400年を越えて続いた日本以上最大最長の土木事業 ―関

―関東平野における河川改修事業を規制したテクトニックな制約―
地学雑誌 Journal of Geography
123(4) 401-433 2014
稲崎 富士
太田 陽子
丸山 茂徳
紹介者:静岡大学総合科学専攻3年 内藤美里
利根川中流域の関東平野域では,江戸時代から大
規模な洪水の被害に悩まされていた。
そのため江戸時代から河川の改修事業が行われて
きており,それは400年以上たった今も継続中で
ある。
この河川改修事業は江戸を洪水の被害から守るた
めだけではなく,稲作地帯の拡大も目的の一つと
なっていた。
① 400年にわたる河川改修事業の概要の
紹介
②
江戸湾を囲む都市形態の概要の紹介
最も広い流域面積→AとBを源流に持
つ利根川
1654年以前の利根川は前橋から熊谷
北を通って荒川と合流して江戸湾に注
いでいた。
↓
このせいで関東平野の低地部が氾濫原
地帯となり水田耕作に不向きとされて
いた。
家康「関東平野を暮らしや
すくしたい」
江戸期以前の関東平野の河川分布は現在と大きく異なっている。
江戸期から現在までの河川改修事業をまとめると・・・
① 利根川はもともと江戸湾に注いでいて,荒川は現在の元荒川が主
流であった
② 利根川東遷事業として称して,利根川の流路変更の他,荒川の瀬
替え,鬼怒川・小貝川の付け替え,用水路の整備,堤防の築堤が一体
的に実施されていた
③ 江戸時代中期までに関東平野主部に作られた2大用水路によって
生産基盤が整備された
④ 利根川東遷事業によって銚子と江戸が水路で結ばれ,霞ケ浦,鬼
怒川,上利根川,荒川,新河岸川を利用した水運ネットワークが構築
され,流路沿いに河岸を発達させ,地場産業を育成。→水運流通基盤
が形成された
⑤ 利根川東遷によって下利根川流域の洪水リスクが逆
に増大した。また,飯沼,手賀沼,印旛沼での新田開発
にも影響を与えた。
⑥ 関東平野での河川改修は現在も継続中で,科学技術
の発展や社会基盤の変化,流通の変化にも対応している
⑦ 河川改修事業によって,東京が洪水に見舞われるこ
とは減ったが,人口集中や都市化によって大規模災害の
危険性は増大した
⑧ 事業形態は近代では地下河川,導水路の構築へシフ
トしている
⑨ 水系をまたぐ改修事業は水環境や生態環境の視点か
らの流系管理の必要性を提起している。
関東平野の自然地理状況を大きく変えた河川改修事業を4期の時代
に分けてまとめる
第1期:江戸時代前期
第2期:江戸時代中後期
第3期:江戸時代後期~昭和(戦前)
第4期:昭和(戦後)~現在
この時期に,利根川の東遷,荒川の瀬替え,利根川下流域での合流河川の改修,江
戸近傍で堤防の築堤,用水路の整備等,ほとんどの河川改修が竣工・開始された。
江戸川の最上流部の川幅は極端
に狭い
また,棒だしといって洪水調節
用の水制が設置されている。
これは洪水時に利根川を流下し
て権現堂川から江戸川に流入す
る水量を制限手切るようになっ
ている。(洪水時に逆川が逆流
し利根川に洪水被害をおしやる
ようになる)
自然災害,洪水が頻発した。また利根川と江戸川が結ばれたこ
とにより内陸水運が急速に拡大した。
1707年『宝永地震』『富士山宝永噴火』により相模の酒匂川では
火山灰の影響から土石流が頻発
1723年 1683年の『日光地震』でできた天然ダムが決壊,鬼怒川
筋に大規模水害
1742年 関東,千曲川流域,東北地方まで巻き込む大洪水(江戸3
大洪水)
1786年 1783年の浅間天明噴火による大水害(酒匂と同じ)
この時期に利根川から取水する流路を開削し下流部の既存用水路
網とつなげ,葛西用水路とした。
利根川東遷によって銚子と江戸が結ばれ,江戸に仙台などから太平洋沿岸航路を南下
してきた物資が運び入れられるようになった。
このほかにも北浦,鬼怒川,渡良瀬川等を経由し東北から
上利根川,荒川等を経由して上信,川越近傍からの物資も供給する水運ネットワーク
が構築された。これらの水運網は流路沿いに形成した河岸によって支えられていた。
河岸
物資の中継,集荷,保管の
ための施設として,船着き
場,船溜まり,荷揚げ施設,
蔵屋敷,問屋,市場などが
あり,水運によってやって
くる物資の中継,内陸から
の物資集荷などを行ってお
り,流通経済の都市として
構成されていた。
江戸後期から明治を経て近代へ続く時期では,時代の流れに沿って
河川改修の技術が大きく転換した。また,利根川下流域において,
本格的に河川改修事業が適用された。
明治期には近代化政策として外国人技師が雇用された。
河川改修に必要な測量技術や,河川技術がそのような外国人技師に
よって(オランダ人が多かった)導入され,国内技師に受け継がれ
た。
この中でも1872年に雇用されたファン・ドールンの提案である「日
本水政論」「河川改修の考案」と,リンドーの提案である「日本治
水の説」は,それぞれ日本の河川改修の教科書的な役割を果たした。
また,同時期には図に示す箇
所で河川改修が実施された。
この時期におこった大洪水(1910年:
東京に大規模な被害を及ぼした)が,
荒川放水路開削の契機となった。
荒川放水路はこの時期に作られた人工水路
である。
この開削に伴い河口付近にあった平井,大
木,船堀の3村は廃村となったが,古くか
ら宿場町となっていた千住村は迂回するよ
うに配置されている。
またこの放水路は,中川と綾瀬川を分断し
ていて,左岸側に平行に新たに水路を開削
し,河口まで誘導している。
関東平野の河川改修事業は現在も継続している。この時期を特徴づ
けるのは,導水路等の地下設置である。高度な都市化が進む首都圏
では,地表の開削は必要とする水路建設が困難となったためである。
ただし,河川は水や土砂以外に
も,水質汚濁物質や生物も運搬
する。水系をまたぐ導水路は放
水路は広域的な汚濁物質の拡散
や外来生物による固有生態系を
乱す可能性があり,個別の流域
だけではなく広域的な流水管理
という新しい支店の導入と広い
領域の研究者と行政担当者の参
画結集が求められている。
東京湾は,島弧ー海洋プレート
沈み込みがつくる前弧盆地地形
を起源に持つもので,この地形
が長方形の形状をもつ原因は,
フィリピン海プレートと太平洋
プレートの2つが交錯して沈み
込む重複前弧盆地による。
銚子から房総半島西南端まで続
き,90°方向を北西へ変えて丹
沢山系へ続く隆起帯及び霞ケ
浦ー印旛沼ー東京湾へ続く沈降
帯の分布は,関東平野下に沈み
込む2枚のプレートの相対運動
の結果である。
数百年を越えて取り組まれている河川改修事業によって,東京
1200万人を中心に,域内に3000万人が生活する東京の社会基盤
を整備することに成功した。この機能を「未来都市東京」へと
引き継ぐ責務を負っている。本論文で著者らは関東平野で取り
組まれてきた河川改修事業の遂行には,その地域の構造運動や
地形変動,地質構造の理解が不可欠であり,加えて都市や国家
という境界が意味を失いつつあるボーダーレスな世界状況を踏
まえた自然科学と人文社会科学に対する深い理解を基礎として,
国際政治と世界経済まで組み込んだ総合的な見地から関東平野
の上に築かれた都市の未来設計を行う時代を迎えているという
ことが,一つの結論として挙げられている。