桃山文化 織田信長と豊臣秀吉が天下人として日本の統治権を掌握した時代 を安土桃山時代(1568年~1598年or1600年)といい、織豊時代の文 化を桃山文化という。安土桃山時代は手工業の発達と商品経済の 発達を受けて、都市部に新興商人の豪商が成長し、その富を背景に 豪華で大掛かりな文化現象が見られ、一向一揆に代表される反権力 的仏教勢力の攻勢と信長の弾圧政策で、中央での仏教勢力は弱ま り、仏教主義的な作品が減り、代わりに人間中心、現世的な風潮が 見受けられる。 桃山文化は桃山建築文化とかかわって使用された、 天正、文禄、慶長年間の絢爛豪華な文化をいう。唐物の名物茶道具 が珍重した茶の湯が流行する一方でわび茶に代表される控えめで 洗練された文化も一要素として重要視される。茶器が大名から家臣 への報奨とされたり、茶会が武将と豪商を結ぶなど政治にも影響し た。桃山文化で特筆すべき点は、1549年のフランシスコ・ザビエル来 日以来の南蛮貿易による南蛮文化の影響が挙げられ、小規模では あったが、日本が初めて西洋文化と直接触れ合ったという点である。 西本願寺唐門は、豊臣秀 吉が築いた伏見城を取り 壊す際に、全国各地にそ の遺構を配分したうちの 一つなのである。伏見桃 山城の唐門が、の西の入 口にあるこの唐門なので ある。 西本願寺「飛雲閣」は秀吉の聚楽第から 移築したと伝えられ、境内の東南隅にあ る滴翠園に建つ飛雲閣は、三層柿葺の 楼閣建築 西本願寺書院「鴻 の間」上下両段に 分かられ大広間の 境の欄間に雲中飛 翔の鴻の鳥彫刻が あるので「鴻の間」 ともいう。障壁画は いずれも狩野了慶 の筆。 都久夫須麻神社本殿 関白豊臣秀吉が時の天皇 の迎える施設として伏見城内に建設した「日暮御 殿」を豊臣秀頼が移建・寄進したもの 大徳寺唐門は村上 周防守義明が豊臣 秀吉の聚楽第に あったものを拝領し たと伝えられてきた が、 2000年の修理 の際、”聚楽第遺 構”と書かれた木札 が発見 犬山の如庵は、茶の湯の創成期に 尾張の国が生んだ大茶匠・織田有楽 斎が建てた茶室で、昭和11年に国 宝の指定をうけた茶道文化史上貴重 な遺構です。京都山崎妙喜庵内の待 庵・大徳寺龍光院内の密庵と共に現 存する国宝茶席三名席の一つといわ れています。 現在、国宝に指定されている茶室は 三棟あります。妙喜庵の待庵と、犬 山の如庵、大徳寺の密庵で利休の作 と伝えられている確かな席は、待庵 だけです。 一の間は広さ48畳、二の間は44畳となっています。将軍が諸大名と対面 した部屋で二の丸御殿の中で最も格式の高い部屋です。この部屋で慶応3 年(1867年)10月、15代将軍慶喜(よしのぶ)が諸大名を集め、大政奉還 醍醐寺三宝院 庭に面した表書院は、書院 (たいせいほうかん)を発表した歴史的な部屋です。また二の間は御水尾天 といっても縁側に勾欄をめぐらし、西南隅に 泉殿が作り、平安時代の寝殿造りの様式を 皇の行幸のときに、南庭につくられた能舞台の見所に使われました。 取入れたユニークな建築である。 犬山城の前身木下城は、天文6年に織田信康 が築いた。この城は、信長の美濃攻略、秀吉と 家康の小牧長久手の戦いなどの舞台となった。 文禄4年、石川貞清が城主となり、現在の城山 に築城する。 狩野山楽「牡丹図」「紅梅図」と背中合わせの八面の襖絵 二条城黒書院襖絵は 探幽の弟、尚信の作品 華麗豪華な遊楽図の多いなか,本図の特異さは,背景に金碧を用いず,水墨画 の技法を生かしている点にある。しかし,描かれた当初の衣裳や花木の,今より ずっと鮮明な色彩を想像すると,落ち着いた背景との対比によって匂うように浮 き出たさまがさぞかし優雅であったと思われる。作者長信(1577-1654)の祖父元 信が花鳥図に用いた手法である。 6曲1双 本着色 狩野長信筆(かのうながのぶひつ)各縦148.8 横357.7 桃山時代 国宝 長谷川等伯 1539年、能登(現・石川県七尾市)に生まれる。はじめ長谷川信春を名乗り、 仏画などを描いていたが、のち30歳を過ぎて上洛。当時の主流であった狩野 派に対して強烈なライバル意識を持ち、独自の画風を確立。日蓮宗の熱心な 信者であり、また千利休とも親交を持っていた。しかし、画才に恵まれ跡継ぎと 見込んでいた長男・久蔵に先立たれ、晩年には事故により利き腕である右手 の自由を失うなど、私生活は不幸であった。後に徳川家康の要請により江戸に 下向するが、江戸到着後2日目にして病死した。 智積院宝蔵庫に入ると、左手に、長 谷川等伯作、楓図、長谷川久蔵作、 桜図。 見返しに門人達が描いた松図、正面 には上段の間に設えた松に立葵図、 右手に大小3点の障壁画があります。 この時久蔵は若干二十六歳。爛漫と 咲き誇る若桜の絵は、すでに父を凌 ぐ大天才であることを如実に示してい ます。 そして若桜に対する老楓の巨大な幹 のたたずまいは、明らかに己を凌ぐ若 い天才に対する老巧の挑戦を示して います。 ただこの至福の刻は永続せず、翌年 久蔵は急死します。 一説では楓図は久蔵の死後描かれた、 と言い、また松林図屏風はその哀しみ に耐えて制作されたとも言われ、いず れもこの悲劇が大芸術家の内面に与 えた影響の深さを示しています。 竹林猿猴図屏風 等伯の猿の作 品は現在3点が 伝わっているが、 その内の1点が 本図である。右 隻には親子と思 われる3匹の猿 が。 水墨で細かく描か れているが、それぞ れの姿は非常に愛 らしく、等伯の自然 や動物達への情愛 が感じられる 商山四皓図襖 山間の地の騎驢 姿の四皓と従者 達が、真珠庵の 襖絵と同様に簡 略な筆遣いで表 現されている。 慶長7年は真珠庵の襖絵を描いた翌年にあたるが、同じ画題を描きながら同様がまったく異なる点 は、手本とした画本のことを考えるに際して興味深い。等伯晩年期の簡略な筆遣いによって猫線を 際立たせる手法には、中国南宋の院体画の影響を認めることができ、等伯晩年の画業を評価する にあたって重要である。 達磨図 達磨は禅宗の祖師で、その像は 絵画の画題として好んで制作され た。本図は漢画技法に基づく水墨 画で、各種の筆を巧みに使い分け て達磨の泰然とした様子を見事に 表現している。等伯若年時の作品 である。 陳希夷睡図 陳希夷は中国五代・宋時代の道 士で3年間眠り続けたという伝説を 持ち、眠る姿で描かれる事が多い。 本図も同様で、眠る陳希夷の姿が 水墨で謹直に表現されている。等 伯40歳代頃の作品と推定される。 十八羅漢図 羅漢とは釈迦の弟子にあたる。本図は 1幅に2人ずつの羅漢が描かれた8幅 の作品で、水墨を基調として部分に淡 彩を施し、衣装は太線で豪快に、顔の 線猫は細密に表現されている。等伯若 年時の作品とされる。 善女龍王は密教系の仏で、祈雨の 本尊である。本図は小品ながら細密 で鮮やかな色彩が施され、等伯若年 時の作品の特色がよく発揮されてい る。作風から20歳代後半頃の能登 時代の作品と考えられている。 日通上人は本法寺第十世住職で、等伯 とは長きにわたって交友があったといわ れる。等伯70歳の晩年の作品で、やや控 え目な色彩ながら描線は力強く、上人の 人柄と、知己を失った等伯の悲しみが画 面より感じられる。 千利休(1522~1591)は桃山時代 に活躍した、茶道の大成者として知 られる。秀吉政権の実力者でもあり、 等伯の理解者であったといわれる。 本図も利休没後に等伯が描いた肖 像画で、利休の肖像としては最も著 名な作品である。 花鳥図屏風(かちょうずびょうぶ) 本図は水墨を基調に要所に色彩を施した作品で、モチー フを画面の端に集めた構図で安定感を感じさせる作風で ある。等伯40歳代頃の筆といわれ、画面中の鳥などの描 写は生き生きとして表現されている。 弁慶・昌俊図絵馬 源義経の命を狙った土佐坊昌俊を、武蔵坊弁慶が捕らえて堀川の屋敷へ引っ立て ていく場面を描いた巨大な絵馬である。等伯70歳の没する2年前の最も晩年の作 品であるが、老齢を感じさせない力強さである。 波濤図(はとうず) 本図は金箔で雲と霞、水墨で波と岩を表現した作品で、鋭 く突き立つ岩に激突しながら渦巻く波は迫力に満ちあふれ、 山水図襖(さんすいずぶすま)妙心寺隣華院の客殿室中 金と墨のコントラストも相まって、いかにも桃山時代らしい を飾る襖20面=春夏秋冬の連続する山水風景冬の情景。 ダイナミックな作風となっている。 等伯61歳時の作品 洛中洛外図 室町時代後期、応仁の乱によって大きな被害をうけた京都でしたが、桃山時代 になると、天下人の登場によってようやく安定します。この頃から、洛中洛外図は時代の安定 の秩序回復の象徴として数多く描かれました。本作品では黄金色に輝く雲の合間に、京都の 町並みや祭礼の様子、人々の日常生活のありさまなどがうかがえます。左隻には徳川家の象 徴の二条城がそれぞれ大きくあつかわれています 桃山文化② 海北友松 1533-1615(天文3-慶長20) 狩野永徳・長谷川等伯・雲谷等顔と並ぶ桃山時代画壇の巨匠。 浅井家重臣の海 北善右衛門綱親の五男(あるいは三男)として、近江(滋賀県)に生まれる。戦国 の動乱で幼くして京都善福寺に入り、浅井家滅亡の難を免れ、禅林に過ごす。40 才代で還俗、海北家再興を志して武道に励んだが、文禄年間(1592-96)より、画 人として本格的活動に入った。つまり画人としての旅立ちは60才代からと遅い。 師については、狩野元信・狩野永徳の二説があるが、その画風は狩野派にとどま らず、中国宋元画への直接的な学習を通した個性的なもので、すぐれた水墨技 法により武人らしいはげしい気迫のこもった画を描き、豊かな情感を表現した。ダ イナミックな画面構成、対象を球状・円筒状に表わす形態感覚は特徴的である。 子の友雪以降、江戸時代を通じて海北派が形成されたが、友雪以降は職業画家 化し、友松とは異なる画風へと変貌している。 遺作は多く、慶長4(1599)年の京 都建仁寺方丈の襖絵(重要文化財)をはじめ、≪山水図屏風≫(東京国立博物館 蔵・MOA美術館蔵など、重要文化財)、≪飲中八仙図屏風≫(京都国立博物館 蔵)、≪網干図屏風≫(御物)などが著名である。晩年は公家・禅憎と交わり、多く の水墨押絵貼屏風を制作している 琴棋書画図屏風 禅宗祖師・散聖図1613(慶長18)年紙本墨画 六曲一双押絵貼屏風 禅宗祖師・散聖図 達磨大師に始まる禅宗の祖師中、二祖・六祖と中国の高僧、さらに 散聖(正当な法系に属さない禅僧)の故事をそれぞれ絵画化している。 故事は、一匹の猫をめぐって争う僧徒を戒めるべく、その猫を切断し たという中国唐代の名僧、南泉普願(なんせんふがん)の説話(南泉 斬猫(ざんみょう))などである。 濃淡の簡略な筆(線)とにじみを生かした墨(面)によって、ふくらみ のある人体のフォルムが捉えられている。これは友松が得意としたス タイルで、中国南宋中期(13世紀前半)の画院画家として有名な梁楷 の減筆体(少ない筆数で人物を的確にとらえ描写)に基づくものであ る。画面全体の淡い墨調からは心地よい情感が伝わってくる。 友松には、押絵貼による同種の禅宗故事図が他に数例知られるが、 本屏風の場合、図上の画賛がとくに重要な意味をもっている。同賛 は、京都妙心寺80世・静岡臨済寺4世を務めた学僧鉄山宗鈍(そうど ん)による。鉄山が慶長18年(1613)、武将山名禅高のために書した もので、同年は友松81歳、本図は彼の最晩年の作である。 風俗画の出現…洛中洛外図、花下遊楽図屏風、職人尽画図、南蛮屏風など (a) 「花下遊楽図屏風」…狩野長信 (b) 「職人尽画図」…狩野吉信 観楓図屏風(かんぷうずびょうぶ)洛北・高雄は古来,紅葉の名所として名高い。 清滝川のほとりで思い思いに紅葉狩を楽しむ人々の姿が描かれる。遠く雲間に 神護寺の伽藍や,雪の愛宕社も望まれる。春夏を描いた他の1隻とともに四季の 名所絵であったと思われる。画中の印から,狩野元信の次男,「秀頼」の筆とされ るが,孫の「秀頼」とする説もある。 キリシタン版 平家物語 扉 牙全 式文 葡 萄 洛中洛外図六曲一双<島根県立美術館蔵> 南蛮屏風 江戸時代初期 いわゆる「南蛮屏風」とは、洋風画の技法をほとんど用いず大和 絵の手法で南蛮船入港など西洋人の風俗を描いたものである。 南蛮屏風が描かれたのは、豊臣秀吉が朝鮮出兵のため肥前名 護屋に築城する際、随行した絵師たちが長崎で南蛮船や西洋人 の風俗を見たことにはじまるともいわれており、16世紀末から京 都・畿内で大流行し、鎖国後も制作され続けた。本図は右隻に日 本へ渡来した南蛮船が入港する場面、左隻に乗馬などの異国風 俗を描いている。その類例としては、狩野派によるサントリー美術 館本、東京国立博物館本があり、本図はこの2本を折衷した内容 をもつ。ただしその筆者については、狩野派などの正統の画人と は思われず、検討を要する。 南蛮屏風(重要文化財)桃山時代 狩野内膳筆 左隻(写真上)は奇妙な異国建築をバックに、帆を張った 南蛮船が出港する場面。右隻(写真下)は日本での貿易 品荷揚(あ)げ、カピタンの行列と出迎える宣教師たちを描 いている。あざやかな色彩と、細部にわたる入念な描写 は、70点ほど現存する南蛮屏風の中でも最もすぐれた遺 品といえる。各隻に「狩野内膳筆」の款記と「内膳」白文方 郭(ほうかく)壺印がある。内膳(1570~1616年)は摂津伊 丹城主・荒木村重の家臣の子。主家が織田信長に滅ぼさ れたため、狩野松栄(しょうえい)について画家となり、の ち豊臣家のお抱え絵師になった。秀吉7回忌の祭礼を描 いた豊国祭礼図屏風(京都・豊国神社蔵)はその代表作。 南蛮屏風はほかにも何点か残しており、内膳得意のテー マであったらしい。 南蛮屏風(重要文化財)桃山時代 狩野内膳筆 南蛮貿易(16-17世紀、狩野内膳画の南蛮屏風より) 1543年に種子島にポルトガル船 が到来した。ポルトガル船はその 前年すでに琉球に到着していた が、琉球人はポルトガル船がマ ラッカを攻撃して占拠したことを 知っていて、交易を拒否した。一 方、日本の商人はポルトガル商 船との交易を歓迎したため、ポ ルトガル船はマラッカから日本に 訪れるようになった。 1557年にポルトガルがマカオの 使用権を獲得すると、マカオを拠 点として、日本・中国・ポルトガル の三国の商品が取引されるよう になった。 織田信長・豊臣秀吉は基本的に 南蛮貿易を推奨した。スペインは ポルトガルに遅れてアメリカ大陸 を経由しての太平洋航路を開拓 し、ルソン島のマニラを本拠とし て日本を訪れるようになった。 工芸 A.陶磁器=磁器生産の開始 (a) 磁器生産 ←朝鮮出兵による朝鮮陶工の強制連行 ・有田焼(肥前、鍋島氏)=朝鮮陶工李参平が開始、伊万里焼ともいう(積 出港が伊万里) →酒井田柿衛門による赤絵の登場で大発展、海外輸出、マイセン窯(ドイ ツ)などに大きな影響 ・薩摩焼(薩摩、島津氏)・高取焼(筑前、黒田氏)・平戸焼(肥前、松浦氏) ・豊前上野焼(豊前、細川氏) (b) 陶器生産 ・楽焼(京都)=京都の楽家が焼いた陶器の茶碗、花などの彩色を施す 現在は手作り低温焼成の陶器一般をさす ・志野焼・織部焼(美濃ほか) ・唐津焼(肥前)・萩焼(長門、毛利氏) ←朝鮮陶工の技術導入 B.彫刻=豪華な欄間彫刻に代表される a) 西本願寺欄間 C.漆器=模様の豪華化 (a) 高台寺蒔絵=豪放な模様が特徴、京都の高台寺(北政所が秀吉の冥福のた めに建てた寺)の建物に施された蒔絵と、秀吉・北政所遺愛の蒔絵調度品 を合わせていう・代表的作品:「竹秋草蒔絵文庫」など D.染織=染物の華美化、刺繍の発達 (a) 西陣織(京都)の発達←素材は輸入高 級生糸 (b) 辻ヶ花染 芸能 A.侘び茶と草庵茶室の完成=千利休(1521~91)によって大成 (a) 秀吉、信長をはじめ大名や庶民も愛好 (b) 北野の大茶会(1587.10.1) ・京都北野神社・北野松原で秀吉が催した大茶会、貴賎を問わず参加 を呼びかけ、10日間を予定 ・実際には1日で中止、秀吉所持の名物茶器の披露が目的 (c) 千利休(宗易)による侘び茶の完成 ・堺の豪商出身、信長・秀吉に仕える、のちに秀吉の怒りに触れ自害 ・千利休の弟子=織田有楽斎、古田織部、高山右近など B.能=公家・武家・庶民にも広く普及、装束・調度は華麗に C.花道、香道、囲碁、将棋の流行 D.隆達節(隆達小歌) =堺商人高三隆達が節付けをした小歌、当時流行のものや彼の自作のもの がある E.歌舞伎(後述、寛永期の文化で) 生活文化 A.衣服 (a) 小袖の一般化…もとは肌着、異類不足に伴って常用着となる (b) 武家の服装 ・男性…裃が訪問着 ・女性…腰巻、打掛が礼服、小袖着流しが常用着 B.飲食 (a) 1日3食の一般化 (b) 主食 =庶民の間にも米食が次第に普及(庶民は米、麦、粟、稗を常用) (c) 副食=魚、鳥の食用 (d) 間食の出現=うどん、そうめん、餅、菓子など (e) 調味料=味噌、塩、酢のほか醤油の普及、砂糖(輸入品) C.住居 (a) 天文~永禄頃(16世紀中頃) =京都の民家は間口・奥行き2間程度の平屋が多数 (b) 慶長の頃(1596~1614) =繁華街ではほとんどが2階建て、瓦葺きで、構造的に堅固になる
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