発行:大水都史を編み後世に伝える会 八軒家かいわいマガジン 雑記帳 2008 ▶ 2011 大水都史を編み後世に伝える会 一五〇〇年前、ここは『難波津』の港だった サントリーの創業者は釣鐘町生まれ 日本初の蕎麦屋は西区新町「砂場・いづみや」 目次 いまの京橋は、目立たない名の橋だ。昔は違った。 高麗橋は「天下の三大名橋」の一つだった 京橋って橋はどこにある? 難波橋にライオン!なぜ? 「天満の重ね橋」の「もったいない」発想とは? 浪花名所絵双六に八軒家発見! お吉殺しの脇差しが川底に!(栴檀木橋) 空海はここから唐へ船出した?(天神橋) ん?防空壕の開かずの扉 八軒家かいわい聞き書き帖(1) 八軒家かいわい聞き書き帖(2) 「牡蠣船」が大阪の風物詩だった時代 万葉集に大阪で詠まれた歌がなんと二百首も! 将軍慶喜、大阪城から大脱走 大阪のジャーナリストの走りは絵師だった 八軒家かいわい落語漫歩「高津の富」 中世の八軒家は渡辺水軍の根城だった! 大阪のベルエポック「第五回内国勧業博覧会」 江戸VS大坂。大久保利通の大阪遷都計画とは? 熊野街道がお祓い筋と呼ばれる理由? 松下幸之助の大阪電燈(現関西電力)時代 「ひとつぶ300メートル」のネオン 堂島薬師堂の節分お水汲み祭 大阪引き札トランプ 壬生浪士VS相撲力士乱闘事件 浪速の橋のギャラリー「錦橋」 八軒家の歴史を刻んだ料亭「三橋楼」 ロンドンより早かった!太閤さんの下水道 昆布ロードの終着点は「八軒家」? 浪速にも「清水の舞台」があった! なにわの伝統野菜「天満菜」ってご存じですか? 引き札で見る江戸・明治の八軒家かいわい 4 なんだあれは?中之島に軍艦が隠れていたぞ 5 41 40 38 36 34 32 29 28 25 23 22 20 18 16 14 11 77 74 71 69 67 65 63 62 60 58 56 53 52 50 48 46 44 42 室町時代の謡曲「芦刈」に登場する「大江の岸」は 「八軒家船着場」の辺りだった? 蕪村の謎。故郷「毛馬」との微妙な関係 住吉神社は、ここ石町にあった?山根徳太郎博士説 春爛漫です。文明開化の八軒家 芭蕉翁、八軒家での憂鬱 石川五右衛門の秀吉暗殺未遂事件 落語のルーツは船場の坐摩神社境内に! 妻の追悼に一日千句!矢数西鶴の誕生です。 桜井久之 「東区島町発見の奈良三彩小壺をめぐって」 都島区役所編「蕪村を都島によみがえらせよう」 「木村蒹葭堂―なにわの知の巨人―」 石山本願寺の土壁発見!? オーストリアにあった!豊臣時代の大坂図 消えた天神橋?① 消えた天神橋?② 消えた天神橋?③ 消えた天神橋?④ 彦根から京都へ伝わった朝鮮通信使の置き土産 目次 百五十年前、竜馬がすぐ近所を歩いていた。 「がんばらにゃ!大阪」 大阪アースダイバーへの道 喫茶のルーツは難波津にあった! 光源氏の見た八軒家かいわい 難波宮、白い宮殿壁土の破片大量出土 秀吉が築いた城① 秀吉が築いた城② 秀吉が築いた城③ 目覚めるか「秀吉の城」 大阪市「水都再生」事業16年ぶり本格着工 倭の五王が愛した須恵器 災害教訓の伝承 大阪人はサントリーを飲もう! 難波宮の壁土 記号論としての大阪の歴史『プリンセス・トヨトミ』を読む 蘭学者見立番付 これで覚えた!四ヶ月で、四万語。 戦国武将・島左近の屋敷は島町にあった !? 80 132 128 125 122 120 116 115 113 112 109 106 100 98 95 91 88 83 176 174 172 169 168 167 164 163 160 158 155 152 148 146 143 140 138 137 135 一五〇〇年前、 ここは 『 難波津 』 の港だった あったといわれている。 詳しくは、南斎ネットへ http://www.nansai.net/2008/09/post_383.html 二〇〇八年 十月 二十八日 その西のふも と(ほぼ現 在の八軒 家 付 近 ) のどこかに、 「 難 波 津 」と呼ばれる港が 五世紀のころ、上町台地は三方を海と湖にかこまれた半島であった。 4 いまの京橋は、 目立たない名の橋だ。 昔は違った。 地 味な、 この目 立たぬ橋は、 かつては京 都に通 ずる京 街 道の起 点で、野 崎 参りで有 名な野崎街道も兼ねる大和街道の起点でもあった。 きょうばし と 「 」みやびな名 前が、城の石 垣 をモチーフとしたという 親 柱に刻んで あるが、 みての通り真っ黒にすすけていて、読めない。 慶 長二十 年 大 阪 夏の陣で、徳川 方 勝 利のあと、家 康はにわかに大 阪 城の焼け跡を 実検するといいだした。それも内密に。 わずか数百人の供をしたがえ、城内に充満する勝利軍のあいだを誰にも気づかれ ず、大阪城の焼け跡をみた。桜門から、 ここ京橋口へぬけ、 そのまま小走りに京へ向 かって駆け抜けた。 用心深い家康は、大勝利に酔うことなく、刺客を恐れた。 本陣茶臼山は危ないと見たのだ。以上は、司馬遼太郎「城砦」にある。 ここ京橋口は、大阪落城後、城内から脱出し逃げ惑う敗残の男女の修羅の巷と化 し、 NHK「その時歴史は動いた」で、中世の「ゲルニカ」と紹介された。 5 下、中央の天満橋の奥にみえるのが、京橋である。 大阪夏の陣で、あえなく大阪城は落城し、城南における混乱は、酸鼻を極めた。 恐れた。 明けさせたと伝 えられている。死に物 狂いの大 阪 方が抵 抗し窮 鼠が猫をかむのを 攻め手の徳川 家 康は、 ここらあたりに詰めていた関 東 方の軍 勢に移 動を命じ道を 京橋拡大図 絵が残っていないのがふしぎだが、芳 雪の錦 絵 を 拡 大してみると、大 阪 城の石 垣の 古 地 図で見ると、京 橋は旧 大 和 川にかかっている。格 式 と威 容 を 誇るような橋の を備えた公儀橋として、最長時には100メートルを超える規模を誇ったという 。 京 橋は、豊 臣 氏の大 阪 城 時 代から、すでに北の玄 関口だった。江 戸 時 代は、擬 宝 珠 6 六曲一双の 大 「 阪 夏の陣 屏 風 」の大 画 面には、元 和 版「ゲルニカ」といわれる阿 鼻叫喚の惨状と、京街道沿いに京目指して落ち延びる人々の群れが続くさま が克明に描きこまれている。 7 した。 をおこなった。東 側に、造 兵 司、 のちの大 坂 砲 兵工廠が設けられ、大 砲 弾 丸を製 造 明治二年、大阪城京橋口門内には、兵学寮がおかれ、 フランス人の軍事顧問が訓練 帯だった。明治新政府は、大阪を軍事拠点にすえる構想をもっていた。 百年 前の明 治 初 年は、当 時 最 先 端の文 明 開 化と富 国 強 兵のシンボルが、 この界 隈一 短い京橋を渡ると、右手に石碑が建ち、大阪砲兵工廠跡とある。 られた。 昭 和 ○ ○ 年、 ビジネスパークの高層ビル団地は、大坂砲兵工廠の広大な跡地に建て 築が、歴史の忘れ物のような小橋から一望できるのは、感慨深いものがある。 ている。大 阪ビジネスパークだ。三百 年を隔てて、大 阪の歴 史を象 徴 する新 旧の建 石垣の向こうに、 西方をのぞめば、きらきらガラスが反映する高層ビル群が林立し 平 成のいま、橋の下を流れる川の水は黒 くよどんでいる。大 阪 城 京 橋口の累々たる たぬ橋になってしまった。 (ぎぼし) がつけられ、元 「 和九年造立 と 」刻まれていた。 そのように格 式 高い橋 も、相 次 ぐ 河川 改 修により、現 在は半 分ていど長さの目 立 にあたっては大 坂 金 蔵から出 資 することにし、公 儀 橋と呼んだ。欄 干には、擬 宝 珠 戦 後、徳川 幕 府は、 とくに重 要な橋12橋を選んで直 接 管 理し、架け替 えや補 修 8 大 坂は、水の都どころか、黒 煙もうもう、東 洋のマンチェスターといわれる工業 都 市 への道をまっしぐらにすすんだのであった。 昭 和二十 年八月 十四日、敗 戦の、その一日 前に、大 阪 造 幣 廠 付 近が大 空 襲され、巨 大な軍需工場は崩壊した。 国 鉄 京 橋 駅では、高 架 下に避 難した乗 客 多 数が爆 死 するという 悲 惨な被 害がで た。追悼の記念碑が建てられている。 対 岸の川 崎には、明 治四年 造 幣 局が偉 容をあらわした。 いまのように貨 幣を鋳 造 するだけの役目ではなく、当時アジアのおける最新の近代化学工場だった。多数の 家 生 産 し、高 火 力 を 得るためにコークスも 使 用 した 。副 産 物 として、 ガスも 製 造 イギリス人が働いていた。金 属 を 精 錬 するために、硫 酸などの化 学 薬 品なども 自 し、造幣局にはガス灯が配置されていた。お雇い外国人の官舎や与力町の街路のガ ス灯をともし人々を驚かせた。川口とのあいだには、馬車鉄道が敷設され、電信船 明治維新のさなか、大久保利通らが中心となり、大阪遷都がさけばれたことがあ も架設され、造幣局には体制の科学が集中的に投入された。 る。その可能性がまだ残る段階で、造幣局建設は計画されたという 。 9 所図会」からとった市場風景の図が掲示されている。 二〇〇八年 十月 三十一日 いまも、橋の入 り口に、川 魚 市 場 跡の石 碑が立っている。それにならんで、「 摂 津 名 引された。 川魚市では、朝ごとに、鯉、鮒、うなぎ、鮎、 どじょう、すっぽんなど、 川魚が運ばれ取 雑は望ましくないということで、青物市は天満に、海魚は靭(うつぼ) に移った。 橋のたもとでは、毎 朝川 魚 市が立った。南 側には青 物 市があったが、城の近 くの混 に、 はるか向こうに見えるのが、京橋である。 江 戸 時 代 、天満 橋 を 渡る人々、城から下がるサラリーマン武 士 だろう 。東の方 角 10 なんだあれは? 中之島に軍艦が隠れていたぞ 難 波 橋から西の方 角 を 見 下ろす と、木のあいだに船のマストのようなものがみえ る。なんだろう、 ひっかかっていたが、気にとめてはいなかった。 「大阪中之島公園に 無名「戦争遺跡」、保存で論争」 と、ある日、 こんな見出しが、朝日新聞にのった。 隅に、敗戦後も人目を避けるように、 ひっそりと建っていたというのだ。それが、 つい 日本海軍の軍艦のマストが、戦前から、 なんと八十年の風雪に耐え、中之島公園の一 に、 この秋、公 園の大 改 修工事で撤 去ということになり、大 阪 市が市 民 団 体ともめ ているとのことだ。 天神 橋から見 下ろす と、橋の下、西 側の公 衆 便 所の横に、茂みから顔 を 突 き 出 す ように、船のマストのような高い鉄塔がそびえている。 足元は、廃品回収のブルーのテントに囲まれていて、公園には場違いな風景だ。 国旗掲揚台としてつかわれていたらしい。だれが、 いつの頃建てたのか。 中ノ島 公 園の東の突 端 を 剣 先といい、軍 艦の舳 先に似ている。ここで、大川は堂 島 川と土佐堀川の二つの流れに切り裂かれて、 西へ向かう 。 11 あまり華々しい軍歴ではない。 1929年、廃艦売却後、大阪で解体の際、酸素ガスの火花で火災発生した。 青島攻略ではドイツ水雷艇を撃沈したとか、 ほんまかいな。 朽化が早く昭和3年に廃艦となった。昭和4年6月売却解体とある。 日本 海 方 面の警 備や、青 島 攻 略、 シベリヤ出 兵に参 加したが、新 技 術タービンの老 トン。乗員134人 。当時わが国で最初に蒸気タービンを搭載したという 。 最上は、明治41年に三菱長崎造船所で建造されたタービン艦で、排水量1350 たという 。 普 及で通 報 艦の存 在 意 義が小さくなり、大 正になって早々に一等 砲 艦に編 入され 「 最 上 」は、 なかなかの高 性 能で、初めは通 報 艦だったが、 日露 戦 争以後は、無 線の 「敵艦みゆ」と打電した。どうもそれとは違うようだ。 哨 戒 船 信 濃 丸は有 名だ。日 本 海 海 戦で、 ロシアのバルチック艦 隊 をいち 早 く 発 見、 軍艦といっても、「最上」(もがみ) は、通報艦だった。 ある。調べてみた。 なんぼなんでも、「無名」とは、軍艦が気の毒である。ネットには、 なんでも記載して 中之島を、大川を遡る軍艦にみたてて、 マストを建てたのだろうか。 12 その年は、大 不 況の前 夜だったが、大 阪 府と大 阪 市が、同 艦のぜんしょうと後 部 艦 橋を購入し、中ノ島公園に掲揚ポールとして使用したとある。 ひところは、軍艦旗が翩翻(へんぽん)と、 川風にひるがえっていたのだろうか。 取り壊して芝 生にしてしまうのは、もったいないかなあと思 う 。市 民から寄 付をつ のり、修復しよう 。まわりに、 さくらでも植えて、名所にしたらいい。 戦 災で焼 け 野が原になった大 阪には、 ストーリーのある名 所があ ま りに少ないか だ。 らだ。かつてはセーヌ川のようだった大川も、道 路の橋 脚がぶちこまれて、 このざま 昭和37年の台風で折損したが、財界が尽力して復元したらしい。 もう軍国主義の昔に帰ろうとするうごきの心配はないだろう 。 鼻」と呼ばれたのは、備中山崎家五万石の屋敷がここにあったからだ。 ここらあたり、元 禄 時 代は、中 央 公 会 堂 南の栴 檀 木 橋から東につきでて「 山 崎の 百 年 後の明 和四年、 さらに東につきでた中 州 を 築 地し、中ノ島 上の鼻 新 築 地がで きた。山崎の鼻にできた花街を、当時の人は、風 「 引き新地 と 」呼んだそうな。 二〇〇八年 十一月 五日 13 高麗橋筋の両側あったお城の櫓のような建物です。櫓 注目されるのは橋の西詰、 ここを 起 点 として西日 本の主 要 明 治になっても、里 程 元 標が東 詰に設 けられ、 道路の距離が測られた重要な橋でした。 か商店が並び、盛況を誇る地域でした。 下の三名 橋といわれ、橋の筋には、 三井 呉 服 店( 後の三越 百 貨 店 ) や三井 両 替 商ほ 江 戸 時 代には、十二公 儀 橋の中でもとくに格 式の高 く、幕 府のお触 書を掲 示 す る高 札 場が西詰に置かれていました。江 戸の日本 橋、京 都の三条 大 橋と並んで天 来するとか、諸説紛々としております 。 であったことからだとか、 一五九○年に、秀吉の国内統一を祝う国使がきたことに由 橋 名に「 高 麗 」とあるのは、古 代に朝 鮮 半 島 からの使 者 を もてな す 迎 賓 館 が あったところだといわれています 。ほかにも、豊臣政権の時、朝鮮のとの通商の拠点 阪神高速環状線の高架の下の日陰にひっそりとあります 。 高 麗 橋は豊 臣 秀 吉の時 代の大 坂 城の外 堀として開 削された東 横 堀川に架かっ ています 。かっては長さが七十メートル余りの大きな橋であったそうです 。現在は、 高麗橋は 「天下の三大名橋」の一つだった 14 (矢倉)屋敷と呼ばれ、役人が通行人を監視するためのもの、 また大坂城の眺望を 楽しむためと言われ名 所 となり ました 。江 戸 時 代から明 治 中 期 まであ り、その 後、失われました。 (一八七○) に、 イギリスからの輸入材を使用した「大阪初」の鉄 高麗橋は明治三 橋となります 。日本では三番目だそうです 。ちなみに、明治元年には、長崎にくろ くガス灯は人々を驚かせ「くろがね橋」の別名で親しまれました。 がね橋、横 浜で吉田 橋が建 設されていま す 。高 麗 橋の鉄 製の黒い光 沢、明るく 輝 毎 夜、燈を灯して橋 上を往 来 する人々の助けとし、人々が縦 横に行 き 来 するのを ことごとく 鉄でないところはない。 当 時の錦 絵では「 欄 干、桁、橋 杭に至るまで、 その上、美しい彩色を施し、左右の欄干の柱の頭には、 ガラスの燈篭を設けてある。 容 易にするためである。同じ年の秋の末には全て完 成し、その壮 観は言 語 を 絶 す る」と、説明しています 。 鉄 橋は昭 和 初 年 まで使 用されて、現 在のコンクリート製のアーチ橋へは昭 和四 (一九二九)年に架け換えられました。 装 飾には、入り口にあった双 子の櫓 屋 敷が、親 柱にあしらわれ、慶 長 年 間の格 式 を表 す 擬 宝 珠( 現 物は、大 坂 城天守 閣に保 存されているそうです ) の複 製は、碑と ともにモニュメントして広場に置かれ、昔を偲ぶ手がかりとなっています 。(大西) 二〇〇八年 十一月 十日 15 京橋って橋はどこにある? て架けた町橋に対してそう呼ばれます)。 (公儀橋とは、江戸時代、幕府の経費で架けられた橋のこと。町人が経費を負担し 場あり、繁盛していました。 川 との合 流 点であったことから、江 戸 時 代には北 詰めに魚 市 場、南 詰めに青 物 市 しい大 阪 城 京 橋口から京 橋は緩やかに弧 を 描いて京 街 道へと延びていま す 。旧 淀 江 戸 時 代には、公 儀 橋として擬 宝 珠 を 備 え、最 長 時は一○ ○メートルを 超 える 大 規 模な橋だったそうです 。森 琴石の銅 版 画を見ると、城 門の白壁、 石垣、甍が美 少ないようです 。 でも京橋駅周辺には見当たりません。ではどこに?実は天満橋に近い日本 経 済 新 聞 社の脇 をながれる寝 屋川の下 流に、 ひっそりと架かっていま す 。ご存じの方 も あったといいます 。 京 橋は、豊 臣 氏の大 阪 城とともにすでに北の玄 関口として存 在していました。 名 前の通り京への京 街 道の起 点であり、大 和 街 道への起 点も兼ねる主 要な橋でも 16 この京 橋は明 冶 十八年(一八八五)年の水 害で流 失し、大 正 十三(一九二十四)年 に改 築、長さは往 時の半 分の五十五mとなりました。現 在の京 橋は昭 和五十六年 なっています 。京橋に沿って歩行者専用の大坂橋が架かっています 。 にさらに大 改 装されたもの。橋の照 明は太 閤ゆかりの千 成 瓢 箪 を 模したものと の銘が刻され 大正十四年に東横堀川の川底から「大坂橋 天正拾三年」 (1585) た擬宝珠が見つかりました (終戦の混乱時に行方不明になっています)。しかしこの 分っておりません。前述の歩道橋の「大坂橋」にその名が採られ、橋上には「橋名由 「大坂橋」という名の橋は過去の文献などに見当たらず、 いまだにその所 在などは 来碑」が設置されています 。(大西) 二〇〇八年 十一月 十日 17 難波橋にライオン!なぜ? の山々まで眺望できました。 便 宜のため、中 央 部の桁 下 を 高 く する反 り 橋であったため、周 辺の十六橋や遠 く 江 戸 時 代、難 波 橋の界 隈は、大 名の蔵 屋 敷や商 店が軒 を 連ね、殷 賑 を 極めてい たことが、井原西鶴の「日本永代蔵」に読め取れます 。当時、難波橋は、船の運航の 思われます 。 天満 宮があることから神 社の門 前の守 護 神である狛 犬 を 配したのではないかと ライオン像は古 代エジプトで大 量に作られていますが、それがネパールを経て朝 鮮 半 島から日 本へ伝わり 狛 犬と呼ばれるようになったと言われていま す 。対 岸に ン橋」という愛称で呼ばれ親しまれるようになりました。 荒々しい西洋の獅子に、当時、道を行く人はおどろいたそうですが、 やがて「ライオ 阪 近 代 化のた く ましいシンボルでした 。設 計は大 阪 市 電 気 鉄 道 部 と宗 兵 蔵 氏 。 四隅の親柱の上には、 天岡均一作のライオンの石像 。右側が口を開く 阿 形、 ま ず、 左側が吽形、神社にある狛犬と同じです 。高さ三・五メートル、重さ約十八トン。大 ため、随所に斬新なデザインが採用されています 。 な姿に架け換 えられました。中 之 島 水 上 公 園を飾ることを意 図して設 計された 難 波 橋は、大 正四(一九一五)年に市 電 堺 筋 線を北 浜から天神 橋六丁 目へ延 長 す る際、従 来の位 置( 堺 筋の西隣の難 波 橋 筋 )から堺 筋へ移され、現 在のような立 派 18 さらに堂 島川と土佐 堀川の間に浮かぶ中 之 島の剣 先が、夕 涼み、花 見、花 火 見 物、月 見、舟 遊びと絶 好の行 楽 地でしたから、見 物には、橋の高 所は最 適の場 所と 川 幅が広 く あったこともあり、橋は、長さ一○七間( 約二○七メートル)もの巨 大な されました。初め、島の剣 先は難 波 橋よりずっと下 流にあったそうです 。現 在より 流にある天神橋まで延ばされました。 ひとつの木 橋でした。剣 先は、 やがて難 波 橋の下へ、そして大 正 年 間には、 さらに上 明 治のはじめの頃の錦 絵(「 浪 花 十二景 之 内 難 波 橋の風 景 貞 信 画 」 絵 陶 板のレリーフは、中 之 島へ降りる階 段の付 近にがあります )を見ますと、 石 垣 積み で護 岸された剣 先のまさに突 端に、難 波 橋が架かっていました。川は行 き 交 う 船、 橋の上は見物衆で混み合っています 。 難 波 橋は、もともと一本で構 成されていましたが、明 治 九(一八七六)年に架け換 える時、剣先部分で南北に分けられ、北側のみが鉄橋となりました。 橋を渡ってみると、市 章の澪 標( 船の航 路を案 内 する杭 。国 際 港・大 阪を表しま す)を掘り込んだ塔があり、 重厚さを醸しだしています。市章は、 高欄も飾っていま す。橋のなかほどからバルコニーをもつ石造りの階段がバラ園へと降りています。 景 ブロンズ製の照明柱もクラシック調の華麗なデザイン。大正初期の粋をこらし、 観面への配慮は行き届き、 いまの中之島公園の原型となりました。 ライトアップされ 二〇〇八年 十一月 十日 た中央公会堂を背景とした難波橋は、 大阪の建築美の代表と言えるでしょう。( 大 西) 19 「天満の重ね橋」の 「もったいない」発想とは? 加に伴い市 電の通 行を廃 止、並 行して自 動 車 専 用 高 架 橋が、 その上に建 設されま 昭 和 十(一九三五)年には、現 在の鋼 製 桁 橋に架け換 えられ、「 鳥がのびのびと翼 を 広 げた」形 状 を 誇 りました。さらに昭 和四十五(一九六○ )年、自 動 車 交 通の増 (一八七○)年に造兵司(後の大阪砲兵工廠)、 翌四年に造 天満橋近隣には明治三 幣寮(造幣局) が橋のすぐ近くに開業して、 工業地帯に架かる橋となりました。 トが語ってくれます 。 ものが採用されました。その経緯を、公園のモニュメン たが、橋 名 額 、高 欄 、照 明 灯の柱には、国 産の鉄 製の だったため、主要部材はドイツからの輸入に頼りまし して鉄 橋に架 け 替 えられま す 。製 鉄の技 術 が 未 熟 した。天満 橋は、その後の復 旧工事で、永 久 化を目 指 は淀川に架かるほとんどの木 橋が流 失してしまいま 被 害 を 受 け、とくに明 治 十八(一八八五) の大 洪 水で 江 戸から明 治 初めまでの旧天満 橋は、しっかり と した 木 組みの巨 大 な 橋でした 。しかし、洪 水の度に 20 す 。それまでの旧 市 電の軌 道 部があった鋼 製 桁 橋への荷 重を高 架 橋のそれと置 き 換え、 二階建ての橋(「天満の重ね橋」) になったわけです 。 いかにも大阪人らしい合 理的な発想の設計になっています 。デザイン面でも工夫されています 。 江 戸の天満 橋は、京からの三十石 船の発 着 場として賑わっている八軒 家の近 く、 今の谷 町 筋より一つ東 側の筋に架かっていたそうです 。この当たりには各 役 所が設 けられ、橋の南 側に東西の町 奉 行 所があり、 また北 側には役 所の倉 庫や与 力同 心 の屋 敷などが立ち 並んでいました。官 庁 街 を 結び、役 人の通 勤 路という 公 儀 橋の 性格を強かったのでしょう 。 しかし、大 坂の市 街 地の南 北 を 繋 ぐ 要 路でも あ り ました 。市 民の通 行 量 もか なりなものだったと思われま す 。例 えば、雑 喉 場の魚 市とともに市 民の食 材 を 供 給した天満 青 物 市 場は、橋の北 詰から西へ天神 橋の間・大川 沿いの天満 浜 側 筋(天 満市之側) にあ り、 おおいに賑わっておりました。大 坂 近 郊はもちろん、畿 内や西 国 から 青 果 物 を 集 散 す る その活 況ぶり は「 摂 津 名 所 図 会 」に描 かれていま す (一九三一年に大 阪 市 中 央 卸 売 市 場が設 立されて廃 止になるまで繁 栄が続 き まし た)。(大西) 二〇〇八年 十一月 十一日 21 浪花名所絵双六に 八軒家発見! 二〇〇八年 十一月 十一日 http://manabiya.baika.ac.jp/series/ogita/ogita01.html 京 都の大 阪 見 物の絵 双六では振 り 出しが伏 見、次が八軒 家になっているそ うで す。 だったのでしょう 。 の岸の八軒 家 」。西は大 川から 海が広がり 、東には生 駒 山 。風 光 明 媚 なスポット 梅花女子大学の学術ポータルサイトで「浪花名処道案内」という絵双六が紹介 されています 。幕 末の一八五〇 年 頃のもの。振り出しから始まって一〇 番 目が「 大 江 22 お吉殺しの脇差しが川底に! (栴檀木橋) の木の橋から川へ、沈む来 世は見 えぬ沙 汰 」とは、 天 「この脇 差はせんだ( 栴 檀 ) 満で隣 家の油 屋の女 房・お吉 を 殺し、金 を 奪った極 悪 人の与 兵 衛が、その凶 器 を、 り)。 土佐 堀川に捨てるときに吐 く 台 詞( 近 松 門 左 衛 門 作・ 「 女 殺 油 地 獄 」の下 之 巻よ は、江 戸 時 代に、中 之 島の蔵 屋 敷へ渡る木 橋の近 栴 檀 木 橋(せんだんのきばし) くに栴 檀の大 樹があったので、橋の名 前が付 けられたとか… 。近 代になってから、 木 橋は改 築され、鉄、また、 コンクリートの橋となりました。その経 緯を語る三つの 記 念 碑が、橋 詰に設 けられていま す 。ただし 周 辺に植 えられている樹は、香 木の ビャクダン ( 白檀) ではなく、同 類の別の木 。香 りも「 栴 檀は双 葉よりも 芳し」とは 異なります 。 現在、橋を南から眺めると、正面に赤いレンガの中央公会堂、左手の府立中之島 図 書 館 。渡って西へ御 堂 筋に向かうと市 役 所と日 本 銀 行のファサードが見 えてき 散策スポットといえるでしょう 。 ます 。この数々の近代の名建築に出会えるのがまず魅力 。中之島随一の落ち着いた 23 二〇〇八年 十一月 十二日 この橋からは、難 波、 天神 、 天満の浪 華の三大 橋と生 駒 山が東に臨まれ、 かつて、 近松の残酷劇とはほど遠い穏やかな光景が展開していたはずです 。(大西) 栴 檀 木 橋は、中 之 島へのエントランスとして、歩 道 を 広 くとり、車 道と区 別 する 植樹を施すなどして整備されています 。 24 空海はここから唐へ船出した? (天神 橋 ) (一九三四)年に造られま 鋼 製のアーチの上に軽 快に載る現 在の天神 橋は昭 和九 した。昭 和六十二 (一九八七)年の美 装 化の折には、中 之 島の剣 先の公 園へ降りるス が飾られました。 ロープを 設 け、橋の歴 史 碑や遣 唐 使 船、 天神 祭 絵 巻など、 天満 宮ゆかりの絵 陶 板 師) が唐へ向かったのはこのあたりの港(難波津) だったということになります 。 えっ、遣 唐 使 船?と思われる方 も あるかもしれません。実はこの天神 橋のあた りが難 波 津( 諸 説 あ り ま すが)だったと言われていま す 。となると空 海( 弘 法 大 25 歌われたそうです 。 寛 永 十一年(一六三四)他の十一橋とともに公 儀 橋に。天満 橋、難 波 橋とともに浪 華の三大 橋と親しまれました。 「天神 橋 長いな― 落 ちたら怖いな― 」と童 歌にも うになりました。 天神 橋は、豊 臣 秀 吉の時 代に架 けられたと伝 えられ、当 初は新 橋とよばれてい たそうです 。しかし、 天満天神 社が管 理したことから次 第に天神 橋と称されるよ http://kouwan.pa.kkr.mlit.go.jp/kankyo-db/intro/detail_p07.html *大阪湾のくわしい歴史は 〈大阪湾環境データベース〉 でどうぞ。 ていきました。 波 津が水 上 交 通の一大 拠 点へと整 備されます 。初 期の遣 唐 使 船はここから出 発し 古代の大阪湾は大阪平野の奥まで食い込んでいましたが、弥生時代には上町台 地の砂 州が北へ伸び、大 きな湖ができ あがり ました 。大 化の改 新の頃にはこの難 26 明 治 初 期 までは木 橋でしたが、明 治 十八年の大 水 害で流 失、同二十一年に鉄 橋 に架けかえられました。ドイツより輸入されたトラスト橋で当時全国で最も長径 間の道 路 橋でした。現 在の橋は松 屋 町 筋の拡 張に合わせ昭 和 九年に三連の軽 快 な鋼 製アーチと両 端 をコンクリートアーチにより 成 り 全 長二一○・七メートルで架 橋されたものです 。 に架かり、 天満宮を北岸に望んでいます 。 現在は、中之島の剣先(東の先端部) られま す 。七月 、 天神 祭 りの船 渡 御の華 麗な水 上パレードが執 り 行われ、市 民の 天神 祭です 。その歴 史は千 百 年 近 くにもなります 。葛 飾 北 斎 天神 橋といえば、 や安 藤 広 重、歌川 貞 秀 も 描いた浪 華 最 大の祭 礼で、 日本三大 祭 りのひとつに数 え ビッグイベントです 。(大西) 二〇〇八年 十一月 十二日 27 ん?防空壕の開かずの扉 ( 大西) 二〇〇八年 十一月 十三日 て後世に残したいと思います。ご協力をよろしくお願いします。 でご連 絡 ください。貴 重な記 録 をこのウェブマガジンでご紹 介し ということで情報提供のお願いです 。北大江公園の防空壕に まつわる思い出や当 時のお写 真、資 料 をお持 ちの方、編 集 部 ま 見られず忘れられていくのはちょっと淋しい・ ・ ・。 を紡いできた防 空 壕に違いありません。こんな風に誰にも還り しょう 。市の管 轄なんでしょうか。戦 時 中にはさまざまな物 語 ところがも う 何 十 年 も 扉が開 けられることもなく 過 ぎてい るようです 。どう も 気になりま す 。中は一体どうなっているんで 八軒家から土佐堀りを南へ。石段を上ると北大江公園です 。 この公園の地下にどうやら防空壕らしきものがあります 。 28 八軒家かいわい聞き書き帖(1) 浅井登久子 さん 商人でしたが、祖父(三輪徳次郎) の代で、帽子屋を営むようになりました。日清、 わたしは大 手 通で生まれました。古 くは江 戸 時 代は大 阪 城お出 入り繊 維 関 係の 日露 戦 争の頃は将 校の帽 子を軍に納めていたようです 。祖 父の父 親は倉田百三の いとこにあたります 。 商っておられた中 谷さんが「 遊んでいるんなら衣 類 関 係で商 売 をしてみたらどう その後 、少々財 産 もできてぶらぶらしていた 父(三輪 清 次 郎 ) に南 新 町で制 服 を か」とすすめてくださってラシャをイギリスから輸入して洋服屋(といっても当時の ことですからジャンパーやズボンですが)を始めました。 釣鐘屋敷の向かいが住まいでした そして昭 和 十二年には、大 手 通の家は店 だけにして、釣 鐘 町に引っ越 しました 。 ちょう ど釣 鐘 屋 敷のあったところの向かいです 。三百 年 前から両 替 商 を 営んでお られた辰巳さんのお住まいを購入しました。 29 けた頃に売ってしまいました。 いまは英語学校が建っています 。 あたたかい。住み心 地は悪 くなかったです 。その家もバブルが弾 で暮らしてました。壁の厚みが三十センチ。夏は涼しくて、冬は 蔵 といっても ずいぶん立 派なものだったので、 しばらくはその蔵 ところが昭 和二十 年の戦 災で家が焼け、蔵だけが残りました。 30 戦 争 前の写 真がずいぶん残っています 。今日お持ちしたのは、そ の一部 。その頃は写 真 を 撮ってもらう という と、 天満 宮のそばの 内田写真さんでした。 いまでも営業なさっています 。 三輪徳次郎氏 焼け残った蔵 八軒家の宿は今井宗久の親戚がやっていた! 八軒 家 といえば、その八軒の宿に堺の茶 人 今 井 宗 久のご親 戚がおやりの宿があった と聞いています 。 それとお祓い筋 を 北へ、土佐 堀 通 りへ下っていく 坂の右 側(いまマンションが建っている ところ) に戦 前は「 上 村 」という 料 理 屋さんがありました。大川の眺めとかがよくて 評判のお店でした。 防空壕のように見えるのは、印刷会社の地下倉庫 北大江公園の石段のところの防空壕のような地下壕 。あそこには印刷屋があって、 そ の地下倉庫です 。坂道ですから半地下を倉庫に使っているところが多かったですね。 ※平成二十年十二月二日、編集部にて聞き取り(平野) (編集部補足) お話の中の「 上 村 」は「 上 村 旅 館 」のようです 。昭 和二十五年 頃、当 時のプロ球 団「 毎日オリオンズ」 が定宿にしていたそうです(酒房だんのご主人談)。 二〇〇八年 十二月 三日 31 もらって中を覗いたことを覚えています 。 その三越の中にNHKのラジオのスタジオがありました。親に抱 き 上げて は靴カバーを掛けて、下 駄の人は下 足 番に預けてお店に入ったものです 。 いました。あとは北 浜の三越が全 館 畳 敷 きだったことでしょうか。靴の人 よこに文 楽の芝 居 小 屋があったこと。毎日 眺めながらその前 を 通 学して 小さい頃の思い出で印 象に残ってるのは、平 野 町の実 家のそばの御 霊 神 社 平野町に文楽の芝居小屋があった! 方へ父親を連れて嫁ぐことになります 。 の近 く ) で粉 屋を営んでいました。ところが隣の材 木 屋が燃 えて類 焼 。枚 わたしは平野町三丁目で生まれました。実家は木津市場(現在の大国町 豊倉フミ さん(大正三生まれ) 八軒家かいわい聞き書き帖(2) 32 三越は全館畳敷、上にはNHKのラジオスタジオ 残っていましたが、進駐軍に没収されました。 三 越の前は白 木 屋 という 百 貨 店でした 。この建 物は戦 災にも 燃 え ずに 鴫 野の方から父に連れられて巡 航 船に乗って天満 橋へ来たものです 。父 は日露戦争の時には近衛兵でした。 俳句は山本古瓢に習いました。 いまでもやっています 。 とりとめもなく 話しましたが、 このあたりのことを、また整 理して文 章 にしてもいいですよ。 写真は「文楽の人形芝居」 ( 宮島綱男) より *平成二十年十二月二日、電話での聞き取り(平野) (編集部補足) お話に出てくる芝 居 小 屋は「 御 霊 文 楽 座 」。船 場 平 野 町の御 霊 神 社 境 内にあった ようです(明治十七年建造)。大正十五年十一月、出火にて焼失しました。 二〇〇八年 十二月 三日 33 「牡蠣船」が 大阪の風物詩だった時代 すると八軒家にも牡蠣船が停留していたことがあったかもしれません。 主 要な堀 川に停 留 。京 屋 忠 兵 衛 も 牡 蠣 問 屋 を 営んでいたようですから、 ひょっと 一橋 詰に一艘の決 まりがあったようですが、それでもかなりの数の牡 蠣 船が大 阪の 柄によって広島の草津の牡蠣師が大阪での独占営業権を与えられました。 また宝永四年大晦日の大火の際、高麗橋の西たもとに立てられていた制札を近 くにいた牡 蠣 船の船 頭が駆 けつけて船に積んで天満 橋の方へ避 難させた。その手 ますからかなりの量が搬送されていたわけです 。 大阪へは往路三日。二十一艘の牡蠣船が船団を組んで十月の終わり頃に出港、翌 年二月に帰 港していました。総 積 載 量 を 計 算 すると約 百五十三トンになるといい 販売したり、船上で牡蠣料理を提供するようになります 。 十 七世 紀の末 頃、広 島から大 阪へ養 殖 牡 蠣 を 積み出 すようになったようです 。 その後、大 阪での牡 蠣 船での営 業 権を得て、大 阪の定められた橋の下で、生 牡 蠣を 34 現在ではわずか淀屋橋南詰に土佐堀川に「かき広」という大正九年創業のお店 があるのみです 。 牡蠣舟へ下りる客追ひ廓者 後藤夜半 牡 蠣 船は俳 句の季 語にもなっています 。後 藤 夜 半は明 治二十八年、曽 根 崎 新 地 で生まれた俳人 。(平野) 二〇〇八年 十二月 十一日 35 万葉集に大阪で詠まれた 歌がなんと二百首も! つまり日の光に輝 くさまを 表 難 波にかかる枕 詞の「おしてる」は「 押し照る」。 しているといわれます 。古代から大阪は「水の都」だったわけです 。 だしたりする国際港だったのです 。 当 時( 飛 鳥・奈 良 時 代 )から難 波 津は水 上 交 通の要 衝でした。周 辺には各 地か ら船で輸 送されてきたものを 集 積 する倉 庫が建 ち 並んでいたり、遣 唐 使 を 送 り りするのが習わしだったようです 。 た。任 期は三年であったと言われていま す 。出 発の際に肉 親と歌 を 詠み交わした た防 人たちはここ難 波 津から船 出して九州は筑 紫 、太 宰 府などへ配 置されまし なかでも難波津から九州へ船出した防人の歌は根強い人気です 。防人の歌を中 心にここでは難 波 津で詠まれたものをいくつかご紹 介します 。東 国から徴 発され に次い 万葉集といえば奈良 。でも実は大阪の歌も二百首以上 。奈良(約九百首) で多く詠まれています 。 36 八十国は難波に集ひ船かざり 我がせむ日ろを見も人もがも 難波津に装ひ装ひて今日の日や出でて罷らむ見る母なしに 難波津に御船下ろ据ゑ八十楫貫き今は漕ぎぬと妹に告げこそ 押し照るや難波の津ゆり 船装ひ我れは漕ぎぬと妹に告ぎこそ 難波津を漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲ぞたなびく 難波道を行きて来までと我妹子が付けし紐が緒絶えにけるかも 住吉の浜松が根の下延へて我が見る小野の草な刈りそね 葦刈りに堀江漕ぐなる楫の音は大宮人の皆聞くまでに 堀江漕ぐ伊豆手の舟の楫つくめ音しば立ちぬ水脈早みかも 堀江より 水脈さかのぼる楫の音の間なくぞ奈良は恋しかりける 舟競ふ堀江の川の水際に来居つつ鳴くは都鳥かも 青海原風波靡き行くさ来さつつむことなく船は速けむ 二〇〇九年 一月 七日 NHKでは月 曜から金 曜 まで「日めく り 万 葉 いま(二〇 〇 九 年一月 七日 現 在 ) 集 」という5分 間の番 組を放 映しています 。 一度ご覧になってみてはいかがでしょう か。(平野) 37 将軍慶喜、大阪城から大脱走 大 河ドラマ 「 篤 姫 」では、江 戸 城で時の将 軍 慶 喜が篤 姫に詰 問される場 面がある。 鳥 羽 伏 見の戦いで、大 阪 城に多 くの将 兵 を 残したまま、海 路 逃 げ 帰ったのは、「な ぜじゃ。」と。 慶 応三年(1867)、大 阪 城で徳川 慶 喜は鳥 羽 伏 見の戦いの敗 報を聞いた。敗 兵 しかし、慶 喜は、勝 利の見 通しがないことと、新 政 府 軍が錦 旗を翻し、自 分が朝 敵 がぞくぞく退却してくる城内は、「上様、 ご出陣を」の叫びでわきかえった。 とされたことにより、 この際恭順するほうが、あとのために有利と考えた。 この間のいきさつは、大阪府史第七巻に詳しい。 慶 喜は、 一月六日夜 九時ごろ、小 姓だといつわって、 わずかの重 臣を連れて, ひそかに 京 橋口から城を脱 出した。八軒 家 船 着 場から川 舟に乗り大 阪 湾に碇 泊 する開 陽 丸を目指した。 天満八軒 家から川 舟に乗 り、川 を くだって天保 山 沖に出たときはまったくの深 夜 軍艦が碇泊しているのがわかった。 で、洋 上に闇がこめ、幕 艦がどこにいるのかわからない。ただ目の前に大 きな米 国 徳川慶喜公(月岡豊年画) 出典/「大阪城の近代史」展図録(大阪城天守閣) 38 慶 喜は、朝 までこの軍 艦で休 も う と言い、交 渉 方 を 外 国 方の者に命じた。米 国 艦 城中大火図(3世長谷川貞信画) 出典/「描かれた大阪城・写された大阪城」展図録(大阪城天守閣) 長は、その申し出を快 諾し、 このおもわぬ訪 客のために酒 肴を出してもてなした。 夜が明けると、 開陽艦の所在がわかったので、 米艦からボートを出してもらい、 それ へ移 乗した。艦はす ぐに蒸 気 をたき、朝 もやのなかを 出 航した。大 阪 城 内で慶 喜 らの失踪を知ったのはこの時刻であった。(司馬遼太郎「最後の将軍」) 慶 喜に見 捨てられた大 阪 城 内は大 混 乱に落ちいった。 一万 数 千 人に及ぶ旧 幕 府 軍 遣 隊と幕 府 軍 代 表が城 明 け 渡しの交 渉 をしているさなか、本 丸 御 殿の大 台 所 付 は、 一月 七、 八日 中に大 阪 城 を 完 全に退 去した 。 一月 九日、到 着した新 政 府 軍の先 近から火が出て燃え広がり、翌日までに城の大半が焼失してしまった。 慶 喜が逃 亡し、長 州 兵が入 城 するとき 、群 集は手 をたたいて迎 え、 やがて「 え え じゃないか」がはじまった。 徳川 慶 喜は、優れた行 動 力と明 晰な頭 脳 をもって、敵 味 方から恐れと期 待 を一心 あった期間は、 わずか二年間であった。(南斎) 二〇〇九年 一月 八日 に受 けながら、抗し難い時 勢の濁 流に飲みこまれた「 最 後の将 軍 」だった。将 軍で 39 大阪のジャーナリストの走りは 絵師だった 錦 絵 新 聞ってご存じでしょうか。文 明 開 化はなやかしき 頃、東 京・大 阪を中 心に 欧 米に倣って次々に新 聞が創 刊されてゆきますが、それは浮 世 絵 師が絵と文 章の 筆をとった「錦絵新聞」でした。 「 大 阪日々新 聞 」 「 錦 画百事 新 聞 」などが相 次いで刊 大 阪では「 大 阪 錦 絵 新 聞 」 行されています 。歌川派の笹 木 芳 瀧や二代 目 長 谷川貞 信などの絵 師がいわゆる三 面記事的なトピックを拾い上げて人気を集めました。 ちなみに笹 木 芳 瀧は天保 十二年 生まれ。役 者 絵、美 人 画などを描 きましたが、 十七才で間口何 十 間 も ある芝 居の絵 看 板 を一人で描 き あ げて世 間 を 驚かせたと 手掛けました。明治三十二年没 。(平野) いいま す 。明 治二十四年 頃にはアサヒビールの旭に波のマークを 描 き、宣 伝 広 告 も 二〇〇九年 一月 九日 (参考文献) 「大阪の錦絵新聞」 (土屋礼子著 三元社刊) 40 八軒家かいわい落語漫歩 「高津の富」 いず 上 方 落 語のなかから八軒 家 周 辺が舞 台になっているものをご紹 介しま す 。 れも時代は江戸から明治初めといった設定です 。当時を偲びながら落語の舞台を (参考文献) 「落語漫歩―大阪ふらり」 (桂 米之助著 夏の書房刊) 散策してみるのも一興かもしれません。 は明 治から大 正にかけて ま ずは「 高 津の富 」。大川 町( 淀 屋 橋 南 詰の西 側一帯 ) 宿屋が並んでいたそうです 。ここから金毘羅参りなどの下り船が発着し、 にぎわっ ていました。当時は土佐堀川を含めて大川と呼ばれていたようです 。 一人の男がここで宿をとります 。大 法 螺を吹いた挙 句、 なけなしの銀 夕 暮れ時、 一分を宿の主から富 くじの代 金に取られてしまいます 。素 寒 貧になったこの男が天 満 あたりから道 頓 堀 、そして高 津 神 社へやってき ま す 。折しも 抽 選 発 表の真っ盛 り 。で、 なんとその千 両(いまのお金で五、 六千 万 円でしょうか)を 射 止めたのがこ の男… 。といった展開のお噺です 。 二〇〇九年 一月 九日 「 崇 徳 院 」な 高 津 宮は仁 徳天皇を祀った神 社 。この「 高 津の富 」のほか「 高 倉 狐 」 どの上方落語の舞台になっています 。(平野) 41 日本初の蕎麦屋は西区新町 「砂場・いづみや」 からの流れです 。 「更科」 「 砂 場 」ですが、 このなかでの最 古 参は「 砂 蕎 麦の御三家 といえば「 藪 」 場 」。そこから「 砂 場 」と「 藪 」という 大 きな暖 簾が生 まれました。 「 更 科 」は信 州 摂 津 図 会で往 時の名 物 蕎 麦 屋の活 況ぶりが分 りま す 。この江 戸 時 代に繁 盛し た名店も明治十年を過ぎたころ閉店したそうです 。 い 近くにあった「津の国屋」もあわせて「すなば」と呼ばれるようになりました。 まは石碑が残っています 。 す。 その発祥の地 。そこあたりに天正十二年(一五八四年) に開店したのが「いづみや」で 東京の蕎麦、大阪のうどんというのが定評ですが、実はいまのような蕎麦屋が初 めて誕生したのは大阪でした。大阪城築城のための砂や砂利置場、通称「砂 場 」が 42 (十七世紀の終わりごろ)江戸では蕎麦、大阪ではうど 江戸時代も元禄へかけて んが主 流になってき ました。でも、もともとの蕎 麦 屋の源 流は大 阪 。天正 十一年に 築 城が始まった大 阪 城の近 く、太 閤さんのお膝 元で蕎 麦 屋 第一号が誕 生したわけ です 。(平野) 大阪・上方の蕎麦 (参考サイト) ) http://www.eonet.ne.jp/~osaka-oudon/OsakaOudonSecret4.htm ) http://www10.ocn.ne.jp/~sobakiri/index.html 大阪おうどんの会 ( ( 二〇〇九年 一月 十三日 43 サントリーの創業者は 釣鐘町生まれ なります 。それが現在のサントリーの前身です 。 奉 公 先で洋 酒にまつわるノウハウを 学びま す 。そして明 治三十二年 、信 治 郎は 独 立して西区 靭 通に「 鳥 井 商 店 」というブドウ酒の製 造 販 売の店を構 えることに した。 西商 店は当 時ブドウ酒やブランデー、 ウィスキーなどの洋 酒の輸 入 業も営んでいま 一年 後に高 等 科へ飛び級 するほどの優 秀 その後 信 治 郎は北 大 江 小 学 校へ入 学 。 な成績でした。明治二十五年には道修町の薬種商小西儀助商店へ丁稚奉公に。小 求めてはいけない」と激しく叱った。そんなエピソードが残っています 。 人が頭 を 下 げるのが面 白いといって振 り 返る信 治 郎に母は「 人へ恵む時は報いを ある日、母が幼い信 治 郎を連れて天満 宮へお参りに出 掛けます 。参 道には物 乞 いの人たちが連なっていました。で、立ち止まって喜 捨をする。そのあとの物 乞いの 心深い人だったといいます 。 は明 治 十二年(一八七九年 ) 一月三十日、大 阪 鳥 井 信 治 郎(サントリーの創 業 者 ) 中 央 区 釣 鐘 町で生 まれました 。父は両 替 商や米 穀 商 を 営んでいました 。母は信 44 に甘 味 葡 萄 酒「 赤 玉ポートワイン」を 発 売 。同四十五 明 治四十 年(一九〇 七年 ) 年には店 舗 を 中 央 区 住 吉 町へ移しま す 。商 品 名 を 染め抜いた行 燈 を ずらりと店 でしょうか。かなり高額です)。 の周 辺に吊ったり、社 員に赤 玉 法 被を着せたりとユニークな宣 伝 活 動が評 判を呼 びました。 赤 玉ポートワインは売 行 きも好 調で、大 正八年には月 産二万ダースに。同 十一年 にはなんと「 赤 玉 楽 劇 団 」という 歌 劇 団 まで結 成して、全 国 を 巡 回 公 演 。販 売 店 の店主や顧客を無料招待するといったプロモーション活動まで行っています 。その劇 団のトップスターが松島栄美子、あの日本初のヌードポスターのモデルです 。(平野) *鳥 井 信 治 郎について詳しくお知 りになりたい方は「 青 雲の志について― 鳥 井 信 治郎伝―」(山口瞳著、集英社文庫) でどうぞ。 二〇〇九年 一月 十三日 45 38~9銭(いまの金額にすると5000円以上 発売当時の赤玉ポートワイン (550ml)。 引き札で見る江戸・明治の 八軒家かいわい に三井 越 後 屋が開 店の際 引 札はいまで言 うチラシ広 告 。天和三年(一六八三年 ) に配 布したのが最 初だと言われていま す 。初めの頃は文 字だけの墨 摺 りだったも るようになりました。その後 次 第に木 版 多 色 刷りの錦 絵の引 札も登 場して、 より のが享 保 年 間(一七一六年~) には平 賀 源 内や式 亭三馬などによってコピーが書かれ 多彩なものになっていきます 。 にはこの引 札 配 りが商いとして定 着し、呉 服 屋、薬 屋、 宝 暦 年 間(一七五一年~) 宿屋、料理屋などで大いに利用されます 。上方浮世絵師の長谷川貞信(初代・二代 目)も余技で引札を描いていました。 明治期になると引札の版元は圧倒的に大阪が多くなっていきます 。年末年始に商 店が配る「正月用引札」も登場し、道修町の「古島竹次郎」などの版元が全国にこ れを広め一大ブームとなりました。 それまでは 明治十五年くらいを境に新聞広告にその座を奪われていきますが、 大半の企業が引札を宣伝活動に利用していました。 では八軒家周辺の商店の引札を少しご紹介します 。当時の商いの活況ぶりが伝 わってくるようなものばかりです 。(平野) 天満橋南詰の宿屋 天神橋南詰の菓子製造業 46 本町の呉服商 47 安治川の物産問屋 (参考文献) 淡路町の太物商 引札絵びら錦絵広告(増田太次郎著 誠文堂新光社刊) 荷物取扱所の引札暦 二〇〇九年 一月 十四日 北区綿屋町の醸造元 から非常な賑わいを見せていました (現在跡地の石碑が建っています)。 承応二年(一六五三年) に現在の南天満公園付近に移設 。大川に面する立地のよさ 市が立っていたといわれていま す 。その後 大 坂 夏の陣のあ と、何 度か場 所 を 変 え、 下の写真は江戸時代、堂島の米市場、雑喉場の魚市場と並んで大阪の三大市場 のひとつだった「天満 青 物 市 場 」。もともと大 阪 城 築 城の頃に京 橋の南 詰で青 物の が主な栽培地となっています)。 天満 橋や天神 橋 付 近でよく 栽 この大 阪しろなは江 戸 時 代から栽 培が始 まり、 培されていたことから「天満 菜 」とも 呼ばれました( 現 在では住 吉や東 住 吉 方 面 なもその一種) の栽培についての記述があります 。 岸のようですが、 日 本には中 国から入ってき ました。すでに古 事 記につけ 菜(しろ 大 阪で、年 中 食 卓にあがるお惣 菜に「しろなとあ げさんのたいたん」があ り ま す 。この「しろな」、実は大 阪の伝 統 的な野 菜のひとつなんです 。 ルーツは地 中 海 沿 なにわの伝統野菜「天満菜」 って ご存じですか? 48 この天満 菜のほか「なにわの伝 統 野 菜 」には源八橋 付 近でさかんだった「 源八も の」 ( 蓼、芽じそ、大 葉、 カイワレ大 根などのいわゆる「 芽もの」のこと) や毛 馬 胡 瓜、 難 波や木 津で栽 培されていた金 時 人 参などがあ りま す 。京 野 菜が有 難がられる 昨今ですが、実は「なにわの野菜」もなかなか大したものなわけです 。(平野) 二〇〇九年 一月 十九日 49 ながら一献傾けていたそうです 。 左 衛 門、滝 沢 馬 琴、十 返 舎一九などの文 人らが浪 速の町や淡 路 島の夕 焼 けを 眺め ですが、現 在はありません)。松 林に囲まれた料 亭で井 原西鶴、与 謝 蕪 村、近 松 門 この清 水 寺のす ぐ 近 く、現 在 星 光 学 院があるあたりに、江 戸 時 代 を 代 表 する 大 阪の料 亭「 浮 瀬( うかむせ)」があ りました( 明 治の中 頃 まで営 業していたよう に使われていたといいます 。 は古 来 良 質の水が湧 く 清 水が多 く、清 水 坂の下にも「 有 栖の清 水 」があり御 用 水 清 水 寺の「 音 羽の滝 」そっく りに作られた「 玉 出の滝 」も あ り ま す 。上 町 台 地一帯 お寺の舞 台からは大 阪の町が一望できます 。当 時は難 波 津はもちろん淡 路 島や 生 駒 山 も 見 渡せた風 光 明 媚な寺 院だったと思われま す 。この清 水 寺には京 都の 水寺 。寛永十七年(一六四〇年)、京都の清水寺を模して造られました。 八軒 家の南に広がる上 町 台 地には雰 囲 気のいい坂 道が数 多 く 残されています 。 その一つが天王 寺 伶 人 町の清 水 坂です 。この坂 を 登ると右 側にあるのが有 栖 山 清 浪速にも「清水の舞台」があった! 50 芭 蕉も大 阪で亡 くなる直 前にこの「 浮 瀬 」を訪れ「 松 風の軒をめぐりて秋 くれ ぬ」という 句 を 残していま す 。そのほか、あのシーボルトもわざわざ長 崎から訪れ あったとか… 。 たという 記 録 も あ りま す 。織田作 之 助の父、鶴 吉がここで板 前 をしていたことも す(昭和五十七年建立、碑文の文字は蕪村の真跡)。(平野) 浮 瀬 亭の跡 地はいまは公 園になっていま す 。前 述の芭 蕉の句 碑のほか、蕪 村の 「 うかぶ瀬に沓 並べけり春の暮れ」ほか二句を刻んだ蕪 村 うかぶせ句 碑もありま 二〇〇九年 一月 十九日 51 昆布ロードの終着点は「八軒家」? 鎌倉時代になって北海道 平安時代までは昆布は神へのお供え物でした。その後、 (蝦夷) から北前船で北陸、 そして京都へ輸送されるようになります 。 江 戸 時 代に入るとこの北 前 船の航 路がさらに開 発され、下 関から瀬 戸 内 海 を 通って大 阪へと伸びま す 。これが昆 布ロードです 。北 前 船の最 大の交 易 品は昆 布 だったというわけです 。 の靱公園一帯には江戸時代から昭和の初めまで、海産物を取り扱う問屋が何百軒 北海道から大量に運ばれてきた昆布は大川沿いの菅原町や天満宮界隈、靱(う つぼ) の永 代 浜などで荷 揚げされ周 辺には昆 布 加工店が数 多 く ありました。現 在 も軒をつらねていたといいます 。その問屋街の中央に永代浜があり、 そこで荷 揚げ されていました。 天満でも青 物 市 場を取り囲むように乾 物 問 屋や昆 布 問 屋がありましたが、昆 布については靱の方が規模が大きかったようです 。 二〇〇九年 一月 二十日 こうして大 阪の港に昆 布が集 約され、奈 良や京 都では精 進 料 理に、大 阪では浪 速料理の出汁にかかせないものとして需要を伸ばしてゆきます 。(平野) 北前船は昆布ロードの花形だった 永代浜(摂津名所図会より) 52 ロンドンより 早かった! 太閤さんの下水道 ロンドンで下 水 道が整 備されたのは十八世 紀以降 。ところがさすがわれらが太 閤さんです 。大 阪 城 築 城 を 開 始した天正 十一年(一五八三年 ) にはそれと並 行して 壮大な街づくりに着手しています 。その折に下水溝も設けられました。道 路と下 水溝を縦横に巡らせた世界でも最先端をゆく街づくりだったわけです 。 宣 教 師フロイスは「四十日間で七千 軒の家が建った。工事には当 初二~三万 人、 その後は五万人が従事した」と耶蘇会「日本年報」に記しています 。 その頃の町は北 向 き、南 向 きの二軒 を 背 中 合わせに建てるやり 方 。その二軒の間 を下 水 溝が流れていました。ということでこの太 閤 下 水のことを背 割 下 水とも呼 太閤下水 びます 。 には太 閤 下 水の百二十キロの水 路を対 この下 水 溝は明 治二十七年(一八九四年 ) 象に工事が行われ (底にコンクリートを打って蓋をして)暗渠になりました。 いまで もその二十キロほどは市 民のライフラインとして使われているのです 。強 固な石 垣 で護岸されているので、あと数百年は持つだろうともといわれています 。 53 太閤下水見学施設 二〇〇九年 一月 二十二日 現 在 も 活 用されている太 閤 下 水の内の約 七キロは現 在 、大 阪 市 指 定 文 化 財に なっています。八軒家から熊野街道を南へ十五分ほどのところに見学施設もできて います(南大江小学校正門横)。(平野) 見学施設の案内パネル 54 55 パネルにあった「大坂名所一覧」。当時の町づくりの状況がよく分ります。 八軒家の歴史を刻んだ料亭 「三橋楼」 朝日新聞が創刊百三十周年ということで、明治十二年一月二十五日の創刊号の一 面が刷られたちらしが折り込まれていました。 あ りま す 。 その雑 報の一つを読むと「 来る二月二日に石 町三橋 楼にて大 来 吟 会が開かれる」と 石町といえばすぐご近所 。当編集部としては見逃せません。で、調べてみました。 天神橋南詰を大川沿いに少しいくと東横堀川 。現在の今橋のあるあ 江 戸 時 代、 たりは昔、大川へ突 き 出ていた地 形から「 今 橋 築 地 」と呼ばれていました。眼 前を さえぎるものもなく、眺望がすばらしかったといいます 。 きたことからきているとか。 いまの北 大 江 公 園の一角、 石 町一丁 目、 八軒 家から石 町 その料亭の一つ 北浜から天満橋あたりには旅館や料亭が建ち並んでいましたが、 が三橋 楼です 。三橋 楼の名は東の京 橋、 そして天満 橋から天神 橋へと大川が一望で 思われます 。 へ上がる階 段を上り詰めた左 手、ちょうどニコライ会 堂があったす ぐそばだったと 朝日新聞創刊号の一面 「今橋つきじの風景(国員画)」 (「浪花百景」) より 56 明 治八年(一八七五年 )、史 上 名 高い大 阪 会 議( 大 久 保 利 通が下 野した木 戸 孝 充、 板垣退助を政界へ呼び戻すために開いた会議) の第一回目が開かれたのがこの三橋 楼でした。明 治八年一月八日の木 戸 孝 充日記に 『二時 頃、大 久 保 来 訪、同 氏同 伴に て三橋楼に至る』とあります 。 三橋楼のほか「専崎楼」や「加賀伊」などの料亭で会議が重ねられ、 二月 その後、 十一日、北 浜の加 賀 伊へ木 戸が大 久 保 と板 垣 を 招 待 するという 形で三者 会 談( 伊 藤博文、井上馨が同 席) が行われました。そして翌三月には木戸、板垣が参議へ復 帰することになります 。この際、木戸が加賀伊の店名を「花外楼」と改名すること を提案 。自ら看板を揮毫しています 。 の年 末には、新 選 組の近 藤 勇が三橋 楼 少し時 代を遡った文 久四年(一八六四年 ) へ加 賀 屋 を 呼びつけ、問 屋 筋の三六軒からの十五万 両の献 金 を 申し付 けたという 記録も残っています 。 木戸孝充 大久保利通 北浜の花外楼の 「大阪会議開催の地」の碑 こ う して 歴 史 が 大 き く 変 わる 時の舞 台 と なった 三 橋 楼 な どの料 亭 も 明 治 四十五年(一九一二年)、堺筋に市電が開通する際の拡幅工事などを機に廃れていき 発展していくことになります 。(平野) ます 。現在残るのは花外楼のみとなりました。その後、北浜一帯は大金融街として 二〇〇九年 一月 二十六日 57 浪速の橋のギャラリー「錦橋」 錦 橋はフェスティバルホールの南 側 、土 佐 堀 川に架かっている歩 行 者 専 用の橋 。 一九三一年、土 佐 堀川の可 動 堰として作られたものが一九八五年に現 在のような歩 道橋として生まれ変わりました。 その際、江 戸 時 代や明 治 初 年に描かれた浪 速の橋の錦 絵をタイル画にしたもの を展示するなど、「浪速の橋ギャラリー」として整備されました。 ていた川のほとんどが埋め立てられ、橋の数 も 激 減 していま すが、まさに大 阪は なにわは八百八橋 」といわれますが、大 阪 市に管 理されて 「お江 戸は八百八町、 いた橋は一六二九本にものぼりました( 大 正 十四年 )。現 在では市 内 中 心 部を流れ 「水の都」だったわけです 。(平野) では錦橋のギャラリーを写真で少しご紹介します 。 二〇〇九年 一月 二十七日 錦橋全景 錦橋北詰に展示されている浪速の橋の番付表 58 59 そのほか橋の錦絵や古地図、写真類などあれこれ いました。 相撲力士乱闘事件 「いやそっちこ 前 方 から 来 た 大 坂 相 撲の一行 と 壬 生 浪 士の間で「 道 を あ けろ」 そ」といった口論が始まり、浪 士の一人 芹 沢 鴨が脇 差しを抜 き、峰 打ちで力 士を払 た蜆橋 。ここで事件が起こります 。 藩邸があったことからこう呼ばれる) で舟を下り、北新地の住吉楼へ向かおうとし ほかのメンバーが京 屋の小 舟で大川へ あ まりの暑さに、近 藤ほか二名 を 残して、 夕涼みに出掛けます 。そのあと鍋島岸(現在の裁判所合同 庁舎あたり。鍋島藩の をとります 。 壬生 浪 士とはのちの新 選 組 。文 久三年(一八六三年 )六月、不 逞 浪 士の取り締ま りを大阪町奉行から依頼された壬生浪士の近藤勇ほか十名は八軒家の京屋に宿 壬生 浪 士 60 浪 士、 しかも酒が入っているとあっては、 これはもう 大 乱 闘です 。力 士たちは死 者一 さて、住吉楼へ上がって酒宴をひらいている最中、外が騒がしくなりました。なん と八角 棒 を 持った力 士 数 十 人が意 趣 返しにやってきたのです 。血気にはやる壬 生 名のほか十数人の負傷者を出し、退却してゆきました。 相撲絵(歌川国貞画、一八六〇年代) *ウィキペディアより VS 京 屋でその顛 末 を 聞いた近 藤が芹 沢と連 名で東 町 奉 行 所(西町 奉 行 所だとい う説もある) に届け出た「口上覚」の記録が残っています 。 翌日、乱 闘の相 手が壬 生 浪 士だったと知った力 士たちが詫びを 入れ、 これを 快 諾 した壬 生 浪 士はのちに開 催される大 坂 相 撲 と京 都 相 撲で警 備 を 担 当 するなど 友好関係を結びます 。 明治中頃の相撲風景 *ウィキペディアより こ ちなみに相 撲や歌 舞 伎の贔 屓 筋のことを「タニマチ( 谷 町 )」と呼びま すが、 れって谷町筋となにか関係があるんでしょうか。調べてみると確かなことは分りま がいた。病 院 内に土俵 を 設 けるほどの大の相 撲 好 き 。力 士 を 無 料で治 療したり、 せんが、明治時代の終わり、谷町四丁目あたりに歯科医(外科医という説もあり) 若い力士に小遣いを与えたりしていた。そこからきていると言われています 。 (平野) 二〇〇九年 一月 二十九日 61 大阪引き札トランプ ●大阪南区木津市場 乾物商 青地安次郎商店 児島支店 大阪府と河内長野市で保管する文化遺産をデジタルアーカイブ化し、 その超高精 ●大阪南区木津市場 乾物商 青地安次郎商店 細デジタルデータを 有 償で貸し出 すことで得た収 益 をさらにそのデジタルアーカ ●大阪天満市 昆布問屋 松田支商店×2枚 ) http://www.ichibirian.co.jp/ ●旧東区釣鐘町 大豆問屋 和田商店 イブの費用に充てようという事業の一環で生まれた商品 。 販売元/なにわ名物いちびり庵( 二〇〇九年 一月 二十九日 大阪市内の引き札では次のようなものがある。 62 堂島薬師堂の節分お水汲み祭 古 代 大 阪は広 大な干 潟が広がり、多 くの洲があ り ました 。堂 島の名の由 来 も 「お堂のある島」からきています 。 推 古天皇の頃の史 料に「 東は玉 造に四天王 寺 を、西の潟 洲に御 堂 を 建 立した」と も「聖徳太子が四天王寺を創建するための建材輸送の船が暴風雨で難破、 その船 いう記録が残っているそうです 。さらに延宝三年(一六七五年) に書かれた古文書に ます 。 が流れ着いた洲にお堂 を 建てた」との記 述があ り、 これが薬 師 堂の起 源と思われ アジア交 易や国 際 交 流の 古 代より 大 阪は遣 隋 使や遣 唐 使の出 立の地であ り、 玄 関口でした。江 戸 時 代に入ってからも 舟 運が栄 え、 天下の台 所としての位 置 を 確かなものにしていきます 。 その頃、堂 島一帯は蜆川と堂 島川にはさまれた中 洲になっていました。蜆川の北 には曽 根 崎の新 地があ り、夏ともなれば芸 妓 衆の乗った涼み舟でにぎやかなこと だったでしょう 。 63 ん。(平野) 二〇〇九年 一月 二十九日 も あ りま す 。古 代の大 阪に思いをはせつつ開 運 招 福 を 願 うのもいいかもしれませ 鳴らして町 内 を 歩 き まわったり、願いを 書 き 込んだ護 摩 を 焚いたりといった行 事 に節分お水 この堂島薬師堂では立春の日の前日(今年平成二十一年は二月三日) 汲み祭が行われます 。薬 師 寺の僧 侶や鬼、福 男などが法 螺を吹 きならし、銅 鑼を 和したデザインとなっています 。 現 在のお堂はアバンザの敷 地 内にミラーガラスと石で構 成した近 代 的なビルに調 堂 島 薬 師 堂は明 治四十二年に一度 焼 失しましたが、仏 像は類 焼 を まぬがれ再 建、第二次世界 大 戦での戦 災ものがれました。以前のお堂は瓦 葺のものでしたが、 います 。 り、水が湧 き 出ていたそ うです 。お参 りにきた人はその水 を 汲み身 を 清めたとい そんななかで堂 島 薬 師 堂は江 戸 時 代から明 治 時 代 と新 地の花 街や米 相 場 師 など多 くの人々からの信 仰 を 集めました 。このころの堂 島 薬 師 堂には井 戸があ それはもう大 さらに元禄時代には米穀取引所も開かれ、蔵屋敷が次々と建ち、 阪に勢いのある時代でした。 64 「ひとつぶ300メートル」のネオン 「 大 阪がもっと元 気になってほしいなあ 」。道 頓 堀のグリコのネオンサインを 見る たびにそう思います(正式には「ゴールインマーク」と呼ぶらしいです)。 江 崎グリコの創 業 者 江 崎 利一は明 治 十五年、有 明 海に近い現 在の佐 賀 市の生 ま れ。父から薬業種を引き継ぎます 。 ある日、地 元の漁 師たちが惜しげもなく 捨てている牡 蠣の煮 汁を見てふと「ひょっ としてあの煮 汁にはグリコーゲンが含 まれているのではないか」と考 え、九州 大 学 に分析を依頼します 。それが大正八年のこと。 「育ち盛りの子供たちにグリコーゲ ン入りのキャラメルを―」。さっそく試作品作りが始まります 。 まず大正六年、製品化のメドがつき、商品名も「グリコ」と決めた江崎利一は大阪 の千 代 崎 橋に江 崎 商 店 大 阪 出 張 所 をひらき 弟ほか三名に経 営させま す 。そして 大 正 十 年の春、利一は一家をあげて大 阪へと向かいます 。同 年「 江 崎 商 店 」を 設 立、 西区堀江工場を操業させます 。 65 二〇〇九年 二月 二日 このグリコネオンは二〇 〇三年四月には大 阪 市 指 定 景 観 形 成 物に指 定されま した。(平野) 目 。平成十年に完成したものです)。 としては型 破りのネオンです 。浪 速っ子の喝 采を浴びました( 現 在のネオンは五代 ち なみに道 頓 堀 戎 橋にグリコのネオン塔 が 建ったのは昭 和 十 年 。高 さ三 十 三 メートル。トレードマークのランナーとグリコの文 字 を 点 滅 する花 柄で飾った当 時 そのあまりの熱心さにようやく取り引きがスタート。大正十一年二月十一日に店 頭販売が始まりました。この日が江崎グリコの創立記念日とされています 。 した。 で北浜の三越へ断られても断られても足を運んで栄養菓子グリコの特長を訴えま なかなか設立したばかりの江崎グリコ 製品に自信はあっても、市中の小売店は、 の製 品を扱ってくれません。じゃあ 逆に一番 信 用のある店から攻めようということ 66 松下幸之助の大阪電燈 (現関西電力)時代 ご存じ松 下 幸 之 助さんは十一才の時、 一家で天満へ移り住み、奉 昭 和の太 閤さん、 公に出 ま す 。その後、大 阪の路 面 電 車 を 見て感 動し、明 治四十三年、十五才で大 右の建物が大阪歌舞伎座、左の芝居小屋が「芦辺劇場」 阪電燈(現関西電力) に内線見習工として入社し(浪速区幸町の営業所)、飲み込 みの早いその仕 事ぶりで入 社 後わずか三ヶ月で工事 担 当 者に昇 格、その後七年 間 勤めていま す 。在 職 中に、簡 単に取 り 外しができる電 球ソケットなども 考 案した ことは有名です 。 南の演舞場の新装工事や通天閣の電灯工事など幸之助が担当した工事は数多 く あ りま すが、 なかでも 千日前の芦 辺 劇 場の電 灯工事はいまだに語 り 草になって います 。大正三年(一九一四年) のことです 。 当 時、映 画 館は活 動 写 真と呼ばれ、爆 発 的な人 気 を 得るようになってきていま した。旧 来の芝 居 小 屋がどんどん映 画 館に改 装されていきます 。芦 辺 劇 場もその 一つでした 。工事は三チームで行われ、彼はその総 責 任 者 を 命じられま す 。年 末の 開 館日を目 指して六か月 間の工事 期 間 中、息を抜 く 暇もありません。オープン前 の最 後の三日間は一睡もせずに工事を決 行 。開 館二日前に無 事 試 点 灯をすませた といいます 。 67 芦 辺 劇 場のあった千日前 周 辺には楽天地、常 盤 座、弥 生 座など六軒もの映 画 館 がひしめいていました 。当 時はも ちろん無 声 映 画 。全 国で七千 人 もの弁 士がいた そうです 。 この工事のあった一九一四年のこと ちなみにチャップリンが映 画デビューしたのも、 でした。 その後一九一七年、松 下 幸 之 助は大 阪 電 燈を退 社 。自 宅で電 球ソケットの製 造 販 売に着 手、翌 年には北 区西野田( 現 福 島 区 ) で松 下 電 気 器 具 製 作 所( 現パナソニッ ク株式会社の前身)を創業することになります 。(平野) 二〇〇九年 二月 二日 千日前の楽天地(ウィキペデイアより) 68 熊野街道がお祓い筋と 呼ばれる理由? 「お祓いって 土佐 堀 通りの熊 野 街 道の碑のある南 北の筋をお祓い筋といいます 。 どういうこと?」と素朴な疑問が湧いてきます 。少し推理してみましょう 。 とかが定かでないようです 。う~ん、困りました。 朝鮮遠征(月岡芳年画 一八八〇年) *ウィキペディアより お祓いを 平 安 末 期、後 白 河 法 皇や後 鳥 羽 上 皇が熊 野 詣 を する際にお清めし、 したことに由 来 するという 説 も あ りま すが… 。じゃあどこでその神 事 を 行ったか 浄 を 取 り 除 くための神 事であったらしい。日 本に律 令 制が敷かれた七世 紀 後 期、 「お祓い」というと一般には神 前で行われる祈 祷 全 般 を 言いま すが、どうなんで しょう 。調べてみるともともと「お祓い」とは、神 道 上において犯した罪や穢れ、不 飛鳥時代の終わり頃に大祓が国家儀式になったといいます 。 http://www. ここからは編 集 部の推 理です 。熊 野 街 道を南へ十キロほどゆくと住 吉 大 社があ りま す 。住 吉 大 社は全 国で二千 あ まり ある住 吉 神 社の総 本 宮 。禊 祓の神が祀ら れ てい ま す( そ の 由 来 な ど は 住 吉 大 社 の ホ ー ムペー ジ( ) でどうぞ)。 sumiyoshitaisha.net/ 69 二〇〇九年 二月 五日 れています 。なにか「お祓い筋」の名前の由来と関係がありそうです 。(平野) 八軒 家 近 辺の坐 摩(いかす り )神 社( 通 称 /ざまじんじゃ)も 神 功 皇 后によって 建立されました。坐 摩 神 社 行 宮には「 神 功 皇 后の鎮 座石」と言われる巨石が祀ら ていきます)。 徳天皇による上 町 台 地の堀 江 開 削などもあり、海 上 交 通の中 心は難 波 津へと移っ のちには遣 唐 使や防 人 も 出 発したりといった海 上 交 通の要 所でした( その後、仁 当時、大阪湾は今より内陸に広がっており、仁徳天皇の時代には住吉津がおかれ、 と一緒に神功皇后も祭られています 。 されました。あの熊 襲 征 伐や新 羅 を 平 定した皇 后です 。住 吉 大 社には住 吉 大 神 どうも「お祓い筋 」の名はこのあたりから来ているような… 。住 吉 大 社は「 帝 王 編年記」 ( 鎌 倉 時 代に編 纂 ) によると摂 政 十一年(二一 一年 )、神 功 皇 后によって建 立 ばれます 。参拝者は茅の輪を三回くぐり、 お祓いをします 。 ここで毎 年七月三十日から八月一日までおこなわれる住 吉 祭は「おはらい」とも呼 70 江戸 大坂。 大久保利通の大阪遷都計画とは? 慶 応三年(一八六七年 )十 月 十五日、大 政 奉 還 。徳川 幕 府は滅 亡しました。新 政 府の基盤も固まっておらず、 世の中も騒然という状態です 。 そんな中で「 人 心 を一新 するには都 を 京 都から移 すべし」という 遷 都 論が有 力 になってきました。大久保利通は大阪遷都論を強く主張しました。 「いまにわかに大 この遷 都 論には公 卿や大 名から反 対 意 見が湧 き 起こります 。 阪 遷 都を断 行 するには摩 擦が大 きい」と判 断した大 久 保、 三条 実 美、岩 倉 具 視ら れるだろう 」との思 惑から建 白書を作って上 奏します 。これが慶 応四年一月 末のこ は「天皇が大阪へ行幸し、海陸軍を親閲、 しばらく大阪に留まれば、綱紀も回復さ とです 。 三月には大 阪の豪 商 十五名が親 征 費 翌 月三日には、大 阪 行 幸が最 終 決 定し、 五万 両(いまでいう とおおよそ 十 億 円 )を 調 達しま す 。そしていよいよ三月二十一 大 阪への行 幸は実に総 勢一六五五人にものぼる大 行 列だったそうです 。時に天皇は 日、 天皇の一行は京 都 を 出 発して二十三日、大 阪へ到 着 することになり ま す 。この 十七才でした。 71 大久保利通(サンフランシスコで撮影) *ウィキペディアより VS 大 阪での天皇の行 在 所は大 坂 東 本 願 寺 津 村 別 院 。滞 在 中、陸 海 軍の親 閲など、 その活 動は多 方 面に渡 りました。三月二十六日には天保 山で、電 流 丸、万 里 丸な 明治天皇(明治六年) *ウィキペディアより どの六隻( 合 計二四五二トン)、 フランス艦一隻で日本 初の観 艦 式を行っています(天 明治天皇(明治五年) *ウィキペディアより 72 保山には「明治天皇観艦之所」という行幸記念碑が立てられています)。 大阪行幸錦絵(大阪府史第7巻より) こうして一ヵ月 余 りの行 幸 を 終 えて、 四月 七日、 八軒 家より 水 路で守口へ上 陸、同 日淀城で宿泊したのち、翌日には京都へ還御されました。 「 港に大 艦が入れない」 「 市 街が狭い」 「大 この前 後、「 大 阪は日本の中 央でない」 阪は帝 都にならなくても衰 頽しない」といった理 由で東 京の戦 略 的 重 要 性を訴 え 衆を悪政から解放する」といったイメージを印象づける狙いもあったようです 。 た東 京 遷 都 論が優 勢になってゆきます 。徳川 家の「 居 城 」に天皇が入ることで「 民 この日をもって元 号を「 明 治 」にする 九月八日、新 政 府は「一世一元の制 」を定め、 と発 表しました。同 月二十日、総 勢三三〇 〇 人の行 列が出 発 。これが日本 史 上 初 の東 京 行 幸です 。そして明 治 元 年 十 月 十三日 午 後二時 、江 戸 城へ入 城 となり ま す 。大阪遷都の夢ははかなくも破れました。(平野) 二〇〇九年 二月 五日 73 大阪のベルエポック 「第五回内国勧業博覧会」 天王 寺 を 明 治三十六年(一九〇三年 )三月一日から七月三十一日までの五ヶ月 間、 会 場に第五回 内 国 博 覧 会が開かれました。 フランス革 命百周 年 記 念と銘 打ったパ とです 。 リ万博が一八八九年(この時エッフェル塔が建てられました)。そのわずか四年後のこ これは日本の勧 業 政 策に基づく 国 家プロジェクトで、すでに東 京の上 野 公 園で一 ~三回、 四回 目は明 治二十八年、京 都で開 催されています 。大 阪が会 場となったこ の博 覧 会は、 これまでと違って英・米・独・仏ほか欧 米 十三ヶ国が出 品した「日 本 初 の万国博覧会」といえるものでした。 足がありませんでした)。当時は人力車が主体、 二万台は走っていたといいます 。し まだ大 阪に市 電が走る前でしたから、入 場 客 を 会 場 まで運ぶ交 通 網があ りま せん ( 現 在の環 状 線に当たる関西鉄 道・城 東 線などは開 通していましたが、市 内の かし、それでも到 底、期 間 中四百五十三万 人以上もあった入 場 者を運びきれませ ん。 第五回内国勧業博覧会会場正面*大阪市史第六巻より 74 そこで大 活 躍したのがこの博 覧 会を機に整 備された市 内 堀川を運 行 する巡 航 船です 。巡航船の乗り場は八軒家、 天満橋、堂島から川口、長堀など四十数ヵ所あ りました。 明治30年後半頃の大川。 左手前から府立図書館、明治36年竣工の旧中之島公会堂、大阪ホテル。 * 「ふるさと想い出写真集 大阪」 より これを 機 会に大 川 沿いの整 備 も す すみ 博 覧 会 会 場の天王 寺 周 辺だけでなく、 ました。中之島公園には公会堂が建設され、明治三十四年に全焼していた大阪ホ 会のガイドブックには「中之島公園」 「大坂城」 「造幣局」 「公会堂」などの大川沿い テルも三十六年一月には新 築 落 成して外 国 人 客を迎える準 備も整いました。博 覧 の観光スポットが紹介されています 。 博 覧 会 場では工業 館、教 育 館、農 業 館、林 業 館、水 族 館( 堺の第二会 場 )などが 設けられ、内外展示品の総数は二十七万六千点にも及びました。なかでも話題を 呼んだのが蒸 気 自 動 車 。これが大 阪で自 動 車が紹 介された最 初です 。あとカメラ る百三十三坪もある巨大冷蔵庫は浪速っ子の度肝を抜きました。 やタイプライターなども 出 品されていま す 。とくに毎日五トンもの製 氷 能 力のあ 博 覧 会 を 機に大 阪の道 路 整 備 も す すみ、閉 幕 後になりましたが市 電 も 開 通、 乗合バスも開通します 。開幕前に営業を開始した市内巡航船は、市民の足として 一日平均二万人近くの人を運んだといいます 。 75 西側一帯は「大都市大阪にふさわし 博覧会会場の跡地は、東側が天王寺公園に、 い一大 歓 楽 街 」として開 発がす すみます 。 パリとニューヨークを足して二で割った街 が完 成、浪 速のシンボルともなりました。南にはニューヨークの都 市 型リゾート「コ 「新世界」を作ろうという構想のもと、北には凱旋門にエッフェル塔を乗せた通天閣 を遂げます 。(平野) ニーアイランド」を参 考にした遊 園 地「ルナパーク」が開 園、 その後 目 覚ましい発 展 二〇〇九年 二月 十日 新世界ルナパーク *大阪市史第六巻より 76 中世の八軒家は 渡辺水軍の根城だった! 浪華住古図(宝暦六年) *大阪府史より 大 阪の歴 史 を 辿ると、難 波 京から石 山 本 願 寺 までの間がぽっかりと空 白になっ ているような印象があります 。 ところがどうして、我らが八軒 家かいわいでその時 期に歴 史の表 舞 台で しかし、 活躍していた一族がいました。 いわゆる嵯峨源氏の源綱(みなもとのつな) が、 この地 (渡辺津) に住んで、苗 字 を 渡 辺とし、渡 辺 氏 を 起こしたのがそれです 。平 安 時 代 後期の頃です 。 の天満 橋から天神 橋 あたり 。窪 津( くぼつ)とも 呼ばれ 渡 辺 津は旧 淀川( 大川 ) ました。 「 摂 津 名 所 図 会 」によると八軒 家の右 岸 を 北 渡 辺、左 岸 を 南 渡 辺と称し たとあります 。 この渡 辺 津は早 くから瀬 戸 内 航 路の要 港でしたが、延 暦二十四年(八〇五年 ) に摂津の国府が設置されるとさらに人の往来や船舶の出入りが盛んになります 。 平 安 中 期になると熊 野や天王 寺、住 吉 大 社への参 詣が盛んになるにともなって渡 辺 津は、その出 発 点として交 通の重 要な拠 点としての位 置をゆるぎないものにし ました。 77 この渡 辺 津 を 中 心に大川 河口辺の港 湾 地 域 を 本 拠 地とする 渡 辺 綱の後 裔は、 「 渡 辺 党 」という 水 軍も兼ねた武 士 集 団を形 成し、 いわば大 阪の水 上 警 察 的な役 割を担います 。瀬 戸 内 海や紀 伊 水 道を海 船によって運ばれてきた年 貢 米などは、 ここで川舟に積みかえられて淀川を遡りました。そういった港 湾 関 係 者を統 括 す る役割も担いつつ勢力を拡大していったと思われます 。 は嵯 峨天皇の系 譜 を 渡 辺 党の家 祖、渡 辺 綱( 九五三年 ―一〇二五年三月一七日) ひく 源 融( 源 氏 物 語の光 源 氏のモデルと言われています ) の養 子になります 。義 母 が渡辺津に居住していたので、 ここを本拠として渡辺氏を称しました。 渡辺綱が京都一条戻り橋で羅生門の鬼を 切り落とした場面(歌川国芳画) *ウィキペディアより 綱は武 勇に優れ、源 頼 光に仕 えて「 頼 光の四天王 」の一人と称せられま す 。大 江 山の酒 呑 童 子 退 治や京の羅 生 門の鬼の腕を斬り落とした逸 話などはあまりにも 有名です 。 大江山の酒呑童子と源頼光、源綱ほか (一英齊国艶が) *ウィキペディアより 78 渡 辺 党はその後 も 着 実に勢 力 を 拡 大し、保 元の乱では源 頼 政の郎 党として御 白河天皇 方につき、平 治の乱では平 清 盛 方について戦いました。頼 政の源 氏の再 興 の動 きなどを 経て、義 経の屋 島の戦いでは、義 経が本 陣 を八軒 家の坐 摩 神 社に置 降、坐摩神社は渡辺氏の一族が神職を務めていました)。 「破奇術頼光袴垂為搦(きじゅつをやぶってよりみつはかまだれをからめんとす)」 ( 一英斎芳艶画) いたことでも分るように、渡 辺 党の水 軍が大いに力を発 揮しました( 十一世紀 末以 屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでは、義経が渡辺党を中心に水軍を編成し、渡辺津か ら出陣したのです 。(平野) 二〇〇九年 二月 十三日 79 室町時代の謡曲「芦刈」に登場 する 「大江の岸」は「八軒家船着場」の 辺りだった? 2009年2月3日 付 け「 浮 瀬( うかむせ)奇 杯 ものがたり 」をお読みいただいた 見市泰男さんからお手紙をいただきました。 見 市さんは当 代 屈 指の能 面 作 家であり、当 然のことながら謡 曲にも詳しいのです が、 お手 紙の中にわが八軒 家が登 場 する謡 曲にふれた箇 所 も あ りましたので、本 人の承諾を得て一部を掲載させていただきます 。 ましたので同 封いたしま す 。 「 猩々」は古 来おめでたい能( 祝 言 能 )として人 気が 『 謡 曲「 浮 瀬 」のマザーストーリーになっており ま す「 猩々」のテキストをコピーし あり、猩々が酒に酔い水 面の上 を 舞 う( 流れ足 )場 面が真 骨 頂です 。その「 伝 説の 酒の妖精」である「猩々」が「浮瀬」の奇杯のことを聞きつけて、中国から日本まで 出した大阪的感性を持つ能楽師ではないかなどと想像したくなります 。 一杯 飲みにやって来るという 奇 想天外な発 想が面 白 く、作 曲したのは吉 本 を 生み (略) ツレ (芦刈の場合はシテの妻) が着ける 「小面(コオモテ)」 ( 見市さん作)。 ちなみに「芦刈」のシテ (主役) は直面(ヒタメン) と申しまして、 面を着けずに素顔で演じます。 80 ち なみに、謡 曲「 芦 刈 」序 段の謡に登 場 する「 大 江の岸 」は京 阪の天 満 橋 北 側に あった八軒 家 船 着 場の辺 りのようです 。八軒 家 船 着 場は広 沢 虎 造の浪 曲「 清 水 次 郎 長 伝 :石 松三十 国 船 道 中 」のなかで有 名 な「 寿 司 食いね え・ ・ ・」が展 開 する なかでの話(もちろんフィクションでしょうが) であることは、 はずかしながら最近 三十石 船の船 着 場です 。この名 場 面が八軒 家から京 都の伏 見 まで川 を 遡る船の 知 り ました。石 松は酒 樽 と本 町 橋の押し寿 司 を 携 えて船に乗 りこみま す 。その 「 本 町 橋の押し寿 司 」を 食 うてみたいと思いちょっと探したことがあるのですが、 残 念 ながらそれらしい店はあり ませんでした。浪 曲の上での創 作でしょうか。ご 承知でしたらご示教下さい。』 「若女(わかおんな)」。 小面より若干年上の女性。 「延命冠者(えんめいかじゃ)」。 十二月往来の時のツレが使用する面。 八軒家かいわいは、近くの徳井町に山本能楽堂があり、能とは縁の深い土地柄なの ですが、 そのつながりが室町時代(能の創世期!)までさかのぼれるとは思ってもみ ませんでした。見市さん、ありがとうございます 。 見 市さんの打つ能 面は、当 代一流の能 役 者に愛 用されているだけでなく、その腕 前 は、古 面の修 復にも 存 分に発 揮されていま す 。実 力は広 く 海 外にも 知れ渡 り、海 外の美 術 館からも修 復 依 頼が舞い込むほど。そんな見 市さんの作 品、冒 頭の小 面 以外にもいくつか紹介させていただきます 。 81 ところで、見市さん、「本町橋の押し寿司」ですが、本町橋周辺にはそれらしい店は 見当たらないようです 。ただし、 そこから松屋町筋沿いに十分ぐらい南に歩いたと ころに「たこ竹 」という 大 阪 寿 司の老 舗が店を開いています 。創 業が天保二年と言 いますから、案 外この店 辺りをモデルにしたのでないかと。今 度ぜひご一緒しましょ う。 〈謡曲「芦刈」について〉 伝 えられる。貧しさ故に夫 婦 離れて働 く うちに音 信 不 通になった夫を、今は裕 福 世 阿 弥(1363年?~1443年?)が大 和 物 語、今 昔 物 語に想 を 得て作ったと になった妻が探し出し、手 をたずさえて京にもどるという 話 。序 段で道 中の地 名 が謡いこまれており、「 大 江の岸 」は、「なほ行 く 末は渡 辺や 大 江の岸 も 移 りゆ く 」と紹 介される。後 拾 遺 集に見 える良 暹 法 師の歌に「 渡 辺や大 江の岸に宿りし て雲井に見ゆる生駒山かな」とあり、 この歌を踏まえたものと思われる。(津川) 〈参考文献〉 『 能・狂言辞典 』西野春雄・羽田昶編、平凡社、 1999 ) http://www.oml.city.osaka.jp/image/themes/theme849.html 『 水都・大阪の入口「八軒家浜」』 WEBギャラリー、大阪市立図書館、 2008 ( 二〇〇九年 二月 十七日 「たこ竹」は天保二(1831)年創業の老舗。 シイタケの混ぜご飯に穴子や 鯛をのせた上ちらしは、木の芽の香りが上品で美味。夏場は炭で焼いた 穴子棒寿司、冬は限定でサバの棒寿司が人気。 ( Yahooグルメより) 82 蕪村の謎。 故郷「毛馬」との微妙な関係 なぜ蕪村は「春風馬堤曲」であれほど 懐かしんだ故郷の毛馬を 一度も訪れることなく 逝ったのかー。 「浪花百景 毛馬」 ( 芳雪画) より。 毛馬は淀川が中津川と分岐して 大きく曲がってゆくところの左岸にある。 対岸の長柄とは渡しで結ばれていた。 佛光寺通烏丸西入る南側にある 「与謝蕪村宅跡」の碑。 しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり ご存じ、蕪 村 辞世の句です 。天明三年(一七八三年 )十二月二十五日の未 明、京 都 の自 宅で、 この句 を 吟じたあ と眠るようにして亡 くなり ました。享 年六十八才 。 病 勢が悪 化した際、急 遽 蕪 村の姉二人が呼ばれたと几 菫の「 夜 半 翁 終 焉 記 草 稿 」 にあります(すぐ臨終の床へ駆けつけたのですから、毛馬からの可能性が高いと思 蕪 村が毛 馬を出たのは二十 才 頃ですから五十 年 近 く 経っています 。おそらくはこ われます)。 の時がそれ以来の初めての対面だったと推測されます 。 83 なぜでしょう 。享 保二十 年に江 戸へ下って俳 句 修 業 を 積み、寛 延三年(一七五〇 年) からは京 都に居を構 えていますが、故 郷を出てから以降 亡 くなるまで毛 馬を 訪れた形 跡がありません。姉たち親 族がいたのですからこれは少し気になるとこ ろです 。 蕪村が弟子に宛てた手紙で「自分の故郷は毛馬だ。幼いころ、毛馬の堤で遊んだ ものだ」と記していますから、毛 馬が生 誕の地であることは間 違いありません。で もこの手紙のほかには蕪村が近しい人に故郷のことを語った記録はありません。 蕪 村は享 保 元 年(一七一六年 )、摂 州 毛 馬 村 生 まれ( 丹 後の与 謝 村とか摂 津天王 寺村だという説もあります)。天満橋から川崎、源八の渡しを経て、桜の宮を過ぎ て、 しばらくいくと毛馬 。蕪村のふるさとです 。 毛 馬は幕 府 直 轄の純 農 村でしたから蕪 村の生 家 も 農 家であったことは間 違い ありません。両 親については記 録がなく あ くまで伝 承ですが、母は丹 後 国 与 謝 郡 の人で、名は「 げん」。毛 馬 村の村 長である北 国 屋 吉 兵 衛のもとへ奉 公に出たが、 主 人の手がついて妊 娠し、故 郷の与 謝に帰って子を産んだ。それが蕪 村だというも のです 。 俗 説の域 を 出ないとはされていま すが、蕪 村が故 郷のことを 語らないことと合 わせて考 えると興 味 深い説ではあ りま す 。父となんらかの確 執があったのかもし れません。 淀川両岸一覧、下り船之部より (松川半山画)。淀川が右へ長柄川を 分かつところ。ここに、毛馬より長柄村へ渡る 「毛馬のわたし」があった。 毛馬は、 この図の下側(東南方)。 84 大 切に育てられていたはずです 。でも、その後、享 保二十 年( 蕪 村二十 才 )、毛 馬 を その母 と蕪 村は十 三 才の時に死 別 していま す 。前 述のように弟 子への手 紙で 「 毛 馬の土手で友 達とよく 遊んだ」と書いていますから、 それまでは蕪 村は毛 馬で 出 て 江 戸へ向 か う ま でのこ と は な に も 分っていま せん 。ちょう ど 享 保 の 飢 饉 (一七三二~三年 ) のあった数 年 後ですから、それも 関 係 あるのかもしれません。 一 体、蕪村に、 そして毛馬村にどんな事件があったんでしょうか。 春 風 馬 堤 曲が世に出たのは安 永六年(一七七七年、蕪 村六十二才 )。浪 速に奉 公 に出た若い娘が藪 入 りで浪 花 橋の奉 公 先から故 郷の毛 馬へ帰る道 中 を 俳 句や漢 「浪花百景 あみ嶋風景」 ( 国員画) より。 「摂津名所図会」では「難波最上の名境なるべし」 と 絶賛されている。 「浪花百景 さくらの宮景」 ( 国員画) より。 「摂津名所図会大成」に「浪花において 花見第一の勝地といふべし」 と記されている。 詩を交えて詠んだもの。 やぶ入や浪花を出て長柄川 春風や堤長うして家遠し と始まります 。この堤は「 馬 堤 」ですから毛 馬の堤です 。では長 柄川はどの川をい うのでしょうか。浪 花 橋( 難 波 橋 ) から帰ったというのですから、 これは今の大川も 含めて淀川を指しているのでしょう 。となると八軒家あたりも通ったに違いありま せん。 蕪 村の望 郷の思いが溢れた作 品ですが、故 郷への懐かしさを 表したのはこれが 最 初で最 後となります 。ちょうど娘を嫁がせた時 期ですから、そんなことで淋し さをまぎらわすための作品かもしれません。 85 この年の四月 十三日に蕪 村は几 菫と浪 花に下っていま すが、す ぐに兵 庫の布 引 の滝へ弟子たちと出掛け、十九日には舟で京都へ帰ってしまいます 。 にも 蕪 村は同じく 几 菫と浪 花に下っていま す 。記 録によると 翌 年(一七七八年 ) 三月 九日、昼 舟で伏 見 を 出 発、翌 朝に大 坂に着いたとあ りま す 。下 り 舟からは毛 馬の菜畑がひろがる夕景が見えたに違いありません。 その日は弟 子の大 江 丸の案 内で網 島へ。網 島は近 松 門 左 衛 門の「 心 中天網 島 」で おなじみのところ。現 在の川 崎 橋 を ちょっと北へ上がったあたり 。眼 前の大 川には ひっきりなしに舟が行き交い、 東には信貴山や生駒山の山並みが一望できる景勝地 です 。 そのあと蕪 村たちは桜の宮へ向かいます 。神 社 境 内はもちろん大川の水 辺に至 るまで桜が植 えられ、浪 花 随一と言われたさくらの名 所です 。そこで花 見をしてい ま す 。しかし 毛 馬 まで足 を 伸ばしたという 記 録はあ り ません。兵 庫へ出 掛 けて 二十一日には夜舟で帰宅の途についています 。 源八をわたりて梅のあるじかな 蕪村 なぜ立ち 寄 りも こんな句 も 詠み、目と鼻の先のところに故 郷が待っているのに、 しなかったんでしょうか。大 阪へは数 えるほどしか来ていない。寄るのならこの時だ と思われるのに… 。これは謎です 。 淀川両岸一覧、上り船之部より (松川半山画)。毛馬の岸。 土手に描かれているのが春風馬堤曲で出てくる茶店だったのかもしれない。 この土手の向こうに蕪村の生家があった。 86 一つは隣の天王 寺 村が蕪(かぶら) の名 産 最 後に蕪 村という 俳 号の由 来について。 地 だったから、そこからとったという 説 。二つ目は、陶 淵 明の「 田 園 将( ま さ ) ニ蕪 (あ) レナントス」という 文 句からだという 説 。現 在では後 者がほぼ定 説とされてい 春 風 馬 堤 曲 を 詠んだ蕪 村が故 郷の村 を 訪れなかった理 由は謎のま まです 。室 生 るようです 。となると蕪 村とは「 荒れた村 」の意になります 。望 郷の念のあふれた 犀星の言うように「ふるさとは遠きにありて思うもの」だったんでしょうか。 一軒の茶見世の柳老にけり 蕪村(春風馬堤曲より) (平野) (参考資料) 「与謝蕪村」(田中善信著 吉川弘文館刊) 「蕪村の手紙」(村松友次著 大修館書店刊) 「与謝蕪村」〈江戸人物讀本〉(谷地快一編 ぺりかん社刊) 二〇〇九年 二月 二七日 87 を見つけ、 その一節の 住吉大社の位置 を読んで、 ぼくも驚いた。 父の蔵 書のなかに、 たまたま山 根 徳 太 郎 著「 難 波 王 朝 」 ( 昭 和44年 学 生 社 刊 に、古 文 書を読み解いてくわしく 論 証されていたのを知った。古 代 史 好 きだった亡 この説は、その後、あの難 波 京 を 発 掘された山 根 徳 太 郎 博 士が、も う70年 も 前 たく未知の研究者?の思わぬ卓見に出会い、興奮することがある。 郷土史にはずぶのしろうとのぼくだが、あてもなくネットでサーチしていると、 まっ い説を偶然ネットで発見した。 住 吉 大 神は、 かつては、 ここに鎮 座し、その後 現 在の住 吉へ遷 座した、 という 興 味 深 社が鎮座ましましていたらしいのだ。 おどろいたことに、仁 徳天皇の御 代に、 ここに、「 すみよっさん、」 つまり、あの住 吉 大 い。社殿の前の石碑に「坐摩神社行宮」とある。坐摩はイカスリと読む。 そ り とたた ず む 目 立 たない小 さな 社がある。ふだん参 詣 する人はほとんどいな 熊野古道の入り口の通称、 おはらい筋を西にくだると、 石町の中小ビルの陰に、 ひっ 住吉神社は、 ここ石町にあった? 山根徳太郎博士説。 88 ) その説とは、 つぎのようなものだ。 山 根 博 士は、克 明にこの記 録 を 調べ、住 吉 大 社が現 在の社 地に固 定 する前に、幾 「住吉大社神代記」と呼ばれる古記録が住吉神社に所蔵されている。 たびかその位置を変えている。とし、 さらにこう述べている。 旨に合う土地を、後年の八軒家の船泊まりの背後の丘陵地、上代から中世を通じ 「 神 代 記にしるされた神 話から、 わたくしは、難 波の地のあたりに、 この神 話の趣 受 けた場 所と想 定したのである。その場 所ならば、大 御 栄の大 津ということばに て、坐 摩の神の鎮 まる社の所 在した地 域 を、最 初に住 吉の大 神の示 現し、祭 祀 を も あてはまるし、そこからは、難 波の入 り 江、清 澄な流れと行 き 交 う 船 をみまも ることもできるだろう 。」 澄んだ江を意 味 するスミノエも、 ここの風 景から生まれたとし、 ここがまた応 神天 皇の大隈宮オオスミノミヤが営まれた地としている。 住 「 吉 大 社 神 代 記 」には、住 吉の子 神 様の首 位に名 を 連ね われは住 吉の大 神の 伝えによって、坐摩の神域は往年そこが皇居として考えられていた日のあることが 御 魂 ぞ、為 婆天利の神、亦 猪 加 志 利 乃 神と号 く という 託 宣があったと伝 えてい る。これによると、住 吉の神と坐 摩の神とは同 体ということになり、『 古 語 拾 遺 』 の 察せられる。住 吉の三神、住 吉の大 神と神 宮 皇 后は深 く 結ばれたとなっている。大 神はつねに皇后をその神人(ヨリマシ と)して現れたのである。 89 ちなみに、住 吉 大 社の神 主、また、坐 摩 神 社の当 初の神 主が津 守 宿 禰の名で呼ば れていた。このかいわいは、 西成 郡 津 守 郷とよばれていた。ただ、本は天神 橋 南 詰め あたりに所 在したと考えられる住 吉 神 社が、 そこからはるか8キロも離れた現 在 の地に移ることになった理 由ははっきりしてしない。このように、山 根 博 士は述べて いる。 呼ぶが、 これは、住吉神社の夏祭り「おはらい」に通ずるのではないか。(南斎) ぼくの素 人 考 えでは、 ここ八軒 家 浜から熊 野 街 道につながる筋 を、「 御 祓い筋 」と 二〇〇九年 三月 三日 難波宮址現状図を作成中の山根博士 * 「難波王朝」 ( 学生社刊) より 90 浪花三十六景「川崎鋳造場」 ( 二代目貞信画) より。 造幣寮は断髪、廃刀、洋服を義務付けた日本最初の職場だった。 春爛漫です 。文明開化の八軒家 花も真っ盛り 盛りの明治四年四月四日、 日 本、 そして大阪は、 近代国家、産業都市への第一歩を踏み出しました。 大川の造幣局の操業です。 その日は、 天保山の停泊中の軍艦や大阪城内の大阪鎮台から 祝砲があがり、夕方には大花火―。 川べりを埋め尽くした群衆から大歓声が上がりました。 大阪の文明開化、 いよいよ幕開けです。 石船も蒸気船に対抗して定期運行していました。 川蒸気とも外輪船とも呼ばれました。 錦絵の右下に蒸気船が見えます 。当時、 この蒸 気 船が八軒 家と伏 見を往 復 するようになったのが明 治三年です 。まだ三十 さらに桜の頃ともなると上方落語の「百年目」に出てくるような、桜の宮へ花見 に向かう屋形船で混み合います 。 91 明治二年二月には大阪城の青谷口に陸軍の武器工場である造兵司(のちの大阪 砲 兵工廠 )も設けられます 。まだ鉄 道が整 備される前ですから、 工事も水 運を頼 るほかありません。大川は大賑わい、大混乱だったことでしょう 。 そ し ていよいよ 造 幣 寮( 現 在 の 造 幣 局 )の 設 置 で す 。新 政 府 は 明 治 元 年 (一八六八 年 )十一月 、天 満 橋 北 詰 から 源 八 橋 西 詰( 現 在のOAP あ た り )まで、 代的な造幣工場の建設を開始します 。 五万六千 坪( 現 在の造 幣 局の二倍、甲 子 園 球 場のほぼ五倍に相 当 )もの敷 地に、近 このあたりは、信 長の弟、織田有 楽 斎の別 荘などがあったり、その後 藤 堂 藩の蔵 屋 敷があったりした景 勝 地であり、また八重 桜の名 所でもありました。造 幣 寮の 工事 を 開 始 する頃には大 阪 城 内 外の建 物の補 修などの資 材 置 場 となっていまし た。 この地が選ばれたのは、空き地があったことが第一ですが、 やはり水運の便 。中之 島 あって大川べりの現在の場所が選ばれました (正門は川の真ん前にありました)。 や難波も候補に挙がりましたが、当時は輸送手段と言えば船しかなかったことも ほぼ閉 鎖 状 態に 蒸 気 機 関 をはじめ、溶 鉱 炉 、圧 延 機 、印 刷 機 など機 材一式が、 あった香 港のイギリス造 幣 局から船で到 着 。アイルランド人Tウォートルスの設 計・ 監 督のも と 金・銀 貨 幣の鋳 造 工 場 な どが 着 工され ま した 。そ して二年の歳 月 、 九十五万 両以上の工費を費やして明 治四年四月四日( 旧 暦二月 十五日)、 いよいよ 竣工となります 。大川べりの桜も満開です 。 「浪花川崎鋳造場の風景」 ( 二代目貞信画) より。大川の両岸には桜並木。 大阪人の花見と言えば大川べりと桜の宮が一番の人気だった。 92 大阪城の大阪鎮台から二十一発の祝砲が放たれ、 天保山沖に停泊中の軍艦「富士」 当日は右 大 臣三条 実 美ら政 府 高 官、造 幣 寮 幹 部、諸 外 国 公 使ら約百名が列 席 して創 業 式 典が行われま す 。式 を 終 えて、川 沿いの正 門 前での記 念 撮 影のあ と、 93 浪花新景「川崎金吹場」 ( 貞直画) より。造幣寮は数々の錦絵に描かれ、 絵はがきにもなっている大阪随一の観光名所でもあった。 がり、大川を彩ります 。まさに国家的な大事業の華々しいスタートとなりました。 現在の造幣局(平成二十一年四月五日撮影) や外 国 軍 艦からもそれに応 えて祝 砲が発せられま す 。そのあと花 火が何 発 も 上 造幣寮建設の技術指導に当たった「お雇い外人」たち。 * 「はじまりは大阪にあり」 ( 井上理津子著 ちくま文庫) より 同年八月には造幣寮内の石炭ガスで作ったガスを使ったガス灯が六百八十六基が 一斉に灯 り ま す 。これまでろう そ くや行 燈しか知らなかった目にはまさに文 明 開 化の象徴のように思われたことでしょう 。 造 幣 寮では自 前の技 術で造 幣 を 行 うため、金 銀 地 金 を 分 析 精 製 するのに必 要 な硫酸をはじめソーダ、 ガス、 コークスを製造したり、反射炉での銅の溶解なども行 大躍進を遂げる起爆剤となったわけです 。 いました。これらの技 術が民 間に伝 授され、その後、大 阪が商 都から産 業 都 市へと ちなみに春の風 物 詩となった「 造 幣 局の通 り 抜 け 」は明 治 十六年 。時の造 幣 局 長、遠 藤 謹 助が「 花 見を市 民にも」と花 盛りの頃に構 内の桜 並 木を公 開したのが はじま りです 。この桜は旧 藤 堂 藩 蔵 屋 敷( 泉 布 観の北 側 ) で育てていた里 桜 を 移 植したもの。品種も豊富で他では見られない珍しい品種が集められていました。そ 二〇〇九年 三月 十三日 の後、煤 煙による枯 死や昭 和二十 年の大 阪 大 空 襲での焼 失があ りましたが、その 都度桜樹の補充が行われ、現在に至っています 。(平野) 「新修大阪市史第5巻」 〈参考資料〉 「大阪市の歴史」(大阪市史編纂所編)創元社 「百年の大阪1幕末維新」(大阪読売新聞社編)浪速社 「はじまりは大阪にあり」(井上理津子)ちくま文庫 「写真集なにわ今昔」毎日新聞社 泉布観(せんぷかん)。 総レンガ造りのコロニアル風様式。明治五年に明治天皇が行幸された際に命名された。 「泉布」は貨幣、 「 観」は大きな館という意味。 94 芭 蕉 翁、 八軒家での憂鬱 ★八軒家タイムトラベル 貞享五年(一六八八年) 四月十三日 「八軒 屋 久 左 衛 門 方に逗 留しているが、狭 くておまけにやかましくてしょうがな い。仕 方 な く あ ちこち 見 物 な どに出 掛 けては 過ごしている 」。芭 蕉 は 貞 享 五 年 (一六八八年 )、江 戸から「 笈の小 文 」の旅へ出て、和 歌の浦、奈 良を経て大 坂は八軒 蕪村による芭蕉像 家に宿を取ります 。 一週 間、久 左 衛 門という 宿に逗 留しましたが、 その際に伊 賀の 卓袋という弟子への手紙にこんな風に愚痴をこぼしています 。 れていたんでしょう 。ということで、芭 蕉の大 坂の第一印 象はかなり悪かったようで 八軒 家は水 上 交 通の要 。三十石 船が行 き 交い、宿 も 商 人たちでごったがえして いたと思われます 。選んだ宿が悪かった。多分、 同室に何人もの泊り客が詰め込ま す 。この宿に四月 十三日から十八日まで泊り、翌 十九日に須 磨・明石へと旅立ちま した。 その後 、更 科 紀 行やお くのほそ 道の旅 を 終 えて、六 年 後の元 禄 七 年(一六 九四 年)九月 。芭蕉は再び重い腰を上げて大坂へ向かいます 。 当 時の大 坂の俳 壇 事 情は、小 西 来 山 派 が 大 き な 勢 力 を もってお り 、その派の リーダー格が椎 本 才 磨でした。才 磨は芭 蕉がまだ桃 青と名 乗っていた頃の先 輩 格 の俳人 。 95 大 坂で蕉 門の俳 人はまだまだ数が少なかった。とはいう ものの之 道という 俳 人が 芭蕉を慕って弟子入りしていました。 一方、近 江の膳 所には芭 蕉 も 認める若 手の弟 子、洒 落がいました。この野 心に溢 れた二十 代 半ばの青 年は膳 所 衆の引 き 留めるのも聞かず、大 坂 進 出を狙って大 坂 玉出に居を構えます 。 ついに 面 白くないのが之 道です 。洒 落に弟 子を取られたりといった経 緯もあり、 膳所衆ともはかりあって対抗します 。 そんな諍いを納めようと大坂へ芭蕉が向かったわけです 。二ヶ月前には二人の子 をも う けたつれあいの寿 貞 尼が亡 くなっていま す 。近 江の膳 所は洒 落の件でぎ く しゃくしています 。大坂では弟子の間での勢力争い。才磨から「こんな悶 着一つ解決 できないのか」と馬鹿にされそうです 。自分の弟子たちを持っていかれる心配もあ りま す 。 そんなこんなで芭 蕉のストレスは大 変なものだったに違いありません。九月八日 に大 坂へ入 り、 しばらく 洒 落の家に滞 在し、反 目 する弟 子二人の仲 を 取 り 持つた めに句 会 を 何 回か開いていま す 。二十 六日には大 坂 清 水 茶 屋四郎 兵 衛の晴々亭 (浮瀬亭) で洒落、之道も加えて歌仙を巻きました。二十八日には翌日の句会の発 句「 秋 深 き 隣は何 を する人 ぞ 」を 遣わしたあと、激しい下 痢で床に臥しま す 。容 態がさらに悪 化したので、明 くる日には、宿 泊していた之 道 亭から花 屋 仁 左 衛 門 の貸座敷(久太郎町御堂前) に病床を移します 。 そして病状が回復しないまま十月八日、 「浪花百景」 より 「増井浮瀬夜の雪」。 「芭蕉翁絵詞伝」久太郎町の花屋仁左衛門貸座敷に 臥す芭蕉とその門人たち 96 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る という病中吟を詠みます 。これが辞世となりました。 十二日午後四時ごろ永眠 。五十一歳の生涯でした。去来、其角、支考、丈草などが 同 行し、亡 骸は夜 舟で土 佐 堀 川 を 通って淀 川 を 上 り、翌 十三日の朝、伏 見から近 江膳所木曾塚無名庵へと遺言通り運ばれました。芭蕉の小さな墓が、 いまも膳所 義仲寺の木曾義仲の大きな墓の隣にあります 。 いずれの席にもいませんでした。 一方、之 道は 洒 落は芭 蕉の病 中から臨 終 まで、 ずっとそばにいて看 病 していま す 。世 評では洒 落の不 実 さ を なじる声 も あ り ま す 。しかし、 どうも之道の策略で洒落に連絡がされなかったというのが真相のよう です 。芭蕉の臨終まで弟子たちのいがみ合いは続いていたのです 。 芭蕉終焉の地碑は御堂筋の南御堂前の東側緑地帯にあります。 二〇〇九年 三月 二三日 「芭蕉晩年の苦悩」(金子 晋著 創文社刊) (参考資料) 冒 頭の手 紙のように芭 蕉にとって大 坂はどうも苦 手な土地 柄だったのかもしれ ませんが、皮肉なことに晩年の芭蕉の名句の数多くが大坂で詠まれています 。 此の道や行く人なしに秋の暮 この秋は何で年よる雲に鳥 秋深き隣は何をする人ぞ 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 97 石川五右衛門の秀吉暗殺未遂事件 八軒家事件簿 文禄三年(一五九四年) 八月二十三日 石川五右 衛 門は安 土 桃 山 時 代の盗 賊 。当 時日 本に貿 易 商 として滞 在 ご存じ、 していたアビラ・ヒロンの記した「日本 王 国 記 」に「石川五右 衛 門という 盗 賊を首 領 煮られ、あ とは磔になった」という 記 述があ りま す 。よほどの凶 悪 犯であったこと とする盗 賊 団が捕 えられ、京 都の三条 河 原で首 領とその家 族が生 きたまま 油で に違いはありません。 石川五右 衛 門がその時 代に存 在したことは確かですが、その生まれや 大 盗 賊、 悪行の数々については諸説あり、 いずれも確かなものではありません。でもそういっ てしま う とそれだけでお 終い。ここは諸 説 を 信 じて当 時の状 況 を 再 現 してみま しょう 。 (一八〇二年 刊 ) によると、 五 右 衛 門は河 内 国 石 川 村の生 まれ 。 「 絵 本 太 閤 記 」 十七才で伊 賀に渡り忍 術を習 う 。その忍 術を巧みに操り、 つぎつぎと悪 事を重ね ていきます 。 「石川五右衛門」歌川国貞画。 98 一方、秀吉は奥羽征伐も終えて文禄三年二月二十七日、吉野へ千本桜の花見へ出 かけ三月六日、大 坂 城へ戻 りま す 。文 禄 元 年(一五九二年 ) には豊 臣 秀 頼が生 まれ ていま す 。姉の子である秀 次 を 養 子にしていましたが、実 子 秀 頼が生 まれたこと で秀次を次第に疎ましく思うようになっていました。 関 白秀次を担ぐ木村常陸介派と秀頼を担ぐ石田光成派との内紛がいつ起きて もおかしくない状況です 。 そんな時 期、文 禄三年八月二十三日、木 村 常 陸 介から秀 吉 暗 殺の依 頼 を 受 け た石川五右 衛 門は秀 吉の居 城に忍び込みます 。枕 元まで近づいたところで香 炉の 千 鳥 が 鳴 き 出 して、五 右 衛 門 はお 縄 となってし まいま した 。五 右 衛 門 は 翌 日の 二十四日に処 刑されま す 。翌 年八月には関 白 秀 次が切 腹に。妻 妾ほか一族の四十 秀吉は文禄三年、諸大名に命じて 大工事の末に絢爛豪華な伏見城を築き上げた。 五右衛門が処刑された年に当たる。 青磁香炉 銘 千鳥(徳川美術館蔵) 余名は三条河原で処刑されています 。 いつ内 紛が起こるか分らな 「 絵 本 太 閤 記 」では居 城は伏 見 城とされていますが、 いこんな時 期に秀 吉が伏 見 城に隠 居していたとは考 えにくい気がしま す 。ここは 我らが八軒 家かいわいの大 坂 城での話だったと勝 手に想 像させてもらうことにし ましょう 。となると五右 衛 門は京 都から闇にまぎれて舟で大川を下ってきて八軒 家あたりから大坂城へ向かったのかもしれません。 秀 吉の命 を 救った「 千 鳥の香 炉 」はご覧のように、底の中 央に高 台があって脚が宙 二〇〇九年 三月 二六日 に浮 くのを 千 鳥に見 立てて名 付 けられたもの。秀 吉から家 康へ伝 来し、現 在は徳 川美術館の所蔵となっています 。(平野) 99 落語のルーツは 船場の坐摩神社境内に! ★八軒家タイムトラベル 一七九八年 豊 臣 秀 吉に仕 えた曾 呂 利 新 左 衛 門はお伽 衆( そばにいていろんな話 を 披 露 す る人 ) でした。ときに滑 稽な落し噺などもしたと言われます 。続いて一六七三年 頃 には京都や大阪で辻ばなしといわれる庶民的な演芸が始まります 。 などが生 國 玉 神 社や御 霊 神 社の境 内に小 屋 を 設 け その後 、米 沢 彦八( 脚 注1) て、芝居がかった噺をしたり、幇間が花街の座敷で噺を演じたりということで辻ば なしが発展してゆきました。 が船 場の坐 摩 神 一七九八年 。初 代 桂 文 治(脚注2) 本 格 的に落 語が登 場 するのは、 社 境 内に寄 席 を 設 けて落 語 を 聞かせたのが始 ま りです 。この桂 文 治は二代 目は 息 子が継 ぎましたが、 三代 目は大 坂と江 戸で別々に襲 名され、大 阪 文 治、江 戸 文 治の二人になります(一八三〇年代)。 坐摩神社。天正十一年(一五八三年)、豊臣秀吉の大坂城築城に当たり 現在の久太郎町に遷座した。船場への遷座後は、 大坂の中心ということもあり多くの物売りや見せ物が門前に集まったという。 100 ど古典落語のルーツのほとんどは上方なのです(圓朝の怪談噺などは違います)。 「 時 そば 」 ( 上 方では「 時 う ど ということで上 方 落 語 が 江 戸 落 語の生みの親 。 ん」)、「 長 屋の花 見 」 (同「 貧 乏 花 見 」)、「 花 見の仇 討 」 (同「 桜の宮 」)、「らくだ」な 田屋の浜から八軒 家 まで、 三十石 船に乗っての珍 道 中 。途 中に入る船 頭 唄なども 八軒家浜 *淀川両岸一覧より 演じるのに一時間はかかるといわれる大ネタが「三十石船」 そんな上方落語でも、 (三十石 船 夢の通 路とも呼ばれます )。京 都 見 物を終 えた喜六と清八が伏 見の寺 伏見京橋(寺田屋浜) *淀川両岸一覧より 聞 きどころです 。この船 頭 唄、 いまで言 えば観 光バスのガイドさんの案 内も兼ねて いたようです 。 101 二〇〇九年 三月 二七日 この物 外 和 尚は俳 句 も 巧みで「 皆 起 きて酒 くらわんか秋の月 」といった句 も 詠 んでいます 。ひょっとするとその時の句だったのかもしれません。(平野) もこの落語の噺に取り込んであるのかもしれません。 へさきほどの盗 人がそれとも 知らずに乗 船してきて…という 逸 話です 。こんな話 和尚は理由を言わずに船頭に船を大坂へ下るように逆にして停泊させます 。そこ 気 付 き ま す 。枚 方へ着 船した際、 一人の男がなぜか下 船していることが分った物 外 へ向かいま す 。その途 中、 ふと眠ってしまった間に三十 両の金 子 を 盗 まれたことに で伏 見 和 尚は一八六〇 年の九月、尾 道から大 坂へ来て八軒 家から三十石 船(脚注3) この噺の後 半で、船 中で五十 両の金が盗まれる騒 動が起こります 。船 頭の機 転 で無 事 盗 人はつかま り ま すが、 これにはちょっと裏 話があ り ま す 。武 芸 家の物 外 質受けしてまた演じられることになったという逸話が残っています 。 を質に入れた。それからは寄席では一切この噺ができなくなりましたが、贔屓客が のが初 代の桂 文 枝 。以 後 十八番にしていましたが、ある日、金 策に困ってこのネタ でもあります 。もともとは前 座が手がけていたネタをこの大ネタにまとめあげた このネタは大御所の落語家はほとんどが持ちネタにしています 。噺が長い。演じ 分ける登場人物も多い。船頭唄などもこなさないといけない。なかなか難しい演目 102 米沢彦八 (?~1714) めあ げたのも 大 きな功 績の一つ。初 代 桂 文 吾や落 語 作 家 定 席 を 坐 摩 神 社 内に開いた。芝 居 噺 を 話 芸 としてまと 初代桂文治(?~1816) 脚注2 大 阪における落 語の祖 。道 頓 堀や天王 寺で辻 噺 を 行 うほか、生 國 魂 神 社 境 内の掛 け 小 屋で「 当 世 仕 方 物 真 脚注1 似 」という 看 板 を 上 げて興 業した 。後に、上 方では軽口 など立派な門人を数多く輩出した。 * 「上方芸能辞典」(森西真弓編 岩波書店刊) 手だったという 。南の演芸場で行われた。 いてゆく 」という もの。引 き 祝いという 趣 向で、満 場 大 拍 上 方 最 後の七 代 目 文 治の引 退 興 行 は「 三 十 石 船 を 作って、それに乗った文 治 を 噺 家の幹 部たちが大 勢で引 のみとなった。 本 名 伊 丹 屋 宗 兵 衛 。江 戸 時 代 寛 政 期 、初めての落 語の 咄のことを「彦八咄」というようになった。 桂 文 治の名 跡は三代 目から東 西に分かれた 。上 方の 文 治は七代目まで続いたが、 その後は文治の名前は東京 * 「上方芸能事典」(森西真弓著 岩波書店刊) 毎 年 、九月の第一土 曜から日 曜日には、上 方 落 語 家に よるファン感謝デー「彦八まつり」が開催されている。 初 代 彦八は正 徳四年(一七一四年 )四月、名 古 屋 巡 業 中 に客死 。名跡は四代目まで続いた。 近松門左衛門の「曽根崎心中」の中の田舎者が見物に 行ったのが、 この彦八の物真似 。 103 脚注3 三十石船 「三十 石 船 」は大 阪から京 都 まで、 ほぼ十 里(四十キロ) の淀 川 を 往 来 していました 。朝に大 阪 を 出て夕 方 伏 見 と 呼 びま す( 伏 見 から 下 る 舟 も 昼 舟 と 夜 舟 が あ り ま に着 く 舟を「 昼 舟 」、夕 方 出て翌 朝まで乗るのを「 夜 舟 」 す)。 米三十石 相 当の積 載 能 力を持った船のことですが、江 戸 時 代では旅 客を輸 送 する乗 合 船をさすようになりまし た。 *石(こく )というのは尺 貫 法の体 積の単 位で、百 升に当 たります 。三十石だと一升瓶三千本 。 一石は当時の大人が 一年間で食べるお米の量でした。 乗船場は伏見が「京橋(寺田屋浜)」 「蓬莱橋」 「阿波橋」 「平戸橋」の四ヶ所、 大坂が「八軒家」 「道頓堀」 「東横堀」 「 淀 屋 橋 」の四ヶ所でした 。天 保 十 年(一八三 九 年 )には す 。多い時にはざっと一日一万 人が往 来していたわけです 百 七 十一艘の三 十 石 船 が 淀 川 を 運 行 していた といいま から、当時のもっとも重要な交通機関であったわけです 。 三十石船の舟唄をお聞きになりながらゆっくりとご覧ください。 たどってみてください。伏 見から 喜六や清八になったつもりで、 八軒家までの下り舟です 。 も あ りま す 。 覧 」です( 左の絵 図 )。幅18. 6センチ、長さはなんと460センチ いろいろあ り 三十 石 船での伏 見ー大 阪の道 中 案 内 書が当 時 、 ました。そのう ちの一つが、 天宝 十四年(一八四三年 )頃の「 大川 便 たようです 。 船 賃 も 下 りは七 十二文でしたが、上 りは百 七 十二文( 享 保の 頃 )。下 りは船で、帰 りは京 街 道から陸 路でという 旅 人 も 多かっ と一緒に船を曳きました。ほぼ一日がかりの旅でした。 ない場 所が九ヶ所 あり、 そこでは船 子が岸に上がり、綱 引 き 人 足 下 りは六~八時 間ですが、上 りは「 曳 き 船 」といって川 岸から 船を曳いて上っていきます 。川の両 岸から船を曳かなければなら はありません。 だったら、荷 物やなんやかやを 考 えるとゆったり くつろげる余 裕 と乗 客のためのスペースが十五坪、畳三十 枚 程 度ですから、満 席 乗 合 船の場 合の大 きさは長さ二十 七メートル、幅三・六メート ル。乗 船できる人 数は乗 客二十八名、船 頭・船 子四名でした。ざっ 104 105 さてお楽しみいただけましたでしょうか。 では次は八軒家から伏見までの上り。今度は曳 き舟になります。 (この大川便覧は上下どちらか らでも見れるつくりになっています。 ガイドブックとして使い勝手のよさが配慮されて いるわけです。きめ細かいですね)。 以上、大川の下り、上りの三十石船の道中でし た。 ( 平野) 妻の追悼に一日千句! 矢数西鶴の誕生です 。 ★八軒家タイムトラベル 延宝三年(一六七五年) 四月八日 こんな 話が残っていま す 。伏 見の京 橋に油 掛 け 地 蔵で有 名 な西 岸 寺があ り ま す 。その寺の任口(にんく )上 人( 芭 蕉 とも 親 交があったようです )を 訪ねた西 鶴 盛 り 込んであ り ま す )という 句 を 発 句にして伏 見 京 橋から八軒 家 までの三十石 が、 その任口上人を詠み込んだ「軽口にまかせてなけよほとゝぎす(「任」と「口」が 船の船中で百韻を作ったというもの。かなりな速吟です 。 の生まれ。大 井 原西鶴は寛 永 十 九年(一六四二年 )、大 阪の鑓 屋 町(やりやまち) 坂 城から西へ伸びる通 りです 。大 阪 城の周 辺は東 横 掘 とか西 横 掘のあたりとは 違ってにぎやかなところではあ り ません。そんなところですからあ ま り 裕 福な商 家ではなかったはず 。刀 剣 類を商っていたようです 。年 齢でいうとちょうど松 尾 芭 蕉の二つ上、近松門左衛門の十一才年上にあたります 。 浪花百景「天満天神地車宮入」 ( 一養齋 芳瀧画) 井原西鶴像(生國魂神社内) 106 若い頃から俳 諧をたしなんでいましたが、寛 文 十三年、大 坂天満 宮の連 歌 所 宗 匠だった西山宗因の弟子となり、 一字貰って西鶴と名乗ります 。 当時の俳壇の主流は松永貞徳を始祖とする伝統派の「貞門派」。それに反旗を翻 したのが西山宗因を中心とする談林派グループでした。笑いと風刺や機知を重視 した作風で一般庶民の人気を集めます 。元禄のバブルがピークを迎える頃の世相に もマッチしていたのでしょう 。 こんなことから速 吟が得 意なことに気がついた西 鶴は、当 時 流 行していた矢 数 俳 諧に挑 戦します 。これは三十三間 堂で武 芸 者 達が一昼 夜で何 本の矢を的に当て られるかを競う「大矢数」にヒントを得た俳諧興行でした。 延 宝五年三月に行われた興 行で蕪 村は一昼 夜で、 なんと千六百 句 を 詠みま す 。そ れに対 抗して俳 人 大 淀三千 風が一昼 夜二千八百句 詠み、記 録を塗り替 えます 。と ころが西 鶴は翌 年五 月に四千 句 、貞 享 元 年(一六八四年 )六 月五日には住 吉 大 社 「花暦浪花自慢」 より 「住吉初卯の日参」 (芳豊画)。参詣客が引きも切らずという 住吉大社。祭祀は年間七十五にも及んだ。 「好色一代男」 より、世之介七才の逸話。 で、なんと一昼 夜二万三千五百 句 という 途 方 もない記 録 を 打 ち 立てま す 。単 純に 計 算しても一句三秒という 途 轍もない速さ。記 録 者は四人いましたが、 とても追い つかず、棒線を引いて句数を記すのがやっとだったそうです 。 107 これで 矢 数 俳 句 は も う 終 わ り だ と 、以 後 西 鶴 は 俳 諧 か ら 離 れ 、天 和 二 年 (一六八二年 ) 「 好 色一代 男 」を 書 き あ げま す 。これが人 気 を 呼び、物 語 作 家として 売れっ子になり ま す 。以 降「 好 色五人 女 」などの好 色 物、「 武 道 伝 来 記 」などの武 家 物、「日本 永 代 蔵 」などの町 人 物で数 多 くの作 品を残し「 浮 世 草 子 」というジャ ンルを確立してゆくのです 。 こうして最 後 となった代 表 作「 世 間 胸 算 用 」を 元 禄五年一月に刊 行 。その翌 年 元 禄六年(一六九三年 )八月 十日、西 鶴はその生 涯 を 終 えま す 。享 年五十一才でし た。墓所は中央区の誓願寺 。(平野) 二〇〇九年 四月 三日 大阪中央区「誓願寺」にある西鶴の墓。 108 桜井久之「東区島町発見の 奈良三彩小壺をめぐって」 一九八七年 発 行の 『 葦火 』 一〇 号( 大 阪 市 文 化 財 協 会 ) に掲 載された論 文です 。東 区 とは今の中 央 区、島 町は詳しく 言 えば島 町一丁 目四番三号、 つま り 当「 大 水 都 史を編み後世に伝える会」が入居するキタガワビルの所在地です 。 が大 当たり!八世紀のものと見られる奈 良三彩をはじめとして、多 数の土器 片が 『葦火』一〇号。 表紙のカバー写真は、出土した奈良三彩(上) と 土師器などの土器片。 「東区島町発見の奈良三彩小壺をめぐって」桜井久之 この年の五月、建 築 現 場で偶 然 見つかった古い井 戸 跡を発 掘 調 査したところ、 これ 出 土しました。この調 査に携わった桜 井 久 之さん (大阪市文化財協会学芸員) の 論文から、興味深い箇所を引用させていただきます 。 三彩出土の意味 すること 以下で他の方面の研究から推測される仮説を紹介しておきましょう 。 さて、 かつて宮の北、大 川 までの間に藤 原 京 と同じように二条 分の京 岸 俊 男 氏は、 城を設定できないかと考えました。もし仮にそうなら、今回の調査地も京城内に 含 まれることになり、上 級 官 人や貴 族の邸 宅がこの地に営 まれていたかもしれま せん。 109 また、大川に北 接 するこの地 域が水 上 交 通の拠 点となる場 所であったことは十 分 考 えられるところです 。東 大 寺 文 書に「 摂 津 国 家 地 売 買 公 験 案 」 (せっつのくに やぢばいばいくげんあん)というものがあり、大川 沿いに東 大 寺の荘 園が存 在した ことがわかります 。寺院・神社・貴族たちの多くは、 この地に荘園や倉庫をもち、交 易や物 資 流 通の便 を 図っていたことでしょう 。今 回の調 査 地はその一角であったと も考えられます 。 当 時、水 上 交 通などを管 掌したとされる役 所に「 摂 津 職 」というものがありま した。その所在地については明らかになっていませんが、 三彩の見つかった井戸からは 目されるでしょう 。 「摂」と墨書された土器片も出土しており、「摂津職」の所在地を考えるうえで注 倉 庫、 はたまた摂 津 職の所 在 地であったかもしれないというのです 。聞 くだけでゾ なんと、 キタガワビルの建つこの地はその昔、難 波 貴 族の館、あるいは東 大 寺 荘 園の になって重なっていました。層ごとの調 査はその後 行われることはあ りませんでし クゾクしてきます 。この時に発掘された井戸には、捨てられた灰が何十もの薄い層 瞭に観察できたということです 。 たが、下は古墳時代(五世紀) から上は江戸時代(一七世紀)まで千年ほどの幅が明 大阪市の考古遺跡(新修大阪市史・第十巻より) 110 参考ウェブサイト:葦火 通巻三〇号~創刊号(大阪市文化財協会) ) http://www.occpa.or.jp/bunkazaimap/bunken/asibi1_30.html ( の発掘成果から 『 葦火 』 は 文化財の情報を みなさまにお届けする情報誌です 。大阪市内の 最新 海 外の考 古 学の紹 介まで もりだくさんの 内 容です 。隔 月で刊 行していますので ぜひ ご覧下さい。(B5版/8ページ 年間定期購読料¥1 5,00) ご希望の方は、郵便振替あるいは現金書留にてお申込みください。 00980-2-67318 財団法人 大阪市文化財協会 奈良三彩小壺(ならさんさいこつぼ) ※郵便振替番号 大阪市中央区法円坂 1-1-35 ※現金書留 大阪市立中央青年センター6階 TEL.06-6943-6833 FAX.06-6920-2272 奈良三彩小壺(ならさんさいこつぼ) 奈 良 三 彩は緑 褐 ・ 白 ・の釉 薬 を 掛 けた陶 器で、中 国 唐の技 術が遣 唐 使によって伝 えられたものである。これらの小 壺は難 波 宮の北西の8世紀 後 半の井 戸と整 地 層 非常に少なく、実用品ではない祭祀用のものと考えられる。(大阪市文化財協会) から出土した。奈 良三彩は宮 殿 跡や貴 族の邸 宅 跡などから見つかるが、出土数が ( 津川 ) 二〇〇九年 七月 二九日 111 都島区役所編 「蕪村を都島によみがえらせよう 」 八月五日、溝川 茂 久さんが当 会を訪ねてこられました。溝川さんは都 島 区 長をさ れておられた平 成八年、河 内 厚 郎さんを座 長とする「 蕪 村とまちづくり懇 話 会 」 平 成九年三月 )という 提 言 集にまとめられています 。同じく 都 島 区 役 所 編 集にな に参 画され、その活 動 を「 蕪 村 を 都 島によみがえらせよう 」 (都島区役所編集 る「 蕪 村と都 島 」 ( 平 成八年 九月 )と合わせて寄 贈いただきました。記して御 礼 申 し上げます 。 溝 川 さんは、 八軒 家かいわいマガジン 『 蕪 村の謎 故 郷「 毛 馬 」との微 妙 な 関 係 』 )をたまたま目にし http://www.hachikenya.org/main/index.html#/10015 たことから当 会の活 動に興 味を持たれ、編 集 室を訪ねてみようと思われたとのこ ( と。蕪 村を中 心とした大 阪の話 題で当 会 会 員たちとひと時を過ごされ、活 動への 協 力 を 約 束して帰 路につかれました 。これを 機 会によろしくお願いいたしま す 。 ( 津川 ) 二〇〇九年 八月 六日 「蕪村を都島によみがえらせよう」 ( 左) と 「蕪村と都島」 画人蕪村(上) と天才音楽家・貴志康一 112 「木村蒹葭堂― なにわの知の巨人―」 伊 藤 若 冲をとりあげた縁で木 村 蒹 葭 堂に興 味を惹かれ、 二〇 〇三年に大 阪 歴 史 特別展 没後二〇〇年記念 「木村蒹葭堂―なにわの知の巨人―」 (大阪歴史博物館編 思文閣出版 二〇〇三年) 博物館で開催された特別展の図録をゲットしました。 蒹 葭 堂は、堀 江( 大 坂 北 堀 江 瓶 橋 北 詰 ) に住んでいたので、 八軒 家にあまり関 係な いように見 えま すが、十八世 紀 大 坂の文 人の中 心にいたので、今 後、何かと役 立つ と思われます 。 蒹 葭 堂が当 時の大 坂でどれだけスゴイ巨 人であったかというと、 ウィキペディアに 「交友 ・訪問客」という項があります 。以下に引用します 。 ・葛子琴 ・篠崎三島 ・佐々木魯庵 ・江村北海 ・加藤謙斎 ・高芙蓉 ・曽谷学川 ・木内石亭 ・趙陶斎 ・中井竹山 ・加藤宇万伎 ・十時梅厓 ・三好正慶尼 ・福原五岳 ・野呂介石 ・青木夙夜 ・林ロウ苑 ・上田耕夫 ・森周峯 ・浜田杏堂 ・八木巽所 ・建部綾足 ・龍草廬 ・与謝蕪村 ・伊藤若冲 ・円山応挙 ・大典顕常 ・岡田米山人 ・田能村竹田・頼山陽 ・清水六兵衛(愚斎)・売茶翁 ・頼春水 ・上田秋成 ・司馬江漢 ・大槻玄沢 ・大高元恭 ・小野蘭山 ・青木木米 ・谷文晁 ・浦上玉堂 ・本居宣長 ・佐藤一斎 ・細合半斎 ・皆川淇園 ・山岡浚明 ・高山彦九郎 ・海保青陵 113 ・松浦静山 ・朽木昌綱 ・桑山玉州 ・大田南畝 ・草間直方 ・最上徳内 ・六如慈周 ・大槻磐水 ・橋本宗吉 ・慈雲 ・蒲生君平 ・釧雲泉 ・蠣崎波響 ・大原呑響 ・春木南湖 ・ベルンハルト・ケルレル・戸田旭山 京 、大 坂 だけでな く 遠 く 江 戸からも 当 時の文 化セレブが押 し 寄せていたようで す 。八軒 家はまさに、 これら文 人たちがひっきりなしに行 き 交 う「一大ターミナル」 だったにちがいありません。 ところで、 この図 録、古 書マーケットではかなりのプレミアがついてますが、幸 運なこ とに版 元に若 干 数の書 店 返 品 商 品が残っていました 。参 考のため連 絡 先 を 左 記 に。 ▼版元連絡先 株式会社 思文閣出版 京都市左京区田中関田町 2-7 〒 606-8203 / FAX:075-752-0723 TEL:075-751-1781 mailto:[email protected] http://www.shibunkaku.co.jp/ ( 津川 ) 二〇〇九年 八月 十二日 煎茶の中興の祖・売茶翁(ばいさおう) とも深い交流があった (同書・2 ‐ 7煎茶)。 114 石山本願寺の土壁発見 (以下すべて、産経ニュース 二〇〇九年 十月三十日より) 大 阪 城天守 閣( 大 阪 市 中 央 区 )北 側で、 16世紀 後 半の素 焼 きの土器や焼け焦げ た土などが市 文 化 財 協 会の発 掘 調 査で見つかっていたことが30日、分かった。同 協 会の佐 藤 隆 事 業 担 当 係 長によると、織田信 長と本 願 寺 勢 力が争った石 山 合 戦 の舞 台で天正8 (1580)年に炎 上した当 時の浄土真 宗 本 山「石山 本 願 寺 」に関 連する可能性が高いという 。 石 山 本 願 寺の炎 上 後、豊 臣 秀 吉が大 坂 城 を 築いたとされるものの、 これまで明 確 発掘現場 土師器が見つかった発掘現場(大阪市文化財協会提供) な痕跡は見つかっておらず、幻の寺院の存在を裏付ける資料になりそう 。 (以上、引用終り) 石山合戦について詳しくは、 八軒家かいわいマガジン 「津の国ものがたり 楼の岸」 ) で。(津川) http://www.hachikenya.org/main/index.html#/10022 ( 二〇〇九年 十一月 五日 115 大阪城天守閣近くで見つかった土師器片。 石山本願寺で使われた可能性が高いという =大阪市中央区の市文化財協会(小畑三秋撮影) ! ? オーストリアにあった! 豊臣時代の大坂図 ( ) にくわしく 述べられています 。以下に引 http://www.austria-connection.at/ 用します 。 屏 風 絵の解 説 および 再 発 見の経 緯 については 、グラーツ 観 光 局のホームページ な実物大レプリカを見ることができます 。二十三日まで。 にて現在開催中の「大阪城・エッゲンベルグ城友好城郭締結記念特別展」にて、精 巧 エッゲンベルク城の壁 画を八曲一隻の屏 風に再 構 成したもの。大 阪 城天守 閣 美 術 館 一級の貴重な作品です 。 これ一点しかなく、豊 臣 時 代の大 坂 町 人の暮らしぶりを記 録した資 料としても第 手 法で克 明に描いたものとされていま す 。同じテーマの作 品は世 界 中 を 探しても が再 発 見されました。慶 長 年 間(一五九六~一六一五) の大 坂の町の様 子を大 和 絵の オーストリア、 グラーツにあるエッゲンベルク城で、豊 臣 時 代の大 坂 を 描いた屏 風 絵 116 ■■■ 一六世紀 中 頃、 ポルトガル人が日本に上 陸して以来、 スペイン人、 オランダ人、 イギリ た。 ス人が相 次いで訪れ、 日 本の芸 術 品は珍 品 として欧 州に持 ち 帰られることとなっ 今日エッゲンベルク城に所蔵されている屏風絵は、 そうして珍重されたもののひとつ である。これは本来、八曲屏風であり高さ182センチ、幅480センチと、通常の 屏風よりも明らかに大型である。 推 定によれば、 これは1660年から1680年の間にオランダ人から購 入され、 ある。1754年に始 まった城 内 迎 賓 階の改 修 時にこの八曲が解 体され、当 時 流 ま ずヨハン・ザイフリート・フォン・エッゲンベルク候の市 中 宮 殿で使われていたようで 異国情緒の壁画と交互に組み合わせ 行した「インディアン・キャビネット 小( 間 」に ) 、 て壁の装 飾 として個 別にはめ込 まれた 。このようにして、 この貴 重な豊 臣 期 大 坂 図屏風は今日まで保存されることとなった。 絵 派の町 絵 師の一人によって仕 上げられたものである。しかしそれ以上の詳 細はわ この大 坂 図 屏 風は、鉱 植 物の顔 料 を 用いて紙に描いた伝 統 的な日本 画 法で、大 和 かっていない 。屏 風 絵 は 、お そ ら く 慶 長 十 二 年( 1607 )か ら 慶 長 十 九 年 (1614) の間に描かれたものと思われる。 に近い大 名からの依 頼と推 定 依 頼 主 も 不 明だが、豊 臣 秀 吉(1536‐1598) される。秀 吉は、低い身 分の足 軽から最 も 権 力のある武 将かつ支 配 者の地 位に上 りつめ、 百年以上に及ぶ内乱を治めて国に平和と繁栄をもたらした。 117 特定部分だけが象徴的に描写されている。 徴 的な表 現 手 法といえる。さらに、城 郭や社 寺、 また城 下の景 観などは簡 略され、 る限りたくさんの事 物が絵の中に納まるよう 配 慮されている。これも屏 風 絵の特 人物は必要以上に大きく描かれ、逆に建物や船は特別小さく描かれており、 でき さの比例関係も、現実を離れたものである。 レメントとして構 成し、様 式 化した絵 画と理 解 すべきである。建 物と人 物の大 き は、現実をそのまま写し取ったものではなく、 むしろ特色ある建造物や出来事をエ ゲンベルク城の屏 風 絵は、豊 臣 期 を 記 録した貴 重な資 料である。しかしその描 写 の大 坂 城の姿や城 下の情 景 を 留めた絵は、現 在ほとんど残っていない。ゆえに、 エッ 平 和で栄 華 を 極めたこの時 代から慶 長二十 年(1615) の大 坂 城 落 城 までの間 典型的な表現手法である。災厄や貧困などは全く描かれていない。 の異なる出来事をひとつのコンポジションとしてまとめる際に、屏風絵で用いられる さらに、金 雲によって豊かに装 飾が施されているが、 これは町の様々な風 景や、時日 じのよい淡色でまとめられている。 武 士や町 民 も 含めておよそ500の人 物は、慶 長 年 間(1596‐1615 の)特 徴 でもある大 柄で色 鮮かな、個 性 的な意 匠の小 袖をまとっている。全ての建 物が、感 やいだ雰囲気が伝ってくる。 けでなく、町 屋や名のある神 社 仏 閣も見ることができる。この絵からは、明るい華 観が連 続して描かれており、当 時日本で最 大かつ最も豪 奢であった大 坂 城 城 郭だ 屏 風 絵は、右から左へと順に第一扇、第二扇とよび習わしている。ここには大 坂の景 118 この大 坂 図 屏 風は、大 坂 城の北から南 を 俯 瞰 する構 図 を 取っている。西 方 を 描い た第一扇と第二扇には、城 下の一部が見 渡せる。最も大 きい場 所を占めているのが、 壮大な城郭である 第(二扇から第八扇 。) 北 側は、淀川と大 和川によって、 西側は、運 河としても利 用された東 横 堀川が城の 外 郭 をなしている。南 方と東 方の地 勢 的な詳 細は、構 図 上の理 由から省かれてい る。東方 第(八扇 に)は、隣国の山城国にある神社仏閣が描かれている。 大 坂 城 を 守 護 するかのように城の周 りに構 図された社 寺は、秀 吉や秀 頼の寄 進 りの深い場所である。 で造 営 または修 復されたり、花 見や戦いの舞 台 となったなど、特 別に豊 臣 家 と関 ■■■ 以上、引用おわり。(津川) 二〇〇九年 十一月 十一日 119 消えた天神橋?① 浪華三大橋の謎 関大グループの解説では、 この橋は「天満橋」らしいのです 。 扇)。 年代) の大 坂 を 描いたといわれるこの屏 風では、大 川に架かる橋は一橋だけ( 第三 慶長年間(一五九六~一六一五) の作といわれ、豊臣秀吉の絶頂期(一五八〇~一五九〇 そこへ今度の「豊臣期大坂図屏風」。 (一五九四) 一 一月に完成したとの記述が、 天満宮社伝に載っているそうです 。 け という こ とで す 。天 満 宮 会 所 支 配 人 の 大 村 由 己 の 尽 力 によ り 、文 禄 三 年 松村先生によると、 三橋のうち、 はっきりした創架記録が残っているのは天神橋だ しかわかっていません。 ない。豊臣時代か遅くとも江戸時代初期には架設されていたらしい。(同 )ぐらい は、江戸時代以前にも三橋そろっていたのか、 というと その創設年代は明らかでは いつしかこの三橋は浪華の三大橋と呼ばれるようになった。 と、あります 。 それで 松村博先生の「大阪の橋」(一九八七年 松籟社) には 天満橋・天神橋・難波橋は江 戸時代以来、大坂の町にとって最も重要で、最も親しまれてきた橋である。それで 120 橋」、東横堀に架かる「高麗橋」は確かに描かれているのです 。 豊 臣 期 大 坂 図 屏 風・第一扇 ~ 第四扇( 部 分 ) 屏 風には、京 街 道の起 点である「 京 しかし、 天満 橋とされる橋より西の大川には一つの橋 も 描かれていません ( 右 図 )。 右 端に描かれている帆 船は外 洋 船らしいことから、 これより西は大 阪 湾 まで橋が 架かっていなかった可 能 性もあります 。屏 風には当 時( 豊 臣 秀 吉の絶 頂 期 ) の大 坂 が忠実に描かれているとするなら、 これはいったい? 導かれる結論は三つ。 臣期大坂図屏風に描かれた橋は「天神橋」である。 「天満橋」はまだなかった (ある 一、従 来 誤 りとされた「 大 坂 冬の陣 図 屏 風 」の記 述 を 正しいとする。すなわち、豊 いは、架かっていた橋が洪水で落橋した)。 豊臣期大坂図屏風・第一扇~第四扇(部分) 二、橋は「天満橋」。屏風に描かれている大坂は一五九四年よりも前である。 橋はまだなかった。 難 波 橋については「 大 坂 冬の陣 図 屏 風 」に描かれていること以 三、左が天満 橋、右が天神 橋である ( 大 坂 城天守 閣 編 集の展 覧 会 図 録による)。京 外は不明としておきます 。 ( 津川 ) 二〇〇九年 十二月 二日 121 消えた天神橋?② 扇)と門の外で待つ母子一行(第五扇) が描かれています 。 ところで、「 屏 風 」をよくよく 眺めてみると、図の中 央 部に駕 籠に乗った武 将( 第四 京橋はまだなかった。 三、左が天満橋、右が天神橋である (大坂城天守閣編集の展覧会図録による)。 二、橋は「天満橋」。屏風に描かれている大坂は一五九四年よりも前である。 なかった (あるいは、架かっていた橋が洪水で落橋した)。 すなわち、豊 臣 期 大 坂 図 屏 風に描かれた橋は「天神 橋 」である。 「天満 橋 」はまだ 一、従来誤りとされた「大坂冬の陣図屏風」の記述を正しいとする。 い理由を次の三つうちどれかと推理しました。 前稿「消えた天神橋?① 浪華三大橋の謎」では、 「豊臣期大坂図屏風」(以下、「屏風」) では大川にかかる橋が一橋しか描かれていな 122 豊 臣 期 大 坂 図 屏 風・部 分 グラーツ博 物 館の解 説によれば、三の丸は、慶 長 三 年 (1598) から翌年にかけて普請された。 その一郭である篠の丸といわれる曲 輪は、 二の丸への京口門 を 防 禦 するための構 え である。巨大な石垣と門に囲まれたこの曲輪には、駕籠に乗った大名が見え、供 侍 下) に乗って大 坂 城 まで下ってきた淀 君と秀 頼 を三の丸 城 外 まで迎 えに行 くとこ と小姓を従えている。 とあり、按ずるに、大名は秀吉で、伏見城から御座船(画面 ろであると解釈できます 。 丸(一五九八年 )以 後、遅 くとも 秀 吉の没(これも一五九八年 )以 前、ずばり一五九八 もし描かれている大 名を秀 吉とすれば、「 屏 風 」に描かれた大 坂は、早 くとも三の 年 ということになり ま す(このとき 秀 頼は六歳で、すでに元 服は済 ませていまし た)。ということで、 二番目の説はハナから採り上げる必要がありませんでした。 陣 図 屏 風 」では「天神 橋 」だけに橋 名の書 き 込みがあることから来ています 。他の 豊臣期大坂図屏風・部分 ところで、 一番目の「大坂冬の陣図屏風」天神橋説とは、東京博物館蔵の「大坂冬の 橋には書き込みはありません。 123 大 坂 冬の陣 図 屏 風・部 分 従 来の説では、 これを 誤 りであるとし、次のように説 明 しています 。 つま り、大 坂 冬の陣 勃 発の一カ月 前(一六一四年八月 = 旧 暦 ) の洪 水で「天満の橋 落 の要 所であったことから落ちた天満 橋はす ぐに架け替 えられたはずだというので つ」という 記 述が「 当 代 記 」にあ り、「天満の橋 」とは「天満 橋 」であ り、 ここが交 通 まるで邪 馬 台 国 ○ ○ 説を聞かされているよう す 。 仮 説の上に仮 説を重ねていて、 な気分です 。にわかには信用できません。 一番 目の説にもどると、 これが本 当なら、「天神 橋 」はどこへ行った? ということで、 それ以前に天満の橋が落 橋した記 録がないことから、もし「天満 橋 」がすでにあっ 天満の橋の落 橋は一六一四年( 当 代 記 ) のことであ り、「 屏 風 」の時 代とは合わない。 たとするなら、「屏風」には「天神橋」と並んで描かれているはずである。 従って、 結論は次の二つに絞られます。一、「屏風」に描かれた橋は「天神橋」である。 「天満 橋 」はまだなかった。=八軒 家かいわい説 二、左が天満 橋、右が天神 橋であ る。京 橋はまだなかった。= 大 坂 城天守 閣 説 二に関して、「 京 橋 」については次 回 で。(津川) 二〇〇九年 十二月 二日 大坂冬の陣図屏風・部分 124 消えた天神橋?③ さて、京 橋です 。大 坂 城天守 閣 編「 豊 臣 期 大 坂 図 屏 風 」 ( 大 阪 城・エッゲンベルグ城 友好城郭締結記念展図録) によれば、「屏風」の橋を「天神橋」 (第三扇) 「天満橋」 河岸の白い部分) では船から荷物が揚げ降ろされていると解説しています 。 ( 第四扇 )としていま す 。 「天満 橋 」のほとり、「八軒 家とおぼしき 船 着 場 」 ( 左 図、 四扇( 部 分 )その根 拠は、次のフロイスの記 事に依っています 。大 坂 付 近には一河川 したので、通 行はこの上なく 困 難であった。乗 船は人々を 捌 き きれなかったし、各 があり、都に赴くには船でその川を航行せねばならなかったが、夥しい群衆が往来 人は一定の船賃を払うことを余儀なくされたので、 貧乏人にとっては川を渡航する ことは容易なことではなかった。 だが筑 前 殿は、そこに非 常に美しい木 造の橋を構 築させて、そうした障 害を除 去 したので、 昼夜を問わず人馬はなんの苦もなく川を渡れるようになった。‐フロイス 「日本 史 」第二部六六章(「 完 訳フロイス日本 史 」中 公 文 庫による)大 阪 城天守 閣 年以前(後述) です 。そして、 一五九四年「天神橋」架橋の史実をも取り入れて、「屏 さんは、 この「 非 常に美しい橋 」を「天満 橋 」と見たわけです 。架 橋 年 代は一五八六 風」には両橋が描かれているはずだ、 と推理したわけです 。 125 付 け 加 えれば、他にそれらしき 橋が見 当たらないことから、京 橋はまだなかった、 となるはずです 。 ここで再び、われらが松 村 先 生に登 場 願いま す 。松 村 先 生は 「 大 阪の橋 」のなかで、 フロイスの記 事に触れ、「 大川に架 けられたものと断 定 する ことはできない」と慎重な態度をとっておられます 。その箇所を引きます 。〈略〉 この橋は後の天満 橋に近い位 置に架けられたと推 定されている。架 橋 年 代は明 確 天正一四年(一五八六)以前のことであると推定される。 でないが、 この記 事の直 後に大 坂 本 願 寺の建 設のことが書かれているので、架 橋は ただ、 この橋が都へ行 く 人々の利 便 をはかって架 けられたものであるとすれば、旧 の大 和 川 を 渡る京 橋の位 置であると考 えてもよく 、大 川に架 けられたものと断 定することはできない。‐松村博「大阪の橋」(松籟社)浪華三大橋・天満橋より ど うです 。松村さんの推理の方が理にかなっているとは思いませんか。 フロイスの記事 りま す 。 には続 きがあって、松 村 先 生ご指 摘のように大 坂 本 願 寺 建 設のことが書かれてあ に対しては、彼が悪 事 をなさず、 なんらの裏 切 り 筑 前 殿は〈 略 〉大 坂の仏 僧( 顕 如 ) なり暴 動をなさぬようにと、 川 向 うにあたり、秀 吉の宮 殿の前 方の孤 立した低 地 ゆるさなかった。‐フロイス「日本史」第二部六六章(「完訳フロイス日本史」中公文庫による) ( 中 之 島 、天 満 ) に居 住 することを 命じたが、その住 居に壁 を 巡らし濠 を 作ることを さあ、どうです 。 「 筑 前 殿の架 橋 」が「天満 橋 」であれば、 天満 橋の南にあるはずの ( )内は訳注。 大 坂 本 願 寺( 大 谷 本 願 寺も) が「川向こうの、孤立した低 地 」にあることをどう 説 明すればよいのでしょう 。 四扇(部分) 126 のない方が訳されたとしか思 えません。ちなみに大 坂 本 願 寺は一五九一年に京 都へ 「日本 史 」の訳 者にしても、中 之 島と中 島(天満 )をいっしょくたにするなど土地 勘 所替されています 。というわけで、「右が天神橋、左が天満橋 。 京 橋はまだなかった」 ( 大 阪 城天守 閣 )説 もいよいよ怪しくなってき ました。 それ はともかく、 この「 屏 風 」には、 われらが「八軒 家 浜 」 ( その前 身 )が描かれているこ とは疑いようがないでしょう 。津川) 二〇〇九年 十二月 二日 127 消えた天神橋?④ 謎が深まる市街図屏風「消えた天神橋?」シリーズ四回目です。前回までは主に 「豊臣期大坂図屏風」 (左の図) に描かれた市街図を元に推理を組み立てました。 今回は、当会の主張を補強すべく他の資料にもあたってみます 。 図一の豊臣期大坂図屏風(八曲一隻)景観年代=一五九八年(八軒家かいわい説)こ http://home.hiroshima-u.ac.jp/miurayu/ の屏 風の第三扇および第四扇にかかる橋それぞれを、 エッゲンベルグ城(グラーツ州 立 博 物 館 )の解 説(PDF : ) では「天満橋」 「京橋」、 大阪城天守閣の解説(特別展図録) では gyoseki/sato.pdf 「天神橋」 「天満橋」としています 。 八軒 家かいわい ( 当 会 )が出した結 論は、前二者とは異なりました。確 認のため三 う ち、第三扇は「天満 橋 」、第四扇は「 京 橋 」である。 「天神 橋 」はまだなかった = 者の主 張を再 掲します( 順 番は一部 入れ替 えました)。一、「 屏 風 」に描かれた橋の エッゲンベルグ城説 二、第三扇が「天神橋」、第四扇が「天満橋」である。 橋 」である。 「天満 橋 」はまだなかった=八軒 家かいわい説 豊 臣 時 代の大 坂の街に 「 京 橋 」はまだなかった= 大 坂 城天守 閣 説 三、第三扇は「天神 橋 」、第四扇は「 京 ついては、 参考にできる画像資料はほとんどないのが実情です。だからこそ、 エッゲン 代(たぶん江 戸 初 期 ) に描かれた数 点の屏 風 絵で当 時の市 街の様 子を推し量るし ベルグ城の屏 風がNHKも取り上げるほど騒がれた訳ですが、 この屏 風も含め、後 か道がありません。 図一 豊臣期大坂図屏風(八曲一隻)景観年代=一五九八年(八軒家かいわい説) 128 幸いなことに、 エッゲンベルグ城の「 豊 臣 期 大 坂 図 屏 風 」再 発 見をきっかけに大 阪 城 天 守 閣 で 開 催 さ れ た「 大 阪 城・エッゲンベルグ 城 友 好 城 郭 締 結 記 念 特 別 展 」 図四 大坂市街図屏風(六曲一隻)四~六扇 大坂冬の陣・夏の陣から立ち直った大坂の 繁盛ぶりが、本図の主題だろう。景観年代=一六〇〇年代前半? 同展図録より、景観年代の古いと思われる順に抜き出してみます(解説も)。 129 図二 大坂冬の陣図屏風(六曲一双 左隻四扇・五扇 幕府の奥絵師をつとめた 木挽町狩野家に伝来したものだが、 それ自体も江戸後期の模写本で、 原図は存在しない。 景観年代=一六一四年 (二〇 〇 九年 ) で、それらの貴 重な屏 風 絵をまとめて閲 覧 することができました。 図三 大坂夏の陣図屏風(六曲一双) 左隻一扇・二扇 合戦後まもなく、福岡藩主 黒田長政が描かせたものと伝えている。 景観年代=一六一五年 図五の大 坂 市 街・淀川 堤 図 屏 風(八曲一双 )左 隻一扇~四扇は、江 戸 時 代 初 期、 17 ずれの屏風も、問題の橋が描かれている部分のみを抜き出しました。 世 紀 中 葉 以 前の町 絵 師による作 品 とみられる。景 観 年 代 =一六四四年 以 後? い さて、 どうでしょう 。図五を除き、大川(および大和川) にかかるそれらしき 橋は二 橋のみ。ただし、図二・図四では、東 横 堀より西に難 波 橋らしき 橋が描かれていま す 。これは「 豊 臣 期 大 坂 図 屏 風 」 ( 図一) にはあ りませんでした( 右 端に描かれてい る帆 船が外 洋 船らしきところからそう 判 断したのですが、単に省 略されているだ けかも知れません)。 さて図二ですが、図録解説によれば、大和川にかかる橋(上) が「 豊 臣 勢が京 橋をわたって出 撃 する」、大川にかかる橋( 下 ) が「 現 在の天満 橋 あ るいは天神橋の前身にあたる橋」となっています 。 ところが、図 をよく 見ると、下の橋には「天神 橋 」という 書 き 込みがあるのがわか ります 。従来、 この書き込みは「天満橋の誤り」としてあっさり片付けられていたの ですが、 さすがにおかしいと思ったのでしょう 。 「天満 橋 あるいは天神 橋 」と言 葉を 図三は史 上 名 高い「 大 坂 夏の陣 」を 描いた有 名な屏 風です 。残 念なことに大 川 濁したようですが、 しかしこれでは図一の解説とつじつまが合いません。 (および大 和川 ) にかかる橋は一つしか描かれていません。図 録には「天満 橋は焼 け 落ちており、避難民や敗残兵は徒歩で淀川を渡っている」とあります 。図二で言葉 を濁した天守閣さん、 ここでは強気です 。 「天満橋」と言い切っています 。 貴重です 。五扇上方に描かれた橋に「京ばし」の貼紙がみえます 。この図でも東横 とすれば天神 橋はどこに消 えたのでしょうか? 図四は「 京 橋 」が特 定できるので 堀より東の大川に架かる橋は一本だけです 。 図五 大坂市街・淀川堤図屏風(八曲一双)左隻一扇~四扇 江戸時代初期、 17世紀中葉以前の町絵師による作品とみられる。 130 残 念なことに貼 紙の文 字が消 えていま すが、図 録では「 大 坂の陣 後、幕 府によって 掛け直された天満橋」とされています 。 さらに、橋のたもと(西側 ) に船 着 場が描かれていて、 これを「八軒 家 船 着 場 」とし ています 。 う~む。 図五では方 角がかなり歪 曲されています 。大川が東西にまっす ぐ 延びて 本だけで、図 録では「天満 橋の上では男と女がけんかしている。橋の向こう 側は八 いて、大 和川との合 流 地 点が描かれていません。したがって京 橋は無しです 。橋は一 軒 家 浜 」となっていま す 。ここまでは、ま あ 許 容 範 囲ですが、 天満天神の祭 礼が出 てきて (三・四扇) おかしくなります 。 これは「天神祭」を描いたものですが、 天満天神の位置が天満橋とされる橋の上流 (東) にあります 。ここで、 ん?となります 。 いかに歪 曲されているといえ、 川の上 下 社は天満橋の下流(西)、 天神橋の北に位置しています 。 などの相対位置は外さないのがこの手の市街図の作法です 。ちなみに、現在の天神 寛 永二十一年(一六四四) に避 難 先の吹田から戻って以来、ずっとこの位 置です 。 図一 川に架かる橋は一橋のみ」ということです 。 一五九四年の天神橋創架記録(天満天神 ~図五に共通して言えるのは「東横堀より東(かつ大和川との合流点より西) で大 社社伝)を信頼できるものとするなら、描かれた橋を「天神橋」とすれば図二~五 でとりあげた矛盾はすっきり解消します 。 二〇一〇年 六月 九日 残る問 題は「八軒 家 船 着 場はいつごろどこにできたのか」 「天満 橋はいつごろどこに できたのか」、 この二点です 。(津川) 131 彦根から京都へ伝わった 朝鮮通信使の置き土産 京 都 市 左 京 区の金 戒 寺 光 明 寺・栄 摂 院にある朝 鮮 通 信 使の扁 額が、彦 根 藩 家 老 を通じて伝わったことが分かったということで、京 都 在 住で彦 根 藩 家 老( 記 事 中の 家老とは別) の末裔を自称する当会会員がさっそく訪ねてみました。 以下に、 このニュースを伝えた京都新聞の記事を引きます 。 朝鮮通信使 揮毫の扁額 左京・金戒光明寺塔頭の栄摂院 京 都 市 左 京 区の金 戒 光 明 寺 塔 頭(たっちゅう ) ・栄 摂 院( えいしょういん) にある朝 鮮 通 信 使が揮 毫( きごう )したとされる扁 額は、 17世紀 中ごろに通 信 使を 接 待 した彦 根 藩 家 老 木 俣 守 安 を 通じて同 院にもたらされたとみられることが、京 都 造形芸術大の仲尾宏客員教授の調査でこのほど分かった。栄摂院が木俣家の菩提 寺(ぼだいじ)として建てられたことが縁のよう 。通信使随行員が揮毫した扁額は 日本各地に残っているが、京都市内で確認されたのは珍しい。 紅葉がまぶしい栄摂院の庭=会員撮影 栄摂院にある朝鮮通信使の扁額。 彦根藩家老を通じて伝わったことが分かった (京都市左京区) =京都新聞 132 京都造形芸術大客員教授が確認 同 院の扁 額の存 在は知られていたが、詳しい由 来は不 明だった 。縦58センチ、横 120センチの大 きさで「 栄 攝 院 」 「 崇 禎 癸 末 中 秋 朝 鮮 國 信 使 」と 記されている。 仲 尾 客 員 教 授の調べで、江 戸 時 代 以 降 、計12回 あった 通 信 使のう ち 、 1643 (寛永20)年に実施された第5回の時のものだと判明した。朱印で刻字された二 のそれと符合した。 つの印 章には、竿 堂、君 澤の文 字があ り、号 と字( あざな)が通 信 使 従 事 官の申 濡 彦根藩家老 木俣守安 仲介か この通 信 使が訪れた折、 一行が彦 根の城 下で同 藩により 格 別の供 応 を 受 けたこと 教授は「この応接の際、 家老の木俣守安が寺名を紙に揮毫してもらい、 それを扁額 扁額とは横に長い額のことで、 この扁額は縦58センチ、 横120センチ=会員撮影 崇禎は中国・明の元号。癸末(きび=みずのとひつじ) は 十干十二支の56番目。 寛永二十年(一六四三年) =会員撮影 は、通 信 使の副 使や申 濡らが残した文 書などから明らかになっていた。 仲 尾 客 員 う。 に写したのではないか。朝鮮通信使による扁額は京都市内には数例しかない」とい の通 信 使(1636年 ) の また、各 地に残る扁 額や文 書などから、前 回(4回 目 ) ころから、立ち 寄った地の文 人らが随 行 員たちに詩 文や墨 跡 を 求めるケースが急 増していることが分かっている。仲 尾 客 員 教 授は「 そ うしたことを 想 定していたの か、通 信 使があらかじめ本 国から印 章を持 参していたことが注 目される」と話し ている。 栄 摂 院の戸川 明 弘 住 職は「なぜここにあるのか分からなかったが、歴 史 がつながってうれしい。木俣守安の寺への深い思いが伝わる」と喜んでいる。 以上、引用終り。 133 彦 根 藩は通 信 使の接 待にかなり 力 を 入れていたようで、通 信 使一行がパレードす る道筋を丁寧に描いた絵図なども残されています 。 六篇 )を 組んでいま す 。全 国 各 地に残された屏 風や襖 絵、船 絵 馬などの図 像 も 豊 八軒 家かいわいマガジンでは「 朝 鮮 通 信 使 と大 坂 」のタイトルで通 信 使の特 集( 全 富に掲載しています 。ぜひご覧ください。(津川) 二〇〇九年 十二月 九日 「朝鮮人道見取絵図」 ( 東京国立博物館蔵) に描かれた彦根の城下町=街並情報 134 百五十年前、 竜馬がす ぐ 近所を歩いていた。 時 代が求めているのだろうか。竜 馬ブームが爆 発している。「日 本 を 今一度せんた こ くいたし申し候 事にいたすべく 」と坂 本 竜 馬は決 意を述べている。 平 成のいま、 NHK史 上 空 前の番 組 宣 伝のき きめあってか、大 河ドラマ竜 馬 伝が快 調な滑り 出 の国を建て直すのに、 けちなマネーロンダリングなどは、 もってのほか無用のことだ。 しと聞く 。ぼくも、 マウスをあやつって、竜馬像を描いてみた。 偉 丈 夫だが、色 黒 く、ちじれ毛だったらしい。似ても 似つかぬが、 八軒 屋 船 着 き 場 ここ天 オリジナルのTシャツに仕立てようという魂胆だ。というのも、坂本竜馬と、 満八軒家は縁が深い。百五十年前の文久年間、うちの事務所のある八軒家浜かい わいは、新 選 組、志 士たちの面々が肩で風 きって闊 歩していたのだ。当 時の情 景を、 司馬遼太郎は、「竜馬はゆく」につぎのように描いている。天満八軒屋は、伏見へ上 る淀川船の大阪駅になっている。 天満 橋と天神 橋のあいだの南 岸の地で、 川ぶちに船 宿がぎっしり軒を並べ、京 大 阪 端 新 選 組の御 用 宿で、将 軍の大 阪 滞 在 中は、 ここに一小 隊が駐 屯し、上 下 する旅 客 をのぼりくだりする旅客でにぎわっていた。 そこに京屋という船宿がある。 京屋 をあらためていた。 135 河ドラマ 「竜馬伝」の好評なうちに、 Tシャツに刷りたいのだが。どうなるか。 景 」だ。川 向 うのはるかかなたには、箕 面 山 系がみえる。いずれ気が向いたら、大 えてみた 。イケメンな 竜 馬の背 景は、幕 末の錦 絵 師 、国 貞の描 く 名 作「八軒 家 夕 いちびって、 いくつか図柄を考 京都と大阪を船で結ぶ中継点だった。Tシャツ用に、 港だった。八軒 家 船 着 き 場は、平 安 時 代から、淀川を 利 用 する熊 野 詣のルートで、 古 代、 ここらあたりは、す ぐ 海で難 波 津 と呼ばれ、 アジアからの船の出 入 り する 口に、「熊野かいどう」の石碑が建っている お祓い筋の上がり ている。ついでながら、船 宿が軒 を 連ねていた土佐 堀 通 りから、 件の大 きな船 宿だったそうで、京 都 伏 見の寺田屋と業 務 提 携していたと伝 えられ 込んでついた先が、 八軒家の船 宿「 京 屋 冶 郎 作 」方、 とある。 その京 屋は、間口11 後年恐れられた「人斬り以蔵」である。 「事情は、旅籠できこう」と、辻駕籠に押し れば、 同郷の岡田以蔵だった。 竜馬は、 その晩、高麗橋で暗がりからいきなり辻斬りに襲われる。取り押さえてみ る。「 竜 馬がゆく 」には、土 佐からはじめて大 阪へ出た日の竜 馬が描かれている。 生 国 魂 神 社に移 転 )その寄 進 主に堺 屋 源 兵 衛 、京 屋 忠 兵 衛の名がきざまれてい が、北 大 江 公 園に上がる石 段に、常 夜 灯が建てられていたが、( 今は谷 町9丁 目の ばに新 選 組の定 宿「 京 屋 忠 兵 衛 」が軒を連ねていた。 高 倉 筋と古い地 図にみえる 土佐堀通からお祓い筋にあがる角あたりに、竜馬の定宿「堺屋源兵衛」が、すぐそ らわすのは、 ここのビルから歩いて3分 。眼と鼻の先だ。 た。ま ぎれもない坂 本 竜 馬である。映 画の一コマのように、竜 馬が船 宿から姿 を あ 黒 木 綿の紋 服 を 着た長 身の武 士が、京 屋のとなりの堺 屋 という 船 宿からでてき 136 (南斎) 二〇一〇年 一月 二二日 「がんばらにゃ!大阪」 岡 目八目 提 言 集 「 大 阪 をもっと元 気に!」八軒 家かいわいメンバーからの提 言のあれこれをまとめまし た。 「こんなことしたら、 どないやろ」 「そういえばあそこにこんなもの作ったらええなあ 」などなど― 。そ 音頭をとった「大川端一帯にさくらの木を千本植えようという運動がすすんでいる。同時に、 かつての水辺 んなちょっとしたアイデアをお寄せください。 川 端やなぎを復 活させよう! 建 築 家の安 藤 忠 雄さんが の主役「川端やなぎ」を復活させれば素晴らしい景観になる… 。 真 珠 貝の養 殖で道 頓 堀をきれいに! 2003年から道 頓 堀で養 殖されていた真 珠 貝が初めて川から取 り出された。真珠は大きなもので直径13ミリ以上に成長していたらしい。しかも浄 化に役立つ。貝ひと 囲まれ多 難な船 出だが、橋 本 知 事の若いエネルギーを府 民も後 押しせねば。 「 水 都 大 阪 」構 築には、 われ つで一日にドラム缶一本 分の水の浄 化ができるという 。「 水 都 再 生 」を八軒 家かいわいから― 抵 抗 勢 力に ( 週 刊ダイヤモン … 。 天神 祭 を 単なる大 花 火 大 会に終らせるな 「 最 もがっかりした観 光 地ランキング」 われ草の根 も一肌 脱がねばなるまい。役 所がハゲタカへ丸 投 げ するより、地に足のついた自 前のプランを ド) でなんと大阪市は堂々 (?) の二位!う~ん、 このままではいけないのではないか。 たとえば天神 祭 。祭りの舞 台としての大川や中 之 島一帯の再 設 計など考 えねば… 。 大 阪にもシンボルと 海外の都市では、上海もパリもニューヨークでも独自の塔を建てている。 なるタワーを! 大阪には塔がない。あっても低すぎて目立たない。大阪城も高さではひけをとる。 二〇一〇年 三月 一〇日 そこで通天閣の向こうを張る新タワーを考えてみた。名づけて「ビリケンタワー」。(平野) 137 大阪アースダイバーへの道 中 沢 新一他 を 講 師 に 迎 え た 標 題の講 座 が 、ナカノシマ大 学 四 月 講 座 と して 、 二〇一〇年 四月一六日に開催されました。 の地 形に重ね合わせることから、渋 谷や秋 葉 原が「どうしてこんな風 景になったの 「二〇〇五年に上梓された中沢新一氏の 『アースダイバー』。縄文時代の地図を現在 か」を読み解くという大胆な試みは、各分野で大きな話題となった。 そんなアースダイビングの次なる舞台として、 発刊直後から中沢氏が注目していた のが 大 阪であった 。今 年の夏には『 週 刊 現 代 』にて連 載 も 始 まる予 定 だという 。 (略) ナカノシマ大 学は中 沢 氏の連 載 開 始に先 駆け、 2人( 中 沢+釈 徹 宗 ) による対 談を セッティング。時 間や空 間 を一気に飛び越 えていく 中 沢 氏の想 像 力に、釈 先 生が大 阪に土着の宗教や歴史の補助線を引くことで、 アースダイビングの精度はどのよう に高まりを見せるのか。 『 知らなかった大阪のこと』満載の壮大なスケールのダイア ローグをお届けします!」(ナカノシマ大学事務局) ところで、 この講座を受講された新之介さんが、「大阪アースダイバーへの道」(十三 のいま 昔 を 歩こう )というブログ記 事 を 投 稿され、講 座でにスクリーンに映し出さ れた縄 文 時 代の大 阪の地 形 図 を、「 大 阪の歴 史 書ではよく 出てくるイラストなの 縄文時代早期(約9400年前) 縄文時代、温暖化によって海水が 一気に上昇し始めます。 縄文時代早期(約8000年前) その縄文海進(かいしん) によって海水 が内陸部に入って行きます。 ピーク時の 海水面は今より3~5メートル高かった とも言われています。 縄文時代前期の後半(約5500年前) ただ、上町台地だけは沈まず 細長い半島として残りました。 この時に、河内湾が誕生したのです。 138 ですが、とてもわかりやすいので、『 大 阪アースダイバーの基 本 資 料 』として」新 之 介さんの解説とともに紹介しておられます 。 とても興 味 深 く、まためったに見られない貴 重な資 料 ※ですので、大 阪アースダイ バーの必携マップとしてママ転載させていただきます 。※「大阪遺跡」 (前掲) の口絵 に、 同じ地図が小さく掲載されています 。 見せてくれるアニメーション動 画もあります 。 一見に値 する貴 重なアニメです 。ぜひ 縄文時代中期の初頭(約4500年前) その後、川から流れてくる土砂が堆積 していき、半島の先端部には砂州が 伸びていきます。徐々に河内湾は 塞がれた状態になっていきます。 弥生時代中期(約2000年前) それにより、河内湾は淡水化が進み 河内湖に姿を変え、 その後、少しずつ 陸地化していくことになります。 「大阪アースダイバーへの道」の最後には、大阪平野の変貌を時代を追って重層的に ご覧になってください。 二〇一〇年 五月 一〇日 139 喫茶のルーツは難波津にあった! 四月八日付け読売新聞「列島いにしえ探訪」に、 こんな記事がありました。 大阪市・中央区瓦町 緑釉陶器の破片出土…8~9世紀の茶道具か 難波津で接待の可能性 出 土した緑 釉 陶 器の火 舎の破 片 大 阪 市 中 央 区 瓦 町の大 坂 城 下 町 跡の下 層 で、奈 良 時 代 終わりから平 安 時 代 初め (8世 紀 末~9世 紀 初め) の高 級 品、緑 釉 り(ょくゆう 陶) 器の破片が、市博物館協会の発掘調査で出土した。 「 火 舎 か(しゃ 」と ) 呼ばれる特 殊な火 入れで、全 国で十 数 例しか知 られていない。 同 協 会は「 遣 唐 使が中 国から喫 茶の風 習 を 伝 えたとされる時 期にあたり 、茶 道 具の可能性がある」としている。 羽釜とセットにして、湯をわかしたらしい。 口径 約20センチ、高さ約 破 片は縦9センチ、横7センチ。火 舎の上 部に当たり、 25センチに復 元できる。内 側には火 を 受 けた痕 跡があ り、胴につばを 巡らせた 緑 釉 陶 器は9世紀以降、平 安 京を中 心に上 層 階 級に広まったが、それまでは儀 式など非日常的な場で使われたとされる。 火 舎は奈 良 時 代 後 半から平 安 時 代 初 期の都や役 所など限られた時 期、場 所でし 出土した緑釉陶器の火舎の破片(2010年4月8日 読売新聞) 140 か見つかっていない。破 片は東 西5・4メートル、南 北4メートル以 上の建 物 跡で出 土。海辺に近く、瓦の破片もあったことから、建物跡は難波津にかかわる公的施設 の可能性があり、火舎もそこで使われたとみられる。 同 協 会 大 阪 文 化 財 研 究 所の岡 村 勝 行・主 任 学 芸 員は「 茶 道 具だったとすれば、 迎 賓 館 的な施 設で茶がたしなまれていたのではないか。大 陸から伝わった茶 文 化 に、考古学的な証拠から迫る成果になる」と話している。 筆 者の記 憶によれば、茶( 喫 茶の習 慣 ) の伝 来は鎌 倉 時 代、臨 済 宗の祖・栄 西が留 学 先の中 国( 南 宋 )から持ち帰ったとされています(ウィキペディアにもそう 書いて あります )。ところが最 近では、もっと古 く 奈 良 時 代にはすでに茶は飲まれていた で、今回の「火舎」もそれを裏付ける証拠だとされています 。 とする説が有力(注) (注)巽惇一郎「日本における茶法の開始」 (新版古代の日本6近畿2) 一九九一 近 く、 かいわいと称してもおかしくない位 置にあります 。 「 大 坂 城 下 町 跡 」は幾 度 それにしても茶 道 具とは!しかも難 波 津!発 掘 現 場( 瓦 町 ) はわが八軒 家にほど です 。 かの発掘事例があり、今回は二〇〇九年の発掘時の成果(注) (注)岡村勝行「なにわの海に臨む、謎の古代建物」 (大阪文化財情報 葦火144号) 二〇一〇 同 現 場では、 これまでに古 代・中 世の土 師 器・須 恵 器や近 世の陶 磁 器・瓦などが発 掘されています 。 難 波 津がどこにあったのかはいまだに定 説 をみませんが、当 会は高 麗 橋 付 近とす 141 二〇一〇年 五月 一七日 前の厳かな雰囲気 。今後さらなる解明が期待されるところです 。」(岡村) 「 大 阪の幹 線 道 路にほど近い、喧 騒な都 心の地 下 数mから浮かび上がる、千二百年 最澄も、 この地で茶をしばいて潮待ちしていたと想像するだけでも愉快です 。 ル、 八軒 家から西へ同じくらいの距 離 。遣 唐 使 として難 波 津から船 出した空 海や る日下雅義の説に組みします 。高麗橋は発掘現場(瓦町) から北へ約300メート 142 光源氏の見た八軒家かいわい 源氏物語の主人公、光源氏は京都の外にはめったに足を運ばなかったようです 。数 少ない例 外は、須 磨で隠 居 生 活 を 送った時の道 中と内 大 臣になってからの住 吉 詣 です 。その中から、 八軒家かいわいの地名が登場するシーンを、 二つ抜き出してみま しょう 。 まず、須磨道中から。 かり そめの道にても、 かかる旅 を な らひたまはぬ心 地に、心 細 さ も をか しさもめづらかなり 。 大 江 殿と言ひける所は、 いたう 荒れて、松ばかり ぞしるしなる。(須磨) さも物 珍しさも並 大 抵ではない。大 江 殿と言った所は、 ひどく 荒れて、松の木だけ ほんのちょっとのお出ましであっても、 こうした旅路をご経験のない気持ちで、心細 が形跡をとどめているだけである。(渋谷栄一訳) と、政 争 を 危 惧した源 氏は須 磨での隠 居 生 活 を 選びました。都 落 ち する貴 公 子 「 大 江 殿 」は、伊 勢の斎 宮が帰 京の際にお祓いを する建 物です 。父 桐 壺 帝 亡 き あ しているように見えたのでしょう 。 の目には、往 時 を 偲ぶすべもない荒れ果てた「 大 江 殿 」が、今の自 分の境 遇 を 暗 示 143 ぞ思ふ」という下の句が隠されていることでしょう 。 波なる」からとられています 。源 氏の心 中にはもちろん「 身をつくしても逢はんと る」とは、百人一首にもみえる元 良 親 王の歌で、上の句の「わびぬれば今はた同じ難 住 吉 詣で偶 然に元カノ ( 明石の上 )と遭 遇し動 揺 する源 氏 。 「 今はた同じ難 波な のうちに、 ふと朗誦なさったのを(渋谷栄一訳) にお勤めになる。堀江のあたりを御覧になって、「今はた同じ難波なる」と、無意識 御 社 をご出 発になって、あ ちこちの名 所に遊 覧なさる。難 波のお祓い、七瀬に立 派 御 社 立 ちたまて、所々に逍 遥 を 尽 くしたまふ。難 波の御 祓へ、 七瀬によそ ほし う 仕 まつる。堀 江のわたり を 御 覧 じて、 「 今はた同 じ 難 波 なる」と、 御心にもあらで、う ち誦じたまへるを(澪標) つづいて、住吉詣 。 南の高台にある「北大江公園」として間違いないでしょう 。 に架かっていたとする説が有 力 。しかも「 楼の岸 」ですから、 これはズバリ、 八軒 家 とされていま す 。 「 渡 辺 橋 」は現 在のそれとは違って、 天満 橋と天神 橋の間 あたり 「大江殿は渡辺橋の東の岸に昔駅楼ありけり 今も楼の岸という」 抄」(『 源氏物語 』 の注釈書) に この「 大 江 殿 」がどこにあったのかというと、 一三八一年 長 慶天皇の作とされる「 仙 源 144 さて、「 堀 江 」ですが、 これも現 在の堀 江( 地 名 )とは違います 。 「日本 書 紀 」仁 徳天 あの「難波の堀江」、掘削された運河の名前です 。 皇 十一年 十 月 条に「 堀 宮 北 之 郊 原 引 南 水以入西海、因以号 其 水 堀 江 」とある、 その運河がその後成長して、今では「大川」になったと信じられています 。源氏の頃 五世紀頃の大阪平野。 海岸線の復元は梶山彦太郎・市川実「続大阪平野発達史」による (「津の国ものがたり」 より)。 は、流 域に葦の生い茂る島々が散らばって見 通しが悪 く、澪 標(みをつくし)なしで は航路を辿ることも難しかったようです 。 仁 徳天皇の宮( 高 津 宮 )がどのあたりかははっきりしないようですが、上 町 台 地の 北の高 台にあったとする説が有 力です 。とすると堀 江は、 これもズバリ、 八軒 家か いわいと言い切ってもよろしいかと。 それにしても 平 安 後 期の八軒 家かいわいは、けっこう 寂れた 場 所 だったようです な。かつて「難波津」として栄えた八軒家かいわいが勢いを取り戻すのは、中世の渡 辺党を経て蓮如の石山本願寺建設を待たねばならなかったようです 。(津川) 二〇一〇年 六月 一五日 145 難波宮、白い宮殿 壁土の破片大量出土 (以下、読売新聞「列島いにしえ探訪」より) ■■■ ないという 。 や上淀廃寺(鳥取県米子市)などで出 7世紀の白壁は、山田寺(奈良県桜井市) 土しているが、 いずれも寺院建築 。宮殿の白壁は、藤原宮や平城宮でも見つかってい 寧な造りで、 天皇が居住する内裏などに使われたらしい。 コンテナ25箱 分の壁土( 最 大で約30センチ角 ) が出土。 難 波 宮 跡の東 側から、 うち一部の表面は、 しっくいか白い土が塗られていた。4~5層に土を塗り固めた丁 裏付けられた。 「ことごとく 論 ずべからず( 言 葉では言い尽 くせない)」と表 現された壮 麗な姿が 新に合わせて完成した宮殿が真っ白な壁で覆われていたことがわかり、 日本書紀で た都「難波長柄豊碕宮 と(よさきのみや 」の ) 宮 殿に使ったとみられる白壁の破 片が 出土し、市教委と市博物館協会大阪文化財研究所が13日、発表した。大化の改 大 阪 市 中 央 区の難 波 宮 跡で、孝 徳天皇( 在 位645~654年 )が飛 鳥から移し 146 難 波 宮 跡は、前 後2時 期の宮 殿 跡がある。前 期の難 波 長 柄 豊 碕 宮は、蘇 我 氏の 滅 亡 後、新たな政 治の場として造 営された。飛 鳥に都が戻った後の686年、火 災 で燃 えたという 記 述が日 本 書 紀にあ り、壁 土にも 焼 けた跡が確 認できることか ら、火事の後にまとめて捨てられたらしい。 月 10 日 読売新聞) 14 現 地 説 明 会は16日 午 前10時 ~ 正 午 。現 場は市 営 地 下 鉄 森ノ宮 駅の西 約 400メートル。 年 2010 ■■■ 前期難波宮の遺溝配置と今回の調査地の位置 (大阪市教育委員会報道発表資料より) ( (以上、引用終り) 二〇一〇年 一〇月 二十日 147 秀吉が築いた城① ホンモノはどれだ? 豊臣時代の大阪城天守閣はどんな形をしていたのでしょうか?とりあえずウィキ ペディアにあたってみます 。 現在の大阪城天守閣(北西方面より=二〇〇八年)※方角は画面左より記述(以 下、同 様 )。一五八三年(天正 十一年 )、安 土 桃 山 時 代に石 山 本 願 寺の跡 地である、 上 町 台 地に、豊 臣 秀 吉が築 城 を 開 始した。完 成に一年 半 を 要した本 丸は、 石山本 願寺跡の台地端を造成し、 石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施さ れた。秀 吉が死 去 するまでに二の丸、 三の丸、総 構 えが建 設され、 三重の堀と運 河 によって囲むなどの防衛設備が施された。 天守は、絵 画 史 料では外 観五層で、外 壁などに金 箔 をふんだんに用いた華 麗な姿 で描かれている例が多 く、 それに則した復元案が出されている。 大 坂 城の普 請 中に秀 吉 を 訪 問し、大 坂 城 内 を 案 内された大 友 宗 麟は、大 坂 城 を 三国無双と称えた。(大坂城―Wikipedia)※強調は筆者 画を手がかりにするぐらいしか能がないようです 。 はっきりしているのは「五層」ということぐらいで、あとは同 時代(?) に描かれた絵 現在の大阪城天守閣(北西方面より=二〇〇八年) ※方角は画面左より記述(以下、同様) 148 (図四)大坂冬の陣図屏風(北西面)武内勇吉 模写(平成二年)。原本は幕府の奥絵師をつと めた木挽町狩野家に伝来したものだが、 それ自体も江戸後期の模写本で、 原図は存在しない。景観年代=一六一四年 (図三)京・大坂図屏風(北西面)左隻(京図) の上部には秀吉を神と祭る豊国神社が描かれ ている。つまり秀吉没後、秀頼時代の両都市が 本図の主題。 景観年代=一五九九年~一六〇〇年 149 (図六) モンタヌス 『日本誌』挿絵「大坂落城」 (北面?) 『日本誌』はオランダ人牧師モンタヌス が聞き書きした日本の地誌。 一六六九年初版。景観年代=一六一五年 (図五)大坂夏の陣図屏風(西南面)合戦後まもなく、福岡藩主 黒田長政が描かせたものと伝えている。景観年代=一六一五年 ※現在の大阪城は、この図を基に昭和初期に復興されたもの。 平成の大改修を経て現在の姿に=筆者註 ということで、残されている絵 画 資 料(ほとんどが屏 風 絵 ) に片っ端から当たってみ (図一)大坂城図屏風(北西面)大坂城とその城下 町を描いた屏風絵としては現存最古と推測される。 景観年代=一五八五年~一六〇〇年 ました。景 観 年 代の古いと思われる順に、とり あ えず あ げてみま す 。図六を 除 き 天守のみの部分図です 。 (図二)豊臣期大坂図屏風(東北面)原本は一七世 紀後半にヨーロッパへ渡り、オーストリア・神聖ローマ 帝国の貴族のエッゲンベルグ公の所有に帰した屏風。 景観年代=一五九六年~一六〇〇年 150 三、「大坂城図屏風」(図一) の付庇のある床は、 一階の床より 低い。 がない。北面の付庇を描いている。 二、「 大 坂 城 図 屏 風 」 ( 図一)および「 大 坂 冬の陣 図 屏 風 」 ( 図四 )は、構 造 的に無 理 一、「大坂夏の陣図屏風」(図五) は、作図上のごまかしがあって、構造的に無理。 すすめています 。その論点はおよそ次のようになります 。 ・四・五の天守形状および参考図を基に、論を 論文がありました。 佐藤さんは、図一 大 起さんが書いた「 豊 臣 大 坂 城天守を描いた屏 風に関 する考 察 」 (PDF)という さて、 どこから手をつけたらいいでしょうね。幸いなことに、広島大学大学院の佐藤 けです 。他の五つは、向きも形状も微妙に異なっています 。 発 見された二枚 図のうち一枚 。けっこう ありますが、 天守が八層の図六はあげただ この図の原 本は、江 戸 幕 府の京 都 大工頭 をつとめていた中 井 家で昭 和三十五年に (参考図)豊臣時代大坂城本丸指図 「大坂冬の陣図屏風」(図四) では同じ高さに描かれている。四、中井家所蔵「本丸 図 」によると、付 庇が設 けられていたと考 えられる武 者 走 りは、 天守一階 床から五 尺 下がっている。これらの論 点から佐 藤さんの出した結 論は 「 大 坂 城 図 屏 風 」の を 描いていること、中 井 家 所 蔵「 本 丸 図 」と完 全に一致 することなどが 特 色であ 天守は、構 造 的な問 題がほとんどなく、北 面の付 庇という天守としては特 異な点 る。 いかがでしょうか。 ところで、佐藤さんの論文には「豊 のである。 というものです 。 「大坂冬の陣図屏風」は、「大坂城図屏風」の天守を直接または間接に模写したも 臣期大坂図屏風」(図二)と「京・大坂図屏風」(図三) は出てきません。さて、 この二 つの資 料 評 価はどうなんでしょう 。佐 藤さんの論 点 を 参 考にすれば、す ぐに答 え が出そうです 。 二、「京・大坂図屏風」(図三) の二階の形状が「大坂城図屏風」と同じ。 一、両図とも構造的には「大坂冬の陣図屏風」(図四) に似ている。 三、「京・大坂図屏風」(図三) は北面の付庇を描いている。 ただし、床高は一階と同じ。付庇だけが飛び出している。四、「豊臣期大坂図屏風」 (図二) は、形状が「大坂冬の陣図屏風」(図四) に似ているが向きが違う 。付庇はな い。ということで、「大坂城図屏風」→「京・大坂図屏風」→「大坂冬の陣図屏風」→ 「豊臣期大坂図屏風」という模写ラインが見えてきました。(津川) 二〇一〇年 六月 二三日 151 秀吉が築いた城② ま す ま す、 わからない 152 え、 八層 これはまた、 どうしたことでしょう 。モンタヌス挿 絵 説、復 活か このあ ※( )内は訳註 。 ら成り、最上層にはそれを外から取り囲む廻廊がある。 もっとも 主 要な城( 本 丸 ) に秀 吉が住んでおり、その女たちも同 所にいた。八層か (羽柴)筑前殿は、 まず最初にそこにきわめて宏壮な一城を築いた。〈略〉 ます 。 ( 第二部六六章 ) の「 大 坂 城 と新 市 街の建 設について」には、次のように書かれてい フロイス 『日本史 』第四章 あることから、 あっさり捨て去っておりました。ところが、 従って、 モンタヌス 『日本 誌 』 に掲 載された有 名な挿 絵「 大 坂 落 城 」を、城が八層で た。 めに、『はっきりしているのは「五層 」ということぐらい』と安 直に考 えてしまいまし 秀 吉が築いた城 秀 吉 築 城の大 坂 城について、前 回の考 察では画 像 資 料に頼ったた ! ? たりをちょっと検討してみます 。 ! ? ! ? かたや、 モンタヌス (1625~1683) の 『 日 本 誌 』は「 東インド会 社から日 本に 17世 紀の膨 大な資 料 遣わされたオランダ使 節や宣 教 師の報 告・日記など16 、 をもとに、海 外で始めてまとまって日本を著 述したもの」 ( 雄 松 堂 書 店「 大 学 図 書 館 所 蔵 稀 覯 書 紹 介 」) ではあるものの、「 収 録されている挿 画の人々や風 俗も実 際 の日本のそれとはかなりかけ離れており、想 像によって描かれたものである」とさ れています 。 ところが、 オランダ商館長の江戸参府日誌など公の文書を利用した記事も見受け られ、挿 絵の「 徳川 大 坂 城 」などはそれらの資 料を駆 使したかなり正 確な復 元 図 モンタヌス 『日本誌』挿絵「大坂落城」 であるともいわれています 。 した日本の地誌 。 一六六九年にアムステルダムで初版が刊行された。 モンタヌス 『 日本 誌 』挿 絵「 大 阪 城 図 」『 日本 誌 』はオランダ人 牧 師モンタヌスが記 本の中には、徳川再築大坂城の正確な図が掲載されている。 これは、 オランダ東インド会社が入手した大坂城の図をもとにオランダ人画家フィ ングボーンズが描いた「 大 坂 城 図 」 (ハーグ国 立 文 書 館 蔵 )を、 さらに簡 略 化して描 き 直したもの。モンタヌス自 身は来日したことはない。画 面の手 前が西( 大 手 )側 (「テーマ展大阪城の歴史」図録より)。 こなた、 フロイス (1532~1597) の 『 日本 史 』 は、「日本における布教史の編纂 の執 筆を命じられ、 以後10年以上にわたって執 筆を続け、時には1日に10時 間 聞きした事項が中心で、記述の正確さには定評があるところです 。 以 上の執 筆 を 行った」 (ウィキペディア)ということからわかるように、本 人 自ら見 153 フロイスの 『日本史 』をモンタヌスが参照した可能性もあります 。 しかし、『日本史 』 は、 1742年にポルトガルの学士院が同書の写本を作成して本 国に送付するまで、 マカオのマカオ司教座聖堂に長く留め置かれ、 オランダ人のモン タヌスがこれを 目にする( あるいは読んだ人から聞 き 及ぶ) ことはなかったものと 思われます 。 何が言いたいのかというと、『 日 本 史 』と『 日 本 誌 』は独 立に「 大 坂 城八層 」説 を 唱 えており、 これを偶然の符合(つまり、 どちらも間違った記述である)とは考えにく いということです 。 大坂城をわざわざ八層にする必要もないのではないか、 と。(津川) ついでに言えば、『日本誌 』 には (五層)徳川大坂城が正確に描かれているのに、秀吉 二〇一〇年 一〇月 二五日 モンタヌス 『日本誌』挿絵「大阪城図」 『日本誌』は オランダ人牧師モンタヌスが記した日本の地誌。 154 秀吉が築いた城③ 大 坂 城・八層 説の正 体 脇田修さんの 『 近 世 大 坂の町と人 』( 人 文 書 院 一九八六) に次のような記述があります 。 豊臣氏大坂城天守閣は、 屋根が五重、内部は六階・地下二階という大城郭であった。 (第二章「地中から現れた大坂城」より ) と、基礎になった資料は「大坂夏の陣図屏風」 「豊臣時代大坂城本丸指図(中井家 この箇 所に限ればとくに出 典が示 されていませんが、前 後の記 述から拾っていく 所蔵)」 「仙台伊達家に伝わる絵図」および「岡本良一さんや渡辺武さん、 また宮上 茂隆さんらの研究」 「大友宗麟や宣教師らの筆」であると思われます 。 大坂夏の陣図屏風(右隻) エッゲンベルグ城にあった「 豊 臣 期 大 坂 図 屏 この本の出 版 以 後の新しい資 料は、 風」ぐらいですが、 この図の資料評価は本稿でも触れた通り。通説を覆すほどのも のでは有りませんでした。 となると、脇 坂さんがまとめた「 秀 吉が築いた城 」像は、とくに追 加・変 更 を 加 え ることなく 現 在でも通 用していると考 えてよさそうです 。 フロイスが「八層 」と表 現したのは、階層のことであったのかあ 。 155 ところで、気になったのは黒田家伝来と伝わる「大坂夏の陣図屏風」です 。 ここに描かれた大 坂 城は、脇 坂さんらにはかなり信 頼できる姿であると捉 えら れておるようです 。しかし、本 稿では広 島 大 学 大 学 院の佐 藤 大 起さんの説(PD F)をとり、「作図上のごまかしがあって、構造的に無理」と片付けておりました。 この屏 風はこれまで、城の南にあった大 御 所・徳川 家 康の本 陣を右 端に描 き、大 坂 城や北 方の淀 川 水 系 を 中 央から左にかけて描いているため、城や天守は当 然、 ところが、『 天守が建てられた本当の理由 』 の横手聡さんによれば、 これは作画上の 三、天守の四神 「西」から眺めた姿であると考えられてきました。 一、天守の屋根にある唐破風 詳細は省きますが、 これは「南北面」にあるのが正しい。 演 出で、本 当は「 城を南から眺めた姿で描いている」というのです 。 横 手さんがあ げるその理由は。主に次の三つです 。 二、天守の窓の女性 戦況を眺めている=主戦場である南を向いているはず。 156 三、 天守の四神の最 上 階の小 壁にくっき りと「 南の朱 雀( 鳳 凰 )」が描かれている。 つま り、城 を 時 計 方 向に九〇 度 回 転させて描いたのは、 「 戦 場の俯 瞰 と城の正 面 (南)を同一平面で実現するための絵師の工夫」であるとするわけです 。 この屏 風ではそれが そ うであれば、「 東西が平、南 北が妻となるはずであるが、 逆に描かれている」のを「 作 画 上のごまかし」とした佐 藤 説は考 慮しなくてもよい ことになります 。とはいうものの、横 手 説をとれば、 天守の屋 根が東西方 向に延び ていることになり、他の絵画資料とは明らかに異なります 。 ということで、以上を総 合して、武 者 走りの有 無や唐 破 風の有 無にも 注 目 する と、本 稿で取り上げた他の絵 図の模 写ラインは 「 豊 臣 期 大 坂 図 屏 風 」→「 大 坂 城 図屏風」→「京・大坂図屏風」→「大坂冬の陣図屏風」ということになりそうです。 「大坂夏の陣図屏風」だけが特異です 。 制 作 年はこれらすべての絵 図に先 行し、 以後に描かれた豊 臣 期 大 坂 城 図の手 本に そうして、横 手 説 =天守の妻は東西面が正しいとすれば、「 大 坂 夏の陣 図 屏 風 」の 意 外なことに、再 発 見された「 豊 臣 期 大 坂 図 屏 風 」の制 作 年 代は、けっこう 古いと 京・大坂図屏風(北西面) 大坂冬の陣図屏風(北西面) 大坂夏の陣図屏風(南東面=横手説) ※描かれた城の向きは画面左手より。以下同様 豊臣期大坂図屏風(東北面) 大坂城図屏風(北西面) なったと推察することができます 。 思われます 。 せっかくですから、 ならべなおしてみましょう(津川)。 二〇一〇年 一二月 二一日 157 目覚めるか「秀吉の城」 四百年の眠りから 一月二日付け朝日新聞記事より 地中に眠る秀吉時代の石垣 大阪城、市が本格調査へ 豊 臣 秀 吉(1537~1598) の呼び名にちなみ、「 太 閤(たいこう )さんの城 」と して親しまれる大阪城 。しかし、現在の石垣は徳川時代のもので、秀吉の遺構は約 その謎に迫ろうと、本格的な発掘調査に乗り出す 。 400年間、地中に眠ったままだ。天守閣復興から80年となる来年度、大阪市は 大阪城の石垣展示のイメージ図の左上が現在の天守閣、右下が豊臣時代に造ら れた 石 垣 = 大 阪 市の資 料 から 財 団 法 人「 大 阪 市 博 物 館 協 会 」な どによると、 1583年に秀 吉が築 城 を 始めた大 阪 城は、徳 川 家 康の攻 略により、 1615年 現 在の石 垣( 高さ最 大32メートル、総 延 長11. 2キロ)は、徳 川2代 将 軍の秀 忠 の大坂夏の陣で落城 。天守閣は焼け落ちた。 が再築した。 豊 臣の石垣は地 中に埋められ、 その上に徳川の石垣や新たな天守 閣が造られたと いう 。 大阪城の石垣展示のイメージ図 158 豊臣の石垣の一部が初めて確認されたのは1959年 。 堀の水が干 上がった際に市が地 盤 調 査 をしたところ、本 丸の地 下 約7メートルか ら見つかった。翌60年に幕 府の大工頭の子 孫 宅で発 見された豊 臣 時 代の本 丸の 図 面とも一致 。天守 閣 前の広 場に見 学 用の穴( 直 径 約3メートル、深さ約10メー トル、普段は非公開) が設けられたが、 それ以外は埋め戻された。 市は、来年度予算案に調査費数百万円を計上する。豊臣時代の石垣は、加工し た石 を 積み上 げた徳川 期のものとは違い、自 然石 を 多 用した3段 構 造 。ま ずは、 85年に現天守 閣の南 東 約100メートルで発 見された旧 本 丸の最 上 段「 詰(つ め) の丸」の石垣の調査を始める。 「詰の丸」の石垣は現在の天守閣と旧市立博物館(真ん中上) の間に埋まっている。 初 代天守 閣は現天守 閣より左 側 約100メートルにあった= 大 阪 市 中 央 区、本 社 ヘリから、矢木隆晴撮影 る計画(総事業費13億5千万円)も構想している。(島脇健史) 豊臣秀吉像(部分) =大阪城天守閣提供 大阪城の本丸 の地 下 室 から 深 さ 約 将 来 的には、本 丸 内にある旧 市 立 博 物 館(01年 閉 館 ) 10メートル、全長約100メートルの地下通路を造り、豊臣の石垣を常時展示す 二〇一〇年 一二月 二一日 これを機 会に、「 秀 吉が築いた城 」の全 貌を正 確に復 元 するプロジェクトも、 ぜひ立 ち上げていただきたいものです(津川)。 159 大阪市「水都再生」事業 16年ぶり 本格着工 より) (yomiuri online れた」として計画反対の陳情書の不採択を決め、本格着工に道筋がついた。 さらに1メートル掘り下げるなど計画を一部見 市は工事再開に向けて、昨年末、 直した 。地 元 住 民からは反 対 署 名が提 出されたが、市 議 会は「一定の配 慮がなさ から見直しを求める意見があったため、 工事は中止されていた。 をまとめた。しかし住 民から臭 気などを 理 由に反 対の声が上がったほか、市 議 会 ルの地 中に鉄 筋コンクリート製タンク ( 貯 留 量2万 立 方メートル)を設 置 する計 画 滞 水 池は、降 雨 時の下 水 を一時 的にとどめ、雨があがった後に処 理 場に送る施 設 。1994年に事 業 認 可され、市は長 堀 抽 水 所(同 市西区 ) の深さ約14メート で、「水都再生」に向けた2大浄化対策プロジェクトが始動する。 円で、 2018年 頃の完 成 を 見 込む。大 規 模 下 水 道「 平 成の太 閤 下 水 」も 建 設 中 計 画を見 直し、国の事 業 認 可から16年ぶりに本 格 着工した。総 事 業 費は46億 大 阪 都 心 を「ロ」の字 形で囲む水 都のシンボル「 水の回 廊 」の水 質 を 改 善 するた め、大 阪 市は、地 元の反 対で頓 挫していた下 水 貯 留 施 設「 滞 水 池 」 (西区 ) の当 初 160 土佐 堀川、堂 島川の5河川で形 成 。遊 水の回 廊は木 津川、東 横 堀川、道 頓 堀川、 覧船が行き交い、大阪観光の名所となっているが、河川の透明度は低い。 このう ち、木 津川では、雨 量が下 水 処 理 場の能 力 を 超 えると、汚 水 を 未 処 理の まま 放 流 。水の汚れを 示 すBOD ( 生 物 化 学 的 酸 素 要 求 量 )は、汚 水の吐 き 出し 太閤下水 現在も活用されている太閤下水の内の約七キロは現在、 大阪市指定文化財になっています。 口付 近で一時、環 境 基 準の20倍 近 くになっていたが、滞 水 池の整 備により、汚れは 10分の1になるという 。 指して進 行 中 。市は「 美しい水 辺 を 取 り 戻し、 にぎわいづく りの核にしたい」と期 道 頓 堀川と東 横 堀川については、地 下50メートルにトンネルを造り、汚 水が川 に流れるのを防ぐ「平成の太閤下水」 (長さ4・7キロ) の整備が13年度完成を目 待を寄せる。(2010年11月19日 読売新聞) 以下に抜粋して再掲します 。 「太閤下水」については、 2009年1月22日付け当ブログで紹介しています 。 ロンドンより 早かった!太閤さんの下水道 ロンドンで下 水 道が整 備されたのは十八世 紀以降 。ところがさすがわれらが太 閤さんです 。大 阪 城 築 城 を 開 始した天正 十一年(一五八三年 ) にはそれと並 行して 壮大な街づくりに着手しています 。その折に下水溝も設けられました。道 路と下 水溝を縦横に巡らせた世界でも最先端をゆく街づくりだったわけです 。 161 宣 教 師フロイスは「四十日間で七千 軒の家が建った。工事には当 初二~三万 人、 その後は五万人が従事した」と耶蘇会「日本年報」に記しています 。 その頃の町は北 向 き、南 向 きの二軒 を 背 中 合わせに建てるやり 方 。その二軒の間 を下 水 溝が流れていました。ということでこの太 閤 下 水のことを背 割 下 水とも呼 びます 。 には太 閤 下 水の百二十キロの水 路を対 この下 水 溝は明 治二十七年(一八九四年 ) 象に工事が行われ (底にコンクリートを打って蓋をして)暗渠になりました。 いまで もその二十キロほどは市 民のライフラインとして使われているのです 。強 固な石 垣 で護岸されているので、あと数百年は持つだろうともといわれています 。(平野) 二〇一〇年 十一月 二五日 太閤下水見学施設 八軒家から熊野街道を南へ十五分ほどのところに見学施設もできています (南大江小学校正門横)。 162 倭の五王が愛した須恵器 今年の四月に難波宮跡(大阪市中央区) から、初期須恵器を焼いた窯(上町谷窯) 箇所ほどしか見つかっていません。 が二基 見つかりました。 いずれも五世 紀 前 半のもので、 この時 期の窯は日 本で一〇 窯跡のあった上町台地北端(下の写真) は、後に難波宮が築かれる重要な場所 。古 墳 時 代、法 円 坂 倉 庫 群に先 行 する施 設がこのあたりにあり、そこへの供 給 を目 的 上町谷一・二号窯(南東から 写真奥が一号窯) 調査地の位置と周辺の地形 寺井誠2004 「難波宮成立期における土地開発」 『難波宮址の研究』第十一 所収図を改変 として上町谷窯が築かれた可能性が指摘されています 。 寺井誠2004「難波宮成立期における土地開発」 『 難波宮址の研究 』第十一 所収図を改変 高 津 宮も、実はこのあたりにあったのではないか・ ・ ・ ・ ・これからの発 掘 調 査が楽しみ 五世紀 前 半といえば、倭の五王の時 代 。 いまだに所 在がはっきりしない仁 徳天皇の です 。(津川) ※引用はすべて、市村創「上町谷の発見」 『 葦火 』 一四八号・ 一四九号より(写真・図も)。 二〇一〇年 十二月 十七日 163 災害教訓の伝承 本日付け(二〇一 一年一月七日)毎日新聞夕刊(関西版) から。 阪神大震災16年:災害教訓、冊子で伝承 中 央 防 災 会 議、 25記録まとめ 大 阪 市 浪 速 区の大 正 橋 東 側に一つの石 碑が建つ。大 阪 を 襲った安 政 南 海 地 震の 津波被害を伝える碑で、地震の翌年(1855年) に建立された。 ◇安政地震「津波、 同じ過ちで死者」 い世代に読んでほしい」と話す 。【 堀江拓哉 】 (1990~95年 )まで25の災 害 。事 務 局の内 閣 府の担 当 者は「 将 来を 担 う 若 たのは、安 政 東 海・南 海 地 震(1854年 )など江 戸 期から近 年の雲 仙 普 賢 岳 噴 火 たちの思いを、今 春にも 冊 子にまとめ、全 国の図 書 館などに配 布 する。取 り 上 げ 全 国に残る災 害の教 訓 を 将 来に役 立てようと、国の中 央 防 災 会 議の専 門 調 査 会が取 り 組んでいた掘 り 起こし作 業が終 了した。 「二度と繰 り 返 すな」との先 人 164 「148年前の地震(宝永地震・1707年) でも船に乗った人が大勢津波で死んだ が、言い伝 えを 知る人が少なくなり、また船に乗って同じ原 因で死 者 を 出した」 「大地震の時は決して船に乗ってはいけない」。当時の教訓が刻まれる。 また、碑は「いつまでも読みやすいように毎 年 文 字の上に墨を入れて黒 く 塗って ほしい」と、継承の大切さも訴えている。 安政南海地震の津波被害を伝える石碑=大阪市浪速区で 「阪 こうした災 害の教 訓や言い伝 えは各 地に残るが、中 央 防 災 会 議は03年、 神 大 震 災のような被 害を二度と繰り返さないために、過 去の災 害から学ぶことが 大切」として、「災害教訓の継承に関する専門調査会」を設置した。 25の災 害の報 告 書とともに普 及 版としてと 以降、各 地の記 録 を 掘 り起こし、 りまとめたのが、今 回の冊 子だ。災 害を「 海 溝 型 地 震・津 波 編 」 「内陸直下型地震 編」 「火山編」 「風水害・火災編」の4編に分類した。 大 阪・大 正 橋の石 碑は「1854安 政 東 海 地 震・安 政 南 海 地 震 」の項に登 場 。豪 商が自 分の田の稲 束に火 を 付 け、海 辺の村 人 を 高 台に集めて津 波から救ったとい う 故 事「 稲むらの火 」とともに取 り 上 げられ、 「いま 大 阪に住む人は、 この石 碑の 建立者の教訓と重い意志に応えることができるのであろうか」と問いかけている。 冊 子は今 後、中 学 校や高 校の防 災 教 育に活 用 。ウェブ上でも公 開 する。また、小 学生でも親しめるように、被災者の声を集めた体験集も取りまとめる予定だ。 165 上げています 。ご一読を。 『 浪速っ子を震え上がらせた大地震と津波の話 』 http://www.hachikenya.org/main/#/10051 二〇 一一 年 一月 七日 この記事で紹介されている安政南海大地震は、『八軒家かいわいマガジン』 でも取り 経験から導き出された教訓を将来の防災に生かしてほしい」と話している。 とが大切 。 専 門 調 査 会の座 長 を 務めた伊 藤 和 明・NPO防 災 情 報 機 構 会 長は「 災 害は起 きる間 隔が長いからこそ、それぞれの地 域で過 去にあった災 害 を 認 識しておくこ 166 大阪人はサントリーを飲も う! 会見で記者の質問に答えるサントリーホールディングスの 佐治信忠社長=大阪市内で2011年2月8日、植田憲尚撮影 毎日新聞(2011年2月9日) より サントリー:「死ぬまで本社は大阪」佐治社長 サントリーホールディングス (HD) の佐 治 信 忠 社 長(65)は8日の会 見で、 「 私が 死ぬまで本 社は大 阪に置 く 」と述べ、本 社 を 当 面 移 転 しない方 針 を 明らかにし た。相 次 ぐ 大 阪 発 祥 企 業の本 社 移 転に対し、佐 治 社 長は「(サントリーも)将 来 的 示した。 にはシンガポールやニューヨークに移した方が効 率 的かもしれない」と一定の理 解を 転を判断すべきでないとした。【 植田憲尚 】 しかし、「何でもかんでももうかったらいいわけでもない」と述べたうえで、「大阪 で生まれ育ったことを大 事にする精 神があってもいい」と、経 済 効 率だけで本 社 移 ここまで言われたら、 もうゼッタイ、飲むならサントリーやね (津川=下戸です)。 二〇 一一 年 二月 一〇日 167 難波宮の壁土 中 央 区 森ノ宮 中 央二丁 目で行った調 査で、前 期 難 波 宮のものと考 えられる大 量の 壁土が出土しました。白壁が使われるなど、宮殿は荘厳であったようです 。 詳しくは同誌「宮域当方の谷より、前期難波宮の壁土が大量に出土」(大庭重信) をご覧ください。 『 葦火 』 のお求めは左記で 文化財の出版刊行物(大阪文化財研究所) ( 津川 ) 二〇 一一 年 二月 一七日 大阪市文化財情報『葦火』一五〇号(二〇一一年二月一日発行) の表紙を飾る 「難波宮跡で見つかった壁土」 168 記号論としての大阪の歴史 『プリンセス・トヨトミ』を読む 『プリンセス・トヨトミ』万城目 学(文藝春秋 二〇 一一 ) ご無沙汰です! 最 近「プリンセス・トヨトミ」を 電 子 書 籍で読みました。大 阪の歴 史に少しでも 興 味があるものにとっては、面 白いですね!○○さんは最近大阪のこういう歴史にも 関連する活動をされているようなので、 メッセージを送りたくなりました。ひょっと して、「大阪国」の幹部だったりして? ちょっとレビュー的なものを書いてみました… 。またいろいろ教えてください。 (Masa Fukata) されている本の中で面 白そうなタイトルだったので選んでみた。 この著 者の前 作であるベストセラーは読んではいなかったが、電 子 書 籍として出 版 とにかく、面 白い。テンポのいいストーリーテリングで語られるその物 語には、記 号 論としての大阪の風物がふんだんに折り込まれている。 その一つ一つが面 白く懐かしい。 169 なミステリーの山場はもちろん豊臣時代 。 古 代から飛 鳥・奈 良 時 代の難 波 宮や四天王 寺の時 代に続 き、次に来る大 阪の大 き ここが国際港湾都市であったことは想像に難くない。 に建てられているのが四天王 寺 。中 国・朝 鮮からしき りに文 化 輸 入 を 図った当 時、 ら「坂」で海に面していたこと。その坂が「大坂」の「坂」。その海辺の中心的な位置 されていたこと。上 町 台 地の東 端の難 波 宮が大 阪では一番 高い位 置にあり、そこか り 上 げられていた。 いわく、大 阪の町は標 高が高い東 側が「 上 」とされ住 民に認 識 例えば「上町台地」は最近になって、 なぜ「上」なのか?と言う問題がネット上で取 ある。近ごろそういう大阪の秘密がごろごろボクの目に留まるようになってきた。 があってもおかしくない。というより、 これに限らず他にももっともっとありそうで そ ういう 非 常にユニークな文 化 圏である「 大 阪 」には、 これぐらいの「 公 然の秘 密 」 ということが今までの人生で何度ともなく起こった。 「大阪で生まれ育った女の子なら誰でも知ってるで」 「そんなすごいこと、 なんでメディアで取り上げられていないのに知ってるの?」 らったことばかりである。 とっては、 これまでつき あいのあった 大 阪 生 まれの女の子 達に何 気 な く 教 えても 大 阪 人ではなく 京 阪 神の周 辺の都 市で生 まれ育ったボク (神戸人) のような者に 瞬間に語り継がれている不思議な小ネタばかり。 ネタバレになるので挙げないが、大 阪で生まれ育った人にとっては人 生のいろいろな 170 この小説がそこからさらに現代につながるストーリーに仕立てているのは大 阪の歴 史を知るものにとって、大 変ロマンを感じるところである。小 説の中に触れられてい る大坂城の堀の配置や真田山についてもまだまだ怪しさは格別である。 個 人 的には、豊 臣 時 代の次に来る大 阪の次のミステリーの山 場は、明 治 維 新 後 第 えば、 天六に作られた巨 大なターミナルビルであり、近 年 残 念なことに解 体された 二次 大 戦までで、近 代工業 化 社 会の到 来に合わせて様々なネタが転がっている。例 京 阪天六ビル。京 阪が梅田に乗 り 入れる計 画があったことを 示 唆 する天満、桜ノ 宮、京 橋の駅 付 近の土地 利 用 。旧 京 橋 駅がもともと東にあったことを示 す 商 店 街 する赤レンガの化 学 分 析工場 跡 。なぜか1980年 代 まで開 発されなかった大 阪 の立 地 。さらに日 本 陸 軍 大 阪 砲 兵工廠が置かれた大 阪 城 周 辺 。立 入 禁 止で現 存 砲 兵工廠 跡 地( 現OBP)。この歴 史については今でも 多 くが明らかにされていな い。 というわけで、片っ端から大 阪の怪しい歴 史に触れているこの物 語は、大 阪と言 う町のユニークさの原点としてこの秘密の存在を匂わせている点が大変興味深く、 またこの物語に出てくる人名などの固有名詞、大阪の歴史文物などすべてが記 号 論的に何かを示唆しているなど、 二重三重に楽しめる内容となっている。 二〇 一一 年 七月 一四日 やっと出てきた大 阪についての歴 史エンターテイメント 近 年の歴 史ブームもあり、 小 説 。特に京 阪 神で生まれ育ったか、または人 生の一時 期 大 阪で過ごしたことのあ る人には大変楽しめる物語と思う 。 171 蘭学者見立番付 植 草 甚一もクリビツの江 戸スクラップ全 十六巻 本日公 開の 『 八軒 家かいわいマガジ ン』 の最 新 号( 通 巻三十八号 ) 「 大 坂の蘭 学の祖は傘 職 人の息 子だった!― 橋 本 宗 吉 物 語 ― 」、もうお楽しみいただけましたでしょうか? (まだの方は、 以下、ネタば れに注意してお読みください)。 ( 旧 暦 十一 今 回の記 事の柱になったのは、名 高い大 槻 玄 沢 邸での「おらんだ正 月 」 月二十 六日 ) の宴の余 興に配られた「 蘭 学 者 見 立 番 付 」という一枚の番 付 表です が、 この現 物が『 芸 海 余 波 』と題されたスクラップ・ブックにほぼ完 全な形で保 存さ れています 。 代に製 作された貼 込 帖(スクラップ…ブック) で、全 部で何 巻 あるのか不 明ですが は、江戸時 『 芸海余波 第十巻 』 に貼りこまれた「蘭学者見立番付」『 芸海余波 』 十六巻が現 存していま す 。 一枚 刷 りのチラシや引 札、地 図、暦、番 付や版 画、珍しい と思われた商標類などを、あたりかまわず貼り込んであります 。 図書館が、「確堂文庫」の蔵書印のあるほかの幾多の書物とともに購入した。 現物を早稲田大学図書館が蔵しており、 その解説には 昭和23年に早稲田大学 『芸海余波 第十巻』に貼りこまれた「蘭学者見立番付」 172 この貼 込 帖 自 体には蔵 書 印や所 蔵 者 をしめす 記 録はないが、 これも「 確 堂 文 庫 」 にあったものと考 えられている。確 堂 とは美 作 国 津 山 藩 主 松 平 斉 民(1841~ 1891) のことで、彼がみずから収集した資料を貼り込んだものであると推定さ れる。 本 書にあつめられた雑 多な資 料は、寛 政 年 間より 幕 末にかけてのもので、西 洋 あるいは中 国より 渡 来した商 品の商 標や西 洋 版 画の模 写、高 名な蘭 学 者の筆 跡 などが含 まれていることからみても、蘭 学に熱 心だった松 平 斉 民 と津 山 藩に深い かかわりがある。 合データベース」)とあります 。 ROWLAND's 本資料の中には、名高い大槻玄沢邸での「おらんだ正月」の宴の余興に製作され たと思われる「蘭学者見立番付」が含まれている。(早稲田大学図書館「古典籍総 図1、図2いず れ も『 芸 海 余 波 』より 。 左の写 真 左ページ下の「 」はヘアーオイルの広 告 。 ルイス・キャロルのパロディ誌にも出てく MACASSAR oil る有 名ブランドです 。グーグルの画 像 検 索で多 数ヒットするので、 コレクターズ・アイ テムになっているようですが、 こんなに古いもの (レタリング) は見当たらない。 るということは、番付の評価の高さを物語っているのではないでしょうか。(津川) 図1 図2 ひょっとして、 お宝? 寛 政 年 間の番 付 表が、幕 末の斉 民のコレクションに加わってい 二〇 一一 年 十一月 十一日 173 これで覚えた! 四ヶ月で、 四万 語 。 史上名高い波留麻和解、通称『 江戸ハルマ』 である。 『 江戸ハルマ』 Bの巻表紙 ) に成 立したわが国 最 初の蘭 1796 ) が石 井 恒 右 衛 門、宇田川 玄 随らの協 力を得て、 オラ 1759-1811 解 説 : 波 留 麻 和 解(はるまわげ )は寛 政8年( 和辞書である。 蘭 学 者 稲 村三伯( ( ) の著わした蘭仏辞 ンダの出版業者フランソワ・ ハルマ Francois Halma 1653-1722 を底本とし 典 Woordenboek der Nederduitsche en Fransche Taale, 1708 て、 オランダ語の見出し語一つ一つに和訳語をあてたものである。 また、稲 村三伯のものとは別に、 オランダ商 館 長ヘンデレキ・ドゥーフの指 導のもと 年( 1816 ) に、同じハルマの蘭 仏 辞 典 を 用いて中 山 得 十 郎、吉 雄 権 之 助らが文 化 13 に完成させた蘭和辞書を「ドゥーフハルマ」もしくは「長崎ハルマ」と通称し、稲村三 伯のものはこれに対して「江戸ハルマ」と呼ばれる。 「 波 留 麻 和 解 」はその後の蘭 学の発 達や海 外 文 献の翻 訳の進 展に、 おおいに与って 力があり、大きな影響を与えた文化史的意義の大きな資料である。 『江戸ハルマ』 Bの巻表紙 174 たとえば、 オランダ語の「ナトゥール」 ( ) に、もともと中 国 語で道 教 的な意 natuur 味 を 持っていた「 自 然 」という 訳 語 を あてたのも、 この「 波 留 麻 和 解 」においてであ り、西洋 文 明と近 代 文 明 を 受 容してゆく 過 程において、 日 本 語 を 大 き く 変 え、 ひ いては日本人の意識を変える原動力ともなった書物ということができる。 (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」より。 ママ) 同、 Aの部分 。 わが橋 本 宗 吉(一七六三~一八三六) は、大 槻 玄 沢のもとで学び、 たったの四ヶ月でこ 語の構 文さえもマスターしたといいます 。 「 江 戸 版 」と「 関西版 」があり、適 塾の福 の辞 書に掲 載されたほとんどすべて(四万 語 )を ものにしただけでなく、 オランド 沢諭吉は「関西版」を使用したと思われます(津川)。 詳しくは→八軒家かいわいマガジン 同、 Aの部分。 「大坂の蘭学の祖は傘職人の息子だった!―橋本宗吉物語― 」 http://www.hachikenya.org/main/#/10059 二〇 一一 年 十一月 二一日 175 戦国武将・島左近の 屋敷は島町にあった 敷跡」をとりあげております 。以下に再掲します 。資料はすべて、村社さんから頂 ン」上でも【かいわい伝説 】 のコーナーを新設し、 その第一回として「島左近の大坂屋 も 情 報 を 寄せていただきたいとの思いから、 フェースブック「八軒 家かいわいマガジ 裏 付け調 査を進めていきたいと考 えています 。 それとともに、広 く 読 者の方から 信?」と送 り 状の中で村 社さんが控 えめに述べられている部 分について、当 会でも 当 島 町が「 島 左 近 清 興の大 坂 屋 敷 跡であった伝 承?の信 憑 性について期 待 と確 こともせず、 ほったらかしにしておりました。 「 目からウロコ」とはまさにこの事 。会の発 足(二〇 〇五年 )当 時より、そ ういう 伝 説があったことは聞 き 及んでおりましたが、灯 台 もと暗し、資 料 文 献にあたる ました」とあります 。 である島 町に、嶋 左 近 屋 敷の伝 承があることをお伝 えしたく、 ご連 絡させて頂 き ご丁寧な あっと驚く資料が、「平群史跡を守る会」事務局の村社仁志さんより、 送り状を添えて当会に送られてきました。その送り状の末尾には「貴会の所 在地 176 戴したものを引用させて頂きました。改めて御礼申し上げます 。 島左近肖像画。 「帝国人名辞典」 (1907)所収(ウィキペディアより) ! ? 家 を 建つ ( 伊 勢 阿 漕 辺の人 故に伊 勢 屋と称せり )。今の幼 稚 園 東 半 分の土地にあ 【かいわい伝 説 】島 左 近の大 坂 屋 敷 跡 : 松 屋 町より 東 を 島 町 という 。この地は 以 前 沼 地にて芦 繁 茂し、最 初、尾 黒 七郎 右 衛 門 氏の祖、 この土 地 を 得、芦 を 分 け たる。豊臣時代に一丁目二丁目半に至る北側に島左近の屋敷及び今の幼稚園西半 に知恩院の一部、華頂宮の金銀貸付屋敷あり。 尚いわゆる島 町 通 りは高 麗 橋よりの貢 物の使 者の通 路であったという(『 北 大 江 内 方 法 印ノ娘一段 孝 行、左 近 陣 立ルスノ間 越 了 」を今一度 考 えるに、英 俊が「一段 孝 明歴三年(一六五七) 「 新版大坂之図」部分 の記 述Aの後 半 部 分「 嶋 左 近ノ 沿 革 史 』(1921年 ) より抜 粋 )。『 多 聞 院日記 』 行 」と表 現 するくらいであるから、北 庵の娘は結 構な道のりを「わざわざやって来 た」のであろう 。 つまり左近夫妻は南都からある程度離れた場所に住んでいたと思われる。記録B の天正二十 文( 禄 元 年) 四月 十日の時 点では「 今 江 州サホ山ノ城ニアリ」の通 り、左 近夫妻は佐和山城に居住していたと見て良い。しかし「今」という文字が付けられ とすれば、 天正 十八年の時 点ではまだ佐 和 山には居 住していなかった可 能 性が高 ており、 まだ佐和山に住んで間がないように思える。 または大坂にいたのではないかと考えたい。そうなると、屋敷は秀吉から与えられ い。現時点では推測の域を出ないが、 これらを併せ考えると、左近夫妻は当時京都 ていると見るのが自然である。 177 するのかもしれない。(以下略)。(『日本歴史地名大系 』) 改めたとある。島町は「蘆分船」などに島屋町とあるので、開発商人の屋号に由来 六年、元 禄六年 水 帳 奥 書 写( 同 上 ) には三丁 目から一丁 目に改 称したため水 帳 を 図には延宝九年(一六八一)町名改正とあり、大坂町内之内町名替り候写には元禄 島町が東から一丁目・同二丁目となった時期について、元禄六年(一六八八)増補大 坂 大阪市立中央図書館蔵) によれば当時当町は島町三丁目であった。 郷町絵図では西から一―三丁目の区別があり、 同年水帳奥書写(安政三年「水帳」 面 写はもと島 町には丁 目がなかったように記 すが、明 暦 元 年(一六五五) の大 坂三 島 町一丁 目( 現 )東 区 島 町一丁 目 石 町の南にあり、谷 町一丁 目と同二丁 目の間を 通る高 麗 橋 筋 を 挟む堅 町 。東から南 北の善 安 筋・高 蔵 筋が通る。初 発 言 上 候 帳 しままちにちょうめ 【島 町一丁目 】大阪府:大阪市/東区 日-本歴史地名大系 3. 『 日本 歴 史 地 名 大 町二丁 目 】大 阪 府 : 大 阪 市 / 東 区 日-本 歴 史 地 名 大 系 出 典の 系』 では、島町一丁目は次のようになっています 。 しままちいっちょうめ 【島 町 】愛知県:岡崎市/岡崎城下 日-本歴史地名大系 2. しまちょう【 島 検 索 すると以下の項 目がヒットします( 項 目のみ。引 用 文 略 )。1. 以下は、当 会の ( 現 時 点での)追 加 資 料および見 解です 。 ヤフー辞 書で「 島 町 」を (以上 引 用 終 り ) のもとへ (1)」→「石田三成の所在」より抜粋)。 これらとの関連も今一度注 近の屋敷があったとされる島町 大( 阪市中央区 が)あり、 目されよう(『 戦 国 浪 漫 』( 坂 本 雅 央 ) 「 嶋 左 近 」→「 徹 底 追 跡 嶋 左 近 」 「石田三成 加 えて京 都 東 山には現 在 左 近の屋 敷 跡と伝 えられる料 亭「 道 楽 」が、大 坂には左 178 明 歴三年(一六五七) 「 新 版 大 坂 之 図 」部 分 島 左 近 伝 説に早 くも暗 雲が立ち始め ました。まず、 この雲「島町=島屋町説」から吹き飛ばしておきましょう 。 夏の陣で荒 廃した大 坂の復 興のため、大 坂 城 城 主となった松 平 忠 明は、信 望 厚 い有 力 町 人 を 元 締 衆 として、彼らに町 割 り をさせ、また 各 町の町 年 寄には水 帳 は、元 締 衆・町 年 寄りは、元 和二年(一六一六) に忠 明から惣 会 所を与 えられ、再三に (土地 台 帳 )を作らせました。宝 暦三年(一七五三)作 成の 『 初発言上候帳面写 』 に 徳川大坂の最初の町名は、住人たちが協議して決めていたようです 。 わたって寄りあい協議したとあります 。 蘆分船:難波名所 大坂鑑巻1 大江岸 大江浦 「 難 波 名 所 記 」ともいいます 。著 者 島 町 = 島 屋 町 説の 『 蘆 分 船 』は、別 名 大 「 坂鑑」 は一無 軒 道 治(いちむけん どうや) で、延 宝三年(一六七五) に刊 行されました。内 容は大 坂および近 郊の名 所・旧 跡・社 寺などについての記 述が七二項 目にわたって なされ、 それぞれに挿絵も添えられています 。 六巻六冊からなる大坂最初の本格的な名所案内記です(大阪市立図書館)。 大 江 岸 大 江 浦 。大 江 橋などと歌にもよめり 。しかれども 。所の人の説 。くだくだ とせるなるへし 。昔日 。斎 宮はしめて。伊 勢へく た り 給ふ時は 。逢 坂 を 越 させ給 しく 侍れは。 いづこを 。証としかたし。今の真 清 水より 。御 城の前 あたりを 。惣 名 う 。帰 京のときは。かならず 。さだまりて。立田越 を 経て。大 江の岸 を 。とまりと す 。(略) 179 があります 。 け止めたのが、後に島 町となる通りに店を開いていた豪 商「 島 屋 」であった可 能 性 しかし、左 近の屋 敷があった事 実は後 世に伝 えたい― そんな町 人の熱い思いを 受 れます 。 石田三成の一の家 臣である島 左 近の名の継 承は望むべく もない状 況だったと思わ 幕 府は豊 臣 時 代の痕 跡 を 完 全に消し去ろう としていたように見 受 けられま す 。 築 城( 豊 臣 大 坂 城 を一〇メートルも 地 下に葬った)例 を 見てもわかるように、江 戸 は夏の陣の翌年です 。大坂の町 徳川の治世になったとはいえ、元和二年(一六一六) はまだまだ豊 臣びいきに満 ち 満 ちていたと思われま す 。ところが、徳 川 大 坂 城の これが「島左近伝説」と矛盾するかといえば、全然そんなことはありません。 から「島町」と決めたとしてみましょう 。 屋説はもろくも崩れ去りました。 百歩譲って、元締衆・町年寄が、「島屋」があった に、豪 商の屋 号「 島 屋 」をもって通 称したと考 えるほうが自 然でしょう 。島 町 = 島 (一六五五) の 『 大 坂三郷 町 絵 図 』 にはすでに島 町の町 名が記されいることから、後 あった か ら「 島 屋 」を 名 乗った と も 考 え ら れ ま す 。前 述 のよ う に 、明 暦 元 年 江 戸 時 代を通じて飛 脚 問 屋は、交 通の便の良い八軒 家 周 辺に集まっていました から、「島屋」が「島町」にあったとしても不思議では無いのですが、逆に、「島町」に (『 新修大阪市史 』第三巻)とあります 。 らと謀り、両地間の金銀貨の逓送を開始し、金飛脚の看板を掲げた と、寛 文 十一年(一六七一) に大 坂の飛 脚 問 屋「 島 屋三衛 門 」が江 戸の備 前 屋 与 兵 衛 『 日 本 歴 史 地 名 大 系 』にある「 開 発 商 人の屋 号 」を、当 時の記 録から探 してみる 180 そうであれば、明 暦三年(一六五七) の地 図( = 前 掲 ) が「 志まやまち」と、通 称をわ ざわざ記している説明がつきます 。 「 島 町 という 町 名は島 左 近の屋 敷 跡から採ったものではあ りませんよ。島 屋から 採ったものですよ」というように。つづきます(津川)。 二〇 一一 年 十二月 一五日 181 大水都史を編み 後世に伝える会 発 行
© Copyright 2024 ExpyDoc