【断章】2016年の平穏 ID:110709

【断章】2016年の平穏
塩野いづき
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︻あらすじ︼
2016年ももう終わりに近づき、人理焼却まではあと僅かとなっ
た。それでもカルデア職員にとっての日常は慌ただしく過ぎ、コー
ヒ ー ブ レ イ ク だ け が 唯 一 の 愉 し み と い う よ う な 状 況 に 陥 っ て い た。
それでも、誰よりも働くドクター・ロマンを心配したエミヤは彼への
差し入れをオペレーターの女史に託すのだった。
目 次 Break︳Time ││││││││││││││││││
1
Break︳Time
たとえどんなに忙しい職場であってもその忙しさにはリズムがあ
る。それは人理が焼却され、壊滅的な打撃を受けた結果、人員が20
人程度まで縮小してしまったフィニス・カルデアにおいても同様であ
る。
休みのコーヒーがなによりも恋しいという社会人も決して少なく
ない昨今だ。
﹁あー、生き返る﹂
そう零すオペレーターに白衣の青年が応じる。
﹁お前それ言ってるとおっさんみたいだぞ﹂
﹂
﹁そういわれてもなぁ。やっぱりたまの楽しみぐらいないとやってら
んないからね。こ
こ、今の就業状況ブラックもいい所よ
﹁まぁ、そうだな。でもやらなければならないんだよ。なにせ、俺らの
トップは臆病で
優しいことで有名だったドクター・ロマンだ。本来こんなこと柄で
もないのに最後のマスターと一緒に最前線に立ち続けてるんだぜ
居間になっても信じられない﹂
世界を救うなんて夢物語もいいところだよな﹂
クターに、マシュちゃんにあの最後のマスターの男の子だろ
これで
た休憩中のスタッフとこっそりサボってた一部の馬鹿と、それからド
﹁あの事故から生き延びたのってBチーム以降の観測に回るはずだっ
た訳だから、ホント運命ってやつは良くわからんね﹂
﹁あの人よくサボってたからなあ⋮⋮。だからこそ今生き残っちまっ
た。
そのことばに丁度やって来た元B班班長が頭を掻きながら破顔し
?
医療スタッフの青年が応じる。しかし、彼らの顔に悲哀は微塵もな
﹁だな﹂
片手に宣えば、
笑うと目の下の隈がより際立つ元Bチーム観測班班長がコーヒー
?
1
?
い。彼らの目的は︻人理修復︼なんて御大層なものだが、彼らの目標
は ご く さ さ や か な な も の だ。魔 術 師 と し て も 一 般 の 人 間 と し て も
持っている、ごく当たり前の願い。明日に続くこと。現在を明日につ
なげるように努力を重ねること。それが彼らの唯一のモチベーショ
ンとしてこの鉄火場に身を投げ出す理由であった。
﹁まぁ、俺らの家族に、友人にまた会うためと思えば多少は頑張れるよ
な﹂
﹁お前その言い方おっさんみたいだぞ﹂
冗談と黒歴史は大概
﹁⋮⋮一応まだ20代の女相手に言ってくれるな、餓鬼﹂
﹁一人称が﹃俺﹄の女史に対して女扱いしろって
にしてくれよ﹂
﹁││まぁ、言っていることは最もだが、それにしても妙齢の女性相手
に﹃おっさん﹄は失礼だろう﹂
﹂
後方から飛んでくる相槌に、オペレーターの女性は反射的に応じ
る。
﹁おう、分かってるな││って、エミヤさん
思ってね。私もこの後調理場に行かねばならないので、出来れば君が
行ってくれると嬉しい﹂
﹁は、何で、ですか﹂
﹁そりゃあ、むさくるしい男が差し入れるより、美しい女性が差し入れ
たものの方が嬉しいし、励みになるからさ﹂
何の気なしにエミヤが口にした一言に、オペレーターの女性はフ
リーズする。そしてその意味を理解し、赤面した。
﹁う、美しい、って﹂
そしてそれを笑顔で見つめるエミヤと、オペレーターの女性の双方
を見つつ、医療スタッフと元Bチーム班長は嘆息する。
││あぁ、また始まった、と。
エミヤという英霊は現代を起点とする者らしく、現代機器の数々に
精通し、ある程度カルデアの事情にも召喚時点で知っていた。そして
何より、最後のマスターたる少年だけでなく、カルデアに勤務するス
2
?
﹁歓 談 中 す ま な い ん だ が、こ れ を ロ マ ニ に 差 し 入 れ て く れ な い か と
!?
タッフに対しても良く言葉をかけたり、料理を差し入れたりするた
め、割と交流が多い英霊の一人であった。
危険な状況で嫌が応にも神経過敏に陥り、その中で行き届いたフォ
ローと万全のバックアップを行ってくれる存在がいれば、吊り橋効果
のように多少なりとも恋愛感情を抱く者が出てきてもおかしくない。
なにせ、本人曰くランクは中堅クラスを出ない英霊とはいえ、ルック
スは良い。さらに、料理も美味く、スタッフ達の食事情はは彼がカル
デアに召喚されて以降、大きく改善された。それ自体は喜ばしいこと
である。だが、目の前で女性が口説き落とされる現場にただ居合わせ
るというのもそれはそれで気まずいものなのだ。
そんな感情を誤魔化すために、医療スタッフの青年はもう残り少な
くなった煙草を胸ポケットから取り出し、火を付けた。ゆらめく煙に
視線を逸らすことで、どうにか精神の平穏を保つことに成功した。そ
して、この場に居合わせたもう一人、ここで一番の年配者たる元B
エミヤさん、有難う
それでは、また仕事だ。また休みで会え
にも差し入れを持っていこう﹂
﹁あ、ありがとうございます
たら良いな、二人とも﹂
﹁ままならんもんですね、班長﹂
た。
にマシュ・キリエライトという失敗例を一件残し頓挫した実験であっ
せいこうれい
抽出して使いやすいようにできないか、という研究があった。最終的
霊にも人格はある。それを歪め、貶め、型に嵌め、どうにか力のみを
色々な存在がいるのだな、と医療スタッフの青年は溜息を吐いた。英
んで歩いていくオペレーターの女性を見ていると、英霊と言っても
軽く手を振って次の仕事へと去っていくエミヤ。そしてそれに並
!
3
チーム班長はと言えば。
﹂
それでは行ってきます
﹁エミヤ君から頼まれた仕事に戻りたまえ、女史。そろそろ休憩も終
わりだろう
﹁││、そ、そうですね
ございました﹂
!
﹁何、気にすることはない。後で君たちオペレーターと医療スタッフ
!
?
﹁そういう虚無感吐いても給料は増えんぞ﹂
﹁人理修復期間中の給料、後で申請却下されたりしませんか
﹁意地でも通すさ﹂
煙とコーヒーの香りの中、二人は苦笑した。
﹂
ドクター・ロマニ。本名、ロマニ・アーキマンは元々医療部門のトッ
プであり、オペレーションは専門ではない。そして、専門知識を一定
レベルでしか保持していないロマニにとっては目の前の作業を熟し
きることさえ難しいことである。転属された異動先で一番上位の権
力を持つポジションになったようなものだ。そんな状況になっても
このカルデアが破綻していないのは、一重にロマニの学習能力の高さ
と、ありとあらゆる時間的リソースを人理修復という目的のためにつ
ぎ込んでいるために他ならない。睡眠は最低限。食事は最短で取れ
るものを。休み時間もほとんどない。起きている時間総てを最後の
マスターの少年が生き残るために、そして特異点を修復するために出
来ることを総てやる。元々ロマニという男は秀才ではあっても天才
ではない。あくまでも努力によって今の地位を勝ち取った男である
と言える。そしてそれは何よりもカルデアで共に働くスタッフが良
く知っている。オペレーターの女性が今回自らの休みを切り上げて
でもロマニへの差し入れに協力するのは、彼が倒れれば文字通りカル
デアが機能停止に陥るからだ。最後のマスターが倒れれば、我々は成
すすべもなく敗北の一途をたどることは間違いない事実だ。しかし、
ロマニが倒れてしまえば、戦いの土俵にさえ上がることが出来ないの
だ。
普段マスターが特異点にレイシフトする前にブリーフィングを行
う会議室。カルデアが初めて召喚に成功した英霊、レオナルド氏の居
室。そしてカルデアスが置かれたオペレーションルームこのいずれ
かにロマニはいつもいる。それはつまり、彼は一度も自分の部屋に自
らの意志で戻っていない。
││いや、ほら自分の部屋に戻ると、普段のサボり癖が顔を出すだ
ろうから。
彼と特異点突入前にした会話の欠片をなんとなしに女性は思い出
4
?
す。いつものようにへらへらとした笑い方であった。自らの弱さを
良く知っている者の話。彼はいつだって無理をする。それでいて、最
後のマスターにはその様子が気取られないように、自らの様子を隠
す。それは特異点探索中はカルデアを離れる少年よりもスタッフの
方がよく知っているロマニの顔であった。
﹁入りますよー⋮⋮、って聞いてませんね﹂
入ると一番に目に入るのが白衣を着た背中。顔はまったくこちら
﹂
を向くことなく、何かに向けて一心不乱といった様子である。
﹁ドクター・ロマニ
⋮⋮って、君か﹂
一緒に入っていた水筒には麦茶が入っていた。最近修繕が進んで
い。
ン気質を彼はどこで培ってきたのだろう。まったく、疑問がつきな
勧めると考えたのだろう。その先見性とヒトを見る目、というかオカ
いたようだ。ロマニに持っていけば気を回す彼は持ってきた人間に
した。幸いというか用意がいいというか、エミヤは元々多めに作って
君もどうだい、とロマニに言われたので、女性は有難く頂くことに
国暮らしが長かったから、パンの方が食べなれていたんだけどなぁ﹂
﹁うん、美味しい。そろそろご飯党に鞍替えしそうだよ。これでも英
おにぎりを一つ手に取り、ほおばる。
切れといった軽食的なメニューであった。ロマニは早速とばかりに
風呂敷を開けば、その中に入っていたのはおにぎりに沢庵、鮭が数
美味しいに違いない﹂
し、もう煮詰まってたしね。それにエミヤの作ったものだ。何であれ
﹁んー、それもいいか。マギ☆マリも最近ブログ更新が停滞している
そう言って右手に持った風呂敷を見せると、ロマンは破顔した。
ターも少し休憩を取りませんか﹂
﹁エ ミ ヤ シ ロ ウ さ ん か ら 差 し 入 れ を 頂 き ま し て。よ ろ し け れ ば ド ク
﹁いや、ごめん。それで、何か用かな﹂
﹁君か、とはご意見ですね﹂
﹁わあっ
!
いる倉庫から新たに備蓄が発見された中身の一つである。過去の特
5
!?
異点にレイシフトを行うことである程度の備蓄は確保できたが、それ
でもこういった嗜好品は贅沢品になっていた。味わうように飲む。
互いに無言。これといって女性は話すのが得意な訳ではない上、ド
クター・ロマンは仕事以外の話がしにくい相手であった。なんという
か、彼は進んで周りから一歩離れる癖がある。最近は彼のマスターと
話すことで丸くなった節がある。なんというか、少し楽になったとい
うか、気が抜けたような感じがしたのだ。
﹁マスターの様子はどうですか﹂
﹁順調だよ。少しでもサーヴァントたちの助けになりたいらしくて、
諸
葛
孔
明
新しい礼装はないかってレオナルドに聞きに来ていたよ。後、パラケ
ル ス ス 氏 と エルメロイⅡ世 に 西 洋 錬 金 術 に つ い て 学 び に 行 っ た よ。
治療薬を現地で生成するときに役に立つからって。第五特異点でナ
イチンゲール女史から影響を受けたみたいだ﹂
﹁ナイチンゲールさんですか⋮⋮。どうも﹃白衣の天使﹄ってイメージ
が強かったのであの凶悪さは驚きましたね⋮⋮﹂
﹁カ ル デ ア に 来 た ら と り あ え ず ス タ ッ フ は 全 員 殺 菌 さ れ そ う だ ね
⋮⋮﹂
二人して乾いた笑いを浮かべる。衛生面には最低限気を使っては
いるものの、あのナイチンゲール女史の前ではその程度意味を成さな
いだろう。徹底的に殺菌・消毒することに対して狂っている彼女の前
では。そんな彼女に対しても真っ直ぐに向かい合っていたあの少年
の気丈さには頭が下がる。
ロマニと向かい合って座ったままに、女史はマスターの少年へと思
いを馳せる。あの少年は正直大して期待はしていなかった。元より
Aチームに入ってすらおらず、マスター適正があるからという理由だ
けでカルデアに招聘された少年である。魔術の腕は一流の魔術師に
は遠く及ばず、決して人一倍頭が切れるという訳でもない。ただ、そ
の人好きする性格と、誰に対しても話しかけていくガッツ、そしてな
により、カルデアでも浮いていたマシュ・キリエライトと良い関係を
築けているという事実は、彼をマスターに選んだことに何の間違いも
なかったということを彼が証明してみせたということだ。
6
怖 い ヒ ト
蛸
愛
の
と
叫
人
ぶ
筋
肉
た ま に 喋 る 筋 肉
││少なくとも、私はあのスパルタクス さんとかエイリークさん
と か オペラ さ ん と か キャスター・ジル さ ん と か に 近 づ こ う と は 思 わ
ない
もんなあ。
基本、カルデア内でスタッフが交流するのは英霊側が交流を望んで
いる場合がほとんどだ。エミヤが代表的ではあるが、ブーディカやタ
マモキャット、清姫、メディアリリィといった厨房に良く現れる英霊
たち。レオニダスや金時といったカルデア内でフィットネスを営ん
でいる英霊。スタッフや英霊たちを騙くらかして商売をしようとす
るカエサルやパラケルススといった英霊たちである。そのいずれも
どちらかといえば︵一部例外はいるものの︶秩序よりの常識人が大半
であり、少なくとも言語がまったく通じない相手ではない。
それらと交流を行うのは別に苦ではないが、あの少年はそれだけで
はなく、アライメントが混沌よりの英霊や狂った英霊たちすらも上手
﹂
パーの上には几帳面な字で﹃試作品﹄と書かれていた。エミヤが作っ
た新作だろうか。開いてみると、そこにはクッキーが数枚入ってい
た。少しばかり形がいびつなものもいくつか混じっている。
﹁エミヤさんがお菓子をつくるのは珍しいですね﹂
﹁あぁ、最近メディアリリィにお菓子作りを教えてるって言ってたか
らね。多分それだろう﹂
いくつかのいびつな形の菓子はメディアリリィの作のようだ。い
びつな方を手に取って口に運ぶと、思いの外美味だった。さくさくと
7
く使役してみせる。
﹁本当に、あの子は良く頑張っていますね﹂
﹁うん。本当にね。ボクなんかよりずっと優秀だよ﹂
﹁ドクターも頑張っていますよ、私たちはそれを良く知っています﹂
﹁ありがとう。でも、まだ足りないんだ。最後にソロモンを打倒する
このタッパーなんです
まで、この戦いは終わらない。まだもう少しだけ頑張らないとね﹂
﹁そうですね、⋮⋮あれ
?
お に ぎ り や 簡 単 な 総 菜 と と も に タ ッ パ ー が 置 か れ て い た。タ ッ
﹁そういえば開けてなかったね﹂
?
した食感が楽しく、生地の間に挟み込まれたチョコチップが疲れた頭
にちょうど良い。良い塩梅の甘さだった。ロマニもひとつ口に入れ
﹂
て気に入ったようで、即座に二つ目を手に取っていた。││ただし、
形がきれいな方だけを。
﹁ドクター、なんで避けてるんです
﹁⋮⋮前にエリザベート・バートリーが作った赤い菓子を食べてひど
い目にあってね⋮⋮。まだ料理修行中のメディアリリィのお菓子の
中にうっかり妙な魔術薬が紛れ込んでないか心配になったんだ﹂
本気で嫌そうな顔になったので、それ以上この話を追及しないこと
にして、話を変えることにした。
﹁第5、第6特異点もあの子は踏破してくれましたし、このまま無事に
第7特異点も突破できるといいんですが﹂
残業もあと少しと思えば頑張れますし、と冗談交じりに口にする
と、ロマニもまた疲れたような笑顔で応じる。
﹁⋮⋮そうだね。幸い、マシュも藤丸君も頑張ってくれているし、この
まま彼らが無事にグランド・オーダーを達成してくれることを祈るば
かりだ。いや、祈ってばかりじゃいられないな。ここに召喚された聖
人たちも言っていたよ。あくまでもこの世を動かすのは人間だ、と。
彼らは死人にすぎないからって。だからこそ、死人に現代を冒されて
﹂
は な ら な い ん だ。│ │ さ て、休 み も 終 わ り だ。女 史、悪 い け ど タ ッ
パーとかまとめてエミヤに渡してもらっていいかい
叩く音と何かを乱暴に書きつけるような擦過音だけが残った。
直感を否定して、女史は部屋を後にした。後にはパソコンのキーを
││いや、まさかね。
様子を見に行っている紫髪の少女の姿に重なって見えたのだ。
そう口にした彼はどこか寂しそうに見えた。その表情は彼が良く
るまでは死ねないからね﹂
﹁いざとなればレオナルドから栄養剤でも貰うさ。ソロモンを打倒す
﹁ええ。ドクターも体を壊さないよう気を付けてください﹂
?
8
?