雪ノ下雪乃、決意する ID:112292

雪ノ下雪乃、決意する
丸米
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︻あらすじ︼
三十路の果てにある自らの未来。その悲観の果てにある未来を打ち破る為、雪ノ下雪
乃は覚悟する。手段は選ばぬ。必ずあの男を手に入れる│││。
目 次 ︵アフ
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きっとそこには、素敵な未来
ター︶ ││││││││││││
襲来は突然に ││││││││
未来へ・・・ ││││││││
覚悟を問え │││││││││
羞恥とプライド │││││││
本編
その時、比企谷は ││││││
アフター
静に始まり、静に終わる。 ││
帰結を受け入れよ ││││││
ボッチ、思考する。 │││││
感情を示せ │││││││││
先制取るべし ││││││││
再会を希い │││││││││
怒りの日 ││││││││││
逃げ場はない ││││││││
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55
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本編
が子供に見えるのも、余りにも高い自意識が幼稚に見えるからだ。つまりだな、男って
みながら大人になり、次第に現実を見据えながら自意識を萎ませていく。女から見て男
ば、女は自意識の高さは一定して水平線を辿っていく。男は肥大化した自意識を抱え込
│││男という生物が、思春期に最大級の自意識を抱え込む生物であるとするなら
の良い、悪く言えば淑やかさの欠片も無い性根は何一つ変わっていないらしい。
取が認められる年齢になるや否や近所の居酒屋に連れ込む辺り、そのよく言えばキップ
平塚静先生│││とでも言い換えておきましょうか。教え子がようやくアルコール摂
事無く、残酷な時の逆流に晒されながらもあらゆる事象に踏み止まっている国語教師、
十路の大台を超えてしまったにもかかわらず良くも悪くも内面も外面も何一つ変わる
いえいえ、
﹁この女﹂なんて言葉はやけに刺々しいですね。言い換えましょう。既に三
眼前で既に出来上がっているこの女はそう、講釈がましく口を開いた。
な。
│││いいか、女という生物は実に複雑な生き物だ。男とは別のベクトルであるが
覚悟を問え
1
覚悟を問え
2
奴は風船みたいなものだ。見てくれはでかくても一度傷付けられたら一瞬で破裂して
しまう。破裂したらもう一度新しい風船をこさえるが、また破裂する。そうやって幾度
となく傷つきながら連中は次第にその風船を萎ませていくんだ。傷ついても衝撃が大
きくならぬよう、次第に風船の空気を抜いていくんだ。そうやって、連中は大人になっ
ていく。
平塚先生は酒が絡むとただでさえ面倒なその性格に拍車がかかるようです。教師と
いう職務の性質上でしょうか。アルコールが絡みストッパーが外れると豪雨の河川よ
ろしく愚痴の氾濫が巻き起こってしまう。先生はうう、と次第に涙を浮かべながら私に
言葉を吐きかけていきます。
│││その性質とは反対に、女の自意識は何一つ変わらない。自分という存在につい
て過小評価もしないし過大評価もしない。客観性を備えた冷静な脳味噌を持つ女は、そ
の自意識の高低を変える事無く大人になっていく。そうなれば、どうなるか解るか雪ノ
下。
解りません、と正直に答えました。そんな事に興味もない。
│││年齢を重ねるごとに、男というのは自意識を小さくし現実を見据えていくの
さ。故に彼等は次第に安全策をとるようになる。あり得ざる未来への希望を捨て、傷つ
く事を恐れ、眼前に示された可能性に安易に飛びつく。だからこそ奴等は結婚自体は
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パッと速やかに行える者が多い。そして例え結婚できずとも彼等は他者に拒否される
センチメンタリズムを飼いならす事には長けている。
段々と、言いたい事が理解出来てきました。
│││女は、その自意識は変わらない。はじめから現実的な自意識を設定するからこ
そ、その設定されたラインより下に行きたくないんだよ、我々という人種は。
はじめから客観的な視点を持つ女は、それ故にはじめから身分相応だと﹁想定した﹂自
意識を持つ。それ故、その想定を狭めたくない、という心理が働く、と。ふむふむと一
つ頷く。内容はともかく、多少は論理的な説明である。
│││私はな、言っちゃ悪いが自分に結構自信を持っていたんだ。顔立ちもスタイル
も悪くない。性格だって比較的いい方だと自負していた。そう言った要素を勘案して
出来上がった自意識は自分が思う以上に大きかったらしくてな。結婚なんてしようと
思えばいつでもできるとそう思っていたんだ。そうして大学を卒業し、教師になって、
567と一桁が繰り上がっていき、8になり焦り出し、9でどうにかラインを下げる努
力をし出した。それから二桁の数がとうとう繰り上がった。そうして自分という存在
をアルコールに漬かった脳味噌で冷静に分析してみたんだ。男の萎んだ傷だらけの自
意識に、私という存在は実に重すぎたんだと。そして上を狙おうにも、もうその席は埋
まってしまっているのだと。﹁手遅れの女﹂というのはこうして形成されていくのだよ
覚悟を問え
4
雪ノ下。笑うなら笑え。
そう言われたので、遠慮なく笑ってやりました。その方が平塚先生も本望でしょう
し。
│││ふ、ふふ。笑ったな、雪ノ下。笑っていられるのも今の内だ。貴様も何時か、私
平塚先生と
何故眼前の飲んだくれと私が同じ未来
と同じ苦しみを味わわされる事となるのだからな。
ムッと私は顔を顰めた。私が
?
にはいないとでも思っているだろう
正直、自分に見合う男なんぞこの世
?
そういう自信によって作られた自意識はな、男共
能力にも何も疑う事無く自信を持っているだろう
│││お前の自意識は、私なんぞより遥かに高い位置にある。お前、自分の容姿にも
を歩むなどという妄言を吐かれなければならないのでしょうか。
?
ええい、何を動揺している。あの眼の腐った人間失格者なぞ、本来なら歯牙にもかけ
ての失格者に吐き掛けんと立ち上がろうとして、淑女らしく耐えた。
私は思わず眼を見開き机を叩きつけあらん限りの罵詈雑言を眼前の不届きな女とし
│││結局、高校の間で比企谷もオとせなかったじゃないか。
何を馬鹿な、とそう口に出そうとするも、次の一言でピシリと固まってしまう。
のままだと、十年後に私と同じ帰結を辿る事となる。
は実に敏感に嗅ぎ取るぞ。近付く男共はそれすら解らぬ馬鹿共しかいない。お前はこ
?
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ぬ大した男なぞではないではないか。心揺らすな。│││その様子を、実に愉快だと言
わんばかりに不愉快なニヤケ面で先生は見ていた。
│││あの男はわずか中学の間で自意識を究極までに萎まされた男だ。解るか、雪ノ
下。例えお前が必死に好意を伝えようと、奴はとにかく予防線を張る。もう二度と傷つ
かぬ様にな。あの男を手に入れるならば、自ら攻めていく他ないぞ。手ぐすね引いて
待っていようと、奴は解りやすい餌には罠を警戒して決して飛び出さん。実際、高校時
代もそうだっただろう。もう同じ学校でもないんだ。このままだと、自然とお前と比企
谷との関係はフェードアウトだ。そうしてお前は比企谷という理想を忘れられず一人
孤独に歳を重ね、私と共に同じ愚痴を酒に乗せて吐き出す惨めな人生が待っているの
さ。
私は戦慄を覚えた。
│││遺憾ながら、十分に、考えうる未来だ。実際、あの陽乃姉さんでも未だ交際す
らしていない現状を鑑みて、私だけが大丈夫である保障なんてないのだ。
多分陽乃姉さんはこの先ずっと独身でも何だかんだ楽しみながら生きていけるだろ
う。ならば私はどうであろうか
る。寂しさを紛らわす様に猫を飼うも、虚しさは変わらない。│││駄目だ。私は何だ
一人明りのついていない高級マンションに帰り、独りでに夕食を作り風呂に入り寝
?
覚え
かんだ、孤独への耐性が弱まってしまったのだろうか。あの奉仕部の温かい関係の中
十年後、同じ状況であるならば私も思い切り笑ってやるぞ
│││││││苦い。
はない。
やはり、これでも教師なのだ。自分と同じ苦しみを生徒に背負わせたいと思う人間で
彼女は一人ちびちびと芋焼酎を喉奥に流しながら、一つ溜息を吐く。
﹁これで│││ちっとはケツに火が付いたかね﹂
雪ノ下がタクシーを呼び、帰ると同時に│││平塚静は煙草に火をつけた。
※
便利だ。不愉快ではあるが。
しかし、程よい酩酊の中、不愉快な感情が濁り消えていく感覚もある。成程、酒とは
!
で。
│││ははははは
てろ、雪ノ下
!
私は苦虫を噛み潰した表情で、店員が持ってきた生ビールを喉に流し込んだ。
!
※
ふ、と一つ煙を吐いた。猛弁を振るった後の喉に、苦味が心地よかった。
﹁ま│││大学生になってもお前は私の生徒だ。フラれたならば、また酒に付き合おう﹂
覚悟を問え
6
こうして│││雪ノ下雪乃は決意する。
│││覚悟を決めた女の眼が、そこにあった。
﹁待っていなさい﹂
つまりは、4月。ぐりぐりと雪ノ下はカレンダーに赤丸を付ける
﹁これより、新学期が始まるまでにしましょう﹂
現在1月11日。
睨むようにカレンダーを見据える。
﹁目標を設定するには、期限が必要ね﹂
7
人は何の為に生きているのか
のみ、黄金のキャンパスライフを手に入れる事が出来る。残りの連中は何もない炭鉱を
そうと足掻きに足掻いて絶望をくべていくのみである。金鉱を掘り当てる才がある者
見出せる連中は生粋のリア充だけだ。リア充未満の成り損ないの連中は、それらを見出
非生産、無意義、│││大いに結構。大学という混沌の最中に生産性も意義も意味を
晴らしい場所である。無論、比企谷八幡は後者である。
だけであり、最初からボッチを自認し許容し愉しめる度量のある人間にとっては実に素
いだ。単にコミュニケーションが苦手な連中が群れる先を探すのに労苦を伴う場所な
大学という場所はボッチに厳しい場であるとよく聞かされるが、それはよくある勘違
比企谷八幡のキャンパスライフは実に夢と希望に満ちた生活であった。
※
人それをプリキュア原理主義という。
│││プリキュアの為に生きている、と。
そう問われたならば、きっと比企谷八幡はこう答えるだろう。
?
その時、比企谷は
その時、比企谷は
8
9
掘り続け徒労の足跡のみが残る他ない。どうせ非生産的で無意義な大学生活ならば徒
労する苦しみなぞ味わわされたくないと思うのもきっと人情だろう。
大学という場所はキャンパスに居座る者も立ち去る者も平等に取り扱う。それ故比
企谷はキャンパスの外の自由にその意義を見出した。つまりは家である。
その6畳半の部屋は比企谷の城である。誰にも踏み入れられる事無く自由で、我儘で
いられる空間。涙が出る程居心地がいい、自らを許容してくれる場所である。
日曜朝、彼は日頃の惰眠癖もその日ばかりは抜ける。
日曜朝8時半。夢と希望を分け与えてくれる素晴らしき時間の為ならば、怠惰な心魂
にも気合が注入されるというモノだ。
│││大学生にもなって、と人は言うかもしれない。
何を勝手な事を、と比企谷は思う。
夢と希望を胸に闘うハートフルアニメーションが、何故に女児にのみ与えられた特権
的存在として確立されているのか。夢や希望なんて、大人になるごとに摩耗し砕かれ消
失 し て い く モ ノ で は な い か。燦 燦 と 照 り つ け る 光 も そ れ は そ れ は 素 晴 ら し い も の だ。
しかして、暗黒の中差し込む一陣の光を求める者がいるという現実を何故に人々は認め
てやらないのか。
全く理解に苦しむ│││そう思いながら比企谷は至福の30分間を過ごした。
これが、比企谷の日常である。
何も変わらぬ、日常である。
どうしようもない、日常である。
※
比企谷八幡は、周囲の大方の予想通り、都の私大へと進学した。現在華も陰り出す大
学2回生である。
他の身の回りの連中の進学先から離れ、寂しくなかったといえば嘘ではない。だが、
比企谷自身もあの関係性の中で甘えかけていた所もあった事を自覚していた。
奉仕部として過ごした2年という月日は、丁度良かったのかもしれない。
甘えるでもなく、だからといって拒絶するでもない│││あの日々の中で確かに比企
谷八幡は成長した。
きっと、時々ああ、ああいう日々もあったのだなぁと思い返し、懐かしい気持ちと共
に時折思い出し微笑む位の、色褪せる事の無い記憶になっていくのだ。その姿を自分で
想像してみると実に気持ち悪かった。通報されるまである。あまり外ではそうならな
い事を切に祈る。
唐突に、奉仕部に入部するきっかけとなった恩師が脳裏に思い浮かんだ。
﹁そう言えば、平塚先生元気かなぁ﹂
その時、比企谷は
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いや、元気なのは解る。解るんだけど│││││精神の起伏というか、安定というか。
自棄になっていないかなぁ、とか。恐らく今年か、去年かの誕生日│││││とか。血
貰ってやってく
の雨とか降っていないかなぁ、とか。飲み潰れてゲロに塗れた三十路の遍路を迎えてい
誰か│││
!
我が愛する千葉ロッテの開幕投手ももう三十になりまし
ないかなぁ│││とか。挙げればキリがないのですよ
れよ│││
先生、貴方は若手ですか
!
※
通りの日曜日を過ごしていた。
そんな若手から晴れて中堅へと移行した先生を心の中で一つ合掌し、比企谷はいつも
婚したんだし、きっと先生にもいい人が現れるさ。知らんけど。
んか、やけに貫禄があるし││││。うん││││。まあ、ワクさんはあの年齢でも結
んか着ちゃって。ワクさんももう若手なんて口が裂けても言えないよなぁ│││。な
た。ああ、そう言えば今年結婚したなぁ、ワクさん││││││。純白のタキシードな
?
!
﹂
!
小町は、今年が受験年だ。
電話越しのマイエンジェルの弾んだ声に、少しばかり安心感を覚える。
﹁うん
﹁へー、そうか。センター上手くいったのか。よかったよかった﹂
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﹁心配してくれてたんだー。よしよし、これはポイントが高いよー、ごみぃちゃん
の期限が四年ばかり延びた訳だ。
﹂
れと泣きながら懇願していやがったという。よかったねー。これで子離れ︵小町限定︶
あの野郎、こっちは下宿にぱぱっと追い出したくせして、小町には千葉大に行ってく
﹁そりゃあ、親父も大喜びだろうな﹂
﹁うん。千葉大だよー。いやぁ、我ながら頑張ったよ﹂
﹁となると、志望を変える必要はなくなったか﹂
よ、小町││││。主に価値観の乱高下的な意味で││││││。
ポイントが高めでもゴミ扱い│││││お兄ちゃん的にはとってもポイントが低い
!
センターはちょくちょくお兄ちゃんから教えてもらえたけど、流石
﹁そうだな。すまないが、ここからは力になれん﹂
にここからは門外漢だねー﹂
﹁あとは二次対策
!
﹂
!
やめよう。こんなのと名前被って神様もお怒りかもしれないし││││││。
よ。八幡宮でお祈りでもしておこう。八幡だけに││││││。うん、何か薄寒いから
やったるぞー、と実に威勢のいい声が電話越しに聞こえてきた。うむ、頑張れ我が妹
ます
﹁いいよいいよ、ここまで随分英国では助けてもらったし、ここからは独力で頑張ってみ
その時、比企谷は
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﹁それじゃあ、二次まで頑張ってな﹂
父に泣きつかれ二次開始二週間前には住み込みで小町に教鞭を取っていたという。
そのありがたき彼女は一カ月間小町に対策プリント持参で勉強に付き合い、その後親
たという。
﹁偶然にも﹂予備校前の喫茶店にいて、
﹁偶然にも﹂それが比企谷兄弟共通の知人であっ
その時、一ヵ月の間、みっちりと勉強の世話をしてくれたありがたい千葉大の先輩が
│││その後、小町は無事合格を果たす事となる。
できる事は祈るのみだ。比企谷はそう思い、一つ溜息を吐いた。
うーむ、やっぱりシスコンは治らない。こればかりは仕方があるまい。ひとまず、今
てくれればなぁ、とは思う。
月、気を抜くとは思わないが、やっぱり勉強そのものをサポートしてくれる人が一人い
予備校に通っているといえど、やっぱり根本的な対策は独力でやるものだ。あと一ヵ
まあ、何とか合格を勝ち取ってもらいたいなあ、小町も。
そうして、電話が切れる。
をしておくよ│││││。
うん│││。八幡頑張るよ。色々と│││││。アニメ消化しながら、レポート処理
﹁うん、お兄ちゃんも頑張ってねー。色々と﹂
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その時、比企谷は
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何とも不思議な縁というか、偶然もあるモノだなぁと比企谷は思った。
ボディタッチ
そのどれもこれもあの男
?
じくれ者になんか対応してないのよ。
よって、却下。あざとさを演出 上目遣い
?
│││こちらが、落とすつもりでは駄目ね。
うに。
法が通じるだけの素直な感性を持っていれば、もう少しあの男も生きやすかったであろ
う名の橋架けをした男が、比企谷八幡という男だ。正攻法が通じる相手ではない。正攻
来る強靭な理性を形作っているのだ。一般的な感性をズタズタにされ、そこに理性とい
言っていたではないか。あの男はあらゆる恋愛的な事象を勘違いという解釈に転嫁出
に と っ て は 自 身 を 陥 れ る 為 に ぱ っ く り と 開 か れ た 罠 に し か 思 え な い だ ろ う。先 生 も
?
│││そもそも、これは〟一般的な〟感性の男性を落とす為の手法であって、あのね
に偏差値の低そうな雑誌類も買い漁り、そのどれもを読んだ結果、結論が出た。
それから実に様々な対策を講じたが、どれもこれもしっくりこない。何やら見るから
決めた。
│││アルコールに塗れたあのひどい平塚先生との会話で、ようやく雪ノ下は覚悟を
逃げ場はない
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雪ノ下はううむ、と一つ唸った。まるで女鹿の様に面倒で臆病な男だ。攻め込むにし
ろ、一度取り逃がせばあの男はずっと逃げ回るだろう。
│││逃げ場を、無くすほかない。
あの男を追い立てまわして落とすつもりでは駄目だ。
│││気付けば、もう周囲に逃げ場を無くしておかねばならない。
あの男は、他人の心理を洞察する事に関して、相当な能力を持っている。
だからこそ、それとなくこちらの好意を認識させることは出来る。
ただ、その好意を何かと理由付けて﹁勘違い﹂に転嫁させるだけであって。
ならば、その認識をまず変えさせねばならない。
あの男は頭がいい。そしてその根本はすべからく善人である。必要悪を演じれるだ
﹁勘違い﹂なんて逃げ場を、まずもって叩き潰す。
けの善良性を抱え込んでおり、そしてそれは、あの男の致命的な弱点でもある。
│││善意には、必ず何かしら善意で返そうとするであろう。良識と善性を持ち合わ
﹂
せているあの男には、こちらの善意に悪意を返す事も、無視することも出来ない。
一つ、閃いた。今は一月の中旬である。
?
│││そうか、そうであるならば、身内から攻めていけばいい。
﹁そう言えば、もう小町さんは受験年かしら
逃げ場はない
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17
そこからの行動は実に迅速であった。
彼の妹│││比企谷小町が予備校に通い、その帰りによく一人で喫茶店に寄っている
という目撃証言を頼りに、偶然を装い彼女と接触。その後志望校が│││これは本当に
偶然であったが同じ千葉大学と言う事もあり同校の先輩として二次試験まで勉強を見
てあげましょう、と提案し、それを快く小町は受け入れた。彼の両親にもそれとなく挨
拶を交わし、家庭教師代わりに彼女の勉強を見てあげた。どうやら千葉大を目指してい
るのも、彼女の父親の要望も大きかったようで、小町さんの勉強を見てあげますと言う
といたく感激していた。
│││雪ノ下さんは、あの愚息の知り合いでしたか。
比企谷父の問いかけに、ええ、と雪ノ下は答える。出来うる限り、そっけなく。
│││随分と息子さんには助けられましたから。その恩返しと思っていただけたら
結構です。
│││そ、そうですか││││。まさか、こんな美人さんの知り合いがアイツにいた
とは。
│││大学に入ってから、もうパッタリと連絡も取ってくれなくなりましたけどね│
│││。
少しだけ、寂し気に、そう言った。こう言えば、きっと彼の両親もこちらを気遣って
逃げ場はない
18
くれるであろう。卒業と同時に連絡すら取らなくなった馬鹿息子にいたく沈痛な感情
を抱いているものの、それを必死に隠そうとしている、と│││そう解釈してくれれば
上々だ。
狙いは、│││まずもって彼の家族を味方に引き入れる事。
彼の両親、及び小町さん。
彼の経済的な拠り所と、心の拠り所。彼の心理面から考えれば、この二つを敵に回す
事は考えにくい。特に重要なのが小町さんだ。彼女へ恩を売る事は、転じて彼へ恩を売
る事と同義となる。
│││彼の、﹁勘違い﹂を形成する逃げ場を一つずつ潰していく。
回りくどい方法に見えて、これが彼に対する一番の近道だ。遠回りが、近道になる事
もある。特に、こういった恋の諸々に関しては。
手段は選ばない。選べない。
ここで取り逃がし、今度は私が先生と同じ立場にならねばならないのか。論理的にか
つ非論理的に自身が孤独である事への分析をし続け、しまいに心を摩耗させていき、次
第に孤独を孤独と感じなくなっていく、そんな惨めな女に。
あり得ない。
絶対にあり得てはならない。
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先生には感謝している。尊敬だってしている。だからといって同じ道程を歩みたい
などとは絶対に思えない。彼女が示した道程は、いわばゴルゴタの道だ。彼女自身が十
字架を引き摺りながら、その結末を示しくれた道。その道を、必ず辿ってはならぬ││
│そう、あの居酒屋で示してくれたのだ。
覚悟を決めたのだ。
│││如何なる手段を用いても、手に入れねばならない。
今度こそ、逃がさない。
待っているがいい。
怒りの日
﹁│││へぇ、偶然もあるものだな﹂
あの人本当にスパルタだよー、とマイエンジェルは実に満足気な声を電話越しにあげ
﹁本当だよ。まさか雪乃さんに会えるだなんて思わなかったよー﹂
﹂
﹂
る。どうやら、共通の知人│││冷徹無欠の完璧主義者雪ノ下さんは大学に行っても変
わる事はなかったようで。
明らかに俺、関係なくね
﹁お兄ちゃん、ちゃんと礼を言うんだよ
﹁え、俺
﹁││││ごみぃちゃん、解ってないの
﹂
私のモノはごみいちゃんのモノ。ごみいちゃ
しまいには死ぬぞ。
んのモノはごみいちゃんのモノ。故に私の恩義もごみぃちゃんのモノなんだよ
おい、小町。今何度ごみぃちゃんと言ったのん
﹁そんな事言って。年末年始も実家に帰らなかったのに、そんなのいつになるの
﹁ま、礼くらいは言っておくわ。今度実家に帰る時でも﹂
?
﹂
!
ど ん だ け 小 町 と 一 緒 に い た い ん だ よ、あ の 駄 目 親 父。﹁お め ー の 部 屋、物 置 だ か ら
?
?
?
?
?
﹁だって、帰ってくるなって親父に言われたし│││││││﹂
怒りの日
20
﹂ってなノリである。親と言えども容赦ない時はとことん容赦ないのだ。ふん、別に
かよ。
│││は俺自身藁人形に呪いを込めて呪いを返されて死ぬかもしれん。死んじゃうの
いいのだ。小町が独り立ちする時にむせび泣いて地獄を見るがいい。結婚する時││
!
それとも親父不治の病でもかかっ
?
﹂
﹁は
明日槍でも振るのん
?
親父が帰って来いなんて嫌な気しかしないんだけど
何の天変地異ですか
え
?
たのん
?
﹁お父さんが泣きながら片付けさせられていたから、大丈夫だよ
﹁え、何それ﹂
本当に何があったのん、親父
﹂
﹁よく解らないけど、雪乃さんに〝最低ですね〟って言われたらしい
!
!
﹂
?
ええ││││。本当に、これ、家に帰って大丈夫かねぇ│││。息子の部屋を泣きな
﹁知りたくもない││││││﹂
うねー
﹁やっぱり美人は怖い、って何かブツブツ呟くようになっていたよ。何があったんだろ
!?
﹂
﹁帰って来い、と言われても││││いや、俺の部屋物置だったじゃん﹂
?
?
﹁あ、その父さんだけど、私の受験が終わったら、お兄ちゃんに帰って来いってさ﹂
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怒りの日
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がら片付ける親父
あまりにも非現実的で嗜虐心すら湧き起こらない。月の裏側の話
は彼の父親に尋ねたのだ。
│││ああ、アレは愚息の部屋ですよ。
笑いながら、比企谷父は言った。
│││彼が帰ってきたら、どうするんですか
│││帰ってくるなと言っておいたから大丈夫ですよ。
?
住み込みで小町さんの勉強を見ていた時、見えた物置部屋。アレは何ですかと雪ノ下
特に、怒りの感情に対して。
的事実を忘れていた事だ。
を忘れていた事であり、また猫を被り感情を欺く事が致命的に下手糞であるという確定
ただ、一つ慢心していた事は、自分が何処までも行っても雪ノ下雪乃であると言う事
策は上々。非常に上手くいっていた事は間違いない。
│││想定した道筋に、修正の必要性が出来たわね。
※
やだよぉ│││││帰りたくないよぉ│││││││。
ら覚える。
を聞いているも同然の光景である。その想像上の親父の余りの気持ち悪さに吐き気す
?
23
そう言いながらわははと笑う声が耳朶に響いた瞬間│││一瞬だ。一瞬、身体がフ
リーズしたかの如く固まった。
フリーズが解けた後、自分の中で、何かがキレた音がした。
何故そうなったのかは、その瞬間には理解出来なかった。それでも、自然と化けの皮
が引っぺがされた。ここら辺が、姉さんと違う所だろうなぁ、と自分で思う。必死で作
り上げた仮面が、こうも見事に砕かれてしまうとは思えなかった。ごく自然と、口が開
いていた。
何を言ったかは正直覚えていない。ただ親とは何か、子とは何か、と論理的に、かつ、
詰将棋をするかのように言葉を取捨選択していった思考パターンの形成過程だけは実
に鮮明に覚えていた。嵐の様に、もしくは稲妻の様に、更に言えばあの日の先生の様に、
怒涛の如く舌先が動いていた。
│││最低ですね。
最後に持ってきた台詞を吐き出した後、比企谷父は幾分長くフリーズしていたとい
う。
│││しまった、と思った。
これで仮に出ていけとでも言われたら、もう作戦は破綻も同然だ。
│││しかし、怪我の功名とでも言おうか。その後、予備校から帰って来た小町さん
怒りの日
24
から﹁何だか知らないけど、ちゃんとフォローしたから大丈夫だよ﹂とのありがたい言
いや、違うか││││ううん、違わな
﹂などとも、何やらニヤケながら言っていた。成程、大体この家の力関係が
葉を頂いた。﹁フォロー│││││ううん、脅迫
い│││
?
何故、あの時あんなにも怒ってしまったのだろうか その夜、少しばかり深く考えた。
※
じだ。
策であるが新たな発見により、より上策と化した。怪我の功名、ここにありと言った感
なく小町さんを間接的に挟んだ脅迫が最も有効である。よしよし、一度は破綻しかけた
彼の父親は、猫を被って対応するのではなく、威圧を用いて対応するべし。懐柔では
そういう訳で、作戦の道筋を変更することにした。
屋の片づけを行っていた。
理解できた気がする。その次の日には、彼は何やら強制労働中の囚人と言った風情で部
?
│││││││文化祭においても、修学旅行においても、未だ彼のあの時の行動が正
彼は、他人に何も期待していなかった。
彼は、自分を軽んじていた。
余計なプライドを取り払えば、その心は実に素直に映し出された。
│││││││自分だって、別に特別愛情深く育てられた訳ではあるまいに。
?
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しかったとは思えない。
だが、それでも、当時の自分の行動が正しかったか、と問われればそれもまた否と言
う他ない。
何故、あの時彼の行動を受け入れてやれなかったのだろうか。
頭ごなしに、拒絶する事なんて誰でも出来るというのに。
何故あの時、
﹁依頼なんて失敗したって構わない﹂と言ってやることが出来なかったの
か。いや、そんな言葉じゃなくたって、ただ素直に﹁私は貴方が大切なの﹂と言葉に出
来ていれば、どれだけ違っていただろうか。貴方が傷付けられる姿を、痛ましく思う人
だっているのだと│││ただただ、素直に言えれば、よかっただけなのに。
結局、あの高校時代は│││誰もが、誰かの為に行動していて、けれども誰もがその
心を言葉にできなかったのだ。よくある青春で。けれども、同時によくあるすれ違いの
悲劇で。素直になれなかった青春の苦味を、訳も無く味わわされて。ただ、彼が、彼自
身を軽んじてほしくない│││たったそれだけの願いを抱いていただけだったのに。
│││そして、今日解った事が一つ。
少なくとも│││彼の父親ですら彼を軽んじていたのだ。
だから、怒った。なんて、単純な因果なのだろう。ただ、それだけの話だ。
何だか色々と腹が立って、もう考える事を止めた。
怒りの日
26
今考えるべきはこんな事じゃない。
│││あの男を落としに来たのだ。まだ、ようやく一つのステップが終了しただけ
だ。
慢心する事無く、この先も進んでいかなければならない。
孤独の業火で焼かれ死ぬのは、真っ平御免だ。
ここで手に入れるべきものは、すべて手に入れる。
再会を希い
こうして│││小町の受験は終わった。
手応えは十分、とは小町の談。滑り止めの私大も複数の合格通知が届いており、晴れ
雪乃さん
﹂
て彼女は受験から解放された。
﹁ありがとー
!
﹁ほんっとに助かりました
雪乃さん、ホントに教えるの上手かったです
﹂
!
﹂
!
小町はそう言うと、にこやかに封を一つ雪ノ下に渡す。
として│││何か雪乃さんにもお礼をしたいと思います
﹁まあ、これで晴れて受験から解放された訳ですし、一度あの駄目兄ぃには戻ってもらう
﹁邪魔したくなかったんでしょう。あの男だって一度は受験生だった訳だし﹂
れだからあのごみぃちゃんは││││﹂
﹁まったく、雪乃さんが来ているというのに一度もこっちに戻ってこないんだから。こ
﹁貴方も、呑み込みが早くて助かったわ。もう大丈夫でしょう﹂
!
いえーい、と実にのびやかに跳ね回る小町を、雪ノ下は微笑ましく見守る。
﹁よく頑張ったわね、小町さん﹂
!
27
﹂
﹁これは││││││
﹁中を見て下さい
﹂
?
﹁チケット││││
﹂
雪ノ下は言われるまま、封を切る。
!
﹁え││││
﹂
も送りました﹂
﹁はい、千葉市内のホテルの食事券です│││ちなみに、同じチケットを、お兄ちゃんに
?
﹂
?
題なのだ。何で千葉なんだよ。帰ってこさせる気全開じゃねーか。
いや、別に貰い物にケチ付ける程性根が腐っている訳ではなく、単純にその立地が問
る。
酷い話だ。唐突に送られてきたタダ飯券を片手に、比企谷八幡はうーむと唸ってい
﹁あると思ってるのー
﹁│││││拒否権は﹂
※
雪ノ下は瞠目しつつ、小町を見た。
?
?
?
レゼントしたモノを要らないと突っ返すつもり
﹂
﹁いいじゃん、別に。│││それとも、何か 小町がお年玉のおよそ半分を削って折角プ
再会を希い
28
﹁うぐ││││﹂
小町の好意を無下にしても、雪乃さんを一人寂しく食事させる事に
﹁待て、待て。それが一番の問題だろう。俺が 雪ノ下と二人で
罪的に不釣り合いな光景は﹂
食事
?
何だよ、その犯
?
思っているの﹂
お兄ちゃんみたいな面倒な人とずっと一緒にいてくれた人だよ
﹁│││││││﹂
﹁同じ部活でしょ
小町の声の、トーンが下がっていく。
が解決してくれるって思ってた
﹂
時間
?
│││雪乃さんは、少なくともそう思ってないみたい
?
?
﹁わだかまりを抱え込んだまま卒業して、そのまま自然消滅してくれると思った
だけど
?
﹂
﹁││││あのさ、お兄ちゃん。本当に雪ノ下さんが、お兄ちゃんに会いたくないとでも
何だ何だ、この脅迫じみた交渉は。カツ丼でも食わされている気分だ。胃が重い。
﹁いや、しかし│││││││﹂
念してちゃっちゃと帰ってこーい﹂
﹁その犯罪的なシチュエーションを望んでいる人がいるんだから、仕方ないでしょ。観
?
なっても。あーあ、お兄ちゃんは正真正銘のごみぃちゃんになっちゃうのかなぁ﹂
﹁別にいいんだよ
?
29
?
﹁いや││││││﹂
声が出ない。喉奥に、何かが詰まるような感触がする。声に出したくとも、出せない。
そんな、どうしようもない違和感。
﹁│││拒否権はなし。お兄ちゃんは雪乃さんと一緒にご飯を食べる。これは決定事項
です。以上﹂
ツーツー、と無情な電子音が耳朶に流れ込んでいく。
片手には、ホテル御食事券と書かれたチケットがそこにある。高そうだなぁ││││
八幡、こんな場所に行かなきゃいけないの││││。チケットに写されたコックに、何
だか目線だけで殺されそう││││。
嘘だろ、と八幡は頭を抱えた。
※
﹁│││という訳で、明日の夜、お兄ちゃんはこっちに帰ってきます﹂
心の何処かに、やはり│││彼と会う事を恐れる自分も確かにいる。
望んで仕方の無かった、状況が転がり込んできた│││││はずなのに。
明日、あの男と二人で食事をする│││望んでいるシチュエーションのはずだ。待ち
呆然と、眼前のチケットを眺める。
﹁あ│││││そうなの﹂
再会を希い
30
矛盾している。どうしたというのよ、私│││。折角舞い込んできた好機じゃない
か。
ました。猫を被っておけばいいのに、出来なかった。結局何処までいっても雪乃さんは
﹁雪乃さんは、私にしっかり厳しく教えてくれました。しっかり、お父さんに怒ってくれ
稚極まる策なんぞ、彼女はとうに理解していた。
何故、彼女に近付いたのか。何故、彼女に勉強を教えていたのか。自分が立てた、幼
│││全て、解ってたんだ。
ニコニコとこちらを見据え、小町は言う。
それが雪乃さんですから﹂
怖がらなくていいんです。いつものように、馬鹿には馬鹿と言っておけばいいんです。
﹁│││ちゃんと雪乃さんは、お兄ちゃんを想ってくれています。私も協力しますから、
﹁小町さん│││││││﹂
﹁そして、雪乃さんも、あの時のままの雪乃さんです。何も、変わっていないです﹂
その声は、実に優しげだった。
﹁│││安心して下さい。お兄ちゃんは、あのままの馬鹿兄貴です﹂
そんな葛藤を見てか、小町が雪ノ下に声をかける。
﹁雪乃さん﹂
31
再会を希い
32
雪乃さんです。だったら、応援しない理由はないですから。頑張って下さい﹂
何故だろう、涙が出てきた。
その理由を探るのも、何だか無粋に思えた。
│││成程、彼も、妹には頭が上がらない訳だ。
※
│││そうだとも、怖がってはいられない。
私は私だ。雪ノ下雪乃という人間だ。虚飾は嫌い。愚か者も嫌い。ついでに言えば、
猫かぶりも嫌い。猫自体は好きだけど。
私は私として、彼に向き合えばいい。
私は私以外の何者にもなれない。そんな当たり前の事すら忘れていたのか。
│││待っていなさい。
先生。私は必ずや貴方の犠牲を無駄にはしない。丘の上で四肢を打ち付けられ哀れ
焼き殺されたかの神の子も、自らを犠牲に大罪を背負ったのだ。貴方の犠牲は、確かに
一人の生徒を変えてくれました。なけなしの勇気と知恵を振り絞り、こうしてもう一度
踏み出す力を、くれたのです。感謝する他ない。貴方にとってのユダが何者なのかは解
りません。先生の過去には、銀貨30枚に絆され、貴方の人生を狂わせた何者かがいた
のかもしれません。それでも、私は貴方が歩んだ、煉獄の道すらも感謝します。貴方が
33
歩んだゴルゴタの丘の道程には、確かに貴方の為に涙した弟子がいます。
だから、どうか。
この道の帰結に、何があろうと│││生徒の幸せを希う、貴方でいて下さい。先生。
私は私の幸せの為に、戦ってまいります。
先制取るべし
﹁なあ、小町│││││﹂
﹂
居間のソファで、うなだれた父が小町に声をかける。
﹁なあに、お父さん
﹁││││││あの美人が、八幡を懸想しているとは本当なのか││││
﹂
小町、恋愛興味
?
に、僅かでも、義娘になる可能性があるというのか│││││﹂
﹁││││自分の判断を信じたくないから、こうして聞いているんだ。なあ、アレが本当
ないし﹂
﹁さあねぇ。お父さんの方が、その辺の女心の機微は解るんじゃないの
?
?
﹁自分の眼を、信じるんだよお父さん﹂
?
﹂
?
﹁│││あ、一つだけ言っておくね﹂
﹁小町が、今日に限って冷たい│││﹂
一体お兄ちゃんの何を知ってるの
お父さん、ロクにお兄ちゃんのこと見てなかったじゃん。お父さんは
﹁あの八幡だぞ
﹂
﹁どの八幡なの
?
先制取るべし
34
小町は、実に朗らかで明るい口調を変えていない。だというのに│││何故にこうも
締め上げられるような重さをその言葉に感じてしまうのだろうか。
﹂
?
﹂
?
意を裏切れば、一転柔らかな天使の語り口は、煉獄の底から這い出た悪魔の声となる。
│││天使と悪魔は表裏一体とは、誰が言った言葉であったか。恵みを与えし者の誠
ニコリと小町は父に微笑む。
﹁年貢の納め時だね、お父さん﹂
﹁え、え
﹁本気だから。お母さんの了承は得ているから﹂
││││││え
﹁││││││││││││││││││││││││││││││││││││││
のマルク以下もいいところ﹂
に行けるし│││今の所、お父さん、小町ポイント最底辺も最底辺だから。一次大戦後
私大に行くから。部屋はお兄ちゃんと同じ所に住めばいいし、必要なモノもすぐに取り
﹁私大、受かっててよかった。│││お父さんが雪乃さんに謝らないなら、小町、東京の
怜悧な言の葉が、父の胸元を抉り込んできた。
思っているけど│││雪乃さんに嫌われる様なお父さん、小町、大嫌いだから﹂
﹁別にお父さんがお兄ちゃんに嫌われようが、もうどうしようもないししょうがないと
35
何故だろう。涙が出てきた。何故と問われようと理由なぞ明白なのだが、現実を受け
入れたくないと心が喚き散らしている。
うなだれた身体は、一瞬で崩れ落ちる。まるでバンカーに撃ち抜かれたゴムダイヤの
風情だ。小町はその様を、変わらぬ笑顔のまま見つめ続けていた。ニコニコと、ニコニ
コと│││。
※
凛然と、彼女はホテルの席に座っていた。
タートルネックのセーターとロングスカートと、割とカジュアルな装いに身を包んだ
彼女はホテル上階にて背筋を伸ばして待っている。レストランの優雅な空気すらも呑
み込む、鋭い空気を彼女は纏っていた。
嫌でも突き刺さる周囲の目線なんぞ何処吹く風、彼女は時折夜景を見ながら一切佇ま
いを変えずにそこにいた。
│││そして、明らかにその空気と視線にキョドっている男がエレベーターから現れ
た。そのままレストランの玄関口から、ボーイを伴い予約席へと歩いて行く。
﹁ええ、久しぶりね、比企谷君│││元気だったかしら。聞くまでも無いだろうけど﹂
まるで火口の裂け目の様に淀み切った眼をした男が実に居辛そうにそう声をかけた。
﹁│││││││久しぶりだな、雪ノ下﹂
先制取るべし
36
﹁おい、それはどういう意味だ﹂
﹂
?
﹁これは二倍にして返さなければいけないわね﹂
﹁││││││いや、脅迫されたんだが﹂
わなければならない貴方が、何を以てここにいるのかしら
﹂
﹁別にいいわ。こうして素敵なプレゼントを貰ったし│││それより、貴方よ。本来祝
﹁│││小町の事、一先ず礼を言っておく。ありがとな﹂
な二人組にも、流石のプロと言った所か。一切表情を崩さぬまま全てを説明しきった。
と軽く頷きながら応対する雪ノ下と明らかに場慣れしていない比企谷のアンバランス
りとお楽しみくださいませ云々とボーイが滔々と説明する。慣れているのか、はいはい
のコース料理であり、食べ終わる毎にディナーをお出しします云々、ではどうぞごゆる
二人そろった所で、ボーイによって食事の説明が入る。小町が予約していたのは通常
猫背に、少し呆れた様な口調│││変わる事のないその声が、妙に心地いい。
はあ、と一つ溜息をつきながらゆっくり席を付く。
﹁ほっとけ。俺だってそんなことは解ってるっつーの﹂
ではなかったでしょう
││想像を絶する気色悪さだわ。貴方、そんな新人類じみた急激変化を好むような人物
﹁言葉通りの意味よ。元気に大学生活を全力でエンジョイしている比企谷君│││││
37
?
﹁│││はぁ、また財布の中を毟り取られなきゃいけないのか﹂
﹂
﹁貴方も変わらないわね。私の身の回りの人って、どうしてこうも変わらないのかしら
﹂
前菜のサラダと、パンが運ばれてくる。
﹁先生も、お変わりなかったようだし﹂
﹁お、先生に会ったのか。││││││あのさ、どうだった
﹁│││││││││││││﹂
﹁色々、あったのよ│││││﹂
﹁ああ│││││││﹂
﹁先生も、三十路を超えたわ﹂
つパンを口に入れると、ゆっくりと口を開いた。
しもの彼女でも、あの夜の出来事を説明するのに苦慮せねばならないのだ。雪ノ下は一
比企谷は顔を引き攣らせ雪ノ下を見やる。仕方がないじゃない、と雪ノ下は思う。さ
﹁黙るなよ。怖いだろ│││││﹂
?
?
﹁えぇ│││││﹂
﹁女は、形成された自意識に煉獄の如く苛まされるらしいわ。あの人曰く﹂
﹁うん│││││﹂
先制取るべし
38
﹁そんな事を、居酒屋で何時間も話していたのよ。婚活の失敗談、親類の斡旋、そして遂
に諦観が入り始めた両親の視線││││││あの人、本当にこの人生何をやって来たの
かしらね﹂
﹁あの、何かすまん│││││﹂
﹁いいのよ。今度は貴方が一緒に呑んであげれば﹂
﹂
﹁遠慮します││││││﹂
﹁恩師でしょう
だろう。そして心配が的中し、心を痛めているのだ。
﹁誰か、貰ってやらないのかね│││││﹂
﹁あら、貴方。人の心配をしている余裕なんてあるのかしら
﹁うっせ。いいんだよ、俺は。プロボッチ舐めんな﹂
﹂
げっそりと、比企谷は俯いた。│││││この男もこの男なりに恩師を慮っていたの
﹁恩師だけどさ││││││﹂
?
今はいいかもしれないけど│││想像して見なさい。貴方の数少ない親類、知
?
風呂も自分で沸かして、ご飯だって自分で作るか外食するか。そして気付けば仕事以外
の。その中で貴方は夜遅くまで仕事して、誰もいない暗い部屋の灯りを一人で点ける。
り合いが次々と結婚していくの。それぞれが家庭を持って、仕事を持って、生きていく
﹁そう
?
39
に何も会話する事無く、一日を終える。小町さんだって、いつまでも独身という訳には
いかないでしょうし、家族だって貴方から徐々に離れていくの。どう、耐えられるかし
ら。私は耐えられないわね﹂
へぇ、と比企谷は一つ頷いた。
﹁お前、人並みに結婚願望なんてあったのな﹂
﹁│││ええ、気付いたのはごく最近よ。先生の末路を、歩みたくない。たったそれだけ
の思いが私の中に生まれたのよ﹂
﹂
そりゃあ、気持ちは解るけど、と比企谷は一人ごちる。
﹁お前、サラリと酷い事を言っているな││││││﹂
﹁│││貴方は、どう
﹁いや、まだそんな事考える年齢じゃないだろ││││││﹂
?
先生をアレとか言わないで
﹂
﹁先生は、その思考の果てにアレになったのよ﹂
﹁やめて
!
!
時間が解決してく
?
れるなんて、甘いこと考えてないでしょうね 大人になった所でそれらが都合よく全部
抱えたまま結婚出来るなんて大いなる勘違いをしていないかしら
﹁つまり、甘いと言う事よ。貴方、傷だらけの恋愛遍歴を辿った挙句、恋愛アレルギーを
先制取るべし
40
解決して結婚に至れるなんて、はっきり言って甘いとしか言いようがないわ。甘ヶ谷君
?
もいい所よ。貴方なんて、先生よりも結婚できる可能性が低いわ﹂
のは解ってるんですけど
﹂
﹁あの、今貴方は何を以て俺の繊細な心を容赦なく串刺しに来てるんですかね
﹂
?
﹁│││この雪ノ下雪乃はどうかしら、と貴方に言ってるの﹂
﹁は
﹁冗談ではないわ│││紹介するのは、私よ﹂
﹁│││││││お前がそんな冗談言うなんて珍しいな﹂
﹁そうね﹂
﹁何だ何だ。女を紹介するとでも言うのか﹂
い﹂
ドSな
﹁そんな甘々ヶ谷君に、私から天使のサービスをしてあげようとしているの。感謝なさ
!
?
41
﹂
感情を示せ
﹁え
かぶ程衝撃の言葉が出てきた気がするぞ﹂
﹁いや、そりゃあ、そうだろ│││││俺としては聞き間違いが真っ先に選択肢に思い浮
﹁愉快な表情をしているわね、困惑ヶ谷君。何だかこちらも愉快になってきたわ﹂
横っ腹を殴り込んだ女は、実に悠然としていた。
したともなれば、一発退場もありうる所であった。
たら確実に落としていたに違いない。こんな高級店でこんな男がそんな粗相をしでか
えていた。食器類を持っていなくてよかったと心から安堵する。手に持っていたとし
眼を大いに見開き、口を半開きにして│││ただいまダムダム弾を叩きこんだ女を見据
困惑の表情を、比企谷八幡は浮かべていた。具体的に言えば、全身が硬直し、濁った
?
ら
﹂
それとも情熱的に
とも無いわよ
?
?
もっと直接的に言った方がいいかし
?
私の柄ではないけど、どうしてもと言うなら言ってやらないこ
い気がするわ。なら、もう一度、言いましょうか
﹁│││痛快な気分だわ。こうも純粋に貴方を驚かせることが出来たのも、随分と久し
感情を示せ
42
?
﹁い、いや。結構だ。十分、理解できた﹂
﹂
?
﹁いや│││││何で、わざわざ﹂
?
そんな回りくどい事を、と言おうとして、
そう先回りされた。
﹂
﹁だって│││貴方、自分の感情なんて、はっきり自覚した事、あるの
﹁││││どういう事だ
?
﹂
所に収まるものよ。だったら、散々抵抗させて嬲って屈服させてあげるわ﹂
﹁苦しんで、苦しんで│││その果てに私の所に収まってくれればいい。どうせ、収まる
﹁││││││﹂
みなさい。私の事を考えて、死ぬほど悶えて恥辱を味わうがいいわ﹂
みたるや、形容し難い恥辱を間断なく味わわされているも同然だったわ。貴方も、苦し
﹁フェアじゃないからよ。私は、散々貴方の事に思考を乱されて苦しんだの。この苦し
綺麗な、眼だ。凛然としているようで温かな力が、そこに内在している。
雪ノ下は、ゆっくりと比企谷を見据える。
﹁はい
比企谷君﹂
﹁さて、私は確かに問いかけをした訳だけど│││別に、解答は今の所求めていないわ、
43
﹁だって、貴方、一先ず自分の感情を脇に置いて考えるじゃない。それがあまりにも腹立
たしいのよ。考える必要もない他人の心理ばっかり慮って、そのくせ感情について一切
合財斟酌しない。傷ついた自分自身を世界から切り離して、まず考える。│││冗談
じゃないわ。今までの貴方の行動の是非は一先ずおいておくわ。けれども、私の恋の
諸々まで、そんな思考で向き合ってもらっては困るのよ。今私と貴方の間にある世界
は、私と貴方しかいない。そこから自分だけ切り離して考えるなんて、何とも滑稽な話
じゃない。許さないわ、そんな事﹂
だから│││この告白は、受け入れてもらう為のものじゃない。
貴方に、楔を打ち込む為のものなのよ、と雪ノ下は言う。
こんな事﹂
ない。ただ貴方は、自分の感情が私に向いているかいないかだけ、それだけを考えてこ
﹁他人も家族も、そして私ですら関係ないわ。言い訳なんかさせない。逃げ道も用意し
の先過ごすの。なかったでしょう
フフン、と雪ノ下は鼻先で笑う。
?
│││声を失うとは、この事か。この圧倒的な存在感を前にして、言葉は何も喉元を
ずっと千葉にいるだろうから﹂
好 き で も 愛 し て い る で も 何 で も。貴 方、暫 く 実 家 に い る み た い じ ゃ な い。私 も、多 分
﹁返事したい時は、いつだって言ってくれて構わないわ。はいでもイエスでもヤーでも
感情を示せ
44
通らない。
て頂戴。言っておくけど、今の私にどんな詭弁も通じないわよ。勘違いの感情に振り回
しいの。余計な事を考えず、自分本意に、勝手に、我儘に、自由に│││私の事を考え
﹁だから、今だけは│││私という存在と向き合う貴方だけは、自分自身を取り戻してほ
そんなもの、雪ノ下雪乃ではない。
いを間違いとして受け入れられない自分自身が│││。
│││何て、無様なのだろうと。自分のその思考が。恐怖に怯えるその姿勢が。間違
けれど、その時はっきり思った事がある。
て﹂
もなく間違い続けた青春が味わわせた苦味をもう一度味わう事になるんじゃないかっ
が。あの時の自分の過ちも、貴方の事も、全てを自覚して、│││私達の、どうしよう
の関係はそのまま自然消滅して│││私、怖かったのよ。もう一度貴方に向き合うの
﹁黙って聞いて│││。あの停滞した、亀裂の入った空気のまま卒業してしまって、私達
そんなことは無いと、言おうとして│││人差し指が、唇に軽く触れる。
﹁いや、﹂
きっと一番負担を背負ったのは、間違いなく貴方だわ﹂
﹁││││││ずっと、貴方には気を遣わせちゃったから。奉仕部の三人の関係の中で、
45
されてわざわざここまでお膳立てする愚か者に私が見えるというなら、真面目に脳外科
か眼科の診療をお勧めするわ。貴方の家族だってもう篭絡済み。小町さんに何かしら
言ったとしても自分で考えろこのゴミとしか返ってこないわ﹂
逃げ道を、塞ぐ。言い訳の城塞は、全てを破壊する。
ここにあるのは、比企谷八幡という存在が一つ立っているのみ。
﹁もし、貴方が私を受け入れるなら、私も貴方を受け入れる。貴方が我儘な感情を抱ける
よう、何処までも協力する。傷ついた自意識も自尊心も、暖めてあげる。貴方の父親が
腹立たしいなら、別に無理に引き戻そうとも思わないし、もし関係の改善を求めるなら
│││そうね、こればかりは小町さんもちょっと協力してもらおうかしら。あの子も、
ちょっとその部分は反省しているみたいだし、矯正│││いえ、関係の改善に協力する﹂
今あなたの眼の前にいる女は、それだけの価値がある女よ 貴方の
にこやかに、雪ノ下は喋る。
﹁さあ、どう│││
感情は、どれほど揺さぶられたかしら
│││これからも、散々揺さぶりはかけていく
?
スに手をかけ果汁ジュースを喉奥に流し込む。
ふぅ、と雪ノ下は一つ息を着く。どこか満足気に彼女は、眼前の男を見やると、グラ
わよ。小波も起こらなかったつまらない貴方の感情にしっかりと波が戻るまで﹂
?
?
﹁メインディッシュが来たわよ、比企谷君﹂
感情を示せ
46
47
豪勢なステーキを中心に、色鮮やかな諸々がボーイに運ばれていく。鉄板の上で、湧
き出た肉汁が躍る様に跳ねている。
│││││当然、味なんぞ覚えている訳も無かったが。
何とも、衝撃的な夜であった。
※
先生。貴方はこう言っていました。
女の自意識は、常に一定であると。客観的基準を秤に、変わらぬ自意識を抱えている
のだと。
半分、正解だと思います。
確かに、自ら抱えた自意識はどう足掻いても変えられるモノでは無かった。
?
女が男にかける客観的な秤とは
?
?
ならば先生、一つ聞いてもいいでしょうか
?
でしょうか
ならば、私があの男を好きになってしまったのは、如何なる指標によって
けれども、結局それを明確に秤にかける客観的な指標なんぞ、この世には存在するの
でしょうね。だからこそ、葉山の様な哀しいカリスマが生まれてしまうのだから。
│││確かに、それを基に判断する人間もいるでしょう。というかそれが大部分なの
能力ですか
学歴ですか
客観的な基準とは何ですか
?
顔立ちですか
?
?
感情を示せ
48
世に溢れる﹁婚活女子﹂なる存在全てが、自らの自意識
弾き出された結果なのでしょうか。そして貴方の様な人間は、過剰な自意識が生み出し
たモンスターなのでしょうか
めているのでしょうか
きっと、違う。
そんな在り方が、女なのでしょうか
?
つめるその先には冷たい合理と基準に支配された数式によって、彼女たちは男共を見つ
の秤の分量を測り間違えた哀れで愚かな者共の群れなのでしょうか。獣の如き目が見
?
十年後、笑うのは私だ。覚えているがいい。それまでに、心折れていなければだが。
変えられないのだ。
ともコペンハーゲン解釈を持ちだし可能性の同時存在を唱えようと、変えられぬものは
どう足掻こうと、貴方が確定させてきた過去は如何なるコペルニクス的転回を用いよう
道を違えた理由をもっともらしく納得したいためにひりだされた飲んだくれの妄言だ。
所詮は、その弁も三十路女の自己正当化の為に吐き出された理論でしかない。自分が
│││まあ、どうでもいい事か。
私はそう思います。
かと理由を付けてそこに基準を持ち込んでしまうかの、違いでしかない。少なくとも、
人は人に恋をする。ただそこから弾き出された結果をあまりに素直に受け取るのか、何
男も女も、きっと変わる事はない。直感主義的に、もしくはロマンティスティックに、
?
ずもって告白の是非による﹁雪ノ下雪乃の﹂心理状態を慮るに違いない。決して傷付け
│││もし、彼の中に在る雪ノ下雪乃のイメージを利用して、告白を行えば、彼はま
いつもいつも、彼は自分を脇に置く。
彼は優しい。人の優しさも、人が傷つく事も、容易には受け入れられないくらい。
│││││最初は、そのイメージを利用する事を検討した。
な、儚い女。それがきっと彼の中に存在する、雪ノ下雪乃であったはずだ。
愚直なまでに真っ直ぐで、それ故余計な荷を背負ってしまって│││常に瓦解しそう
あった。
彼の中に存在していたであろう、雪ノ下雪乃│││そのイメージを破壊する必要が
│││二年間の記憶の空白を、利用する。
無警戒な彼の心の内に、楔を叩きこむ。
だが、それすらも策略の内である。
彼にとっては全てが全て、唐突すぎたのかもしれない。
│││打つべき手は、打った。
ボッチ、思考する。
49
ぬよう、その告白の是非を検討するであろう。
だが、これでは駄目だと結論付けた。
そもそも、彼の事だ。そうなった場合、わざと嫌われる様な行動に出る可能性が非常
に高い。偽悪的な行動で雪ノ下の失望を誘い、告白そのものを自然消滅させる│││そ
んな事だって、十分あり得る。だから、却下。そんな事してしまえば、高校の時と変わ
りはしない。
そう、変えねばならなかったのだ。
彼の事も、そして│││雪ノ下雪乃の事も。
自分の感情を脇に置く男と、愚直故に儚い女という関係を、まずもって、破壊しなけ
ればならなかった。
│││やるなら、徹底的にだ。
あの夜で、きっとあの男の中に在る雪ノ下雪乃は│││新たな楔の礎となり消えたの
だ。
│││あと少しだ。頑張らねばなるまい。
あとは、あの男がこちらに感情が流れてくれるよう誘導するだけ。
こうなれば、もうこっちのものだ。
﹁雪ノ下の心理面﹂における逃げ道を、塞いだ。
ボッチ、思考する。
50
51
※
あの衝撃的な夜から│││比企谷八幡はベッドの上で寝転がっていた。
そこだけ切り取れば別段、何も変わらぬ彼の日常だといえよう。
しかしながら、その表情は、その男らしからぬ百面相といった具合である。一定期間
ごとに悶え、苦悶の表情を浮かべてはゴロゴロとベッドの上を転がっている。
自覚している。
何処の中学生だお前は、と。
│││まあ、これも仕方がない。そう比企谷は思う。
比企谷八幡の恋愛は、まさしく中学の時から止まっているのだから。許容されず、受
け入れてもらおうと足掻いては拒絶され│││遂には、諦めきった地平線の彼方向こう
に存在していた代物が、いきなり眼前に殴り込んできたのだ。
世界が、歪んでいたように感じた。
│││自分の捻くれた性根と、萎み切った自意識が作り出した世界は、何処までも
上っ面と建前で形成された場所だった。偽りの関係性を作り、維持し、労力を割く、何
ら意味の内在しない世界。止まった世界から見える世界は、遠く離れていて、それ故に
視界が広かった。俯瞰して見る人間関係という代物は、その無価値さと無意味さを、痛
い程比企谷に理解させた。
ボッチ、思考する。
52
こんな無意味な代物に痛い目を見てしまった自分を、大いに恥じた。
こんな無意味な代物に受容される事なんぞ、意味なんぞないと諦めた。
諦観によって止められた時は、自分をボッチにした。わざわざ、そんな場所に喜んで
赴く連中を、理解なんて出来なかった。
││││││何故、皆と一緒にいなければならないのだろう。
││││││一人でいることの、何がいけないのか。
今ならば、少しだけ理解出来た気がする。
一人でいる事を望むのが悪い事じゃない。
│││││そう嘯きながら、結局他者を求める心が同時存在する事が、悪いのだ。
他人に期待しないと嘯きながら、結局は奉仕部の関係を求めた心が、雪ノ下や由比ヶ
浜といった人間に勝手に期待する心が、そうして│││勝手に期待を裏切られたと失望
する心が。
そんな自分が痛いほど理解出来て、嫌い嫌いで仕方なかった。
俯瞰して見えていた気になっていたものは、所詮その全体像だけだった。
いざ自分がその関係性の中に存在してしまうと、まるで鏡映しの様に自分が見えてし
まった。
唾棄し嫌悪していた、上っ面の関係でも、求めてしまう自分の心が、その葛藤が。
53
だから、卒業によってそれぞれの道が別たれて│││正直、安心していた部分もある。
これで、元に戻れる。
│││そう、思っていたというのに。
どうして│││今更になって、自分の感情と向き合わなければならないのだ。
こんな代物、嫌いで嫌いで仕方がないというのに。
│││全ての逃げ道を塞いだうえで、彼女はこんなモノと向き合えと、そう言ったの
だ。
なんてひどい女だ。
正直、逃げ出したくて逃げ出したくて仕方がない。
│││この心理まで彼女は読み切っていたのだろう。
余計な逃げ道も詭弁も全て全て塞いだうえであの問いかけを放ったのだから。
│││どうすれば、いいのだろうか。
考える度に、比企谷は悶えた。
※
それからというもの、雪ノ下はごく自然と比企谷宅を訪れていた。
懐く小町、実に楽し気な母親│││││そして、まるで屠殺場の家畜の如く悟りきっ
た眼をしている父親。
雪ノ下は実に自然な風で比企谷の部屋に入りびたり、小町も交えて談笑していた。
れみの視線が返された│││││││あの、何か間違っているんですかね
そんな日々が、一週間続き、そして│││唐突に、メールが来た。
│││明日、デートでも如何かしら
比企谷は、顔を顰めた。
?
?
﹁何で俺の部屋にわざわざ入るんですかね﹂と聞くと雪ノ下からは微笑が、小町からは憐
ボッチ、思考する。
54
帰結を受け入れよ
三月ももう中旬が過ぎ、季節は冬のベールを脱ぎ始めるかと思えばそうでもなく、変
わらぬ肌寒さを残したままであった。
布団の熱を泣く泣く追い払い、比企谷八幡は起床する。
顔を洗い髪をとかし、比企谷はパジャマを脱いで私服に着替える。
│││何だか吐きそうな気分だ。
仕方あるまい。
今日はデートだ。
※
玄関口を開くと、変わらぬ雪ノ下がいた。
デートだからと別に気負うでもなく、普段とそう変わらぬ私服を纏った彼女は、比企
谷を見ると悠然と微笑む。
﹁あら、失礼ね。別に多少遅れても文句なんて言わないわよ﹂
﹁遅れると怖いからな﹂
﹁時間通りね﹂
55
﹂
﹁嘘つけ。お前がそこらのリア充みたいに〝待っている時間も楽しかった〟なんて言う
タマか﹂
﹂
﹁││││││意外と、楽しかったわよ
﹁え
?
│││││冷たい。
雪ノ下はゆっくりと、かつ自然と、比企谷の手を握る。
?
│││││││これ、本当に耐えられるだろうか。
本当にこの女は、感情を揺さぶりに来ている。
まずい│││まずい。
│││その、自然と浮かべられた笑みに、思わず視線がいってしまう。
ふふ、と思わず漏れ出た様な笑みを湛えて、雪ノ下は比企谷の前を歩く。
握るその手は、実にか弱い。それ故に振り払うことが出来ずにいる。
た。
│││動揺した隙を、問答無用で突いてきた。一瞬のうちに主導権を握られてしまっ
やられた、と比企谷は思った。
変わらぬ微笑みを絶やさぬまま、雪ノ下はその手を引っ張っていく。
﹁さあ、行きましょう﹂
帰結を受け入れよ
56
思わず懊悩に暮れる比企谷であった。
それから│││様々な場所を巡った。
自然公園を散策し、喫茶店に入ってお茶を飲み、映画を見て︵猫が主題の映画であっ
た︶、興奮冷めやらぬ雪ノ下に連れられ│││現在いるのは猫カフェである。
周囲が猫に溢れたこの場所は、さながら雪ノ下にとっては楽園か天国か。にゃあにゃ
あと動き回る毛玉を捕まえては膝先に置き、茶も飲まずに撫でている。
﹁まあ、ほら。怒ると爪を立てるし、機嫌悪いとこっちを無視するし、結構勝手気ままだ
﹁ええ。こんな愛らしい生物、嫌いな人なんているのかしら﹂
﹁解っていたけどさ│││││ホントに猫好きなんだな﹂
うんと頷きながら、雪ノ下はもう片方の手で背中を撫でていく。
人差し指でちょいちょいと顎を撫でると、催促する様に猫がその指先を舐める。うん
皆元気だわ。可愛らしい。ちゃんと、愛情を持って育てられているのね﹂
﹁猫カフェって、前見た所はあまり猫に元気がなくて、痛々しく思えたの。けど、ここは
らと表情を崩している。
ら猫を撫でるその姿は、もう何が何やら。何処の誰であったか忘れそうなくらい、にへ
まるで黄泉に至った魂がその傷を慰撫されているかの如く、満たされた表情をしなが
﹁いい││││││場所ね﹂
57
しなぁ。猫﹂
﹁確かにそうね。けどだからといってこの子達から爪を奪いたくないし、いつでも人間
に従うようにしたくもないし、自由を奪いたくもないわ。それも含めて、可愛らしい
じゃない。ちょっと手のかかる所も含めて﹂
貴方と同じよ、と│││実にさりげなくこちらの心に爆弾を落とし込んでいく。
│││││いつからこの子、その手の台詞に関する羞恥心を克服したのん
﹁│││││不意打ちは止めてくれ、頼むから﹂
?
比企谷八幡は、嫌いなのだ│││自分という存在が。
一つ、理解した事がある。
り乱れていく。
│││今、こうして笑う雪ノ下を見てときめく心と、それに暗い影を落とす感情が、入
希望と絶望。期待と裏切り。
喜色に塗れた自意識。そしてその自意識を滅多打ちにされた記憶。
る。
│││その笑みを向けられる度、相反する感情が入り乱れて比企谷の脳内を駆け巡
猫を膝に乗せてこちらに微笑む姿は、実に令嬢じみていた。
﹁断るわ。楽しいもの﹂
帰結を受け入れよ
58
59
いや、正確に言うなら│││他人の中にいる自分が、嫌いなのだ。
自分を好ましく思うのなら、自分は一人でいるしかない。
│││ボッチであるのは、もはや必然だったのだ。
受け入れられない自分を、それでも好きでいたいのならば。
│││他人に受け入れられない事を、まずもって受け入れなければならないのだか
ら。
感情と向き合って、理解できたのはそんなものだった。感情と向き合えば│││他者
を介した感情に内在するものは、何処までも自己欺瞞と自己嫌悪に溢れかえっていた
事。
こんな自分に、人を好きになる事が許されるのだろうか。
感情と向き合った結果│││また新たなる疑問が生まれた。
│││俺は、どうすればいいのだろう。
新たなる懊悩を抱えながら、それでも微笑む雪ノ下を見つめる。
綺麗な娘だ。
│││そして、強くなった。
あの日々の苦味を受け入れて、こうして自分と向き合ってくれているこの少女は、自
分なんぞより遥かに先を進んでいる。
凄い奴だ。
│││そんな娘ですら、自己嫌悪を映し出す鏡にしてしまう、自分が大嫌いだ。
※
そうしてたっぷりと猫と戯れ、もう時刻は夕暮れに差し迫っている。
近所の公園を歩きながら、そんな、彼女らしからぬ実に素直な言葉が聞こえた。
﹁今日は付き合ってくれてありがとう﹂
│││楽しかったわ、と。
きっとその言葉は本心なのだろう。それでも、その言葉を疑ってしまう。
期待しないように。失望しないように。
何だか、泣きたくなってしまう。
﹂
│││これが、どうしようもない自分なのだと、思い知らされているようで。
﹁どうしたの
そんな相反する感情を抱えながら、比企谷は何でもないと、何とか言葉にする。
吐き出したい。けれども吐き出したくない。
雪ノ下が、尋ねる。
?
ちょいちょいと雪ノ下が手招きするその先には、何の変哲もないベンチがある。
﹁比企谷君﹂
帰結を受け入れよ
60
た。
急かすことも無く、相槌さえも打たず。比企谷に身体を預けて、その言葉を聞いてい
ぽつりぽつりと吐き出されていく言葉に、雪ノ下は何も言わず聞いていた。
※
実に、悔しかった。
まって。
│││その一言だけで、決壊する程、今の自分は弱くなっているのだと自覚できてし
無理をするな。
強がるな。
か思う所があったのだろう。雪ノ下はゆっくりと耳元で囁く。
自分が今どんな表情をしているのか、解らない。それでも│││その表情を見て、何
│何とも汚らしい自己嫌悪が浮き彫りになっていく。
そんな事で高鳴る胸が、自分の感情を掻き立てていく。それが自覚できるだけに││
距離が近い。長い黒髪から漂うシャンプーの薫りが、鼻孔をくすぐる。
二人並んで座る。
そういうや否や、彼女は有無を言わさず比企谷の手を引き、ベンチへと誘導した。
﹁ちょっと休憩しましょう﹂
61
言葉が尽きる。
さぞ失望したのかと│││そう思った。しかし、雪ノ下の表情は変わらず微笑んだま
まだ。
そして、
│││と、文字通り実に当たり前のことの様に言った。
﹁そんなの、当たり前のことよ﹂
﹁自分の事が好きで好きで堪らない人なんて、世の中そうそういないわ。なら│││貴
﹂
方は、どんな人間であれば、貴方は貴方を好きになれるの
彼女は、ゆっくりと比企谷と向き合う。
ないじゃない﹂
だって、あるの。│││自分の事が誰より好きなら、わざわざ他人に恋する理由なんて
﹁自分の中に嫌いなものがある、なんてことは、当たり前のことよ。私にだって、貴方に
当たり前の道理を我が子に教えるように。
仮に│││葉山君のような
男になれれば、貴方はその自己嫌悪が解消されるのかしら
?
雪ノ下は、諭すように言う。
?
受け入れるから﹂
﹁言ったでしょう│││私は、貴方を受け入れるって。貴方が嫌いな貴方まで、ちゃんと
帰結を受け入れよ
62
だから、強がらないで、と雪ノ下は言う。
そして、唐突にふふ、と笑んだ。
﹁貴方、気付いてないのかしら│││。貴方が今言った事、告白も同然よ
あ、と比企谷は呟く。
﹂
?
実に幸せそうに、その表情を綻ばせながら│││。
その先の言葉を、ジッと彼女は聞いていた。
﹁俺は│││﹂
﹁何かしら
﹁なあ、雪ノ下﹂
﹂
まあ、それでも│││最後くらい、らしくない事をしてもいいと思えた。
んな情けない部分まで好きでいてくれると言ってくれるありがたい女がいるんだ。
けれども│││少し笑えてしまう。いいじゃないか、これもまさしく自分らしい。こ
何とも、呆気ない。
│雪ノ下に懸想していることの裏返しであり、それはもう告白も同然の行為であった。
同時に吐き出しているのもまた必然である。期待したくないという言葉は、その実││
│││実にその通り。自分の感情をすべて吐き出していけば、当然雪ノ下への思いも
?
63
│││なあ、雪ノ下。人間を規定する一番の要因は何だと思う
│││何なのでしょうね。
│││そいつはな、きっと人間の不可能性だ。
│││不可能性、ですか。
この道以外の道を選べなかった。教師でさえこのザマだ。雪ノ下、笑うなら笑え。
│││無限の可能性なんて、嘘っぱちの詭弁だ。他の道を歩みたいと願っても、私は
││││││││。
年少女は現実を知っていく。無限の可能性という苦悩から逃れる為にな。
たるモノだわな。どれだけ願っても、望んでも、無理なモノは無理なんだ。こうして、少
張ったって、持つ事の出来ないものもある。解決できない事もある。恋なんざ、その最
性を知る為の、大事な時期なんだ。これを俗に〝現実を知る〟とも言うな。どれだけ頑
の中であり得ざる可能性に夢を見て、その可能性に苦しみ、そして│││自分の不可能
れども、皆が皆、その可能性を手に入れることが出来る訳じゃない。青春って奴は、そ
│││そう。私のような教師はな、未来への可能性を生徒に提示する義務がある。け
?
静に始まり、静に終わる。
静に始まり、静に終わる。
64
65
ならば、遠慮なく。
私は豪快に笑ってやりました。ビールで酩酊した意識を引き戻す、心地よい笑いだっ
た。
│││十年越しの仕返しですよ、先生。
│││そうだな、畜生め。今のお前は私を笑う権利があり、そして私は笑われる義務
がある。
│││言い訳ばかりするな、とよく貴方は私の旦那を殴っていましたね。殴ってもい
いでしょうか
実に素直な言葉を、間違っても素直とは言えない雰囲気と表情で言いました。何とも
│││けど、よくやった。よくオとせた。勇気、出せたんだな。
涙を流しながらも、それでもやはりその眼は教育者のモノです。
先生はうう、と涙を浮かべると、私にゆっくりと顔を向けました。
│││貴方の言い訳も聞き飽きましたから。
│││くそぅ、余裕ぶりやがって。
いう事ですね。何処までいっても、子供なんですから。
│││まあ、別に殴りませんが。ま、恋の沙汰は大人になっても別に変りはしないと
│││今この状況の私を殴れるのならばお前は大物になれるよ。
?
静に始まり、静に終わる。
66
カッコ悪くて笑い転げそうですが、淑女らしく我慢をします。何でこんなセリフで笑わ
ねばならないのでしょう。
│││はい。貴方のおかげで。
│││なあ、今幸せか
そう言って、嬉しさ半分、絶望半分の先生の顔を目に焼き付けるのでした。
│││無論です。
はあまり好きではないが、意趣返しには丁度いい。そして│││
私は出来るだけ、満面の笑みを浮かべてやろうと思いました、幸せを見せびらかすの
?
死刑死刑死刑死刑
に舞い、蜂のように死ね
※
平塚静︵
﹂
︵アフター︶
実を結ばぬ烈花のように死ね
歳︶は硬い床の感触と共に意識を覚醒させた。
春もたけなわ、暖かな陽光が辺りを包み込む朝。
﹁五月蝿え手前ぇは童貞だろうがァァァァ
?
アフター
きっとそこには、素敵な未来
ーーーこれより婚姻裁判の判決を下す。
死刑だ
被告、﹃未婚者﹄。被告、﹃平塚静﹄。
判決は死刑
!
お前達は哀れだ。だが︵社会的に︶許せぬ
!!
蝶のよう
に、朝から叩きのめされたかのような気分になる。何だか爆薬付きの銃剣で吸血鬼とナ
も意識を運び込む、腐りきった悪夢がレム睡眠時の脳味噌に展開されていたという事実
とピーナッツ。記憶はなくとも推測は実に容易な光景だ。二日酔いの重石を乗せた頭
横目を見ればそこあるのは、空いたビール缶が複数に貰い物のウィスキーに裂きイカ
??
!
!
!!!
!
!
67
チス相手に乱舞したい気分だ。
私の自意識よ、色々そろそろ諦めろ しかして自意識もこう言っているようだ。諦
!
!
ただーーーその先輩自身の人格に起因する感情が屹立し爆発したと言ってもいい。
時脇に置いて素直に祝福するだけの度量は持っている。
いや、それだけならばまだいい。彼女とて、その事実に対しての複雑極まる感情を一
教職員の先輩が結婚した。
平塚静は荒れに荒れていた。
※
そこには平塚静という雪原の地平があるのみである
何もない。
諦観と悲観の果て、そこには何があるのだろう。
めることも諦めろと。
は
それは、私の中に辛うじて存在している女としての自意識の残滓なんだろう。ふははは
に気を使う必要もない。なのに私は心の中で誰に許しを乞うているのだろう。きっと
くらい、引きこもって現実逃避したっていいじゃないかクソッタレ。どうせ一人だ。誰
何だか死にたい気分になってもう一度不貞寝に洒落込む。今日は休日だ。こんな日
﹁・・・寝よう﹂
きっとそこには、素敵な未来?(アフター)
68
69
ーーー全く、結婚した人はすぐに家に帰っちゃって。生徒とどちらが大切なんだか。
ーーー自分の子供なんかできたから、思慮分別が出来なくなるのよ。
﹂なんて言われ
どれもこれも、酒に任せて吐き出された言葉である。三十路過ぎたお局の僻み混じり
の台詞を吐いた舌も乾かぬうちに、﹁平塚先生も・・・ほら、頑張って
※
私は、アレ以下なのでしょうか
神様、答えて下さい。
暴れ出し心理を抉る。胸が痛くて死にたくなる。
一つ溜息。そして、涙。記憶の濁流が流れ込む。時間の辻褄をなくしていく。感情が
いる。
いに飲み大いに荒れた。記憶はない。しかして今日の自身の状態が何よりも証明して
ひきつくコメカミを抑えながらぎこちない笑みで何とか応答し、その場を去ると、大
お局、死すべし。
た日には怒りのボルテージがアンデス山の頂に至らんばかりに成るのも仕方あるまい。
??
時刻はもう夕刻だ。
外に出た。
そうして何だか悲しくなって、悲しみを洗い流す手段も見つけられぬままフラフラと
?
腹が減った。
酒も飲みたい。
そんな感情が赴くまま、平塚静は街を歩く。
夜の街はいい。闇が一人を包んでくれる。寂寥を隠し、慰めてくれる。ならば今夜も
慰撫してもらいたい。アルコールの酩酊の力と共に、記憶の汚泥を流しておくれ。
トボトボと行きつけの居酒屋に歩いて行くとーーー何やら見覚えのある後ろ姿が見
えた。
猫背にアホ毛。
そしてーーー振り向いた姿に据えられた、二つばかりの腐った瞳。
一つ思う事がある。
なぜ逃げ出しているのか
理由と、その因果が結論として脳内に結びついた瞬間ーーー平塚静の脳内ボルテージ
何故目も合わせたくないとばかりに逸らしたのか。
?
アレは平塚静の教師人生の中でも類い稀なる問題児であった腐れ男だ。
間違いない。間違えるはずもあるまい。
その男は彼女と目が合うと凄まじい勢いで目を逸らすと脱兎の如く走り出した。
﹁あ﹂
きっとそこには、素敵な未来?(アフター)
70
は殺意と怒りで真っ赤に燃え上がった。
﹂ かくしてーーーかつての教え子と再会を果たしたのであった。まる。
それはさながら捨てられた女が追い縋るようであった。
追いかける側も追いかけられる側も涙を浮かべて走り出す。
鬼神の如く走り出した彼女はもう止まらない。
﹁逃がさんぞ、比企谷ァァァァ
!!
71
な事なのだろう。
しかしてこの谷底、先が見えない。
私は何処で道を踏み外したのだろうか
未だ私は延々続く下り坂の道程にて、深い霧の中立ち竦んでいる。
ーーー先生、それは延々ではなく永遠の間違いではないでしょうか
たいのは﹁延々﹂。お間違いないよう宜しくお願い致します。
あげる。おっと、心中とはいえ教育者にあるまじき言葉であった。反省反省。私が言い
心の何処かから聞こえてくるその声に私は喧しいぶち殺すぞと実に汚らしい言葉を
?
三十路という人生の岐路を以て、これより新たなる山へ登らねばならぬというのに。
?
事ばかりが人生ではあるまい。下り坂を揚々と歩き続けることも、人生ではきっと必要
現在の職業に不満もない。だからこそ、今の私は谷に下っている最中に違いない。いい
私の人生、何処までも素敵な上り坂であったのだろう。好きなように生きてきたし、
いい言葉だ。人生、上り坂と下り坂の繰り返しだ。
人生、山あり谷あり。
未来へ・・・
未来へ・・・
72
と は い え ー ー ー こ の 果 て し な く 続 く 下 り 坂 の 果 て に 何 が あ る の か。自 身 で さ え も
解っちゃいないのだ。
何処ぞのガリラヤの湖上を歩きし神の子はこう言っていたという。我等が創造主は
初めから男と女を創り、それ故男と女は必ず出会い寄り添い一心同体に成りえるのだ
と。
果てしなく明快な運命論だ。運命の赤い糸は、創造主がわざわざ私を創った時に設置
してくれたものであるという。ふはははははは。流石は身内に裏切り者を抱え、銀貨三
十を以て処刑された男だ。創造主たる何者かも、ちんたら七日もかけて世界を作り上げ
様々な運命に導かれ谷底へ続く道を歩く私はさながら
はたまたそのままお釈迦の世界へフェードアウトして解脱とともに悟りでも
た際にうっかり私専用の縁を結び忘れたとみえる。それとも私は呪われたユダの血統
なのか
開けと言うのであろうか
﹂
﹁一番、人としてこう、悲しくなる時って何だと思う、比企谷
※
﹂
出てこい。貴様らのどてっ腹に一撃を叩き込んでくれるーーー。
さあ、神でも仏でも十字架に括られた髭野郎でも何でもいい。私をこうした責任者よ
ニューシネマの破滅へと向かうカウボーイか。
?
?
﹁さ、さあ・・・
?
?
73
﹂
﹁ハッピーバースデーという言葉に殺意を覚える瞬間だよ﹂
﹁えぇ・・・
﹁・・・笑えよリア充﹂
﹁・・・﹂
チをしてくれと頼まれることも少なくない﹂
今年結婚するんですと溌剌と報告する後輩を何度見てきたことが・・・。そして、スピー
﹁もう皆が遠慮がちな視線を私に向けるし、新入りの指導もするようになった。先輩、私
﹁は、はあ・・・﹂
う。私ももう中堅となった﹂
﹁三十路越えれば、もう若手なんかじゃないさ。スポーツの世界でも教員の世界でもそ
﹁・・・あの、先生﹂
れにゃならんのだ﹂
がハッピーだ。人生は有限で、その期限が刻々と迫る中どうしてその節目節目で、祝わ
﹁何がハッピーだよ・・・。人生のデットラインに遂に到達してしまったというのに、何
?
﹁理不尽
﹂
﹁締め上げたいからそう言っているんだ
!!
﹂
﹁笑ったら確実に締め上げるでしょう、先生・・・﹂
未来へ・・・
74
!
追いかけ追いつき無事制裁を加えると、平塚静は意気揚々と元教え子と共に居酒屋へ
入った。その後は実に比企谷の予想通りであった。愚痴と不満の濁流が流れ込むよう
にアルコールに乗じて吐き出されていく。こうなる事が解っていたから比企谷は逃げ
出したのであり、捕まったからにはあらゆる理不尽を覚悟して臨まねばならないのであ
る。
﹁・・・あの、雪ノ下呼びましょうか
﹂
?
﹂
﹂
﹁・・・ほら、貴方も俺を半分殺すつもりで奉仕部のあいつの所へ連れて行ったでしょう
﹁お前は恩師を殺したいのか
まれる。まるで万力に挟まれたかのように強いし痛い。
で世話になったみたいだし・・・。そう思いスマホを取り出した瞬間ガシリと手首を掴
何となく、この場に召喚した方がいいのではないかと思った。ほら、あいつもあいつ
?
め・・・﹂
﹁畜生・・・お前はいいよな、大学卒業して何年かすれば結婚だろう・・・。クソッタレ
75
んだ。オーバーキルするつもりか﹂
ティカルヒットで私は殺される。もう今100パーセント近くでいっぱいいっぱいな
﹁半 分 ど こ ろ で は な い。今 あ い つ を 連 れ て き て し ま え ば、1 5 0 パ ー セ ン ト 近 い ク リ
?
﹁いやもうそれほとんど死んでるんじゃ・・・おごぅ・・・﹂
﹁皆まで言うな。お前も死ぬぞ﹂
﹂
うぅ、とテーブルにへたり込む平塚先生は以外とかわい・・・くないなぁ。あざとい
﹁アンタが殺しにかかってんじゃないですか・・・
!
あざといと後輩に散々言ってきたが、うん、愛嬌は大切だよね・・・。眼前で呑んだく
﹂
れているこの人は欠片も愛嬌がないもの。
﹁雪ノ下から、私の事は聞いたか
﹂
﹁ええ、まぁ・・・﹂
﹁何と言ってた
?
﹂
!
違いない。
女の心根は解っているぞ。散々この男を落とし込む際に心の奥底から罵倒していたに
彼女は奥歯を噛み締めながら喉奥から溢れ出んとする言葉を必死に飲み込む。あの
﹁くそう、いい気になりおって・・・
﹁あの人、これまでの人生何してたんだろうと言ってましたね・・・﹂
?
﹁ありがとうございます﹂
﹁・・・﹂
﹁・・・自分の背中を押してくれたのは先生だとも、言ってました﹂
未来へ・・・
76
﹁ふん・・・﹂
比企谷のその言葉に、あからさまに彼女はそっぽを向いた。
﹂
?
今度は向き合えと私はあいつの尻を引っ叩いただけさ。そこから、見事お前を落とした
死になってその関係を壊さないように、付かず離れずでやってしまった。だからーーー
﹁お前は、お前の感情と向き合う前に卒業してしまった。奉仕部の連中は皆そうさ。必
﹁・・・そうですね﹂
理解しようとすると、やはりそれは歪なものにしか見えなくなる﹂
るんだ。それと同じだ。感情があって、心理がある。感情を置き去りにしたまま、人を
﹁感情は、メカニクスを動かすエネルギーだ。エネルギーがあるから、エンジンは駆動す
﹁・・・﹂
はその根本を理解できていなかった﹂
した視点からどういう風に人は動いているのか、そのメカニズムを理解できても、お前
﹁いつか言ったな。お前は人の心理は解していても、感情を理解していないとな。俯瞰
﹁・・・はぁ﹂
﹁・・・お前の面倒臭さは、お前よりも解っていたつもりだ﹂
﹁そうなんですか
﹁私は十中八九フられると踏んでいたがね﹂
77
のはあいつの手柄だ﹂
﹁・・・感謝してます﹂
前らの親にはなれんし、完全な干渉も出来ん。私が出来るのは、精々ちょっと背中を押
﹁その必要はないさ。教師とは、何処まで行っても教師でしかない。どう頑張ってもお
すだけだ。それが、仕事だ。そう在りたくて、教師になったんだから﹂
﹁・・・さいですか﹂
﹁ああ。お前も、中々いい顔するようになったじゃないか。その眼は相変わらずだが﹂
﹁人間、治せないものもあるって先生なら理解できてーーーがふ・・・﹂
﹁そうだな。お前のその発言でよく理解できたよ﹂
ーーーまあ、何だかんだ言っても。
教え子がいい道を辿っているのであれば、それはそれで幸せに思う平塚静なのであっ
た。
※
﹂
?
﹁それはそうでしょうね。変わらないから結婚できないのよ﹂
﹁変わってなかったな、あの人・・・うん、本当に﹂
﹁あら、それは実に愉快じゃない。どうだったの
﹁ーーーいや、すまん。本当に偶然、先生に会ってな﹂
未来へ・・・
78
﹁あの・・・一応アレでも俺の恩師なんだけど・・・﹂
﹁口に出して言った方がいいかしら
﹁・・・いや、勘弁しておく﹂
﹂
だから、心中で一つ言葉を唱える。
て決められたものでもないさ、うん。
いい先生だ。いつか、きっと幸せが訪れると信じているさ。うん。それに幸せの形だっ
まぁ、結婚には色々向いていない人であろうけど、ちゃんと生徒を慮ってくれている
あの人がいなければ、この日々もきっとなかったんだから。
ーーーそりゃあ、感謝もするさ。
鼻先を掻きながら、敵わないと一つ溜息。
勝ち誇ったような笑い声が、通話越しに聞こえてくる。
?
﹁へぇ。そりゃまた何で・・・﹂
﹁まぁ、私も一応感謝しているのよ。これでも﹂
を聞き咎めんと電話を掛けたのだという。
スマホ越しに、雪ノ下の声が聞こえる。ラインの返信が遅れていた為通話でその理由
﹁ごめんなさいそれは勘弁してあげて下さい﹂
﹁あら、申し訳ないわね。今度直接、私の口から伝えてあげるわ﹂
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未来へ・・・
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ーーー先生、ありがとう、と。
猫は可愛らしくも残酷だ。彼等はネズミやゴキブリを見ると、前足で幾度となくはた
それは│││例えば、雪ノ下陽乃などがその代表となるのであろう。
それが形容詞と化した瞬間より、悪辣な比喩として君臨する悪魔の言葉となる。
自由奔放、気紛れで悪戯好き│││猫は主語としてならば幸せな言葉となるが、こと
ていなければならない。
しかして、世の中│││往々にして猫ではなく、
﹁猫の様な﹂何者かがいる事も理解し
猫の素晴らしさなんぞ、今更筆舌を尽くして再認識を促すまでも無い。
まあ、それは別にいい。
れる。
思ったものだ。タイムマシンが発明されたのならば、まずもって連中を火炙りにしてく
いた時には貴様等の腐りきった認識を生み出す脳味噌を叩き潰してやろうかと本気で
も取り扱っている。魔女の使徒だと虐殺されていた時代もあったらしいが、その話を聞
自由奔放でありながら可憐なフォルムを湛えた彼等は、愛らしさの象徴としてどの国
猫はいい。その愛らしさは言葉にするまでも無い。
襲来は突然に
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きながらいたぶる。死なぬ様に、壊れぬ様に、されど連中が逃げ回る様に│││ゆっく
りじっくり。
それと同じだ。あの女はお気に入りの玩具をコロコロと掌の上で転がした挙句、完膚
なきまでに叩き壊す│││そんな荷厄介な性質を持っている。
ケラケラと笑いながら我が家に居座るこの女は何処までも邪気の無い笑顔で妹に笑
﹁ひゃっはろー、雪乃ちゃん﹂
いかける。
こめかみ辺りに血流が集まる感覚が走る。
﹁言いたい事は山ほどあるのだけど、取り敢えず│││さっさと消え去って頂けないか
?
﹂
?
﹂
?
﹁うっふっふー。いいのよ雪乃ちゃん。お姉ちゃんはそれでもいつまでも雪乃ちゃんの
﹁むしろ、嫌わない要素があるのならば教えてほしい位なのだけど﹂
ん、私の事嫌い
﹁ひっどーい。折角久しぶりに可愛い妹を弄│││││遊ぼうと思ったのに。雪乃ちゃ
部外者かつ不法侵入者だからよ。それ以上の理由が必要かしら
﹁私がこの物件を契約している人間でかつ、その所有権者であり、そして明らかに貴女は
﹂
しら
﹂
﹁何で
?
襲来は突然に
82
事が大好きだから
﹂
下雪乃は荷を下ろし、そのまま玄関口へとつかつかと歩き出した。
│││まるで部屋に入り込んだ蛾でも見るかの如く顔を顰め一つ溜息を吐くと、雪ノ
腰掛けるソファに堂々と寝転がりながら、実に機嫌よさそうにそう眼前の女は嘯く。
!
﹂
?
わー。雪乃ちゃん、リッチー﹂
?
の先にあるキッチンへ
﹁ほうほう││││││ほう
!
﹁│││││お揃いの茶碗﹂
﹁な、﹂
﹁│││││お揃いのティーカップ﹂
突如としてしたり顔でうんうん頷く姉を、気味悪げに睨み付ける。
﹁何よ││││﹂
﹂
ふと、│││雪ノ下陽乃は何かに気付いた様に周囲を見渡す。その視線は、リビング
﹁ん││││
﹁││││││貴女には、関係ない話だわ﹂
﹁別の場所ってどこなのよー。ホテルでも行くつもり
﹁我が家が安息の地でなくなったのなら、仕方がないもの。別の場所に行くわ﹂
﹁ちょ、ちょっと。雪乃ちゃん。何処に行くのよ﹂
83
﹁ちょ、﹂
﹁うふふふふ。そうか、そうかー。これは、│││愉しい事になりそうだねぇ。ね、雪乃
ちゃん﹂
﹂
﹁何を想像しているかは解らないけど、これは、違うのよ。ええっと│││﹂
﹂
﹁誤魔化す雪乃ちゃん、可愛いー。けど無駄だよー。それ位解るでしょ
﹁く││││││
?
﹁ふ、ふん。ええ、そうよ。私には今交際している人がいますが
﹂
何かいけないとでも
?
し沼に沈んだ、って感じだけど﹂
てー。│││││ま、静ちゃんに関しては先を越すというよりかは、勝手に自分で底な
﹁雪乃ちゃん、いけないんだー。お姉ちゃんはおろか、静ちゃんにまで先を越しちゃっ
これはまさしく一生の不覚かもしれぬ。そう雪ノ下雪乃は悔恨と共に思う。
!
そう言った。
半ば自棄になったのであろうか。実に見事な開き直りを以て、居丈高に雪ノ下雪乃は
?
いきそう﹂
としていたのね。うーん、実に面白そうだ││││││よしよし。当初の計画が上手く
﹁まあ、相手なんて聞くまでも無いよねー。そっかー。だから、速攻でこの家から出よう
襲来は突然に
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そう言うと│││雪ノ下陽乃は、バッグから何かを取り出した。
﹂
怪訝そうな表情で、そのブツを雪ノ下雪乃は、眺める。
﹁││││それは、何かしら
﹁猫耳﹂
買っちゃった♪﹂
﹂
﹁あ、そう│││それで、私が何を以てこれを着ると
﹁猫好きでしょ
﹂
﹁それが、私がこのいかがわしい服を着る事とどんな因果関係があると
?
﹂
?
﹁いや│││こんな服着たら、きっとセクシーで可愛いだろうな、って。それこそ意中の
﹁何が言いたいの
に力が入っていく。
へぇ、とか、ふーん、とか何やら物言いたげにうんうん頷く姉を見て、ますます眉間
?
?
﹁へぇ、着ないんだ│││とっても可愛いのに﹂
﹂
﹁新宿裏通りの怪しいお店。雪乃ちゃんにきっと似合うだろーなー、って思って速攻で
﹁こんなの、何処で手に入れたのよ││││││﹂
﹁それにねー、これは尻尾付きのミニワンピ﹂
そう。それは、カチューシャに猫耳がくっついた、例のアレであった。
?
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﹂
男の子がイチコロになる位﹂
﹁それが
﹁ひ、卑怯よ、姉さん。よりによって、人様のこ、恋人を人質に使うなんて││││ ﹂
その瞬間を、雪ノ下陽乃は見逃さない。
身体が、固まる。
﹁いいのかなー│││││私が、この服を着込んで、比企谷君の家に襲来しても﹂
?
!
﹂
│││全てを賭けて﹂
﹁人質なんて、人聞きの悪い。雪乃ちゃんがその恋人を真摯に信じてあげればいいだけ
じゃなーい﹂
﹁ぐ│││││
﹂
﹁うふふ││││さて、雪乃ちゃん。ゲームをしましょうか
﹁ゲーム││
?
!
猫耳を、一日中雪乃ちゃんに着てもらう﹂
﹁簡単な事。ゲームに勝てば、私はおとなしくこの場を去る。敗ければ│││この服と
?
またしても、硬直。
﹁あら│││雪乃ちゃん、自信ないの
﹂
私がしなければならないのよ、と声に出す前に│││鋭い舌鋒が斬り込んでくる。
﹁何でそんな事を│││││││﹂
襲来は突然に
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?
﹁自分の恋人を引き合いに出されて、ならばと折角勝負事で決着を付けようとしたとい
うのに││││まあ、仕方ないかー。雪乃ちゃんも、比企谷君と付き合えてすっかり腑
抜けになっちゃったかー。こんなんじゃあ、遅かれ早かれ誰かに掠め取られるかもしれ
ないなー。しょうがないねー。身体を見ても、姉と妹の力の差なんて歴然だもんねー﹂
つつく、つつく。
虎穴を、実に愉し気に。
比企谷八幡を餌に、彼女のプライドに唾をかけ│││見事な手練手管で、穴から引き
摺り出す。
こうなってしまえば、いくら聡明な彼女と言えども│││その見え見えの罠に飛び込
む他ないのだ。
│││うふふ。やっぱり、可愛い雪乃ちゃん。
勝負とは、その準備段階で決しているのだ。
│││虎穴の先に、致死の罠があるなぞ理解できていない妹を、憐れむ事もせず。
姉は、嗤う。
﹁そら来た│││﹂
叩き潰してあげる﹂
﹁│││上等じゃない、姉さん。もう二度とそんな口を叩けないように、完膚なきまでに
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襲来は突然に
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壮絶な笑顔と共に、雪ノ下陽乃は妹を見た。
羞恥とプライド
敗北。
まさしく、疾風怒濤の如き敗北であった。
雪ノ下雪乃は全身を震わせ、その現実を受け入れられずにいた。
まったようなものだ。この妹は冷静であればあろうとするほど、視野狭窄に陥る傾向に
感情を昂らせ、冷静さを奪う。それさえ達成できれば雪ノ下陽乃にとって勝利は決
サマの難易度が非常に低いゲームでもある。
│││双方とも、感情の変化を悟られれば敗北に直結するゲームであり、尚且つイカ
勝負をした。
ババ抜きとポーカー。いつの間にやら用意していたトランプを片手に雪ノ下姉妹は
情がコロコロ変わるもの﹂
﹁雪乃ちゃんは聡明だけど、感情を隠すのが相変わらず下手ね。ちょっと怒らせれば、表
し、指先をわきわきと動かしている。
うふふふふふふふ。雪ノ下陽乃は悪魔の如き笑い声を上げながら、掌をぐるぐる回
﹁│││勝負を受けた時点で、貴女は敗けていたのよ、雪乃ちゃん﹂
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ある。それでいて極度の負けず嫌い。自分にメリットの無い戦いであろうと、彼女の山
稜の如く高いプライドと自意識を上手く突いてやれば、勝負には実に簡単に乗ってくれ
る。表面上、冷静を装っているが、もうこの状況そのものが冷静さを喪ってしまった証
左である。
全身をしたたか震わせ、拳を硬く握りながら、雪ノ下雪乃は涙を浮かべて姉を睨み付
ける。普段であるならば女傑の如き迫力ある睨み顔も、こうなってしまえば子猫も同
然。一切の怖さが無い。
猫耳に、尻尾付きミニワンピ。
﹁さあ、雪乃ちゃん│││どうぞ﹂
そのあらゆる羞恥をふんだんに詰め込んだかの如き恐ろしい衣装が、眼前に堂々たる
存在感を放ち存在している。
﹁ね、姉さん││││今日、私は比企谷君と会う予定があるの│││。だから、日を改め
自信
!
て│││﹂
﹂
!
た。
にこやかな笑みを以て、悪魔の如き表情で│││雪ノ下陽乃は残酷に、そう言い切っ
もって、雪乃ちゃん
﹁あ、なら丁度良かったじゃない。比企谷君もきっと喜んでくれるに違いないよ
羞恥とプライド
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﹁着替えなさい﹂
ちょっと、あり得ないくらい可愛い
なにこれ
﹂
!
※
﹁か││││可愛い
!
弱々しい声が、部屋の中で木霊していく。
﹂
そろそろ着替えて│││﹂
?
私との約束は〝一日〟その姿でいることでしょ
?
乃ちゃん
もうお姉ちゃんは帰っちゃうねー
﹂
!
雪ノ下陽乃は、ただそれだけ言い残すとマンションを去った。
!
﹁あー、可愛い││││今日はとってもいい気分で眠れそう。それじゃあ、グッバーイ雪
ニコリと眼前の姉は笑む。
何をおかしなことを言っているのかしら│││そう実にわざとらしく息巻きながら、
﹁え
?
﹁ね、ねえ姉さん。もう、満足したでしょう
昂奮半ば朦朧としながら、雪ノ下陽乃はその姿を携帯で撮影していく。
かべて地面にへたり込むその姿も、実に嗜虐心が刺激される。
を強めている。│││そこから垂れさがる尻尾もまた強烈なアクセントだ。涙目を浮
存在感を際立たせる。丈の短いワンピースは純白であり、何処となく少女らしさの演出
黒のカチューシャは彼女の艶やかな黒髪に紛れその存在を消し、その分猫耳としての
その姿は、雪ノ下陽乃の脳味噌からも冷静さを奪うに足る破壊力を持っていた。
!
91
羞恥とプライド
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嵐が通り過ぎた後、そこには確実に痛々しい爪痕が残っていた。
猫装束を纏った、一人の女。
雪ノ下雪乃︵20︶。
あまりにも痛々しい。成人女性にあるまじき黒歴史の一ページであった。
あまりの羞恥心に、彼女は眩暈と共に床に伏した。
│││さて、どうするか。
本日、雪ノ下雪乃は出掛ける予定がある。一人ならばよかったものの、残念ながら同
伴 者 と 約 束 し て い る。一 週 間 前 か ら 決 め て い た │ │ │ 自 分 自 身 で も 楽 し み で 仕 方 な
かった、デートの日である。
雪ノ下雪乃は、原則として虚言が嫌いである。
それでいて、不誠実な振る舞いも大嫌いである。
彼女の凄まじいプライドの高さは、高い自意識とある種の潔癖症じみた完璧主義が同
居している。不誠実な振る舞いを行う他者も嫌いであるならば、そんな振る舞いをして
しまう自分も大嫌いなのだ。
故に│││約束を反故にする、という不誠実極まりない行為を、彼女は余程の事が無
い限り取る事が出来ない。
それは雪ノ下陽乃との約束もそうであるし、比企谷八幡との約束もそうである。自分
の慢心ゆえに付け込まれた勝負の条件を勝手に破棄することも出来なければ、こんな実
に下らない│││要は、自分が死にそうな程の羞恥心故に約束を反故にする事も、また
出来ない。
厄介な性格だ。
こんな条件、破った所でどうとでもなるというのに。姉はもうここには存在しないの
だ。どうせこれらを脱ぎ捨て出掛けた所でばれやしない。
﹂
それでも、それでも。
彼女は│││。
﹁くっ││││││
うふふふふ、と実に底意地悪い笑みを雪ノ下陽乃は浮かべていた。
※
│││つくづく、難物極まりない性格であった。
彼女は、脱ぐではなく隠す事を選択した。
れないわ。隠すのよ、雪ノ下雪乃│││﹂
も付いていたはずだから、これで頭も隠せるかしら。もう春だけど、そんな事言ってら
﹁デニムは││││あった。これを上に着て、冬物のコートはまだあったはず。フード
羞恥で目元を歪ませ潤ませ、クローゼットを開ける。
!
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視線の先には、いつまでも愛らしい、自らの妹の姿。
﹁やっぱり、そうなるわよねぇ﹂
彼女は、マンションから顔を真っ赤にしながら出ていく雪ノ下雪乃の姿を眺めてい
た。
ふふふ﹂
﹁自分で受け入れた条件を、何があっても反故にできる性格じゃないものねぇ。うふふ
まるで、何処かのお伽噺の様。狐が、妖精が、もしくは猫が│││その正体を悟られ
んと、必死になってその姿を隠しながら、人間と出会おうとしている。
そう、どうにもならぬ思考を胸に、彼女は満面の笑みを浮かべていた。
ああ、今日は何とも楽しい一日になりそうだ│││。
ビデオカメラをカチャカチャと操作しながら、享楽をその瞳に浮かべる。
﹁気にせず、デートを楽しめばいいのよ、雪乃ちゃん。大丈夫。私も楽しむから♪﹂
羞恥とプライド
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