風車の技術と歴史 History and Technology of Windmills 第9回 6/18 日本の風車の発展と利用 講義内容 URL http://www.eureka.tu.chiba-u.jp ○概要説明 ○つづき ○風車の起源と発達 ○風車の種類と構造 ○イギリス風車とオランダ風車 ○産業革命---風車、水車、蒸気機関への変遷 ○Millerさんと風車 ○絵画や映画の中の風車 ●日本の風車の利用と発展 ○ランドマーク、町興しとしての風車 ○発電用風車の原理と構造 ○世界のウインドファームと立地 ○風力エネルギー導入施策とエネルギー環境ビジネス ○市民風車の胎動 ○風力発電の将来WindForce12 ○国内外のウインドファームの見学 ○イギリス・オランダ・スペイン・アメリカ・デンマーク・ドイツの 風車の旅 ○課題の作成 「風車のある街」 :感想 題名の割りに風車が出ない 風車が回っていない 風車はやっぱりオランダ お祖母さんがナイス オランダの風景は自然に溶け込んでいる 男は夢に向かっていないと 最後の展開がいい 夏川さんがかわいそう 主題は干拓のよう 40年前の映画、言葉遣いが今と違う 交通事故には気をつけよう ハッピーエンドでよかった 石倉さんが一直線 東京湾の干拓はよくない etc etc 「風車のある街」 風車は、主題でなく、 :私の考え 背景。しかし、オラン 主題は恋愛。 吉永小百合・浜田光夫 ダを象徴するアイテム そのストーリー展開は・・・? 時代は、40年前(1966年) としては、風車が適 ・経済成長時代 海外への進出(海外ロケ)、 切・・・メディアである。 ・女性の進出 ・まだ海外旅行はポピュラーではない まり子 石倉(土木、飯場、孤児院、怪しい男、誘拐) (卒業、幼稚園保母、就職、結婚) (仕事、留学、夢) 夏川(清廉潔白、エリート) 祖母(ハイカラばあさん、後押し) 長崎がオランダとの接点 <連想ゲーム> 「風車のある街」・・・オランダの間接表現 「チューリップのある街」でもいい? 風車、チューリップ、運河 石倉への思慕、意思を通す チューリップvs風車(日本にはな い) 観光紹介(海外旅行サービス、交通事故右側通行) 「干拓、日本ではできない。」「そうじゃない、やらないだけなんだよ」 フランス山 山手に古くからあるミッション・スクールのひとつ、フェリス女学院(前・フェリス女学校)は かつて、「風車の学 校」として親しまれた。 その当時の風車の姿をとらえた写真が残っている。外国人旅行者に人気のあった「横浜写真」と よばれる着 色写真のなかの1枚である。明治20年代初頭に、吉浜橋からフェリス女学校方面を写 したものである。風車 の右横には円筒型をした貯水タンクらしきものもみえる。 この風車は揚水用に建設された。水事情のわるい山手には、明治20年代から30年代にかけて、 その数は はっきりしないが、給水手段として、このような風車が立っていた。山手への上水道敷設 は、明治31(1898) 年のことである。 『フェリス女学院100年史』によると、フェリスの風車の建設年は、明治20(1887)年 頃とされる。この年、 南・西校舎新築工事が開始されているので、いっしょに建設されたものと考 えられるが、はっきりとはわからな い。深さ53・4メートルの井戸に設置されたとある。 しかし明治33(1900)年9月28日、最大風速33メートルを記録した台風によって、風 車は地上5・5メート ルの高さのところから折れてしまった。 当日の英字新聞(夕刊)によると、28日午前7時、横浜に襲来した台風は、9時に最大風速 33メートルを観 測した。横浜公園では樹木16本が根こそぎ倒され、22本が折れる被害がでた。 芝居小屋の喜楽座は建物が 傾き、損害額は500円とされた。海岸通りでは電燈柱が根元から折れ、 また電信柱にも被害がでて、停電や 電信不通の事態をまねいた。旧居留地の山手では五棟の家屋が 甚大な被害をうけ、石垣崩壊や道路破損、 樹木倒壊などもあったが、日本人街と異なり、けが人は なかった。フェリスの風車倒壊は、大きな被害として報 じられた。 その後、風車は再建されることはなかった。 フェリス女学校の揚水用風車【横浜開港資料館所蔵】 フランス山の風車(似せて再現したもの) フェリス女学園の風車は赤色だったので 横浜の米国人の居留地では、風車は最初水汲み用 に、その後発電用として利用された。 明治2年には、横浜のフェリス女学校、その後根岸の 米国人搾乳場、また明治10年には三田の育苗場でも 使われた。これらは、アメリカ製多翼風車であった。 こうして、風車は外国人により導入され広まっていっ た。 昭和五十一年度 郷土の水利施設進展の研究 ―――安房郡丸山町三島地区における風車揚水の継承――― 農業工学科3年E組20番 角田 修 目次 序論 調査計画 調査研究事項 本論 風車揚水 (1)風車揚水の継承 (2)風車揚水の存在した地区 (3)風車揚水までの変遷 ・ナゲツルベ ・ハネツルベ ・風車 ・原動機とポンプ (4)井戸と揚水機の構造 三島地区の灌漑揚水の歴 史 地域と伝承 結論 (1)揚水機の比較 (2)風車揚水に必要な条件 考察 反省 中島峰広(早稲田大学)は、 地理学の立場から風車灌漑を取り上げ、我が 国の現状を調べて報告している。次の6個所 で利用されていた。 1)長野県諏訪湖南、2)大阪府堺市近郊、 3)愛知県知多半島東浦町、4)渥美半島 伊良湖岬付近、5)茨城県土浦市桜川流域、 6)千葉県房総半島館山付近 日本各地の 風車の形式 と大きさ 諏訪の揚水風車 1)諏訪湖南地域では、泥炭層に原因して天然ガスが出 たが、その窒素分が溶けた黒褐色の地下水を風車で汲み 上げて、水田の肥料にした。 使用は1905 年頃に始まり、1940年代前半で役目を終えた。 最盛時には3000台以上使われたが、合成硫安の普及によ り減少し(第2次大戦後化学肥料が不足し、一時復活した が消滅)、消滅した。 風車は、8枚翼、固定式。ポンプは竹筒で木のピストン。 井戸は、深さ7~9m、口径5cm。地下水の施肥効果は顕著 であった。掛けすぎると背丈だけ伸び、少ないと成育し ない。5月に南北方向の風を受けるように風車を設置して 利用するが、秋には解体して翌年まで保管した。 堺の揚水風車 2)水田と畑地の灌漑用、1928年に台地の赤畑地区での水田 への補給水として使われた。 成績がよかったので石津川沿いのほか、畑でも使われるよう になった。さらに大和川沿いにも拡大した。 赤畑に10台、石津川沿いに250台、大和川河口で25台、その 少し上流で100台程度が1935年から1950年代前半まで使われ た。 1960年代に遠心ポンプとエンジンが農家に普及して、これに置 き換えられる。さらにパイプラインによる給水が行われるように なり、完全に消失した。 初期には固定式であったが、5年後に野鍛冶により自動風向 調整型が考案され、普及した。翼は6枚で、直径は240cm。V形 に開いた後翼が風向を調整した。翼の中心位置は高さ350cm。 本岡玉樹 海軍技師・湘南電気研究会長であり、日本における 風車研究の草分けである。 昭和2年に、本岡はNHKの依頼で“我国農村動力と しての風車の利用”をラジオ放送すると、反響があり、 各地で風力発電をするようになったという。 ⇒ 1926年ごろ千葉県勝浦に設置されたアメリカ製 発電風車を示す。 アメリカ製発電風車( 1926年ごろ、千葉県勝浦) 4)渥美半島伊良湖岬では1924年頃に風車揚 水が始められた。最盛時の1935年頃には200台 の風車があり、水路に沿って一列に並んでいる 様は見事な景観であったという。1953年にポンプ 機場が完成し、風車の役割を終えた。 5)土浦市付近桜川流域の新治郡桜村・新治村、筑波郡筑 波町・大穂町での水田灌漑用。利用は、1928~29年ごろに、 筑波郡谷田部の素封家高野新八が台地の開墾田で風車を 用いたのが始まりで、付近に拡大。 最盛時の1936年では1000台以上で、1955年頃まで活躍して いたが、1958年の干ばつを契機としてエンジンや遠心ポンプ による給水が国策として展開され、役割を終えた。 構造は、行灯(あんどん)と呼ばれる機台の上に自動風向装 置が載っており、翼は6枚。 翼回転中心高さ3m50cm。 6)千葉県房総半島館山付近の風車は、丸山町・千倉町・館山市の風車 を指しており、丸山町がこの地区での最初である。その始まりは、1933 年頃からであり、ついで館山地区、千倉地区に伝播した。 丸山町の風車のルーツは、千葉県夷隅郡大原町・岬町。 丸山町三島地区の風車灌漑は、砂礫層からなる河岸段丘氾濫原に作ら れた水田に補水することを目的としており、1933年ごろに野鍛冶が自動 風向調整型に改良して、大いに普及した。 1936年5月号の全国的農業雑誌「家の光」にこの風車揚水が“この頃は やる水揚げ風車”として紹介され、話題になった。 1930年代後半から1950年代前半までの最盛時には100台の風車が稼動。 館山市の正木・川崎・湊地区も丸山町三島地区と同様な地質であるため、 同じ形式の風車が使われた。最盛時には120台も稼動していた。丸山町 の隣りの千倉町でも利用された。 風車は、6枚翼で、風向追随機構をもっており、風の強さにより翼の大き さや枚数を加減して、破損あるいは水枯れなどに対策した。 房総の揚水風車の復元と システム解析 田ではたらく丸山揚水風車 わが国の揚水風車 日本で揚水(灌漑)風車が利用された地域 ・長野県諏訪湖南 1905(明治38年) ・茨城県土浦市付近桜川流域近郊 1000台 ・大阪府堺市近郊 ・愛知県知多半島東浦町 ・愛知県渥美半島伊良湖岬付近 ・千葉県房総の丸山町・館山市付近 昭和初期~ 房総の地理 ● 筑波 ● 東京 千葉 ● ● 岬 ● 大原 館山 ● ● 丸山 復元した風車(講演会時、大原公民館展示) 房総・丸山町 で昭和10~40 年まで使われ ていた風車 目的/復元の意味 構造・・・大きさ・形状・機構 性能・・・目的・材料 背景・・・当時の技術・社会性 記録・・・産業考古学の立場 発展・・・(新)エネルギー・風力発電 教育・普及 背景・起源・技術移転 ■大干ばつ・・・ 千葉県内では1924~1940年に6回の大干ばつ。 ■風車灌漑の必要性・・・ 県が用水の機械化、しかし予算不足 溜め池,かん水・天然ガス,海岸沿い 長生,夷隅(岬・大原),安房地区で風車 揚水が使われる. ■そのルーツ・・・ 房総の夷隅地区である.固定式の揚水風車 →丸山町白子の大工が夷隅地区を視察し, 1933年頃に野鍛冶と自動風向調整型に改良。 →1935年(昭和10年)頃から広く普及. 当時の写真(昭和29年8月) 利用状況(灌漑) 水田給水・・・堰での落差給水 (漏水,老朽化,用水面積の増加等による用水不足) →畦に井戸を掘り、投げ釣瓶,撥ね釣瓶で人力作業。 丸山町三島地区・・・水田の表土の下は砂利で,水が浸透 し易く、保水能力が低い。地下水位が2~3mのところ にあり、過酷な作業。 ⇒風車灌漑 約3ha2の水田に約130個所の井戸が設置 最盛時(1943年・昭和18年頃)60基 ⇒揚水風車は楊程が高いため,従来の撥ね釣瓶では困 難な高所にも新田が開拓できた. ⇒揚水風車の有効性が認められ,近くの館山市正木地 区ほか,千倉町などにも普及した.館山市では,100 基以上。 風車の盛衰 農業雑誌『家の光』で紹介・・・1936年(昭和11年) ‘この頃はやる水揚げ風車’ 写真入り、構造や揚水能力、費用 井戸掘りに10円から30円 ポンプと風車に16円から20円程度 ⇒普及を推進した ■しかし風車揚水は,地下水源の枯れ以外にも,強風 による羽根板の破壊,装置の腐食・損耗などの問題 ⇒メンテナンス対策には苦労、人手不足、現金収入 +石油発動機の登場 ⇒ポンプ揚水に交替、1965年(昭和40年)頃終了 構造・大きさ(概略寸法) 構造・大きさ 羽根車 腕木・・・杉(3本) 3本組み合せて風車軸に楔・ねじで固定 羽根板・・・杉 大: 60cm×90cm 中: 50cm×50cm 小: 35cm×45cm 羽根板の交換や取り外しは容易 枚数・・・羽根板は6枚が標準 風速に合わせ、枚数・大きさを調整 ピッチ角・・・腕木に約17°の傾斜した取付け座 風向追尾機構 ・尾翼 風向が変わったときでも羽根車が風に 正対するように回転軸の後方には尾翼を 持っている. ・軸受 風向に追随して羽根車を風向に正対さ せることを円滑に行うため,鋼の円筒を 二重にしたスラストすべり軸受 構造・大きさ(クランク機構) 片持ち式 と 両持ち式 構造・大きさ(軸受・クランク) 羽根回転-往復運動変換機構 クランク機構 ・・・羽根車の回転を、手押しポンプの 往復運動に変換するために、 クランク機構を採用 ・・・片持ち式・両持ち式の2種類あり 揚水能力 ■ポンプ・・・手押し井戸ポンプ(川本式ポンプ) (内径100mm,行程100mm程度) ■運転状況・・・ 30rpmが効率良好 →羽根板の大きさや枚数で調整 ■楊程・・・風速が4~5m/sで6mもあった →2~3mの井戸からの揚水に利用 ※川本ポンプは,大正8年に手押しポンプを作り創業。 その後ほぼ毎年,改良型の手押しポンプを発表し, 昭和4年のカタログでは新メザメポンプを市価15円で発売。 揚水風車の性能試験 回転速度 rpm, 揚水量 l/min 風車の性能 70 60 50 回転速度 40 揚水量 30 揚水量(筑波) +Sheet1!R37C1 20 10 0 0 1 2 3 4 5 風速 m/s 6 7 揚水風車のシステム解析 丸山町在住の遠藤政和氏の納屋に 保管されていた風車を貰い受け, 欠損していたフレーム,軸受部分を製作し, さらに傷んでいた羽根車,尾翼も新調した. 当時のままの部品は,ポンプ,クランク, 上部金具だけである. 木材には杉を用いた. 機構の考察(1) ピッチ角 ・羽根板には約17°のピッチ角がつけられている.この 角度は,風車の低風速起動と高風速時の回転抑制に役立 つ.風速2.2m/sで起動できる. ・計算によれば,これらの条件での発生トルクと起動ト ルクの大きさは等しい. クランク機構 復元風車では,片持ち式のクランク機 構,ピロー型玉軸受ユニットで回転軸を支持しており, 回転は滑らかである. 機構の考察(2) 弁開閉のためのギャップ ・ピストンの上下運動で上死点と下死点での方向転換が 急激にならないように,4mm程度の“あそび”がある. ・上下往復運動する連接棒/ポンプの取り付け部を、ピ ンではなく,長方形穴にして“あそび”を設けでいる. ⇒ ・この“あそび”は通常の手押し井戸ポンプにはない. ・風車では,回転が速いと,上下死点での弁の開閉に遅 れがないと,なめらかな水汲みができない. ・あえて複雑な構造とした.経験の学である. 機構の考察(3) その他の工夫 風向追尾機構のために採用された 内筒,外筒として2重したスラストすべり軸受は, 急激な風向変動,吹き上げ風がつくる大きな風圧にも 抜けずに耐える頑丈で,滑らかに方向変更(風向追従 ) できる優れた工夫・設計となっている. 結 言 ・千葉県房総で昭和10年代から40年代まで利用された 水田への揚水風車は, 地域の地質的,気象条件,材料調達,地縁技術 と結びついて,風向追尾装置のついた洗練された風車に 仕上げられた. ・揚水能力,価格などの長所から最盛時は広い範囲で, 100台の規模で利用された. ・必要から生まれた技術開発がごく少数の鍛冶屋,農民 の工夫によってなされた. ・その努力を現物として後世に伝え,技術的進展の誇り を惹起させるアイテムとして,この風車は役立つ. 山田基博/山田風車 山田風車は、戦前戦後を通じてわが国の風力発電の唯 一の成功例。 大正7年、電気がまだひかれていない北海道名寄郊外 に生まれ、電気への渇望と場所を選ばないで利用できる ことを条件として考え出された。昭和13年に稚内の漁村 に、最初の風車を設置して、昭和18年の戦争による応召 まで200台以上を設置している。風の強い海岸では2枚翼 の直径1.2mのプロペラで200Wを発電した(風速7から8 m/s)。米国・独国の自動車の直流発電機を使っていた。 一式100円から200円であった(当時の月給は30円だっ た)。北海道はニシン景気で豊かであった。 山田基博/山田風車 終戦後、札幌に山田風力電設工業所をつくり、風車の普 及と改良を進めた。昭和25年には北海道庁の依頼で開拓農 家20軒に風力発電機を設置して発展した。昭和29年の洞爺 丸台風では風速45m/sに耐え、優秀性が確認された。 山田風車は、東北・九州、さらには南米やアフリカでも 利用された。昭和30年代には1万台を超えた。山田風車の 300W機は1式6万円であり、北海道と農林省から2万円ずつ の補助があり、自己負担は2万円で済んだという。山田風 車は北海道産の蝦夷松(比重0.47)を翼材に用いており、軽 くて丈夫な3枚翼のスリムな形状であった。また、風の強 さに応じて翼の向きを変えるピッチ式などを採用し、風洞 実験や地形による風の変化などを観察して改良が加えられ た努力の成果であった。 山田基博/山田風車 2枚羽根の山田風車と牛山先生 次週の予定: 世界遺産のビデオ: 「オランダ・キンデルダイクの風車群」 再来週からは、風力発電。 そこで、中間所見作成(30分) 「これからは風力発電を受け入れる土壌をつ くることが必要ですが、あなたはあなたは、風 力発電については、どのような見解を持ってい ますか? ポジティブか、ネガティブか・・・。」 現時点の考えを、理由を挙げて論述してくださ い。 風車見学会 ■6月27日(日) ■東京江東区、若洲海浜公園 IHI納入、ドイツ・ノルディック社(1950kW) 3月末完成 ・京葉線、新木場駅13時集合 ・13時35分のバスで現場に移動。 ・IHIの職員が説明してくれます。
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