堅田周辺と本福寺(第二部) 2014_8.pdf

堅田周辺と本福寺について(第二部)
第二部では、浄土真宗本願寺派本福寺について紹介をさせていただきます。
2.本福寺
大津市本堅田にある浄土真宗本願寺派の寺院です。山号は夕陽山。今から、
約700年前の鎌倉時代後半(1312~1317年)に野洲三上神社の神職、善道が本
願寺の門人となり開基しました。その後、本願寺の直末寺として認められました。本福
寺は、堅田の豊かな経済力を背景に小作人等の下層社会に属する人たちに教えを
説くため道場を開いていました。この道場を番場の道場と言ったそうです。
住職の中でひときわ有名な第三世法住は蓮如上人の片腕と言われ、蓮如上人とは
深い繋がりを有していました。蓮如上人が本願寺の法主(第八世)となった当時、本願
寺は目も当てられないほど荒れていて、比叡山延暦寺(天台宗青蓮院)の末寺を余
儀なくされていたくらい仏教界では微々たる存在であったようです。蓮如上人は、本願
寺再興のために比叡山延暦寺と宗旨を異にすることから始めために比叡山延暦寺か
ら寛正六年(1465年)に『仏敵』と認定され、様々の圧迫を受けることになりました。
『仏敵』と認定した翌日に比叡山延暦寺によって、大谷本願寺が破却(焼き討ち)され
たので、蓮如上人は京から逃れて本福寺や堅田衆の世話になりました。蓮如上人は
堅田門徒とともに本福寺を拠点に浄土真宗の布教を行い、浄土真宗再興を図りまし
た。夕陽山の山号や本福寺の寺号も蓮如から賜ったと言われています。
応仁の乱(1467年)が起こった時、蓮如上人は親鸞聖人の御真影(祖像)を持って、
本福寺に移住され、ここで本願寺の寺務を執られたので本福寺を別名『本願寺旧址』
と言われています。本福寺の山門前にそれを刻んだ石柱が立ち、本福寺の周辺は白
壁で囲まれています。
(本福寺山門、本願寺旧址の石柱)
(蓮如上人像)
その後、親鸞聖人の御真影(祖像)は三井寺に移されました。1480年に山科本願
寺御影堂が完成しましたので、三井寺に対して御真影を返還して欲しいと要求します
が、三井寺から「信徒衆の首二つと交換」の条件が出ました。そこで、信仰心が深い堅
田の漁師である源右衛門は息子「源兵衛の首」を持参し自分の首も差し出すから返し
て欲しいと三井寺に懇願して、やっと、返してもらったようです。今、その首は本堅田の
光徳寺、三井寺の近くの等正寺と両願寺の3か所で祀られているそうです。しかし、何
故、一つの首が三か所に分散していることになっているのでしょうか?良く判りません。
光徳寺は本福寺と隣接しています。
(光徳寺山門)
(堅田源兵衛親子の銅像)
また、第三世法住の勇猛果敢さを示す次のエピソードが有ります。法住は、比叡山
延暦寺が『浄土真宗は邪教を広めている。蓮如上人を殺害しよう。』としていたことを
知り、法住は単身、根本中堂の中央に、本願寺の十字名号『どんな者までもお救いく
ださる仏さまに帰依します。』の意味を表す『帰命尺十方無碍光如来』を掲げ、浄土真
宗こそ法然が説く真実の宗教であり正法であるとお経と注釈書を引用して訴え、延暦
寺衆徒を屈伏させ裕然と退出したそうです。しかし、比叡山延暦寺から法住を狙う追
手が放たれたそうですが仰木(地名)の同行者らに守られて無事帰ることができたそう
です。これを知られた蓮如上人は涙に咽んで喜ばれ、名号本尊に裏書され、本福寺
の本尊として賜ったそうです。
本福寺は、勇猛果敢な住職の外に著名な文化人も多く、第十一世住職の明式は松
尾芭蕉と親交が深く、芭蕉から「千那」の俳号を受けた程の芭蕉の高弟でした。そのた
め、本福寺を千那寺とも称されています。芭蕉は千那の招きで堅田に再三訪れ、堅
田の俳諧文化を盛んにしました。その関係で芭蕉の句碑が本福寺や周辺の浮御堂等
に多く建てられています。本福寺の句碑は本福寺で詠んだ『病雁の夜寒に落ちて旅寝
かな(要約:晩秋の一夜、病で臥せっていると北へ向かう雁の通過する音が聞こえる。
その中で一羽群れから外れて湖に落ちていく落雁がいる。きっと、彼も病を得て飛ぶ
に耐えずに落ちていったものであろう。わたしもこうして一人病を得て旅寝の長夜を過
ごしている。)』であり、本福寺の境内に有ります。近江八景の落雁の意味合いと若干
異なるようです。
句碑:
『病雁の夜寒に落ちて旅寝かな』
(本福寺の句碑)
最後に、近くにお越しの際は是非お寺さんにもお立ち寄りくださいませ。
以上
滋賀支部大津地区 Y.Y