スライド 1

倭略史;韓半島南(百済、新羅、伽耶)と関係した倭の5族;
4伽耶(加羅、阿羅、多羅、高霊)+ 新羅
金官
弥生
中期
後期 古墳前期(~4C末)
-200~0 ~250
倭鍛冶 土師器
銅鐸開始 青銅3圏 前方後円墳
-100 57
239 245
170~180
後漢・委奴 倭大乱
107倭王帥升
光武帝
半島南 昔辰
古墳中期(5C)
須恵器
312
4C後半
楽浪滅
卑弥呼 壱(台)与
東征
魏倭伝
401 ~
馬辰弁
百・辰・加 →済南下
奈良(~794)
712記720紀
社寺
562
608
任那滅 伽耶滅
南宋
369七支刀:倭済盟
645
聖徳遣隋使
663
大化
581隋 618唐
551羅済
白村
大宝
6月壬申
647
664郭務宗
金春秋
~672年5月帰
672吐番乱
642 644
漢城得
701
672
660 666
670
済麗盟 大化変 済滅 麗滅 羅唐戦
羅唐盟
538聖明王・仏教
任那 新羅・倭属→麗属
半島北 楽浪郡 -37朱蒙 121麗馬遼東攻 244麗滅
倭分百 金印 大乱
532
五王
356新羅 371済
漢城獲、東晋使
辰、馬・伽耶と争
辰;西晋朝貢~286
478
飛鳥(推古593~710)
履中・反正・允恭・安康・雄略
184黄巾乱→公孫子→司馬;晋265~316
田島出
古墳後期(6C)
韓鍛冶
砂鉄国産開始
小伽耶 大伽耶 昔→金
麗南下
山戸磯城vs狗奴
391好太 471麗・漢城得
~長寿王
463吉備滅
570麗・倭遣使 隋麗攻
記紀;BC660
10崇神 11崇仁 12景行ー15応神 葛城ー河内朝 471斯鬼宮 501 528磐井乱
伊舎伊舎 神武(春秋孔子時) 4道
天日鉾 竹内 神功
雄略 武裂 継体 北九阿
日坐子
倭武+豊入
667
近江遷都
スサ王
主導; 北九
阿+加+多
王+多
+吉備阿;巻向
伽+伊+多+阿
葛
+内物部
(鴨)
→吉備阿 →伊+多 →大伴→物部 →蘇我+多
加+蘇我
大化
→中臣
交流・不介入・崇仏
壬申
→王
→
中+伊+高向(多)
敗;蘇我
藤
中+多、王
排伊
○記紀の資料
*天照;記の最初の名は大日孁(ヒルメ;日坐女)貴、紀では天照大神。 対照は、蛭子、卑弥呼(日巫女)と台与、天日
鉾、スサ(鉄)王、天照国照天火明(王)、天神vs国神=大国主。又、ニニギvsニギ速日。
*王族の征服者;天日鉾、その神;天日明+スサ(鉄)王。
天日明の名:天火明(記)、天照国照彦火明(紀)、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(先代旧事)
*魏倭伝;卑弥呼>壱(台)与→記紀;内宮・天照大神>外宮・豊受姫神
*天日鉾と神功の行程図は同じ。漢末乱→辰韓(昔氏)王子の倭進出・東征・磯城朝形成時のルートを神功
ー応神に辿らせて、天照派の対大国派優位(主祭神を天照、脇をスサ・大国)を合理化する。
*大化645前の蘇我の政治路線;半島交流・導入+親仏+半島不介入・東北開発。多は支持・同盟、物部
、中臣、伊・百済派、東北派(阿、物?)は反対。注;蘇我は関東の総(倭武時の蘇我姫)を基盤、経済力強大
化で前都君(竹内で偽装)、新文物導入熱と鉄等自給化の動き。
*大化改新による総・毛の分割を機に、国(21)・県から令制国へ、701大宝律令の61ケ国で完成。分割国;
毛(多)・総(蘇我)・越(王)・吉備(阿)、凡河内(多)、筑紫(前・後)、肥(前・後)、豊(前後)、熊曽(薩、隅分離)。現状
維持(政権派)は大和、近江、播磨、武蔵(笠原ー中)、常陸(中)、伊勢、陸奥。
後漢56年漢委奴国王印、107倭
王師升、倭大乱、184黄巾乱→
公孫氏→司馬懿、239卑弥呼→
高句麗滅、百済攻め
魏倭人伝の女王国は山戸に有、記紀の東征有。この主張の根拠と含意
邪馬台国は山戸に有り、後に東征を被る、この主張の論証にはそこから生じる次の問に答えればよい。
問①弥生終末期の青銅器の3圏分布(北九、瀬戸内、出雲・近畿以東(半島から分離))が、どのように破られ、
半島海峡から北九・奴津以東、山戸までの航路が開けたか? 北九の奴国勢力はどうなったのか?
②狗奴は誰でどこに居り、なぜ東征できたか?
③東征は4世紀後半となり、山戸の文明は破壊・新持込でなく継承されるのはなぜか?
④以後の事態(天皇制律令国家の性格、半島経営、国内乱等)、又記紀の事態反映部分を合理的に説明できるか?
答①半島南と北九・倭とは強い交易関係を形成、弁韓諸国(→伽耶)と辰韓とは倭に植民と交易を競い、5
族となる;伽耶(6卵)の加羅、阿羅、多羅、高霊+辰(新羅)。北九奴と伽耶は海峡航路を独占(通行料賦課、航
行止も) 、また瀬戸内でも備讃、芸予の独占が発生し、3青銅圏の示す倭大乱となる。航路を無くした出雲・
吉備以東の29国は連盟(女王国)し、辰・天日鉾と連合して航路を奪取、狗耶韓国を併合。北九・奴津を追
われ南九・四国・太平洋岸へ移った狗奴は伽耶・百済と海峡南ルートで通じ、また南の呉と連合。呉と対峙
する魏は、公孫氏、高句麗を破り百済へ迫り、女王国ー辰と連合。
②4C初頭、楽浪滅で高句麗が南下、被圧百済は伽耶と連合強化、東で力を付けた倭の狗奴と連合し海
峡西端ルートを拡げて北九・海峡ルートを奪還、遮断された東の女王諸国に順次交易圧力をかけて追い詰
め、東西から山戸入り。王族は分裂、妥協した大物(国)主派(内物部)と通婚、主要豪族は各々山戸に拠点
を置いて葛城連合朝を形成、5C、百済・伽耶と連合して半島へ進出、新羅を抑え、高句麗と対峙した。
③対立因は交易航路支配であり、入山戸は国譲りとなり、航路共有を目的とする連合王朝となったため。
④倭天皇制の特徴:5派が連合、都に各族長・連が居住、各々が複数の地方地盤を持ち、国家制度(官・税
・軍;国21は大化~大宝で61国)は弱体で、山戸内の5族と各地方に分掌。連・氏族制は平安期から楽市・楽座の
戦国期まで続く。江戸期には貴族のみ京で続き、統合幕府は江戸に嫡男捕虜の参勤交代、所領地は全
国の1/4、3/4は分権300藩。武家の氏族性は残り、士と工商の城下町、農漁山の自治村の二重構造。
上田正昭 神話研究;朱蒙と神武。
広開土王碑文冒頭の高句麗神話:”惟れ昔、始祖雛牟王の創基なり、北菜余より出づ、天帝の子にして、母は河伯の女
郎なり、卵剖けて隆生す、生まれながらにして聖廟有り、□□□駕を命じ巡幸し、南へ路を下りて夫余の奄利大水に由る
、王、津に臨みて言ひて日く、我は是れ皇天の子にして、母は河伯の女郎、雛牟王なり、我が為に、痙連なり、亀浮びて
声に応へよと、即答えてはじめて渡り、都を建つ、世位を楽しまず、因り黄龍を来下せしめ、王、龍首を履みて天に昇り、
顧命す、世子儒親王、道を以て治を興し、大朱留王、基業を紹承せよと、伝へて十七世孫国岡上広間土境平安好太王に
至る。” 五C初までにはこの神話伝承が高句麗王朝に存在したのは確か。
雛牟王は高句麗と百済の始祖:三国史記「高句麗本紀」に「始祖東明聖王、姓は高氏、講は朱蒙」、『三国史記』「百済本
紀」に「百済の始祖湿酢王、其の父は都牢、或は朱蒙と云ふ」とある。雛牟=朱蒙=東明王とできる。紀・天智天皇七年668
条曰(高句麗滅亡と関連して)高麗の仲牢王、初て国を建つる時に、千歳治めむことを欲しき。母夫人曰;若し善く国を治
むとも得べからじ。但し当に七百年の治有らむ。今此国亡ぶは当に七百年の末に在り」。→紀編者は高句麗の始祖神話
を知っていた。紀は645年詔で高句麗使をとくに「高麗神子奉遣之使」と書く。桓武生母高野新笠は延暦8年(789)12/28日
に崩じ続日本紀は翌正月十四日に中納言藤原小黒麻呂がシノビゴトを奉り、翌日大枝山(西京区大枝沓掛陵)に葬ると記
す。2002年日韓共催サッカーワールドカップを迎えた天皇が「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫と
続日本紀がしるすことに、韓国とのゆかりを感じています」の「ゆかり発言」の出典である。「后の祖は百済の武寧王の子
純陀太子なり」。武寧王は仏教公伝の聖明王の父、実名が斯麻王、公州出の墓誌石から523年没が確定、また三国史記
が「筑紫の各羅嶋」(加唐島)の生の信ぴょう性も高まる。
違い:広開土王陵碑文の雛牟王は卵生型降臨伝承、また三国史記「新羅本紀」の新羅祖赫居世や脱解、三国遺事引用
『駕洛国記』の加耶祖首露にあるが、記紀に無い、天孫ニニギは「真床追褥」に入って天降る(紀第六)。政治体制が異な
る。新羅には6C始め中央行政の上位に上大等、その下の大等という中央貴族が国政を合議で決定した。その基盤には
封落毎の自治組織があった。加羅諸国でも外交や軍事は王と上級貴族の合議で決定、「民会」的伝統あり。『新唐書』:新
羅の和白ワハク制度も合議のしきたり。地方も村落を代表した郡上村主・次村主・第三村主などが合議した。新羅氏祖は務
ル村の始祖たちの合議の要請に天下る、即、地元が主体。
磐礼(神武)と物部氏祖ニギハヤヒvs朱蒙、松譲王:①朱蒙は天帝の子、河伯娘を母、磐礼が天神子不合と海神娘玉依
子、②神武は九州から大和への東征、朱蒙は生国夫余より沸流水ほとりに赴く、③雛牟が亀などの助けで河水を渡る、
神武東征で記では亀の甲に乗った棹根が案内となる、④沸流に先住王として天帝の子である神器をもった松譲王、ニギ
が先住王者として天降り、神器(瑞宝十種の神器)を保持。⑤朱蒙は松譲王の神器を奪い、ニギが神器を奉献帰順、帰順
した松譲王もニギもそこで力保持→村村の合議で迎える vs 豪族が連合し統合の象徴としての大王
魏倭伝の女王国山戸説の根拠、含意
-20Cの弥生来、半島南と北九沿岸との交流は強まり、奴国期
には一体の経済圏を成していた。江南や楽浪からの先進技術を得て工業化した弁韓4++辰の5地区は、各独自性をもちつつ、北九・
倭へ長期的・系統的に入植地を求めて移動、各5族が連(工・輸送・商の職人集団)を形成して、倭の各地で植民地を争った。分百余国と技術、交易量が成長
して、この 航路と市場を独占することによる利益(売買、通行料)が生じた時に、海峡ルート支配を巡る小国間の対立と連合が生じた(青銅器3圏)。
*魏倭伝の距離・方向は陳寿が司馬朝を正統化するため、司馬懿の邪朝貢の功績を大月氏並と誇大化(5倍)、韓の南端
、呉会稽の東に有と言う要有
*半島情勢:呉蜀と公孫氏に3方包囲された魏、司馬が5丈原で蜀破後、公孫氏滅、邪と連合、呉ー百済・伽耶ー狗奴と
対峙。司馬懿、高句麗滅、扶余・百済攻。邪に参戦要求、邪は百済・伽耶に対峙? 新羅本紀;56年多婆那より来。卑弥
呼173辰に使者、50年関係良く連合、or辰抜の王多連合(要証)。
*遺物や古墳では山戸が圧倒、鉄だけが北九優位。原因:半島来の素鉄は輸送費が高く、まず北九で加工して、東へ運
ぶ。農工用は近辺・九州で利用した方が輸送費を含めた生産性は高く、九州で利用が優先される。倭での鉄加工は倭奴
時より北九州優位で、新羅派の磯城朝期にも北九で加工し、この物部の技術・施設は葛城朝でも残って(内物部)、利用さ
れた。韓鍛冶(低温で砂鉄製鋼)の国産化は5C以降、吉備・近江で興る。
*多元王朝。神籠石山城群等から伺える北九、吉備、他に出雲、丹波、毛奴等に王朝が存在した。だが、葛城朝とはこの
場所別よりも、5氏族別の連合王朝であり、律令制以後も王位対立や地域反乱等で続く(今日も)。 注;製鉄技術;磯城朝
の倭鍛冶、葛城朝の韓鍛冶(古墳後期)。
*倭大乱の原因は、青銅器3分布から伺えるように、海峡・瀬戸内の交易ルートの争奪戦だ。半島ー列島間生産力格差
・資源差・補完が大きく、弁辰韓は東亜素鉄・加工品・陶器等の交易中心。伽耶と辰は競争関係、百済と伽耶は補完関係
にあった。まず阿・伽・多が伽耶ー北九の海峡ルートを独占、瀬戸内は山陽側の阿と四国側の多が分有、通行料を課す。
課された出雲以東29国は王族主導、丹波(多族;投馬国)で連合、北九州と南加羅を占拠し海峡ルートを奪回(北ルートを抑
える伽耶・倭の多羅族(宗像)と連合)、山戸磯城朝を樹立し、魏使節が渡来できた。4C後半、百済ー伽耶ー倭狗奴が連合、
多を抱込み、海峡ルートを奪回、瀬戸内の阿(吉備)と連合し瀬戸内ルートも開き、ルート共有の5族連合=山戸・葛城朝を樹
立、半島・百済と対高句麗反攻に出た。
*狗奴と東征を説明できる。女王国境界・奴国の南にいる狗奴とは、57年金印の奴国等(阿、伽)であり、邪に追われ南
九州、四国、紀州、太平洋沿に常陸・鹿島へ移り、九州西端から海峡南のルートを確保した。強くなった百済主導で伽耶と
連合、神武東征として西(伊等)ー東(阿(飛鳥)・蘇我)から山戸攻撃。
*争因は航路支配、山戸入は破壊でなく国譲(磯城朝分裂、ニギハヤヒ派の入籍。新羅の譲歩要請があったかも、対クダラ
譲歩、対高句麗共同攻め等)、文化を継承。だが航路に関る北九・出雲・吉備の争奪戦は破壊的。
*新羅伝説:王は朴ー昔(56~)-金(256~)。昔氏は倭東北1千里・多婆那(丹波;道主)出自、59倭と国交(三国史記)。新羅王長
子・天日矛が多遅摩に移住。記紀では、スサノオは新羅出、子・五十武は木を齎し、出雲(意宇)王族(大国)祖となる、鵜茅不合
・子稲飯は新羅出。記紀の主テーマは天孫派対出雲・大国派の対立と融合であり、北九は登場しない。
* 纏向遺跡は卑弥呼宮跡;弥生期から突出(古墳期でも:規模と質、広域、都市)。特徴:
*170-200~300ー340年(急に出現、急に滅)、東西2km・南北1.5km(吉野里の8倍、弥生期最大(500m四方)の10倍、巻向川沿に4地区、機能分化した都市
*農地と竪穴式住居は無い、王居住の平屋、高屋(高床式)、鍛冶場で工具生産(農具は木製のみ)、陶器類は最多(土師墓、他域へ)。
*外来者が2~3割(他5%)、土器の2~3割は外来、広域(吉備、東海、北九鍛冶)、土師墓・前方後円墳は、北九起源の剣・鏡・玉副葬、吉備の特殊器台・埴輪、
竪穴式石室、出雲 四隅の葺石、畿内周溝を総合する、韓式土器・紅花等出土→狗耶韓国を含む30国連合。
*施設;幅5m深さ1.5m、矢板でT字型大溝2本、東南と大和川まで2.6km、伊勢街道、山辺道で全国へ。宮城は4層配置、神社原型。
*卑弥呼(~238)の土師墓(記紀;倭迹迹日百襲姫を大市に葬 る) 、崇神(戊寅没;258)・景行比定の墓・宮跡、三輪山麓にあり、周辺に古墳等集中。
*女王国は30国連合、巫女で治まる。前漢時分百余国の後、小国統合でなく連合の成立は稀有事、東亜では弁韓→伽耶連合(12都市小国家(~562)が400
年存続のみ。古代ギリジャは海外植民地(農業)を持つ工業小都市連合、マケドニア統一まで400年間存続。辰韓は12国が新羅に、馬韓は50国が百済に
統合。伽耶諸国は洛東江沿で工業都市化し、水運で鉄・陶器等の東亜交易拠点となり、相互にまた辰韓と市場・原料・輸送ルートを競い、また対他国共同
防衛した。北九・倭はこれらの競争的入植地となり、やがて海峡ルートで半島・列島双方から交易利益の争奪戦が起る。弥生末の倭大乱はこれが背景で
生じ、最初、金印奴国派(狗那)が北九ー伽耶ルートを独占し、瀬戸内の渡航ルート沿いに青銅器3圏(東は銅鐸)が出現。妨害・通行料を課された出雲・丹波
以東29諸国が卑弥呼を担ぎ連合、半島南東の辰と組んで北・中ルートを奪還、倭内の連合拠点を交易至便の巻向丘陵に据え、急現し130年ほどで急滅。
*卑は北九・奴津と狗耶韓国を抑え、辰と連合、半島北(洞海)・中(那津)ルートを支配。逃げた狗奴は南九から日立まで太平洋側航路を抑え、九州西北端ー
伽耶・百済の南ルートを確保。魏は公孫氏滅・高句麗滅244、百済を攻撃、辰と卑(イト245)が呼応。又三国史新羅条に卑弥呼遣使等有。
○卑弥呼山戸説の検討点。*山戸発掘品から「征服者による山戸破壊、持込むモノが出ない」理由。卑弥呼山戸は東征により磯城朝から葛城朝へ交代し
た(何より記紀等の古代記憶として残る)。磯城朝を上廻れる勢力は太平洋側を占め海峡西ルートで伽耶ー百済と連携した狗那(天照)派であり、半島百済
の主導で海峡ルートを奪い、大国派に経済圧力をかけながら西・東から近畿を攻めた。目的は制覇でなく山戸でルートの確保であり、大国派も譲歩(内物
部)し、奈良東南部を拠点を作り、通婚を重ねて統合しつつ、各地と半島との交易・経営に努めた。大国派の文化や施設を受入れ、展開させた。
*北九が発掘品で鉄製品優位の理由;北九には内物部となった職人・施設等が残り、半島来の素鉄加工場として継承。素鉄加工品は木材加工と農耕用が
主で、輸送難・高費用から北九で普及。5Cから砂鉄低温製法が吉備、近江から東へ普及(技術伝播と交易が卑連合と征西(渡海ルート奪還)の目的)。
後漢56年漢委奴国王印、107倭王師升、倭
大乱、184黄巾乱→公孫氏→司馬懿、239卑
弥呼→高句麗滅、百済攻め
○馬・辰・弁の三韓、武帝頃に古朝鮮(辰韓)
から立ち、漢末に百済、新羅、伽耶となる。弥
生期より半島南は北九と経済圏を形成。伽耶
は洛東江550km流域で産鉄交易の中心となり、
百済・新羅・高句麗・倭の狭間で12小都市連
合を維持し、産鉄新羅と競合、百済・倭と連合、
562滅(400年間)。魏倭伝の戸数;百済10万、新羅5、
伽耶5、倭35、魏の洛陽15.「其(倭)北端狗耶韓国(弁
。伽耶は工業・流通都市となり、鉄素材・
加工品や陶器類と米、木材等を交易、その中で技術
を共有する職人層を中心に、広大な倭に継続的、競
争的に植民・移動して、同族で連帯、伽、阿、多、伊、
王(新羅)の5族を形成。伽耶が大国の狭間で連合国
家を維持できたのは、工業力と植民地保有の為だ。
辰伝、弁辰狗奴国)」
多羅
234
208
244司馬、高句麗滅、
扶余、韓攻撃、265晋
(~316)、伊代祝辞
BC2~2C、楽浪郡南に3韓;馬、辰、
2C、半島南の3韓;馬。辰、弁
弁(洛東江550km沿、米豊か)。漢滅220→
高句麗南下、百済、新羅、伽耶(魚の
意)の12都市国家連合(三国志魏使弁辰
伝)。伽耶建国神話;伽耶山に6金卵
が降り王に、前期盟主は金首露の加
(倭の伽羅)、後期は伊珍阿鼓の高霊(伴
跛;倭の伊、大伴)。鉄延と加工、陶器等で
交易中心、北九・倭と経済的一
体化(女王国;奴2万戸vs弁辰計4~5万
戸)→倭の5族;伽耶山(北に星州、尚州・固
寧)南4族:加(金海)、阿(威安)、多(狭川
~固城=小伽耶)、伊(高霊)+辰王
38度線
百済
+100m
新羅
伽 耶
35°線
至;西安
至;倭
○魏志倭人伝では、倭に狗耶韓国が含まれる 。倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者
。今使譯所通三十國。 訳:倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点で
は30箇国が使者を通わせている。
從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。 訳:帯方郡から倭国に至るには、水行で海岸を
循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で〔倭の〕北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する。 注;其が韓国を指すなら、其の南岸とせねばな
らず! 始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶㠀、方可四百餘里。
*卑弥呼の女王国が新羅派であるから、対馬等の海峡ルートを支配するには伽耶の東端(加羅・阿羅、多羅とは連合)を占拠せねばならず、
これが狗耶韓国であり、倭の領土とされた。だが神武東征により海峡ルートをクダラー伽耶が奪い返すと、加羅国も復活、狗耶韓国は倭の任
那、出先機関となる。
◎加羅国伝説:「王女は王に言った。「私は太陽王朝アユタ国の王女、姓は許、名は黄玉、16歳。国の父王と母后が夢に天の上帝に
お目にかかり、駕洛国王金首露王は天が遣わした神聖な王だがまだ后が決まっていない。あなたの王女を送り、妻とさせるようにと言い、金
首露王が待つ駕洛国へ向けてすぐに発てと父王に言われました」。王は、「私は生れ落ちた時から神聖な王女がこのようにやって来ることを
既に知っていた。だから臣下たちが王妃を迎えるよう願ったが今までこの時を待っていた」と答えた。後日、金首露王8代の孫は王と王后が結
婚した場所に許王后の冥福を祈るため王后寺を建てた。金海の許王后陵墓にある婆娑石塔はアユタ国から水神の怒りを封じるためという。
アユタ国とはマウリア王朝時代にガンジス川左岸にあった。 カラ・カヤは魚を意味する古代ドラヴィダ語で、古くはカラ(カラクとも)、後にカヤ
とも言った。王女の故郷アユタ国の紋章の一つに双魚紋があり、ヒンズー寺院にも見られ、金首露王陵の納陵正門にもある。この魚は罪を洗
い流すという。カヤには牛の意味もあり、日本書紀にスサノオが行った新羅の地ソシモリは牛の頭、伽耶山はソシモリで牛頭山である。
◎高霊・伊(大伴)・忌部がイザ・イザと命名、仏教での6欲界の天の12部;8方・天地日月の東北(印から見
て)は伊舎那天(北畠「神皇正統記」曰;梵語・イザナギ・イザナミ語源)。伽耶からみて那は南、東北は山戸=奈良とも意
識して、伊珍阿鼓とも懸けて、イザイザを設定! 解脱者・仏は6道輪廻の神より上位で、諸神を統合可。
○ ー10C以来、漢江以南は南方系(ドラビダ等)が流れ着き米作地に。弁韓・辰韓は山戸に入植、双方交流
が有(山戸5族の起源)。漢崩壊後、百済はツングース系の扶余族が支配、辰韓は避難した漢族が支配。
○祇園祭の祭神=牛頭ゴズ天王。紀;高天原を追われたスサノオは子・五十猛と新羅のソシモリ(牛頭)山へ降り、五十猛は
木を紀伊で植林、スサは出雲へ降る。スサ(鉄王、11代垂仁時の天日鉾)→6代末大国主は国譲、五十猛は紀・伊を支配。
青銅器の3圏分布;①出雲以東(構造線止り)の銅鐸、
年代別4変遷;鴨(伽末)族が出雲→近畿・四国西、尾張へ
②北九(半島路;阿ー伽耶ー百済ー公孫)の広型銅矛・銅カ、
③瀬戸内(半島同、阿、多)の平型銅剣。→倭大乱期、
半島交易被断の銅鐸29国が連盟、北九沿岸と海峡
を奪う。北九の阿・伽(狗奴)は南九・太平洋へ
半島に
も有
①上は山戸説。山戸への
路は倭海側、瀬戸内は
阿・多支配で通れない(吉
備へは海路のみ)。女王国、
狗奴韓国を入れて30国。
青銅器-1C~2C
①期、出雲ー伯耆発
②期;東へ拡散
②下は九州説
③期;尾張以外は終る ④尾張・三遠式が最
後2C、後、物部支配 洛陽15万戸。馬韓10万
余、辰5、弁5.女王7、
投馬5、邪計35(175万人)
○古田多元国家説:北九州に連合王朝ができ、倭大乱時、分派が東征し山戸入り、力を付け、
前方後円墳と都市を作り、景行時に九州征伐・統合、だが磐井まで独自王朝で併存。∵倭人伝
は短里なら北九州内で合致。金印奴国来、6Cまで北九が鉄等生産力優位。青銅器3分布は
分立の印。 太宰府域の神護石城は防衛群。
○批判。「從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里」。「南至投馬國、
水行二十曰・・可五萬餘戸。 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月・・、可七萬餘戸。自女王
國以北・・ 次有斯馬國(20国)・・次有奴國。 此女王境界所盡。其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗
。不屬女王。自郡至女王國、萬二千餘里・・計其道里、當在會稽東冶之東・・倭女王卑彌呼與狗奴國男王
卑彌弓呼素不和、遺倭載斯・烏越等詣郡、說相攻擊狀。遣張政、因齎詔書、拜假難升米、爲檄告喻之」。
*上田正昭;卑弥呼時代は3C前半、北九吉野里は既に衰退、邪馬台国でない。弥生後期に先進地が北
九→吉備→原・山戸へ。巻向・三輪は東西軸、飛鳥以後は南北軸。紀;東西を日の縦、南北を日の横 。
*使節目的。倭を當在會稽東冶之東→記述をそのまま頼れず、更に言える;魏は 238公孫子滅で3被包囲
を脱し、倭と連合し、南の狗那ー呉と対峙(又、対百済ー伽耶)。そこで、方向を東西から南北に取替えた。
*弥生期来、半島南ー北九経済圏があり、伽耶地域との人的・物的交流、また魏倭伝時の倭ー半島間人口
格差(百済10万戸、新羅5・伽耶5 vs 倭35万戸)の存在を背景とできる。
*中国都、楽浪、半島南、北九、近畿、以東間の生産力格差が大、特に鉄素材の半島移入のため、航海ルート
(対馬海峡3、瀬戸内、出雲)が重要で争奪戦となる。 →多羅族(①宗像ー宇佐ー瀬戸内ルートの道主、②出雲、丹波、越)が主役に。
*狗那は南九、四国、紀伊、太平洋側を占める。半島では4C高句麗の南下圧が強まり、南へ移る百済ー伽
耶と倭の狗那が連合し、新羅から半島ルートを奪還、神武東征と東側から山戸へ入り、国譲り (山戸の古墳文化
の継承、また豪族の山戸配置)、百済ー伽耶と連合し半島へ反攻と経営、新羅占拠と高句麗対峙を説明できる。
大八島の五派分;(1)
淡路(阿場地) (2)筑紫筑師:四分
①白Shilla日(王)、②豊日(多)、
③建日向日火豊久土比泥亀旨
峰クジボル(伊、伽)、④建日熊曽(阿)。
(3)伊予二名島(西;伊・伽、東;阿)を
四分;①愛姫(伊:天照の大伴)、
②建依(武→加)、③飯依(食→
多)、④大宣都(多・食・津・姫、阿)
(4)大(王)倭・豊・秋津島、天御
虚空(王)+豊多+阿・岐(末腹)
(5)大島:津島、伊城、王城、左
戸の4を加え大八島
(6)小島:自吉備児島謂速日方
(王)別、小豆島謂大野(王)手姫・・
⇒地の焦点は、半島~海峡~
倭海、瀬戸~山戸の航路
○禊の「竺紫の日向の橘の小
門の阿波岐原」とは? →笠置
半島? 伽阿多、伽、伊、王、
阿、之場之岐之腹 →5族!
天孫+五派国別
神武東征と山戸5派;312高句麗南下、楽浪支配、百済南下。4
C半、百済・伽耶が狗那勢と連合し山戸へ反攻。半島航路を新羅=女王
国派から奪還し、南西から北九、瀬戸攻め、太平洋岸の紀州、東から
伊勢ルートで山戸攻め。大国派は妥協した内物部(→意宇(王)族)と外物部(
出雲、信濃等)に分裂。
*南九州発、太平洋側からを
示す;四国の南海道→阿波
路を開き、山陽道の王支配下
の阿(吉備)を加え、紀州から
山戸入り。東は旧加羅系(総
の蘇我、曾・伽)を主体に、伊
勢路から山戸攻め。
*道主の宗像三女神と応神を
担ぐ宇佐の多は、王方から
天照方へ鞍替え、航路を先導、
北九岡田(王方)宮、阿岐・吉備
の王を攻め、阿と連合
出;日本史研究
倭の豪族5派と古墳。邪馬台国=磯城朝は①柳本(王、物部)と②平群(多)。東征後、③佐紀(
阿=和邇)、④高尾張→葛城(在日加)、蘇我(在日伽)。②波多は多(高塚(多賀墓)古墳)。巨勢は巨
済(巨勢)島ー小伽耶(狭川多)の固城と一体。⑤大伴(伊)は三輪後背地。
北九州は半島伽耶・新羅来の
素鉄(鉄テイ)を加工し(多々良ー阿
が主、多が輸送)、倭海、瀬戸内から
関西・関東へ。このルートの制覇
をめぐり5派が争う。
伽耶の安羅出は阿族;阿宗、阿蘇、阿部~トーテム熊
○金印の志賀海神社。龍の都、全国綿津見神社・海神社の総本
宮、4・11月例祭で君が代の神楽奉納、阿曇氏が祭司。祭神の綿津見三
神は2~4Cの志賀島に三社あり。筑前国風土記:神功三韓征伐時、阿曇
氏祖の阿曇磯良が舵取り案内。
○火国の阿蘇神社、主神;神武之子八井耳(ヤイミミ)子健磐龍・阿蘇大
明神(一宮)、妃阿蘇都媛(二宮)、7代孝霊の子速瓶ミカ玉(阿蘇国造)の子惟人
が大宮司職、91代目(次皇室)。
○穂高連峰の穂高神社。イザイザの子・綿津見が副神、その子が
祭神・穂高見、安曇連の祖。阿:安曇野に梓川、阿房峠で飛騨へ
○吉備。①阿宗神社;足守河域・阿曾郷、鬼ゲ城山麓。②吉備津
神社。中山北山麓に北面(備中一宮)。大吉備彦、若吉備彦を祭る。比翼
入母屋造の社殿は足利義満造営。③吉備津彦神社(備前一宮、東面)
◎阿族の推移:2C後半倭大乱時、奴津の阿・宗家は王・多に追われ、南
(熊曽)、東北まで逃避。吉備阿は北九勢に鉄を止められ連合に加わり、
山戸磯城朝入り;巻向の前方後円墳は吉備発、吉備産土器多く出土)。
穂高の船
神武東征に北九宗家等は加わったろう。 12景行~16仁徳(竹内スクネ)期に大
王妃を輩出し全盛(瀬戸内航路で利益)、作山・造山古墳(4位)。だが雄略~真鳥
(多;航路で競合)に敗れ、中央直轄される(吉備津彦、鬼城、飛鳥石舞台(古
墳破壊)。越の阿部比羅夫が大化後に将軍、天武期に朝臣で復活。出
多(豊;台与~出雲の意宇(イオ)。宗像大社、道主貴=道之師、末社6千。スサノオ子宗
像3女神は海峡北ルートに①沖ノ島沖津宮に田(多)心姫、②大島中津宮に湍(多城)
津姫、③田(多)島辺津宮に市杵(居付)島姫。宮司は戦国まで胸肩氏。多族の道;半
島伽耶の狭山=多羅~固城=巨勢、洛東江~対馬・海峡北ルート~宗像~宇佐~瀬戸内~明石・兵庫
~海柘榴市、六波羅
海峡北ルート
4世紀末舞子の五色塚古墳;赤石国造族
の奥津城(→倭朝での大倭連・多族)。奈良大王墓(
佐紀古墳群、神功陵)と同時期に同規模。畿内
の守り、対吉備(加古川まで)への備え!?
○多族の系譜。イサイザ神産・綿津見豊玉彦、子振魂、子
武位起(三木=赤石国造祖)、子棹根津彦は神武先導し大倭
国造祖。6代末・市磯は大倭神社祭司、祭司家は五十野
と矢代に分岐、矢代子・都弥自は赤石国造、神功帰還助
で倭連始祖、末に林連、倭赤石連。
○棹根津彦末の矢代は、磯城朝から葛城朝へ転換する
景行~仁徳の臣祖竹内スクネの長子、神功三韓凱旋伴の
羽田(波多)矢代と同一と比定。
*赤石族;明石国造、大化令で郡司、住吉大社拠点化で比
重減、木と鉄の三木へ、兵庫・灘(那・多)の水運・海神族→
平安期後、白藤。室町期に赤松(阿)の重臣→江戸期、廻船
○多の大倭神社、天理市、旧称朝和之宮,式
代二十二社の一。主祭神; 日本大国魂、左・八千戈、
右・御年大神。 紀;倭大国魂神は天照と共に大殿に在
り。崇神期、世乱、謀反は両神の勢いとされて分離、倭
大国魂神を大市(箸中付近)に移し(後布留へ)、皇女渟
名城入姫斎主としたが、病のため倭迹迹日百襲媛が「
神武功臣の棹根津彦末、大倭直祖の市磯長尾市を倭
大国魂神を司祭とせば必ず天下太平ぎなむ」と神託、
大和氏、市磯氏が司祭。平安初期に伊勢神宮に次ぐ社
領、平安遷都、藤原氏隆盛で衰微、中世に失う。
○京都御所内の丑寅鬼門に宗像神社、
祭神はスサノオ娘の綿津見3神;長女多心姫、祭司
高屋(多賀家)氏。打ち続いた奈良朝での「祟り」(5
族間抗争)を逃れて平安遷都した直後795、後の太
政大臣藤原冬嗣が桓武命(母は高(多賀)野新笠)で皇
居鎮護として羊申方に建てる→平氏の護り。皇居北、
鬼門・出雲方の上御霊神社は八所御霊、光仁天皇・井
上皇后の子・桓武弟の早良親王(母と幽閉され同日薨
去、皇位は桓武子平城天皇へ)や後の菅原道真等の霊
を祭る。⇒ 平安遷都を主導したのは伽と多。
御所の宗像社
神籠山系山城;北九は磐井祝・志賀島阿、吉備鬼城~讃岐城山は吉備阿曾氏!
朝鮮式山城には記紀記載11城(壬申乱後の対唐防衛用)と、不記載16城がある(神籠石系と呼び、山戸朝へ敵対した)。
*朝鮮式;特別史跡 :大野城(太宰府真北、標高410mの四王寺山に8200mの土塁がめぐり、谷では石垣、神籠石式)・基肄キイ城(筑紫野市、
404mの基キ山の四方を4200mの土塁が取り巻く)・金田城(対馬市)、 国指定史跡 :鞠智城・屋嶋城(高松市)、 未指定 :高安城(奈良県)、所在地未
確認 :長門城・常城・茨城・稲積城・三野城
*神籠石式;山の中腹に約1㎥の整形石を前面に並べ上に土塁を築く。延長2~3kmの久留米市高良大社縁起を1898年小林庄次郎が紹介。国指
定史跡 :鬼ノ城(総社、阿蘇凝灰岩墓)・大廻小廻(瀬戸町)・永納山(西条)・讃岐城キ山(坂出)・石イワ城山(光市、頂上付近を列石・土塁が約2.6km、谷間
に水門付き石塁、第1城門跡に沓石(唐居敷・門礎石)、龍野・播磨城山城の唐居敷と似る)、おつぼ山(武雄市)・帯隈山(神崎市・佐賀市)・高良山(久留米
)・女ミ山・杷木(朝倉市)・鹿毛馬(飯塚市)・雷山(前原市)・御所ヶ谷(行橋市)・唐原(上毛町)。 未指定 :阿志岐(筑紫野市)・播磨城山(たつの市)
○神籠石は6C、九州防衛用:書紀で近畿高安城は境部連石積らを筑紫に送った天智六年、讃岐屋島城、対馬金田城と同時に造る。九州
神籠石は北部九州を守り、畿内ではない(ククチ城は方向違い)、交通要衝を見張り、同時代、白村江戦後の疲弊北部九州に余力はない。
○吉備阿曽氏は5Cに砂鉄生産に乗出し、皇妃排出、備讃ルートを独占し、他派が連合して463滅(吉備
津彦、桃太郎の鬼退治)、以後、阿族は中央排除、乙巳・反蘇我で台頭(東北の比羅夫→征蝦夷→白村江)。
鬼城
瀬戸内は吉備・阿族
狗奴→・狗古智卑狗→ククチ城
豊(台与=多)葦(阿)原(腹)の
中(那・伽)津国!
中臣は今来加羅。在日加羅・
蘇我と、宗家(崇仏)・対半島介
入(伽耶奪還)で対立、前者は
対物部戦、後者は大化で蘇我
棟梁の打倒、壬申乱で蘇我族
打倒、唐・新羅の後押しで頂点
に立つ(持統)。
天の原、藤の原、藤(富士)の山→山戸
平城京710創建の春日大社は元
春日氏(和邇=阿)の社、藤裔会の
場、庭、杉、三笠山を藤が覆う。不
比等の発想:536新羅に下った金官加
羅末、百済滅の将軍・金海金氏の金
ユ信は対王家(慶州金氏)外戚策を採
り(大化変もまねる)、天皇家を押立て外戚
支配。蘇我;馬子・入鹿→馬鹿! 百済=
狗・多羅:クダル、クダラヌ→昇る、建日!
加羅族の3大社;①常陸の鹿島(武雷) 、上総の香取(経津主)、②奈良:葛城(在日加、銅鐸祖、
出雲発、東へ)、藤原京→平城京と春日(阿・和邇→春日氏から奪)、③京都・賀茂。
○鹿島・香取社(天児末の大中臣は祭家、同中臣氏は山戸豪族・連);磯城朝から追われた狗奴・伽が関
東に設、東征時、東から奈良攻め、高尾張を奪い葛城に改。神武期国造・素賀(遠海比定)か? 在
りし日の曾・蘇の伽vs今来の伽=中臣(鹿島社の祭祀を蘇我から奪う)。竹内子・河内石川祖称は、中
臣と同族・天児屋根筋を隠すため、又渡来系を難波京や墳墓等建設用に住まわせた為?
巨大古墳建設終了で半島技術・文化の導入が終了(鉄も5Cに国産開始、6C進む)、都も難波
→飛鳥へ戻る。東の費用負担故、半島不介入(伽耶・百済放棄)、東・蝦夷の内治を主張(阿部比羅
夫・征東北)、介入派(百済支援・伽耶挽回)と対立→乙巳変へ至った。
○蘇我姫神社;千葉市曽我町、主神蘇我姫、千代春稲荷(伊)。紀記:景行12倭武東征時、相模→総国速
水時の暴風鎮に后弟橘姫(伊)と蘇我大臣娘蘇我姫が入水、蘇我姫は蘇生し創建。蘇我大臣は奈良春日社に武雷を勧
進;三笠山下春日社、下に興福寺(藤原)と元興寺(飛鳥寺を移した倭最古の仏寺)有)。
○総国(捄ふさ):蘇我打倒の乙巳変で派兵反対派への制裁か、下総、上総、安房
へ三分、越は前中後へ三分、毛野は上下へ二分(国造は吉備退治後の分割統治で導入)。
○山戸曽我の宗我都彦神社。曰:武内第三子石川宿祢が
蘇我姓を賜わり河内石川から移る(vs神武期国造・素賀、葛城)。
推古時、馬子が氏祖・宗我都彦・姫祀、延喜式大社。蘇我氏本貫
説:河内国石川、大和国葛城、大和国蘇我。曽我川は西に葛城氏、
東漢氏、南に巨勢氏。武内→ 蘇我石川→ 満智→韓子→ 高麗(馬背)→ 稲目→
馬子→蝦夷→入鹿で宗家断。 厩戸は両親・妻皆蘇我宗家筋:欽明(祖父)ー堅塩
大和曽我の宗我彦社 媛(稲目娘)→用明(父)、母は欽明ー稲目娘の娘。鎌足が蘇我一族殺(梅原猛)
物部:神武山戸入り時、宗家・建御名方は東逃避、葛城朝は軍事・技
術連=内物部化、5C皇位継承戦で大伴と並ぶ軍事氏族として台頭
○物部氏;wiki。河内国の哮峰(交野市)に神武天皇より前に天磐船により先に大和入した饒速日命を祖先
饒速日命は登美夜須毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。元々は兵器の製造・管理を主に管掌、しだいに
大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長。5世紀代の皇位継承争で軍事的活躍、雄略朝には最高執政官を輩出。物部氏は解部を配下とし、刑
罰、警察、軍事、呪術、氏姓などの職務を担当し、盟神探湯の執行。528年継体天皇22年に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を物部麁鹿
火鎮ウ 宣化天皇の崩御後、欽明天皇の時物部尾輿(生没年不詳)が大連になった。欽明天皇の時代百済から仏像が贈られた仏像を巡り、
大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子(中臣氏は神祇を祭る氏族)を中心とする排仏派が争った。稲目・尾興の死
後は蘇我馬子、物部守屋に代替わりした。大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇は排仏派でありこれを
許可したが、このころから疫病が流行しだした。大連・物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これ
の禁止を求めス。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬
子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にし
て、海石榴市駅ノへ連行し、群衆の目前で鞭打った。物部氏の排仏の動き以後も疫病は流行し続け、敏達天皇は崩御。崇仏・排仏の議論は
次代の用明天皇に持ち越された。用明天皇は蘇我稲目の孫でもあり、敏達天皇とは異なり崇仏派であった。しかし依然として疫病の流行は
続き、即位してわずか2年587年5月21日(用明天皇2年)に崩御(天然痘)。守屋は穴穂部皇子を擁立したが、馬子は炊屋姫(用明天皇の妹で
、敏達天皇の后、後推古天皇)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺、、炊屋姫命で蘇我連合軍は物部守屋に攻め込んだ。当初、守
屋は有利であったが守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死、同年9月9日蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位、物
部氏没落。684年天武天皇に謔髞ェ色の姓の改革の時に朝臣姓を賜る。686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)
が本宗家の地位を得、708年(和銅元年)に左大臣。息子の石上乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上宅嗣は桓武天皇
の時代に大納言。宅嗣は文人として淡海三船と並び称されたが、宅嗣の死後公卿なく9世紀に衰退。
先代旧事本紀に基づく系譜:饒速日ー宇摩志麻遅 ーー十千根 ーー麻佐良 宅媛(安閑天皇妃) 尾輿 麁鹿火 御狩 守屋 贄子 石弓 影媛
目 朴井雄君? 鎌姫(蘇我馬子妻) 宇麻呂(馬古・宇麻乃) 石上麻呂 東人 乙麻呂 女子
藤原宇合 家成 宅嗣 息嗣 藤原広嗣 藤原良継。
広範な地方分布;長門守護の厚東氏、物部神社神主家の長田氏・金子氏(石見国造)、廣瀬大社神主家の曾禰氏、穂積氏、采女氏、同族枝
族が多、東国の物部氏 下総物部氏尾張物部氏 石見物部氏 備前物部氏:石上布都御魂神社縁Nによると、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治し
た「十握劒」(韓鋤さひの剣)を山上の磐座に納めたのが始、江戸期に岡山藩池田家から尊崇、物部」姓を名乗り今の宮司も継ぎ、大和石上
神宮の本社というが神宮側は非公認。
○物部神社 島根県大田市川合町川合 宇摩志麻遅命 石見国一宮。継体天皇8年(514年?)。石上社と共に宮中でも行う鎮魂祭を行う。宇摩
志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨→神紋は赤い太陽を背負った日負鶴、日本帝国海軍の戦艦石見の守護神。社伝曰:饒速日御子宇摩
志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて美濃国・越国を平定した後に石見国で歿、背後の八百山に葬、継体天皇8年(
514年?)、天皇命で社殿。神階は貞観11年(869年正五位下、社家:景行天皇時、物部竹子連が石見国造、子孫は川合長田公を名乗り祭祀、
文治4年(1184年)、金子家忠が安濃郡地頭として赴、子の道美が神主となり、以降金子氏が代々祭祀。戦前、金子氏は出雲大社の千家・北
島両家や日御碕神社社家の小野家と並び、全国14社ニの社家華族(男爵)。
穴戸・岡田社の三宮;(1)天の岡田宮:祭神神武、(2)地の熊手
宮;①大国主+少名彦(大国補佐);527磐井乱を物部アラカイ討つ。 ②県主熊鰐(地の
豪族・阿)命。 (3)人の八所宮産土:高皇、神皇、玉留、生産、足産、大宮売、事代主、御膳
*宮司は大友敗北まで阿宗氏、その後社友。
*響灘・洞海湾、遠(王)賀川と湾、穴(阿・奴)戸・長(奴・那)門の要衝。神武東征で1年逗留
*岡田とは王方。方は対峙した5族の位置を示す。例;宗方(宗は大王位格(新羅、百済、
高句麗の王)、これを伴(御友)する、の意)、直方、土方(博方;阿)、那方(阿加多?)・・。
○当地支配の3変遷;①金印奴=阿、②倭大乱で王、③神武東征で天照
宗像社は海峡北ルート。対馬海流と半島逆
流に乗って、容易に洞海湾へ至れる
大島
環状三鈴(青銅、五世紀 )、全国
で古墳から60個出土
弥生中期
銅鐸開始
-100 57
後期
古墳前期
青銅3圏 前方後円墳
170~180
前漢 委奴 倭大乱
武帝
光武
239 245
312
184黄巾乱→公孫子→司馬
倭分百 金印
山戸磯城朝vs狗奴
107倭国王帥升
阿・伽
阿伽vs王・多
562
593
任那滅 伽耶滅
聖徳
麗南下
645
大化
672
壬申乱
581隋618唐
371済・漢城獲、東晋使
356新羅369七支刀:倭済盟
辰;西晋朝貢~286
任那 新羅・倭属→麗属
北 楽浪郡 -37朱蒙 121麗馬遼東攻 244麗滅
532
晋265~316
百・辰・加→済南下
半島南
古墳後期
社寺、飛鳥
韓鍛冶・砂鉄国産開始
4C後半
401~478
東征 倭五王(履中・反正・允恭・安康・雄略)
楽浪滅
魏倭伝 壱与
辰昔姓 馬辰弁
辰、馬・伽耶と争
古墳中期
391好太~ 長寿王;471麗・漢城得
葛城朝・難波宮
471雄略斯鬼宮
463吉備滅、
→阿 →多→
551羅済、漢城得
644大化変ー羅唐盟
538聖明王・仏教
642済麗盟
570麗・倭遣使 隋麗攻
501継体 528磐井乱
反王・伊伽多阿+内物部
主導;伽
大伴(伊)→物部(王)→
蘇我(曾伽)→大化・中臣(今来伽) →壬申・王→藤原
1神武即位、-660、1、辛酉。
10崇神;-97、皇紀564、甲甲。御間城入彦五十瓊殖イニエ、御肇國。磯城瑞籬宮。 6年疫病鎮に天照と倭大国魂を皇居外。 7年大物主神、倭迹
迹日百襲姫に託宣、大田田根子(大物主神子)を祭主、市磯長尾市を倭大国魂祭主とする。10年大彦を北陸、武渟川別を東海、吉備津彦を
西道、丹波道主を丹波に遣わす。大彦は異変を察知、和珥坂(天理市)から返し倭迹迹日百襲姫予言で武埴安彦(孝元子)夫婦叛意を知り、
五十狭芹彦(吉備津彦)軍で破る、大彦と彦国葺(和珥氏祖)で破る。12年戸口調査、課役、天下平穏。48年、豊城入彦と活目(垂仁天皇)を
呼び、豊城命に東国治。60年、飯入根が出雲神宝を献上、兄出雲振根が飯入根を謀殺、朝廷誅殺。65年任那国、蘇那曷叱知カシチを朝貢。
14神功皇后(201年、成務40年 - 神功69年)、紀;気長足姫、記;息長帯・大帯・大足。父開化玄孫・息長宿禰王、母天日矛裔・葛城高顙ヌカ媛、
彦坐王4世孫、応神母。新唐書220巻列伝第145 東夷 倭「仲哀死 以開化曾孫女神功爲王」、宋史491巻列伝第250 外国 日本国「次 神功天
皇 開化天皇之曽孫女 又謂之息長足姫天皇」。紀巻九、神功皇后摂政66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭
女王遣重貢獻と中国晋文献での倭女王の記述を引用。266年卑弥呼死去、台与だろう。
26継体;507~531、諱はヲホド;紀、男大迹、記、袁本杼。記紀;継体は応神5世孫、父は彦主人。近江国高嶋郷三尾野(滋賀県高島市)生、、
母の越前高向(福井県坂井市丸岡町高椋)で育ち、男大迹王で5世紀末越前統。506武烈崩御、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人
らが協議、58歳で河内国樟葉宮で即位、武烈姉の手白香皇女を皇后に、子は欽明。即位19年後526年に大和に都。直後、百済の救援軍を
出すが、新羅と結んだ磐井乱。531年皇子勾大兄(安閑)に譲位、紀は百済本記「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇
城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」を引用、政変で継体以下殺害を示唆。現歴史学
界では継体は従来の大王家とは血縁のない「新王朝の始祖(初代大王)」とする水野祐「三王朝交替説では万世一系を否定、出自不明の26
継体天皇から新王家が始。近江の皇別氏族息長氏の出身としヤマト王権を武力制圧した説もある。武光は武烈天皇などは実在せず、応神
天皇の実在も諸説あるとする。継体が「ヤマト王権中枢の豪族支持で即位説が有力、継体天皇以降系譜は記紀以外に根拠ある史料はない。
気比宮。宮社記;神代に天筒テヅツ山に伊奢沙分大神が下る、山の御神体を土公(豪族の意味)の場で
祈る。最初の豪族は(阿彦)、王に敗れ、伊に敗れ、伊奢沙(伊邪那岐~大伽耶始祖・伊珍阿鼓~伊)分け。
*崇神期に任那から角鹿が来り土着し宮司に。角鹿を王派から伊の宮司へ換える。
*応神期、新羅王子・天日鉾が難波(明姫が居付く)から但馬・出石へ。新羅派(新羅2代昔氏は但馬より
来)が征服・卑弥呼の山戸入りと対応。又、東征後の大国派の拠点を示す(但馬1宮。出雲は伊・住、出雲
社で、拠点ならず(もともと阿→熊之社)。
*神功も母は越出、父は息長(近江毛奴(坂上)氏)、気比社を出、応神が遇す。息長垂=伊+伽+多の連合!
*継体も母は越出、父は近江高島、(平群真鳥失脚の後の)大伴が担ぐ。
*文武期に社殿に移した時に神功等4柱合祀。崇神期、任那の角鹿が来、気比宮司、当地統治を命ず (
社記)。記紀では垂仁に仕え、帰国時に絹を賜い、新羅が奪い、任那と新羅の対立始まる。
→神功;父開化玄孫・息長宿禰、母天日矛裔・葛城高顙媛)。
応神期に魚と「御食津大神」の名を交換(記紀)。新羅王子天日鉾(角有人;ツヌガ=新羅尊称、アラヒト=王)が
難波に来て、但馬で俣尾娘・前津見と子孫;諸蕃。 日鉾の行路は神功と同じ;下図。
○文武702、仲哀・神功を本宮合祀、合祀;8柱、応神、倭健、玉姫、竹内。
○平安初期に能登沿岸は御厨、渤海(8~10C)の松原客館。
○南北朝時、後醍醐側で一門討死、24万石に減。1570朝倉側で信長に討ち死に、没収、1614福井藩主
祖結城秀康、社化復興,百石。
◎天孫と東征を説く記紀は、倭人伝卑弥呼・大国派を神功とし、半島進出の推進役に
仕立てる。その伏線が崇神期の角鹿(任那、葛城→襲津男)、応神期の天日鉾(出石の王派)。
◎角鹿;崇神期。大加羅から角鹿が山戸へ王に会いに来る。伊都王が王と騙るが、出雲から
山戸へ到着、垂仁に仕える。3年後の帰国時に任那改名を示唆、贈るが、現地で新羅が奪い、
対立が始まる、と起源を説く。魏志倭人伝(伊都に1大卒)を意識し、任那を倭の属国とさせる。
神功の新羅征伐の伏線とする?
◎天日鉾。応神期(三韓征伐の後)、新羅王子が姫を追って来たり但馬に居着く(新羅に昔氏伝
説あり→利用して倭の古さを誇示→Sillaを新羅表示。百済派も)→新羅派(大国主)が出雲~出
石川に勢力を張る理由を述べる、また諸蕃の祖とする?
◎播磨風土記;地主(阿系か)が、襲ってきた天日鉾を破り、但馬に押しこんだ(王系)趣旨か?
◎角鹿伝説。11代垂仁紀二年、任那人蘇那曷叱智カシチの説話。意富加羅国の子都怒我阿羅斯等(角鹿)が越国笥飯浦に
きて、「私は意富加羅国王子のツヌガアラシト、別名をウシキアリシチ・カヌキ(于斯岐阿利叱智干岐)、日本に聖天子が
おいでになると聞いた。ナト(穴門)ではイヅツヒコ(伊都都比古)が「わしがこの国の王だ」というが、王らしくないので
出雲経由でここへきた」。すでに崇神は死に垂仁につかえて3年、国に帰りたいというので、今後は君の国名をミマキ(御
間城=崇神)天皇にちなんでミマナ(彌摩那)に変えよといった。赤い絹をプレゼントしたが、それをシラギ(新羅)人
が攻めてきて奪い、両国は憎みあうようになった始まり、と記す。
◎天日矛説話(玉に光があたり始祖ができるのは朱蒙説と同じ)、応神記;シラギ国主の子天日矛は、アグヌマ(阿具沼
)で昼寝する娘に日光が虹のように七色に輝いてさし、娘は妊娠して赤い玉を産み、これを男から王子に渡り、玉は美女に
なり妻としたが、乱暴のため妻は「先祖の国へ行く」と難波の比売語曽社に逃げた;阿加流比売。王子は追うが、難波で港
の長官が邪魔し、大回りで多遅摩国へいき多遅摩の俣尾(マタオ)の娘前津見(サキッミ)と結ばれ子孫代々の系図
を挙げる。子孫に『新撰姓氏録』は左京諸蕃に清水首・大市首、大和国諸蕃に辟田首を挙げる。
◎播磨国風土記;渡来神・天日槍は葦原志挙(許)乎シコオ命・伊和大神(大国主と同一視)と土地を争い、双方が三本の黒
葛を投げる占の結果、葦原志挙乎の葛は播磨に一本・但馬に二本、天日槍の葛は全て但馬に落ち、但馬出石に退く
越は孝元・崇神(白、任那)前は阿彦王国(倭奴)。多が丹波、越南、海路
を支配。→2C~3C、天日鉾が伯耆→近畿へ進出、奈良・磯城入り
→4.5C東征・葛城朝;北陸道の要に気比社:伊奢沙別、神功・仲哀・応神を合祀
*孝元第1皇子大彦(4道将軍の1、阿倍臣、膳臣、阿閉、狭狭城山、筑紫国造の祖)の平定前は豪族阿彦支配とされる。
紀、欽明5年(544年)、佐渡島に粛慎人が渡来、573年高麗使人が越海岸漂着、589年阿倍臣を北陸道に派遣、645年海
畔浮木が東へ(海浜蝦夷が朝廷に破れ北東へ)。孝徳朝に蝦夷境界を渟足柵→磐舟、出羽。越国守阿倍比羅夫、658年
水軍180隻で蝦夷討つ。孝徳朝が律令国越、大宝律令で3分、越前から能登、加賀を分立、越後国から出羽国を分離。
◎加賀(我)、当初は多が多い、平安中期に国司藤原→林(拝司)、富樫、共に斎藤姓。林は1221昇給の変で敗
北、富樫に代り、吉崎一向宗に敗れる。先代旧事本紀;21雄略時、三尾ミオ君祖、垂仁皇子・磐撞別を国造。三尾氏系は
衰退し道(石川郡・味知)君に代わる。滋賀県高島市に拝戸古墳群、三尾君祖墳墓という皇子塚、大兄彦君墓は金沢市
御所町の御所八ッ塚古墳と伝、磐衝別墓は羽咋市に。道君は武内宿禰系を伝承、三国国造・伊弥頭国造・利波臣・江沼
臣と同祖、石川県大浦・高桑・高木氏、安江氏、津幡氏、井家(井上)氏等は道君の族裔。 道君は天智天皇夫人・道
君伊羅都売を出し、子志貴皇子、子49光仁天皇→50桓武;即、平氏。
*加賀石浦神社;加賀郡13社中、三輪神社に列す式内社、金沢市最古。祭神;大物主、大山咋、菊理媛(白山比咩)、天照、天児屋根(春
日)、市杵島、誉田別(八幡)、加賀郡石浦郷七村総社、神仏習合で大物主大神が近江国日吉神社神と同体、石浦山王、地主権現と称。1580
年、佐久間盛政が金沢御坊を攻略、日に1万を殺害、焼失、慶長6年(1601年)、加賀藩2代藩主前田利長に社地600余歩を賜り、一向一揆首
領山本若狭守家芸の拠点の地に帰座。
◎福井市;阿の拠点。九頭龍の河口に芦原温泉、支流足羽河沿いに阿名多し、阿須波氏、酒生サゴウ(北陸最大の古墳
群)に生江氏(同族)の生江臣東人は造東大寺司史生、開墾田100町歩寄進、東大寺寄進の1/3を占め、篠尾廃寺(法隆寺
並)、8C末に廃寺(阿族吉備優位、雄略時に敗。上の一乗寺は南北朝で南朝に付き、北朝斯波氏に敗北、斯波氏は国司
、家臣朝倉氏(丹波出;阿)の拠点→戦国大名、浅井と連携、織田に敗れる。武生;国司は多、能登で圧倒的。
◎若狭:古墳期に突如前方後円墳が出現;卑弥呼ー新羅派に被支配、その後、気比の伊奢沙分(伊の支配)→膳所カシワデ
臣祖佐白米。
◎道の支配者;道君(阿)、丹波道主(多)、宗像3神=道主貴ムチ
出雲国に2大社:出雲郡に杵築大社、意宇郡に熊野大社
記紀720前、各族は各太陽神を持つ。記紀で、イザイザ(仏教の伊者那天は神を統合でき
る;伊祖神・伊邪理鼓) が神産→天津神、国津神を天照と大国に集約、山戸には先住、
内物部の大物主が三輪山におり、伊勢社と杵築社を築く。
出雲風土記より、熊野大社名は地神、意宇(伊+宇;伊の命名)、祭神・伊佐奈枳乃
麻奈子 加夫呂伎(神聖な祖神の意)熊野大神 櫛御気野命。櫛御気野命は天照と別
の太陽神=熊野大神の具現した櫛御飯の意、在地の多族祖神、神紋は一重亀甲に
「大」の文字。そこへ、イザ真子に乗じて物部派がスサノオを押し付けようとしてきた。
倭大乱の新羅東征時に多と連合して熊野社は残る。記紀時に伊が国郡を命名し、出
雲大社創設、宮司千家を移す。平安期には多は紀伊の熊野3宮へ勧請。
*意宇;出雲風土記で国引を意恵oeる、が語源。発音はイウ→オウ(多)へ。引いたのは新羅、
越、ie倭大乱時、新羅王子・天日鉾を掲げて東征、山戸入り。
○東漢氏(多羅族)、蘇我と組む(∵半島交易重視、排神(非宗家))
記紀応神条:秦造の祖渡来。又倭漢直の祖阿智使主、其子都加使主は党類十七県人を率
いて来帰。相次いで渡来した多くの氏族が共通先祖伝承(宗像女神)でまとまった複合氏族(多
羅出身者)。高市郡檜隈を拠点とする東漢氏(東文氏)、河内本拠の漢氏は西漢氏、「アヤ」と読
ます。
東漢氏の「漢」は後漢霊帝の末裔を自称。先来の秦氏と同じく漢土由来の製鉄技術、土木建
築技術や織物の技術者。東文氏は7~8C大蔵省官人を輩出。軍事力にも秀で、蘇我氏の門
衛や宮廷警護、崇峻天皇暗殺は東漢駒が実行、蘇我与党、壬申乱では蘇我氏と袂を分かり
生残り、奈良~平安期に蝦夷征討の坂上苅田麻呂・田村麻呂が登場。
*阿智使主(おみ)、倭漢直の祖。縫工女を求めて朝鮮に渡り工女を16仁徳天皇に献上。呉
に派遣、女性数名を連れ帰り、一人を宗像大神に奉った。住吉仲皇子が去来イザ穂別(17履
中天皇)を助け河内から大和へ逃した功で出世、蔵官。大和国高市郡檜前郷=明日香村。
*高向玄理(黒麿) 河内国錦部郡高向邑の高向村主・姓。608年遣隋使小野妹子に従い留
学、聖徳太子は国博士(政治顧問)とし秦河勝と渡来人最高四位。 640年南淵漢人請安らと
新羅を経て帰国。645蘇我入鹿暗殺に僧旻ミンと与む。646年任那問題打開のため新羅に派遣
、647年新羅金春秋(29代武烈王)を連れ帰る。649年僧旻と八省百官を置く。親唐・親新羅派
、中大兄皇子ら親百済派とは相容れず。654年遣唐押使として新羅経由で入唐。唐で没。