更新意見書 - 市東さんの農地取り上げに反対する会

平成18年(ワ)第2218号
原告
成田国際空港株式会社
被告
市東孝雄
更新意見書
千葉地方裁判所民事第2部合議A係
御中
2015年6月15日
被告訴訟代理人弁護士
葉
山
岳
同
一
瀬
敬
同
広
瀬
理
夫
同
大
口
昭
彦
同
遠
藤
憲
一
同
久
保
田
理
子
同
長
谷
川
直
彦
同
藤
田
正
人
同
西
村
正
治
同
浅
野
史
生
同
吉
田
哲
也
-1-
夫
一
郎
(目次)
……………………………………………… 3 頁
第1
総説
第2
被告の賃借地は、甲30の収用裁決申請図等の記載内容及びその作成
経緯からみても関係土地図A・BでありE 1・Bではない……………… 7 頁
第3
甲15等の航空写真に写った石橋屋敷林の存在は、41番9(E 1の
土地)が石橋賃借地であり市東賃借地でないことを裏付けている…… 10 頁
第4
元永メモは1988年3月当時の訴外東市の南台41番の小作地に
関する供述を記載したもので、甲42の1の恣意的解釈を許さない重
要資料である………………………………………………………………… 13 頁
第5
甲42の1は甲8、甲9の偽造・錯誤を惹起したが、訴外藤﨑から
の聴取結果(乙76の1、2)はこれを裏付けている………………… 24 頁
第6
甲8及び甲9の文書は偽造または錯誤により無効である…………… 28 頁
第7
原告は本件文書提出命令に従わず、よって甲8及び甲9の文書は偽造
または錯誤により無効と認定されるべきである………………………… 35 頁
第8
南台農地北側のC・Dの土地については、被告の賃借権の設定または
時効取得が認められる
(別紙一覧)
…………………………………………………… 40 頁
………………………………………………… 44 頁
(以下、余白)
-2-
1
本件訴訟は、2011 年から 2014 年にかけて実質審理が停止した。しかしな
がら、この間の文書提出命令申立事件はきわめて重大かつ貴重な成果を被告
側にもたらした。その概略は後述するが、この点で非常に有意義であった。
この点を第一に指摘したい。
2
本件裁判は、東京高等裁判所第19民事部における千葉県知事の解約許可
処分取消し裁判とこれに基づく市東孝雄氏の命である農地強奪裁判と密接不
可分の関係にある。
すなわち千葉県知事の小作契約解約処分も農地明渡請求裁判も、いずれも
市東孝雄氏らが亡き萩原進反対同盟事務局次長らと当初から賃借農地の位置
が違うことを強く訴えて、事実調査を要求したことを無視して、南台の賃借
地を偽造された、または錯誤により無効である同意書、確認書に基づいて、
あえて、誤って特定した上で手続きを強行するという根本的、決定的な事実
誤認をおかしているものである。
すなわち 1984 年地積測量図(甲 16)と青柳晃教土地家屋調査士作成実測
図(乙 9 の 1)とを組み合わせた「関係土地図」(別紙1)の A 部分が本来
の賃借地であるにもかかわらず本件ではこれを不法耕作地と言いなして明渡
しを求めるという途方もない違法訴訟を提起している。
耕作者を保護し、現況主義をとる農地法の関連事件において、現地調査を
怠り、原告の主張をまるのみにして、耕作者の現地調査の要請を無視した許
可処分は南台、天神峰の双方についていちじるしい違法をおかしたもので無
効もしくは取消されるべきものである。
3
2011 年(平成 23 年)10 月 24 日付文書提出命令申立に伴い基本事件平成 18
年(ワ)第 2218 号すなわち本件事件は、進行を停止したが上記平成 23 年(モ)
第 305 号事件については、2012 年(平成 24 年)10 月 5 日貴民事第 2 部白石
裁判長外による決定が下された。
上記決定では、同意書(甲 8)、賃借地境界確認書(甲 9)、地積測量図等
の作成、入手、保管経緯等に関する交渉記録等の提出命令を求めた部分等に
-3-
ついては、申立てが却下された。
しかしながら、上記提出命令に基づいて提出された「藤崎正吉からの事情
聴取結果」
(乙84)、
「藤崎政吉所有地(事件番号 91)の取扱いについて(案)」
(乙85)、「藤崎政吉氏との打合せ概要」(乙86)が提出された。乙85
の本文及び添付資料 5-1、5-2、5-3 は後述のとおり、原告の従前の主張をく
つがえす驚くべき内容であった。
上記平成 23 年(モ)第 305 号事件にかかる平成 24 年(ラ)第 2571 号抗
告事件において東京高等裁判所第 8 民事部高世三郎裁判長外は 2013 年(平
成 25 年)3 月 26 日一部差戻しの決定を下した。その中で「インカメラ対象
文書中に非提示文書が存在するものと一応認められる」と判示して原告の非
協力、消極的態度を批判した。その上で貴部岸日出夫裁判長外は 2013 年(平
成 25 年)12 月 9 日同意書、賃借地境界確認書、地積測量図等に関する交渉
記録等の提出を原告に命じた(平成25年(モ)第 128 号)。
しかし、原告はこの決定が確定したにもかかわらず提出を拒否している。
信義、誠実の原則(民訴法 1 条)にもとる、とうてい許しがたい不公正きわま
る態度である。原告がこのまま訴訟を追行すること自体が許されないほどの
重大事態である。上記決定においては「相手方が提示命令に従わないという
ことは提示命令に従って提示すると相手方に不利益な判断」「がされること
を予期しているためであると考えざるを得ず」と強く批判されている。同意
書、賃借地境界確認書、地積測量図が偽造ないし錯誤により無効なものであ
ることがますます明らかになったものというべきである。
4
原告は準備書面(8)で市東家の耕作地の変遷につき上記関係土地図およ
び 1984 年地積測量図(甲 16)に基づき別紙図面①ないし⑥で図示した。
このうち 1969 年(昭和 44 年)以降の耕作地の変遷については、おおむね
被告主張と一致する(別紙 19、20、21)。しかし、原告は、1950 年(昭和 25
年)の市東氏耕作地については別紙図面①で 41 番 8(B 部分)と 41 番 9(E1
部分)であるという全く誤った主張、作図をしていた(別紙 18)。
しかるに上記提出命令に基づき提出された文書目録2「62.10.20 空港公団、
「藤崎政吉所有地(事件番号 91)の取扱について(案)」(乙85)添付の
資料 5-2 の航空測量写真に書き込んだ「小作位置図」
(当面の耕作地)
(昭和 13
-4-
年∼ 45 年)では、A 部分と B 部分が被告主張のとおり、市東東市耕作地と
明記されており、資料 5-1 は甲 16 の図面に被告主張のとおりの場所に「市
東耕作地」と明記されている。
資料5−3には、昭和 46 年∼現在(昭和 62 年と推認される)までの市東
耕作地が図示されている(ただし、D部分につき「不法耕作地」と記載 さ
れているのは、被告主張とは異なる)。
以上のとおりA部分とB部分が当初からの被告側の賃借、耕作地であった
とする主張は、原告側資料によっても明証された。
これらの事実は、同意書(甲8)、賃借地境界確認書(甲9)各添付の地
積測量図のそれぞれが偽造であること、または錯誤により無効であることを
上記文書提出命令に対する原告の文書不提出の事実とあいまって、ますます
明確に立証するものである。
5
さらに、市東東市氏の代から引き続き耕作しているその他の農地部分CD
部分についての賃借権の設定または時効取得の事実につき、適正、公正な審
理の上で認定されるべきである。
6
後に提出する準備書面で詳述するが、そもそも原告は、南台 41 番の農地
の所有権を取得していないのである。
原告会社は、土地売買契約書(甲36)、千葉県知事の平成 18 年9月 21
日付許可書(甲 10)等を提出して、原告が本件農地を取得したとしている
が、原告会社(公団)が農地所有者藤﨑政吉から 1988 年4月 12 日小作地の
底地を取得するに際して、小作権者市東東市に全く秘密裡に、すなわち、小
作権者について一切の同意なく小作地の底地を取得したものである。
小作権者の同意がなければ農地を空港用地に転用すること自体が農地法
18 条(当時)によって法的に不可能であった。それにもかかわらず、小作
権者の同意がなければ転用できない農地について、これをも転用のための農
地売買だと強弁して、農地法5条の県知事の許可が不要だから、小作権者の
同意も不要だという、理不尽きわまる違法をおかして取得したものである。
また原告は、敷地外農地を農地法5条の県知事の許可なしで取得したり、
長年不在地主であったことなど農地買収は農地法6条違反の限りを尽くして
-5-
いる。
すなわち、原告(公団)の農地取得は、農地法 5 条、新東京国際空港用地
事務取扱規程 38 条(甲 45)、公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱、憲
法 29 条、31 条に違反した小作地底地の取得であり、所有権取得自体が無効
である。また、転用できない農地を農地のまま取得し、市東東市、被告市東
孝雄をして、小作料を藤﨑政吉に支払わせていたのであるから原告の本件農
地取得は、農地法 3 条に完全に違反する、無効の売買である。
さらに、この売買による取得を原因として農地法 20 条2項2号に該当す
るとして、小作権者被告市東孝雄氏の同意を得ることなく、賃貸借契約の解
約許可申請をなしたことも違憲、違法であり、かつ、県知事がこれを許可し
たこと自体も違憲、違法である。
平行滑走路用地取得については、あらゆる意味で、強制的手段をとらない
ことを、原告会社(公団)も千葉県知事も公的に確約したが、これに真っ向
から違反して提起したのが、本件訴訟である。
本件は違憲、違法な公用収用の一環であり、裁判所を収用委員会の代行機
関として利用する違憲、違法な手続きである。
7
原告の違法事由は、以上に総括的に述べた事由に止まらない。代理人の以
下の事項を含む事項につき、貴裁判所が公正、適正、慎重な審議を追行され、
間違っても国策裁判を強行して、正義をふみにじることのないよう厳重に要
請する。
(以下、余白)
-6-
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本件賃借地の位置を特定するのに無視してはならないのは、1970年当時の空
港公団が強制収用のために作成した図面である。
(1) 本件土地は、成田空港建設当初、強制収用手続きでの取得がもくろまれ
ていた。
強制収用手続きにより取得するためには、収用裁決申請書に、土地調書、
物権調書を添付しなければならない(土地収用法40条1項、36条)。
土地調書には、土地所有者の氏名、住所はもとより、土地の面積、収用
対象面積、「土地に関して権利を有する関係人の氏名及び住所並びにその
権利の種類及び内容」を記載し、実測平面図を添付することとされている
(37条)
。
そうして、土地所有者及び関係人を立ち会わせて署名押印させなければ
ならないのである(36条の2
1項)。
土地収用は、他人の権利を強制的に取り上げる手続きであるから、この
ように極めて厳格な手続きが要求されているのである。
(2) ところが、原告空港会社は「昭和45年の裁決申請、昭和48年の明け
渡し裁決申立時に南台41の土地における賃借人及び賃借権の範囲が特定
できなかった」
(原告準備書面10
4頁)等と主張している。
そのとおりであるとすれば、杜撰きわまりない。
(3) しかし実際は、公団は、1969年3月に根本和之助から土地建物及び
農地を買収した(乙87、乙88)。したがって、それ以前から公団は根
本に聞き取りを行い、70年には41番の土地について3人の賃借人(根
本、石橋、市東)の賃借地の場所を把握し、地積測量図に(1)
(2)
(3)
と分割して記載していたのである(甲29の1)。
甲30(別紙2)は、その地積測量図をつなげた図面であるが、甲30
の(2)は4423.98㎡〔= 3995.58 ㎡+ 428.40 ㎡〕であり、空港公団が1
987年に収用裁決申請を変更して市東氏の小作地と認定した甲16(別
紙3)の○
D○
E の市東小作地4423.9982㎡〔= 3096.7976 ㎡+ 1327.2006 ㎡〕
-7-
と面積が同一である。
したがって、原告が1970年11月の収用裁決申請段階で、甲30の
(2)場所を市東小作地と認識していたことは明らかである。
2
84年地積測量図(甲16)、87年収用裁決申請書変更の事実は、被告の主張を
裏付けている。
(1) 空港公団は、1987年に、賃借人の存在を無視した1970年11月
の収用裁決申請書(甲72の2)の変更申立をせざるを得なくなった。
そのとき使用したのが甲30を引き写した甲16の図面である。
甲16は、1984年2月15日、藤﨑(小沢土地家屋調査士)作成に
かかる地積測量図であり、藤﨑所有の41番を41の1ないし7に分筆し
たものである。
その趣旨は、根本和之助、石橋政次、市東東市の各賃借地の場所を特定
し、藤﨑が賃借人に一定割合の土地を与えて賃借権を解消し、残りを公団
に譲渡するために分筆したのである(被告準備書面(8)参照)。
賃借地の状況、範囲については、上記のとおり、土地買収交渉に伴い土
地所有者らから詳細に事情を聴取し、1970年当時の賃借状況を反映し
てこの地積測量図が作成されたのである。
(2) そしてこの地積測量図によると、分筆された41番4及び41番5(D
+E)が市東の賃借地であり、これを地主7割(41番4)対市東3割(4
1番5)で分けるように分筆されている(なお、藤﨑と公団の売買契約書
(甲36)でも市東の賃借権は約3割と記載されている)。
このD+Eは1927年∼1971年までの東市耕作の「関係土地図」
(別紙1)のA部分、B部分とも一致しているのである。
こうして1987年4月24日、公団はこの地積測量図に基づき、収用
裁決申請書の記載事項の変更申立を行い、そこにおいて「成田市天神峰字
南台41番地4及び同番地5の土地にかかる
市東東市
変更事項
追加
・・・賃借権」と明記してA部分、B部分
が市東の賃借地であることを確認し、その前提で収用裁決申請を行ったの
である(甲47)。
(3) 本件文書提出命令で提出された1987年10月20日付けの運輸省航
-8-
空局新東京国際空港課に提出するための本件土地の取り扱い状況の報告文
書(乙85)の 1 枚目によると、
「
(2)その後本件土地の買収交渉に伴い詳細に調査した結果、本件土地に
ついては昭和 13 年頃から 3 人の賃借権者(石橋政次、根本和之助、市東東
市)が耕作を続けてきていることが判明したことから」「土地所有者は、
各々の賃借権の範囲を登記簿上も明確にする等の考えから、59年5月、
本件土地を7筆に分筆しており、収用委には61年6月その旨の報告を行
っている。」「また、賃借権者3名は、市役所で調査したところ、農地法
3条の許可を受けているとの確証が得られず、農地法等関係法令を調査し
たところ、昭和21年以前の賃貸借であれば、農地法等関係法令の許可が
なくとも法的には有効であることが判明したため、本年4月石橋政次、根
本和之助、市東東市の3名を関係人として追加する旨の変更報告を行って
いる。なお、再度市農業委員会に本件小作関係を照会した結果、この度、
市東一人のみ届け出許可されているのが判明した」と記載されている。添
付資料5−1(別紙14)及び5−2(別紙15)で明らかである。
このように、空港公団は、1984年から1987年にかけて本件小作
地について調査しており、市東小作地の範囲も明確にしていたことは明ら
かである。
3
原告の理不尽な主張
この点について原告は、「藤﨑により甲16が作成されたことから、原告
は同書面に基づき昭和62年4月24日付で変更申立書を作成した」等とこ
の事実を認めながら、「昭和63年4月以降、甲8,9の別添図面の位置で
あると認識している」などと自らの収用裁決申立における位置の特定を覆す
に至ったのである。
しかしその過程について原告の合理的説明はないばかりか、肝腎の藤﨑と
のやりとりや賃借地の確認等の経緯が記載された文書類の提出を裁判所の提
出命令が確定したにもかかわらず、傲然と拒否していまだに提出しようとし
ない。
このような原告が主張する本件賃借地の特定に客観的合理性がないことは
もはや明白である。
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ここでは更に、歴代の航空写真を手掛かりに、土地利用の実態面から原告
主張の「南台41番9」(関係土地図(別紙1)のE1部分)が、被告の借
地ではなかったことを明らかにする。
着目すべきは、「南台41番9」の隣接地である石橋家の屋敷林である。
2
石橋家の屋敷林について
(1) 北総台地には、家屋の周りを屋敷林で囲った特徴的な農村風景が広がっ
ている。これは、季節風が強く、土ぼこりが舞う自然条件から家屋を守る
防風林である。石橋家は1914(大正3)年ころ、石橋高次(石橋政次
の父)が天神峰に入植し、家の四方を、杉・松・カシ等の常緑樹やケヤキ
などを主体とした屋敷林で囲った。被告の祖父の市東市太郎が天神峰(現
在地)で明治45年から経営する店舗の「大福張」(乙89)に、「石橋
高次」に対し、同年12月17日から掛けで酒・さかな・豆腐などの商品
を販売していることが記載されているので、その頃までに石橋家は天神峰
に入植していた。
(2) 1927年頃には、石橋家が訴外藤﨑より41番の土地を賃借した後、
風の強い北側の常緑樹の外側の41番の土地に竹(真竹・孟宗竹)を植え
た。その後更に、石橋家は竹の北側に低い樹木を植えている。
(3) 遅くとも1945年の敗戦前には、石橋家の北側の竹林等を含む屋敷林
は出来上がっていた。
3
1970年の航空写真と石橋屋敷略図
(1) 航空写真はその状況をよく現している。
提出された航空写真は、1947年、67年、68年、69年、70年
2月、70年8月、84年、88年であるが、それらは全て上記のことを
示している(被告準備書面(15)の第2、および被告準備書面(17))
。
(2) その状況をよく現す例として、ここでは、1970年8月24日撮影の
航空写真(甲15)(別紙4)を示す。
- 10 -
石橋家の屋敷林は、竹や低木が「41番9」に当たる土地に大きくはみ
出し、石橋宅地(42番)と一体的に利用されていることが分かる。また、
はみ出した屋敷林の西側部分は、そのさらに西側の畑(石橋賃借地)や4
2番の畑と作付けが同一である。これらの状況は「41番9」が石橋家の
借地であることを裏付けている。
(3) これをもとに、石橋家の屋敷内と屋敷林の配置図を作成すると、「石橋
屋敷略図」
(別紙5)のとおりとなる。
4
航空写真と原告反論の失当性
(1) ところで、原告は「準備書面8」において、南台41番と40番の耕作
実態の変遷を別紙図面として添付した。この変遷図において「41番9」
に当たる場所「E 1」を市東耕作地としているのは、訴外東市による契約
時の昭和25年だけである。他は全て石橋耕作地としている。
(2) これについて「訴外東市が同藤﨑の承諾なく耕作場所を変更するという
事態が生じている」とし、そうである以上、「石橋家の屋敷林の状況は、
被告の賃借地の特定とはなり得ず、被告の主張は失当である」(原告準備
書面(17))などと主張した。
(3) しかし、
「41番9」に当たる「E 1」に屋敷林がはみ出しているのは、
訴外東市が藤﨑氏と農地賃貸借契約(甲20)を締結した1950(昭和
25)年以前からの事である。
1947(昭和22)年10月25日撮影の航空写真(乙52)(別紙
6)が、このことを歴然と示している。
すなわち、これによると屋敷林が「41番9」の東側半分ほどまではみ
出している。
(4) この1947年撮影の航空写真について、原告は「北側に樹木の影がの
びており、耕作地と樹木の境目が鮮明ではない」(原告「準備書面17」)
などと主張した。
(5) これは強引な、いかにも付会的議論であるというほかないのであるが、
写真の精度は悪いが、1948年撮影の航空写真も同様に屋敷林が歴然と
している。
なお、念のために事実を明らかにすべく、被告は、1967(昭和42)
- 11 -
年2月14日撮影の航空写真(乙54)
(別紙7)と1967(昭和42)
年3月19日撮影の航空写真(乙63)
(別紙8)と1971(昭和46)
年2月4日撮影の航空写真(乙64)(別紙9)をみてみよう。
(6) この写真によれば、いずれも西日によって影が東に延びているため北側
に影が伸びていないいないので、屋敷林が「41番9」に当たる土地に広
がっていることが明らかである。
(7) 以上の事から、訴外石橋が成田市天神峰42番地に入植して家を建築し、
屋敷林を設けたころから、「41番9」(E 1)の土地は、石橋賃借地であ
ったものと確実に推認される。
5
結論
「南台41番9」が、被告市東の賃借地ではなく、訴外石橋の賃借地であ
ることは、以上のとおり航空写真からも明らかである。
(以下、余白)
- 12 -
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はじめに−乙15号証は本件賃借地に関する訴外東市自身の供述である
(1) 乙15号証の「小作地について」と題する書面は、1988年3月19
日、当時空港反対同盟の法対部を手伝っていた訴外元永修二が作成した文
書である(以下、単に「元永メモ」という)。
元永メモには、成田市天神峰字南台41番に権利を持つ小作権者らの「賃
借地の場所」や「賃借権設定の経緯」等に関する、本件裁判にとって極め
て重要な情報が記載されている。
(2) 上記の元永メモに記載された賃借場所や賃借権設定経緯等に関する情報
は、小作権者の一人である訴外市東東市が、1987年12月から198
8年3月にかけて、南台41番に関する当時の体験・認識を数回にわたり
訴外元永に供述した内容を同訴外人が整理し、最終的に訴外東市に確認し
てもらって完成させたものである。
したがって、元永メモは、訴外東市の南台41番の賃借場所や賃借権設
定経緯に関する供述であり、極めて高い証拠価値を持っている。
2
訴外元永が元永メモ(乙15)を作成した経緯
(1) 訴外元永は、1970年代から空港反対運動の支援者として成田市天神
峰に住み、1980年頃から空港反対同盟の法対部の仕事を手伝っていた
が、天神峰部落の反対同盟員である訴外東市とは既知の間柄だった。
訴外東市は、二期工事差止訴訟の原告で、1987年12月4日に千葉
地方裁判所で原告本人として供述した(2回目は、翌88年3月11日)。
その頃、訴外元永は、同裁判の準備のために訴外東市と頻繁に会っていた。
(2) 1987年12月26日、訴外東市が地代を支払うために地主の訴外藤
﨑政吉(成田市取香)を訪問した際、訴外元永は、車に訴外東市を乗せて
藤﨑方(店舗)に向かった。
なお、その際、訴外東市は、地代の領収書を持参したが、その領収書に
は予め訴外元永が「但書き」や「日付け」を記入した(同訴外人が但書き
等を記入した領収書の写しが甲42の1の1枚目に貼られている)。
- 13 -
訴外東市と訴外元永が藤﨑方を退出した直後、訴外東市は、「藤﨑はホ
テルがうまくいかなかったからだいぶ困っているらしいな。藤﨑から南台
の借地について所有権にするから3割でどうかという話しがあった」と訴
外元永に述べた。
(3) 訴外元永は、訴外藤﨑が訴外東市に対して空港敷地内の小作権を買収す
る提案をしたのは極めて重要な空港公団動向なので、訴外東市と協議して
直ちに空港反対同盟の北原事務局長と萩原進事務局次長に上記の訴外藤﨑
の動きを報告した。
訴外元永は、北原及び萩原から、訴外東市の南台の小作権取得の経緯な
どを訴外東市本人から詳しく事情を聞き調査すること、南台41番の小作
地について登記所から登記簿謄本や公図を入手したり、成田市農業委員会
で小作台帳等を調査し、畑の現場確認も行うことなどの指示を受けた。
(4) 訴外元永は、上記(2)(3)の経緯で、1987年12月末から翌88年3
月19日まで、訴外東市から事情を聞くと同時に、様々な資料を入手して、
乙15号証の「小作地の件について」と題する報告書を作成した。
訴外元永は、同報告書の完成後、上記の北原及び萩原に提出した。
3
乙15号証に記載された訴外東市の南台41番の小作地に関する供述
元永メモには、次のような訴外東市の南台41番の小作地に関する重要な
供述が記載されている。
①
1枚目の「4
地図」に、南台41番の小作地の地図(別紙11)が
イ ないし○
ヘで
掲載されて、その地図には、各小作権者の賃借地の場所が○
場所を特定して記載されている。
イ
上記の地図では、南台41番に関する訴外東市の賃借地の場所は、○
ロ の場所として特定されている。
の場所と○
イ は、関係土地図(別紙1)の A の場所に、また上記○
ロ は関係
上記○
土地図の B の場所にそれぞれ相当する。
念のため述べると、以上のとおり、南台41番の訴外東市の賃借地は、
関係土地図の A 及び B であることが明らかであり、この点は決定的な
意味を持つが、同時に、このことを訴外東市自身が明確に供述している
ことが重要である。
- 14 -
②
南台41番に関する訴外東市の賃借地は、もともと訴外東市の父親(訴
外市東市太郎)が、まず昭和の初めに関係土地図の A の場所を賃借し、
その後(戦前)に同図の B の場所を賃借したものである。
③
南台41番に権利を持つ小作権者らは、訴外東市と訴外石橋政次、訴
外根本庫之助及び訴外鈴木勘一の計4名で、各賃借地及び賃借面積は、
次のとおりである。
(1)市東東市:賃借地は計4反7畝で、2反と2反7畝の2区割り。
イ であり、関係土地図の A
上記2反の場所は、別紙11の○
である。
ロ であり、関係土地
上記2反7畝の場所は、別紙11の○
図の B である。
(2)石橋政次:賃借地は計6反で、4反3畝と1反7畝の2区割り。
ハ であり、関係土地
上記4反3畝の場所は、別紙11の○
図の E 1及び E 2である。
ニ であり、関係土地
上記1反7畝の場所は、別紙11の○
図の C である。
(3)根本庫之助:賃借地は2反3畝。
ホ であり、関係土地図の F で
上記場所は、別紙11の○
ある。
(4)鈴木勘一:賃借地は1反1畝。
ヘ であり、関係土地図の D で
上記場所は、別紙11の○
ある。
④
訴外東市と訴外石橋の間で、「昭和40年代に」、訴外東市が賃借し
耕作していた関係土地図の A の場所と訴外石橋が賃借し耕作していた
関係土地図の C の場所を、相互の間で交換したことが記載されている。
上記耕作地の交換が、石橋より農道がないため耕作しづらいので交換
してほしいとの申し出を受けたためである旨が記載されている。
なお、上記交換時、関係土地図の D の場所を鈴木が耕作放棄してい
たので、訴外東市は、石橋、藤﨑と確認して農道北側の3区画を耕作す
るようになり、1988年3月に至っていた。
- 15 -
4
乙15は、1988年3月19日の完成時に、訴外東市によって内容を点検されて
より正確なものとなった。
(1) 訴外元永は、 訴外東市自身が書いた図面に基づいて、乙15の1枚目
の「4
イ ない
地図」の通り、各小作権者の賃借地の場所について、○
ヘ の記号を付けて清書し、これを3月19日に訴外東市に 最終確認を
し○
してもらった(乙16)。
このように 賃借地の場所に関する記載は、訴外東市によって正しい
旨が確認されたと言える。
(2) 訴外元永は、各小作権者の賃借地の面積については、3月19日に訴外
ハ の石橋「8反」を「4反3畝」
東市に最終確認をしてもらった際に、 ○
ホ の根本「4反5畝」を「2反3畝」に訂正した(乙16)
に訂正し、○
。
上記の賃借面積は、訴外東市の最終の点検作業で正確なものとなった。
なお、小作権者名についても、3月19日の最終確認の際、訴外東市
ヘ の「田端」を「鈴木」に訂正した。
は、○
5
甲8・9添付の図面は、訴外藤﨑と原告が合作して作ったデタラメな虚偽文書
(1) 原告は、訴外東市が、自分の賃借地について、訴外藤﨑に甲8・9別
添の図面のとおり説明した旨を主張し、その根拠として甲 42 の 1(2枚
目)の図面の存在をあげる(原告準備書面(8)3頁)
。
しかし、訴外藤﨑が作成した甲 42 の 1 の図面は、
「田端」
(鈴木の屋号)
の土地の位置が間違っている(被告の細長い2反7畝の賃借地との間に実
際には存在しない土地があるように描かれている)など著しく不正確なも
のである。
従って、同図面中の訴外東市の賃借地を指す「二反(市東)」を41番
9の位置と解することは明らかに恣意的な解釈で許されない。
(2)
ところが、原告は、
「二反(市東)」と「石橋 A」の交換、その次に「石
橋 A」(但し訴外東市が耕作)と「石橋 B」の交換と2段階の耕作場所の
交換を主張する。
しかし、甲 42 の 1 の図面には、「石橋 B」の土地に棒線を引いて「内緒
で市東」と書かれ、他方で「二反(市東)」の土地にも棒線が引かれて「内
- 16 -
緒で石橋」と書かれている。
従って、甲 42 の 1 の図面に書かれている耕作場所の交換は、「石橋 B」
と「二反(市東)」の交換という1回の交換しか書かれていないと解する
のが最も自然である。
甲 42 の 1 の図面の記載の解釈として、わざわざ2段階の交換が行われ
たと解するのは、文言の解釈の限度を超えている。
1回の交換の場合、「石橋 B」は関係土地図の C の土地で、C の土地と
交換したのは関係土地図の A の土地だけであるから、「二反(市東)」は
関係土地図の A の土地だということになる。
(3)
では、何故、甲8・9添付の図面がつくられたのか。
その原因は、訴外藤﨑が、自らの代替地交渉を有利に進めんがために、
“甲 42 の 1 の図面は甲16の地積測量図と異なる”
“甲 42 の 1 の図面は
甲8・9添付の図面と同じである”とごねて強引な内容を主張し、これに
空港公団が迎合したことにある。
因みに、1988年1月28日に訴外藤﨑は航空公団と代替地取得など
を内容とする「覚書」(甲71)を締結している。
こうして訴外藤﨑と空港公団の謀議に基づく合作として、甲 42 の 1 の
「二反(市東)」の賃借場所を41番9とする重大な間違いを発生させた
のであるが、後述するとおり空港公団は膨大な資料を持っており、訴外東
市の賃借地の場所に関する真相を把握していたのであるから、空港公団の
責任は訴外藤﨑に比して何万倍も重く、かつ悪質である。
(4)
もともと空港公団は、成田空港建設のために法を無視して買収と収用
による用地取得を行っている事業主体である。農地の地主や賃借権者から
貪欲なまでの情報収集を日々行っている。
現に、空港公団は、甲29の1、甲30、甲16及び甲47の各書証に
明らかなように、訴外東市の賃借地が関係土地図の A と B であることを
明確に認識していた。
また加えて、訴訟の途中で、特筆すべき証拠が発見された。文書提出命
令申立の手続きの中で、訴外東市の賃借地の場所を明確に特定する超一級
の重要書類の存在が明らかになった。
即ち、運輸省宛に空港公団が作成した 1987 年 10 月 20 日付けの文書、
- 17 -
乙85の「当初の耕作地(昭和13年∼45年)」(5−1。別紙14)
及び「小作地位置図(当初の耕作地)(昭和13年∼45年)」(5−2。
別紙15)がそれである。
これらの書証には、1938(昭和13)年ないし1970(昭和45)
年の期間、訴外市東が関係土地図(別紙1)中のA・Bを耕作し、石橋が
C・Eを耕作し、根本がFを耕作し、訴外市東と訴外石橋がAとCの耕作
地を交換し、1971(昭和46)年ないし1987(昭和62)年の期
間、訴外市東がBCDを、訴外石橋がAEFを耕作していたことが明確に
記載されているのである。
(5)
要するに、一方で、地主の訴外藤﨑は、自分が作った甲42の1、特
にその2枚目の不正確極まりない図面を使って、空港公団相手に見え見え
の手口でごねまくり、代替地交渉を有利に進めようとした。
他方、空港公団は、訴外東市の賃借地が正確には関係土地図の A・B で
あることを熟知しながら、訴外藤﨑に迎合して、真実とは異なる訴外東市
の賃借場所を記載した地図つくりに奔走したのである。
上記の経過は、乙76号にある訴外藤﨑の「こんな図面、こうじゃない
か、ああじゃないかと言ってつくった図面ですよ」という発言や「図面中
の土地の形状には意味がない」旨の発言から、容易に推測することができ
る。
こうして出来た地図が甲8・9添付の図面であり、まさに訴外藤﨑と空
港公団が予めデタラメなことを熟知した上で作られた内容虚偽の文書に他
ならない。
6
元永メモは甲42の1(藤﨑メモ・手書図)に関する原告の恣意的解釈を許さない
(1)
原告は、上記5で述べたような甲8・9添付の図面のデタラメさを熟
知した上で、そのデタラメさを隠蔽するために、甲 42 の 1 に関する恣意
的な解釈を行っている。
そこで、以下では、訴外東市の賃借地に関する供述を記載した乙15と
甲 42 の 1 の記載内容を対比して示し、原告の甲 42 の 1 に関する上記の恣
意的な解釈を批判する。
(2) 乙15と甲42の1の記載内容を表で対比する。
- 18 -
◆ 元永メモ(乙15)と甲42の1の対比表 (○×は記載の有無、△は不明確を示す)
番
号
訴外東市の賃借
権に関する項目
①
地主から訴外東
(全部で5枚)
™
(全部で2枚)
™
市への分割案の 「9 地主の最近の動向」 メモに、石橋方式で3分
提示
に、地主より 7 対 3 の割合 の1を訴外市東の名義に
で分割の提案の記載あり。
②
賃借地の賃借経 ™
する旨の提案あり。
™
緯(特に区割り 「5 小作権設定の経過」 図面に、
「1反7畝」
「1
について)
イ の土地2反、○
ロ の土 反」
に、○
「2反」という3区
地の東側1反歩、その後西 割りの記載あり。
側1反7畝と3区割りの記
載あり。但し最初の聞取り。
③
賃借地の耕作の
™
š
市東・石橋
交換(市東・石 「6 小作権の現状」に、 図面に、交換の動機と経 間で、2回
橋の間の交換)
交換の動機と経緯の記載あ 緯の記載あり。
り。
にわたり耕
「二反(市東)
」に「内 作地が交換
イ 市東二 緒で石橋」と、
「昭和四〇年代に○
「石橋 B」 されたと歪
ニ の石橋一反七畝を に「内緒で市東」と書か 曲。
反と○
交換して耕作した」と、 れている。交換が1回か
交換は1回と書かれている。 2回かは記載なし。
④
賃借場所の特定
™
š
「二反(市
(特に2反の賃 「4 地図」に、2反の賃 図面に、2反の賃借地は 東)
」を「41
イ として明確な場所 「二反(市東)
借地について図 借地は○
」とある 番 9」と歪
⑤
面での特定)
の記載あり。
が、明確な場所は不明。
曲。
賃借場所の確認
™
×
「二反(市
(特に2反につ 「9 地主の最近の動向」 訴外東市の確認作業が行 東)
」を「41
イ と○
ロ の部分であるこ われたとの記載は全くな 番 9」と歪
き、甲8・9作 に、○
成時期の確認)
とを地主・小作間で確認し い。
たと記載あり。
- 19 -
曲。
次に、上記の対比表の内容について若干補足する。
ア
項目①について
乙15の4枚目の「9、地主の最近の動向」に、「昭和62年12月
地主より小作地4反7畝について地主と小作で7対3の割合で分けてくれ
と申込みがある。」と記載されている。
他方、甲42の1(1枚目)にも「私の仕事上行詰まった事情を説明。
(中略)石橋方式で1/3市東さんの名義にすることを提案」と書かれて
いる。
イ
項目②について
乙15の2枚目の「5
イ の土
小作権設定の経過」に、「昭和はじめ、○
ロ の土地の東側1反歩、その後西側1反7畝
地2反を小作し、その後、○
を小作した。」と記載されている(但し、完成日の3月19日に、「東側
1反歩、その後西側」の部分は上から棒線で消され、次の「一反七畝」の
文字の「一反」に横線一本を加筆して「二反」と書き換えられている)。
他方、甲42の1の2枚目の略図でも、訴外東市の賃借地は、「1反7
畝」「1反」と「2反」の3つの区割りに分けて書かれている。
ウ
項目③について
乙15の2枚目の「6
小作地の現状」に、「石橋より農道がないため
耕作しづらいので交換して耕作してほしいという申し入れがあり、耕作地
を交換した経緯がある」と記載されている。
他方、甲42の1の2枚目の図面の図脇に(別紙10)、交換理由につ
いては、「石橋氏赤線の処を渡らねばならないので内緒でこうしてしまっ
たと」と書かれている。
エ
項目④について
乙15の1枚目の「4
地図」に、訴外東市の賃借地について、農道の
イ として2反の賃借地が記され、農道の北側に○
ロ として2
南側に ○
反7畝の賃借地が記されている。
イ が関係土地図の A の場所で、上記の○
ロ が関係土地図の B
上記の○
の場所であることは一目瞭然である。
ロ に対応する場所に「一
他方、甲42の1の2枚目の図面には、上記○
- 20 -
反(市東)」「一反七畝(市東)」、計2反7畝の賃借地が書かれている。
しかし、「二反(市東)」の場所は、上記の「一反(市東)
」「一反七畝(市
東)」と離れており、その空間部分に「石橋 A」という文字が記載されて
いる。
但し、甲42の1の2枚目の図面には、鈴木の屋号である「田端」の名
前が記載され、同人の土地の場所が書かれているが、上記の「一反(市東)
」
「一反七畝(市東)」と離れて書かれている。このように訴外藤﨑が書い
た略図は、著しく不正確な図面となっており、上記の「二反(市東)」の
場所を確定することは困難と言わざるを得ない。
従って、2反の賃借地は、一応、「二反(市東)」として書かれている
と言えるが、その賃借地の場所は特定されていないと言うべきである。
オ
項目⑤について
乙15の4枚目の「9
地主の最近の動向」に、1987(昭和62)
年12月、「地主より小作地4反7畝について7対3の割合で分けてくれ
との申し込み」があり、1988(昭和63)年2月に訴外東市が断った
イ と○
ロ
ところ、
「同年3月、地主より、小作地の場所の確認を申し込まれ、○
の部分であることを地主・小作間で確認した。」と記載されている。
イ と○
ロ の境界とおぼし
さらに、続けて「3月10日」として、「地主が○
きに所に木杭6本打つ。その旨電話で報告してきた。」と記載されている。
他方、甲42の1には、訴外東市の確認作業が行われたとの記載は全く
ない。
(3)
上記の対比表は、乙15の記載が、原告の甲42の1に対する原告の
恣意的な解釈を許さないことを明らかにしている。
即ち、対比表の中の次の3か所が特に重要な意味を持っている。
(ア)対比表の項目③について
これは、「賃借地の耕作の交換(市東・石橋の間の交換)」に関する対比で
あるが、甲42の1では、「二反(市東)」に「内緒で石橋」と書かれ、また
「石橋 B」に「内緒で市東」と書かれているが、その交換が原告主張の
ような2段階の交換と解釈できる根拠は何も書かれていない。
むしろ、前述したように、甲42の1の記載は、1回の交換と理解す
るほうが自然なのである。
- 21 -
他方、乙15の記載は、明確に1回の交換であることを記載している。
(イ)対比表の項目④について
これは、
「賃借場所の特定(特に2反の賃借地について図面での特定)
」
に関する対比であるが、甲42の1では、2枚目の図面に、2反の賃借
地について、「二反(市東)」という記載はあるが、その場所は図面全
体の不正確さの故に特定不可能である。
他方、乙15では、1枚目の「4
イ の場
地図」に、2反の賃借地は○
所(つまり農道に接した、その南側の位置)として特定されている。
(ウ)対比表の項目⑤について
これは、「賃借場所の確認(特に2反につき、甲8・9作成時期の確
認)」に関する対比であるが、甲42の1には、訴外東市の確認作業が
行われたとの記載は全くない。
他方、乙15は、4枚目の「9
イ と○
ロ の部
地主の最近の動向」に、○
分であることを地主・小作間で確認したと記載がある。
(4)
以上で検討した3つの項目に関する乙15と甲42の1の対比を見る
ならば、乙15の証拠価値の高さは明らかであり、乙15の記載内容を無
視した主張は虚構の作文に過ぎない。念のために、以下に原告の虚構の主
張点を確認しておく。
① 原告の主張しているような、甲42の1を手がかりとして、訴外東
市の2反の賃借地の場所を「41番9」とすることは、乙15の記載の
内容と矛盾しており許されない。
② また、原告が主張しているような、甲42の1を手がかりとして、訴
外東市と訴外石橋の間で2段階の耕作地の交換があったと解すること
も、乙15の記載の内容と矛盾しており許されない。
③ 原告が主張しているような、訴外東市が甲8・9の訴外東市の署名が
あることを根拠に、訴外東市が甲8・9添付の図面中の41番9に相当
する場所を自分の賃借地と認識していたと解することも、乙15の記載
の内容と矛盾しており許されない。
›
結語にかえて
以上の検討から、甲8(同意書)及び甲9(確認書)に添付された地積測
- 22 -
量図と題する図面(別紙12)や甲17(1988年8月4日付けの地積測
量図(別紙13))の元になった甲42の1の2枚目の略図は、真実を反映
しておらず誤謬に満ちたものであることは明らかである。
従って、訴外東市の南台41番に関する2反の賃借地の場所は、真実は関
係土地図の A に他ならず、原告がこの真実を無視して「南台41番9」と
しているのは根拠が無く完全に誤ってる。
(以下、余白)
- 23 -
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…
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被告代理人は、2011年1月15日に成田市取香242番地の1所在の
訴外藤﨑政吉の自宅を訪問し、訴外藤﨑政吉と約2時間弱面談し、甲42の
1及び甲8並びに甲9の作成経緯について面接調査を行ったが、市東小作地
に関する重要事実が判明した。
そもそも、原告は、訴外東市より自己の賃借地が甲8、甲9の別添図面で
ある旨の説明が訴外藤﨑になされた証拠として甲42の1を提出したが、甲
42の2で訴外藤﨑の自筆の範囲に関する陳述書を提出しただけで、甲42
の1及び甲8並びに甲9の作成経緯について訴外藤﨑の陳述書を提出する予
定もないし人証申請をする予定もないとの釈明を受けて、被告代理人が訴外
藤﨑に面談を申入れ実現したものである。
2
訴外藤﨑政吉は、1955年に急に藤﨑家の小作地の管理も引き継ぐよう
になったので、南台41番土地については同土地の賃借人が市東、石橋、根
本の3人であることは認識したものの、契約上の賃貸地が具体的にどの場所
かまでは知らないままであった。
この点、訴外藤﨑は「半農半商だから、ほんとに3人がどこをどう作って
たか、そこまでは、まだ、勉強やってないですよ」(乙76の1の13頁)
と供述している。
3
訴外藤﨑は、1984年頃までに、原告から、「訴外石橋政次に南台41
番土地を地主7割と小作人3割で分ける案を提案し、然る後に各土地所有者
から買収したい」旨の申し入れを受け、それを承諾した。その後、原告は、
1984年2月15日付けで地主7割・小作人3割になるように7筆に分筆
した地積測量図(甲16)(別紙3)を作成し、同地積測量図を訴外藤﨑に
提案してきた。この提案に対し、訴外藤﨑は、上記地積測量図作成を追認し
て同地積測量図の作成名義人になることを承諾した。
4
訴外藤﨑は、1987年12月頃、原告から「訴外東市に対し南台41番
- 24 -
土地について石橋政次に提案したのと同様の方式(賃借地の3割を小作人が
土地所有権を取得し、残り7割は地主に明渡す)を提案してもらいたいこと、
また、もし訴外東市が上記提案に応じない場合には、同土地の市東賃借権を
土地収用法によって権利取得することになるが訴外東市が現在耕作している
場所が当初の賃借場所と違っているので、訴外東市から当初の賃借地の広さ
(4反7畝)と場所を確認して耕作地を当初の場所に戻すよう求めて欲しい
こと」などを要請され、これを承諾した。
5
訴外藤﨑は、1987年12月26日に訴外東市が小作料を支払いに藤﨑
方を訪ねた際に上記の石橋方式を訴外東市に提案したものの、訴外東市が考
えさせて欲しい旨の返答をしたため、訴外東市に対し、当初の市東賃借地の
場所を尋ねて現在の耕作場所と違っていることを確認し、来年の作付けから
当初賃借地の場所に戻すように求めた。この時、訴外東市は、訴外藤﨑に対
して、当初賃借し耕作していた場所は南台41番土地のABの土地であり、
1971年ころ石橋政次との間でA土地とC土地を交換して耕作していた旨
を説明した。
訴外藤﨑は、原告から、訴外東市との面談の経過及び面談内容を報告書に
して提出して欲しい旨頼まれて、メモと手書図(甲42の1)を作成し、こ
れを原告に渡した。
6
訴外藤﨑は、1988年1月頃、原告から、南台41番土地の41番1な
いし同番7の合筆を行うことを求められて了承し、同年1月26日付けの合
筆登記が行われた。このころ、訴外藤﨑は、原告との間で、手書図(甲42
の1。別紙10)を基に訴外東市の当初賃借地の場所について検討を重ねて
いた。
しかし、同手書図は、著しく杜撰なものであった。例えば、同手書図に書
かれた2か所の市東賃借地は北側(2反7畝)、南側(2反)共に先に原告
が作成し、千葉県収用委員会に提出した甲16号証(別紙3)の地積測量図
中の市東賃借地の場所と一致しないものであった。
したがって、訴外東市の当初賃借地の場所に関する訴外藤﨑と原告との協
議はなかなかまとまらなかった。この点、訴外藤﨑は、「ああじゃないか、
- 25 -
こうじゃないかで、作ったもんですからね、こんなもの」「こんな図面、[中
略]こうじゃないか、ああじゃないかと言って、作った図面ですよ、はっき
り言えば」(乙76の1の6頁)と供述している。
7
また、訴外藤﨑は、同手書図に書かれた2か所の市東賃借地のうち北側の
2反7畝の場所について、鈴木(屋号田端)の南台40番土地との間に空間
があり、現実にはあり得ない位置になっていること(乙76の1の25頁)、
南側の2反の場所について、訴外石橋の土地と隣接するように書かれている
が、そこは石橋の屋敷林がはみ出し竹藪の陰ができる場所なので石橋の賃借
地が相当で市東賃借地というのは不自然であることを認めている(乙76の
1の12頁)
。
8
原告は、訴外藤﨑が、当初の市東賃借地の面積のみに関心があり、位置に
ついては正確な認識がなく、また関心がなかった状況の下で、原告主導で新
たな地積測量図を作成することとし、訴外藤﨑は、原告に一任した。原告は、
市東賃借地の面積を4反7畝(4661平方メートル)にすることを眼目に
して、図上の製図で新たな地積測量図を作成した。
しかし、この地積測量図の作成の際、実際の現地測量は行われておらず、
訴外藤﨑及び訴外東市の立ち会いもなされていない上、訴外藤﨑は一切関与
のないまま、同地積測量図の作製者欄の署名は上西の部下の原告職員が行っ
たであった。このような経過と手法で作成されたものが、甲8号証及び甲9
号証の各2枚目の1988年3月1日付の地積測量図(別紙12)である。
9
訴外藤﨑は、同地積測量図が訴外東市の賃借地の面積(4反7畝、466
1平方メートル)だけは正確になるように図上の製図で作成したものにすぎ
ず、市東賃借地の場所を特定するものではないことを充分認識していた。
この点、訴外藤﨑は「4611だけをこう出してきたようなことだろうと
思いますよ」「後で逆算から4600㎡の形をとにかく作るということの、
出来上がりの図面ですよ。4600、この契約面積だけは正しく出していか
なきゃなんないからでしょうね」(乙76の1の12頁)と供述している。
また、訴外藤﨑は、「参考ですよ、こんなもの」(乙76の1の6頁)と全
- 26 -
くの参考程度の意味しか持っていないと供述し、また「論じたってしょうが
ない」(乙76の1の6頁)と供述しているとおり、同地積測量図によって
市東賃借地を議論することは意味がないとしている。
したがって、甲42号証の1はもとよりのこと、甲8号証、甲9号証に添
付された地積測量図における市東賃借地の位置は、事実に反するものであり、
証明力を欠如しているものである。
10
以上につき、原告は「同別紙図面中に(市東)と記載された土地部分が、
一反七、一反、二反の合計四反七畝となること、そして、これが訴外藤﨑政
次郎(以下、「政次郎」という。)と訴外東市間の農地賃貸借契約(甲第2
0号証)における賃借面積と完全に一致することから、当該図面は、訴外東
市と訴外政次郎間で同契約が締結された昭和25年時点における訴外東市の
賃借地の位置、形状を示していることは明らかである。ちなみに、訴外東市、
同藤﨑間で取り交わされた甲第8号証(同意書)及び同第9号証(賃借地境
界確認書)の別添図面における賃借地もこれと一致している。」(原告準備
書面(9)2頁∼3頁)などと主張する。
しかし、農地賃貸借契約(甲20)における賃借面積と一致するからとい
って、「訴外東市の賃借地の位置、形状を示していることは明らか」になる
ものではない。原告の主張は明らかに論理の飛躍がある。
11
上記の甲42号証の1の作成経過や甲42号証の1(別紙10)におけ
る2か所の市東賃借地は甲16号証(別紙3)とは異なる上、客観的事実と
も相反することからすると、甲42号証の1は市東賃借地の位置や形状を特
定する上では何ら意味をなさないものというほかない。
かえって、農地賃貸借契約(甲20)の賃借面積と一致していることから
すると、訴外藤﨑には市東賃借地の賃借面積の認識しか有していなかったこ
とを裏付けるものである。
そして、甲8号証、甲9号証添付の地積測量図(別紙12)は、このよう
な杜撰な甲42号証の1を基礎として、図上製図で作成されたものに過ぎず、
市東賃借地の位置や形状の特定に資するものとは到底言い難い。
- 27 -
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偽造1(署名の偽造)
(1) 被告が41番9の土地を賃借していたとの原告の主張を裏付ける「証拠」
は、同意書(甲8)及び賃借地境界確認書(甲9)であるが、いずれも原
告が訴外東市の署名を偽造して、偽造文書で無効である。
(2) 原告は、南台41番に関する訴外東市の賃借権を強制収用手続きの対象
とするため、1987年4月24日付けで千葉県収用委員会に対して「裁
決申請書及び明渡裁決申立書の記載事項の変更について(報告)」(甲4
7)と題する文書を提出した。
ところで、訴外藤﨑から農地所有権を取得する場合、同人の賃借地を特
定することは、土地売買契約はもとより、千葉県収用委員会における収用
裁決でも必要不可欠である。
そこで、原告職員の上西、法理らは訴外東市が訴外藤﨑に地代を支払う
ために来宅した際に訴外東市の賃借地について問い合わせ、その結果を報
告書にして提出することを依頼し、訴外藤﨑はメモと手書き図(甲42の
1)を作成してこれを原告に渡した。
(3) 原告は、訴外藤﨑が南台の農地について、訴外東市の賃借地の位置につ
いて知識がないため、訴外東市から当初の賃借地を特定し、現に耕作して
いる農地について、当初の耕作地に戻す旨の書面の交付を受けることを企
図した。
しかし、訴外東市が賃借地境界確認書や耕作地を縮小して土地所有者の
指定の場所に戻すことを承諾する同意書に署名、捺印することは到底あり
得ないと判断した原告職員の上西、法理らは、地積測量図を偽造した上、
同意書、確認書の訴外東市の署名をも偽造するに至った。
(4) 訴外東市の署名が偽造であることの根拠
筆跡鑑定人根本寛は、鑑定資料である同意書及び確認書と対照資料であ
る宣誓書及び訴訟委任状の「市東東市」の通算16文字(2文字×8)を
比較することによって、「市」では第1画の大きさ、第3画の角度、最終
縦画の横方向へのバラツキの3点から「異筆の可能性が高い」、「東」で
は第1画の長さ、第2画の角度、第3画転折部の形、縦画と右払始筆部の
- 28 -
関係の4点から「ほぼ異筆である」との結論を導いている。
同鑑定人は、鑑定資料は偽造が疑われているから、「非類似箇所を発見
して精査することが重要であるとの観点から、徹底的に「市」と「東」の
4文字を分析している。その上で、前記の結論に達しているから、極めて
信頼が高いと考えられる。
(5) 他方、原告が依頼した筆跡鑑定人塚本宇兵作成の平成24年1月20日
付け筆跡鑑定書は、全く同じ資料を基に根本鑑定書とは逆に、「相互に筆
跡の恒常性や稀少性の個人的な特徴(癖)がよく表現されている文字も含
まれており、極めて類似している。よって、同一人の筆跡と認められる。」
との結論を導いている。
しかし、上記鑑定結果は、第1に、「市」と「東」は、前記の鑑定資料
に各4文字ずつ現れているにもかかわらず、塚本鑑定書でとりあげた「市」
は2文字、
「東」は1文字にすぎない。第2に、同筆と判断するためには、
「安定した類似点があること」と、「安定した相違点がないこと」の2要
件が必要であるが、この検討を全く行っていない。第3に、筆跡鑑定は、
「本人の筆跡の可能性」と「別人による偽造の可能性」の両面から詳細に
分析、考察を行う必要があるにもかかわらず、塚本鑑定書では本人の筆跡
であるとし、その立場からの検討、分析しか行っていない。石井鑑定書も
同様である。
(6) 以上の点から、同意書及び確認書に記載された「市東東市」は、訴外東
市が自署したものではない。同意書及び確認書は、原告による偽造文書に
他ならない。
2
偽造2(地積測量図の偽造)
(1) 仮に同意書及び賃借地境界確認書が訴外東市の自筆だったとしても、原
告が訴外藤﨑が「市東東市耕作地」がどこかを特定する知識が欠如してい
ることを奇貨として、勝手に訴外藤﨑名義で新たな地積測量図を作成して
いるから、やはり同意書及び賃借地境界確認書は偽造文書として無効であ
る。
(2) 原告が1987年4月24日付けで千葉県収用委員会に「裁決申請書及
び明渡裁決申立書の記載事項の変更について(報告)」(甲47)と題す
- 29 -
る文書を提出した後間もなく、千葉県収用委員会は、原告に、訴外東市の
賃借地に関する訴外東市の署名のある文書の提出を求めたため、原告は、
1988年3月頃、本件同意書の1枚目を作成し、これを訴外藤﨑に渡し
て訴外東市から署名を得るように依頼した。
訴外藤﨑は、直ちに同意書の1枚目だけを訴外東市に示して同人から署
名を得て、訴外藤﨑から原告に交付された。原告は同意書の1枚目だけを
千葉県収用委員会に提出したところ、千葉県収用委員会から市東署名の文
書には賃借地を特定する図面が添付されていることが必要である旨を指摘
され、提出した同意書を返されるとともに、図面を添付した同意書の提出
を求められた。
(3) 訴外藤﨑は、原告との間で1988(昭和63)年1月頃、訴外藤﨑が
作成した手書図を基に訴外東市の当初賃借地の場所について検討を重ねた
が、同手書図は著しく杜撰なものであったため、訴外東市の当初賃借地の
場所に関する訴外藤﨑と原告との協議はなかなかまとまらなかった。
(4) 原告は、訴外藤﨑が当初の市東賃借面積にもっぱら関心があり、賃借地
の位置については正確な認識がなく、また関心がなかった状況の下で、原
告主導で新たな地積測量図を作成することとし、市東賃借地の面積を4反
7畝(4661平方メートル)にすることを眼目にして、図上の製図で新
たな地積測量図を作成した。
原告は、前記の同意書の2枚目に自ら偽造した地積測量図を勝手に添付
し、また勝手に作成した市東名義の印鑑を使って割り印を押し、かつ同書
面の1枚目の枚目の訴外東市の署名の下にも押印して同意書を偽造した。
(5) 本件賃借地境界確認書の作成経緯も、本件同意書と全く同じである。
(6) 本件訴訟の文書提出命令事件(平成23年(モ)第305号)の決定書
に提出されたインカメラ文書の表題をみると、「藤崎正吉からの事情聴取
結果」、「藤崎政吉氏との打合せ概要」、等であり、いずれも訴外藤﨑政吉
との交渉記録等の報告書が随時頻繁に作成されていた。
実際にも、前記文書提出命令事件によって開示された「藤崎政吉所有地
(事件番号91)の取扱いについて(案)」(乙85)には、「昭和46年
頃市東及び石橋両人は土地所有者の了解なしで耕作場所を変更し、現在に
至っている。」と記載され、訴外藤﨑は被告(訴外東市)の賃借地の範囲
- 30 -
を知らなかったという被告の主張を裏付けている。
前記文書提出命令事件では、インカメラ対象文書のうち既に開示済のを
除いた全文書の開示を原告に命じて確定したが、原告は一切開示しない。
よほど「疚しい」ことが記載されているのであろう。これらの報告書を提
出できないのは、まさに偽造に深く関連しているからと思料される。
3
土地売買契約の無効
前記のとおり、同意書(甲8)、賃借地境界確認書(甲9)、地積測量図
(同2枚目)は、いずれも偽造文書であり、これに基づいて南台における市
東東市の賃借地を41番8、同番9と特定して契約された空港公団と藤﨑政
吉との間の小作権につき土地売買契約(甲36)は無効である。
4
錯誤
(1) 仮に同意書及び確認書が偽造文書でなく、真正文書であったとしても、
署名・捺印は訴外東市の錯誤によるものである。
訴外東市は、成田市天神峰字南台41番の土地のうち市東家が当初より
藤﨑家から賃借していた土地は「関係土地図」(別紙1)中のA部分(2
反)及びB部分(2反7畝)の連続した計4反7畝であることを熟知して
いた。
1972年に訴外石橋と訴外東市が市東賃借のA部分(2反)と訴外石
橋賃借のC部分(1反7畝)を交換し、耕作地の中心にあり、なおかつ最
大の面積を有する連続した土地であるB部分からすれば、「団結街道」か
らみて、付随する土地が左手前(A部分)から右奥(C部分)に変更され
た。1987(昭和62)年12月の時点では、農道北側の畑(BCD)
だけを耕作していた。
(2) 甲8及び甲9が作成されたという1988年3月、訴外藤﨑と訴外東市
のやりとりが乙15(元永メモ。別紙11)にリアルタイムで記録されて
いる。
すなわち、乙15の「9
地主の最近の動向」に、1987(昭和62)
年12月、「地主より小作地4反7畝について7対3の割合で分けてくれ
との申し込み」があり、1988年2月、訴外東市が「地主に対し前記申
- 31 -
し込みを断った」。その直後の「3月、地主より、小作地の場所の確認を
イ と○
ロ の部分であることを地主・小作間で確認し」
申し込まれ、○
、3月1
イ と○
ロ の境界とおぼしきに所に木杭6本打つ。その旨
0日には、「地主が○
電話で報告してきた。」と記載されているように、2月から3月、地主の
イ と○
ロ の部分すな
藤﨑から頻繁に連絡があり、訴外東市は小作地の場所を○
わち関係土地図のA部分とB部分だと回答している記録が残されている。
イ と○
ロ の部分であると常に
こうした記録から、訴外東市は市東小作地が○
ハ とかE1とした甲8及び甲9の
答えていたのであるから、市東小作地を○
同意書・確認書に署名するはずがないし、署名したとしたら錯誤か詐欺か
脅迫などの強制しかありえない。それも卑劣きわまりない方法しかありえ
ない。地図など見せたら署名するはずがないからである。
なお、訴外東市は、訴外藤﨑から当初の賃借地の場所を耕作するように
求められたため、1988年4月からBCD部分に加えて新たにA部分を
耕作開始しており、訴外東市がA部分を当初賃借地と認識しこだわってい
たことが明白である。
(3) 被告代理人による訴外藤﨑政吉との面談調査の際、訴外藤﨑が甲 8 及び
甲9に添付されている図面は契約面積以外でたらめだと自認していたた
め、被告は、甲8、甲9が偽造、錯誤以外にありえないという核心の下、
甲8、甲9の証拠価値がないことを明白にさせるため、本件文書提出命令
を申立てたのである。
裁判所も、東京高裁で2回、本件訴訟の岸裁判長の下で1回、本件農地
買収において、
空港に反対する訴外東市の小作地の範囲が最も重要であり、
当然交渉記録が作成され空港公団内部で回覧されていたと認定し、裁判に
とって必要不可欠の証拠だから提出せよと命じた。
本件訴訟の再開の冒頭で指摘しておきたいが、岸裁判長の同決定は、
「東
市確認書が真正に成立したものであれば、亡東市の賃借地の範囲の認定に
おいて重要な証拠となるところ、東市確認書が作成されるまでの経緯を踏
まえると、インカメラ対象文書はいずれも東市確認書の成立の真正を判断
するために有用な文書であるから、基本事件における証拠調べの必要性が
認められる。」と認定し、また「亡東市の賃借地については同人の有する
賃借権を消滅させない限り空港の用地として使用できないのであるから、
- 32 -
公団にとって、旧41番土地を取得した後に亡東市との間で賃借地の範囲
等について争いが生じないようにすることは重要であり、まして、前述の
とおり、除外文書目録2記載の文書に添付された資料5と地積測量図とで
は亡東市の賃借地の範囲が異なっているのであるから、地積測量図の記載
内容が正しいかどうかを検討するためにも、東市確認書の作成状況等につ
いて、藤﨑に対して確認し、その結果などを文書に残す必要があったとい
うべきである。
」と判断している。
(4) 原告にとっても、甲8及び甲9が真実訴外東市が署名し、訴外藤﨑から
入手したのであれば、当然作成している藤﨑との交渉記録を提出すればよ
いことである。
本件農地の隣地である成田市天神峰42番の土地に関する裁判において
は、原告が進んで提出しており、拒む理由は一切存在しない。
ところが、原告は、いまだに交渉記録の提出を拒んでいる。
何故なのか。原告が本件文書提出命令を発出された上で隠さなければな
らない交渉記録とは、甲8及び甲9が偽造か詐欺か錯誤かいずれか違法な
手段によって作成されたことが交渉記録によって暴露されるのを恐れたと
しか考えられない。
現在の原告空港会社の姿は、甲8、甲9のように今に至るも入手経過も
説明できないものによって裁判を起こしている無責任の極みである。
したがって、甲8、甲9には一片の証拠価値もないと認定されなければ
ならない。
(5) なお原告は、短期間の間に、乙42の1(藤﨑メモ)、乙15(元永メ
モ)、甲8・甲9と訴外東市の認識が三転していることを問題としている
が、藤﨑メモは訴外東市に見せられたことはないので、三転しているとの
非難はあたらない。
(6) 同意書及び賃借地境界確認書は、訴外東市の耕作地を確認するために行
われているから、訴外東市の錯誤は、単なる土地賃貸借契約を締結するに
至った動機に関する錯誤ではなく、土地賃貸借契約の契約内容に関する錯
誤であり、要素の錯誤に該当する。
なお、原告は重過失であるとしているが、重過失にはあたらない。
従って、無効である。
- 33 -
5
まとめ
原告が41番9の土地が市東賃借地であることを根拠づけるとする同意書
及び確認書の効力が無効である以上、原告の主張を裏付ける証拠は一切ない。
原告の本件請求は速やかに棄却されるべきである。
(以下、余白)
- 34 -
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文書提出命令の確定
本件訴訟については、被告の賃借地の場所をめぐる原告の唯一の証拠とも
いうべきものは「同意書」(甲8)及び「境界確認書」(甲9)とそれらの
添付図面であるところ、後述のとおり、これら証拠は空港公団職員によって
偽造されたもの、あるいは錯誤により無効である。
そして、前記「同意書」及び「境界確認書」とそれらの添付図面とが偽造
されたものであることに関しては、被告申立てにかかる文書提出命令が20
14年8月27日に確定しているところである(平成25年(モ)第128
号文書提出命令申立事件)。前記文書提出命令はこれら証拠の成立の真正等
について証拠調べの必要があるとして、原告に対して、下記①ないし⑤の文
書(以下「交渉記録等」という)の提出を命じたものである。
①
1987年12月の藤﨑作成のメモ及び手書き図(甲42の1)の作成
経緯、藤﨑の説明、新東京国際空港公団が入手した経緯、本件訴え提起ま
での保管経緯について記載した「交渉記録」等の報告書(乙42ないし5
0と同様のもの。以下同じ。)その他の関連記録一切
②
1988年3月1日付け地積測量図(甲8、9、36の各2枚目図面)
の作成経緯、藤﨑とのやり取り、公団が入手した経緯、上記各甲号証の2
枚目に利用した経緯について記載した「交渉記録」等の報告書その他の関
連記録一切
③
同意書(甲8)の作成経緯、藤﨑とのやり取り、公団が入手した経緯、
本件訴え提起までの保管経緯について記載した「交渉記録」等の報告書そ
の他の関連記録一切
④
境界確認書(甲9)の作成経緯、藤﨑とのやり取り、公団が入手した経
緯、本件訴え 提起までの保管経緯について記載した「交渉記録」等の報
告書その他の関連記録一切
⑤
1988年4月12日の売買契約(甲36)において、公団が市東東市
の賃借地の範囲を別紙関係土地図中のB及びE1であると認識を変えた経
緯について記載した「交渉記録」等の報告書その他の関連記録一切
- 35 -
2
前記文書提出命令にかかる原告の態度
(1) 原告は、覚書(甲71)の作成以降必要がなかった、であるとか、東市
確認書の作成状況の検討等をする必要性がなかった、であるとかの弁解を
展開して、前記提出命令に先立つインカメラ手続の段階から、交渉記録等
は存在しないと主張するのみであって、同文書を廃棄、紛失等したとの事
情を何ら主張することすらしていない。
(2) そして原告は、「同意書」、「境界確認書」に関する交渉記録等の文書は
「一切存在しない」との上記の主張を開陳するのみで、現在に至るも前記
文書提出命令に従おうとはしない。
3
前記文書提出命令の意義
前記(平成25年(モ)第128号)文書提出命令の千葉地裁民事2部差
戻審・岸決定は、次のように認定する。
(1) 交渉記録等の作成については、「担当者は、特段の事情のない限り、前
記規程の指定する交渉記録簿又はこれと同等の記載内容の交渉記録(以下
「交渉記録等」という。)を作成していたものと推認するのが相当である。
相手方は、交渉記録等を作成するか否かは担当者の裁量に任せられていた
と主張するが、担当者には一定の裁量があるとしても、作成するか否かが
全く担当者の裁量に委ねられていたとは認められないし、他に上記推認を
妨げる特段の事情は見受けられない。
そうすると、公団と藤﨑との売買契約に関する交渉においても、その交
渉経過において重要な事項については、交渉記録等が作成されたと認める
のが相当である。」と明快に結論付け、
(2) さらに、
ア
亡東市の賃借地の範囲が重要な事項であったことについて、「除外文
書目録1記載の文書の記載内容によれば、公団の担当者は、昭和62年
3月23日の時点で、亡東市が昭和21年以前からの小作人であり、そ
の賃借権が農地法の許可がなくとも有効なものであるから、藤﨑から旧
41番土地を取得しても、亡東市の賃借権を消滅させなければ、公団の
目的である空港の用地としての使用ができないことを認識していたと認
- 36 -
められる。そうすると、公団にとって、藤﨑から旧41番土地を取得す
るための交渉において、亡東市の賃借地の範囲は重要な事項であったと
認められる。」とし、
イ
亡東市の賃借権の範囲を特定するまでの経緯が重要な事項であること
については、「昭和62年10月20日に作成された除外文書目録2記
載の文書に添付された資料5と、昭和63年3月1日に作成された藤﨑
作成名義の地積測量図(甲8、9、36の各2枚目の図面。以下「地積
測量図」という。)とでは亡東市の賃借地の範囲が異なっていることを
考慮すると、亡東市の賃借地が地積測量図のとおりであると特定するま
での経緯についても、公団が買収交渉を進める上で重要なものであると
いえ」、「藤﨑作成のメモ及び手書き図(甲42の1)、地積測量図、亡
東市の賃借地の範囲を確認し元の賃借地に戻すことに同意した同人作成
名義の文書(甲8、9。以下「東市確認書」という。)の作成経緯は、
いずれも亡東市の賃借権の範囲を特定するまでの経緯において重要な事
項である」から、
ウ
「これらについて、藤﨑から作成状況等に関する聴取をしたり、それ
を基に検討した内容が記載された交渉記録等が作成されたと認めるのが
相当である。
」と結論付けている。
(3) それに留まらず、
「相手方が非提示文書を所持していると認めるのが相当であるところ、相
手方が提示命令に従わないということは、提示命令に従って提示すると相
手方に不利益な判断、つまり自己利用文書には該当しないとの判断がされ
ることを予期しているためであると考えざるを得ず」として、原告の態度
を明確に批判しているのである。
(4) この岸決定を支持した東京高裁第7民事部・菊池決定は、次のように認
定する。
本件農地買収の当時の状況、経過につき、「旧 41 番土地の買収を企図す
る公団にとって、耕作者である亡東市が現実に占有する土地の範囲、占有
権原を有する土地の範囲は、買収の方針、その条件となる金額、時期、手
続等を決定する上でも、最も基本的な事項であって、この確定作業は、旧 41
番土地の買収に伴い、その用地の現実の使用を確保するための重大な関心
- 37 -
事項であり、重要な課題であったと言わざるを得ないのである。」
また亡東市との間で賃借権の範囲が争いになるとの予想につき、「当時
から、占有の範囲について主張や資料が整合しない部分があったことは原
審認定のとおりであり、前記の経過を併せ勘案すると、少なくとも、この
ような状況となっていることは公団の担当者は認識していたと認められ、
亡東市が空港反対派の農家であるとの認識も持っていたのであるから、な
おさら慎重に旧 41 番土地上の権利の消滅のための情報や資料を収集し、
その対処方針を公団が決定するため、権利関係の当事者であった藤﨑との
協議、交渉を通じた情報収集とその検討が重要であったことは明らかであ
る。したがって、担当者がその交渉内容等を担当部署内で情報共有し、関
係部局の閲覧に供した上、決裁権者の判断を仰ぐため、報告書等として作
成していなかったとは考え難いのである。」として、
「公団の担当者が非提示文書を作成し、抗告人がこれを所持していると推
認した上で、その証拠調べの必要性を認め、自己利用文書には該当しない
として、抗告人に対し、その提出を命じた原決定は相当であり、本件抗告
は理由がない」と決定した。高裁の差し戻し決定、差戻後の千葉地裁の提
出命令の決定と今回の東京高裁の棄却決定は、3度にわたって空港会社の
主張が認められなかったことはきわめて重大である。
これらの決定内容は、原告に対する根本的批判である。
4
原告が前記文書提出命令に従わないことによる効果
(1) 原告は前記文書提出命令に従わず、依然として公証記録等を提出しよう
としない。しかも原告が従わない理由は、前記提出命令によりいずれも理
由なきものとして明確に排斥されているのである。
(2) したがってまず裁判所は、民事訴訟法224条1項に基づき、同意書(甲
8)及び境界確認書(甲9)は空港公団職員によって偽造されたものであ
る、または錯誤により無効である、との被告の主張が真実であると認定す
るべきである。
(3) さらに本件訴訟においては、被告は自らの賃借地の場所について従前か
ら原告主張の場所であることを否認し、41番1のA部分と41番8(B)
とが自己の賃借地であると主張しているところである。
- 38 -
被告の賃借地の場所がどこであるかの問題は、本件訴訟の帰趨を決する
ものであり、それゆえに多数の期日が開かれて来た。そしてこの問題にお
いてにおいて決定的な意義を持つものとして本件文書提出命令にかかる申
立てがなされ、その結果、原告の唯一の証拠たる「同意書」及び「境界確
認書」とそれらの添付図面とが偽造である、または錯誤により無効である、
との被告主張が正鵠を得たものであったことが一層明らかになったのであ
る。
上記偽造に至る経緯は、本件訴訟における被告の賃借地の正確な場所と
表裏一体の関係にあると言うべきであり、そして、被告が交渉記録等の記
載について具体的な主張をすることは自明である。
前述したとおり、被告は、幾多の証拠で、市東賃借地が「関係土地図」
(別紙1)のA部分であり、E1(41番9)でないことを明らかにした。
しかも、空港公団は1987年10月時点では市東賃借地がA部分である
と認識していたことも明白になっている。しかし、これらの証拠と相違す
るのが甲8、甲9だけであり、甲8、甲9の作成経緯が明らかになれば偽
造か錯誤かが明白になるため、前記文書提出命令が申し立てられたのであ
る。
したがって裁判所は、民事訴訟法224条3項に基づき、甲8及び甲9
が偽造ないし錯誤により無効である、との被告の主張が真実である、と認
定するべきである。
(以下、余白)
- 39 -
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南台40番の土地というのはどこにあるか?
(1) 南台40番の土地は、空港公団が1969年3月14日に訴外鈴木政重
から買収した土地であると原告は主張している。しかし、それはいったい
どこにあるどういう形状の土地なのか。訴状別添図面(別紙16)では、
黄色に着色された奇妙な形の部分だとされている。旗竿にのぼりがついた
ような形状であり、竿の部分は幅が数十センチしかない。
(2) 原告の説明では、土地売買の際の南台40番の土地についての地積測量
図は存在しない、という。売買した土地の範囲は、売り主である訴外鈴木
と買い主である空港公団との間で確認したものだという。
通常土地の売買に当たっては、隣地所有者が立ち会って、土地の範囲を
確認して行うものであるが、この場合には、隣接地である南台39番と4
1番の所有者の立会いを求めてもいないし、境界の確認の書面も作成して
いない。それで土地の売買を行ったと言うのであるからあきれるしかない。
これでは土地の位置や形状が特定されるわけがない。
(3) 千葉法務局成田出張所にある乙2「公図」(別紙17)では位置や形状
が全く違う。南台40番は、横長のきれいな短冊形であり、北から38番、
39番、40番と並んでいるのである。
これは、御料牧場の土地の払い下げによって生じた民有地であり、機械
的に区切られ、番地が振られたものであることから合理性もある。
したがって、訴状添付の図面における南台40番の形状には、何らの根
拠もなく、公図のとおりの位置と形状であるというのが正しいのである。
なお、実際に耕作していた土地の範囲というのは、所有権の範囲と必ず
しも一致しないこともあり得る。40番の土地が東西に細長い形状であっ
たことから、耕作の便ということから、40番の土地を耕作する訴外鈴木
政重と隣接する41番の土地を賃借する訴外石橋との間で、
「関係土地図」
(別紙1)C2部分とD1部分を交換するという、実際上の耕作地の交換
が行われていたと考えられるのだ。耕作と所有は一致していないというこ
とである。
- 40 -
(4) こうして、訴外鈴木が空港公団に土地を売却した後も、南台40番と4
1番の耕作地の境界は渾然一体となっており、明確な線引きのできない状
態で耕作が続いていたのである。
2
訴外藤﨑との間でのC・Dの土地賃借の合意
(1) 1970年夏以降、「関係土地図」(別紙1)D部分を耕作してきた訴
外鈴木が耕作をやめて移転したのであるが、訴外鈴木が公団に売却したこ
とは知らされていなかった上、
その一角全体が藤﨑の所有地であったため、
訴外鈴木も訴外藤﨑から賃借していた小作人だとみられていた。訴外市東
東市も、鈴木が耕作放棄したD部分全体が藤﨑の賃貸する土地であると認
識していた。
1971年ころ、訴外石橋政次は訴外市東東市に対し、訴外石橋の賃借
しているC部分が訴外石橋の他の賃借地と離れていて不便であるとして、
訴外市東さんの賃借しているA部分との耕作の交換を求めてきた。訴外東
市は、やむを得ずその交換に同意した。
(2) 1971年12月下旬、訴外東市は、訴外藤﨑に対し、A部分を訴外石
橋に転貸し、逆にC部分を訴外石橋から転借することを申し出た。同時に、
訴外鈴木が耕作放棄し耕作されなくなっているD部分も合わせて自分が賃
借して耕作することを申し出た。荒れ地の放置は隣接農地にとって大変な
迷惑であり、D部分の賃借を行うことが双方にとって合理的であったから
である。これに対し、いずれも、訴外藤﨑は承諾した。
そこで、遅くとも1972年1月以後、訴外東市は、訴外藤﨑の承諾の
もと、BCD部分を、訴外藤﨑から正式に賃借している土地として耕作す
るようになったのである。
(3) その後、1987年になって訴外石橋政次が耕作をやめて出て行ったた
め、1987年12月、訴外東市は、訴外藤﨑に対し、A部分の転貸借が
終了したため自ら賃借人としてA部分の耕作を続けること、訴外石橋から
転借していたC部分についても、そのまま自らが賃借人として耕作を続け
ることを申し出た。これに対しても訴外藤﨑が承諾したので、訴外東市は、
訴外藤﨑の承諾した賃借人として、ABCD部分全体を耕作することにな
った。
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(4) 被告は、訴外東市がこうして耕作を続けてきたABCD部分の土地に対
する賃借権を相続により承継したものである。
3
賃借権の時効取得
(1) 遅くとも1972年1月1日以降、訴外東市は、CD部分を現に農地と
して賃借して占有を開始した。訴外東市は、前記の事実関係から、CD部
分の土地を訴外藤﨑から賃借しているものと認識して耕作を続け、CD部
分の土地の賃借料を含むものとして毎年年末に訴外藤﨑に対して小作料を
支払ってきた。
訴外藤﨑は、
訴外東市がCD部分の耕作を行っていることを知りながら、
小作料を受領し続け、耕作の範囲について異議や苦情などを述べたことは
一度もなかった。
(2) また、空港公団も南台40番の土地が南台41番の土地と一体となって
おり、40番の部分を含めて訴外東市によって耕作されていることに対し
て、苦情や異議を述べることもなく、南台40番の土地が41番の土地と
一体となって区別がつかない状態で耕作されている状態を放置してきた。
それゆえ、訴外東市は、賃借の意思を持って、CD部分の土地を平穏か
つ公然に1972年から占有を続け、占有の開始のときに善意無過失であ
ったので、1982年1月1日の経過により、CD部分の土地に対する賃
借権を時効取得した。
さらに訴外東市は平穏かつ公然に占有を継続しており、1992年1月
1日を経過しているので、占有の開始において善意無過失であったかどう
かにかかわらず、賃借権は時効取得されたことは明らかである。
(3) ちなみに、原告空港会社は別の訴訟において、被告の耕作する天神峰の
農地について、天神峰78番2という地番の土地のみが賃借地であると主
張しているにもかかわらず、「長期間にわたり、訴外東市によって賃借土
地と一体的に使用されており、原告空港会社及び賃貸人岩澤がこれに異議
を述べることはなかったことから、賃借権の取得時効が成立していると判
断」していることを公式に表明している。
長期間にわたり賃借土地と一体的に使用されているという点では、CD
部分とその中に含まれる南台40番の土地も全く同様であって、南台にあ
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っては賃借権の取得時効を認めないとする理由は全くないはずである。
(以下、余白)
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(別紙一覧)
別紙1
「関係土地図」(平成25年(モ)第128号事件、2013年8月12日
付け意見書66頁)
別紙2
甲30(1970 年 11 月 30 日付「収用裁決申請書添付測量図の合せ図」)
別紙3
甲16(1988 年 2 月 15 日付「地積測量図」)
別紙4
甲15(1970年8月24日撮影の航空写真)
別紙5
「石橋屋敷略図」(2011 年 1 月 24 日被告準備書面(15)の9頁)
別紙6
乙52(1947年10月25日撮影の航空写真)
別紙7
乙54(1967年2月14日撮影の航空写真)
別紙8
乙63(1967年3月19日撮影の航空写真)
別紙9
乙64(1971年2月4日撮影の航空写真)
別紙 10 甲42の1の2枚目(「藤﨑手書図」)
別紙 11 乙15(「小作権について」[元永メモ])の「4、地図」
別紙 12
甲8号証及び甲9号証の各2枚目の1988年3月1日付けの地積測量図
別紙 13
甲17(1988年8月4日付けの地積測量図)
別紙 14 乙85の資料5−1(「当初の耕作地(昭和13年∼45年)」)
別紙 15 乙85の資料5−2(「小作地位置図(当初の耕作地)
(昭和 13 年∼ 45 年)」)
別紙 15 のリライト
別紙 16 訴状別添図面
別紙 17 乙2(成田市天神峰字南台40番、41番の公図)
別紙 18 原告準備書面(8)別紙図面①(昭和25年※賃貸借契約時)
別紙 19 原告準備書面(8)別紙図面②(昭和44年時)
別紙 20 原告準備書面(8)別紙図面④
(昭和46年頃※昭和45年12月根本和之助移転)
別紙 21 原告準備書面(8)別紙図面⑥
(昭和63年8月∼※昭和63年8月23日41−8、9分筆)
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