Masaharu’s Personal History(記憶が定かでなく不確かなところがあります) 年 1941 (S16) 個人の出来事 3 月 7 日、誕生(西宮) 世の中と学校の動き 12 月 8 日、太平洋戦争開戦 父の死、母は宮城の実家へ 尼崎に転居、その後、祖母に育てられる 1945 (S20) 1947 (S22) | 空襲により自宅焼失 3 月 13 日、大阪大空襲 母親の実家に疎開 8 月 15 日、終戦 大阪市塚本町に転居 新学習指導要領制定(手引き) 大阪市立塚本小学校入学 1948 年、日本国憲法公布 1950 (S25) | 1953(S28) 尼崎市に転居 立花小学校における学年の指導方針 尼崎市立立花小学校に転校(4 年生) ・担任団の連携、教師の裁量大 ・浜崎昭先生との出会い ・生活綴り方、読書の奨励 ・作文と読書が好きになる ・理科教育を重視(モーターや乾電池づくり ・数学は苦手 など) ・病弱のため体育はほとんど見学 ・系統学習、習熟度別指導による算数・幹事 などの基礎学力強化 ・厳しい生活指導(体罰もあった) 祖母の死、その後、伯母夫婦に育てられる 1951 年、学習指導要領改訂(拘束力強化) 1952 年、サンフランシスコ平和条約 1950 年-1953 年、朝鮮戦争 1953 (S28) | 1956(S31) 尼崎市立立花中学校入学 テレビ放送開始 中 1、伯父の勧めで英語の通信教育を受講(レ 学校図書館法成立 コードによる発音指導に重点) 中 2、社会科研究部に入部 学校のカリキュラムの一環として、社会見学 ・郷土史調査で尼崎市立中央図書館を利用 (新聞社、裁判所) 、炭焼き実習などが行わ (その後、しばらく図書館通いが続く) れた。 ・新聞づくり 中 3、放送部の顧問から入部を勧められる ・テープレコーダーによる編集技術を習得 1955 年、東京通信工業(1958 年に社名を「ソ ・名月姫伝説をもとにラジオドラマを制作 ニー」に変更)が普及型テープレコーダーを クラス対抗バレーボール大会で活躍 開発(国産初のテープレコーダーは 1950 年) 中 3、国語の模試で学年 1 位 中 3、英語「発音だけは良い」 1956 (S31) | 1959(S34) 兵庫県立尼崎北高校入学 学習指導要領改訂 吹奏楽部に入部(トロンボーン) 尼北は、自主・自立・協調を重んじる自由な 友人とともに芸術鑑賞部を創部 校風 ・クラシックからジャズまで音楽三昧 ・通信教育により楽典と指揮法を学ぶ (音痴コンプレックス解消のため) 『言葉の魔術』 (講談社)を読む 1959 (S34) | 1963(S38) 京都外国語大学入学 皇太子(明仁天皇)ご成婚 ・授業でナーサリーライムを習い、英語の音 1960 年、新日米安全保障条約締結、60 年安 韻に関心をもつ 保闘争 ・英語学、言語学、言語論に関心をもつ(伝 1961 年、学習指導要領改訂(系統性を重視 統文法、構造言語学、ソシュール、ヴィゴツ したカリキュラム。強制力が強まる) キー、N・チョムスキーなどを読む) ・近所の子どもを集めて英語塾を開く ・デモに参加するが、すぐに発熱(→安保情 報の収集と整理に専念) 1963 (S38) | 1965(S40) 兵庫県立氷上農業高校教諭 ・テープレコーダーによる音声教材開発 1964 年 ・文部省教育研究集会(県代表) ・東海道新幹線開業 ・摂丹模試(県下一斉模試)出題委員 ・東京オリンピック 【人生と教育観に影響を与えた出会い】 ・八代学院高校、「朝日ジャーナル」 (11 月 ・農業、畜産、農芸化学の教育活動 29 日)に教員募集広告を掲載(大段智亮校長 ・図書室 代理) ・C・ロジャーズのカウンセリング理論 1965 (S40) | 1967(S42) 12 月、兵庫県立尼崎北高校教諭 母校は受験校の色彩が強くなっていたが、自 県立尼崎高校定時制非常勤講師を兼務 由な校風は維持され新しい教育を模索する ・英語視聴覚教材と指導法の開発 意欲的な取り組みが行われていた。 ・大段智亮著『カウンセリングに学ぶもの』 1965 年、米ベトナム北爆開始 (誠信書房)を読む 1966 年、N・チョムスキー来日。公開講演は 「朝日ジャーナル」に採録された。 1967 (S42) | 1969(S44) 甲南高等学校・中学校教諭 尼北で学園紛争。教師と生徒の話し合いによ ・大塚孝信先生の講義を受講 って、自主カリキュラムの実施、制服や校則 ・放送教育全国大会 の廃止などが行われた。 ・LL の施設、教材、指導法の開発 兵庫県立教育研修所研究員 GDM 英語教授法研究会に入会 ・片桐ユズル氏と出会う 1970 (S45) | 1979(S54) 六甲英語学研究会に参加 70 年安保闘争 英語教育雑誌、辞書などの執筆活動 大阪万国博開催 宮崎隆氏と出会う 1971 (S46)年、学習指導要領改訂(現代化カ ・若手教師による勉強会、カリキュラム改革 リキュラム) に取り組む(自学やモジュラー・スケジュー リングなどの実践校を視察し、検討) 1972 年、沖縄返還 ・梅棹忠雄、川喜多二郎、外山滋比古らに影 響を受ける(情報教育、KJ 法、思考法) ・学級担任のほか、生徒課委員、視聴覚課委 員、学年主任、教科主任など GDM 公開授業、1975(?) ・竹内敏晴氏と出会う 1975 年、サイゴン陥落(ベトナム) つるまきさちこ氏らの「からだとことばの 会」に参加 エンカウンター・グループ活動 1980 (S55) 一般意味論セミナーに参加(カナダ) 1984 (S59) 一般意味論国際会議(at UCSF)で「一般意 学習指導要領改訂(ゆとりカリキュラム) 味論と般若心経」を発表 1988(S63) | 1989(H1) 在外研究。カリフォルニア州立大学ソノマ校 リチャード・ポールのもとで「クリティカ 平成元年 ル・シンキング教育」を研究 1993 年より国際交流センター運営委員、中 1992 (H4)年、学習指導要領改訂(学習内容 高会議員など の削減) 1994 (H6) 図書課長と視聴覚課長を兼務 1995 (H7) 被災生徒への対応、入試の実施、授業再開、 阪神淡路大震災。甲南は、校舎全半壊。 新校舎建設、募金活動などに追われる 2 年間、仮設校舎での授業 1997 (H9) 新図書館の運営(別資料参照)に携わる 新校舎完成 2001(H13) 8 月、IFLA ボストン大会に参加 9.11 米国同時多発テロ ニューヨークの図書館やボストンの学校図 書館などを視察 2002 (H14) 課長職を辞す(4 期 8 年間) 学習指導要領改訂(教育内容の厳選、 「生き 学年主任、教員会議議長、中高会議員など る力」、 「総合的な学習の時間」の新設) この年から滋賀大学司書教諭講習講師 2003 (H15)年、12 学級以上の学校で司書教 第 1 回学校図書館ジャムセッション(大阪) 諭必置 学校図書館 ML sl-shock を開始 2003(H15) 第 2 回学校図書館ジャムセッション(大阪) イラク戦争開戦 第 3 回学校図書館ジャムセッション(東京) 2004 (H16) 2004 年から大阪樟蔭女子大学非常勤講師 ユリア・エンゲストローム著『拡張による学 習』 (新曜社、1999)を読む 「読書へのアニマシオンの集い in 神戸」 2005 (H17) | 2009(H21) 甲南高等学校・中学校を定年退職 引き続き甲南高等学校・中学校非常勤講師 第 4 回学校図書館ジャムセッション(奈良) 第 5 回学校図書館ジャムセッション(神奈川) 2008 年から大阪大学非常勤講師 2009 年から南山大学非常勤講師 第 6 回学校図書館ジャムセッション(尾瀬) 2010 (H22) 甲南高等学校・中学校非常勤講師を辞任 震災後 15 年、安保 50 年 2011 (H23)年、学習指導要領改訂 以上のほか、ヤマギシ会特別講習研鑽会、野口晴哉氏の整体や潜在意識教育法講座、G・ベイトソン著『精神の生態 学』 (思索社、1990)、半田智久著『知能環境論』 (NTT 出版、1996)、大阪府立松原高校の実践(菊地栄治著『進化す る学校、深化する学び』 (学事出版、2000)、ユリア・エンゲストローム著『拡張による学習』 (新曜社、1999)などか らも多くを学んだ。これまでに出会ったすべての人たちや書物から受けた影響は計り知れない。
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