寺社分布と機能からみた 江戸の宗教空間 地学雑誌 発表者 Journal of Geography 3041―6011 松井圭介 後藤星菜 Ⅰ.はじめに 研究の目的 ◆ 都市構造の基礎をなす宗教施設(寺社)の分布と景観、 およびそれが都市住民に果たす機能の検討を通して 江戸の宗教空間を理解する Ⅱ.宗教都市・江戸の都市計画 ▶江戸城の四神相応の地での建設 (=江戸幕府の始まる時にはもうすでに四神の考え方が普及していた。) 四神相応 東………青龍 西………白虎 南………朱雀 北………玄武 流水 →平川 大道 →東海道 沢畔 →江戸湾 丘陵 →麹町台地 } 背山水面型の地形 四神相応とともに箱根や笛吹峠などを自然の要害に見立て城を守るという 空間的発想がみられた ▶四神相応の地に建設された江戸城 北…丘陵 西…大道 東…流水 南…沢畔 ▶方位学を考慮した江戸城またはその周囲の建設の例 ・平安京に倣い北東に祈願寺(東叡山寛永寺)を建設 ・北東は鬼門の方角でもあり、城下町の総鎮守神田明神を建設 ・裏鬼門(南西)には江戸城を守護する山王社を移動 ・鬼門裏鬼門には刑場・遊里(江戸都市圏最外縁部) など非日常的空間を配置 呪術的な都市守護システムは江戸の空間構 造を理解する上で重要 Ⅲ.社会維持システムとしての宗教 ▶江戸幕府の宗教統制 ・戦国時代が終わっても仏教界は広大な敷地と資金を所有しており社会・経済・ 軍事的に大きな勢力だった =江戸幕府にとって日蓮宗や浄土真宗は民衆からの信仰が非常に深く これを統制することは幕府の安定にとって必須条件 徳川幕府は寺院を強い統制下におくことにした ▶具体的な政策 ・寺院法度を制定(1601-1616年) 内容には諸宗内の職制、出世の規定、新寺建設の制限など 制定の意図としては寺院に対する朝廷の特権をはく奪、幕府権力の優位を 確認 ・寺請制度の実施 潜伏キリシタンを摘発するために設けられた制度 慶長の禁教令(1612年)によりキリスト教は公式に禁止 幕府は全国の寺院を階層化し、垂直的な支配体制を構築するとともに、 学問を奨励し、政治の舞台から遠ざけることにも成功 ▶寺社の数の推移 ・家康入府以前・・・65寺(「続御符内備考」「文政寺社書上」) ・家康入府後・・・124寺 ▶寺院創建の理由 1 徳川氏の級所領にあったものが、家臣団とともに江戸に移転したもの 2 大名が徳川家に対する忠誠の証として江戸に寺・墓地を建立 3 町人たちの死体処理場所としての寺 ▶寺社地の増加に伴い寺院の転移も比例して増加 入幕後32寺が起立、1613年転移 ・理由1.寺院境内が市街地拡大を阻害する要因となっていたこと 理由2.武家諸法度の制定・改正に伴う参勤交代制度により武家屋敷地の需要 が急増したこと 理由3.明暦の大火以降の都市計画において、防災の観点で寺院を都市中心部 遠ざけた など Ⅳ. 余暇空間としての宗教 ▶寺社境内の貸地利用と興行地化 17 世紀は幕藩体制の確立と寺院の建立および移転が頻繁に行われ、 江戸市街地の急速な拡大および外延化が進展した が、都市インフラの整備が間に合わなかった 寺社は、紫外の整備と自社の経営目的から貸地・貸家経営を始めた 結果:寺社地は盛り場として多くの人々を誘引する力を持ち、 格好の余暇空間になった ▶名所としての寺社景観 多くの寺社の中でも、「境内型」や「郊外型」 と呼ばれる類の寺社は年中行事や物理的構成 要素からの魅力で『江戸名所図会』を始め とした案内本には名所として取り上げられた 18世紀後半には余暇活動としての行楽が日常化 縁日や花見のような日周期のみならず、 参拝といった長周期での余暇活動が結びついた s Ⅴ. おわりに ▶本研究で得られた知見 1.江戸の都市建設に際し四神相応の基づく平安京の都市モデルが採用 された 2.寺社は幕府の統制下にあり、寺院は幕府の末端機構として社会秩序 の維持システムに包含 3.寺社地は町人地とほぼ同じ面積を占め寺院は飛躍的に増加した後、 寺院の起立制限や郊外への移動が行われた 4.江戸市街の急速な拡大により寺社地が開かれた空間へと転換 5.江戸の名所の多くは寺社であり、年中行事だけでなく参詣や飲食な どを楽しむ人々の余暇空間となった ▶次回への課題 本研究では論じることのできなかったキリスト教の解禁、寺請制度の廃止 など明治維新以降の影響を受けた江戸の宗教空間としての構造の変容に深 く触れたい
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