会報44号をUPしました。 - OCN

平成2
5年3月1日 発行
坂本
日本
龍馬、
最
社ヲ
初ノ商
長崎の空と山の端
正月3日、伊良林界隈を歩いてみた。寺町通り
から風頭山麓を徐々に坂道を辿り、龍馬通りの中
程から左手に折れ若宮稲荷神社の参道に入る。
ちょうど、家並みが切れるあたりから市街地を見
下ろす。
南北に中島川に流れ、流域には高層マンション
やビジネスビルが立ち並ぶ。その後背には、鎮西
大社諏訪神社が位置する玉園山を中心に立山、西
山の山並みが左右に広がり、さらに左には、風頭
山とともにハタ揚げの名所とされた金毘羅山が遠
望できる。長崎人には目に馴染んだ光景だが、こ
の日、正月の清々しい青空と連なる山の端が、寒
風の中に際立って見えていた。
年末年始、亀山社中資料展示場はお休みをいた
だいたが、若宮稲荷神社への初詣客、年中無休の
長崎市亀山社中記念館や周辺を巡る観光客など、
あたりは思いのほか多くの人々の姿が見受けられ
た。同社の大坪丈夫禰宜にお話を伺うと「年末か
ら人が絶えないですよ」とのこと。ついこの間ま
で、このあたりは長崎独特の斜面地に広がる静か
な町並みで、お正月には若宮稲荷神社への参拝客
のほかは、これといった喧騒もなく、落ち着いた
佇まいを見せていたものだ。
ところで、亀山社中資料展示場には、龍馬ら幕
末に活躍した人々の写真とともに彼らが訪れた時
代の長崎の風景写真をいくつか展示している。そ
れらを眺めると、百数十年の歳月を隔てながらも、
町の後背を縁取る山々の稜線は今も昔も変わらな
いことがわかる。言い換えれば、彼らが見上げた
空と山々が今も変わることなく、そこにあるとい
うことである。
此
設ス
処ニ創
。
第44号
全国龍馬ファンの集い 下関大会参加報告…2P
平成24年の亀山社中資料展示場入館者状況…3P
寄稿「龍馬が果たせなかった夢(前篇)」…8P
想像力を豊かにすれば、風頭山や伊良林の高台
に立ち、眼下に広がる近代的な街並みを引き算し
て、そこに古写真に残る風景や人物たちの画像を
重ねることで、目の前に彼らが闊歩した時代の長
崎が立体的に浮かび上がってくる。龍馬が見上げ
た長崎の空と山の端は、今も健在である。
事務局
〒8
5
0−0
8
0
2 長崎市伊良林2丁目9−2
亀山社中資料展示場
℡0
9
5−8
2
8−1
4
5
4 (Fax 兼用)
http://www3
2.
ocn.ne.jp/~himekami_kyusyu/kameyama/
郵便振替口座 番号0
1
8
5
0−2−2
1
5
7
0
口座名義 亀山社中ば活かす会
1
龍馬がゆく道
第44号
全国龍馬ファンの集い下関大会参加報告
本会の織田幹事が「幕末・維新対談」発言者に
平成2
4年1
0月2
0日、
「第2
4回全国龍馬ファンの
集い下関大会」
(主催・同実行委員会)が山口県
下関市で開催され、本会の織田毅幹事が「幕末・
の完成を前に倒れたが、岩崎弥太郎やその後の
人々にその夢は引き継がれた」と述べました。
大会は、このあと会場を下関駅前の「シーモー
維新対談」の発言者として登場しました。また、
本会から久々に本田、松本、土肥原の3人の幹事
が参加して全国の龍馬会のみなさんと交流を深め
ました。
「龍馬が創ろうとした日本、我々が目指す日本」
ルパレス」に移して、参加者約4
0
0人が集っての
大交流会が行われました。この日の講演の発言者
はじめ全国から集まった龍馬会の面々が一堂に会
する実に賑やかな宴となりました。久しぶりに本
会から参加したメンバーも参加者の熱気と迫力に
と銘打った今回は、登録参加者3
6
1人をはじめ来
賓や関係者、一般参加者など約8
0
0人が集まりま
した。大会は午後1時から始まり、華やかなオー
プニング・アトラクション「上臈道中」に続いて、
開会のセレモニー、来賓および参加龍馬会の紹介、
押され気味になりながらも、各地の個性豊かな龍
馬ファンの方々と有意義な交流の機会を持つこと
ができました。
翌日は、下関市、萩市の龍馬ゆかりの地を巡る
バスツアーがあり、本会の3人が参加しました。
「幕末維新対談」第1部、第2部、次回開催地高
全国からの参加者や地元実行委員会のメンバーら
知市のアピールという構成でした。
このうち、織田幹事は「幕末維新対談」第1部
「龍馬と長州∼長府と萩と幕末日本」の発言者と
約2
0人とバスに同乗して、午前9時に下関駅前を
出発しました。まず長府へ向かい、功山寺を訪ね、
境内にある印藤聿の墓をお参り、また高杉晋作の
して、京都国立博物館の宮川禎一企画室長、下関
市立長府博物館の古城春樹館長とともに登壇しま
した。織田幹事は、現在、長崎のシーボルト記念
凛々しい姿を映した銅像など見学しました。この
あと隣接する下関市立長府博物館で、開催中の特
別展「薩長盟約と下関 長府藩士と龍馬・慎太郎
館長。著書に「海援隊秘記」
「龍馬の長崎物語」
などがあります。海援隊士・沢村惣之丞の墓を発
のキセキ」を観覧することができました。昼食後
は、萩市内で、松陰神社参拝、同境内にある至誠
見するなど長年にわたり龍馬研究に携わっており、
平成2
2年の NHK 大河ドラマ「龍馬伝」の制作に
も協力しています。
対談は、古城氏が進行して、
「長州と攘夷論」
「龍
馬と攘夷論」
「薩長盟約と下関の重要性」などを
館を見学し、さらに、萩博物館で、萩の歴史や文
化などについての展示を観覧するとともに館内の
高杉晋作資料室も訪ねました。この日は好天に恵
まれ、地元の親切なガイドさん、運営スタッフの
みなさんの心配りで、長州の幕末を肌で感じ感動
テーマに興味深い意見交換が行われました。この
中で織田幹事は、
「長府藩は、薩長盟約において
する時間を過ごすことができました。午後4時、
本会の3人は、新山口駅から新幹線で長崎への帰
非常に大きな存在であった」と指摘。また「龍馬
の国家意識」について「彼の思想は絶えず進化し
ており、
『日本を今一度洗たくいたす』ことによ
り国家体制の改革をめざし、
『世界の海援隊』に
よって経済的独立を志向し
路についた次第です。
ていたのではないか」
「そ
2
平成2
5年3月1日 発行
平成2
4年の
料 展 示場 入 館 者数について
資
中
社
山
亀
本会が運営する
亀山社中資料展示場の
入館者数について、
平成2
4年の
集計結果を
報告します。
平成2
4年の亀山社中資料展示場入館者数
平成2
3年の亀山社中資料展示場入館者数
期 間 平成2
4年1月∼1
2月
開館日 1
8
0日
(通常開館1
1
3日、臨時開館 6
7日)
※原則 土日祝日開館 年末年始休館
入館者 3
2,
8
4
4 人
月平均 2,
7
3
7 人
日平均
1
8
2.
5人
期 間 平成2
3年1月∼1
2月
開館日 3
5
8日
(通常開館1
1
6日、臨時開館 2
4
2日)
※年末年始のみ休館
入館者 7
3,
9
0
3 人
月平均 6,
1
5
8.
6人
日平均
2
0
6.
4人
※入館者のうち、
「長崎さるく」
での入館者 1,
6
5
4人
※入館者のうち、
「長崎さるく」
での入館者 3,
8
7
0人
(5.
0%)
(5.
2%)
展示場は、従来、土日祝日のみの開館としていたものを、平成2
2年 NHK
大河ドラマ「龍馬伝」の放送にあわせて、平成2
1年1
0月から無休(年末
年始をのぞく)としていましたが、放送終了後1年を経過して、平成2
4
年4月から従来の開館日程に戻しました。その結果、平成2
4年の年間入
館数者は3
2,
8
4
4人となり、前年に比べて4
1,
0
5
9人の減、1日平均では
1
8
2.
5人で、同じく前年の2
0
6.
4人から2
3.
9人の減となっています。
1日平均の入館者に注目すると、平成1
9年が6
8.
6人、平成2
0年が7
9.
2
人、大河ドラマ放送が決定しにわかに亀山社中が注目され、8月に亀山
社中記念館が開館した平成2
1年が1
6
2.
9人、放送年の2
2年が4
0
1.
5人、翌
8
2.
5人となっています。このように、放
2
3年が2
0
6.
4人、そして2
4年が1
送以前の開館体制に戻した2
3年も、2
1年以前の実績数までは落ち込まず、
一定の入館者数が維持されています。
大河ドラマ放送に伴い、記念館の開館や周辺の設備(道路、トイレ、
標識など)の整備、観光情報の発信などにより、利便性が高まり、龍馬
ゆかりの地としての長崎・伊良林の知名度が上がったことで、入館者数の底上げができ、一定の水準で
定着しつつある傾向が見えています。
また、入館者数に占める「長崎さるく」参加者の割合は、2
1年1
4%、2
2年1
1.
6%、2
3年5.
2%、2
4年
5%となっています。
3
龍馬がゆく道
第44号
大型連休や長崎くんちで
展示場臨時開館
本会では、平成2
4年4月から亀山社中資料展示場の開館日を土日祝
日のみに変更しましたが、全国から多くの皆さんが訪れる5月の連休
や長崎くんちなどの期間は、平日も開館して、展示資料をご覧いただ
くとともに、周辺の案内や観光情報の提供などを行いました。
臨時開館したのは、昨年(平成2
4年)4月2
8日%から5月6日"ま
での大型連休期間中の平日2日間、長崎くんちが行われた1
0月7日"
8日(祝)に続く最終日の9日$、さらに、地元の若宮稲荷神社の例大祭が行われ、呼び物の「竹ん芸」
が奉納された1
0月1
4日"に続く1
5日#の合計4日間です。
4日間あわせて約1,
0
0
0人の来館者があり、龍馬ゆかりの地・長崎の散策に、少しでもお役に立てた
のではないかと考えています。
平成2
5年も次のとおり臨時開館を予定しています。
平成2
5年の臨時開館
ゴーデンウィーク
4月27日% 28日" 29日! 30日!
5月1日" 2日# 3日! 4日!
振
5日! 6日&
ある日、龍馬が、亀山社中の
縁側でピストルの手入れをして
いると、土佐藩参政後藤象二郎
からの使いがやってきた。聞く
と、明日、榎津町の清風亭に来
てくれとのことである。
「一体、何の用ぜよ」
「何でも、会津の方とお話し合
いがあるそうです」
「会津じゃと。そいは公儀(幕
府)に近い藩じゃのう。長崎に何
の用じゃ」
数日後、龍馬が清風亭に行くと、奥座敷で後藤
が数人の武士と談笑中であった。
「よう来た、こちらは会津藩の神保修理殿じゃ」
「拙者は土佐の高坂龍次郎。長崎で小商いをし
ちょります」
「会津の神保です。長崎には海外事情の視察に
来ております。どうぞよろしく」
龍馬がこのとき会見した神保修理は、会津藩家
若宮くんち(竹ん芸)
10月14日! 15日!
坂本龍馬生誕日
11月15日$
※太字の表示日が臨時開館日です。土日祝日は通常
通り開館します。
老神保内蔵助の長子。同藩異色
の開明家で幕末の京都で活躍し
ましたが、鳥羽伏見の敗戦の責
任を取り、江戸で自刃。父と妻
の神保雪子は、会津城攻防戦の
折に没しました。なお、彼の実
弟の北原雅長は初代長崎市長に
なっています。龍馬はこの時のこ
とを、長府藩士三吉慎蔵あての手
紙の中で、次のように書いていま
す。
「長崎ニて会津の家老神保修理に面会。会津ニ
ハ思いがけぬ人物ニてありたり。其時小弟ハ土佐
人高坂龍次郎と申て出かけ、色々おかしき談あり
しが、変りたる事なし」
(慶応3年2月1
6日付け)
藩をこえて意気投合した龍馬と神保修理。しか
し、二人の友情も龍馬の死で途絶えてしまいます。
もし龍馬が生きていたら戊辰戦争も起こらず、神
保一族の運命も違ったものになっていたかもしれ
ません。
坂本龍馬と
ある会津藩士
4
平成2
5年3月1日 発行
本会では、第1
5回
「司馬遼太郎・長崎菜の花忌」
で感情のこもるいい朗読で参加者からの賞賛の声
を平成2
4年2月1
1日!午前1
1時から、風頭公園の
を浴びていました。続いて、亀山社中から数分の
司馬遼太郎「竜馬がゆく」文学碑前で開催しまし
ところにあるご近所の瓊浦高等学校演劇部の1
1人
た。昨年の冬は、寒波が続きましたが、当日は見
(男子8人、女子3人)が登場しました。作品は
事な晴天に恵まれ、小春日和の菜
『大坂侍』で、さすがに演劇部だけ
の花忌となりました。文学碑の前
あって、よく通る声で豊かな表現力
には、本会の会員はじめ今年の作
を発揮した5分間の朗読でした。こ
品朗読をお願いした伊良林小学校
ちらもみなさんから惜しみない拍手
や瓊浦高校のみなさんなど4
0人ほ
が贈られていました。
どが顔を揃えました。
このあと、参加者全員で司馬遼太
最初に本会の針屋武士会長が挨
郎さんが好きだった「菜の花」
(5
0
拶に立ち、参加者の皆さんに、1
5
本)を献花して、その作品と人柄を
回目を迎える菜の花忌への出席と
偲びました。最後に、伊良林小学校、
協力に感謝のことばを述べました。
瓊浦高校、亀山社中ば活かす会役員
続いて、文学碑建立の経緯と碑文
とそれぞれに記念写真の撮影を行い
などについて、織田毅幹事が説明
ました。
しました。
その後、伊良林平公民館に会場を
今年の作品朗読は、毎年お願いしている地元の
移して懇親会を行いました。懇親会には、役員の
伊良林小学校の児童のみなさん、今年が初参加と
ほか遠方からの会員さんなど十数人が参加しまし
なった瓊浦(けいほ)高等学校(長崎市伊良林)
た。いつもの長崎名物の皿うどんと手作りのおに
の演劇部のみなさんに行っていただきました。ま
ぎり、持ち寄りのお酒で過ごしました。同年2月
ず、伊良林小学校の4年生1人、6年生2人の3
1日に本会が発刊したばかりの新刊『龍馬の長崎
人が『二十一世紀を生きる君たちへ』全文を輪読
物語』の話題などを中心に大いに盛り上がる集ま
し約1
0分で読み上げました。3人とも元気な発声
りとなりました。
Q
問 龍馬の手紙を読んでみたいのですが、
収録した本があったら教えてください。
A
答
龍馬の手紙は、現在1
4
0通ほどが残されています。それらを読むことができる本
としてはまず『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)があります。龍馬研究の第一人者だった故・
宮地佐一郎氏が編集したもので、龍馬の全書簡をおさめた、コンパクトで持ち運びにも便利
な本です。
また、高知県立坂本龍馬記念館編集・発行の『龍馬書簡集(現代語訳)
』もあります。同
館が所蔵・展示する書簡についての、わかりやすい現代語訳と解説が特徴です。
最近出た本としては、
『全書簡現代語訳 坂本龍馬からの手紙』
(教育評論社)があげられ
ます。龍馬書簡の研究家として有名な宮川禎一氏が書かれたもので、すべての龍馬書簡の現
代語訳・解説をおさめた画期的な研究書です。
5
龍馬がゆく道
第44号
第2
3回『亀山社中ば活かす会総会』
開 催
本会では、平成2
4年4月1日!、好天の下、第
久幹事が担当し、平成2
3年度の活動報告、会計報
2
3回亀山社中ば活かす会総会を風頭公園で開催し
告、監査報告、平成2
4年度の事業計画説明が行わ
ました。
れ異議なく承認されました。次年度の計画では、
総会には、市議会議員、近隣の自治会長、伊良
引続き亀山社中資料展示場の運営を軸に、幕末祭
林小学校長、若宮稲荷神社禰宜、行政関係者など
や菜の花忌などの恒例行事を着実に継続していく
ご来賓のみなさん2
1人、本会の針屋武士会長はじ
ことなどが説明されました。
め3
1人の会員の合計5
2人が出席しました。会員さ
このあと、会場を移して恒例のお花見を行いま
んの中には、遠く神奈川、京都のほか九州各地か
した。今年は春が遅く、桜の開花が随分心配され
ら参加された方もあり、賑やかな集まりとなりま
ましたが、ここ数日の暖かさで、
公園内の桜はいっ
した。
せいに咲き誇りました。総会・花見会は今回で2
3
最初に、針屋武士会長が挨拶に立ち、この1年
間の活動を振り返りました。この中で「大河ドラ
回目を迎えますが、これほどのよいお天気と見事
な桜花に恵まれたのは初めてでした。
マの翌年ということで、大幅な落ち込みが心配さ
穏やかな光と風、青空、見事な桜、これ以上は
れた観光客数は堅調であり、
『龍馬伝』は確実に
ないお花見日和で、お弁当におでん、美味しい飲
幕末観光の底上げになったようだ」と話すととも
み物を味わいながら、みなさんは春を満喫されて
に、昨年の約5
0パーセントの入館者数を維持して
いました。このほか、宴では、同年2月に発行し
落ち着きを取り戻した展示場の開館日を4月から
た新刊『龍馬の長崎物語』の臨時販売を行い、用
従来の土日祝日に戻したことを報告しました。
意していた2
0冊はあっという間に売り切れてしま
また、来賓の吉原孝市議会議員からは「ここま
いました。
での皆さんの活動が長崎での龍馬ブームを支えて
この日、市内有数のお花見の名所である風頭公
いる。さらに、幅広い活動の中で歴史研究の部門
園は大盛況でした。カメラ片手の観光客や市内の
での活躍を期待している」と激励の言葉をいただ
花見客が、桜花を背景に凛々しく立つ龍馬之像、
きました。
4月の空にたなびく海援隊の旗、眼下に広がる長
議事の進行と事業報告ほかの説明は、土肥原弘
6
崎の春の風景を楽しんでいる様子が見られました。
平成2
5年3月1日 発行
第24回亀山社中幕末祭
若宮稲荷神社拝殿で厳かに龍馬生誕祭
亀山社中ば活かす会では、平成2
4年1
1月1
1日!、
長や山下副会長を中心に、ほろ酔い気分の懇親の
第2
4回亀山社中幕末祭(龍馬生誕祭)を若宮稲荷
集いとなり、近況報告はじめ豊富な話題で時を過
神社で開催しました。
ごしました。この中で、同年1
0月に下関で開催さ
朝から天候がはっきりせず悩みましたが、会場
れた「全国龍馬ファンの集い」への出席報告や会
をいつもの境内にある龍馬之像前として準備を進
のオリジナルTシャツ作成の発案などがあり、内
めました。ところが、定刻の1
0分前に雨が降り出
容の豊かな交流の機会でした。ちなみに皿うどん
し、急遽、拝殿内にて実施することにしました。
は近くのちゃんぽん屋(中華料理屋)さんから出
集まっていただいた参加者全員で、神事用の御道
前の逸品で、地元ならではの味が毎回楽しみです。
具やお供え物を運び込むなど慌ただしい準備とな
この日、長崎市内では、丸山華まつり、まちあ
りましたが無事に行うことができました。
るき双六大会、長崎路面電車まつりなど催し物が
生誕祭の神事は、同社の大坪丈夫禰宜により厳
多く賑やかでした。出席
かに執行されました。志なかばで倒れた龍馬の鎮
者のみなさんは、直会を
魂を願い、彼の偉業を顕彰し思いを馳せる人々の
終えると、来年2月の
「長
多幸を祈って読み上げられる祝詞を耳にし、全員
崎菜の花忌」での再会を
が玉串を捧げて、年に1度の祭礼を清々しい気持
誓って、それぞれ次の目
ちで終えることができました。
的地へと向かわれて行き
神事が終わる頃には雨も上がり、境内には、行
ました。
楽シーズンということで、観光客や参拝に訪れた
市民なども見受けられ、穏やかな空気が流れてい
ました。
このあと、恒例により、隣接する亀山社中資料
展示場の別室で、直会(食事会)を行いました。
福岡、佐賀など市外から駆けつけた会員、地元の
メンバー1
0数人が久しぶりに集まった楽しい昼食
会です。
皿うどん、おにぎりに、銘酒、焼酎で、針屋会
平成24年9月30日に予定していた本会恒例の「月見の宴」
(第
2
0回)は、台風の接近により開催することができませんでした。
「月見の宴」は、本会の発会当初から風頭公園の龍馬之像前広
場で毎秋行っている定例行事の一つです。
「名月を愛でながら、
この街の豊かな歴史と文化、そして、これからの街づくりについ
て語るもよし、司馬文学や幕末の志士達に思いを馳せるのもよ
し」と続けてきました。あいにく、今回は日本列島を縦断した台
風19号が九州地方を通過した直後となり、雨は上がりつつあった
ものの、強風が治まらず実施を断念しました。これで平成23年に
続いて2回連続の中止となりましたが、次回の開催を楽しみにし
たいと思います。
7
龍馬がゆく道
第44号
寄 稿
「龍馬が
果たせなかった夢
(前篇)」
本会幹事
黒岩
信玄
奔馬の如く幕末を駆け抜けた風雲児・坂本龍馬は、5年余の活動期間に幕末
の奇跡を二度なしたと言う。一度目は「薩長同盟」二度目は「大政奉還」であ
る。そして、2
6
0年余続いた徳川封建国家を近代国家・日本へと導いたのであ
る。この偉大な龍馬でも「果たせなかった夢」があると言うから驚きである。
では、龍馬の果たせなかった夢とは何か。それは「蝦夷地開拓」である。龍馬は「一人でも蝦夷地開
拓をやる」と長州藩士・印藤肇あての手紙に書いているように、強烈な思いを持っていたのである。だ
が、龍馬の夢は三度の挑戦でも果たせなかった。一体なぜ、龍馬は蝦夷地開拓に執着したのだろうか。
これから順を追って説明しよう。
その前に、蝦夷地について少し触れてみよう。蝦夷地は明治2年(1
8
6
9)に「北海道」と改称、
「開
拓使」が設置された。殆んどが未開の「龍馬が云う新国」だった。寛政年間(1
7
9
0∼1
8
0
1)以前の蝦夷
地は、南部の松前地方が、小藩の松前氏の支配下に属していただけで、広大な蝦夷地の大部分はアイヌ
の居住地として放置されていた。同藩は、全土を「商場知行制」にして、家臣に知行として与え、アイ
ヌとの交易を許した。商場知行制は、その後、商人も利用できる「場所請負制」に変わった。寛政1
1年
(1
7
9
9)
、幕府は松前藩の東蝦夷を直轄地に、文化4年(1
8
0
7)には全蝦夷地を直轄地とした。松前奉
行を置き、東北諸藩に警護を当たらせ経営をまかせた。
(第一次蝦夷地幕領時代)幕府は大規模な探検
と開拓を2
0年余続けたが採算が合わず中止した。文政4年(1
8
2
1)
、幕府は全蝦夷地を松前藩に戻して
いる。
司馬遼太郎「菜の花の沖」の主人公・高田屋嘉兵衛(淡路商人)の活躍は、龍馬の時代から6
0∼7
0年
前(寛政∼文化年間)の時代である。寛政1
1年(1
7
9
9)高田屋は、択捉航路を拓くなど活躍。
「場所請
負制」を利用し物産の海上輸送で財を成した。蝦夷地は海産物、天然資源が豊富で「北前船」と呼ばれ
た大坂航路は「一航海で千両の利益があがった」と言われた。
1
9世紀前半は列強の接近が続いた。…「特にロシア船の来航」が目立った。
! ロシアの南下政策で艦船が出没し千島列島、択捉島で衝突が起こり始めた。
8
平成2
5年3月1日 発行
! 寛政4年(1
7
9
2)9月、ロシア使節ラクスマンが根室に来航。
「通商を求める国書」を持参、幕
府は受け取りを拒否。通商を望むなら長崎へ廻れと回答した。
" 文化元年(1
8
0
4)9月、長崎に2隻の軍艦が現れた。特派全権大使・レザノフは、通商条約の締
結を求めた。彼は長崎で半年、回答を待ったが幕府は再度拒否。
# 文化4年(1
8
0
7)
、レザノフの遺志を継いだ部下が樺太、択捉を襲う事件が発生。
$ 文化8年(1
8
1
1)6月、ロシア海軍ディアナ号のゴローニン艦長は千島列島を測量中、国後島で
日本の役人に捕らえられ、長期の抑留生活を送った。その翌年、高田屋嘉兵衛がロシア船に拿捕
され抑留された。嘉兵衛の尽力で抑留者の交換が実現。翌年、事件は平和的に解決したが、国境
の火種が残った。
時は流れ、嘉永6年(1
8
5
3)6月、米国ペリー提督の黒船4隻が浦賀に現れた。翌年1月の再来航で、
幕府は米国と和親条約を結び、開国に踏み切った。英国、ロシア、フランスと次々に条約が結ばれ、幕
府「祖法」の鎖国制度は崩壊した。結果、国内は開国か攘夷かに二分され収拾のつかない幕末動乱に突
入した。
勝海舟の弟子・龍馬は、文久3年(1
8
6
3)春頃から摂津を中心に勝海軍塾創設に尽力していた。同志・
北添估磨らとの接触で、蝦夷地侵入を狙うロシアへの備えと開拓の必要性を論議。同年5月、土佐勤王
党の北添は、同志の能瀬達太郎、小松小太郎、安岡釜太郎とともに蝦夷地に渡り箱館奉行に面会、蝦夷
地海防等を話し合った。開拓や防備の視察を続け7月初旬、江戸に帰着。報告を受けた龍馬は「京摂に
集結する尊王攘夷派浪士達が、血生臭い闘争を繰り返し、京から長州藩が去った後、次第に追い詰めら
れていく事態」を憂い、これら過激な浪士達(生活困窮者も多かった)を蝦夷地に運び、建設的な生き
場所を与えようと真剣に考え始めた。
①龍馬は本気で北方開拓の準備を始めた。
○元治元年(1
8
6
4)6月1
7日付、勝海舟日記によれば…
「為乗替船翔鶴丸、長崎丸、為引丸、黒龍丸入津。坂本龍馬下東、右船にて来る。聞く、京摂の過激輩
二百人程、蝦夷地開発、通商、為国家憤発す。此輩悉く黒龍丸にて神戸より乗廻すべく、此議、御所、
水泉公もご承知なり。且つ、入費三、四千両 同志の者より取集たり。速に此策施すべしと言う。志気
甚だ盛なり」…
※「龍馬は江戸から黒龍丸で海舟の待つ下田にやって来た」
この日記は海舟が龍馬から聞いた通りを書いたようだ。三、四千両
の資金を集め朝廷や水泉公(老中、水野和泉守忠精)のお墨付きまで
得ているのだから本格的である。龍馬の北方行きに関する最初の記録
である。この日記を書いた海舟と龍馬は、6月5日に起こった「池田
屋事件」を知らなかった。蝦夷地推進役の北添估磨は、京都・池田屋
にいて新撰組の近藤勇に斬られ闘死。塾生の望月亀弥太らも犠牲に
なった事が事態を重くした。勝海舟の監督責任が問われ、1
0月、江戸
に召喚、間もなく軍艦奉行を罷免された。翌年の慶応元年(1
8
6
5)3
月、神戸海軍操練所は僅か1年足らずで閉鎖。
○北垣国道(但馬国の脱藩浪士 維新後、第4代北海道開拓長官など
を歴任)の日記(明治3
2年1月2
4日)には「我同志坂本、北添、河田
9
龍馬がゆく道
第44号
ノ輩、東西数百蝦夷ノ開拓ヲ ∼中略∼ 龍馬ノ北地策ハ全ク瓦解セリ」と書かれている。
★幕艦・黒龍丸の蝦夷地計画は頓挫した。龍馬の最初の挫折だった。
②龍馬の第2次計画
勝海舟と別れた龍馬は、慶応元年(1
8
6
5)5月、薩摩藩の援助で「亀山社中」を長崎に設立した。い
わゆる日本初の総合商社である。北方への想いを諦めていなかった龍馬は慶応2年(1
8
6
6)1
0月頃、薩
摩藩の保証で米国商人ウォルシュから洋式帆船を長崎で購入し「大極丸」と名付けた。運用船の非運が
続いていた龍馬は、この船で諸国交易を活発に行い、経営危機の亀山社中を再建、合せて北方資源開発
と貿易の計画を目論んだ。ところが、龍馬の思惑とは違って、船価の支払いで紛争、船の使用ができな
いまま時が過ぎた。
すかさず、龍馬は次の一手を打ち、伊予大洲藩から「いろは丸」を借り受けた。慶応3年(1
8
6
7)3
月半ばには出航できるまでにこぎつけたが、亀山社中から「海援隊」への移行期と重なり計画はやむな
く中断。
★龍馬、2度目の挫折である。
○慶応3年(1
8
6
7)3月6日付、長府藩士・印藤肇あて書簡で「小弟ハエゾに渡らんとせし頃より、新
国を開き候ハ積年の思ひ一世の思い出ニ候、何卒一人でなりともやり付申べくと存居申候」 更に「然
れば先頃長崎ニて、大洲蒸気船ハ三月十五日より四月朔日迄の間ニ借入の定約ハ相定め置たり。故、近
日其の期限も来るべし」…
※龍馬の北方に対する思いは強烈である。
「一人でもやる」と宣言している。
○2月1
4日、鳥取脱藩浪士・河田佐久馬には…「何卒、今一度御面会仕候時ハ、よほどおもしろき事、
御耳に入候と相楽ミ申候」
「其儀ハ彼の先年、北門の方へ手初致候を又思出たり。此度は己に北行の船
も借受申候。其の期限は三月中旬り四月朔日には、多分出帆仕度と心積致申」∼中略∼「三月初旬まで
のうち関までお出かけなされ候」…
おもしろき事とは「北方の方=蝦夷地開拓」のことである。
「関(馬関)までお出かけ」の文面は、
参加乗船の誘いである。
③龍馬の海援隊による第三次計画
経営難が続く龍馬は、長崎で土佐商会を経営する土佐藩参政・後藤象二郎との会談を決断した。慶応
3年(1
8
6
7)1月1
2日の「清風亭会談」である。同年4月「海援隊」が誕生した。龍馬は脱藩罪を許さ
れ隊長に就任した。
故郷の姉乙女から痛烈な反論が、龍
馬は後日、長文の返書で、
「私一人ニ
て五百人や七百人を引て、天下国家の
御為するより廿四萬石を引て天下国家
の御為致すが甚だよろしく…」 龍馬
は1人で動くより土佐藩2
4万石を利用
するのが有効で得策と考えたのだ。
海援隊は、土佐藩の支配を直接受け
ず、組織・運営はすべて龍馬に任され
ていた。海援隊約規の一条には「およ
そかって本藩を脱する者、及び他藩を
1
0
平成2
5年3月1日 発行
脱する者、海外の志ある者、この隊に入る。隊の目的は、運輸、射利(営利)
、開拓、投機、出版と本
藩(土佐藩)の応援が主たる任務」とある。
※「海外に志ある者」
「開拓」の文言に注目したい。龍馬の気概は既に世界に雄飛している。勿論、蝦
夷地開拓もしっかり射程圏内に入れている。
海援隊の龍馬には、光と闇が待ち受けていた。
★慶応3年(1
8
6
7)4月1
9日、物資を満載した「いろは丸」は長崎から大坂に出航。瀬戸内で紀州藩船・
明光丸と衝突し沈没。5月末、難航のすえ賠償交渉に勝利。
★7月6日、長崎の花街・丸山で、英国艦船イカルス号水夫2人の殺害事件が起こる。海援隊士に嫌疑
がかかり、英国公使パークスの執拗な追求が始まり、土佐藩を巻き込む大事件に発展したが、9月1
0日、
嫌疑は晴れた。
(解決に2ヶ月を要す)
☆龍馬は、事件前の6月9日、土佐藩船・夕顔で後藤象二郎らと長崎から兵庫へ出帆。船中で「船中八
策」が起案され、のちの「大政奉還」につながる。
☆9月1
8日、芸州藩船・震天丸でライフル銃1,
2
0
0挺を積んで長崎から土佐へ出航。2
9日、龍馬は5年
半振りに帰宅、家族との再会を果たした。1
0月9日、龍馬は鬼門の京へ入った。1
4日、慶喜公が朝廷に
大政奉還を上奏したことを見届ける。1
1月1日、福井に出立、松平春獄に面会、上京を要請。由利氏と
新国家の財政問題を討議。5日、京へ戻る。
「新政府綱領八策」を起草。
★1
1月1
5日、京・近江屋で暗殺される。
以上の経過でもわかるように、龍馬が蝦夷地計画を実行する時間は見当たらない。だが、龍馬が暗殺
される5、6日前に林謙三(芸州藩士)に2通の手紙を書いた。林は海軍熟練者で、当時は薩摩藩海軍
に所属。この頃、大坂に滞在、内戦を予見していた龍馬と「有為な人材の犠牲を防ぐべく蝦夷地に送り
開拓と海軍の養成」を論議。両者には合意が成立していた。
○1通目…「大極丸の一条ヘチャモクレ御一身おもしろくなしとくれバ、海援隊の名は身をよする所な
れバ、持ておるがよろし」…
(注)ヘチャモクレとはお国言葉で「不調に終わる」の意
○2通目…「そが中ニも蝦夷の一条は別して兼面存込の事故、元より御同意仕候」
※文面では、計画に関する省略があるので意味不明だが、林謙三(のちの安保清康)の自叙伝に「…龍
馬は内戦が起こったら、それにかまわず、海援隊の船で蝦夷地へ行け…」と語ったとある。又、これま
での経緯から推察すると、龍馬は最後の望みを信頼する林謙三に託したと思われる。
蝦夷地に関する龍馬の志は明確である。
「有為な若者達を争いの犠牲から救い、未開地の開拓と資源
開発にあてる。北方の警護を固める」 そして、新政府成立後は「世界の海援隊」の発進基地と考えて
いたとしたら気宇壮大な夢である。
だが、天の意思は、これを龍馬には望まなかった。国のかたちを変える事が天命だったのか。休むこ
とを知らない変革の旗手に安息を賜ったのか。私には判らない。龍馬の「蝦夷地開拓」は、ことごとく
未完に終わった。
参考文献
平尾道夫 「海援隊始末記」
宮地佐一郎「龍馬百話」「龍馬の手紙」
好川之範 「坂本龍馬 志は北にあり」
津本 陽 「商人龍馬」
1
1
龍馬がゆく道
第44号
短 信
若 宮稲荷神社の子供神輿巡行
国選択無形文化財「竹ン芸」で知られる若宮稲
荷神社の秋の大祭は、平成2
4年も例年通り1
0月1
4
日!・1
5日"の2日間行われ、多くの参拝客で賑
わいました。前年は雨天の中での奉納となり、高
さ1
0メートルの竹の上で白狐に扮した2人の若者
が演じる妙技をハラハラして見上げたものですが、今回は天候に恵まれて、空中での素晴らしい技の数々
を感動しながら眺めることができました。
同祭礼では、初日の1
4日の午前8時3
0分から御神輿の巡行が行われます。神輿守はかつて地域の若者
たちの役割でしたが、現在は、伊良林地区を中心に近隣の小学生らが担いでいます。この日も神社を出
発して氏子区域である伊良林・矢の平地区をはじめ近隣の桜馬場、新大工、中通り界隈をおおよそ半日
かけて巡りました。子供たちの元気な掛け声、大太鼓やシャギリの音、色鮮やかな旗や飾りで、お神輿
が通る町並みは祭日らしい華やかな空気が漂っていました。
長 崎歴史文化博物館の常設展示改装
長崎歴史文化博物館
〒8
5
0−0
0
07 長崎市立山1丁目1番1号
℡0
9
5−8
1
8−8
3
66
長崎歴史文化博物館(平成1
7年1
1月開館)の常設展示室が、平成2
4年4
月から展示内容を改めて公開されました。改装の特色は、歴史資料などの
実物を展示するとともに、詳しい情報を検索端末(タブレット)から引き
出せるようにしたこと。また、歴史上の人物にスポットを当てた5つのド
ラマが大型スクリーンに流れる映像コーナーを新設したことなどです。さ
らに「近代化の魁(さきがけ)
・長崎」のコーナーで、幕末維新期の展示
が大幅に拡大されました。また、展示場内に再現された上野彦馬の撮影局
(写真スタジオ)では、坂本龍馬と一緒に記念撮影ができます。
亀
山社中記念館で
企画展
「龍馬の生涯」
亀山社中記念館
〒8
5
0−0
8
02 長崎市伊良林2丁目7番2
4号
℡0
9
5−8
2
3−3
4
00
長崎市伊良林の「亀山社中記念館」
(平成2
1年8月開館)では、平成2
4年1
1月1日
から平成2
5年2月2
4日まで「龍馬の生涯∼龍馬の残した夢の跡」と題する企画展が開
催されました。
展示されたのは、姉妹友好館である高知市立「龍馬の生まれたまち記念館」の協力
で借り受けた「高知城下地図」
(個人蔵)
、
「坂本龍馬の写真原板(湿板)
〈複製〉
」
(高
知県立坂本龍馬記念館蔵)
、
「血痕の付いた掛軸
〈複製〉
」
(高知県立歴史民俗資料館蔵)
など、龍馬の生涯を象徴的に物語る品々です。来館者からは「血痕の付いた掛軸は、
時代を超えた迫力を感じます」などと感想が聞かれていました。
1
2
平成2
5年3月1日 発行
上 野彦馬と龍馬の像
生誕地に移設
長崎市栄町の中島川公園内にある「上野彦馬生誕地
之碑」が、長崎市銀屋町の彦馬の生家があった場所に
移されることになりました。この石碑は、平成1
6年1
月、銀屋町に程近い中通り商店街振興組合が上野彦馬
没後2
0
0年と中通り商店街発祥3
3
3年を記念して建立し
たもので、同町出身の三山実氏が製作したもの。建立
後は長崎市に寄贈され、銀屋町や眼鏡橋に程近い袋橋
たもとに置かれ観光客などに親しまれていました。こ
のほど、彦馬生誕地の所有者から申し出があり同地へ
の移設が実現することになったものです。今春には工
事が完了予定とのこと。
陸 奥守吉行レプリカ
坂本龍馬の愛刀「陸奥守吉行」のレプリカが、平成2
5年1月、本会の
竹内忠幹事から亀山社中資料展示場に寄贈されました。ありがとうござ
いました。さっそく、展示場の龍馬の写真の前に置かせていただきまし
たが、来館者のみなさんから「持つとずっしりと重い!」
「ぜひ、記念
写真を!」と大好評です。みなさんも、ご来館の際には、手に取ってみ
てください。
活 かす会スタッフ用Tシャツ
本会では、平成2
5年2月、
第 16回菜の花忌を開催しました
平成2
5年2月1
0日!第1
6回長崎菜の花忌を開催
亀山社中資料展示場での案
しました。今回の作品朗読は、地元の伊良林小学
内や各種行事用にスタッフ
校児童、瓊浦高校演劇部、会員さん2人と顔ぶれ
用のTシャツをつくりまし
も内容も充実したものとなりました。詳細は次号
た。従来、
会のハッピを使っ
会報でお伝えします。
て い ま し た が、若 い メ ン
バーから「活動の際に自分
たちのユニフォームがほし
い」との声で新しく揃えた
ものです。前面に縦書きで
会の名前を、背中にシンボ
ルマークの「亀」の意匠を
青地にあしらいました。遠くからもよく目立つ色
合いで、デザインは、会員の山下恵司さんが担当
しました。
1
3
龍馬がゆく道
第44号
平成2
4年1月1
4日
高知県と広島県の出身、大阪在住。いちおう両
県共に龍馬にゆかりがあるので、行っとかなきゃ
ということで来ました! 楽しかったです。あり
がとうございました。
平成2
4年3月3日
仕事帰りに飛行機に乗って、埼玉からやってき
ました。坂が多いけど、景色がきれい。
平成2
4年3月1
1日
奈良から来ました! 結婚半年記念、ダンナさ
んの龍馬好きは筋金入り! 楽しいです。
平成2
4年4月3
0日
大阪から大学時代の友達と来ました。龍馬のお
かげで歴史に興味を持ち、史学科に入学し、今日、
来た友達とも出会いました。ありがとうございま
した。
平成2
4年5月1日
3
0年来の龍馬ファンを自称しています。3度目
の長崎で初めて亀山社中を訪ねることができまし
た。お天気もよく、よい思い出が増えました。
平成2
4年7月2
2日
平成2
4年3月1
5日
熊本から来ました。高校の時からのファンです。
今日やっと実現しました。龍馬ゆかりの地、一つ
夢がかなってうれしいです。ここから近代日本が
誕生したと思うとうれしいです。
龍馬にあこがれて長崎まで…革命児を目指しま
す
平成2
4年8月4日
長崎 初上陸です。ピストル&刀 重たかった。
坂本龍馬、かっこいい。
平成2
4年3月1
6日
北海道から1人で来ました。実際に亀山社中跡
に立って感動しました。
平成2
4年3月2
6日
長崎生まれ、長崎育ちです。長崎へのあくなき
探求心のため足を運びました。長崎の夜景もオス
スメです。
平成2
4年4月1
4日
4月1
2日夜、東京駅
を午後7時の新幹線で、
博多に一泊し、1
3日、
この亀山に来ました。
今日、再び来てしまい
ました。道中に維新が
こだましているかのご
とく胸がざわめきます。
ぜいたくな長崎・亀山
道中なり。
平成2
4年8月4日
幼少の頃に龍馬を知り、それ以来、龍馬をはじ
め幕末の志士たちが、ある意味、
人生の目標になっ
ています。人生で何かつまづく時があれば、彼ら
の生き様にふれて、大きな志を持とうと思うほど、
受けた影響は絶大です。彼らのように大きな目標
を持って生きていきたいと思っています。
平成2
4年9月1日
長崎から世界へ! いざ、出港ぜよ!
平成2
4年9月2日
龍馬資料館をいつまでもお元気で維持なさいま
すようお祈り致します。
平成2
4年1
0月9日
龍馬の偉大さに感動です。ありがとうございま
した。
平成2
4年1
1月1
5日
1
5年ぶりに亀山社中に来ました。あらためて自
分なりに進んでゆきます。
1
4
平成2
5年3月1日 発行
長崎市立日吉中学校1年生のみなさんから
平成2
4年1
0月2
3日!、に外学習で亀山社中資料展示場を訪れた長崎市立日吉
中学校1年生のみなさんから、当日の案内をした本会の竹内忠幹事にお礼状が
届きましたので紹介します。
先日は、ありがとうございました。ぼくは、有名
人が来た場所をぼく達のために開けてもらいとて
も感謝の気持ちでいっぱいです。ぼくが心に残っ
たことは龍馬が死ぬ直前に書いた手紙です。竹内
さんのお話ですごく勉強になりました。本当にあ
りがとうございました。
先日はお世話になりました。ぼくは、龍馬がどれ
だけすごい人だったのかが、とても分かりました。
そして、竹内さんの説明は分かりやすく、龍馬が
書いた手紙の内容まで読んでいただきました。
コーヒー味のドロップもとてもおいしかったです。
機会があったらもう一度行きたいです。本当にあ
りがとうございました。
先日は、ありがとうございました。ぼくは、ピス
トルや刀のレプリカを見られた事がよかったです。
写真をとる時、刀の持ち方を教えていただいたの
で持ち方がわかりました。ぼくは、坂本龍馬が明
治憲法の元を作った人という事がわかりました。
本当にありがとうございました。
先日は、おいそがしい中、私たちのために分かり
やすく説明してくださってありがとうございまし
た。私は、今、龍馬のことについて調べていたの
で、龍馬のことが、とても分かりやすくて、とて
も役にたちました。これからもっと龍馬のことを
調べるので、その時に、竹内さんから説明しても
らったことをいかしていきます。本当にありがと
うございました。
先日、竹内さんの話を聞いて、坂本龍馬が明治維
新に深く関係していることを知り、すごいことを
成し遂げた人なんだと感じました。そして、その
坂本龍馬が長崎で亀山社中をつくったことを竹内
さんの話を聞き本当にすごいことだと思いました。
このような場所がずっと残っていてほしいなと思
いました。先日は貴重な
話を聞かせて頂き有り難
うございました。
先日は、わざわざぼくたちのために亀山社中を開
けてくださってありがとうございました。龍馬が
書いた手紙を読んでくださってありがとうござい
ます。ぼくは、
龍馬に2
2人の仲間がいたことがびっ
くりしました。いろんな写真もとれて本当にいい
思い出になりました。竹内さんがくれたコーヒー
あめもとてもおいしかったです。ありがとうござ
いました。
先日はわかりやすい説明をしていただきありがと
うございました。私が一番心に残ったのは、元の
憲法を作ったのが坂本龍馬だったということです。
このことを聞いて、とてもびっくりしました。あ
と、龍馬が書いた手紙が長崎の資料館にあってす
ごいなぁと思いました。また、校外学習ではない
別の日にいきたいです。おいそがしい中、説明を
していただき本当にありがとうございました。
先日は、龍馬や龍馬に関
係ある人々や物を説明し
ていただきありがとうご
ざいました。忠さんの説
明は、とても詳しくて分
かりやすかったです。龍
馬を合わせた2
2人の仲間
の説明が心に残りました。
いただいたコーヒード
ロップもとてもおいし
かったです。刀や拳銃も
案外重たくてビックリし
ました。とてもいい体験
ができました。本当にあ
りがとうございました。
!!!!!!!!!!!!!!!!!
『龍馬の長崎物語』発刊
「龍馬と長崎」をわかりやすく紹介
このたび、坂本龍馬と幕末の長崎を紹介する『龍馬の長崎物語』を発刊しました。
「龍馬や亀山社中のことを楽しく、わかりやすく理解する資料が欲しい」
という要望を多くいただことから刊行したものです。長崎における坂本龍馬
や幕末の歴史に親しみ理解を深めるためにお役に立つことを願っています。
著
者 織田 毅(亀山社中ば活かす会幹事)
発
行 亀山社中ば活かす会
規
格 A5版 1
5
0頁
発行部数 1
0
0
0部
発 行 日 平成2
4年2月1日
販売価格 1部 1
0
0
0円
販売場所 亀山社中資料展示場 ℡0
9
5−8
2
8−1
4
5
4
〒8
5
0
‐
0
8
0
2 長崎市伊良林2丁目9−2
!!!!!!!!!!!!!!!!!
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
1
5
龍馬がゆく道
第44号
昨年(平成2
4年)1
0月、下関で開催さ
れた「第2
4回全国龍馬ファンの集い下関
大会」に1
0数年ぶりに参加した。同大会
は、龍馬の生誕地である高知と各地のゆ
かりの地を隔年で開催地としており、長
崎でも第4回大会を平成4年に開催して
いる。その時は、坂本龍馬之像が立つ風
頭公園に程近いホテル「ヤタロウイン」
を会場に、同年1
0月3
1日、1
1月1日の2
日間、約2
0
0人の参加者を集めて行われ
た。初日は、各地の龍馬会の活動発表、
記念講演「龍馬が訪れた時代の長崎」
(講
師:越中哲也長崎歴史文化協会理事長)
、
大交流会、2日目は史跡めぐりウォー
クラリー(市内4コース)という構
成であった。当時の実行委員会に本
会も加わっていたが、力不足から、
要領を得ぬ大会運営で、全国からの皆さ
んに満足のいくおもてなしができなかっ
たという印象が残っている。
あれから2
0年を経て、同大会は大きく
進化を遂げた。別掲載の記事の通り内容・規模
ともに充実拡大し、運営も実に円滑であった。
今回も2日目は、山口県内のゆかりの地をめぐ
るツアーが計画されていた。本会幹事3人が参
加したのは、長府、萩を訪ねるコースで、功山
寺、長府博物館、松陰神社、萩博物館を巡った。
歴史を訪ねる旅は、その土地に詳しい案内人の
方に同行していただくことで楽しみが深まる。
今回も、そういう歴史ガイドさんが同行された。
経験豊かで知識も豊富な方と推察される年配の
男性で、事前に準備をされてきたのであろう手
作りの資料を配り、バスの移動中も地元ならで
は言い伝えやエピソードをわかりやすく紹介し
てくれる。もちろん、我々が幕末維新の歴史に
関心を持つこと踏まえて、ここぞという個所で
は、その知的好奇心をくすぐり満足させてくれ
る解説が加えられた。このようなご配慮をいた
吉田
だいた実行委員会の方々、そして、ガイ
ドさん御本人に深く感謝をする次第であ
る。
ところで、そのガイドさんは、案内す
る神社や寺院で、必ず真っ先にお賽銭を
上げ、神仏に参拝をしてから説明を始め
られた。われわれは旅先で、さまざまな
場所に足を運びそこに伝わる歴史や文化
を訪ねる。人にはそれぞれに信仰が
あり、もしくは信仰を持たない人も
いるだろう。もちろん、ガイドさん
はそのことでみなさんに拝礼を強制
しようとするものではないし、見学、観
賞の姿勢は自由である。
しかしながら、個々の信仰や信条とは
別に、訪れた地に祀られる神や仏に敬意
を表すのは、ごく自然なことであろう。
祀られる神や仏のみならず、貴重な建造
物や記念碑、自然景観や町並みには、先
人の思いや魂が籠っていると考える。そ
の場所に立ち、まずはそのことを思い、
敬意を表してから拝見させていただくのは、礼
儀礼節のことである。山口県で案内していただ
いたガイドさんの姿勢は、礼儀作法への意識が
希薄となった現代人に対して、あるべき心構え
を諭していただいているような気がした。
長崎にも多くの名所旧跡、神社仏閣があり、
その場を訪れて語るべき物語は豊富である。私
もガイドさんの案内で地元長崎の町歩きを楽し
む機会は多い。そんな人ばかりではないことは
承知しているが、訪れた場所で、そのような配
慮や説明がなく、いきなり事務的に話し始める
案内人さんに違和感を持ったことが何度もある。
また、我々自身も日々お客様をお迎えして、亀
山社中資料展示場に限らず、若宮稲荷神社、龍
馬の像など近隣を御案内する機会がある。心に
留めておくべきことと思っている。
松陰〔文政13年(1830)∼安政6年(1859)〕
長州藩士。兵学に明るく諸国を巡って多くの志士と交わった。
外国の事情を知るため、安政元年(1
8
5
4)
、禁を犯して下田か
ら米艦での密航を企て獄につながれる。のちに許されて安政3
年(1
8
5
6)萩に松下村塾を開き、有為の人材を養成した。平素
「尊皇攘夷論」を唱えて、安政の大獄の時に江戸で刑死。
1
6