ はたら にかついで運びました。小さな子供も大事な 働 き手 しごと としてこの仕事を手伝っていました。 かな だいく つか はこ がよ また、金ほり大工が使う「たがね」を運ぶ人を「たがね通いほりこ」といいました。かた いわ い岩をけずっているうちに「たがね」はすりへってしまいます。そのすりへった「たがね」 こうかん こうどう がよ と新しい「たがね」を交換するために坑道の中へ出入りするのが「たがね通いほりこ」です。 こうかん 「たがね」は2日に1本交換しなければならないほど、すりへるのが早かったといいます。 こうどう ほ き しごと 3.どこに坑道を掘るかを決める仕事 こうどう ほ 坑道はむやみにどこにでも掘 ればいいもの ほ ではなく、どこをどう掘 ったら金の多い場所 こうみゃく ほ ( 鉱 脈 )にたどりつけるか、また、どう掘っ もくてき こうどう たら目的 の場所まで坑道 をつなげることがで ほ しごと そくりょう しごと きるかなどを計算して掘られます。その仕事を「 測 量 」といいます。その仕事をする人を 江戸時代には「ふりがねし」と呼びました。上の絵の中で、なわを持って長さをはかってい る人が「ふりがねし」です。 こうどう あんぜん まも しごと 4.坑道の安全を守る仕事 こうどう ほ 坑道を掘っていくにつれて、岩山はもろくなり、くず きけん ふせ れる危険が出てきます。それを防ぐために木でわくを組 ささ しごと ひつよう しごと み、岩山を支える仕事も必要でした。この仕事をする人 だいく しごと こうどう たちを「山どめ大工」といいました。この仕事は、坑道 はたら いのち まも たいせつ しごと せんもんてき の中で 働 く人の 命 を守るための大切な仕事で、専門的 はんだん しごと だいく さ ど な判断がいる仕事だったので、山どめ大工はみんな佐渡 ぶぎょうしょ 奉行所にやとわれた人たちでした。 2 史跡佐渡金山 こうない はいすい 事前学習資料 しごと 5.坑内の水を排水する仕事 はっけん 佐渡金山は、発見されてから100年くらいたった1700 ふか こうどう ほ 年ごろには、海水面よりも深いところまで坑道が掘られていま こうどう ほ ほ ち か す い した。ですから、坑道を掘れば掘るほど地下水がわいてきて、 こうどう 坑道の中に水があふれてくるようになりました。そのために、 こうどう しごと ひつよう 坑道の水をくんで外へ出す仕事がどうしても必要になりました。 きん こうどう こうどう う いくら金がたくさんとれる坑道でも、水があふれて坑道が埋 こうせき ほ きん ほ もれてしまっては、もう鉱石を掘ることができません。金を掘る しごと こうどう はいすい 仕事は「水とのたたかい」と言われるほど、坑道の中の水を排水 しごと はいしゅつ する仕事は大切で大変な仕事でした。ですから、水を 排 出 する どうぐ はつめい しごと らく ための道具も江戸時代には数多く発明され、少しでも仕事が楽 くふう になるように工夫されました。 はいすい しごと みずかえにんそく よ 排水の仕事をする人たちは「水替人足」と呼ばれました。江 こうどう ふ ふか 戸時代の終わりごろには、坑道が増え、どんどん深くなってい みずかえにんそく ひつよう ばくふ す たので、たくさんの水替人足が必要でした。そのため、江戸幕府は、江戸や大坂で、住む家 しごと しごと みず かえ にんそく しごと いっ こうどう も や仕事のない人たちを佐渡につれてきて、この仕事につかせました。水替人足の仕事は一 ちゅうやこうたい しごと 昼夜交代のきびしい仕事でした。 はたら み は しごと 6. 働 く人たちを見張る仕事 こうどう し ご と ば はたら 坑道の中には、それぞれの仕事場で休まずにみんなが 働 いているかどうか、また坑道に持 ぶっし ぬす で あらた み は しごと っていく物資を盗んだりする人がいないかどうかを見張る仕事をする人もいました。その しごと い 仕事を「出入り 改 め」といいました。 3 史 史跡佐渡金 金山 事前 前学習資料 料 坑道は はどんな な場所? ち か ふか ふ ほ こうど どう ばしょ かたい岩 岩山をけず ずって地下深くまで掘 掘られた坑道 道とは、ど どんな場所な なのでしょう。 こうどう 【坑道の中の明 の 明かり】 ち か ふか ほ こうどう ま くら 地下深く掘 く られた坑道の中は は、光の届 届かない真っ暗 っ な場所 所です。そこ こで安全に に歩いたり、 、 しごと ひつよう 仕事をした たりするには、明かり りをともす必要があり りました。江 江戸時代の の明かりといえば、何 何 も ほの のお かを燃やし して出る 炎 の明かりだけでした た。 こうどう かぎ さんそ つか か けむり こ こうどう う しかし、火をたけば ば坑道の中の限られた た酸素が使 使われ、煙 が立ち込 が め めます。です すから、坑道 道 ねんりょう ほのお あん んてい も けむり でたく 燃 料 は、明る るい 炎 が安 安定して燃えるもの、明るさのわ わりに 煙 や「すす」が少なく、 が わる けっか しょくぶつ 空気を悪くしないも く のでなけれ ればなりま ませんでした た。いろい いろとためした結果、 植 物 から ら あぶら つか とった 油 を使うよう うになったといいます す。 こうどう さんそ 【坑道の中の酸 の 酸素】 こうどう なが わる しんせん ん 坑道の中 中はせまく、空気の流 流れが悪いので、新鮮 鮮な空気を取り さんそ へ に さ ん か た ん そ ふ 入れること とができません。酸素 素が減り、二 二酸化炭素 素が増えてくれ いき し こうどう ば、やがて て人は息がで できなくな なり死んでし しまいます す。そこで、坑道 なが くふう の中の空気 気の流れをよくするた ための工夫 夫がされまし した。 どうぐ うち ちがわ は ね 右の絵の の道具は「かざまわし しとうみ」といい、ハ ハンドルをま まわすと内 内側の羽根が回り、中 が 中 あな す こ つ つつ おく 心の穴から ら吸い込んだ空気を筒 筒の先から送り出すも ものです。 こう うどう か あな あ あな ほ また、坑道 坑 には、空気を入れ替 空 替えるため めの小さな穴 穴(けむり穴)もいくつか掘られ れました。 4 史跡佐渡金山 こうどう 事前学習資料 はいすい 【坑道の中の排水】 こうどう ふか ち か どうぐ はいすい 坑道が深くなるにつれて地下からあふれてくる水は、さまざまな道具で排水されました。 ほうほう こうどう す ほうほう 一番かんたんな方法は、おけで水をくみ、坑道の外に捨てるという方法でした。けれども、 こうどう ふか す さぎょう たいへん 坑道が深くなってくると、水をくんでは捨てるという作業を一人の人だけでやるのは大変に ひつよう なり、大ぜいの人が必要になります。 つか どうぐ なが そこで使われるようになったのが「つるべ」とよばれる道具です。ふたつのおけに長いロ ープをつけ、ひとつのおけを水の中にたらして水をくみ、ロープで引きあげると、もう一つ じどうてき し く こうどう のおけが自動的に下がり、また水をくむ仕組みです。どちらにしても、坑道の中にあふれて てさぎょう たいへん しごと くる水を手作業でくみあげるのは、大変な仕事でした。 かんが つか すいしょうりん よ そのために 考 えられたのが、1653年から使われるようになった「 水 上 輪」と呼ばれ る水をくむためのポンプです。これは、上についているハンドルをくるくると回すだけで、 つつ は ね し く すいしょうりん 長い筒の中についている羽根が回り、水をくみ上げる仕組みです。この 水 上 輪をいくつも こうどう ふか つなげて、坑道の深いところから水をくみ上げ、外に出しました。 すいしょうりん つか この 水 上 輪は、やがて田んぼや畑に水をくむためにも使われるようになり、川などから と ち さくもつ 水がひけない高い土地などにも米や作物を作ることができるようになりました。 ↑ 水上輪で水をくむ水替人足 ↑ 水上輪のしくみ 5 史 史跡佐渡金 金山 事前 前学習資料 料 明治 治時代の の金山 めいじ てさぎょう しごと せいよ よう つた 明治時代 代になると、江戸時代 代までは手作 作業でおこ こなっていた仕事の多 多くに、西洋 洋から伝わ きかい つか ってきた機 機械が使われるように になりました。 こうせき ほ どうぐ さくがんき いわ わ たとえば ば、鉱石を掘るための の道具は、 「たがね」と「つち」ではなく、 、 「削岩機」という岩 」 岩 けず きかい さくがんき けず ほそなが あな かやく ばくはつ を削るため めの機械に変わり、削 削岩機で削った細長い穴 い に火薬をつめて爆 爆発させることで、一 一 こうせき き お 度にたくさ さんの鉱石を落とすこ ことができるようにな なりました た。 せい いよう ぎじゅつ と きかい つ つか おど どろ こうせき こ はこ また、西洋 西 の技術を取 を り入れ れた機械を使 使うことに によって、驚 驚 くほど早 早く多くの鉱 鉱石を運ぶ よ こうせき こ こともでき きるようになりました た。江戸時 時代には、 「ほりこ」と 「 と呼ばれる る人たちが鉱 鉱石を「か か よ ふくろ せなか はこ めいじ ます」と呼 呼ばれるわ わらの 袋 につめて背中 に 中にかつい いで運んでい いました。それが、明 明治時代に に こうしゃ よ こう うせき つ つか こうしゃ なると、「鉱車」と呼 呼ばれる鉱 鉱石を積むた ための車が が使われるよ ようになり り、人力や馬 馬で鉱車を はこ 引いて運ぶようにな ぶ りました。 ち か ふか こうどう ちじょう こうせき こうせき き 地 深くに 地下 にある坑道から地上 か へ へ鉱石 を引き きあげるの のには、鉱石 石 こ こうしゃ の まきあげき よ きかい を鉱 鉱車ごとエレベーター ーに乗せ、それを巻揚 そ 揚機と呼ばれ れる機械で せなか はこ 引っ っぱり上げ げるようにな なりました た。人が背中 中にかついで で運ぶのと と、 こうし しゃ つか つ はこ いちど はこ こうせき 鉱車 車とエレベ ベーターを使 使って運ぶのとでは、 ぶ 、一度に運べる鉱石 べ の りょう ふ そうぞう 量 は、くらべ べものにな ならないほど ど増えたこ ことが想像できると思 で 思 いま ます。 めいじ はじ じ さらに、明治20年 年ごろには、日本で初 初めての空中 中ケーブル ル が が佐渡金山 山で使われま ました。空中ケーブル ルとは、ロー ープウェー ー の もの の のような乗 乗り物だとイ イメージし してみてくだ ださい。この の空中ケー ー せいれ れんじょ 巻揚機 こうせ せき よ こうじ じょう みなと と やく ブ ブルで、 「精錬 錬所」と呼 呼ばれる 工 場 から 港 までの約1キロにわ わ はこ とうじ たって鉱石 石を運ぶことができる るようにな なったのです す。はじめて て空中ケー ーブルを見た た当時の人 人 の もの つ しゃどう し よ たちは、乗 乗り物が空中を走るよ ようすを見 見て「釣り車 車道」と呼 呼んだといい います。 せいれん んじょ また、明 明治30年 年ごろには、佐渡金山 山から約2.5キロはな なれた精錬 錬所までの間 間も、空中 中 ケーブルで でむすばれ れるようにな なりました。 こうどう つか へんか さらに、坑道の中で使われる る明かりに にも大きな変 変化がありました。 めいじ も よ つか か 明治時代に にはアセチレンガスを を燃やして明かりをと ともす「カンテラ」と と呼ばれるラ ランプが使 使 はつめい われるよう うになりました。この のカンテラは、佐渡金 金山で初めて発明され れ、その後、 、日本全国 国 に広がって ていきました。 6 史跡佐渡金山 事前学習資料 鉱石はどんな石? きん きん こうせき よ 金はきらきらと光る金色をしています。では、金のもとになる「鉱石」と呼ばれる石も、き こうせき れいな金色をしているのでしょうか。「鉱石」とはどんなものか見てみましょう。 しゃしん こうせき この写真を見てください。これが「鉱石」です。 こうせき 金は、鉱石の中の黒いすじの部分に、目に見えな つぶ ふく いほど小さな粒として含まれています。金山では、 こうせき ほ こうせき こま 山からこの鉱石を堀りだし、鉱石を細かくくだい せいれん さぎょう たり、「精錬」という作業をしたりして、金を取 しごと り出す仕事をします。 こうせき 鉱石から、どのようにして金ができるのでしょう。 鉱石から金ができるまで さ ど ぶぎょうしょ よせ せ り ば よ こうせき 江戸時代、佐渡では佐渡奉行所の中にある「寄勝場」と呼ばれる場所で、鉱石から金をよ さぎょう よせ せ り ば まい か しごと り分ける作業をしていました。寄勝場での仕事を見てみましょう。 きんざん え ま き よせ せ り ば しごと 次の4枚の絵は、江戸時代に描かれた金山絵巻の中の一場面で、寄勝場での仕事のようす よせ せ り ば さぎょう をあらわしたものです。おおまかに言うと、寄勝場での仕事はこの4つの作業にわけられま す。 1.石はたき・ふるい分け こうどう ほ こうせき よせ せ り ば はこ さぎょう こま まず、坑道から掘られた鉱石は寄勝場に運ばれる う と、右の絵のように石はたきという作業で細かく打 こま こうせき ちくだかれます。そうして細かくなった鉱石を、絵 の左の人がしているように「ふるい」という「ざる」 つぶ のようなものに入れてふり分け、粒の大きさをそろえます。 7 史跡佐渡金山 事前学習資料 2.立ておけ・もとゆり こな 「ふるい」にかけて粉のようになった こうせき 鉱石は、絵の右の人がしているように、 くわ おけの中に入れ、水を加えてかきまわし ふく つぶ おも ます。金が含まれている粒は重 いので水 つぶ かる にしずみ、金が入っていない粒は軽いの そこ で底にしずまずにおけの上の方にただよ つぶ うからです。こうして、金の入っている粒 とカスをおおまかに分けることができま す。 ふく す ここで、おけの上の方のカスを含んだ水も、捨てることはしません。この水も1か所に集 せつめい なが こうてい せいぶん のこ められ、後で説明する「ねこ流し」という工程で、どんなに小さな金の成分も残さず集める のです。 そこ ふく ぶぶん つぶ すな 一方、おけの底にたまった、金を多く含む部分(粒の大きな砂のようなもので、「もと」 よ さぎょう と呼びます)は、「もとゆり」という作業にかけられます。絵の中の右から3番目の人がし いた いた おも ているように、 「もと」を四角い板にのせ、水の中で板をゆらします。こうすると、金は重い いた そこ のこ いがい かる なが ので板の底に残り、それ以外のカスは軽いので水の中でゆられて流れていくため、金とカス をさらに分けることができるのです。 3.石うす・立ておけ ふく すな こうして分けられた金を含む砂は、右の絵の こま ように石うすでひいて、さらに細かくくだかれ すな ます。ひしゃくですくって、砂のようになった こうせき くわ 鉱石を入れる人が一人、水を加える人が一人い ます。それを2∼3人で力を合わせて石うすで すな こま こうせき ひき、砂よりももっと細かくなるまで鉱石をす りつぶすのです。 こま いた つぶ こうして細かくすりつぶされたものは、さらにまた四角い板にのせ、水の中でゆすって粒 つぶ さぎょう の大きいものと小さいものに分け、粒の大きいものはさらに石うすにかけます。この作業を こうせき 何回もくりかえして、鉱石をすりつぶし、金とそれ以外のカスによりわけます。 8 史跡佐渡金山 なが 事前学習資料 う 4.ねこ流し・打ちこみおけ こま こうせき つぶ なが このようにして細かくすりつぶされた鉱石の粒は、「ねこ流 さぎょう し」の作業にかけられます。右の絵の人がしているように、す ぬの べり台のような形をした木のわくに、もめんの布をしき、すり こうせき つぶ いっしょ なが ぬの つぶした鉱石の粒を水と一緒に流します。そして、もめんの布 にひっかかった金銀を、左の人がしているように、おけの中で あら お いた つぶ 洗い落とします。その水をまた四角い板の上でゆすって粒の大 こうてい なが きさを分け、ふたたび石うすの工程までもどったり、ねこ流し こうてい なんど さぎょう の工程にもどったりして、何度も同じ作業をくりかえし、わず かな金銀も、もれなく集めるのです。 9 史 史跡佐渡金 金山 事前 前学習資料 料 寄勝 勝場での作業 はたき ①石は おけ ⑤立てお ⑨ちんで でん → → ②ふるい分 分け ⑥石 石うす →⑩ ⑩ねこ流し → → → ③立て ておけ ⑦立ておけ ⑦ ⑪う うちこみおけ け → ⑫板 板どり → ④もとゆり ④ ⑧板 板どり → → ⑬ね ねこ流し 10 史跡佐渡金山 こうせき 事前学習資料 ま こばん このようにして、鉱石から混ざりもののない金を取り出すと、ようやく小判をつくること こばん ふく わりあい こま き ができるようになります。小判は、そこに含まれる金の割合が細かく決められているからで す。 こばん さ ど ぶぎょうしょ ご と う やくしょ ごとう 江戸時代、小判は佐渡奉行所の近くにある「後藤役所」というところで作られました。後藤 やくしょ ばくふ こうじょう するが 役所は、江戸幕府のお金を作るための 工 場 で、江戸、京都、駿河、佐渡の4か所にだけあ りました。 ご と う やくしょ ほうほう こばん 後藤役所では、どのような方法で小判をつくっていたのか見てみましょう。 小判の作り方 1.金を熱してとかし型に流す→ 2.かたまった金を加熱→ 3.たたいて厚さをそろえる 4.塩みがき・水洗いし重さを計る→ 5.後藤役所で極印をうつ→ 7.半分は長方形に切り品位を見る→ 8.もう半分は加熱→ 6.半分の大きさに切る 9.鑑定し合格品に極印をうつ 11 史跡佐渡金山 10.小判1枚の大きさに切る 事前学習資料 →11.重さを計る → 12.後藤役所へ運び、加熱する 13.打ちのばして半円にする→14.あつさをそろえる→15.加熱→ 17.平らにする → 21.色つけ釜で焼く 18.ござ目をつける → → 22.水で冷やし洗う 19.極印を打つ→ 16.反対側も丸くする → 20.色づけ薬につける 23.灰をつけて洗う →24.塩でみがく 25.重さを計り、合格したものを御金蔵へおさめる 12 史跡佐渡金山 こばん 事前学習資料 てじゅん こばん 小判は、おおまかにこのような手順で作られます。佐渡で作られた小判には、ほかの所で こばん くべつ 作られた小判と区別するために「佐」の字印が打たれました。佐渡金山で取れた金は、こう こばん ながさきぼうえき ゆ しゅつひん して小判となり、日本国内でお金として使われたほか、長崎貿易の輸 出 品 として海外にも 出回っていました。 とうない いんぎん どうせん てつせん しゅるい また佐渡では、佐渡島内でのみ使える印銀や、銅銭、鉄銭という種類のお金も作られてい きんし ました。これは、佐渡だけで使うお金なので、ほかのところへの持ち出しは禁止されていま した。 13
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