人 科 学 - 新しい科学

人
間
科
学(I
X)
筒 井 健 雄
信州大学教育学部紀要第 3
1号
1974年 1
0月
人間科学
i
建
筒 井
C
I
X
)
雄
四教育心理学の立つべき立場
(
1
) 近代科学から人間科学へ
教育心理学は教育と L、う事象にかかわる以上
r
如何なる人闘を形成すべきか」という価
値の問題を無視するわけにはゆかないのである。ところが,この点は必ずしも教育心理学界
において共通の見解となっていなし、。
従来,研究上の立場としては教育心理学を技術学として捉え,教育に関する何らかの目的
を実現するための技術としてのみ機能させればよいのだとする考え方があった1)。
この場合,
その技術には目的が含まれていない。目的は他から与えられるのである。例えば
r
教育の
目的あるいは目標は教育心理学の関知するところでなく,教育学がそれをきめるのである。
目標が決められたら,それに対する最良の方法を発見することが教育心理学の機能であるj2>
とL、う考え方である。この見解においては,価値の問題は教育心理学の問題ではないと主張
するのである。このような考え方は,教育において教育学を主人とし,教育心理学をその召
使いとするような前近代的性格にまず問題がある。
さらに,この技術学としての捉え方は
r
教育心理学が一般心理学において見出だされた
人間行動における原理を教育目標の実現に向って応用する学問だ」との見方から成立してい
る。この場合,一般心理学は科学だとする認識がある。しかも,その認識は科学を教育に応
用する場合には科学でないものを介入せしめざるを得ないという考え方である。ここには,
教育活動そのものは科学でないという暗黙の前提がひそんでいるようである。
以上のような考え方は一般心理学の依拠してきた科学論自体に問題があることを示唆する
ものであると思うが,その点に言及する前に,まず,昨年刊行された続有匡の「教育心理学
の探求」の中でそのような点に触れている箇所を紹介しよう。例えば
r
教育心理学が心理
学に依存することが深ければ深いほど,教育心理学もまた科学としての人間追求を行なって
いく結果になるわけである。ところが,そのような科学的人間像の追求から,教育の実践に
おいて問題となる具体的人間像に至る聞に,大きな間隙のあることを認めないわけにはし、か
ない。すなわち科学が追求するところの人聞は,具体的個人の具体性,特殊性,個別性を捨象し,
彼らのすべてに共通する普遍的特性によって組み立てられた抽象的存在である。このような
人聞は,したがって,決して,われわれの前に,実在する個人としては立ち現われないよう
な存在である。しかるに,教育の実践において,われわれの前に立つ個々人は,それぞれの
個性,独自性をもった,他人をもって置き換えることのできない,生きた人々である。教育
の実践は,このような個々人に対する働きかけなのである。教育は,一方において,人々を
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1
一定の水準以上に到達せしめる,あるいは,望ましい典型に近ずけるという働きであるのと
同時に,他方では,個性の伸長であるといわれ,また,少なくとも個性を抹殺してしまうこ
とは考えていないのである。人間の科学的研究の成果をこのような教育実践に生かそうとす
る時,科学的法則性追求の途次において,捨象していった特殊性,具体性を付け加えなけれ
ば,何らの実効をも期待し得ないことは明らかである J3) とのべられている。また
r
教育
心理学が心理学や精神医学,社会学,文化人類学等々の周辺科学と関連しつつ,人間の行動
の法則性,あるいは原理を仮説的に持つとしても,複雑にして独自的な,具体的個人への働
きかけを試みようとする時,その間隙を埋めるものは,働きかける人が個々に体得したとこ
ろの「人間知」であって,この間隙を埋めてゆくところの研究は容易に進まないであろうの
に,しかも,働きかけは,現に目前において必要なのであり,そこに,いわゆる科学にあら
ざるものを介入せしめなければならないというところにあると思う。これを忌避して,科学
たるの分を守るか,科学の限度を超えても,なお,目前の教育的必要性に応えようとするの
かが,実践に連なる学問として検討しなければならない点であろう」のとのべられている。
続がのべている科学においては
r
具体的個人」は「科学的人間像のサンフ。ル」にすぎな
い。彼の独自性は無視されてしまい,ある人間像の一例としてしか認められないのである。
かかる科学観に立つ研究者は,科学的な研究者として個人の前に立つ時,その個人の独自性
を積極的に無視してしまうのである。続のいう間隙はここに生ずる。個人の独自性の成立し
てくる所以を説明できないし,またしようともしない科学が,個人の独自性形成を本質的な
課題とする教育にかかわろうとすること自体,全くのナンセ γ スとしかいいようがないので
ある。
このような矛盾が何故生じてしまっているのであろうか。それは, もともと自然(物質〉
を対象として発達してきた科学(自然科学〉が,その驚異的な成果を背景として,人間の心
理的問題に適用された事から生ずるのである。物言わぬ自然を対象としている時には目立た
なかった科学の本性が,人間自体を対象とし始めた時に露呈せざるを得なくなってきたので
ある。というよりもむしろ,従来の科学を母胎として,その科学よりもさらに発達した科学
が生まれざるを得なくなってきたのである。正木正,続有恒の諸先輩はその陣痛の苦しみを
深く味わった人々である。
さて,従来の科学において公認されている(あるいは主張されている〉特徴は,誰もが反
証しえないような確実な経験的事実を基にしており,実証性と伝達可能性をもっているとい
うことであるの。このような点を小笠原慈瑛はもっと細かく分析しているへそのことはさて
おいて,確実な経験的事実,実証性,伝達可能性,普遍性,客観性, といった科学の性格の
9
世紀末
背後には坂田昌ーのしづ力学的自然観が潜んでいるのである。この力学的自然観は 1
)。
までにおいて特に支配的な観点であり,これによる科学を坂田は近代科学と名づけている 7
これは今日もなお依然として大多数の人々によって支持されている科学観である。その近代
科学はどのような特徴を持っかというと
2つの見解からでき上っている思想だと L、う。ま
ず,第 1に自然が窮極において永劫不変のアトムからつくられていると L、う見解である。第
2にニュートン力学の法則が世界のすみずみまでを支配する千古不易の大原則だとする見解
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I
X
)
2
3
である。この 2つが結びついて,力学的,物理至上主義的自然観がつくられている。これに
よって立つ科学が近代科学だというのである。
ここでは,具体的な研究対象は科学的真理を顕わすためのサンプルで、ある。世界はすでに
出来上っており,完全な調和をもって形成されている。人聞はただ,それを知らないだけで
ある。その隠された真理を明らかにするために科学的研究がなされるのである。この科学観
に立つ科学者は真理が創造されるということや,法則そのものが,創造された世界において
は新らしく創造されるのだということを知らない。彼にとって対象は分析され総合されて,
始めてその姿を明らかにするのである。そこでは,ただ隠されていたものが顕われるにすぎ
ない。研究対象はいつでも取り換え可能なサンフ。ルにすぎない。対象の持つ独自性は,それ
が明らかにすべき普遍的法則からみれば,単なる偏りにすぎないのである。
さて,坂田によれば, 20
世紀に入ってからの原子物理学の著しい進歩は,このような近代
科学の力学的自然、観を全面的な崩壊へと導いたのである。力学的自然観に代って弁証法的自
然観が登場するのである。彼はこの弁証法的自然観によって立つ科学を現代科学と名ずける。
この弁証法的自然、観は次のような 4つの特徴を持つと L、ぅ。それは第 1に自然界には小は素
粒子,原子,分子から大は太陽系,星雲にいたるまで様々の質的に異なった階層が存在する
ということ。第 2にそれぞれの階層にはそこに固有の法則が支配しているということ。第 3
に,さらにこれらの階層は小は素粒子から大は星雲にいたるまで,すべてたえざる生成と消
滅の中にあること O 第 4に,これらの階層は互に関連しかっ依存し合って,一つの連絡した
自然をつくっているということ,などである。これは同時に現代科学の 4つの性格と考えて
もかまわないのである O
この現代科学に立つ場合は,具体的な研究対象は隠された既成の世界を暴露するためのサ
ンプルではなし、。むしろ,新しい階層の発見と創造,新しい法則の発見と創造のための素材
である。現代科学者にとっては,世界は既成のもので隠された部分を持つというだけのもの
ではない。これから創ってゆくべき階層がいくらでもある世界である。
現代科学は近代科学を母胎として生れた子どもである。しかし,その母以上に優れた子ど
もであり,世界の説明だけではなく,世界の創造をも行なうのである。
しかし現代科学者はまだ人間そのものが創造されてゆくものであることを知らない。人
聞は低いレベルの存在から高いレベルの存在へと創造され,また自己を創造してゆくもので
ある。高いレベルにおいて成り立つ法則は低いレベルの時には存在しないのである。ただし,
高いレベルの人間存在は低いレベルの人間存在を素材として成立するのである。
人間科学の立場に立つ科学者は,このことを知っている。彼は普遍性と客観性を支える経
験的真実そのものが,彼の立つ存在レベルによって姿を変えることを知っている。科学的法
則の普遍性を根底から保証するものは,彼自身の存在レベルの高度化 rよることを知ってい
るのである。
この意味から, 科学はただ単に個人を超えた抽象的なものではなくて, 社会
的・集団的・歴史的に発達して来た科学(Sc
i
e
n
c
e
) と個人的・実存的・生活史的に発達して
ゆく科学 (
s
c
i
e
n
c
e
) とがあることが示唆される。(Sc
i
e
n
c
e
,s
c
i
e
n
c
e という表わし方はc.
Rogers の著書からヒントを与えられたものである町。集団的・社会的には,
ある個人を超
信州、│大学教育学部紀要 N
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えた科学(Sc
i
e
n
c
e
) がある。
しかし,そのSc
i
e
n
c
e も個人の科学 (
s
c
i
e
n
c
e
) に支えられて,
はじめて存在し得るのである。歴史的にみれば,天動説は地動説によって克服された。しか
し,各個人の中の科学 (
s
c
i
e
n
c
e
)は社会的な克服と平行し得るであろうか。人は誰でも,何
c
l
e
n
c
e
も知らない乳児として生れてくる。子どもは年令が低ければ低いほど低いレベルの s
しかもっていないのである。このような s
C
l
e
n
c
eの発達段階によって経験そのものの信恵性
も違ってくるのである。勿論,故意か偶然か s
C
l
e
n
c
eレベノレの高い科学者が嘘偽の報告をし
ようとする場合は全くの論外である。
それでは,人間そのものによって科学が支えられるとするなら,非科学的な認識と科学的
な認識とを分ける基準は一体何になるのであろうか。それは次に述べるような科学的存在観
に由来する立場によって決定されるのである。
(
2
) 科学的存在観に基ずく立場
人間科学(1)から(四〕までに述べてきたことからわかるように,教育心理学の立つべ
き立場は基本的には科学的存在観である。
この科学的存在観から由来する立場が 3つある。第 1は心身一元論の立場であり,第 2は
自我中心主義の立場であり,第 3は創造的人格形成の立場である。これら 3つの立場は互い
に関連し合っている。したがって,それぞれが独立の立場ではなく,互いに他の 2つを含み,
また,予想しながら成り立つものである。
(必心身一元論の立場
第 1の心身一元論の立場というのは次のような意味である。つまり,身体とは独立の霊魂
が存在するといった考え方を認めないことである。前世とか来世といった神秘的な考え方を
否定する立場である。例えばデカルトは身体と独立に精神が存在するとして
I
私をして私
であらしめるところの精神は身体と全く別個のものであり,なおこのものは身体よりもはる
かに容易に認識されるものであり,また,たとえ身体がまるで無いとしても,このものはそ
れがほんらい有るところのものであることをやめないで、あろうの」
といったが,この考え方
を認めないのが我々の立場である。精神や意識というものは身体と同じような実体概念とし
て受け取られるべきものではなく
I
存在の見方」における機能に属するもの,つまり機能
概念として受け取られるべきものなのである。実際に生きて働いている機能は必ず何らかの
実体を基盤として成立しているのである。だから身体が消滅しでも意識は残るなどというこ
とはあり得ないのである。
三島由紀夫は生前に転生輪廻を信じていたらしい。
感動をうけたのはベナレスで、見たガンジスだった。
wインドで彼が打ちのめされるほどの
I
人聞は,死ねばみなベナレスへ行って
灰になってガ γ ジスに戻る。そうして転生,輪廻をするんです。ヒンズーの世界というのは
すごいなあ J~ (サンデー毎日,昭和4
5
年1
2月1
3日号
2
3
頁〉彼は自殺する時「七生報国」と
書いた鉢巻をしていた。このようなことは文学者のお遊びとして見るのは興味があるが,科
学的に見れば全く児戯に等しい行動である。三島由紀夫は,いってみれば芸術的に死んだの
であって,科学的に死んだのではない。われわれは彼の芸術的主張を科学的なものと混同す
べきではないのである。
筒井:人間科学 (
I
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)
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岡部金治郎は「人聞は死んだらどうなるか」という題の著書の中で,非活性化する「魂の
核」としづ概念を提起している。人聞が死ぬと魂は消滅するのではなくて,非活性化するの
だというのである。ヴィールスならば結晶化している時は非活性化しているとし、し、うるだろ
うが,人聞が死んだのを非活性化しているということはできない。それでは,睡眠と死との
違いを科学的に説明することができないからである。彼は工学博士であって自然に対しては
科学的に考察し行動することができるのだろうが,人間に対してはまだ科学的に思考するこ
とができないようである。
人間科学としての教育心理学は,以上の点を確実に認識しておかなければならないのであ
る。そうしないと,科学と形は似ていても本質の異なる似非科学あるいは非科学となってし
まうのである。特に心理学の分野を研究する科学者にとっては,この点の把握が重要な課題
となるのである。
信) 自我中心主義の立場
第 2の自我中心主義の立場というのは「科学の確実さは己れの存在の確実さを基盤として
成立するものだ」ということである。人間科学の立場は宗教的立場のように神や仏の存在の
確かさを基盤とするものではない。
古来,人聞は自然の脅威の前には赤子のように無力であった。人々は地震を恐れ,火山の
噴火を恐れ,洪水や津波や雷を恐れて生きてきた。このような恐れとか,獲物や作物の豊か
さを願う心から神仏の概念が生じてきたので、ある。自然科学とその技術が進歩した今日では,
それらの脅威が薄らぎ,生産物も豊かになった。そのため神や仏に対する信仰も昔ほど熱心
ではなくなったので、ある。神仏に対する信仰は一方では形式的な概念として宗教専門家によ
って精韻化されると共に,他方では儀式化されて冠婚葬祭の用に役立てられてきたのである。
とはいえ,今日でも,自然の猛威の前には人間はひとたまりもないのである。パスカルの言
ったように「一滴の水さえも人を殺すには充分」なのである。
しかしそれにもかかわらず,我々はもはや神や仏を基盤として人聞における科学の体系
を打ち建てることは不可能である。人間における科学を研究し,実践する者は,その生き方
においても科学的でなければならなし、。さもないと,キルケゴールのように悩み,ニーチェ
のように分裂するのである。ニーチェが神と自然科学との矛盾に悩んだのは,キリスト教的
な超越者・絶対者としての神を信仰していた為と考えられる。その点,禅仏教における仏は
性格を異にしている。キリスト教的神は科学的存在観と一致し得ないが,禅仏教における仏
はこれとよく調和し得るようである。
有機体として存在を開始した個人は,動物的段階へと発達し,家庭の中で人間となる。人
間となった以後も発達を続けるが,ある段階から自我に目覚める。目覚めた頃の自我は,ま
だ,小さな弱 L、自我であり,狭い自我である。しかしそれは同時 v
:
-, より大きな強い自我,
広い自我に向って成長してゆく可能性を持っている。
自我中心主義は自己中心主義,あるいは自分中心主義と呼んでもよい。しかし,従来,自
己中心主義や自分中心主義は悪い意味で使われてきた。それらは自分の利益しか考えず,他
の人の利益を無視する生き方の呼称であった。俗な言葉でいえば「自分のものは自分のもの,
2
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他人のものも自分のもの」とし、う態度,つまり利己主義と同じような意味で使われていた。
また,これらは,いつで、も自分を先にして,他人を後にする態度を指していた。
自己中心主義や自分中心主義は従来道徳的観点からきびしく非難されて来たものである。
あらゆる宗教が自己中心主義を利己主義として告発してきた。しかし,非難したからといっ
て,人聞は容易に自己中心的なあり方を改め得たで、あろうか。人聞の自己中心的なあり方は
存在のあり方に基盤を置いているものであって,根深いものである。低いレベルの自己中心
主義を非難した宗教も,高いレベルの自己中心主義を非難することは不可能であった。例え
ば第 2次世界大戦において,交戦国の宗教家達は自国の民には「人を殺すな」と教えていた。
ところが他国の民を殺すことは,むしろ,奨励していたので、ある。つまり,どちらの国でも,
それぞれの神仏に対して自国の戦勝祈願が熱心になされていたので、ある。このように敵国の
民がより多く死ぬように神に祈った宗教家の他に,宗教的信念から戦争に反対した人々もい
た。しかしそれは極めて少数であって政治的状況を動かす力とはなり得なかったのであ
る
。
生活技術の発展を通して,人聞は次第にその認識能力を高め,活動範囲を拡げてゆくので
ある。その拡大と共に新たな問題が発生してきて,その最初の適応手段が闘争というような
形をとることがよくある。けれども高度に発達した適応手段の所有者達からみれば,闘争し
ている者達の適応手段は拙劣なものに見えるようになるのである。このようなわけで,生活
技術の発展段階においては比較的未熟な段階にある宗教家達が未熟な神概念を絶対的なもの
と思い込むことはよくあることなのである。人間の進歩と共に神の概念も進歩する。そして
遂には神そのものが姿を消すのである。そして,そこにあるのは世界と自分,自分と世界な
のである。
極めて広がった自我においては,どこからどこまでが自分なのか,その限定をつけること
は難かしいのである。そして,そのことを逆にいえば,どこを自分としても自由だというこ
とである。この指先が自分だといってもよいし,あの雲が自分だといってもよい。宇宙の彼
方にある星を自分だといってもよ L、。他の人々は自分の生まれ変わりだと考えてもよい。
言葉の意味は,人々が互いに話し合う時,その話し合いの時点で互いに了解し合えるなら
ば,それでよいのである。互いに理解し合う時,相互による限定が成立するのである。言語
の意味を人々の主観によらないで確定するようにしようと努めている人々もいるが,そのよ
うな人々の試みは暫定的には意味を持つが,究極的な意味は持ち得ないであろう。言語の意
味は人々の関係,人と事物の関係によってきめられるものだからである。それらは,人の主
観と深く結びついている。そして,それらの関係は生きており,変化するものである。言語
の意味を主観によらないで確定しようと試みる人々は生きた関係を死んで化石化した関係に
変えようと試みる人々である。印刷された本は図書館にしまっておくことができるが,言語
の意味は博物館に収めておくことができないのである。
人と人との関係,人と事物との関係を通じて意味(言語の意味も含まれる〉が定まり,そ
の意味が内面化してゆくことによって自我が発達する。自分が現在持っている狭い自我を根
拠として,人は他の人々,他の事物との関係を形作り,その関係に適応することによって,
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より広い自我へと次第に成長してゆくのである。この過程は絶えず繰り返されて,少しずつ
自我が拡大してゆくのである。
また,自我中心主義は神仏を中心としないように,原子あるいはそれ以下の素粒子を中心
とする観点にも立たない。原子や素粒子を基礎として考えることは差支えないが,人間の心
理を研究する際には,それらは適切な分析単位とはいえないのである。教育心理学における
。
適切な分析単位は個人であり,個人にとっての意味を形成する対人関係や対物関係である。
創造的人格形成の立場
第 3の創造的人格形成の立場というのは,次のようなものである。従来,学聞は真理を探
究するための活動だとされてきた。しかし,教育心理学的,あるいは臨床心理学的状況の中
で真理を探究するとはー休どういうことなのであろうか。ここでは探究と L、う言葉に問題を
感じるのである。探究とは文字通り「たずねきわめること」である。この意味は何か隠れて
いるものを掘り出し,探し当てるというニュアンスを持っている。
ところで,教育とは果して隠れているものを掘り当てたり,探し出したりすることであろ
うか。むしろ教育とは,これまで存在しなかったものを創り出すことではなかろうか。教育
や心理治療においては探究がなされるのではなくて,創造がなされるのである。真理の探究
ではなくて,むしろ真理の創造である。
宇宙は人聞が創られる以前から創造活動を続けてきた。存在の別名は創造である。人間も
また創造活動を続け,絶え間なく世界を変え続けている。ラジオやテレビなども含めて全て
の発明物は世界を変えた。新しいものが創られると既存のものとの聞に新しい関係を生ずる。
つまり新しい法則が生まれるのである。
人間の場合も,新しい関係が創られて,その関係が個人の中に内面化すると,その個人は
それまでとは全く違った法則の中に生きるようになるのである。例えば条件づけが形成され
る以前の乳児はただ生理学的な身体構造と機能に依存した反応しか行なっていないが,条件
づけが形成された以後は,未来に起る事象に対する予想能力が獲得されるのである。また母
親を呼ぶために泣くというような意志伝達能力も獲得するのである。このように条件づけが
完成する以前と以後とでは全く乳児自体が変ってしまうのである。つまり,その乳児におい
て成立する法則が変ったといってよいのである。そこには,その乳児にとって新しい真理が
成立しているのである。釈迦が悟りを獲得する前後においても,そのような人間の質的変化
があり,法則の変化がある。つまり,釈迦における新しい真理の創造があったのである。
世の中には,創造的人格の形成に反する生き方がある。その第 1は自分の現在の考え方
(生き方〉に自信を持たない場合である。自分なりの考え方を持たず,表明せず,何でも他
人のいうままに従っている態度である。このような人は批判的な思考能力を育てないために,
いつまでたっても根なし草のような状態にある O 第 2は自分の既得の考え方(生き方〉に固
執して他人のそれから学ぼうとしない態度である。このような人は一応彼なりの批判力はあ
るのだが,その能力がレベルの高いものに育ってゆかない点に問題がある。
真理の創造とし、う事柄において,注目すべき点が 2つある。それは社会のレベルにおいて
なされる真理の創造と,個人のレベルにおいてなされるそれである。前者の場合,それに功
2
8
信州大学教育学部紀要
No. 31
績のあった個人はその栄誉をたたえられて歴史に名を残すことがあるが,後者の場合は殆ん
どそういうことはない。たとえ創造者個人は偉大な発見に狂喜していたとしても,それが社
会的にみれば最初の創造者の業績を追認したに過ぎないということが多いのである。
ある個人の創造が,社会的文化的にみても最初の創造であるということは滅多にないこと
である。そのため,そのような発明発見のみがもてはやされる傾向がある。しかし,教育に
おいては個人的な意味での発明や発見に対して, もっと敬意を払う必要がある。ただ単に教
え込まれて,おおむのように繰返すだけの知的能力を開発した人々よりも,真の意味で創造
的な能力を高めた人々の方が社会を一層よく進歩させ得るし,彼自身の幸福に止まらず,多
くの人々に幸いをもたらし得るだろうからである。
0年以上前に開発され, ょうやく普及され始め
科学の教育においても,そのような方法が 1
ている 10)。それは板倉・上廻らによる仮説実験授業である。従来の理科教育では,子どもの
認識能力の発達ということは充分に考えられていなかった。社会的に発見され,体系づけら
れた知識を子どもに覚え込ませれば,それでよいのだと考えられていた。教育者は,子ども
を教育するとし、う熱意と善意にあふれればあふれるほど,子ども自身の創造力の芽をつみ,
数学の嫌いな子や科学の嫌いな子をつくっていたので・ある。
s
c
i
e
n
c
e
)に向けられず,その子が出来きるか出来な
教育者の眼は,子どもの中に育つ科学 (
i
いかに向けられてしまっていた。先生の持つ判定基準は歴史的に正しいとされた科学(Sc
e
n
c
e
) だったのである。科学教育を受ける子どもは自分の中の科学 (
s
c
i
e
n
c
e
) を先生から否
定されてしまい,何かよく理解できないが有難そうな知識をさずけられてしまうのである。
それに対して,板倉・上廻らは子どもの予想能力の向上ということを中心に考えている。
予想能力を如何にして向上させるかという点に理科教育の要締があるというのである。子ど
もの創造能力をフルに発揮させ得る理科教育が創造されつつあるのである。子ども達は発明
発見の喜びに夢中になり,眼を輝かせて学習するのである。科学史の発展途上においてなさ
れてきた(仮説一一ー討論(論争〉一一実験〉のミニチュア版が一つの教室において実演される
わけである。科学史においては,地動説と天動説の真偽さえも激しい論争と実験とを経過せ
c
i
e
n
c
e
)
ずしては確認されなかったので、ある。学問の進歩も学者達による認識能力(各自の s
の勝負と協力によって達成されてきたのである。教育の場は真理の創造の場 (
s
c
i
e
n
c
eの発
達の場〕である。単なる傍観者は創造者ではなし、。仮説実験授業によって,始めて,子ども
達は傍観者ではなく創造者としての本来の地位を与えられたので、ある。
創造は,まず,創造者が与えられた事態に直接かかわることから始まる。創造者は自分が
既に獲得した認識能力によって,
その事態を把握しなければならない。
i
a
g
e
t,J
.
これは P
によるならば適応 (
a
d
a
p
t
a
t
i
o
n
) の同化的側面 (
a
s
s
i
m
i
l
a
t
i
o
n
) である 11)0 つまり創造者は与
えられた事態を彼の現段階の見方に同化するのである。その同化の仕方は各創造者によって
様々に異なる。その異なる点の優劣を彼らは論証し合うわけである。そこで得られた議論に
基づいて,実験を企画し,その実験によって優劣を決するのである。対象を把握する際の自
分の枠組が現実の事態に合わない場合には実験そのものによって否定されるのである。この
ようにして,彼は客観的な事態に対して自分の見方を調節しなければならなくなるのである。
筒井:人間科学 (
I
X
)
29
これが P
i
a
g
e
t,J.のいうところの適応の調節的側面 (accommodation) である。
このようにして,創造者は第 1に自分の既得の見方に立つこと,第 2に討論と実験を通し
て他の見方を取り入れてより発展した見方を形成すること,などを行なうのである。これが
創造的人格形成の原則である。
このような過程を加藤秀俊は「話し合いの論理」の中で「取り込まれた他者」として考察
している 12¥ BがAを取り込むという時は Bの中に aを取り込むのである。こうして Bは B'
に変化する。 Aの方も Bと話し合うことによって bを取り込み A'となるのである。
このよ
うにして, AとBは次第に取り込み合いつつ発達してゆくのである。
心理治療の理論と実際も,このような過程の精密化されたものといえる。
は Ca
r
1 Rogers との対話において,
Martin Buber
治療者の特質を「自分の立場に立っていると同時に,
相手の立場にも立っている。こちらとあちらに,いやむしろ,あちらとこちらに。相手のい
るところと自分のいるところに同時に立っている」とのべている 13)。このような治療者とか
c
l
i
e
n
t
) の方も次第にその立場が広がってゆくのである。つまり,彼
かわる時に,来談者 (
C
l
e
n
c
eが発達してゆくのである。
の S
石沢清,坂井正男らの如く優れた児童画の指導者達においても,
C
l
e
n
c
e
上述したような S
の成長がみられるのである。つまり,子どもの絵を正しく伸ばす能力を身につけたし、と思う
者は美に対する自己の実感をいつわってはならないと彼らは強調するのである。教育は,
し
ばしば,そのような間違いをするとし、う。これが良い絵だ,あれが素晴しい絵だと知りすぎ
ると,自分の実感、をごま化して,それを良い絵と思い込もうとする。すると彼の中で成長が
止まってしまうのである。高いレベルの絵を本当に良いとの実感をつかむためには自分が今
居る段階の実感を基にするよりほか仕方がないのである。そして,真剣な取り組みを経て,
本当に良い絵を良い絵と実感することができた時,彼は子どもの絵をより正しく指導するこ
とができるようになるのである。
30
信 州 大 学 教 育 学 部 紀 要 No. 3
1
参考文献
1 岡部弥太郎・沢田慶輔編教育心理学東京大学出版会
2 続 有 恒 編 現 代 の 教 育 心 理 学 国 土 社 昭3
1
年
1
9
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年
3版
6
2
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3 続 有 恒 著 教 育 心 理 学 の 探 究 金 子 書 房 昭4
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6 小 笠 原 慈 瑛 知 覚 の 問 題 点 一 一 相 良 守 次 編 現 代 心 理 学 の 諸 問 題 誠 信 書 房 昭3
6
7 坂 田 昌 一 科 学 と 平 和 の 創 造 岩 波 書 広 昭4
5
年 第 7届
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265-278.
9 デカルト
落合太郎訳方法序説岩波文庫
1
0 板倉聖宣・上廻昭編仮説実験授業入門
42~43頁
明治図書
1
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年
1
1 P
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. 波多野・滝沢訳知能の心理学みすず書房
1
2 加 藤 秀 俊 人 間 関 係 中 央 新 書 昭4
5
年
9版
1
9
6
9,第 4刷
2
9
版
1
3 マルチン・ブーパーとカール・ロージァズとの対話
人間論岩崎学術出版社
1
9
6
7,1
5
0
頁
(昭和4
9
年 6月2
9日 受 理 )
筒井:人間科学 (
IX)
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