鬼房俳句と戦争について

 句
さんが
会
会
塩竈
月
塩竈
これを二、三
っと黒く
お手元にござ
りしました中に日本がち
います
うか
パネラーが、三句ずつ選
明したいと
いますでし
ン
年にですね、
これは
島の北の
北
にちいさな丸をつけてあり
が少しあって、昭和十五年一月、
朝
の
になっているんです
まあ色々な所に
々で
南
地が
いて
から
ここにしばらくいまして、それから中国
ですか、
へ行っています
口、今の武
、左下の
さらに
ね
もうほとんどロシ
地
北部ですね
を飛ばしたりする
の南
がロケッ
あとで分かったのですが、この地
という所でして、 ありまして、ここだけじゃありませんけども
ます
は北朝
との国
北朝
内地での
で
に
されております
んだ句の
分でご
ってある地図がございます
が、お
パネラー 関 悦史、矢本大雪、関根かな
作 品・
資料
参加 宇井十間 (小熊座5 月号掲載)
司 会 栗林 浩
句
鬼房俳句と戦争について
鬼房の戦歴
知の
司会・栗林 浩
り、今までは神野
ご
、ム
ッターをつとめ
に、鬼房先生が
います
ン
ン
もって戦地へいかれた昭和十
介ありましたとおり、おめ それでは、まずですね、鬼房先生が
司会をつとめておられたのですが、先
ツオ先生からご
が
でたいことがあって来られないということで
ございまして、
シ
させていただきたいと
ロダ
戦場へどのようにおもむいたかという地図
まずイン
見にくいのです
からひきまして作ってみまし
人の作りなもので大
を、先生の年
た
パネリストが選んだ鬼房の戦争俳句三句
矢本大雪 選
夕 に
のつたなく死ににけり 『
る 『
葉
見つつ
や地に
関根かな 選
戦 の夜をこほろぎの影太し 『
つ『
る
あるのは
江でしてね、やはり
さんとのあの
な
江
いの
があるんですね
の高雄という所へ行きま
鬼房さんの 史に残っている大切な一日一夜
もなき日夜』
もなき日夜』 だったという風に います
『
へ』 それから日本 はですね、南へ転出します
まず鬼房先生も
そこでしばらくいたのですが、少し
す さらに日本 はとにかく石 が
にな
』
』 りましたものですから、石 を めて南へと
』 いうことで、イン ネシ のバン ンへ行き
ました
います
が上になりましてね 日本から新 さんを
もなき日夜』
れて来るという引 の があって、日本へ
もなき日夜』
『瀬 』 出 しています その時にこの塩竈にも一か
月くらいおられたんじゃないかなと
けどもね、年 にそう かれてます そして
『夜の 』
『
へ』 戻りの船が出るのが関西の ですので、大
』 にも一か月くらいいたと そして新 さんを
『
れて、バン ンに戻る それで、戦 が
参考
戦争俳句と われるものが多い句集
にひどくなりまして、とうとう けて、ス
( 二十句ほど)
『 もなき日夜 』 『夜の 』 『海溝』 ンバ という島、バン ンから の ですね
『地 』
『
へ』
この島で
になる ここに昭和二十一年五
戦の日を南 に生きて し
栗林 浩 選
戦あるかと な言葉の息白し
銀 や足の もて死んだ
のみの
を に を
残る
闇を ひちぎり
宇井十間 選
船 の りしあたりの水か ろふ 『 の
す の重みや父の国
『瀬
鬼やんま沼を きぬけ帰り来ず
『
と
の
静まらぬ一
が けている とりあえず南 からその 口
関 悦史 選
へ行きました さらに宜 市のある西の へ
梅雨の地に らぬ足やここは日本
『 もなき日夜』
があって南
夏草や ればたぎる 後見ゆ
『
へ』 行きました それからまた
戦こばみ けて眼 だけ残る 『
きまで』 に戻ったと この南 に戻った時に鈴木六林
gggggggggggggggggggggggggggg
月まで、ご
ら
気だったものですからね、そう
島という
ではなかったようですけれども、
このスンバ
重
したということです
十分くらいです
バ
知ないかもしれません
で
明
な島が並んでい
で飛びますと、ロン
島から飛行
います
のは、みなさんはご
バ
けれども、こう言えば分かると
島
かね、小さな飛行
島、わりに
に風
でし
島、スンバ
島は
テルもあるそうで
です
このスンバ
ィンとかね、
ます
ー
て、平和な今は日本人も行って、海水
とか
すけど、そういう所になっているようです
島と
はそうじゃない
を
って
から日本へ来
島の横にロン
ラッカ海
って来るの
もちろん
島の所を
は今、中
このスンバ
もちろん、鬼房先生がいた
ですね
はですね、このロン
ありますけれど、
る
島の北の
日本へ、北へのぼって行くのです
ジ
そ れ で、
が多いんですけれども、船が多いものですか
島をまわってくる
島という
これが鬼房
ラッ
です
太さんのいた
島からずーっと日本へ近づいて来る
ら ね、 ロ ン
ロン
中に金子
のがあると、こういう
でございます
それで、鬼房先生に戦争の句があるかどう
さんの戦
での戦争です
色々
べてみ
の
か、
もなき日夜』『夜
句集ま
に多いですね 『
たのですが、やはり第一句集から第
でが
に
いします
されている悦史さんでございます
では、悦史さんお
鬼房は戦争を詠んだか
』『海溝』『地
句集まではそ
の
』 この
れ
し
は、そん
特別
戦
本に帰って大地を
する
じの
ガ
日
夏草や
ればた
によくはっきり
みしめた時の句です
は
が
足が定まらないガ
本に帰ったけども全
その
これは第八句集になってか
い出してまとめて戦争の句をつ
後見ゆ
出ている句です
ぎる
関
後という
時の戦争の
戦こば
後は第十三
れているのですが
が残ってい
にそっちで戦
うけれども、
だけ残
なんでし
だけ残る
これは眼
が見えてきてしまう
けて眼
句集でそうとう
み
の
ージだけでやろ
なことをイ
い浮かべながらの句なんだと
うまくいかなくなってしまう
象
います
だけになった眼
の
している
の
できな
ム、それを言葉を
してなんとかうまく出していくというのが、
いという
分の
がありまして、やはりこ
に鬼房が一
んですが、それはちゃんと出来ている
うとすると大
る、それを
死された日本
わってもずっと南
るというのは
戦争が
している時のふとし
り入れたのかもしれませんが、その
くって
ら、後から
集を読んでみたんですけれども、栗林さんが
をいただいて全句
へ』のと
中にある句で、外で
第八句集『
おっしゃるように第一句集に多いわけです
じがしました
の空白の中に
ね
にない
な
後見ゆ
わって日
な
ような
なるべくほか
けて眼
だけ残る
こばみ
ればたぎる
らぬ足やここは日本
た
その中
わった後も同じように、 死、戦
してもいないし、これ
た
っ
ージから三十
それからまた
なに
で戦争だから特にどうだという
て、そこらへんの句を見ていくと、鬼房の句
ージのあたりにだいたい集中していまし
全句集でいうと二十五
い出しながら、戦
れ二十句とか三十句に近い があるので 関 悦史
りまして二、三句 鬼房と戦争というテー
いて、
すが、それからずーっと
ずつが
でもときどき
ころで急に増えてますね
ています
こ
て
な
に三句ずつあ
ロにもならないごくごく
争を詠んでいるということでございます
れがイン
介であります
早速、パネラーの先生
てもいないし特別絶
』とい
ろというのであ
内で詠まれているものが多い
いというか、ある強
までどおり戦争が
明してい
がつた
も
分で
ういう地に足のついたというか、
生
ったものでないと、
中を
わって、
というこれ
らないようにということも考えて三
雨の地に
の人と
は、戦争が
句選んだのでこうなったのですが、 初の 梅
それから 夏草や
でございまして、 の は、 梅 雨 の 地 に
で、とりあえず三句あ
ムの
に手
いただいておりますので、それを
います
関さん
ただきながら、鬼房先生の俳句と戦争につい
て語ってもらおうと
関悦史先生です
で大
介するまでもないのですけれど
まずこちらから
の事はご
本の回転する
なのは、平成二十三年ですか、第一
も、 作と俳句評
特に
句集『六十
のついた句集を出されまし
そのほか色々な所で俳句を
らぬ足やここは日本
かれているという、
されて、田中裕明賞をも
評
い
う
に
て、これが大
を
らっております
出され、俳
鬼房の
本
なやり
なんだと
います
第
ン
に見て
と
の
見つつ
の
る
に
の高
ージだ
という句で戦場詠の
に飛んでいて
中ではこの一句だけがとびぬけてイ
けで象
これが鬼房の
になるのではな
めた句になっている
い
り
戦争詠でとるとしたら代表
れ
となり
栗林
についてはお手元に
ありがとうございました
ン
して
宇井さんの
ーがおありかと
ィスカッシ
上
てみたいと
は関根かなさんにお いしたいと
などを
ぐるっとまわってからまたご
ンしてみ
いますが、これももし時間があればかいつ
まんでまた要
たいと
っております
かの それでは一
は今日
んだも
する
宇井十間さんが本
言に
定だったのですが、
います
います
で帰国できなくなってしまったそうで
いかと
きみたいなものがきたのですが、宇井さ
ここに来られる
せられて
というか
にルポルタージ
という、船に
初は
一句集で出てくる戦争の句って、
本
ー
というか、
タ
月の海を行く
まって、ス
事
に重要なも
むしろ全句集を
み
っていて、そういう
なもの、そういう
っ て み て も、 そ の 中 に に じ み
み
え
ってもど
、宇井さん
できました
うことはないんですけれど
っと
でいらして、しかも小熊座の
を詠んだ句が
かったの
近どんな句を出された
うど大震
って小熊座をめくれば
に出ていましたので、インター
真つ黒と真つ
俳句
の句なんですけ
は
と
ある
心中す
ールな句もありま
これは震
にシ
からひいてきました
に
囀りの音を遠くに心中す
いになる
お
ひに行く雪
するかどうか分かりませんが、関根さん
います
き子らにけふ
関
いします
のある句だと
お
に
いは
などと言う重たい言葉をお
したね
ども、その
赤と三月十一日
ネッ
ですけれども、ち
のかなと
重鎮でございます
パネルでご
いますが、関根かなさんはいつもこの会の
え
に
が
に
なものというような
をしないと戦争の句だけ表
のとしての戦争
されたものとして鬼房の中に
しさが全
っているような戦争
ない句を
でたらめにひいて戦争というにはまったく関
のではないんじゃないかと
にそんなに本
にとっての戦争と同じよ
するところがあり、鬼房にとって戦
っているかもしれないので
なり
を海に
んのねらいとは
に詠ん
ってるわけではないんですけど
色とか、わりと
ーを
その中に
ー
になってしまったという所から
も、行く先々の
ンカ
いしたん
する
でいるんですね
が
これは船
こ
列車のスパー
やませ来
うにその作家
すが同
いていて
を海に落とす
う
ンカ
が強い句があっ
でし
に
争というのは六林
しいような
落してしまったという、おかしいようなすご
い
白いのですが鬼房
手に大
ムの
としてみるとこういう手
に根ざしたような
作家像全
たりして、こういうのも
なイ
の場
いというか
寝
な句がいくつもある
とか、あとは
えるような大
ージだけで
ほかに
うを
び白
これはずっと後に
を
とかそういう
とあまり
はち
うにもならないんじゃないか
ムがちがちではやっていない
も、この
ている
そういうやりかたを戦場詠で直に
な句がいろいろあるんですけれども、こ
るいたちのやうにしなやかに
大
の辺は
ですよね
やっているのは矢本さんがあ
関根かな
ポジウムのテー
年が戦後
も戦争につ
をいただいた時、鬼房俳句
今回の鬼房俳句と戦争についてというシン
いました
と戦争を考えると同時に、
いて再考すべきだと
います
などでも
も残
々な戦後
な事に
日
のど
十年が語られて
があった年でもありましたし、
十年ということもあり戦争についていろい
ろな
の報
いたと
た
のご
明
先ほど栗林さんから、どのような戦地を
転々転戦としていたのか鬼房の
などが
ティッ
に語り継が
さずに読んでい
ったのです
などについてのみが
ラ
もありましたが、やはりどうしても鈴木六林
との
れていて、二人の
を手
に浮きぼりにされているとも
が
に
象
う
な
く語っている所だと
した中で一
と語って
か戦中も戦
戦場ではまったく無
であったが、
中に
でしかない
のですけれども
鬼房は戦争について
りまわる
後も
みだけは
います
りまわる戦中も戦後
こ
中
がことに心に残りました
で
みだけが
という記
この
も
かれた文
います
みという
けたということ
ところが
い
でも今だ戦後であり、戦後は鬼
は昭和五十一年以降に
この時
の文
す
房の
を投じてい
になるのかと
にまるっきり
がどうか分からないのですが、戦争
が、戦地でも俳句
た、表
め
みとして
い
中に
に心に
と二句
西
いまし
はいずれも第
かと
なので
文には
もなき日夜』所
三鬼による
の は鈴木六林
文は
もなき日夜』におさめられていま
が選んだ一句
もなき日夜』初
と
いています
三鬼が、初
が
三鬼なりに
り上
り上
て
ています 戦中の鬼房
の俳句について戦前、戦中、戦後の俳句を西
されて『
北の
すけれども西
す 『
一句集『
た
いというあたりも一つの特
部分について、あまり俳句には 出してこな
分をその場に、戦争一色に
という時代の事
なかった
やはり俳句をいつも
も
なかった
ましい事
鬼房と戦争という事を考える時に
こかで人と人とが戦っている
像さ
が戦争について語っている
あります
鬼房
しかっ
いてますの
すのが
の同窓会ではないのですが、ジ
とかお
十年間後に同じ
にした人々が集う会のご
とかが来てたようなのですが、そういっ
も出たことがなく、今後も出
しないだろうが、松江で行われるという戦後
た会には一
葉
戦地を
海松江大会とかいったその
で、
たですけれども、やはり戦地に
ことというのは、なかなか
れます
していたというような事が
もなき日
が
から関さ
』あたりは
かに『
て戦地で
』『海溝』『地
はいたので、
したのが、戦争俳人ではないとい
で
に
う
夜』『夜の
の
からも出ているように、
に戦争の俳句が多いのですが、先
んあたりのお
というか
定すること
々とした事
に
り立てて強く戦争を
定もしていないようなあたり
多くて、
間見ていたので、あまり鬼房と戦争、
もなく、強く
を
もあるの
おりまして、
かに出征もしていますし、戦地
かれるものが
による
として解 をされてい
三十年の時に松江でジ
また鈴木六林
文引
う時には、松江という土地に
には、この『
作した俳句については十二句
しかし
した俳句が多
が
戦争と
ます
会が行われるとい
にとっては佐藤鬼房
で、戦争俳句ももちろんございます
もなき日夜』という戦場を
ながらあまり
いにかられた
戦場については鬼房
あって行ってみたいなという
に考え直す部分もありまし
しづらかった中でこのテー
こともあったようです
を
し て、
ういうに直
てに
もなき日夜』を
に
戦を
じまし
を
り切る気
を鬼房は持っていたのではないかと
つ
下五
を
められているかどうかには今だに
また戻って色々
いますが、とりあえず矢本大
いしたいのですが、矢本大雪さ
でいらして、青森とか
も
もちろん俳句も句集二つお出しになってらっ
集『
あ
とってみ
静まらぬ一
へ』までいって、一句戦争に関
って
とかとったわけです
葉
るんじゃないかなと
や地に
けですけれども、これは第二
いあたったんです
て、後
大戦の句ではないなと
明します
の時
それはまた後で時間があれば
めの二句は、これは鬼房先生が二十一
に
うのですが、またその
だと、 分で
ですから
したのだろうと
の句です
ン できちんと
だとかなんとかというと宇井十間さんが
はいっ
いますけども、ただ宇井十間さ
ある
に言っておきますと、宇井土間
いてますので、それに
動を、特に川柳ですとか、 みなさんにも渡っている
が『
弘前を中心に文
んもこのパネルの
雪さんにお
以上二句の解
た
しかった
が
っと
とし
を
栗林
でした
出すのがち
うこ
の
い
したいと
いら ありがとうございました
鈴木
たものは
してき
は
上として
と、生死を
せしめていると
いま『
に帰
えることは、
い句集について
じて
の
少時の
て、すべてを
とである
た戦場生
という言葉が
を残しています
には、
という
みが
うのですけれど
はなかなか、
ではないと
ここでいう
による
であった
六林
れています
に理解できる
ここで
ルを持つのでは
べた戦後も
みと同じ
が
けたこの
じています
も、先に鬼房
ないかなと
の
いいるとは
んの
が多
しゃいます
の
の
になっていますけども、土じゃなくて十です
に参考にはなるかと
理
が
に鬼房
います
は
いてますので、それを読んでいただけれ
ども、
はどちらも特異な
とを同列に
であって、そ
じようとしているということもありますけれ
戦争と今回の三月十一日の震
できないところもありますけども、つまり
ば
を
これなかった分だけきちんと
けれども、十間に直しておいて下さい
いていません
タインからとったんだ
俳句は成田千空さん
ンシ
うし、鬼房先生の
うかね
ィ
かったのでし
ので
には
いますけどね、本人には
べでございます
テー
も
のとった句は
と
しくお
三句とも一
とりやすいのは第一句集『
らず矢本大雪です
矢本先生どう
の一人としても色々お
ので
も
矢本大雪
一
ただしみなさ
って八句
二句までとってみ
じたかもしれませんけども、それ
がないと
て、どこかから一句とろうかなと
じゃあどうも
んもそう
いします
との繋がりもあるでし
むしろ川柳の出
戦
な
きに満ちた
にとりながらも極少の小さ
戦場という異
なき日夜』から選んだ二句、まずは
を
の影の太さを見た気
の中で
夜をこほろぎの影太し
な一匹の
にもまた戦争
いました
これは
ですね
つ
じる一句で
定してい
ったんです
なき日夜』ですね
を
と
できない戦争
うのだろうと
に
のみの
さを
わではないんで
島においてつくられ
じた一句です 中にいても太い影を持つ、そこはか
小さき
俳句だと
という
を
とない切ないたくましさを
のみの
句の中の一句です
戦をむかえたスンバ
また
た十
います
すが、戦争においての無
あると
る所に人々とあまり
の
る
二十一
夕
と
が
に
という若さの句で
と
この二句は
できないと
がまた、俳人にとってどういう
見つつ
のつたなく死ににけり
っているんですよね
あるんだろうということは無
の
句と
じたことは
なんかは後年でも鬼房先生の
すから、ただし鬼房俳句というものを語る時
に 分の心
に、
いうのはあんまりおもしろいと
しかも、
に
て、その語り口がこういう句になってこう出
います
一
きぬけ帰り来ず
う
鬼やんま沼を
の国
に戦争のあ
さんの
見すると戦争俳句ではないなという風に
お手元にもありますとおり、
のですが、しかし、宇井さんの は
ることをそっくり俳句に、
がのった時に鬼房らしくなるというか、
てくるんだろうと
静に
いてありますね
の好きな鬼房先生になるわけですね
は
にという
うけど、ポッともっ
というのは直
の言葉で
句を作っている時の鬼房句はあまり
と
でし
線
はこう
め
う だ け で あ っ て、
いませんけれども、それは
がみんなと
白いとは
こ
にして重
しい人々とかそういう人
が
と、鬼房先生の作品の
さを間 うんじゃな
り俳句も根底には
な句として読まないと、戦争だけの句と読む
いを戦争も
の風土とか
むしろ戦争
てきてそれで一句をなして、それでしたりと
その
いうのはいかがなものかと
に
と
衛だった
えてみたけれど
を渡って
に
る
西
見つつ
の
海
いう句が好きなものですから、特に
いていますよね
いてますから、やっ
います
いかというようなことも言っておりますね
見がおありだという風に
に
が、
色んな
三句
います
ほど色んなことを考えて選ばれたのだなとい
っと時間がないので、あまり
あるんだということだと
してもあれですので、あとで時間があれ
後に
な言葉の息白し
し
り第一句集からは、
な、あるいは戦争の
った
生句
さんが
な言葉の息白し
戦争がまたあるかも
戦ある
な句はあるのですが、それはそれとして
かと
いて、後でですね、帰国してから
み
ルな戦争
は
第二句集から 戦あるかと
ンの それでは
ありませ
りし
の重みや父
の
はこの宇井さんが選んだ三句は、なる
べることにします
船
が選んだ句なのですが、
ば
す
正していただけ
し
された宇井十間さんの十間を
ひ
いていまして、大
になる時には
います
ろふ
いました
う風に
土間と
ればと
あたりの水か
のパソ
栗林
ついては今ち
する
てふてふが一匹
も
っ
を
に
かの
を見てい
が飛び
であっ
鬼房も
心が
に
ン
ミスで欠
です ありがとうございました
は
がありますが、この
そ
とか
もう
行った
じられるんですね
う
つたな
でし
います
になってきた時に、
鬼房
ないですけれども、ところが
が動かされて
のたぶん若い
がこの二句にも出ていると
はすごくおもしろく
の
土
が
う、たぶん
お母さんごめんなさい
のつたなく死ににけり
る
に見えた
見つつ
に死んでいった
いてあるんでし
なんですよね
に
これも同じ同
夕
い
とかなんとか
の
それを残して夕
と
ンビ
もなき日夜』を見ていても、 ん
とか、それからこの
戦争もなにも鬼房にとっては、戦争と
っているそれが
よね
か戦争
てもそれから『
戦争なんだけれどビ
に静かな
じはしないんですよね、あん 宇井さんが出された三句
ですから
ているような
まりね
象
でして、とらせて
の
きまし
い、その
知れないというおそれですね、そういう
には
中が来てはいけないというような
で
いですね
金子
を
ラッ
全に
島から
くなりになる
分で考
し 、生きていて
後までお
に生きて
はな
めてます
心でね、すごい句を作っ
太さんが
帰ってきてから、大
たりしてその後の生き
南
ないけれども
けども、鬼房さんはそれほど大きな
い
まで
これも戦争の句だったんだなとい
んに戻ってご
これで一
であって
して、戦争
め
んでし
う け ど も、 そ う い う
であって、イ
り
み
人の人生に
として
々と詠
ーなんかはそんなに
の
オロ
とっての大きな出来事というだけの
入ってこないし、日
とかは戦争に
かったために
時イ
ち
す
より戦
それから戦場に行った
こういうのは作
澤赤
分の句を
とか
一
が出来ていてその中
は、戦争に行く前から
の見
々と征くばかり
々とゆき
スタイルとか
で
とかそういう
は、西
三鬼とか
に戦争に行かなくて戦
されたものとして戦場
絶の木に月あがるや
の中で
木の
分の
また
俳句をやってた人
を詠んでいる
火
熱
理された
蛇
好
テ
天地の
関
く
カ
ス
ル
カ
とか、こ
震
の映像が元になってい
雄とかいますけれども、そこら辺はお
に
パラシウ
うが、
ース映
三橋
そらくは
なことも
戦場に行った俳人
んでいるからこそ鬼房の俳句として戦争中句
えば
に同
川
の中で
ー
もそのまま読めてしまう
オロ
を、手
していたというか、その
中国人の
句があったりする
争が強くなっている
足とか、欠
分が選んだ句の
の俳句が
いします
がいますけども、
の場
俳人では
しましたので、あとはまた関さ
う気持で選らばせてもらいました
えている
どうなったんだろうかということを
へ』には、 間
い出した句があるんで
にこの第八句集の『
日本へ帰ってきて平和になる
それから第八句集、これはかなりたった
句が
た
後ですね
も
ルで、こんな
ったん
にもおかしく
もて死んだ
がいいかなと
その中からとっても
二十句くらい戦争を
す
ルなのはとらない
や足の
んでですね、心理
ですが、 銀
の中にも
しき
か一言お
俳人じゃないですね、そんな
て
鬼房は戦争俳人か
関
みなさんがおっ
とか
ういう映像
とか
ル
るのでし
として
いたことと
もあった
それまでも色々
だったり
の
えると戦争を一種の日
だったり
詠んでますよね 日
か、言葉を
しゃったこととか宇井さんが
戦の 戦争俳人ではないですね
島は
』ですね、こ
になってもです
澤赤
々がとった句、ある
の
ないですが宇井さんが選んだ
で
し
句とか、あるいは
を
ルな、
いは鬼房先生は戦争俳句よりむしろ風土とか
でも
そういう
より
ですから
が平
する人もいるんですね
がね
が外国に行っても
なって
の
平和部
う
衛
うね、極
に
で引き金を引
はね
られた人しか持たさ
う、
は
ずっと多いでし
ルのような
事があるんでし
ス
する時には足の
れてなかったんでし
って
かなきゃいけないという
後にとったのは
ってもですね、こんな句を詠んでらっ
それから
十年
しゃる
し
句集『
まさにスンバ
に生きて
ですけども、
日を南
南
くなりになる間
分はああ生きてきちゃったなという
れもお
ね、
ルで
できるもの
来
な美
に
った
そ
れどういう風にどの立場から戦争を詠む
ところのあるものとして詠むわけですね
れ
れの作家の
というかそういうもの
する前にそれ
息白し
というここ
って
なスタン
け橋みたいなところで
本
に
った
に
う
なんです
飛で
こ
えられてもそれで
まえて
の
えがかなり
するというそういう句です
っとものの
り
に
に
えられて
じさせるところ
蠅
ージですけども、
なイ
それはやっ
という特
みつくづくい
その二
ージがここに
も
り火に
するというところがあるんです
、そのへんのイ
、言葉を介した で初めて出
介
てくる
も鬼房の
がある
気で言ってるんだろうなと
なってるのですが、これは鬼房がおそらく本
があって俳句としておもしろいものに
こでもち
も戦には
飛びかかってとっ
くなっていますからいっ
をもう鬼房が作っちゃたという
にどんどんきな
タイ
が、そういう
ロ
い見かけるのですが、そういう句のひとつの
と、そして
か、それも 子供 という言葉ではなくて、
な言葉の
にしても戦争に
スタンスというか資
で
をするのかということで、その戦
いうこの二つの間の
まってくるわけですけども、 句をつくるというのが鬼房の
が入りますよね、言葉と
があって、それと戦争という事象とがどうい
う出会い
は戦争にあった
の間というところで
が
分の資
に出てくることが多いと
そういう
が
する俳
ッセージをうまいこと作ってしまっ
うんですよ
鬼房の資
スで、この言葉と
争俳句の
として特
佐藤鬼房の場
にあって
らなかったし、またそれに
いも、まあひどい
は
戦
って
いな
ってい
を
だなあと
くなった人の
り戦は
句あとにですね、
で
やっ
り火だから
んでそれをつくづく
に
としての鬼房という
いずれにしても
うという
いるという句ですが、ここでは みこんでつ
がら、しゃがみ
る、
たので、もう子供を出して戦争に
うか
う、戦争
くなったのでし
いはあるんでし
いが
する
多分知り
して特別な
別大きな
大
だから、た
な
それ
くさ忌む
十二
くづく
のが出てきます
いくさよあるな
に
なものになった時
中村草田
分の俳句の生理を
へ』ですね
よって言葉、
内で作っている
戦争にあったからと
にかもしれませんが、よく理解して
いが
に鬼房の句になるという
無
といって空から金
天降るとも
その
に
ないわけですよ
特別
やぎもしないし、特
いってそれを詠んでも浮ついたものにはなら
へ
に
のちいさい
グモっていわゆ
いくさ忌む蠅
らないで
らず
麦生に金
を
という
の句で
な句があるのですが、それに
な戦争
の
られても
る
けず
が降ってきても戦争あってほしくないという
ぶん第八句集あたりかな、第八句集の『
ものがありましてね、
は後々になって読んだ句で
います
句ってこれ一句あればいいんじゃないかとい
じて
うくらいの出来ではないか
にしみて
に
にとっての戦争
こうい
っと政治
で、戦争
あるんですが、そんな
人の人生、
としては詠んでいないで
ポツ
だというのも本
らそれに
が
に
な事
いる句もポツ
本
に特異な特
すね
な言葉の
後になると戦
戦あるかと
内で詠んでいる
の句というと
というその
争
た句ですが、戦争
にというか子供が出てき
ッセージを句に入れようとする
と栗林さんがあ
子供らに戦争がある
という
息白し
とどうしても記号
近ち
の
ちゃうわけですよ
今でも、まあ
中を残してはいけないということで
うつくり
別浮つきもしない
だからと言って戦争とい
それに
ふ
して佐藤鬼房はどうやっているかと
い
音
市とかなんとかそういう大
っているのは
いうと、唯一
ていく
を
がせっかく会えたのに
れ
に特
に
うとい
からは絶
という
分の
う
りながら足音がどんどん
その足音を
闇の中に
会って、別れて六林
なところは鬼房はほとんど考えてなくて、
これは
と、わざわざ出征までしないと俳人と
分の俳人
とか俳句を詠
分の生理、
ってそれで
々と
と出会ったシーンでの二人の句
り切ったというのもある
に
に
う
本
して出会いそこねたかというとそんなことも
ない
としての
むことで
な鈴木六林
前だけ知って
するわけですね
い
なんですが、二人ともお
を
というもの
この二句はほとん
れないまま闇の
にある
れない、
は
いて戦場で初めて会うんですけども、鈴木六
んで
行
六林
えば
は、 鈴 木 六 林
にとって戦争
の俳句を
とは一つの
語る上で戦争はさほど重要ではないと考えて
介な
いる
いけない
に
する六林
は
から読
は必
の俳句を知って
でしかなかった
のようなもので、それなしでは歩いて
なしで
という
いるし、それらを語るために戦争の記
を戦争
六林
要ない
は、
かと
が
回、
レジ
年あって絶
以 下、 若 干 ま
の一
の真
回宇井さんが
鬼房と直
さ
く
い人間
今回も第二
にいえば、せい
にするのであれば、
後に
る必要がはたしてある
する
な
かれて
り上
と
あえて鬼房を
のだろうか
じてらっしゃ
ージでいつも鬼房俳句を
をやや
今日いらっしゃらないんですけども、
り、必ずやテー
イ
が
に
だったりとか戦争と鬼房について
静でありながらも熱く語るような
に六林
る
いる
宇井さんの所見が
としての戦争を
らいの
せようとしないんですね
テー
語られることかもしれないのですが、とある
っと後に、これ
ってます
いているんですけども、宇井さんらしい
な部分を見失ってしまう
の俳句のもっとも本
もうとする読
だ
れ
出し、それで鬼房に無理や
かなんかに
と言葉の
我人の
うそういう
が
が鬼房の場
林
手についてきて
見
分の
でも
ん中よりち
ど同じ句に見えるのですが、そこに二人の俳
り分かれてる
人としての生理が
して下
めてあるいは
関根さんど
いなんかもお
います
にきっ
り会ってすぐ別れたという
だったらしい
のですが、それで別れて二人が同じような句
会ひ
栗林
んじゃないかなと
が
さんとの
会ひ別
の
で、佐藤鬼房が
鈴木六林
市の夜の
を詠むんですね
る
ですね
会って別れ 六 林
音
ふ
の闇の
別れ
なので
今までのを
ですから
関根
ラ
やその俳句に
との若干
後の
でし
ですね
えられがちな
に
今、関さんが
後の
ティッ
の
うど宇井さんのレジ
うか、それの一
ついて、ち
った六林
にもこういう句を選びたかったとか
うですか
さってありがとうございました
の闇と夜の
は
そこで二人が別
の
され
が鈴木六林
市という
の大
料
るということと、
ですね二人とも
です
になるのは鈴木六林
大部分一
の表
市の夜の
市、戦争全
は
分の
に入っていて、その大
のように動かされている
にはまず
ている
の場
の中で、
の場
必ず大
をこめている
立場に
する
が句に入ってくるんです、六林
浮かんできます
く戦争俳句がある中で、先ほどから
な
回もあ
線から戦
いている鬼房の俳句
まりにも
々と戦争を
があるというので、鬼房は
ひ
残る
闇を
』ですから平成
』から
いいのが第一句集からとればいいやと
神が
い
盛だというか第
んでしまった所が、みなさんの句を見てみ
ると、そうとう
にとった俳句と
ですね
という、『瀬
る
分の俳句、戦争を
ただ、
に読めばやっ
俳人の代表として戦
ん、
やっ
り
では、第
もなき日夜』というのが
が一
が
はみなさ
うんですけれども、
れの
人だというか、
りここにいる手
いいわけで、このまま全部第一句集からとる
な
り戦争の
一句集からとっている人はあまり多くないん
められていま
会
されるだろうなとは
じつつ、 一句集の『
の戦争
十代の句が
真っ
もしかすると、
争を
から
づけてはほしくないとい
えて俳句を作った
行 さ れ て お り ま す の で、 だ い た い
もう一句『瀬
ちぎり
年に
六十代後
俳句とは同じに
俳句、
中で作られた俳句という
々、色々ある
ールのようなものも
は
うような
の解
戦争というテー
残る
この
会
今回いろいろな俳句を読ませていただきまし
うんですけども今回
が平成
す
句集
と
きました
た
えるのは
うのですけれど
として
大戦の
というのをとってしまったわけな
ってとったんですが、
これが、はじめは第二
上にある句だと
んです
だけ
いかもしれませんけれども、この句
行
い
の
の時、この前後に
の大
う
なんだ
は
を作ったのが六十三
の
中にあったものを考えてみると、
をしたりもしてるんですけども、鬼房の
の
や
要で重要なことだと
に
争ということをテー
いちぎる、しかも
以上
葉
べきところ第三句だけ、 静まらぬ一
いが残っています
かお
それでは、 よくよく読んでみるとですね、これは
なんですが、
は、ここにいるパネラーの中では一
いただけますか
矢本
地に
っともどかしさ
も
ってしまったような
しないち
闇を
われるんですけども、平
行なので、もはや戦後とはいえぬ時に
で一つ選ばせて
年
において
作られた俳句だと
栗林
部分は、
じながらの鑑賞に
も、今ひとつ
きました
矢本さん同じような
闇 はい、ありがとうございました
した
を
は鬼房が投影され
々と
して戦争をもしかしたら回
と
に
が、この残る
和なる
残る
ているような、戦前、戦中、戦後
らを表
した鬼房がこの平成の元号になって残る
いなのかどうなのか
でこの句を選ばせて
みだけは
の
が語った戦後も
ではあるんですけれども、
いちぎりいるというような、おどろおど
のではないかと、
を
な見
ろしい表
先ほど鬼房
は
とこ
ると
う
ってから、そういうの
り
がすごくあったんだと
の戦い
というのが、
と
んです
和朝
の手の内にまんまと
うんですけど
もなき日夜』から二
がいいんじゃないかなと
も、というのは
年も
をもってきて戦争だと言われても
史が
それも戦争ですよねやっ
のっかってしまって『
があった時に、一
ろが
中
り回るという言葉も残しているので、
みは
中を
わりはなかったし、
になっても鬼房にとっては戦後であ
戦争についてというテー
それで戦争と鬼房、鬼房俳句と
句選んだと
してい
いました
つにつれて成
けていたのだと
い
平成の
け回り
ることには
を
わゆる、戦後、時が
んですけれども、風土
に岩手で生まれて、 に
にむつ市で生まれたということしかな
の
それ
たれる句とい
とい
り心底
の
多いと
ますけれども、やっ
直に詠んでいる
います
から
えら
かれてい
して色
を
えて、分
はこういうテー
に
の
見つつ
る
るよう
とこれ
のつたなく死ににけ
分で
を見ることが出来る人ですか
れた時にきちんとそれを
んな
ら
戦争体験の影
栗林
には
もなき日夜』に一
うのは『
それほど風土
じられるという所と、その
をこういう
いんですが、なんだか
しいことを
に
ころがあるわけなんです
うものが
きたければ先ほどの
もう少し
うと
してい
だと
の血を
ってというか塩竈に来て、
塩竈で
がすごくある
鬼房の中にもそれがたくさ
られたという
るというこの生死の中にはやはり
しくて
を
わけなんですね
宇井十間さんの文
そ
いと
うんです
せざるえないというような所が鬼房の中
みた
にはあったんじゃないかなと
は戦
と
というか
あ
と
の
る
一句だろう
ったから、それを
待
うのですが、どなたか
見つつ
るだろうと
るとした
さっき言ったように、戦争、戦場
と
がいいとご
ありがとうございました
関
と
にですね、 夕
矢本さんが
り
が
絶
ということになると
ら
で詠まれた句で鬼房の句を一句あ
は
するものじゃな
そういう
で見ている
分の
を読んでいただければい
えていながら、しかも今
を急
というのは、戦争
先ほど
があって作ら
とかしろとか、
の
も
もどちらも
の
んあると
り
る
のつたなく死ににけり
見つつ
はそのまま映像になって
います
いなものを
な
はし
神
だけ
います
れが別に第二
大戦の時の句と直
ないわけなんですけれども、この三句
に
の
に本
こったということを、それの
ると
がきちんと
を
かなんとかそういうような
とか震
すけども、鬼房の詠み
うんで
くて宇井十間さんの
と
史の中で
であっても同じようなものだと
争に行って、これが戦争でなくてこの間の大
い
う
と
夕
はやっ
さんが言った気がするんですけれども、
へ』 れているような句ではないんですね
へ』の句を読
大戦の句の
震
との
というのが
静まらぬ一
しているんじゃないかなと
を見てみますと、やはり大和朝
戦いを少しは
葉
いながら、そうしてみると
や地に
の『
これが、たまたま『
われていって作られた句じゃないかなと
所があるんです
の中に入っている
じゃないく
ところが、ここに一
っても
むと、やはりまだ第二
上にあるもんだと
ですね
に
まわりで
を
く
な句もありま
白
の時の
を加えて
これが二十一
して、 いるんですけれども、それに
でこんな
して読んでみる
う所があると
というものを
らい沢山ある
つ大和朝
とそれにも重ね
であるということを
きだしているという
に鬼房は
うと
してるんだろうと
しかもそれを
な句というか
れ出る所があるからもの
もなき日夜』の句はこういう
句です 『
がわっと
うど横
のあたりですね、そこにむつ市と
いですよね
の
もむつ市生まれですので、下北のち
すし、
がなかなかついていけない句もあり
いうのがありまして
はそこで生まれたんで
すけれども、どうもそこで生まれてみると
の句をあ
してます
てしまったということなの
して
のいい矢本さんには大
ち
第一句集から
もその
まだ
について
ます
っと
で
栗林
し上
すいません
だけ、
くはありませんの
と戦争というものを関
それから、色々
に
北が
理することが
いま
もありまし
られていて同
どうしても出来ないという所があると
す
しているんじゃないかという
っ
っと出てくるんで
たけども、第八句集でまた戦争の句がち
い出したように
堤
事同
弘
すが、第八句集って一九八三年でそこらへん
は沢山とりたいのがあったんですけれども、 と
で戦争の句が出てくるんですが、この時
ですからそんなに
で、我々も
に
は
と
の
見つつ
る
もどちらも死
の
死んだ人間という
うんで
を落とし
大な
な もありつつ
されて死んでしまった、
及ばずというか、
して
が死んだんだろうと
言出来ないのでこれはおそらく鬼房の
を詠んでいますよね
のは
近な若い
すが、それに
に
どちらかというと
か言って
る
ない、風土の俳人だと言われるけれどもそれ
俳人だと言われるけども、それだけではすま
会
かに
な立場があったよう
の代理人として
が
てしまった
やらねばという代理人
な気がします
栗林
が出ましたけれども、
を還
いま
とおり鬼房先生は戦争俳人ではない、
なんで 色々
する防
の関
に
根
会
というのが出来て、日
空母であるとか言っていた時
であるといって日本はソ
があったのかというと、中
関
内
の
俳句の出
それで鬼房の
りにくいところ
っていたんですけども
鬼房と戦争についてどうも
関根さんがさっき
が あ る と い う の は、 鬼 房 っ て 新
すよ
人生に俳句の内
鬼房という人の
す
俳人だと言われるけども
もあるんじゃないかと
してしまった
には
という
が
会
なところもある
俳句くさい所もあるし
っていうことになっているし、内
ロレタ
った
のつたなく死ににけり も
ーモ
って
べて
な
でしたね 鬼房先生に
の俳句があるかと
は
ーモ
に多
ですけ
せ
めて
定
というのはよくないんですけどもね、
がなかったとしたら、こういう
な句を作っておられた鬼房先生がもし戦
それも
今回も戦争の俳句
しかし、よく
っていたんです
の
争
ど戦争俳人じゃない
ばあるんですね
い
と
年のテー
はあるけども、それだけでもない
だけでもない
しい
たくはな
として
り下
に読み
はあまり
にもっていくのは
ので、そっち
参考としてそういう
それから矢本さんが
があったかもしれないということは
いんですけども、一
会
に
に詠んでいるということなんです
言っておきます
が、夕
その
の作品は全部人生でこういうことがあっ
元するというのは、なんでもそうですけど文
や俳句は全
ることにしか繋がらないので鬼房
たから、こういう作品になりましたという
いてもうまく
人
なところも多少はあるんで
くさい所もあるし風土詠
し、人間
すけども、どういうところに
それは鬼房の
な考
りにくいというのは鬼房が戦争
がどうしても強く影響していて、戦争と鬼
おさまらない人なんです
房について
という事象について一
したかっ
だから鬼房が戦争に
っていたかとかどう
やらないからです
してどう
り下
ていうのをひろっていくと鬼房という
を
うか
い
それ
わったで
うか
鬼房先生の句は
どう
います
でもいいのでお
わらなかったでし
えにくかったら
うか
どうでし
し
にお
うか
わらなかったと
として詠んだという
をさっき
足して下さってもいいんですけ
には
ただけますでし
関
本
栗林
ども
もう少し
関
戦争を日
か
からしてましたけども、戦争を詠んだものに
えば戦場で
言葉
言がまずあって、そういう
をかけてくる
大きなものではなかった、そうであってほし
ことさら戦争で見事な俳句
うか
には
わらなかったん
じゃあ関根さんいか
した人が
同窓会
な同じ戦地を
います
りに会うとか、そういった会には出
本さんお
矢本
いします
の言
もございますし、
が戦
いてたものとかいうのが見
したんですけれども鬼房
について
も、
争
なんですね
じてい
ただし、鬼房
つからなかった
のこういう俳句を読んでいると が
を
の
されていくという
そのものが全て鬼房の
して言語
るのは鬼房の句というのはどの 象も全て
、 分の
を
じゃあ矢
めるものではなかったの
います
を
としては、戦争というものが鬼房にとって
いうような鬼房
することもないだろうし、出 はしないと
三十年
いもあると
くなかったというような
で
らないわけで
気であってもいいし、
かしらそう
分の
ものというものは別に戦争に
あってもいいし、いずれにせよ
ではあった
すよ
の作
うんですね
いうものにとりつかれる
と
ではないかと
を作ったという所がそんなになかったし戦争
が
イ
にただ
わらなかったというだけ
で
が
本
栗林
わったということもなかったし、 は重いウ
なので、戦争にあっていなかったとしても代
本
表作の一つ二つ欠けることになったかもしれ はい、ありがとうございました
ま せ ん け ど、
じゃなかったかと
栗林
関根
がでし
と人に知らせると はい、分かりました
に立ち会って、こんな大
こってるんだ
事
らず鬼房の句というのは
な事が
が死んだり異
いている
じられないですね
に全部
はあまり
分
いたしまして、今の栗林さんのご
も、今回鬼房俳句と戦争というテー
か、こういう
もないわけじゃな
していなかったら句は
わったか
戦争を
中に
になってしま
るわけです
わったか、
わら
しいところですけれど
ですから、
まっていっているというような気がす
わったかどうかのどちらかでご返
な言い
わらなかったと
どうか
などこか高みへぬけ には
り鬼のようなも
っと平
なかったかというと
ち
するとすれば、なんら
います
し、それを鎮めるための
前の
にはこの
な志
うことによって
には
かそういう
一
を
ていくという文
いんですけども、一
分に
出来ないそれこそ
のとしての
くに生まれていれ
のことについてこの戦争
も、たぶん鬼房がもっと
北大震
というものが人生において、重く重要な
うんですけども、やはり鬼房にとって、戦争
ば、今の
り
な
うことになるつくり
には代理人
言葉として俳句を詠んでいて、それが
本
わるなにかを
になっている
に人に
詠と同じような事を
ってきたなと
き
かざるをえなかっただ
に
いますから、同じ高さにあ
ろうし、それだけ鬼房は俳句には真
も 戦 争 も 同 じ だ と か と い う こ と は、
も
るということを言えないんですけれども、震
を太らせ
よね
つまり土
があるんですけ
が
り
に
俳句の
人鬼房と
わって
にそれが見えていたん
うまいというと、語
います
れども、鬼房には
だと
そこがやっ
は言いたいような気がするんです
いってるんです
っています
うと
一言でい
を持っていたということが言えるん
じゃないかなと
が鬼房の作品句の
めったなことでは言えないんですけれども、 根底に
こういう
栗林
とってものすごく大きな
これが鬼房を作っ はい、ありがとうございました
であったと
いですね
て豊かにしていって、豊かにしていってとい
それから
うのも言葉が
に鬼房は
であった
が
であ
と し て は、 戦 争 は 鬼 房 先 生 に
全ての色んな
の見
うんですよ
かったであろう戦争
てきたんだと
この
ります
され
明できない
行について行っても、それがうまく
いますが、
その
明できない、しなくてもいい
んです
戦
ってきたりとかすると、ぐんと
わっていた、と
まったく欠落していたら、先生の句は多少は
が
にとってもおもしろくないんですけれ
ない時というかそういう時にはあまり句とし
て、
ども、
めて
う ね、 た ぶ ん、 そ う い っ た も の は
を
んでし
めて先生が成り立っていた
風土
や
などなどを
ーモ
は
だから
うんですけどそ
ご静
い
まとめない
ありがとうご
かったかもしれませんけ
いますが
めればそうなっちゃうんじゃないかなと
ということなのかなと、月並みにあえてまと
いますが、 争
作家であって、こう
見もあると
作家だろうなと
白くなるんですね鬼房の句は
鬼房が
れはみなさん
とかが、映
が
満なまとめかと
がよかった
ます
が一 ども、時間がきました
ロールとい
ざいました
ン
の前を
西部戦線異
に見えるんですよね土
戦争の中に行っても
々と
後の
像になってしまいますよね
というので
っていたんですけども、そう
っていてそれが死んで
なし
というのはこれ、うまいです
匹
い
の
うのがあると
いう