かめれおん日記 ︱ 韓非子 ︱ 虫有蚘者︒一身両口︑争相齕也︒遂相食︑因自殺︒ 一 博物教室から職員室へ引揚げて来る時︑途中の廊下で うしろ 背後から﹁先生﹂と呼びとめられた︒ 5 ひと り ︱ 振返ると︑生徒の一人 え? 載っている︒ ﹁何? かく が 私の 前に 来 て︑ 顔は確かに知っているが︑ ︱ え? めんく ら みよ う カメレオンじゃな あか くと︑生徒は﹁ええ﹂と 頷 いて︑顔を赭らめながら説 うな ず 思い掛けないものの出現に面喰って︑私が矢継早に聞 いか︒生きてるの?﹂ カメレオン? 敷かれ︑その上に青黒い蜥蜴のような 妙 な形のものが とかげ 蓋の無い・菓子箱様のものを差出した︒箱の中には綿が よう 何かよく聞きとれないことを言いながら︑五寸角位の・ 名前がとっさには浮かんで来ない 6 明 し た ︒ 親 戚 の 船 員 の も の が カ イ ロ か ど こ か で 貰っ て来 たのだが︑珍しいものだから学校へ持って行ってはと云 うので︑博物の教師である私の所へ持って来たのだとい う︒ ありがと ﹁ほう︑そゃ︑どうも﹂有難うとも言わないで︑私はそ りゆう の箱を受取り︑ 龍 に似た小さな怪物を眺めた︒蜥蜴よ りもずっと立体的な感じで︑頭が大きく︑尾が長く捲き︑ ま えあし 寒さで元気が無いらしいが︑それでも︑真蒼な前肢で︑ ふん 生 徒 は 私に カ メ レ オ ン を 渡 し て し ま う と ︑ そ れ 以 上 私 しかつめらしく綿を踏まえている︒ 7 はず か そば っているらしい︒朴の枝から葉の方へと匍い出しては は 方々に向けて廻しながら︑その奧から見慣れぬ風景を探 まわ が外を覗く孔は極めて小さく︑その小さな孔をぐるぐる あな 少しずつ動き出した︒眼窩はかなり大きいのだが︑眼玉 がん か ったが︑その中に︑傍の火の温かみで元気が出たとみえ︑ うち 植の朴の木の枝にとまらせた︒はじめはジッと動かなか ほお がついた︒学校には温室がない︒取敢えず火鉢の側の鉢 とり あ 職員室へ持って行ってから︑始めて︑飼育の困難に気 を下げてから行ってしまった︒ の前に立っているのを 羞 しがるように︑ぴょこんと頭 8 からだ あしゆび つか 身体の重みで滑りそうになり︑葉の縁を趾指で摑んで支 わ ら えようとするが︑とうとう落ちてしまう︒何度も鉢の土 ゆか だの床だのの上に落ちた︒落ちる度に︑自分の失策を嘲笑 われて腹を立てた子供のように真剣な顔付で起上って︑ ︵背中に立っている装飾風なギザギザが︑ものものしい 、く 、ら 、め 、っ 、ぽ 、う 、に歩き出す︒ 真面目な外観を与えている︶め 職員達はみんな珍しがって見にやって来た︒大抵は︑ 何ですかと不思議そうに訊ねる︒国漢の老教師は︑どう 、つ 、で 勘 違 い し た か ︑﹁ そ れ は 何 で も 花 柳 病 の 薬 に な る や かげぼし しょうがな︒蔭干にして︑煎じてな﹂などと言い出した︒ 9 かたはね 誰かがどこからか蠅をつかまえて来て︑片翅をもいで てのひら くり だ ということになる︒しかし︑とにかくその簡単な設備が の蠅でも探して持って来させれば︑どうにかなるだろう︑ このまま学校で飼って見よう︒餌は︑生徒等に季節外れ えさ 箱のようなものでも作って︑なるべく暖い所へ置いて︑ 相談する︒どうせ長くは生きないだろうが︑カナリヤの 結局この生物をどう扱おうかと︑他の博物の教師達と い きも の つくと同時に︑もう口は閉 じられている︒ とうす朱色の肉の棒が繰出された︒舌の先端に蠅がくっ あか いろ から 掌 にのせて前に出した︒カメレオンの口からサッ 10 出来るまでは︑夜の寒さと︑猫などに襲われる心配のた めに︑私が預かってアパアトで養うことにした︒ おろ その夜︑私は部屋の小型ストーヴにいつもより多量の おう む 石炭を入れた︒この間死んだ鸚鵡の丸籠を下して︑その 中に綿を敷き︑そこへカメレオンを入れた︒水を飲むも の か ど う か 知 ら な い が ︑ とに か く ︑ 鳥 の 水 入 も 中に 置 い てやった︒ 滑稽なことに︑私は少からず悦ばされ︑興奮させられ て い た ︒ 寒 さ な ど の た め に や が て は 死な せ ね ば な る ま い 11 との考えだけが私を暗くした︒どうせ永く持たないのな まぶ る光と熱︒珍奇な異国的なものへの若々しい感興が急に の艶︒油ぎった眩しい空︒原色的な鮮麗な色彩と︑燃上 つや た︒かつて小笠原に遊んだ時の海の色︒熱帯樹の厚い葉 奇 な 小 動 物 の 思 い が け な い 出 現 と 共 に ︑ 再 び 目 覚 め て来 久しく私の中に眠っていたエグゾティスムが︑この珍 うに︑私は感じているのであった︒ すのが惜しい︒まるで私個人が貰ったものであるかのよ た︒動物園へ寄贈すれば︑とも思ったが︑何かしら手離 ら︑学校で飼わないで︑自分のところへ置きたいと思っ 12 、ぞ 、れ 、もよいの空だというのに︑ 溌剌と動き出した︒外はみ ふく 私は久しぶりで胸の膨れる思いであった︒ ス ト ー ヴ の 近 く に 籠 を 置 き︑ 室 の隅 に あ っ た ゴ ム の 木 と谷渡りの鉢をその傍に並べた︒私は籠の入口をあけて お い た ︒ ど う せ 部 屋 か ら 出 る 心 配 は な し ︑ 時に は 木 に と 朝起きて見ると︑カメレオンはゴムの木などには止ら 二 まりたくもなろうかと思ったからである︒ 13 がんこう と思ったのである︒まさか学校でも一匹のカメレオンの いても同じことだから︑私のところで飼わせてもらおう へ行く︒昨晩考えたように︑設備が無いのなら学校へ置 勤めの無い日なのだが︑カメレオンのことで午後学校 ナ︒ 物 は シ ョ ペ ン ハ ウ エ ル の パ レ ル ガ・ ウ ン ト ・ パ ラ リポ メ 私の方が少々咽 喉を痛め た︒カメレオンの乗ってい た書 も昨夕はかなり部屋を暖めたので︑乾きすぎたせいか︑ からこちらを見ていた︒思ったより元気らしい︒もっと ずに︑机の下に滑り落ちた書物の上に乗って︑小さな眼孔 14 こしら ために温室を 拵 えてはくれまい︒ 学 校 へ 行 っ て そ の 許 可 を 求め る と ︑ 校 長 は じ め 他 の 職 きのう 員達はもうほとんど昨日のことを忘れていたかのような くちぶ り 口 吻 だ っ た ︒﹁ あ あ ︑ あ の 昨 日 の 虫 で す か ! ﹂ と い う ︒ 私一人が︑この小爬虫類の出現に狂喜していただけだっ たのだ︒ 生 徒 達 の 所 へ 行 っ て ︑ 昨日 頼 ん で お い た 蠅 を 貰 う ︒ 思 いの外︑蠅は生残っているものだ︒マッチ箱に一杯集ま 蠅を持って帰ろうとしていると︑後から国語の教師の った︒之で二三日分の餌には足りるだろう︒ 15 吉田が追いかけて来て︑ちょうど自分も帰るからとて一 ゆうおう まいしん 凜 々 た る 偏 見 に 充 ち 滿 ち て ︑ あ ら ゆ る 事 に 勇 往 邁進 す る りん りん 大 家 ︒︵ 本 質 論 な ど 惡 魔 に 喰 わ れ て し ま え ! ︶ 常 に 勇 気 い︒疲れる事を知らぬ働き手︒有能な事務家︒方法論の 、れ 、る 、﹂などという気持と縁の遠い人間を私は知らな ﹁て り実用向きで︑恥も外聞もなく物質的で︑懷疑︑羞恥︑ 私とほぼ同年だが︑全くこの男ほど精力絶倫で思い切 話す︒ い︒M・ベエカリイに寄って茶を飲みながら一時間ほど 緒に歩き出す︒何か話したくてたまらぬことがあるらし 16 へん しゆう 男︒運動会︑展覧会︑学芸会︑校友会雑誌の編 輯 ︑そ の他何でも彼が一人で片附けてしまう︒抽象とは彼にと せん べい って無意味と同義である︒今年の正月のこと︑どこかの み かん 級のクラス会で︑生徒が三四人︑蜜柑や煎餅を買出しに 行 っ た ︒ 学 校 の 前 は 山 手 か ら 降 り て来 る 坂 に な っ て い る のだが︑その坂の中途まで︑風呂敷包をぶら下げた買出 し係の生徒等が上って来た時︑一人の持っていた風呂敷 が解け て︑ 中から蜜 柑がこ ぼれ た︒二つ︑ 三つ︑四つ⁝ ⁝ 七 つ ︑ 八 つ ︑ かな り 急 な 坂 と て ︑ 鮮 かな 色 を し た 蜜 柑 が続々ところがり出した︒その生徒は思わぬ失策にひど 17 く顔を赭らめ︑風呂敷を結び直すのがやっとで︑転がる かけ お い上げ︑坂の片側の溝に転げ落ちることを防いだのであ にまた駈け出し︑とうとう十五六の蜜柑をことごとく拾 柑を追いかけた︒一度転んだがすぐ起上り︑砂も払わず はら 立つ生徒を突き飛ばして︑短軀の彼は背中を丸くして蜜 たん く 砂利で滑りそうになり︑つんのめりそうになり︑途中に れを見るや猛烈な 勢 で駈下り始めた︒小石を蹴とばし︑ いきおい あろう︒ちょうどその時坂の上に立っていた吉田は︑こ の往来も相当にあるので︑ちょっと羞ずかしかったので は 蜜 柑 を 追 い か け る ど こ ろ で はな か っ た ︒ 学 校 以 外 の 人 々 18 あつ け る︒生徒等も通行人達も呆気にとられて立止り︑彼の猛 烈 な 勢 に 見 と れ て い た ︒ 吉 田 は 蜜 柑を 手 に 持 ち ポ ケ ッ ト にも入れ︑ ﹁み んな ボ ヤ ー ッ と 見 と っ ち ゃ 駄 目 や な い か ﹂ こごと と生徒等に叱言を言いながら︑また登って来た︒彼の顔 あか が赧くなっていたのは︑単に走ったからなのであって︑ まさ 、れ 、て 、いたためではない︒正に︑この男こ 決して︑彼がて あるいは︑ そ︑私の︑もって模範とすべき人物だとその時︑私はし ︱ かく生くべし︑と︑私に教えてくれるのだ︒ みじみ思った︒この男はいつも︑人間は ︱ 生物は 高等小学生的人物と彼を評した者がいる︒小学校の高等 19 科の生徒というものは中学生のような小生意気さが無 の推定額まで︑書入れてある︒彼はこういう事を探り出 出 し て 丹 念 に 書 並 べ た も の だ ︒な お︑ 前 年 度 の ボ ー ナ ス 立学校で︑職員録に明示されない︶彼がどこからか聞き で二度目である︒それはこの学校の全職員の俸給表で︵私 出して私の前に拡げた︒私がそれを見せられるのは今日 話をしながら︑吉田は︑内ポケットから一枚の紙を取 剌たる高等小学生の方が遙かに立派だと︑私も思う︒ か判らないというのである︒影の薄い大学生よりも︑潑 く︑実に良く働いて︑中学生などよりどれほど役に立つ 20 じようず すことが実に上手で︑またそれを自ら得意としている︒ こと 自分と交際のあるすべての人間について︑彼は︑一々興 み もと 信所的な方法で身許調査を行っているもののようだ︒殊 に自分が反感をもつ人間に対しては︑執拗なほど徹底的 きず に 調 べ 上 げ て ︑ 彼 等 の疵 を 探 し 出 す の で あ る ︒ こ の 俸 給 うち 表の中︑彼よりも不当にも俸給の多い教師の名前の横に る の は︑赤鉛筆で棒が引いてある︒彼はそれを誰彼に示して る は︑関西弁で縷々として不平を陳べるのである︒ は じ め の 交 渉 の 仕 方 一 つ で ︑ ど う に で もな る ん で︑決 、ん 、と 、取りよるんや︒ ﹁割烹のTな︑女のくせに僕よりた 21 った標準は無いのやでなあ︒目茶や︑まるで︒﹂ この前に一度この表を見せた時も︑同じような言葉で︑ んですよ︒そうしたら︑なるほど︑もっともだから︑ なんぼでもよいからTさんより上にして下さい言うた も長いんやから︑心臟が強い云われるかも知らんけど︑ に行ったんですよ︒とにかく此方は教育を受けた年限 こつち ﹁それで︑あんまり目茶やから︑僕︑校長の所へ言い か棒が引かれている︒ の 名 前 の 上 だ け は ︑ 赤 鉛 筆 に 副 え て 青 鉛 筆 で も 濃 く 何本 そ Tという割烹の教師のことを言っていた︒今見ると︑T 22 では︑Tさんより三円だけ多くしましょう︑いうて︒ 三円やで︒たった︒それでも今よりは︑まあ良いけど︒﹂ 吉田はその俸給表を前に拡げたまま︑つづいて︑職員 の一人一人についてその経歴やら家庭的な事情やらを話 し出した︒女教師の中︑誰と誰とは女高師を出たという ふれ こみ 触 込 で 来 て い る が ︑ 実 は 臨 時 教 員 養成 所 を 出 ただ け で あ ふたつき ること︒国語の主任をしているNが月給を二月分前借し ていること︒図画の老教師Hが表具屋︑絵具屋等と生徒 、ら 、く 、サヤを取っていること︒英語のSが音楽 との間でえ の女教師と近頃よく連立って歩いているという噂のこ 23 と︒他人の秘密を知っていることが吉田にとってこの上 に摩擦を起すようだ︒ ひ と を 有 た な い 時 の 状態 み た い に な っ て ︑ と か く 他 人 と の 間 も に追われていないと︑胃酸過多の胃が︑消化すべきもの だこじれているものの由である︒吉田という男は︑事務 よし の教師達との間に︑当時︑意見の衝突があり︑それがま わ れ た 運 動 会 の プ ロ グ ラ ム の進 行 に 関 し て ︑ 吉 田 と体 操 操科の教師とも渡り合ったらしい︒これは何でも先月行 は今日︑主任のNと何か口論したらしく︑また別に︑体 なく満足なような話しぶりである︒彼の話によると︑彼 24 一時間ばかり彼の話を聞いてから︑余り愉快ではない 気持になって︑蠅の詰まったマッチ箱を持って帰る︒ なに げ すか 夜︑外へ出て何気なく東の空を仰いだ時︑私は思わず えのき ﹁アア﹂と声を出した︒裸になった 榎 の大樹の枝々を透 して︑春以來︑半年ぶりでオリオンの昇って来るのを見 付けたからである︒青い小さな蜜柑が出始めると︑三つ カ ペ ラ 星さまが見え出すんだよ︑と幼い頃祖母によく言われた よ みが え り き こ と が 記 憶 に 甦 っ た ︒ オ リ オ ン の上 に は 馭 者 座 だ の ︑ は 紅 い ア ル デ バ ラ ン だ の ︑ 玻 璃 器 に 凍 り つ い た 水滴 の よ う 25 、ば 、る 、だのが︑はっきりと姿を見せている︒恒星達ば なす ユウピテル と 真 マルス 実 ﹂ の自信に溢れた筆つきで記されている︒高等学校の理科 あふ た日の・瑞 象 に充ちた星座の配置が︑自己の偉大さへ ずい し よ う の冒頭を思い出していた︒そこには︑この詩人が誕生し 三つの惑星を見上げながら︑私は︑﹁ 詩 デ イ ヒ ト ゥ ン グ ・ ウ ン ト ・ ワ アル ハ イ ト かなり冷えるけれども︑風の無い静かな晩であった︒ とに四辺を払うばかりである︒ あたり あろう︒殊に木星の白い輝きの明るさは︑燦々と︑まこ さんさん 間隔をおいて並んでいるのは︑土 星 と木 星 と火星とで ザトウルン かりではない︒南の空に高く︑左から順にほぼ同じ位の 26 三年の時︑第二外国語の教科書としてこの書物が使われ︑ この冒頭の所の訳読が私にあたったので︑はっきり覚え ているのである︒急に︑教科書に使ったその本の緑色の 表紙︑それを金色で拔いた標題の文字︑それを始めて手 ドイツ にした時の印刷インクの匂など︑また︑独乙語の教師の 風貌や︑その声つき︑それから当時の級友達のことまで が鮮かに頭に浮かんで来 た︒ や 青春への郷愁に胸を灼かれるような思いをしながら︑ 私 は 部 屋 に 帰 っ て 来 た ︒ 本 棚 や本 箱 を ひ っ く り 返 し て ︑ まだ残っているはずの・昔使つた﹁詩と真実﹂を探して 27 見たが︑見付からなかった︒取散らかされた書物の間で︑ き かつ 通って行く明るい夜汽車の窓々を見送る時に似て︑今ま たような気がした︒田舍の暗い田圃道から︑土手の上を たん ぼ みち ページの Operaと い う 文 字 に 目 が と ま っ た 時 ︑ 私 は ︑ 瞬間ハッと何か明るい華やかな若々しいものが前を過ぎ と し て 英 和 辞 典 を バ ラ バ ラ と 繰 り な が ら ︑ 偶 然開 か れ た 二三日前にもこんなことがあった︒ある文字を引こう いようのない気持であった︒ としてはいられないような・遣瀬ないとでもいうより言 やる せ し ば ら く は ︑ 若 さ へ の 愛 惜 と︑ 友情へ の 飢 渇 と に ︑ じ っ 28 ですっかり忘れていた華やかな夢の一片が︑遠い世界か らやって来てチラリと前を通り過ぎて行ったような気が した︒私がまだ学生の頃︑当時は映画館でなかった帝劇 に︑毎年三月頃になると︑ロシヤとイタリイから歌劇団 ね が来演した︒カルメンやリゴレットやラ・ボエームやボ か リス・ゴドノフなど︑私は金銭の許す限りそれらを見に 行った︒明るい照明の中で︑女優達の豊かな肩や白い腕 うぶ げ に生毛が光り︑金髮が搖れ︑頬が紅潮し︑肉感的な若々 ふる という︑ たった五字 が︑失われ た・ 遠い・華やか Opera しい声が快く顫えて︑私を酔わせた︒偶然目にした 29 、ら 、と匂わせ︑しばし私を混 な世界のかぐわしい空気をち Opera じうじと︑内攻し︑くすぶり︑我と我が身を嚙み︑いじ 実際︑近頃の自分の生き方の︑みじめさ︑情なさ︒う ことが一番大きな原因に違いない︒ 身を打込める仕事を︵あるいは︑生活を︶有っていない も はいう︒自分もそうは思う︒しかし何といっても︑現在 回顧的になるのは身体が衰弱しているからだろうと人 という字を見詰めたまま︑ぼんやりしていた︒ 乱させた︒所要の文字を探すことも忘れて︑私は 30 シ ニ シ ズ ム け果て︑それでなお︑うすっぺらな犬儒主義だけは残し ている︒こんなはずではなかったのだが︑一体︑どうし とにかく︑気が付いた時には︑既にこんなヘン て︑また︑いつ頃から︑こんな風になってしまったのだ ろう? なものになってしまっていたのだ︒いい︑悪い︑ではな い︒強いて云えば困るのである︒ともかくも︑自分は周 きようじ 囲の健康な人々と同じでない︒もちろん︑矜恃をもって い う の で は な い ︒ そ の 反 対 だ ︒ 不安 と 焦 躁 と を も っ て い うのである︒ものの感じ方︑心の向い方が︑どうも違う︒ 、 みんなは現実の中に生きている︒俺はそうじゃない︒か 31 、る 、の卵のように寒天の中にくるまっている︒現実と自 え 、の 、を一つの系列 また︑も ︱ ある目的へと向って排列さ 意 味 に お い て の ・ 功 利 主 義 が 私に は 欠 け て い る よ う だ ︒ ある︒たとえば︑個人を個人たらしめる・最も普遍的な しい︒それも一つの能力でなく︑幾つかの能力の欠如で っと根本的な・先天的な・ある能力の欠如によるものら たことがある︒しかし︑どうもそうではないらしい︒も めはそれを知的装飾と考えて︑困りながらも自惚れてい うぬぼ る︒直接そとのものに触れ感じることが出来ない︒はじ 分との間を︑寒天質の視力を屈折させるものが隔ててい 32 ︱ れた一つの順序 として理解する能力が私には無い︒ 一つ一つをそれぞれ独立したものとして取上げてしま う︒一日なら一日を︑将来のある計画のための一日とし て考えることが出来ない︒それ自身の独立した価値をも っ た 一 日 で な け れ ば 承 知 で きな い のだ ︒ そ れ か ら ま た ︑ ものごと︵自分自身をも含めて︶の内側に直接はいって 行くことが出来ず︑まず外から︑それに対して位置測定 を試みる︒全体におけるその位置︑大きなものと対比し sub specie たその価値等を測ってみるだけで失望してしまい︑直接 そのものの中にはいって行けないのだ︒ 33 ︱ に見る︑といったって︑別に哲人がる訳では aeternitatis ない︒それどころか最も平凡な無常観をもって見る う無意味な生き方だったか︒精神の統一集注を妨げるこ 考えてみれば︑大体︑今までの生き方が︑まあ何とい 力を抛棄してしまうのだ︒ ほう き アアツマラナイナアという腹の底からの感じ︶一切の努 無 意 味 さ を 考 え て ︵ 本 当 は 感 ず る のだ ︒ 理 窟 で は な く ︑ ある︒実際的な対処法を講ずる前に︑そのことの究極の て考えるために︑まずその無意味さを感じてしまうので つ ま り ︑ 何 事 を も ︑︵ 身 の 程 知 ら ず に も ︶ 永 遠 と 対 比 し 34 とにばかり費された半生といってもいい︒とにかく私は 自分を眠らせ︑自分の持っているものを打消すことにば かり力を尽くして来たようなものだ︒ おそ か つ て 自 分 に も 多 少 は 感 覚 の 良 さ が あ っ た 時分 に は ︑ はし 私はそれにのみ奔ることを惧れて︑自分の欲しもしない ・無味な 概念のかたまりを考えることによって感覚を鈍 つと 、色 、 くしようと力めた︒そうして︑結局すべての概念が灰 だと知った時︑また︑自分が苦心の結果取除くことに成 、金 、な 、す 、緑 、色 、をなしてい 功したところのものが︑いかに黄 すべ たかを悟った時には︑すでにそれを取返す術を失ってい 35 失われているのだ︒ も 薬品の過度の吸入や服用その他によって︶自分にそれが をもって悟るようになった今となっては︑はや︵種々な な意味において精神のこの能力に負うていることを︑身 した︒さて︑人間生活の多くの貴い部分が︑最も基礎的 で︑少くとも︑これを利用することだけは避けるように の力を撲滅しようとした︒これは随分無理なことだった︒ は︑足し算しか出来ない人間と同じだと云い︑自分のこ 頃︑私はこれを軽蔑した︒記憶力しか有っていない人間 るのだ︒私がかつて︑かなり確かな記憶力を有っていた 36 とこ 今でもそうだが︑以前から私は︑夜︑床に就いてから ねむ 容易に睡れない︒これは主に︑この十年間一晩として服 ぜん そ く 、い 、なのだが︑結 用しないでは済まない喘息の鎮静剤のせ 局睡眠の時間は二時間か三時間位のもので︑かえって︑ 昼間は一日中ボウッとしている︒床に就いてから眼が冴 えてくるのに︑私はそれでも無理に眠らなければいけな いと考えて︑恐らく私の一日中で一番頭のはっきりして いるに違いない数時間を︑眠ろうとする消極的な下らぬ 努力のために費してしまう︒本当はそういう時こそ︑色々 な思想の萌芽といってもいいようなものが︑どんどん湧 37 い て 来 る よ う な 気 が す る のだ ︒ し か し︑ そ んな も の に つ つぶ い も らないものであっても︑ 後の発展によっては︑案外面白 たろうなどというのではない︒けれども初めはごく詰ま かんで来る思いつきや断片的な考えが皆優れたものだっ 思 想 家 でも 科 学 者 で も な い か ら︑ 私 の ひ ょ い ひょい と浮 むざむざと躪り潰してしまったことか︒もちろん︑私は にじ 全く私はどれほどの多くの思索の種子を寝床の闇の中で なって︑そうした断片的な思惟の芽を揉み消して行く︒ し ぞ︑そうするとまた︑明日は発作だぞ︑と︑私は躍気に いて思考を集注し出したら一晩中興奮のために眠れない 38 いものとなり得ることがあるのは︑物質界でも精神界で も し ば し ば 見 ら れ る のだ ︒ 闇 の 中 で 私 に 慘 殺 さ れ た無 数 た ん ぽ ぽ の思いつき︵それらは︑高く風に飛ぶ無数の蒲公英の種 子のように︑闇の中に舞い散って︑再び帰って来ない︶ の中には︑そうした類のものだって多少は交じっていた ろうと考えるのは︑自惚に過ぎるだろうか? さて︑数年の間こうして︑ 私の精神が潑剌として来よ うとする時には︑それを眠らせようと力め︑それが眠く もう ろう 朦 朧 と し て い る 時に の み ︑ そ れ を 働 か せ よ う と し た ︒ い や ︑ 精 神 を ば 全 然 働 か せ ま い と 力 め た の だ ︒︵ 何 の た め 39 に? 身体のために︒それで身体はよくなったか? い ら これ以上完全な輝かしい成功があろうか︒ っ た 缶 詰 ︑ 木 乃伊 ︑ 化 石 ︒ み ど 力を失い︑完全に眠り・沈み・腐った︒精神の缶詰︑腐 の覚醒も私からは失われた︒私の精神はもはや再び働く 私はこの馬 鹿げた 企 てに成功した︒本当の睡眠も本当 くわだ う し て ︑ ど う し て ︒ 少 し も よ く な ん か な り は し な い ︒︶ 40 三 昨夜就寢する頃から少し胸苦しかったが︑夜半果して 例の発作に襲われて︑起上る︒アドレナリン一本をうち︑ 朝まで床上に坐っている︒呼吸困難はややおさまったが︑ はな は 頭痛 甚 だし︒朝になってまだ不安なので︑エフェドリ あた ン八錠服用︒朝食は摂らず︒息苦しきため横臥する能わ よ ず︒終日椅子に掛け机に凭り︑カメレオンの籠を前に︑ カメレオンも元気なし︒鳥の止り木にとまり︑小さ 頬杖をついて眺める︒ 41 、っ 、と 、こちらを見ている︒動かず︒瞑想者の な眼孔からじ ま 備 がな い の か ? 眺めているうちに︑ものが段々と︑ 時にヅキヅキと劇しくなる︒ はげ specie に思われて来る︒頭痛は依然止まず︒おおむね鈍痛だが︑ に見えて来そうだ︒人間としては常識とし chameleonis て通っていることが︑一つ一つ不可思議な疑わしいこと sub った環境に連れ込まれたために︑これに応ずる色素の準 前 三 本 ︑ 後 二本 ︒ 体 色 は 余 り 変 化 し な い よ う だ ︒ 全 く 異 、び 、は︑ 風あり︒尾の捲き方が面白い︒木をつかんでいるゆ 42 頭痛の合間にきれぎれにうかぶ断想︒ 俺というものは︑俺が考えているほど︑俺ではない︒ 俺の代りに習慣や環境やが行動しているのだ︒これに︑ 遺伝とか︑人類という生物の一般的習性とかいうことを 考えると︑俺という特殊なものはなくなってしまいそう だ︒これは云う迄もないことなのだが︑しかし普通没我 的に行動する場合︑こんな事を意識している者は無い︒ も ところが私のように︑全力を傾注する仕事を有たない人 間には︑この事が何時も意識されて仕方がない︒しまい 43 には何が何やら解らなくなって来る︒ 俺というものは︑俺を組立てている物質的な要素︵諸 がら︶その所在のあたりを押して見ては︑その大きさ︑ ︵身体模型図や動物解剖の時のことなどを思い浮かべな 一月ほど前︑自分の体内の諸器関の一つ一つについて︑ ひ とつき のように感じ︑ギョッとして伸ばしかけた手を下した︒ おろ 、や 、つ 、り 、手の操作 をしかけて︑ふと︑この動作も︑俺のあ る器械人形のように考えられて仕方がない︒この間︑欠伸 あくび 、る 、も 、の 、とで出来上ってい 道具立︶と︑それをあやつるあ 44 形︑色︑湿り工合︑柔かさ︑などを︑目をつぶって想像 してみた︒以前だってこういう経験が無いわけではなか ったが︑それはしかし︑いわば︑内臓一般︑胃一般︑腸 一般を自分の身体のあるべき場所に想像してみただけで あって︑すこぶる抽象的な想像の仕方だった︒しかしこ の時は︑何というか︑直接に︑私という個人を形成して い る・ 私の 胃 ︑ 私 の 腸 ︑ 私の 肺 ︵い わば ︑個 性をも っ た それらの器関︶を︑はっきりとその色︑潤い︑触感をも っ て ︑ そ の 働 い て い る 姿 の ま ま に 考 え て み た ︒︵ 灰 色 の ゆる ぶよぶよと弛んだ袋や︑醜い管や︑グロテスクなポンプ 45 ︱ ︱ ほとん 続けた︒すると︑私という人間の肉体を組立 わた これは何も︑私が大脳の生理に詳しくないから︑ な っ て ︑ 何 か に 紛 れ て い る 時 の ほ か は ︑ 自 分 の体 内 の 器 まぎ その日以来こんな想像に耽るようになり︑それが癖に ふけ 的な︵全身的な︶疑惑なのだ︒ 稚な疑問が出て来 た訳 ではなかろう︒もっと遙かに肉体 ま た ︑ 自 意 識 に 就 い て の 考 察 を 知 らな い か ら ︑ こ んな 幼 ある? い う 人間 の 所 在 が 判 ら な く な っ て来 た ︒ 俺 は 一 体 ど こ に てている各部分に注意が行き亘るにつれ︑次第に︑私と ど半日 な ど ︒︶ そ れ も 今 ま で に な く ︑ か な り 長 い 間 46 関共の存在を生々しく意識するようになって来た︒どう 彼等は自分達の も不健康な習慣だと思うが︑どうにもならない︒一体︑ 医者はこういう経験を有つだろうか? 肉体についても︑患者等のそれと同様に考えているだけ あず か であって︑自分の個性の形成に 与 るところの自分の胃︑ 自分の肺を︑いつも自分の皮膚の下に意識している訳で はないのではな かろうか︒ 身体を二つに切断されると︑すぐに︑切られたおのお のの部分が互いに闘争を始める虫があるそうだが︑自分 47 もそんな虫になったような気がする︒というよりも︑ま うち も落胆しないようにと自分に言いきかせる︒それから︑ とすると︑私はまず彼が留守である場合を考え︑留守で て小心な策略もあるにはあるようだ︒私が人を訪ねよう た時にホッとして卑小な嬉しさを感じようという︑極め 場 合 を 考 え る ︒ そ れ に は ︑ 実 際 の 結果 が 予 想 よ り 良 か っ 私が何事かについて予想をする時には︑いつも最悪の を嚙み︑さいな むより︑仕方がないのだ︒ め る の だ ︒ 外に 向 っ て 行 く 対 象が 無 い 時に は ︑ 我 と自 ら だ切られない中から︑身体中が幾つもに分れて争いを始 48 とり こみ ち ゆ う 在宅であっても︑何か取込 中 だとか他に来客がある場 合のこと︑また︑彼が何かの理由で︵たとい︑どんなに よ 考 え ら れ な い 理 由 に し ろ ︶ 自 分 に 対 し て好 い 顔 を 見 せ な い で あろ う 場 合 ︑ そ の 他 色 々 な 思 わ し く な い 場 合を 想定 し て ︑ そ う い う 場 合 の 方 が 好 都 合な 場 合 よ り も よ り 多 く あり得ることに思い込み︑そうして︑そういう場合でも 決して落胆せぬように自分を納得させてから︑出掛ける のである︒ 何事についてもこれと同様で︑ついには︑失望しない ために︑初めから希望を有つまいと決心するようになっ 49 た︒落胆しないために初めから慾望をもたず︑成功しな と私は思った︒ 途端に冷たい氷滴となって凍りつくような・石となろう こお うとした︒それに触れると︑どのような外からの愛情も︑ べて閉じ︑まるで掘上げられた冬の球根類のようになろ ほり あ できなくなってしまった︒外へ向って展かれた器関をす ひら 類 推 し て は ︑ 自 分 か ら他 人 に も の を 依 頼 す るこ とが 全 然 中へ出まいとし︑自分が頼まれた場合の困惑を誇大して 辱 しめを受けたり気まずい思いをしたくないために人 はず か いであろうとの予見から︑てんで努力をしようとせず︑ 50 51 我はもや石とならむず きつねび 沈み行かばや ひ さめ つめ たき海を われ石となる黒き 石 とな り て 冬の夜に われ石となりて転 まろ 氷の上を風が吹く 氷雨降り狐火燃えむ と 小石に め 眼瞑づれば びて行くを 石 とな る 日 を 待 ち つめ たき星 光なし い の ち 寂 し く 見 つめ け り 腐れたる魚のまなこは て吾がゐる たまきはる ひと の上に独りゐて わら 今 迄 和 歌 を 作 っ た こ と の な い 私 が︑ こ んな 妙な も の を はいられない金魚︒ 絶望しながらも︑自己及び狹い自己の世界を愛せずに の世界の下らなさ・狹さを知悉している絶望的な金魚︒ ち しつ 金魚鉢の中の金魚︒自分の位置を知り︑自己及び自己 、た 、と哂うのである︒ 書散らしては︑自ら球根のう 52 幼い頃︑私は︑世界は自分を除く外みんな狐が化けて いるのではないかと疑ったことがある︒父も母も含めて︑ だま 世 界 す べ て が 自 分 を 欺 す ため に 出 来 て い る の で は な い か と︒そしていつかは何かの途端にこの魔術の解かれる瞬 間 が来 る の で はな い か と ︒ 今でもそう考えられないことはない︒それを常にそう は考えさせないものが︑つまり常識とか慣習とかいうも のだろう︒が︑それらも私のような世間から引込んでい る者には︑もはや︑そう強い力をもっていない︒照明の 変化と共に舞台の感じがまるで一変するように︑世界は︑ 53 ほんのスイッチの一ひねりで︑そういう幸福な︵?︶世 無等である︒ ︱ 大きな 時に不可解な ものの中に︵組織︑慣習︑ そういうものから︑すっかり離れている自由な人間の 秩序︶晏如と身を置いている気易さ︒ あんじよ ︱ ンのききめ加減︑天候の晴雨︑昔の友人からの来信の有 して︑呼吸困難の有無であり︑塩酸コカインやヂウレチ のないものともなる︒私にとってそのスイッチが往々に 界ともなり得るし︑また同じ一ひねりで︑荒冷たる救い 54 苦しさ︒ そういう自由人は︑自己の中で人類発展の歴史をもう 一度繰返して見なければならぬ︒普通人は慣習に無反省 に従う︒特殊な自由人は︑慣習を点検してみて︑それが 成 立 す る に 至 っ た 必 然 性 を 実 感 しない 限り ︑ そ れ に 従 お うとしない︒いわば︑彼は︑人間がその慣習を形作るに 至った何百年かの過程を︑一応自己の中に心理的に経験 してみないことには気が済まないのである︒ 私自身の性情も︑傾向としては︑それに似たものを有 っているようだ︒そういう特殊の人達に往々見られる優 55 きん こう れた独創的な思考力だけは欠いて︒ リ 友人の一人が﹁遠交近攻の策﹂と評した一つの傾向︒ パ あさ 、の 、の のにしていないだらしなさ︒全くのところ︑私のも ってみたりする︒それでいて︑何一つ本当には自分のも に知らず︑古い語学を嚙ってみたり︑哲学に近いものを漁 かじ 、く 、 りでは行けない︒博物の教師のくせに博物のことはろ う 二 年 も 住 ん でい る こ の 港 町 の 著 名 な 競 馬 場 へ も ︑ ひ と では未知の巴里の地理に一かど精通しているくせに︑も 一生懸命になって巴里の地図をこしらえたりして頭の中 56 、ん 、も 、の 、があろうか︒ 見方といったって︑どれだけ自分のほ しや れ が ら す 、そ 、っ 、ぷ 、の 話 に 出 て 来 る お 洒 落 鴉 ︒ レ オ パ ル デ ィ の 羽 い を少し︒ショペンハウエルの羽を少し︒ルクレティウス の羽を少し︒荘子や列子の羽を少し︒モンテエニュの羽 を少し︒何という醜怪な鳥だ︒ ︵考えてみれば︑元々世界に対して甘い考え方をしてい えん せい か ん 、惚 、や 、 た人間でなければ︑厭世観を抱くわけもないし︑自 か︑自己を甘やかしている人間でなければ︑そういつも かしや く ﹁ 自 己 へ の 省 察 ﹂﹁ 自 己 苛 責 ﹂ を 繰 返 す 訳 が な い ︒ だ か 57 ○ おお あま あま ど恐怖といってもいい︶もまず無くなる︒持薬の麻杏甘 ま き よ う かん くのである︒昨夜はやや眠れた︒発作への懸念︵ほとん 今日も勤めのない日︒火︑水︑木︑と三日︑休みが続 四 ちゅう私のことを考えてるなんて︒︶ ○ 私 ︑ と ︑ ど れ だ け 私 が ︑ え ら い ん だ ︒ そ んな に ︑ し ょ っ ○ 、 ら︑俺みたいに常にこの悪癖に耽るものは︑大甘々の自 ○ 、や 、の見本なのだろう︒実際それに違いない︒全く︑私︑ 惚 58 せき とう 石湯の分量を少し増す位で済みそうである︒鈍い頭痛は はきけ 依 然去 らな い ︒ 午 前 中 嘔 気 少 々 ︒ カ メ レ オ ン は 一 昨 日 か ら 蠅 を 十 二 三 匹 し か 喰べ て い な うずくま い︒止り木から下りて︑綿の上に 蹲 っている︒寒いの であろう︒これでは長くもつまいと思う︒いよいよ仕方 う し ろ あし がなければ動物園へ持って行くことにしよう︒ 後 肢の こく かつ しよく つけねの所に小さい黒褐 色 の傷痕がついている︒学校 いた で床へ落ちた時に傷めたのだろうか︒背中のギザギザは ハンド・バッグの口に使うチャックに似ている︒ 59 今日も午前中ずっと小爬虫類を前に︑ぼんやり頬杖を 、ど 、ろ 、っ 、こ 、 うも苦手だ︒字を一つ一つ綴っている時間のま しもちろん本当に書きはしない︒書くということは︑ど 学的疑惑︑カメレオンの享楽家的逆説︒⁝⁝等々⁝⁝︒但 ただ オパルディ風のものを書いてみたくなる︒簑虫の形而上 生臭坊主に見えた︒カメレオンと簑虫との対話というレ みのむし レオンの顔が︑ルイ・ジュウベエ扮するところの中世の ふん うとうとしかけてハッと気がついた瞬間︑目の前のカメ り︑なまじ一・二時間眠れた次の日の方が眠いのである︒ ついていた︒少し眠い︒前の晩に全然眠れなかった日よ 60 か す 、さ 、︒その間に︑今浮かんだ思いつきの大部分は消えて し かす 、だ 、ら 、な 、い 、残滓が紙の上に しまい︑頭を掠めた中の最もく ペー ジ 残るだけなのだ︒ す 人間の分 際というものの不承認︒そこから来る無 午後︑ふと 頁 をくったある本の中に︑自分の精神の 、り 、方 、をこの上なく適切に説明してくれる表現を見つけ あ た︒ ︱ み 気力︒拗ねた理想の郷愁︒気を悪くした自尊心︒無限を かい ま 垣間見︑夢みて︑それと比較するために︑自分をも事物 61 あん ばい をも本気にしない⁝⁝︒自己の無力の感じ︒周囲の事情 し 何とかしなければならぬ︒これではどうにも仕様がな を説明してくれることか! 私 は 本 を閉 じ た ︒ こ れ は 恐 ろ し い本だ ︒ 何 と明 確に 私 れる︒ ︱ 行くという事は︑不可能な・途方もない事のように思わ とする︒自分で一つの目的を定め︑希望をもち︑闘って 自分の欲するようになっていない時には︑手を出すまい を打破る力も︑強い る力も︑按 排する力も無く︑事情が 62 たちぎえ い︒このままでは︑生きながらの立消だ︒次第に俺は︑ き はく 俺という個人性を稀薄にして行って︑しまいには︑俺と が し ゆう 我慾を! 排 いう個人がなくなって︑人間一般に帰してしまいそうだ じよう だん ぞ︒冗 談じゃない︒もっと我執をもて! 他的に一つの事に迷い込むことが唯一の救いだ︒アミエ ひ もの 、り 、方 、を客観的に見よ ルの乾物になるな︒自分で自分のあ もと うなどという・自然に悖った不遜な真似は止めろ︒無反 省に︑ずうずうしく︵それが自然への恭順だ︶粗野な常 たつと 識を 尚 び︑盲目的な生命の意志にだけ従え︒ 63 夕方︑吉田が訪ねて来 る︒大変激昂した様子である︒ え にも二三回︑彼はこうした事から﹁辞める﹂と騒ぎ出し︑ だ︒ ﹁辞めてもええのんや﹂と繰返していう︒たしか︑以前 ま とい っ た 考 え を 仄 め か し た と か で︑ 彼は非 常 に 不満 な の ほの の乱暴を非難しはしたが︑それでも︑暗に︑喧嘩両成敗 あん 所へ話を持って行ったところ︑校長ももちろん体操教師 迫的な態度に出たという︒憤慨した吉田がすぐに校長の 操場の控室に呼び込んで︑乱暴な言葉で彼をなじり︑脅 が︑今日﹁ちょっと顔を貸してくれ﹂と︑吉田を雨天体 以 前 か ら 彼 と の 間 に い ざ こ ざ の 絶 えな か っ た体 操 の 教 師 64 職 員 全 部 に そ れ を ふ れ て 廻 っ た が ︑ 結 局 辞めな か っ た ︒ あとになるとケロリとしている︒ただもうカッとなると︑ 皆の所へ行って騒ぎ立て︑繰返し繰返し愚痴を聞かせ︑ 自 己 の 正 当 と 相 手 の 不 当 と を 認め て 貰 わ な け れ ば 気 が 済 まないのである︒しかし︑彼はいくら腹を立てた時でも︑ 決 し て 自 分 の 損 に な る こ と ︵ 殴 り 合い を し た り ︑ 思 い 切 っ て 辞 職 し た り ︶ は し な い ︒ 今 日 と て ︑ ただ ︑ 私 の ア パ アトが学校の近くにあるために︑帰りに立寄って︑それ ほど親しくもない私ではあるが︑それでも一人でも多く の者に自分の正当さを認めて貰おうとしただけなのだ︒ 65 あろう︒ あと く れ て ︑ ま た 遊 び に 来 給 え ︑ と肩 を 叩 か ん ば か り に し て に 会 い に 行 っ た 話 を 始 め た ︒ 学務 部長 が 非 常 に 款 待 し て かん たい 今度は︑昨日︑ある先輩から紹介されて︑県の学務部長 一通りの憤慨がすむと︑まず気が済んだという態で︑ てい い よ う に 振 舞 っ て い る の は ︑ 彼 の 身 に つ い た本 能 な の で る︒ただ︑どんな 場合にでも︑目に見えた損だけはしな 、れ 、る 、などという事を彼は知らないからであ にはない︒て 、れ 、臭い思いをせねばなるまい︑との心配も彼 くなり︑て 辞め る心配は絶対に無い︒余り騒ぐと後で引込がつかな 66 う かが くれたこと︑だから︑これからも時々 伺 おうと思って 、ん 、をつけ︑このよ い る こ と ︑ こ の 学 務 部長 さ ん ︵ 彼はさ くん うな高官に衷心からの尊敬を抱かないような人間の存在 じゆ は︑想像することも出来ない様子である︶は従×位︑勲 ×等で︑まだ若いからもっと大いに出世されるであろう さつき こと︑この人の夫人の父君が内閣の某高官であることな きようく ど︑恐懼に堪えないような語り口で話した︒全く︑先刻 の悲憤をまるで忘れてしまったような幸福げな面持であ る︒ 67 吉 田 が 帰 っ て か ら ︑ 幸 福 と い う こ と を ち ょ っ と考 え て わら つか ずい き き はつ こ わら たい らう さつさつ う えい じ 悶々タリ︒⁝⁝﹂学務部長に随喜の涙を流す吉田の姿が︑ もんもん 人昭々トシテ我独リ昏キガ如ク︑俗人察々トシテ我独リ くら ノ未ダ咳ハザルガ如ク︑儡レテ帰スル所ナキガ如シ︒俗 いま ガ如ク︑春︑台ニ登ルガ如シ︒我独リ怕兮トシテ︑嬰児 ごと 福 が あ る と い う の だ ︒﹁ 衆 人 熙 々 ト シ テ 大 牢 ヲ 享 ク ル し ゆ う じん き 私 に は 無 い ︒ 嗤 っ た と し て も ︑ そ れ で は ︑ 私に ど ん な 幸 にな ることが彼の最大の愉悦なのだ︒それを嗤う資格は ゆ えつ て貰うことが︑彼にとっての幸福であり︑役人と近づき みる︒躍気となって騒ぎ立て他人に自分の立場を諒解し 68 急に︑皮肉でも反語でもなく︑誠にこの上無く羨ましい ものに思われて来た︒ 夜︑床に就いてから︑先刻の吉田の︑脅迫云々の言葉 を思い出し︑向うっ気はすこぶる強いが腕力の無い吉田 が︑その時どんな態度をとったか︑と考えてみたら︑お く じ 腕力に かしくなって来た︒自分だったらどうするだろうと︑考 えてみた︒ い ︱ まことに意気地の無い話だが︑私は︑暴力 みち 対して︑まるで対処すべき途を知らぬ︒もちろん︑それ 69 い いや みじ そういう時の自分の置かれた位置の惨めさ︑その じ よ う ぜつ ぼう じん 思えない︒というよりも︑私は︑他人との間に暴力的な えるのは差支えないとして︶自分に意識されて立派とは さしつか 合 に も な お ︑ 負 惜 し み 的 な 弱 者 の 強 が り が ︑︵ 傍 人 に 見 まけ お 、し 、だ︒しかしその場 いっそ超然と相手を黙殺した方がま 女のような哀れな 饒 舌が厭なのである︒その位なら︑ す? から殴り返す訳には行かぬ︒口で先方の非を鳴ら どんな態度に出ればいいのだろう︒こちらに腕力が無い でもしないけれども︑たとえば︑殴られたような場合︑ に屈服して相手の要求を容れるなどという事は意地から 70 関係に陥ったという・その事だけで︑既に︑心中の大変 じよう らん な 擾 乱・動搖を免れない︒暴力への恐怖は動物的本能 だとか︑暴力の実際の無意義さとか︑暴力行使者への軽 もん 蔑 と か ︑ そ ん な 議 論 は こ の 際 三文 の 値 打 もな く ︑ 私 の 身 体 は 顫 え ︑ 私 の 心 は ただ も う 訳 もな く ベ ソ を か い て し ま うのである︒暴力の侵害︵腕力ばかりでなく︑思いがけ うち か ない野卑な悪意︑誤解などもこれに入れていい︶に打克 つだけの力を備えているのは結構に違いないが︑相手に 対 抗 し 得 る 腕 力 ・ 權 力 を 有 た な い で い て ︑︵ あ る い は 有 ゆうよう っていても︑それを用いずに︶ただ精神的な力だけで悠揚 71 と立派に対処し得る人があれば︑尊敬してもいいと思う︒ 根の所の傷も︑気のせいか昨日より拡がったように思わ カ メ レ オ ン は い よ い よ 弱 っ て来 た よ う で ︑ 後 肢 の つ け 五 はなかなか思い当らないようだ︒ 去って暴力の前に曝した場合に立派に対処できそうな人 さら な有名な人物を考えてみても︑その社会的な背景を剝ぎ は それはどんな方法によるか︑私には想像もつかない︒色々 72 れ る ︒胴 が 鮒 な ど よ り も 薄い 位 で︑ 細 い 肋 骨の 列 が 外 か あた り ら見え︑時々咽喉の 辺 をふくらませるのも何か寒そう で痛々しい︒矢張動物園へ持って行こうと決心する︒動 物園は好きな場所だが︑寄附する︑とか︑預ける︑とか︑ とど け 、のお役人が出て来て︑届 いう話になると︑いずれ東京市 を書かせたりするのではないか︒役人と︑役所の手続き ほど︑やり切れないものはない︒実際は簡単だと人の言 うものでも︑役所への届とか手続きとかとなると︑私は はん さ 頭から煩瑣なものに感じて︑まるで考えてみる気もしな かよ くなるのである︒仕方がないから︑東京から通っている 73 地 理 の 教 師 の Y 君 に 頼 ん で上 野 へ 持 っ て 行 っ て も ら お う あ い て ︑ 去 年 の 春 結 婚 の ため に 辞め た 音 楽 の 教 師 が ︑ 赤 廊下で何か生徒等が騒ぎ始めたと思ったら︑やがて扉が 昼休に︑食事を済ませてからしばらく職員室にいると︑ 日帰りに真直に上野迄行こうと言う︒ まつすぐ Y 君 に 会 っ て ︑ 訳 を 話 し て頼 む ︒承 知 し て く れ る ︒ 今 持って行く︒金曜だから︑勤めのある日だ︒ 敷いた箱に入れ︑箱の蓋に息拔きの穴をあけて︑学校へ いるだろうから︑断るにも及ぶまい︒元のように︑綿を と思う︒学校の方ではもうこんな虫のことなんか忘れて 74 ん 坊 を 抱 い て は い っ て来 た ︒﹁ ア ラ ッ ﹂ と ︑ そ れ を 見 た 女の教師達は一斉に声を挙げた︒関西に嫁いで行いてい るのだが︑主人が上京するのについて来たついでに寄っ 殊に未婚の老嬢達の挙動︑表情︑つまり外 たのだという︒さて︑それからのこの遠来の客に対する ︱ 彼女達の 観にまで現れる彼女等の心理的動揺は︑まことに興味深 きものであった︒ ﹁赤と黒﹂の作者の筆をもってしても︑ 恐らくはなおその描写に困難を覚えようと思われた︒羨 しつ し 望 ︑ 嫉 視 ︑ 自 己 の 前 途 へ の 不安 ︑ 酸 っ ぱ い 葡 萄 式 の 哀 し きようじ い矜恃︑要するにこれらのすべてを一緒にした漠然たる 75 胸 騒 ぎ ︒ 彼 女 等 は 口 々 に 赤 ん坊 ︵ 全 く ︑ 色 が 白 く ︑ 可 愛 おとこ そうして︑ 人の有つ愛情とは全く別な激しさをもって爛々と燃え︑ らその顔に見入る眼差に至っては︑子供一般に対して婦 まな ざし ように探ろうとする︒赤ん坊を抱き取って︑あやしなが それらすべてから読み取らるべき生活の秘密をむさぼる は 洋 服 だ っ た の に ︑ 今 日 は和 服 で あ る ︶ ︱ る ほ ど 派 手 に な っ た そ の 服 装 を ︑︵ 学 校 に 勤 め て い た 時 一年前とはすっかり変ってしまった髮かたちを︑見違え 像も出来ない貪婪な眼付をもって︑幸福そうな若い母を︑ どん らん く 肥 っ て い た ︶ の 可 愛 ら し さ を 讃めな が ら ︑ 男 性に は 想 76 複 製 を 通 じ て 原 画 を 想 像 しよ う とす る画 家 の 眼 とい えど も︑到底この熱烈さには及ぶまい︒ 三 十 分 ば か り 話 し て か ら 帰 っ て 行 っ たこの 若い 母親 と 色白の男の赤ん坊とは︑老嬢達の上に通り魔のような不 はたらき 思議な作用を残して行った︒午後を通じて︑ずっと︑独 身の女教師達の落着きの無さは︑とかくこうした事の気 のつかない私のような者にも明らかに看取された︒人間 の心理的動搖が気圧に何かの影響を及ぼすものだとした ら︑午後の職員室のこのモヤモヤしたものは︑確かに晴 雨計の上に大きな変化を与えているに違いないと思われ 77 た︒老嬢達は数年前から同じ職員室の同じ机の前に腰掛 う︒ 男の悪い所と女の悪い所とを兼ね備え ふた つながら有っていると自惚れている怪物に成上ってしま た怪物︑しかも自分では︑男の良い所と女の良い所とを両 とも付かない ︱ の貴いものも次第に石化して行き︑ついには︑男とも女 あろう ︒ そのう ちに 彼女 達 の中に在っ た︑ ほんのわず か の一つである﹁絶対の不変性﹂をもってこれを繰返すで 年も更来年も︑恐らくはまたその次の年も︑神々の属性 け︑同じ教室で同じ事柄を生徒に説き聞かせている︒来 78 ︱ 今日職員室を訪れた若い母親 ひとつき 先の音楽の教師は︑ 去年私がこの学校へ来てから一月ほどして職を辞したの 音楽の先生というもの である︒その頃の先生としての彼女と︑今日の母親とし ︱ ての彼女とを比べて見る時︑ それでも︑今日の方が一年前よ は︑他の学課と違って遙かに自由な派手な︑教師臭くな ︱ いものではあるが︑ りいかに楽しげに明るく︑若々しく見えたことだろう︒ しらずしらず 教師という職業が不知不識の間に身につけさせる固 さ︒ボロを出さないことを最高善と信じる習慣から生れ る卑屈な倫理観︒進歩的なものに対する不感症︒そうい 79 みず あか 元のままに敷かれ︑止り木も元のままにかかっている︒ カメレオンの籠には︑もうカメレオンはいない︒綿が 六 解 力だ け だ っ た ら ︑ こ んな 幸いな 事 は な い ︒ の標準を換算するのに骨が折れる﹂と︑ラムは言う︒理 リリパットから帰って来たガリヴァアのように︑理解力 校の先生が︑生徒でない一人前の大人と話をする時には︑ うものが水垢のようにいつの間にか溜って来るのだ︒﹁学 80 去年の春から︑一年半ばかりの間に︑この籠に三種の ぼ たん つがい 動物が住んだ︒最初は︑黒い眼の周囲を白く縁取った・ き 、た 、ず 、ら 、っ 児 ら し い 黄 牡 丹 イ ン コ の 番 で あ 見るからにい る︒これは一年近くいたが︑一羽が病気︵?︶で死んだ あい ので︑残った方も人にやってしまった︒次は︑翼が藍で おう む 胸の真紅な大きな鸚鵡︒これはかなり立派で︑止り木に 、た 、た 、寝 、するところなど︑ とまったままうつらうつらとう まと 仲々に渋いものがあり︑娼婦の衣裳を纒うた哲学者だ︑ などと喜んでいたのだが︑とうとう餌のやり忘れで死な せてしまった︒最後がカメレオンで︑これは五日間しか 81 いないで︑動物園へ行ってしまった︒寂しいというほど を 云 っ て ︑ 帰 ろ う と す る と ︑﹁ 夕 方 か ら 南 京 町 で K 君 の 校の方へ送ってもらう約束にして来たという︒Y君に礼 っていたそうだ︒なお︑死んだ場合には剝製用として学 は く せ いよ う 今 い る 奴 は ほ と ん ど こ の 半分 位 し か あ り ま せ ん よ ﹂ と 言 、ち 、に け て く れ た 由 ︒﹁ 大 変 大 き い カ メ レ オ ン で す ね ︒ う 校へ行く︒Y君の話によると︑動物園でも大変喜んで受 授 業 の無 い 日 だ が ︑ Y 君に 昨日 の 様 子 を聞 く ため に 学 ではないが︑余り愉しい気持ではない︒ 82 ために祝いの会をすることになっているから︑出てくれ ませんか﹂と言われた︒出席するむね返事して学校を出 る︒ K君は二週間ほど前︑英語の高等教員検定試験に合格 したのである︒この間カメレオンを貰った日に︑K君の 、せ 、っ 、か 、い 、にも次のような話を私 受持の生徒が二三人︑お に告げてくれた︒何でもその前々日かの昼休の時K君が クラス 受 持 の 級 へ 行 っ て ︑﹁ 昨 日 の ○ ○ 新 聞 の 神 奈 川 版 に 少 うち し見たい所があるんだが︑君達の中で誰か家にそれがあ ったら持って来てくれませんか﹂と言ったのだそうだ︒ 83 それで級の者が何人か家からその日附の神奈川版を持っ して見たり︶であった︒ か 廻ったり︑急に︑女学校の教師なんか詰まらないと言出 程のK君の有頂天ぶり︵得意気に試験の模様を皆にふれ うが︑そういえば︑そんな莫迦げた真似もやりかねない ば 生意 気な口をきいた︒いくら若くても︑まさか︑とは思 よ︒いやんなっちゃうわ︒ほんとに︒﹂と生徒の一人は︑ ﹁それをわざわざ私達に知らせる為に持って来させたの 女学校のK教諭見事高検にパス﹂と出ていたのだという︒ て来て見たところ︑そこには︑小さくではあったが︑ ﹁Y 84 おとな しわ 人間はいつまでたってもなかなか成人にならないもの ひげ だと思う︒というより︑髭が生えても皺が寄っても︑結 局︑幼稚さという点ではいつまでも子供なのであって︑ もつたい た だ ︑ し か つ め ら し い 顔 を し たり ︑ 勿 体 を つけ たり ︑ 幼 づけ 稚な動機に大層な理由附を施してみたり︑そういう事を 覚えたに過ぎないのではないか︒誰も褒めてくれないと る いってべそをかいたり︑友達に無意味な意地悪をしてみ ず たり︑狡猾をしようとしてつかまったり︑みんな子供の 言葉に翻訳できる事ばかりだ︒だからK君の愛すべき自 己宣伝なども︑かえって正直でいいのだと思う︒ 85 帰途︑山手の丘を廻ってみる︒ たち こ まだ十時頃︒極く薄い霧がずうっと立罩めて︑太陽は まぶ ットに入れて持ち歩いたものやら記憶がない︒ 上 着 は 久 し く 使 わな か っ た 奴だ か ら︑ こ の本 もい つポ ケ る︒出してみるとルクレティウスである︒今朝着て来た ポケットが重いので手をやってみると本がはいってい さの底に何か暖いほんのりしたものさえ感じられる︒ でいる︒昨夕から引続いて︑風は少しも無い︒四辺の白 あたり 磨硝子めく明るい霧の底に︑四方の風景が白っぽく淀ん すり ガ ラ ス 空に懸っているのだが︑見詰めてもさほど眩しくない︒ 86 クライスト ・チヤアチ つた つる 基 督 教 会の蔦が葉を大方落し︑蔓だけが静脈のよう に壁の面に浮いて見える︒コスモスが二輪︑柵に沿って ふ ね ちぢれながら咲残っている︒海は靄ではっきりしないが︑ おお 巨きな汽船達の影だけはすぐに判る︒時々ボーボーと汽 笛が響いて来る︒ かず 代官坂の下から︑黒衣を被いた天主教の尼さんが︑ゆ っくり上って来る︒近附いた時に見ると︑眼鏡をかけた ・鼻の無闇に大きな・醜い女だった︒ 外人墓地にかかる︒白い十字架や墓碑の群がった傾斜 いちよう の向うに︑増徳院の二本銀杏が見える︒冬になると︑裸 87 しよう しよう 目をやる︒ し かつ しよく なく︑膝に置いたまま︑下に拡がる薄霧の中の街や港に うすぎり からルクレティウスを取出す︒別に読もうという訳でも ョージ・スィドモア氏の碑の手前に腰を下す︒ポケット はいる︒勝手を知った小径小径をしばらくぶらつき︑ジ 入 口 の 印 度 人 の 門 番 に ち ょ っ と 会 釈 し て ︑ 墓 地 の 中に インド 趣 は見られない︒ おもむき だ が ︑ 今 は まだ 葉 も ほ ん の 少 し は 残っ てい る の で ︑ そ の か古い仏蘭西人の頬髯をさかさまにしたように見えるの の 梢 々 が渋い紫褐 色 にそそけ立って︑ユウゴウか誰 88 去年のちょうど今頃︑やはり霧のかかった朝︑この同 じ場所に坐って街や港を見下したことがあった︒私は今 それを思い出した︒それが何だか二三日前のことのよう な気がした︒というより︑今もその時から続いて同じ風 一生の終りに臨んで必ず感じるであろ 景を眺めているような変な気がした︒私の心に時々浮か ︱ んでくる想像 か う・自分の一生の時の短かさ果敢なさの感じ︵本当に肉 じ が︑またふっと心を掠めた︒一年前が現在とま かす 体的な︑その感覚︶を直接に想像してみる癖が︑私には ︱ ある るで区別できないように思われる今の感じが︑死ぬ時の 89 とま それに似たものではないかと思われたからである︒坂道 かけ お り かつ こう 十字架の下の︑書物を開いた恰好の白い石に︑ な紅い花を着けている︒ THY RESTと刻まれ︑生後五ケ月という幼児の名が記 されている︒南傾斜の暖かさでヂェラニウムはまだ鮮か TAKE て︑前に鉢植のヂェラニウムが鉢ごと埋けられている︒ い 少し隔たったところにごく小さい十字架が立ってい へだ 誰の言葉だったろう︒ 続けて行く︑そういうのが人間の生涯だ︑と云ったのは を駈降る人のように︑停れば倒れるのでやむをえず走り 90 こういう綺麗な墓場へ来るとかえって死というものの 暗さは考えにくい︒墓碑︑碑銘︑花束︑祈禱︑哀歌など︑ 死の形式的な半面だけが︑美しく哀しい舞台の上のこと のように︑浮かび上ってくるのである︒ まま はは エウリピデスの作品の中の一節︒ヒポリュトスの継母 ふ のファイドラが不倫の愛情に苦しんで臥せっている傍 で︑彼女の乳母が︑まだその理由を知らないながらに︑ す︒その不幸には休みというものがございません︒し ﹁人間の生活というものは︑苦しみで一杯でございま 彼女を慰め てい る︒ 91 かし︑もし人間のこの生活よりもっと快いものが仮り にあるとしても︑闇がそれを取囲み︑我々の眼から隠 してしまっています︒それにこの地上の存在というも かがや のは 燦 かしいように見えますので︑私共は狂人のよ うにそれに執着するのでございます︒なぜと申しまし て︑私共は他の生活を存じませんし︑地下で行われて いることについては何も知る所がございませんから︒﹂ のぞみ ﹁願望はあれど希望なき﹂彼 ねがい こ ん な 言 葉 を 思 出 し な が ら ︑ 周 囲 の 墓 々 を 見 廻 す と︑ ︱ 等の吐息が︑幾百とも知れぬ墓処の隅々から︑白い靄と 死者達の哀しい執着が 92 な っ て 立 昇 り ︑ そ う し て 立 罩め て い る よ う に 思 わ れ る ︒ ルクレティウスをついに開かないままに︑私は腰を上 けぶ げる︒海の上の烟った灰色の中から︑汽笛がしきりに聞 ︵ 昭 和 十 七 年 十 一 月︶ えてくる︒傾斜した小径を私はそろそろ下り始める︒ 93
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