第一回 光琳筆『風神雷神図屛風』 - 宗達を検証する after講座

〔連続講座「琳派の誕生 ―俵屋絵師と尾形光琳から見た宗達―」〕
2014・11・29 於 Bunkamura・B1
第一回
光琳筆『風神雷神図屛風』と宗達筆『風神雷神図屛風』
講師=林 進
(裏面)
伊勢物語第九段
「宇津の山」
光琳画団扇
(表面)
「流水に菊図」
米国(ワシントン)フリーア美術館蔵 《「流水に菊図」に光琳の落款印章がある》
【光琳は六原の俵屋・野野村氏(宗達の後裔)から宗達画や絵手本を借出し制作に用いた】
江戸時代中期、京の絵師・尾形光琳(万治元年・1658∼享保元年・1716、享年五九)の活躍期
は、滞在地により、第一期「京都時代」
( 1658∼1704)、第二期「江戸滞在時代」
( 1704∼1709)、
第三期「再・京都時代」
(1709∼1716)の三つの時期に分けることができる。
宝永六年(1709)三月に、江戸生活を切上げ京に戻った光琳(52)は、しばらく鳴滝の乾山窯で
弟の陶工・深省と「銹絵硯蓋」
「 銹絵火入」
「銹絵金彩蓋物」の合作を楽しんだ。正徳元年(1711)五
月、光琳(54)は新町通り二条下ル(東側)に自ら設計した絵所のある屋敷の新築を始める。
『小西
家旧蔵文書』にある光琳の図面に基づいて、光琳屋敷が熱海の MOA 美術館で復元された。絵所
は二階にあり、十六畳の広く明るい部屋で、光琳の居間からしか上がれない。宗達の後裔、俵
屋・野野村氏は、女重春、女国春、通正信武へ継がれ、正徳・享保頃まで東山の六原にあった。
光琳は、生家の呉服商・雁金屋の関係で野野村氏を知っており、当家に伝来された宗達の遺品、
「風神雷神図屛風」
「伊勢物語図色紙」
「西行物語絵巻」、宗達が制作に用いた絵手本、画稿を借用
した。新設の絵所で宗達の「風神雷神図屛風」を透き写し、
「蒔絵硯箱」のデザインを行い、
「紅白
梅図屛風」を制作した。
I-1
【光琳が宗達筆・益田家本「伊勢物語図色紙」
(36 図)をもとにして描いた伊勢物語絵】
図 2 宗達筆 益田家本 伊勢物語図色紙
「宇津の山」 寛永十年(1633)作
図 1 光琳筆「伊勢物語 宇津の山図団扇」
《 図様、彩色が共通するので原本を基にして描いた》
図 3 光琳筆 画稿「三人の農婦」
「小西家旧蔵光琳関係資料」のうち
図 4 宗達筆 益田家本「第五十八段 田刈らん」
《 稲穂の傾きが光琳の画稿(図 3)と異なる》
図 5 光琳筆「伊勢物語 富士の山図杉戸」 図 6 益田家本
「第九段 富士の山」
《 杉戸絵は二つの図様の合成である》
図7
異本伊勢物語模本
「富士の山」
( 反転)
益田家本「伊勢物語図色紙」
( 全 36 図)は絵師野野村宗達が制作を企画し、連歌師里村昌俔に
詞書染筆の世話役を依頼し、図の選定を行い、下絵を付け、俵屋の絵師たちの協力を得て、寛永
十年(1633)に完成させた作品である。寛永九年六月に亡くなった角倉素庵を追善するための作品
で、素庵と親交があった多くの人たちが詞書を書入れた。
I-2
【光琳が宗達所持本「異本伊勢物語絵巻模本」をもとにして描いた伊勢物語絵】
図8
光琳筆「伊勢物語 八橋図」
図 9 「異本伊勢物語絵巻模本 八橋・かきつばた」
図 10 光琳筆「伊勢物語 禊図」
図 11 「異本伊勢物語絵巻模本 恋せじの禊」
《「異本伊勢物語絵巻」の原本は鎌倉期の作であるが、伝存せず、江戸後期の模本が遺る》
図 12 光琳筆「富士の山図扇面」
「扇面貼交手箱」のうち
図 13 「異本伊勢物語絵巻模本 富士の山」
I-3
(図 6)益田家本
「第九段 富士の山」
【光琳が宗達色紙・素庵色紙にヒントを得てデザインした蒔絵硯箱】
図 14 光琳意匠「桜狩蒔絵螺鈿金貝硯箱
《 箱書によると光悦写しという》
藤田美術館蔵
図 16 光琳意匠「住之江蒔絵金貝硯箱」 静嘉堂文庫美術館蔵
《 見込みの構造は「桜狩硯箱」や「舟橋硯箱」と同じである》
図 18 光琳意匠「八橋蒔絵螺鈿金貝硯箱」
図 20 「舟橋硯箱」
図 15 宗達筆・益田家本「第一段 鷹狩」
寛永十年作《 光悦は寛永十四年没 》
図 17 〔図 14〕、
〔図 16〕光琳の箱書
図 19 光琳意匠「舟橋蒔絵金貝硯箱」
図 21 素庵書和歌色紙「東路の」
I-4
図 22 素庵書鶴下絵和歌巻
【光琳は、俵屋絵師の筆になる渡辺家旧蔵本「西行物語絵巻」を精密に模写した】
図 23
光琳筆「西行物語絵巻」第四巻
宮内庁三の丸尚蔵館蔵 《 渡辺家本の模写本 》
図 24 渡辺家本「西行物語絵巻」第三巻
俵屋絵師筆 現・文化庁蔵
《 寛永七年、禁裏御本から宗達本四巻と俵屋絵師本六巻(渡辺家本)が並行して作られた》
図
光琳筆
25
「西行図扇面」
「扇面貼交手筥」のうち 大和文華館蔵
図 26 光琳模写本
図 27 渡辺家本
俵屋絵師筆
【光琳意匠「舟橋蒔絵金貝硯箱」について】
「桜狩蒔絵螺鈿金貝硯箱」
( 図 14)の箱書には、
「本阿弥所持光悦造以写之 法橋青々光琳(花
押)」とあり、
「光悦の写し」という。その筆跡と花押は光琳の真筆である。蓋表の騎馬人物の図様
は、宗達筆「伊勢物語図色紙・第一段 鷹狩」
( 図 15)の図様をもとにしてデザインしたものである。
宗達色紙は寛永十年(1633)夏までには描き終え、以後、俵屋に在った。光悦(寛永十四年没、
享年八十)がそれをもとにして「桜狩硯箱」をデザインしたとは考えられない。
「住之江蒔絵金貝硯
箱」
(図 16)にも同様の箱書があり、いずれも光琳の偽りの文言である。銀の金貝による和歌の書体
は、角倉素庵の書体であり、光琳当時、その書体は光悦のものとされていた。光悦作とされた「舟
橋蒔絵金貝硯箱」にも銀の金貝で源等の和歌「東路の」
(後
集)がデザインされている。その「東
路」の書体(図 20)は、素庵書「和歌色紙(東路の)」
(図 21)と同じである。三つの硯箱は、蓋の甲
を盛り上げた被蓋造、鉛の金貝による奇抜な造形が共通する。正徳四年(1714)五月に銀座年寄深
江庄左衛門、光琳のパトロンである年寄中村内蔵助ら五人が流罪、追放され、家財の闕所が命じ
られ、入札のうえ売り払われた。その入札目録『銀座諸道具落札』に「光琳舟橋硯箱、代五百五拾
匁」とある。この「光琳舟橋硯箱」は、現存する国宝「舟橋硯箱」に相当するものと推定される。
I-5
【光琳本「風神雷神図屛風」は、新しい画室にて宗達本を透き写しの手法で描いた作品】
図 28 宗達筆「風神雷神図屛風」 無落款 寛永十一年(1633)頃作 京都・建仁寺蔵
《 左隻は、謡曲『雷電』の詞章により雷神(菅丞相、天満大自在天神)が黒雲に乗って虚空に上がる
姿を描く。黒雲は銀泥と墨を用い、たらし込みの手法で、薄く軽々と表す。》
図 29 光琳筆「風神雷神図屛風」 東京国立博物館蔵
《 光琳は、雷神の黒雲を濃墨で黒々と表し、宗達本にある浮遊感はそこにはない。》
図 30
宗達本に光琳本(朱色の輪郭線)を重ねる。出光美術館作成(展観図録 2006 年)
I-6
【宗達は、清水寺本堂と奥の院の雷神像・風神像にヒントを得て屛風を構成した】
図 31 光琳模写 弘安本系「北野天神縁起絵巻」 「小西家旧蔵光琳関係資料」のうち 京都国立博物館蔵
《 光琳模写本は宗達所持本「北野天神縁起絵巻」を写したもの》
図 33
図 32 清水寺本堂 雷神像・風神像
《 寛永六年に清水寺本堂焼失、十年までに造立された》
清水寺奥の院 雷神像・風神像
寛永八年(1631)作(胎内銘)
【宗達は、寛永九年に癩(白癩)で亡くなった素庵の魂を鎮めるために屛風を描いた】
仏画、仏像では、従来、風神と雷神は本尊千手観音、二十八部衆の眷属として脇侍的に表され
る。清水寺本堂、奥の院の彫像が好例である(図 32、33)。風神雷神を単独の画題として描いた
作品は、宗達の「風神雷神図屛風」が最初である。向かって左に「雷神」、右に「風神」を配置する
構成は清水寺本に倣ったものである。雷神の肉身は赤色で表すのが通例であるが、宗達本では雷
神は白色である。特異な表現である。寛永九年(1632)六月二十二日に、癩(ハンセン病、肌が白く
なるのを白癩〈びゃくらい〉と呼ばれた)で亡くなった友人角倉素庵を雷神に見立て、宗達自身を風
神に見立て、素庵の魂を鎮めるために描いた作品である。人から依頼されて描いた作品ではない。
その絵は、光琳が発見するまで人に知られず六原の俵屋野野村氏の家にあった。
弘安本系「北野天神縁起絵巻」は宗達が用いた絵手本であり、宗達筆「源氏物語図屛風」の人
物、牛のモティーフはそれをもとにして描かれている。光琳模写本(図 31)は宗達本を写したもの。
光琳模写本では、二つの図様の雷神を白描で一か所に描いている。光琳は、宗達の「風神雷神
図」がその図様を変容して描かれたことを見抜いた。
I-7
【宗達所持の「執金剛神縁起絵巻」、写本『仙仏奇踪』をもとにして描いた光琳作品】
図 34 光琳筆「白楽天図屛風」
図 35 宗達筆「田家早春図扇面」
《「執金剛神縁起絵巻」から図様を借用した》
《「執金剛神縁起絵巻」から図様を借用した》
図 36 「執金剛神縁起絵巻」上巻
図 38 光琳筆「太公望図屛風」
図 37 「執金剛神縁起絵巻」上巻(良弁の逸話) 東大寺蔵
《「龍譚崇信図」と
「鬼谷子図」の合成 》
図 39
万暦版『仙仏奇踪』
『無生訣』龍譚崇信
図 40 光琳写『長生 』
『仙仏奇踪』鬼谷子
【光琳筆「太公望図屛風」の絵手本は、光琳が宗達本を模写した『長生
「小西家旧蔵尾形光琳関係資料」の中に、紙本墨画『長生
』
『無生訣』】
写本』一冊がある。光琳筆「太公望
図屛風」
( 京都国立博物館蔵)は、万暦版『仙仏奇踪』のうち『無生訣』所載の龍譚崇信をもとに太
公望を描き、背景は『長生
琳は『長生
』所載の鬼谷子の懸崖や水辺の景をもとにして描いた作品である。光
』と『無生訣』の二冊の光琳写本を絵手本として用いたことが知られる。
「長生
」
「無
生訣」は、万暦版『仙仏奇踪』の封面にある名であるが、この外題は特異で、角倉素庵が「六原の
絵かき」
( 宗達)に貸し与えた唐本二冊の外題にのみに認められる(「宗舟・平次宛 素庵書状」個
人蔵)。
I-8
【尾形光琳の名前】
万治元年(1658)京都の呉服商尾形宗謙(そうけん)の次男として生まれる。
〔長男は藤三郎、三男は権
平のち深省(乾山〈けんざん〉は鳴滝窯の名前)である〕。名は惟富(これとみ)、通称(小字)は市之丞で
あったが、惟亮(これすけ)ついで方祝(まさとき)と改名した。三十代半ばから用い始めた光琳(こうり
ん)の他に、澗声(かんせい)、道崇(どうすう)、寂明(じゃくみょう)、青々(せいせい)を号した。
【光琳意匠「桜狩」
「住之江」硯箱における和歌のデザイン】
光琳意匠「桜狩蒔絵螺鈿金貝硯箱」
(図 14)
光琳意匠「住之江蒔絵金貝硯箱」
(図 16)
(蓋表)復やみむかたのゝみのゝ〔桜狩〕
〈図で表す〉
(蓋裏)花の雪散(る) (見込み)はるのあけほの
(蓋表)すみの江の〔岸〕
〈図で表す〉に
寄(る)
〔浪〕
〈図で表す〉よるさへや
(蓋裏)ゆめの通路人め (見込み)よく覧
〔典拠〕
『新古今和歌集』巻第二、
春歌下、皇太后宮大夫(藤原)俊成
〔典拠〕
『古今和歌集』巻第十二、
恋歌二、藤原敏行朝臣
またや見ん交 野のみ野の桜がり
住の江の岸による浪よるさへや
花の雪ちる春のあけぼの
夢の通ひぢ人目( め )よく覧( らん )
(『新日本文学大系』岩波書店)
(『新日本文学大系』岩波書店)
【補遺】
﹁舟橋蒔絵金貝硯箱﹂和歌の語法の特徴
東路のさのゝ︹舟橋︺かけてのみ
和歌集﹄巻第十恋二 源等
思︵ひ︶わたる知︵る︶人ぞなき
﹃後
︹ 舟 橋 ︺の 言 葉 は 鉛 の 金 貝 の 舟 橋 に よ っ て 省 略 す
る。﹁思ひ﹂﹁知る﹂では動詞の漢字のなかに送り仮
名﹁ ひ ﹂﹁ る ﹂を 含 め る 。こ の よ う な 語 法 は 、角 倉 素
庵 の 和 歌 色 紙 、和 歌 巻 に よ く 見 ら れ る 。光 琳 意 匠
﹁ 住 乃 江 蒔 絵 硯 箱 ﹂の﹁ 寄 る ﹂、光 琳 意 匠﹁ 桜 狩 蒔 絵
I-12
硯 箱 ﹂の﹁ 散 る ﹂も 同 様 。﹁ 舟 橋 硯 箱 ﹂は 素 庵 色 紙 に
ヒントを得てデザインしたものか。
図 19 舟橋蒔絵金貝硯箱 〔光琳意匠〕
東京国立博物館蔵
【光琳は、正徳元年(1711)、新町通り二条下ル町に、絵所のある光琳屋敷を新築する】
〔北〕
〔西〕 〔北〕 〔東〕 図 48 「光琳屋敷間取り絵図」 〔西〕 図 49 地図・左の縦筋は新町通り、上の横筋は二条通り
図 50 新町通りと二条通りの 交差点
図 51 北から「新町二条下ル東入ル」を見る
《 駐車場隣りのマンション辺りが光琳屋敷址 》
《 新町二条下ル 南から北を見る》
図 52 復元「光琳屋敷」MOA 美術館
〔東〕 図 53 絵所への階段
図 54 二階の絵所(画室)
《 光琳屋敷は新町通りに面して東側に二つの門がある(間取り絵図)
。
図 53 の写真、右奥に茶室、左に光琳の居間の一部、中央やや左に二階の絵所へ上がる急な梯子階段が見える》
江戸から京に戻った光琳は、中町薮内町(現在、烏丸通り西入ル、中町通り南)の屋敷(本邸)
に住んでいたようである(この屋敷は光琳最期まで所有し、妻多代に遺産として与えた)。別に新町
通り二条下ル東入ルに新たに光琳自ら設計した本格的な「絵所」
( 十六畳の画室)を設けた屋敷を建
てた。その目的は、六原の俵屋・野野村家に伝存した宗達画、宗達使用絵手本、宗達意匠の雲母
刷料紙、素庵作品などを借用し、透き写し、精密模写し、宗達作品にヒントを得て、絵画制作や
蒔絵意匠を行うためであったと考えられる。近年、MOA 美術館の敷地に、光琳の図面をもとにし
て光琳屋敷が復元された。
I-10
【尾形光琳年譜】
西暦
和暦
1602
慶長 7
年齢
尾形光琳事項
関連事項
※光琳の生家、呉服商・雁金屋『御染地之帳』
〔光琳の家系〕緒方伊春ー道柏ー宗柏ー宗謙ー光琳
1630
寛永 7
宗達「西行物語絵巻模本」
「楊梅図屛風」
1631
寛永 8
1632
寛永 9
角倉素庵没(62)
1633
寛永 10
宗達「伊勢物語図色紙」
「風神雷神図屛風」
1637
寛永 14
本阿弥光悦没(80)
1642
寛永 19
1657
明暦 3
1
光琳、宗謙の次男として生まれる。名市之丞。
1660
万治 3
3
※宗謙、宗甫没後、雁金屋を継ぐ。
1663
寛文 3
6
※光琳の弟、権平のち深省(乾山)生まれる。
1678
延宝 6
21
東福門院没(72)
1685
貞享 2
28
俵屋・野野村氏女国春、扇面を描く。
1687
貞享 4
30
※光琳の父、宗謙没する(67)。
1692
元禄 5
35
二条綱平邸へ伺候する。この頃光琳の名を用いる。
1694
元禄 7
37
光琳、
「光悦作鹿硯箱」を質入れして金子を借りる。
1695
元禄 8
38
※二条綱平、光琳の絵扇五本を女院に献上する。
1699
元禄 12
42
※乾山、京都の西北、鳴滝和泉谷に窯を開く。
1700
元禄 13
43
光琳と「さん」との間に辰次郎(寿市郎)生まれる。
1701
元禄 14
44
光琳、法橋に叙せられる。以降、落款に「法橋」。
※光琳の祖父、宗柏没する。嫡子宗甫、家督を継ぐ。
宗達「源氏物語関屋・澪標図屛風」
宗達の娘婿・俵屋宗雪、法橋位にある。
光琳、
「宗達勝手屛風(二曲屛風)」を売却する。
1702
元禄 15
45
光琳、
「澗声」印の使用を始める。
1703
元禄 16
46
光琳、中町薮内町の屋敷の売却、成立せず、維持。
1704
宝永 1
47
光琳、
「中村内蔵助像」
(中根元圭賛)を描く。
中村内蔵助、銀座年寄になる。
光琳、
「道崇」印の使用を始める。初めて江戸に下向。
1705
宝永 2
48
光琳、江戸にて「四季草花図巻」を描く。一時帰京。
1707
宝永 4
50
光琳、江戸で酒井忠挙から十人扶持を受ける。
住吉具慶没(75)。
1708
宝永 5
51
光琳、息子辰次郎を銀座の小西彦九郎へ養子にやる。
1709
宝永 6
52
光琳、妻多代を伴って京に帰る。中町薮内の家に住む。
1710
宝永 7
53
光琳、辰次郎の母さんを松田秋波へ嫁がす。
光琳絵・乾山作「松に鶴図六角皿」
(銘)
1711
正徳 1
54
光琳、新町通り二条下ルに屋敷を新築し始める。
光琳・乾山合作「銹絵硯蓋」
「銹絵蓋物」ほか
1712
正徳 2
55
光琳、二条綱平邸にて絵を描く。妾あや、勝之丞を生む。
乾山、鳴滝窯を廃窯し、二条丁子屋町に移る。
1712
正徳 3
56
光琳、寿市郎(辰次郎)と妻多代に遺言状を書く。
光琳の妾あや、才次郎を生む。
1714
正徳 4
57
光琳、
「夢想大黒図」を描く。二条綱平邸に伺候する。
1715
正徳 5
58
光琳、二条綱平邸に 23 回、伺候する。
1716
享保 1
59
光琳、二条綱平邸に伺候する。六月二日に没する。
銀座年寄中村内蔵助、闕所のうえ追放される。
光琳、妙顕寺興善院に葬られる。
1717
享保 2
尚貞(多代)、相続した中町薮内町の光琳屋敷を処分。
1730
享保 15
中村内蔵助没(62)。 口の善導寺に葬る。
1735
享保 20
野々村忠兵衛刊『光琳道知辺』
I-11
【尾形光琳の名前】
万治元年(1658)京都の呉服商尾形宗謙(そうけん)の次男として生まれる。
〔長男は藤三郎、三男は権
平のち深省(乾山〈けんざん〉は鳴滝窯の名前)である〕。名は惟富(これとみ)、通称(小字)は市之丞で
あったが、惟亮(これすけ)ついで方祝(まさとき)と改名した。三十代半ばから用い始めた光琳(こうり
ん)の他に、澗声(かんせい)、道崇(どうすう)、寂明(じゃくみょう)、青々(せいせい)を号した。
【光琳意匠「桜狩」
「住之江」硯箱における和歌のデザイン】
光琳意匠「桜狩蒔絵螺鈿金貝硯箱」
(図 14)
光琳意匠「住之江蒔絵金貝硯箱」
(図 16)
(蓋表)復やみむかたのゝみのゝ〔桜狩〕
〈図で表す〉
(蓋裏)花の雪散(る) (見込み)はるのあけほの
(蓋表)すみの江の〔岸〕
〈図で表す〉に
寄(る)
〔浪〕
〈図で表す〉よるさへや
(蓋裏)ゆめの通路人め (見込み)よく覧
〔典拠〕
『新古今和歌集』巻第二、
春歌下、皇太后宮大夫(藤原)俊成
〔典拠〕
『古今和歌集』巻第十二、
恋歌二、藤原敏行朝臣
またや見ん交 野のみ野の桜がり
住の江の岸による浪よるさへや
花の雪ちる春のあけぼの
夢の通ひぢ人目( め )よく覧( らん )
(『新日本文学大系』岩波書店)
(『新日本文学大系』岩波書店)
【補遺】
﹁舟橋蒔絵金貝硯箱﹂和歌の語法の特徴
東路のさのゝ︹舟橋︺かけてのみ
和歌集﹄巻第十恋二 源等
思︵ひ︶わたる知︵る︶人ぞなき
﹃後
︹ 舟 橋 ︺の 言 葉 は 鉛 の 金 貝 の 舟 橋 に よ っ て 省 略 す
る。﹁思ひ﹂﹁知る﹂では動詞の漢字のなかに送り仮
名﹁ ひ ﹂﹁ る ﹂を 含 め る 。こ の よ う な 語 法 は 、角 倉 素
庵 の 和 歌 色 紙 、和 歌 巻 に よ く 見 ら れ る 。光 琳 意 匠
﹁ 住 乃 江 蒔 絵 硯 箱 ﹂の﹁ 寄 る ﹂、光 琳 意 匠﹁ 桜 狩 蒔 絵
I-12
硯 箱 ﹂の﹁ 散 る ﹂も 同 様 。﹁ 舟 橋 硯 箱 ﹂は 素 庵 色 紙 に
ヒントを得てデザインしたものか。
図 19 舟橋蒔絵金貝硯箱 〔光琳意匠〕
東京国立博物館蔵
講座時に使 用したパワーポイントのサムネイル画像です。参 考までにご覧ください。
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