記述研究の可能性

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記述研究の可能性
東インド・サンタル語を巡って
峰岸 真琴
はじめに
小論は,民族学博物館共同研究プロジェクト「危機言語に関する予備的研究」の研究
発表会におけるコメントに加筆修正を加えたものである。当日は時間の関係で,言語
記述とその一般化の問題を中心に発表したが,このプロジェクトに関連して筆者の行っ
た調査,研究開発活動について特に加筆したことをお断りしておく。
現地調査と共同研究・開発について
サンタル語調査:サンタル語はインド東部のJhar㎞and州とその周辺で用いられる
少数民族語である。使用人口は500万人以上で,本プロジェクトで問題とされるような
直接消滅の危機に瀕している言語とは異なっている。しかし,インドにおいてはヒン
ディー語を公用語化しようという長期的政策により,特に北部から東部にかけてのいわ
ゆるヒンディーベルトでは地方語,少数民族語に対するヒンディー語の圧力が高まって
いる。このため,使用人口が多いからといって,ただちに安泰な言語であるとはいえな
いというのがインドの状況である。
筆者は1989年以来断続的にサンタル語の調査を続けてきたが,2001年3月にその成果
Minegishi and Mu㎜u(2001)を共著の形で出版した。これはAA研の基礎語彙調査
票のうち,前半1000語余りの基礎語彙に文法…接辞などの用例を加えたものである。語彙
が少ないのは,ある程度抽象的な語彙になると,ヒンディー語やベンガル語などの借用
が多くなるためで,これはサンタル語の語彙が,ヒンディー語に置き換えられていく可
能性を示しているとも言えよう。
ジャルカンド州の独立
ジャルカンド州は2000年11月にビハール州南部が自治州として認められ,独立したも
のである。ビハール州とその周辺の西ベンガル州,オリッサ州,マディアプラデーシュ
州に住むサンタル人,ムンダ人などの少数民族は,この地域の先住民としての権利を主
張し,自らが主体となる独立州を獲得することは長年の夢であった。しかし,その実現
はきわめて困難とも考えられてきた。ところがビ回田ル州における政治情勢の変化も
あって,ひょうたんから駒というべきか,思いがけず独立を果たしてしまったのであ
る。
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言語について注目すべきことは,結果としてこの新しい州の中では,ヒンディー語に
次いでサンタル語が最大の言語となり,ことによってはこの地域の公用語になる可能性
も生じてきたことである。公用語の地位を獲得するには,辞書,教科書などの整備が重
要である。
サンタル語はこれまで上記の州に分散しており,またこの地に入ったキリスト教宣教
師がローマ字による表記法を作ったため,ベンガル文字,オリヤー文字,ナーガリー文
字,ローマ字で書かれてきた。更に,サンタル人自身が神の啓示を受けて作り出したオ
ルチキ文字もあり,計5種類の文字で書かれている。これが各州のサンタル人の意志疎
通の妨げになってきたことは明らかである。各地のサンタル人は自分たちの慣れ親しん
だ文字を使うことを主張し,合意を見ないが,独自のオルチキ文字を併記することでは
合意しているということである。
ジャルカンド州には現在,政治,経済,文化のあらゆる面において混乱が生じている
が,言語に関しては,放送,出版などのマスメディアに関わる体制の整備がまず急務で
あると考えられる。新たな公用語が制定される可能性が生じるなどということは,イン
ドでもめったにあることではない。今後の成り行きが注目されると同時に,この地に関
わってきた者として,外国人としてなにができるのか,あるいはすべきでないかについ
て,慎重に考えていく必要がある。特に将来を担う子供たちの教育は重要であるから,
長期的な視野に立って,慎重に検討する必要がある。
現地への貢献
AA研を主として行ってきた言語調査の過程で,高島淳AA研教授によるインド系文
字の多言語表記,ソーティング等のパソコンによる処理が可能になったため,上記の
Minegishi and Mu㎜u(2001)では,テキストファイルをperlおよびTEXで処理する
ことにより,ナーガリー,国際音声文字,英語,日本語を混在して印刷することができ
た。ソーティングはナーガリー文字順で行い,英語,日本語の索引も自動的に作成され
る。このシステムをさらに整備することにより,ローマ字でテキストファイルを作成
し,適当な言語・文字タグを入れることで,オルチキ文字を含めたインド二文字と,英
語,国際音声文字,日本語を混在させることができる。またこのシステムはインドのパ
ソコンでも利用できるため,現地研究者のためのハードウェア,ソフトウェア(エディ
タ,perl, TEXなど,無料で提供されているもの)を用意し,使用法を教えることで,
現地で,サンタル人自身の手によって,語彙集,教科書を編纂し,また需要に応じて,
それをオルチキ文字をはじめとする各種インド系文字に変換することが可能になった。
1999年から進行中の特定領域研究『環太平洋の「消滅に瀕した言語」にかんする緊急
調査研究』(課題番;号07041013,代表:宮岡伯人大阪学院大教授)の講演,報告などを通
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峰岸
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じて,言語学者による記述研究の成果を現地共同体へと還元すべきであるとの認識はま
すます強まってきている。
サンタル語の場合,我々外国人によるシステム開発と,パソコン,編集作業の訓練
助言がなお必要であるとはいえ,現地の人たちによる固有言語,文化の保護,発展の基
礎作りが,調査あるいは共同研究を通じてできたのではないかと考えている。我々がで
きるのは,特定のシステムを押しつけることではなく,彼らに選択可能なオプション
と,その選択を判断するに必要な情報を提供することであろう。
言語研究の発展性
記述研究・フィールド調査が現地の文化的搾取.と誤解されないためには,現地の研究
機関との友好的な協力関係を作り,共同研究を通じて互いの理解を深め,成果を共有し
ていく体制を作る必要がある。上記のMinegishi and Mumlu(2001)は,そのささやか
な一歩であるが,この語彙集を基に,サンタル語とその周辺の少数民族言語や地域語の
データを収集することができる。さらに公用語であり,現地の有力語でもあるヒン
ディー語のナーガリー表記を追加することで,現地における現地人研究者による調査研
究がしゃすくなる。これについては2000年度から3年計画で行われる文部省科学研究費
補助金による海外学術調査「インド諸言語の基礎語彙・文法調査研究」(課題番号
12371009,代表:ペーリ・バースカララーオAA研教授)により, AA研語彙調査票の見
直しとともに,引き続き行っていく予定である。
記述研究の理論化,一般化について
言語調査は言語の包括的記述のために行うのであるが,では「記述」とは何か,そのた
めに必要なのはどのような前提・公理系であるかに関して,正面から一般化,メタ理論
化を図った試みは少ないのではないかと思う。しかし,このような問題提起は,言語記
述に一般性,普遍性を与えるためには避けて通れない。あるバイアスがかかった「記述
研究」は,後世から見ればゆがんだ記述,不適切な記述である可能性がある。そこで現
地での記述研究を進める一方で,「言語基礎論」とでも呼ぶべき研究を行う必要性を痛
感し,研究を行ってきた。
峰岸(2000a)は,古典的言語類型分類を数学的,形式的に再定義し,いわゆる孤立
語のように,morphosyntac廿。な形式化,理論化では把握しきれない言語が存在するこ
とを形式的に証明しようとする試みである。中でも一つの文には一つの定動詞があると
いう「定動詞公理」は,屈折語である印欧語の特徴であるが,これが多くの言語理論の
前提となっているため,現実の膠着語,孤立語の分析に障害となっていることを示して
いる。
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峰岸(2000b)は,言語の理論研究と,実証的研究の乖離を問題とし,「言語理論にお
けるサピア・ウォーフの仮説」を提案している。すなわち,言語理論の形成,言語記述
そのものに,屈折語的言語観のバイアスがある,とするものである。
これらはともに,現実言語の実証的研究と,理論化のあり方を問い直す試みである。
終わりに
危機言語に関する研究は,同時に「周縁化された言語文化からグローバル化を見直す
試み」でもある。
今必要なのは,危機に瀕した言語の記述,保存を行うだけでなく,改めてその成果を
一般化し,それを基に新たな理論化を行うという科学的循環の努力である。空洞化し,
「理論のための理論」化しつつある言語理論を刷新する材料は,多様な特性を持つ現実
の言語である。
文 献
峰岸真琴
2000a 「類型論から見た文法理論」『言語研究』l17,101−127。
2000b 「孤立語研究の方向性について」『アジア・アフリカ言語文化研究』60,237−247。
2001b 「言語記述の科学性を巡って一メタ言語理論の試み」『危機に瀕した言語について講
演集(3)』特定領域研究『環太平洋の「消滅に瀕した言語」にかんする緊急調査研究』
成果報告書シリーズC−003,pp.55−67。
Minegishi M。, and G. M㎜u
2001 3σ厩α1’わα3∫01θκ’ooηw娩g召αη2η観”oα1ηo’θ3.246pp. ILCAA, Tokyo University of
Foreign Studies.
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