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放浪から始まった旅の中で、映像作家"助川俊二"が描きたかった世界 | FEATURE | dof
04.9.11 22:40
dof さん。
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ドキュメンタリーとは?
一言でドキュメンタリーといっても、歴史的な事件や事故の真相に迫るものから、紀行もの、ある
いはどこにでもいるごく普通の人物の日常を、ある焦点から追跡するものまで数限りなく存在しま
す。「記録物でなければドキュメンタリーはできない」と思われるかもしれませんが、テーマは身近
なものでも可能であり、言い換えればどんな物でもドキュメンタリーになりうるわけです。
そしてその中には必ずといっていいほど、作り手のメッセージが声高にしろ、謙虚的にしても入っ
ているものです。自分はどのような視点で番組を作ろうというその視点がはっきりした上で、「こう
いう思いをしていたのだよ」と、主観では言えないまでにしても思いを伝えるというのがドキュメン
タリーであり、今流行の情報番組などとの境界はそこにあると思います。
私は今までテレビという媒体の中で活動してきて、それなりにさまざまな制作物に係わってきまし
たが、ここでは私が生涯通して取組んできたドキュメンタリーという分野について、少しばかり話を
させていただこうと思います。この分野にも多くの諸先輩たちがいます。そう思うと原稿を前にして
もなかなか文章が進みそうにありませんが、自分の失敗談等をこれからの人に伝えることこそ重要だ
と思い直して、書くことにしました。ただし、私には私が歩んできた道程の中で感じた事をほんの少
しお話しする事しかできません。それは、「ドキュメンタリーとは?」その回答はそんな私自身のド
キュメンタリーの中にしかないからです。
この世界にたどり着くまでの道のりと運命を感じる出来事
私は大学卒業後20年あまり、テレビ番組の制作に関
わってきましたが、すんなりこの業界に入ることを決めた
わけではありません。学生時代、御多分に漏れず私も何を
一生の仕事にすべきか考えあぐねていました。今、多くの
学生が、大学4年になると、決めたように就職試験に向か
いまが、その当時自分の中ではそんなことが納得できな
かったのです。そこで私は思いきって1年間休学してシル
クロードを放浪することにしたのです。欧米へ行くことも
考えたのですが、体力のある若い時にしかできない旅を体
験し、外から日本や自分自身を見つめてみたいと思ったの
です。私は団塊の世代ではありませんが、当時多くの若者
が作家"小田 実"の体を張った世界紀行「何でも見てやろ
う」をバイブルに諸外国に出ていました。正直言えば、自分がどのくらいの貧乏まで耐えられるのか
といった軽い気持ちが大部分を占めていたのかも知れません。
旅も中間点を過ぎ、所持金も底を尽き、一日一食食べることにも困窮していたインドで、当時「イ
ンド総局長」をされていた共同通信の"竹沢 護記者"に偶然に出会いました。ニューデリーのコン
ノートン広場で物乞いのようなことをしている時に、声をかけてきてくれたのが竹沢さんでした。ま
さに運命の出会いです。3日でも4日でもズレていたらおそらく巡り合う事はなかったでしょう。後
になって思えば、天から誰かが見てみて、「こいつはこの道に行かせよう 」という運命の出会いを
感じる出来事でした。事情を話すと支局に呼ばれ、それからしばらくの間、支局の部屋掃除や資料の
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整理などのお手伝いをすることになりました。
竹沢さんはアジアや中近東を仕事のテリトリーにして、精力的に活動していました。その時代にオ
ンタイムで起こっている様々な事件や出来事を必ず現場に出向き、自分の眼、耳など身体の五感を通
して取材し、世界に向け発信している姿が私には何よりも眩しくし、そしてカッコよく見えました。
竹沢さんはペンを使い、そして伝えるべきことを必死に伝えようとしておられ、ある時記事を書きな
がら彼はこんなことを言いました。「どんな些末な記事でも100%のエネルギーを使って書くこと。記事
は記録として後世に残り、その記事が原因で人が行動を起こすほどの要因を与えかねない、この地球で起
こっていることの中に重要でないものなどはない」と。
私は竹沢さんの仕事ぶりを傍らで見つめながら、私の中に彼と同じように多くの人に自分が考えて
いることや思いを伝えられないだろうかと言う思いが初めて湧いてきた時でした。毎日御馳走をいた
だき、身体も回復してお金にも余裕が出てきた私は、竹沢さんに礼を言い、インドのラダック地方へ
また放浪の旅を続けました。パキスタンと中国に挟まれたラダック地方は度重なる国境紛争が絶え
ず、1978年まで外国の観光客は入ることができなかったのですが、ヒッピー仲間からパーミッショ
ンなしで行けると聞いていたのです。チベット文化圏の未知の世界、憧れの地でもありました。
ひょっとして10数年ぶりに入るラダックでは日本人一番乗りかも。そんな気持ちがありました。
行きは3泊4日のローカルバスの旅です。3,000メートル級の峯嶺を上がったり下がったり、ハンド
ル操作をちょっとでも間違えれば否応なく死を覚悟しなければならない状況でした。どうにかラダッ
クの中心の街「レー」に着き安宿を探し、しばらくこの地にいることに決めました。見渡す限り360
度、3,000メートル級の山々だけですが、その景色の虜になっていました。
幸いなことに、隣町の寺院で大きな祭りがありました。その祭りには多くの少数民族が様々な正装を
して集まってくるのが習わしだそうです。今でこそ雑誌などに時々この地方の人々の暮らしなどが写
真付きで紹介されていますが、25 26年前にはそのようなものは全くありませんでした。そんな秘
境を若いせいもありましたが見てみたい好奇心で一杯でした。そして、ここでまたまた偶然に日本人
に出会うのです。
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進むべき道がみつかった出会い
群集の中からチベット教徒の踊りや集団祈祷式を見ている時、その儀式にカメラを担いで撮影して
いる日本人スタッフがいました。これが私にとって初めて見るテレビの番組撮影風景でした。重い機
材を背負いながらもスタッフの姿が生き生きとして感じられ、私の脳裏に鮮明に焼き付きました。放
浪の旅を終えて、日本に帰ってきてから偶然にもその番組を観る機会がありました。見事な構成と映
像でラダック地方の人々の暮らしぶりを描いていました。
「こんな仕事がしてみたい!」。漠然としてしたイメージですが、自分が進むべき道をやっと見つ
けた思いでした。そこで、そんな思いと、御世話になった礼を言うためにインドにいる共同通信の竹
沢記者に手紙を出そうとしていた時、思いがけないことが起こりました。
竹沢記者がイランで取材中に事故で亡くなったのです。当時のイランはアメリカの庇護を受け、
パーレビ王制支配下にあり、それに反対するイスラム教シーア派のホメイニ氏が亡命中のフランスか
ら支持者を動かし、殺傷沙汰の暴動もいたるところで起きており、戒厳令がしかれていました。その
一番弟子である人物に竹沢記者はイランの聖地コムで単独インタビューする予定だったそうです。事
故はその移動中に起こりました。事故は対向を走るトラックの運転ミスと言う単なる交通事故として
片付けられました。
事件の真相は分かりませんが、とても割り切れない思いがしたことと、竹沢さんに会わなければ自
分の進む道を見つけられなかったことを伝えられないもどかしさと悲しさでしばらく何もする気にな
れないほど、落ち込みました。今こうして、テレビと言う媒体を通して多くの方に自分の思いを伝え
る仕事ができるのも、あの旅で竹沢記者に会わなければ、不可能だったと思います。合掌。
迷っている若者たちへ
話は変わりますが、私は将来何をして生きて行けばいい
のか迷っている若者に会うと、必ず言うことがあります。
「もし本当にやりたいことが見つかっていないのなら、1
人で1年でも、2年でも外国へ旅してみなさい。できれば後
進国へ自分しか頼るものがない状況で、自分自身を見つめ
ることが大切。必死にもがいていれば必ず見つかるはず。
好きでもない仕事を無理にしているのは身体に良くない
よ」と。
今の若い人は30歳で結婚して、こんな生活ができればい
いのでは? という人があまりに多いと思います。つま
り、こじんまりとまとまった設計図が出来上がっているの
です。私の人生はそんなものはまったくありませんでし
た。だから、迷っている今の若い人を見ると海外に行くこ
とを勧めるのです。20 30代の1年間なんて大したことあ
りません。一度は外に出て、自分がどういうものかを見て
きたほうがいいと勧めるのです。日本で言葉が通じて生活
できていれば格好つけてしまいます。しかし頼るものの何
もない外の世界では格好をつけてる余裕なんてありませ
ん。どうやって生きていこうか 自分の強さも弱さをも感じるはずです。「情けない。こんなことで
涙がでてくるなんて 」と思うこともあるはずです。そういうことを知ることが大切なのです。
今までにそうした話をしてきた中で、2人の若者が外国へ出て行きました。帰国後、一人はこの業
界で、もう一人は全く違った分野へ進み活躍しています。悩んでいる若者の背中を少しだけでも押せ
たと思えると少々気分が良くなります。
虚構の映像への疑問と再出発
卒業後、テレビ局にはすんなりと就職できない年齢だったので大学の先輩の紹介で、あるプロダク
ションに入ることになりまして、そこで主にコマーシャルを製作に従事していました。しかし何本か
の撮影に立ち会っていると、どうも肌合いが会わないことに気付きました。
その頃はバブルのころで、中にはCMの内容も「懸賞○万円」といってお金をばらまくようなもの
もありました。その時私は助手でしたので、言われるがままに札束を持ってセットの上から降らせる
のです。「人を馬鹿にしているのでは?」と思った私はディレクターに食ってかかったこともありま
した。広告映像にも様々な切り口があり、中にはすばらしいメッセージ性をもったものもあります
が、基本的には、商品イメージを高め、購買力を推進するためにしていることであって、現実とは掛
け離れている「虚構」が映し出されている世界です。「これは違う」私が強くそう感じた瞬間でし
た。
その後私は3本のCMの製作に関わったのちに「自分のやりたいこととは全部違う」とわかったので
す。そのプロダクションを辞め、初心に返りフリーのADとして仕事をドキュメンタリー番組に求め
たのです。その頃、景気は活発でしたので、私のようなADでもドキュメンタリーに限らず、情報番
組などでも次から次に仕事はありました。
しかし早くディレクターになりたくて、たくさんの企画を書いていたのですが、いっこうに採用は
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されませんでした。先輩のディレクターからは「企画が通ればその番組をやらせてあげるよ」、とお
だてられながら必死に書く毎日でした。しかしその時、彼等からは「企画は千三つだよ」とも言わ
れ、企画を実現する厳しさについて身を持って知ることになります。「千三つ」というのは企画が
1,000ほどあっても、通るのは3つぐらいしかないということの例えで、企画を実現する難しさを表
すために私達の世界で良く使われる言葉です。
早く番組を作ってみたいと言う思いを抱え3年ほどADとして仕事をしている時に、キー局の番組
でディレクターになるチャンスが巡ってきました。
当時、日本テレビで放送されていた『現代の顔』という30分のドキュメンタリー番組なのです
が、番組開始直後のためか低予算でADが付かないので、取材のリクエストから原稿書きはもちろん
自分で音付けもしなくてはなりませんでした。
局側にしてみれば、ディレクターとしてもお金もかからないうえに、それなりにやるので、「こい
つらにやらせておけばちょうどいい」と思ったのでしょう。いきなり何から何まで1人でやらなけれ
ばならず、苦労したものの、1つの番組が完成した時の達成感には何ごとにも例えようがないほどの
充実感と満足感で一杯になったことを今でも色鮮やかに覚えています。
失敗と悔しさのくりかえし
以来、様々な分野の情報番組やドキュメンタリー番組を
作ってきました。冒険紀行もの、歴史的事件もの、人物ド
キュメントものなど。どの番組でも精一杯やったつもりで
も後からもう一度見返すと、「あの時はこうすれば良かっ
た」、「どうしてこんなことまで聞いてしまったのか」と
自責の念が内部から湧き起こってくる事もあります。おそ
らくこの仕事は百人いれば百通りのやり方があるのだと思
います。
でもその中で、個性を出さなければ次の仕事はありませ
ん。個性とは何か? 結構これが難問でした。若い時は映
像に凝ったこともあります。編集機のデジタル化が日進月
歩のように進んでいる時代だったので、エフェクトも数多
くありました。それを使って番組を製作したこともありま
す。「高視聴率を実現してプロデューサーからほめられた
い」、なんて言う気持ちも交錯してきます。所謂技に走っ
ていたのかも知れません。恥ずかしい思いも数知れずあり
ます。その時は悔しかったですが、次へのステップと思い
直し自分を奮い立たせていました。
番組を作る難しさを知ったのは『私の履歴書』というテ
レビ東京の番組でした。日本経済新聞に今でも連載されていますが、それを映像で表現するもので
す。今からおよそ20年前に企画された30分のレギュラー番組です。政治家や企業人、文化人、ス
ポーツ人など様々な分野で活躍された著名人たちの生きざまを視聴者に伝える番組です。人が60
70年と生きてきたことを30分の番組にまとめて行くわけですから、恐ろしいやら考えによっては無
謀な行為とも思えます。本人はもちろん、家族や友人、あるいはライバルにもインタビューしなけれ
ばなりません。それなりの知識も必要とされます。当時何から何まで30分の中に入れようとしてい
た自分がいました。
しかし、そんなある時、その番組の総合プロデューサーだった"藤井 潔"さん(現CRネクサス代
表取締役会長)から言われたことがあります。それは「君は番組で取り上げる人物のどこに魅力を感じ
ているのか? 好きならどんなところが好きなのか? もしも嫌いならばどこの部分が嫌いなのか? それ
をはっきりしなさい」そして「演出家は道具に過ぎない、たった一回しか見ない視聴者の気持ちになりなさ
い。」というものでした。ついつい演出家は制作の過程で必要以上に情報を入れ込もうとしてしまい
ます。この言葉は私にとって重いものとなりました。藤井さんからはその後も番組を作るごとに数々
のアドバイスを受けており、その時のメモが今でも手帳の隅で睨みを利かせてくれています。
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自分をさらけだすというやり方
ドキュメンタリーをやっていると、相手がたとえ著名人であっても、時には大変に失礼なことを聞
かなくてはならないこともあります。その人物像を追うと当たり障りのない表面的なインタビューで
はいい番組は作り出せないからです。私はこれまでの経験の中で、そんな時にはまず自分をさらけ出
すことが大切だと感じています。30年、40年と生きてきた自分の思いをまず話し、そして「こんな
人間が聞きますが、それでよかったら話して下さい」という気持ちで始めるのです。もし、逆の立場
だったら、いきなり知らない人が「あなたの人生は」なんて聞かれても、決して本音の話しはできな
いと思ったからです。
インタビューの場面では、ついつい相手に好印象をもたれたいという気持ちがでてくるものです
が、自分をさらけ出す事により相手の心を開く事ができる。私は経験の中でそう感じています。表面
的な言葉ではなく本音を引き出す。それこそがドキュメンタリーの醍醐味なのです。
書く事が重要
一般的な情報番組などでは、絵を作る人と文章を書く人とが別であるケースが殆どで、その為に局
のまわりには放送作家という肩書きの方々が沢山います。しかしドキュメンタリーは文章を書く人と
演出家は同じ人でなければならないと私は思っています。取材をした人でなければ本当に感じたこと
を伝えることができないからです。まだ若かった頃の私は、ナレーション原稿を箇条書きにして他の
人に任せていました。そんな時カメラマンの方から「ドキュメンタリーというのは原稿を自分で書かなけ
ればいけない。どんなに稚拙な文章だろうが伝える事ができるので自分で書け!」といわれた事があり、
私はそれを機に一生懸命書き始めました。場を重ねるにつれて自分の中にどんどん構築されていくも
のがあり、どんどん仕事が楽しくなっていき、ますますドキュメンタリーと言う世界に引き込まれて
いきました。
最近の映像人の中には文書を書けない人が増えています。これは企画書などでも言える事ですが、
文書を書くという事は映像においても大切なことです。
映像と言葉
番組を作っていると、よく言われることがあります。「画が足りないじゃないか! もっといろい
ろ撮ってこいよ!」これがプロデューサーがよくいう言葉です。確かに情報番組などでは様々なアン
グルから撮ったカットも必要かも知れません。しかい多くの場合、編集時の画づくりで潰しがきくよ
うにと、むやみに多くのカットが要求されています。
しかし、人物などを対象に追いかける時、それが反って邪魔になり嘘っぽくなることがあります。
これもまた大分昔のことになりますが、確か『NHK特集/命燃え尽きるとも』を見た時でした。作
家、檀一雄 の晩年を追っていた番組でしたが、画面は 檀一雄 が入院していた福岡のある病因の一室
だけ。それもほとんどが空のベッドという驚くほど単調な画でした。そして音声はテープに残されて
いた 檀一雄 の声とナレーションのみ。
しかし、見るほどにどんどん画面に引き込まれ、あっという間の45分でした。「画が足りな
い」、「画をなんとしなければ」、なんていうことよりもっと大切なことがあることを戒められた番
組でした。『視聴者に何を伝えるか』この明解な答えがありました。つまり、演出家から視聴者への
はっきりしたメッセージです。
映像の世界で仕事をしていると、どうも映像に対して畏怖的な程の心酔がありますが、私は思いや
感想を伝える言葉の方がより重要だと思っています。伝える文章はわかりやすい言葉でなおかつ簡潔
に。そして何カットも重ねたシーンよりもワンカットの画の方がより効果を出すということが多いの
です。
ついでにもう一つ苦言を加えるなら最近流行の話し言葉の文字化。つまりバラエティー番組でよく
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見られますが、登場人物の話す言葉をなぞるように画面いっぱいにテロップが覆い尽くすたぐいのも
のです。この処理の仕方には首を大きく傾けざるを得ません。テレビの画面からは「画」「現場音」
「ナレーション」「効果音」さらにその上に話し言葉が色や動きのついた文字となって画面一杯にそ
れぞれの情報が押し寄せる感じです。どんな人間もこのような情報を一緒に瞬時に理解することはで
きません。情報を伝える行為の自己満足に陥ることなしに、もう少し情報を伝えることに謙虚になっ
て欲しいと思います。過ぎたるは猶及ばざるがごとしではないでしょうか。
ドキュメンタリー番組ができるまで
前にも書きましたが、番組の企画を通すことは並大抵のことではありません。現在、私はNHKや民
放に企画を持ち込み、それが採用されればやっと番組が実現するという厳しい状況にいます。これま
でにたくさんの企画を書いてきましたが、そこで何より重要なのはその企画に対する情熱だと思いま
す。書き込みが足りない。つまり、思いが足りない。もっと思いを出せ、ということもあります。
「こんなものを作りたい」ということを、例えばNHKの企画の場合は、たったの1枚にまとめなけれ
ばなりません。情熱の篤さをいかに優しい言葉で簡潔に書けるかなのです。
もし、皆さんがこの世界で仕事を始めたら、ステーションのプロデューサーに何度企画を持ち込ん
でも返されるかも知れません。しかし、そのプロデューサーの悪口を言う前に、企画書を見直してみ
て下さい。もっと良い書き方がないか、何が説得する上で足りなかったのか。ほとんどの原因は企画
書の中にあるはずです。一度や二度、失敗はしたからといって諦めないことです。
また、企画書が通っても、番組が実現するまでにはまだまだたくさんの困難があります。実際の撮
影や仕上げの段階でもっと大変な困難なことが出てくるからです。そのくらい1つの番組が完成する
までのエネルギーは必要です。このくらいのことで根を上げてしまっているとドキュメンタリーは作
れません。
さらに、近年のテレビ番組は残念なことにドキュメンタリー番組が減少傾向にあります。すべては
視聴率という数字に支配されているからに他なりませんが実に残念な状況です。バラエティーとかド
ラマなどと同じ土壌で比較されてしまい、ドキュメンタリーも視聴率の1つとして捕らえられてしま
うのは違うはずです。視聴率というのもそこから考え直したほうがいいと私は思います。また、そう
やって視聴率をとれないからという視点だけでドキュメンタリー番組が減っていけば、悪循環でます
ますこの世界が狭くなっていってしまいます。しかし私は、そんな逆境の中でも1つでも実現させた
いと思い、これからも活動していく覚悟でいます。
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今、一番やりたいこと
多くの企画書が事務所の書棚に眠っています
が、どうしても実現したい企画が2つありま
す。それは第二次世界大戦とベトナム戦争を題
材にしたものです。1つは、「変わらなければ
いけない日本人の気質」をテーマにしたもの、
そしてもう一つは「知られざる人物もの」で
す。最初の企画はAD時代に書き上げたもので、
何度か手直しはしましたがあの時一気に書き上
げたエネルギーの結実です。どちらも今の若い
人に是非見てもらいたい。きな臭くなってきて
いる今の日本を見てきていると、なにがなんでも実現しなければと思っています。
放送局によっては「もういいよ戦争の話は」といわれたこともあります。もちろん、局を説得でき
ない力不足もあるのでしょうが、それはすごいショックでした。映像人であるわれわれこそが、そう
いうことを伝えていかなければならないという意識を持っていなければ、どんどんとテレビ媒体が駄
目になっていくのではないでしょうか。
私は、その企画書と撮影台本、構成ナレーション原稿が表舞台に出ることを糧に、これからも地味
な活動をしていきたいと思います。
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