文治政治への転換 (4代将軍家綱の政治) 1.1.武断政治=家康~3代将軍家光 →徳川幕府の基盤を固める ←武家諸法度の法令 に違反する大名は親藩、譜代、外様の区別なく、 容赦なく改易、減封の処置を行った為、失業し た牢人が発生し、治安が悪化し戦乱を待望した。2. 徳川家光の没後=慶安の変(1651年) 後継の徳川家綱が幼弱で、2.由井正雪は丸橋忠 弥等と共謀し、徳川家綱を奪取し、幕政批判と 牢人救済を掲げる反乱を企てた。 3.幕閣は武断政治からの方針転換を迫られること となった。 武断政治→幕藩体制の確立 1.大名の大量改易 → 大量の牢人が出現 (幕初50年間で約40万人) 2.朝廷への圧迫→例:紫衣事件(1627) 3.百姓への干渉→例:慶安の触書(1649) 4.キリスト教の禁教、弾圧→例:島原の乱の弾圧 5.鎖国政策(鎖国の完成は1639) 武断政治から文治政治への転換 1.3.保科正之(1611~72)…圧政から儒教的徳治主義 へ。将軍家綱の補佐 1)牢人問題対策(由井正雪の乱後) →牢人の増加 防止と取り締まり 2)大名の改易を緩和=大名・旗本の末期養子の 禁止を緩和→末期養子(急養子)の容認(50歳位以下 17歳以上の) (1663) 3)戦国時代の遺風を払拭→武家諸法度改正(寛文令) (a)寛文の二大美事=①殉死の禁止②人質の禁止 4)寛文印知=全ての大名に領知宛行状を発給(1664) 5)天領の一斉検地→幕府財政収入の安定を図る 農村では農地の分割相続により本百姓の零落が始ま り、 財源を米に依存する幕府や各藩は本百姓を維 持する為、分地制限令を発布1673年(延宝1)。名 主は20石以上、一般農民は10石以上の所持高でな ければ、田畑を子供に分地することを禁じた。 藩政の安定と発展 1)藩政の発展の契機 (a) 軍役の負担軽減→安定した平和な時代の継続 (b) 寛永の大飢饉(1642)への対応 2)藩政の発展←善政を行う名君の藩主が輩出 (a) 領内の支配機構の整備 (b) 農業生産の向上⇔新田開発、治水工事←寛永の大 飢饉を背景→新田開発が進展、領内の経済も発展。 (c) 諸藩主の文教奨励策 ① 保科正之(1611~72)=会津藩主 ・4.山崎闇斎(朱子学者)の招聘 ・藩学稽古堂を設立(1664) 保科正之 ②池田光政(1609~82)=岡山藩主 ・5.熊沢蕃山(陽明学派)を登用 ・藩学花畠教場を設立(1641) 一般には最古の藩校 ・郷学閑谷学校を設立(1668)藩士 の子弟のほか、百姓の子弟の入学 も許可 池田光政 ③徳川光圀(1628~1700) 水戸藩主、黄門(中納言の唐名) ・朱舜水(朱子学者、明より亡命) を招く ・江戸藩邸に彰考館を開設 「大日本史」(397巻)の編纂) ④前田綱紀(1643~1724)=加賀藩主 ・6.木下順庵 (朱子学者)の招聘 ・稲生若水 (本草学者)の援助 →若水は 「庶物類纂」を編集 徳川光圀 朱舜水 木下順庵 元禄時代(5代将軍綱吉の政治) 1.「元禄時代」元禄年間(1688~1703) ≒5代綱吉の治世(1680~1709) (a) 幕政の安定 (b) 経済の発展=「元禄バブル」か? ・大商人の台頭・都市文化の開花 2. 綱吉の政治(就任期間:1680~1709) 綱吉はもと館林藩主、最初は「天和の治」=綱吉 擁立の功績=堀田正俊→従来の老中の集団指導体制 →勝手掛老中制度の創設→堀田正俊→若年寄稲葉正休 に殺される→側用人制度の創設(特に柳沢吉保を中 心)→有能な人間を登用する手段→財政での機構整 備=「勘定吟味役」を創設→綱吉の代官粛正→勘定 奉行として辣腕を振るう荻原重秀が就任 3.将軍権威の強化 (a) 大名の改易・減封=親藩・譜代≠外様は外す 没収された石高は、総計で161万石→幕府直轄領 (b) 柳沢吉保を側用人へ登用→老中などを遠ざける 権勢を振るう 将軍親政・独裁 (c) 朝廷と関係改善→ 朝廷儀式の復活、禁裏御料 の加増(7.3万石へ) 綱吉の後継に甲府藩主徳川家宣が決まると、家 宣の後任として甲府藩15万石の藩主となる。側室 に名門公卿の正親町公通の妹を迎えていた関係 から朝廷にも影響力を持ち、元禄15年(1702)に将 軍綱吉の生母桂昌院が朝廷から従一位を与えら れたのも、吉保が関白近衛基煕など朝廷重臣達 へ根回しをしておいたおかげであった。宝永2年 (1705)、家門に列する。宝永3年(1706)には大老 格に上り詰めた 4.学問の奨励←綱吉=学問(儒学)好きな将軍 (a) 湯島聖堂(孔子をまつる)の建設、8.林信篤を大学頭 に任命(1690) ・林羅山(道春)の建てた上野忍岡 の私塾を湯島に移し、湯島聖堂 (孔子の廟)・聖堂学問所を建設 →昌平坂学問所(幕府直轄の学問所「昌平黌」)の基 ・林信篤(鳳岡、羅山の孫)を大学頭に任命→以後、大 学頭は林家が世襲。朱子学が正式に幕府の官学に。 (b) 歌学方の設置、北村季吟の登用(1689)著「源氏物 語湖月抄」松尾芭蕉、山口素堂等優れた門人を輩 出。 (c) 天文方の設置、9.安井算哲(渋川春海)の登用(1684). 1689年に本所に天文台の建設。 5.財政難による貨幣改鋳 ←勘定吟味役(のち勘定奉行)荻原重秀の献策 =幕府の赤字を改鋳で補う(家綱の代から) 歳出の増大と収入の減少 (歳出は収入の2倍以上) ・幕府収入の減少 =金銀の採掘量の減少(枯渇)+貿易収入の減少 ・綱吉の放漫財政と歳出の増大 =生類憐みの令・儀礼の整備(京風の儀礼採用)・明暦の大火(1657)後の復興・ 生活の奢侈化・寛永寺・増上寺の改築、護国寺・護持院の造営、東大寺の再建 など(母・桂昌院の帰依) ←根本的原因=貢租(年貢)収入は横這い、商品経 済の拡大に伴う出費の増大 ・元禄金銀の発行(1695)=金の含有率:慶長小判 (86.3%) →元禄小判(56.4%)約500万両の利益 (当時の幕府の1年間の歳出約170万両) 綱吉ハイライト 1.元禄文化の開花←経済発展「元禄バブル」 と町人の台頭=元禄豪商の出現 →淀屋辰五郎、紀伊国屋文左衛門など →都市文化の開花 2.生類憐みの令(1685~) → 「犬公方」の悪評 =狂信的な動物愛護政策→犬に戸籍、捨て犬には 中野村に犬小屋を→生類を殺傷した者は処罰 3.赤穂事件(1701~1702)江戸城中で赤穂藩主浅野(内 匠頭)長矩が吉良(上野介)義央を刃傷、長矩は切腹、 翌年浅野家の遺臣(大石内蔵助ら)が吉良を討つ 4.富士山の大噴火(1707)=駿河・相模などに大被害 幕府、被災地復興の為、全国に「諸国高役(国役)金」 石高100石宛て2両の割合で徴収、約49万両上納。 正徳の治(新井白石・間部詮房の政治) 「正徳の治」 ≒正徳年間(1711~16) =新井白石(1709~16)+間部詮房の政治 =6代家宣(1709~12)・7代家継(1712~16)の治世 1.綱吉政治への反発→文治政治の頂点 ①貨幣改鋳(旧に復す)、②生類憐みの令廃止、 ③朝鮮通信使の待遇簡素化 2. 侍講新井白石(1709~16)・側用人間部詮房の政治 ①儀礼の整備→儀式、服制、官位の整備 ②1.閑院宮家の創設(1710) →朝幕の関係の円滑化 東山天皇の第8親王秀宮に新宮家を創設させる 世襲親王家は3→4家に増加 ③朝鮮使待遇の簡素化→接客の格と内容の低下 ・将軍の呼称を「日本国大君」から「日本国王」に 復す(白石は大君とは朝鮮では臣下の職号と指摘)。 経済政策 正徳の治=儒学的理想主義→現実との乖離 勘定奉行荻原重の罷免(1712)←改鋳で26万両着服の嫌疑 1)貨幣改鋳(改良)の実施(正徳小判は慶長小判と同質) ①貨幣流通量の減少(=デフレ政策)→物価の引下げ →不況へ ②新旧金銀の交換比率に無理→経済界が混乱 2)2.海舶互市新例(長崎新令、正徳新令)(1715) ①国内の銀、銅の流出防止=貿易の支払いで銀・ 銅の海外流出防止(白石の計算:幕府創設以来、金の 1/4、銀の3/4が海外へ流出したと推定) ②貿易額の制限→清船:30隻・銀6000貫目、オラ ンダ船:2隻・銀3000貫目 ③支払いを銅で行う ④3.俵物(フカヒレ、いりこ、干し鮑)の輸出奨励
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