天災から日本史を読みなおす -先人に学ぶ防災-

天災から日本史を読みなおす
-先人に学ぶ防災-
著者:磯田道史
出版社:中央公論新社
紹介者:静岡大学教育学部総合科学専攻
太田未来
目次
第1章
秀吉と二つの地震
第2章
宝永噴火が招いた津波と富士山噴火
第3章
土砂崩れ・高潮と日本人
第4章
災害が変えた幕末史
第5章
津波から生きのびる知恵
第6章 東日本大震災の教訓
先人たちは地震発生時刻をどう測ったか?
 時計のない時代、人間は太陽の位置で時刻を把握
曇った日・夜中に起きた地震の詳細は分からない
 江戸時代、大名時計の目盛りは、一刻を10分の1に刻んだものがほ
とんど
12分以下の時間を表す単位は存在しなかった
 但し寺院では、香が焼ける長さで時間を知る香時計を用いていた
揺れで香盤と灰が飛ばされなければ、30分以内の誤差
で把握可能
地震が歴史を動かした①
 地震に救われた徳川家康
「上洛せよ」という秀吉の命令を拒んだ家康
秀吉は圧倒的有利な状態で総攻撃を計画
しかし天正13年旧暦11月29日の深夜に天正地震が発生
松本の城(滋賀県)に滞在していた秀吉は震度5の揺れに驚
き、家康討伐の準備を投げ出して大坂へ…
震度5~6だった近江・伊勢・美濃・尾張は戦争どころでは
なくなる
家康は天正地震によって、豊臣政権ナンバー2の座へ
地震が歴史を動かした②
 地震が豊臣政権崩壊の引き金だった!?
当時、大名たちは朝鮮出兵により疲労・・・
秀吉への不満を募らせていた
政治的求心力の移行を恐れ、甥の秀次とその家族を根こそぎ処刑
家族を殺された大名たちが更に秀吉・三成を恨む
そんな時に…伏見地震発生
地震が歴史を動かした②
 地震が豊臣政権崩壊の引き金だった!?
秀吉は、「地震で崩れた伏見城(自分の居城)をもっと豪華に再
建せよ!」「朝鮮に再度攻め込め!」と命令
武士・領民は大いに苦しみ、豊臣家の求心力は急落
秀吉から人心が離れるにつれ、世の流れは「豊臣から徳川へ」
徳川家中の、「天下は奪える!秀吉は倒せる!」というやる気へ
1707年の富士山噴火に学ぶ
 庶民が記録した降灰の様子
1707年旧暦10月4日に宝永地震発生、11月23日に富士山噴火
「同月(正しくは翌月)二十三日、富士山が焼け、お
びただしく、こくう(虚空)鳴り響き、その夜、五つ
時(八時頃)、東の方に火出て空を飛び散り、何とも
知れず、ただ火の雨降り、世界も今滅するかと、女・
わらんべ(童)なき騒ぎ候」
『寿永公御遺訓
全』より(現在の浜松市にいた男が書いたもの)
1707年の富士山噴火に学ぶ
 庶民が記録した降灰の様子
1707年旧暦10月4日に宝永地震発生、11月23日に富士山噴火
「富士山と足高山(愛鷹山)の間に、須走と言う所に、
火穴(噴火口)があき、それより火炎が吹き上げた。富
士山より三倍の高さに見えた。この火炎に土砂が混じり、
西風が毎日吹き、これにより、東国へ砂が降り、富士よ
り東七ヵ国が潰れた。
江戸も砂の厚さ四、五寸(十二~十五センチ)も積もっ
た。火穴付近の村里は砂の厚さ一丈(三メートル)も積
もり田地はもちろん村里が潰れた。」
『金五郎日記歳代覚書』より(現在の愛知県田原市で書かれたもの)
1707年の富士山噴火に学ぶ
 地震と富士山噴火の連動性
9世紀以降、南海トラフと相模トラフの大地震は約13回起
きている
そのうち11回は、前後で富士山の火山活動が活発化
南海トラフ・相模トラフの大地震と富士山の火山活動は、
連動性が高いのでは!?
1707年の富士山噴火に学ぶ
実際、南海トラフ・相模トラフの大地震13回のうち、5~6回はほ
ぼ同時、もしくは25年以内に噴火している
大地震の前に噴火したのが2回、後に噴火したのが3~4回である
つまり、東海地震や関東地震が起きる際には、
13回中5~6回(=4割程度)の確率で、前後25年
以内に富士山噴火が起こると推測できるのでは!?
南海トラフはいつ動くのか
 南海トラフ連動地震発生時の被害想定
被害を最大と仮定…(ただし、全ての原発で事故が起きないとした)
人的には32万人の犠牲者、経済的損失は220兆円を超える
 南海トラフ地震の特徴
①南海トラフ地震は約100年周期で発生
②同時もしくは数年内に遠州灘~四国沖で連動
③古文書によると、90年より短い周期で2回起きたことは確認できない
④歴史記録が鮮明な南北朝時代以降で観察すると、150年間の間に発生
しなかったことは過去に一度もない
東日本大震災の教訓
 宮城県南三陸町にて
「神社の手前ギリギリで津波が止まった」というデータ
・荒沢神社(地域最古)は鳥居が水没したものの、台上の
御神体の手前で津波が止まった
・上山八幡宮はチリ地震津波の被害を受けて
移動したところ、鳥居まで浸水
・五十鈴神社では避難した児童が助かる
昔の人は、津波の到達点を鳥居で示したのでは…??
東日本大震災の教訓
 津波の砂泥に学ぶ
「津波の砂の層」を発見することの重要性
例)仙台市若林区荒井
津波は内陸4キロまで到達、津波の層は内陸2.3~3キロ地点
まで(内陸は泥だけが積もる)
津波で砂を被った範囲の約1.5倍内陸まで津波が来た!
ただし、一般化できるとは
限らない!
東日本大震災の教訓
 津波の砂泥に学ぶ
震災前から分かっていたこと
仙台平野の沓形遺跡(弥生時代のもの)にて…
・沓形遺跡は2km(現在は4km)内陸だが、津波の砂の層を確認
・砂は厚いところで5cm超
・津波によって集落が完全破壊、人が再住したのは約400年後
仙台平野はなんと、2000年間で4回も津波に襲われ
ていた!