Kobe University Repository : Kernel Title 山科における義経の伝承基盤に関する一考察 : 『義経記 』の「義経の生い立ち」を語る基盤に着眼して Author(s) 斉賀, 万智 Citation 国文学研究ノート,55:41-56 Issue date 2016-03 Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 Resource Version publisher URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81009655 Create Date: 2017-01-08 山科における義経の伝承基盤に関する一考察 ―『義経記』の「義経の生い立ち」を語る基盤に着眼して 斉賀 万智 経の生い立ち」とは、『義経記』の「解説」に記される区分に従 ) 一、はじめに い、冒頭から義経が頼朝と対面する前までを指すことにする。 ( 源義経ほど至るところに伝承を残している人物は、歴史上に じめ、弁慶との対決で有名な五条橋、平氏を敗北に追いやった 様々に広がっており、義経が幼少期を過ごしたという鞍馬をは 基盤について検討を加えていくが、一先ずそれ以前に成立した 本章では、『義経記』に記される「義経の生い立ち」を語る 二、問題の所在―「義経の生い立ち」を語る基盤の変化 おいてもそういないであろう。周知のように、義経伝承の地は 壇ノ浦など、枚挙に暇がない。このように多岐にわたる義経の 『吾妻鏡』や『平家物語』の記述を確認しておきたい。 まず、『吾妻鏡』の記述をみていこう。 伝承は、 『義経記』の内部にも織込まれ、重要な構成要素となっ 去る平治二年(一一六〇)正月、襁褓の内に於ひて、父の ている。それゆえ、義経伝承の生成基盤に目を向けることは、『義 経記』の成立を考えることにもつながり、必要不可欠な作業で ) 喪に遭ふの後、継父一條大蔵卿〈長成〉の扶持に依り、出 ( あるといえよう。かかる義経伝承の成立基盤に関する研究は、 ) 家を為し鞍馬に登山し、成人の時に至り、頻りに会稽の思 ( 網羅的に義経伝説を検討された島津久基氏や語り手の問題にも ) (『吾妻鏡』治承四年(一一八〇)十月廿一日条) 右の記事は、黄瀬川の宿において頼朝と義経が感動の対面を ( ひを催し、手自から首服を加へ、秀衡の猛勢を恃み、奥州 ) 言及された角川源義氏をはじめ、諸氏によって優れた知見が呈 に下向して、多年を歴るなり、 ( されているが、先述のように、義経の伝承は膨大に存在し、触 したがって、本稿では、その一端を担うべく、『義経記』に 果たした際の記事から、義経の生い立ちが記されている箇所を - - 41 3 抜粋したものである。その地名に着目すると、義経は父義朝を 4 おける「義経の生い立ち」を語る基盤に着眼し、具体的な伝承 れられていない部分も少なからず認められるのである。 1 基盤について迫っていくこととしたい。なお、ここでいう「義 5 2 つけられていることがわかる。また、少し時期が前後するが、 (巻第十二「土佐房被斬」) とあり、傍線部にみえるように、義経の生い立ちは鞍馬に結び ) 州の藤原秀衡を頼って、奥州に下向したことが知られる。つま 覚一本における屋島合戦の記述もみてみよう。 ( り、『吾妻鏡』に従えば、義経は鞍馬で年月を過ごしてから奥 平治の乱で亡くした後、鞍馬で年月を送り、成人してからは奥 州へ赴いたということがわかる。 梶原景時からの讒言を耳にした頼朝は、義経の六条堀川邸に刺 かな構成はほぼ同じといえる。あらすじを簡単に記しておくと、 家物語』諸本に記され、細部に異同は認められるものの、大ま 討事件」が記される章段であろう。この事件はほとんどの『平 堀川に位置する義経の邸宅を襲撃した事件、いわゆる「堀川夜 生い立ちが語られるのは、頼朝の刺客である土佐房昌俊が六条 申たる。 (巻第十一「嗣信最期」) 右の引用部分は、義経主従の一人である佐藤嗣信が、義経の り、粮料せをうて奥州へ落ちまどひし小冠者が事か」とぞ てありしが、鞍馬の児して、後にはこがね商人の所従にな る事あり。一とせ平治の合戦にちゝ討たれて、みなし子に の御末、鎌倉殿の御弟、九郎大夫判官殿ぞかし」。盛次、 「さ ゆませ出でて申けるは、「こともおろかや、清和天皇十代 の源氏の大将は誰人でおはしますぞ」。伊勢三郎義盛、あ 上はるかにへだゝッて、その仮名・実名分明ならず。けふ 客として土佐房を送り込むが、弁慶や静など義経主従の活躍に 身代わりとなって命を落とすという有名な章段の一部である。 (越中次郎兵衛盛次)「名のられつるとは聞きつれども、海 阻まれ、その結果、土佐房の夜討は失敗に帰し逃亡することに では、『平家物語』において「義経の生い立ち」は、どのよ なる。その後、鞍馬の僧正が谷に逃げ込んだ土佐房を捕えたの 傍線部からわかるように、義経の生い立ちを平家の郎等である うに記述されているのだろうか。『平家物語』において義経の が、義経の縁故である「鞍馬」の人々であった。覚一本『平家 で過ごした後に奥州へ下ったことが記されており、先に確認し 盛次が語るという叙述になっているが、ここでも、義経は鞍馬 土佐房たけくよせたりけれども、たゝかふに及ばず、散々 以上より、『平家物語』では、義経の生い立ちに関して鞍馬 た『吾妻鏡』の内容とほぼ同じ記述となっていることがわかる。 物語』の当該部分を引用してみよう。 にかけ散らされて、たすかるものはすくなう、討たるゝも で過ごした後に奥州へ下ったという認識がなされていることが のぞおほかりける。正俊希有にしてそこをばのがれて、鞍 わかる。そして、これは『吾妻鏡』の記述とほぼ同じであり、 一四世紀頃には、義経の生い立ちについて如上の認識が広く存 馬の奥ににげ籠りたりけるが、鞍馬は判官の故山なりけれ ) ば、彼法師、土佐房をからめて、次日判官の許へ送りけり。 ( 僧正が谷といふ所に、かくれゐたりけるとかや。 7 - - 42 6 しかしながら、『義経記』では、これまでにみてきた『吾妻鏡』 を決意し、鞍馬の東光坊阿闍梨のもとに義経を預ける。こうし (巻第一「牛若鞍馬入の事」) とあり、義経が七歳となった年、常盤は義経を法師となすこと 在していたものと考えられよう。 や『平家物語』とは、異なった地名が義経の生い立ちと結び付 て義経の幼少期を語る基盤は、山科から鞍馬へと転換していく き者よりも、心ざま、振る舞ひも越えたりしかば、清盛つ た様子が記され、巻第四のはじめには、浮島が原における頼朝 を奥州にて耳にした義経が急いで戦場へと向かっていく緊迫し そして、『義経記』巻第三の終わりでは、頼朝挙兵の知らせ のである。 ねは心にかけて宣ひけるは、「敵の子を一つ所に置きては、 と義経の対面の場面が置かれている。 弟の牛若は、四つの歳まで母のもとにありけるが、世の幼 けられる。以下、本文を確認していこう。 終にはいかがあるべき」と仰せられければ、京より東、山 御目にかかりて候ふやらん。配所へ御下りの後は、義経も 暫くありて御曹司申されけるは、「仰せのごとく幼少の時、 科といふ所に、源氏相伝の者遁世して幽かなる住居にてあ りけるところに、七歳まで置きて育てけり。 頭注には、「半井本『保元物語』に「山階に下野守殿(源義朝) ある山科に置かれていたという。これについて、『義経記』の 「源氏相伝の者遁世して幽かなる住居にてありけるところ」で を置くのはいかがなものか」と懸念したため、義経は七歳まで をば君に参らする上は、いかが仰せに従ひ参らせでは、候 り候ふ心地してこそ存じ候へ。命をば故頭殿に参らせ、身 へず馳せ参る。今君を見奉り候へば、故頭殿の御見参に参 衡を頼みて候ひつるが、御謀反の由承り、取る物も取り敢 平家内々方便を作る由承り候ひし間、奥州へ下向仕り、秀 歳まで形の如く学問を仕り、さても京都に候ふべかりしを、 山科に候ひしが、七歳になり候ふ時、鞍馬に候ひて、十六 の所領也ける所」とあり、当時、山科に源氏の所領があり、そ (巻第一「常盤都落の事」) 義経は四歳まで母常盤のもとで育てられたが、清盛が「敵の子 の関係者がいたらし」いとあるが、他史料では確認できず、判 司を大将軍にて、平家の討つ手に向けられける。 ふべき」と申されけるこそ哀れなれ。さてこそ、この御曹 東光坊の阿闍梨、返事申され候ひけるは、「故頭殿の君達 然としない。次の記事をみてみると、 にてわたらせ給ひ候ふなるこそ、ことに悦び入りて候へ」 傍線部に着目すると、「義経も山科に候ひしが、七歳になり候 (巻第四「頼朝義経対面の事」) 頼朝との対面を果たした義経は、今までの経緯を頼朝に語る。 とて、山科に急ぎ御迎へに人を参らせたりければ、七歳と 申しける二月の初め、鞍馬へとてぞ上せける。 - - 43 十六歳までの生い立ちを山科と鞍馬という二つの地に結びつけ ように、義経は山科から鞍馬への移動について触れたうえで、 ふ時、鞍馬に候ひて、十六歳まで形の如く学問を仕り」とある していたというような義経と山科を直接結びつける記事や物語 れていた基盤について探っていく。しかし、義経が山科に潜伏 本章では、山科と義経の関連に焦点を当て、義経伝承が語ら 三、義経の周辺と山科―音羽郷を中心に ( 義経の周辺から探っていくことにしたい。 ) などは、『義経記』を除き、管見の限りでは見つからないため、 て語るのである。 以上みてきたように、『義経記』において、義経は四歳から 七歳まで山科で育てられ、それから十六歳までは鞍馬で過ごし ( ) 義経の周辺を探っていくにあたり、示唆を与えてくれるのが、 義経、身体髪膚を父母にうけて、いくばくの時節をへず。 鈴木孝庸氏の『平家物語』における義経伝承に関する指摘であ 故守殿御他界の間、みなし子となり、母の懐のうちにてい 『平家物語』では、鞍馬と奥州に結び付けて語られていた義経 奥州だけでなく山科の地にも結びつけて語られるようになるの る。氏は、 である。『義経記』における「義経の生い立ち」と山科の関わ だかれて、大和国宇多郡におもむきしよりこのかた、いま ) だ一日片時、安堵の思ひに住せず。 ( りについては梶原正昭氏が夙に指摘しているところだが、こう いるといえよう。この知見を念頭に置きつつ、次章では、山科 物語を生成・管理するような基盤が存在していたことを示して れは『義経記』成立の時代となり、山科において義経に関わる 付け加えられたということは何を意味しているのだろうか。こ では、時代が下り、「義経の生い立ち」を語る基盤に山科が 分に着眼すると、 るが、先に引用した「母の懐のうちにていだかれて」という部 を連れて都落ちをするという一連の話を指していると考えられ 記される、常盤が義朝討伐の知らせを耳にし、三人の子ども達 べている。氏の述べる「常盤の逃亡譚」とは、『平治物語』に 治の乱後の母(常盤)の逃亡譚との関わりを想像させる」と述 て頼朝に向けて記したという「腰越状」の一部を引用し、「平 (覚一本『平家物語』巻第十一「腰越」) という、鎌倉に入ることを許されなかった義経が、腰越におい して『平家物語』などと比べるとその違いはより顕著に現れよ の生い立ちが、年代を下り『義経記』の時代になると、鞍馬や たという設定になっていることがわかる。注目すべきことに、 9 おさなきをふところに抱きて、夜もすがら泣かせじとこし - - 44 10 における義経伝承を語る基盤について検討していきたい。 ているのかが看取される。 は、一箇所しか見えず、『義経記』がいかに山科の地を重視し う。ちなみに、覚一本『平家物語』において「山科」という語 8 ( ) ( ) 山科と常盤の関わりについては、梶原氏による興味深い指摘 い立ち」と山科の関わりを指摘し、山科における義経伝承の基 がある。氏は、前述した通り、『義経記』における「義経の生 (『平治物語』中「常盤落ちらるる事」) という部分が特に意識されているのではないかと推察される。 盤を探っているが、その過程で山科と常盤伝承の関係にも言及 に成立したとされる『異本義経記』に、常盤の門葉であり、義 している。その要旨を簡潔にまとめると、氏は、江戸時代初期 盛 次、「 さ る 事 あ り。 一 と せ 平 治 の 合 戦 に ち ゝ 討 た れ て、 経の乳母の親でもあった増尾十郎兼房の隠遁地が「山科の音羽 ) みなし子にてありしが、鞍馬の児して、後にはこがね商人 の郷」にあったという記述がみえることから、山科の東部にあ ( の所従になり、粮料せをうて奥州へ落ちまどひし小冠者が ) る音羽郷に着目し、さらに、常盤をめぐる物語が清水寺の観音 山城に迷ひありきしを、故太政入道殿たづね出ださせ給ひ 治に父義朝は討たれぬ。母常盤が腹にいだかれて、大和、 盛嗣あざわらつて、「それは金商人が所従ござんなれ。平 ばれるこの音羽の地にかかわりを持っていたということは、考 して「常盤にかかわりの深い増尾十郎が、清水寺の奥の院と呼 れる法厳寺(現牛尾山法厳寺)という古刹に注目している。そ (滋賀との県境)の山中に位置する〈清水寺の奥の院〉と呼ば 以上、梶原氏の見解を要約して記したが、詳細は明らかにされ しが、『をさなければ不便なり』とて、捨ておかれ給ひし ) ていないものの、音羽郷の法厳寺周辺が義経縁者に少なからず 関わる地であると考えられ、突きつめて調べてみる価値は大い では、音羽郷とは、どのような地域だったのだろうか。まず、 (巻百一句「屋島」) と、百二十句本に「常盤の話」(傍線部)が入り込んでいるこ 経の伝承に常盤の伝承が関わっていることは、義経伝承を語る 位置し、北は四ノ宮、南は東野と大塚、東は小山、西は竹鼻の 『史料京都の歴史』によれば、「音羽村」は、山科盆地の東部に にあろう。したがってここからは、法厳寺の周辺について考察 基盤について考える上で示唆に富む。したがって、まずは山科 を進めていきたい。 における常盤と関わりのある地を探っていくことにしたい。 とを指摘している。つまり、義経の伝承は、常盤の伝承と混同 ( 供して奥に下りし者にこそ」と申しければ、 えてみるべき問題を含んでいるように思われる」と結んでいる。 利生譚として流布したという日下力氏の論考を踏まえ、音羽山 ( (巻第十一「嗣信最期」) 句本「屋島」の対応部分を比較して、 そして、鈴木氏は、次に引用する覚一本「嗣信最期」と百二十 らへける、心の中いふはかりなし。 13 ほどに、鞍馬の稚児にして十四五までありけるが、商人の 事か」とぞ申たる。 15 14 して伝承された可能性が指摘されるのである。このように、義 12 - - 45 11 山科七郷の一つで、小山・竹鼻・音羽から構成され、ほぼこの 各村と境を接するという。そして、「音羽郷」は中世における も伝えられていることから、早くに伝承化され、定型化した筋 や『今昔物語集』だけでなく、同じ山科の天智天皇陵について を発見して昇天を悟ったという伝承を指す。)は、『扶桑略記』 延鎮が去っていった行叡の行方に関し、履物が残されているの ) 郷域の範囲が古代からの音羽にあたると記される。また、音羽 書が組み込まれた可能性が大きいと述べる。しかし、清水寺と ( は、単に景勝地としてのみ知られたわけではなく、山科の他の の関連を意識していることはその内容から明らかであり、法厳 ) 地域と同様に、平安時代から貴族や中央社寺などの荘園が設け 寺と清水寺のつながりが意識されているといえよう。この点に ( られていたという。次に、『京都市の地名』「法厳寺」の項をみ ついては、後述したい。 ) ると、「音羽山支峰牛尾山中腹にあり、本山修験宗(単立)。厳 ( 法寺ともいう。山号を牛尾山と称したが昭和二〇年(一九四五) ) ところで、中世における法厳寺はどのような様子だったのだ ( 牛王山と改称。本尊千手観音。清水寺(現東山)の奥院ともさ ) ろうか。『京都市の地名』によれば、中世以後、観音信仰の浸 ( 透とともに法厳寺も栄えていたとあるが、その隆盛は継続した ) れ た 」 と あ る が、『 都 名 所 図 絵 』 に「 真 言 宗 に し て、 本 尊 は 残っており、その大枠はほぼ同じであるという。近世に流布し ま た、 牛 尾 山 法 厳 寺 に は そ の 成 立 を 伝 え る 縁 起 が い く つ か 応仁二年(一四六八)五月九日条)、「牛尾観音参詣也、」 (『同書』 みれば、「本所(山科言国)牛尾観音御参詣也、」( 『山科家礼記』 大沢久守が大部分を記した日記『山科家礼記』がある。それを としては、山科七郷に対し多大な力を持っていた山科家の家司 のであろうか。あまり史料は残っていないが、信頼できる記事 ていたという『牛尾山法厳寺略縁起』をみてみよう。その要旨 文明一二年(一四八〇)三月五日条)とあり、山科家の人々が ) ) をまとめると次のようになる。大和国小嶋寺の僧延鎮に感夢が 「牛尾観音」、すなわち牛尾山法厳寺に参詣していることが知ら ( あり、延鎮は金色に流れる水に導かれ、今の清水寺の建つ音羽 れる。当時において、「牛尾観音」信仰の浸透していた様が看 ( 山に入山する。そこには草庵が結ばれ、その内には行叡という 取されるだろう。また、次のような説話が法厳寺に伝承されて 藤直氏は、履沓の遺存から昇天を知るという主題(ここでは、 一、昔日応安の比 当山焔焼の事ありき 殿閣悉く消失し き 本尊大悲の像烏有たる事をしらず 共に化燼し給ふか 白髪の老翁が佇んでいた。行叡は延鎮に清水寺の建立を託し、 ( 十一面観音なり」とあり、古くは真言宗系の修験院だったこと 22 東に去ってしまうが、その後、延鎮は牛尾山にて行叡の履を見 が知られる。 23 いる。 20 根本奥院」と称するということである。この縁起について、武 21 - - 46 17 16 つけ、そこに伽藍を建立する。それゆえに、法厳寺を「清水寺 19 18 と 諸徒歎然する事限なし 其比小山の邑に 内海の覚念 と云人ありき 其夜夢みらく 白眉の翁念に告て曰く 我 山焼失たりといへども 垂迹は棲閑寺の本殿に入る 汝我 マ マ が為に還帰の計を成すべしと給ふ 念不思議の事と思ひ 翌日彼寺へ趣 夢の事を語り給ふ 一人の耆宿あり 瞿然 として曰 我亦汝が言のごとく不思議の告を得たり 符節 を合するがごとくとて 棲閑寺の内殿の扉を開き見れば 大悲の尊容儼然たり 両士是ぞ奇異の事なりと 喜とする 事 限なし 念荷担して 七聚落の庶民を駆せ 此山の暇 ) 殿に納め給ふ 今の本尊是也 此内海の子孫相続して 今 に小山の邑にあり ( 安の頃は南北朝の内乱の真っ只中であり、火災が起こったとい うのはあり得ない話ではなかろう。また、「旧地ハ今ノ山上在 ( ) 四 五 町、 中 比 大 ニ 衰 フ、 如 今 ハ 近 世 ノ 再 建 ナ リ 」(『 山 州 名 跡 志』)とあり、法厳寺は今の場所よりも四、五町上に位置してい たというが、中頃に衰えたため、今の場所に移したという。詳 細な年代は不明だが、一次史料である『山科家礼記』に牛尾観 音参詣の記事が確認できるため、少なくとも中世後期において、 牛尾観音信仰は栄えていたと考えられる。 前章では、梶原氏の指摘を基に牛尾山法厳寺についてみてき 四、牛尾山法厳寺の周辺―説話の生成・管理の場としての性格 たが、本章では、中世において法厳寺の周辺に説話を生成・管 理するような性格があったという可能性を指摘したい。 法厳寺の周辺では、常盤伝承と関わりの深い観音利生譚系の ) 説話が伝承されている。まず、『内海家文書』という山科小山 首を枕石にもたせ寝る事昼夜を知らす。鼾の音一町余も聞 に牛尾山の麓蛇が淵といふ所に来り、川水に其身を冷し、 を知らず。時に人王九十四代花園の帝、正和二年七月三日 し、餌に飢たる時は近在の山人、往来のものを取喰事、数 古より数十丈の大蛇住けり。常には猪鹿狼猿狐兎の類を服 醍醐山聖宝尊師開基之霊場に蛇谷といふ所あり。此谷に往 ( え る も の で あ る。 要 約 す る と、 応 安 の 頃( 一 三 六 八 ~ の内海家に伝わる文書をみてみよう。そこには、次のような説 ) 一三七五)、当山は火災に遭い、その時本尊大悲の像が消失し ( てしまったが、内海覚念なる人物の夢に白眉の翁が現れて、 「垂 話が記されている。少し長いが、全文引用する。 寺」にいってみると、同じ夢を見た老人と出会い、夢を確かめ るために内殿を開けたところ、本尊大悲を発見し、皆喜ぶこと は限りなかった。その後、覚念は本尊大悲を法厳寺の殿に納め、 成立が江戸ということもあり、容易には信じられないが、応 内海の子孫に相続したという。 27 - - 47 26 迹は棲閑寺(清閑寺)の本殿に入っているから、帰山できるよ この説話は、 『牛尾山法厳寺縁起 什牛尾山法厳寺』(以下、 『法 厳寺縁起』と記す。)という江戸時代初期に成立した縁起にみ 24 う取り計らってほしい」とお告げをした。翌日、覚念が「棲閑 25 し。其時に小山の里に内海山城守四世の孫内海浪介景忠と ゆ。故に諸人怖れをなし、往来絶て観音参詣の人も更にな 大熟の苦を今宵中に相果べし。仍而我、汝に此薬法を与ふ。 音参詣山人の往来を救大仁者也。然るに汝蛇の鱗毒に中り、 この説話を要約すると、牛尾観音への参詣を妨害する大蛇を 且黄金を附属す。是は龍宮界の黄金なり。是を以て右之薬 内海景忠が退治するも、鱗の毒にあたり、ひどい痛みに襲われ 法を調合し服用すべしとの給いて、いづくともなく失給。 と引しぼり、ひやうと放つにあやまたず大蛇の首を射貫け る。しかし、どこからともなく老医が現れ、景忠に薬法と「龍 申て、背の高さ六尺五寸、四角八面にして力量類を知らす、 り。彼大蛇大きに驚き、蛇か淵に退き傍を白眼。其隙に景 宮界の黄金」を授けると、そのまま姿を消してしまう。これを 近国に隠れなき大剛の強兵あり。此者常に弓箭の道を好き、 忠、再び乙矢を以て射懸ければ、正中を射通しけり。其時 景忠は「観音の教」と思い、牛尾観音の霊験の薬法として当家 景忠心に是観音の教成べしと、早連調合し用ゆるに、果し 大蛇なを傍を見渡し、勢烈敷見し所を、景忠東の山原に廻 で相伝した、というものである。この説話は、「牛尾観音」の てどゝ熟涼て、心持常の如くに成、大切能を得たり。故に り、大盤石を引起し、遙に投掛けれは、大蛇ハ刹那が間に 霊験譚といえるが、眞下美弥子氏が指摘するように、前半と後 自弓を削り矢を矧事を得たり。右の怪を聞付、観音参詣の 死す。不思議成かな。其節、洛陽清水寺音羽の滝水、一日 半に二部することができ、前半は内海景忠なる人物が大蛇を退 人なき事を歎、諸人の難儀を思ひ、手馴し弓に鋒矢を揃へ、 一夜紅の如し。扨右の様子、村の人々伝え聞、追々馳登り、 治するという英雄譚、後半は牛尾観音からの製法伝授による薬 此薬ハ牛尾山観世音の霊験の薬法なり。則金屑丸と号て我 藤蔓などにて大蛇を繋、暫しが内に小山の里に引おろす。 法の由来譚という二つのまとまった話から構成されているとい が家一子相伝して弘而已。 近在近国の人々夥敷見物、田地も山林も踏散し、村の百姓 える。さらに、同氏は、内海家がこの説話を描いた「絵解き」 彼の蛇が淵に至り、件の様子を窺ふに、大蛇余念なく寝入 難儀に思、田地の損ずる事を難き、里より下へ引下シ、真 も所有し、また江戸の元禄(一六八八~一七〇四)頃に、牛尾 - - 48 たる体、能時節と思比、持たる弓に矢をつがひ、きり〳〵 柴を以て焼失せり。事いまだ終ざるに、大雨頻にして洪水 山法厳寺の住職を務める一方で製薬業を営んでいた内海覚念な ) 甚し。其焼失の所は川の瀬被成、夫より其芝を焼芝と申な る人物がいたことから、「文書」「絵解き」はともに内海家が牛 ( り。其節浪介、彼大蛇の鱗を足の七毛に蹴立、次第に痛絶 マ へかたく、医療験なし。其時同七月十日暮方に老翁来て曰 尾山との関わりの中で製薬を業とした時代に、家の先祖の事と マ く。我は近所に住む老医なり。汝此比比類なき高名し、観 28 して書かれ描かれたものであったことが想像されると述べてい ②、又近比国一郡の主たりし人ありき 家富有にして官職 宮門に侍して 厚恩をうけたまふ の説話は、江戸元禄期辺りに成立したものと推測され、この内 る。つまり、氏の見解に従えば、『内海家文書』に記されるこ 海家が法厳寺周辺における説話の生成・管理に携わっていた可 ③、又洛陽の傍 鳥羽の辺に貧女あり 常に当山の観世音 事を願ひしに 感応徒ならず 月を遷さずして 其の妻懐 孕せり 終に聡明睿知の男子を得たりとかや しな(品)高き 然ども来世を嗣ぐ子孫なかりしかば 丹 誠を抽て 当山幷石山の観世音に祈誓して 一子を求めん 能性が窺えるのである。また、改めて着目したいのは、説話の 前半部である景忠の大蛇退治譚である。眞下氏は、大蛇退治の 説話に関して「水の神への畏怖を表すこのような大蛇伝説は、 それが現存するような霊験譚の形を持つに至るには、法厳寺に 実りを渇望した土壌との関わりの中で生成されたものであり、 関わる宗教者の介在のあったことが推察されよう」と述べ、『内 に 白衣の翁示現し宣ふ様は 汝常に勧世音を念ずる事 大悲の感に應じたり 我願成就ぜしめん 其験に一種をあ 養すべき便なし 大悲の加被にて 今一度世にも出 老母 を安楽たらしめ給へと 信心に祈りければ 結願の夜の夢 を信んじ 或時七日籠居て ふかく祈念し侍るは 我いか なる宿業にや か様の貧き身となり 一人の老母をだに孝 海家文書』にみえる大蛇退治譚生成の背景には、山科が古くか ら用水不足に悩まされていたという状況があったことを指摘し ている。つまり、氏の指摘を踏まえると、少なくとも江戸前期 においては、法厳寺の周辺に説話などを生成・管理するような また、先に挙げた『法厳寺縁起』の中にもいくつかの説話が 側面があったといえよう。 東の空も明なんとする時 只一人いそぎ下向するに 路次 にて 騎馬の武士のきらきらしきが行あひて いかなる人 たふる也とて 玉環を授け給ふとおぼへて 覚てける あ たりを見れば 其環我前にあり 難有事と頂戴懐中して ①、洛陽の傍にひとりの女子あり 常に観音を念ず 別し ぞと深くあやしめける程に 身のさすらひを語りけり 便 なき御身なりせば 今われ大番つとめて 本国へ罷下く程 伝承されている。以下、法厳寺の伝承についてみてみよう。三 て当山に運歩して 誓願すらく 賤家に生を受(け)貧苦 す 今本尊の大悲を蒙りて 一生の中 貴人の下にいたる に ぐしまいらせんやと とひけるけはひ 色に見へぬる はどに佛の御計にやと信じて 様なく領状し侍るに やが つの説話を抜粋する。(便宜上、①~③と番号を付す。) べしと 信心深かりければ 本尊願力に應じ給へるにや 或時洛中高官の公卿にまみえて 頻に寵愛せられ 終に - - 49 て老母も貧女もともなひてこそ下けれ 国にいたりで 後 らしく、瞽女は自らの眼病治癒を祈りつつ、子安塔に参詣する する場所であるが、日下氏によると、眼病治癒の霊験もあった な話の内容となっている。①、②と比べ、「鳥羽」や「安房の国」 えよう。そして、③は少し長いが、①と②の話を合作したよう 懐妊し聡明な男子を産んだという話で、これも観音利生譚とい を当山並びに石山の観音に祈誓したところ、月を跨がずに妻が いう観音利生譚であり、②は後継者のいない郡主が、子の誕生 が貴人との婚姻を願い観音を信仰し続けた結果、願いが叶うと や 随分有徳の国大名とぞ聞えし 有がたき 御利生也 簡潔に①~③の説話に関する概要を示しておくと、①は貧女 り、日下氏の指摘を踏まえれば、瞽女など盲人の存在があって りを窺わせる。また、法厳寺にも「千手観音」が安置されてお 貧女の説話や安産・妊娠に関わる説話があり、清水寺との関わ 如上の氏の指摘を踏まえて先に列挙した説話に目を向けると、 ついてみてきたが、女性や盲人と結びつきの強いことがわかる。 いた」と指摘する。以上、日下氏の論考に沿って清水寺周辺に 尊と仰ぐ清水寺は、元来、盲人の信仰を集める力を内在させて また後者についても、眼病治癒の信仰があり、「千手観音を本 婦女子をあてに生活の糧をも得ていたのだろうと述べている。 など具体的な地名がみえ、地方に伝承される説話との関わりな も不思議ではなかろう。後述するが、音羽の北側にある四宮河 立と思われるものである。では、中世においても法厳寺の周辺 しかし、ここまで挙げてきた史料はいずれも江戸初期頃の成 たりぬと、流す涙を袖に裹み、東路や今日ぞ始めて踏み見 の関にかかり、都の方を顧み給ひて、いつしか大内山も隔 - - 50 楽 の 心 浅 か ら ず 子 息 あ ま た 出 き て 安 房 の 国 に 某 と か ど様々に検討の余地があるが、観音を信じ祈り続けた結果、報 ) 原には、琵琶法師の集団がたむろしていたという指摘がなされ の清水寺に関する指摘と関わり合うところがある。日下氏は前 に説話を生成・管理するような性格はみられるのだろうか。そ も、説話を語る存在がいたことを想定することができよう。 ている。これらのことを踏まえれば、先に挙げた説話の背後に ( われるという①、②と類似した話型が指摘できよう。 前章で述べたように、法厳寺と清水寺は縁起において関連が みられたが、『法厳寺縁起』にみえるこれらの説話も日下力氏 ) 掲の論考で「常盤の物語が清水観音の利生譚として世に流布し る。そして氏は、清水寺の西門に瞽女がたむろしていたことを かくて内大臣父子、美濃守則清以下都を出で給ひて、会坂 始めたであろうことは、容易に想像がつく」と述べた上で、 「そ ) 述べ、その理由として「子安塔」と「千手観音」の存在を挙げ 給ひける。昔、蝉丸といひし世捨人、山科や音羽の里に居 ( は な る ま い 」 と、 清 水 寺 と 女 性 と の 深 い 関 わ り を 指 摘 し て い こで、次の資料をみてみたい。 ( 31 の背景に清水寺と女性との強い結びつきがあった点を看過して 29 ている。前者の「子安塔」は、その名の通り女性が安産を祈願 30 をしめ、この関の辺に藁屋の床を結びて、常に琵琶を弾じ る地として記されている。ここでいう「四宮河原」とは、山科 河原と名づけたり」とあり、「四宮河原」も蝉丸と関わりのあ る「四の宮川」付近一帯を指すという。また、四の宮は古くか 盆地の北東部に四の宮という地域があり、そこを斜めに貫流す つつ、和歌を詠じて思ひを述ぶ。 これやこのゆくも帰るも別れてはしるもしらぬも逢坂 の関 置かれていたことでも有名である。 ) ( ) り、蝉丸は素性がわからず、いささか伝説めいた存在といえる。 では、蝉丸と地名の関連について検討していこう。周知の通 ( ら交通の要衝地として諸文献にみえており、内蔵寮の率分関が 世の中はとてもかくてもありぬべし宮も藁やもはてし なければ 流泉・啄木の二曲を伝へんとて、博雅三位三年まで夜々通 ) しかし、『今昔物語集』などで「賤しい者」として扱われるの ( れば、この関のあたりをば四宮河原と名づけたり。 に対し、『源平盛衰記』では「延喜四宮」(醍醐天皇の第四皇子) 高貴なものに転じたのだろうか。かかる蝉丸の身分の変化に関 とされ、「聖」なる存在として記される。なぜ、蝉丸の出自が 右の引用は、『平家物語』の異本の一つに数えられる『源平盛 ず、傍線部に着目してみると、琵琶の名手として名高い蝉丸が、 坂の関」付近を通りかかった際、蝉丸のことが回想される。ま ことが記されている。この一行が山城と近江の境に位置する「会 への変身が、彼を神格化して共同体の祖神として崇めた放 いところだと思う。(中略)蝉丸における「賤」から「貴」 の身分に昇格させられていった経緯についてはまず動かな られ、併せて琵琶法師の語り物の中で「延喜帝第四皇子」 ものが、おそらくは王朝末期のころに神格化されて神に祀 賤しい素性の盲目芸能者の一人として語り伝えられて来た して、服部幸雄氏は、 昔、 「音羽の里」に居を構えていたと記されており、蝉丸と「音 浪芸能民の作為であったのは疑う余地がない ) 羽の里」が結び付けられているといえる。この「音羽の里」と えられ、また「音羽の里」とは、定義は様々にあるようだが、 と述べている。さらに服部氏は、蝉丸が「延喜四宮」とされる ) 理由について、「山科の四宮河原との関係が強く意識されてい ( た」と述べた上で、四宮河原は、仁明天皇の第四皇子で琵琶の ( は、「山科」とあることから俎上に載せてきた山科の音羽と考 られた内大臣父子(平宗盛・清宗)が、鎌倉へ護送される際の 衰記』の記述であり、壇ノ浦合戦での敗北の後、源氏方に捕え 君歌の事」) (『源平盛衰記』巻第四十五「内大臣関東下向附池田の宿遊 35 ひし所なりと思ひ出で給ひにけり。蝉丸は延喜第四の宮な 34 音羽の地一帯を指すと考えてよさそうである。次に波線部をみ 36 - - 51 32 れば、「蝉丸は延喜第四の宮なれば、この関のあたりをば四宮 33 名手であったという人康親王が、この地に隠棲し薨じたという 伝承からきた地名であり、蝉丸神格化の時代にはすでに「シノ ( ミヤ河原」と呼称されていたのは確実で、伝承の仁明天皇第四 ) 以上、法厳寺周辺における場の性格について論じてきたが、 あったと想像することは許されるのではないだろうか。 鎌倉後期から南北朝期にかけて成立したと思しい 『源平盛衰記』 に、「音羽の里」と琵琶法師たちによって神と崇められる蝉丸 が結び付けられることは、音羽周辺に琵琶法師の存在があった ) ことを示しているのではなかろうか。つまり、江戸期の法厳寺 ( ) しかし、本稿では、法厳寺周辺の場における一側面を指摘す 能性を指摘した。 説話を生成・管理するような性格が中世においてもみられた可 蝉丸説話と地名の結び付きに着眼して、牛尾山法厳寺の周辺に た牛尾山法厳寺の周辺という指摘を敷衍する形で論を展開し、 そして、山科における伝承基盤に関しては、梶原氏の提示され が山科に存在していたという仮説を立てて考察を進めてきた。 ることについて、『義経記』成立の時代に義経伝承を語る基盤 盤に、『平家物語』などとは異なり、山科の地が加えられてい 本稿では、『義経記』における「義経の生い立ち」を語る基 五、結びにかえて たといえよう。 ような性格があったという可能性の一端を提示することができ を得るには至らないが、法厳寺周辺に、説話を生成・管理する 成立頃まで遡ることができる可能性があると考えられる。確証 ( 周辺における説話を生成・管理するような性格は、『源平盛衰記』 また、兵藤裕己氏によると、四宮河原では人康親王の忌日であ 皇子人康親王に蝉丸伝説を重ねた作為であると指摘している。 37 る二月一六日に、当道座で最も重要な年中儀式である「石塔会」 が行われていたという。以上のことから、「四宮河原」は琵琶 法師と関わりの深い場であり、蝉丸と「四宮河原」の結びつき は、琵琶法師という語り側の要請によってなされたものである ) では、蝉丸と「音羽の里」が結び付けられていることは何を ( といえよう。 意味するのだろうか。蝉丸に拘りたい。先述したように、蝉丸 と「四宮河原」は、蝉丸を神と崇める琵琶法師たちの要請によっ て結び付けられていた。つまり、それを踏まえれば、蝉丸が「音 羽の里」と結び付けられる背景には、琵琶法師の存在があった と考えられるのではないだろうか。琵琶法師と関わりの深い四 宮河原と音羽が距離的に近いことも傍証になり得よう。また大 川信子氏は、山科家が琵琶法師の庇護者としての位置にあった 可能性に言及した上で、時代は下るが『言継卿記』に四宮河原 ) を山科家が領有しているという記述があることに着目し、四宮 ( 前章で提示した通り、山科家の人々が「牛尾観音」に参詣して いたことを鑑みれば、法厳寺の周辺にも琵琶法師などの存在が 41 38 河原の琵琶法師と山科家の関わりを想定している。このことと 40 - - 52 39 の具体的なつながりにまで言及することは叶わなかった。当然、 るのみに留まってしまい、法厳寺と義経伝承、乃至は常盤伝承 による。以下、同じ。 一九三五年)に拠る。書き下しは、特に断りのない限り引用者 だが、『吾妻鏡』や『平家物語』には「奥州」と表記されている (6)最近の動向としては、「奥州」ではなく「平泉」と呼称するよう ので、本稿では「奥州」と記すことにする。 歴史的・地理的な知見をテキストの読みに還元することが求め られる。今後はそうした作業を行っていく必要があろう。また、 (8)梶原正昭「『義経記』における伝承基盤―山科・宇陀を例として―」 同じ。 本 古 典 文 学 大 系 四 五( 岩 波 書 店、 二 〇 一 〇 年 ) に 拠 る。 以 下、 (7)覚一本の引用は、梶原正昭・山下宏明校注『平家物語下』新日 本稿でも度々触れたが、山科家の存在も看過できまい。山科に おける説話の生成や管理について、山科家の関与は少なからず あったと思われ、調べてみる価値はある。課題は尽きないが、 これをもって結びにかえさせていただく。 (9)源氏と山科の関わりについては、次のような記事がみえる。 (梶原正昭編『曾我・義経記の世界』、汲古書院、一九九七年) ご家族には、貴重な史料群を閲覧させていただくなど、多大 (『吾妻鏡』文治三年(一一八七)四月一日条) 申さる、山科澤殿領便宜の地有り、所望すと云々、 □然るべき地無きの間、欠所給はるべきの旨、帥中納言に な る ご 厚 意 を 賜 り ま し た。 心 よ り 感 謝 申 し 上 げ ま す。 ま た、 京都の歴史研究に尽力しておられる中村正司氏より少なから ぬご教示をいただきましたこと、深く御礼申し上げます。 洛辺に御亭を建てらるべきの由、日来沙汰有り、而るに当 [付記]本稿を成すにあたり、牛尾山法厳寺ご住職田中祥祐氏とその 注 ある。この「山科澤殿」とは、後白河院が山科に建立した御所 右は、頼朝が後白河院に「山科澤殿領」を所望している記事で のことを指し、その場所は西井芳子氏によると、山科東部の大 (1)島津久基『義経伝説と文学』(明治書院、一九三五年) (2)角川源義『語り物文芸の発生』(東京堂出版、一九七五年) 会編『後白河院:動乱期の帝王』、吉川弘文館、一九九三年))。 宅村内であるという(西井芳子「山科御所と御影堂」(古代学協 本 古 典 文 学 全 集 六 二( 小 学 館、 二 〇 〇 〇 年 ) を 用 い る。 以 下、 (3)本稿では、田中本を底本とする梶原正昭校注『義経記』新編日 を見つけることは困難である。 (『玉葉』文治三年四月二四日条)ようで、源氏と山科の関わり ところが、後白河院は頼朝の要望を受け入れることはなかった (4)引用文の傍線は、すべて引用者による。以下、同じ。 同じ。 (5)引用は、黒板勝美編『国史大系 吾妻鏡』第三二巻(吉川弘文館、 - - 53 ( ( ( ( ( )鈴木孝庸「義経伝承の変遷」(鈴木佳秀編『神話・伝説の成立と その展開の比較研究』、高志書院、二〇〇三年)以下、鈴木氏の 引用はすべてこれを指す。 ( 三年) ) 山科七郷の事 一郷 野村 領主三宝院 一郷 大宅里 山科家知行 南木辻 一郷 西山三宝院 大塚聖護院 )引用は、栃木孝惟ら校注『保元物語 平治物語 承久記』新日 本古典文学大系四三(岩波書店、一九九二年)に拠る。なお、『平 一郷 北花山 下花山青連院 上花山下司ヒルタ 門跡 一郷 安祥寺勧修寺門跡 上野上野門跡 四宮河原北山竹内 一郷 御陵陰陽頭在盛 厨子奥花頂護法院 治物語』中の底本は、学習院大学図書館蔵本である。 集成四七(新潮社、一九八五年)に拠る。 )百二十句本の引用は、水原一校注『平家物語下』新潮日本古典 )注8に同じ。 一郷 音羽 小山 竹鼻清閑寺 已上七郷 )叡山文庫蔵『異本義経記』(高橋貞一『異本義経記』(『佛教大学 研究紀要』五七号、一九七三年))の「増尾十郎権頭兼房」の項 合力在所事 ( ( ( (『山科家礼記』応仁二年(一四六八)六月十五日条) )『史料京都の歴史一一 山科区』(平凡社、一九八八年)「音羽村」 続群書類従完成会)に拠る。以下、同じ。 なお、引用は、豊田武・飯倉晴武校訂『山科家礼記』(『史料纂集』 此外東山辺可然在所可被成御奉書候、 勧修寺 三井寺 三宝院 粟田口 小松谷 には次のような記述がある。 増尾十郎権頭兼房は、近衛院の役人にて有りしぞ。常盤の 門葉にて義経の乳母の親也。丹波の国馬路の郷を領知せり。 彼の所の百姓と平家の侍、越中守盛俊が領分の百姓と水掛 の論に付き、兼房が百姓を農具にて打殺したり。兼房此の 事を聞き、安からず思ひ、殺されたる者の一子十四五に成 りける童に、吾が家人を相添へ、盛俊が百姓の家へ押込み、 念なう敵を討たせたり。此の事兼房が所為にて善悪の沙汰 も な く、 清 盛 公 の 計 ら ひ に て、 馬 路 の 郷 を 没 収 せ ら れ て、 山科の音羽の郷に閉居したり。 )日下力「『平治物語』常葉譚考」(『国文学研究』八〇巻、一九八 傍線は引用者による。なお、旧字体は適宜、字体を改めている。 ( )『京都市の地名』日本歴史地名大系二七(平凡社、一九七九年) は、芝野康之氏の執筆である。 17 )引用は、秋里籬島『都名所図絵』(『新修京都叢書』第六巻、一 山科区は、井上満郎氏の執筆による。 18 九六七年)に拠る。 19 - - 54 16 10 11 12 13 14 15 )牛尾山法厳寺縁起の大枠については、鏡山次郎氏によってまと (つむぎ出版、二〇一五年)) められている。(鏡山次郎『音羽の山寺―牛尾観音 法厳寺史―』 ぢし奉る。弘仁年中建立以来、九百六十余年におよふ。応 製作なし給ふを、ゑんちん霊夢によつて、奥院本尊にあん 九寸の尊容、天智天皇為御願成就の、志賀の都におゐて御 清水寺根本奥院と申なり。則本ぞん千手観音、御たけ弐尺 )以下、『牛尾山法厳寺略縁起』(『観音』三巻二号、一九三四年) の全文を記しておく。なお、旧字体は適宜、字体を改めている。 安年中に、伽らん悉く焼失して、漸たゝ今ハ、一宇一坊成。 るまで諸人あふき奉る。か程あらたなる霊仏、信心して諸 境内古跡ハ、此牛尾山ノ事也。霊げん奇瑞なる事、今に至 願成就せすといふ事なし。仍而略縁起の旨趣、かくのことし。 法厳寺 安永八己亥年(一七七九)三月二四日ヨリ五月十五日 マテ五十日開帳 に拠る。 に同じ。 山清水寺、一九九五年) )注 )引用は、注 )沙門白慧『山州名跡志』(『新修京都叢書』第十六巻、臨川書店、 ていた。これと関係があるのだろうか。 二年の時点では、音羽・小山・竹鼻は清閑寺によって知行され )「棲閑寺」は清閑寺を指すと考えられ、注 に記したように応仁 )清水寺史編纂委員会編修『清水寺史』第一巻 通史(上)(音羽 抑 山城の国宇治郡山科牛尾山法厳寺本尊千手観音ハ、洛陽 ( ( ( ( 清水寺根本奥院と号して、山科音羽村のおく小山村の上に 牛尾山法厳寺略縁起 あり。清水寺より一里半有、行叡居士延鎮之古せきにして、 観音の浄土ふたらくせんと本縁にも有之。むかし大和国小 しま寺のゑんちん、常に観世音を信し給ふ、ある時感夢あ りて、淀川の流れに金色の光さす、たつね登りて見給ふに、 山城国愛宕郡八坂東山の上に登る。瀧の上に一ツの草庵あ り、今の清水寺是也。内にははくはつの翁一人おわします。 延ちん、汝何人ぞと問給ふ。おきな答て曰、我は行叡とい ふ者なり、汝を待つこと年久し、今爰に来るを喜とするに たれり、此処を汝に付属すへし、我常に千手観音の威神力 を念じ、口に千手の真言を誦し、年ひさしく此に住、我東 行の志あり、我が跡を知らんとおもはは、はいたる所の履 ( ( に拠る。 一九六九年) )引用は、注 )眞下美弥子「説話の生成と絵解き―山科内海家蔵絵解きの作製 17 の有所を、我とゝまる所としるへしと、東をさして飛去給ふ。 此行叡と申ハ、生身の観世音なり、則今の牛尾山に跡をか くし給ふ。はたしてはき給ふ御くつ、かたし有。延鎮、あ りかたくおもひ、伽らん建立し給ふより以来、今に至るまて、 16 20 18 ( ( ( 22 23 24 25 26 27 を め ぐ っ て ―」(『 伝 承 文 学 研 究 』 四 三 号、 一 九 九 四 年 ) 以 下、 28 - - 55 20 21 ( ( ( に同じ。以下、日下氏の引用はすべてこれを指す。 観音利生譚三九話のうち、女話が一〇話を占めており、地蔵霊 などを参照されたい。 )服部幸雄「逆髪の宮(上)―放浪芸能民の芸能神信仰について―」 (『文学』四六巻四号、一九七八年) )服部幸雄「逆髪の宮(下・一)―放浪芸能民の芸能神信仰につ に同じ。 いて―」(『文学』四六号一二号、一九七八年) )注 )「延喜四宮」と「四宮河原」の関係については、大川信子「平家 物語「海道下」覚書―蝉丸をめぐって(二)―」(『常葉学園短 ( ( に同じ。 期大学紀要』二一号、一九九〇年)に詳しくまとめられている。 )注 39 )中世における法厳寺周辺においても江戸期と同様に観音利生譚 40 眞下氏の引用はすべてこれを指す。 )注 )日下氏は、その根拠として『今昔物語集』巻十六にみえる霊験 験譚三二話のうち女話が三話しかみられない巻一七と比した結 果を挙げている。また、『今昔物語集』巻十一にみえる清水寺縁 起譚において、清水寺の建立に女性、しかも妊婦が関わってい ることにも注目している。 )兵藤裕己『語り物序説―「平家」語りの発生と表現―』 (有精堂、 一九八五年) )『源平盛衰記』の引用は、水原一考定『新定源平盛衰記』第六巻 に同じ。 (新人物往来社、一九九一年)に拠る。 )注 に同じ。「四ノ宮村」は、樋爪修氏の執筆である。 )『今昔物語集』巻第二十四「源博雅朝臣行会坂盲許語第二十三」 )注 18 ( ( ( ( ( ( ( ( 17 31 が生成され、語られていたかどうかについては、更なる検討が 必要不可欠である。本稿では、蝉丸説話と音羽の関連から琵琶 法師の存在を推定するに留まっており、具体的な説話までは言 (さいがまち/本学大学院博士前期課程) 及することができなかった。 - - 56 15 33 41 29 30 31 32 34 35 36 37 38 39
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