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イザヤ書42章18節-44章23節 「イスラエルを贖った主」
1A 聞かない民 42:18-25
2A イスラエルの創造者 43
1B 救い主 1-21
1C 守られる方 1-7
2C 諸国の前での証言 8-13
3C 新しい贖い 14-21
2B 呼び求めないイスラエル 22-28
3A 偶像との対比 44:1-23
1B 初めからおられる方 1-8
2B 偶像の空しさ 9-20
3B 罪の赦し 21-23
本文
イザヤ書 42 章 18 節からです。40 章から、主はイスラエルの民、また私たち信者を励まし、慰め
ておられます。「見よ。あなたがたの神を。(40:9)」という呼びかけから始まり、神がいかに偉大な
方であるかを示しておられます。異教の国バビロンの中にいたユダヤ人は、その圧迫された状況
の中で、主に立ち帰ることさえはっきりしなくなっていたことでしょう。そこで主は、「わたしこそが神
である。偶像は空しい。」と何度も言われます。そして、これからご自身が神であることを、バビロン
を倒し、ユダヤ人を解放するペルシヤの王クロスを起こすことを前もって伝えることによって、示さ
れようとされています。
イスラエルに対する神の呼びかけは、「わたしのしもべ」であります。神が造り主であり、私たち
は造られた者たちなので、神の僕なのです。そして、これからの大きな動向、クロスがバビロンに
対して戦い、バビロンが倒れていくにあたって、ユダヤ人は恐れることになります。一体、自分たち
はどうなるのだろうか、と。しかし、主は前もって、「恐れるな、わたしがあなたを義の右の手で守り、
あなたを助け、あなたを強める。」と言われました。主の僕なのですから、これから起こるあらゆる
ことは、自分の責任ではなく、神の責任なのです。
そして主は、イスラエルの理想として、メシヤの姿をお見せになります。この方も主のしもべであ
りますが、いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない方、そういったへりくだり、優
しい方法で諸国にまで神の公義を広げられます。そこで、暗闇の中にいた人々が解放され、そし
て世界各地で主をほめたたえるようになるのです。そして、イエス・キリストがよみがえられ、その
福音が世界に広まっている今、これらの預言は進行中であることが分かります。しかし、当のイス
ラエルの本人たちが、きちんと応答していないというのが現状なのです。
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1A 聞かない民 42:18-25
42:18 耳しいた者よ。聞け。盲人よ。目をこらして見よ。42:19 わたしのしもべほどの盲目の者が、
だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳しいた者が、ほかにいようか。わたしに買い
取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。42:20
あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。
主のしもべである、イエス・キリストがこの地上に来られて、確かに盲人の目を開け、悪霊につか
れて囚われの身になっている人を解放し、死者をよみがえらせることもされました。その中で光を
見る人たちが数多く出てきました。しかし、肝心なイスラエルの民自身が、それに応答しなかった
のです。「多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。」と主は言われて
いますが、イエス様はカペナウムやベツサイダ、コラジンの町に対して、数々の力あるわざを行な
われたのに、悔い改めなかったことを嘆いておられます(マタイ 11:20‐24)。
42:21 主は、ご自分の義のために、みおしえを広め、これを輝かすことを望まれた。42:22 これは、
かすめ奪われ、略奪された民のことであって、若い男たちはみな、わなにかかり、獄屋に閉じ込め
られた。彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、奪い取られても、それを返せと言う者もい
ない。
主が願われていたのは、ご自分の義を輝かすこと、御教えを広めることであります。ところが、そ
れに聞く耳をもたなかったので、彼らは略奪されました。バビロンによって捕え移されます。また、
イエス様の時代には彼らは、ローマに捕え移されました。
42:23 あなたがたのうち、だれが、これに耳を傾け、だれが、後々のために注意して聞くだろうか。
42:24 だれが、ヤコブを、奪い取る者に渡し、イスラエルを、かすめ奪う者に渡したのか。それは
主ではないか。この方に、私たちは罪を犯し、主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聞き従わ
なかった。42:25 そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあた
りを焼き尽くしても、彼は悟らず、自分に燃えついても、心に留めなかった。
これら、バビロンやローマに奪い取られていったのは、他でもない主ご自身なのだということであ
ります。ここの理解はとても大切ですね、エレミヤ書で詳しく学びますが、ユダの国においてバビロ
ンの脅威にどう対抗するかということについては多くの関心事でありました。しかし、主はバビロン
というものを通して、実は自分自身が主のほうに向いているのかどうか、それを知ってほしいと願
われていたのです。24 節の後半に、「この方に、私たちは罪を犯した」とあります。これらの災いを
起こしているのはもちろん、この奪い取る者たちなのですが、しかし、それを積極的に許されてい
るのは、主なる神ご自身なのです。
私たちは、このことに気づかないといけません。今、自分の周りで起こっていることについて、そ
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の事柄の是々非々を私たちが問うことが神の関心事ではないのです。むしろ、それらのことを神
が起こるように許されているのは、私たちが主に立ち帰るためであります。
2A イスラエルの創造者 43
1B 救い主 1-21
しかし、主は驚くべきことを行われます。主は、ユダヤ人を裁かれましたが、ご自分の側で「わた
しはあなたがたの罪を赦した。」と一方的に宣言して、それから新しい御業を行なわれるのです。
私たちの神は造り主であられ、私たちに新たなものを造られることを願っておられます。そして過
去に犯した過ちについて、主ご自身が率先して処理してくださり、つまり罪を贖ってくださり、ご自
分の恵みの働きを先んじて行なわれるのです。
バビロンに捕え移して、70 年後に彼らを帰還させるその業は、ちょうどかつて、主がノアを通し
て行なわれたことと似ています。主は、水によって地上を裁かれましたが、ノアの捧げた全焼のい
けにえの香りをかがれて、「わたしは、消して再び人のゆえに、この地をのろうことをすまい。人の
心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。(創世 8:21)」と言われました。そして、その印とし
て雨の降った後に出てくる虹によって、大洪水による裁きは行なわれないと一方的に決められた
のです。主は新しい始まりを造りだすことに、もっと関心がおありだからです。今日はこの部分をじ
っくり学びます。
1C 守られる方 1-7
43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形
造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を
呼んだ。あなたはわたしのもの。
午前中お話ししましたように、主は彼らが主の道に歩まないことで、それで主から見捨てられる
ようになるということはないのだ、ということを保証しておられます。まず、主が彼らをお造りになっ
たのです。ご自分が造られた作品をご自分で完成したいという情熱を持っておられます。そして、
主は過去の罪については、「贖ったのだ」と宣言してくださっています。主が、対価となるものを支
払って、イスラエルをご自分のものとしてくださったのです。他の誰も、イスラエルに触れる権利を
持っていません。そして主は、ご自分の所有を強調しておられます。「名前を呼んだ、だからわたし
のもの」であると言われます。ちょうど、主が星々に名をつけて、それがご自分の造られたもので
あることを主張されたのと同じように、イスラエルをその名で呼び、ご自分のものとされました。
43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し
流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。43:3a わたし
が、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。
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主ご自身の所有は、水のような試練、火のような試練において、そこから守られることによって
はっきり現れます。イスラエルの民は具体的には、エジプトから出て、紅海が分かれて、海の中を
通ることによって主が共におられることを知りました。そして、ダニエル書 3 章を読みますと、ダニ
エルの友人三人が、ネブカデネザルの命じた、金の像を伏し拝むことをしなかったため、燃える火
の炉の中に投げ入れられましたが、そこでも主の臨在を知りました。ネブカデネザル王は、その火
の中に三人以外の第四の者がいて、神の子のようだと証言しました。受肉前のキリストの姿です。
43:3b わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。43:4 わた
しの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代
わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
主は、とても面白い言い方をされます。イスラエルがペルシヤの王クロスによって、奴隷状態か
ら解放され、エルサレムに帰還して神殿を建てよという命令を出しました。けれども、同じペルシヤ
は、エジプトを征服し、さらにはその南にあるクシュやセバにまで進出したのです。その取り扱い方
の違いには、神の愛がありました。神は贖い金、身代金として、エジプトとクシュとセバをクロスに
引き渡したという言い方をしておられるのです。
主の愛というものは、こういうものです。その愛は全ての人に等しく与えられるものではありませ
ん。均等に神の愛が分配されるのであれば、その時点でそれは本物の愛ではありません。神の
愛は、その愛される対象にご自分の全ての恵みを注ぎたいと願われる特別なものです。一匹の羊
が迷えば、九十九匹の羊を囲いに置いてもそれでも捜しにいきたいと願う愛であります。
ところで、ここで「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」とあります。ここで大事なのは、神の
目によって高価なのだということであり、彼ら自身の中には価値があるわけではないということで
す。主はイスラエルに、「恐れるな。虫けらのヤコブ(41:14)」と言われたことを思い出してください。
自分の内に何か価値あるものがあるのかという自分探しはやめてください。虫けらのようなひ弱な
存在であっても、それでもご自分が造られたと言ってやまない神、それでも代価を支払ってご自分
のものにしたいと願われる神、この神を見つめてください。自分探しではなく神探しであります。
43:5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西
から、あなたを集める。43:6 わたしは、北に向かって『引き渡せ。』と言い、南に向かって『引き止
めるな。』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。43:7 わ
たしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、
これを造った。
ユダヤ人は離散の生活において、そこで異邦人による虐げや差別、またいつ迫害をされるか、
そうした恐れを抱きながら過ごしています。主がエジプトから奴隷状態であったのを救い出してくだ
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さり、約束の地に住まわせてくださったのは、恐れから解放されて安心して過ごすためです。その
ことを主がクロスを通してしてくださいます。バビロンがペルシヤによって滅ぼされた時に、バビロ
ンによって捕え移されたユダの民のみならず、その前にアッシリヤによって北イスラエルの人々も
捕え移されていました。かなりの広範囲にイスラエル人は散らばっていました。その彼らを、主が
再び集められることを約束されています。
ただ、それだけではありません。ペルシヤによってごくわずかなユダヤ人しか戻りませんでした。
しかも、その約六百年後には再び、ローマによってユダヤ人は世界に離散してしまいます。以前よ
りも広範囲で、ユダヤ人の住まない国は手に数えるほどであるとも言われています。イエス様は、
ご自分が地上に再び戻って来られる時に、彼らを天の果てから連れて戻らせることを約束されま
した。「マタイ 24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使
いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」
そして主がまだ再臨されていないのに、今現在、その前段階として主は世界からユダヤ人を集
めておられます。今のイスラエルという国は、離散していたユダヤ人が帰還するために建てられた
国であります。「北に向かって『引き渡せ。』と言い」という言葉は生々しいです。旧ソ連や東ヨーロ
ッパにはユダヤ人がたくさんいますが、当時は鉄のカーテンで閉じられていました。しかし、1990
年代になって鉄のカーテンが崩れ、一気にイスラエルに帰還してきました。今のイスラエルでは、
ヘブライ語、英語の他に、ロシア語も多く使われているぐらいです。それから、「南に向かって『引き
止めるな。』」という言葉もすごいです。そこには、イエメンやエチオピアに住むユダヤ人たちがいま
したが、イスラエル政府は、飛行機を使って、また陸路で、ユダヤ人を連れ出す作戦を遂行し、数
多くがイスラエルに移り住んできました。そしてそのことを通して、彼らの努力や才能がほめたたえ
られるのではなく、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれ
を創造し、これを形造り、これを造った。」と言われます。
主はこのようにして、ご自分の新しい創造の働きをされます。私たちはこれまで、いろいろなも
のに縛られていた人生から神に拠って贖い出され、そして新しい生活を歩みます。そこには、従来
のものとは違う、様々なことが起こるので不安になるし、神を信じない世からの反対にあって恐れ
も抱くことでしょう。それは主が共におられるからこそ起こった問題であり、主が全ての必要を満た
してくださるので、その新しい働きは前進するのです。
2C 諸国の前での証言 8-13
43:8 目があっても盲目の民、耳があっても耳しいた者たちを連れ出せ。43:9 すべての国々をつ
どわせ、諸国の民を集めよ。彼らのうちのだれが、このことを告げ、先の事をわれわれに聞かせる
ことができようか。彼らの証人を出して証言させ、それを聞く者に『ほんとうだ。』と言わせよ。
ここで大事なのは、イスラエルの民がまだ盲目であり、耳が開かれていない時に、それでも諸国
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の民にとってユダヤ人が世界から帰還することを前から告げることができたか、と問いかけている
ことです。イスラエルがまだ心の備えができていない、まだ心が開かれていないのに、神が彼らを
贖われる働きは始まっているということです。
そして世界中の者たちが、このことを何ら予測できなかったということであります。アーノルド・ト
インビーという歴史家がいます。彼は無神論者でした。彼の目には、古代の民族がなくなり今は存
在していないのに、ユダヤ民族だけはそのまま残っているので、「彼らは化石の民族だ」と言いま
した。シーラカンスのような生きた化石だということです。無神論者が、神を思わざるをえないので
す。しかし、本人たちはことさらに神を信じている訳ではなく、むしろ神を信じていない世俗的な人
たちのほうが多いのです。
43:10 あなたがたはわたしの証人、・・主の御告げ。・・わたしが選んだわたしのしもべである。こ
れは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより先
に造られた神はなく、わたしより後にもない。43:11 わたし、このわたしが、主であって、わたしの
ほかに救い主はいない。43:12 このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたがたのうちに、
異なる神はなかった。だから、あなたがたはわたしの証人。・・主の御告げ。・・わたしは神だ。
主が、先んじて彼らに働きかけてくださることによって、彼らによって、主のみが神であることを
人々が知ることができる、すなわち証人なのだということです。ユダヤ民族によって、彼らが神に
立ち帰っていようがいまいが、この方以外に神はいないことを示しているというのです。そして気づ
いていなかった彼ら自身が、この方こそが神なのだということを知ることができます。
これはユダヤ人たちが選ばれて、それで神を証ししているのですが、信仰によって、イエス・キリ
ストによって彼らの約束につながった私たちキリスト者も、同じように主の証人として選ばれていま
す。ここで知っていただきたいことは、事は自分の努力ではなく、一方的な神の憐れみなのだとい
うことです。数多くの人が救われた証しをしなければいけないというと、これから自分が造り上げて
いくものだと思っています。いいえ、救われた証しというのは、自分ではなく、救われたのは神なの
だということを、まだ神を知らない人々に知らしめることです。神の新しい創造の働きを自分の内
で認めることです。ちょうどユダヤ人がまだ神に応答していないのに、主がすでに彼らを用いられ
ている、そんな自分ではないところにある、神の奇蹟を証しします。
そして、主は、わたし以外に神はいない、救い主はいないと強調しておられます。周りの世界は、
全てが他の神々に仕えている異教です。現代は、これらが自分たちの能力、自分の経歴、自分の
魅力、自分の何かのために動いている、それらすべてが、木や石では造られていないけれども、
偶像として機能しています。ユダヤ人もかつて、バビロンの中に生きて、自分の周りの人々と同じ
ように、自分本位の生き方をしていました。だから偶像にも魅かれていたのです。しかし、主がおら
れます。この方が主権を取られる生活が用意されています。そして、こちらでもあちらでもなく、主
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こそが神なのだということを、この方のしもべとなることによって証しするのです。
43:13 これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行なえば、
だれがそれをとどめることができよう。」
ここの「わたしは神だ」というところは、直訳は「わたしは彼だ」となっています。ここを読むと、主イ
エスがどうしてユダヤ人たちに対して、「わたしは、ある」と言われたのかが良く分かります。モーセ
に対して主なる神は、「わたしはある、というのがわたしの名だ。」と言われて、イザヤの預言にも
わたしがそれだ、という宣言があり、イエスご自身がその言葉をたくさん使われました。
3C 新しい贖い 14-21
43:14 あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。「あなたがたのために、
わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船か
ら突き落とす。43:15 わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王
である。」43:16 海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、43:17 戦車と馬、強力な軍
勢を連れ出した主はこう仰せられる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。
主がこれから行なわれることは、バビロンの崩壊です。そのことによって、囚われていた民が自
由にされて約束の地に戻ります。そのことを主は、第二の出エジプトに位置付けておられます。か
つてイスラエルが、エジプトで奴隷状態であったのを主がエジプトを打たれて、それで彼らがそこ
から出て、約束の地に入ることができたように、今、主は、バビロンを打たれて、それによって約束
の地に帰還することができるという、新たな出エジプトを行なわれるのです。
43:18 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。43:19 見よ。わたしは新しい事をする。
今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に
道を、荒地に川を設ける。43:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが
荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
43:21 わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。
今、私は第二の出エジプトを行なわれると言いましたが、主がこれからなされようとしていること
は、それ以上の出来事です。だから、昔の事を考えるな、新しい事をすると言われています。それ
は、荒野に水を湧きださせるという御業です。かつては水のあるところを乾いた所としてそこを通ら
せましたが、今度は主の民に乾いたところに水があるようにすると言われています。このことは、
クロス王による解放によって起こらなかったことです。主は、ご自身が究極的に、世界規模で行わ
れる救いの御業を予め示しておられます。
イザヤ書には、荒地が水になるという約束が数多く出てきます。これが、イエス様が、「聖書の約
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束の通りに」と言われた所以です。「ヨハネ 7:37-39 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは
立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信
じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようにな
る。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスは
まだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」聖書におい
て、「水」というのは貴重な存在であり、命の象徴です。日本にだけいてイスラエルにいないとこの
貴さが分からないと思います。そこから水というものが、神の命の御霊を表すものとなっています。
終わりの日には、文字通りに水が流れるようにしてくださる神の働きがあり、それだけでなくご自
分の御霊を御民に注がれるという働きを行われますが、イエス様はその御霊の働きの約束を信じ
る者に語られました。
そして、その働きを受けた者たちが、再び「わたしの栄誉を宣べ伝えよう」と言っています。主が
御霊によって働かれると、私たちはただ、主の御名をほめたいと願います。誰か他の人が何々を
行なったというのではなく、皆が、確かに主が生きておられると、主をほめたたえるのです。
2B 呼び求めないイスラエル 22-28
43:22 しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。イスラエルよ。あなたはわたしのた
めに労苦しなかった。43:23 あなたはわたしに、全焼のいけにえの羊を携えて来ず、いけにえをさ
さげて、わたしをあがめようともしなかった。わたしは穀物のささげ物のことで、あなたに苦労をさ
せず、乳香のことであなたを煩わせもしなかった。43:24 あなたはわたしのために、金を払って菖
蒲を買わず、いけにえの脂肪で、わたしを満足させなかった。かえって、あなたの罪で、わたしに
苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。
主の御名を呼び求めさえすれば、主の豊かな祝福は目の前にあるのに、それを行わなかったと
言われています。ちょうどこれは、箴言において怠慢について書いてあるのに似ています。まるで、
主ご自身の片思いに終わっている感じです。箴言にこんな言葉が書いてあります。「なまけ者は手
を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない。(19:24)」主に備えておられるものを、自分
の口に持っていくことを億劫に思っています。主からの力が与えられていないので、それで罪も犯
すし、不義の中に陥っています。
43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなた
の罪を思い出さない。43:26 わたしに思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あ
なたのほうから述べたてよ。43:27 あなたの最初の先祖は罪を犯し、あなたの代言者たちは、わ
たしにそむいた。43:28 それで、わたしは聖所のつかさたちを汚し、ヤコブが聖絶されるようにし、
イスラエルが、ののしられるようにした。」
主はお決めになりました。彼らの罪を拭い去り、もう罪を思い出さないと決められたのです。ここ
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には、主の新しい契約の内容が書かれています。エレミヤ書の新しい契約の約束において、「わ
たしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。(31:34)」とあります。主がこのよう
に私たちを赦してくださった。この真理を受け入れなければ、かえって私たちは罪の縄目から時は
なれないことになります。それは罪から来る呵責もそうですし、罪の力に対してもその通りです。罪
が赦されたからこそ、罪に打ち勝つ力が与えられます。
けれども、彼らはその罪があることさえ気づいていないようです。そこで主は、何が問題なのか、
その責任の所在を明らかにしておられます。先祖たちが、その罪を犯してそれでバビロンによる神
殿破壊が起こるようにされたのだ、と言われます。罪が赦されたことを知るためには、まず自分に
罪があることを知らないといけません。
3A 偶像との対比 44:1-23
こうして主は、ご自身が贖う方であることを前面に出しておられます。40 章からは、ご自分の創
造における偉大さを語られました。そして今は、ご自分の贖いの完璧さを語られています。彼らが
どんなに不従順であろうとも、主はご自分の熱心によって彼らへの贖いを完膚なきまでに成し遂
げるという訳です。そして主は 44 章にて、偶像を拝むことの空しさをお語りになります。
1B 初めからおられる方 1-8
44:1 今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。44:2 あなたを造り、あなた
を母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしのしも
べヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。44:3 わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に
豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。44:4
彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える。44:5 ある者は『私は主のもの。』
と言い、ある者はヤコブの名を名のり、ある者は手に『主のもの』としるして、イスラエルの名を名
のる。」
主は、ご自分がイスラエルを造られ、形造られたことを強調しています。この真理を知ることはと
ても大切です、そこから自分に生き方がすべて変わってきます。自分は自分で生きられないことを
創造主を認めることによって悟ります。自分は自分によって生きていて、その目的のためにいろい
ろなものに頼っていく、それが偶像です。それら自体は良いものですが、自分の願望や欲望のた
めに使っていくというところに、偶像があります。
ここでは、自分の行ないの余地が全くないほどに、母の胎から主が形造られたことを語られてい
ます。私たちはみな、そこから始まっています。受精から始まり、その細胞が分化し、そして体の
器官が徐々に形成されて、そして一個の人間になるのです。したがって、全てのことが神に拠って
いるのだということを私たちは悟ります。そして、この言葉がヤコブに向けられていることに気づい
てください。神の選びは、実にヤコブが母リベカの胎にいる時から始まっていました。ヤコブとエサ
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ウは双子でしたが、そこで腹の中でぶつかり合うようになっていました。リベカが主に伺うと、「二つ
の国が胎内にあり、兄が弟に仕える。」と言われたのです。兄エサウが弟ヤコブに仕えるようにな
る、つまりヤコブが選ばれた者となったのです。
そして、再び「恐れるな」と言われて、彼らに慰めの言葉を与えます。「エシュルン」はイスラエル
の別名ですが、「まっすぐな者」という意味です。ヤコブが真っ直ぐな者になるということです。ヤコ
ブのように、私たちがどんなに自分の手で何かを掴もうとする肉を持っていたとしても、主が選ば
れたのですから真っ直ぐにしてくださいます。そしてその力は神の御霊から来ます。先ほど説明し
ましたように、主が荒野に水を注がれ、潤いのある地にする時に、ご自分の御霊も注いでください
ます。そして御霊を受けた人々は、先に主が、「あなたはわたしのもの」と言われたように、彼らも
「私は主のもの」と告白するようになるのです。いかがでしょうか、今まで自分は自分のものだと思
っていたところから、自分は主のものなのだという深い確信が与えられるのです。
44:6 イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、
わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。
イザヤ書を読めば読むほど、福音書がまさにこれらの預言の成就であることを思わされます。3
節にある聖霊の約束が、御国の到来の前に五旬節の時に聖霊が弟子たちに注がれたことによっ
て成就しました。そして今も、私たちの時代にまでそれが続いています。
そして今読んだ 6 節です。この一つ一つの、主ご自身が呼ばれている名は主イエスであること
を示しています。弟子ナタナエルは、イエス様に対して「あなたは神の子です。あなたはイスラエル
の王です。(ヨハネ 1:49)」と告白しました。主がお生まれになった時も、東方の博士はユダヤ人の
王を拝みに来たと言われ、そしてイエス様は、ユダヤ人の王の罪状によって十字架で死なれまし
た。次に、「これを贖う方」であります。ゼカリヤがバプテスマのヨハネがエリサベツから生まれた後
に、主を賛美して、この後に現れるキリストのことを、このように賛美しました。「ほめたたえよ。イ
スラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しも
べダビデの家に立てられた。(ルカ 1:68‐69)」そして、「万軍の主」とあります。使徒ヨハネは、イザ
ヤがイエスの栄光を見たと言及しています(ヨハネ 12:40)が、それは 6 章にある、主が天の御座
に着いておられる幻でした。その主ご自身がイエス様だというのです。そこでセラフィムが叫んで
いたのは次の言葉です。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。(6:3)」そ
して、「わたしは初めであり、わたしは終わりである。」という言葉は、黙示録にて何度も、イエスご
自身に対して使われている名前です。
それで「わたしのほかに神はない。」との宣言があります。三位一体の神がここに現れています
し、さらに救い主がイエス・キリストのみであることを示しています。この方が救い主であり、他には
いないのです。「使徒 4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御
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名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないから
です。」
44:7 わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げること
ができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみ
よ。44:8 恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。
あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。
主がイスラエルを永遠の民と呼び、それを示すために前もって語っているのだと言われています。
だからこそ、主はこのことにこだわっておられるのです。実に聖書の四分の一、三分の一は預言で
あると言われています。だからこそ、預言は確かな証しとして、主が生きておられることとして神ご
自身が選ばれた手段なのです。キリスト教会の中には、預言を語ることは危険であるという向きさ
えあるのですが、それは聖書の神の意向ではありません。私たちの主、イエス・キリストは、ご自
分が現れる前に、すでに預言されていました。他の宗教の創始者はどうでしょうか?ムハンマドに
ついて、予め語られていたでしょうか?いいえ、突然現れて、そして自分が神からの啓示を受けた
と主張していったのです。仏陀も同じです、後で自分が悟りを得たことを話しましたが、予め語られ
ていませんでした。孔子も同じです。しかし私たちの主は、予め何百もの預言で語られており、そ
れがことごとく成就したというのが、新約聖書の証言なのです。
だから、他の神々と呼ばれているもの、他の国々が恐れていること、恐れる必要はないのだと言
います。この方だけが岩なのです。イエス様はペテロが、「あなたは生ける神の御子キリストです。」
と告白したので、「わたしは、このペトラ(岩)の上にわたしの教会を建てます。」と言われました。私
たちの告白こそが、この世に打ち勝つのです。
2B 偶像の空しさ 9-20
44:9 偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるもの
は、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。44:10 だれが、いったい、
何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。44:11 見よ。その信徒たちはみな、恥を見
る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののい
て共に恥を見る。
まず、偶像というものが空しく、何の役に立たないことを話しています。なぜそうなのかと言いま
すと、それは見ることも、知ることもできない存在だからです。詩篇 115 篇にもこう書いてあります。
「口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手
があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造
る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。(5-8 節)」
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けれども、なぜ偶像を造るのでしょうか?そしてイスラエルの民は、まことの神を知っていたは
ずなのに、偶像に仕えてしまったのでしょうか?それは、自分のイメージに合わせて拝めるからで
す。ここがとても大事なところですが、神はご自分の形、イメージに私たちを造られました。私たち
を創造し、御霊によって新たな創造もしておられます。したがって、私たちが神のイメージであり、
私たちが神をあがめ、神に仕えていくなかで、神の御霊によって神に似た者となっていきます。と
ころが、自分は自分の願っている形、イメージに合わせたものを追及したいのです。それに頼って
いきたいのです。そうすれば、自分を救えると思っています。ルターがこのように言ったそうです、
「人は常に、神か、さもなくば偶像を持つ。」だから、この世にある神々と呼ばれている偶像はみな、
人の願望や欲望を表したものとなっていますが、木や石で造られていなくても、人は偶像を心に持
っているのです。
そして、そうした偶像は、結局人が造ったものなのです。ここに書いてあるように、頼りにしてい
たのに、人間にしか過ぎないので、無力なのです。中身がなく、空しいのです。お金を追及する世
界、知識を求めていく世界、美を追求する世界、そして情欲を追及する世界、みな虚構です。そこ
にコンテンツ、中身がありません。それもそのはず、人間がイメージとして造りだしているにしかす
ぎないからです。
44:12 鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれ
を造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。44:13 木で細工する者は、測
りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい
姿に仕上げて、神殿に安置する。44:14 彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選ん
で、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。44:15 それは
人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、こ
れで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。44:16 その半分は火に燃やし、
その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなっ
た。』と言う。44:17 その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って
『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。
ここにある偶像の特徴は、一つは、造っている者たちも疲れてしまう、ということです。腹をすか
せたり、水を飲まないと疲れてしまいます。私たちの創造主、神は、永遠に生きておられる方であ
り、精力に満ちていることを 40 章で学びました。そして次に、その造っているものは、実は神から
の恩恵を受けている、ということです。木を育てていますが、それは大雨によって育てます。その
大雨はどこから来ているのでしょうか?天地を造られた神からであります。それを顧みないでいる
かたくなな心がここにあります。そして三つ目に、残りもので神が造られているということです。薪
にして、食べ物を調理し、また温まって、その後で残り物で神を造っているということであります。
つまり「付けたし」であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。
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いざという時に自分を救うことは、ありません。日本人は、「何々だけ」ということを嫌います。た
だ一つというのを嫌います。イエスだけが救いというのを嫌います。これもあって、あれもあって、
だからいいでしょう、ということになります。しかし、何か困難なことが起こる時に、「救ってください」
ということは言えないのです。そして、同じノリでイエス様の名を呼び求めるのですが、イエス様は
偶像ではないのです、生ける神ご自身であります。自分が僕にならなければ、まことの神に出会
えないのです。だから、祈ることさえできません。
44:18 彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心も
ふさがって悟ることもできない。44:19 彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その
半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を
造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。』とさえ言わない。44:20 灰にあこがれる者の心は
欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。』と
さえ言わない。
悟ることができない、目がふさがっているから、ということです。先ほど引用した詩篇 115 篇です
が、8 節に「これに信頼する者もみな、これと同じである。」とあります。これと同じ、つまりそれに似
た者になってしまいます。つまり、偶像は目が見えない、耳が聞こえない、口がきけないのですが、
自分も霊的に見えなくなり、聞こえなくなり、口がきけなくなっていってしまうということです。自分は
自分が拝んでいるもののようになっていきます。自分が交わっているもののようになっていきます。
私たちが共に時間を過ごせば過ごすほど、互いに似た者同士になります。これはちょっと怖いか
もしれませんね!けれども、大丈夫です。逆を返すと、私たちが人ではなく、神ご自身と交わりこと
を主眼としているのであれば、人の言葉ではなく神の言葉によって人と交わることを願っているの
であれば、主ご自身の似姿に変えられるということです。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけら
れて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられ
て行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(2コリント 3:18)」
3B 罪の赦し 21-23
44:21 ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなた
を造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられること
がない。
主が今、ヤコブに対して大きな対比を行なわれているのです。偶像は人が造り上げたものであ
るのに対して、ヤコブは神によって造り上げらえたものです。偶像においては、自分が主人でその
神は自分の僕ですが、ヤコブについては、神が主であられ、自分はしもべです。それゆえ、偶像で
あれば自分のことは覚えられる訳がありませんが、主はご自分の造られたものを決して忘れるこ
とはありません。
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44:22 わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。
わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」
すばらしいです、これが今日学んだ箇所のまとめ、中心主題になるでしょう。主が、罪の贖いを
完全に行なわれました。雲のように、霞のように罪を拭い去ってくださったのです。これは、したこ
とのそのものを忘れるということではありません。その記憶はあるのですが、それをもって罪に定
める、咎めることはもう行なわないという、完全に赦す態度のことを指しています。私たちが、どん
なに失敗したとしても、また同じ過ちを犯したとしても、ここのイスラエルと同じように神は見捨てる
ことはなさいません。すべての罪を赦してくださいました。
それゆえ、「わたしに帰れ。」と言われます。悔い改めなさいということです。自分の道、偶像を拝
むところから向きを変えて、主のところに戻りなさいということです。神が怒っていて、その怒りをし
ずめるために罪の悔い改め、罪の告白をするのではありません。もう赦しをしてくださったのです。
だから、自分の重荷はすでに取り除かれたのです。ゆえに、いつまでも自分の過去の中に埋もれ
るのではなく、自分の道を進むのではなく、これだけ愛してやまない神のところに来なさいと言わ
れています。「ローマ 2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊
かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」神の怒りが悔い改めに導くのではなく、慈愛
が導きます。
44:23 天よ。喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜び
の歌声をあげよ。林とそのすべての木も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現
わされるからだ。
主の造られた被造物がどっと主を賛美しています。これはとても大切なことです。主が選ばれた
者たちが贖われることは、自然界が潜在的に大喜びしています。天地創造のことを思い出してくだ
さい、六日目まで主が造られて、最後の最高傑作品である、神のかたちに似せて造られたのが人
間です。だから、人間が神の栄光を取り戻す時にそれに連なる自然界も喜びに満ちます。事実、
神の子が現れたら、被造物もその束縛から解放されるとローマ 8 章には書かれています。
どうでしょうか、神の創造があり、私たちはその中に生きています。けれども私たちはなぜか、自
分の方法で生きようとする、それは偶像を拝むことに他なりません。しかし、神は贖い主です。ご
自分の造られたものを取り戻そうとしておられるし、取り戻されました。神をあがめましょう。神に仕
えましょう、そうすれば偶像を避けることができます。
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