XVlII - 新しい科学

人
間
科 学
(XV
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I
)
筒 井 健 雄
信州大学教育学部紀要第 4
6号
1982年 3月
人間科学 (
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)
一一一内山興基退問i
と
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二 G
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n他 と の
対談の人間科学的考察一一ー
,筒井健一雄
山この論文は D
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.EugeneT
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n
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i
nとその夫人 D
r
.Maryと
が京向Ik子・大学の品潮1捻教J受夫妻のお1介で内 ILJ!J!!~向I]i (瞥洞宗〉
と1
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8
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ドI
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J
2
5日に対談した時の録音を資料として欝き上げたもの
である。この録 1
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は1
9
8
1年 9月1
9日ヒューマユスティッタ研究誌
(仮祢〉刊行発起人会の折り品瀬氏から贈られたものである。
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. EngeneT,G
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in は O
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lRogersの弟子である。我闘では臨床心理学の分野
において〆来談者中心療法 (
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t田 n
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) を分裂病者の治療に応用した人とし
て有名である九肢はまたその試みを通して治療的なトレーニング左しての新しい方法を
創り IU した。それは f~~l.Î\づけとか原文のままフォ~カシング(focusing)
と呼ばれる方法で
あるわ。
彼はまた!o!,U
1
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り,世f
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亨:的にも大きな仕事をしている。それは e
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g といわれる概
Lただ,こめ慨念は従来の心理学の枠組に乗り難<.
念で我国では体験過程と訳されている 3
難かしいものなので,心理学者の中にはその著書 (
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) を訳そうと L、う人はまだ現われていない九
2
任者の考え方は彼の考え方とかなり近いので,彼の下で一年 n
l
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外研究をしたかったので
あるが,彼が C
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o大学から NewYork の)iへ行ったりしていて連絡がとれず,その
1
9
7
8年肥出野直教授の紹介で D
r
.
願いはかなえられなかった。しかし,幸運なことに, "
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i
n の下に在外研究できた時,前後 2回 51
'1間に渡って会うことができた。
EdwardS
. 政)
彼は大柄で切るし、さっぱりした気性の持主で,よく通る戸で明確な英語を話して〈れた。
r
.
"Maryは彼より若<.知的で繊細な,どこか1'1
木!
J
:性のような感じのする優
'披の夫人 O
しい人であった。彼の明
mさ
,
1
mけっびろげの楽天性と対照的に,何となく淋しげな憂いを
含んだ雰凶気が印象的でーあった。
以 上 の よ う に 彼 kの出合いについての大まかな描写を背景として,ここで取り上げたい
のは彼が 1
9
7
8年の 1
0月に日木心理学会の招きで来日した折,宇治市の曹洞宗の禅僧,内山興
;ま老師と対談した時のことである。この録背の内容は主に内山老師に聞くという形になって
いるので, G
e
n
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l
i
n の話よりも内山老師の話をより多〈取り上げることになるのはJ.l:むを得
ないことである。なお内山老師について G
e
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i
nは高〈評価していた。筆者もこの録音を
6
1
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J m大 学 教 育 学 部 紀 袈 t
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O¥,、てみて, 1
,
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1賠の!.!!.¥,、を怖くしたのである。
このお!初土内 1
1
1老師に対する Gcncllin の質問から始まる。しかし i
廷に悩みを突き抜け
4
1われる)彼の
た(と !
n
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JはfJ¥
lと心理学にかかわる-一般的なもので,それほど筆者の関心を
Z瀬夫妻の質問j
の方が, 1
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1
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1老ぬIiの, その生
引くものではなかった。それよりも Mary とl
t,fjlこ具体(1',して\,、る !ι包!を示していて!fI! ~1とf裂\,、のである。
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観に生きよ。
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y は内 111 老(~Iiに対して, r 老 f~fi の II~ は他の人向 IIU と i企ってが、の 1'-JI(,i ま Cf~ しく,!Lì面し
恥'
てく jして,官、はもう ・人ぽっち℃はないんどというぜfじにさせてく J
Lました。 Jとの J
主伊を
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みなに削l
Jl た質1i:J~するの
してから,彼 1
彼1
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ーの母えでは,人 ul
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iの典氏にある時J.'jのJ
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tし誌とナ}jI勾を大"トにして行動 Lないと病
日ったことに,彼氏 1
'J:
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の
感1
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気になったり, M~ な M~ じになったりする ξ!41 う。ところが" I
が I~I 分で 'L 1
'
1
'々はっきりとはつかめない。そこで,他の人の なW,
をI
J
I
l~、てみることになるの
4
他の人口,例えば「あの大学的ポストは素晴し L、ポストだ。こんな素敵な機会はなし、。是非
チ十ンスを逃さず,そこに就職するようにしたらどうか J という。しかし,彼タが一人で
n
:
i
Jに進んでも充実した生前があるよ
静かに 7与えてみると,どうも空しい感じがする。その )
うな気がしなし、のである。だが,彼氏のその感じにも餓たる I~I (誌があるわけではないのそこ
で彼 IJ: の,老(~Ijに対する質問は「人間は ("J 紋こんなにも様々な考え方をするのか。こんなに
W
4々人が違ってくる元は何たのか ?J という質 H
nになる。彼女はそこに人の生き方の多様性
の不思議さとその生じてくる根元を究明jしたい思いを感じたの‘である。
の質問は始め,このように漠然としていて,抽象的・前学的ですらあったので,内山
彼よc
老向Iiの符も rl~ 分は自分を知り得るか」とか「あて(あてが有るとか無いの主エ〉とか方
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r
i
J
Jについての析学的興味に応じたものとなっていた。そ J
I.はそれなりに興味あるものでは
白J
姿響いてゆくものとはなり i
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1なかったようである。敏感
あったのだが,述える人の悩みに I
a
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yはそれを感じて態度に表わしたのであろう.し, Gcndlin もそれと抗ったのであろ
な 恥l
y こ対して「自分の聞きたいことをもっとはっきり言うように j と援助し /
:
.
:
0
う。被は M日r
そこで,彼女は彼 !
J
:の質問の中に始めから含まれていた部分たはっきりさせた。つまり
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l
l
の人のすすめてくれる側純(あのポスト IH、
L、とか思し、とか)と自分の(,lI
i
他(一人になって,
そのポストについた自分を感じた"寺の空しさ〉との間の相魁をどうしたらよいのかという質
H
Uをした。
l
l
iは彼女に迷いがあることを見てとって,次のようにいった。「弘は人の(,1Ii組制
内山老n
〈つまり世間で一般にこれがよいとされる価値観)は無担して生きている。例えば,私は今
迄t
,j金に頭を下げたことがない。 Jr
自分自身の価値観を採るべきか, I
I
t間相場の f
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i値観をJ
采
るべきか 7 その間で迷っていろノ;., .
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・.,コの人でちり
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.~ /,~である。ぞう
l.t ~.
うピッコの人は世間相場の価値観で人生を jきることにきめた人よりも ~ï;\,、のである。そして p
自分自身の仰i 随餌だけて'':1;. きてゆく人は一帯 ~rtì\' 、人であるの:弘はそれであち J
Maryは「私は述うことの中に(r
l
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i他を認めているのです。 Jと少々抵抗,をした。内 1
1
1老師
筒井:人!日1H.学
(XVI
I
l
)
6
5
は「たしかに迷うことには意味がある。迷った・ことのない人には速える人の踏みがわからな
い。だから迷ったことのある入社悟った後で迷った人の苦しみを込鳴しつつ導くことができ
るのである。だが,迷いが迷いである中は何にもならないのである。迷いはそれを抜けて悟
った後にはじめて迷いの意味が感じられるのである。 Jと答えた。また, r
B
e
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f (独語で職
業の恵::)とか ml
¥i
n
g (英語で職業の意)とかし、われるように天から・の呼びかけが私の木当
の仕事ではないか。ピッコをヲ i
いていては駄目です。 Jという。
内山老師が天からの呼びかけといっているものは各人がその与えられた原境の中で本当に
自分が好きで興味と関心を持って,やり通してゆけるものを指すのであろう。金や名誉でな
く,他の人からみて,馬鹿げたつまらない事柄であっても,本人がそれをやっているだけで
楽しくて仕方のないようなもの。あるいは充実感の感じられるもの。そして他の人々の迷惑
) であろう。
にならず,むしろ助けとなるようなもの。それこそ天からの呼びかけ(Beruf
金とか名誉など世間の人々の求めるものは二の次なのである。
しかし人はパンなしに生きられるものではないから,金や名誉など,世間の人々の求め
i
値観に従って生きるのが一番強 L、生き方
るものは強烈な魅力を持つのである。自分だけの{,lI
だといわれても,なかなか実行できないのが普通の人である。内山老師も「私が自分だけの
価値観で:'~I:- きられるようになったのは沢木老師と L 、う実物見本があったからです。JとL、
う
。
i
l
i値観によって生きる人間となっていってい
「私の弟子述は私を実物見本として自分だけの {
う
。
る
。 JとL、
仏教はとりわけそうなのであろうが,宗教というものは一般に実物見本によって人絡を伝
えてゆくものであろぎ。素晴しれ‘人格となるためには,挺れた人栴に顔と顔とを合せて出合
うことが重要なのである。仏教においては釈迦に直接出合って木当に釈迦の人格を体得した
者が,次の者に :
1
¥合い釈迦の人協を伝えてゆくのである。それはあくまでも顔と顔とを合せ
た直接の!1
.
¥
UI,、によって伝えられなければならない。その出合いを ι
1
:1核として個々の宗教者
は修行をする。毎日の生活を通して人格を長']ってゆくのである。時には山の中や静かな堂に
こもり修行をする。伝えられ教えられた事情の上に更に工夫して自己の人格を創るのである。
教組である釈迦を源流とし,生身の出合いを通して伝えられた仏教を吏に高め人賂化するの
である。その修行し高められた人格をもって人々に出合う時に,彼は本当の人間のあり方の
実物見本を人々に示すことができるのである。人々は彼の人絡に I
H合うことによって清めら
れ,救いを得るのである。
0真の山合いは仏法との出合いである。
次に, fW 合いということをどう考えるか」という畠瀬氏の質問に対して,内山老 r~lj は
「近頃出合いということをよくいうが,人の出合いは狼の噛み合いにすぎな L。
、Jという。
沢木老師と彼が出会った場合でも,人として出合うなら狼の噛み合いにすぎないと彼はいう。
沢木王寺叩:去の 1
1
1合
¥
,
"
.i>~ 木警の出会いであったのは z そこで仏法と山合ったからだという。
こ h\~;nl.数件の表現であって,理解し難 L 、飛躍がある。筆者 l土自分なりに次のように解釈
してこれを理解したつもりになっている。筆者の解釈を示すためには筆者の人格理論を示し
ておかなければならない。筆者の人協理論には科学的存在観に由来するものと,それと関係
“m
6
5
大 学 教 育 学 郎 紀 要 N Q . ・1
6
はあるが主として経験的な現象である反抗期を元として白1) ったものとがある。 ììií者は(1) 白 ~I:.
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i
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助段階, (
2
)無条件反応段階, (
3
)
条件反応殴階, (
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1
)身体訂話段階, (
5
)古j
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i言語段階, (
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)
文
字告訴段階, • c
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)
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で人総が質的変化を逆げてゆくという理論である。ここ '
(
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が関
係が tl~ いので 1関田;i を F~~に示すことにしようの
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則立現匁を元とした人協理論。
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lt:J)を乗り必えて人 ln
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交際へ, U
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第3
)
記t
/t捌)を乗
り越えて人I: :III~ レベル m の人協段階へと人!日!は発注すると考えている。
W- I'I W:形成 IPI というのは従来 i(~一反抗 ItJJ と呼ばれていたH剖りl である。大 H;2 成 h 、ら 4 ;'~y'[の問の
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られーていた。 子
どもがこの時期になると峨 M
行こなったり,意j也っぱりになうたりして,想t
が終の L
:で問燥を終 ると
r
いうのである。ただし,・子どもによって現れる ß~.j聞や強さもまらまらであるので全く気付かれf.tい子
どももあるのである。これは f どもが身 H、言語 (I~ にjg 考し始めるのであるが. ffj討 ~'~~j 的な伝達 fi~)J
が不充分な f
こめに?還には子どもの忠与が埋解しに〈い所から生
r
る刻[-/I
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の現象℃ある。.[-どもの i
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戸高 d
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iが発注して刻 fのコミュユケーションが進むとJtにこの時!
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J1は乗り組えられて人1:
1的なレベル
Iの 人 的 問 階 へ 左 進 む の で あ る 。 ¥ か ら : 2 写 J
次に 12蹴からJ.I成IHの .'J!-,('手 IPI の子どもにおいて,やはり、 I~{Iぺ以T(.'t:の!.tiI!IIH lJ, T どもが J~日間企こね
て湖や:A
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‘(ヰ1-.会のあり ;
jを批判することがある。これは従来mZJえJ
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Iと1If1:ULていた。こ hが
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¥
.
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.
じてくる rl\ llt は子どむの '1' に 1町長日新 fl~ 思考または文宇呂説的思与があるあlJ.変発達するためである。
文字r-.i';U~ と mみのさった I1744 長 55 的思考は J~ 体的な現災から飛Hltl~'r ,治J'1\fI切な紡道だけを追った NJ.
を可能にする。こういった思考が肢かになればなるほど現実的な状況とのスレが大きくなる。
1
5
'
rども
が論 rl!(f~思考を fl ぬこうとすれば唱論 rl\ による F テマエと状況によるホンネを N~~ 、分ける大人とぶつ
つかるのである。これが m2r
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7である。この l
受断念1J.i:けると人間的レペ J
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4 り,思考を災現するために状況にねばり強く働きかけたりする
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あうる。:状弘泌に合せて
附別である。
さらに人 1
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1的レベル Hの段階企進んど却ょ;古 3f
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:形成l!11
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七鮫的小数の人 Aがこの時lV
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Iしたのである。そ
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Iを政けてゆ〈ためには怠識的な努力が必要である。この l
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りにいつごろかと
いうことは f@定できないい
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についても俄定 Cきない。ただ,いえることは、この附}切にがj
遣し,
それを政けてゆくためには怒詩的な努力引引f)が必嬰どということである。第 3I~ ~tJf%!ìJ切という
のは広範た似岐に f-( :lêJ~ Lた制人の!思考が ((.(E のあり -;J と矛盾対;なする時 11lIである。人HlJ の~I.:.老病
死ばかりでなく, 'Y 'd i の '1' の企ての((11:が t-'}~Jt 臆すると J~ に解 (1; 消滅するのであるのその (ftJ:のあ
り方そのものに ~I 、í'ìJ'I!lt や矛析を感ずるのであるから,存在のfl!ilからすれば反抗されているようなも
のである。そ hNt.,
このlI !j lPJ を::r~
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Iと日子ぶこともできる。
この1I!f IUJ の {{{E 会泌 (I~ に示したのは悟る níj の釈迦,シツグ Jl. ;;である。シツダパ担は '
E老必死とい
7
う凶;むに悩んだと t寸。 '1 ニの品:止は弱肉強食の生活が r"J~l(あるのかという悩みであり,老, l
t
t
,列の
告はいうまでもな〈明らかである。こういった苦しみがやI
般人生につきーまとうのか。真剣に L
与えれば
考えるほど解き無い謎と VUr. ち現われるのである。 fこだ,その九二しみが不合,~H だという感情は成長
と繁栄こそ 1
t
H
lI!i他である止する観点から生ずるものであるが,悩んでいる時にはそのことは見えな
いもの .
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筒井:人間科学
(XV
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I
)
6
7
は '1 , ]iX; 発展解休 ìl~ 減と L ヴ存在の長l
i
j而を共に認めることである。存在をありのままに認めることであ
る。存在にまつわるこの I
,
[
.
j而を受け入れた人は自分の死において身体も心 f
魂)も共に消滅すること
を有りのままに認めることができる。死を日常;í内に取り込んだ~,とを生.きる人は全てのとらわれから解
放された人で-ある。そのような人は自分の生命の }JIJ の現 J)れが Iliìíj の人の ~tける姿として現われてい
ることを実感することができる。{也t;ーとはCI:J分とは)別の過色1
1
旨
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身体も心も合めた完全なれ減で‘ある之知る "
だが,その解体と消滅こそ,人々の身体と心の深いつながりを裏付けるものであることを悟って復活
1
tに現われる万物の巣ない美しさ,かなしさが深い喜びとして身'に泌みるのである。そのよ
する。人1
うな人は生存競争の渦の,"で疑心II~J鬼にかられ,あぜり,疑い,孤独と不安に苦しむ状態から抜け:1\
して奈川の真只小にあるのである。しかし彼は疑心附鬼にかられる人々を向みから見下し,批 1
司
し
,
軽蔑しているのではない。それらの人 h の要は, (1也ならぬ n 分の~でもあることをよく認派している
のである。そのような人栴こそ人Jn
J
f
l
'
)レペル I
I
Iの人初段階に注したおーのな?である。
きて,以上のぺた理論の r
l
lで「出合 L、
j を考えてみよう。立のlH{
i
t、は人間的レベル班に
述した者同士がつくる関係である。また,人間的レベル I
I
Iに遣した者と,そこを円前して努
力している者ーとの出合いも真のlI\~いということができるであろう。
内山老師のいう「人との I
U合いは狼の明み f
Tいである。 J
'という L叶、方は,筆者の言葉に
直せば「人間的レベル][の者向士の山合し、 Jということになる。レベル Eの者は生存のため
の蹟争に明け暮れているので狼の噛み合いとなるのである。どちらがより豊かであるかとか,
どちらがより偉いかとかいう比較の世界に生きているのである。そのような世界に生きる者
は道徳的な振舞におし Jても宗教のな信仰深さにおいても競争するのである。沢木老師と内山
老師の場合もレベル E においてIll~ うならば,それはまさに狼の 111 合いである。内山老師i の
いう「仏法における 1
1
1(jt、
j とは人間的レベル1IIにおける川合いのことだと考えられる。
自瀬氏と内山老師の間容は山合いのことから孤独のことへと進展する。品瀬「人間同二:
1が
Jは ?J内
I
lJr
人間の出 1
!
?
L、は必境, l(~ の噛み合いにすぎない。そ
信頼できる出合いのあり )
ういうものが孤独だといってみても,そんなものは当り前だ。(笑)JI
'
J
I
瀬「そうすると結局,
人間の本質というものは非常に孤独なもんだということになる。 J内山口、ゃ,他を考える
から狐~!が 111 て〈る。他人を考えればこそ他人から仲間はずれで-孤独だという言葉が 1 1\てく
る。けれども; (1也というものはなくて,人間は皆 n 己ぎりの 1~1 己を生きているのだから,ど
うぜ ((fi は i屯だけの人生を~,:-きているのだという考えの中には孤独という言葉が入る余地はな
L、。J'日開「そうすると
n
分の世界と L、うものを生きていることになる。 J
品開 1
2にとって!村山老師の言葉は謎に満ちたものである o 言葉としては分るが,実感とし
て縛き合ってはいなし、。長者自身は 11 己ぎりの 1~1 己という言葉を ';1 分がかつてー卵性双~l:J\己
主了考察したあげ〈考え u
lした「他者左は(自分とは )}JIJの I
l
t界を生きる肉分自身である。 J
という観念との関連で考える 5)0
i自己と他とを分ける観念、はどこから発生したかというと人聞が知恵を持つようになってか
らである。知恵はどのようにして生れたかというと人間関係の中で-音戸が使われ発展して音
声言語となり,それを身につけた人聞が音声言語段階の人十おとなったからであ石。音声言語
を獲得して発生した知恵が 1
1己と他を分け,永遠の過去から永 j
坊の未来へと続く長い時間を
6
8
f
三1iI :J.号令教 l
fr
J
(
: 部紀理No.-1日
ィf:,じさせ,幾 l' 百万という無数の分縦した伺を発生さ怜たのである。その別々の仰は分間f~ さ
れたまま,木当には ll~l解し合うこともなくめ,永遠の悶の 111:,界ーから現1[1:に現われ,そうして
分離した例のまま永劫の陥!nの小へと消えてゆくのである。これが人間的レベル J
[の人杭段
階において心身.二元論に立つ人!日l
の限りなく切り裂かれた深刻な孤独をつくっているのであ
る。無数の人間はいる。だが,どうして~Il解をつ〈り合えるのか,それカ2説明で‘きない。斑
解の }
J
X
;り立つ股木原型H
を生1らないから,表而的な莞i
l
論を形成するだけに終り,過剰な競守:と
1
1
!l、孤独がもたらされるのみである。そこで信栴と L、う言葉にすがって,人と人との n
l
H
こ現
われた限幼な仇裂を掠そうとするが,表 ïili的な陶酔に終るのみで .m本的な満h~てピもたらさ
ないのである。
1
1老師は
内1
r
,~,己ぎりの n 己を生きる」というが. n
己という以上他を考えない n
己はあ
り仰ないのである。ただ,そのドi
己が無数のりI
J
J
I
'
"
亡分持J
Iされたものでないだけである。,q
己
は広がったり縮小したりしているのである。他が自己となったり.
n己が@となったりして
いるのである。状況に応じて適切に融通無凝に動<'
:
1己,そういう自己ぎりのf:I己を各都!人
が生きるのである。随所に主となって各個人が r~ 己ぎりの n 己を生きまくるのである。これ
は非常に高度の1'1己制であり,科学的な真理!に満ちた l
司己制なのであるの
0 仕事か子どもか。幸せな人が子どもを ~J:,め。
品衛i
夫人が「女性の心理学者として自分の自 r
1
1な生き方をしたいと願うと子どもなっくり
育てるということとの問で悩むことがある。最近の 3
0
fl:;の女性研究者には子どもが生れると
保育闘にあずけたり,ある L、は全然子どもをつくらない人が L、る。仕事が忙しくてつくらな
いのかもしれない。 i
当分は仕事と育児との 1
mを迷いつつ何とかやってきた。
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そういったことについての質問を受けるが,荘、も何か L、ってあげたし、。また,この人たちが
L、のだろうかと考える。ほと子どもの関係はどうあったらよし、のだろ
子どもを生まないで L、
うか J という質問をした。これに対する内山老I~lî の需:は I これは弘の !ι限と ~I=. き )j の全体
に響いてくるもので大変難かしいI1 U~~である J という。そして.
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私のいうことは!止問に通
用し沿いと家内に L、われるんですがね。 Jと笑いながら. r人!日!が子どもを '1:むのは '~I 分か生
まれ,てきてよかったと思ったら子どもを生んだらよい。そうでなくて子どもを生んだら円前
行為だと思う。(笑) t5'何紋子どもを ~I:,むのかη{!:'( J'J分の最後は死である。淋しくていられ
ないので子どもを生んでおくということではないのか。加は l
当分の!i
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ぬことを考えると,子
どもを N
'たないと自分が全部なくなるように思う。我子は内分の分身'のように思い,自分の
続きと l
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,って育てている。しかし,子どもは親を他人だと思って捨ててゆくのそこで年を取
ってから淋しい J
思いをするのである。長近1
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れ、た話だが,アメリカの視は子どもに、ベタベタ
しすぎるので,子どもの方はその引カ問外に j
童去かろうとして思 L、切って i
童くにとび H
Iそう
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創立にはそうなるでしょうか。 J内1
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としているという。 J出瀬夫人「口本も 1
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木の場
合はとび 1
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1せないんじゃないですか。子どもにそれほどのエネルギーがなくて,ママどうし
よう(笑)というこ止になるんじゃないかな。 j
内JlJr
東洋文明はq
三れてきtきて死ぬということまでひっくるめた生命文明であった。だが,
西洋文 191 は生存だけを考えているイ 1:,存文 r!J) である。四作の ~R木の n月間口i'!分の死ということ
筒井:人間科学
(xvm)
6
9
を考えないで、生存だけを考えている点にある。アメリカの老人などは赤 ¥
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肢を着たりして 8
0,
90になっても若いつもりで生きているようだが,動けなくなり,死んでゆく時代もひっくる
I
I来なければ本当に老後の用意が出来ているとはいえな
めて考えなければならない。それが I
い。自分の老死と¥,.うことを考えないで生きていることは大変問題になると思う。 J
高瀬夫人の質問は仕事か子どもかという問題にかかわっていたが,これは大きくいえば仕
事が何のためにあるかとか,どういう仕事をすれば自分が満足できるかということにつなが
るであろう。さらにいえば,子どもを何のためにつくるのかとか,自分の老や死と関連させ
I身の人生をどう考えるのか,という問題を合み込むことで
て子どもを考えるのか,子ども P
あろう。
内山老師の器は自分の人'
1
:
.を塁手せと感ずる人が子どもをつくったらよいと L、う。もし,仕
事をしないと幸せだと感じない人は独身でいる方がよいのである。仕事をしてもしなくても
幸せな人が子どもをつくるとよいのである。そういう親は子どもに対してよい実物見本を示
Y
Jの中で‘死を考慮に入れない生存文明の人々は,無数に分割され永
すことができる。西洋文 I
遠に別伺の自分のせめてもの続きと思って自分の子どもを生み脊てる。しかし子どもたち
は親たちの生き方 c
¥
'、う実物見本によって永遠に伺々別々の倒人という概企を教え込まれて
いるので,親たちは自分たちを抑圧する他人として見ている。その他人から通れ:uるために
思い切って遠くへ去るのである。現たちは若い時,仕事に夢中になって子どもたちのことは
放ってお L、た。テレピや玩具や豊富な物質を与えて,わずらわしい直接的な関係はなるべく
避けるようにしていたのである。ところが,仕事から離れて老い衰え死が近ずいて来ると人
生が空しくて仕方がない。若 L、唄の生き可1斐となっていた仕事はもはや自分の手中にはなし、。
せめて老後を慰めてもらおうと子ども達を近くにおこうとしても,子ども述は速くに逃げて
tを手元に贈ってくればよい力
いってしまうのである。親遣が子ども達にしたように豊宮な n
である。ひどい場合には老いた親からむしり取ってゆ〈場合もあるのである。
生行という而だけで竺命を捉えるなら,生存に役立つIi1IiW
{のみが噂Eされることになる。
力のあること。。監かであること。すまいこと。院政なこと。社会的な地位の高いこと。知恵が
1
あること o 美しいこと。などの制限(だけが尊草される。このよう危時,力の無い者は 1
1
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けられ,老人は排除され,子どもは無視され,社会的地位の低¥,、者は差刑される。盲人やろ
う者や身体障害者,精神薄弱者や削い顔の人なども馬鹿にされたり差別されたりするのであ
る。力の差のあること,般かさに差のあることは当然のことである。この差が差別を生ずる
Iた
か否かは連帯がつくれるかつくれないかに依存する。連帯とは愛とか慈悲とかし、われてうE
事柄である。
0科学と宗教。古い科学と新しい科学。
次に Gendlin との問書が行なわれた。彼は「宗教を切り離した心理学が問題じゃないかJ
といっている。それに対して内山老師は「死を自分から切り離して対象として見ているのが
科学としての心理学だ Jという。内山「それを主体的に捉えるのが宗教である。寝た切り
老人になるということを自分の問題として捉え,切り離して考えないのが宗教である。J
Gen山口「死を切り離して見てしまうことをしないためにも,宗教と心理学は一つになるこ
70
信 州 大 空 手 教 育 学 部 紀 要 事 b .4
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とが必要だ。 J内山「外への対象物として研究するところに f
ド非というものがあり 1
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この問題としてみている限り宗教とはならない。 JG
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{ねになりたいこと
々も考えつつある J 左いうて.さらに Iもしアメリカについて,お '
があれば一,さらに聞いていただき, もう一度,生と死について庚って:与えてみたい。この向
者を一つに担えるという点がもう一つわからない。生と死は一つにならないと思う。 ~I: t
土i
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.
き ~I: きとしたことだし,死は死んでいることである。 j 内山「人間は頭を持っていて. ;言葉
Tう。ところが木当は人間の生命は全く j
直じのわないものである。他の人に庇を
で通じさせ f
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-しといてくれと L、ってもそれは/JU~な L 、。だが言葉を iJÎÍ して一つの通じ fT う場を持つ。
一発 I
これが生存 Iltwであるの人間という間概念、は 3
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:にもある。だから
人
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mの顕が支えているものである。沢山の人がし、ると,ある人は
してくる。そして,これは人 1
hへゆき. (
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t間的なlJD
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fl((ができる。これからは下は切り抗てられる。そして生存1[1:押ーだ
金の :
けがぢえられている。だが.*当の I~ I
分は
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吐界をもって生れてくる。:ft,、は布、のJfl
肢でか
ら見てし、る。弘は夜、だけの11':界を生きている。そして,夜、は私だけの│吐界をもって死んでゆ
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誰も私の代りに死ぬことはできなし、。そういう夙に人々は生きていることは
く
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わかるが,死んだあととかそういうことはわからない J 内山
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引目するのだが…… J (あと知育なし)。
玄た一つの問題が )
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る。 ~'(E宥も人間科学は宗教から学んで成長すべきだと考えてし、る。だが.
1
村山老削は宗教と
こ立っている。この点については内山老 1
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'、立場の科学観に立って
科学を分離する立場 t
いると思われる。何らかの存在を対等l化する j揚什,必ず観察者がし、るのである。
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5ぃ:f'I学観
1¥.の中に入れて米たので‘あるの新し
では,この制察官の存花や成長というものを無根して括 1
い科学簡では観察者のー仔:(r:~無視しなし、。観察という人[111 のあり方は. 1
J
f物にかかわる人間
J
I物(人物も合む)と主体的に取りお 1
のあり方が沢山ある中での一つのあり方ーである。人は l
むのであるの間察というかかわり方は傍閥的なものであるが,その中にも主体的なかかわり
が吸収されるのである。従って観察そのものの精度も観察脅が事物とかかわって成長じた度
合によって左右される。この nH:,~j をとり込んでくるのが新しい科学のあり方である。
-1JG f' mUin
は内山老r~lj がい.う r'L:. と死をひっくるめる j という L 、 L 、 1J を ~Iごと死という
別 h のものを無理に一つにまとめることのように受け止めている。~:告は r/~! 1老i
mは'
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ー命の
'1' で~,ーと j[ は切りIi:fI; U)ffi l,、ものと誤っていると思う。'1:命は一つの存白:'Cちる。存ず1::1つむ必
ず自1
1ら11-るという側百1と壊れあという(iII
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而とがある。生命 i
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は統ーされて L、るのであ
る。この l.i. を'.Jl.ë.iill耳11解として捉えたいと無用解 (di史ommunicalion) が ~I:.ずるのである。内
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I
I老向i
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のいう各附人の休験は絶対に同一体験ではあり符ないことと,言葉を過して混じる場
を持つことは認めてよいのしかし人却は'1::.れも死にもしないという考え方は別!解し !t.i~ い。
人聞はその発 '
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死にもしないといわれるかも知れないが,概念というものは人間を離れて中空にただよって
いるようなものではないのである。必ず,
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lきJて日覚めて考・えている人間との関係で機能す
るものなのである。人間がし、なければ概念は成立しないのである。また人聞が生きていても,
その慨念を誰も考えないならば,それは機能しないので,生きていないのと同じである。つ
まり人類という概念は生きた倒人との関係で現われたり消えたりしているといってもよいの
である。
を分け, また結びつける。一人の人間が死ぬとき,そ
このように一人の人間は全ての存了E
れは一つの世界が消滅する時である。
注
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1頁から 1
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9頁
体験過程と心期療法 牧許?応(19
村前i 孝k1~訳
参照
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頁あとがき参照。なおこれは3
1-33
頁に書いた
内容との関連で生じた恐怖を克服し,人~I:.に意味を取り戻すために考察されている。
6
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Jは臨床心理.学論考(1
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71),と自校心理学(19
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2
)(いずれも金子爵房)において意識信仰
という考え方を主張しいる。この考え方を主張するJIIl.I
J
Iは自然科学をモデルとした uJll¥学者が意識
を過度に排除したからである。心JI1[学者が研究室や実験室で研究する時は行動主義者,操作主義古と
して恵識を排除しているにもかかわらず,そこを一歩 1
1
1ると日常人として意識信仰者として行動して
m
のようなこ 慨をもって生活しているのであるが,臨床心J11t"許諾は{也告ー
いる。一般の心珂!学苛は UI:
l:方がないというのである。
の意識を信仰する立鳴をどこにいても貫くより f
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解~計ろうとす:る発言としてバ'慈、識信仰!という考ーえ方を-I'íUIlしようとする意図"はよく.I'll W(,できるの
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