雪ノ下雪乃、決意する 丸米 ︻注意事項︼ このPDFファイルは﹁ハーメルン﹂で掲載中の作品を自動的にP DF化したものです。 小説の作者、 ﹁ハーメルン﹂の運営者に無断でPDFファイル及び作 品を引用の範囲を超える形で転載・改変・再配布・販売することを禁 じます。 ︻あらすじ︼ 三十路の果てにある自らの未来。その悲観の果てにある未来を打 ち破る為、雪ノ下雪乃は覚悟する。手段は選ばぬ。必ずあの男を手に 入れる│││。 目 次 覚悟を問え │││││││││││││││││││││ 本編 その時、比企谷は │││││││││││││││││││ 1 アフター 羞恥とプライド ││││││││││││││││││││ 襲来は突然に │││││││││││││││││││││ 未来へ・・・ │││││││││││││││││││││ きっとそこには、素敵な未来 ︵アフター︶ │││││││ 静に始まり、静に終わる。 │││││││││││││││ 帰結を受け入れよ │││││││││││││││││││ ボッチ、思考する。 ││││││││││││││││││ 感情を示せ │││││││││││││││││││││ 先制取るべし │││││││││││││││││││││ 再会を希い │││││││││││││││││││││ 怒りの日 │││││││││││││││││││││││ 逃げ場はない │││││││││││││││││││││ 6 10 13 17 21 26 31 35 41 43 46 51 56 ? 本編 覚悟を問え │││いいか、女という生物は実に複雑な生き物だ。男とは別のベ クトルであるがな。 眼前で既に出来上がっているこの女はそう、講釈がましく口を開い た。 いえいえ、 ﹁この女﹂なんて言葉はやけに刺々しいですね。言い換え ましょう。既に三十路の大台を超えてしまったにもかかわらず良く も悪くも内面も外面も何一つ変わる事無く、残酷な時の逆流に晒され ながらもあらゆる事象に踏み止まっている国語教師、平塚静先生││ │とでも言い換えておきましょうか。教え子がようやくアルコール 摂取が認められる年齢になるや否や近所の居酒屋に連れ込む辺り、そ のよく言えばキップの良い、悪く言えば淑やかさの欠片も無い性根は 何一つ変わっていないらしい。 │││男という生物が、思春期に最大級の自意識を抱え込む生物で あるとするならば、女は自意識の高さは一定して水平線を辿ってい く。男は肥大化した自意識を抱え込みながら大人になり、次第に現実 を見据えながら自意識を萎ませていく。女から見て男が子供に見え る の も、余 り に も 高 い 自 意 識 が 幼 稚 に 見 え る か ら だ。つ ま り だ な、 男って奴は風船みたいなものだ。見てくれはでかくても一度傷付け られたら一瞬で破裂してしまう。破裂したらもう一度新しい風船を こさえるが、また破裂する。そうやって幾度となく傷つきながら連中 は次第にその風船を萎ませていくんだ。傷ついても衝撃が大きくな らぬよう、次第に風船の空気を抜いていくんだ。そうやって、連中は 大人になっていく。 平塚先生は酒が絡むとただでさえ面倒なその性格に拍車がかかる ようです。教師という職務の性質上でしょうか。アルコールが絡み ストッパーが外れると豪雨の河川よろしく愚痴の氾濫が巻き起こっ てしまう。先生はうう、と次第に涙を浮かべながら私に言葉を吐きか 1 けていきます。 │││その性質とは反対に、女の自意識は何一つ変わらない。自分 という存在について過小評価もしないし過大評価もしない。客観性 を備えた冷静な脳味噌を持つ女は、その自意識の高低を変える事無く 大人になっていく。そうなれば、どうなるか解るか雪ノ下。 解りません、と正直に答えました。そんな事に興味もない。 │││年齢を重ねるごとに、男というのは自意識を小さくし現実を 見据えていくのさ。故に彼等は次第に安全策をとるようになる。あ り得ざる未来への希望を捨て、傷つく事を恐れ、眼前に示された可能 性に安易に飛びつく。だからこそ奴等は結婚自体はパッと速やかに 行える者が多い。そして例え結婚できずとも彼等は他者に拒否され るセンチメンタリズムを飼いならす事には長けている。 段々と、言いたい事が理解出来てきました。 │││女は、その自意識は変わらない。はじめから現実的な自意識 を設定するからこそ、その設定されたラインより下に行きたくないん だよ、我々という人種は。 はじめから客観的な視点を持つ女は、それ故にはじめから身分相応 だと﹁想定した﹂自意識を持つ。それ故、その想定を狭めたくない、と いう心理が働く、と。ふむふむと一つ頷く。内容はともかく、多少は 論理的な説明である。 │││私はな、言っちゃ悪いが自分に結構自信を持っていたんだ。 顔立ちもスタイルも悪くない。性格だって比較的いい方だと自負し ていた。そう言った要素を勘案して出来上がった自意識は自分が思 う以上に大きかったらしくてな。結婚なんてしようと思えばいつで もできるとそう思っていたんだ。そうして大学を卒業し、教師になっ て、567と一桁が繰り上がっていき、8になり焦り出し、9でどう にかラインを下げる努力をし出した。それから二桁の数がとうとう 繰り上がった。そうして自分という存在をアルコールに漬かった脳 味噌で冷静に分析してみたんだ。男の萎んだ傷だらけの自意識に、私 という存在は実に重すぎたんだと。そして上を狙おうにも、もうその 席は埋まってしまっているのだと。﹁手遅れの女﹂というのはこうし 2 て形成されていくのだよ雪ノ下。笑うなら笑え。 そう言われたので、遠慮なく笑ってやりました。その方が平塚先生 も本望でしょうし。 │││ふ、ふふ。笑ったな、雪ノ下。笑っていられるのも今の内だ。 平塚先生と 何故眼前の飲んだく 貴様も何時か、私と同じ苦しみを味わわされる事となるのだからな。 ムッと私は顔を顰めた。私が ? 校時代もそうだっただろう。もう同じ学校でもないんだ。このまま と、奴は解りやすい餌には罠を警戒して決して飛び出さん。実際、高 れるならば、自ら攻めていく他ないぞ。手ぐすね引いて待っていよう にかく予防線を張る。もう二度と傷つかぬ様にな。あの男を手に入 男だ。解るか、雪ノ下。例えお前が必死に好意を伝えようと、奴はと │││あの男はわずか中学の間で自意識を究極までに萎まされた 先生は見ていた。 │││その様子を、実に愉快だと言わんばかりに不愉快なニヤケ面で なら歯牙にもかけぬ大した男なぞではないではないか。心揺らすな。 ええい、何を動揺している。あの眼の腐った人間失格者なぞ、本来 女らしく耐えた。 の不届きな女としての失格者に吐き掛けんと立ち上がろうとして、淑 私は思わず眼を見開き机を叩きつけあらん限りの罵詈雑言を眼前 │││結局、高校の間で比企谷もオとせなかったじゃないか。 まってしまう。 何を馬鹿な、とそう口に出そうとするも、次の一言でピシリと固 はこのままだと、十年後に私と同じ帰結を辿る事となる。 嗅ぎ取るぞ。近付く男共はそれすら解らぬ馬鹿共しかいない。お前 ろう そういう自信によって作られた自意識はな、男共は実に敏感に 正直、自分に見合う男なんぞこの世にはいないとでも思っているだ 前、自分の容姿にも能力にも何も疑う事無く自信を持っているだろう │││お前の自意識は、私なんぞより遥かに高い位置にある。お のでしょうか。 れと私が同じ未来を歩むなどという妄言を吐かれなければならない ? だと、自然とお前と比企谷との関係はフェードアウトだ。そうしてお 3 ? ? 前は比企谷という理想を忘れられず一人孤独に歳を重ね、私と共に同 じ愚痴を酒に乗せて吐き出す惨めな人生が待っているのさ。 私は戦慄を覚えた。 │││遺憾ながら、十分に、考えうる未来だ。実際、あの陽乃姉さ んでも未だ交際すらしていない現状を鑑みて、私だけが大丈夫である 保障なんてないのだ。 多分陽乃姉さんはこの先ずっと独身でも何だかんだ楽しみながら 生きていけるだろう。ならば私はどうであろうか 笑ってやるぞ 十年後、同じ状況であるならば私も思い切り 覚えてろ、雪ノ下 │││ははははは まったのだろうか。あの奉仕部の温かい関係の中で。 らない。│││駄目だ。私は何だかんだ、孤独への耐性が弱まってし り風呂に入り寝る。寂しさを紛らわす様に猫を飼うも、虚しさは変わ 一人明りのついていない高級マンションに帰り、独りでに夕食を作 ? た酒に付き合おう﹂ ﹁ま│││大学生になってもお前は私の生徒だ。フラれたならば、ま たいと思う人間ではない。 やはり、これでも教師なのだ。自分と同じ苦しみを生徒に背負わせ く。 彼女は一人ちびちびと芋焼酎を喉奥に流しながら、一つ溜息を吐 ﹁これで│││ちっとはケツに火が付いたかね﹂ つけた。 雪ノ下がタクシーを呼び、帰ると同時に│││平塚静は煙草に火を ※ る。成程、酒とは便利だ。不愉快ではあるが。 しかし、程よい酩酊の中、不愉快な感情が濁り消えていく感覚もあ │││││││苦い。 し込んだ。 私は苦虫を噛み潰した表情で、店員が持ってきた生ビールを喉に流 ! ! ふ、と 一 つ 煙 を 吐 い た。猛 弁 を 振 る っ た 後 の 喉 に、苦 味 が 心 地 よ かった。 4 ! ※ こうして│││雪ノ下雪乃は決意する。 ﹁目標を設定するには、期限が必要ね﹂ 睨むようにカレンダーを見据える。 現在1月11日。 ﹁これより、新学期が始まるまでにしましょう﹂ つまりは、4月。ぐりぐりと雪ノ下はカレンダーに赤丸を付ける ﹁待っていなさい﹂ │││覚悟を決めた女の眼が、そこにあった。 5 その時、比企谷は 人は何の為に生きているのか そう問われたならば、きっと比企谷八幡はこう答えるだろう。 │││プリキュアの為に生きている、と。 人それをプリキュア原理主義という。 ※ 比 企 谷 八 幡 の キ ャ ン パ ス ラ イ フ は 実 に 夢 と 希 望 に 満 ち た 生 活 で あった。 大学という場所はボッチに厳しい場であるとよく聞かされるが、そ れはよくある勘違いだ。単にコミュニケーションが苦手な連中が群 れる先を探すのに労苦を伴う場所なだけであり、最初からボッチを自 認し許容し愉しめる度量のある人間にとっては実に素晴らしい場所 である。無論、比企谷八幡は後者である。 非生産、無意義、│││大いに結構。大学という混沌の最中に生産 性も意義も意味を見出せる連中は生粋のリア充だけだ。リア充未満 の成り損ないの連中は、それらを見出そうと足掻きに足掻いて絶望を くべていくのみである。金鉱を掘り当てる才がある者のみ、黄金の キャンパスライフを手に入れる事が出来る。残りの連中は何もない 炭鉱を掘り続け徒労の足跡のみが残る他ない。どうせ非生産的で無 意義な大学生活ならば徒労する苦しみなぞ味わわされたくないと思 うのもきっと人情だろう。 大学という場所はキャンパスに居座る者も立ち去る者も平等に取 り扱う。それ故比企谷はキャンパスの外の自由にその意義を見出し た。つまりは家である。 その6畳半の部屋は比企谷の城である。誰にも踏み入れられる事 無く自由で、我儘でいられる空間。涙が出る程居心地がいい、自らを 許容してくれる場所である。 日曜朝、彼は日頃の惰眠癖もその日ばかりは抜ける。 日曜朝8時半。夢と希望を分け与えてくれる素晴らしき時間の為 ならば、怠惰な心魂にも気合が注入されるというモノだ。 6 ? │││大学生にもなって、と人は言うかもしれない。 何を勝手な事を、と比企谷は思う。 夢と希望を胸に闘うハートフルアニメーションが、何故に女児にの み与えられた特権的存在として確立されているのか。夢や希望なん て、大人になるごとに摩耗し砕かれ消失していくモノではないか。燦 燦と照りつける光もそれはそれは素晴らしいものだ。しかして、暗黒 の中差し込む一陣の光を求める者がいるという現実を何故に人々は 認めてやらないのか。 全く理解に苦しむ│││そう思いながら比企谷は至福の30分間 を過ごした。 これが、比企谷の日常である。 何も変わらぬ、日常である。 どうしようもない、日常である。 ※ 比企谷八幡は、周囲の大方の予想通り、都の私大へと進学した。現 在華も陰り出す大学2回生である。 他の身の回りの連中の進学先から離れ、寂しくなかったといえば嘘 ではない。だが、比企谷自身もあの関係性の中で甘えかけていた所も あった事を自覚していた。 奉仕部として過ごした2年という月日は、丁度良かったのかもしれ ない。 甘えるでもなく、だからといって拒絶するでもない│││あの日々 の中で確かに比企谷八幡は成長した。 きっと、時々ああ、ああいう日々もあったのだなぁと思い返し、懐 かしい気持ちと共に時折思い出し微笑む位の、色褪せる事の無い記憶 に な っ て い く の だ。そ の 姿 を 自 分 で 想 像 し て み る と 実 に 気 持 ち 悪 かった。通報されるまである。あまり外ではそうならない事を切に 祈る。 ﹁そう言えば、平塚先生元気かなぁ﹂ 唐突に、奉仕部に入部するきっかけとなった恩師が脳裏に思い浮か んだ。 7 いや、元気なのは解る。解るんだけど│││││精神の起伏という か、安定というか。自棄になっていないかなぁ、とか。恐らく今年か、 去年かの誕生日│││││とか。血の雨とか降っていないかなぁ、と 誰か│││ 貰ってやっ か。飲み潰れてゲロに塗れた三十路の遍路を迎えていないかなぁ│ ││とか。挙げればキリがないのですよ てくれよ│││ 我が愛する千葉ロッテの開幕投手ももう ! ﹁うん ﹂ ﹁へー、そうか。センター上手くいったのか。よかったよかった﹂ ※ し、比企谷はいつも通りの日曜日を過ごしていた。 そんな若手から晴れて中堅へと移行した先生を心の中で一つ合掌 婚したんだし、きっと先生にもいい人が現れるさ。知らんけど。 があるし││││。うん││││。まあ、ワクさんはあの年齢でも結 若手なんて口が裂けても言えないよなぁ│││。なんか、やけに貫禄 │││││。純白のタキシードなんか着ちゃって。ワクさんももう 三十になりました。ああ、そう言えば今年結婚したなぁ、ワクさん│ 先生、貴方は若手ですか ! る。 小町は、今年が受験年だ。 ﹂ ﹁心配してくれてたんだー。よしよし、これはポイントが高いよー、ご みぃちゃん かったねー。これで子離れ︵小町限定︶の期限が四年ばかり延びた訳 千 葉 大 に 行 っ て く れ と 泣 き な が ら 懇 願 し て い や が っ た と い う。よ あの野郎、こっちは下宿にぱぱっと追い出したくせして、小町には ﹁そりゃあ、親父も大喜びだろうな﹂ ﹁うん。千葉大だよー。いやぁ、我ながら頑張ったよ﹂ ﹁となると、志望を変える必要はなくなったか﹂ ││││││。 もポイントが低いよ、小町││││。主に価値観の乱高下的な意味で ポイントが高めでもゴミ扱い│││││お兄ちゃん的にはとって ! 8 ? ! 電話越しのマイエンジェルの弾んだ声に、少しばかり安心感を覚え ! だ。 ﹁あとは二次対策 センターはちょくちょくお兄ちゃんから教えても らえたけど、流石にここからは門外漢だねー﹂ ﹁そうだな。すまないが、ここからは力になれん﹂ ﹂ ﹁いいよいいよ、ここまで随分英国では助けてもらったし、ここからは 独力で頑張ってみます 小町に教鞭を取っていたという。 付き合い、その後親父に泣きつかれ二次開始二週間前には住み込みで そのありがたき彼女は一カ月間小町に対策プリント持参で勉強に それが比企谷兄弟共通の知人であったという。 い千葉大の先輩が﹁偶然にも﹂予備校前の喫茶店にいて、 ﹁偶然にも﹂ その時、一ヵ月の間、みっちりと勉強の世話をしてくれたありがた │││その後、小町は無事合格を果たす事となる。 息を吐いた。 い。ひとまず、今できる事は祈るのみだ。比企谷はそう思い、一つ溜 うーむ、やっぱりシスコンは治らない。こればかりは仕方があるま のをサポートしてくれる人が一人いてくれればなぁ、とは思う。 ものだ。あと一ヵ月、気を抜くとは思わないが、やっぱり勉強そのも 予備校に通っているといえど、やっぱり根本的な対策は独力でやる まあ、何とか合格を勝ち取ってもらいたいなあ、小町も。 そうして、電話が切れる。 がら、レポート処理をしておくよ│││││。 う ん │ │ │。八 幡 頑 張 る よ。色 々 と │ │ │ │ │。ア ニ メ 消 化 し な ﹁うん、お兄ちゃんも頑張ってねー。色々と﹂ ﹁それじゃあ、二次まで頑張ってな﹂ 神様もお怒りかもしれないし││││││。 │││││。うん、何か薄寒いからやめよう。こんなのと名前被って む、頑張れ我が妹よ。八幡宮でお祈りでもしておこう。八幡だけに│ やったるぞー、と実に威勢のいい声が電話越しに聞こえてきた。う ! 何とも不思議な縁というか、偶然もあるモノだなぁと比企谷は思っ た。 9 ! 逃げ場はない │││アルコールに塗れたあのひどい平塚先生との会話で、ようや く雪ノ下は覚悟を決めた。 それから実に様々な対策を講じたが、どれもこれもしっくりこな い。何やら見るからに偏差値の低そうな雑誌類も買い漁り、そのどれ もを読んだ結果、結論が出た。 ボディタッチ そのど │││そもそも、これは〟一般的な〟感性の男性を落とす為の手法 上目遣い であって、あのねじくれ者になんか対応してないのよ。 よって、却下。あざとさを演出 ? ならば、その認識をまず変えさせねばならない。 あって。 ただ、その好意を何かと理由付けて﹁勘違い﹂に転嫁させるだけで だからこそ、それとなくこちらの好意を認識させることは出来る。 いる。 あの男は、他人の心理を洞察する事に関して、相当な能力を持って │││気付けば、もう周囲に逃げ場を無くしておかねばならない。 あの男を追い立てまわして落とすつもりでは駄目だ。 │││逃げ場を、無くすほかない。 う。 だ。攻め込むにしろ、一度取り逃がせばあの男はずっと逃げ回るだろ 雪ノ下はううむ、と一つ唸った。まるで女鹿の様に面倒で臆病な男 │││こちらが、落とすつもりでは駄目ね。 う少しあの男も生きやすかったであろうに。 相手ではない。正攻法が通じるだけの素直な感性を持っていれば、も いう名の橋架けをした男が、比企谷八幡という男だ。正攻法が通じる を形作っているのだ。一般的な感性をズタズタにされ、そこに理性と あらゆる恋愛的な事象を勘違いという解釈に転嫁出来る強靭な理性 罠にしか思えないだろう。先生も言っていたではないか。あの男は れもこれもあの男にとっては自身を陥れる為にぱっくりと開かれた ? ﹁勘違い﹂なんて逃げ場を、まずもって叩き潰す。 10 ? あの男は頭がいい。そしてその根本はすべからく善人である。必 要悪を演じれるだけの善良性を抱え込んでおり、そしてそれは、あの 男の致命的な弱点でもある。 │││善意には、必ず何かしら善意で返そうとするであろう。良識 ﹂ と善性を持ち合わせているあの男には、こちらの善意に悪意を返す事 も、無視することも出来ない。 一つ、閃いた。今は一月の中旬である。 ﹁そう言えば、もう小町さんは受験年かしら │││そうか、そうであるならば、身内から攻めていけばいい。 そこからの行動は実に迅速であった。 彼の妹│││比企谷小町が予備校に通い、その帰りによく一人で喫 茶店に寄っているという目撃証言を頼りに、偶然を装い彼女と接触。 その後志望校が│││これは本当に偶然であったが同じ千葉大学と 言う事もあり同校の先輩として二次試験まで勉強を見てあげましょ う、と提案し、それを快く小町は受け入れた。彼の両親にもそれとな く挨拶を交わし、家庭教師代わりに彼女の勉強を見てあげた。どうや ら千葉大を目指しているのも、彼女の父親の要望も大きかったよう で、小町さんの勉強を見てあげますと言うといたく感激していた。 │││雪ノ下さんは、あの愚息の知り合いでしたか。 比企谷父の問いかけに、ええ、と雪ノ下は答える。出来うる限り、 そっけなく。 │ │ │ 随 分 と 息 子 さ ん に は 助 け ら れ ま し た か ら。そ の 恩 返 し と 思っていただけたら結構です。 │││そ、そうですか││││。まさか、こんな美人さんの知り合 いがアイツにいたとは。 │││大学に入ってから、もうパッタリと連絡も取ってくれなくな りましたけどね││││。 少しだけ、寂し気に、そう言った。こう言えば、きっと彼の両親も こちらを気遣ってくれるであろう。卒業と同時に連絡すら取らなく なった馬鹿息子にいたく沈痛な感情を抱いているものの、それを必死 に隠そうとしている、と│││そう解釈してくれれば上々だ。 11 ? 狙いは、│││まずもって彼の家族を味方に引き入れる事。 彼の両親、及び小町さん。 彼の経済的な拠り所と、心の拠り所。彼の心理面から考えれば、こ の二つを敵に回す事は考えにくい。特に重要なのが小町さんだ。彼 女へ恩を売る事は、転じて彼へ恩を売る事と同義となる。 │││彼の、﹁勘違い﹂を形成する逃げ場を一つずつ潰していく。 回りくどい方法に見えて、これが彼に対する一番の近道だ。遠回り が、近道になる事もある。特に、こういった恋の諸々に関しては。 手段は選ばない。選べない。 ここで取り逃がし、今度は私が先生と同じ立場にならねばならない のか。論理的にかつ非論理的に自身が孤独である事への分析をし続 け、しまいに心を摩耗させていき、次第に孤独を孤独と感じなくなっ ていく、そんな惨めな女に。 あり得ない。 絶対にあり得てはならない。 先生には感謝している。尊敬だってしている。だからといって同 じ道程を歩みたいなどとは絶対に思えない。彼女が示した道程は、い わばゴルゴタの道だ。彼女自身が十字架を引き摺りながら、その結末 を示しくれた道。その道を、必ず辿ってはならぬ│││そう、あの居 酒屋で示してくれたのだ。 覚悟を決めたのだ。 │││如何なる手段を用いても、手に入れねばならない。 今度こそ、逃がさない。 待っているがいい。 12 怒りの日 ﹁│││へぇ、偶然もあるものだな﹂ ﹁本当だよ。まさか雪乃さんに会えるだなんて思わなかったよー﹂ あの人本当にスパルタだよー、とマイエンジェルは実に満足気な声 を電話越しにあげる。どうやら、共通の知人│││冷徹無欠の完璧主 ﹂ ﹂ 義者雪ノ下さんは大学に行っても変わる事はなかったようで。 明らかに俺、関係なくね ﹁お兄ちゃん、ちゃんと礼を言うんだよ ﹁え、俺 ﹁││││ごみぃちゃん、解ってないの ﹂ 私のモノはごみいちゃんの しまいには死ぬ モノ。ごみいちゃんのモノはごみいちゃんのモノ。故に私の恩義も ごみぃちゃんのモノなんだよ おい、小町。今何度ごみぃちゃんと言ったのん ぞ。 つになるの ﹂ ﹁そんな事言って。年末年始も実家に帰らなかったのに、そんなのい ﹁ま、礼くらいは言っておくわ。今度実家に帰る時でも﹂ ? ! ﹂ってなノリである。親と言えども容赦ない時はと どんだけ小町と一緒にいたいんだよ、あの駄目親父。﹁おめーの部 屋、物置だから それとも親父不 親父が帰って来いなんて嫌な気しかしな ? 来いってさ﹂ 治の病でもかかったのん ? ﹁帰って来い、と言われても││││いや、俺の部屋物置だったじゃ いんだけど 明日槍でも振るのん ﹁あ、その父さんだけど、私の受験が終わったら、お兄ちゃんに帰って かよ。 人形に呪いを込めて呪いを返されて死ぬかもしれん。死んじゃうの むせび泣いて地獄を見るがいい。結婚する時│││││は俺自身藁 ことん容赦ないのだ。ふん、別にいいのだ。小町が独り立ちする時に ! 13 ? ? ? ? ﹁だって、帰ってくるなって親父に言われたし│││││││﹂ ? ? ? ﹂ ﹁は ? 何の天変地異ですか え ? ん﹂ ﹁お父さんが泣きながら片付けさせられていたから、大丈夫だよ ﹁え、何それ﹂ ﹂ ﹂ ﹁よく解らないけど、雪乃さんに〝最低ですね〟って言われたらしい ! 本当に何があったのん、親父 ﹂ ﹁やっぱり美人は怖い、って何かブツブツ呟くようになっていたよ。 何があったんだろうねー あまりにも非現実的で嗜虐心 ? │││彼が帰ってきたら、どうするんですか 笑いながら、比企谷父は言った。 │││ああ、アレは愚息の部屋ですよ。 何ですかと雪ノ下は彼の父親に尋ねたのだ。 住み込みで小町さんの勉強を見ていた時、見えた物置部屋。アレは 特に、怒りの感情に対して。 が致命的に下手糞であるという確定的事実を忘れていた事だ。 乃であると言う事を忘れていた事であり、また猫を被り感情を欺く事 ただ、一つ慢心していた事は、自分が何処までも行っても雪ノ下雪 策は上々。非常に上手くいっていた事は間違いない。 │││想定した道筋に、修正の必要性が出来たわね。 ※ やだよぉ│││││帰りたくないよぉ│││││││。 る。その想像上の親父の余りの気持ち悪さに吐き気すら覚える。 すら湧き起こらない。月の裏側の話を聞いているも同然の光景であ 子の部屋を泣きながら片付ける親父 ええ││││。本当に、これ、家に帰って大丈夫かねぇ│││。息 ﹁知りたくもない││││││﹂ ? 何故そうなったのかは、その瞬間には理解出来なかった。それで フリーズが解けた後、自分の中で、何かがキレた音がした。 一瞬、身体がフリーズしたかの如く固まった。 そう言いながらわははと笑う声が耳朶に響いた瞬間│││一瞬だ。 │││帰ってくるなと言っておいたから大丈夫ですよ。 ? 14 !? ! も、自然と化けの皮が引っぺがされた。ここら辺が、姉さんと違う所 だろうなぁ、と自分で思う。必死で作り上げた仮面が、こうも見事に 砕かれてしまうとは思えなかった。ごく自然と、口が開いていた。 何を言ったかは正直覚えていない。ただ親とは何か、子とは何か、 と論理的に、かつ、詰将棋をするかのように言葉を取捨選択していっ た思考パターンの形成過程だけは実に鮮明に覚えていた。嵐の様に、 もしくは稲妻の様に、更に言えばあの日の先生の様に、怒涛の如く舌 先が動いていた。 │││最低ですね。 最後に持ってきた台詞を吐き出した後、比企谷父は幾分長くフリー ズしていたという。 │││しまった、と思った。 これで仮に出ていけとでも言われたら、もう作戦は破綻も同然だ。 │ │ │ し か し、怪 我 の 功 名 と で も 言 お う か。そ の 後、予 備 校 か ら 係が理解できた気がする。その次の日には、彼は何やら強制労働中の 囚人と言った風情で部屋の片づけを行っていた。 そういう訳で、作戦の道筋を変更することにした。 彼の父親は、猫を被って対応するのではなく、威圧を用いて対応す るべし。懐柔ではなく小町さんを間接的に挟んだ脅迫が最も有効で ある。よしよし、一度は破綻しかけた策であるが新たな発見により、 その夜、少し より上策と化した。怪我の功名、ここにありと言った感じだ。 ※ 何故、あの時あんなにも怒ってしまったのだろうか ばかり深く考えた。 余計なプライドを取り払えば、その心は実に素直に映し出された。 るまいに。 │││││││自分だって、別に特別愛情深く育てられた訳ではあ ? 15 帰って来た小町さんから﹁何だか知らないけど、ちゃんとフォローし ﹂ たから大丈夫だよ﹂とのありがたい言葉を頂いた。﹁フォロー│││ ││ううん、脅迫 いや、違うか││││ううん、違わない│││ ? などとも、何やらニヤケながら言っていた。成程、大体この家の力関 ? 彼は、自分を軽んじていた。 彼は、他人に何も期待していなかった。 │││││││文化祭においても、修学旅行においても、未だ彼の あの時の行動が正しかったとは思えない。 だが、それでも、当時の自分の行動が正しかったか、と問われれば それもまた否と言う他ない。 何故、あの時彼の行動を受け入れてやれなかったのだろうか。 頭ごなしに、拒絶する事なんて誰でも出来るというのに。 何故あの時、 ﹁依頼なんて失敗したって構わない﹂と言ってやること が出来なかったのか。いや、そんな言葉じゃなくたって、ただ素直に ﹁私は貴方が大切なの﹂と言葉に出来ていれば、どれだけ違っていただ ろうか。貴方が傷付けられる姿を、痛ましく思う人だっているのだと │││ただただ、素直に言えれば、よかっただけなのに。 結局、あの高校時代は│││誰もが、誰かの為に行動していて、け れ ど も 誰 も が そ の 心 を 言 葉 に で き な か っ た の だ。よ く あ る 青 春 で。 けれども、同時によくあるすれ違いの悲劇で。素直になれなかった青 春の苦味を、訳も無く味わわされて。ただ、彼が、彼自身を軽んじて ほしくない│││たったそれだけの願いを抱いていただけだったの に。 │││そして、今日解った事が一つ。 少なくとも│││彼の父親ですら彼を軽んじていたのだ。 だから、怒った。なんて、単純な因果なのだろう。ただ、それだけ の話だ。 何だか色々と腹が立って、もう考える事を止めた。 今考えるべきはこんな事じゃない。 │││あの男を落としに来たのだ。まだ、ようやく一つのステップ が終了しただけだ。 慢心する事無く、この先も進んでいかなければならない。 孤独の業火で焼かれ死ぬのは、真っ平御免だ。 ここで手に入れるべきものは、すべて手に入れる。 16 再会を希い こうして│││小町の受験は終わった。 手応えは十分、とは小町の談。滑り止めの私大も複数の合格通知が 雪乃さん ﹂ 届いており、晴れて彼女は受験から解放された。 ﹁ありがとー ! 見守る。 ﹁ほんっとに助かりました ﹂ ! います ﹂ には戻ってもらうとして│││何か雪乃さんにもお礼をしたいと思 ﹁まあ、これで晴れて受験から解放された訳ですし、一度あの駄目兄ぃ 訳だし﹂ ﹁邪魔したくなかったんでしょう。あの男だって一度は受験生だった ないんだから。これだからあのごみぃちゃんは││││﹂ ﹁まったく、雪乃さんが来ているというのに一度もこっちに戻ってこ ﹁貴方も、呑み込みが早くて助かったわ。もう大丈夫でしょう﹂ です 雪乃さん、ホントに教えるの上手かった いえーい、と実にのびやかに跳ね回る小町を、雪ノ下は微笑ましく ﹁よく頑張ったわね、小町さん﹂ ! ﹂ ﹁これは││││││ ﹁中を見て下さい ﹂ ? ﹁チケット││││ ﹂ 雪ノ下は言われるまま、封を切る。 ! ﹁え││││ ﹂ を、お兄ちゃんにも送りました﹂ ﹁はい、千葉市内のホテルの食事券です│││ちなみに、同じチケット ? ﹁あると思ってるのー ﹂ ﹁│││││拒否権は﹂ ※ 雪ノ下は瞠目しつつ、小町を見た。 ? ? 17 ! 小町はそう言うと、にこやかに封を一つ雪ノ下に渡す。 ! 酷い話だ。唐突に送られてきたタダ飯券を片手に、比企谷八幡は うーむと唸っている。 いや、別に貰い物にケチ付ける程性根が腐っている訳ではなく、単 小町がお年玉のおよそ半 純にその立地が問題なのだ。何で千葉なんだよ。帰ってこさせる気 全開じゃねーか。 ﹁いいじゃん、別に。│││それとも、何か ﹂ 小町の好意を無下にしても、雪乃さんを一人寂し 分を削って折角プレゼントしたモノを要らないと突っ返すつもり ﹁うぐ││││﹂ ﹁別にいいんだよ ? ? ちゃんになっちゃうのかなぁ﹂ ﹁待て、待て。それが一番の問題だろう。俺が 雪ノ下と二人で 何だよ、その犯罪的に不釣り合いな光景は﹂ 食 ? ﹁│││││││﹂ ﹂ ﹁同じ部活でしょ くれた人だよ お兄ちゃんみたいな面倒な人とずっと一緒にいて いたくないとでも思っているの﹂ ﹁││││あのさ、お兄ちゃん。本当に雪ノ下さんが、お兄ちゃんに会 だ。胃が重い。 何だ何だ、この脅迫じみた交渉は。カツ丼でも食わされている気分 ﹁いや、しかし│││││││﹂ 方ないでしょ。観念してちゃっちゃと帰ってこーい﹂ ﹁その犯罪的なシチュエーションを望んでいる人がいるんだから、仕 事 ? く食事させる事になっても。あーあ、お兄ちゃんは正真正銘のごみぃ ? ? ﹂ 時間が解決してくれるって思ってた は、少なくともそう思ってないみたいだけど ﹁いや││││││﹂ │││雪乃さん ? ﹁│ │ │ 拒 否 権 は な し。お 兄 ち ゃ ん は 雪 乃 さ ん と 一 緒 に ご 飯 を 食 べ くとも、出せない。そんな、どうしようもない違和感。 声が出ない。喉奥に、何かが詰まるような感触がする。声に出した ? ると思った ﹁わだかまりを抱え込んだまま卒業して、そのまま自然消滅してくれ 小町の声の、トーンが下がっていく。 ? ? 18 ? る。これは決定事項です。以上﹂ ツーツー、と無情な電子音が耳朶に流れ込んでいく。 片手には、ホテル御食事券と書かれたチケットがそこにある。高そ うだなぁ││││八幡、こんな場所に行かなきゃいけないの│││ │。チケットに写されたコックに、何だか目線だけで殺されそう││ ││。 嘘だろ、と八幡は頭を抱えた。 ※ ﹁│││という訳で、明日の夜、お兄ちゃんはこっちに帰ってきます﹂ ﹁あ│││││そうなの﹂ 呆然と、眼前のチケットを眺める。 明日、あの男と二人で食事をする│││望んでいるシチュエーショ ンのはずだ。待ち望んで仕方の無かった、状況が転がり込んできた│ ││││はずなのに。 心の何処かに、やはり│││彼と会う事を恐れる自分も確かにい る。 矛盾している。どうしたというのよ、私│││。折角舞い込んでき た好機じゃないか。 ﹁雪乃さん﹂ そんな葛藤を見てか、小町が雪ノ下に声をかける。 ﹁│││安心して下さい。お兄ちゃんは、あのままの馬鹿兄貴です﹂ その声は、実に優しげだった。 ﹁そして、雪乃さんも、あの時のままの雪乃さんです。何も、変わって いないです﹂ ﹁小町さん│││││││﹂ ﹁│││ちゃんと雪乃さんは、お兄ちゃんを想ってくれています。私 も協力しますから、怖がらなくていいんです。いつものように、馬鹿 には馬鹿と言っておけばいいんです。それが雪乃さんですから﹂ ニコニコとこちらを見据え、小町は言う。 │││全て、解ってたんだ。 何故、彼女に近付いたのか。何故、彼女に勉強を教えていたのか。 19 自分が立てた、幼稚極まる策なんぞ、彼女はとうに理解していた。 ﹁雪乃さんは、私にしっかり厳しく教えてくれました。しっかり、お父 さんに怒ってくれました。猫を被っておけばいいのに、出来なかっ た。結局何処までいっても雪乃さんは雪乃さんです。だったら、応援 しない理由はないですから。頑張って下さい﹂ 何故だろう、涙が出てきた。 その理由を探るのも、何だか無粋に思えた。 │││成程、彼も、妹には頭が上がらない訳だ。 ※ │││そうだとも、怖がってはいられない。 私は私だ。雪ノ下雪乃という人間だ。虚飾は嫌い。愚か者も嫌い。 ついでに言えば、猫かぶりも嫌い。猫自体は好きだけど。 私は私として、彼に向き合えばいい。 私は私以外の何者にもなれない。そんな当たり前の事すら忘れて いたのか。 │││待っていなさい。 先生。私は必ずや貴方の犠牲を無駄にはしない。丘の上で四肢を 打ち付けられ哀れ焼き殺されたかの神の子も、自らを犠牲に大罪を背 負ったのだ。貴方の犠牲は、確かに一人の生徒を変えてくれました。 なけなしの勇気と知恵を振り絞り、こうしてもう一度踏み出す力を、 くれたのです。感謝する他ない。貴方にとってのユダが何者なのか は解りません。先生の過去には、銀貨30枚に絆され、貴方の人生を 狂わせた何者かがいたのかもしれません。それでも、私は貴方が歩ん だ、煉獄の道すらも感謝します。貴方が歩んだゴルゴタの丘の道程に は、確かに貴方の為に涙した弟子がいます。 だから、どうか。 この道の帰結に、何があろうと│││生徒の幸せを希う、貴方でい て下さい。先生。 私は私の幸せの為に、戦ってまいります。 20 先制取るべし ﹁なあ、小町│││││﹂ ﹂ 居間のソファで、うなだれた父が小町に声をかける。 ﹁なあに、お父さん ││ ﹂ ﹁││││││あの美人が、八幡を懸想しているとは本当なのか││ ? 小町、恋愛興味ないし﹂ ﹁自分の眼を、信じるんだよお父さん﹂ ﹂ ﹁あの八幡だぞ ? ﹁│││あ、一つだけ言っておくね﹂ ﹁小町が、今日に限って冷たい│││﹂ じゃん。お父さんは一体お兄ちゃんの何を知ってるの ﹂ お 父 さ ん、ロ ク に お 兄 ち ゃ ん の こ と 見 て な か っ た ﹁ど の 八 幡 な の ? もいいところ﹂ さん、小町ポイント最底辺も最底辺だから。一次大戦後のマルク以下 めばいいし、必要なモノもすぐに取りに行けるし│││今の所、お父 なら、小町、東京の私大に行くから。部屋はお兄ちゃんと同じ所に住 ﹁私大、受かっててよかった。│││お父さんが雪乃さんに謝らない 怜悧な言の葉が、父の胸元を抉り込んできた。 父さん、小町、大嫌いだから﹂ ししょうがないと思っているけど│││雪乃さんに嫌われる様なお ﹁別にお父さんがお兄ちゃんに嫌われようが、もうどうしようもない まうのだろうか。 ││何故にこうも締め上げられるような重さをその言葉に感じてし 小町は、実に朗らかで明るい口調を変えていない。だというのに│ ? │││││﹂ なあ、アレが本当に、僅かでも、義娘になる可能性があるというのか ﹁││││自分の判断を信じたくないから、こうして聞いているんだ。 の ﹁さあねぇ。お父さんの方が、その辺の女心の機微は解るんじゃない ? ﹁││││││││││││││││││││││││││││││ 21 ? ││││││││││││││え ﹂ ﹁おい、それはどういう意味だ﹂ いだろうけど﹂ ﹂ ﹁ええ、久しぶりね、比企谷君│││元気だったかしら。聞くまでも無 にそう声をかけた。 まるで火口の裂け目の様に淀み切った眼をした男が実に居辛そう ﹁│││││││久しぶりだな、雪ノ下﹂ い予約席へと歩いて行く。 ベーターから現れた。そのままレストランの玄関口から、ボーイを伴 │││そして、明らかにその空気と視線にキョドっている男がエレ 見ながら一切佇まいを変えずにそこにいた。 嫌でも突き刺さる周囲の目線なんぞ何処吹く風、彼女は時折夜景を た。 レストランの優雅な空気すらも呑み込む、鋭い空気を彼女は纏ってい 装いに身を包んだ彼女はホテル上階にて背筋を伸ばして待っている。 タートルネックのセーターとロングスカートと、割とカジュアルな 凛然と、彼女はホテルの席に座っていた。 ※ め続けていた。ニコニコと、ニコニコと│││。 れたゴムダイヤの風情だ。小町はその様を、変わらぬ笑顔のまま見つ うなだれた身体は、一瞬で崩れ落ちる。まるでバンカーに撃ち抜か のだが、現実を受け入れたくないと心が喚き散らしている。 何故だろう。涙が出てきた。何故と問われようと理由なぞ明白な の底から這い出た悪魔の声となる。 みを与えし者の誠意を裏切れば、一転柔らかな天使の語り口は、煉獄 │││天使と悪魔は表裏一体とは、誰が言った言葉であったか。恵 ニコリと小町は父に微笑む。 ﹁年貢の納め時だね、お父さん﹂ ﹁え、え ﹁本気だから。お母さんの了承は得ているから﹂ ? ﹁言葉通りの意味よ。元気に大学生活を全力でエンジョイしている比 22 ? ﹂ 企谷君│││││││想像を絶する気色悪さだわ。貴方、そんな新人 類じみた急激変化を好むような人物ではなかったでしょう ﹁ほっとけ。俺だってそんなことは解ってるっつーの﹂ はあ、と一つ溜息をつきながらゆっくり席を付く。 猫背に、少し呆れた様な口調│││変わる事のないその声が、妙に 心地いい。 二人そろった所で、ボーイによって食事の説明が入る。小町が予約 していたのは通常のコース料理であり、食べ終わる毎にディナーをお 出しします云々、ではどうぞごゆるりとお楽しみくださいませ云々と ボーイが滔々と説明する。慣れているのか、はいはいと軽く頷きなが ら応対する雪ノ下と明らかに場慣れしていない比企谷のアンバラン スな二人組にも、流石のプロと言った所か。一切表情を崩さぬまま全 てを説明しきった。 ﹁│││小町の事、一先ず礼を言っておく。ありがとな﹂ ﹁別 に い い わ。こ う し て 素 敵 な プ レ ゼ ン ト を 貰 っ た し │ │ │ そ れ よ ﹂ り、貴方よ。本来祝わなければならない貴方が、何を以てここにいる のかしら ﹂ ﹂ ﹁貴方も変わらないわね。私の身の回りの人って、どうしてこうも変 わらないのかしら 前菜のサラダと、パンが運ばれてくる。 ﹁先生も、お変わりなかったようだし﹂ ﹁お、先生に会ったのか。││││││あのさ、どうだった ﹁│││││││││││││﹂ ﹁黙るなよ。怖いだろ│││││﹂ と口を開いた。 慮せねばならないのだ。雪ノ下は一つパンを口に入れると、ゆっくり 雪ノ下は思う。さしもの彼女でも、あの夜の出来事を説明するのに苦 比企谷は顔を引き攣らせ雪ノ下を見やる。仕方がないじゃない、と ? ? 23 ? ﹁│││はぁ、また財布の中を毟り取られなきゃいけないのか﹂ ﹁これは二倍にして返さなければいけないわね﹂ ﹁││││││いや、脅迫されたんだが﹂ ? ﹁先生も、三十路を超えたわ﹂ ﹁ああ│││││││﹂ ﹁色々、あったのよ│││││﹂ ﹁うん│││││﹂ ﹁女は、形成された自意識に煉獄の如く苛まされるらしいわ。あの人 曰く﹂ ﹁えぇ│││││﹂ ﹁そんな事を、居酒屋で何時間も話していたのよ。婚活の失敗談、親類 の斡旋、そして遂に諦観が入り始めた両親の視線││││││あの 人、本当にこの人生何をやって来たのかしらね﹂ ﹁あの、何かすまん│││││﹂ ﹁いいのよ。今度は貴方が一緒に呑んであげれば﹂ ﹂ ﹁遠慮します││││││﹂ ﹁恩師でしょう ﹁恩師だけどさ││││││﹂ げっそりと、比企谷は俯いた。│││││この男もこの男なりに恩 ﹂ 師を慮っていたのだろう。そして心配が的中し、心を痛めているの だ。 ﹁誰か、貰ってやらないのかね│││││﹂ ﹁あら、貴方。人の心配をしている余裕なんてあるのかしら 今はいいかもしれないけど│││想像して見なさい。貴方の ﹁うっせ。いいんだよ、俺は。プロボッチ舐めんな﹂ ﹁そう ? 持って、仕事を持って、生きていくの。その中で貴方は夜遅くまで仕 事して、誰もいない暗い部屋の灯りを一人で点ける。風呂も自分で沸 かして、ご飯だって自分で作るか外食するか。そして気付けば仕事以 外に何も会話する事無く、一日を終える。小町さんだって、いつまで も独身という訳にはいかないでしょうし、家族だって貴方から徐々に 離れていくの。どう、耐えられるかしら。私は耐えられないわね﹂ へぇ、と比企谷は一つ頷いた。 ﹁お前、人並みに結婚願望なんてあったのな﹂ 24 ? 数少ない親類、知り合いが次々と結婚していくの。それぞれが家庭を ? ﹁│││ええ、気付いたのはごく最近よ。先生の末路を、歩みたくな い。たったそれだけの思いが私の中に生まれたのよ﹂ ﹁お前、サラリと酷い事を言っているな││││││﹂ ﹂ そりゃあ、気持ちは解るけど、と比企谷は一人ごちる。 ﹁│││貴方は、どう 先生をアレとか言わないで ﹂ ! 時間が解決してくれるなんて、甘いこと考えてない 恋愛アレルギーを抱えたまま結婚出来るなんて大いなる勘違いをし ﹁つまり、甘いと言う事よ。貴方、傷だらけの恋愛遍歴を辿った挙句、 ﹁やめて ﹁先生は、その思考の果てにアレになったのよ﹂ ﹁いや、まだそんな事考える年齢じゃないだろ││││││﹂ ? 大人になった所でそれらが都合よく全部解決して結婚 ていないかしら でしょうね ? ですかね ドSなのは解ってるんですけど ﹂ ﹁あの、今貴方は何を以て俺の繊細な心を容赦なく串刺しに来てるん わ﹂ 谷君もいい所よ。貴方なんて、先生よりも結婚できる可能性が低い に至れるなんて、はっきり言って甘いとしか言いようがないわ。甘ヶ ? ﹁は ﹂ ﹁冗談ではないわ│││紹介するのは、私よ﹂ ﹁│││││││お前がそんな冗談言うなんて珍しいな﹂ ﹁そうね﹂ ﹁何だ何だ。女を紹介するとでも言うのか﹂ いるの。感謝なさい﹂ ﹁そんな甘々ヶ谷君に、私から天使のサービスをしてあげようとして ! 25 ! ? ﹁│││この雪ノ下雪乃はどうかしら、と貴方に言ってるの﹂ ? ﹂ 感情を示せ ﹁え 困惑の表情を、比企谷八幡は浮かべていた。具体的に言えば、全身 が硬直し、濁った眼を大いに見開き、口を半開きにして│││ただい まダムダム弾を叩きこんだ女を見据えていた。食器類を持っていな くてよかったと心から安堵する。手に持っていたとしたら確実に落 としていたに違いない。こんな高級店でこんな男がそんな粗相をし でかしたともなれば、一発退場もありうる所であった。 横っ腹を殴り込んだ女は、実に悠然としていた。 ﹁愉 快 な 表 情 を し て い る わ ね、困 惑 ヶ 谷 君。何 だ か こ ち ら も 愉 快 に なってきたわ﹂ ﹁いや、そりゃあ、そうだろ│││││俺としては聞き間違いが真っ先 に選択肢に思い浮かぶ程衝撃の言葉が出てきた気がするぞ﹂ 私の柄 ? ﹁│││痛快な気分だわ。こうも純粋に貴方を驚かせることが出来た それとも情熱的に のも、随分と久しい気がするわ。なら、もう一度、言いましょうか もっと直接的に言った方がいいかしら ? ﹂ ではないけど、どうしてもと言うなら言ってやらないことも無いわよ ? ﹁さて、私は確かに問いかけをした訳だけど│││別に、解答は今の所 ﹂ 求めていないわ、比企谷君﹂ ﹁はい ﹁││││││﹂ ほど悶えて恥辱を味わうがいいわ﹂ いるも同然だったわ。貴方も、苦しみなさい。私の事を考えて、死ぬ んだの。この苦しみたるや、形容し難い恥辱を間断なく味わわされて ﹁フェアじゃないからよ。私は、散々貴方の事に思考を乱されて苦し いる。 綺麗な、眼だ。凛然としているようで温かな力が、そこに内在して 雪ノ下は、ゆっくりと比企谷を見据える。 ? 26 ? ﹁い、いや。結構だ。十分、理解できた﹂ ? ﹁苦しんで、苦しんで│││その果てに私の所に収まってくれればい い。ど う せ、収 ま る 所 に 収 ま る も の よ。だ っ た ら、散 々 抵 抗 さ せ て 嬲って屈服させてあげるわ﹂ ﹁いや│││││何で、わざわざ﹂ そんな回りくどい事を、と言おうとして、 ﹂ ﹁だって│││貴方、自分の感情なんて、はっきり自覚した事、あるの ﹂ そう先回りされた。 ﹁││││どういう事だ ﹁だって、貴方、一先ず自分の感情を脇に置いて考えるじゃない。それ があまりにも腹立たしいのよ。考える必要もない他人の心理ばっか り慮って、そのくせ感情について一切合財斟酌しない。傷ついた自分 自身を世界から切り離して、まず考える。│││冗談じゃないわ。今 までの貴方の行動の是非は一先ずおいておくわ。けれども、私の恋の 諸々まで、そんな思考で向き合ってもらっては困るのよ。今私と貴方 の間にある世界は、私と貴方しかいない。そこから自分だけ切り離し て考えるなんて、何とも滑稽な話じゃない。許さないわ、そんな事﹂ だから│││この告白は、受け入れてもらう為のものじゃない。 貴方に、楔を打ち込む為のものなのよ、と雪ノ下は言う。 ﹁他人も家族も、そして私ですら関係ないわ。言い訳なんかさせない。 逃げ道も用意しない。ただ貴方は、自分の感情が私に向いているかい ないかだけ、それだけを考えてこの先過ごすの。なかったでしょう こんな事﹂ フフン、と雪ノ下は鼻先で笑う。 三人の関係の中で、きっと一番負担を背負ったのは、間違いなく貴方 ﹁││││││ずっと、貴方には気を遣わせちゃったから。奉仕部の 言葉は何も喉元を通らない。 │││声を失うとは、この事か。この圧倒的な存在感を前にして、 いるみたいじゃない。私も、多分ずっと千葉にいるだろうから﹂ エスでもヤーでも好きでも愛しているでも何でも。貴方、暫く実家に ﹁返事したい時は、いつだって言ってくれて構わないわ。はいでもイ ? 27 ? ? だわ﹂ ﹁いや、﹂ そんなことは無いと、言おうとして│││人差し指が、唇に軽く触 れる。 ﹁黙って聞いて│││。あの停滞した、亀裂の入った空気のまま卒業 してしまって、私達の関係はそのまま自然消滅して│││私、怖かっ たのよ。もう一度貴方に向き合うのが。あの時の自分の過ちも、貴方 の事も、全てを自覚して、│││私達の、どうしようもなく間違い続 けた青春が味わわせた苦味をもう一度味わう事になるんじゃない かって﹂ けれど、その時はっきり思った事がある。 │││何て、無様なのだろうと。自分のその思考が。恐怖に怯える その姿勢が。間違いを間違いとして受け入れられない自分自身が│ ││。 そんなもの、雪ノ下雪乃ではない。 ﹁だから、今だけは│││私という存在と向き合う貴方だけは、自分自 身を取り戻してほしいの。余計な事を考えず、自分本意に、勝手に、我 儘に、自由に│││私の事を考えて頂戴。言っておくけど、今の私に どんな詭弁も通じないわよ。勘違いの感情に振り回されてわざわざ ここまでお膳立てする愚か者に私が見えるというなら、真面目に脳外 科 か 眼 科 の 診 療 を お 勧 め す る わ。貴 方 の 家 族 だ っ て も う 篭 絡 済 み。 小町さんに何かしら言ったとしても自分で考えろこのゴミとしか 返ってこないわ﹂ 逃げ道を、塞ぐ。言い訳の城塞は、全てを破壊する。 ここにあるのは、比企谷八幡という存在が一つ立っているのみ。 ﹁もし、貴方が私を受け入れるなら、私も貴方を受け入れる。貴方が我 儘な感情を抱けるよう、何処までも協力する。傷ついた自意識も自尊 心も、暖めてあげる。貴方の父親が腹立たしいなら、別に無理に引き 戻そうとも思わないし、もし関係の改善を求めるなら│││そうね、 こればかりは小町さんもちょっと協力してもらおうかしら。あの子 も、ちょっとその部分は反省しているみたいだし、矯正│││いえ、関 28 係の改善に協力する﹂ にこやかに、雪ノ下は喋る。 │││これ 今あなたの眼の前にいる女は、それだけの価値が 貴方の感情は、どれほど揺さぶられたかしら ﹁さあ、どう│││ ある女よ かった。 ? ならば先生、一つ聞いてもいいでしょうか 女が男にかける客観的な秤とは 客観的な基準とは何ですか 能力ですか 学歴ですか ? ならば、私があの男を好きになってし ? なのでしょうか 世に溢れる﹁婚活女子﹂なる存在全てが、自らの自 か。そして貴方の様な人間は、過剰な自意識が生み出したモンスター まったのは、如何なる指標によって弾き出された結果なのでしょう 世には存在するのでしょうか けれども、結局それを明確に秤にかける客観的な指標なんぞ、この マが生まれてしまうのだから。 それが大部分なのでしょうね。だからこそ、葉山の様な哀しいカリス │││確かに、それを基に判断する人間もいるでしょう。というか 顔立ちですか ? ? 確かに、自ら抱えた自意識はどう足掻いても変えられるモノでは無 半分、正解だと思います。 意識を抱えているのだと。 女の自意識は、常に一定であると。客観的基準を秤に、変わらぬ自 先生。貴方はこう言っていました。 ※ 何とも、衝撃的な夜であった。 │││││当然、味なんぞ覚えている訳も無かったが。 く。鉄板の上で、湧き出た肉汁が躍る様に跳ねている。 豪勢なステーキを中心に、色鮮やかな諸々がボーイに運ばれてい ﹁メインディッシュが来たわよ、比企谷君﹂ を見やると、グラスに手をかけ果汁ジュースを喉奥に流し込む。 ふぅ、と雪ノ下は一つ息を着く。どこか満足気に彼女は、眼前の男 らない貴方の感情にしっかりと波が戻るまで﹂ からも、散々揺さぶりはかけていくわよ。小波も起こらなかったつま ? ? ? ? ? 29 ? 意識の秤の分量を測り間違えた哀れで愚かな者共の群れなのでしょ そ うか。獣の如き目が見つめるその先には冷たい合理と基準に支配さ れた数式によって、彼女たちは男共を見つめているのでしょうか んな在り方が、女なのでしょうか きっと、違う。 ものは変えられないのだ。 ハーゲン解釈を持ちだし可能性の同時存在を唱えようと、変えられぬ せてきた過去は如何なるコペルニクス的転回を用いようともコペン にひりだされた飲んだくれの妄言だ。どう足掻こうと、貴方が確定さ しかない。自分が道を違えた理由をもっともらしく納得したいため 所詮は、その弁も三十路女の自己正当化の為に吐き出された理論で │││まあ、どうでもいい事か。 ます。 持ち込んでしまうかの、違いでしかない。少なくとも、私はそう思い 果をあまりに素直に受け取るのか、何かと理由を付けてそこに基準を ティスティックに、人は人に恋をする。ただそこから弾き出された結 男も女も、きっと変わる事はない。直感主義的に、もしくはロマン ? 十年後、笑うのは私だ。覚えているがいい。それまでに、心折れて いなければだが。 30 ? ボッチ、思考する。 │││打つべき手は、打った。 彼にとっては全てが全て、唐突すぎたのかもしれない。 だが、それすらも策略の内である。 無警戒な彼の心の内に、楔を叩きこむ。 │││二年間の記憶の空白を、利用する。 彼の中に存在していたであろう、雪ノ下雪乃│││そのイメージを 破壊する必要があった。 愚直なまでに真っ直ぐで、それ故余計な荷を背負ってしまって││ │常に瓦解しそうな、儚い女。それがきっと彼の中に存在する、雪ノ 下雪乃であったはずだ。 │││││最初は、そのイメージを利用する事を検討した。 彼は優しい。人の優しさも、人が傷つく事も、容易には受け入れら れないくらい。 いつもいつも、彼は自分を脇に置く。 │││もし、彼の中に在る雪ノ下雪乃のイメージを利用して、告白 を行えば、彼はまずもって告白の是非による﹁雪ノ下雪乃の﹂心理状 態を慮るに違いない。決して傷付けぬよう、その告白の是非を検討す るであろう。 だが、これでは駄目だと結論付けた。 そもそも、彼の事だ。そうなった場合、わざと嫌われる様な行動に 出る可能性が非常に高い。偽悪的な行動で雪ノ下の失望を誘い、告白 そのものを自然消滅させる│││そんな事だって、十分あり得る。だ から、却下。そんな事してしまえば、高校の時と変わりはしない。 そう、変えねばならなかったのだ。 彼の事も、そして│││雪ノ下雪乃の事も。 自分の感情を脇に置く男と、愚直故に儚い女という関係を、まず もって、破壊しなければならなかった。 │││やるなら、徹底的にだ。 あの夜で、きっとあの男の中に在る雪ノ下雪乃は│││新たな楔の 31 礎となり消えたのだ。 ﹁雪ノ下の心理面﹂における逃げ道を、塞いだ。 こうなれば、もうこっちのものだ。 あとは、あの男がこちらに感情が流れてくれるよう誘導するだけ。 │││あと少しだ。頑張らねばなるまい。 ※ あの衝撃的な夜から│││比企谷八幡はベッドの上で寝転がって いた。 そこだけ切り取れば別段、何も変わらぬ彼の日常だといえよう。 しかしながら、その表情は、その男らしからぬ百面相といった具合 である。一定期間ごとに悶え、苦悶の表情を浮かべてはゴロゴロと ベッドの上を転がっている。 自覚している。 何処の中学生だお前は、と。 │││まあ、これも仕方がない。そう比企谷は思う。 比企谷八幡の恋愛は、まさしく中学の時から止まっているのだか ら。許容されず、受け入れてもらおうと足掻いては拒絶され│││遂 には、諦めきった地平線の彼方向こうに存在していた代物が、いきな り眼前に殴り込んできたのだ。 世界が、歪んでいたように感じた。 │││自分の捻くれた性根と、萎み切った自意識が作り出した世界 は、何処までも上っ面と建前で形成された場所だった。偽りの関係性 を作り、維持し、労力を割く、何ら意味の内在しない世界。止まった 世界から見える世界は、遠く離れていて、それ故に視界が広かった。 俯瞰して見る人間関係という代物は、その無価値さと無意味さを、痛 い程比企谷に理解させた。 こんな無意味な代物に痛い目を見てしまった自分を、大いに恥じ た。 こんな無意味な代物に受容される事なんぞ、意味なんぞないと諦め た。 諦観によって止められた時は、自分をボッチにした。わざわざ、そ 32 んな場所に喜んで赴く連中を、理解なんて出来なかった。 ││││││何故、皆と一緒にいなければならないのだろう。 ││││││一人でいることの、何がいけないのか。 今ならば、少しだけ理解出来た気がする。 一人でいる事を望むのが悪い事じゃない。 │││││そう嘯きながら、結局他者を求める心が同時存在する事 が、悪いのだ。 他人に期待しないと嘯きながら、結局は奉仕部の関係を求めた心 が、雪ノ下や由比ヶ浜といった人間に勝手に期待する心が、そうして │││勝手に期待を裏切られたと失望する心が。 そんな自分が痛いほど理解出来て、嫌い嫌いで仕方なかった。 俯瞰して見えていた気になっていたものは、所詮その全体像だけ だった。 いざ自分がその関係性の中に存在してしまうと、まるで鏡映しの様 に自分が見えてしまった。 唾棄し嫌悪していた、上っ面の関係でも、求めてしまう自分の心が、 その葛藤が。 だから、卒業によってそれぞれの道が別たれて│││正直、安心し ていた部分もある。 これで、元に戻れる。 │││そう、思っていたというのに。 どうして│││今更になって、自分の感情と向き合わなければなら ないのだ。 こんな代物、嫌いで嫌いで仕方がないというのに。 │││全ての逃げ道を塞いだうえで、彼女はこんなモノと向き合え と、そう言ったのだ。 なんてひどい女だ。 正直、逃げ出したくて逃げ出したくて仕方がない。 │││この心理まで彼女は読み切っていたのだろう。 余計な逃げ道も詭弁も全て全て塞いだうえであの問いかけを放っ たのだから。 33 │││どうすれば、いいのだろうか。 考える度に、比企谷は悶えた。 ※ それからというもの、雪ノ下はごく自然と比企谷宅を訪れていた。 懐く小町、実に楽し気な母親│││││そして、まるで屠殺場の家 畜の如く悟りきった眼をしている父親。 雪ノ下は実に自然な風で比企谷の部屋に入りびたり、小町も交えて 談笑していた。 ﹁何で俺の部屋にわざわざ入るんですかね﹂と聞くと雪ノ下からは微 笑が、小町からは憐れみの視線が返された│││││││あの、何か 間違っているんですかね ? そんな日々が、一週間続き、そして│││唐突に、メールが来た。 │││明日、デートでも如何かしら 比企谷は、顔を顰めた。 34 ? 帰結を受け入れよ 三月ももう中旬が過ぎ、季節は冬のベールを脱ぎ始めるかと思えば そうでもなく、変わらぬ肌寒さを残したままであった。 布団の熱を泣く泣く追い払い、比企谷八幡は起床する。 顔を洗い髪をとかし、比企谷はパジャマを脱いで私服に着替える。 │││何だか吐きそうな気分だ。 仕方あるまい。 今日はデートだ。 ※ 玄関口を開くと、変わらぬ雪ノ下がいた。 デートだからと別に気負うでもなく、普段とそう変わらぬ私服を 纏った彼女は、比企谷を見ると悠然と微笑む。 ﹁時間通りね﹂ │││││冷たい。 ﹁さあ、行きましょう﹂ 変わらぬ微笑みを絶やさぬまま、雪ノ下はその手を引っ張ってい く。 やられた、と比企谷は思った。 │││動揺した隙を、問答無用で突いてきた。一瞬のうちに主導権 を握られてしまった。 握るその手は、実にか弱い。それ故に振り払うことが出来ずにい る。 ふふ、と思わず漏れ出た様な笑みを湛えて、雪ノ下は比企谷の前を 35 ﹁遅れると怖いからな﹂ ﹁あら、失礼ね。別に多少遅れても文句なんて言わないわよ﹂ ﹂ ﹁嘘 つ け。お 前 が そ こ ら の リ ア 充 み た い に 〝 待 っ て い る 時 間 も 楽 し かった〟なんて言うタマか﹂ ﹂ ﹁││││││意外と、楽しかったわよ ﹁え ? 雪ノ下はゆっくりと、かつ自然と、比企谷の手を握る。 ? 歩く。 │││その、自然と浮かべられた笑みに、思わず視線がいってしま う。 まずい│││まずい。 本当にこの女は、感情を揺さぶりに来ている。 │││││││これ、本当に耐えられるだろうか。 思わず懊悩に暮れる比企谷であった。 それから│││様々な場所を巡った。 自然公園を散策し、喫茶店に入ってお茶を飲み、映画を見て︵猫が 主題の映画であった︶、興奮冷めやらぬ雪ノ下に連れられ│││現在 いるのは猫カフェである。 周囲が猫に溢れたこの場所は、さながら雪ノ下にとっては楽園か天 国か。にゃあにゃあと動き回る毛玉を捕まえては膝先に置き、茶も飲 まずに撫でている。 ﹁いい││││││場所ね﹂ まるで黄泉に至った魂がその傷を慰撫されているかの如く、満たさ れた表情をしながら猫を撫でるその姿は、もう何が何やら。何処の誰 であったか忘れそうなくらい、にへらと表情を崩している。 ﹁猫カフェって、前見た所はあまり猫に元気がなくて、痛々しく思えた の。けど、ここは皆元気だわ。可愛らしい。ちゃんと、愛情を持って 育てられているのね﹂ 人差し指でちょいちょいと顎を撫でると、催促する様に猫がその指 先を舐める。うんうんと頷きながら、雪ノ下はもう片方の手で背中を 撫でていく。 ﹁解っていたけどさ│││││ホントに猫好きなんだな﹂ ﹁ええ。こんな愛らしい生物、嫌いな人なんているのかしら﹂ ﹁まあ、ほら。怒ると爪を立てるし、機嫌悪いとこっちを無視するし、 結構勝手気ままだしなぁ。猫﹂ ﹁確かにそうね。けどだからといってこの子達から爪を奪いたくない し、いつでも人間に従うようにしたくもないし、自由を奪いたくもな いわ。それも含めて、可愛らしいじゃない。ちょっと手のかかる所も 36 含めて﹂ 貴方と同じよ、と│││実にさりげなくこちらの心に爆弾を落とし 込んでいく。 │││││いつからこの子、その手の台詞に関する羞恥心を克服し たのん ﹁│││││不意打ちは止めてくれ、頼むから﹂ ﹁断るわ。楽しいもの﹂ 猫を膝に乗せてこちらに微笑む姿は、実に令嬢じみていた。 │││その笑みを向けられる度、相反する感情が入り乱れて比企谷 の脳内を駆け巡る。 喜色に塗れた自意識。そしてその自意識を滅多打ちにされた記憶。 希望と絶望。期待と裏切り。 │││今、こうして笑う雪ノ下を見てときめく心と、それに暗い影 を落とす感情が、入り乱れていく。 一つ、理解した事がある。 比企谷八幡は、嫌いなのだ│││自分という存在が。 いや、正確に言うなら│││他人の中にいる自分が、嫌いなのだ。 自分を好ましく思うのなら、自分は一人でいるしかない。 │││ボッチであるのは、もはや必然だったのだ。 受け入れられない自分を、それでも好きでいたいのならば。 │││他人に受け入れられない事を、まずもって受け入れなければ ならないのだから。 感情と向き合って、理解できたのはそんなものだった。感情と向き 合えば│││他者を介した感情に内在するものは、何処までも自己欺 瞞と自己嫌悪に溢れかえっていた事。 こんな自分に、人を好きになる事が許されるのだろうか。 感情と向き合った結果│││また新たなる疑問が生まれた。 │││俺は、どうすればいいのだろう。 新たなる懊悩を抱えながら、それでも微笑む雪ノ下を見つめる。 綺麗な娘だ。 │││そして、強くなった。 37 ? あの日々の苦味を受け入れて、こうして自分と向き合ってくれてい るこの少女は、自分なんぞより遥かに先を進んでいる。 凄い奴だ。 │││そんな娘ですら、自己嫌悪を映し出す鏡にしてしまう、自分 が大嫌いだ。 ※ そうしてたっぷりと猫と戯れ、もう時刻は夕暮れに差し迫ってい る。 ﹁今日は付き合ってくれてありがとう﹂ 近所の公園を歩きながら、そんな、彼女らしからぬ実に素直な言葉 が聞こえた。 │││楽しかったわ、と。 きっとその言葉は本心なのだろう。それでも、その言葉を疑ってし まう。 38 期待しないように。失望しないように。 何だか、泣きたくなってしまう。 ﹂ │││これが、どうしようもない自分なのだと、思い知らされてい るようで。 ﹁どうしたの 距離が近い。長い黒髪から漂うシャンプーの薫りが、鼻孔をくすぐ 二人並んで座る。 へと誘導した。 そういうや否や、彼女は有無を言わさず比企谷の手を引き、ベンチ ﹁ちょっと休憩しましょう﹂ ンチがある。 ちょいちょいと雪ノ下が手招きするその先には、何の変哲もないベ ﹁比企谷君﹂ 言葉にする。 そんな相反する感情を抱えながら、比企谷は何でもないと、何とか 吐き出したい。けれども吐き出したくない。 雪ノ下が、尋ねる。 ? る。 そんな事で高鳴る胸が、自分の感情を掻き立てていく。それが自覚 できるだけに│││何とも汚らしい自己嫌悪が浮き彫りになってい く。 自分が今どんな表情をしているのか、解らない。それでも│││そ の表情を見て、何か思う所があったのだろう。雪ノ下はゆっくりと耳 元で囁く。 強がるな。 無理をするな。 │││その一言だけで、決壊する程、今の自分は弱くなっているの だと自覚できてしまって。 実に、悔しかった。 ※ ぽつりぽつりと吐き出されていく言葉に、雪ノ下は何も言わず聞い 39 ていた。 急かすことも無く、相槌さえも打たず。比企谷に身体を預けて、そ の言葉を聞いていた。 言葉が尽きる。 さぞ失望したのかと│││そう思った。しかし、雪ノ下の表情は変 わらず微笑んだままだ。 そして、 ﹁そんなの、当たり前のことよ﹂ │││と、文字通り実に当たり前のことの様に言った。 ﹁自分の事が好きで好きで堪らない人なんて、世の中そうそういない ﹂ 仮に│││葉山君のような男になれれば、貴方はその自己嫌 わ。なら│││貴方は、どんな人間であれば、貴方は貴方を好きにな れるの 悪が解消されるのかしら にだって、貴方にだって、あるの。│││自分の事が誰より好きなら、 ﹁自分の中に嫌いなものがある、なんてことは、当たり前のことよ。私 当たり前の道理を我が子に教えるように。 雪ノ下は、諭すように言う。 ? ? わざわざ他人に恋する理由なんてないじゃない﹂ 彼女は、ゆっくりと比企谷と向き合う。 ﹁言ったでしょう│││私は、貴方を受け入れるって。貴方が嫌いな 貴方まで、ちゃんと受け入れるから﹂ だから、強がらないで、と雪ノ下は言う。 そして、唐突にふふ、と笑んだ。 ﹂ ﹁貴方、気付いてないのかしら│││。貴方が今言った事、告白も同然 よ あ、と比企谷は呟く。 │││実にその通り。自分の感情をすべて吐き出していけば、当然 雪ノ下への思いも同時に吐き出しているのもまた必然である。期待 したくないという言葉は、その実│││雪ノ下に懸想していることの 裏返しであり、それはもう告白も同然の行為であった。 何とも、呆気ない。 けれども│││少し笑えてしまう。いいじゃないか、これもまさし く自分らしい。こんな情けない部分まで好きでいてくれると言って くれるありがたい女がいるんだ。 まあ、それでも│││最後くらい、らしくない事をしてもいいと思 えた。 ﹂ ﹁なあ、雪ノ下﹂ ﹁何かしら 実に幸せそうに、その表情を綻ばせながら│││。 その先の言葉を、ジッと彼女は聞いていた。 ﹁俺は│││﹂ ? 40 ? 静に始まり、静に終わる。 │││なあ、雪ノ下。人間を規定する一番の要因は何だと思う │││何なのでしょうね。 │││そいつはな、きっと人間の不可能性だ。 │││不可能性、ですか。 │││そう。私のような教師はな、未来への可能性を生徒に提示す る義務がある。けれども、皆が皆、その可能性を手に入れることが出 来る訳じゃない。青春って奴は、その中であり得ざる可能性に夢を見 て、その可能性に苦しみ、そして│││自分の不可能性を知る為の、大 事な時期なんだ。これを俗に〝現実を知る〟とも言うな。どれだけ 頑張ったって、持つ事の出来ないものもある。解決できない事もあ る。恋なんざ、その最たるモノだわな。どれだけ願っても、望んでも、 無理なモノは無理なんだ。こうして、少年少女は現実を知っていく。 無限の可能性という苦悩から逃れる為にな。 ││││││││。 │││無限の可能性なんて、嘘っぱちの詭弁だ。他の道を歩みたい と願っても、私はこの道以外の道を選べなかった。教師でさえこのザ マだ。雪ノ下、笑うなら笑え。 ならば、遠慮なく。 私は豪快に笑ってやりました。ビールで酩酊した意識を引き戻す、 心地よい笑いだった。 │││十年越しの仕返しですよ、先生。 │││そうだな、畜生め。今のお前は私を笑う権利があり、そして 私は笑われる義務がある。 │││言い訳ばかりするな、とよく貴方は私の旦那を殴っていまし たね。殴ってもいいでしょうか │││まあ、別に殴りませんが。ま、恋の沙汰は大人になっても別 に変りはしないという事ですね。何処までいっても、子供なんですか ら。 41 ? │││今この状況の私を殴れるのならばお前は大物になれるよ。 ? │││くそぅ、余裕ぶりやがって。 │││貴方の言い訳も聞き飽きましたから。 先生はうう、と涙を浮かべると、私にゆっくりと顔を向けました。 涙を流しながらも、それでもやはりその眼は教育者のモノです。 │││けど、よくやった。よくオとせた。勇気、出せたんだな。 実に素直な言葉を、間違っても素直とは言えない雰囲気と表情で言 いました。何ともカッコ悪くて笑い転げそうですが、淑女らしく我慢 をします。何でこんなセリフで笑わねばならないのでしょう。 │││はい。貴方のおかげで。 │││なあ、今幸せか 私は出来るだけ、満面の笑みを浮かべてやろうと思いました、幸せ を見せびらかすのはあまり好きではないが、意趣返しには丁度いい。 そして│││ │││無論です。 そう言って、嬉しさ半分、絶望半分の先生の顔を目に焼き付けるの でした。 42 ? アフター きっとそこには、素敵な未来 ︵アフター︶ ? ーーーこれより婚姻裁判の判決を下す。 死刑だ 死刑死刑死刑死刑 被告、﹃未婚者﹄。被告、﹃平塚静﹄。 判決は死刑 ! に死ね ※ 蝶のように舞い、蜂のように死ね 平塚静︵ 実を結ばぬ烈花のよう 歳︶は硬い床の感触と共に意識を覚醒させた。 春もたけなわ、暖かな陽光が辺りを包み込む朝。 ﹁五月蝿え手前ぇは童貞だろうがァァァァ ﹂ お前達は哀れだ。だが︵社会的に︶許せぬ !! 私の自意識よ、色々そろそろ諦めろ 言っているようだ。諦めることも諦めろと。 ははは しかして自意識もこう に辛うじて存在している女としての自意識の残滓なんだろう。ふは 私は心の中で誰に許しを乞うているのだろう。きっとそれは、私の中 い か ク ソ ッ タ レ。ど う せ 一 人 だ。誰 に 気 を 使 う 必 要 も な い。な の に 休日だ。こんな日くらい、引きこもって現実逃避したっていいじゃな 何だか死にたい気分になってもう一度不貞寝に洒落込む。今日は ﹁・・・寝よう﹂ とナチス相手に乱舞したい気分だ。 のめされたかのような気分になる。何だか爆薬付きの銃剣で吸血鬼 夢がレム睡眠時の脳味噌に展開されていたという事実に、朝から叩き 光景だ。二日酔いの重石を乗せた頭も意識を運び込む、腐りきった悪 スキーに裂きイカとピーナッツ。記憶はなくとも推測は実に容易な 横目を見ればそこあるのは、空いたビール缶が複数に貰い物のウィ ?? ※ そこには平塚静という雪原の地平があるのみである 何もない。 諦観と悲観の果て、そこには何があるのだろう。 ! 43 ! ! ! !!! ! ! 平塚静は荒れに荒れていた。 教職員の先輩が結婚した。 いや、それだけならばまだいい。彼女とて、その事実に対しての複 雑極まる感情を一時脇に置いて素直に祝福するだけの度量は持って いる。 ただーーーその先輩自身の人格に起因する感情が屹立し爆発した と言ってもいい。 ーーー全く、結婚した人はすぐに家に帰っちゃって。生徒とどちら が大切なんだか。 ーーー自分の子供なんかできたから、思慮分別が出来なくなるの よ。 どれもこれも、酒に任せて吐き出された言葉である。三十路過ぎた ﹂なんて言われた日には怒りのボルテージがアンデ お局の僻み混じりの台詞を吐いた舌も乾かぬうちに、 ﹁平塚先生も・・・ ほら、頑張って ス山の頂に至らんばかりに成るのも仕方あるまい。お局、死すべし。 ひきつくコメカミを抑えながらぎこちない笑みで何とか応答し、そ の場を去ると、大いに飲み大いに荒れた。記憶はない。しかして今日 の自身の状態が何よりも証明している。 一つ溜息。そして、涙。記憶の濁流が流れ込む。時間の辻褄をなく していく。感情が暴れ出し心理を抉る。胸が痛くて死にたくなる。 神様、答えて下さい。 私は、アレ以下なのでしょうか ※ る。ならば今夜も慰撫してもらいたい。アルコールの酩酊の力と共 夜の街はいい。闇が一人を包んでくれる。寂寥を隠し、慰めてくれ そんな感情が赴くまま、平塚静は街を歩く。 酒も飲みたい。 腹が減った。 時刻はもう夕刻だ。 ぬままフラフラと外に出た。 そうして何だか悲しくなって、悲しみを洗い流す手段も見つけられ ? 44 ?? に、記憶の汚泥を流しておくれ。 トボトボと行きつけの居酒屋に歩いて行くとーーー何やら見覚え のある後ろ姿が見えた。 猫背にアホ毛。 そしてーーー振り向いた姿に据えられた、二つばかりの腐った瞳。 ﹁あ﹂ その男は彼女と目が合うと凄まじい勢いで目を逸らすと脱兎の如 く走り出した。 間違いない。間違えるはずもあるまい。 アレは平塚静の教師人生の中でも類い稀なる問題児であった腐れ 男だ。 一つ思う事がある。 なぜ逃げ出しているのか 何故目も合わせたくないとばかりに逸らしたのか。 理由と、その因果が結論として脳内に結びついた瞬間ーーー平塚静 ﹂ の脳内ボルテージは殺意と怒りで真っ赤に燃え上がった。 ﹁逃がさんぞ、比企谷ァァァァ る。 かくしてーーーかつての教え子と再会を果たしたのであった。ま それはさながら捨てられた女が追い縋るようであった。 追いかける側も追いかけられる側も涙を浮かべて走り出す。 鬼神の如く走り出した彼女はもう止まらない。 !! 45 ? 未来へ・・・ 人生、山あり谷あり。 いい言葉だ。人生、上り坂と下り坂の繰り返しだ。 私の人生、何処までも素敵な上り坂であったのだろう。好きなよう に生きてきたし、現在の職業に不満もない。だからこそ、今の私は谷 に 下 っ て い る 最 中 に 違 い な い。い い 事 ば か り が 人 生 で は あ る ま い。 下り坂を揚々と歩き続けることも、人生ではきっと必要な事なのだろ う。 しかしてこの谷底、先が見えない。 私は何処で道を踏み外したのだろうか 三十路という人生の岐路を以て、これより新たなる山へ登らねばな らぬというのに。 未だ私は延々続く下り坂の道程にて、深い霧の中立ち竦んでいる。 ーーー先生、それは延々ではなく永遠の間違いではないでしょうか に汚らしい言葉をあげる。おっと、心中とはいえ教育者にあるまじき 言葉であった。反省反省。私が言いたいのは﹁延々﹂。お間違いない よう宜しくお願い致します。 とはいえーーーこの果てしなく続く下り坂の果てに何があるのか。 自身でさえも解っちゃいないのだ。 何処ぞのガリラヤの湖上を歩きし神の子はこう言っていたという。 我等が創造主は初めから男と女を創り、それ故男と女は必ず出会い寄 り添い一心同体に成りえるのだと。 果てしなく明快な運命論だ。運命の赤い糸は、創造主がわざわざ私 を 創 っ た 時 に 設 置 し て く れ た も の で あ る と い う。ふ は は は は は は。 流石は身内に裏切り者を抱え、銀貨三十を以て処刑された男だ。創造 主たる何者かも、ちんたら七日もかけて世界を作り上げた際にうっか はたまたそのままお釈迦の世界へフェードアウトして り私専用の縁を結び忘れたとみえる。それとも私は呪われたユダの 血統なのか ? 46 ? 心の何処かから聞こえてくるその声に私は喧しいぶち殺すぞと実 ? 解脱とともに悟りでも開けと言うのであろうか くれるーーー。 ※ ﹂ 様々な運命に導か ﹁一番、人としてこう、悲しくなる時って何だと思う、比企谷 ﹁さ、さあ・・・ ﹂ ? ﹂ ﹂ ﹁笑ったら確実に締め上げるでしょう、先生・・・﹂ ﹁・・・笑えよリア充﹂ ﹁・・・﹂ も少なくない﹂ 見てきたことが・・・。そして、スピーチをしてくれと頼まれること になった。先輩、私今年結婚するんですと溌剌と報告する後輩を何度 ﹁もう皆が遠慮がちな視線を私に向けるし、新入りの指導もするよう ﹁は、はあ・・・﹂ 教員の世界でもそう。私ももう中堅となった﹂ ﹁三十路越えれば、もう若手なんかじゃないさ。スポーツの世界でも ﹁・・・あの、先生﹂ る中どうしてその節目節目で、祝われにゃならんのだ﹂ たというのに、何がハッピーだ。人生は有限で、その期限が刻々と迫 ﹁何がハッピーだよ・・・。人生のデットラインに遂に到達してしまっ ﹁えぇ・・・ ﹂ こうした責任者よ出てこい。貴様らのどてっ腹に一撃を叩き込んで さあ、神でも仏でも十字架に括られた髭野郎でも何でもいい。私を カウボーイか。 れ谷底へ続く道を歩く私はさながらニューシネマの破滅へと向かう ? ﹁ハッピーバースデーという言葉に殺意を覚える瞬間だよ﹂ ? ﹁締め上げたいからそう言っているんだ ﹁理不尽 ! 子と共に居酒屋へ入った。その後は実に比企谷の予想通りであった。 愚痴と不満の濁流が流れ込むようにアルコールに乗じて吐き出され ていく。こうなる事が解っていたから比企谷は逃げ出したのであり、 47 ? 追いかけ追いつき無事制裁を加えると、平塚静は意気揚々と元教え !! 捕まったからにはあらゆる理不尽を覚悟して臨まねばならないので ある。 ﹂ ﹁畜生・・・お前はいいよな、大学卒業して何年かすれば結婚だろう・・・。 クソッタレめ・・・﹂ ﹁・・・あの、雪ノ下呼びましょうか たかのように強いし痛い。 ﹁お前は恩師を殺したいのか ﹂ ホを取り出した瞬間ガシリと手首を掴まれる。まるで万力に挟まれ ら、あいつもあいつで世話になったみたいだし・・・。そう思いスマ 何となく、この場に召喚した方がいいのではないかと思った。ほ ? ﹂ ﹁皆まで言うな。お前も死ぬぞ﹂ ! いもの。 ﹂ 大切だよね・・・。眼前で呑んだくれているこの人は欠片も愛嬌がな いなぁ。あざといあざといと後輩に散々言ってきたが、うん、愛嬌は うぅ、とテーブルにへたり込む平塚先生は以外とかわい・・・くな ﹁アンタが殺しにかかってんじゃないですか・・・ ﹂ ﹁いやもうそれほとんど死んでるんじゃ・・・おごぅ・・・﹂ セント近くでいっぱいいっぱいなんだ。オーバーキルするつもりか﹂ セント近いクリティカルヒットで私は殺される。もう今100パー ﹁半分どころではない。今あいつを連れてきてしまえば、150パー て行ったでしょう ﹁・・・ほら、貴方も俺を半分殺すつもりで奉仕部のあいつの所へ連れ ? ﹁雪ノ下から、私の事は聞いたか ﹂ ﹁ええ、まぁ・・・﹂ ﹁何と言ってた ? ﹁くそう、いい気になりおって・・・ ﹂ ﹁・・・自分の背中を押してくれたのは先生だとも、言ってました﹂ む際に心の奥底から罵倒していたに違いない。 に飲み込む。あの女の心根は解っているぞ。散々この男を落とし込 彼女は奥歯を噛み締めながら喉奥から溢れ出んとする言葉を必死 ! 48 ? ﹁あの人、これまでの人生何してたんだろうと言ってましたね・・・﹂ ? ﹁・・・﹂ ﹁ありがとうございます﹂ ﹁ふん・・・﹂ 比企谷のその言葉に、あからさまに彼女はそっぽを向いた。 ﹂ ﹁私は十中八九フられると踏んでいたがね﹂ ﹁そうなんですか ﹁・・・お前の面倒臭さは、お前よりも解っていたつもりだ﹂ ﹁・・・はぁ﹂ ﹁いつか言ったな。お前は人の心理は解していても、感情を理解して いないとな。俯瞰した視点からどういう風に人は動いているのか、そ のメカニズムを理解できても、お前はその根本を理解できていなかっ た﹂ ﹁・・・﹂ ﹁感情は、メカニクスを動かすエネルギーだ。エネルギーがあるから、 エ ン ジ ン は 駆 動 す る ん だ。そ れ と 同 じ だ。感 情 が あ っ て、心 理 が あ る。感情を置き去りにしたまま、人を理解しようとすると、やはりそ れは歪なものにしか見えなくなる﹂ ﹁・・・そうですね﹂ ﹁お前は、お前の感情と向き合う前に卒業してしまった。奉仕部の連 中は皆そうさ。必死になってその関係を壊さないように、付かず離れ ずでやってしまった。だからーーー今度は向き合えと私はあいつの 尻を引っ叩いただけさ。そこから、見事お前を落としたのはあいつの 手柄だ﹂ ﹁・・・感謝してます﹂ ﹁その必要はないさ。教師とは、何処まで行っても教師でしかない。 どう頑張ってもお前らの親にはなれんし、完全な干渉も出来ん。私が 出来るのは、精々ちょっと背中を押すだけだ。それが、仕事だ。そう 在りたくて、教師になったんだから﹂ ﹁・・・さいですか﹂ ﹁ああ。お前も、中々いい顔するようになったじゃないか。その眼は 相変わらずだが﹂ 49 ? ﹁人間、治せないものもあるって先生なら理解できてーーーがふ・・・﹂ ﹁そうだな。お前のその発言でよく理解できたよ﹂ ーーーまあ、何だかんだ言っても。 教え子がいい道を辿っているのであれば、それはそれで幸せに思う 平塚静なのであった。 ※ ﹂ ﹁ーーーいや、すまん。本当に偶然、先生に会ってな﹂ ﹁あら、それは実に愉快じゃない。どうだったの ﹁変わってなかったな、あの人・・・うん、本当に﹂ ﹁それはそうでしょうね。変わらないから結婚できないのよ﹂ ﹁あの・・・一応アレでも俺の恩師なんだけど・・・﹂ ﹁あら、申し訳ないわね。今度直接、私の口から伝えてあげるわ﹂ ﹁ごめんなさいそれは勘弁してあげて下さい﹂ スマホ越しに、雪ノ下の声が聞こえる。ラインの返信が遅れていた 為通話でその理由を聞き咎めんと電話を掛けたのだという。 ﹂ ﹁まぁ、私も一応感謝しているのよ。これでも﹂ ﹁へぇ。そりゃまた何で・・・﹂ ﹁口に出して言った方がいいかしら ﹁・・・いや、勘弁しておく﹂ 鼻先を掻きながら、敵わないと一つ溜息。 ーーーそりゃあ、感謝もするさ。 あの人がいなければ、この日々もきっとなかったんだから。 まぁ、結婚には色々向いていない人であろうけど、ちゃんと生徒を 慮ってくれているいい先生だ。いつか、きっと幸せが訪れると信じて いるさ。うん。それに幸せの形だって決められたものでもないさ、う ん。 だから、心中で一つ言葉を唱える。 ーーー先生、ありがとう、と。 50 ? 勝ち誇ったような笑い声が、通話越しに聞こえてくる。 ? 襲来は突然に 猫はいい。その愛らしさは言葉にするまでも無い。 自由奔放でありながら可憐なフォルムを湛えた彼等は、愛らしさの 象徴としてどの国も取り扱っている。魔女の使徒だと虐殺されてい た時代もあったらしいが、その話を聞いた時には貴様等の腐りきった 認識を生み出す脳味噌を叩き潰してやろうかと本気で思ったものだ。 タイムマシンが発明されたのならば、まずもって連中を火炙りにして くれる。 まあ、それは別にいい。 猫の素晴らしさなんぞ、今更筆舌を尽くして再認識を促すまでも無 い。 しかして、世の中│││往々にして猫ではなく、 ﹁猫の様な﹂何者か がいる事も理解していなければならない。 51 自由奔放、気紛れで悪戯好き│││猫は主語としてならば幸せな言 葉となるが、ことそれが形容詞と化した瞬間より、悪辣な比喩として 君臨する悪魔の言葉となる。 それは│││例えば、雪ノ下陽乃などがその代表となるのであろ う。 猫は可愛らしくも残酷だ。彼等はネズミやゴキブリを見ると、前足 で幾度となくはたきながらいたぶる。死なぬ様に、壊れぬ様に、され ど連中が逃げ回る様に│││ゆっくりじっくり。 それと同じだ。あの女はお気に入りの玩具をコロコロと掌の上で 転がした挙句、完膚なきまでに叩き壊す│││そんな荷厄介な性質を 持っている。 ﹁ひゃっはろー、雪乃ちゃん﹂ ケラケラと笑いながら我が家に居座るこの女は何処までも邪気の 無い笑顔で妹に笑いかける。 こめかみ辺りに血流が集まる感覚が走る。 ﹂ ﹁言いたい事は山ほどあるのだけど、取り敢えず│││さっさと消え 去って頂けないかしら ? ﹁何で ﹂ ﹁私がこの物件を契約している人間でかつ、その所有権者であり、そし ﹂ て明らかに貴女は部外者かつ不法侵入者だからよ。それ以上の理由 が必要かしら ﹂ ? ﹂ ! に行くわ﹂ ﹁別 の 場 所 っ て ど こ な の よ ー。ホ テ ル で も 行 く つ も り ちゃん、リッチー﹂ ﹁││││││貴女には、関係ない話だわ﹂ ﹂ ? ﹂ ! ﹁うふふふふ。そうか、そうかー。これは、│││愉しい事になりそう ﹁ちょ、﹂ ﹁│││││お揃いの茶碗﹂ ﹁な、﹂ ﹁│││││お揃いのティーカップ﹂ 突如としてしたり顔でうんうん頷く姉を、気味悪げに睨み付ける。 ﹁何よ││││﹂ ﹁ほうほう││││││ほう 視線は、リビングの先にあるキッチンへ ふと、│││雪ノ下陽乃は何かに気付いた様に周囲を見渡す。その ﹁ん││││ わ ー。雪 乃 ﹁我が家が安息の地でなくなったのなら、仕方がないもの。別の場所 ﹁ちょ、ちょっと。雪乃ちゃん。何処に行くのよ﹂ かと歩き出した。 溜息を吐くと、雪ノ下雪乃は荷を下ろし、そのまま玄関口へとつかつ │││まるで部屋に入り込んだ蛾でも見るかの如く顔を顰め一つ 眼前の女は嘯く。 腰掛けるソファに堂々と寝転がりながら、実に機嫌よさそうにそう でも雪乃ちゃんの事が大好きだから ﹁うっふっふー。いいのよ雪乃ちゃん。お姉ちゃんはそれでもいつま ﹁むしろ、嫌わない要素があるのならば教えてほしい位なのだけど﹂ たのに。雪乃ちゃん、私の事嫌い ﹁ひっどーい。折角久しぶりに可愛い妹を弄│││││遊ぼうと思っ ? ? 52 ? だねぇ。ね、雪乃ちゃん﹂ ﹁何を想像しているかは解らないけど、これは、違うのよ。ええっと│ ││﹂ ﹂ ﹂ ﹁誤 魔 化 す 雪 乃 ち ゃ ん、可 愛 い ー。け ど 無 駄 だ よ ー。そ れ 位 解 る で しょ ﹁く││││││ これはまさしく一生の不覚かもしれぬ。そう雪ノ下雪乃は悔恨と 共に思う。 ﹁雪乃ちゃん、いけないんだー。お姉ちゃんはおろか、静ちゃんにまで 先を越しちゃってー。│││││ま、静ちゃんに関しては先を越すと 何か いうよりかは、勝手に自分で底なし沼に沈んだ、って感じだけど﹂ ﹂ ﹁ふ、ふん。ええ、そうよ。私には今交際している人がいますが いけないとでも ? ﹂ ? なー、って思って速攻で買っちゃった♪﹂ ﹁あ、そう│││それで、私が何を以てこれを着ると ﹂ ? ﹁それが、私がこのいかがわしい服を着る事とどんな因果関係がある ﹁猫好きでしょ ﹂ ﹁新 宿 裏 通 り の 怪 し い お 店。雪 乃 ち ゃ ん に き っ と 似 合 う だ ろ ー ﹁こんなの、何処で手に入れたのよ││││││﹂ ﹁それにねー、これは尻尾付きのミニワンピ﹂ た。 そう。それは、カチューシャに猫耳がくっついた、例のアレであっ ﹁猫耳﹂ ﹁││││それは、何かしら 怪訝そうな表情で、そのブツを雪ノ下雪乃は、眺める。 そう言うと│││雪ノ下陽乃は、バッグから何かを取り出した。 ││よしよし。当初の計画が上手くいきそう﹂ この家から出ようとしていたのね。うーん、実に面白そうだ││││ ﹁まあ、相手なんて聞くまでも無いよねー。そっかー。だから、速攻で 高に雪ノ下雪乃はそう言った。 半ば自棄になったのであろうか。実に見事な開き直りを以て、居丈 ? ? 53 ! ? と ﹂ ﹁へぇ、着ないんだ│││とっても可愛いのに﹂ へぇ、とか、ふーん、とか何やら物言いたげにうんうん頷く姉を見 ﹂ て、ますます眉間に力が入っていく。 ﹁何が言いたいの ﹁それが ﹂ て。それこそ意中の男の子がイチコロになる位﹂ ﹁いや│││こんな服着たら、きっとセクシーで可愛いだろうな、っ ? んて││││ ﹂ ﹁ひ、卑怯よ、姉さん。よりによって、人様のこ、恋人を人質に使うな その瞬間を、雪ノ下陽乃は見逃さない。 身体が、固まる。 来しても﹂ ﹁いいのかなー│││││私が、この服を着込んで、比企谷君の家に襲 ? ﹂ あげればいいだけじゃなーい﹂ ﹁ぐ│││││ ﹁ゲーム││ ﹂ 全てを賭けて﹂ ﹁うふふ││││さて、雪乃ちゃん。ゲームをしましょうか ! り込んでくる。 ﹁あら│││雪乃ちゃん、自信ないの ? │││ な ん じ ゃ あ、遅 か れ 早 か れ 誰 か に 掠 め 取 ら れ る か も し れ な い な ー。 も、比企谷君と付き合えてすっかり腑抜けになっちゃったかー。こん けようとしたというのに││││まあ、仕方ないかー。雪乃ちゃん ﹁自分の恋人を引き合いに出されて、ならばと折角勝負事で決着を付 またしても、硬直。 ﹂ 私がしなければならないのよ、と声に出す前に│││鋭い舌鋒が斬 ﹁何でそんな事を│││││││﹂ ば│││この服と猫耳を、一日中雪乃ちゃんに着てもらう﹂ ﹁簡単な事。ゲームに勝てば、私はおとなしくこの場を去る。敗けれ ? ﹁人質なんて、人聞きの悪い。雪乃ちゃんがその恋人を真摯に信じて ! ? 54 ? しょうがないねー。身体を見ても、姉と妹の力の差なんて歴然だもん ねー﹂ つつく、つつく。 虎穴を、実に愉し気に。 比企谷八幡を餌に、彼女のプライドに唾をかけ│││見事な手練手 管で、穴から引き摺り出す。 こうなってしまえば、いくら聡明な彼女と言えども│││その見え 見えの罠に飛び込む他ないのだ。 ﹁│││上等じゃない、姉さん。もう二度とそんな口を叩けないよう に、完膚なきまでに叩き潰してあげる﹂ ﹁そら来た│││﹂ 姉は、嗤う。 │││虎穴の先に、致死の罠があるなぞ理解できていない妹を、憐 れむ事もせず。 勝負とは、その準備段階で決しているのだ。 │││うふふ。やっぱり、可愛い雪乃ちゃん。 壮絶な笑顔と共に、雪ノ下陽乃は妹を見た。 55 羞恥とプライド 敗北。 まさしく、疾風怒濤の如き敗北であった。 雪ノ下雪乃は全身を震わせ、その現実を受け入れられずにいた。 ﹁│││勝負を受けた時点で、貴女は敗けていたのよ、雪乃ちゃん﹂ うふふふふふふふ。雪ノ下陽乃は悪魔の如き笑い声を上げながら、 掌をぐるぐる回し、指先をわきわきと動かしている。 ﹁雪 乃 ち ゃ ん は 聡 明 だ け ど、感 情 を 隠 す の が 相 変 わ ら ず 下 手 ね。 ちょっと怒らせれば、表情がコロコロ変わるもの﹂ ババ抜きとポーカー。いつの間にやら用意していたトランプを片 手に雪ノ下姉妹は勝負をした。 │││双方とも、感情の変化を悟られれば敗北に直結するゲームで あり、尚且つイカサマの難易度が非常に低いゲームでもある。 感情を昂らせ、冷静さを奪う。それさえ達成できれば雪ノ下陽乃に とって勝利は決まったようなものだ。この妹は冷静であればあろう とするほど、視野狭窄に陥る傾向にある。それでいて極度の負けず嫌 い。自分にメリットの無い戦いであろうと、彼女の山稜の如く高いプ ライドと自意識を上手く突いてやれば、勝負には実に簡単に乗ってく れる。表面上、冷静を装っているが、もうこの状況そのものが冷静さ を喪ってしまった証左である。 全身をしたたか震わせ、拳を硬く握りながら、雪ノ下雪乃は涙を浮 かべて姉を睨み付ける。普段であるならば女傑の如き迫力ある睨み 顔も、こうなってしまえば子猫も同然。一切の怖さが無い。 ﹁さあ、雪乃ちゃん│││どうぞ﹂ 猫耳に、尻尾付きミニワンピ。 そのあらゆる羞恥をふんだんに詰め込んだかの如き恐ろしい衣装 が、眼前に堂々たる存在感を放ち存在している。 ﹁ね、姉さん││││今日、私は比企谷君と会う予定があるの│││。 だから、日を改めて│││﹂ ﹁あ、なら丁度良かったじゃない。比企谷君もきっと喜んでくれるに 56 違いないよ 自信もって、雪乃ちゃん ﹂ ! に、そう言い切った。 ﹁着替えなさい﹂ ちょっと、あり得ないくらい可愛い ! く。 ﹁ね、ねえ姉さん。もう、満足したでしょう │﹂ ﹂ そろそろ着替えて││ 私との約束は〝一日〟その姿でいることでしょ 弱々しい声が、部屋の中で木霊していく。 ﹁え ? ? 昂奮半ば朦朧としながら、雪ノ下陽乃はその姿を携帯で撮影してい へたり込むその姿も、実に嗜虐心が刺激される。 垂れさがる尻尾もまた強烈なアクセントだ。涙目を浮かべて地面に であり、何処となく少女らしさの演出を強めている。│││そこから の分猫耳としての存在感を際立たせる。丈の短いワンピースは純白 黒のカチューシャは彼女の艶やかな黒髪に紛れその存在を消し、そ 持っていた。 その姿は、雪ノ下陽乃の脳味噌からも冷静さを奪うに足る破壊力を ! ※ ﹁か││││可愛い ﹂ なにこれ にこやかな笑みを以て、悪魔の如き表情で│││雪ノ下陽乃は残酷 ! ﹂ じゃあ、グッバーイ雪乃ちゃん もうお姉ちゃんは帰っちゃうねー ﹁あ ー、可 愛 い │ │ │ │ 今 日 は と っ て も い い 気 分 で 眠 れ そ う。そ れ しく息巻きながら、ニコリと眼前の姉は笑む。 何をおかしなことを言っているのかしら│││そう実にわざとら ? あった。 あまりにも痛々しい。成人女性にあるまじき黒歴史の一ページで 雪ノ下雪乃︵20︶。 猫装束を纏った、一人の女。 嵐が通り過ぎた後、そこには確実に痛々しい爪痕が残っていた。 雪ノ下陽乃は、ただそれだけ言い残すとマンションを去った。 ! 57 ! ! あまりの羞恥心に、彼女は眩暈と共に床に伏した。 │││さて、どうするか。 本日、雪ノ下雪乃は出掛ける予定がある。一人ならばよかったもの の、残念ながら同伴者と約束している。一週間前から決めていた││ │自分自身でも楽しみで仕方なかった、デートの日である。 雪ノ下雪乃は、原則として虚言が嫌いである。 それでいて、不誠実な振る舞いも大嫌いである。 彼女の凄まじいプライドの高さは、高い自意識とある種の潔癖症じ みた完璧主義が同居している。不誠実な振る舞いを行う他者も嫌い であるならば、そんな振る舞いをしてしまう自分も大嫌いなのだ。 故に│││約束を反故にする、という不誠実極まりない行為を、彼 女は余程の事が無い限り取る事が出来ない。 それは雪ノ下陽乃との約束もそうであるし、比企谷八幡との約束も そうである。自分の慢心ゆえに付け込まれた勝負の条件を勝手に破 58 棄することも出来なければ、こんな実に下らない│││要は、自分が 死にそうな程の羞恥心故に約束を反故にする事も、また出来ない。 厄介な性格だ。 こんな条件、破った所でどうとでもなるというのに。姉はもうここ には存在しないのだ。どうせこれらを脱ぎ捨て出掛けた所でばれや しない。 ﹂ それでも、それでも。 彼女は│││。 ﹁くっ││││││ ※ │││つくづく、難物極まりない性格であった。 彼女は、脱ぐではなく隠す事を選択した。 乃│││﹂ ら。もう春だけど、そんな事言ってられないわ。隠すのよ、雪ノ下雪 あったはず。フードも付いていたはずだから、これで頭も隠せるかし ﹁デ ニ ム は │ │ │ │ あ っ た。こ れ を 上 に 着 て、冬 物 の コ ー ト は ま だ 羞恥で目元を歪ませ潤ませ、クローゼットを開ける。 ! うふふふふ、と実に底意地悪い笑みを雪ノ下陽乃は浮かべていた。 視線の先には、いつまでも愛らしい、自らの妹の姿。 ﹁やっぱり、そうなるわよねぇ﹂ 彼女は、マンションから顔を真っ赤にしながら出ていく雪ノ下雪乃 の姿を眺めていた。 ﹁自分で受け入れた条件を、何があっても反故にできる性格じゃない ものねぇ。うふふふふふ﹂ まるで、何処かのお伽噺の様。狐が、妖精が、もしくは猫が│││ その正体を悟られんと、必死になってその姿を隠しながら、人間と出 会おうとしている。 ﹁気にせず、デートを楽しめばいいのよ、雪乃ちゃん。大丈夫。私も楽 しむから♪﹂ ビデオカメラをカチャカチャと操作しながら、享楽をその瞳に浮か べる。 ああ、今日は何とも楽しい一日になりそうだ│││。 そう、どうにもならぬ思考を胸に、彼女は満面の笑みを浮かべてい た。 59
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