牧師に望まれる霊性(2) -主イエスの霊的成熟ヘの示唆通信科スクーリング 2013年1月29日・30日 1 この単元で学ぶこと 主の「くびき」を負うとはどう いうことなのか 主の「くびき」を負う目的は なにか 「すべて、疲れた人、重荷を負っ ている人は、わたしのところに来 なさい。わたしがあなたがたを 休ませてあげます。 わたしは心 優しく、へりくだっているから、あ なたがたもわたしの くびきを負って、わたしから学び なさい。そうすればたましいに安 らぎが来ます。わたしのくびきは 負いやすく、わたしの荷は軽い からです。」 (マタ11:28-30) 「だれでもわたしについて来たいと思 うなら、自分を捨て、自分の十字架 を負い、そしてわたしについて来なさ い。いのちを救おうと思う者はそれ を失い、わたしのためにいのちを失 う者は、それを見いだすのです。」(マ タ16:24-25) わたしの「くびき」と私の「十字架」 二つの自問 1) 主が勧めておられる「わたしのくびき」 を何処まで負えばよいのか。 2) 主が命じられた「私の十字架」を何処 まで負えばよいのか。 何処かで下ろす時と場所があるのか。 「くびき」と「かせ」 束 縛 安休 束 ら息 縛 ぎ くびきの矛盾 自由を束縛する「くびき」 意志の自由の束縛 行動の自由の束縛 重荷を軽減する「くびき」 一人では負いきれない重荷 重荷を分担するための「くびき」 くびきの矛盾 「くびき」を提供する主キリスト 律法遵守に「疲れた人(疲れ果てた人)」に 日常生活の「重荷を負っている人」に 「くびき」を負う結果 休ませるための「くびき」 やすらぎのための「くびき」 +α 主の「くびき」 柔和 謙遜 主 学 真 似 び な な さ い さ い 私 負い安い 軽い 「くびき」の目的 キリストを真似る キリストの仕草を真似る キリストに学ぶ キリストの心を学ぶ 神のみ旨を知る 主の「くびき」 柔和 謙遜 主 キリストは神の御姿 キリストは人として であられる方なのに、 の性質をもって現 神のあり方を捨てる われ、自分を卑しく ことができないとは し、死にまで従い、 考えないで、ご自分 実に十字架の死に を無にして、仕える までも従われたの 者の姿をとり、人間 です。 (ピリ2:6-8) と同じようになられ たのです。 主の「くびき」 柔和 謙遜 主 学 び な さ い 私の 十 字 架 「くびき」の究極の目的 キリストの心を心とする。 (ピリ2:5-文語訳) 「わたしのくびき・私のくびき」 負い安い 軽い 「わたしのくびき・私のくびき」 キ リ ス ト 休 労 平 息 働 安 交わり 私 「くびき」の用途 主のために 重荷となる奉仕 限界のある肉の力 主と共に 心地よい「わたしのくびき」 重くない「わたしの荷」 キリストとの親密な交わり それから与えられる計り知れない祝福(+α) 「くびき」の効用 後ろを振り向かない(振り向けない) 前に向かってまっすぐ進むだけ よろめかない 心地よい(負いやすい)から疲れない 余所目をするからおこる首ずれ 「わたしのくびき・私のくびき」 「....わたしのくびきは負いや すく(心地よく)、わたしの荷は 軽いからです。」 (マタ1 1:30) もう一つ負わねばならないもの 決して心地よいものではない 「だれでもわたしについて来たいと思 うなら、自分を捨て、自分の十字架 を負い、そしてわたしについて来なさ い。いのちを救おうと思う者はそれ を失い、わたしのためにいのちを失 う者は、それを見いだすのです。」(マ タ16:24-25) くびきと十字架 私が決断して負う「十字架」 主に招かれて負う「くびき」 私の「十字架」 「負いやすく」・「軽く」はない十字架 「負いやすく」・「軽い」十字架は十字架ではない 自分と自分が握っていた者・物を捨てなければ ならないから 主のために命を失う覚悟を要求するから 生活の犠牲を伴うから 私の「十字架」 私が決断して負う「十字架」 生活(奉仕)の軸足を自分に置かないこと “WWJD”で歩むこと 自己実現欲求を放棄すること 私のすべてを主に明け渡すこと 端的に言えば自分に「死ぬ」こと 私はキリストとともに十字架につけ られました。もはや私が生きている のではなく、キリストが私のうちに生 きておられるのです。いま私が、こ の世に生きているのは、私を愛し私 のためにご自身をお捨てになった神 の御子を信じる信仰によっているの です。(ガラ2:20) 私の「十字架」 十字架は自分に死ぬ直前が最も重い。 十字架は自分だけで 負うのではない。 キリストとともに十字架に いつでもイエスの死 をこの身に帯びている 私たちは、四方八方から苦しめ られますが、窮することはありま せん。途方にくれていますが、行 きづまることはありません。 迫害 されていますが、見捨てられるこ とはありません。 倒されますが、滅びません。い つでもイエスの死をこの身に帯 びていますが、それは、イエスの いのちが私たちの身において明 らかに示されるためです。(2コリ 4:8-10) 主の「くびき」と私の「十字架」 負いきれない「十字架」 はない 主と「くびき」を共にして いる限りは 来た マタ11:28-30 れ! わたしの… マタ16:24-26 私の… 負いきれない 主の「くびき」と私の「十字架」 こ の 世 に 「 我 に 来 た れ 」 私 に Peter わたしの「く びき」を負え わたしに学べ 安らぎ いのち 自分を捨て 自分の「十 字架」を負う わたしの「くびき」と私の「十字架」 二つの自問 1) 主が勧めておられる「わたしのくびき」 を何処まで負えばよいのか。 2) 主が命じられた「私の十字架」を何処 まで負えばよいのか。 何処かで下ろす時と場所があるのか。
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