「越郡王墓誌銘」に関する一考察

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「越郡王墓誌銘」に関する一考察
本
藤
匡
はじめに
十一世紀前半、現在の中国甘踊省蘭州市から青海省西寧市にわたる地域には、チベット系の
部族が多数散在しており、宋はこれをー指して吐蕃と呼んでいた。中でも青唐(現青梅省西寧
) の政権(通称背唐吐蕃)は西夏により東西突通を妨げら
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0
1
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9
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市)を中心とした哨蹄曝 (
れていた宋にとっては交通路の面、或いは対西夏牽制勢力の面においても非常に重要な意味を
織と略
続 資 治 艦 長 編J (以下 r
持ってい足糊曜とその一族の事跡は『宋錦繍』・ r
記}をはじめとする各種文献に散見されるが、その中に『方舟集』と呼ばれる史料が存在する。
@
『直斎書録解題』巻十八・別集類・下によると南宋時代の資州(現四川省資中県)の人、李石
ト
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1
1
(
d)の作であると記載されており、この
方舟集』の巻十六に表題に掲げた「越郡
r
@
王墓誌銘 J (以下「墓誌銘」と略記)が所収されている。越郡王とは日角蹴曜の一族であったとさ
れる尼局丹忽がかつて“臨右郡王"の王号と“趨懐恩"の姓名を賜ったことに由来している。
附厩曝の一族に関する事柄が史料中に見られるのは北宋末までが大半である点を踏まえて考え
ると、この墓誌銘の貴重性をうかがい知る事が出来るのだが、これを取り扱ったものとしては
】しかなく、又、共に簡潔に紹介されているにすぎない。
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) と【祝 1
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唐 1
[
きて、この「墓誌銘」には北宋末から南宋初にかけての尼馬丹忽自身の事跡もさることなが
ら、従来の史料中に見られる哨麟曝一族の淵源とは異なる事柄が記載されている。本稿は「墓
誌銘J の前半部分にあたる日角厩曜一族の記録を説み解き、若干の考察を加えたものである。
. r墓誌銘」の作成経緯と時期について
1
「墓誌銘 J の作者である李石はその制作の経緯を以下のように述べている。
「越郡王墓誌銘」に関する一考察
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一目、君之子威州兵馬監押越某以状来告白「吾父死、朝廷遣中使宣諭、給銭百万以葬。
父子兄弟世蒙国恩、外国可略、而内不可無書。 J
r
方舟集』巻十六・「趨郡王墓誌銘 J
これによると尼馬丹忽の息子である戚州兵馬監押越某が李石に依頼し作成させたとわかる。
「墓誌銘」の後半部には尼馬丹忽の子孫に関する記述がある。
三子、長子日某、乗義郎・叙州兵馬監押。次安園、成忠郎、皆先卒。次寧園、敦武郎・威
州兵馬監押。二女、長適忠湖郎賞師問、次適忠湖郎王褒。孫九人、康朝、忠朝郎。慶朝・
昌朝・顕朝、皆成忠郎。挟朝・光朝・瑚朝、皆該奏未出官。世朝・照朝、早卒。孫女、長
適成忠郎王延章、早卒、次適王話、二人在室。
『方舟集』巻十六・「越郡王墓誌銘」
長男・次男が尼烏丹芯より先に亡くなった点、依頼者の官職名が一致する点から、依頼者は三
男であった越寧国であったことが判明する。
さて、次にこの r
墓誌銘」の作成時期を検討してみたい。通常、墓誌銘は故人が亡くなった
直後に作成されるので、「墓誌銘 J での尼馬丹窓の卒年日の記載箇所を見たいが、
卒以某年某月、葬以某年某月、年若干。
r
方舟集』巻十六.r
越郡王墓誌銘」
としか記述しておらず、具体的な年月が不明である。しかしながら r
宋会要輯稿』の
(乾道六年間五月)二十三日、詔故陶右郡王越懐思車思、許回授懐恩。申請稽期於東部法有
@
幌、男寧国自陳帰明、特有是命。二十四日、詔故鵬布郡王越懐恩家於成者I
S
府、安撫司擁賜
二千買、以懐品自陳家賃、夫未葬也。
『宋会要輯稿』兵一七之二九・三O
との記事から尼馬丹忽(=越懐恩)が乾道六年 (
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0
) 閏五月の二十三日直前に亡くなってい
ることがうかがえる事からも、「墓誌銘」がこの時期に作成されたと考えるのが妥当と思われ
る
。
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墓誌銘 J にある哨蹴曝の直系子孫の系譜について
.r
2
前述したように「墓誌銘」の前半部分には晩蹄曝一族の系識が記述されている。以下、まず
当該箇所の要点をまとめ、検討に移りたい。
①君之世在本朝者為温希結、生二子、日温希錫勤、君曽祖。②日宜勃斯費、祥符間求内属、
為非泌首領、授寧遠大将軍、以敗元長功、加河西節度使。③生三子、蓋験検枝工部尚書。
轄哉、英宗時襲爵葬託、公、賜推誠順化功臣、元豊中封威武郡玉、夏人許制地以昇且閲之、
不従。神宗朝献図夏人之策、詔褒其忠。④菓子黙正、献挑・河二州地、賜姓名越思忠是也、
贈挑眠寧節度留後。其子懐義、元豊八年、以蘭州進討功加左蔵庫副使。⑤祖日温錫泌、元
豊中、以図果荘功遷瓜州回線使。⑥考日錫己表、元祐六年、亦以果荘功為勝州刺史、賜姓
名法温封西平玉。以子思屡封安康王。
方舟集』巻十六・「越郡王墓誌銘」
r
要約すると以下のようになろう。なお当該史料の内容を理解しやすくする為に 6つに分割した。
@
①温希結という人物には温希錫勤と宜勅斯賓の二人の息子がいた。
② 宜鞠斯饗は北宋の祥符年間に内属を求め、葬め首領・寧遠大将軍を授けられ、更に李元美
を磁った功績により、河西節度使も加えられた。
③宜勅臓には三人の息子がおり、試は検紅部尚書であった。.~,;t~英宗の時代、葬
泌公・推誠順化功臣とされ、元豊年間には成武郡王に封じられた。西夏は土地の議漉を条
件に味方にしようとしたが、従わなかった。神宗の時代、西夏が北宋に対して策を図って
いる事を報告し、詔で忠義を褒賞された。
@.
④轄哉の子の黙正は北宋に支配下の挑州・河州を献上し、“趨思忠"の姓名を賜い、挑曝軍
節度留後の位を与えられた。その子越懐義は元建八年に蘭州の戦の功績によって左蔵庫副
使の位を加えられた。
⑤祖父は温蜘と言い、元豊年間に果義を図った功績により 酬回線使となった。
⑥父は錫巴衰と言い、元祐六年に又、呆荘の功績によって勝州刺史となり、姓名法温を賜り、
西平王に封ぜられ、子息はしばしば安康王に封ぜられた。
①から④までは日角蹄曜の車系子孫の記述であり、続いて⑤と⑥が尼璃丹忽家についての記述で
r
越郡王墓誌銘」に関する一考察
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ある。「墓誌銘」
を参考にした家系図は以下のようになろう。
図1
r温希錫勅ー温錫j
.
t
.
錫巴衰ー尼馬丹忽
温希結-l
」宜勅斯費一「轄哉ー黙正一越懐義
」輩哉
それでは①から④までの哨廊曜直系子孫の記述についての検討を行う。
まず①の部分にある日角蹄曜の兄弟に関する記述部分であるが、まず初めに哨蹄曝の来歴につ
いて簡擦に述べておきたい。 r
長編』では附蹄曜について以下のように伝えてい
g
。
(宋大中祥符七年五月己酉)…附蹴曜者、緒出吐蕃賛普、本名欺商陵温鎮遁。鏡漣猶賛普也、
発語説為鎮遁。生高畠磨撤回、既十二蔵、河州発何郎業賢客高昌、見蹴曝貌奇偉、寧以帰、
置略心城。
『長編』巻八十二・真宗・宋大中祥符七年・五月己酉粂
ここでは哨蹴蝶はツェンポ(賛普)の子孫であり、高昌磨撒国(マルユル。現在の西チベットの
@
ラダク地方)であったとされ、十二歳の時に j可~'I'I (現甘粛省臨夏市)の何郎業賢によって青唐付
近に連れて来られたとある。青庖・に移った後の鴫蹴蝿の記述は以下のように伝えている。
初哨厩嘱兄札実庸嚇為河南諸部所立、与附厩曜分地而治、不相能也。
『長編』巻五百七・哲宗・元符二年・三月庚午粂
@
ここでは哨蹄曜には礼実庸曜と呼ばれる兄がおり、河南の諸部族によって擁立されていたとし
ている。後述するが「墓誌銘」では河南地方が一つのキーワードとなっており、この礼実庸鳴
が温希錫鞠と同一人物であった可能性は高い。
次に②の部分を検討する。哨蹄曝は祥符年間に北宋に内属を申し出たとあるが、これは太中
祥符八年二月に進貢したことを指すものと考えられる。
6
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(二月甲寅)西蕃首領哨腸曝・立遵・温遁奇・木羅丹井造牙吏貢名局、佑其直約銭七百六
十万、詔賜晩蹴曝等錦袖・金帯・供帳什物・茶薬有差、凡中金七千両、他物称、是。
『長編』巻八十四・真宗・太中祥符八年・二月甲寅粂
また哨瞬曜に授けられた“寧遠大将軍"や“河西節度使"といった官職名は他史料とも一致す
る
。
(八月)辛酉、以逝川大首領哨蹄曝為寧遠大将軍・愛州回線使、亜然家首領温遁奇為帰化
将軍。
『長編』巻百十一・仁宗・明道元年・八月辛酉粂
(正月)己未、西蕃趣川首領・保順節度使晩蹴蝿兼河西節度使。
『長編』巻百三十・仁宗・慶暦元年・正月己未粂
長編』からは哨蹄曜
ただし、“芽泌首領"という称号は他史料には見受けられない。上記の r
は“温川首領"と呼称されていた事はうかがえる。この“越川"とは漣州(現青海省楽都県}
と言う地名であることから“葬泌"も又地名である可能性が高い。③の轄哉の事跡を述べた箇
所にも“葬泌"の語があることから哨厩曝と轄哉の両者に共通する地名を勘案すると先に挙げ
た F長編』巻八十二・真宗・宋大中祥符七年・五月己酉粂と下記の史料が参考となる。
『来米&云閑居在意争峨。
『長編』巻百十九・仁宗・景祐三年・十二月辛未粂・割注部
岩崎力氏はこの恥城と章心械が『読史方輿紀要』に記載されている“講朱義"と比定してい
@
るが、“葬泌"も又、これら一連の地名の同音異字訳であった可能性が指摘出来る。
そして③の部分、則ち哨既存曝の息子逮を紹介しているが、まずここで哨蹄曝とその息子達と
の関係を整理したい。「墓誌銘」では哨蹄曜には三人の息子がいたとされているが、他史料で
もそのように伝えてある。
(十二月辛未}初、駒蹄曝委李立遵女、生二子。日膳鑑、日磨角笹(磨笹角)。又婆喬氏、
生子日董種。{李)立遵死、李氏寵衰、斥為尼、置廓州、銅英二子。勝笹及磨角笹結母党
李巴全窃載其母出奔、膳種拠河州、磨角笹(磨笹角)拠越川城、撫有其衆、哨腸種不能制。
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「越郡王墓誌銘」に関する一考察
r
長編』巻百十九・仁宗・景祐三年・十二月辛未粂
頃年哨腸曝有長男陪謹・第二男磨種角皆叛其父。臨盤在河州、磨包角与母安康郡君李氏在
宗寄耶卑城住坐、分拠土地部族、各立文法。
『楽全集』巻二十二・秦州奏晩厩曜事第二状
この 2つの史料からは瞬時鳴の長男陪笹と次男磨也角は母の李氏が疎んじられた事により父に
叛き、背唐吐蕃が分裂したことがわかる。この後、背唐吐蕃は長男臨笹の勢力閤である何州を
中心とする河南地譲と、日角蹄曜の後を継いだ三男輩租の勢力圏である河北地譲』こ大きく分かれ
る事となる。
きて、 r
墓誌銘 J の当該箇所では葦哉と轄散が登場しているが、哨蹄蝿の後継者である董哉
は検校工部尚書であったとの記載のみである。しかしながら他史料からは董散が検校工部尚書
を授けられた形跡は無い。一方の轄識についての記録では威武郡王に封ぜられ、又、西夏に対
して功績があったとあるが、他史料では如何に伝えられているか。
(元盟五年二月突酉)詔「西蕃趣川首領・酉平軍節度使押蕃落等使蓋笹封武威郡玉、賜金束
ー・銀器二千両・色網紬三千疋、歳増賜大線五百匹・角茶五千庁、阿旦骨為蹴州国練使、
鬼章甘州回線使、心牟欽臨伊州刺史、各賜金帯一・銀器二百両・線網三百、進奉使李叱脱
欽廊州刺史、増歳賜茶線有差。青宜結鬼章止、称鬼章、阿令骨材、阿里骨。 J
r
長編』巻三百二十三・神宗・元豊五年・二月発酉粂
龍以西地、云知帰我、郎官爵恩好一如所欲。査也拒絶之、訓盤
夏人欲与之通好、許制賂高r
兵甲、以侠入討、且遣使来告。
r
宋史』巻四百九十二・吐蕃伝
これを見る限り、「墓誌銘」では董哉の功績が轄哉のものにすり替えられている事が判明する。
最後に④であるが、ここでは③に登場した轄哉の子孫について述べられている。輔哉の長子
黙正については【榎 1
9
4
0】に詳しく述べられているので、ここでは詳述を避けるが、黙正が
北宋に服属し、“超思忠"の姓名を賜ったことは以下に伝えられている。
王髄大破西蕃、木征降。
r
長編』巻二百五十二・神宗・照寧七年・四月甲申粂
6
4
賜木征姓越名思忠、為栄州団練使。…{中略)…長邦砕勿丁正名目懐義、次蓋克名目棄義、
並為右侍禁。
r
長編』巻二百五十四・神宗・照寧七年・六月丁亥粂
又、挑幌寧節度留後の位を与えられたことについては
合州防御使超思忠卒、贈鎮挑軍留後、官給葬事、許以牌印従葬、録其子左侍禁{鍾}懐義
為内殿承制、右侍禁(鍾}乗義為内殿崇斑。
『長編』巻二百八十三・神宗・照寧十年・六月壬辰粂
と伝えられており、官職名について「墓誌銘J と若干の誤差が見受けられる。そして黙正の息
子である越懐義の事も記織されているが、懐義も黙正と同時期に服属している。又、元豊八年
に蘭州戦の功績によって左蔵庫副使の位を加えられたとあるが、これは西夏が北宋の蘭州地域
@
に侵攻してきたことを指し、他史料で伝えるところも「墓誌銘」の内容と一致する。
以上、“哨蹄曝とその子息・孫に関する箇所"を六分割して他史料と比較し、検討を加えた
が、ここで一度考察結果を整理し提示したい。
-萌蹄曜には温希錫勅と呼ばれる兄弟がいたがこれは『長編』にある礼実庸鳴と同一人物であ
る可能性が高いー札実庸唱は河南の諸部族によって擁立されていた。
・哨蹄曜に関する事跡は他史料と比較しでもほぼ一致する。但し“葬泌首領"に関しては記載
が見あたらない。
・“葬泌"とは地名であり、 r
読史方輿紀要』に記載されている“講朱城"の同音異字訳である
可能性がある。この“講朱城"も河南地域にあった。
蓋笹と臨種の記載に関しては不一致な点が多い。特に董種に関する事柄が陪笹に置き換えら
れている。当時臨種の拠点は河南の輩心城(=講朱域)や河州にあった。
可南の河州を中心に活動していた。後に黙正やその子である邦跨勿丁
-膳笹の子、黙正も又、 i
疋は北宋に服属した。
この結果、晩蹴曝の藍系子醸の記述は実際には河南地域を中心に活動した者逮を中心に記録
されていた事が判明する。では何故河南地域の記事が「墓誌銘」では中心に扱われていたのだ
ろうか。次章で尼璃丹:.g家の事跡を検討し、その答えに迫ってみたい。
「超郡王墓誌銘 J に関する一考察
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. r墓誌銘」にある尼馬丹定、家の系譜について
3
⑤では尼璃丹忽の祖父温錫泌について述べられている。“温錫泌"とは“温渓心"を指し、
・│団練使に任命された事も他史料と合致する。
1
・
「墓誌銘」とは若干の年代差はあるが、瓜4
晃心為瓜州団練使、
(八月庚子)西蕃首領・伊州刺史心牟欽種為銀州回線使、礼賓副使温i
各増月給茶総及賜銀・絹有差。以不従鬼章(果荘)犯辺及密報機事故也。
『長編』巻四百四・管宗・元祐二年・八月庚子粂
次に⑥の父である錫巴衰について述べられた箇所を見てみるが、元祐六年に勝州刺史となっ
たとある。これに該当する史料が下のものとなる。
西蕃阿旦骨男都軍主渓邦彪銭為化外庭州団練使、進川首領・瓜州回線使温渓心男巴温為化
外勝州刺史、岡管当逝川部族、月等第支茶繰有差。
長編』巻四百五十五・哲宗・元祐六年・二月丁巳条
r
記載によれば温渓心の息子である巴温が勝州刺史に任命されている。又、『長編』の他箇所
では当時の背唐の国主であった阿皇書が温渓心の親宋的な態度を憎み一時背唐械に勾留した記
@
載があるが、その中で『青唐録』の記事を引用し
青唐録』云「漢使未至青唐、温渓心・渓巴温己為阿里骨勾留。高宵所差入、蓋往越川諭
r
温渓心父子勿往青唐也。
『長編』巻四百七十六・哲宗・元祐七年・八月己卯条
と伝え、温渓心と渓巴温が親子であったとしている。そして r長編』の渓巴温の事跡を記した
箇所には
。
章
漢巴温凡六子、日隆賛、日杓拶、日錫羅薩勤、日昌三、日順律竪哉、日尼嘱丹i
『長編』巻五百七・哲宗・元符二年・三月庚午粂
章、則ち尼局丹・志の父であったと明記されている。以上の史料を鑑み
とあり、漢巴温が尼璃丹i
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6
た家系図が以下のようになろう。
図2
温諜,トー渓巴温-
貸
しかしながら r
長編』の他筒所では
初駒厩曝兄礼実庸鳴為河南諸部所立、与晩廓曝分地而治、不相能也。礼実庸噂死、子必魯
匝納立、必魯直納死、子渓巴温立、其輿郎結哉輔之。
『長編』巻五百七・哲宗・元符二年・三月己巳粂
ともあり、渓巴温の父は必魯匝納としている。そこでもう一度温撰心と渓巴温の関係について
検討を加えてみ
たい。しかしながら必魯直納に関する記載はこのー箇所しか存在しない為、温渓心の事跡を追
ってその手掛か
りとする。
1
0
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)年の事である。
温渓心が史料上にはじめて登場するのは照寧九 (
(照寧九年正月}二十二日照河路経略司高進裕言 r
趣川温混心見欲来降。 J …{中略)詔温
渓心及受夏国俸給之入、可勿招請。
『宋会要輯稿』蕃夷六之ーニ
ここでは温渓心が高湛裕を通じ北宋に帰順しようとするが、北宋側は温渓心が西夏の俸禄を受
け取っている者としで拒否したとされる。しかしながらその4
年後の元豊三(10
8
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)年には帰
順が認められた事が下記の史料からうかがえる。
(元豊)三年正月二十九日、照河路経略司言「趣川城主温納支部成遺首領阿篤等款塞、乞
捕官職。」詔温納支部成為会州団練使・越川蕃部都巡検使、温渓心為内股崇荘、温声臓抹
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「超郡王墓誌銘」に関する一考察
為右班殿直、並趣川蕃部同巡検、阿(傭)為本族副軍主、僧禄尊為禄蹄結族都虞候、月給
茶腕皇-。
宋会要輯稿』蕃夷六之一五
r
又、同年の六月の記事には更に官職が進められた事がうかがえるが、ここで興味深い事柄が
記されている。
(元豊三年)六月七日、詔補遡川城主、合州団練使温納支部成叔諜心・弟阿令京為西頭供
奉官、渓心男楽厩波温・第阿羅為右班殿直、族弟渓巴温為三証奉職、妹婿塔令波為{昔職、
月給茶総有塁。
『宋会要輯稿』蕃夷六之一五
墓誌銘」内で温渓心の息子にあたる渓巴温が血族弟"として紹介されてい
この記事の中では r
る。ここで注目したい史料が前述の F長編』巻四百五十五・哲宗・元祐六年・二月丁巴粂の記
事である。この中では温渓心の息子が“巴温"と紹介されており、授かった官職名・年代も
墓誌銘」の内容と一致している事からも「墓誌銘」の作者である李石も岨巴温"を渓巴温と
r
して認識している。しかしながら『宋会要輯稿』の記述を見ると
麗引遡川大首領混諜心男巴温子巴納支
}
(元符元年)八月七日照河蘭会路経略司言「蕃官包I
来帰。」詔巴納支為内殿崇班。
『宋会要輯稿』蕃夷六之三ニ
と巴温の息子を“巴納支"と伝えており、前述した『長編』巻五百七・哲宗・元符二年・三月
己巳粂が伝える渓巴温の息子遠の記述と合致しない。又、『宋会要輯稿』では温諜心の孫につ
いても述べられている。
頓状、先尋訪到諸島川大首領温撰心諜結施温、
(紹聖四年)十一月二十八日、又言「蕃官包 j
今年三十二、未有官職。 J 詔結施温為内殿崇班。
『宋会要輯稿』蕃夷六之三一
ここで記載されている結施温も『長編』が伝える渓巴温の息子遠の記述と合致しない。ではこ
こで一度温錫心と錫巴衰の関係についての考察結果を整理し、提示する。
6
8
•r
長編』巻五百七・哲宗・元符二年・三月己巳粂では渓巴温の父は必魯匝納とある。
•r
長編』巻三百五・神宗・元豊三年・春正月戊成粂では温渓心の族弟として渓巴温が登場す
る
。
•r
長編』巻四百五十五・哲宗・元祐六年・二月丁巳条では温渓心の息子として巴温が登場す
る
。
•r
宋会要輯稿』蕃夷六之三こでは巴混の息子として巴前支が登場する。
•r
宋会要輯稿』蕃夷六之三ーでは温渓心の孫として結施混が登場する。
•r
長編』巻五百七・哲宗・元符二年・三月己巳粂では漢巴温の六人の息子について紹介して
いるが、この中に上記 r
宋会要輯稿』に登場する巴動支や結施温の記述はない。
以上の考察結果を考え得るに、温渓心と渓巴温が親子であったとする記述は r
長編』が引用
する『青唐録』の一部だけである。しかしながら上記の考察結果を鑑みると『青唐録』にある
温渓心と渓巴温の親子関係は温渓心の息子であった“巴温"と族弟であった“渓巴温"が同一
人物視された結果生み出された誤りであったと考えられるが、断言は出来ない為、一つの可能
性として提示しておく。李石が「墓誌銘 J を作成するにあたり、 r
背唐録』を参照したのかは
不明である。但し、渓巴温と尼鳴丹怠が親子関係であった事はほぼ間違いないであろう。この
結果を受けて考えられる家系図が以下になる。きて次にこの渓巴温に閲して興味深い史料を挙
げる。
図3
必魯
賛
減同一人物として混在した可能性
施 温 (?
)
「越郡玉墓誌銘」に関する一考察
6
9
陪征代父、役民滋甚。性又暗弱、願喜殺、其下皆怨。大曾心牟欽臨等有異志、独恐謄征季
正遁殺之、尽株其党、日佳鏡羅
父蘇南党征雄勇類阿旦骨、不敢発。乃共謹蘇南党征謀反、嬉f
結得脱。欽艶等益自:障。鐘羅結渡河帰渓巴温、日夜説渓巴温挙兵逐臨征而自立、渓巴温不
聴
。
『長編』巻五百七・哲宗・元符二年・三月庚午粂
これは阿里骨の後継者であった陪征の時代に関する物であるが、注目する点は鏡羅結が渓巴温
の下に向かうのに“渡河"している事である。前述したように当時の青唐の本拠地は河北地域
にあったのだから、当然“渡河"すれば河南地域に向かうことを指す。又、
(宋元符二年七月)先是、知河州王購自五月二十三日奏・・「渓巴温殺鬼章子阿蘇、奪擦寄城、
自称、王子。河南部族多叛膳征、而帰巴温。巴温本輩租親姪、輩租無子、而巴温見疑、遂逃。
而茸笹死、寛為阿皇骨所纂。及臨征立、而多殺首領、人情不附。又以撰巴混仏種、人頗鮒
之。巴温遺長子杓拶往奪渓膏、為阿蘇所殺、故巴温因衆怨而起。攻渓寄、城中人為内応、
遂殺阿蘇而拠之。部族翁然帰附。
『長編』巻五百十一・哲宗・元符二年・七月条
とあるように河南地域部族の多くが諜巴温に味方したのは、傭征に叛旗したと考えるよりも、
この地域自体が数代前からの本拠地であった渓巴温にごく自然に付き従ったに過ぎないのでは
ないだろうか。この 2点の史料から考えると尼馬丹志の父渓巴温も又、河南地域を中心に活動
していたと考えられよう。
前章と本章での考察結果からは「墓誌銘 J に記載されている人物の多くが河南地域を中 I
C
'に
活動していた事が判明する。但し、何点かの記事は、実際の事跡とかけ離れていた事も明らか
になった。 r
墓誌銘 J 作成時には尼局丹怠家にこのように伝えられていたのか、李石則ち南宋
人の認識であったかは詳らかではないが、一つには河南地域の重要性が考えられる。北宋時こ
9
4
0
1 で指摘されており、又、南宋時にもしばしば金・
の地域が重要視されていたのは【榎 1
@
酉夏と三国の係争する所となっている。故に宋の臣であり、“臨右郡王"になった尼馬丹忽の
淵源と事跡を慕誌を通じ明らかにすることにより、この地域に於ける宋の正当性を主張したと
考えられる。
おわりに
今回の発表では r
方舟集』所収町趨軍玉墓誌、銘 J に注目し、哨府曜一族の系轄の検討を行っ
7
0
てきたが、取り上げる事の出来た箇所は一部にしか過ぎず、且つ尼馬丹忽自身の事跡を追う事
は出来なかった。又、日を改めて発表の機会を持ちたい。
附録
r
方舟集』巻十六・「越郡王墓誌銘」・原文
仰惟太宗皇帝顧念幽・燕・霊・夏皆我旧民、論於発狭、思有以観康之。適夏人継捧納地来帰、因賜
栓、得升属籍、賜名保吉・保忠至於西辺能自振於発落、皆得援保忠故事。此越君亦得賜姓名、用此
例也。一目、君之子威州兵馬監押越某以状来告日「吾父死、朝廷遣中使宣輸、給銭百万以葬。父子
兄弟世蒙園恩、外国可略、而内不可無書。」則按君状云、君之先出発姓、春秋為陸海、漢為都善、唐
為吐蕃、牙披在金城、為西平郡、鈍為都州、時倒為西平郡、皐朝為西寧州、君世寧州。君之世在本
朝者為混希結、生二子、日温希錫勅、君曽祖。日宜鞠斯費、祥符閲求内属、為葬泌首領、授寧遠大
将軍、以敗元長功、加河西節度使。生三子、蓋哉検校工部尚書。轄哉、英宗時襲爵葬給公、腸推誠
地以舟且閲之、不徒。神宗朝献図夏人之策、詔寵其忠。其
順化功臣、元豊中封威武郡王。夏人許制l
子黙正献挑・河二州地、賜姓名越思忠是也。贈挑瞬寧節度留後。其子懐義元監八年以蘭州進討功加
左蔵庫副使。祖日温錫給。元豊中以図果荘遜瓜州回線使。考日錫己表。元祐六年亦以果荘功為勝州
刺使、賜姓名法混封商平王.以子恩屡封安康王。君旧名尼鳴丹窓、宣和間以其世有之地至西海内属、
精賜於朝、賜姓趨氏名懐思、授武功大夫、留京師。欽宗聞位、加右武大夫思州観察、夏人合諾充犯
西寧、王師久不利、有旨令君往喰禍福、降者数万計、光義舟聖皇帝登極、封闘右郡王、加食邑。先
是、君之母兄隆晴爾献土、賜姓名越懐徳、大観初、以招降蔵希ト得功、遷雄武軍節度使、死贈開府
儀岡三司安化郡王。至是金兵至映、其子忠順専兵何外、全家与金人戦死。君逃眠州山問、烏珠訪君
我世受南朝厚恩、義不負宋。」烏珠以兵脅而追之、君
所在、日「若帰我、函谷以西可得也。」君日 r
遁走二丈諮問。君泣日「我不負図死、此命乎!J 馬一躍獲免。宣撫張公波即以君節義表於朝、留主
管随軍機忠朝廷以君不従偽命、偏見忠節、除照州観察使、都総領河南兵将。紹興初、有旨居成都。
朝識欲収複照河、制置席公某・宣撫呉公某薦以君招焼、以和識寝之。二十三年、改鼎州観察使、伺
闘右郡玉、加食邑。二十七年、克成都府路兵馬鈴輔。三任九年、前後食邑至三千ー百戸、実封三百
戸。君精騎射、馬上盤両石弓、的不虚発。雄起辺発、世陶中国冠帯礼儀、而性資忠孝、故悔悟臣節、
錐追以九死莫腿也。先是、君之造朝也、賜封便殿、敏宗遍場安否状、君日「独苦童貫擾辺生事。』時
貫本兵柄、意務懐拓、百計撫存、礼t聞結。君以傾諸発以張大辺勢、蟻陽与唯諾、而内沈鴛不変。
富者栂融至奏君詩融大臣、欲能逐之、故異日tJ
i
l
l
司有 r
抑於権臣」之語。君憤夏人以本朝故為世仇、
必欲佐侠復以償夙恨。宣撫張公得之、置之腹心、以所服戎服金帯贈之。紹興閥、敵揚声ー畠虚甘、
ー尚南山、一出虚察、以疑我師。君白呉研、以虚甘道寒不可行、決来成・凪、不著重屯成・鳳、挺
褒斜。己而敵至和尚原以敗、珂ト奏君料敵之功、君カ辞。敵再和、君謂和議決不久、不若先事制勝為
永利。時相方大主和織、有告君之言、外台観望、以君揺揚能強生事、械致君獄、頼尚書張某保全。
巴而言者伏事。君自此絶口不言兵、而専意於浮屠竺乾之書突。会完顔亮治盟、識者服君先見。備三
置使王公剛中訪君以
路捷至、君酌酒由貿、日太平可待。王師駐順徳不進、敵屯鳳鋼、川辺鵠動。帯j
近事、君閉目不答、強之、君不得巳、日「始併力鳳鋼、則五路不必下。今我師巴老、鳳朔之屯甚堅、
非我之利可知。 J 所得賜費、前後散施、事仏給貧、余則奉賓、道塗無虚目。有不願於君者、日『是発
見種習、結客将何為?且康高官厚俸安用 ?
J欲輸裁制減削、至極以獄。乃憤憤卒。卒以某年某月、
年若干.褒包氏・馬氏・橋氏、先卒。再褒島氏・玉氏、皆封碩入。三子、長子日某、乗義郎・叙升!
兵馬監押。次安園、成忠郎、皆先卒。次寧圏、教武郎・威州兵馬鹿押。二女、長適忠期郎賞師問、
『越郡王墓誌銘」に関する一考察
7
1
次適忠、朝郎王蜜。孫九人、康朝、忠朝郎。慶朝・昌朝・顕朝、皆成忠郎。扶朝・光朝・胡朝、皆該
再貫』
奏未出官。世朝・照朝、早卒。採女、長適成忠郎王延輩、早卒、次適玉E、二人在室。窃欄 r
之法叙等、『春秋』始商地、中而入、終而子、有進無退、無絶法也。国家務復境土而嘉君之世、其有
感於君之死而給復其奄歩事甚龍、石宜修其書、不得辞。銘日
国之用材、初不択地。金玉珠員、以遠而致。ー普或進、有牒其類。我徳無盟、爾世不盤。其自伊
i
可、神鑑在天。其来伊河、有土有問。宣利爾私、渇類而遷。旧壊吾民、一視同然。材不棄謡、武諦
惟傑。陶染一新、冠帯就列。我宣爾徒、誰則狙獄。閤門死事、有全其節。英褒其氏、酒描其源。籍
国之属、父子弟昆。爵秩惟玉、儀大爾門。既曹厭婦、凡百子孫。惟孝惟忠、其漸未止。天心雨露、
南北赤子。娃武帰握、如腿之始。誰刊吾語、以告諸史。
註
①瞬厩蝿について扱った論考として、[岩崎 1
9
7
5
]・【岩崎 1
9
7
8
)・【岩崎 1
9
8
6
]• [鈴木1
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8
1
]・
9
8
2
]・{鈴木 1
9
8
5
]・{鈴木 1
9
8
6
]がある。
[鈴木 1
②南宋の陳振孫 (
1
1
8
3
1
2
6
1
) が私撰した書目解題であり、南宋期の書籍流伝状況を知ることが
出来る書目である。
1
年に進士となり太学博士に任命さ
③李石、字は知幾、資州磐石(現四川省資中県}の入。紹興2
れるが、直情径行の性格が災いし、辞官する事となった。その後、再び出仕し、知襲州(現四川
省漢源県)・知合州(現重慶市合川区}・知眉州(現四川省眉山市)といった四川の地方官を歴任
宋史翼』巻二十
した。事石の事跡は『方舟集』巻十「自:叙」・『建炎以来朝野雑記』乙集巻十三.r
八等で確認出来る。
④ r
方舟集』五十巻、『後集』二十巻。
資陽李石知幾撰。石有盛名於弱。少歯客蘇符尚書家。紹典末為学官。乾道中為郎、歴嘩節、
皆以論罷。越丞相雄、其郷人也、素不普石、石以是晩益困、其自叙云「宋雄、魯倉今猶古」
也
。
q
宜斎書録解題』巻十八・別集類・下
⑤ 原文では“徳"だが、文意によって“思"に改めた。
⑥
ここでも原文では“徳"だが、文意によって岨恩"に改めた。
⑦ 哨蹴曜を指す。
⑧ 晩廟曜の三男である董笹を指す。
⑨ 哨蹄曜の長男である臨笹を指す。
⑪ 轄也の長男である木征を指す。
鬼章を指す。
⑫ 『宋史』巻四百九十二・吐蕃伝にも同様の記載有り。
⑬ 哨臓曜の出身地に関して、 F長編』以外にも『宋史』や『隆平集』で高畠磨撤回と表記されてい
るが、これはトルファン地方を指すものではない。 Z
hangzhungS
t
o
d (高地のシャンシュン}こ
の意訳の「高」に Z
hangの音訳「昌」が組み合わさったと考えられ、磨撒国をマルユル (
M
a
r
y叫}とみなすのが現在の定説になっている。(【山口 1
9
8
3
]p
2
3
2
)
⑬本稿では便宜上現在の甘腐省蘭州市より青海省の貴徳市にかけての黄河以南を河南とし、以北
を河北としている。
⑮ r
陳西東米図経』を指す。『直斎帯録解題』では下記のように伝えている。
r
陳商燕米図経』五巻
閉門通事舎人雄州越均撰。殉父辰、博州防御使、久在西辺。均訪得五路徹外山川道皇、康定
二年為此書。韓親公(韓埼)経略言於朝、詔取其害、百見。執政呂許公(呂寅簡)・宋宮公
。
7
2
{宋庫)言用兵以来、策士之言以千数、無如殉者。擢笹原都監、定川之敗死罵。殉勤特好学、
倒倫類儒者、人皆惜之。
r
車斎書録解題』巻七・伝記類
⑮諦朱域…在州西南百皇、本番族所置、宋照寧中収復。元祐二年鰐河将挑児破鬼輩於此、尋復為
番族所拠。…(中略)…又循化繊在州西南百三十五皇、本名一公繊.宋元符二年収復。
F読史方輿紀要』巻六十・陳西九・ 1
可州条
⑪ 【岩崎 1
9
8
6
]ppl05-107
⑬上に挙げた『楽全集』巻二十こを参照。
r
宋史』巻四百九十二・吐蕃伝
⑬蹄嘱地既分、葦笹最彊、独有河北之地、其国大抵吐蕃遺俗也。
@(十月)丙子、左蔵庫制使超懐義・西頭供事官劉永淵・西京友蔵庫高退治各加恩転両官。賞蘭州
r
長編』巻三百六十・神宗・元豊八年・十月丙子粂
渡河進討之功也。
9
8
3
]
@ 阿旦骨は査笹の養子であり、三代目青唐国主であった。阿里骨の事跡については【鈴木 1
に詳しい。
直斎書録解題』巻七・伝記類に記載あ 9
0詳細は【鈴木 1
9
8
1
] を参照。
@ r
長編』巻二百七十二・神宗・照寧九年・春正月己卯粂にも同様の記事がある。
@ r
@ r
長編』巻三百二・神宗・元豊三年・春正月喪巳粂にも同様の記事がある。
長編』巻三百五・神宗・元豊三年・春正月戊成粂にも同様の記事がある。
@ r
0
0
4
]・【杜 1
9
9
5
]
@ 【佐藤 2
参考文献一覧
漢文史料
(宋}李療撰 r
続資泊通鑑長編』
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0
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岩崎 力
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榎一雄
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玉留の照河経略について J
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三十八史学篇 2
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唐嘉弘
社揖i
錯
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眠)
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