土木史(近代化への道⑧) 台湾インフラの礎を築いた日本人たち 〜その2〜 現在も地域に引き継がれる偉業 お がた ひで き 緒 方 英 樹* 1.西郷隆盛の子・菊次郎による治水工事 西郷菊次郎という人物をご存じだろうか。 父は、明治維新の立て役として知られる西郷隆盛 である。隆盛は、第11代薩摩藩主・島津斉彬の死後、 海中に身を投じて奇跡的に生還。奄美大島に蟄居さ せられた折り、大島でかけがえのない出会いを得る。 あい が な 名門龍家の島娘・愛加那である。二人の間に生まれ た男子こそ西郷菊次郎である。 写真−1 西郷堤防と宜蘭河 美しい南の島での暮らしは、隆盛の傷心を癒し、 家族仲睦まじく過ぎた。しかし、薩摩藩は、いや時 代は西郷隆盛という風雲児を必要とした。父が呼び れたその年である。 明治28年以降、台湾が日本領となって50年の間、 戻されると、菊次郎は9歳で西郷家に引き取られる。 後藤新平が進めた台湾近代化政策の道筋で、日本か 菊次郎は、鹿児島、東京で勉学の後、13歳になる ら選りすぐりの土木技術者たちが海を渡ったことは と、北海道開拓使が派遣する留学生の一人として米 前号で記したとおりである。だが、土木技師でもな 国へ旅立つ。英語と農業を修学するためだ。後の工 い西郷菊次郎が、誰よりも早く、八田技師の烏山頭 部大学校校長・大鳥圭介が引率していた。 ダム竣工の30年も前に、台湾で治水工事を行ったこ そして17歳の時、菊次郎は西南の役に従軍。士族 とはほとんど知られていない。 による最大の内乱である。薩摩軍を指揮するのは、 外務省に勤務した菊次郎は、明治28年に台湾総督 征韓論に敗れ、政治の表舞台から鹿児島に下野して 府参事官心得、29年に台北県支庁長、30年に台湾の いたカリスマ的リーダー・西郷隆盛だった。米国か 東北部に位置する宜蘭の庁長(知事)となる。宜蘭 ら帰った菊次郎は、父・隆盛が、鹿児島の不平士族 は、海岸沿いまで山地が迫り、南北交通の要衝とし や若者たちのために設立した吉野開墾社で農業や勉 て発展してきた。景勝地として知られるが、比較的 学に励んでいた。やがて彼ら私学校が中心となった 雨の多い地域である。当時の台湾は、土匪(土着民) 大勢力・薩軍は政府軍と壮絶な激戦を繰り広げるこ の抵抗など政情が不安定で宜蘭も例外ではなかった。 ととなる。菊次郎も前線の一兵卒として父とともに さらに、雨期になると宜蘭河がたびたびの氾濫を繰 政府軍と対峙する。だが、政府の最新火器の前にじ り返していた。 りじりと後退、菊次郎は熊本城の激しい攻防のさな ぎ らん ど 菊次郎は、台湾の民の生活様式や習慣を尊重しつ か、右足に被弾。膝下を切断して一命を取りとめる。 つ、インフラ整備を行った。その考え方は後藤新平 やがて鹿児島の城山に籠もった薩軍は政府軍の総攻 や新渡戸稲造よりも先んじていた。そこで菊次郎は、 撃に遭い、最後の銃声は止んだ。父・隆盛は自害。 宜蘭河の氾濫が長年、蘭陽平原の民衆を苦しめてい 父と共に戦った17歳の夏は壮絶に終わった。 ることを知って動く。 西郷菊次郎が西南の役に従軍した後、台湾総督府 菊次郎はまず、民衆の信頼を得る第一歩として、 に勤めたのは明治28年、まさに台湾が日本に割譲さ 宜蘭河の治水を地域住民に説き続けた。地域を水害 *一般財団法人 全国建設研修センター 事業推進室 講習部長 042-300-1741 38 ひ 月刊建設14−12 写真−2 宜蘭河堤防の上に建つ西郷庁憲徳政碑 写真−3 宜蘭設治紀念館(宜蘭市旧城南路力行3巷3号) から守り、流域を灌漑して田畑を潤せば乱れた人心 宜蘭懸史館所属のボランティアガイド・李英茂 も鎮まり、暮らしも豊かになると考えたからだ。し さんによると、菊次郎は日本から一流の大工や庭師 かし、湿地帯に堤防を築くのは難工事である。巨額 を呼んで建てた官邸に、部下や地方名士を時々お茶 の費用もかかる。菊次郎はその熱情で総督府に何度 に招いたという。蘭陽平原の中央に位置する宜蘭市 も掛け合って動かし、事業が着工したのは明治33年 は現在、肥沃な土地と水源に恵まれ、豊穣なコメ所 4月のことだった。 として発達して栄えている。 延べ人数約8万人による工事は、モッコや天秤棒 宜蘭堤防と「西郷庁憲徳政碑」は、台北から宜蘭、 ら とう こっ こう きゃく うん で土や石を運ぶ人海戦術で、杖をついて監督する菊 羅東方面行きの国光 客 運バスに乗り宜蘭新店で下 次郎の姿に人々は心打たれたことだろう。菊次郎は、 車、呉沙路を市内方向に徒歩約3分の場所にある。 従軍した西南戦争で右足を失っていたので、およそ その後、菊次郎は宜蘭庁長を明治35年に退任する。 1年半で竣工後、台風で決壊しないかと真夜中でも その2年後、菊次郎は、児玉源太郎の推薦で京都市 見に行ったという菊次郎の逸話も残る。 長に就任すると、田辺朔郎が完成させた土木の金字 この河川工事で洪水対策を施した菊次郎は、さら 塔・琵琶湖疏水事業の第2疏水の建設とそれを水源 に灌漑による新田開発や道路整備などを行って地域 とした上水道建設、幹線道路を敷いて電気軌道を走 基盤を整えていく。そして、菊次郎が約5年間尽く らせるという三大事業を手がけ、昭和3年、波乱に した後も工事は大正15年まで続けられ、この第2期 満ちた68年の生涯を鹿児島で閉じた。 工事で堤防の総延長は3,740mにもおよんだ。 菊次郎の功績を讃える記念碑が地域民によって建 2.八田技師の先輩・鳥居信平の地下ダム 立され、今に残ることを知る人は少ない。しかし、 八田與一技師が烏山頭ダムを建設した時代に、も 台湾総督となる児玉源太郎、民政長官の後藤新平と う一人の日本人技師が、台湾南部の屏東県で地下ダ 同じように、独自の思想から住民の立場を重んじた ム「二峰圳」を建設、現在も地域の20万人市民の生 近代化政策を実行した菊次郎の業績も、日本の多く 活を支えている事実が解き明かされた。自然環境に の人に伝えるべきことの1つだろう。 配慮した地下ダムの発想が、地球温暖化の深刻な今、 宜蘭河堤防の近くにある宜蘭設治紀念館は、菊次 郎が建てた日本家屋で、歴代地方長官の官邸である。 へいとうけん に ほうしゅう 新鮮味を帯びて注目されている。 とり い のぶへい その技術者・鳥居信平は、八田技師と同じ旧制四 紀念館中庭に立つ樹齢100年のクスノキ保存を契機 高の出身で、鳥居が卒業した年に、八田が入学して に建物が復元・整備された。元々、宜蘭旧城の南門 いることが、金沢ふるさと偉人館に残る四高の卒業 地区に所在するその施設群は、旧農学校校長宿舎や 名簿から判明したのである。その後、二人はともに 旧宜蘭監獄事務室など新たな機能を吹き込まれた歴 東京帝大に進み、台湾に渡って、土木工学を専攻し 史空間として蘇った。〝日台の絆〟を示すモニュメン た八田は嘉南平原に烏山頭ダムを、農業土木を専攻 トとも言えるだろう。 した鳥居は、屏東平原に地下ダムを建設していたの 月刊建設14−12 39 である。 を引くという難題と、それを解決してくれる専門家 水源、土壌など2年がかりの山地調査で鳥居が着 の不在だった。鳥居信平は、東京帝大農科大学の上 眼したのは、屏東平野の海抜15m地点で流れ出る湧 野英三郎教授が育てた第1級のスペシャリストで き水だ。その地下を流れる清廉な伏流水を水源とす あった。その鳥居に、台湾製糖が求めた仕事は、屏 る計画である。川の干上がる乾期に川床を掘り起こ 東平原の荒れ地に水を引いてサトウキビ生産に貢献 ピン トン して堰をつくり、 堰き止めた伏流水を幹線水路3,436m することだった。しかし、その地は、保水力の乏し で導くというものだった。 い大地であった。乾期は干上がって見渡す限りゴロ 自然環境への配慮とは、元々その地に住み着いて ゴロした石の砂漠で、雨期は洪水が一帯を蹂躙して いた原住民・高砂族の暮らしを損なわないことへの 山からの石を無数に運んでくる。水源を探して山に 誠意でもあった。鳥居は、村落を回って頭目たちと 入らざるを得なかったのである。原住民を案内役に 何度も話し合いの場をつくった。狩猟や漁業で生業 した2年間の調査の末、伏流水が海抜15mまで流れ にしてきた先祖伝来の生活慣習を重んじた。原住民 ていることを発見したときの喜びは想像をこえる。 の若者たちも工事に従事して約2年、地下ダム「二 当時は蛮族の支配する地域で、毒蛇とマラリアがは 峰圳」は1923年に完成した。鳥居は、台湾製糖の萬 びこる地帯。山奥に入り、キニーネ(マラリアの特 隆農場だけでなく周辺の農地開拓と灌漑を行って 効薬)を飲み氷砂糖で糖分を補い、蛮族の頭目と酒 いった。 を酌み交わしながら、水利開発に8年間携わった。 に ほうしゅう さらに、鳥居はダム完成後、新農地に移住してき そうして完成した地下ダムは、現在も1日あたり雨 た農民に不公平な格差が起きないように、2年から 期で12万㎥、乾期でも約3万㎥という命の水を供給 3年の輪作給水法を取り入れていたのだ。鳥居が台 している。 湾製糖を退職するまでの25年間で3万ha以上の農 完成から約90年、時の風化が、川の中から地下ダ 地を開拓、乾期にサトウキビ、雨期に米や芋など農 ムの一端をのぞかせている。しかし現在、「二峰圳」 作物の収穫が格段に増えた。八田與一は、その鳥居 の全貌を目にすることはできない。川底の下を流れ が採り入れた輪作法を研究して、嘉南平原の灌漑事 る伏流水を堰き止めて、農業や生活用水に清流を供 業に展開したと見られる。 給する地下ダムだからだ。よって自然環境と景観を さて、鳥居信平は、東京帝大農科大学を卒業した 損なわない。しかし、その機能は、余った水を自動 農業土木の専門家で、農商務省農政局、徳島県技師 的に排水したり、満水時には水門を開閉して調節す など歴任、一転、台湾製糖株式会社農事部水利課長 るなど、きわめて優れた管理システムを有している。 に採用されて、サトウキビなどの生産事業に従事す そうした目に見えない土木の価値と、それを建設 る。同じく台湾に渡った八田與一はその年、台湾総 した技術者の功績を知ってほしいと、2009年、鳥居 督府の土木技師となっていた。 信平の銅像が台湾の実業家・許文龍氏から鳥居の生 ちなみに、鳥居信平の恩師は、農業土木の創始者・ 上野英三郎である。上野が農業土木の祖であること まれた静岡県袋井市に寄贈され、「月見の里学遊館」 玄関口に建つ。 や、東京・渋谷駅前の像「忠犬ハチ公」の飼い主で あることは、あまり知られていない。上野は、東京 帝国大学農学部に農業土木専修を創り、農業土木と いう学問の基礎を築いた。農業と土木を融合させた 考え方や技術をはじめて農業土木という言葉を使っ て学問とした上野の教え子は全国に3,000人以上に 上る。そして、新渡戸稲造の「糖業改良意見書」に 基づいて台湾製糖業は進められていくのだが、1900 年に創業した台湾製糖の悩みは荒涼とした大地に水 40 月刊建設14−12 写真−4 二峰圳 入り口(撮影・越智良典) 3.八田技師の後輩・磯田謙雄の導水路建設 いそ だ のり お 磯田謙雄は、八田與一技師と同じ金沢市上松原町 (現・尾山町)出身で八田より7歳年下、旧制金沢 一中、旧制四高、東京帝国大学工科大学土木工学科 から台湾総督府、まさに八田與一と同じ道を歩み、 はくれいしゅう 現在も台中市で機能する農業用水路「白冷圳」を設 計していた。 白冷圳は、1932年に完成、通水が始まった10月14 日には毎年、早朝から集まった地域の老若男女によ り清掃され記念式が行われている。 八田與一による烏山頭ダム工事にも携わった磯田 写真−5 新設された左の水管(色は水色となっている)と、 右は磯田技師設計の逆サイホン水管 (色は緑色となっている) 技師は、新社の大甲渓の豊富な水を取り入れて豊原 引く以前の嘉南平原は、アルカリ性土壌が炎天下に 区814haを灌漑するという計画を立てた。その技術 白い粉を吹き、見渡す限りの荒涼地だったという。 的特徴は、白冷台地と新社台地の高低差を利用して その土地を肥沃な大地に変貌させたのは、嘉南大圳 水を揚げる逆サイホン方式にあった。 事業による水の恩恵だった。そのための土地測量調 白冷圳とは、 導水路の全長17キロ弱、22ヵ所のトン 査に磯田も加わっていた。猛暑のなか、80余名の日 ネル、 14ヵ所の橋で渓谷を空中でつなぐ水路(水管) 本人技術者が朝の6時から夜の11時まで猛勤務で である。当時の遺構として保存され、地元では「倒 挑んだ調査で、八田技師は就眠が午前2時なのに朝 虹吸管」 (日本語訳は、逆サイホン)と呼ばれ親し の5時半には起床という奮闘を8ヵ月も頑張り通し まれている。注目すべきは、渓谷をわたす直径1.2m たことなどを、磯田は後年回想している。 の水管3本に用いられた逆サイホン技術である。そ そうした先輩の不屈を間近に見て学んだ磯田は、 の技術は、その約300年前、金沢の歴史の中にもあっ 白冷圳を完成させた10年後、八田の思いがけない悲 た。江戸の技術者・板屋兵四郎が兼六園から金沢城 報を知って世話になった八田家に駆けつけている。 まで、約3.3㎞のトンネルに水管を通して導水した 八田技師の墓前祭が命日の5月8日に毎年、台南 辰巳用水の逆サイホン方式だ。この水は、現在も兼 市で催されているように、台中市では毎年10月14日 六園や金沢市内に送られている。金沢の歴史的技術 に通水記念式が地元住民により催され、2012年には が、時空と海峡を越えて台湾で活かされたと言える 通水されて80周年を迎えた。そして2012年、磯田技 だろう。 師の自宅が金沢市寺町に現存することが分かった。 当時、日本から船で運び込まれた鋼鉄の水管は、 白冷圳事業に尽くした磯田技師は、卑南大圳改修 1999年の台湾中部大地震で損壊したが、新たに設置 工事などに従事して、1947年、日本に引き揚げた後 された水管(写真−5 左側にある水管)と、緑色 は、金沢農地事務所、長建設、真柄建設に勤めた。 に塗装された磯田技師設計による逆サイホン水管が、 白冷圳の公園入り口には、巨大水管を背に、磯田 新社台地に台湾と日本の絆を象徴化しているようだ。 技師の彫像と功績を刻んだパネルがある。2012年に 大正7年(1918)、台湾総督府に赴任した磯田謙 設置したのは台中市と台中農田水利会で、中国語と 雄を 「丁度今は家内が内地に行って僕一人だから…」 日本語のパネルで観光客や見学者に伝えたいとして と言って自宅の離れに住まわせてくれたのが、磯田 いる(白冷圳は、台湾高鉄台中駅から車で約50分)。 の先輩・八田與一だったことが磯田の回想記(「台 湾の水利」第20巻・昭和17年)に残っている。八田 は、チフスを罹った磯田を寝ずに看病するなど公私 にわたって面倒を見たらしい。その八田自身もマラ リアに罹って苦しんでいた。磯田が見た八田の水を <参考文献> 平野久美子『水の奇跡を呼んだ男─日本初の環境型ダ ムを台湾につくった鳥居信平』産経新聞出版 緒方英樹「台湾に渡った土木技術者たち」理工図書・ 土木技術67巻12号 <写真>表記以外は、筆者撮影 月刊建設14−12 41
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