韓国刑法の歴史的展開と課題

韓国刑法の歴史的展開と課題
-一八九四年から一九一〇年代までの刑法関連の法史的背景を中心にして-
崔
鍾 植
目次
Ⅰ 序 論
Ⅱ 一八九四年から一九一〇年代までの刑法関連の法史的背景
Ⅲ 結びに代えて
Ⅰ
序 論
韓国において西欧法が紹介されはじめたのは朝鮮時代の十七世紀頃からである。この
時期に実用主義を主張する一部の学者たちは、中国(清)において漢訳された西欧の書籍
を通して西欧法を接し、最初は伝統的華夷観から西欧法を批判したが、やがては東道西器
論的観点から西欧法を部分的ながら肯定する見解も見られるようになった。その後、一八
七六年日本との間で締結された江華島条約によって、一八八一年日本へ紳士遊覧団(紳士
視察団)を派遣するようになり、その一員が西欧法をモデルにして制定された当時日本の
明治法律を紹介しはじめた。つまり、西欧法が実体化した制度として朝鮮に紹介され始め
たことは開港以降日本を通してからである1。一八八〇年代後半に入っては、一部の改革派
は西欧法の中で肯定的要素を受容し法制を改革することを主張したが、しかし、このよう
な主張は、個人的な水準にとどまり制度の改革までは至らなかった。
韓国において近代的意味での法令体系の整備は、一八九四年甲午農民戦争2に続いた甲午
改革3以降からといえる。 刑事法については、 伝統的な固有法典と中国の明の「大明律」
をはじめとして、甲午改革をきっかけに施行されていた刑事手続に関する諸規定に基づい
て一九〇五年最初の近代的刑法典である「刑法大全」を制定した。この刑法大全は、条文
の表記をハングルと漢字の混用とし、刑罰を体系化し緩和する等、部分的な近代化を図っ
たこととして評価することができるが、国権の喪失によって本来の機能を尽くすことはで
きなかった。

本論文は、筆者の「韓国刑法の歴史的展開と課題」というタイトルの連作プロジェクトの一部である。
崔鍾庫、韓国法学史、博英社、一九九〇年、五七~六九頁。
2
朝鮮の内憂外患が重なり、民衆が疲弊の極に達して蜂起した農民反乱(東学農民革命)である。内政的に
は甲午改革を触発させたが、官軍と日本軍の連合攻撃によって敗退され完全な革命までは及ばず中途半端
のまま終ってしまい、さらに日清戦争の引き金にもなり結局日本帝国主義の朝鮮植民地化を加速させた結
果に繋がった。
3
甲午改革とは、 日清戦争で主導権を握った日本の支援を受けた親日派によって行われた非自主的改革
政治のことを言う(一八九四年七月から一八九六年二月まで)。身分制の打破、連座律の廃止、無断逮捕・
拷問禁止、刑罰の緩和等の改革をはかったが、日本軍による王妃殺害事件後、高宗(朝鮮王朝第二六代王
、在位一八六三年~一九〇七年)がロシア公使館に避難することによって崩壊された。
1
1
一九一〇年大韓帝国4が日本帝国主義に強制併合されて以来は、日本の刑法が朝鮮総督の
命令である「制令」の形で借用(依用)された。一九四五年解放とともに韓国には米軍が
駐屯することになり、形式的には一部の法令を廃止したが(一九四五年米軍政法令一一号、
一九四五年一〇月九日)、
「法律諸命令の存続に関する件」(米軍政法令二一、一九四五年一
一月二日)を公布して原則的に日本の旧法令の効力を存続させた。米軍政の「現状維持政
策」によって法制の整備は微々たるものであったが、令状制度の導入など人権伸長に多少
寄与した肯定的な意義もなくはない。しかしながら、日本帝国主義の単圧法令をそのまま
存続させた点については評価が分かれる5。解放後、韓国刑法典の制定作業は、政府樹立前
年度の一九四七年に始まり、一九五三年韓国戦争期に拙速立法の過程を経たものの終戦後
ようやく完成された。
この論文では、韓国刑法の歴史的な軌跡を辿る作業の一環として、一九世紀末期の動き
から一九一〇年日本の強制併合によって「朝鮮刑事令」(一九一二年)が公布されるまで刑
法制定と関わった主要な法史的背景を検討しようとする。
Ⅱ
1
一八九四年から一九一〇年代までの刑法関連の法史的背景
大韓帝国以前の朝鮮の刑事法体系
一八九七年一〇月大韓帝国として生まれ変わる以前の朝鮮時代における刑事法の体
系は、中国の明から受け継いだ「大明律」の刑律と朝鮮固有の国典(経国大典6、続大典7、大
典会通8等)の刑典とのいわゆる「典律体系」の身分刑法であった9。この中で、
「大明律」が
一般法であり、残りが特別法的な性格を帯びていた10。「大明律」と違ったり、「大明律」に
その定めがなかったりした事項については、朝鮮建国の初期からの王命・教旨・条例の中
で永久に遵守すべくものをまとめて編纂した「経国大典」の一つの「典」である「刑典」11
4
外勢の干渉によって国家の自主性が危うくなり、自主的な国家樹立を願望する国民の要求が高まること
によって、当時の朝鮮の国王であった高宗が「称帝建元」し一八九七年一〇月から一九一〇年八月まで使
用した新しい国号。大韓帝国は一九一〇年日本による強制併合(韓国併合二関スル条約、明治四三年八月
二二日調印条約第四号、同二九日公布発効)後、「韓国ノ國号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件(明治四三年八月二
九日勅令第三一八号)」によって再び朝鮮と戻った。
5
韓国の制定刑法が日本の改正刑法仮案をモデルとして制定されたことについては、拙著、「韓国刑法の
歴史的展開と課題(一)」、九大法政研究、第七四巻第三号、二〇〇七年、四六七~四九四頁。
6
朝鮮建国前後から一四八四年に至るまでの約一〇〇年間の王命・教旨・条例の中で重要な事項を選んで
編纂した、朝鮮国家の基本的な制度と規定を収めた法典である(六巻四冊)。
7
「経国大典」を補充して一七四六年編纂された法典として、特に刑事法関係の内容が多数追加された。
8
朝鮮末期の一八六五年に既存の「大典通編(一七八五年に編纂された法令集)」を補充して新しく編纂した
法典として、朝鮮の五〇〇年間のすべての法令が収録された総合法典である(六巻五冊)。「経国大典」、「続
大典」、「大典通典」と共に朝鮮時代の「四大法典」とも呼ばれる。
9
沈義基、「朝鮮時代의 刑事立法」、朝鮮法制史講義、一九九七年、一九六~一九七頁)。
10
조지만、「朝鮮初期의 大明律受容過程」、法史学研究第二〇号、一九九九年、二四頁。
11
「刑典」は二八の項目として大きく「刑法制」と「奴婢規定」に分かれており、前者には刑罰と禁令・各
種の刑具と刑執行の方法・裁判規定を収録し、後者には奴婢の相続・婚姻・刑罰等を定めた。
2
に従うことにした。「大明律」が基本的に儒教的価値の実現を追求する法であり、朝鮮王朝
もやはり儒教的法治主義を標榜するかぎりこれから外れることはできなかった。儒教的法
治主義が社会構造の側面では、国王を頂点とした身分制の秩序とこれを維持する道徳原理
としての三綱五倫に現れていたため、刑事法規の内容にはそのような原理が徹底的に貫い
ていた。とりわけ、同一な犯罪行為であっても犯罪者と被害者の関係がいかなるものかに
よって量刑において相当の差があった点が全体的な特徴だが、それをまとめれば以下のと
おりである。
第一に、尊長(祖父母・父母・夫等)と卑幼(子孫女・姪・妻妾)等、家父長制秩序の親族
関係によって犯罪に対する量刑が逓減・逓加した。第二に、両班(ヤンバン)と常民、奴
卑と奴主、雇主と雇工等社会的身分の差によっても刑罰の差があった。第三に、国王・王
室・官吏と一般人民・下吏等官職体系内における地位によって刑罰の差があった。第四に、
特定な犯罪の場合、第三者が犯罪に関与しなくても連帯責任を負わせ刑罰を加えることが
できる「連座制」が朝鮮社会の刑事法規のもう一つの特徴であった。
「大明律直解」12と「大
典会通」には、三綱五倫の倫理に重く違反した行為についても極刑を定めており、許され
ない十種類の罪として十悪を設けて13、これらの罪を犯した者に対してはすべて極刑と共に
連座制を適用しただけではなく恩赦の対象からも外した。連座制は十悪罪以外にも強盗罪、
蠱毒を製造・蓄積する行為にも適用された。この連座制は、一八九四年 6 月に「軍国機務
処」14で「罪人の本人以外に親族に対し連座刑律を一切適用しない」という議案を作成し、
高宗王の允許が下された以降廃止された。
朝鮮後期(一七〜一八世紀)に入っては、儒教的徳治理念によって僅かでありながらも刑
具、刑罰の改善・緩和、過酷な刑罰の廃止措置が行われたにもかかわらず、社会の基本的
な秩序に違背した行為については、依然として儒教的倫理が貫かれた刑事法規が適用され
た。
2 日本帝国主義による他律的法整備
一九世紀末から始まった法律の近代化作業におけるもう一つの特徴は日本帝国主義
の影響力である。まず、日本帝国主義は江華島事件(一八七五年)15を起こして一八七六年日
12
朝鮮建国の直後の一三九五年(太祖四年)、明の「大明律」を「吏讀」の形で解説した注釈書(三〇巻四
冊)。
13
十悪とは、謀反(王権に対する罪)、謀大逆(王陵・宮殿等に対する破壊謀議罪)、謀叛(外国との内通等
罪)、悪逆(尊属等を殴打又は謀殺した罪)、不道、大不敬、不孝、不睦、不義、内乱(親族姦通罪)の罪
を言う(大明律直解、名例律 十悪条)。
14
甲午改革を推進した中枢機関としてすべての改革法案を審議・議決した。
15
日本は一八七四年四月、台湾侵略に成功した自身を基に、朝鮮を開港させようという緻密な計画を練っ
た。一八七五年五月、釜山港に軍艦を動員して、武力示威を一度行った後、ソウルの西海岸にある江華島
海域に侵入して略奪事件を起こした(雲揚号事件)。そこで、朝鮮軍が砲撃すると、日本は、朝鮮軍が理由
なく日本の軍艦を攻撃したと無理難題を吹っかけて、「朝日修好条規」(江華島条約)の締結を強要した。
結局、朝鮮政権は、日本の武力威嚇に屈服して一八七六年二月二七日、この不平等条約を締結せざるを得
なかった(宋讃燮・洪淳権/藤井正昭訳、韓国の歴史、明石書店、二〇〇四年、二七三頁)。
3
朝修好条約を締結して以来朝鮮内で優越的地位を先占し、一九〇四年第一次日韓協約によ
って大韓帝国の外交権を制限し始め、一九〇五年第二次日韓協約によってその外交権を剥
奪し、さらに一九〇七年第三次日韓協約によって日本の統監が大韓帝国の立法権と行政権
及び司法権を掌握して事実上の統治権を行うことになり、結局、一九一〇年八月二二日日
韓併合条約を締結することによって大韓帝国は完全に国権を失った。このような状況に置
かれた大韓帝国は、日本帝国主義の影響力の下で、一八九四年甲午改革から一九一〇年日
韓併合まで一六年間多くの法令を制定・公布した。勿論、この時期において大韓帝国の内
在的・独立的な改革派による法制改革の動きがまったくなかったわけでもないが、時には
大韓帝国の反動的な皇帝派により、ある時期は日本帝国主義勢力により、その有無形の圧
力や妨害工作によって挫折されたりする渦中で、結局大韓帝国の滅亡によって良い結果に
は結ばれないまま終わってしまった。
一九一〇年から一九一九年三月一日独立運動が勃発するまで武断統治下で施行された
治安関連の法令は、一九一〇年の「集会取締法」、一九一二年の「警察犯処罰規則」
、
「朝鮮
笞刑令」、
「笞刑令施行規則」、
「笞刑令執行心得」及び「朝鮮刑事令」等がある。しかしこ
のような刑事司法は、朝鮮での民族的抵抗を遮断し粉砕するためにいろいろな例外を置い
ただけではなく、段々ファシズム刑法思想が染み込むようになって各種の特別法が作られ
施行された16。 当時朝鮮における法律については、日韓併合条約の公布当日、
「朝鮮ニ施行
スベキ法令ニ関スル件」(一九一〇年八月二九日、法律第三〇号)が緊急勅令の形で公布さ
れた。この法律の第一条は、
「朝鮮ニ於テハ法律ヲ要スル事項ハ朝鮮総督ノ命令ヲ以テ之ヲ
規定スルコトヲ得」と定め、また、
「法律ノ全部又ハ一部ヲ朝鮮ニ施行スルヲ要スルモノハ
勅令ヲ以テ之ヲ定ム」(第四条)とすることによって総督の制令制定権を法制化した。以降、
一九一一年にこの勅令と同じ内容である「朝鮮ニ施行スベキ法令ニ関スル法律」(一九一一
年三月二五日、法律第三〇号)を公布して法令体系を完備した。この法律は一九四五年まで
修正されず日本帝国主義による強占統治における法制の根拠法令となった。
3 刑事法制定の萌芽
一八六二年全国的農民抗争以降、朝鮮の身分制社会秩序は大きく揺れ始めたが、既
存の身分制的・家父長的な刑事法規に対する改革論は少なくとも一八八〇年代以前までは
現れておらず、おおよそ従来の手続と法規を守らなければならないという程度の論議にと
どまっていた。朝鮮における最初の近代的刑事法の導入に関する議論は、一八八二年金玉
均が懲役刑制度を導入しなければならないという、端緒的な提案をしてからであった。そ
の後、甲申政変17の失敗で日本に亡命した朴泳孝が一八八八年一月一三日、高宗王に提出し
16
許一泰、「制定刑法의 基本思想과 基礎理論」, 刑事法研究 第二〇号, 二〇〇三年 冬, 五七頁。
この政変は、一八八四年一二月四日金玉均を中心とした開花派が日本側の支援の下で起こしたクーデタ
ーとして、日本のような立憲君主制の樹立等を目指したが、清国軍の出兵を要請した守旧派の反撃によっ
て三日ぶりに失敗に終った。首謀者の金玉均等は日本とアメリカに亡命した。
17
4
た上疏文の中ではじめて刑事司法制度の改革を具体的に提示したが、その内容は、国王の
任意的裁判介入の禁止、過酷な刑罰と拷問の廃止、証拠中心の裁判、連座制廃止、裁判の
公開、懲役刑の導入等であった。その後、一八九四年七月に日本公使の大鳥圭介18は二七箇
条の「内政改革方案綱目」を高宗王に要求したが、その中にも、法務衛門の設置、連座律
の廃止、司法官による裁判原則の確立、拷問の制限と刑具・刑罰の整備などの刑事法関連
改革案が含まれていた19。また一八九四年一一月二〇日、日本公使として新しく赴任した井
上馨20は、再度二〇箇条の改革案を高宗王に提示しその実施を押し付けた。その中の第一〇
条は、刑法と民法を制定することが急を要するが、民法制定は大事業だから一朝にできる
わけではないので、さしあたり、第一着として旧律を改正し他国の刑律を参照しながら国
政に適合するように刑律を制定することを要求している。この要求に従って高宗は一八九
四年一二月一二日「洪範一四条」21を宣布し、その一三条において「民法及び刑法を厳正に定
め、むやみに勾留または罰してはならず、人民の命と財産を保護する22」とすることによっ
て刑法典の制定方針について公式的には初めて明らかにした。
これに基づき法令編纂方式については、一八九五年三月「各大臣間規約条件」第五二
条として定めた。その内容は、大明律から刑事法、民事法、軍法、行政法、税法等に該当
する条項を分類・区別し逐条修正を行うということであった。つまり、大明律に則った逐
条修正ということだったが、当時の改革主導勢力は、朝鮮が日本と同じような完全に西欧
的な法体制を備えることは時期尚早であり、当分伝統の法体制から新しく公布した命令や
公文の形式によって漸進的に内容を整えていくという立場を堅持していた23。このような過
程で作られた重要な法律としては、一八九五年 4 月の「流刑分等及加減例」24と「懲役処断
例」25がある。「流刑分等及加減例」は、第一条で伝統的な刑罰の一つである流刑を三等級
に分けて加減しており、第二条で流三〇〇〇里は流終身であり、流二五〇〇里は流一五年、
流一〇〇〇里は流一〇年と定めている。つまり、流刑と徒刑を懲役刑に転換する法律であ
る。この法律は唯二箇条のみとして構成されており、法律というより「令」に近い形のも
のである。
「懲役処断例」は、
「流刑分等及加減例」を制定してから僅か一四日後制定した
18
大島輔圭介公使は、当時本国の陸奥外相に送った建議書のなかで朝鮮に対する「保護国化政策」を主張
した人物である(日本外交文書、第二七巻Ⅰ、文書番号四二九、一八九四年八月四日付) 。この後、日本
は朝鮮保護国政策の実行準備のために「暫定合同条款」という秘密条約を結んだが、これによって朝鮮の内
政改革(干渉)のために各部分に及んで「顧問」が派遣できるようになった。
19
李元淳、「韓末日本人 雇聘問題研究―韓末外国人 雇聘問題研究 序説―」、『韓国文化』一一号、
ソウル大学韓国文化研究所、一九九〇年、五五二頁。
20
井上馨は現職内務大臣を自ら退いて伊藤博文首相に朝鮮公使の職を志願した明治元勲の大物であり、朝
鮮問題に対して幅広く与えられた裁量権を行使して日本帝国主義の朝鮮併合にその礎を築いた人物である
(上掲論文、五五五~五五九頁)。
21
日本帝国主義による朝鮮侵略の一環として押し付けられて作成されたが、朝鮮最初の憲法とも言われる
。
22
「民法刑法 厳明制定 不可濫行監禁懲罰 以保全人民生命及財産」(宋炳基外、韓末近代法令資料集Ⅰ
、一九七〇年、一三四頁)。
23
文竣暎、「大韓帝国期 刑法大全의 制定과 改正」、法史学研究、第二〇号、一九九九年、三五頁。
24
宋炳基外、韓末近代法令資料集Ⅰ、一九七〇年、三四七~三四八頁。
25
上掲書、三六二~三六三頁。
5
法律として、同じく流刑を懲役刑に変えて処断することを明らかにしているが、国事犯に
ついてはその例外にしている。この法律も二箇条のみとなっている。この法律はほとんど
漢城(今のソウル市)においてのみ適用され、地方の場合は既存の杖刑と流刑がそのまま
残っていた。このように、刑事法改革の萌芽が見え始めたものの、少なくとも一八九五年
までは、まだ既存の刑事法体系が維持されていたといえる。
4 刑法起草作業
本格的な刑法体系の改革は、一八九六年に入ってから特別法的刑法の制定を通して
始まった。このような特別法的刑法を起草した機関は「法律起草委員会」であった。
「法律
起草委員会」は、前述した「洪範一四条」の中、第一三条によって設立された。つまり、
一八九五年六月一五日「法部命令第七号法律起草委員会規定」を制定し、六月一九日委員
長一人、委員六人を選抜した26。これらは刑法、民法、商法、治罪法、訴訟法等を調査しそ
の改正と制定のための法案を法部大臣に提出する仕事を担当したが、創設当時の一八九五
年には積極的な活動はなかった。「法律起草委員会」が本格的な活動を行った時期は、一八
九六年二月から次の年の二月までであり27、一八九八年まで存続した。一八九五年初からは
日本人法部顧問として星亨28が任命されていたが、一一月に持病で帰国しその後任として一
八九六年二月から野沢鶏一29が新しく法部顧問として赴任し「法律起草委員会」の委員を兼
ねた。このように「法律起草委員会」は朝鮮人委員と日本人委員に分かれており、朝鮮人
委員は、
「賊盗処断例」
、「刑律名例」、「電報事項犯罪人処断例」、「郵便事項犯罪人処断例」
等の特別法的な刑法を制定し、日本人委員の野沢鶏一は朝鮮最初の近代的刑法典草案であ
る「刑法草案」の作成を担当した。
一八九六年四月一日の「賊盗処断例」30と二日の「刑律名例」31、同年八月七日の「電報事項
26
高宗実録三三巻、一八九五年六月一五日・一六日。
一八九七年まで「法律起草委員会」で活動した朝鮮人の委員は総二八名である(鄭鎮淑、「一八九六年
~一九〇五年 刑法体系整備에 関한 研究-刑法大全制定을 위한 基礎作業을 中心으로 하여-」、ソウ
ル大学大学院文学修士学位論文、二〇〇七年、一四~一六頁)。
28
星亨(一八五〇年~一九〇一年)は、一八七四年イギリスに留学して日本人最初に Barrister になった
人物である。日本の自由民権運動家でもあり衆議院議長、駐米特命全権公使と逓信大臣を歴任したが、政
争に巻き込まれて一九〇一年六月、東京市庁参事会室で伊庭想太郎に刺殺された(野沢鶏一編著、川崎
勝・広瀬順晧校注者、星亨とその時代Ⅱ、一九八四年、四〇〇頁;鄭肯植、「刑法草案解説」、法史学研
究第一六号、一九九五年、一八六頁)。 星亨は、一八九五年一月四日から一四日まで朝鮮を旅行し、二五
日東京自由党本部でその感想を演説した(星亨、「朝鮮の実況」、文献資料刊行会、『自由党々報』、第
五巻、一九七九年、三二〇六~三二一三頁参照)。おそらく、この旅行から帰った直後、朝鮮政府の法部
顧問として任命され再び朝鮮に派遣されたことと見られる。
29
野沢鶏一(一八五二年~一九三二年)は、一八七七年アメリカのイェール大学に留学し、一八九九年に
は神戸地方裁判所判事となり、一九〇四年からは公証人として勤めた人物で弁護士でもある(金孝全、近
代韓国の法制法学、二〇〇六年、三八五頁)。野沢鶏一は、星亨の食客・門弟としてまた義弟としての間
柄であり、星亨が民権運動で投獄された時には星亨とその家族の世話人役を務めたこともあり密接な関係
にあった(野沢鶏一編著、川崎 勝・広瀬順晧校注者、星亨とその時代Ⅱ、一九八四年、三八八~三九〇
頁)。
30
宋炳基外、韓末近代法令資料集Ⅱ、一九七一年、五二~六六頁。
27
6
犯罪人処断例」32、九月二三日に制定された「郵便事項犯罪人処断例」33は、まだ完成された
体系的な刑法典の形式はとっておらず、差し当たりその都度処罰規定だけを取り入れた特
別刑法的もしくは宣言的な性格のものであった。また条文の数も数箇条から多くて三〇箇
条余りのものであり、内容的にも刑罰が多少緩和されてはいるものの、依然として苔刑と
流刑、身分の貴賎によって刑に差等を置くなどの前近代的要素が残っていた。しかしなが
ら、「賊盗処断例」と「刑律名例」は、朝鮮政府の独自的な力で立法した法律という点から意
義がある。
「賊盗処断例」は、当時横行していた盗賊を処罰するための特別法として、本則二五箇
条と附則一箇条の総二六箇条に構成されており、「大明律」と国典である「大典会通」から
賊盗に該当する四つの犯罪行為を抽出して基本枠を定め、既存の規定には存在しなかった
が新たに設けなければならない事項を補充する形で作られた法律である。「賊盗処断例」に
よると、賊盗を強盗、窃盗、窩主34、准窃盗35の四種類として定めており、それぞれの構成
要件と刑罰を規定している。その他に共犯関係、用語の解釈、贓物の処分と計算、刑の減
刑事由を明らかにしている。この法律では、特に奴婢についての刑律上の差別を廃止して
いることが特徴である。主に強盗と窃盗に対する規定に重点が置かれた特別刑法である。
「刑律名例」は、一八九四年以降公布された議案・奏本・勅令・法律などの公文の中で刑
罰事項及び手続と関わったことを集め、その内容を体系的にまとめた法律である。ただ、
刑罰と手続は定めたものの、具体的にどのような行為を処罰するかについての規定がない
ため完全な意味の刑法とは言いにくい。しかし、過去の刑罰種類・執行手続などを新式に
転換する機能をしたので適用頻度は最も多かった。編制は本条三〇箇条、附則二箇条とな
っている。この法律によると、刑罰を死刑・流刑・役刑・苔刑と定めている。死刑は絞首
であり、流刑は終身と一五年・一〇年の三種、また役刑は最長終身から最短二〇日までの
一七等、苔刑は一〇〇回から一〇回に分けられた(第一条から第五条)。
「刑律名例」は施
行一か月後の一八九六年五月にはやくも改正され、刑罰を死刑と一〇等級の流刑、総一九
等級の役刑、苔刑として四分した。すなわち、
「刑律名例」によって、苔・杖・徒・流・死
の伝統的な五刑体制から死刑・流刑・役刑・苔刑の四刑体制へ転換し、名誉的自由刑とし
て流刑の性格を規定し、一〇ケ月以下の自由刑制度の導入及び苔刑後役刑という懲役刑と
身体刑との併科が取り入れられた。しかし、「刑律名例」はいまだ大明律を部分的に補う初
歩的な水準のものに過ぎなかった。
一方、「電報事項犯罪人処断例」、「郵便事項犯罪人処断例」は、甲午改革以降新しい電報
事務と郵便事務が開始されることによって、関連犯罪行為を処罰するための必要性から制
定された法律である。国家による電報・郵便事務は以前には全く存在しなかった制度であ
31
上掲書、六七~七〇頁。
上掲書、一三三~一三五頁。
33
上掲書、一七四~一七七頁。
34
窩主とは、強盗や窃盗を誘ったり教唆・指示したり或は親しく交わったりして迎え入れたりした者をい
う(第四条)。
35
准窃盗とは、詐欺をもって財物を編取した者をいう(第五条)。
32
7
ったため、その規律も新しいことでなければならなかったので当然大明律や伝統法典を参
照して定めることはできず、したがってこの二つの特別刑法は日本の法律を翻案して制定
するしかなかった。このため法律の規定方式においても既存の法律と違って処罰の種類・
程度が条文の前に位置しその下に違反行為が項目として並べていた。また、既存の法律は、
一罪一罰の原則だったことに比べてこの二つの法律は苔刑・役刑と罰金刑の中で一つを選
択する方式で処罰程度も上限と下限を置いて選ぶ方式である。当時の日本の「電信条例」
と罰則の規定方式において共通点がある36。この二つの法律はおそらく日本人の法律起草委
員であった野沢鶏一によって日本の法律が継受された可能性が高い。「電報事項犯罪人処断
例」は総一〇条であり、
「郵便事項犯罪人処断例」は総一一条として構成されており、刑罰
の内容は苔刑と罰金、役刑と罰金として定めているが、罰金刑という新しい刑罰を導入し
ている点が特徴である。
5「刑法草案」の作成と廃棄
「刑法草案」は、日本人顧問の野沢鶏一によって一八九六年二月から作成が始まって
同年六月に日本語原稿が完成され37、七月にはハングルへの翻訳38が終わり、一八九七年一
月に法部に提出されたが、やがて廃棄された。
「刑法草案」が法部に提出された一八九七年
一月には、作成者の野沢鶏一が契約期間の満了したことを理由として委員から解任され、
また他の朝鮮人の委員もほとんど退任している39。「刑法草案」を起草した中心人物が解任
された事実とこれに関連した記録が法部の文書のどこにも一切記載されていないことを見
れば、この「刑法草案」はおそらく法部内における検討の過程で廃棄されたようである。
その廃棄理由は明確ではないが、日本の旧刑法を継受した「刑法草案」が既存の「大明律」
や「大典会通」などの刑法体系に比べて相当改革的な内容が多くて、当時の朝鮮の状況と
しては受容が無理だと判断されたため廃棄されたのではないかと推測される。さらに、当
時の政局も「旧本新参」という復古と改革の後退路線に転換していた。それは明城皇后弑害
事件から始まった「乙未事変」40によって高宗がロシアの公使館に避難した「俄館播遷」41の
36
日本の「電信条例」は、博多久吉編、改正法令規則全書、一八九八年、三二三~三三四頁参照。
現在この日本語原本及び草案作成と廃棄に至るまでの具体的な経緯についての資料は残っていない。
38
「刑法草案」を朝鮮語で翻訳したのは玄暎運(一八六八~?)という人物であった。彼は日本に留学し慶応
義塾を卒業してから帰国後は、翻訳官・法律起草委員・駐日特命全権公使・陸軍参将などを歴任した日本
通の官僚であった。玄暎運は「刑法草案」を翻訳しその序文に当たる「意見書」で、法部顧問官であった野沢
鶏一が「刑法草案」を起草したことを明らかにしている。
39
国史編纂委員会韓国史データベース、法部来案第 3 号、一八九七年一月一八日照会第二号。
40
当時高宗の王妃だった明成皇后は、政界の裏面の実力者として親ロシアに傾いていたため、政界内親日
派と日本帝国主義に大きな障害物とされていた。一八九五年一〇月八日、日本の武士と親日派の群れが宮
廷に侵入し明成皇后を殺害した。当時朝鮮駐在日本公使であった三浦梧楼が彼らを指揮したという。この
事件を「乙未事変」という。
41
「乙未事変」によって身辺の脅威を感じた高宗が当時日本と対立関係にあったロシアに助けを求めるため
に、一八九六年二月一一日に密かにロシア公使館に避難した事件として、一八九七年二月一九日までロシ
ア公使館の保護下で排日政策をとり、同年二月二〇日に還御した。
37
8
結果、朝鮮に対する日本の影響力の萎縮とも関わりが深い。混乱した政局によって結局採
択されなかったが、「刑法草案」は、当時朝鮮半島における最初の近代的な意味での刑法典
だったことは間違いない。野沢鶏一は、序文において「刑法草案」の立法趣旨について、
「我
が国で明律を施行しているが、宮廷の礼儀に関する刑律、官吏執務に関する刑律、租税・
戸口・婚姻・葬儀・軍事に属した諸律及び身分差別的なすべての事項は今日の時勢に不適
合したり施行できなかったりする関係で、また他の法律で規律する必要があるので、一般
庶民に適用しにくい諸律は削除し、本法は僅か三〇〇条にすぎないが明律を網羅し時勢に
必要な事項はほとんど含んでいる」と明かしている。
「刑法草案」の本文は、各条文とこれについての解説として構成されている42。その序文
においても明らかにしているように、日本の旧刑法(一八八〇年、太政官布告第三六号)
を模倣したものとして43、編、章、節、款に分けて三〇〇箇の条文に構成された。第一編総
則で罪と刑を定め、各則にあたる第二編と第三編においてそれぞれ「公益所関犯罪」と「私
益所関犯罪」を規定している。「刑法草案」の刑罰体系は、既存の苔・杖・徒・流・死の五刑
体制から死刑、懲役・有役禁錮、禁獄・無役禁錮、苔刑、罰金刑の五刑体制に変わった(序
文、第一二条・第一三条)。 犯罪を主刑の軽重によって重罪と軽罪に分け、付加刑処分と
して「剥奪公権、停止公権」のような名誉刑制度を導入した(第一条、第一一条~第一四条)。
共犯規律においては、
「大明律」の「首犯・従犯」の体制と異なり「共同正犯・教唆犯・従
犯」体制を採択して共同正犯と教唆犯を正犯として処罰している(第二条~第四条)。刑罰の
規定方式においても刑の上下限を定める形をとっている。「刑法草案」の特色は次のようで
ある。
第一に、まず、日本の旧刑法との相違点である。
「刑法草案」は犯罪を定義するにおいて
日本の旧刑法と同じように「折衷主義的刑法観」をとっている44。「第一章犯罪」の解説に
よると、
「・・・犯罪とは、社会一般の意に反して公権や私権を侵害し、または国家を維持
している風儀道徳を壊乱させる非理した行為である」として折衷主義的立場を明らかにし
ている。しかし、日本の旧刑法は、犯罪を重罪・軽罪・違警罪に分けているが、「刑法草案」
はこの中で違警罪を削除した。その削除の理由について「日本の刑法には違警罪も刑法中
に編入しているが、元々違警罪は司法と行政警察規則に属する非行として一種特別な法律
をもって規定すべき者であり、その通例は犯意の有無を問わず、また害悪を事前に妨遏す
42
解説の主要内容はほとんど当時日本の刑法解釈論と立法理由書に従っている(鄭肯植、「刑法草案解説」
、法史学研究第一六号、一八八頁)。
43
野沢鶏一は日本の旧刑法を模倣した理由について、序文で次のように述べている。「この刑法は大体日本
刑法を模倣したが、日本刑法は仏蘭西刑法に依拠し、泰西(西洋)の学理を採用して東洋習俗に適当させ
たこととして、それゆえに、我が国もまた東洋に建国し、日本と数百年以来に風習がお互いに近似した点
があるので、翻案刑法が我が国に適合である」(「刑法草案」、序文)。日本旧刑法だけではなく、当時日
本の「改正草案」も参考資料になり、その結果日本刑法学の成果も反映されているので、日本刑法学の実
験立法だったという見方もある(鄭肯植、韓国近代法史攷、二〇〇二年、一五八頁)。
44
明治初期の刑法理論については、澤登俊雄、「ボアソナードと明治初期の刑法理論」、刑法理論史の総
合的研究、一九九四年、二~二二頁;澤登俊雄、「宮城浩蔵の刑法理論」、刑法理論史の総合的研究、一
九九四年、二四~五〇頁等参照。
9
ることによって行政上の事を整斉すると同時に司法の業務を補益しようとすることである
反面、犯罪は事後的発生を待ってはじめてその罪を問うことに過ぎず、さらに犯意と犯行
が必要になる点から違警罪に比べると表裏が相違するので、違警罪は本法では削除し別の
特別法律とする」と解説している(第一条解説)。刑罰の種類にも相違がある。日本の旧刑法
は、重罪の主刑として九種類、軽罪の主刑として三種類、違警罪の主刑として二種類、附
加刑として六種類の総二〇種類を定めている。これに比して「刑法草案」は、常事犯重罪
の主刑として死刑・終身懲役・重懲役・軽懲役、国事犯重罪の主刑として死刑・終身禁獄・
重禁獄・軽禁獄を定めている。また、軽罪の主刑として有役禁錮・無役禁錮・苔・罰金を
定め、附加刑として剥奪公権・停止公権・罰金・没水の総一五種類に縮めている。重罪の
場合、条文を常事犯と国事犯に分けて国事犯には懲役ではない禁錮を科すると明らかにし
ている点が日本の旧刑法と異なる。また、国事犯の死刑制度について、「法学者の間で国事
犯に対する死刑を除外することが妥当であるという議論もあり、文明国の中でも死刑を廃
止した国もあるが、・・・我が国は勿論東洋諸国は死刑を廃止するには至ってないので軽挙
を避けて古制に従う」という解説をもって言及している点が興味深い。このような解説は、
野沢鶏一が当時日本の刑法改正についての議論を反映して書き加えたのではないかと考え
られる。さらに、日本旧刑法の刑罰の中で、重罪の主刑である徒刑・流刑、違警罪の主刑
である拘留・科料、附加刑である監視の五つを削除している。徒刑や流刑を採択しなかっ
た点からすると、日本旧刑法より進歩した草案ではないかと思われる45。一方、日本旧刑法
は、第二条に「法律二正条ナキ者ハ何等ノ所為ト雖モ之ヲ罰スルコトヲ得ス」と定めて罪
刑法定主義を明文として宣言しているが、
「刑法草案」はこれを採択しておらず、行為時法
主義のみを定めている。「刑法草案」が日本の旧刑法から「違警罪」と「罪刑法定主義」を削
除した点は、一九〇一年日本の司法省草案、つまり現行日本刑法と同じである。それは、
日本の現行刑法の成立以前に、当時日本における改正議論を受容した新しい試験立法が朝
鮮において誕生したことを意味することではなかろうか。「刑法草案」はこの他にも、旧刑
法の第三編第一章第一節の「謀殺故殺の罪」から定めている殺人罪の中で、毒殺・誘導殺・
誤殺についての条文を削除している。一方、旧刑法は刑事未成年者を一二歳未満に定めて
いるが、
「刑法草案」は一〇歳未満として二歳も下げている。
第二に、流刑・杖刑の廃止と苔刑の存続である。その理由について野沢鶏一は、
「明律に
は流刑の制度がありまた日本刑法にもこの制度が設けられているが、流刑者の執行には多
くの費用がかかるだけではなく煩労であるため流刑を採用しない。また、杖刑はそれが軽
刑ではあるが、苦痛と身体に対する無益の創傷を与え犯罪者が営業や行動の力を失う恐れ
があるのでこれを除去する。苔刑は日本では廃止したが、イギリスでは施行されているの
でわが国で持続してもよいし、頑固で貧乏な人には罰金や拘禁は効果がないのでそのよう
な犯罪者を教化させるに程よい刑罰であり、また、外患罪や窃盗、詐欺のように情状が非
45
しかし、「刑法草案」を翻訳した当時の朝鮮人法律起草委員である玄暎運は、意見書のなかで流刑の廃
止に反対の立場を示している。
10
常に卑劣で悪い者と破廉恥犯については附加刑の意味として苔刑を併科し恥辱を与えたほ
うが効果的である」と述べている(序文)。
第三に、減刑事由についての特徴である。「刑法草案」は日本旧刑法と類似した減軽規定
を設けてはいるが、旧刑法のような「知覚精神の喪失者」に対する不処罰の規定は定めて
いない。しかし、日本の旧刑法には存在しない「復讐減軽」の規定を設けている点が特異
である。つまり、
「自己や親族、若しくは法によって保護や依頼すべき人が暴行または重大
な侮辱を受けることによって発怒乗勢して直ちにその凶行者に対して危害を加えた者は、
その罪を原宥して本刑に一等や二等を減ずる」とし、正当防衛とは別に「復讐減軽」の条文
を設けている。これは、三綱五倫を重視する儒教的法体系における「大明律」が復讐殺人
について寛大な姿勢をとってきたことを反映している。
以上のように、「刑法草案」はたとえ日本人の顧問官の手をかりて作成されたことではあ
るものの、西欧近代的な刑法を全面的に受容しようとした最初の試みだったという点から
意義がある。とりわけ、当時朝鮮の不安定な状況にもかかわらず、一年あまり野沢鶏一に
「刑法草案」の作成を一任した事実に鑑みれば、当時朝鮮政府が新しい刑法典制定に相当
関心を注いだことが分かる。たとえ、
「刑法草案」は廃棄されたものの、その体制と用語、
観点等は後の刑法案作成に影響を及ぼしている。
6「引律目録」の作成
一八九七年一旦解体された「法律起草委員会」は、一八九九年五月再構成され同年
一二月また活動を停止した。「引律目録」は同委員会の八月二五日までの活動の成果物とし
て、野沢鶏一の「刑法草案」が廃棄された以降、停滞状況にあった刑法案起草作業が当時
の大韓帝国の独自的な企画によって本格的に再開されたことが分かる重要な資料である46。
「引律目録」は、当時「法部」用の用紙に筆で直接書いたものであり、単行本ではなくそ
の用紙を綴った形であり、表紙に「引律目録」という題目がつけられている。しかし、「引
律目録」は、刑法総則にあたる第一篇法例、第二編罪例、第三編刑例の部分のみ記録され
ており、その条文の内容もない47。ただ、「増」とか既存法令の名称だけが簡略に表記され
ている。
「増」というのは、既存の法令にはない内容を増設した内容であり、新しく「引律」
する必要がある法令が含まれていただろうと考えられる。「引律目録」は、その三個編の体
制からすると後で公布される「刑法大全」の体制を完全に揃えている点から、
「刑法大全」
のための起草案であったことが分かる。その三個編の全体構成は次のようである。〔第一篇
法例、第一章用法範囲(第一節本法律施用権限、第二節告訴及聴理区域、第三節拘拿及立
証格式、第四節罪囚應禁應許条例、第五節期限通規、第六節名称分析、第七節等級区別、
第八節賊盗分類〕、
〔第二編罪例、第一章犯罪分析(第一節犯罪原有、第二節数罪倶発、第
46
文竣暎、「大韓帝国期
文竣暎、「大韓帝国期
五一頁。
47
刑法大典의 制定과 改正」、法史学研究、第二〇号、一九九九年、四一頁。
刑法大全制定에 関한 研究」、서울大学法学修士学位論文、一九九八年、
11
三節罪中又犯、第四節一罪再犯、第五節数人共犯、第六節未遂犯罪、第七節不論罪類)〕、
〔第
三編刑例、第一章刑罰通則(第一節刑名及獄具、第二節主刑処分、第三節附加刑処分、第
四節獄具施用処分、第五節公私罪処断例、第六節知情故縦及蔵匿処断例、第七節数罪処断
例、第八節又犯処断例、第九節再犯処断例、第一〇節共犯処断例、第一一節未遂犯処断例、
第一二節免罪及加減処分、第一三節加減次序、第一四節執行禁限、第一五節執行及執行処
分、第一六節刑期計算、第一七節徴債処分)〕
。
ところで、廃棄された「刑法草案」の跡がどのくらい残っているか検討してみると、
「引
律目録」の条文の内容を十分把握することはできないが、一部の条文の題目が一致してい
る点が見えるものの、体制の構成がほとんど異なっていることが分かる。つまり、
「法律起
草委員会」が独自的に刑法案を作成しようとしたことではないかと考えられるが、どちら
かと言えば、進歩的というよりは守旧的な色彩が強いと言える。
7「陸軍法律」の制定
一八九五年三月二六日束令第五五号で制定された「軍部官制」第六条、第一七条、
第一八条においては、軍部内に軍法局を設置し軍事司法に関する事項、監獄に関する事項、
軍法局と監獄の人員に関する事項などを分掌し、軍法局内に軍法会議を設置して軍人の重
罪を裁判することを定めた。これによって、軍法までとは言えないが、「陸軍懲罰令」を一
八九六年一月二四日束令第一一号で頒布した。この束令は、軍人と軍属が故意、過失、怠
慢などで軽罪を犯し刑法には該当しない者と品行が不良で軍人の面目を損傷させた者をそ
の上司が懲戒する罰則である(同令第二条)。このように「陸軍懲罰令」は、刑法典も制定
される前に「刑法」を前提としている。しかし前述した「刑法草案」の廃棄以降、刑法典
制定が不透明になり軍紀と軍律を立てるためには軍法制定が急を要したので、朝鮮政府は
一八九八年にまず「軍法起草委員会」48を構成することになった。この軍法の草案は、一八
九九年六月一六日にほとんどの作成が終わり、一九〇〇年七月にようやく校正作業を終え
て同年九月四日に法律第五号の「陸軍法律」として公布され、陸軍法院と陸軍監獄も設置
されることになった。
「陸軍法律」は特別刑法である軍刑法に当たり、当時の立法路線(旧
本新参・参酌折衷)に従い「大典会通」と「大明律」をモデルとしてその他外国軍法も参
考し作成された。総四編四五章三一七箇条(附則一条)と構成されている。第一、二、三
編は総則で、第四編は各則に当たる。
「引律目録」との関連を見ると、まず、この「軍法起草委員会」の委員の一部がほぼ同
じ時期の「法律起草委員会」の委員と重なっていること、また「引律目録」上の刑法案の
第一篇法例・第二編罪例・第三編刑例の体制が「陸軍法律」にも同じく挿入されているこ
との二点を考えると「引律目録」上の刑法案と「陸軍法律」との作成が並行されたことだ
48
この「軍法起草委員会」の委員の一部は、ほぼ同じ時期の「法律起草委員会」の委員と重なっているこ
とを見ると、「引律目録」上の刑法案作成と並行されたことではないかと推測される。
12
けではなく、
「陸軍法律」が「引律目録」上の刑法案を大幅に取り入れたことではないかと
推測される。
8「刑法大全」の制定
朝鮮の刑法典制定作業は、「刑法草案」が廃棄されて以来ほぼ八年ぶりの一九〇五年
四月二九日、「大韓帝国」期に入って「刑法大全」が公布とともに即日に施行されること
によってようやく完成された(法律第二号)49。「刑法大全」は、朝鮮の歴史上はじめて「刑
法」という名称を付けた法典であった50。「刑法大全」の制定は、日本を含んだ西欧の近代
的刑法の影響と伝統的な典律体制の刑法が複雑に絡まれる過程であった。「刑法大全」は
旧本新参、参酌折衷という大韓帝国の独自的な路線のもとで各種の法律、観点と理論を取
り入れようとしたが、全体的には当時の日本と中国の刑法典より皇帝権の強化などの守旧
的な性格が強く残った刑法典であった。つまり、野沢鶏一が主導的に作成し一八九七年廃
棄された「刑法草案」より劣っており、たかだか「大明律」を解体して別の方式によって
再構成しただけではないかという印象が強い。当時「大韓帝国」の微塵の改革思想として
は、西欧の近代刑法が盛り込んだ市民権思想や自由主義思想に接近することすら無理だっ
たかもしれない。結局、「刑法大全」は「最初の刑法」だったというより、「朝鮮王朝の
最後の法典」51、「中国法系最後の産物」52という評価がもっと相応しいように見える。こ
の「刑法大全」は、日本の強制併合後の一九一二年三月一八日公布された「朝鮮刑事令」
によって廃止されたが、第四七三条謀殺罪、第四七八条故殺罪、第四九八条親族尊長殺害
罪の第一号、第五一六条強盗・窃盗傷害罪、第五三六条強盗・窃盗強姦罪と各罪の未遂犯
処断規定は存続した。しかしこちらも一九一七年一二月に行われた「朝鮮刑事令」の改正
によって消え果てた53。
「刑法大全」は、総五編、一六章、一五八節、六七八箇条、附則 2 箇条として構成された
膨大なものであった。第一編法例・第二編罪例・第三編刑例は、刑法総則にあたり、三箇
章三五箇節一八九箇条である。第四編律例上・第五編律例下は、刑法各則にあたり、一三
箇章一二三箇節四八九箇条と成っている。第一篇法例においては、刑法の適用範囲と対象、
重要な手続上規定、基本的な名称を明らかにしており、第二編罪例においては犯罪を分析
49
「刑法大全」は予告も猶予期間も設けず公布即日から施行されたが、これは、当時の内政状況に照らして
ほとんど不可能なことでもあった。実務家らは新しく制定された刑法典について事前知識がまったくなか
っただけではなく、公布されてから一カ月が経った後やっと官報付録として「刑法大全」に接することが
できたからである。さらには、「刑法大全」の施行自体すら知らずに依然として旧法を施行していた地域
も少なくはなかった(文竣暎、「大韓帝国期 刑法大典의 制定과 改正」、法史学研究、第二〇号、一九
九九年、七五~七六頁)。
50
沈在宇、「朝鮮末期의 刑事法体系와 大明律의 位相」一四一頁.
51
朴秉濠、韓国法制史攷、一九七四年、四二九頁.
52
楊鴻烈、中国法律在東亜諸国之影響、一九三六年、一二六頁。
53
しかし、新しい「朝鮮苔刑令」の制定(明治四五年制令一三号)によって、「苔刑」は日本による植民地
の効果的統治の手段として活用され、一九二〇年ようやく廃止された。
13
している。第三編の刑例では、刑罰と加減例を定めており、また第四編律例上と第五編律
例下には犯罪の種類を定めている。
刑法大典の内容上の特徴は以下のとおりである54。第一に、官人間の差別(第六三条)
、
親族間の差別(第六四条)
、雇工に対する差別(第六五条)は従来のとおりだが、両班と奴
婢の貴賎による差別は廃止された。第二に、刑罰の種類を近代の刑法と同じように大きく
主刑と附加刑として分類し(第九二条)、主刑には死刑・流刑・役刑・禁獄刑・笞刑の五種
を(第九三条)、流刑・禁獄刑・苔刑は一〇等級と分けた(第九五条~第九八条)。附加刑に
は免官・免役と没入(没収)を定めた。死刑方法としては斬刑を廃止し、絞首刑のみにした(第
九四条)。第三に、まだ資本・労働関係が表に現れてはなかったが、労働運動のような性格
の行為に対して規制しようとする規定を設けていた(第六七六条)。第四に、法律に規定が
なくてもそれと類似している条文を根拠として処罰することができる「引律比附」
(第二条)
の規定とともに、さらに人間としてやってはいけないことを行った者を処罰するができる
「不応為律」(第六七八条)を設けることによって罪刑法定主義を否定しうる余地を残した。
第五に、同行や同居した人が、他人を謀害することを知りながらも止めなかったり、洪水
や火災または盗賊にさらされる危急さがあるにもかかわらず救護しなかったりした者に対
する処罰規定(いわゆる良きサマリア人法)も設けていたことが興味深い(第六七五条)。第
六に、一九〇六年と一九〇八年に日本の主導によって二回の改正が行われ、旧態依然の規
定が多数削除されたが、「引律比附」や「苔刑」がそのまま残されるなど骨格はそのまま維
持された。
以上のように、旧来の伝統的刑事法であった「大明律」を完全に払拭できず、近代刑法
典までとしては整えていなかった「刑法大全」ではあったものの、それまでに散らかられ
ていた刑事法規を統合した刑法典を有することになった点、一部は残されたものの身分刑
法の要素を大分なくした点、さらに独自的な刑法典を有することによって自主国家として
の面貌を外観上には揃えることになったという点からは、刑事法典の編纂史上において大
きな足跡を残したと言える。
9 朝鮮刑事令
日本帝国主義による植民地支配において刑事法令の根拠となったのは、朝鮮刑事令
であった(一九一二年、制令第一一号)
。朝鮮刑事令は、日本の刑法・刑法施行法・刑事訴
訟法等一二個の刑事法が朝鮮においても依用(適用)されることを定めている(第一条)
。
これによって日本刑法はその全文が朝鮮に施行されることになった。但し、一九〇五年制
定された刑法大典の一部を残存させ、刑罰の種類として日本刑法にはなかった苔刑を採択
するため「朝鮮苔刑令」を公布し朝鮮人に適用した。刑法大典から残存された犯罪規定は、
54
都冕會、「一八九四~一九〇五年間
二二六~二二七頁。
刑事裁判制度研究」、서울大学文学博士学位論文、一九九八年、
14
謀殺人律、故殺人律、親族殺人律、闘殴殺人律、姦人婦女律、強盗律であり、これらの刑
罰は原則的に死刑(絞刑)であった。そもそも日本刑法は、殺人は死刑・無期刑または三年
以上の懲役であり、強盗の法定刑は五年以上の有期懲役であったが、日本帝国主義は「殺
人罪・強盗罪に限って犯情が凶悪なものが多いため日本刑法の規定によって処罰する場合
は、従来に比して刑があまりにも寛大しすぎて治安維持に万全を期することができない」
と主張しながら、こちらの二つの犯罪に限っては当分の間刑罰が重い「刑法大全」に従う
ことを定めたのである55。このような例外規定が削除され、さらに朝鮮苔刑令が廃止された
のは一九二〇年に入ってからであり、この時から少なくとも表としては日本の刑法が全面
的に適用されることになった。
刑事訴訟法においても朝鮮刑事令によって一九一二年から日本の明治刑事訴訟法が依用
されたが、植民統治の効率性を高めるために特則規定が設けられた56。また一九二二年に全
面的に改正された日本の「大正刑事訴訟法」が一九二四年から施行された。しかし、大正
刑事訴訟法の進歩的な内容に対する除外例を設けて差別的な適用を図った。大正刑事訴訟
法の例外を認めた朝鮮刑事令における主な特則は次のようである57。
第一に、検察官にのみ認められている捜査における強制処分の権限(旧刑事訴訟法第二
五五条第一項)を司法警察官にも同じくその権限を付与した(朝鮮刑事令第一二条第二項)。
第二に、大正刑事訴訟法は、勾引した被告人に対して四八時間以内に勾留状が発付されな
かった場合には、被告人を釈放しなければならないと定めているが(旧刑事訴訟法第八九
条)
、朝鮮刑事令では、司法警察官が被告人を訊問した後、 禁錮以上の刑に該当するべき
者と思料するときは一〇日(制定当時は一四日)を超えない期間をもって留置することが
できると定め、司法警察官による長期拘禁が可能にした(朝鮮刑事令第一三条第一項、大正
一一年一一月二三日改正令)。第三に、被告人の勾留期間について大正刑事訴訟法は二月と
し、特に継続の必要がある場合には決定をもって一ヶ月ごとに更新することができると定
めているが(第一一三条)
、朝鮮刑事令ではその期間の例外を設けて二カ月を三カ月とし、
一ヶ月ごとを二カ月ごととしてその延長を認めている(朝鮮刑事令第一六条、大正一一年一
一月二三日改正令、昭和一〇年五月一八日改正令)。第四に、大正刑事訴訟法には、官選弁
護人を付ける場合として死刑・無期・または短期一年以上の懲役・禁錮に当たる事件とな
っているが(第三三四条)
、朝鮮刑事令には、死刑又は無期懲役・禁錮に当たる事件に限っ
て官選弁護人を付けることにした(朝鮮刑事令第二五条、大正一一年一一月二三日改正令)。
結局、朝鮮刑事令は表としては日本の刑法と刑訴法を適用するとしながらも、実質的に
は植民地における統治の便宜のために朝鮮人に対する差別的な適用を認めていただけでは
なく数多くの特別刑法をもって抑圧的・弾圧的な法執行を行ったのである。
55
韓寅燮、韓国刑事法과 法의 支配—過去 清算과 制度改革의 課題—、一九九八年、三〇頁。
56
上掲書、三一頁。
57
韓寅燮、韓国刑事法과 法의 支配—過去 清算과 制度改革의 課題—、一九九八年、三一頁〜三二頁;
日本国立公文書館アジア歴史資料センター(http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/MetaOutServlet)には当
時の「朝鮮刑事令」とその改正令が載っている。
15
Ⅲ 結びに代えて
一九世紀末からは朝鮮地域は、帝国主義列強の利権の争奪地として激動の中にあった。
このような中で、一八九四年の春、甲午農民革命によって社会全般にわたって改革の火が
燃え上がるようになった。しかし、日本帝国主義の強い影響の下で、朝鮮と大韓帝国の前
近代的な体制としては独自的で自主的な改革を進める力量が足りず根本的な限界があった。
近代的な刑法典の制定過程も朝鮮や大韓帝国の国家的運命と軌を一にする。伝統的な総合
法典である「経国大典」に含まれていた刑典が紆余曲折を経て一九〇五年に独自的な「刑
法大典」として成立したが、未だ中国の「大明律」の旧態を完全に払拭することはできな
かった。しかしながら、「刑法大典」は、朝鮮において「甲午改革」以降の立法成果が反映
された刑法典として大きな意味がある。結局、日本の強制併合による「大韓帝国」の滅亡
によって「刑法大典」は独自的な近代刑法典として進化する機会を失ってしまった。以降
植民地統治のために制定された「朝鮮刑事令」によって近代的と言われる日本の刑事法が
適用され始まったが、日本との差別的な適用を定めただけではなく、植民地法の抑圧的属
性による人権弾圧と法執行集団の君臨的態度等によって、法というものに対する異質感と
敵愾心及び疎外感をその遺産として解放以降の韓国に残したと58言える。
日本植民地から解放されて新しく樹立した大韓民国政府は、このような歴史的な背景を
どのように評価し再構成してから現在の「刑法典」を制定したかについては後続の研究課
題としたい。
58
韓寅燮、韓国刑事法과 法의 支配、五七頁。
16