人 間 科 学 (XIX)

人 間 科 学
(XIX)
筒 井 健 雄
信州大学教育学部紀要第 4
7号
1982年 1
1月
人間科学
(
X
I
X
)
一一音声言語・文字言語段階人格における非現実的
存在の創造について一一
筒 井 健 雄
人間科学 (
XI
め か ら (XVI) まで身体言語,音声言語,文字言語という題で科学的存在観
XVII), (
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V
I
I
I
) と別の興味が湧い
に基ずきながら考察を進めてきたので、あるが,途中, (
たために寄道をしてしまった。今回は元に戻して, (XV)で示した f7 非現実的存在の創
造」から始めてみよう。
身体言語の段階では非現実的な存在の創造などは非常に限られたものとなる。一歳位の子
どもが何か非現実的なものを空想したとしても,それが本当にそういうものかどうかという
点については確かめようがないのである。また幼児は夢をみることがあるが一一例えば 3歳
の子どもが夜中にうなされて泣き声をあげる。親達が驚いて子どもを起すとますます大戸で
泣く,親達は困り果ててしばらくそっとしておいてやると,その子はまた眠ってしまった。
翌朝親達がその子にきいてみると(その子は音声言語段階の人格である。〉オノ〈ケをみたと
いう。さらに親達もオバケに見えたのだそうである。この子の場合と違って身体言語段階の
子どもも夢をみるであろうが,その確認は困難である。一一これも一応非現実的なものの最
初の創造といえるであろう。身体言語でも手話となると非常に高度なものであって非現実的
なものも手話によって自由に表現できるはずである。しかし,これはろう者とか特殊な人々
に限られるのであって,普通は 2歳以上になると音声言語の段階へと移行してゆくのである。
そして非現実的な存在は音声言語段階の人格が最も豊かに産出するものなのである。
非現実的な存在というものは実在するものを適当に組合せて作られる。例えば我国でおな
じみの御伽噺桃太郎を考えてみよう。桃から生れた桃太郎と L、うわけだが,桃が股に通ずる
という点もあるが,本来果実の桃から人が生れるわけはないのである。それで桃と人間とを
組合せた桃太郎は現実にはあり得ない人間となるのである。この場合,桃は実際にあるし,
人も実際にある。そして,それらを観察する人聞が桃から生れる子どもを空想し得たとする。
もし,観察者が身体言語レベルの人間なら,桃太郎を空想し得たとしても,他の人にその空
想を伝えることは難しかったのではないだろうか。勿論絵によって描くことはできるだろう。
しかし,それが何のことか他の人にはわからなかったことだろう。音声言語段階の人々にと
ってこそ非現実の世界が作り易くなっているのである。
このような音声言語段階の人格にとって重要なことは会話によって過去や未来を創り出す
ことである。太陽に対する地球の自転や公転によって昼と夜がつくられ,それが名づけられ
数えられることによって時聞が創られるのであるが,それらはまさに音声言語や文字言語に
よって社会的文化的に創られ人々の中に定着するのである。
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信 州 大 学 教 育 学 部 紀 要 No.47
夢や御伽噺や時間などと違って多分にうさんくささのつきまとう非現実がある。それらの
代表がオカルトであり,また「死後の世界はある」との主張である。
(1)オカルト
1974
年 2月にユリ・ゲラーが超能力(?)なるものを公開して以来,しばらくオカルト・
ブームが続き全国の家庭や小中学校で大量のスプーンが曲げられたので、あった。そして我国
における小ユリゲラーの代表者である A少年の技が同年 5月に週刊朝日によってトリックで
あると暴露されて以来,このブームは急速に冷却していった。このブームは念力というもの
がもしあるなら……という楽しいような無気味なような興奮をまき起してくれたので、ある。
年 8月26日付の信濃毎日新聞の夕刊で糸川英夫は「オカル
この一連の事件に対して. 1976
ト・ブームの根底にあるもの」というテーマで、書いている。糸川は『科学が得意とする分野
客観性」があること,すなわち,万人が誰(だれ〉でも見たり聞いたり試したり出来
は. I
ることで,もう一つ,再現性のあること,すなわち必要な条件をそろえれば必ず同じ結果が
得られることである。』と書き,また『問題は「主観」である。客観性が命である科学の領
分に「主観」と L、う異質分子がとびこんで来ると,科学はタジタジとなる。』と述べている。
ユリ・ゲラーや A少年の場合は彼らが念力を使ったと主張していることは客観的事実なの
だが,その内容は実は念力ではなくて物理力を使っているので、問題なのである。念力といっ
ても実は音声言語による思考であり願望なのである。音声言語を使った思考の場合,身体を
実際には動かさないで,脳の中の情報処理回路だけによって処理しているのである。実際に
身体を動かしたりしないので非常にエネルギーが節約されるのである。そして,結論を出し
た上で、普通は身体の動き,つまり行動によって実践するのである。具体的にいうと「スプー
ンよ曲れ」と念ずるのは内的言語である。そう念ずることが出来るようになるためには実物
のスプーンに接して親などからスプーンという言葉を教えられたり,実際の針金や木の枝な
どを曲げて,やはり「曲げる」と L、う音声言語を親などから教わるのである。こうして,実
際に曲げていない時に「スプーンよ曲がれ」と念ずることが出来るようになるのである。こ
の思考や思念が,そのまま物理的実際的作用となるかのように思い込む,あるいは思い込ま
せる(これも音声言語である)ところに念力の欺繭があるのである。
糸川英夫は客観と主観が別で,主観的価値の優勢がオカルト・ブームの根底にあるとして
いるが.このように主観と客観を対立させる見方は問題だとおもう。客観といえども主観で
あることに変りはないのである。ただ客観といわれる主観は正確な観察や行為の積み上げの
量が大きいだけのことである。物理的な力を使っていながら使っていないかの如く見せかけ
たり,使っていないと主張したりすることは科学者はしないのである。手品師は種を使って
いないとはいわない。彼らは種を使っていないかの如く見せかけるだけである。しかも科学
としてではなくショーとして行うだけである。それに対してオカルト師(造語〉は念力など
というものをあるかの如く見せかけて人を晴着するのである。こういった,人を目前着すると
いうことも音声言語段階に達した人々の聞において,はじめて生ずる現象である。オカル
. が生じて「主観的価値」が優
ト・ブームの果した意味は『石油ショック以後「物ばなれJ
勢になったことを示す』のではなくて,もともと主観的なものであった客観を,主観と全く
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異質なものであるかのように受け止めていた観点を反省することだったのである。客観性と
万人が誰でも見たり聞い
いうものを人格のレベルとか教育の果す役割を見落したままで. r
たり試したり出来ること」というような素朴な観点に止めてみていれば. ~科学の領分に
「主観」と L、う異質分子がとびこんで来ると,科学はタジタジとなる。』という結果になる
のである。この文が書かれてからもはや 6年経過するからもし糸川氏が存命で,思想的に発
展しておられるなら,このような批評は多分見当はずれのものになっていることであろう。
そうであることを望む者である。
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) 死後の世界
「死後の世界がある J
. とL、う主張は正規の学術研究の中ではなく,科学性を装った文書
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8号」という小さな新聞が今年
の中に現われてくるものである。例えば「陽光ライフ第 1
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年) 6月1
9日にこっそりと投函されていた。それを見ると心霊科学の研究によって,
現段階では次のようなことが明らかにされているといっている。
1 一切のものは,宇宙大精神(神〕のあらわれである。
2 人聞の個性(魂〉は死後も生き続ける。
3 現界と幽界(あの世)は密接につながっていて,お互いに交流が可能である。
4 各自は因果の法則によって支配され,死とは関係なく各々その行動に対して責任をま
ぬがれることはできない。
5 各自は現界・幽界にわたって,永遠に進歩向上するよう運命づけられている。
などである。
科学的存在観から,これに対してどのように解釈するかというと,まず 1の「一切のもの
は宇宙大精神(神〉のあらわれである。」としづ命題については音声言語段階人格は言語と
なった音声を媒介として宇宙大精神(神〉といったものを想像することが出来る。つまり宇
宙大精神(神〉が人間(この私)をつくったのではなくて,音声言語段階に達した人々が宇
宙大精神(神〉を創ったのである。 2の「人聞の個性(魂〉は死後も生き続ける。」という
のも,やはり音声言語段階に達した人々によって,はじめて考えられることであって,この
ようなことが出来るようになるところに音声言語段階人格がそれまでの人格段階と違った質
を持つことが明らかとなるのである。しかし,死後も生き続けるということがどういうこと
なのかとなるとはっきりした答が得られるわけではない。むしろ時計が止まれば動きがなく
なり,植物が枯れれば成長しなくなり,豚が死ねばその魂のようなものも消滅するのと同じ
ように人間の魂も消滅すると考えた方がすっきりしているのである。これが存在(b)の生成と
消滅の法則である。 3の現界と幽界〔あの世〉のつながりと交流ということについても同様
に考えることができる。音声言語段階,さらには文字言語段階の人格になってはじめてその
ようなことを考えることができるのである。しかし,それはあくまでも音声言語段階人格が
考える非現実の世界である。これを科学が対象にし得る現実の世界のように錯覚しないこと
が重要である。 4は別にどうということのない命題である。 5現界・幽界にわたって進歩向
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) しているだけのことであって,別に
上というが,これは幽界に対して現界を投映 (
大したことではないのである。
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立派な業績をあげた精神医学者の中にも死後の世界の問題に関しては疑問を残したまま亡
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年 9月 1日の信濃毎日新聞の夕
くなられた方もある。故島崎敏樹氏もその一人である。 1
刊に西丸震哉氏の「兄との約束ごと」が載った。西丸氏は兄島崎氏にひとつの提案をした。
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'、つになっても,あとのことは気になって知りたいと思うだろう。また生きている者にと
って,あの世とは何か,あるのか,ないのか,これは大きなナゾのままだ。そことの聞での
通信方法があるのか,できないのか,ないのか,今もってだれもほんとのことを知らなし、。
こっちの世界からは見つける手段がないけれど,もし行ってみて方法があるのだったら,そ
のときその気になれるのだったら,そっちからうまく交信をやってくれな L、か。」と。兄は
冷厳な目っきにもどっていった。「よし,やってみよう JIじゃあお互いにうまくやろう」こ
うし、う約束が 2人の間で交わされたというのである。
島崎氏も西丸氏も共に死後の世界に大変関心を抱いていた様子がうかがえる。しかもそれ
を兄弟の約束を取りかわし,交信をすることによって実際に確かめようとしたので、ある。島
7日であったから西丸氏の文が書かれるまでに 5ヶ月以上経って
崎氏が亡くなったのは 3月1
いる。しかし,その聞に超常現象的なことは何ひとつ起っていないということである。
科学的存在観の立場からみると,このような交信をすることは無理な注文ということにな
る。死んだら身体と同様,心も消滅するからである。死んだ後でなくとも睡眠状態は死の状
態と似たものだから,これを使って連絡がとれるかどうか調べることもできるはずである。
熟睡している人が起きている人に向って呼びかけることが出来るだろうか。何やらわけの分
らぬ寝言をいうのが関の山ではなかろうか。まして熟睡しているとなれば夢もみず,当然寝
言もいわないというのが本当のところであろう。寝ている場合は,また起きてくるのである
が,死んだ場合はもはや起きてこないのである。死と睡眠の違いは起き上ってくるか来ない
かの違いといってもよいのである。だから,生きている者の側から死者の世界(これは空想
の産物にすぎなしつへ連絡がとれない以上に死者の側から生者の世界へ連絡をとることは一
層困難だとみる方が正しいのである。
それでは,このような非現実の世界というものは,科学にとって余計なものであり,意味
のないものであり,惜しげもなく捨てさった方がよいものなのであろうか。筆者はそうは考
えない。夢や昔話や御伽噺や神話や怪談や宗教的説話も皆人間生活にとって意味のあるもの
だと考えられる。また意味を与えることができるのである。それは例えば数学における虚数
のようなものである。数学の歴史において,新しく創られた操作はしばしばそれまでの数学
の世界にない奇妙なものを持ち込むことになった。そして当時の大部分の数学者を困惑させ
たのである。困惑させられた数学者達はそれらの新しい数を数の世界から追放しようと試み
たりもしたのである。だが数学の正しい歴史は正当な操作を通じて導入された新参者(新し
い数〉を迎え入れるという形で統合し,一層自由で可能性に満ちた数世界の創造に成功した
のである。例えば加法の逆操作である減法は負の世界を生み出した。乗法の逆操作である除
法は分数をもたらした。巾乗の逆操作の根を求める方法は無理数を持ち込んだのである。ピ
タゴラス学派はヘ/2のような無理数を発見しながら,これが彼らの数概念・数の理想像に合
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わないということでこれを認められず,大いに悩んだと L、う。虚数(
i
)も同じような困惑をも
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)は既に 1
6世紀初頭にイタリアの数学者達によって見出されていながら,数
たらした。虚数(
世紀ヵーウスの論文 (1831
年〉まで待たなければならなかったと Lヴ。
として認められたのは 19
年余の年月がかかっているのである。
発見から承認まで実に 300
非現実の世界は現実を扱う科学の世界と調和し難いものである。しかし,精神分析やユン
グ心理学においては夢や神話を自由に使いこなしている。人間科学においても実数に対する
虚数のように非現実の世界をとらえることによって,より広い世界を開拓することが出来る
と考えられる。勿論人間科学は科学的存在観と L、う前提をおろすわけにはゆかない。もし,
これを放棄するならば非現実と L、う大海の中でコンパスを失った船のようにあてもなくただ
よわなければならなくなるであろう。そうして遂には非現実の大海に飲み込まれてしまうの
である。科学的存在観は非現実の世界をも現実理解のために使いうるようにしてくれる鍵な
のである。
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0日受理〉