鉄道の始まり - 不動産証券化協会

岡野先生の不動産歴史探訪 前回は不動産を支えるインフラとしての上水事
業にスポットを当て、特に東京の水源保守事業を
振り返ってみました。不動産のみならず私達の生
活や経済活動にとって、各種インフラは無くては
鉄道の始まり ならないものと言えます。この原稿を書いている
のは10 月ですが、10 月14日は、1872 年(明治 5
年 )に新橋―横浜間の鉄道開業日として鉄道の日
になっていることもあり、交通インフラとしての鉄
道について書いてみたいと思います( 写真 1 は明
治時代の新橋駅付近の写真です)。
毎年 10 月14日の鉄道の日には日比谷公園など
でイベントが開催され 、全国から鉄道ファンが押し
寄せ大盛況となっていますが、皆さんもご存知の
通り、日本における鉄道の歴史はそれほど古いも
のではありません。江戸時代にペリーが蒸気機関
車の模型を幕府に献上したことや 、長崎の出島に
岡野 淳
青山リアルティー・アドバイザーズ株式会社顧問
早稲田大学大学院ファイナンス研究科・
中央大学商学部 非常勤講師
早稲田大学国際不動産研究所 招聘研究員
(ARES マスター M0600008)
来訪したロシア軍艦の内部に同じような蒸気機関
車の模型があったのを、当時の佐賀鍋島藩の藩士
が目にしたことなどから、日本にも蒸気機関車製
造の技術自体はありました。しかし江戸時代は各
藩の自治が重んじられた時代でもあり、藩を超え
ての大量輸送のニーズはほとんど無く、鉄道の敷
設には至らなかったようです。 明治時代になって
も、鉄道による人や物資の大量輸送による経済的
効果よりも、戦時に敵方の利に資する懸念を表明
する人が多かったようですから、現在のように、鉄
道の駅ができることによって不動産の立地価値が
大きく変化するなどという感覚は、一般にはまだ
理解されていない時代でした。
江戸時代は大量輸送の手段としての船の利用こ
そありましたが、徒歩( 籠も人力 )と馬しかなく、
おかの じゅん
早稲田大学商学部卒業、三井信託銀行(現三井住友信
託銀行)勤務後、株式会社スペースデザイン社長など
を経て、青山リアルティー・アドバイザーズ株式会社顧問。
早稲田大学大学院ファイナンス研究科及び中央大学商
学部 非常勤講師
早稲田大学国際不動産研究所 招聘研究員
不動産証券化マスターで、マスター養成実務講座 202
「不動産ファイナンス」の講師でもある。
一時的に馬車鉄道の存在があったとはいえ、明治
時代になってからの僅かな時間で全国的な鉄道網
が出来上がっていったことを考えると、明治時代か
ら昭和初期の人達の近代化へのパワーを改めて感
じざるを得ないと思います。中公新書 「日本鉄道
史(幕末・明治編 )」(老川慶喜著 )に当時の様子
が描かれていますが、幕末に幕府がヨーロッパに
November-December 2016
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派遣した使節団の一人であった福沢諭吉は、訪れ
たリヨンの町が鉄道の要地であることが繁栄の要
因であると記述したと書かれています。また福沢
諭吉は、大資本を必要とする鉄道会社は株式会社
の形態をもって行うのが良いと説くなど、まさに
現代の鉄道経営を予言したかのようです。また彼
が乗車したマルセイユ―パリ間の鉄道は、民間営
業は100 年間で、その後は政府所有になるとのこ
となので、現在の PFIや PPP の逆バージョンに
写真 1:旧新橋駅(明治 20 年頃)「増補 写された港区一(芝地区編)・・・P5」
平成 17 年 3 月 31 日港区教育委員会編集・発行
なっているのは興味深い話です。こうした影響も
あったのか、後の 1883 年( 明治 16 年 )に国内で
開業した日本鉄道( 後の東北本線などを路線とし
た民鉄 )は、路線のルート決定などは官主導では
あったものの 、西南戦争の影響や政府の資金不足
もあって、岩倉具視主導による元大名家の資産な
どを元手に設立された民間会社だったようです。
とはいえ、8% の収支利益の保証が付いていたと
いうから、やはりPFI 的な要素が含まれていると
も言えるのではないでしょうか(ちょっと保証率が
初は3 つの私鉄が営業開始したのが始まりで、そ
良すぎる気もしますが)。
の後三社が統合され東京市に経営が移管され 、後
ちなみに前述の通り、明治政府になっても鉄道
に都電の愛称で親しまれる存在となりました。 な
敷設には反対論者も多かったようですが、新政府
お、1942 年( 昭和 17 年 )に制定された陸上交通
内にあってこれを強力に推進しようとしたのは、
調整法により翌 1943 年( 昭和 18 年 )の東京都制
大隈重信や伊藤博文などで、慶應義塾大学と早稲
で全ての路線が都電となりました。この結果最盛
田大学の関係者が共に鉄道事業の推進に関わって
期の 1962 年( 昭和 37 年 )には41 路線 、営業キ
いたようです( 筆者は早稲田大学の卒業生ですが、
ロは355㎞に達していました( 写真 2 は大正時代
そうではない人には余り関係ないかもしれません
の路面電車の様子です)。現在関東近郊で最も営
が・・・ )。
業キロ数が多いのは東武鉄道で、有価証券報告書
さて、ここで東京都内の鉄道事情に話を戻して
によれば463.3㎞です。最も短い相模鉄道は35.9
みることにしましょう。都内の鉄道といえば、現在
㎞で、都内を縦横に行き来している東京メトロで
では三ノ輪―早稲田の間の都営荒川線しか残って
すら195.1㎞でしたから、まさに都内交通の王様
いませんが、昔の都内の交通手段といえば真っ先
であったことがわかります。この毛細血管のよう
の思い浮かぶのは都電( 最初は都営ではないの
な交通網があったからこそ 、その駅などを中心に
で、路面電車と呼ぶのが正しいと思いますが、物
不動産事業が発達したのではないかと思うと、交
心付いた時には都電でした)だったはずです。 筆
通インフラの重要性を改めて思い知らされます。
者の年代( 50 歳代 )でも、結構乗った記憶があり
ます。
東京の路面電車は、1903 年( 明治 36 年 )に当
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写真 2:大正初期の芝区役所前を走る路面電車の様子(現在の御成門交差点付近)
「増補 写された港区一(芝地区編)・・・P118」
平成 17 年 3 月 31 日港区教育委員会編集・発行
ARES 不動産証券化ジャーナル Vol.34
次回は、日本の鉄道会社成功のビジネスモデル
と言われる沿線開発の歴史を振り返ってみたいと
思います。