﹁ 何 か あ っ た ? ﹂ 階数表示板に目を貼り付けていると、窺うような航の声が聞こえてきた。 る。 下 ボ タ ン を 押 す と す ぐ に 扉 が 開 い た 。 乗 り 込 ん だ の は 佐 伯 と 航 の ふ た り だ け だ っ た 。B 1 を 押 す と 緩 や か に 降 下 を 始 め 俺は航の過去の記憶を塗り替えてやることはできないのか。 エレベーターが眼前に迫ってくる。立ち止まると、航の足音も背後で止まった。振り向くのが怖い。 にしてやることはできないのか。 しまうのではないか。変えられない過去を修正するために。幸せを探し続けるために。俺じゃだめなのか。俺が航を幸せ たことになるのではないか。龍介や朝倉を突然失ったように、航もまたどこかの記憶廻廊へ覚醒し、砂煙のように消えて な い 並 行 世 界 。 そ こ で 何 か が 起 こ り 、辻 褄 を 合 わ せ る た め に 、こ ち ら 側 の 誰 か が 消 え 去 っ て し ま っ た り 、初 め か ら い な か っ されたように。何の前触れもなく、俺の目の前から愛する者を忽然と奪い去ってしまう何か。皆が知っていて、俺は知ら 否。不安を感じているのではない。怖いのだ。航が突然消えてしまうのではないか。ある朝、直樹が冷たくなって発見 至って普通だ。俺が航に対し不安を抱いていることなど微塵も疑っていないに違いない。 佐伯が先に立ち大部屋を出ていくと、その後ろをすぐに航の足音が追ってきた。初めの頃は遠慮がちだった歩調が今は と一緒に暮らしているのだ。ほんとうは誰なのか判らない航と一緒に。 無精髭の一ミリも見当たらない。その清潔さに佐伯は何故か動揺し、ここへきて初めて一抹の不安を覚えた。俺は今、彼 う ー ん と 伸 び を す る と 無 防 備 な 喉 元 が 蛍 光 灯 の 下 に 晒 さ れ た 。刑 事 野 郎 た ち と は 明 ら か に 一 線 を 画 す 滑 ら か な 肌 だ っ た 。 ﹁ え ? も う そ ん な 時 間 ? ﹂ ﹁ 飯 は ? ﹂ 大部屋へ戻った時には三時を回っていた。腹が減った。航へ声をかけると、書類を両手にしたまま顔を向けてきた。 652 佐 伯 は 咄 嗟 に 航 を 見 た 。寂 し そ う な 表 情 の 奥 に 何 か の 感 情 が ち ら つ く 。初 め て 病 室 で 見 た と き の 顔 だ っ た 。絶 望 。諦 め 。 そして、運命の受容。 ダメだ。俺は航が好きで好きで仕方ない。それなのに何もできない自分が歯がゆいのだ。こいつが直樹の記憶を持ち合 わせていることを俺はどうして素直に認められないのか。何故頑なにふたりを分けるのか。直樹にはもう二度と逢えない のに。だったらせめてその記憶だけでも 。 佐伯はこめかみを軽く押さえ、目を閉じた。 俺は、やっぱり直樹が好きなのか。航じゃないのか。 判らない。どうしたらいいのか。きみは誰なんだ。 ﹁ 飯 食 っ て 、 今 日 は も う 上 が ろ う ﹂ ﹁ 俺 は い い け ど ・ ・ ・ ・ 和 之 は 平 気 ? ﹂ ﹁ 部 長 は い な い し 、 呼 び 出 し を 食 ら う こ と は な い と 思 う ﹂ 地下一階で扉が開く。佐伯は航の手を引いた。 ﹁ 何 が い い ? ﹂ ﹁ 何 で も い い よ 。 和 之 の 好 き な も の に し よ う ﹂ 横から嬉しそうな声がする。繋いだ手をそっと握り返し、離した。 プリンセスの助手席を開けてやり、佐伯は運転席へ乗り込んだ。恐ろしく嫌な予感がする。それが何に対してなのか判 らないまま、佐伯はエンジンを入れた。 ﹁ 湯 島 に 旨 い イ タ リ ア ン ダ イ ニ ン グ が あ る 。 そ こ な ら 顔 見 知 り だ か ら 気 兼 ね な く て い い か も し れ な い ﹂ ﹁ う ん ﹂ かつて直樹と訪れた場所。警視庁へ再入庁した時、笹野と食事をしたのもそこだった。 喜んでいる航の顔を見ていると胸が痛んだ。直樹の生きた並行世界で誠吾や龍介もいたのなら、キャストは揃っている 653 きっちり一呼吸分感触を堪能し、佐伯は身体を離した。もう迷いはなかった。 大丈夫。航はここにいる。 ﹁ 俺 は 構 わ な い ﹂ ﹁ 誰 か に 見 ら れ る か も ﹂ クスッと笑う。 ﹁ 和 之 ほ ど じ ゃ な い よ ﹂ ﹁ 優 し い ん だ な ﹂ 佐伯は静かに腕を伸ばし、航の首を引き寄せた。 ﹁ 可 哀 想 に 。 早 く 良 く な る と い い な ・ ・ ・ ・ ﹂ 航は神妙に首を振った。 ﹁ で も 面 会 謝 絶 が 続 い て い る し ・ ・ ・ ・ ﹂ ﹁ 部 長 は も う 危 機 は 脱 し た よ う だ と は 言 っ て い た け ど な ﹂ ﹁ 大 丈 夫 ? 大 輔 の こ と が 心 配 ? ﹂ ﹁ ご め ん 、 ち ょ っ と ぼ う っ と し て た ﹂ 俺の横にいる航は、どうなってしまうのだろう? ﹁ 和 之 ? ﹂ なかなか発進しようとしない佐伯を航が覗き込んだ。 今ここにいる航は? もし航を手にかけた人物が挙がったら。事件が解決し、航がようやく弔われることになったら。 はずだ。警視庁には遠山、倉沢が存在したに違いない。白骨死体となった航の捜査は続行しているはずだ。 654
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