考古学ジャーナル 2011年8月号 (立ち読み) - Book Stack

特集 後期前方後円墳の埴輪体系
大王の荘厳なる埴輪宇宙
The solemn haniwa space of great king
Profile
1974年龍谷大学文学部卒業
1975年高槻市教育委員会
2011年から現職
もりた
かつゆき
森田
克行(高槻市立今城塚古代歴史館長)
Katsuyuki Morita ● Director of the Takatsuki city
Imashirozuka Museum
を上回ることとなった。ただ,なかには個別・単体と
はじめに して認識できても,
復元不能や種別不明のものもあり,
今城塚古墳は淀川北岸地域に展開する三島古墳群
これまでに189体分が特定できた。
のなかで随一の前方後円墳であり,早くから真実の
埴輪祭祀場での埴輪配列の枠組みは,南北方向に
継体陵とみる論議がある。平成9年から10年間にわ
平行に設置した直線的な5つの塀(前稿では柵とし
たる調査では,古墳築造にかかる墳丘内石積み,石
たものを変更した。
)によって,4つの方形区を画定さ
室基盤工,護岸列石などの特段の遺構を検出すると
せていた。このような王権の表徴ともいえる方格原
ともに,古墳の規模や仕様についても多くの貴重な
理にもとづく形象埴輪群の配列は,全国でも唯一無
データが得られた。一方,文禄五(1596)年の伏見
二である。東から順に1・2・3・4区とし,塀も東側
地震によって墳丘損壊の事実が判明し,古墳の履歴
から塀1・2・3・4・5と付番した。塀3・4のほぼ中
を知るうえでも大きな成果があがっている。いま,
心,ないし塀2の中心からやや北側に偏った位置に,
これらの調査成果は別稿 に譲り,ここでは今城塚
山形突起を周縁にめぐらした天板と円柱,地覆板を
古墳で検出した形象埴輪群について紹介する。
組み合わせた出入口を設けていた。各区の東西の長
1)
さはおよそ1区が10.5m,2区が7.5m,3区が10.6m
で,4区についてはあらたに確認した塀5の推定位
1.埴輪祭祀場の枠組
置から約23.5mと算定された。各区画の南辺と北辺
今城塚古墳は水を湛えた内濠と浅く設え空濠とし
た外濠との,二重の濠に囲繞され,濠を隔てる内堤
は塀を設けず,埴輪群像は古墳の北側から外濠越し
に直接見通せたと思われる。
は内辺と外辺に円筒埴輪を隙間なく配列していた。
今回紹介する形象埴輪群は,墳丘の構築,濠の掘削,
円筒埴輪列の設置など,埋葬施設としての古墳を一
旦完成させたあと,内堤北側に付設した張出に配列
2.柵形埴輪と囲い形埴輪の整理と
塀形埴輪の提唱
していた。換言すれば,外濠が空濠であったからこ
筆者はかつて地名表を付して,柵形埴輪を楕円形,
そ,容易くなしえた仕掛けであった。張出は内堤に
円形,長方形の3類型として分類 3)した。その際,
沿って長さ約65m,幅約10mを測る約650m2の長方
長方形類型については,囲い形埴輪から派生しつつ,
形の埴輪祭祀場を上面で確保し,造成に際しては外
柵形埴輪の変遷のなかに位置づけたが,大和・秋津
濠底から順次,精良な真砂土類を内堤斜面に擦りつ
遺跡の方形区画施設の発見と今城塚古墳の埴輪祭祀
けるように積み上げていた。内堤本体が下半部を地
場の検討結果を踏まえ,自身の柵形埴輪の分類と系
山の削り出し,上半部を礫土等の盛土でしっかりと
統の在り方を見直した 4)。すなわち,櫛山例を嚆矢
した構造体として造成している状況と比べると,明
として派生・展開する「まばらに単立させる楕円筒
らかに仕様が異なっている。
形ないし円筒形の柵形埴輪」の位置づけはそのまま
さて張出の形象埴輪群については,以前の予察 以
に,従来の囲い形埴輪は,単に囲うという機能を曖
後に進捗した整理・復元作業の結果,個体数は200体
昧に示したにすぎないことから,造形を直接表示で
2)
22
考古学ジャーナル 617, 2011
大王の荘厳なる埴輪宇宙
□□□□□□□□ ● □□ □□
森田 克行
塀形埴輪
柵形埴輪
近 畿
Ⅰa
Ⅰa
Ⅱa
Ⅰb
宝塚1号
4 世紀
後半
櫛山
佐紀石塚山
Ⅱb
巣山・築山
東日本
行者塚
Ⅱb
Ⅱa
Ⅱb
狼塚
5 世紀
宝塚1号
野毛大塚
6世紀
西日本
Ⅱb
今城塚
Ⅱa
Ⅰa
Ⅲ Ⅱa
百足塚 百足塚
出入口
楕円筒類
円筒類
仙道 仙道
図1 塀形埴輪と柵形埴輪の分別と展開
森田2004で指摘した従前の柵形埴輪の系譜を見直し,あらたに設定した
塀形埴輪の展開を明確に位置づけた。図中の古墳名は代表的なもの。
きる塀形埴輪の名称を提示した。同様に,前稿で長
えで,それぞれの変遷観をあらためて示したもので,
方形の柵形埴輪を連接させて方形に組み上げた狼塚
表には,塀形埴輪が出土している代表的な古墳を掲
古墳や同じく直線状に繋げた今城塚古墳の事例も,
げた。実際の塀を映した好例として,一定の間隔で
また塀と呼ぶのが相応しいと判断した。
ヘラ描きされた縦板を表現した車駕之古址古墳の塀
そこで宝塚1号墳などにみられる一体成形された
形Ⅰ類がある。また前・後面のみに上下の横桟を貼
「囲い形埴輪」を塀形埴輪Ⅰ類,組み合わせて使う
付した塀形Ⅱ類は,連接してはじめて出入口を有す
「長方形の柵形埴輪」を塀形埴輪Ⅱ類とし,ともに出
る塀として機能するように,それぞれがパーツとし
入口を設けることを要件とした。なおⅠ類の出入口
て造形されており,組み合わせ式埴輪の側面もあわ
には平入りのⅠa類と鉤の手になったⅠb類がある。
せもつ。
さらにⅠb類は,鉤の手がむかって右隅にあるもの
と左隅にあるものに細分できる。百舌鳥御廟山古墳
表 堀形埴輪の形式別一覧
の塀形Ⅰb類には,出入口に開閉可能な内開きの扉を
取り付けていた。希有な事例ではあるが,じつは今
形式
おもな古墳等遺跡名
城塚古墳の埴輪祭祀場の塀4(Ⅱ類)の出入口(門)
Ⅰa
行者塚1 (播磨),宝塚1号1 (伊勢)
にも扉の軸受けの窪みが確認されていることから,
赤堀茶臼山(上野),経ケ峰1号 (三河)
塀形埴輪のあり方から再現される本来の塀は,一定
巣山・赤土山 (大和),心合寺山 (河内)
Ⅰb
空間を遮蔽する機能をより高めるために,出入口に
宝塚1号2(伊勢),車駕之古址 (紀伊)
ときとして扉を設置していたことがうかがえる。な
おⅡ類はⅠ類の平面形状を踏襲し,方形に組み合わ
Ⅱa
せたⅡa類(狼塚など)と直列で用いるⅡb類(今城
Ⅱb
塚)がある。
御廟山 (和泉),行者塚2 (播磨),
狼塚・鞍塚・長屋1・2号
・土師里埴輪窯 (いずれも河内)
今城塚(摂津)
図1は,塀形埴輪と柵形埴輪を明確に分別したう
考古学ジャーナル 617, 2011
23
特集 後期前方後円墳の埴輪体系
3.埴輪祭祀場の読み解き
配さないのは喪屋でのこもりを象徴し,蓋列は奥つ
大形の前方後円墳において,明確なかたちで埴輪
城の威儀を高めている。
祭祀場が後付けされた事例はほかに知らない。この
大刀列に示される一体感の強い2・3区はあわせ
事実をひとつの根拠に,多様な埴輪の出土状況,匍
て評価する。2区には入母屋造りで吹き抜けの大形
匐儀礼の所作をあらわす「獣脚」埴輪の在り方など
の家や寄棟造りなどの6∼7棟の家に,2体の甲冑,
から,すでに殯宮儀礼を映したとの結論 を導いて
単体の鶏と3体の「巫女」,そして南側に木製柄頭タ
いる。図2は配置された埴輪群の大要を示したもの
イプの大刀を北(もしくは中央通路)に向けて並べ
で,これまでに公表してきた内容に,新知見を加味
ている。3区との境にある塀3の中心には扉戸をは
した改訂版である。
めない出入口が設えてある。
5)
3区では数棟の入母屋造りで吹き抜けの大形の家
(1)祭祀場各区の同時性
祭祀場の埴輪群を殯宮の表現とみる前提として,
と数多くの切妻造りなどの家,2体ずつの蓋・盾・
1区から4区にいたる全体が同時性のある一場面で
靫,13体の「巫女」形,「二山冠」の冠帽男子と盛装
あり,けっして各区が時系列に基づく諸段階,ある
男子,5体の楽人とみられる座位男子,8脚2体分の
いは区ごとに異次元のテーマを掲げたものでないこ
特異な[獣脚],鶏などが出土している。南側には2
とを示しておく。まずは4つの区画を規定する5つ
区から続く鹿角製柄頭タイプの大刀が配列されてい
の塀の状況である。外郭を規定する塀1と5には出
る。2・3区を貫通させてほぼ等間隔に並ぶ一連の
入口がなく,逆に内側を仕切る各塀は以前から判明
大刀列でありながら,2区に格式の高い木製,3区
している塀3・4に,あらたに塀2にも出入口が復
に鹿角製を限定配置しているのは,二つの区の格差
元されたことから,1∼4区はまさに出入口を通じ
や役割の違いを示す。さらに3区のもっとも南側に
て一体性と同時性が確認された。すなわち塀によっ
は雁鴨類の水鳥列がある。西側の4区との間にある
て区分された各区が機能を分担するうえでの充分な
塀4の中央部には,内開きとの見通しをもつ扉をは
仕様になっていて,かつ全体を一つの場面として構
めた宮門が設けられている。東北部の家は全高
成していたことが証されたのである。さらには南側
170cmと列島最大で,屋根の両端には破風板を交差
にある一連の大刀形列が塀3を貫き,2・3区にわた
させて成形した千木を表現,身舎は吹き抜け様の壁
って等間隔で配列されて二つの区画の威儀を正して
立ち,基台部は円柱の総柱である。「獣脚」埴輪は,
いることも,両区のより強い繋がりを示し,あわせ
各脚に五指を表現した人の手を貼りつけたもので,
て同時性も補強する。
親指と人差し指の間隔をひろくとり,小指を小さく
つくっていた。
(2)殯宮を再現した埴輪配列
1区では入母屋造りで円柱の側柱からなる吹き抜
けの大形家のほか,片流れ造りや寄棟造りの小形家
が数棟配置されている。大形の家には1羽の鶏が寄
2・3区では,もっとも多様な埴輪が展開し,複数
の巫女や楽人は,酒食の奉仕や歌舞の群像と解せる。
3区の「獣脚」から復元される匍匐礼の具体像は,
り添い,片流れ造りの家の北側には器台が並ぶ。ま
『万葉集』の柿本人麿作歌にある高市皇子の挽歌の
た南辺には複数の蓋が配列されている。1区の西を
なかの「鹿じもの い匍ひ伏しつつ」という表現が
限る塀2には,塀の中心よりやや北寄りに偏して出
それにあたる。具体的には臣下の者が主人に絶対の
入口を設けている。ただし扉戸の存否はわからない。
奉仕を表明するのに,鹿のように這い回る,あるい
1区は祭祀場の最奥部にあたり,喪屋を配置した
はその所作をまねるものである。こうした匍匐儀礼
私的儀礼空間と見定めた。喪屋では遺骸につきそう
は,現代人には馴染みのない挨拶だが,古代では王
肉親がこもり,嘆き,哭泣する招魂儀礼が行われ,
権の周辺で少なからず行われていた。例えば唐の恵
ははきもち
わたつくり
傍らには持箒者[喪屋の掃除],造綿者 [遺体を洗う]
陵からは優れた造形の匍匐俑が出土しているし,列
などの奉仕者が侍る。こうした喪屋は吹き抜けの大
島においても今城塚のほかに,近年では千葉の江川
形家ではなく,一隅に入口をもうけ,小さな窓しか
古墳,殿塚古墳で6世紀後半代の匍匐する人物埴輪
もたない片流れ造りの家が相応しい。1区に人物を
を確認している。匍匐儀礼をあらわす資料は今後も
24
考古学ジャーナル 617, 2011
特集 後期前方後円墳の埴輪体系
豊穣なる南九州の埴輪造形 ∼宮崎県 百足塚古墳∼
Luxuriant cry figure in MinamiKyusyu
Profile
1994年 宮崎大学教育学部人文社会過程卒
1995年 新富町教育委員会社会教育課勤務∼現職
ありま
よしと
有馬
義人 (新富町教育委員会)
Yoshito Arima ● Shintomi City Board of Education
一帯は,県内の古墳総数の約6割が集中する古墳密
はじめに 集域といえる1)。
(図1)
南九州には墳丘を有する高塚墳が約1000基以上認
これら古墳の多くは,一ツ瀬川の本流と支流域の
められる。その数は九州の他地域に比べ多いとはい
周囲に広がる標高60∼130mの洪積台地端部に立地
えないが,地下に埋葬空間を穿ち,列島でこの地域
し,前方後円墳を中心とした首長墓と中小円墳群が
に偏在的な分布をしめす地下式横穴や,横穴墓を加
混在した群集墳の体裁をなすことが一般的である。
えると古墳時代の埋葬施設の数は飛躍的に増えると
特に大きな群集をしめすのが西都原古墳群(現存
予想できる。
数311基)と,新田原古墳群(現存数207基)であり,
なかでも高塚墳だけに限れば,宮崎県の中央部を
九州山地から太平洋に向けて流れる一ツ瀬川の流域
両古墳群で実に500基を超える古墳が存在する。
本稿で紹介する百足塚古墳は,国指定史跡新田原
古墳群の中にある。
同古墳群は一ツ瀬川流域の左岸台地上に分布し,
その範囲は東西4.5km,南北4.5kmの広域に及ぶが,
その分布の集中が4つに大別できるため,それぞれ
塚原古墳群,石船古墳群,山之坊古墳群,祇園原古
墳群と呼んでいる。
1.祇園原古墳群とその調査経緯
祇園原古墳群は総数154基の古墳が現存しこれま
での調査で48基の消滅墳の周溝が確認できるため,
今のところ202基の古墳があったことが判明してい
る2)。また同古墳群はその分布から4つのグループ
に大別でき,このうち百足塚古墳があるのは,前方
後円墳が集中するA群である。
A群は標高90mから70mにいたる緩やかな傾斜地
に分布し,その傾斜地に直交して南北にわたり中小
規模の前方後円墳が造られている。
これら前方後円墳築造の始まりは台地北西端部に
位置する2基(187墳・195号墳)で,いずれも前方
部が低平で狭長な形態の小規模墳である。墳丘の形
態から古墳時代前期の築造と予想される。
図1 一ツ瀬川流域一帯の古墳密集域
中期にはその西側に墳長85mの大久保塚古墳が築
考古学ジャーナル 617, 2011
27
特集 後期前方後円墳の埴輪体系
造されるが,中期後半から後期初頭の状
況は判然としない。
本格的に前方後円墳が築造されるのは
古墳時代後期になってからで,7基の前
方後円墳が認められる。墳丘形態や表採
できる埴輪などから,これら後期の前方
後円墳群は,墳長50m以下の小規模墳と,
60m∼100m以下の中規模墳が同時期に
継続して築造された可能性が高く群内に
所在する中小の円墳を含めた階層構成型
の群構造を呈している。
前者は水神塚→機織塚→52号墳と継続
し,後者は百足塚→59号墳→68号墳→弥
吾郎塚と継続して築造され,古墳時代終
末期にいたる宮崎県域最大の首長墓系譜
であったと考えられる。
A群やC∼D群に存在する小円墳は,
これまでの周溝確認調査で6世紀前半に
築造を開始し,7世紀にいたる群集墳で
ある。祇園原古墳群はこれら群集墳と前
述した首長墓群が混在して大古墳群を形
成したといえる3)。(図2)
図2 祇園原古墳群全体図
ところで宮崎県の古墳群の多くは戦前
に国・県の指定措置を受けた例が多く,祇園原古墳
の形状は判然としない。史跡整備ではこれらを修復
群を含む新田原古墳群も例外ではなかった。昭和19
し,古墳築造当時の状況を復元する。そのため必要
年に国指定史跡となった同古墳群は長く保護の対象
に応じて発掘調査による古墳の形状確認を行うこと
になり,その結果現在まで良好に保存されてきたが,
になり,その端緒として百足塚古墳の調査を行った
一方で調査されることがなく研究の俎上にもあがる
のである。
ことが少なかった。
とはいえ,古墳周辺の環境は畑地のほ場整備など
大規模な開発行為によって大きく変化してきた。
2.百足塚古墳の調査
開発行為に伴う調査によって,先に述べた消滅墳
調査対象は百足塚古墳と同墳の北西部に近接する
の周溝や,墳丘外埋葬,殉葬と考えられる馬の埋葬
62号墳,63号墳の両円墳である。平成9年度から開
土坑など多くの遺構が発見されている5)。
始した調査は平成16年度までの8年間に渡り,よう
新富町はこのような多くの調査成果を受けて国指
やく古墳の全形を知ることができた。
(図3)
定史跡新田原古墳群の史跡整備計画を進行中であ
百足塚古墳は,いずれも現状で,墳長約77m,後円
る。長期的には新田原古墳群全域にわたって,古墳
径約33m,同高さ8.8m,前方部幅44m,同高8.4m,
とその周辺景観を良好な状態で保護することを目標
クビレ幅38m,後前高差マイナス0.4mを測る前方後
としているが,短期的には公有化が進み前方後円墳
円墳である。
が集中する祇園原古墳群のA群を整備する 。
6)
古墳の多くは早くに指定措置を受けたとはいえ,
墳端に及ぶ掘削や墳丘に及ぶ攪乱痕等によって,そ
28
東西方向の緩やかな傾斜地に対して南北方向に主
軸を設定しており,
それぞれ基底から西側で約0.8m,
東側で約1.5mの高さに旧地表面が確認できた。こ
考古学ジャーナル 617, 2011